注:このお話は、作品集22にある「永琳先生のはちみつ診療」の続編(?)になっております。そちらを未読の方は、まずそちらに目を通してからだと、中身が多少、わかりやすくなるかと思われます。アレとかコレとか。
ここは、幻想郷の、どこにあるともしれない竹林の奥深くにある、一軒の屋敷。そこの名前は永遠亭。
ちょっと前までは、ここには永遠に生きることを運命づけられた人々と、うさぎ達しか住んではいなかった。しかし、ここ最近は、ちょっと事情が変わっている。
「お疲れ様でした。お大事に」
ぺこりと頭を下げる、うさみみナース少女――鈴仙・優曇華院・イナバ。彼女に見送られる形で、一人の妖怪が「ありがとうございました」とお礼を言ってその場を去っていく。
彼女はそれを見送ってから、ふぅ、と息をつく。
「大繁盛だね」
後ろからかかる声にひょいと振り返れば、小柄なうさみみ少女――因幡てゐが立っていた。彼女は、やれやれとため息をつくと、
「……こんな格好じゃなければ」
「……師匠の趣味だから」
「趣味なの!? やっぱり趣味なの!?」
鈴仙の言葉に声を荒げるてゐ。しかし、鈴仙からの答えはなかった。
――しばらく前から、この屋敷に住まう、一人の人間で『みんなのお母さん』といった感じの女性、八意永琳によって開業した『八意永琳医療相談所』。永遠亭の一角を医療施設に、ある意味では改築されて始められたこの仕事――というのもおかしいが、それ以外には、特にちょうどいい言葉も見あたらない――は、連日、それなりににぎわっていた。と言っても、一日に来る患者など、多くても数人。幻想郷に住まうのは、人間と、それ以外の生き物たち。人間は、一部のものを除いて、この竹林に足を踏み入れるものはいないので除外され、後者は、そう簡単に病気などになったりはしない、頑強な体の持ち主ばかりだ。
それに、
「まぁ、ねぇ。っていうか、大繁盛、っていうのも微妙」
「どうして?」
「だって、昔から、医者と軍人と葬儀屋は、閑古鳥が鳴いていた方がいいから」
なるほど、とてゐは手を打つ。
しかし、
「でも、ほら。先立つものは必要じゃない。
このお仕事が繁盛してくれれば、私も――」
そこで言葉を区切る彼女。
何やら不吉なものを感じる鈴仙だが、その内容を聞くと、よけいに不幸になりそうな気がするので黙っていた。
そんな折り。
「いやぁぁぁぁぁっ! もういやぁぁぁぁぁっ!」
何やら、屋敷の奥から悲鳴が響いてきた。
何事かと、鈴仙とてゐが振り返る。と、同時に、一人の女妖怪が泣きながら全力疾走で二人の横を駆け抜けていった。
「……あ、お金」
「いや、そうじゃないでしょ」
走り抜けていった人物は、そのまま竹林の奥深くへと姿を消す。その後ろ姿を見送ってから、ぽつりとつぶやくてゐにツッコミを入れた後、鈴仙は屋敷の奥へと足を運ぶ。長い長い板張りの廊下を進んで、中庭に面したところにある障子を開く。
「師匠」
「あら、ウドンゲ。どうしたの?」
その部屋では、部屋の主であり、医療相談所の所長、八意永琳が、机に向かって何やらペンを走らせていた。見る限りでは、カルテを書いているようにも見える。
「一体、何を言ったんですか?」
先に駆け抜けていった人物には、見覚えがある。
八雲紫。
この幻想郷では、トップクラス――というか、実質トップなんじゃないかと、鈴仙は思っている――の力を持った、ぐーたらスキマ妖怪だ。彼女が、どう考えても無縁である医療相談所を訪れると言うこと自体を、まずは疑問に思ったのだが、まぁ、長く生きていれば、体にがたがくることもあるのだろうと、鈴仙は判断して、彼女を永琳の元へ案内している。
それが、つい、二十分ほど前のことだ。
「別に、何も言ってないけれど?」
「嘘を言わないでください。紫さん、妙に狼狽してましたし」
「ああ……。
ほら、紫さん、寝坊でしょう?」
「寝坊と言うより、あれは一種の病気なんじゃないかと思いますけどね」
彼女は苦笑して、
「それとこれとは話が別ですよ?」
「いいえ、そうじゃないの。
彼女、『最近、妙に眠たくて。起きているのが辛いのよ』って相談に来たのよ」
八雲紫と言えば、幻想郷では知らないものがいないスキマ妖怪であると同時に、寝坊常習王でもある。寝坊大帝ユカリンガーとでも命名しようか。よくわからないが。
彼女、年がら年中、寝ているらしいのだ。どういう経緯があって、彼女は眠りにつかなくてはいけないのかはわからないのだが、彼女の式が「あの方の寝ぼけ癖にも困ったものだ」と頭を悩ませていたのを覚えている。
「だからね、それに関連した病気を色々と上げてみたのよ。中には、眠ったまま死に至る病もあるでしょう?」
「……なるほど」
それで、徹底的に紫を脅したと言うことか。目の前の人に、それに関する自覚はないだろうが。
もしかしたら、自分がそんな致死性の病を煩っていると、もしも思ってしまえば、生き物などもろいものだ。あの、怖いものなどどこにもない傍若無人の大妖怪も、自分にわからない未知の病を前にしたら、恐れることしかできなかった。結局、永琳の話を最後まで聞くのを拒否して逃げ出した。そんなところか。
「……どうするんですか? 彼女、怖がって、二度とここに近寄らなくなるかもしれませんよ?」
「病気を治す知識が、あの人にあれば、それもいいでしょうけど。
でも、もしも本当に、そう言う病気だったら、いずれ、いやでも私を頼ることになるわね」
ああ、もう。
この人に、まともに話を通そうとしても無駄だ、と鈴仙は悟った。と言うか、頭の回転の速度が違うのだ。鈴仙の考えていることと、永琳の考えていることは、そもそも次元が違う。だから、彼女の浅薄な考えなど、天才様の深謀遠慮ぶりには、到底及ばないのである。
「ねぇ、それよりも。
これ、かわいいと思わない?」
そう言って、永琳が差し出したのは、自分がお尻に敷いているクッションである。
もしかしたら、致命的な病気にかかっているかもしれない患者を『それよりも』と切って捨てる辺り、さすがは私のお師匠様、などと思いつつ、
「何ですか? それ」
それは、何かの生き物をデフォルメしたもののようだった。
ピンク色で、ころころと丸い形状をしている。一見すると、魚にも見えるが、あんな魚がこの世界にいるのだろうか。
「先日ね、霖之助さんから『病気を治してくれたお礼です』って贈られたのよ」
「ああ、あの変……じゃなくて、お店のご主人の」
少し前のことを思い出して、鈴仙は、嫌なものを振り払うように首を左右に振った。
――あれから、大変だったのだ。
霖之助という青年がかかっていた病は、永琳によって『情熱爆走病』というわけのわからん名前が付けられた。一日に数回、彼は発作を起こし、奇声を発して暴れ出し、看護に当たっているウサギは泣くわ、子供の兎たちはトラウマ抱えて部屋に駆け込むわ、てゐがキレて弾幕ぶちまけるわと、永遠亭が大騒ぎになったことがあった。
今は、彼も、そんな奇妙な病気を克服して、ごく普通の青年として日々を送っていると聞く。実際はどうだか知らないが。と言うか先日、『ふんどし姿の怪物が出た』とどこぞの人間の里で話題になっていたと、とある知り合いの半人半獣から聞いたような気もするが、それは記憶の海に沈めておくことにして。
「それ、何ですか?」
「まんぼう、っていうらしいわよ」
「まんぼう、ですか」
「そうなの。かわいいわよね。それにね、この子、何だか他人とは思えないの。そう……遠い昔に、縁の繋がりを受けたような……そんな気がするの」
「……いや、あなた、魚がご先祖様って……」
ぼそりとツッコミ入れる鈴仙。
ともあれ、永琳は、そのまんぼうクッションをお尻に敷くと、
「お客さんは来てる?」
「今のところは静かです。と言うか、てゐにも言いましたけど、軍人と葬儀屋、そして医者は、閑古鳥が鳴いているくらいがちょうどいいです」
「そうね。
ああ、でも、もっとお客さんに来て欲しいわね。そうしたら、ウドンゲのかわいい姿、見てもらえるのに」
「……わざわざ特注してくれてありがとうございます」
彼女だけではなく、永遠亭で暮らす兎たちの中で、積極的に永琳の手伝いをしたいと申し出てきた兎たちには、永琳が、どこかから手に入れてきた看護士の衣装を着せている。白衣の天使さんが、永遠亭の中を、そりゃーもう大勢うろついているのだ。そして、彼女たちは『ウサギ』である。当然、服を身につける上で、耳やらしっぽやらが邪魔になる。そこで、その部分の生地をカットした衣装を、永琳はわざわざ特注したのである。
……霖之助に。
「似合ってるわよ?」
「……はい」
「その帽子も、私のものに似せて作ってみたの。いい感じね」
「あはは……」
本気で嬉しいらしく、永琳はにこにこと笑っている。自分が尊敬する人に、こんな顔をされて、それを真っ向から否定することなど出来ようか、いや、出来ない。
反語で自分の意思を否定した後、鈴仙はため息を一つついて、
「ああ、それじゃ、私は受付に戻ります」
「ええ、よろしくね」
一礼して障子を閉め、玄関へと戻る。玄関の所では、てゐが退屈そうに、椅子に座って足をぷらぷらとさせていた。
彼女に「あとは私がやるから」と言って、場所を変わる。
そうして――待つこと、しばし。
「そろそろお昼ご飯かなぁ」
ぐぅ~、とお腹の虫が鳴いた。
――と、
「すいません!」
血相を変えて駆け込んできた少女が一人。
「あら、アリスさん」
先日、この医療相談所を訪れた、アリス・マーガトロイドが、大慌てで永遠亭の扉を開いた。立ち上がり、彼女の元へと足を運ぶ。
「どうかなさいましたか?」
「あ、いえ、私じゃなくて……」
と、彼女は、
「……こっちが」
自分が背中に背負っている少女を視線で示す。
「魔理沙さん?」
妙に元気のない顔で、「よう」と片手を上げる、霧雨魔理沙。普段の、他人(の都合)に関して我関せず、ゴーイングマイウェイな彼女を知っている鈴仙からしてみれば、今の彼女の様子は、おかしかった。彼女の回りを、心配そうに、数体の人形が飛び回っている。
「どうかなさったんですか?」
「は、はい。あの、ついさっきのことなんですけど、私の家でお茶会……をしていたところ、いきなり魔理沙が倒れて……」
「私は平気だって言ったのに、アリスが無理矢理……」
「どこが平気なのよ!」
彼女は魔理沙をしかりつけ、背中から床へと降ろす。鈴仙がそのそばに膝をついて、軽く様子を観察。掌を、魔理沙のおでこへ。
「熱いですね。風邪かな?」
「バカでも風邪引くんですね」
「誰がバカだ」
ツッコミにも覇気がない。
だるそうにため息をつく魔理沙。その様子を、心配そうに見つめるアリス。鈴仙は、よいしょ、と立ち上がった。
「じゃあ、奥へどうぞ。
……けど、人間の、ちゃんとした患者って初めてきたかな」
「鈴仙さまー。お客さんー?」
廊下の奥から、片手ににんじんジュースの入ったグラスを持って、てゐがやってくる。鈴仙の分はないらしい。
それをぐいっと一口してから、
「あ、性格の悪い魔女」
「……お前にだけは言われたくないぜ。性悪ウサギ……」
「ふーん。
鈴仙さま、こいつ、どうしたの?」
「こら。患者に向かって、『こいつ』はないでしょ。多分、風邪よ」
『めっ』とてゐをしかりつける。
「へぇ、そうなんだ」
鈴仙はてゐから視線を外し、後ろの魔理沙達を振り返る。立てますか? と問いかけると、アリスがわざわざ、魔理沙に肩を貸して立ち上がらせた。
その直後、
「とりゃー」
「きゃあっ!?」
いきなり、てゐが後ろから、鈴仙の、ただでさえ短いスカートをまくり上げる。
「なっ、なななな何をするのっ!」
「だって、これで治った人もいたじゃない。主に男だけど?」
「彼女たちは女でしょうが!」
「いいじゃん。鈴仙さまのしましまは神器だ、って永琳さまも認めてたし」
「いいからあっち行ってなさい!」
けらけらと笑いながら、てゐがすたこらさっさと逃げ出していく。顔を真っ赤に染めた鈴仙が、ちらりと二人の方を見ると、
「……ローレグ……」
「……患者を挑発したいのか?」
「……ほっといてちょうだい……」
うるうると涙を流しながら、鈴仙は肩を落として、二人を案内していく。
先ほど通った廊下を、再度渡り、永琳の部屋の障子を開く。
「師匠、患者さんです」
「はい?」
振り返る永琳。
「あら、魔理沙さん」
「……どーも」
