◆1◆
きっかけは、些細な口喧嘩だった。
いつもの神社の宴会で、いつものように料理を食べていた紫は、珍しく同席した天人の言葉を聞き咎めたのだ。
「……はあ、やっぱり地上の料理なんて大したことないわね。作った奴の腕のが知れるわ」
「ちょっと待ちなさい。貴方、今なんて言ったのかしら」
紫の言葉に、浅く眉を上げた天子が反応した。天子は目の前に積まれた皿の塔を脇に追いやり、紫への視界を確保すると、
「は、歳を取ると耳まで遠くなるようね。こんな料理大したことないわって言ったのよ」
おしぼりで口を拭い、膨れた腹をさすりながら、天子は堂々と言い放った。
「聞き捨てならないわね。宴会に出される料理は、毎回誰かが心を籠めて作っているのよ。それとおしぼりで口を拭くのはやめなさい」
「うっさいわね。あんたは私のお母さんか何か? とにかく、心を籠めれば美味しくなる、なんてのは幻想よ」
するとテーブルの端から動きがあった。緑の髪を揺らしながら、勢いよく右手を上げた人物がいたのだ。
彼女は、火照った頬を隠そうともせずに二人へ向き直ると、
「天子さん、今夜のおつまみは私が用意したんですよ! それも霊夢さんと共同で! 絶対美味しいと思うんですけど!」
「えっ。あー、さ、早苗だっけ? 生粋の天人たる私を驚かすには至らなかったけど、まあ良い線行ってたんじゃない? あくまで私は感動しなかったけど」
声を張り、勢いのまま言い切った早苗に対して、天子はそう告げた。すると早苗は、天子の脇に積まれた物と、近くに置かれた空の大皿を見つめると、
「――ええ。ええ、そうでしたか。いやあ自信作だったんですけど、天子さんの口には合わなかったみたいですね! また頑張りましょう霊夢さん!」
「ええいこっちに振るのはやめなさいっ。面倒事に巻き込まれたくないのよ私は」
「えーいいじゃないですかー」
などと言って霊夢に絡み始める早苗を尻目に、紫と天子は視線をぶつけ合う。睨む、と表現していいほどに目を細めた紫に対し、天子は勝ち誇ったように口の端を吊り上げる。
「まあほら? 本人もああ言ってるみたいだし? 天人の言うことは絶対なのよ」
「そうはいかないわ。大体、貴方は前から地上に対する敬意が足りません。もっと素直に褒めたらどう?」
「地上の何を褒めろっていうのよ。私に何かして欲しければ、それなりの料理を用意して頂戴」
天子の言葉を聞いた紫は、しかし口を薄く開く笑いを浮かべた。彼女はどこからか取り出した扇子で口元を隠し鼻を鳴らす。
「そこまで言うなら私にも考えがあるわ。一つ勝負をしましょう」
「勝負?」
怪訝を顔に張り付けた天子が口を曲げるのにも関わらず、紫は言葉を続ける。
「私が用意した料理を食べて、貴方がそれに感動を覚えたら私の勝ち。一つだけ言うことを聞いてもらうわ」
「何よそれ。そんな私任せの勝敗なんて、紫に勝ち目はないじゃない」
「ええ勿論、そうなるわね。もし貴方が自分に嘘を付く矮小な天人くずれなら、の話ですけど」
「む……」
一瞬押し黙った天子は、次の瞬間には再び笑みを浮かべていた。しかしそれは不敵を表現するものではなく、純粋な好奇心の発露として、
「いいわ、その勝負に乗ってあげようじゃないの。それで? いつやるの?」
「いい度胸ね。なら、鉄は熱いうちに打てと言うでしょう、明日でどうかしら。どうせ年中暇なんでしょう?」
「明日? まあ暇だけど……」
「それは良かった! ああいえ、その、思った通りね。そうね、偶々偶然運よく幸運にもこの間里に美味しい洋菓子屋があるという情報を手に入れたのよ、ええ」
紫は一息で言うと、深呼吸を一つ入れる。そして立ち上がると共に、扇子を閉じて天子に突き付ける。
「明日の十時に神社の前で待ち合わせとしましょう。そうしたら私が迎えに行くわ」
「ふん。せいぜい首を洗って心の準備をして待ってることね」
「ふふふ、しっかり身を清めていきますのでそのつもりで」
「ちょっとあんたら、勝手に人の神社を待ち合わせ場所にしないでくれる?」
外野からの抗議はしかし、二人には届かなかった。紫は天子の死角となる位置で握りこぶしを掲げ、早々にスキマの中に消えていく。天子はといえば、さも名案を思いついたかのような笑顔を浮かべると、躊躇なく霊夢にこう言った。
「明日神社で待ち合わせをするなら、今日はここに泊まったほうが楽よね。自明の理よね?」
「は?」
「ということで今日は泊まっていくから。お風呂借りるわよー」
「ちょっと、あんた、ちょっと待ちなさいって!」
叫びをあげる霊夢の声は、当然のように何の効果ももたらさなかった。
呆然と周囲を見回すが、誰も彼もが視線を逸らして何事もなかったかのように宴会を再開している。
「……天界の桃五十個……いや、百個は請求しましょう。それで手打ちよ」
「元気出してください霊夢さん。ほら、今日は私も一緒にお泊りしてフォローしますから」
「いやそういうのいいから」
「というか紫さんと天子さん、仲いいですよねえ、気になりますよねえそういうの」
「…………」
心底――本当に心の底から――の呆れ顔を浮かべると、霊夢は逃避するように酒を呷った。
◆2◆
朝の時間が過ぎた青空は、陽光を蓄えその気温を上げつつあった。
冷えた高空の下を滑るように風が走り、熱を持った下界を駆け抜ける。森を抜け、林を過ぎ去り、薫風となったそれは、里に吹き付け人々の肌を撫でていく。
微かな湿り気と熱気を持った風の流れは、それでも里に涼をもたらす。日差しの照り付けに抗するかのように、人々は風を受け入れ、空気の流れを感じ、涼やかさを得ていく。
そしてそれは、人間ではない存在でも例外ではなかった。
里の一角、外れとも呼ぶべき場所。木と瓦で組まれた家屋に混ざり、一つの煉瓦造りの建物がある。『close』の札が下げられたドアの前から続く、一連の人の列。その中に、彼女らは居た。
青と金の長髪を風に靡かせ、和らいだ熱気に息を付く二人の姿。
天子と、紫だった。
昨夜と変わらない空色の衣を身にまとい、宙に浮いた要石に腰かけるのは、天子だ。彼女は両足を交互に宙に振り、何をするでもなく周囲を眺めながら、
「盛況ねー。まーそれくらいの店じゃなければ、私を満足させることなんて出来ないでしょうけど」
天子が行列を見ると、幅広い客層が目を引いた。若い女性がいて、初老の男性がいて、子連れの母親らしき姿もある。そのほとんどが里の人間であるが、中には外来人のような服装や、僅かに妖力を感じる者も混ざっている。
……老若男女以上、って感じかしら。っていうか、妖怪も混ざってないかなこれ。
先ほど紫から人気店だと聞かされてはいたが、まさかこれほどとは。待ち合わせの時間と開店の時間がずれていたのも、こうして並ぶ必要があったからだろう。
段取りがいいわねと天子は思うが、それくらいはやってしかるべきだとも思う。わざわざこの私を連れて来たのだから、と。
「まっ、並ぶのも思ったより苦じゃないわねー。それにしても……」
呟きながら、天子は紫の姿を見る。上から下まで視線を動かして、そうしたら顔まで戻って一言。
「紫、あんたその恰好はなんなのよ」
天子の言葉の先、澄ました顔の紫は、見慣れた姿をしていなかった。偶に着用しているドレスに似ているが、違う。紫を基調としたアウターウェアであることは共通しているが、ドレスと言うよりもワンピースと表現するべき服だった。
白の襟には赤糸で刺繍が施され、胸元には同じく赤のリボンタイが蝶の形を作っている。
腰には太い白のリボンが巻かれている。背に作られた、大きな蝶々結びが一際目を引いた。
普段の紫を連想させつつ、しかし少しだけカジュアルなコーデ。概ね、そのような服装だった。
「どう? 若い学生みたいで似合ってるでしょ?」
「……外の学生ってのはそんな服着てるの? まあ、可愛いとは思うけど……」
「今なんて?」
「え? 外の学生はそんな服着てるのって」
「その後」
「可愛いと思うって言ったんだけど。あんたもお洒落するのね」
「そ、そう」
言った紫の雰囲気が柔らかいものになったのは何故だろうか。まさか、敵対している自分に褒められて機嫌を良くする紫ではあるまい。
……気持ち悪いやつねー、用心用心。
「別にいつもの服で良かったじゃない。昨日の今日で、準備するのもめんどいでしょ?」
「気軽に里に出没できるわけではないと、貴方も知っているでしょう。気付いてないかもしれないけど、さっきから認識の境界を操作しているのよ。私をただの人間と錯覚するように、ね」
「ふーん」
正直解っていなかった。そのあたりは流石に大賢者というところだろうか。だが、
「それならそうと、もっと里の人間っぽい恰好してくればいいのに」
「わかってないわね。折角のお出かけなんだもの、お気に入りのコーデでおめかしするのが女の子ってものよ」
うへえという呻きを内心に留めながら、天子は半眼で言う。
「なーにそれ、神社に泊まって服も昨日のままの私への当てつけ?」
「今なんて?」
「え? 私への当てつけかって」
「その前」
「神社に泊まってって言ったんだけど。そういや、あんたも一緒に泊まれば楽だったのに」
「そ、そう……」
言った紫の雰囲気がどんよりとしたものになったのは何故だろうか。まるで千載一遇の好機を逃したかのような表情を浮かべているが、別に一緒に泊まったからと言ってそこまで何が変わるわけでもあるまい。
……あー、私と一緒に泊まれば寝首をかけたかもとか、そんな感じかなあ。
やはりこの妖怪は油断ならない。そう天子が再確認したところで、視界の端に変化が生まれた。
先頭に座っていた女の子が立ち上がったかと思えば、唐突にドアに身体を向けたのだ。するとその視線の先で、ドアにつけられたベルが軽音を響かせて、
「いらっしゃいませ! 只今オープン致しますー!」
ドアが開かれると共に、快活な声が店先に木霊した。
恐らく先頭の子供には、店員の足音や、ドアの開錠音が届いたのだろう。期待通りの開店に口の端を綻ばせると、母親らしき女性の手を握って、店内へと消えていく。
……微笑ましいわね。
「ほら紫、お店開いたみたいよ」
「え、そうね。そうよ、まだ本番はこれからよ」
ぶつぶつと小声で呟く紫を尻目に、先頭から順に何人もの姿が店の中に消えていく。あと数秒も置かずに自分たちの番だが、紫が動かないがために後ろが詰まって結論から言うと後ろの視線が痛い。
「仕方ないわねえ。ほら」
「――っ」
天子は紫の手を取って、強引に店の中に歩き出した。天子の背後で紫が何か抗議をしているが、もはや聞いてはいられない。
「な、何よ。いきなり手を繋ぐなんて……」
「あんたがぼーっとしてるのが悪いんでしょ」
「うぐぐ」
言いながら数歩をいけば、あっという間に店内だ。
店の中は、想像よりも狭かった。カウンターと、向かい合って座る二人掛けが主な座席だ。
しかしその内装に、天子は息苦しさを感じない。むしろ逆だ。一つ一つの席幅は広く、成人男性が座っても手狭さは感じないだろう横幅だ。自分のような小柄さなら、広いとすら錯覚するかもしれない。
そしてこれは、単に幅や大きさの問題ではない。
……席数の問題よね、これ。
狭い面積に席を詰め込むのではなく、全体の客入りを減らしてでも、一人あたりのスペースを――快適さを――確保する。天子が感じたのは、そんな設計思想だった。
「……良いお店なのね」
「――有り難うございます。お客様は、お二人様ですね?」
そう言って天子に声をかけたのは、給仕服に身を包んだ少女だった。赤みがかった髪をショートで切り揃えた姿は、給仕服の白さと相まって見たものに清潔感を与えていた。
プラス十点ね、と誰に言うでもなく天子は心の中で呟きを生む。
目の前の少女はまずこちらを見て、次に紫に視線を飛ばすと、
「ええと、ハーン様で良かったでしょうか。本日はご予約頂きまして有難う――」
「予約? 何のことかしら? いいから席に案内して頂戴ほら早く」
「――え、ええ。かしこまりました、どうぞこちらへ」
表情に困惑の色を浮かべながら、それでも給仕の少女は歩き出す。
疑問に思った天子は、紫の服を引っ張り小声で囁く。
「ちょっと紫、ハーンって誰よ。偽名で予約してたの」
「予約なんてしているわけがないでしょう。ここに来ると決めたのは昨日で、それも突然だったことをもう忘れたのかしら」
「いやまあそうだけど、今の店員が――」
「あっほら席に着いたわよ。良い席じゃないほら見なさいなんか外が見えるわよ凄いわ」
うわ怪しいとは思うが、一度こうなった紫は意地でも誤魔化そうとするのでこちらとしては流すしかない。
はたして二人が連れてこられたのは、日向に位置する小奇麗な席だった。別に凄くはない。
「こちらが当店のメニューとなっております」
「どれどれ……」
店員から渡されたメニューを開いてみれば、そこに載っているのは簡潔な情報だった。
パンケーキセットの一単語。そして、手書きのイラストだ。
……これだけ?
