Coolier - 新生・東方創想話

古き法師 涅槃行

2005/12/04 01:11:48
最終更新
サイズ
8.41KB
ページ数
1
閲覧数
537
評価数
3/34
POINT
1330
Rate
7.74
 寒々と風が吹き渡る。山間にいまだ色づく赤い木々も、荒ぶ風神に撫でられてその枝葉をざわりざわりと震わせていた。
 人に心地よい風ではない、ましてや老体には。
 山を開いて建てられたこの寺にも、冬の厳しさは逃れ様なく訪れる。乾き締まった柱や梁がぴしりと音を立てる傍で、僧たちは囲炉裏を囲んでいることだろう。修行に熱心な者は、この寒さで滝に打たれることもあるが。
 法師はその冷え込みの中、奥庭に悠然とそびえる桜樹を見上げた。
 樹齢、いくばくか――初めて法師がその桜に出会ったとき、あまりの荘厳さに打ち震え口をきけなかった。強く、麗しく、そして妖しく。幹周りや枝の振り、表皮の深さ、花……そんなものは無関係だった。法師を捕らえたのは、あまりにも大きな存在感であった。
 若くして仏門に入った法師は、その頃より都を離れ多くの土地を巡り歩いてきた。歌の達人としても知られ、彼の残した句は帝の手によっても選ばれている。おそらくは百年、千年と語り継がれることだろう。法師は行く先々で様々な人々と出会い、風景に触れ、歌を残した。
 法師の見上げる桜は裸であった。今は睦月の終わりであるからして、つぼみが綻ぶまでにはまだ日を要する――
「法師」
 背後から声をかけられた。
 半身開いて振り向くと、寺の僧がわずかに頭を垂れて控えていた。
「風が荒くございます。お身体に触りますゆえ、どうか暖のそばへ」
「…………」
 法師は無言のまま、もういちど頭上の桜を見上げる。
 名残惜しさに後ろ髪を引かれつつも、法師は目を伏して踵を返した。
「戻るとしよう」
「は」
 桜は寺院よりやや奥まった場所にある。法師にとって、寺院から直にこの花を愛でられないことが何よりの残念であった。
 道すがら、法師はポツリと僧につぶやいた。
「まだ、咲かぬの」
「今しばしのご辛抱かと」
 法師が桜に対して異様な執着を持っていることは、寺の誰もが知っていることである。
 そして老齢の法師が桜花を目にできるのはあと一度きりであろうことも、周知であった。法師自身を含めてである。
 寺の戸という戸は全て閉じられていた。この寒さである、無理もない。
 僧はがたがたと固い戸を引き開け、法師を先に通した。
「むぅっ……」
 戸をくぐったとたん、法師は口元を押さえ背咳き込んだ。肺腑の底が押し付けられるような苦しさと痛みが走る。
「法師――」
 僧はすぐさま戸を閉め、法師の背をゆっくりと撫でた。やがて発作は鎮まり、奉仕は僧に礼を言ってから丁寧に僧の手を払った。
「ご自愛ください。冬の風は毒にございます」
「良い、大儀ない。篭った空気に当てられただけだ」
 法師は健在ぶりを示すように背筋を伸ばすと、僧たちの寄り合う部屋へ向かった。
 寺からやや離れた場所には法師のために建てられた堂があり、本来彼はそこで生活していた。が、数日前からは桜の様子を窺うため、堂よりも近い寺の中で暮らしている。
 ふと、法師は暗がりに人影が走り去る様を見た。ほんのわずかの間でどこかに失せてしまったため、顔までは見なかったが――
「……この寺に童はおったかの」
「童でございますか? いえ……年若の坊主でも十五を数えております。法師もご存知のはずでは」
「そうであったな」
 人影は、童のものに見えた。
 とうとう迎えが来たか。
 僧が何事かと訝りながら法師を先導する。法師は影が消えたあたりに一瞥だけやり、その場を後にした。