「元気がないわね」
「風邪を引いているみたいです」
鈴仙がそういって、障子を閉めて去っていく。魔理沙は、アリスに介添えを受けながら、置かれた座布団の上に腰を下ろした。はぁ~、とため息をついたりする。相当、調子が悪そうだ。
「どれどれ?」
永琳は彼女に近寄って、まずはおでこに手を当てる。
「ふぅむ。熱は三十八度か……三十九くらいかしら」
「わかるんですか?」
「大体ね」
横で、驚いたように目を丸くするアリスに答える。
「はい、ちょっと口を開けてー」
口を開ける魔理沙。そこを覗き込んで、「喉も赤い」などとつぶやきながら、カルテにかりかりと文字を書き連ねていく。
「いつ頃から、その症状が出始めたのかしら?」
「……三日前くらい……かな? ちょっと、外できのこ集めをしていたら雨に降られて……。ついてないぜ……」
「なるほど。それが原因かしら。魔法の森は湿気が多くてじめじめしてるから、風邪のウイルスなんかは、生存するに適応する環境じゃないと思ったんだけど、意外にそうでもないのね」
などと言いながら、聴診器を取る。
「すいませんけれど、アリスさん。後ろを向くか、外に出ていただけます? 患者のプライバシーは守らないといけないから」
「あ、すいません」
頭を下げて、アリスは視線をあさっての方向に向けた。人形たちも、彼女に倣ってくるりと後ろを向いて、目を手で覆う。
「はい、胸を出して」
「ん……」
もぞもぞと、言われる通りに服の前をはだける。衣擦れの音が、静かな空間にはよく響く。
「……魔理沙の裸……魔理沙の裸……。ダメよ……アリス……。今、ここで振り返るのは、鬼畜に堕ちることと同じっ……」
何か妙なつぶやきが聞こえたりもするが、とりあえず無視する。
聴診器を、ぺたぺたと魔理沙の胸に当てて、
「はい、息を吸ってー」
呼吸の確認。
「別に、肺とかがやられているわけではなさそうね」
「……それは何よりだぜ……」
「はい、しまっていいわ。アリスさんも、こっち向いて」
彼女が服を直したのを確認してから、永琳は、後ろを向いたままのアリスに声をかける。続けて、魔理沙の喉を指先で押しながら、
「扁桃腺でもない。ただの風邪ね」
「……そっか」
「薬を飲んで、ゆっくりと休むこと。何なら、一日くらい、入院していく? あなた達は一人暮らしだから、体がだるいと、辛いでしょう? 入院費は無料だから、どうする?」
永琳は、別に見返りを期待して医療相談所を開いているわけではない。『幻想郷の皆様のお役に立つ』がコンセプトなのだ。それについてはてゐが『えー?』と不満を漏らしていたが。
魔理沙は顔をしかめると、
「……そうだな。こんなんじゃ、まともに生活できそうにないし。
悪いけれど、好意に甘えるぜ」
「そう。それじゃ、えーっと……」
ごそごそと、薬棚を探る。しかし、お目当てのものが見つからなかったのか、彼女は鈴仙を呼びつけ、薬を持ってくるよう、言いつけた。
しばらくして、鈴仙が、言われたものを持って現れる。
「はい」
無色透明の、コップに入った一杯の水。恐らく、薬が溶かしてあるのだろう。それを一口して、魔理沙が顔をしかめた。
「うぇ……」
「良薬口に苦し、よ。
あとそれから、解熱用に、座薬でも刺しておきましょうか」
「……げっ」
「すぐに楽になるわ。今夜とは言わず、昼頃には熱も下がるし、体の具合も改善されると思う。
それじゃ、悪いのだけど……」
片手に、座薬を持って。永琳がにっこりと笑いかける。
魔理沙は、わずかに身を引きながら、しかし、観念したとばかりにため息を一つ。……だが、
「あの~……先生?」
「はい。アリスさん」
「……それ、私がやってもいいですか?」
「あら、どうぞ。別段、こんなもの、誰がやっても同じだし」
「って、ちょっと待て!」
「うふ……ふふふっ……。さあ、魔理沙……下着を脱いで……」
「お、おい! 待て! 何か目の色変わってるぞ、アリス!」
「大丈夫。これは、やましいことは何にもないの。治療なのよ、魔理沙! 愛の治療!」
「どこが愛だ、ハァハァ言いながら治療なんてされたくないぜ!」
すがるような目を、永琳に向けてくる。
だが、永琳は、
「あ、ご、ごめんなさいね。それじゃ、先生は……」
などと、何を誤解したのか、立ち去ろうとする。
「待てーっ!」
「さあ、魔理沙! 観念しなさぁぁぁぁぁいっ!」
「きゃーっ! いやーっ!」
さすがに、この状況では、やっぱり魔理沙も女の子。悲鳴が黄色かった。
アリスに押し倒され、熱で冒された体はまともに動かすことも出来ず、下着に手がかかる。だが、その瞬間、
「ほい」
「はうっ」
「あうっ」
ぷす、と永琳が二人の首筋に注射を一発。
中身をちゅ~っと注入すると、そろって仲良く、彼女たちはその場に倒れて気を失った。
「これでよし」
一体何を注射したのか。
あんまり詮索したくない。
「ウドンゲ、この二人を奥の部屋に連れて行ってあげて。あと、兎たちの中から、適当に、彼女たちの看病をする子を見繕って用意してね」
「……はい」
一部始終は聞いていたのか、すぐさま、障子を開けて現れた鈴仙は、部屋の惨状を見て顔を引きつらせる。
「……師匠。わざとですね?」
「え~? 永琳、わかんな~い」
「ごまかしてもダメです。新薬の試し打ちに患者を使わないでくださいと、あれほど……」
「ふふっ、大丈夫よ。ちゃんと、効くんだから」
やれやれ、と。
鈴仙はこめかみ押さえて、何度か首を左右に振ると、倒れた二人を軽々と担いで退場した。騒ぎが収まり、静かになった室内で、ん~、と永琳は伸びをする。
「いいことをした後は気持ちがいいわね」
絶対違うのだが。
何かを勘違いしている天才医者は、「誰か、お昼ご飯を持ってきて」と声を上げたのだった。
そんなこんなで、今日も一日、八意永琳医療相談所は大盛況だった。今日の患者は七人。稼ぎは、お金だったりものだったりと色々だが、少なくとも、永遠亭の財源を潤す役には立つだろう。
今夜の晩ご飯には、何を作ろうかしら。
一日の診療を終えて、よいしょ、と立ち上がった永琳は、にこにこ笑顔で部屋を後にしようとする。だが、
「永琳さま、永琳さま、永琳さまーっ!」
一人のウサギが、血相を変えて飛び込んできた。
彼女は、大きく、肩を上下させながら、
「たっ、大変ですっ!」
顔を真っ青にして、叫んだ。
「どうしたの?」
様子が、尋常ではない。
きっと何かあったのだろう。永遠亭では大勢のもの達が暮らしているから、日常的な諍いはしょっちゅうだが、これはちょっと毛色が違う。いつものように、『兎たちのケンカを止めてください』というわけではなさそうだ。
「い、因幡が一人、さ、産気づいて……!」
「……何ですって?」
わずかに表情を変える。
「いつ?」
「つ、つい……さっきです。今から、十分も……過ぎてません。
とにかく、ものすごく苦しそうなんです。今すぐにでも産まれそうな感じで……」
「わかったわ。すぐに案内して。
あと、ウドンゲは、このことは?」
「知ってます。産湯などは用意しておく、と……」
「さすがね」
さすがは我が愛弟子。言わずとも、やることはやっておいてくれているようだ。
満足そうにうなずいてから、駆け込んできたウサギと一緒に廊下を走っていく。事が出産に関わることなら、のんびりはしていられない。
「あそこです」
指を指すまでもなく、それはわかった。廊下の所に、兎たちが大勢集まって、心配そうに部屋の中を覗き込んでいるのだ。その中には、永遠亭の主、蓬莱山輝夜の姿もあった。
「みんな、どいて!」
「ああ、永琳。……大丈夫なのね?」
「何度も、同じ事をやってます。大丈夫ですよ」
にこっと笑いかけて、彼女は部屋の中へ。
――ウサギというのは、年がら年中、発情期にあると言う。弱い生き物だから、大勢の仲間を作っておかなくては、この世からいなくなってしまう。そう言う存在であるから、生きるための、自分の血を将来に残しておくための、生き物としての智恵なのだろう。そうであるから、永遠亭では、こういう事も日常茶飯事だ。そしてその中で、医者として、知識と技術を持つ永琳が、出産に立ち会うのは、半ば当然の事とも言える。
伊達に、お医者さんをやってないのだ。
「ウドンゲ、彼女の様子は?」
「血圧、脈拍、全て正常値です」
「よろしい。
姫、障子を閉めてください。てゐ、あなたは、兎たちを落ち着かせて」
「ええ」
「は……はい」
泰然とうなずく輝夜とは正反対に、てゐはうろたえているようだった。伊達に長年生きている妖怪ウサギではないというのに、やっぱり、自分にそう言う経験がないから、出産という一大事に立ち会うのは、どうしても慣れないらしい。
「さあ、もう大丈夫よ。私が来たからね」
苦しそうに呻くウサギの手を取って、優しくささやく。こういう時は、まず、母親の気を落ち着かせることが必要だからである。
「産湯の用意は……出来ているようね」
「もう、何度目でしょうね」
鈴仙は苦笑した後、顔を引き締める。
「では」
「ええ」
さて、と気を取り直して、出産の準備の開始である。
布団に寝かされ、陣痛に苦しむ彼女を鈴仙が落ち着かせながら、永琳が用意を始める。布団をまくり、下半身の所に分厚いタオルを何枚も用意して、着物をはだける。
「下着を脱がせるわ。いいわね?」
首を縦に振るウサギ。
彼女の下着を取り払い、様子を確認。
「……何か様子がおかしいわね?」
「師匠?」
「ウドンゲ、ちょっと」
耳を貸しなさい、と声をかける。
鈴仙は、首をかしげながらも、永琳に顔を近づける。
「何か様子がおかしいわ。大事になるかもしれないから、覚悟していて」
「……はい」
神妙な顔つきで、鈴仙はうなずいた。
苦しみながらも「どうしたんですか?」と訊ねてくるウサギには、「何でもない」と笑顔を作る。こういう時、わざわざ患者を不安にさせるようなことは言う必要はないからだ。
鈴仙は自分の位置を元に戻すと、
「それじゃ、始めるよ。
はい、私にあわせて、息を吸って、吐いて」
何度も何度も、永琳と一緒にお産に付き合っているだけはある。それに必要なことも、しっかりと、彼女は心得ていた。その、若い姿とは裏腹に、成熟し、老成した知識と経験を得ていることの表れである。
そんな彼女を頼もしく思いながら、永琳は、介添えのために服の袖をめくった。
「はい、息んで」
「く~~~~~っ!」
顔を真っ赤にして、彼女は、苦痛に顔をゆがめながら。ぐっと体に力を入れた。
一番辛い瞬間だとは、誰もがわかっている。鈴仙は「頑張って」と必死に声をかけながら、彼女の手をぐっと握りしめる。
「破水、確認」
膣口から大量の羊水があふれ出る。さすがの永琳も、何度、経験しても、この時は緊張する。過去、自分のミスで、赤ん坊を殺してしまったこともあるのだから。いかな天才とはいえ、ミスはする。しかし、医者にとってのミスというのは、世間一般に言う『ミス』などとは比べものにならないくらい致命的なミスだ。
彼女は、その両手に、人の命を握っている。
「力を弱めて、息を整えて」
「はぁ……はぁ……!」
「苦しいけど、頑張って。あなたが頑張らないと、赤ちゃんも出てこられないのよ。
大丈夫。私と師匠がいるからね」
声をかけ、勇気づけ、元気づけながら。
鈴仙は、額を流れる汗をぬぐう。
お産というのには、時間がかかる。
「はい!」
――何度目になるか。
苦しみながらも頑張る母親を、必死にサポートしながら、時間が過ぎていく。
だが、いつになっても、赤ん坊の姿が見えてこない。おぎゃあの声も聞こえない。永琳の表情が変わった。
「……まずいわね」
一旦、待って、と声を上げて、彼女は白衣のポケットから医療器具を取り出し、それを、ウサギの膣口に差し込む。
「ちょっと苦しいけど、我慢してね」
それでぐっと入り口を広げ、中を見る。そして、最悪の状況に、彼女は息を飲んだ。
「……」
「師匠……?」
「……仕方ない。
聞いて。今、確認したんだけど、子宮口が開ききってないの。と言うよりも、全然、開いていないと言っていい」
「ええっ!?」
「……そんな……!」
「すぐに帝王切開に入るわ。ウドンゲ、無菌シートと、医療器具一式!」
「そんな……あの……!」
「事は一刻を争うのよ! 早くしなさい! 麻酔も忘れずに!」
「は、はいっ!」
永琳に一喝され、鈴仙が立ち上がる。彼女が障子を開くと、その向こうで、兎たちが、不安そうな顔をしていた。