疑問に思ってページを進めれば、そこには軽食や、豊富な甘味が写真付で掲載されている。つまり一ページ目のあれは、
「この店の看板メニューってわけね」
「はい。自慢の一皿です」
言われて、天子は一ページ目へとメニューを戻す。良く見直してみれば、その簡単な文字とイラストが、どこか天子の心をくすぐった。
「へえ、嫌いじゃないわよこういうの。えっと値段は――って、よく考えたらお金持ってないわよ私」
「来ようと言い出したのは私なんだから、今日は奢るわ。ああ店員さん、私はアールグレイをお願いしますわ」
「いいの? じゃあ私はこのパンケーキセットで」
パンケーキ。そう口に出してみれば、どこか甘美な響きを覚える単語だ。
一度も食べたことがないというのに。
どこか、懐かしさと暖かさを感じるのは何故だろうか。
「……お客様、セットのお飲み物はどうされますか?」
「え? ああ、うーんと、紫が頼むのはアールクレイだっけ?」
「アールグレイ。土でも粘土でもありませんわ。……アールグレイは少し癖が強いから、ダージリンがオススメね。冷やしても美味しいけれど、やはり粉物には暖かい紅茶がいいと思うわよ」
「ふーん。じゃあそれでお願い」
軽く言って、天子は閉じたメニューを店員に返す。
店員は軽くお辞儀をしたかと思うと、
「暖かいダージリンでパンケーキセットが一つ。それと暖かいアールグレイが一つですね。お飲み物はパンケーキとご一緒でよろしいですか? ……ええ、それではお時間を戴きますのでお待ちくださいませ」
と、足早に、しかし慌てることなく厨房へと引っ込んでいく。少し奥を見てみれば、料理人らしき女性と、大きな窯が姿を覗かせていた。
よくよく店内を見てみれば、天子には馴染のない装飾物が目を引いた。それは木の実を模した飾りであったり、深い穴を落ちていく西洋少女の絵画であったり、小さな人形がちょこんと座るミニチュアの椅子であったり――
「ほら、あんまりきょろきょろしないの」
「無理。こんなに素敵なお店なんだもの、見ない手はないわ」
ぴしゃりと言って、紫の言葉を聞き流す。だが紫はその反応に機嫌を悪くするでもなく、
「あらあら、気に入ってくれたのね。嬉しいわ」
「……ま、まあ、あんたのせいでこの店の評価を下げるのは可愛そうだからね。良いところは良いと素直に認めてあげる。でも、肝心なのは料理だからね!」
「はいはい」
そう笑顔で言われて、天子は反射的に抗議をしようとした。しかし、
……あー、なんか言い返す気にならないわねー……。
これはどうしたことだろうか。仇敵たる紫に何も言い返せないなんて。
「なーにむすっとした顔してるのよ。ほらいい匂いが漂ってきたわよ、笑顔笑顔」
「むむむ」
甘い匂いは精神を強制的に穏やかにするとでも言うのだろうか。実際、嫌な気分はしないし、正直楽しさを感じているのも事実だ。
「うぐぐ……でもこの気持ちを認めたら負けな気がする……まだ感動はしてないからね……」
「ふふ」
紫はいつも通りの怪しい笑みを浮かべる。
でもその笑みが、今日はどこか柔らかく思えた。
◆3◆
穏やかな時間が過ぎていった。
あれほど感じていた熱気はどこへやら、店内の涼やかさに身体も心も落ち着いていた。
時折傍らを店員が通り抜け、テーブルへ料理をサーブしていく。それはサンドイッチであり、ドリアとおぼしき焼き物であったり、はたまたケーキと紅茶であったりした。
しかしその中にパンケーキの姿は見えない。匂いだけを漂わせたそれは、未だ店の中にその姿を現そうとはしなかった。
……遅いわねー。でも……。
「なんでかしらね。嫌な気がしないわ」
自分はこれほどまでにのんびりした性格だっただろうかと、天子は思いを馳せる。せっかちな性格ではなかった筈――たぶん――だが、待たされることにこんなにも寛容だっただろうか。
「予定も無いのだから、当然ではなくて?」
暇なのだから、後ろが無いのだから、落ち着いているのは当たり前だろうと、紫は言うのだ。
それはそれで当然だとは思う。だけど、むしろこれは、
「なんていうのかな。なんか、少し楽しいのよね」
「……それはもしかして、私と一緒にいるからかしら?」
「はあ?」
「この流れで辛辣な返しはやめなさい……! 傷付くから……! ジョークよジョーク!」
「あんたはそんなんで傷付く玉じゃないでしょうが」
この手の良く解らない冗談を言うのは紫の悪い癖だ。この間も私と一緒に海に行かないかだの、二泊三日の登山ツアーに行きましょうだの、何を考えているのか解らない誘いを受けたところだ。
この意地の悪い妖怪と出掛けたが最後、皮肉めいた軽口を終始言い合うに決まっている。自分としてはそれでも割と楽しいのだが、紫はそれでは嫌だろうに。
……気を使われてるのかなーこれ。今日だって、別に紫が来たかったわけじゃないんだろうし。
ふと思ったので、天子は聞いてみることにした。
「ねえ紫、あんた今楽しい?」
「え? そ、そうね。まあ少しは楽しいわよ、ええ。貴方の驚く姿がこれから見られるのですもの」
「ほー……」
やっぱりこの妖怪は底意地が悪くまともに取り合ってはいけない。天子は改めてそう思うと、意識を店内へと移した。
ふと目に留まった席では、今まさに料理が届けられるところだった。自分の頼んだものとは異なる焼き物が、テーブルに置かれて湯気が上がる。
その料理を前に置かれたのは小さな女の子だ。その反応からして、どうやらアレも甘いものらしい。
……あ、さっきの親子連れ。
「あれはフレンチトーストね。外の世界では朝食としてメジャーなものだけど、こういうお店で頼むには珍しい品と言えるわ」
「わざわざ解説どうも。でも……」
視線の先で、女の子がフォークを手に取った。いきなり口元に運ぼうとしたところを母親に抑えられて、ふうふうと息を吹きかけている。しかる後に口の中へとトーストを放り込んで、当然の結果として顔を綻ばせた。
「――――」
「どうしたのよ、ぼーっとしちゃって」
「別に」
ツンと言って、それきり視界から親子を外す。
「……紫の少女好きが移ったかなあ」
「人聞きの悪いことを言わないの」
「いやあんた人じゃないし」
「今日の私は人間の女の子なの」
「うへえ」
言って顔を背けると、厨房から人型が現れたのが見えた。注文を取った店員だ、と気が付くと同時、トレーに乗せられた紅茶に目が留まった。
「来たみたいね」
狭い店内だ。紫がそう言う内に、店員が自分たちの座るテーブルの隣まで来た。葉が透けて見える透明なティーポットとカップが二組ずつ。小さくかわいい砂時計は一つだけ。白の液体に満たされた小瓶は、恐らくミルクポットなのだろう。
「お待たせいたしました。アールグレイの紅茶と、セットのダージリンでございます。パンケーキも、只今お持ちしますね」
「あ、はい」
思わずかしこまってしまうが、自分らしくもないと天子は思う。だがそうすべきだと感じたのは事実なので、そのまま言われるがまま説明を耳にする。
「この砂時計をひっくり返しまして、砂が落ち切ったら飲み頃です。ミルクとお砂糖は、お好みでどうぞ」
「お砂糖?」
と言ってテーブルを見直せば、壁端に蓋付の小さなポットが置かれていることに気が付く。
……あ、シュガーポットだったのね。
洋風の小物には馴染は無いが、無知なわけではない。なるほどと思い店員に向き直ると、微笑一つを浮かべてお辞儀をされた。
「それでは、メインのお料理をお持ちしますね」
そう言ったきり、踵を返して厨房へと向かっていく。
……へえ。
メイン。来るのはお菓子であるにも関わらず、彼女はそう言った。
「いいわね、そういうの。粋ってやつかしら」
「ふふ、良い店員さんね」
声に正面を向いてみれば、紫は微笑んで手を頬に当てている。一瞬絵になるなと思ってしまった自分が悔しい。
「……もう一度言っておくけど、勝負はあくまで味だからね」
「ええわかってるわ。でもほら、そろそろ紅茶もいいみたいよ?」
え、と口から疑問を出してみれば、時計の砂は少ししか残されていなかった。
「あ、あれ。もう?」
「貴方が店員に見惚れているからよ」
そんなことはないと言えないのが困りどころだ。
……うーん、少しぼーっとしすぎかなあ。
とはいえ紅茶は自分に飲まれるのを待っている。天子は砂時計がしっかりと落ち切ったことを確認すると、右手でティーポットを持ち上げた。同時に左手でカップの持ち手を掴む。と、
「あれ、カップが温かい?」
「暖かい紅茶は、予めカップも温めておくことが多いのよ。砂時計が短いものだったのも、カップが冷めないうちに紅茶を提供するためでしょうね」
「へえ……」
解説をする紫は、既にカップに紅茶を注いでいた。艶のある琥珀色の流れがカップに注がれ、ティーポットの葉が綺麗に踊った。
金色の髪を流し、紅茶を注いで口元へ運ぶその姿を、天子は見た。
綺麗だ、と。そう思ったのは、果たして何に対してだっただろうか。
「いやいや。何考えてるんだか」
雑念を払って手元の紅茶へと意識を向ける。正直、こうしてしっかりと紅茶を飲むのは初めてだ。
ティーポットの蓋を親指で押さえて、カップへと傾けていく。注がれた茶が、カップの中を熱で満たした。投げ入れられた紅い匂いは、渦を巻くように立ちのぼり、
「わ――」
天子は、鼻を満たすような匂いを得た。
湯気が心地良い熱となって顔を撫で、鼻へと吸い込まれる。
素直に、良い匂いだと思う。
柔らかいが、それでいて存在感と自己主張がある匂いだ。芳という字は草の広がる様を表すという。なるほど、茶葉の匂いが広がるこれが、芳しいということか。
「……匂いだけで満足するつもり?」
「えっ? あ、勿論飲むわよ」
言って、そのままカップを口へと運ぶ。唇の間に紅茶を流し込み、同時に息をするように香りを取り込む。今度は、鼻を通して内から外へと空気を吐き出す。紅茶が喉元を通り過ぎる頃には、既に味覚と嗅覚は芳醇さに飲み込まれている。
当然のように、湯気だけの香りとは比べ物にならない感覚を天子は得た。全身が目覚めるかのように、意識がはっきりしていく。
「おお……おお……」
「そんなに美味しそうに紅茶を飲む子、初めて見たわよ」
「だって美味しいんだから仕方ないでしょ! お店で飲む紅茶って凄いのね!」
「そんなの私が……ああいえ、そうね。アリスあたりに頼めばいつでも淹れてくれるわよ」
「今度頼んでみるのもありねー」
その勢いのまま、天子はカップの中身を飲み干した。ティーポットの中身をちらりと見て、まだ数杯は注げるだろうと判断する。
次は砂糖を入れようか、ミルクを入れようかと、天子が気を散らした瞬間だ。紫が何かに気が付いたかのように顔を上げ、
「ほら、お待ちかねよ」
言われるまでもなく、背後から香りの塊が来た。
紅茶を豊かな香りと呼称するならば、それは濃厚な香りと称するべきものだった。店員がテーブルへと辿りつくと、粉が焼けた独特の匂いを迸らせながらそれを置く。
「お待たせいたしました、パンケーキになります。――それでは、ごゆるりと」
そこは注文の確認をするべきではないのか――と心のどこかで思うが、粋の前にはどうでもいいことだ。
そして天子が見たのは、塊だった。
「わ、おっきい」
思わず感想してしまうほど、それは大きかった。
直径三十センチほどはあるだろうか。否応無しに存在感を放っているそれは、普通の女の子であればそれだけで満腹になろうものだ。ちょこんと上に乗るバターが、とても可愛らしい。
しかし天子の興味を引いたのは、幅だけでは無かった。それは、
「凄く膨らんでる……パンケーキって、こういうのだっけ?」
言葉の通り、目の前の菓子はふくらみを持っていた。平たいという表現を超え、完全に厚みと呼ぶべき層を持っている。
それに関して目につくのは、その色だ。厚みの中心から上部には茶の焼き色があり、しかし各部にはひび割れが入っている。まず表面に焼きが入り、その後に膨らんだに違いない。
焼くことで大きなふくらみを見せる食べ物。これは確かにパンと称するべき代物だ。
「ここのお店、石窯焼きなのよね」
「石窯?」
「そうよ。遠赤外線がどうのという話を持ち出すまでもなく、窯で焼かれたパンは美味しいものよ」
「な、なるほど」
具体的な理由は解らないが、確かにその単語に何か惹かれるものがあるのは事実だ。
パンケーキには、琥珀色のシロップと、純白のホイップが付けられていた。既に溶けかけているバターに混ぜ合わせて、パンケーキと一緒に口に放り込めればなんと幸せなことだろうか。
ごくりと、自然に天子の喉が鳴った。
……これ、本当に食べていいの? 私一人で?
