秋も深まりかけた神無月のある日、そいつは突然何の前触れもなしにわたしの前に現れた。
「今日もよいお日柄で」
「淑女の真似事は楽しい?風見幽香」
「失礼ね、わたしはいつでも淑女のつもりよ」
「よく言うわ、この妖怪」
「それで、あなたはいつまでしがない巫女をやってるつもりかしら」
「当然死ぬまでに決まってるわ」
「じゃあ、わたしが今引導を渡してあげようかしら?」
「やる気?」
「やあねえ、冗談よ、冗談。ちょっと今日はあなたをお花見に誘おうかと思ってね」
花見とはおかしなことを言う。桜はとうの昔に散って、幽香自慢の向日葵も、もう時期を過ぎ、かといって紅葉にはまだ早いし、一体何の花見をしようというのだろう。どうしても気になったわたしは幽香にたずねてみることにした。
「何の花を見ようというの?」
「うふふ、ひ・み・つ」
「どこで見るつもりなの?」
「それも秘密」
「わたしのほかに誰か来る?」
「秘密」
「何よ、秘密、秘密って、馬鹿にしてるの?」
「別にそういうつもりではないわ。楽しいことはぎりぎりまで取っておく主義なの」
「その花、人食い花というオチはないでしょうね?」
「しつこいわね、秘密って言ってるじゃない」
だめだ、さっぱり要領を得ない。こいつは何をたくらんでいるんだろう。
「そんな心配性のあなたにスペシャルヒント。その花は幻想郷でもめったにお目にかかれない素敵な花。きっとあなたの満足の行く花だと思うわ」
「本当に?」
「ええ、最も、あなたにわたしの話の話を疑う要素があれば、だけど」
その言葉に、わたしはぐっと詰まった。
悔しいが、こいつが嘘をついているという証拠は確かにない、が、信用が出来ないのもまた事実。
加えて、こいつが言う花とやらに興味があるというのも動かしがたい事実である。
「いいわよ、あんたと一緒に花見に行ってあげるわ」
「ありがとう、あなたならきっとそう言ってくれると思ったわ」
満足そうな微笑を浮かべると、幽香の身体は宙に浮いていく。
「じゃあ、今度の新月の夜、迎えに来るわ。それから、あなたはお酒も用意して頂戴。安い酒じゃだめよ。せっかくの花見が台無しになるから。それじゃあ、新月の夜、また会いましょう」
手を振りながら、幽香は飛び立っていった。ひとり取り残されたわたしは、眉にしわを寄せ、その姿を見送る。やがて、その姿が完全と見えなくなった頃、溜めていた息を、ふうっ、と吐き出した。
「念のため、お札も持っていこうかしら……」
誰もいない神社で、思わず独り言をつぶやいた。
約束の日。新月の黄昏時。わたしは彼女に言われたものは用意して待っていた。
酒と徳利、それと杯。文句は言われないだろう。
それと念のため、懐にはお札と陰陽玉を用意してある。万が一もありうるので、用心に越したことはない。何しろ相手はあの幽香なのだ。油断は出来ない。
日が落ちる。空に紺色に染まっていく。妖怪たちの時間が来たのだ。
「こんばんは。いい夜になったわね」
ぎょっとして後ろを振り向くと、そこには、にこやかな笑みを浮かべた幽香が、神社の屋根に腰掛けていた。
「あんた、いつの間に……」
「そうね、大体3時前には神社の屋根にいたかしら。じっと気配を殺すのは大変なんだから」
彼女は私の横に下りてくると、わたしの用意した酒の鑑定を始めた。
「ふーん、お酒のほうは悪くないわね。でも、貧乏暮らしの霊夢にはちょっともったいないかしら?」
「うるさい、余計なお世話よ!」
「それから、杯が大きすぎるわ。小さなお猪口がいいわね。早く用意してね、時間がもったいないから」
「注文が多いわね、急いで持ってくるから、ちょっと待ってて!」
「早くしてね、時間は限られているの」
いちいちうるさいわね、まったく。仕方なく、わたしは駆け足で、お猪口二つを準備した。
「これでいい?」
「ええ、上出来よ。ああ、それから……」
「何よ、まだあるの?」
「懐に隠した陰陽玉と、お札は置いてって頂戴ね。せっかくの花見にそんな無粋なものは要らないでしょう?」
……ばれてる。くそ、抜け目ないやつ。わたしは懐の陰陽玉とお札を放り出した。
その様子を見届けると、幽香は満足そうにうなずいた。
「さ、準備万端ね。それじゃ、花見に行きましょう」
「ちょっと、まだ着かないの?」
わたしの質問に、幽香はため息ひとつ。
「あなた、それは今日何回目の質問かしら」
「うるさい、まだか、ってわたしは聞いてるの!」
「これも何回言ったか忘れたけど、もう少しよ。黙ってついてきなさい」
神社を離れてどれだけ飛んでいただろう。幽香は悠々と飛んでいる。一方、わたしは結構疲れてる。なにしろ、用意した荷物は全部わたし持ち。ちょっとぐらい持っていってくれてもいいじゃないか。結構重いんだぞ、これ。
「ちょっと、まだ着かないの!?」
「気が短いわねえ、普段のカルシウム摂取量が足りていないようね。ああ、そういえば、発育のほうがちょっと劣って……」
「やかましい!」
「もう、本当にせっかちね。もうすぐよ、ほら、もう見えてきたでしょう?」
「どこよ、見えるのはうっそうとした森と、やたらに高い岩山と、もう人が住んでない元人里が見えるだけよ」
「ええ、そうよ。もう見えているようね、今からその森に入っていくわよ」
はあ?