「イナバ、どうしたの?」
今、響いた永琳の声を聞いたのだろう。輝夜すら、顔を不安に揺らしながら訊ねてきた。
「……これから、帝王切開に入るそうです」
「……帝王……何それ?」
「簡単に言うと、開腹手術です。子宮口が開いていなくて、赤ん坊が産道を通れないんです。だから、お腹を切り開いて、赤ん坊を取り出します」
「それって、どういうこと!? 鈴仙さま!」
「お姉ちゃん、死んじゃうの!?」
「やだぁー! お姉ちゃん、死んじゃうの、やだーっ!」
てゐの一言をきっかけに、幼い兎たちが泣き出した。彼女たちからしてみれば、『手術』という未知の領域には、意識が追いついていかないのだろう。悲惨な現実を想像してしまったのだ。それを、慌てて、年上の兎たちがなだめる。医学の知識のあるもの達は、「違うのよ」と必死に子供達をなだめすかした。
「ともかく、私はメスなどを取りに行ってきます」
「待ちなさい、イナバ! もっと説明を……!」
「赤ん坊もろとも、母親が死にますよ!」
それは、現実の話なのだが。
その一言がきっかけで、さらに子供達が泣きわめく。あまりのうるささに、永琳が部屋から顔を出し「うるさい」と怒鳴った。彼女も、予想してない事態に気が立っているのだ。
「……」
永琳に怒鳴られ、ますます、場が収拾がつかないものになっていく。
「因幡、この子達を別室へ」
「でも……」
「いいから。ここでこうしていては、永琳の邪魔になるわ。
あなた達も、子供達を」
「……はい」
「それから、医療の知識がある人は、永琳の手伝いをしてあげて」
言うなり、輝夜はふわりと飛び上がる。
すでに、空は日が落ち始めている。
「姫様、どこへ!?」
「保険!」
声を上げるてゐに一言、叫ぶように言うと、彼女はそのまま、空の彼方に向かって飛んでいってしまった。どうしよう、とてゐがその場でおたおたしていると、鈴仙が戻ってくる。彼女の手には、大きな無菌シートと一緒に、様々な、銀色に輝く医療道具が並んだトレイがあった。それを見て、子供達は、ますますパニックを起こしていく。
「……鈴仙さま……」
「大丈夫。師匠の腕を信じて」
「鈴仙さま、私たちもお手伝いします」
「ありがとう。じゃあ、用意をして、ここに」
三人のウサギが首を縦に振り、そこを去った。残されたもの達は、泣きじゃくる子供を連れて、その場を後にする。「死なないで」「死んじゃいやだ」という声が響いて、そして消えていく。一人、その場に残されたてゐは、ぎゅっと唇をかみしめる。
そんなてゐに、「大丈夫」ともう一言、声をかけて、鈴仙は室内へ。
「麻酔を」
「ええ」
「……永琳さま……」
「大丈夫。必ず、私が、あなたと子供を対面させてあげる」
「……はい」
「苦しいけど……辛いけど……頑張って。あなたが頑張らないと、子供も死んじゃうんだからね」
「……はいっ」
「永琳さま、お手伝いします」
障子が開き、先の兎たちが入ってくる。
鈴仙が、部屋に無菌シートを張り巡らせていく。永琳は、鈴仙から渡された服装に着替えてから、
「麻酔」
受け取った注射針を、布団の上で、不安と恐怖に怯えているウサギの肌に突き刺す。
「次に目を開けたら、隣に赤ちゃんがいるからね」
こくりとうなずいた彼女は、そのまま、静かになった。
「下半身の悌毛は任せるわ。あなたは導尿を。尿は洗面器に。浣腸はしている暇はないわ。急いで」
てきぱきと指示を下し、用意を調える。
帝王切開に立ち会うのが初めてとはいえ、彼女たちも、伊達に永琳たちによって知識と技術を教え込まれてはいない。戸惑いながらも、手際よく、そつのない動作で作業を進めていく。
「ウドンゲ、輸血の用意は?」
「出来ています」
「その血は誰のもの?」
「患者のものです。保存しておいたものですが」
「問題なさそうね。いざという時に使うんだから、用意は万端に」
「……はい」
場の緊張が高まっていく。
終わりました、と次々に兎たちが声を上げる。
……何度経験しても、手術は慣れないわね。
ふぅ、と息をつくと、永琳は宣言した。
「術式、開始します」
手術が始まって、まだ、十分も過ぎていないというのに。
「……」
てゐは一人、部屋の前で、無言で座っていた。そばには誰もいない。無情に時間だけが過ぎていく中、耳を澄ませば、聞こえてしまう。永琳の指示が、そして、わずかに響く、手術の音が。
そんなもの聞きたくない。こんなところにいたくない。それなのに、足は動かない。
「……あ」
その時、視界の隅に人の足が舞い降りる。視線を上げれば、そこには、妙にぼろっちくなった輝夜がいた。その隣には、すまなそうな顔をして、妹紅が立っている。さらにその後ろに、神妙な顔つきの慧音がいた。
「……姫様?」
「もしも何かがあった時、その半獣の力があったら便利でしょう」
『手術が失敗した』という歴史をなかったものにすれば、永琳は、ミスを心配することなく、それに没頭できる。それを言いたいらしい。
「……え? じゃあ、姫様は……」
「驚いたよ。いきなり彼女が、私に『力を貸せ』と言ってきたんだから」
「……本当は、あなた達の力なんて借りたくなかったわ」
「事情を聞いて、すぐに飛んできたんだ」
「……その……輝夜、ごめん」
何となく、事情が読めてきた。
恐らく、輝夜は、あの後、まっすぐに慧音の元に向かったのだろう。力を借りに。月の姫として生まれ、ただでさえプライドが高いのに、自分が常日頃、『敵』として殺りあっている相手に頭を下げに。無論、慧音のそばで、いつも輝夜を迎え撃っている妹紅としては『一体、何を企んでいるんだ』と思ったに違いない。それで、輝夜はごらんの通り、服を焦がしているというわけだろう。
「全く。人の話を聞かずに攻撃してくるなんて。あなたはどういう教育を受けたのかしら」
「……だって……」
「まあまあ。輝夜どの、妹紅の非礼は、私から詫びよう。
……それで、状況は?」
「まだ始まったばかりだから……どうなるかは」
「……そうか。なら、ここで待たせてもらおう」
「私は、因幡たちを落ち着かせにいってくるわ。あの子達も、まだ泣いているのでしょう?」
てゐが首を縦に振る。
輝夜は、建物の廊下を、足早に歩いていく。
「……あいつ、面倒見いいじゃん」
ぼそりと、妹紅はつぶやいた。
そして、ため息をついて、板張りの廊下へと腰を下ろす。
「子供……か」
「いつかは、お前も作ることになる」
「別に、私はそんなの作らないからいいよ。それに、出産って、信じられないほど辛いんだろ? ……それなら……」
「だが、無事に子供が生まれた時の喜びは、何物にも代え難い」
慧音はそう言って、視線を、障子の向こうに向けた。
「……本当に大丈夫なのか?」
「だ、大丈夫だよ! 永琳さまの技術は、世界一なんだから!」
「それはそうだが。
……しかし、輝夜どのの話を聞く限りでは、こうした手術は、何度も経験しているようではないようだが」
よけいなことを言わないで、と慧音をにらむ。てゐだって不安なのだ。
もしも、あの子に何かがあったらどうしよう、と。事は、あの、母親になるウサギだけの問題ではない。お腹にいる子供の問題でもあるのだ。どちらかが死ぬのならば、まだいい。最悪、両方とも助からない可能性だってある。
そんなことは考えたくない。考えたくないから、とにかく、思考をプラスに持って行こうとしているのだ。
「大丈夫だろ」
そんなてゐの頭を、くしゃくしゃと、乱暴に妹紅がなでた。
「あいつなら」
ぶすっとした顔だが、それなりに、相手を認めているからこそ出来る発言でもあった。
「おーい、何があったんだー」
廊下の向こうから響く声に視線をやれば、薬が切れたのか、魔理沙とアリスがこちらにやってくるところだった。
「目を覚ましてみれば、何か屋敷が騒がしいから……」
「どうかしたの?」
「それに、妙な連中が雁首並べてるし」
魔理沙の視線が、妹紅に慧音、そしててゐに向く。
慧音が口を開き、輝夜から聞かされたことを語った。それを聞いて、二人の表情も凍り付く。
「……帝王切開……」
「聞いたことはあるが……まさか、本当に……」
「とにかく、今は、永琳どの達を信じて待つしかないんだ」
「ああ……そのようだな」
「……ねぇ、てゐちゃん」
「『ちゃん』はいらない」
「ふふっ、ごめんなさい。
てゐちゃん、ウサギの子供達は、どこ?」
あっち、と指を、魔理沙たちがやってきた方向とは反対側に向ける。
「どうするんだ?」
「今も、子供達は不安だろうから。人形劇でもやって、少しでも、笑わせてくる」
「……そうか」
「私だって、優しいのよ」
アリスは、つんとした口調で言うと、ふわふわ漂う人形達を連れて歩いていく。魔理沙が、どっかとその場に腰を下ろし、
「ったく……。何で、こう、厄介事って重なるんだ……」
愚痴を漏らした。
さらに、それから二時間ほどが経過する。
「……ずいぶん時間がかかっているな。帝王切開は一時間もしないで終わると聞いたんだが……」
慧音の視線は、障子の向こうへ。
何が起きているかは、見通すことが出来ない。あまり、よくないことが起きているとは想像したくない。しかし、これほど時間がかかってしまうと、我慢も出来なくなってくる。
「ああ……くそ……」
いらいらした顔で、妹紅が床を指先で叩いている。てゐは無言で、ぎゅっと拳を握りしめて下を向いていた。
「なぁ、慧音。……帝王切開って、失敗したらどうなるんだ……?」
ぽつりと訊ねる魔理沙。神妙な顔つきで、視線だけを、佇む慧音に向けている。
「まず間違いなく、胎児は死ぬだろう。呼吸が出来なくなり、窒息か……あるいは……」
「……」
「それに加えて、手術は母胎にも負担をかける。最悪……」
「やめて!」
てゐが、叫ぶように声を上げる。
「そんなこと……そんなこと、ないもん! 永琳さまは、すごいんだから! 鈴仙さまだって、すごいんだから! みんなみんな、すごいんだから!」
「あ……ああ……すまない……」
「絶対に大丈夫だもん! 絶対に……絶対に……!」
目に涙を浮かべて抗議をするが、そこから先は言葉に詰まってしまい、てゐはうつむいた。
その時、唐突に妹紅が立ち上がる。
「こい!」
「え?」
「ほら!」
「ち、ちょっと!?」
そのまま、彼女はてゐの手を引いて飛び立っていく。
「ちょっと、どこに連れて行くの!? 私は……!」
「バカ! 苦しいときは、神頼みに決まってるだろうが!」
吐き捨てるようなその一言に、きょとんとなる。
しかし、その意味を咀嚼することが出来たのか、うん、とてゐはうなずいた。妹紅は彼女を振り返らない。月の光がわずかに照らす彼女の横顔は、これ以上ないくらい、引き締まっていた。
空を飛び続け、二人はそのまま、この幻想郷の中で、唯一、自分たちが知っている神社へとやってくる。
博麗神社。
人もいない、閑散とした境内。御利益なんてあるわけないだろ、と誰もが言うところだが、『神社』ならば神宿りの地。まさか、何の神様も祀ってないと言うことはない。
二人が境内に舞い降りると、それにあわせたかのように、神社の主が姿を現した。
「何しに来たの?」
じろりと、二人を一瞥。
神社の主、博麗霊夢。この彼女にとって、妹紅もてゐも、あんまり歓迎するべき相手ではなかった。加えて、食事中だったのか、ほっぺたにはご飯粒がついていた。
「お参りに来た」
「は?」
妹紅の一言に、彼女は目を丸くする。
「お参り、していいでしょ?」
「いや、そりゃいいけど……。どしたの、あんた達。頭がおかしくなったの?」
「違う!」
大声を上げて、てゐがそれを否定する。
そうして、彼女は賽銭箱に駆け寄ると、手に握っていたお金――医療相談所の収入からちょろまかしていたのだ――を取り出すと、それを賽銭箱へと放り投げた。ちゃりんちゃりん、という音と共に、硬貨が落ちていく。
「……へっ?」
そのてゐの行いには、さすがの霊夢もあっけにとられた。あのウサギは、人を騙したりからかったりすることに生き甲斐を見いだしていると言ってもいいからだ。それなのに、その彼女が、手に入れたお金を、わざわざ賽銭箱に放り投げるなんて?
伸ばした手で、ぱんぱん、と大きく掌を打ち合わせる。
そして、大きく息を吸い込み、
「博麗神社の神様、お願いです! もう、嘘はつきません! 人を騙したりもしません! 絶対に、悪いことしません!