思わず紫に視線を投げかければ、笑顔で頷かれた。
「……よ、よし。じゃあさっそく」
「いただきますは?」
「……いただきます」
既にナイフを持ってしまっていたので、手を合わせられないのは見逃してほしい。
汗でナイフが滑らないように気を付けながら――そんな必要はないのだが気分の問題で――ゆっくりと膨らみに刃を落とし、ナイフを通過させる。
柔らかい手ごたえが返るだろう、と天子は思っていた。水を剣で切るような、緩い触感が常に手元にあるような、そんな感覚だろう、と。
だが違った。否、厳密には予想は正しかった。しかしそれは、天子が想像していたような均一の物ではなく、
――さくり、と。そんな音を、天子は指先から得た。
「この触感は――表面が焼き上がっている?」
パンケーキ、という言葉から、天子は表面も中も均一に柔らかい焼き物を想像していた。少ない洋菓子の知識を辿れば、デコレーションケーキのスポンジに近いイメージだ。
しかし目の前のこれは、天子の想像の外にあるものだった。ナイフを入れた瞬間にはさくりという感触があり、後はスポンジを切る様な心地良い柔らかさがある。
まるで鳥の丸焼きを切った時のように、触感が食感を想像させてくる。さらには、
「おぉ熱気が……」
切り開いた中から、熱気が上って天子を包み込む。紅茶の時と同じく、口に入る前から存在感の主張が凄まじい。
「熱いうちにシロップをかけることをお勧めするわ。もっとも、何も書けずに食べるのも乙なものだけど――」
「駄目、我慢できない」
前半のアドバイスを素直に受け止め、天子は素早くシロップをかける作業に移行する。手早くパンケーキ真っ二つに切り、その半円をさらに切り取ることで三角形とした。一旦ナイフを置いて素早くシロップの入った小瓶を手に取る。全体の等分など後でやればいいことだ。
さっと小瓶を揺らすと、琥珀色の波が三角形にかけられた。バターをフォークで掬い取って――既にほとんど液体になっている――まばらにまぶしていく。
「いただきます」
先ほども言った記憶があるが気分の問題だ。外側に近い部分にフォークを突き刺し、三角形の先端を口元を運ぶ。勢いで揺れる先端が、この期に及んで更なる食欲を煽った。
そうして天子は口腔を晒し、一口を噛むと、
「――ふあ、なにこれ……!?」
舌上に広がった甘味に、自然と驚きの声を発した。
樹液由来の濃厚な蜜。天子にして初めての味覚であったが、まさかこれほどまでに濃厚だとは。
果実の爽やかな甘みとは異なる、濃く密度のある甘い味。それが焼き上がった粉の味わいと混ざり合って、口の中が満たされていく。
そしてその味覚を伝えるのは、食感だ。シロップの染みこんだ箇所はしっとりと、まだ浸透していない箇所はふんわりと。異なる食感が舌で踊り、咀嚼をする度味わいが深くなる。
「紫! 紫! これ凄いわ!」
「そ、そう。それは良かった」
十分に味わった後に飲み込んで、直ぐに次の一口を食む。すると今度は、若干の塩気を舌に感じる。
その塩気の正体を、天子は即座に察した。一度目は甘味の衝撃に気が付かなかったが、今ならわかる。
「これは、バターね。塩を用いることで甘味を引き出すことがあると聞くけど、これがそうなのね……!」
三口目は流石に落ち着いて、一息を挟んだ。そして口元へと運ぶ前に、あるものへとパンケーキを突っ込む。
……生クリーム!
付けるというよりも、掬う動きでクリームを掻き取る。先端を白くしたそれを、素早く口の中へと送り込み、
「――っ。ああっ、おおっ……」
当然のように訪れた衝撃に、声が抑えきれない。
……駄目っ、このままじゃ紫に負けるわ……!
予想外の攻撃だ。まさか、こんな食べ物がこの世に存在していたとは。
「天子貴方……いえ、何でもないわ。ゆっくり味わいなさい」
言われずともそのつもりだと、心の中で呟きながら次の動きに移る。
とはいえフォークに刺さったパンケーキは、後一口分しかない。まずはこれを口の中に放り込み、それから次を考えればいい。
そして軽い気持ちで最後の一かけらを口に入れ、それまでと同じように歯を下した。すると、
ザクリ、と。
葉の奥で、固いものを磨り潰す音が響いた。
「――へ?」
クッキーか、と瞬間的に連想した。偶に魔理沙やアリスが神社に持ってくるような、硬質の菓子がパンケーキに仕込まれていたのか、と。
違った。残るパンケーキを確認しても、そんなものはありはしない。だが天子は悟った。今自分が感じたものは何なのか、を。それは、
「パンケーキの外側、それも底面が固く焼き上がっているのね……!」
言葉と同時に振り返ってみれば、先ほどまでと同じように厨房の奥に石窯が見える。答えは目に映るそのものだ。
「鉄板で焼き上げる場合、熱は均一の広がりを見せるわよね。でも石窯は違う。熱に直接曝されない中心部は柔らかく、それでいて熱風の当たる外周は焦げにも似た焼き上がりを見せる。そういうことね!?」
侮っていた。天子は素直にそう思う。甘みは天界の桃には適わず、食感に驚きはない。天子は、そう想像していた。
しかし現実はこれだ。果実とは異なる大地の自然がもたらす甘味に、地上の道具でしか実現できない技巧ある食感。これほどまでに自分の心を動かすものがあったとは。
「ふふ、喜んでくれたのは嬉しいけれど、もう少し周りを見なさいな」
「え? ……うわ」
紫の言葉に我に返り、周囲を見渡す。すると近くの席に座る誰もがこちらを見ており、
「食事の時に大声を出すのが天人の作法なのかしら」
「……うっさい」
店内から顔を背けて窓の外を向く。しかしひそひそとした声が周りから聞こえて、
「……あのお姉ちゃんどうしたの?」
「余程お料理がおいしかったのね。とってもびっくりしちゃったみたい」
「そっか、甘くておいしいもんね!」
「子供は元気なのが取り得よねえ。大変子供らしいと思うわ」
「最後の……! 最後のあんたが言ったでしょ……!」
もっとも近くから聞こえた言葉に耳ざとく反応し、ひとしきり抗議をしておく。
……あーでも、何故か悔しさも怒りもわいてこないのが腹だたたしいわねえ。
我ながら矛盾した感想をと天子は思うが、人の心なんてそんなものだろう。だが向かいに座る人外は、何を思っているのかわからない顔で笑顔を浮かべ続けている。
「ほらほら、冷めちゃうわよ。急く必要は無いけれど、時間をかけすぎるのも問題よ」
「う、そうね」
上機嫌な――こんな表情を見たことがあっただろうか――の紫に促されるまま、パンケーキを切り分けて口を運ぶ。流石に先ほどほどの衝撃は無いが、一口一口を噛みしめるたびに心の奥が熱を持つのが自覚できた。
ふと紅茶があるのを思い出し、ティーポットから注いで口に含む。砂糖もミルクも出番を待っているが、ここはストレートだ。すると、
「――さっきより渋い! そうか、初めは淹れ立てのすっきりとした味わいを用意して、甘味を食べた後は少し苦めの味わいで口の中をリセット出来るように計算されているのね! となると砂糖とミルクはまた苦くない紅茶を飲みたくなった時のために用意されていて――」
「……ふふ」
結局、それから何度も驚かされながらも、時間をかけて食事を終えたのだった。
◆4◆
「ふう、ご馳走様でした」
「はい、よく言えました」
「だからあんたは……もういいわ」
パンケーキのかけらも無くなった皿の上に、使い終わったナイフとフォークを置く。確かこうだったかな、と思いながら、二本を一まとめにして斜めにしておく。
「どうだった?」
紫はただ微笑んで、そう言った。いつものような含みも無く、ただ穏やかに。
「…………」
どうだろう、と天子は思う。
紫に煽られて来たこの店であるが、一方で期待していなかったと言えば嘘になる。楽しみにしていたと言ってもいい。
そして提供された料理は期待以上の物で、満足を得たのは事実だ。実際に料理を食べるまでの時間も、得難い経験だったように思う。
ああだから、今日の体験を一言で表すならこうだ。
「――良かった。うん、今日ここに来て、良かったと思うわ」
まんまと紫に乗せられてしまった気がするが、実際のところ自分は何も損はしていないのでセーフだろう。むしろ、紫に時間を使わせてやったと思うべきかもしれない。
しかし答えを返したにも関わらず、紫は無言だ。こちらが返事をしたのだから、何か反応をして欲しい。
そう天子が思っていると、視界の端で動く人影があった。
「あ」
先ほどの親子だ、と天子は気が付いた。二人は天子たちの座る隣を通り過ぎ、外へと向かう。途中で子供が天子のほうを向き、ひらひらと小さな右手を振ってきた。ばいばい、と、そういうことらしい。
呆けている間に、二人は店の外に出て行った。女の子は右手を上に伸ばし、母親はその手を握って歩いていく。
……あの子は、この後もお母さんとずっと一緒なのよね。ずっと一緒にご飯を食べて、ずっと幸せで……。
「天子、ぼーっとしてないで、早く答えてくれないかしら」
「え、え? 何を?」
「何って、勝負よ。感動を覚えたら負け、そういう取り決めだったでしょう」
……あ。
そういえば、そうだった。料理に舌鼓を打っていて忘れていたが、確かにそういうことになっていた。紫が黙っていたのも、その返事を待っていたからか。
「ま、まあ確かに美味しかったわ。地上も少しは悪くないかなって思ったし。でも、感動と言うほどじゃなかったわよ」
声を張って撥ねつけて、ふんと紫から顔を背ける。
そしてこの後、紫は呆れながら軽口を言って来るのだ。それがいつもの流れで、自分たちの関係だ。今回も、きっとそうなると思っていた。
だが違った。紫は呆れると言うよりも、心配を顔に浮かべながら、
「貴方ね……涙を見せておいて、感動しなかったわ通じないわよ」
「――え?」
紫の言葉に、天子は目元に指を当てる。
そっと顔に触れ、ゆっくりと撫でてみれば、確かにそこには湿りを帯びた肌がある。
汗を掻かぬ身。目元にあるそれは、涙以外の何物でもない。
「え、えっ、私、なんで」
「それは私が聞きたいわ。そんなに感動したの?」
違う、と反射的に心が言う。素直に感想してみれば、確かに心が動かされたのは事実だ。
……で、でも。
「泣く理由が、私にはないのに」
「原因があるから結果があるのよ。理由がないのではなくて、見えないだけ」
「ぐ、正論で攻めてくるとは陰湿ね……!」
「いいから落ち着きなさい」
平坦な声で言われればこちらも落ち着くしかない。
「……そりゃ料理は美味しかったし、その、本当は、感動してたけど……これは違うの」
「違うなら、何? 気に入らないことでもあった?」
問われ、考え直す。
「そうじゃない。別に、悲しくて泣いている訳じゃないもの」
「……そう。それは良かった。でも、ならどうして?」
「そうねえ。なんか、さっきの女の子を見ていたら自然とね」
言った先、紫が疑問の表情を浮かべた。そして紫は一呼吸の間考え込むと、
「ああ、あそこに座っていた親子ね。とても可愛らしくて、とても嬉しそうで……」
「とても幸せそうな二人だったわ」
言いながら、ティーカップを手に取って口を潤す。
あれから砂糖を入れた紅茶は、シロップとは異なる落ち着いた甘味で心を鎮めてくれる。
ゆっくりと時間をかけてティーカップを下すと、天子は苦笑を一つ。
「――ああ、なるほど。嫌になるわ」
