Coolier - 新生・東方創想話

這う

2018/08/06 02:28:39
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這う


 

 
 男は凡人である。人里にひっそり、住んでいる。貧乏であった。早くに両親を亡くして、ひとりである。寂しいと思うことはないが、恵まれていないなあと思ってやまぬ。周りよりずっと不幸だと感じている。どうも、思い込みは激しい性質である。それは本人としても、自覚のあるところ。
 そんな男にも、いよいよ人生の転機がやってきた。きっかけは、そこらへんにでも生えていそうな、草である。春ごろに白い花を咲かせるが、見どころはそれ以外に、特になし。それを重宝していたのが、男の祖母である。祖母は、花がちょうど咲くころに、それらを刈り取ってしまい、夏まで適当に陰干しとし、そして夏になると、団子状に固めて、火をつけるのであった。立ちのぼる煙には、謎の薬効があった。部屋の中にいるムシが、ころころと死んでいくのである。おかげで男も、夏の間、飛び回るムシを鬱陶しがらずに済んだ。
 その草団子が、さては商売に使えるのではないかと、ふいに思いついた次第である。なにしろ、ムシを鬱陶しがるのは、自分一人のことではない。ムシが原因になる害は、この幻想郷で山ほどある。更に、団子の製法を知っているのは、目下のところ、男一人だけ。まさしく、商売のタネであった。
 さっそく男は、ひとまず使ってみなさいと近所中に団子を配り、たちまち評判となって、それ以降はお金で団子を売るようにした。団子は、よく売れた。男の生活は、それ以前よりもずっと良くなったのである。そして次の年は、もっとたくさん作って、たくさん売ってやろうと、春先から準備をしていた。そんなときに、ふっと、その女は現れた。

「ごめんください。これを作っているのは、貴方かな」

 玄関先に立っていたのは、なにやら笠を被り、黒っぽい外套を羽織った女である。性別は、声の高さと身体つきから分かった。右手には、例の草団子がある。さっそく客かと、男は嬉しくなったが、今年のものはまだ出来ていない。

「注文かい? 申し訳ないが、まだ完成していないのだ」
「いいや。注文では、ないんだ」
「では、どんなご用件で」

 女がなにをしにきたのか、男にはさっぱり分からぬ。そんな様子に、女は口元だけ少し笑ってから、さっと笠を取った。露わになった髪の毛は、緑色をしていて、明らかに尋常のものではなく、しかも二本の触覚が、ぴんと上に立っていた。

「私は、リグル・ナイトバグ。妖怪。それも、ムシ達を仕切っている妖怪さ。これで要件は分かったかい、団子屋の主人」

 悪戯めいた言葉であったが、男の顔は、すぐに真っ青となった。ムシ殺しで金を稼いでいる男が、果たしてどんな目に遭わされるものやら。人間が妖怪に敵わないことなど、とうの昔から知っている。すぐ、下手に出始めた。

「待ってくれ。話そう。そう、判断を急ぐものではない。そうだ、この団子は、すべて土に埋めてしまおう。それがいい。そうしよう。だから、早まってはいけない」

 すっかり大焦りの様相、まくしたてるように色々と言い、あたふたと両腕をぐるぐる回している。それを見て、ムシの妖怪は、少しずつ表情が崩れていって、最終的にはげらげら大笑いであった。

「いいや、すまないね。冗談だよ。なにも、取って食おうとか、そういう話じゃないんだ」

 男は、なにがなにやらよく分からず、呆然である。とりあえず、積もる話だということで、リグルは中へ入ってきた。男はもう、早く帰ってほしい気持ちでいっぱいであったが、しかし断るわけにもいかないので、仕方なく、居間まで招き入れる。
 薄い緑茶をひとしきり啜って、正座のリグルは「早速だけど、相談をしよう」と切り出した。

「団子だけれどもね。あんまり世に広められてしまうと、まあ当たり前の話だけれど、私たちは困ってしまうんだ」
「だから、捨てましょう。捨てましょうとも」男はやけっぱち。「妖怪に言われてしまっては仕方がない」
「そう、いじけなくてもいいんだ。その団子は捨てなくてもいい。それから、これまで通り、ご近所に売ってくれても構わない」