何を言ってるんだ、こいつは?
わたしの疑問を無視するかのように、幽香は高度を下げていった。
「早くしなさい。今日の花見は、有限なんだから」
森の中は、湿度が高く、黒髪がうなじに張り付いて気持ち悪い。ああ、花見だなんてどうでもよくなってくる。一刻も早くこの森から出たい。そん事が頭の中をよぎりだした。しかし、わたしの手は幽香に握られ、決して離れようとしない。こんな暗い森を人間一人の力では歩くことも無理だろうと、彼女が手を繋いで引っ張っていってくれているのだ。
「ちょっと、歩きだなんて、聞いてないわよ」
「言ってないもの」
「あああ、こいつは!」
「本当に気が短いわね、あんたを誘ったのは失敗だったかしら」
幽香は冷ややかな目をわたしに向けた。
わたしはこいつの頭を殴ってやりたい衝動に駆られたが、ぐっとこらえる。もしここで置いてきぼりにされたらさすがにたまらない。
黙ってついていくことにした。
それにしても、こんな森に花見をするほど見事な花が咲いているものなのだろうか?確かに道中、いくつか花を見かけたが、どれも酒を傾けてまで見ていたいとは思えないものばかりである。
「どこまで歩くのよ?」
「もう少し」
「もう少しってどのくらい?」
「さあ」
「まさか道に迷ったなんてことはないわよね!?」
「とりあえず、わたしについていく間は、それはないから安心していいわ」
「どうでもいいけど、荷物を持つの手伝ってよ」
「それは絶対いや」
そんなことを話し合いながら、森の中を奥へ、奥へと歩いていく。新月の夜、森の暗さは最高潮。普通の人間なら絶対お近づきになりたくないであろう場所を、わたしは奥へと歩いていく。それも、人間の敵、妖怪と二人っきり。間違いなく正気では無理な話だと我ながら思う。
「…………」
「…………」
お互いに喋ることがなくなり、森の静寂が深くなる。夜の中、静かな森の中をずんずん進むわたしを人はなんと呼ぶだろう。勇者と呼ばれるのだろうか、狂人と罵られるのだろうか。もし、わたしがひとり、この森に入っていたら、心細さで泣いていたかもしれない。そんなことを考えると、幽香の手の冷たさが、いやでもわたしが一人じゃないということを感じさせる。悔しいが今の幽香が頼もしく見える。
「…………」
「……正直に言うけどね」
突然、幽香が口を開いた。
「一人で来るのはちょっと寂しかったのよ」
「……意外だわ。あんたがそんな事言うなんて」
「これから行くところは、実はわたしだけのとっておきの場所なんだけど、一人で見るのはそろそろつまらなくなってきたの。だからといって、誰かを連れて行きたくても、わたしが肩を並べてもいいと思う人間や妖怪は久しくいなかったの。だから……」
幽香はちょっとだけ口をつぐむ。
「あなたのような人間が現れたことには感謝してるのよ。これから見せるものは、そのお礼と思って頂戴」
「気持ち悪いわね。なんか裏があるんじゃない?」
「はあ、これだから人間は……何で人の言うことを素直に受け止められないのかしら」
「あんたは妖怪だ」
軽口を叩きあいながらも、わたしは彼女の孤独を少しだけ理解できたような気がした。
「さ、もうすぐ着くわよ」
幽香の声にはっとする。夜闇に慣れた目が、薄ぼんやりとだが、わたしが今いる場所が、やや開けた場所になってきたことを教えてくれた。目的地は近い。
「…………」
「着いたわよ」
幽香の手が離れる。頼りない目で、わたしは彼女の背中を追う。彼女はわたしの前をさえぎるように立ち、何かからわたしを隠そうとしているようであった。
やがて。
彼女はその歩みを止めた。
「さあ、これよ」
幽香は半歩横にずれ、わたしの視界から消えた。
そして、わたしの目に飛び込んできたのは……