「何がよ。答えがわかったのなら教えて頂戴な。もしかして、幸せそうな親子を見て、寂しくなったのかしら?」
「馬鹿ね。あの子はあの子、私は私。誰かがどんなに幸福でも、それが理由で泣いたりはしないわ」
あの女の子だけじゃない。店内を見渡せば、誰も彼もが笑顔で幸いな時間を過ごしている。それを見て、寂しいだとか、悲しいだとか、そんなことを思うほど心は荒んでいない。
ただ、
「嬉しかったのよ」
「嬉しい?」
珍しく、純粋な疑問として紫に問われる。そのことが、天子には無性におかしかった。
……そうねえ。
遠い記憶。まだ天の子が地の子だった時代。あの頃を思い出しても、今日のような記憶はない。両親からは愛されていたと思うし、また天子も二人のことが嫌いではない。ただ、立場と都合とタイミングの問題だ。
……でもまあ、それでもいいかと思ったのよね。
昔は、両親に駄々をこねることもあった気がする。しかしそれも、もはや過去の記憶だ。時間を理由に忘れたふりをしても、きっと許される。
「……でも、やっぱり体験してみると、嬉しかったのよ」
「それは――」
「ほんの少しの時間とはいえ、私も普通の女の子みたいに幸せになれるんだなって思った。ただそれだけよ」
言葉を切り、紫を見据える。澄み切った視界は、紫の表情を正確に捉えた。
小さく息を吐いて瞼を伏せる。次に瞳が見えた時には、既に疑問の表情は消えていた。
「……ええ、そうなのね」
柔らかい顔で、笑顔を浮かべて、そう言われた。
すべて世は事もなしと言わんばかりの紫だが、二つほど言っておくことがある。
「あのさ、紫」
「なにかしら」
「あんたやっぱり許せないわ。あと有難う」
「おかしくない? その組み合わせはおかしくない?」
「普通よ普通。特にあんたに対しては」
「そこまで言うなら解説を頂けるかしら?」
目を細めて紫は言う。少しだけとはいえ、今日初めて見た、怒りの表情だった。
一番馴染のある顔見て、天子は己の顔が緩むのを感覚した。
……まったく、解説も何もないでしょうが。
「後半は、ここに連れてきてくれたことへのお礼。心からの、感謝の気持ちよ」
「前半はなんのよ」
「鈍いわねえ。わざわざ私に言わせないでよ」
だってそうでしょう?
「私、紫に泣かされたようなものじゃない。なのに私、何故か怒る気になれないの。そんなの、許せっこないじゃない?」
◆5◆
……ほんと、めんどくさい子ねえ。
紫は思い、けれども言葉に発しない。面倒くささなら、自分が言えた立場ではないからだ。
言葉を発する代わりというように、自然と紫の口元が緩む。しかし、これだけは言っておくことにする。
「許しても許さなくてもいいわよ。私が勝利したという事実は変わらないものね」
「むむむ……仕方がないわね。いいわ、好きなようにこの身を弄ぶといいわ……!」
「貴方の中で私のイメージどうなってるのよ……」
呆れつつも、心の中で息を付いた。仕方ないわね、と。いつも素直になれない自分が悪いのだ。今この時だって、『じゃあ望みどおりにしてあげるわ』などと言えたらどんなに楽だろうか。
……私、貴方のことは嫌いじゃないのよ?
じっとこちらを見つめ、震えながら言葉を待つ天子の姿は中々に愛らしい。どうやら本当に、何かの罰を与えられると思っているらしい。
「……素直になれない子に対して、そんなことをするわけないでしょうに」
「え? なに?」
「いいえ。何でもありません」
小声での呟きを、耳ざとく聞き咎められる。不審そうな目を向けられるが、無視一択だ。
とはいえそろそろ潮時だろう。このまま天子を観察しているのも良いが、それではお店に迷惑というものだ。
「じゃ、そろそろ出ましょうか」
「え、出るって……店を?」
「それ以外に何か?」
「えーと、その」
「あら? このまま解散になるのが寂しいのかしら?」
「そ、そんなんじゃないけど……」
珍しく歯切れの悪い天子を見て、紫は心の中に愉快さが芽生えるのを感じた。
……いけないいけない。優位に立つと、つい弄りたくなってしまうわ。
くつくつと笑って、不安げな天子の顔を見納めることとする。
さて。
「それじゃあ天子、約束通り、私の言うことを一つ聞いてもらいます。いいわね?」
「う、ぐ、わかったわよ。ああもう、どうせ最初から勝ち目はありませんでしたよーだ」
「それじゃあ――」
言葉と同時に、紫は右手を宙へと伸ばす。つ――と境界を開き、スキマの中から数枚の紙片を取り出す。それは、
「まずここを出たら洋風レストラン『ひだまり』で本格フレンチを味わってもらいます。そこは妖怪御用達のレストランだから、私も力を抜けるわ」
「……へ?」
「そうしたら次は和風甘味店ね。名物は仙人が太鼓判を押す抹茶パフェだそうよ。胡散臭いわねえ、地上の店に通う仙人なんて」
「ちょ、ちょっと」
「その次は軽く旧地獄まで行って飲み屋を回りましょうか。安心しなさい、話は通してあるわ。陽が落ちる頃には地上に戻りましょう。夜雀の屋台を予約してあるから、そこで締めたら神社に戻って――」
「だから、あんたは何を言ってんのよ!」
堪えきれず叫びをあげる天子に、紫はいつも通りの表情で応じた。否、そのつもりだった。
「一つ言うことを聞いてもらう、と言ったわよね。だから――だから貴方には、幻想郷食い倒れツアーに参加してもらいます。ほら、これがパンフレットと旅のしおり。言っておくけど、ギブアップはなしよ?」
いつも通りに浮かべたはずの胡乱げな笑みが、しかし浮かんでいないことを、紫は察した。
――ああでも、これは仕方がない。
「返事はどうしたの? はい若しくはイエスで答えて頂戴な」
だって、この日のために用意をしていたのだ。地上のことが大好きな癖に、そのことをおくびにも出さない彼女のために。
「紫、あんた……あんたってやつは……。もしかして最初からここまで考えて?」
「貴方の行動くらいお見通しよ。ふふ、どうかしら。私の掌の上で転がされた気分は」
「――もうっ! どうもこうもないわよ、そんなの――」
天子の表情が、紫の眼の前で変化していく。
呆然と口を開けていたのは一瞬だけ。諦めたかのように表情を崩すと、仕方がなさそうにこちらを見て。
最後に浮かべていたその顔は、きっと今自分が浮かべているものと同じもので。
「はい喜んでって、そう言うしかないじゃない!」
――肯定の返事を聞いた後、自分の表情はどんなものになっていたのだろうか。
そこまで考える余裕ができたのは、たっぷり十秒の後、店中の注目を集めていることを察した時であった。
◆6◆
「……今頃どうしてますかねえ、天子さんと紫さん。そろそろ次のお店に向かう頃でしょうか」
「どうでもいいっての、どうでも」
のんべんだらりと縁側に座りながら、霊夢は早苗に返答する。
何をするでもなくお茶を飲み、飲み会の片付けから目を背ける。部屋の中は死屍累々で、人も妖怪も関係なしに横たわっている。つまりは、いつもの日常だった。
「あいつらも少しは片付けていきなさいっての。っていうか、天子と早苗につられて皆が泊まり出したから、この惨状なんだけどね」
「まあまあ霊夢さん、勢いで朝までなんてよくあることじゃないですかー」
「あーあー、お気楽な天人とその付き添いが羨ましいわねえ」
言って、霊夢は背後を首だけで見る。早苗以外の皆は床に倒れ込み、未だ起き上がる気配はない。
うーんと唸ってみるが、現実は変わらない。姿勢を戻してお茶をすすり、たっぷり一息をついてから、
「……そうね。早苗、私達も行く? 紫が行ったお店とやらに」
「えっデートですか!」
「片付けはこいつらが起き出したら勝手にやるでしょうし。家主の私はそれまで楽させてもらうわ」
「む、無視しないでくださいよー。あれ、でもそういえば――」
はたと早苗が疑問を浮かべ、頬に指を当てて空を仰いだ。
「紫さんが言っていたお店って、たぶん里のはずれにオープンしたとこですよね。洋菓子店ができたなんて話、他に聞きませんし」
「それがどうしたの?」
「いえあそこ、既に半年待ちの予約が必要だったはずですよ? 私、行こうと思ったのに予約必須と言われて泣き寝入りしましたもん」
「……へえ」
早苗の言葉を聞いて、霊夢は昨夜のやり取りを思う。売り言葉に買い言葉で、冷静さも何もあったものではないと記憶しているが、
……なるほどねえ。
「まったく、あいつも素直じゃないわね」
「あいつら、の間違いじゃないですか?」
早苗がニヤリと笑って返す。今のやり取りで、大方の事情を察したらしい。
「早苗、あんたってそういうネタに関しては敏感よね」
「好きですから!」
「っぷ、素直でよろしい。んじゃまあ――」
湯呑に残っていたお茶を一息に飲み干し、背伸びを一つ。気持ちを切り替え、立ち上がって背後に振り返る。
「早苗、あんたとのデートはまた今度ね」
「その心は?」
「とっとと片付けて、こいつらを叩き起こして、また新しく宴会の準備よ。――どうせあいつら、全部が終わったらここに戻って飲み直すつもりよ。だからまあ、今夜も宴会に決定」
「ではお料理のリベンジですね! 山の上から食材取ってきますよ!」
「早めに帰ってきなさいよ」
はしゃぐ早苗と対照的に、霊夢は努めて冷静に対応する。
しかし霊夢は、澄ました己の下面に、苦笑が浮かびつつあるのを理解していた。
……私も早苗のこと笑えないわよねー。
早苗のほうを見てみれば、やはり同種の気配が読み取れた。
こちらと同じ気持ちだと、そういうことらしい。
……ま、そうよね。
恐らくは、自分と早苗だけではなく、皆が同じ気持ちだろうと想像しながら、
「ったく、早く仲良くなりなさいよね。――痴話喧嘩は、いつまでも無くならないんでしょうけど」
きっかけは、些細な口喧嘩だった。
いつもの神社の宴会で、いつものように料理を食べていた紫は、珍しく同席した天人の言葉を聞き咎めたのだ。
「……はあ、やっぱり地上の料理なんて大したことないわね。作った奴の腕のが知れるわ」
「ちょっと待ちなさい。貴方、今なんて言ったのかしら」
紫の言葉に、浅く眉を上げた天子が反応した。天子は目の前に積まれた皿の塔を脇に追いやり、紫への視界を確保すると、
「は、歳を取ると耳まで遠くなるようね。こんな料理大したことないわって言ったのよ」
おしぼりで口を拭い、膨れた腹をさすりながら、天子は堂々と言い放った。
「聞き捨てならないわね。宴会に出される料理は、毎回誰かが心を籠めて作っているのよ。それとおしぼりで口を拭くのはやめなさい」
「うっさいわね。あんたは私のお母さんか何か? とにかく、心を籠めれば美味しくなる、なんてのは幻想よ」
するとテーブルの端から動きがあった。緑の髪を揺らしながら、勢いよく右手を上げた人物がいたのだ。
彼女は、火照った頬を隠そうともせずに二人へ向き直ると、
「天子さん、今夜のおつまみは私が用意したんですよ! それも霊夢さんと共同で! 絶対美味しいと思うんですけど!」
「えっ。あー、さ、早苗だっけ? 生粋の天人たる私を驚かすには至らなかったけど、まあ良い線行ってたんじゃない? あくまで私は感動しなかったけど」
声を張り、勢いのまま言い切った早苗に対して、天子はそう告げた。すると早苗は、天子の脇に積まれた物と、近くに置かれた空の大皿を見つめると、
