魂魄妖夢は、必死だった。
乱れた息を立て直す。まずはそこから。如何なる武術でも、呼吸法は基礎の基礎だ。相手に呼吸を悟られるのは、自分から弱点を教えているようなもの。
妖夢は数瞬、呼吸に集中する。肩が上下するほど荒かった妖夢の息が、急速に整っていく。日頃の鍛錬の賜物だ。酸素不足で白く霞んでいた視界も戻る。
おかげで、気付けた。
右前方。そこから襲ってくる軌跡を、妖夢はどうにか避け切った。呼吸を整えるのに後少し手間取っていたならば。妖夢は脳裏に浮かんだその言葉を、即座に消した。立ち合いの最中には不要だ。
妖夢は楼観剣を脇に構えた。左の脚を前に出し、膝を屈めて前傾に。楼観剣の長さを活かす、妖夢の常の構えだ。
剣を構え、睨む向こうに相手の姿。
浪人笠に所々ほつれた着物。手の内にある刀が妖しいきらめきを放つ。その有様から読み取れるものはあまりに少ない。せいぜい男だという位か。その他にあるとするなら彼の足が見えないことだが、それは彼が幽霊だからであり、その理由を誰よりもよく知るのは、他ならぬ妖夢自身であった。
つまるところ、これは鍛錬の一環だ。
冥界をたゆたう幽霊の中には、生前一芸を極めたものも多い。天界へも行けたのに、わざわざ冥界行きを望んだ変わりものたちだ。妖夢はその中から武術に長じたものたちを募り、よく立会稽古を行なっていた。
男がぬたりと動いた。だらりと持っていた刀を持ち上げ、顔の横で構えた。妖しく血の色に濡れた剣先が、さながら天を衝くようだ。
薩摩は薬丸自顕流によく見られるカタチ、いわゆる「蜻蛉を取る」ものだ。
「■■■■■■■っー!!」
言語化不能な絶叫と共に、男は妖夢に斬りかかる。妖夢は咄嗟に刀で斬撃を受けた。
奥歯が揺れるような衝撃が、妖夢の体に叩きつけられる。
妖夢は歯をくいしばって耐えた。速い。そして重い。この男が剣に練達している、まぎれも無い証明となる一撃だ。
男は打ち込みの勢いそのままに、妖夢へと接近する。鍔迫り合いとなった。この体勢は妖夢に不利だ。体格の小さな妖夢は、それでも精一杯抗うが、徐々に仰け反る姿勢へと抑え込まれていってしまう。
押し切られる。妖夢は悟った。膂力は相手の方が上だ。ならば。
妖夢は半霊に指示を出した。妖夢の傍らに浮かんでいた半霊が、男の脇腹に突進する。
男の力が一瞬緩んだ。そこを逃さず、妖夢は前蹴りを放って距離を取った。
お互いに警戒しながら、再び剣を構える。
防戦一方だ。だけど。
「見切りました」
妖夢は、そう口にする。一撃必殺、渾身の初撃でもって全てを決める「二の太刀要らず」の太刀筋は、それ故に予測が容易だ。だから、問題はただ一点。予測のまま、相手より一手早く動けるか。それだけだ。妖夢は先程の切り結びで、既に確信を得ていた。
妖夢が、仕掛ける。常人では目にも止まらぬ連続攻撃。四方八方より繰り出される斬撃は、しかし、ほとんどが防がれ、ダメージを当てられてはいない。
だけど、それでいいのだ。これはあくまで牽制。本命は、
妖夢は男の真横へ素早く回り込む。だが、男もさるもの。この短時間に妖夢の動きに反応し、向き直った。
「■■■■■■■っー!!」
絶叫、そして刀が振りかぶられた。一撃必殺の剣が、妖夢に襲い掛かる。
狙い通りに。
「残念だけど」
ぐん、と妖夢が脚に力を込めた。今までの動きは、この一瞬の為の陽動だ。二百由旬を駆け回る脚力は、こんなものじゃない。
「わたしの方が、速いっ!」
楼観剣を水平に構え、妖夢は加速する。
いける。
男が振りぬく前に、妖夢の刀が男を貫くだろう。
だけど。
妖夢は目を見開いた。いつの間にか、男の構えが変わっている。だらりと剣先を下げたその姿は、先ほどよりもずっと嫌な威圧感を与えてくる。
男が妖夢を見て、にたりと笑った。
(欺瞞 ! )
刹那の閃きに従って、咄嗟に妖夢は刀を引いた。来る。横一文字の薙ぎ払い。速い。妖夢より、ずっと。
がきん、と衝撃が走る。かろうじて、引き戻した楼観剣での防御が間に合った。
そのまま、恐ろしいほど斬撃が連続して妖夢を襲う。妖夢は守りに専念せざるを得なかった。打ち払い、避け、受け止める。
だけど、止められない。見る間に妖夢の全身に、細かな裂傷が無数に刻まれていく。
それでもなんとか反撃の糸口をつかもうと、妖夢が踏み止まったその瞬間、
「――っ!?」
男の姿が、消えた。
(……後ろっ!)