それは、一輪の白い花。
木の根から伸びたすらりと美しい茎。
その細い茎にはやや不釣合いな、大きな白い花。
暗い森の中でも、ひときわ目立つその白さは、闇夜でもその美しさをいやでも強調させる。
しかし、それに内包しているのは、力強さよりも、むしろ儚さ。吹いてはそのまま飛んでいってしまいそうなか細さが感じられる。それはまるで、女性本来の象徴のように思えてならなかった。
「綺麗……」
自分でも間抜けな感想だ、と思う。が、それ以上の言葉が出てこない。貧弱な自分のボキャブラリーを今、少しだけ呪いたくなった。
「気に入ってくれたようね、何よりだわ」
幽香は満足げに、花の横に立ち、そのまま腰を下ろした。彼女の小さな手が、いとおしそうに花を撫でている。
「この子はね、年に一度、新月の夜にだけしか咲かないの。つぼみの様子から、今日あたりが満開の時期と思っていたけど、まだ完全に咲ききっていないようね、よかった、間に合ったわね」
「間に合った?」
「ええ、この花が満開になるまで、あなたと飲みながら、その瞬間を待ちたいと思ってね」
そうか、そういう趣向だったのか。
参ったなあ、かなわないや。
わたしは背負った荷物を降ろし、徳利に酒を注ぐ。ロケーションを定める。そうだな……うん、やっぱり間近で花が見れる場所がいい。
用意した空のお猪口を、幽香に差し渡し、徳利を傾ける。鼻腔には、酒の匂い以外に、花の香りであろう、なんともいえない芳香が感じられた。
幽香のお猪口に、酒が満たされたのを見届けると、わたしのお猪口にも、酒を満たした。
「あんたがお猪口にしろ、といった理由がわかった気がする」
「ね、わかるでしょ?」
「ええ、こんな花を目の前にして、大きな杯で飲んだら、花に失礼だわ。こんな花を目の前にして飲むときには、静かに、ただ花を愛でながら飲むのが一番ね」
「あなたが、風情がわかる人間でよかったわ。これがあの黒いのだったら……」
「ああ、たしかに……」
わたしは苦笑した。たしかに魔理沙なら、この花を目の前にして馬鹿騒ぎするに違いない。しかし、この花にはやかましいのは似合わない。そう、静けさこそがこの花にふさわしい、そうわたしは思うのだ。それは幽香も同じ感想だったようだ。彼女ははわたしにお猪口を差し出した。それを見て、わたしもお猪口を差し出す。
お猪口同士が、瀬戸物特有の乾いた音を発した。
くいっ、と酒を口の中に流す。酒の香りと、花の香りが、鼻いっぱいに広がり、口の中に転がる酒の甘さと重なる。
「はあ……」
恍惚としたため息が漏れた。こんなにうまい花見酒はいつ以来だろう。
「さあ、花が開くまで、飲み明かしましょう。羽目をはずし過ぎない程度に、ね」
「いいわね」
わたしは幽香のお猪口に酒を満たした。静かな森に、さわさわと小さい音が聞こえる。花が開いているのだ。
わたしたち二人は、酒を交わしながら、静かにそのときを待った。
「もうすぐよ……」
幽香が口を開いた。わたしは、酒を口につけようとする手を止め、その瞬間を見届けるため、花に集中した。
花びらが大きく開ききり、ふわりと特有の香りが漂う。それはひと時の美しい幻想。わたしたちは、幻想が生まれる瞬間に立ち会ったのだ。
わたしは、どれだけ長い時間それを見届けていたのだろうか。気がつくと、幽香が徳利を差し出していた。わたしはあわてて、自分のお猪口を差し出した。酒が注がれる。
「どうかしら、わたしの用意した花見酒は?」
「……最高よ、悔しいぐらいに」
「そう、ありがとう」
幽香は微笑を返してくれた。
「さて、花見の余興として、わたしの芸を披露してあげましょう」
「なに、ここから馬鹿騒ぎなんてやめて頂戴、興が削げるわ」
「まあ、御照覧あれ」