だから……だから、あの子を助けてあげてください! 無事に赤ちゃんを産ませてあげてください、お願いしますっ!」
目を固く閉じ、境内全部に響くような大声を上げて。
てゐがその場に膝を落とした。
「……どういうことよ?」
その様子に、霊夢は妹紅を見る。
彼女もまた、手を合わせて、祈っていた。それが終わると、『実は――』と、事情を説明した。
「……そう」
「こんな所でも、神社は神社だ。困った時の神頼み。人事を尽くして天命を待つ。それなら、尽くせる人事は尽くしておかないといけない。
……何より、私だって、赤ん坊の顔は見たい」
そちらが本音なのだろう。
その前につらつらと述べた口上など、ただの言い訳で。本当の言葉は、いつだって、後からやってくる。
「そう言うことは早く言いなさいよ、バカ」
霊夢は、やれやれ、と首を振る。
「ほら、そこの嘘つきウサギ。行くわよ」
「私、もう、嘘つかないもん!」
「わかったから。
……泣かなくていいから。大丈夫」
てゐの瞳には、涙が浮いている。
心配なのだろう。仲間のことが。何としても助けてあげたいのに、何も出来ない自分がふがいなくて、許せなくて。それでも何かをしたくて、必死で。
それなら、霊夢だって、鬼じゃない。
「私だって、巫女よ。祈祷ならお手の物。まぁ……サボってばかりの悪い巫女だけどさ。それでも、ないよりはマシよ」
手に持った、榊の枝を振り、
「永遠亭に行きましょ。そこまで話を聞かされたら、私だって協力したくなる。
それに、赤ん坊の顔を見るの、嫌いじゃないしね」
「あんたも、相当な天の邪鬼ね」
「あんたが言うか」
ふっ、と。
霊夢は微笑んだ。
さらに二時間近くが経過した。
現在、永遠亭の中庭には小さな社が即席で造られて、その前で、霊夢が安産祈願の祈祷をしている。必死に祈りを捧げるのは、てゐと、それから魔理沙だった。慧音の話を聞いて、あまり想像したくない結末が頭の中に浮かんでしまい、それを振り払おうと必死なのだろう。二人とも、真剣な顔で霊夢の後ろで腕を組んでいる。そろって『お願いします』『頑張れ』と、祈りと応援の声を上げている。
妹紅は、いらいらした表情で中庭をうろうろ歩き回り、落ち着け、と慧音に叱責される。そんな慧音も、どっかと廊下に腰を下ろし、難しい表情で、口を一文字に引き結んでいた。
時間だけが経過する。
お願いします、とのてゐの声が、頑張れ、との魔理沙の声が、静かな空間にはよく響く。耳を澄ませてみれば、子供達の、小さな笑い声と泣き声がない交ぜになって聞こえている。アリスや輝夜は、一応、うまくやっているようだった。
そんな時間が過ぎて――、
「……む」
わずかな気配に、慧音が反応した。
視線を後ろに向ければ、障子が引き開けられ、看護士として尽力していたウサギの一人が外に出てくるところだった。
そこへ、
「どうなったの!?」
一目散に駆けつけたのは、てゐだった。
自分に詰め寄ってくる、焦りと不安、期待、そして恐怖がごちゃ混ぜになって、何とも言えない顔をしている彼女を見て、そのウサギは一言。
「どうぞ」
すっと、障子を大きく開いた。
その向こうでは、永琳がぺたりと畳の上に腰を下ろしている。鈴仙を初めとした看護士達が、忙しく、後かたづけをしていた。
恐る恐る、てゐは、鈴仙に訊ねる。
「……鈴仙……さま?」
「ん?」
「……手術は?」
ああ、と彼女は声を上げて、にっこりと笑った。
それだけで、もう答えはいらないのだが、てゐは答えを急かした。
「大成功」
その一言に、一瞬、その場から声が失われた。
誰もが喉を鳴らして、次の言葉を放つ機会をうかがう。誰がきっかけになるのか。何がきっかけになるのか。
それを、誰もが伺っていたその時、場の状況の変化に気づいたのか、母親の枕元に寝かされていた赤ん坊が『おぎゃあ』と泣いた。
「ぃ……!」
誰の声が最初だったのか、もはや、誰にもわからない。
『やったぁぁぁぁぁぁ――――――――――っ!!』
喜びが弾けた。
霊夢と魔理沙は飛び上がって喜び、てゐは転がるようにして赤ん坊の元に走っていく。妹紅と慧音は、共に高く手を打ち合わせた。
「やった! やった! やったぁっ!」
「あっはっは! 私の神社も、私の祈祷も、捨てたもんじゃないわねっ!」
「やるじゃないか、ウドンゲ! それに、永琳!」
「いや、よかった。ようやく、事態は安泰だ」
叫ぶ彼女たちに驚いて、赤ん坊が大声を上げて泣き始める。元気な、その泣き声に、ますます喜びが高まっていった。「私、みんなに伝えてきます」とウサギが一人、その場を駆け出していく。彼女たちの喜びようを見て、みんなにそれを伝えようと思ったのだろう。
「よかったね……。お前、生まれてこれて、本当によかったね。
本当に、頑張ったね……」
てゐが、つんつん、と赤ん坊のほっぺたをつつきながらささやきかける。笑顔とも、泣き顔ともつかない顔だ。目には涙が浮かび、水の表面張力を超えて、滔々と流れている。
「あれ? 霊夢、お前、何泣いてんだよ」
「あんたこそ。目が真っ赤じゃない」
「うるさいっ。だって、嬉しくて、何か涙が止まらなくて……」
「私だって。
よーし、これを神社の宣伝に使って、お賽銭がっぽがっぽよ!」
抱き合って、泣きながら喜ぶ二人。
そんな彼女たちの後ろで、ばたばたという足音が響く。
「永琳! 手術、成功したの!?」
どしゃっ、と部屋の前で転んで、顔を押さえながら、輝夜が声を張り上げた。そんな彼女に「はい、大成功です」と永琳が答える。
「ふぇ……」
「どうしたんだ? 輝夜」
目を真っ赤にしている妹紅が、服のポケットに手をつっこんだまま、上から彼女を見下ろす。
「あ……あはは……。何か、ほっとしたら腰が抜けて……。ああ、立てない……」
腰に力が入らず、ぺたんと床に体をつけたままの彼女。そんな彼女に、「ばーか」と言いながら妹紅が手を貸した。
「魔理沙、霊夢! 手術、成功したんでしょ!? やったじゃ……って……あれ?」
「おお、アリス」
「あれ? あんたもいたの」
「どうしたの? 二人とも。何で泣いてるの?」
「いや……はは……。面目ないぜ」
「あーもー。何で涙が止まらないかなぁ」
言いながら、ほれ、と霊夢は魔理沙の背中を押す。押された勢いで、彼女はアリスに抱きつく形になってしまい、声を上げて泣き出し始めた。アリスは視線を、兎たちが大勢、取り囲む布団へとやる。その中心では、赤ん坊がせわしく泣いていた。本当に元気な子供。何よりも、これから健康に、すくすく育つ証拠だ。
「……なるほど」
泣かない泣かない、と魔理沙の頭をなでながら。
内心では、ほっと息をつく。そんな彼女を体現しているのか、彼女の周りをふわふわ飛んでいた人形たちが、何だかよくわからないダンスを踊り始めた。
「永琳さま、ありがとうございました」
「私は、何もしてないわ」
泣きながら、何度も何度も頭を下げるてゐにそう言って、彼女は一同を一瞥する。
「さあさあ、まだ術後なんだから。さっさとここから出て行って。子供と母親に負担がかかるでしょ」
ぶーぶーと不平が上がったが、誰もそれには抵抗しなかった。
部屋の外に、永琳によって押し出される。そんな中、妹紅に支えられたまま、涙をハンカチでぬぐっていた輝夜が、拳を突き上げた。
「よーし、今日はお祝いよ! みんな、倒れるまで飲んで騒ぐわよ!
永遠亭の酒蔵がからになるくらい、お祝いするわよーっ!」
おー、と声が上がる。
騒ぎながら、彼女たちはそこを去っていく。
「永琳どの」
「あら」
一人、残った慧音が彼女を見て、笑った。
「さすがは、天才。お見事です」
「……私の力ではないわ。最後の最後まで、頑張ることが出来たのは、あの子自身の力だから」
謙遜する彼女に、慧音は右手の親指を立てて、軽くウインクしてみせた。それで言いたいことは言い終わったのか、「やれやれ、飲み過ぎは体に悪いんだぞ」などと説教を垂れながら、その足を輝夜達の方に向ける。
「ウドンゲ」
障子が閉じられ、静かな空間が戻ってくる。
「あ、はい」
その場に残っていた彼女と、それから、彼女と同じように、永琳に手を貸してくれた兎たちに笑いかけると、
「あなた達も、お酒、飲みに行きなさい。私もすぐに行くわ」
「ですけど……」
「もう大丈夫。手術は終わったんだから。
こんなに元気いっぱいの赤ちゃんなのよ? もう大丈夫」
「……そうですか」
「悪いのだけど、この子達の介添えをするウサギを二人ほど、連れてきてね。あなた達は、本当によく頑張ってくれた。存分に、楽しんできなさい」
彼女たちは永琳に一礼し、部屋を去っていく。
ふぅ、と、ようやく永琳は肩から力を抜いた。
――まさか、帝王切開にまでなるなんて。ああ、疲れた疲れた。
肩などをもみほぐしながら、苦笑する。やはり、出産というのは一大事であり、生命の神秘である。これを色々と解明してみたいとは思うが、それは野暮というものだろうか。いつか、自分も子供を作れば、これが一体どういうものなのか、それを理解できるはずではあるが、悲しいかな、その目的を達成する予定は、今のところ、まるで立ってない。
「ウドンゲが子供を作れば、間接的に体験できるかな」
かわいい弟子の顔を思い浮かべて、一言。
その時、うっすらと、母親となったウサギが目を開いた。
「あら、麻酔が切れたの? でも、ダメよ。まだ寝てないと」
「……はい。赤ちゃんは?」
ほら、と。
ついさっき、泣きやんだ赤ん坊を抱えて、その顔を彼女に見せてやる。目を閉じて、眠っているのか、それともそうでないのか、いまいち判然としない赤ん坊の頭をなでながら、
「元気な女の子よ。
よく頑張ったわね」
「……ありがとうございます」
彼女は微笑むと、布団の中から手を伸ばして、そっと自分の子供の頭をなでる。
「私は何もしてないわ。頑張ったのは、あなたなんだから。あなたが頑張ったから、この子も頑張って外に出られたのよ。だから、誇りなさい。自分は、こんなに辛い思いをして子供を産んだんだぞ、って」
「……はい」
「大変なのはこれからよ。
でも、まぁ、私もウドンゲも、てゐも、それから、子持ちのウサギも。みんな、子育ての経験があるから。何か困ったことがあったら聞きなさい。
それじゃ、ね?」
そっと、赤ん坊を布団の上に降ろして。
彼女の手を布団の中に引き戻しながら、そっと、掌を彼女の額に当てる。
「お休み」
「……永琳さま。あなたのおかげで、私……母親になれました。
……感謝します」
「ありがと」
そっと目を閉じて。
――元々、麻酔が切れたわけではなかったらしい。意識の表層部が、先の騒ぎに触れて目覚めただけだったようだ。再び、安らかに寝息を立て始める彼女を、本当に優しい眼差しで見つめながら、「ねんねんころりよ」と子守歌をささやく。
「永琳さま」
「あとは、私たちが引き継ぎます」
鈴仙たちに言われてやってきたのか、ウサギが二人、そんな彼女の元へ膝を進めてささやいた。
「お願い。……悪いわね」
「いいえ」
「この子は、私たちの仲間ですから」
「そう。
さあ、それじゃ、私もお酒を飲みに行こうかな」
よいしょ、と立ち上がる。
そうして、入り口となっている障子を引き開けると、空には見事な月が浮かんでいた。雲も晴れて、星もあちこちで瞬いている。今日は、いい夜だ。
「月、か」
その一言に含まれている音は、いかほどのものか。
「じゃ、何かあったら呼んでね」
すっと、障子が閉じられる。
ここは、幻想郷の奥深くにある屋敷、永遠亭。
そこには、至高の腕を持った医者と、優しく看護をしてくれる、たくさんの白衣の天使がいます。
あなたも、辛い病気を患ったときは、是非どうぞ。
「産婦人科、始めました」
八意永琳(十七歳)より。
おまけ
「そういえば」
そう、永琳が声を上げたのは、手術を終えて一週間目のこと。
ようやく、母親も布団から起きあがることが出来るようになり、他の兎たちと一緒に、楽しく子育てを始めた、その時である。
「この子の父親は誰なの?」
何気ない問いかけだが、重要な問いかけでもある。
その言葉に、遠慮がちに手を挙げたのは、
「……え?」
永琳が声を引きつらせる。
兎たちの中から進み出てきたのは――雌兎だった。
「……え……あの……あれ?」
ちょっと待って。子供って同性で作れたっけ? いや、確かに彼女たちは妖怪ウサギだから、物理的法則を、ある程度は超越するとは言っても、こんな、生命の根幹に関わることまで無視できるっていうの? 学会に発表しなくちゃいけないわ。っていうか、幻想郷って何でもありだっけ?
「見て。この子の目元、あなたにそっくりよ。きっと、かわいい子に育つわ」
「ありがとう。
でも、この子の目鼻立ちは、あなたにそっくりよ。絶対に美人になる。私が保証するわ」
「熱いわねー」
「もう、お二人さん。そういうことは、周りに人の目がないところでやってよー」
何で!? 何で、みんな、平然と受け入れられるの!? 何かおかしくない!?