「――ええ。ええ、そうでしたか。いやあ自信作だったんですけど、天子さんの口には合わなかったみたいですね! また頑張りましょう霊夢さん!」
「ええいこっちに振るのはやめなさいっ。面倒事に巻き込まれたくないのよ私は」
「えーいいじゃないですかー」
などと言って霊夢に絡み始める早苗を尻目に、紫と天子は視線をぶつけ合う。睨む、と表現していいほどに目を細めた紫に対し、天子は勝ち誇ったように口の端を吊り上げる。
「まあほら? 本人もああ言ってるみたいだし? 天人の言うことは絶対なのよ」
「そうはいかないわ。大体、貴方は前から地上に対する敬意が足りません。もっと素直に褒めたらどう?」
「地上の何を褒めろっていうのよ。私に何かして欲しければ、それなりの料理を用意して頂戴」
天子の言葉を聞いた紫は、しかし口を薄く開く笑いを浮かべた。彼女はどこからか取り出した扇子で口元を隠し鼻を鳴らす。
「そこまで言うなら私にも考えがあるわ。一つ勝負をしましょう」
「勝負?」
怪訝を顔に張り付けた天子が口を曲げるのにも関わらず、紫は言葉を続ける。
「私が用意した料理を食べて、貴方がそれに感動を覚えたら私の勝ち。一つだけ言うことを聞いてもらうわ」
「何よそれ。そんな私任せの勝敗なんて、紫に勝ち目はないじゃない」
「ええ勿論、そうなるわね。もし貴方が自分に嘘を付く矮小な天人くずれなら、の話ですけど」
「む……」
一瞬押し黙った天子は、次の瞬間には再び笑みを浮かべていた。しかしそれは不敵を表現するものではなく、純粋な好奇心の発露として、
「いいわ、その勝負に乗ってあげようじゃないの。それで? いつやるの?」
「いい度胸ね。なら、鉄は熱いうちに打てと言うでしょう、明日でどうかしら。どうせ年中暇なんでしょう?」
「明日? まあ暇だけど……」
「それは良かった! ああいえ、その、思った通りね。そうね、偶々偶然運よく幸運にもこの間里に美味しい洋菓子屋があるという情報を手に入れたのよ、ええ」
紫は一息で言うと、深呼吸を一つ入れる。そして立ち上がると共に、扇子を閉じて天子に突き付ける。
「明日の十時に神社の前で待ち合わせとしましょう。そうしたら私が迎えに行くわ」
「ふん。せいぜい首を洗って心の準備をして待ってることね」
「ふふふ、しっかり身を清めていきますのでそのつもりで」
「ちょっとあんたら、勝手に人の神社を待ち合わせ場所にしないでくれる?」
外野からの抗議はしかし、二人には届かなかった。紫は天子の死角となる位置で握りこぶしを掲げ、早々にスキマの中に消えていく。天子はといえば、さも名案を思いついたかのような笑顔を浮かべると、躊躇なく霊夢にこう言った。
「明日神社で待ち合わせをするなら、今日はここに泊まったほうが楽よね。自明の理よね?」
「は?」
「ということで今日は泊まっていくから。お風呂借りるわよー」
「ちょっと、あんた、ちょっと待ちなさいって!」
叫びをあげる霊夢の声は、当然のように何の効果ももたらさなかった。
呆然と周囲を見回すが、誰も彼もが視線を逸らして何事もなかったかのように宴会を再開している。
「……天界の桃五十個……いや、百個は請求しましょう。それで手打ちよ」
「元気出してください霊夢さん。ほら、今日は私も一緒にお泊りしてフォローしますから」
「いやそういうのいいから」
「というか紫さんと天子さん、仲いいですよねえ、気になりますよねえそういうの」
「…………」
心底――本当に心の底から――の呆れ顔を浮かべると、霊夢は逃避するように酒を呷った。
◆2◆
朝の時間が過ぎた青空は、陽光を蓄えその気温を上げつつあった。
冷えた高空の下を滑るように風が走り、熱を持った下界を駆け抜ける。森を抜け、林を過ぎ去り、薫風となったそれは、里に吹き付け人々の肌を撫でていく。
微かな湿り気と熱気を持った風の流れは、それでも里に涼をもたらす。日差しの照り付けに抗するかのように、人々は風を受け入れ、空気の流れを感じ、涼やかさを得ていく。
そしてそれは、人間ではない存在でも例外ではなかった。
里の一角、外れとも呼ぶべき場所。木と瓦で組まれた家屋に混ざり、一つの煉瓦造りの建物がある。『close』の札が下げられたドアの前から続く、一連の人の列。その中に、彼女らは居た。
青と金の長髪を風に靡かせ、和らいだ熱気に息を付く二人の姿。
天子と、紫だった。
昨夜と変わらない空色の衣を身にまとい、宙に浮いた要石に腰かけるのは、天子だ。彼女は両足を交互に宙に振り、何をするでもなく周囲を眺めながら、
「盛況ねー。まーそれくらいの店じゃなければ、私を満足させることなんて出来ないでしょうけど」
天子が行列を見ると、幅広い客層が目を引いた。若い女性がいて、初老の男性がいて、子連れの母親らしき姿もある。そのほとんどが里の人間であるが、中には外来人のような服装や、僅かに妖力を感じる者も混ざっている。
……老若男女以上、って感じかしら。っていうか、妖怪も混ざってないかなこれ。
先ほど紫から人気店だと聞かされてはいたが、まさかこれほどとは。待ち合わせの時間と開店の時間がずれていたのも、こうして並ぶ必要があったからだろう。
段取りがいいわねと天子は思うが、それくらいはやってしかるべきだとも思う。わざわざこの私を連れて来たのだから、と。
「まっ、並ぶのも思ったより苦じゃないわねー。それにしても……」
呟きながら、天子は紫の姿を見る。上から下まで視線を動かして、そうしたら顔まで戻って一言。
「紫、あんたその恰好はなんなのよ」
天子の言葉の先、澄ました顔の紫は、見慣れた姿をしていなかった。偶に着用しているドレスに似ているが、違う。紫を基調としたアウターウェアであることは共通しているが、ドレスと言うよりもワンピースと表現するべき服だった。
白の襟には赤糸で刺繍が施され、胸元には同じく赤のリボンタイが蝶の形を作っている。
腰には太い白のリボンが巻かれている。背に作られた、大きな蝶々結びが一際目を引いた。
普段の紫を連想させつつ、しかし少しだけカジュアルなコーデ。概ね、そのような服装だった。
「どう? 若い学生みたいで似合ってるでしょ?」
「……外の学生ってのはそんな服着てるの? まあ、可愛いとは思うけど……」
「今なんて?」
「え? 外の学生はそんな服着てるのって」
「その後」
「可愛いと思うって言ったんだけど。あんたもお洒落するのね」
「そ、そう」
言った紫の雰囲気が柔らかいものになったのは何故だろうか。まさか、敵対している自分に褒められて機嫌を良くする紫ではあるまい。
……気持ち悪いやつねー、用心用心。
「別にいつもの服で良かったじゃない。昨日の今日で、準備するのもめんどいでしょ?」
「気軽に里に出没できるわけではないと、貴方も知っているでしょう。気付いてないかもしれないけど、さっきから認識の境界を操作しているのよ。私をただの人間と錯覚するように、ね」
「ふーん」
正直解っていなかった。そのあたりは流石に大賢者というところだろうか。だが、
「それならそうと、もっと里の人間っぽい恰好してくればいいのに」
「わかってないわね。折角のお出かけなんだもの、お気に入りのコーデでおめかしするのが女の子ってものよ」
うへえという呻きを内心に留めながら、天子は半眼で言う。
「なーにそれ、神社に泊まって服も昨日のままの私への当てつけ?」
「今なんて?」
「え? 私への当てつけかって」
「その前」
「神社に泊まってって言ったんだけど。そういや、あんたも一緒に泊まれば楽だったのに」
「そ、そう……」
言った紫の雰囲気がどんよりとしたものになったのは何故だろうか。まるで千載一遇の好機を逃したかのような表情を浮かべているが、別に一緒に泊まったからと言ってそこまで何が変わるわけでもあるまい。
……あー、私と一緒に泊まれば寝首をかけたかもとか、そんな感じかなあ。
やはりこの妖怪は油断ならない。そう天子が再確認したところで、視界の端に変化が生まれた。
先頭に座っていた女の子が立ち上がったかと思えば、唐突にドアに身体を向けたのだ。するとその視線の先で、ドアにつけられたベルが軽音を響かせて、
「いらっしゃいませ! 只今オープン致しますー!」
ドアが開かれると共に、快活な声が店先に木霊した。
恐らく先頭の子供には、店員の足音や、ドアの開錠音が届いたのだろう。期待通りの開店に口の端を綻ばせると、母親らしき女性の手を握って、店内へと消えていく。
……微笑ましいわね。
「ほら紫、お店開いたみたいよ」
「え、そうね。そうよ、まだ本番はこれからよ」
ぶつぶつと小声で呟く紫を尻目に、先頭から順に何人もの姿が店の中に消えていく。あと数秒も置かずに自分たちの番だが、紫が動かないがために後ろが詰まって結論から言うと後ろの視線が痛い。
「仕方ないわねえ。ほら」
「――っ」
天子は紫の手を取って、強引に店の中に歩き出した。天子の背後で紫が何か抗議をしているが、もはや聞いてはいられない。
「な、何よ。いきなり手を繋ぐなんて……」
「あんたがぼーっとしてるのが悪いんでしょ」
「うぐぐ」
言いながら数歩をいけば、あっという間に店内だ。
店の中は、想像よりも狭かった。カウンターと、向かい合って座る二人掛けが主な座席だ。
しかしその内装に、天子は息苦しさを感じない。むしろ逆だ。一つ一つの席幅は広く、成人男性が座っても手狭さは感じないだろう横幅だ。自分のような小柄さなら、広いとすら錯覚するかもしれない。
そしてこれは、単に幅や大きさの問題ではない。
……席数の問題よね、これ。
狭い面積に席を詰め込むのではなく、全体の客入りを減らしてでも、一人あたりのスペースを――快適さを――確保する。天子が感じたのは、そんな設計思想だった。
「……良いお店なのね」
「――有り難うございます。お客様は、お二人様ですね?」
そう言って天子に声をかけたのは、給仕服に身を包んだ少女だった。赤みがかった髪をショートで切り揃えた姿は、給仕服の白さと相まって見たものに清潔感を与えていた。
プラス十点ね、と誰に言うでもなく天子は心の中で呟きを生む。
目の前の少女はまずこちらを見て、次に紫に視線を飛ばすと、
「ええと、ハーン様で良かったでしょうか。本日はご予約頂きまして有難う――」
「予約? 何のことかしら? いいから席に案内して頂戴ほら早く」
「――え、ええ。かしこまりました、どうぞこちらへ」
表情に困惑の色を浮かべながら、それでも給仕の少女は歩き出す。
疑問に思った天子は、紫の服を引っ張り小声で囁く。
「ちょっと紫、ハーンって誰よ。偽名で予約してたの」
「予約なんてしているわけがないでしょう。ここに来ると決めたのは昨日で、それも突然だったことをもう忘れたのかしら」
「いやまあそうだけど、今の店員が――」
「あっほら席に着いたわよ。良い席じゃないほら見なさいなんか外が見えるわよ凄いわ」
うわ怪しいとは思うが、一度こうなった紫は意地でも誤魔化そうとするのでこちらとしては流すしかない。
はたして二人が連れてこられたのは、日向に位置する小奇麗な席だった。別に凄くはない。
「こちらが当店のメニューとなっております」
「どれどれ……」
店員から渡されたメニューを開いてみれば、そこに載っているのは簡潔な情報だった。
パンケーキセットの一単語。そして、手書きのイラストだ。
……これだけ?