妖夢は咄嗟に、前方に跳んだ。
「―――かはっ!」
激痛。自分の体に何があったか、妖夢はすぐに理解した。背中から刺された。だけど、浅い。貫通してない。まだ動ける。妖夢は前転してから距離を取り、振り向いた。
後ろにいると判断したことに、大した根拠はなかった。前方にも、左右にもいない。だから後ろ。その程度だ。だが、その判断が妖夢を救った。男の剣は、過たず心臓を捉えていた。前に跳んでいなかったら、妖夢は心臓を突き刺されていただろう。
妖夢の血を吸った男の刀は、ますます妖しげな光を放っている。
「……人斬り、ですか」
体勢を立て直した妖夢が、ぼそりと呟く。
多分、これは影だ。かつて在った何処かの誰か、とある血塗られた剣豪の残影。
歴史に刻まれた名のある誰かの、霊の一部。
「ですが。斯様な邪剣に、負けるわけにはいきませんね」
妖夢は再び、剣を構えた。じわり、と背中に血がにじむ。全力で出せる大技は、この一撃位だろうか。
かえって、好都合だ。
魂魄流が奥義は人霊一剣。人のからだに霊のこころ。その全てをただ一刀に込める。
「■■■■■■■っー!!」
じっと動かない妖夢を見て、手負いだと見切ったのだろう。
絶叫と共に三度、一撃必殺の剣が妖夢を襲う。
その時。妖夢がかっ、と両目を大きく見開いた。
見える。太刀筋が、体の運びが、男の剣のすべてが見える。
妖夢は刹那、にこりと微笑んだ。
「今一度、言いましょうか。あなたの剣は、見切りました」
ぐん、と妖夢が踏み込む。それはまさに神速の域。この一瞬に限るなら、幻想郷の内に妖夢よりも速いものはいない。
風を逆巻きながら、妖夢は突進する。男とすれ違いざま、渾身の力を込めて剣を横に薙いだ。
「魂魄流剣術、現世斬っ!」
剣筋が一本の線の如く、男と妖夢をつないで伸びる。妖夢が残心そのままにふり返ると、ずるり、と男が剣もろともに両断されていた。
傾いていく男と、妖夢の目線がかち合う。
「見事、ぜよ」
その言葉を残し、男の霊は消え去った。
冥界。広大な白玉楼の敷地の片隅に、裏寂れた古刹があった。
仏像はない。ただ、どこの誰とも知れない雲水の木造が安置されていた。
妖夢はここの雰囲気が好きで、剣術修行の際にはよくこの寺の庭先を使っている。手ごろな広さで、立合いにもうってつけだった。
妖夢は抜身の楼観剣を構えたまま、目をつぶっていた。
脳内に想起するのは先日の立合、その最後の一撃。
あの時、確かに二つの力が一つになっていた。あの感覚を、妖夢は想い出す。
風が吹く。ふわりとした風に乗り、桜の葉が一枚、妖夢の目の前に舞い落ちる。
妖夢は無心で、刀を振った。
桜の葉はきれいに両断され、ひらひらと左右に散っていく。
妖夢の心に充実感が満ちていく。
縁側に座り、妖夢は想った。
「雨を切るのに三十年。空気を切るのに五十年。時を切るのに二百年。……か」
師匠であり、実の祖父でもある妖忌の教えを、妖夢は無意識に口ずさむ。
自分が師匠を超える為には、いったい、何を斬ればいいのだろうか。
妖夢は自問し、やがて全て諦めて寝転んだ。
答えは、斬ってみなければ分からない。
乱れた息を立て直す。まずはそこから。如何なる武術でも、呼吸法は基礎の基礎だ。相手に呼吸を悟られるのは、自分から弱点を教えているようなもの。
妖夢は数瞬、呼吸に集中する。肩が上下するほど荒かった妖夢の息が、急速に整っていく。日頃の鍛錬の賜物だ。酸素不足で白く霞んでいた視界も戻る。
おかげで、気付けた。
右前方。そこから襲ってくる軌跡を、妖夢はどうにか避け切った。呼吸を整えるのに後少し手間取っていたならば。妖夢は脳裏に浮かんだその言葉を、即座に消した。立ち合いの最中には不要だ。