「師匠」
ぽん、と。
狼狽する永琳の肩を、鈴仙が叩く。
「どうしたんですか?」
その表情は、永琳がどうしてうろたえているか、本気でわからない、といった表情だった。
……そうか、そうよね。ほら、私は人間だけど、この子達は妖怪じゃない。だから、同性でも子供が作れるのよ。元々、子供なんて、原初構造を二重螺旋配置してやれば作れるじゃない。
……あっはっはっは。
「ううん、何でもないのよ。ウドンゲ」
「……何か表情が硬いですが」
「いいの、何でもないの、何でもないったら何でもないのよをほほほほほ」
「……師匠?」
何か……何かが間違っている。
そう思いつつも、目の前の幸せをぶちこわしにするようなことは発言することも出来ず。
そう言えば、これまでも、同性カップリングで子供を作ったウサギから、子供を取り上げたっけなぁ、などと思いながら。
永琳は、「ごめん、ちょっと」と言い残して、幸せな笑い声が満ちる空間を後にしたのだった。
「永琳さま、どうしたの?」
「……さあ?」
「あ、違う違う! 赤ちゃんをだっこするときは、そうじゃなくて!」
父親(という表現が適当かどうかはわからないが)に抱かれ、泣き出した赤ん坊を前に、おたおたする父親の彼女(もはや表現がむちゃくちゃであるが)を見て、てゐが赤ん坊の抱き方を指南し始めた。
「どうしたんでしょうね? 姫」
「さあ?」
目の前の、幸せ一杯の光景に満足している輝夜は、鈴仙と一緒に、先の永琳のよくわからない行動を思い返して、首をひねったのだった。
「姫様、鈴仙さま。子供、だっこしますか?」
「あら、いいの? それじゃ、抱かせて」
「姫、次は私ですよ」
ああ、何と幸せな光景だろうか。
まさに、永遠亭という『家族』に新たな仲間が加わった瞬間を体現する、素敵な光景だった。その場にいない永琳が、何とも寂しいが、後で連れてくればいいや、と誰もがそう思うのであった。
八意永琳医療相談所~今日の診療は終了しました~
ここは、幻想郷の、どこにあるともしれない竹林の奥深くにある、一軒の屋敷。そこの名前は永遠亭。
ちょっと前までは、ここには永遠に生きることを運命づけられた人々と、うさぎ達しか住んではいなかった。しかし、ここ最近は、ちょっと事情が変わっている。
「お疲れ様でした。お大事に」
ぺこりと頭を下げる、うさみみナース少女――鈴仙・優曇華院・イナバ。彼女に見送られる形で、一人の妖怪が「ありがとうございました」とお礼を言ってその場を去っていく。
彼女はそれを見送ってから、ふぅ、と息をつく。
「大繁盛だね」
後ろからかかる声にひょいと振り返れば、小柄なうさみみ少女――因幡てゐが立っていた。彼女は、やれやれとため息をつくと、
「……こんな格好じゃなければ」
「……師匠の趣味だから」
「趣味なの!? やっぱり趣味なの!?」
鈴仙の言葉に声を荒げるてゐ。しかし、鈴仙からの答えはなかった。
――しばらく前から、この屋敷に住まう、一人の人間で『みんなのお母さん』といった感じの女性、八意永琳によって開業した『八意永琳医療相談所』。永遠亭の一角を医療施設に、ある意味では改築されて始められたこの仕事――というのもおかしいが、それ以外には、特にちょうどいい言葉も見あたらない――は、連日、それなりににぎわっていた。と言っても、一日に来る患者など、多くても数人。幻想郷に住まうのは、人間と、それ以外の生き物たち。人間は、一部のものを除いて、この竹林に足を踏み入れるものはいないので除外され、後者は、そう簡単に病気などになったりはしない、頑強な体の持ち主ばかりだ。
それに、
「まぁ、ねぇ。っていうか、大繁盛、っていうのも微妙」
「どうして?」
「だって、昔から、医者と軍人と葬儀屋は、閑古鳥が鳴いていた方がいいから」
なるほど、とてゐは手を打つ。
しかし、
「でも、ほら。先立つものは必要じゃない。
このお仕事が繁盛してくれれば、私も――」
そこで言葉を区切る彼女。
何やら不吉なものを感じる鈴仙だが、その内容を聞くと、よけいに不幸になりそうな気がするので黙っていた。
そんな折り。
「いやぁぁぁぁぁっ! もういやぁぁぁぁぁっ!」
何やら、屋敷の奥から悲鳴が響いてきた。
何事かと、鈴仙とてゐが振り返る。と、同時に、一人の女妖怪が泣きながら全力疾走で二人の横を駆け抜けていった。
「……あ、お金」
「いや、そうじゃないでしょ」
走り抜けていった人物は、そのまま竹林の奥深くへと姿を消す。その後ろ姿を見送ってから、ぽつりとつぶやくてゐにツッコミを入れた後、鈴仙は屋敷の奥へと足を運ぶ。長い長い板張りの廊下を進んで、中庭に面したところにある障子を開く。
「師匠」
「あら、ウドンゲ。どうしたの?」
その部屋では、部屋の主であり、医療相談所の所長、八意永琳が、机に向かって何やらペンを走らせていた。見る限りでは、カルテを書いているようにも見える。
「一体、何を言ったんですか?」
先に駆け抜けていった人物には、見覚えがある。
八雲紫。
この幻想郷では、トップクラス――というか、実質トップなんじゃないかと、鈴仙は思っている――の力を持った、ぐーたらスキマ妖怪だ。彼女が、どう考えても無縁である医療相談所を訪れると言うこと自体を、まずは疑問に思ったのだが、まぁ、長く生きていれば、体にがたがくることもあるのだろうと、鈴仙は判断して、彼女を永琳の元へ案内している。
それが、つい、二十分ほど前のことだ。
「別に、何も言ってないけれど?」
「嘘を言わないでください。紫さん、妙に狼狽してましたし」
「ああ……。
ほら、紫さん、寝坊でしょう?」
「寝坊と言うより、あれは一種の病気なんじゃないかと思いますけどね」
彼女は苦笑して、
「それとこれとは話が別ですよ?」
「いいえ、そうじゃないの。
彼女、『最近、妙に眠たくて。起きているのが辛いのよ』って相談に来たのよ」
八雲紫と言えば、幻想郷では知らないものがいないスキマ妖怪であると同時に、寝坊常習王でもある。寝坊大帝ユカリンガーとでも命名しようか。よくわからないが。
彼女、年がら年中、寝ているらしいのだ。どういう経緯があって、彼女は眠りにつかなくてはいけないのかはわからないのだが、彼女の式が「あの方の寝ぼけ癖にも困ったものだ」と頭を悩ませていたのを覚えている。
「だからね、それに関連した病気を色々と上げてみたのよ。中には、眠ったまま死に至る病もあるでしょう?」
「……なるほど」
それで、徹底的に紫を脅したと言うことか。目の前の人に、それに関する自覚はないだろうが。
もしかしたら、自分がそんな致死性の病を煩っていると、もしも思ってしまえば、生き物などもろいものだ。あの、怖いものなどどこにもない傍若無人の大妖怪も、自分にわからない未知の病を前にしたら、恐れることしかできなかった。結局、永琳の話を最後まで聞くのを拒否して逃げ出した。そんなところか。
「……どうするんですか? 彼女、怖がって、二度とここに近寄らなくなるかもしれませんよ?」
「病気を治す知識が、あの人にあれば、それもいいでしょうけど。
でも、もしも本当に、そう言う病気だったら、いずれ、いやでも私を頼ることになるわね」
ああ、もう。
この人に、まともに話を通そうとしても無駄だ、と鈴仙は悟った。と言うか、頭の回転の速度が違うのだ。鈴仙の考えていることと、永琳の考えていることは、そもそも次元が違う。だから、彼女の浅薄な考えなど、天才様の深謀遠慮ぶりには、到底及ばないのである。
「ねぇ、それよりも。
これ、かわいいと思わない?」
そう言って、永琳が差し出したのは、自分がお尻に敷いているクッションである。
もしかしたら、致命的な病気にかかっているかもしれない患者を『それよりも』と切って捨てる辺り、さすがは私のお師匠様、などと思いつつ、
「何ですか? それ」
それは、何かの生き物をデフォルメしたもののようだった。
ピンク色で、ころころと丸い形状をしている。一見すると、魚にも見えるが、あんな魚がこの世界にいるのだろうか。
「先日ね、霖之助さんから『病気を治してくれたお礼です』って贈られたのよ」
「ああ、あの変……じゃなくて、お店のご主人の」
少し前のことを思い出して、鈴仙は、嫌なものを振り払うように首を左右に振った。
――あれから、大変だったのだ。
霖之助という青年がかかっていた病は、永琳によって『情熱爆走病』というわけのわからん名前が付けられた。一日に数回、彼は発作を起こし、奇声を発して暴れ出し、看護に当たっているウサギは泣くわ、子供の兎たちはトラウマ抱えて部屋に駆け込むわ、てゐがキレて弾幕ぶちまけるわと、永遠亭が大騒ぎになったことがあった。
今は、彼も、そんな奇妙な病気を克服して、ごく普通の青年として日々を送っていると聞く。実際はどうだか知らないが。と言うか先日、『ふんどし姿の怪物が出た』とどこぞの人間の里で話題になっていたと、とある知り合いの半人半獣から聞いたような気もするが、それは記憶の海に沈めておくことにして。
「それ、何ですか?」
「まんぼう、っていうらしいわよ」
「まんぼう、ですか」
「そうなの。かわいいわよね。それにね、この子、何だか他人とは思えないの。そう……遠い昔に、縁の繋がりを受けたような……そんな気がするの」
「……いや、あなた、魚がご先祖様って……」
ぼそりとツッコミ入れる鈴仙。
ともあれ、永琳は、そのまんぼうクッションをお尻に敷くと、
「お客さんは来てる?」
「今のところは静かです。と言うか、てゐにも言いましたけど、軍人と葬儀屋、そして医者は、閑古鳥が鳴いているくらいがちょうどいいです」
「そうね。
ああ、でも、もっとお客さんに来て欲しいわね。そうしたら、ウドンゲのかわいい姿、見てもらえるのに」
「……わざわざ特注してくれてありがとうございます」
彼女だけではなく、永遠亭で暮らす兎たちの中で、積極的に永琳の手伝いをしたいと申し出てきた兎たちには、永琳が、どこかから手に入れてきた看護士の衣装を着せている。白衣の天使さんが、永遠亭の中を、そりゃーもう大勢うろついているのだ。そして、彼女たちは『ウサギ』である。当然、服を身につける上で、耳やらしっぽやらが邪魔になる。そこで、その部分の生地をカットした衣装を、永琳はわざわざ特注したのである。
……霖之助に。
「似合ってるわよ?」
「……はい」
「その帽子も、私のものに似せて作ってみたの。いい感じね」
「あはは……」
本気で嬉しいらしく、永琳はにこにこと笑っている。自分が尊敬する人に、こんな顔をされて、それを真っ向から否定することなど出来ようか、いや、出来ない。
反語で自分の意思を否定した後、鈴仙はため息を一つついて、
「ああ、それじゃ、私は受付に戻ります」
「ええ、よろしくね」
一礼して障子を閉め、玄関へと戻る。玄関の所では、てゐが退屈そうに、椅子に座って足をぷらぷらとさせていた。
彼女に「あとは私がやるから」と言って、場所を変わる。
そうして――待つこと、しばし。
「そろそろお昼ご飯かなぁ」
ぐぅ~、とお腹の虫が鳴いた。
――と、
「すいません!」
血相を変えて駆け込んできた少女が一人。
「あら、アリスさん」
先日、この医療相談所を訪れた、アリス・マーガトロイドが、大慌てで永遠亭の扉を開いた。立ち上がり、彼女の元へと足を運ぶ。
「どうかなさいましたか?」
「あ、いえ、私じゃなくて……」
と、彼女は、
「……こっちが」
自分が背中に背負っている少女を視線で示す。
「魔理沙さん?」
妙に元気のない顔で、「よう」と片手を上げる、霧雨魔理沙。普段の、他人(の都合)に関して我関せず、ゴーイングマイウェイな彼女を知っている鈴仙からしてみれば、今の彼女の様子は、おかしかった。彼女の回りを、心配そうに、数体の人形が飛び回っている。
「どうかなさったんですか?」
「は、はい。あの、ついさっきのことなんですけど、私の家でお茶会……をしていたところ、いきなり魔理沙が倒れて……」
「私は平気だって言ったのに、アリスが無理矢理……」
「どこが平気なのよ!」
彼女は魔理沙をしかりつけ、背中から床へと降ろす。鈴仙がそのそばに膝をついて、軽く様子を観察。掌を、魔理沙のおでこへ。
「熱いですね。風邪かな?」
「バカでも風邪引くんですね」
「誰がバカだ」
ツッコミにも覇気がない。
だるそうにため息をつく魔理沙。その様子を、心配そうに見つめるアリス。鈴仙は、よいしょ、と立ち上がった。
「じゃあ、奥へどうぞ。
……けど、人間の、ちゃんとした患者って初めてきたかな」
「鈴仙さまー。お客さんー?」
廊下の奥から、片手ににんじんジュースの入ったグラスを持って、てゐがやってくる。鈴仙の分はないらしい。
それをぐいっと一口してから、
「あ、性格の悪い魔女」
「……お前にだけは言われたくないぜ。性悪ウサギ……」
「ふーん。
鈴仙さま、こいつ、どうしたの?」
「こら。患者に向かって、『こいつ』はないでしょ。多分、風邪よ」
『めっ』とてゐをしかりつける。
「へぇ、そうなんだ」
鈴仙はてゐから視線を外し、後ろの魔理沙達を振り返る。立てますか? と問いかけると、アリスがわざわざ、魔理沙に肩を貸して立ち上がらせた。
その直後、
「とりゃー」
「きゃあっ!?」
いきなり、てゐが後ろから、鈴仙の、ただでさえ短いスカートをまくり上げる。
「なっ、なななな何をするのっ!」
「だって、これで治った人もいたじゃない。主に男だけど?」
「彼女たちは女でしょうが!」
「いいじゃん。鈴仙さまのしましまは神器だ、って永琳さまも認めてたし」
「いいからあっち行ってなさい!」
けらけらと笑いながら、てゐがすたこらさっさと逃げ出していく。顔を真っ赤に染めた鈴仙が、ちらりと二人の方を見ると、
「……ローレグ……」
「……患者を挑発したいのか?」
「……ほっといてちょうだい……」
うるうると涙を流しながら、鈴仙は肩を落として、二人を案内していく。
先ほど通った廊下を、再度渡り、永琳の部屋の障子を開く。
「師匠、患者さんです」
「はい?」
振り返る永琳。
「あら、魔理沙さん」
「……どーも」
「元気がないわね」
「風邪を引いているみたいです」
鈴仙がそういって、障子を閉めて去っていく。魔理沙は、アリスに介添えを受けながら、置かれた座布団の上に腰を下ろした。はぁ~、とため息をついたりする。相当、調子が悪そうだ。
「どれどれ?」
永琳は彼女に近寄って、まずはおでこに手を当てる。
「ふぅむ。熱は三十八度か……三十九くらいかしら」
「わかるんですか?」
「大体ね」
横で、驚いたように目を丸くするアリスに答える。
「はい、ちょっと口を開けてー」
口を開ける魔理沙。そこを覗き込んで、「喉も赤い」などとつぶやきながら、カルテにかりかりと文字を書き連ねていく。
「いつ頃から、その症状が出始めたのかしら?」
「……三日前くらい……かな? ちょっと、外できのこ集めをしていたら雨に降られて……。ついてないぜ……」
「なるほど。それが原因かしら。魔法の森は湿気が多くてじめじめしてるから、風邪のウイルスなんかは、生存するに適応する環境じゃないと思ったんだけど、意外にそうでもないのね」
などと言いながら、聴診器を取る。
「すいませんけれど、アリスさん。後ろを向くか、外に出ていただけます? 患者のプライバシーは守らないといけないから」
「あ、すいません」