 平然とリグルは言う。男は、驚いた。ムシを取り仕切っている妖怪というのだから、ムシの利益だけを追求するものだと、思っていた。それがこの妖怪は、まるで男の商売にも配慮をしているような、嫌に物わかりの良いような。逆に、怪しい。男はあからさまに、訝しんでいる。

「そんな顔をしない。本当のことを言っているだけだよ」
「しかし、どういったわけだね」
「ムシっていうのは、弱いのよ。人間様には敵わない。だから共存しないといけないところ、たまに、人様のおうちに入っていく奴らもいるんだ。そういうのは、ルール違反でね。ムシの世界は社会を大事にするのさ。外れ者には、それ相応の末路があるっていうことだね」

 要するに、人間の家に入っていったムシなど、どうでもいいということであった。それを聞いて、男は途端に、安心する。どうやら、取って食われるということは、本当にないらしい。

「でも、程度はあるよ」リグルはずいと、身を乗り出す。「繰り返すけれど、あんまり広められてしまうと、私たちも困ってしまうんだなあ」
「そういうことなら、問題はない。客には、家の中だけで使うように、あんまり言いふらさぬように、しっかり教えておこうじゃないか」
「話の分かるあんさんだね。これで相談はおしまいだ」

 リグルは満足そうに、帰っていった。突然の妖怪の来訪、無暗に驚いた男であったが、結局のところ、なにも変わることなくやり過ごせたわけである。
 本当になにも変わらなかったかといえば、誤解を生じる表現であった。男の暮らしぶりこそ変化はなかったが、交友関係の方が、すこし豊かとなった。例のムシの妖怪、リグルが、しばしば家まで訪ねてくるようになったのだ。約束を守っているか確かめに来たのだ、などと言っては、ただその場で酒を飲み、いい気持ちになって、帰っていくのみである。男とて、嫌な気持ちではなかった。元より天涯孤独の身、妖怪とはいえ、話し相手がいるのは助かる。
 そうして、これまで通りに、ひっそりと生きていたところ、二度目の転機がやってきた。玄関を叩く音に、あくびでもしながら出てみると、なにやら良い服を来た集団がいたのであった。

「いきなり訪問してすまないが、団子を売ってもらいたいのだ」

 これまでに買ったことのない連中である。三人いる。ご近所の者ではない。この集落は、お世辞にも豊かな方とは言えないので、こんな格好をした奴はいない。もっと里の中心に近い、それも商家の人間か何かだろう。

「申し訳ないが、なんの話をしていらっしゃるのか」ひとまず、とぼけた。
「御冗談を申されるな。お宅がムシ殺しの芳香を売っていると、人づてに聞いたのだ」
「そいつは人違いだろう。悪いが、俺も忙しい。帰ってくれないかね」

 のらりくらり、そんな感じで、結局集団は帰っていった。どこから話が漏れたかな、と考える。しかし、どうでもいいことである。今みたいにとぼけてしまえば、特に問題はないのだ。男は、深く考えなかった。
 しかし、くだんの集団は、また来たのである。今度は、でかい麻袋を引っ提げてきた。中身はどうも、金である。男は目をぱちくりさせて、言葉を失ってしまった。

「やあ、やあ。今日のところは、話を聴いてもらえないだろうか」

 いよいよ、金銭欲には打ち勝つことができず、集団を居間まで招き入れた。そこで聞いた話は、次のようである。集団のうち一人は、商家の若旦那である。米とか、野菜とか、食べ物を扱っているのであった。それがここのところ、穀物倉庫にムシが湧きはじめ、色々と食い荒らすので、困っている。そんなとき、人づてに団子の噂を聞いて、藁にもすがる思いである。というのだった。
 男は、商家への団子の提供を、了承してしまった。人助けとか、そういうのではない。金によるものである。金に目がくらんだ。麻袋いっぱいの金を、結果いかんでは、全て寄越してくれるというのだ。男の頭の中は、金だけになった。リグルとの約束は、都合のいい感じで、片隅の方である。
 ひとまず薬効を確かめるということで、例の穀物倉庫まで行き、団子に火をつけた。結果は言うまでもない。次の日から、倉庫にムシはいなくなった。しかも、煙のたくさん当たった米は、なんら味に違いなく、毒味の使用人もけろりとしたもので、若旦那は大いに喜んだ。
 報酬の段取りとなり、男は飛びあがりそうな気持ちで、商人の屋敷へと入った。客間の御座に座ると、若旦那は惜しげもなく金を渡し、それから「商談があるのだ」と、実に朗らかな笑顔で告げた。