妖夢は楼観剣を脇に構えた。左の脚を前に出し、膝を屈めて前傾に。楼観剣の長さを活かす、妖夢の常の構えだ。
剣を構え、睨む向こうに相手の姿。
浪人笠に所々ほつれた着物。手の内にある刀が妖しいきらめきを放つ。その有様から読み取れるものはあまりに少ない。せいぜい男だという位か。その他にあるとするなら彼の足が見えないことだが、それは彼が幽霊だからであり、その理由を誰よりもよく知るのは、他ならぬ妖夢自身であった。
つまるところ、これは鍛錬の一環だ。
冥界をたゆたう幽霊の中には、生前一芸を極めたものも多い。天界へも行けたのに、わざわざ冥界行きを望んだ変わりものたちだ。妖夢はその中から武術に長じたものたちを募り、よく立会稽古を行なっていた。
男がぬたりと動いた。だらりと持っていた刀を持ち上げ、顔の横で構えた。妖しく血の色に濡れた剣先が、さながら天を衝くようだ。
薩摩は薬丸自顕流によく見られるカタチ、いわゆる「蜻蛉を取る」ものだ。
「■■■■■■■っー!!」
言語化不能な絶叫と共に、男は妖夢に斬りかかる。妖夢は咄嗟に刀で斬撃を受けた。
奥歯が揺れるような衝撃が、妖夢の体に叩きつけられる。
妖夢は歯をくいしばって耐えた。速い。そして重い。この男が剣に練達している、まぎれも無い証明となる一撃だ。
男は打ち込みの勢いそのままに、妖夢へと接近する。鍔迫り合いとなった。この体勢は妖夢に不利だ。体格の小さな妖夢は、それでも精一杯抗うが、徐々に仰け反る姿勢へと抑え込まれていってしまう。
押し切られる。妖夢は悟った。膂力は相手の方が上だ。ならば。
妖夢は半霊に指示を出した。妖夢の傍らに浮かんでいた半霊が、男の脇腹に突進する。
男の力が一瞬緩んだ。そこを逃さず、妖夢は前蹴りを放って距離を取った。
お互いに警戒しながら、再び剣を構える。
防戦一方だ。だけど。
「見切りました」
妖夢は、そう口にする。一撃必殺、渾身の初撃でもって全てを決める「二の太刀要らず」の太刀筋は、それ故に予測が容易だ。だから、問題はただ一点。予測のまま、相手より一手早く動けるか。それだけだ。妖夢は先程の切り結びで、既に確信を得ていた。
妖夢が、仕掛ける。常人では目にも止まらぬ連続攻撃。四方八方より繰り出される斬撃は、しかし、ほとんどが防がれ、ダメージを当てられてはいない。
だけど、それでいいのだ。これはあくまで牽制。本命は、
妖夢は男の真横へ素早く回り込む。だが、男もさるもの。この短時間に妖夢の動きに反応し、向き直った。
「■■■■■■■っー!!」
絶叫、そして刀が振りかぶられた。一撃必殺の剣が、妖夢に襲い掛かる。
狙い通りに。
「残念だけど」
ぐん、と妖夢が脚に力を込めた。今までの動きは、この一瞬の為の陽動だ。二百由旬を駆け回る脚力は、こんなものじゃない。
「わたしの方が、速いっ!」
楼観剣を水平に構え、妖夢は加速する。
いける。
男が振りぬく前に、妖夢の刀が男を貫くだろう。
だけど。
妖夢は目を見開いた。いつの間にか、男の構えが変わっている。だらりと剣先を下げたその姿は、先ほどよりもずっと嫌な威圧感を与えてくる。
男が妖夢を見て、にたりと笑った。
(欺瞞 ! )
刹那の閃きに従って、咄嗟に妖夢は刀を引いた。来る。横一文字の薙ぎ払い。速い。妖夢より、ずっと。
がきん、と衝撃が走る。かろうじて、引き戻した楼観剣での防御が間に合った。
そのまま、恐ろしいほど斬撃が連続して妖夢を襲う。妖夢は守りに専念せざるを得なかった。打ち払い、避け、受け止める。
だけど、止められない。見る間に妖夢の全身に、細かな裂傷が無数に刻まれていく。
それでもなんとか反撃の糸口をつかもうと、妖夢が踏み止まったその瞬間、
「――っ!?」
男の姿が、消えた。
(……後ろっ!)