 数日後、法師は床の中にいた。
 容態が急激に悪化し、立つこともままならなくなっていたのである。
 布団を厚く重ね、控える僧が手ぬぐいを法師の額にあてがう。
「……私も、もはやこれまでよな。二度と法衣に袖を通すことはあるまい」
「お戯れを……」
 僧は反駁したものの、心底では同じ思いだろう。
 法師は枕元の僧に横目をくれ、
「もう筆を取ることもかなわぬ。これより、歌を詠むときはおぬしが代わってしたためてほしい」
「……あい承知仕りました」
 僧は一礼を残すと、おもむろに床を離れていずこかへと去っていった。筆硯を取りに向かったのだろう。
 法師は深い嘆息を吐いた。せめて辞世の句は自らの手で残したいと思っていたが、若い頃に考えていた以上に長く現世に留まりすぎた。
 死に時を見誤ったか? 花に――いや花に限らず――何事かに人並みはずれた執着を持つようでは仏門の者とは呼べない。
「後ろ向きなお坊さんね?」
 聞きなれぬ声が聞こえた。先ほどまで僧が座していたあたりからである。
 法師はくつくつと笑いをこぼしながら声の主に背を向けた。
「何奴か。よもや人界の者ではあるまい」
「名は紫。妖怪だけど……なんでこっちを向こうとしないのかしら。失礼なおじいさんね」
「冥府魔道に当てる目など持たぬ。中道を志す仏法者が妖怪変化に取り憑かれたとあっては、世に聞こえし我が音も立つ瀬がないわ」
 法師は楽しげに笑いながら答える。
 心得てはいたが、こうも堂々と妖怪が会いに来るとは思いの外であった。
 紫と名乗った妖怪は、法師の突き放した態度など一顧だにしないようで、それこそ童のような気軽さで話を続けてきた。
「誤解しないでほしいのだけれど、別にあなたの命をもらいに来たわけじゃないわ」
「冥府の案内人ではないのか?」
「そういう仕事の人たちもいるけどね、私は別件。あなたがあまりにも桜に固執するものだから、あの桜が私を呼んだのよ」
「あの桜……?」
 法師は目を細めて身じろぎした。どの桜かは考えるまでもない。もはや慣れたもので、わずかばかり脳裏に描くだけで枝の一端にいたるまで鮮明に思い出せる。
「あの桜がおぬしを呼んだのか」
「せめて自分の下で眠らせてあげたいそうよ。どうかしら? 私はこれでも幻想郷という大結界を預かる身。あなたのような罰当たりなお坊さんでも快く迎え入れる用意はあるわ」
「ふん」
 法師は鼻で一笑した。確かに拒みがたい誘いではある。あるが、
「帰れ。判じはいずれ返そう」
「……音に聞こえし法師様でも、迷うことはあるのね。いいわ、あなたが死んでしまう前に、もう一度答えを聞きに来てあげる」
 かすかに風の匂いが立ったかと思うと、もう声は聞こえなくなった。
 法師はそれを確認してから、横向きだった身体を正して天井を見上げる。
 しばしして、僧が箱を提げながら襖を開けて戻ってきた。
「……? 法師、何事かございましたか?」
「ふん、死出が近づきよる。いや、詮無きことか……無用だ、忘れろ」
 僧も仏の教えに従う者。妖怪の残り香を敏感に嗅ぎ取ったのだろう。
 死出という言葉に、僧はわずかに身を固くして動きを止めた。しかし沈痛な面持ちで顔を伏したまま墨を磨り始めただけで、それきり何も訊ねなかった。