「商談?」男は、麻袋を握りしめながら、何度かまばたきをする。
「ええ。旦那の団子ですがね、あれはいい。いいものです。たくさん売れば、売るほどに儲かる。間違いないでしょう。しかし、旦那の力だけでは、たくさんを捌くことはできない、そこで我々の出番というわけで」

 一瞬のうちに、男は色々と想像する。この商家は、思った以上に大きな家である。人里中に、物を流せることは間違いない。そこで、団子を大量に作り、大量に売れれば、大儲けどころの騒ぎではない。生活が一変するだろう。こんな麻袋に詰まった金など、比にならぬ。大金持ち。まさしく、そのチャンスが目の前にあった。
 ここまでくると、二つ返事である。男は、話に乗った。原料の草ならば、家の裏に山ほど生えている。それを山ほど採集して、山ほど作られた団子が、既に備蓄されていたのである。作り方は、商家に教えぬ。ただ納品して、売ってもらい、儲けをうまく山分けとする。そういう商売であった。まさしく、誰も損をしない取引というところ。
 すっかり浮かれた気持ちで帰宅し、早速、たくさんの団子を風呂敷に包み始めた。明日にでも、これを商家へ持っていこう。作業する手が震える。大成功が目前にあった。
 どん、どん、と。ふいに、玄関の戸が、叩かれる。

「おぅい。いるかい。いるよね? 私だよ。リグルだ」

 ぎくりとした。こんな時に、実に間が悪く、ムシの妖怪が訪ねてきた。大慌てである。広げていた団子を、大急ぎで物陰に隠す。

「なんだい。居留守か? 入っていったの、見ているぞ。はやく出てきなさい」
「ああ、待ってくれ」男は大声で答える。「散らかっていて、片づけているのだ」
「気にしなくていいのに。早くしてちょうだいね」

 ぽいぽいぽいと、都合の悪いものは全部隠してしまって、ようやく玄関の戸を開けた。リグルが、無邪気な笑顔で立っている。片手には、一升瓶まで持っていた。

「いいお酒を手に入れたんだ。もう少し遅かったら、持って帰るところだった」
「そうかい。悪かったね」
「上がるよ。お邪魔しまあす」

 いつも通りリグルは入ってきて、いつも通りの感じであった。適当におちょこを用意して、リグルの持ってきた酒を飲む。いいお酒と言っていたが、どうも今更、不安みたいなものが心の中でもやもやして、まともに味わえぬ状況。なにしろ、リグルを丸々裏切るような商談を、ついさっき決めてきたばかりである。なにか、リグルは知っているのではないかと、すっかり戦々恐々な気分。
 しかし、リグルはやはり、いつも通りであった。よく笑うし、よく飲むし、よく話す。愛想のいい奴である。そのうち、男の緊張もほぐれてきた。どうやらばれているわけではなさそうだと、肩の力がやっと抜けて、男も調子を取り戻した。いつの間にやら、すっかり酔ってしまい、「そろそろおいとまするよ」というリグルの声を聞いた後は、ほとんど覚えていない。
 翌朝になり、居間で転がっている状態から、のそりと起きた。寝てしまっていたようである。リグルには、申し訳ないことをしたなあ。そんなことを考えながら、散らかった食器のたぐいを片づける。そこで、ふっと、一枚の紙が置いてあるのを見つけた。綺麗に折りたたまれている。なんだい、これは、とつまみあげる。開いてみると、なにやら、書いてあった。