疑問に思ってページを進めれば、そこには軽食や、豊富な甘味が写真付で掲載されている。つまり一ページ目のあれは、
「この店の看板メニューってわけね」
「はい。自慢の一皿です」
言われて、天子は一ページ目へとメニューを戻す。良く見直してみれば、その簡単な文字とイラストが、どこか天子の心をくすぐった。
「へえ、嫌いじゃないわよこういうの。えっと値段は――って、よく考えたらお金持ってないわよ私」
「来ようと言い出したのは私なんだから、今日は奢るわ。ああ店員さん、私はアールグレイをお願いしますわ」
「いいの? じゃあ私はこのパンケーキセットで」
パンケーキ。そう口に出してみれば、どこか甘美な響きを覚える単語だ。
一度も食べたことがないというのに。
どこか、懐かしさと暖かさを感じるのは何故だろうか。
「……お客様、セットのお飲み物はどうされますか?」
「え? ああ、うーんと、紫が頼むのはアールクレイだっけ?」
「アールグレイ。土でも粘土でもありませんわ。……アールグレイは少し癖が強いから、ダージリンがオススメね。冷やしても美味しいけれど、やはり粉物には暖かい紅茶がいいと思うわよ」
「ふーん。じゃあそれでお願い」
軽く言って、天子は閉じたメニューを店員に返す。
店員は軽くお辞儀をしたかと思うと、
「暖かいダージリンでパンケーキセットが一つ。それと暖かいアールグレイが一つですね。お飲み物はパンケーキとご一緒でよろしいですか? ……ええ、それではお時間を戴きますのでお待ちくださいませ」
と、足早に、しかし慌てることなく厨房へと引っ込んでいく。少し奥を見てみれば、料理人らしき女性と、大きな窯が姿を覗かせていた。
よくよく店内を見てみれば、天子には馴染のない装飾物が目を引いた。それは木の実を模した飾りであったり、深い穴を落ちていく西洋少女の絵画であったり、小さな人形がちょこんと座るミニチュアの椅子であったり――
「ほら、あんまりきょろきょろしないの」
「無理。こんなに素敵なお店なんだもの、見ない手はないわ」
ぴしゃりと言って、紫の言葉を聞き流す。だが紫はその反応に機嫌を悪くするでもなく、
「あらあら、気に入ってくれたのね。嬉しいわ」
「……ま、まあ、あんたのせいでこの店の評価を下げるのは可愛そうだからね。良いところは良いと素直に認めてあげる。でも、肝心なのは料理だからね!」
「はいはい」
そう笑顔で言われて、天子は反射的に抗議をしようとした。しかし、
……あー、なんか言い返す気にならないわねー……。
これはどうしたことだろうか。仇敵たる紫に何も言い返せないなんて。
「なーにむすっとした顔してるのよ。ほらいい匂いが漂ってきたわよ、笑顔笑顔」
「むむむ」
甘い匂いは精神を強制的に穏やかにするとでも言うのだろうか。実際、嫌な気分はしないし、正直楽しさを感じているのも事実だ。
「うぐぐ……でもこの気持ちを認めたら負けな気がする……まだ感動はしてないからね……」
「ふふ」
紫はいつも通りの怪しい笑みを浮かべる。
でもその笑みが、今日はどこか柔らかく思えた。
◆3◆
穏やかな時間が過ぎていった。
あれほど感じていた熱気はどこへやら、店内の涼やかさに身体も心も落ち着いていた。
時折傍らを店員が通り抜け、テーブルへ料理をサーブしていく。それはサンドイッチであり、ドリアとおぼしき焼き物であったり、はたまたケーキと紅茶であったりした。
しかしその中にパンケーキの姿は見えない。匂いだけを漂わせたそれは、未だ店の中にその姿を現そうとはしなかった。
……遅いわねー。でも……。
「なんでかしらね。嫌な気がしないわ」
自分はこれほどまでにのんびりした性格だっただろうかと、天子は思いを馳せる。せっかちな性格ではなかった筈――たぶん――だが、待たされることにこんなにも寛容だっただろうか。
「予定も無いのだから、当然ではなくて?」
暇なのだから、後ろが無いのだから、落ち着いているのは当たり前だろうと、紫は言うのだ。
それはそれで当然だとは思う。だけど、むしろこれは、
「なんていうのかな。なんか、少し楽しいのよね」
「……それはもしかして、私と一緒にいるからかしら?」
「はあ?」
「この流れで辛辣な返しはやめなさい……! 傷付くから……! ジョークよジョーク!」
「あんたはそんなんで傷付く玉じゃないでしょうが」
この手の良く解らない冗談を言うのは紫の悪い癖だ。この間も私と一緒に海に行かないかだの、二泊三日の登山ツアーに行きましょうだの、何を考えているのか解らない誘いを受けたところだ。
この意地の悪い妖怪と出掛けたが最後、皮肉めいた軽口を終始言い合うに決まっている。自分としてはそれでも割と楽しいのだが、紫はそれでは嫌だろうに。
……気を使われてるのかなーこれ。今日だって、別に紫が来たかったわけじゃないんだろうし。
ふと思ったので、天子は聞いてみることにした。
「ねえ紫、あんた今楽しい?」
「え? そ、そうね。まあ少しは楽しいわよ、ええ。貴方の驚く姿がこれから見られるのですもの」
「ほー……」
やっぱりこの妖怪は底意地が悪くまともに取り合ってはいけない。天子は改めてそう思うと、意識を店内へと移した。
ふと目に留まった席では、今まさに料理が届けられるところだった。自分の頼んだものとは異なる焼き物が、テーブルに置かれて湯気が上がる。
その料理を前に置かれたのは小さな女の子だ。その反応からして、どうやらアレも甘いものらしい。
……あ、さっきの親子連れ。
「あれはフレンチトーストね。外の世界では朝食としてメジャーなものだけど、こういうお店で頼むには珍しい品と言えるわ」
「わざわざ解説どうも。でも……」
視線の先で、女の子がフォークを手に取った。いきなり口元に運ぼうとしたところを母親に抑えられて、ふうふうと息を吹きかけている。しかる後に口の中へとトーストを放り込んで、当然の結果として顔を綻ばせた。
「――――」
「どうしたのよ、ぼーっとしちゃって」
「別に」
ツンと言って、それきり視界から親子を外す。
「……紫の少女好きが移ったかなあ」
「人聞きの悪いことを言わないの」
「いやあんた人じゃないし」
「今日の私は人間の女の子なの」
「うへえ」
言って顔を背けると、厨房から人型が現れたのが見えた。注文を取った店員だ、と気が付くと同時、トレーに乗せられた紅茶に目が留まった。
「来たみたいね」
狭い店内だ。紫がそう言う内に、店員が自分たちの座るテーブルの隣まで来た。葉が透けて見える透明なティーポットとカップが二組ずつ。小さくかわいい砂時計は一つだけ。白の液体に満たされた小瓶は、恐らくミルクポットなのだろう。
「お待たせいたしました。アールグレイの紅茶と、セットのダージリンでございます。パンケーキも、只今お持ちしますね」
「あ、はい」
思わずかしこまってしまうが、自分らしくもないと天子は思う。だがそうすべきだと感じたのは事実なので、そのまま言われるがまま説明を耳にする。
「この砂時計をひっくり返しまして、砂が落ち切ったら飲み頃です。ミルクとお砂糖は、お好みでどうぞ」
「お砂糖?」
と言ってテーブルを見直せば、壁端に蓋付の小さなポットが置かれていることに気が付く。
……あ、シュガーポットだったのね。
洋風の小物には馴染は無いが、無知なわけではない。なるほどと思い店員に向き直ると、微笑一つを浮かべてお辞儀をされた。
「それでは、メインのお料理をお持ちしますね」
そう言ったきり、踵を返して厨房へと向かっていく。
……へえ。
メイン。来るのはお菓子であるにも関わらず、彼女はそう言った。
「いいわね、そういうの。粋ってやつかしら」
「ふふ、良い店員さんね」
声に正面を向いてみれば、紫は微笑んで手を頬に当てている。一瞬絵になるなと思ってしまった自分が悔しい。
「……もう一度言っておくけど、勝負はあくまで味だからね」
「ええわかってるわ。でもほら、そろそろ紅茶もいいみたいよ?」
え、と口から疑問を出してみれば、時計の砂は少ししか残されていなかった。
「あ、あれ。もう?」
「貴方が店員に見惚れているからよ」
そんなことはないと言えないのが困りどころだ。
……うーん、少しぼーっとしすぎかなあ。
とはいえ紅茶は自分に飲まれるのを待っている。天子は砂時計がしっかりと落ち切ったことを確認すると、右手でティーポットを持ち上げた。同時に左手でカップの持ち手を掴む。と、
「あれ、カップが温かい?」
「暖かい紅茶は、予めカップも温めておくことが多いのよ。砂時計が短いものだったのも、カップが冷めないうちに紅茶を提供するためでしょうね」
「へえ……」
解説をする紫は、既にカップに紅茶を注いでいた。艶のある琥珀色の流れがカップに注がれ、ティーポットの葉が綺麗に踊った。
金色の髪を流し、紅茶を注いで口元へ運ぶその姿を、天子は見た。
綺麗だ、と。そう思ったのは、果たして何に対してだっただろうか。
「いやいや。何考えてるんだか」
雑念を払って手元の紅茶へと意識を向ける。正直、こうしてしっかりと紅茶を飲むのは初めてだ。
ティーポットの蓋を親指で押さえて、カップへと傾けていく。注がれた茶が、カップの中を熱で満たした。投げ入れられた紅い匂いは、渦を巻くように立ちのぼり、
「わ――」
天子は、鼻を満たすような匂いを得た。
湯気が心地良い熱となって顔を撫で、鼻へと吸い込まれる。
素直に、良い匂いだと思う。
柔らかいが、それでいて存在感と自己主張がある匂いだ。芳という字は草の広がる様を表すという。なるほど、茶葉の匂いが広がるこれが、芳しいということか。
「……匂いだけで満足するつもり?」
「えっ? あ、勿論飲むわよ」
言って、そのままカップを口へと運ぶ。唇の間に紅茶を流し込み、同時に息をするように香りを取り込む。今度は、鼻を通して内から外へと空気を吐き出す。紅茶が喉元を通り過ぎる頃には、既に味覚と嗅覚は芳醇さに飲み込まれている。
当然のように、湯気だけの香りとは比べ物にならない感覚を天子は得た。全身が目覚めるかのように、意識がはっきりしていく。
「おお……おお……」
「そんなに美味しそうに紅茶を飲む子、初めて見たわよ」
「だって美味しいんだから仕方ないでしょ! お店で飲む紅茶って凄いのね!」
「そんなの私が……ああいえ、そうね。アリスあたりに頼めばいつでも淹れてくれるわよ」
「今度頼んでみるのもありねー」
その勢いのまま、天子はカップの中身を飲み干した。ティーポットの中身をちらりと見て、まだ数杯は注げるだろうと判断する。
次は砂糖を入れようか、ミルクを入れようかと、天子が気を散らした瞬間だ。紫が何かに気が付いたかのように顔を上げ、
「ほら、お待ちかねよ」
言われるまでもなく、背後から香りの塊が来た。
紅茶を豊かな香りと呼称するならば、それは濃厚な香りと称するべきものだった。店員がテーブルへと辿りつくと、粉が焼けた独特の匂いを迸らせながらそれを置く。
「お待たせいたしました、パンケーキになります。――それでは、ごゆるりと」
そこは注文の確認をするべきではないのか――と心のどこかで思うが、粋の前にはどうでもいいことだ。
そして天子が見たのは、塊だった。
「わ、おっきい」
思わず感想してしまうほど、それは大きかった。
直径三十センチほどはあるだろうか。否応無しに存在感を放っているそれは、普通の女の子であればそれだけで満腹になろうものだ。ちょこんと上に乗るバターが、とても可愛らしい。
しかし天子の興味を引いたのは、幅だけでは無かった。それは、
「凄く膨らんでる……パンケーキって、こういうのだっけ?」
言葉の通り、目の前の菓子はふくらみを持っていた。平たいという表現を超え、完全に厚みと呼ぶべき層を持っている。
それに関して目につくのは、その色だ。厚みの中心から上部には茶の焼き色があり、しかし各部にはひび割れが入っている。まず表面に焼きが入り、その後に膨らんだに違いない。
焼くことで大きなふくらみを見せる食べ物。これは確かにパンと称するべき代物だ。
「ここのお店、石窯焼きなのよね」
「石窯?」
「そうよ。遠赤外線がどうのという話を持ち出すまでもなく、窯で焼かれたパンは美味しいものよ」
「な、なるほど」
具体的な理由は解らないが、確かにその単語に何か惹かれるものがあるのは事実だ。
パンケーキには、琥珀色のシロップと、純白のホイップが付けられていた。既に溶けかけているバターに混ぜ合わせて、パンケーキと一緒に口に放り込めればなんと幸せなことだろうか。
ごくりと、自然に天子の喉が鳴った。
……これ、本当に食べていいの? 私一人で?