頭を下げて、アリスは視線をあさっての方向に向けた。人形たちも、彼女に倣ってくるりと後ろを向いて、目を手で覆う。
「はい、胸を出して」
「ん……」
もぞもぞと、言われる通りに服の前をはだける。衣擦れの音が、静かな空間にはよく響く。
「……魔理沙の裸……魔理沙の裸……。ダメよ……アリス……。今、ここで振り返るのは、鬼畜に堕ちることと同じっ……」
何か妙なつぶやきが聞こえたりもするが、とりあえず無視する。
聴診器を、ぺたぺたと魔理沙の胸に当てて、
「はい、息を吸ってー」
呼吸の確認。
「別に、肺とかがやられているわけではなさそうね」
「……それは何よりだぜ……」
「はい、しまっていいわ。アリスさんも、こっち向いて」
彼女が服を直したのを確認してから、永琳は、後ろを向いたままのアリスに声をかける。続けて、魔理沙の喉を指先で押しながら、
「扁桃腺でもない。ただの風邪ね」
「……そっか」
「薬を飲んで、ゆっくりと休むこと。何なら、一日くらい、入院していく? あなた達は一人暮らしだから、体がだるいと、辛いでしょう? 入院費は無料だから、どうする?」
永琳は、別に見返りを期待して医療相談所を開いているわけではない。『幻想郷の皆様のお役に立つ』がコンセプトなのだ。それについてはてゐが『えー?』と不満を漏らしていたが。
魔理沙は顔をしかめると、
「……そうだな。こんなんじゃ、まともに生活できそうにないし。
悪いけれど、好意に甘えるぜ」
「そう。それじゃ、えーっと……」
ごそごそと、薬棚を探る。しかし、お目当てのものが見つからなかったのか、彼女は鈴仙を呼びつけ、薬を持ってくるよう、言いつけた。
しばらくして、鈴仙が、言われたものを持って現れる。
「はい」
無色透明の、コップに入った一杯の水。恐らく、薬が溶かしてあるのだろう。それを一口して、魔理沙が顔をしかめた。
「うぇ……」
「良薬口に苦し、よ。
あとそれから、解熱用に、座薬でも刺しておきましょうか」
「……げっ」
「すぐに楽になるわ。今夜とは言わず、昼頃には熱も下がるし、体の具合も改善されると思う。
それじゃ、悪いのだけど……」
片手に、座薬を持って。永琳がにっこりと笑いかける。
魔理沙は、わずかに身を引きながら、しかし、観念したとばかりにため息を一つ。……だが、
「あの~……先生?」
「はい。アリスさん」
「……それ、私がやってもいいですか?」
「あら、どうぞ。別段、こんなもの、誰がやっても同じだし」
「って、ちょっと待て!」
「うふ……ふふふっ……。さあ、魔理沙……下着を脱いで……」
「お、おい! 待て! 何か目の色変わってるぞ、アリス!」
「大丈夫。これは、やましいことは何にもないの。治療なのよ、魔理沙! 愛の治療!」
「どこが愛だ、ハァハァ言いながら治療なんてされたくないぜ!」
すがるような目を、永琳に向けてくる。
だが、永琳は、
「あ、ご、ごめんなさいね。それじゃ、先生は……」
などと、何を誤解したのか、立ち去ろうとする。
「待てーっ!」
「さあ、魔理沙! 観念しなさぁぁぁぁぁいっ!」
「きゃーっ! いやーっ!」
さすがに、この状況では、やっぱり魔理沙も女の子。悲鳴が黄色かった。
アリスに押し倒され、熱で冒された体はまともに動かすことも出来ず、下着に手がかかる。だが、その瞬間、
「ほい」
「はうっ」
「あうっ」
ぷす、と永琳が二人の首筋に注射を一発。
中身をちゅ~っと注入すると、そろって仲良く、彼女たちはその場に倒れて気を失った。
「これでよし」
一体何を注射したのか。
あんまり詮索したくない。
「ウドンゲ、この二人を奥の部屋に連れて行ってあげて。あと、兎たちの中から、適当に、彼女たちの看病をする子を見繕って用意してね」
「……はい」
一部始終は聞いていたのか、すぐさま、障子を開けて現れた鈴仙は、部屋の惨状を見て顔を引きつらせる。
「……師匠。わざとですね?」
「え~? 永琳、わかんな~い」
「ごまかしてもダメです。新薬の試し打ちに患者を使わないでくださいと、あれほど……」
「ふふっ、大丈夫よ。ちゃんと、効くんだから」
やれやれ、と。
鈴仙はこめかみ押さえて、何度か首を左右に振ると、倒れた二人を軽々と担いで退場した。騒ぎが収まり、静かになった室内で、ん~、と永琳は伸びをする。
「いいことをした後は気持ちがいいわね」
絶対違うのだが。
何かを勘違いしている天才医者は、「誰か、お昼ご飯を持ってきて」と声を上げたのだった。
そんなこんなで、今日も一日、八意永琳医療相談所は大盛況だった。今日の患者は七人。稼ぎは、お金だったりものだったりと色々だが、少なくとも、永遠亭の財源を潤す役には立つだろう。
今夜の晩ご飯には、何を作ろうかしら。
一日の診療を終えて、よいしょ、と立ち上がった永琳は、にこにこ笑顔で部屋を後にしようとする。だが、
「永琳さま、永琳さま、永琳さまーっ!」
一人のウサギが、血相を変えて飛び込んできた。
彼女は、大きく、肩を上下させながら、
「たっ、大変ですっ!」
顔を真っ青にして、叫んだ。
「どうしたの?」
様子が、尋常ではない。
きっと何かあったのだろう。永遠亭では大勢のもの達が暮らしているから、日常的な諍いはしょっちゅうだが、これはちょっと毛色が違う。いつものように、『兎たちのケンカを止めてください』というわけではなさそうだ。
「い、因幡が一人、さ、産気づいて……!」
「……何ですって?」
わずかに表情を変える。
「いつ?」
「つ、つい……さっきです。今から、十分も……過ぎてません。
とにかく、ものすごく苦しそうなんです。今すぐにでも産まれそうな感じで……」
「わかったわ。すぐに案内して。
あと、ウドンゲは、このことは?」
「知ってます。産湯などは用意しておく、と……」
「さすがね」
さすがは我が愛弟子。言わずとも、やることはやっておいてくれているようだ。
満足そうにうなずいてから、駆け込んできたウサギと一緒に廊下を走っていく。事が出産に関わることなら、のんびりはしていられない。
「あそこです」
指を指すまでもなく、それはわかった。廊下の所に、兎たちが大勢集まって、心配そうに部屋の中を覗き込んでいるのだ。その中には、永遠亭の主、蓬莱山輝夜の姿もあった。
「みんな、どいて!」
「ああ、永琳。……大丈夫なのね?」
「何度も、同じ事をやってます。大丈夫ですよ」
にこっと笑いかけて、彼女は部屋の中へ。
――ウサギというのは、年がら年中、発情期にあると言う。弱い生き物だから、大勢の仲間を作っておかなくては、この世からいなくなってしまう。そう言う存在であるから、生きるための、自分の血を将来に残しておくための、生き物としての智恵なのだろう。そうであるから、永遠亭では、こういう事も日常茶飯事だ。そしてその中で、医者として、知識と技術を持つ永琳が、出産に立ち会うのは、半ば当然の事とも言える。
伊達に、お医者さんをやってないのだ。
「ウドンゲ、彼女の様子は?」
「血圧、脈拍、全て正常値です」
「よろしい。
姫、障子を閉めてください。てゐ、あなたは、兎たちを落ち着かせて」
「ええ」
「は……はい」
泰然とうなずく輝夜とは正反対に、てゐはうろたえているようだった。伊達に長年生きている妖怪ウサギではないというのに、やっぱり、自分にそう言う経験がないから、出産という一大事に立ち会うのは、どうしても慣れないらしい。
「さあ、もう大丈夫よ。私が来たからね」
苦しそうに呻くウサギの手を取って、優しくささやく。こういう時は、まず、母親の気を落ち着かせることが必要だからである。
「産湯の用意は……出来ているようね」
「もう、何度目でしょうね」
鈴仙は苦笑した後、顔を引き締める。
「では」
「ええ」
さて、と気を取り直して、出産の準備の開始である。
布団に寝かされ、陣痛に苦しむ彼女を鈴仙が落ち着かせながら、永琳が用意を始める。布団をまくり、下半身の所に分厚いタオルを何枚も用意して、着物をはだける。
「下着を脱がせるわ。いいわね?」
首を縦に振るウサギ。
彼女の下着を取り払い、様子を確認。
「……何か様子がおかしいわね?」
「師匠?」
「ウドンゲ、ちょっと」
耳を貸しなさい、と声をかける。
鈴仙は、首をかしげながらも、永琳に顔を近づける。
「何か様子がおかしいわ。大事になるかもしれないから、覚悟していて」
「……はい」
神妙な顔つきで、鈴仙はうなずいた。
苦しみながらも「どうしたんですか?」と訊ねてくるウサギには、「何でもない」と笑顔を作る。こういう時、わざわざ患者を不安にさせるようなことは言う必要はないからだ。
鈴仙は自分の位置を元に戻すと、
「それじゃ、始めるよ。
はい、私にあわせて、息を吸って、吐いて」
何度も何度も、永琳と一緒にお産に付き合っているだけはある。それに必要なことも、しっかりと、彼女は心得ていた。その、若い姿とは裏腹に、成熟し、老成した知識と経験を得ていることの表れである。
そんな彼女を頼もしく思いながら、永琳は、介添えのために服の袖をめくった。
「はい、息んで」
「く~~~~~っ!」
顔を真っ赤にして、彼女は、苦痛に顔をゆがめながら。ぐっと体に力を入れた。
一番辛い瞬間だとは、誰もがわかっている。鈴仙は「頑張って」と必死に声をかけながら、彼女の手をぐっと握りしめる。
「破水、確認」
膣口から大量の羊水があふれ出る。さすがの永琳も、何度、経験しても、この時は緊張する。過去、自分のミスで、赤ん坊を殺してしまったこともあるのだから。いかな天才とはいえ、ミスはする。しかし、医者にとってのミスというのは、世間一般に言う『ミス』などとは比べものにならないくらい致命的なミスだ。
彼女は、その両手に、人の命を握っている。
「力を弱めて、息を整えて」
「はぁ……はぁ……!」
「苦しいけど、頑張って。あなたが頑張らないと、赤ちゃんも出てこられないのよ。
大丈夫。私と師匠がいるからね」
声をかけ、勇気づけ、元気づけながら。
鈴仙は、額を流れる汗をぬぐう。
お産というのには、時間がかかる。
「はい!」
――何度目になるか。
苦しみながらも頑張る母親を、必死にサポートしながら、時間が過ぎていく。
だが、いつになっても、赤ん坊の姿が見えてこない。おぎゃあの声も聞こえない。永琳の表情が変わった。
「……まずいわね」
一旦、待って、と声を上げて、彼女は白衣のポケットから医療器具を取り出し、それを、ウサギの膣口に差し込む。
「ちょっと苦しいけど、我慢してね」
それでぐっと入り口を広げ、中を見る。そして、最悪の状況に、彼女は息を飲んだ。
「……」
「師匠……?」
「……仕方ない。
聞いて。今、確認したんだけど、子宮口が開ききってないの。と言うよりも、全然、開いていないと言っていい」
「ええっ!?」
「……そんな……!」
「すぐに帝王切開に入るわ。ウドンゲ、無菌シートと、医療器具一式!」
「そんな……あの……!」
「事は一刻を争うのよ! 早くしなさい! 麻酔も忘れずに!」
「は、はいっ!」
永琳に一喝され、鈴仙が立ち上がる。彼女が障子を開くと、その向こうで、兎たちが、不安そうな顔をしていた。
「イナバ、どうしたの?」
今、響いた永琳の声を聞いたのだろう。輝夜すら、顔を不安に揺らしながら訊ねてきた。
「……これから、帝王切開に入るそうです」
「……帝王……何それ?」
「簡単に言うと、開腹手術です。子宮口が開いていなくて、赤ん坊が産道を通れないんです。だから、お腹を切り開いて、赤ん坊を取り出します」
「それって、どういうこと!? 鈴仙さま!」
「お姉ちゃん、死んじゃうの!?」
「やだぁー! お姉ちゃん、死んじゃうの、やだーっ!」
てゐの一言をきっかけに、幼い兎たちが泣き出した。彼女たちからしてみれば、『手術』という未知の領域には、意識が追いついていかないのだろう。悲惨な現実を想像してしまったのだ。それを、慌てて、年上の兎たちがなだめる。医学の知識のあるもの達は、「違うのよ」と必死に子供達をなだめすかした。
「ともかく、私はメスなどを取りに行ってきます」
「待ちなさい、イナバ! もっと説明を……!」
「赤ん坊もろとも、母親が死にますよ!」
それは、現実の話なのだが。
その一言がきっかけで、さらに子供達が泣きわめく。あまりのうるささに、永琳が部屋から顔を出し「うるさい」と怒鳴った。彼女も、予想してない事態に気が立っているのだ。
「……」
永琳に怒鳴られ、ますます、場が収拾がつかないものになっていく。
「因幡、この子達を別室へ」
「でも……」
「いいから。ここでこうしていては、永琳の邪魔になるわ。
あなた達も、子供達を」
「……はい」
「それから、医療の知識がある人は、永琳の手伝いをしてあげて」
言うなり、輝夜はふわりと飛び上がる。
すでに、空は日が落ち始めている。
「姫様、どこへ!?」
「保険!」
声を上げるてゐに一言、叫ぶように言うと、彼女はそのまま、空の彼方に向かって飛んでいってしまった。どうしよう、とてゐがその場でおたおたしていると、鈴仙が戻ってくる。彼女の手には、大きな無菌シートと一緒に、様々な、銀色に輝く医療道具が並んだトレイがあった。それを見て、子供達は、ますますパニックを起こしていく。
「……鈴仙さま……」
「大丈夫。師匠の腕を信じて」
「鈴仙さま、私たちもお手伝いします」
「ありがとう。じゃあ、用意をして、ここに」
三人のウサギが首を縦に振り、そこを去った。残されたもの達は、泣きじゃくる子供を連れて、その場を後にする。「死なないで」「死んじゃいやだ」という声が響いて、そして消えていく。一人、その場に残されたてゐは、ぎゅっと唇をかみしめる。
そんなてゐに、「大丈夫」ともう一言、声をかけて、鈴仙は室内へ。
「麻酔を」
「ええ」
「……永琳さま……」
「大丈夫。必ず、私が、あなたと子供を対面させてあげる」
「……はい」
「苦しいけど……辛いけど……頑張って。あなたが頑張らないと、子供も死んじゃうんだからね」
「……はいっ」
「永琳さま、お手伝いします」
障子が開き、先の兎たちが入ってくる。
鈴仙が、部屋に無菌シートを張り巡らせていく。永琳は、鈴仙から渡された服装に着替えてから、
「麻酔」
受け取った注射針を、布団の上で、不安と恐怖に怯えているウサギの肌に突き刺す。
「次に目を開けたら、隣に赤ちゃんがいるからね」
こくりとうなずいた彼女は、そのまま、静かになった。
「下半身の悌毛は任せるわ。あなたは導尿を。尿は洗面器に。浣腸はしている暇はないわ。急いで」
てきぱきと指示を下し、用意を調える。
帝王切開に立ち会うのが初めてとはいえ、彼女たちも、伊達に永琳たちによって知識と技術を教え込まれてはいない。戸惑いながらも、手際よく、そつのない動作で作業を進めていく。
「ウドンゲ、輸血の用意は?」
「出来ています」
「その血は誰のもの?」
「患者のものです。保存しておいたものですが」
「問題なさそうね。いざという時に使うんだから、用意は万端に」
「……はい」
場の緊張が高まっていく。
終わりました、と次々に兎たちが声を上げる。
……何度経験しても、手術は慣れないわね。
ふぅ、と息をつくと、永琳は宣言した。
「術式、開始します」
手術が始まって、まだ、十分も過ぎていないというのに。
「……」
てゐは一人、部屋の前で、無言で座っていた。そばには誰もいない。無情に時間だけが過ぎていく中、耳を澄ませば、聞こえてしまう。永琳の指示が、そして、わずかに響く、手術の音が。