 
『酒はうまかったかい。裏切り者には、ちょうどいい酒さ。なにが入っているのかな。』

 
 男の思考が、すぐに止まる。まさしく、思考停止。数十秒、動けぬ。脳内の葛藤があった。こんなことが書いてあるとは、信じられぬ、しかし、確かに書いてあるのだ。筆者の署名など、必要ない。誰が書いたも、なにもないのだ。あの妖怪に決まっている。ムシの妖怪。いや、あんなに、いつも通りであったのだ。ばれていたのか。そうとしか考えられない。なにが入っている、だって。酒以外に、なにか入っているというのか。なにが。まさか、いや、そんなことは、冗談にならぬ。
 男は厠まで走っていき、全部戻した。胃液以外には何も出てこないが、しかし、嘔吐感だけが収まらぬ。そうして昼間は、ずっと厠でうずくまっていた。しばらくしてようやく、そうしていても仕方がないと、思いきり、居間まで戻ってくる。物陰から、団子の入っている風呂敷が、少しだけ覗いていた。これを、商家まで持っていくか。そんな気持ちには、到底ならぬ。ただ、怖れだけがつのった。今も、もしかすると、見ているかも分からぬ。ぞわぞわと、身の毛がよだつ思いで、慌てて雨戸を締め切った。その日はもう、なにもせず、なにも食べず、布団に入りきって、じっとしていた。
 次の変化は、その日の深夜からであった。なにもしていないので、なかなか夜も寝られず、悶々とうずくまっているところ、なにやら、足がむずむずする。ムシが、太ももあたりを這っているような。ぞっとして、掛け布団をまくり上げた。辺りを眺めまわす。なにもない。ムシなどどこにもいない。当たり前である。その日も、家の中では、団子に火をつけていたのだった。
 勘違いかと、すっかり弱って、ため息をつき、布団へ潜りなおした。じっとしている。数分くらい経った。また、来た。ぞわぞわ、太ももらへんを何かが這っている。確かに、いるのだ。わあと叫んで、一気に布団を引っぺがす。見回すが、なにもいない。むずむずも、どうしてか消えた。男は、言うも言われぬ不安を感じていた。
 そうしてその夜は、地獄である。しばらくじっとしていると、来る。何度も何度もくり返しであった。元々眠れなかったものが、更に、眠れぬ状況でなくなった。外で鳥が鳴きはじめると、男の精神はすっかり参り、もうどうしようもできないと、暗澹とした気持ちで目を瞑って、ようやく眠りに落ちることができた。

 それからというもの、足の違和感は、毎晩であった。昼間のうちは、あんまりないのである。しかし、夕暮れころになると、だんだん出てくる。なにやらむずむずする。しかし、動いている間は、なんとなく誤魔化せる。不安は募るが、誤魔化せる。布団に入りこんで、じっとしてからは、もう駄目であった。もじゃもじゃと、みみずのような感じで、足中を這いまわる。掛け布団を退かしてみると、なんにもない。どうしても正体が掴めぬ。男は既に、心身虚弱を喫しつつあった。
 そして、ある日、いつものように布団を引っぺがしたとき、遂に、男は見たのだ。もこもこと盛り上がり、うねうねと動いている皮膚を見た。それは少しずつ動きを止めて、元の皮膚に戻った。まるで、肉の中へ戻っていくかのように、動きを止めた。もう、なにも疑う余地はない。いる。いるのだ。それも、中にいる。皮下で、這いまわっている。ムシが。そうなる心当たりは、言うまでもない。なにが入っているのかな。手紙の、最後の文章が思い出される。男はいよいよ、発狂目前。

「薬売りさんにはいつも助かっているよ。これからもよろしくねえ」

 そんな会話を耳にしたのは、ボロの着物を着て、目の下にでかいクマを作り、外をのそのそ歩いているときであった。食料を買いに行こうとしていたときである。会話は、目の前にいる老婆と、笠を被った薬売りの間で、交わされていた。男も、知っている。よく効くと評判の薬屋である。腕利きの薬師がいるのだと、噂になっていた。ふっと、男の心に、希望が灯る。気づいたときには、薬売りに詰め寄っていた。驚く薬売りに、ムシ下しはあるかいと、男はそれだけ言っていた。

 