妖夢は咄嗟に、前方に跳んだ。
「―――かはっ!」
激痛。自分の体に何があったか、妖夢はすぐに理解した。背中から刺された。だけど、浅い。貫通してない。まだ動ける。妖夢は前転してから距離を取り、振り向いた。
後ろにいると判断したことに、大した根拠はなかった。前方にも、左右にもいない。だから後ろ。その程度だ。だが、その判断が妖夢を救った。男の剣は、過たず心臓を捉えていた。前に跳んでいなかったら、妖夢は心臓を突き刺されていただろう。
妖夢の血を吸った男の刀は、ますます妖しげな光を放っている。
「……人斬り、ですか」
体勢を立て直した妖夢が、ぼそりと呟く。
多分、これは影だ。かつて在った何処かの誰か、とある血塗られた剣豪の残影。
歴史に刻まれた名のある誰かの、霊の一部。
「ですが。斯様な邪剣に、負けるわけにはいきませんね」
妖夢は再び、剣を構えた。じわり、と背中に血がにじむ。全力で出せる大技は、この一撃位だろうか。
かえって、好都合だ。
魂魄流が奥義は人霊一剣。人のからだに霊のこころ。その全てをただ一刀に込める。
「■■■■■■■っー!!」
じっと動かない妖夢を見て、手負いだと見切ったのだろう。
絶叫と共に三度、一撃必殺の剣が妖夢を襲う。
その時。妖夢がかっ、と両目を大きく見開いた。
見える。太刀筋が、体の運びが、男の剣のすべてが見える。
妖夢は刹那、にこりと微笑んだ。
「今一度、言いましょうか。あなたの剣は、見切りました」
ぐん、と妖夢が踏み込む。それはまさに神速の域。この一瞬に限るなら、幻想郷の内に妖夢よりも速いものはいない。
風を逆巻きながら、妖夢は突進する。男とすれ違いざま、渾身の力を込めて剣を横に薙いだ。
「魂魄流剣術、現世斬っ!」
剣筋が一本の線の如く、男と妖夢をつないで伸びる。妖夢が残心そのままにふり返ると、ずるり、と男が剣もろともに両断されていた。
傾いていく男と、妖夢の目線がかち合う。
「見事、ぜよ」
その言葉を残し、男の霊は消え去った。
冥界。広大な白玉楼の敷地の片隅に、裏寂れた古刹があった。
仏像はない。ただ、どこの誰とも知れない雲水の木造が安置されていた。
妖夢はここの雰囲気が好きで、剣術修行の際にはよくこの寺の庭先を使っている。手ごろな広さで、立合いにもうってつけだった。
妖夢は抜身の楼観剣を構えたまま、目をつぶっていた。
脳内に想起するのは先日の立合、その最後の一撃。
あの時、確かに二つの力が一つになっていた。あの感覚を、妖夢は想い出す。
風が吹く。ふわりとした風に乗り、桜の葉が一枚、妖夢の目の前に舞い落ちる。
妖夢は無心で、刀を振った。
桜の葉はきれいに両断され、ひらひらと左右に散っていく。
妖夢の心に充実感が満ちていく。
縁側に座り、妖夢は想った。
「雨を切るのに三十年。空気を切るのに五十年。時を切るのに二百年。……か」
師匠であり、実の祖父でもある妖忌の教えを、妖夢は無意識に口ずさむ。
自分が師匠を超える為には、いったい、何を斬ればいいのだろうか。
妖夢は自問し、やがて全て諦めて寝転んだ。
答えは、斬ってみなければ分からない。
"歴史に刻まれた名のある誰かの、霊の一部。"はいいけど、土佐弁の自顕流って誰?