そんなもの聞きたくない。こんなところにいたくない。それなのに、足は動かない。
「……あ」
その時、視界の隅に人の足が舞い降りる。視線を上げれば、そこには、妙にぼろっちくなった輝夜がいた。その隣には、すまなそうな顔をして、妹紅が立っている。さらにその後ろに、神妙な顔つきの慧音がいた。
「……姫様?」
「もしも何かがあった時、その半獣の力があったら便利でしょう」
『手術が失敗した』という歴史をなかったものにすれば、永琳は、ミスを心配することなく、それに没頭できる。それを言いたいらしい。
「……え? じゃあ、姫様は……」
「驚いたよ。いきなり彼女が、私に『力を貸せ』と言ってきたんだから」
「……本当は、あなた達の力なんて借りたくなかったわ」
「事情を聞いて、すぐに飛んできたんだ」
「……その……輝夜、ごめん」
何となく、事情が読めてきた。
恐らく、輝夜は、あの後、まっすぐに慧音の元に向かったのだろう。力を借りに。月の姫として生まれ、ただでさえプライドが高いのに、自分が常日頃、『敵』として殺りあっている相手に頭を下げに。無論、慧音のそばで、いつも輝夜を迎え撃っている妹紅としては『一体、何を企んでいるんだ』と思ったに違いない。それで、輝夜はごらんの通り、服を焦がしているというわけだろう。
「全く。人の話を聞かずに攻撃してくるなんて。あなたはどういう教育を受けたのかしら」
「……だって……」
「まあまあ。輝夜どの、妹紅の非礼は、私から詫びよう。
……それで、状況は?」
「まだ始まったばかりだから……どうなるかは」
「……そうか。なら、ここで待たせてもらおう」
「私は、因幡たちを落ち着かせにいってくるわ。あの子達も、まだ泣いているのでしょう?」
てゐが首を縦に振る。
輝夜は、建物の廊下を、足早に歩いていく。
「……あいつ、面倒見いいじゃん」
ぼそりと、妹紅はつぶやいた。
そして、ため息をついて、板張りの廊下へと腰を下ろす。
「子供……か」
「いつかは、お前も作ることになる」
「別に、私はそんなの作らないからいいよ。それに、出産って、信じられないほど辛いんだろ? ……それなら……」
「だが、無事に子供が生まれた時の喜びは、何物にも代え難い」
慧音はそう言って、視線を、障子の向こうに向けた。
「……本当に大丈夫なのか?」
「だ、大丈夫だよ! 永琳さまの技術は、世界一なんだから!」
「それはそうだが。
……しかし、輝夜どのの話を聞く限りでは、こうした手術は、何度も経験しているようではないようだが」
よけいなことを言わないで、と慧音をにらむ。てゐだって不安なのだ。
もしも、あの子に何かがあったらどうしよう、と。事は、あの、母親になるウサギだけの問題ではない。お腹にいる子供の問題でもあるのだ。どちらかが死ぬのならば、まだいい。最悪、両方とも助からない可能性だってある。
そんなことは考えたくない。考えたくないから、とにかく、思考をプラスに持って行こうとしているのだ。
「大丈夫だろ」
そんなてゐの頭を、くしゃくしゃと、乱暴に妹紅がなでた。
「あいつなら」
ぶすっとした顔だが、それなりに、相手を認めているからこそ出来る発言でもあった。
「おーい、何があったんだー」
廊下の向こうから響く声に視線をやれば、薬が切れたのか、魔理沙とアリスがこちらにやってくるところだった。
「目を覚ましてみれば、何か屋敷が騒がしいから……」
「どうかしたの?」
「それに、妙な連中が雁首並べてるし」
魔理沙の視線が、妹紅に慧音、そしててゐに向く。
慧音が口を開き、輝夜から聞かされたことを語った。それを聞いて、二人の表情も凍り付く。
「……帝王切開……」
「聞いたことはあるが……まさか、本当に……」
「とにかく、今は、永琳どの達を信じて待つしかないんだ」
「ああ……そのようだな」
「……ねぇ、てゐちゃん」
「『ちゃん』はいらない」
「ふふっ、ごめんなさい。
てゐちゃん、ウサギの子供達は、どこ?」
あっち、と指を、魔理沙たちがやってきた方向とは反対側に向ける。
「どうするんだ?」
「今も、子供達は不安だろうから。人形劇でもやって、少しでも、笑わせてくる」
「……そうか」
「私だって、優しいのよ」
アリスは、つんとした口調で言うと、ふわふわ漂う人形達を連れて歩いていく。魔理沙が、どっかとその場に腰を下ろし、
「ったく……。何で、こう、厄介事って重なるんだ……」
愚痴を漏らした。
さらに、それから二時間ほどが経過する。
「……ずいぶん時間がかかっているな。帝王切開は一時間もしないで終わると聞いたんだが……」
慧音の視線は、障子の向こうへ。
何が起きているかは、見通すことが出来ない。あまり、よくないことが起きているとは想像したくない。しかし、これほど時間がかかってしまうと、我慢も出来なくなってくる。
「ああ……くそ……」
いらいらした顔で、妹紅が床を指先で叩いている。てゐは無言で、ぎゅっと拳を握りしめて下を向いていた。
「なぁ、慧音。……帝王切開って、失敗したらどうなるんだ……?」
ぽつりと訊ねる魔理沙。神妙な顔つきで、視線だけを、佇む慧音に向けている。
「まず間違いなく、胎児は死ぬだろう。呼吸が出来なくなり、窒息か……あるいは……」
「……」
「それに加えて、手術は母胎にも負担をかける。最悪……」
「やめて!」
てゐが、叫ぶように声を上げる。
「そんなこと……そんなこと、ないもん! 永琳さまは、すごいんだから! 鈴仙さまだって、すごいんだから! みんなみんな、すごいんだから!」
「あ……ああ……すまない……」
「絶対に大丈夫だもん! 絶対に……絶対に……!」
目に涙を浮かべて抗議をするが、そこから先は言葉に詰まってしまい、てゐはうつむいた。
その時、唐突に妹紅が立ち上がる。
「こい!」
「え?」
「ほら!」
「ち、ちょっと!?」
そのまま、彼女はてゐの手を引いて飛び立っていく。
「ちょっと、どこに連れて行くの!? 私は……!」
「バカ! 苦しいときは、神頼みに決まってるだろうが!」
吐き捨てるようなその一言に、きょとんとなる。
しかし、その意味を咀嚼することが出来たのか、うん、とてゐはうなずいた。妹紅は彼女を振り返らない。月の光がわずかに照らす彼女の横顔は、これ以上ないくらい、引き締まっていた。
空を飛び続け、二人はそのまま、この幻想郷の中で、唯一、自分たちが知っている神社へとやってくる。
博麗神社。
人もいない、閑散とした境内。御利益なんてあるわけないだろ、と誰もが言うところだが、『神社』ならば神宿りの地。まさか、何の神様も祀ってないと言うことはない。
二人が境内に舞い降りると、それにあわせたかのように、神社の主が姿を現した。
「何しに来たの?」
じろりと、二人を一瞥。
神社の主、博麗霊夢。この彼女にとって、妹紅もてゐも、あんまり歓迎するべき相手ではなかった。加えて、食事中だったのか、ほっぺたにはご飯粒がついていた。
「お参りに来た」
「は?」
妹紅の一言に、彼女は目を丸くする。
「お参り、していいでしょ?」
「いや、そりゃいいけど……。どしたの、あんた達。頭がおかしくなったの?」
「違う!」
大声を上げて、てゐがそれを否定する。
そうして、彼女は賽銭箱に駆け寄ると、手に握っていたお金――医療相談所の収入からちょろまかしていたのだ――を取り出すと、それを賽銭箱へと放り投げた。ちゃりんちゃりん、という音と共に、硬貨が落ちていく。
「……へっ?」
そのてゐの行いには、さすがの霊夢もあっけにとられた。あのウサギは、人を騙したりからかったりすることに生き甲斐を見いだしていると言ってもいいからだ。それなのに、その彼女が、手に入れたお金を、わざわざ賽銭箱に放り投げるなんて?
伸ばした手で、ぱんぱん、と大きく掌を打ち合わせる。
そして、大きく息を吸い込み、
「博麗神社の神様、お願いです! もう、嘘はつきません! 人を騙したりもしません! 絶対に、悪いことしません!
だから……だから、あの子を助けてあげてください! 無事に赤ちゃんを産ませてあげてください、お願いしますっ!」
目を固く閉じ、境内全部に響くような大声を上げて。
てゐがその場に膝を落とした。
「……どういうことよ?」
その様子に、霊夢は妹紅を見る。
彼女もまた、手を合わせて、祈っていた。それが終わると、『実は――』と、事情を説明した。
「……そう」
「こんな所でも、神社は神社だ。困った時の神頼み。人事を尽くして天命を待つ。それなら、尽くせる人事は尽くしておかないといけない。
……何より、私だって、赤ん坊の顔は見たい」
そちらが本音なのだろう。
その前につらつらと述べた口上など、ただの言い訳で。本当の言葉は、いつだって、後からやってくる。
「そう言うことは早く言いなさいよ、バカ」
霊夢は、やれやれ、と首を振る。
「ほら、そこの嘘つきウサギ。行くわよ」
「私、もう、嘘つかないもん!」
「わかったから。
……泣かなくていいから。大丈夫」
てゐの瞳には、涙が浮いている。
心配なのだろう。仲間のことが。何としても助けてあげたいのに、何も出来ない自分がふがいなくて、許せなくて。それでも何かをしたくて、必死で。
それなら、霊夢だって、鬼じゃない。
「私だって、巫女よ。祈祷ならお手の物。まぁ……サボってばかりの悪い巫女だけどさ。それでも、ないよりはマシよ」
手に持った、榊の枝を振り、
「永遠亭に行きましょ。そこまで話を聞かされたら、私だって協力したくなる。
それに、赤ん坊の顔を見るの、嫌いじゃないしね」
「あんたも、相当な天の邪鬼ね」
「あんたが言うか」
ふっ、と。
霊夢は微笑んだ。
さらに二時間近くが経過した。
現在、永遠亭の中庭には小さな社が即席で造られて、その前で、霊夢が安産祈願の祈祷をしている。必死に祈りを捧げるのは、てゐと、それから魔理沙だった。慧音の話を聞いて、あまり想像したくない結末が頭の中に浮かんでしまい、それを振り払おうと必死なのだろう。二人とも、真剣な顔で霊夢の後ろで腕を組んでいる。そろって『お願いします』『頑張れ』と、祈りと応援の声を上げている。
妹紅は、いらいらした表情で中庭をうろうろ歩き回り、落ち着け、と慧音に叱責される。そんな慧音も、どっかと廊下に腰を下ろし、難しい表情で、口を一文字に引き結んでいた。
時間だけが経過する。
お願いします、とのてゐの声が、頑張れ、との魔理沙の声が、静かな空間にはよく響く。耳を澄ませてみれば、子供達の、小さな笑い声と泣き声がない交ぜになって聞こえている。アリスや輝夜は、一応、うまくやっているようだった。
そんな時間が過ぎて――、
「……む」
わずかな気配に、慧音が反応した。
視線を後ろに向ければ、障子が引き開けられ、看護士として尽力していたウサギの一人が外に出てくるところだった。
そこへ、
「どうなったの!?」
一目散に駆けつけたのは、てゐだった。
自分に詰め寄ってくる、焦りと不安、期待、そして恐怖がごちゃ混ぜになって、何とも言えない顔をしている彼女を見て、そのウサギは一言。
「どうぞ」
すっと、障子を大きく開いた。
その向こうでは、永琳がぺたりと畳の上に腰を下ろしている。鈴仙を初めとした看護士達が、忙しく、後かたづけをしていた。
恐る恐る、てゐは、鈴仙に訊ねる。
「……鈴仙……さま?」
「ん?」
「……手術は?」
ああ、と彼女は声を上げて、にっこりと笑った。
それだけで、もう答えはいらないのだが、てゐは答えを急かした。
「大成功」
その一言に、一瞬、その場から声が失われた。
誰もが喉を鳴らして、次の言葉を放つ機会をうかがう。誰がきっかけになるのか。何がきっかけになるのか。
それを、誰もが伺っていたその時、場の状況の変化に気づいたのか、母親の枕元に寝かされていた赤ん坊が『おぎゃあ』と泣いた。
「ぃ……!」
誰の声が最初だったのか、もはや、誰にもわからない。
『やったぁぁぁぁぁぁ――――――――――っ!!』
喜びが弾けた。
霊夢と魔理沙は飛び上がって喜び、てゐは転がるようにして赤ん坊の元に走っていく。妹紅と慧音は、共に高く手を打ち合わせた。
「やった! やった! やったぁっ!」
「あっはっは! 私の神社も、私の祈祷も、捨てたもんじゃないわねっ!」
「やるじゃないか、ウドンゲ! それに、永琳!」
「いや、よかった。ようやく、事態は安泰だ」
叫ぶ彼女たちに驚いて、赤ん坊が大声を上げて泣き始める。元気な、その泣き声に、ますます喜びが高まっていった。「私、みんなに伝えてきます」とウサギが一人、その場を駆け出していく。彼女たちの喜びようを見て、みんなにそれを伝えようと思ったのだろう。
「よかったね……。お前、生まれてこれて、本当によかったね。
本当に、頑張ったね……」
てゐが、つんつん、と赤ん坊のほっぺたをつつきながらささやきかける。笑顔とも、泣き顔ともつかない顔だ。目には涙が浮かび、水の表面張力を超えて、滔々と流れている。
「あれ? 霊夢、お前、何泣いてんだよ」
「あんたこそ。目が真っ赤じゃない」
「うるさいっ。だって、嬉しくて、何か涙が止まらなくて……」
「私だって。
よーし、これを神社の宣伝に使って、お賽銭がっぽがっぽよ!」
抱き合って、泣きながら喜ぶ二人。
そんな彼女たちの後ろで、ばたばたという足音が響く。
「永琳! 手術、成功したの!?」
どしゃっ、と部屋の前で転んで、顔を押さえながら、輝夜が声を張り上げた。そんな彼女に「はい、大成功です」と永琳が答える。
「ふぇ……」
「どうしたんだ? 輝夜」
目を真っ赤にしている妹紅が、服のポケットに手をつっこんだまま、上から彼女を見下ろす。
「あ……あはは……。何か、ほっとしたら腰が抜けて……。ああ、立てない……」
腰に力が入らず、ぺたんと床に体をつけたままの彼女。そんな彼女に、「ばーか」と言いながら妹紅が手を貸した。
「魔理沙、霊夢! 手術、成功したんでしょ!? やったじゃ……って……あれ?」
「おお、アリス」
「あれ? あんたもいたの」
「どうしたの? 二人とも。何で泣いてるの?」
「いや……はは……。面目ないぜ」
「あーもー。何で涙が止まらないかなぁ」
言いながら、ほれ、と霊夢は魔理沙の背中を押す。押された勢いで、彼女はアリスに抱きつく形になってしまい、声を上げて泣き出し始めた。アリスは視線を、兎たちが大勢、取り囲む布団へとやる。その中心では、赤ん坊がせわしく泣いていた。本当に元気な子供。何よりも、これから健康に、すくすく育つ証拠だ。
「……なるほど」
泣かない泣かない、と魔理沙の頭をなでながら。
内心では、ほっと息をつく。そんな彼女を体現しているのか、彼女の周りをふわふわ飛んでいた人形たちが、何だかよくわからないダンスを踊り始めた。
「永琳さま、ありがとうございました」
「私は、何もしてないわ」
泣きながら、何度も何度も頭を下げるてゐにそう言って、彼女は一同を一瞥する。
「さあさあ、まだ術後なんだから。さっさとここから出て行って。子供と母親に負担がかかるでしょ」
ぶーぶーと不平が上がったが、誰もそれには抵抗しなかった。
部屋の外に、永琳によって押し出される。そんな中、妹紅に支えられたまま、涙をハンカチでぬぐっていた輝夜が、拳を突き上げた。
「よーし、今日はお祝いよ! みんな、倒れるまで飲んで騒ぐわよ!