 
 男は、竹林の奥まで連れてこられていた。普段は人間など入ることがない、迷いの竹林である。薬売りに連れられ、やってきていた。普通、薬売りはこういうことをしない。里のその場で、薬を売るのみである。しかし、いくらそんなものはないと言っても、尋常でない形相でにじり寄る男に、すっかり鼻白み、師匠にどうにかしてもらう他ないと、苦渋の決断で連れてきたのであった。
 男は、噂の薬師の前に出されて、そこで症状の全てを熱弁した。薬師は、表情を全然変えずに、男の話を聴いていた。そうして、話し終わった後に、「すぐに入院していただきます」とだけ言われて、男は入院となった。それから、もう一度薬売りが病室に来て、明日手術で取り除く予定ですとか、言った。救われた気持ちになったものである。やはり、いるのだ。ムシがいる。身体の中に。それが分かってしまえば、そして、それを取ってしまえば、なにも恐れることはない。腕利きの薬師ならば、手術も腕利きである。違いない。明日、ようやく、俺は解放される。
 どん、どん、と。ふいに、病室の扉が叩かれた。先ほどの薬売りかと、景気よく返事すると、扉が開かれる。そうして、そこにいた奴の姿を見て、仰天した。

「元気かい?」

 右の手をひらひら振って、無邪気に笑う、緑髪に触覚を生やした妖怪が、そこに立っている。

「そんな、豆鉄砲喰った鳩みたいな顔しなくてもねえ」

 リグルは苦笑。

「な、なんだい。まだ、俺になにかするのか。ここまでやって、まだ」男は半狂乱である。「おぅい、誰か、……」
「まぁまぁ。落ち着きなさい。危害を加えに来たわけじゃ、ないんだ」

 それから、薬売りも病室に入ってきて、不法侵入ではないことを告げられた。それではなぜ、と問い詰めると「この妖怪の仕業であることが分かり、事情を聴きに行ってみたところ、患者さんと話がしたいと言われたので連れてきた」などという旨、伝えられた。なんとも気の利かない奴である。会いたくないに決まっているものを、どうして連れてくる奴がいようか。しかしこうなってしまっては、どうしようもない。
 薬売りだけが病室から出ていき、リグルと二人になった。リグルは、病室の入口付近から、近寄ってこようとしない。どうやら本当に、手を出すことはない様子。

「どうだい。最近の調子は」
「どうだい、だって」男は呆れた。「こんなふうにしておいて、どうだい、だって。おふざけも大概にするべきだぜ」
「こんなふうって、ああ、……」

 何故か、リグルは考え込むような素振りをした。男には、白々しいすっとぼけに思えて、だんだん怒りが募ってくる。しかし、すぐ、リグルはけろっと笑顔になって「残念だなあ」とか言った。

「君の中のムシ。明日には取り出されてしまうんでしょう。もう少し、残ってくれていれば、良かったのになあ」
「なにが良いというのだ」
「もう少しすれば、そのムシも、たくさんの御飯にありつけただろうなあ、って」

 言葉を失う。なにか言おうとして、しかし、口がぱくぱく動くだけであった。絶句。その一言に尽きる。目の前の妖怪は、笑顔で、平然と、そのようなことを言ってのけた。言外の意味は、察するまでもない。男は危うく、その皮膚が、臓物が、盛大な餌に変わり果てる、その直前であったことを、理解してしまった。

「ひどいじゃないか」男は、恥ずかしげもなく、泣き始める。「こんなことがあっていいのか。妖怪が、人間に」
「元々、裏切ったのは、君の方だ」
「しかし、黙っていないぞ。妖怪が、人間に。巫女が黙っちゃいないぜ。覚悟しろ。こんな、こんな、……」

 それ以上、言葉は続かず、男はひたすら、おいおい泣いた。みっともない泣き声だけが、病室に響き渡っていた。リグルは、呆れているのか、なんだか分からないが、ずっと黙っていた。それから少しして、扉が開く音がした。小さな声で「素直な奴だね」と聞こえた。男は構わず泣いていた。すぐ、扉の閉まる音が聞こえて、部屋には男一人になった。
 