思わず紫に視線を投げかければ、笑顔で頷かれた。
「……よ、よし。じゃあさっそく」
「いただきますは?」
「……いただきます」
既にナイフを持ってしまっていたので、手を合わせられないのは見逃してほしい。
汗でナイフが滑らないように気を付けながら――そんな必要はないのだが気分の問題で――ゆっくりと膨らみに刃を落とし、ナイフを通過させる。
柔らかい手ごたえが返るだろう、と天子は思っていた。水を剣で切るような、緩い触感が常に手元にあるような、そんな感覚だろう、と。
だが違った。否、厳密には予想は正しかった。しかしそれは、天子が想像していたような均一の物ではなく、
――さくり、と。そんな音を、天子は指先から得た。
「この触感は――表面が焼き上がっている?」
パンケーキ、という言葉から、天子は表面も中も均一に柔らかい焼き物を想像していた。少ない洋菓子の知識を辿れば、デコレーションケーキのスポンジに近いイメージだ。
しかし目の前のこれは、天子の想像の外にあるものだった。ナイフを入れた瞬間にはさくりという感触があり、後はスポンジを切る様な心地良い柔らかさがある。
まるで鳥の丸焼きを切った時のように、触感が食感を想像させてくる。さらには、
「おぉ熱気が……」
切り開いた中から、熱気が上って天子を包み込む。紅茶の時と同じく、口に入る前から存在感の主張が凄まじい。
「熱いうちにシロップをかけることをお勧めするわ。もっとも、何も書けずに食べるのも乙なものだけど――」
「駄目、我慢できない」
前半のアドバイスを素直に受け止め、天子は素早くシロップをかける作業に移行する。手早くパンケーキ真っ二つに切り、その半円をさらに切り取ることで三角形とした。一旦ナイフを置いて素早くシロップの入った小瓶を手に取る。全体の等分など後でやればいいことだ。
さっと小瓶を揺らすと、琥珀色の波が三角形にかけられた。バターをフォークで掬い取って――既にほとんど液体になっている――まばらにまぶしていく。
「いただきます」
先ほども言った記憶があるが気分の問題だ。外側に近い部分にフォークを突き刺し、三角形の先端を口元を運ぶ。勢いで揺れる先端が、この期に及んで更なる食欲を煽った。
そうして天子は口腔を晒し、一口を噛むと、
「――ふあ、なにこれ……!?」
舌上に広がった甘味に、自然と驚きの声を発した。
樹液由来の濃厚な蜜。天子にして初めての味覚であったが、まさかこれほどまでに濃厚だとは。
果実の爽やかな甘みとは異なる、濃く密度のある甘い味。それが焼き上がった粉の味わいと混ざり合って、口の中が満たされていく。
そしてその味覚を伝えるのは、食感だ。シロップの染みこんだ箇所はしっとりと、まだ浸透していない箇所はふんわりと。異なる食感が舌で踊り、咀嚼をする度味わいが深くなる。
「紫! 紫! これ凄いわ!」
「そ、そう。それは良かった」
十分に味わった後に飲み込んで、直ぐに次の一口を食む。すると今度は、若干の塩気を舌に感じる。
その塩気の正体を、天子は即座に察した。一度目は甘味の衝撃に気が付かなかったが、今ならわかる。
「これは、バターね。塩を用いることで甘味を引き出すことがあると聞くけど、これがそうなのね……!」
三口目は流石に落ち着いて、一息を挟んだ。そして口元へと運ぶ前に、あるものへとパンケーキを突っ込む。
……生クリーム!
付けるというよりも、掬う動きでクリームを掻き取る。先端を白くしたそれを、素早く口の中へと送り込み、
「――っ。ああっ、おおっ……」
当然のように訪れた衝撃に、声が抑えきれない。
……駄目っ、このままじゃ紫に負けるわ……!
予想外の攻撃だ。まさか、こんな食べ物がこの世に存在していたとは。
「天子貴方……いえ、何でもないわ。ゆっくり味わいなさい」
言われずともそのつもりだと、心の中で呟きながら次の動きに移る。
とはいえフォークに刺さったパンケーキは、後一口分しかない。まずはこれを口の中に放り込み、それから次を考えればいい。
そして軽い気持ちで最後の一かけらを口に入れ、それまでと同じように歯を下した。すると、
ザクリ、と。
葉の奥で、固いものを磨り潰す音が響いた。
「――へ?」
クッキーか、と瞬間的に連想した。偶に魔理沙やアリスが神社に持ってくるような、硬質の菓子がパンケーキに仕込まれていたのか、と。
違った。残るパンケーキを確認しても、そんなものはありはしない。だが天子は悟った。今自分が感じたものは何なのか、を。それは、
「パンケーキの外側、それも底面が固く焼き上がっているのね……!」
言葉と同時に振り返ってみれば、先ほどまでと同じように厨房の奥に石窯が見える。答えは目に映るそのものだ。
「鉄板で焼き上げる場合、熱は均一の広がりを見せるわよね。でも石窯は違う。熱に直接曝されない中心部は柔らかく、それでいて熱風の当たる外周は焦げにも似た焼き上がりを見せる。そういうことね!?」
侮っていた。天子は素直にそう思う。甘みは天界の桃には適わず、食感に驚きはない。天子は、そう想像していた。
しかし現実はこれだ。果実とは異なる大地の自然がもたらす甘味に、地上の道具でしか実現できない技巧ある食感。これほどまでに自分の心を動かすものがあったとは。
「ふふ、喜んでくれたのは嬉しいけれど、もう少し周りを見なさいな」
「え? ……うわ」
紫の言葉に我に返り、周囲を見渡す。すると近くの席に座る誰もがこちらを見ており、
「食事の時に大声を出すのが天人の作法なのかしら」
「……うっさい」
店内から顔を背けて窓の外を向く。しかしひそひそとした声が周りから聞こえて、
「……あのお姉ちゃんどうしたの?」
「余程お料理がおいしかったのね。とってもびっくりしちゃったみたい」
「そっか、甘くておいしいもんね!」
「子供は元気なのが取り得よねえ。大変子供らしいと思うわ」
「最後の……! 最後のあんたが言ったでしょ……!」
もっとも近くから聞こえた言葉に耳ざとく反応し、ひとしきり抗議をしておく。
……あーでも、何故か悔しさも怒りもわいてこないのが腹だたたしいわねえ。
我ながら矛盾した感想をと天子は思うが、人の心なんてそんなものだろう。だが向かいに座る人外は、何を思っているのかわからない顔で笑顔を浮かべ続けている。
「ほらほら、冷めちゃうわよ。急く必要は無いけれど、時間をかけすぎるのも問題よ」
「う、そうね」
上機嫌な――こんな表情を見たことがあっただろうか――の紫に促されるまま、パンケーキを切り分けて口を運ぶ。流石に先ほどほどの衝撃は無いが、一口一口を噛みしめるたびに心の奥が熱を持つのが自覚できた。
ふと紅茶があるのを思い出し、ティーポットから注いで口に含む。砂糖もミルクも出番を待っているが、ここはストレートだ。すると、
「――さっきより渋い! そうか、初めは淹れ立てのすっきりとした味わいを用意して、甘味を食べた後は少し苦めの味わいで口の中をリセット出来るように計算されているのね! となると砂糖とミルクはまた苦くない紅茶を飲みたくなった時のために用意されていて――」
「……ふふ」
結局、それから何度も驚かされながらも、時間をかけて食事を終えたのだった。
◆4◆
「ふう、ご馳走様でした」
「はい、よく言えました」
「だからあんたは……もういいわ」
パンケーキのかけらも無くなった皿の上に、使い終わったナイフとフォークを置く。確かこうだったかな、と思いながら、二本を一まとめにして斜めにしておく。
「どうだった?」
紫はただ微笑んで、そう言った。いつものような含みも無く、ただ穏やかに。
「…………」
どうだろう、と天子は思う。
紫に煽られて来たこの店であるが、一方で期待していなかったと言えば嘘になる。楽しみにしていたと言ってもいい。
そして提供された料理は期待以上の物で、満足を得たのは事実だ。実際に料理を食べるまでの時間も、得難い経験だったように思う。
ああだから、今日の体験を一言で表すならこうだ。
「――良かった。うん、今日ここに来て、良かったと思うわ」
まんまと紫に乗せられてしまった気がするが、実際のところ自分は何も損はしていないのでセーフだろう。むしろ、紫に時間を使わせてやったと思うべきかもしれない。
しかし答えを返したにも関わらず、紫は無言だ。こちらが返事をしたのだから、何か反応をして欲しい。
そう天子が思っていると、視界の端で動く人影があった。
「あ」
先ほどの親子だ、と天子は気が付いた。二人は天子たちの座る隣を通り過ぎ、外へと向かう。途中で子供が天子のほうを向き、ひらひらと小さな右手を振ってきた。ばいばい、と、そういうことらしい。
呆けている間に、二人は店の外に出て行った。女の子は右手を上に伸ばし、母親はその手を握って歩いていく。
……あの子は、この後もお母さんとずっと一緒なのよね。ずっと一緒にご飯を食べて、ずっと幸せで……。
「天子、ぼーっとしてないで、早く答えてくれないかしら」
「え、え? 何を?」
「何って、勝負よ。感動を覚えたら負け、そういう取り決めだったでしょう」
……あ。
そういえば、そうだった。料理に舌鼓を打っていて忘れていたが、確かにそういうことになっていた。紫が黙っていたのも、その返事を待っていたからか。
「ま、まあ確かに美味しかったわ。地上も少しは悪くないかなって思ったし。でも、感動と言うほどじゃなかったわよ」
声を張って撥ねつけて、ふんと紫から顔を背ける。
そしてこの後、紫は呆れながら軽口を言って来るのだ。それがいつもの流れで、自分たちの関係だ。今回も、きっとそうなると思っていた。
だが違った。紫は呆れると言うよりも、心配を顔に浮かべながら、
「貴方ね……涙を見せておいて、感動しなかったわ通じないわよ」
「――え?」
紫の言葉に、天子は目元に指を当てる。
そっと顔に触れ、ゆっくりと撫でてみれば、確かにそこには湿りを帯びた肌がある。
汗を掻かぬ身。目元にあるそれは、涙以外の何物でもない。
「え、えっ、私、なんで」
「それは私が聞きたいわ。そんなに感動したの?」
違う、と反射的に心が言う。素直に感想してみれば、確かに心が動かされたのは事実だ。
……で、でも。
「泣く理由が、私にはないのに」
「原因があるから結果があるのよ。理由がないのではなくて、見えないだけ」
「ぐ、正論で攻めてくるとは陰湿ね……!」
「いいから落ち着きなさい」
平坦な声で言われればこちらも落ち着くしかない。
「……そりゃ料理は美味しかったし、その、本当は、感動してたけど……これは違うの」
「違うなら、何? 気に入らないことでもあった?」
問われ、考え直す。
「そうじゃない。別に、悲しくて泣いている訳じゃないもの」
「……そう。それは良かった。でも、ならどうして?」
「そうねえ。なんか、さっきの女の子を見ていたら自然とね」
言った先、紫が疑問の表情を浮かべた。そして紫は一呼吸の間考え込むと、
「ああ、あそこに座っていた親子ね。とても可愛らしくて、とても嬉しそうで……」
「とても幸せそうな二人だったわ」
言いながら、ティーカップを手に取って口を潤す。
あれから砂糖を入れた紅茶は、シロップとは異なる落ち着いた甘味で心を鎮めてくれる。
ゆっくりと時間をかけてティーカップを下すと、天子は苦笑を一つ。
「――ああ、なるほど。嫌になるわ」
「何がよ。答えがわかったのなら教えて頂戴な。もしかして、幸せそうな親子を見て、寂しくなったのかしら?」
「馬鹿ね。あの子はあの子、私は私。誰かがどんなに幸福でも、それが理由で泣いたりはしないわ」
あの女の子だけじゃない。店内を見渡せば、誰も彼もが笑顔で幸いな時間を過ごしている。それを見て、寂しいだとか、悲しいだとか、そんなことを思うほど心は荒んでいない。
ただ、
「嬉しかったのよ」
「嬉しい?」
珍しく、純粋な疑問として紫に問われる。そのことが、天子には無性におかしかった。
……そうねえ。
遠い記憶。まだ天の子が地の子だった時代。あの頃を思い出しても、今日のような記憶はない。両親からは愛されていたと思うし、また天子も二人のことが嫌いではない。ただ、立場と都合とタイミングの問題だ。
……でもまあ、それでもいいかと思ったのよね。
昔は、両親に駄々をこねることもあった気がする。しかしそれも、もはや過去の記憶だ。時間を理由に忘れたふりをしても、きっと許される。
「……でも、やっぱり体験してみると、嬉しかったのよ」
「それは――」
「ほんの少しの時間とはいえ、私も普通の女の子みたいに幸せになれるんだなって思った。ただそれだけよ」
言葉を切り、紫を見据える。澄み切った視界は、紫の表情を正確に捉えた。
小さく息を吐いて瞼を伏せる。次に瞳が見えた時には、既に疑問の表情は消えていた。
「……ええ、そうなのね」
柔らかい顔で、笑顔を浮かべて、そう言われた。
すべて世は事もなしと言わんばかりの紫だが、二つほど言っておくことがある。
「あのさ、紫」
「なにかしら」
「あんたやっぱり許せないわ。あと有難う」
「おかしくない? その組み合わせはおかしくない?」
「普通よ普通。特にあんたに対しては」
「そこまで言うなら解説を頂けるかしら?」
目を細めて紫は言う。少しだけとはいえ、今日初めて見た、怒りの表情だった。
一番馴染のある顔見て、天子は己の顔が緩むのを感覚した。
……まったく、解説も何もないでしょうが。
「後半は、ここに連れてきてくれたことへのお礼。心からの、感謝の気持ちよ」
「前半はなんのよ」
「鈍いわねえ。わざわざ私に言わせないでよ」
だってそうでしょう?