永遠亭の酒蔵がからになるくらい、お祝いするわよーっ!」
おー、と声が上がる。
騒ぎながら、彼女たちはそこを去っていく。
「永琳どの」
「あら」
一人、残った慧音が彼女を見て、笑った。
「さすがは、天才。お見事です」
「……私の力ではないわ。最後の最後まで、頑張ることが出来たのは、あの子自身の力だから」
謙遜する彼女に、慧音は右手の親指を立てて、軽くウインクしてみせた。それで言いたいことは言い終わったのか、「やれやれ、飲み過ぎは体に悪いんだぞ」などと説教を垂れながら、その足を輝夜達の方に向ける。
「ウドンゲ」
障子が閉じられ、静かな空間が戻ってくる。
「あ、はい」
その場に残っていた彼女と、それから、彼女と同じように、永琳に手を貸してくれた兎たちに笑いかけると、
「あなた達も、お酒、飲みに行きなさい。私もすぐに行くわ」
「ですけど……」
「もう大丈夫。手術は終わったんだから。
こんなに元気いっぱいの赤ちゃんなのよ? もう大丈夫」
「……そうですか」
「悪いのだけど、この子達の介添えをするウサギを二人ほど、連れてきてね。あなた達は、本当によく頑張ってくれた。存分に、楽しんできなさい」
彼女たちは永琳に一礼し、部屋を去っていく。
ふぅ、と、ようやく永琳は肩から力を抜いた。
――まさか、帝王切開にまでなるなんて。ああ、疲れた疲れた。
肩などをもみほぐしながら、苦笑する。やはり、出産というのは一大事であり、生命の神秘である。これを色々と解明してみたいとは思うが、それは野暮というものだろうか。いつか、自分も子供を作れば、これが一体どういうものなのか、それを理解できるはずではあるが、悲しいかな、その目的を達成する予定は、今のところ、まるで立ってない。
「ウドンゲが子供を作れば、間接的に体験できるかな」
かわいい弟子の顔を思い浮かべて、一言。
その時、うっすらと、母親となったウサギが目を開いた。
「あら、麻酔が切れたの? でも、ダメよ。まだ寝てないと」
「……はい。赤ちゃんは?」
ほら、と。
ついさっき、泣きやんだ赤ん坊を抱えて、その顔を彼女に見せてやる。目を閉じて、眠っているのか、それともそうでないのか、いまいち判然としない赤ん坊の頭をなでながら、
「元気な女の子よ。
よく頑張ったわね」
「……ありがとうございます」
彼女は微笑むと、布団の中から手を伸ばして、そっと自分の子供の頭をなでる。
「私は何もしてないわ。頑張ったのは、あなたなんだから。あなたが頑張ったから、この子も頑張って外に出られたのよ。だから、誇りなさい。自分は、こんなに辛い思いをして子供を産んだんだぞ、って」
「……はい」
「大変なのはこれからよ。
でも、まぁ、私もウドンゲも、てゐも、それから、子持ちのウサギも。みんな、子育ての経験があるから。何か困ったことがあったら聞きなさい。
それじゃ、ね?」
そっと、赤ん坊を布団の上に降ろして。
彼女の手を布団の中に引き戻しながら、そっと、掌を彼女の額に当てる。
「お休み」
「……永琳さま。あなたのおかげで、私……母親になれました。
……感謝します」
「ありがと」
そっと目を閉じて。
――元々、麻酔が切れたわけではなかったらしい。意識の表層部が、先の騒ぎに触れて目覚めただけだったようだ。再び、安らかに寝息を立て始める彼女を、本当に優しい眼差しで見つめながら、「ねんねんころりよ」と子守歌をささやく。
「永琳さま」
「あとは、私たちが引き継ぎます」
鈴仙たちに言われてやってきたのか、ウサギが二人、そんな彼女の元へ膝を進めてささやいた。
「お願い。……悪いわね」
「いいえ」
「この子は、私たちの仲間ですから」
「そう。
さあ、それじゃ、私もお酒を飲みに行こうかな」
よいしょ、と立ち上がる。
そうして、入り口となっている障子を引き開けると、空には見事な月が浮かんでいた。雲も晴れて、星もあちこちで瞬いている。今日は、いい夜だ。
「月、か」
その一言に含まれている音は、いかほどのものか。
「じゃ、何かあったら呼んでね」
すっと、障子が閉じられる。
ここは、幻想郷の奥深くにある屋敷、永遠亭。
そこには、至高の腕を持った医者と、優しく看護をしてくれる、たくさんの白衣の天使がいます。
あなたも、辛い病気を患ったときは、是非どうぞ。
「産婦人科、始めました」
八意永琳(十七歳)より。
おまけ
「そういえば」
そう、永琳が声を上げたのは、手術を終えて一週間目のこと。
ようやく、母親も布団から起きあがることが出来るようになり、他の兎たちと一緒に、楽しく子育てを始めた、その時である。
「この子の父親は誰なの?」
何気ない問いかけだが、重要な問いかけでもある。
その言葉に、遠慮がちに手を挙げたのは、
「……え?」
永琳が声を引きつらせる。
兎たちの中から進み出てきたのは――雌兎だった。
「……え……あの……あれ?」
ちょっと待って。子供って同性で作れたっけ? いや、確かに彼女たちは妖怪ウサギだから、物理的法則を、ある程度は超越するとは言っても、こんな、生命の根幹に関わることまで無視できるっていうの? 学会に発表しなくちゃいけないわ。っていうか、幻想郷って何でもありだっけ?
「見て。この子の目元、あなたにそっくりよ。きっと、かわいい子に育つわ」
「ありがとう。
でも、この子の目鼻立ちは、あなたにそっくりよ。絶対に美人になる。私が保証するわ」
「熱いわねー」
「もう、お二人さん。そういうことは、周りに人の目がないところでやってよー」
何で!? 何で、みんな、平然と受け入れられるの!? 何かおかしくない!?
「師匠」
ぽん、と。
狼狽する永琳の肩を、鈴仙が叩く。
「どうしたんですか?」
その表情は、永琳がどうしてうろたえているか、本気でわからない、といった表情だった。
……そうか、そうよね。ほら、私は人間だけど、この子達は妖怪じゃない。だから、同性でも子供が作れるのよ。元々、子供なんて、原初構造を二重螺旋配置してやれば作れるじゃない。
……あっはっはっは。
「ううん、何でもないのよ。ウドンゲ」
「……何か表情が硬いですが」
「いいの、何でもないの、何でもないったら何でもないのよをほほほほほ」
「……師匠?」
何か……何かが間違っている。
そう思いつつも、目の前の幸せをぶちこわしにするようなことは発言することも出来ず。
そう言えば、これまでも、同性カップリングで子供を作ったウサギから、子供を取り上げたっけなぁ、などと思いながら。
永琳は、「ごめん、ちょっと」と言い残して、幸せな笑い声が満ちる空間を後にしたのだった。
「永琳さま、どうしたの?」
「……さあ?」
「あ、違う違う! 赤ちゃんをだっこするときは、そうじゃなくて!」
父親(という表現が適当かどうかはわからないが)に抱かれ、泣き出した赤ん坊を前に、おたおたする父親の彼女(もはや表現がむちゃくちゃであるが)を見て、てゐが赤ん坊の抱き方を指南し始めた。
「どうしたんでしょうね? 姫」
「さあ?」
目の前の、幸せ一杯の光景に満足している輝夜は、鈴仙と一緒に、先の永琳のよくわからない行動を思い返して、首をひねったのだった。
「姫様、鈴仙さま。子供、だっこしますか?」
「あら、いいの? それじゃ、抱かせて」
「姫、次は私ですよ」
ああ、何と幸せな光景だろうか。
まさに、永遠亭という『家族』に新たな仲間が加わった瞬間を体現する、素敵な光景だった。その場にいない永琳が、何とも寂しいが、後で連れてくればいいや、と誰もがそう思うのであった。
八意永琳医療相談所~今日の診療は終了しました~
良作ありがとうございます。
疑問に思ったことは最後で解消された(?)し、うん。
雌ウサギ同士が番って子供作ったってまあそれは別にいいのですが。
できれば書いて欲しかった。反発も大きいでしょうが、できれば本来あるべき形で書いて欲しかった。
本来あるべき形で無いにせよ、雌同士で出来てしまう説明にもう少し力を入れて欲しかった。
最後の最後で、あれ?それってご都合主義?は少しがっかりでした。
それ以外の部分は良かったです。
むしろ逆に、そこまでが秀逸だったからこそ最後で、という感じです。
これはこれで、という形で簡易評価では評価しきれないくらい楽しめましたが、完璧ではなかったという事で80点です。
今後ともがんばってください。
しかし全て瑣末。もはや不要。
私は、生まれ出る生命の物語を描ける作家様を心から尊敬しています。
ゆえにこそ、氏へ最大限の感謝を込めて、この点数を。お受け取りくださいな。
感動もあれば笑いもはずさない。オチだってきちんとある
でも釈然としねえのは何でじゃー!!!
永琳が新薬投与でもしなかったというなら、何で雌同士で子供が生まれんのさ(禿藁
驚愕したのも読んでいるときのこと。
読み終わる直前にオチをつけられて少しがっくり来ましたとさ♪
幻想郷って、大体みんな現代チックに書きますが、実際は今と昔が溶け合った場所と思うんです。こーりんもいるし。
だから現代的な「手術」の概念を持っているものと持っていないものが交じり合うという状況、未知のものに恐れる者と既知のものに恐れぬ者とが交じり合っているのがなんだかとっても新鮮でした。
そして。
やっぱり命ってのはみんなに望まれて生まれてくるものなんだよなぁっ、て思うとなんだかうれしくなりました。
いいお話をありがとう。
十七歳・・・プ(アポロ13ギャー
そんなことを思い出した作品でした。
寝言は寝てからwwっうえw
…ですが御師匠、流石に17歳はちょっ(天網蜘網捕蝶の法)
落ち着け、これは何かの間違・・・ハッ! まさか千(蓬莱の薬Luna
「返事が無い、ただの屍のようだ」
ありがとうございました。
出産シーンでは涙が出てしまいました。
永遠亭良いですね~。
昔は帝王切開は困難かつ危険な手術でしたからね
皆さんに乾杯です。
しかし、幻想郷にも17歳教あるのかなぁ。ありそうだなぁ。
インパクトは相当な物でした。
あと「八意永琳さん17歳」・・・・・・オイオイッ!