 手術は翌日、予定通りに行われた。男は麻酔をかけられ、施術中は眠りこけていた。ようやく起きたとき、なにやら点滴が取り付けられて、「もう何も問題はないでしょう」と薬師に告げられた。それは、確かに間違いがなかった。その日の夜は、もう、あのむずむずがなかったのである。退院もすぐに決まって、しばらくはこれを飲みなさいと、いくらかの錠剤を貰い、帰宅した。
 男は、やろうと思えば、巫女に言いつけることもできたはずである。しかし、やらなかった。温情とかではない。もう、関わりたくなかったのだ。居間にあった風呂敷の中身も、全部埋め立てて捨てた。たまに商家の連中が、玄関戸を叩くものの、無視する。もう、関わらぬ。男は処世術を、ひとつ学んだのであった。どれだけ友好的でも、どれだけ愛想よくとも、妖怪は妖怪。人が関わるものではない。ちょっかいを出してはいけない。それを思い知らせるように、たまに、布団の中の足がむずむずするように感ぜられる。しかし、それはもはや思い込みであると、男自身分かっているので、なにもない。ただその度に、これまでのようにひっそりと生きていこうと、決意新たにさせられるばかり。

 
診断書
・栄養失調による神経系の異常
・妄想性障害

備考
後者は治療せず、それを利用することで前者を治療。
あどそ
http://twitter.com/adsorb_organize
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コメント



0.360簡易評価
1.80名前が無い程度の能力削除
これはいいですね
2.100名前が無い程度の能力削除
このリグルは危険度高い…と思いきや
やっぱりリグルちゃんでした

3.90奇声を発する程度の能力削除
良かったです
4.100雪月楓削除
妖怪への恐怖が美しく表現されていてとても素晴らしいと思いました。
5.100サク_ウマ削除
後書きでやられました。素晴らしかったです。
6.100名前が無い程度の能力削除
後書きですっかりやられましたいい意味で裏切られた
文章も好みな文体で非常に読みやすかったです
7.100名前が無い程度の能力削除
里の人の、妖怪に対する恐怖が上手く表現されていて、面白かったです。
8.90名前が無い程度の能力削除
妖怪ってこういうものですよね。
金に釣られたとはいえ、男は若干気の毒
9.100名前が無い程度の能力削除
私も昔、蟻走感には苦しめられました
面白かったです
10.100南条削除
とても面白かったです
罪悪感のあまり思い込みで精神を病んでしまった彼はあんがい責任感の強いいい人なのかもしれないと思いました
さらっと脅してくるリグルも妖怪っぽくてよかったです
11.100kad削除
面白かったです!句読点の使い方の所為か読み聞かせを聞いてるように読めました。ごちそうさまです。
12.100名前が無い程度の能力削除
良い話を読ませていただきました。男の懊悩っぷりが等身大の人間らしく感じられて良かったです。
13.100KoCyan64削除
最初のリグルの発言で直接的な危害を加えないことは分かるのでとても腑に落ちるオチでした。“何もしていない”復讐いいですよね。人間の弱さを上手く描いていて大好きな作品です。
14.100名前が無い程度の能力削除
こういう不可解な傷病は沢山の妖怪譚を産んだんだろうなと想像が膨らみますね
17.90名前が無い程度の能力削除
いいですねー。
昔話にありそうな寓話や教訓めいたストーリーが素敵です。
19.90名前が無い程度の能力削除
万事収まるべきところに収まる?
リグルは里の人間に直接の危害はなんら加えていないわけだから、仮に巫女に通報されても大丈夫なわけですね。
20.100愚迂多良童子削除
これは心に来る。
男の心情もさることながら、リグルは実際どう思っていたのかも気になるなあ。真実友好的だったのなら悲しいね、金で友情が壊れるってのは。尤も、妖怪だから最初からこうなるのを見越していたのかもしれないけど。
21.100名前が無い程度の能力削除
リグルが怖可愛い感じでよかった
25.無評価名前が無い程度の能力削除
薫蒸で殺虫するリグルにもなんらかの痛い目が降りかかったほうがいい
この手の作品は誰か一人かっこよく終わっては締まらない
26.90名前が無い程度の能力削除
綺麗に締まっていた点と、リグルの(少なくとも男視点では)謎めいた描写が好き。
実際のリグル心境によっては喜劇や悲劇に変わる点でもアレコレ想像できて楽しかった、ありがとう