「私、紫に泣かされたようなものじゃない。なのに私、何故か怒る気になれないの。そんなの、許せっこないじゃない?」
◆5◆
……ほんと、めんどくさい子ねえ。
紫は思い、けれども言葉に発しない。面倒くささなら、自分が言えた立場ではないからだ。
言葉を発する代わりというように、自然と紫の口元が緩む。しかし、これだけは言っておくことにする。
「許しても許さなくてもいいわよ。私が勝利したという事実は変わらないものね」
「むむむ……仕方がないわね。いいわ、好きなようにこの身を弄ぶといいわ……!」
「貴方の中で私のイメージどうなってるのよ……」
呆れつつも、心の中で息を付いた。仕方ないわね、と。いつも素直になれない自分が悪いのだ。今この時だって、『じゃあ望みどおりにしてあげるわ』などと言えたらどんなに楽だろうか。
……私、貴方のことは嫌いじゃないのよ?
じっとこちらを見つめ、震えながら言葉を待つ天子の姿は中々に愛らしい。どうやら本当に、何かの罰を与えられると思っているらしい。
「……素直になれない子に対して、そんなことをするわけないでしょうに」
「え? なに?」
「いいえ。何でもありません」
小声での呟きを、耳ざとく聞き咎められる。不審そうな目を向けられるが、無視一択だ。
とはいえそろそろ潮時だろう。このまま天子を観察しているのも良いが、それではお店に迷惑というものだ。
「じゃ、そろそろ出ましょうか」
「え、出るって……店を?」
「それ以外に何か?」
「えーと、その」
「あら? このまま解散になるのが寂しいのかしら?」
「そ、そんなんじゃないけど……」
珍しく歯切れの悪い天子を見て、紫は心の中に愉快さが芽生えるのを感じた。
……いけないいけない。優位に立つと、つい弄りたくなってしまうわ。
くつくつと笑って、不安げな天子の顔を見納めることとする。
さて。
「それじゃあ天子、約束通り、私の言うことを一つ聞いてもらいます。いいわね?」
「う、ぐ、わかったわよ。ああもう、どうせ最初から勝ち目はありませんでしたよーだ」
「それじゃあ――」
言葉と同時に、紫は右手を宙へと伸ばす。つ――と境界を開き、スキマの中から数枚の紙片を取り出す。それは、
「まずここを出たら洋風レストラン『ひだまり』で本格フレンチを味わってもらいます。そこは妖怪御用達のレストランだから、私も力を抜けるわ」
「……へ?」
「そうしたら次は和風甘味店ね。名物は仙人が太鼓判を押す抹茶パフェだそうよ。胡散臭いわねえ、地上の店に通う仙人なんて」
「ちょ、ちょっと」
「その次は軽く旧地獄まで行って飲み屋を回りましょうか。安心しなさい、話は通してあるわ。陽が落ちる頃には地上に戻りましょう。夜雀の屋台を予約してあるから、そこで締めたら神社に戻って――」
「だから、あんたは何を言ってんのよ!」
堪えきれず叫びをあげる天子に、紫はいつも通りの表情で応じた。否、そのつもりだった。
「一つ言うことを聞いてもらう、と言ったわよね。だから――だから貴方には、幻想郷食い倒れツアーに参加してもらいます。ほら、これがパンフレットと旅のしおり。言っておくけど、ギブアップはなしよ?」
いつも通りに浮かべたはずの胡乱げな笑みが、しかし浮かんでいないことを、紫は察した。
――ああでも、これは仕方がない。
「返事はどうしたの? はい若しくはイエスで答えて頂戴な」
だって、この日のために用意をしていたのだ。地上のことが大好きな癖に、そのことをおくびにも出さない彼女のために。
「紫、あんた……あんたってやつは……。もしかして最初からここまで考えて?」
「貴方の行動くらいお見通しよ。ふふ、どうかしら。私の掌の上で転がされた気分は」
「――もうっ! どうもこうもないわよ、そんなの――」
天子の表情が、紫の眼の前で変化していく。
呆然と口を開けていたのは一瞬だけ。諦めたかのように表情を崩すと、仕方がなさそうにこちらを見て。
最後に浮かべていたその顔は、きっと今自分が浮かべているものと同じもので。
「はい喜んでって、そう言うしかないじゃない!」
――肯定の返事を聞いた後、自分の表情はどんなものになっていたのだろうか。
そこまで考える余裕ができたのは、たっぷり十秒の後、店中の注目を集めていることを察した時であった。
◆6◆
「……今頃どうしてますかねえ、天子さんと紫さん。そろそろ次のお店に向かう頃でしょうか」
「どうでもいいっての、どうでも」
のんべんだらりと縁側に座りながら、霊夢は早苗に返答する。
何をするでもなくお茶を飲み、飲み会の片付けから目を背ける。部屋の中は死屍累々で、人も妖怪も関係なしに横たわっている。つまりは、いつもの日常だった。
「あいつらも少しは片付けていきなさいっての。っていうか、天子と早苗につられて皆が泊まり出したから、この惨状なんだけどね」
「まあまあ霊夢さん、勢いで朝までなんてよくあることじゃないですかー」
「あーあー、お気楽な天人とその付き添いが羨ましいわねえ」
言って、霊夢は背後を首だけで見る。早苗以外の皆は床に倒れ込み、未だ起き上がる気配はない。
うーんと唸ってみるが、現実は変わらない。姿勢を戻してお茶をすすり、たっぷり一息をついてから、
「……そうね。早苗、私達も行く? 紫が行ったお店とやらに」
「えっデートですか!」
「片付けはこいつらが起き出したら勝手にやるでしょうし。家主の私はそれまで楽させてもらうわ」
「む、無視しないでくださいよー。あれ、でもそういえば――」
はたと早苗が疑問を浮かべ、頬に指を当てて空を仰いだ。
「紫さんが言っていたお店って、たぶん里のはずれにオープンしたとこですよね。洋菓子店ができたなんて話、他に聞きませんし」
「それがどうしたの?」
「いえあそこ、既に半年待ちの予約が必要だったはずですよ? 私、行こうと思ったのに予約必須と言われて泣き寝入りしましたもん」
「……へえ」
早苗の言葉を聞いて、霊夢は昨夜のやり取りを思う。売り言葉に買い言葉で、冷静さも何もあったものではないと記憶しているが、
……なるほどねえ。
「まったく、あいつも素直じゃないわね」
「あいつら、の間違いじゃないですか?」
早苗がニヤリと笑って返す。今のやり取りで、大方の事情を察したらしい。
「早苗、あんたってそういうネタに関しては敏感よね」
「好きですから!」
「っぷ、素直でよろしい。んじゃまあ――」
湯呑に残っていたお茶を一息に飲み干し、背伸びを一つ。気持ちを切り替え、立ち上がって背後に振り返る。
「早苗、あんたとのデートはまた今度ね」
「その心は?」
「とっとと片付けて、こいつらを叩き起こして、また新しく宴会の準備よ。――どうせあいつら、全部が終わったらここに戻って飲み直すつもりよ。だからまあ、今夜も宴会に決定」
「ではお料理のリベンジですね! 山の上から食材取ってきますよ!」
「早めに帰ってきなさいよ」
はしゃぐ早苗と対照的に、霊夢は努めて冷静に対応する。
しかし霊夢は、澄ました己の下面に、苦笑が浮かびつつあるのを理解していた。
……私も早苗のこと笑えないわよねー。
早苗のほうを見てみれば、やはり同種の気配が読み取れた。
こちらと同じ気持ちだと、そういうことらしい。
……ま、そうよね。
恐らくは、自分と早苗だけではなく、皆が同じ気持ちだろうと想像しながら、
「ったく、早く仲良くなりなさいよね。――痴話喧嘩は、いつまでも無くならないんでしょうけど」
>「明日? まあ暇だけど……」
>「それは良かった! ああいえ、その、思った通りね。そうね、偶々偶然運よく幸運にもこの間里に美味しい洋菓子屋があるという情報を手に入れたのよ、ええ」
この会話、天子が誘われてちょっと嬉しいけど暇だって言うのがちょっと悲しいけどみたいな気持ちが伝わってカワイイーウワアアー!ってなる
紫のコーデはもしかして天子とお揃い…?この日を楽しみにしすぎでしょこの人早く素直になるべき。
あとがきも含めて甘々で最高でした。
>土でも粘度でも クレイと掛けて粘土なのかな?的外れだったらすいません。
はい、お互いくっそめんどくさい性格してるゆかてんコンビも独特の距離感を保っている巫女コンビも大変美味しゅうございました。
巫女編がもうちょっと見たかった気もするけど、こっちはメインではないからこれくらいの描写が妥当でしょうか。
なかなか進展しないゆかてんは実際日々観察してあわよくばいじりたい。
ことあるごとに天子が驚く姿が愛らしかったです
読んでいて時間を忘れられました
パンケーキの描写が美味しくて素晴らしかったです!