 如月も半ばに差し掛かった頃。
 法師は夢うつつに桜の木を眺めていた。ついぞ目にすることのないような極上の桜である。
 胴の力強さの何たることか。枝の一本にいたるまで繊細至極に整えられ、花の咲き乱れようはまさしく浄土の仏、菩薩が生み出したとしか思えぬ境地にある。いやそんなものは関係ない。この一本の樹に宿る比類なき威光、美などという言葉では表しえぬ荘厳さ。外見など何の意味もないのだ、必要なものは、すべてこの樹の内側にある。
 一陣の風が吹き、たなびく枝から薄桃色の花びらが吹雪もかくやといわんばかりに舞い翻る。
 この美しさ、なんと言い表すべきであろう。
 この世におわすあらゆる理、一切衆生はいつかは滅びる無常の世である。桜の美しさは、その散り様にこそ発露している。
 そしてまた時を経、再び咲き、誇り、散るのだ――
 ――気がつくと木目を見ていた。板である。いや、天井と梁であった。
 どうやら眠ったまま桜の夢を見ていたらしい。
 法師は微かに笑いながら僧を呼んだ。隣室で経典の写本をしていた僧は作業を中断し、すぐさま法師のそばへ参じる。
「何用でございましょう」
「歌を詠む、用意せい」
 僧はすぐさま、それまで用いていた筆と硯を床の脇へと運び、筆を整え色紙を取った。
 法師は一息吐いて、見えぬ桜のほうへと目を向けた。もはや一度として見ることはなかったが、今頃は天を覆わんばかりの花を咲かせていることだろう。
「叶うなら……あの桜の下で死にたいものだ。釈迦が入滅なされた頃に……」
 そのとき、法師は不思議な光景を目にした。
 閉ざされているはずの襖がひとりでにすっと開き、そのすぐ奥に焦がれていた桜の大樹が置かれている。
 そしてその根元には、今まで声しか聞かなかった妖怪の姿があった。
 その姿に法師は口元を緩める。愛らしい娘ではないか。そしてなんとすばらしい桜であることよ。
「いい歌ね。後世まで語り継がれることでしょう」
 ――違えんでもらいたいものだな。
「何を?」
 ――私は確かにその桜の下で死ぬことを望む。だがそれは執着による怨念ではない。仮にも法師と呼ばれた人間がそんな死に様を晒すことだけは許されぬ。よいか、私は一切衆生を救うべく仏門に入った。桜の下に死ぬことは、かの花が寂静の境地にいたる秀でた助けとなるからだ。
「詭弁ね。他人にしてみれば同じことよ」
 全くだ。
 法師は微笑で妖怪と桜を眺め、静かな心地のまま経典そらんじた。
 視界が霞んでゆく。死の手に掴まれたか……
 枕に頭を置いた姿勢で、そこから身動きも取れない。手足には力が入らず、彼に出来るのは、そう、ただ見つめることだけだった。
 法師は最後に、妖怪の少女に向かって口を開いた。
「私の屍には、桜の花だけを供えてくれればいい……もしも私を弔う気があるならば、な……」
「法師……?」
 僧が不安げな声を漏らした。
 だが法師はもう構わない。満足げに瞼を閉じると、見事な桜を胸のうちに描いたまま、ひっそりと眠りについた。
 そして二度とその目を開くことはなかった。


 その日、満開に咲き誇っていた寺の桜は、夜までかけて不自然な速さでその花を落としていったという。
 法師の遺骸は寺の一角に厳粛に弔われたが、葬儀の際、参列した者の中に一人の少女が紛れていたらしい。
 以来、この寺には法師の死を偲んで墓を訪れる者が後を絶たない。


「散り様をして華やかし……本人がなんと言おうと、やはりあの思いは怨念ね。西行妖は、私が切れるものではないわ……やれやれ、あの化け物は一体誰が退治するのかしら?」
 どうも。はじめまして……になるのでしょうか? たぶん。
 西行法師と呼ばれる人物が妖妖夢のストーリーに深く影響を与えているというのは結構有名な話のようですね。
 筆者はこの前(いやかなり前)テレビで「西行が最後まで桜を愛した~」とかやっていたので偶然知りました。
 どうでもいいのですけれど、風邪引いて大変です。昨晩は苦しくて、吐いて落ち着くまで眠れませんでした……突然汚い話題ですみません。皆様もお気をつけください。
 それではお読みいただきありがとうございました。
腐りジャム
簡易評価

点数のボタンをクリックしコメントなしで評価します。

コメント



0.1130簡易評価
16.60aki削除
おお、珍しい。西行妖誕生秘話ですな。
法師も、紫も、『らしさ』が出ていて良かったと思います。
こういう設定の上でほとんど語られない話を想像(創造?)するのも一つの面白さですね。
25.80名無削除
ふむ、これはなかなかの筆致。
しかし、前半付近で改行があまりなされていないせいか、
多少読み辛く感じましたね。そこが残念。
28.60復路鵜削除
なるほど、と思えるようなお話でした。西行妖が西行妖になる前のお話はあまり見たことが無かったので新鮮な感じがします。
改行部分で読みにくさというものはありましたが、それが気にならないほど雰囲気が出ている物かと思いました。