幽香は、そう言うと、近場の草葉をむしりとる。それを口につける。
静かな森に、草笛の心地よい音色がこだました。
「いかが?」
「素敵……ちょっと負けてられないかしら」
わたしも負けじと、草をむしりとる。これでも、草笛は子供の頃に結構得意だったのだ。
幽香の音色にあわせて、わたしの草笛の音を合わせる。
それに加わり、花びらがこすれあう音色が重なり、それはひとつの音楽となった。今日だけしか奏でることの出来ない素敵な音楽。わたしたちは、自分の奏でる音楽に酔いしれる。
やがて、どれだけ草笛を吹いていただろう。幽香の笛の根がひときわ高い音を鳴らした。それは、ひと時の音楽の結びとなり、わたしたちの演奏は終わった。しかし、高揚の余韻はいつまでもわたしの心に残っていた。
「あなたも素敵だったわ。笛を吹き続けて、喉が渇いたでしょう?」
「あら、それはあんたも一緒でしょう?」
わたしは笑う。幽香もつられて笑った。
そして、わたしたちは、互いのお猪口に酒を満たし合った。
どれだけ飲み続けていただろうか。私は酔いが回ってきて、それに伴う耐え難い眠気が襲ってきた。わたしの一夜限りの花見は、もう終わりが近いようだ。わたしは、あえて睡魔に身を任せ、まどろみに落ちてみることにした。この瞬間、幽香に襲われるかもしれないとか、森の湿度の気持ち悪さとか、そんなことはどうでもいいことのように思えていた。この気分を味わいながら眠りにつくのが今は一番だと、そう思えた。そんなことを考えている間にも、わたしの意識は、心地よい眠りの底に落ちていった……
「お目覚めかしら」
「……まだ眠い」
目覚めると、幽香の顔が真っ先に飛び込んできた。大きく伸びをして、頭に血を上らせる。
「まったく、酔いつぶれるなんて人間はこれだから……」
「うるさい!」
と、軽口を叩きながらも、わたしは昨日の花を目で追う。
「あ……」
花はもう、昨日とは見る影もなく、しぼんでしまっていた。その様子は、どこか切なささえ感じられた。
「昨日でこの子は咲き終えたの。わたしは最後までそれを見届けていたわ」
「そう……」
わたしは力なく、呟いた。昨日のあの幻想的な花見酒は、本当に幻の中の出来事だったかのようにさえ思えてくる。
「大丈夫よ、あなたが見たものは本物。それだけは間違いないから」
わたしの気持ちを察してか、彼女はそう声をかけてきた。
「さあ、花見はおしまい。帰りましょうか」
「あ、うん……そうだ!」
「何?」
「このしぼんだ花、もらっていっていい?」
「どうするのよ」
「酒に漬けて楽しむの。来年、もう一度ここにきたときにそれを飲むのよ。悪くない趣向だと思わない?」
「あら、素敵。そういうことならどうぞ」
わたしは花を慎重に取る。それを傷つかないように、そっと布で包む。
「それじゃ、帰りましょう。ああ、荷物は全部あなたが持っていってね」
「えー、帰りくらい持っていってくれたっていいじゃない!」
「い・や」
「……ったく」
わたしは荷物を抱えると、幽香の道案内で森の外に出た。
「それじゃ、この辺でお別れしましょうか」
「そうね、それじゃまた来年、ここでまた、花見をしましょう」
「ええ、あなたがそれまで生きていれば」
そう言い残して、幽香は空へ飛んでいった。わたしはそれを見送ると、それに背を向ける形で神社への帰途に着いた。
「今日もよいお日柄で」
「淑女の真似事は楽しい?風見幽香」
「失礼ね、わたしはいつでも淑女のつもりよ」
「よく言うわ、この妖怪」
「それで、あなたはいつまでしがない巫女をやってるつもりかしら」
「当然死ぬまでに決まってるわ」
「じゃあ、わたしが今引導を渡してあげようかしら?」
「やる気?」
「やあねえ、冗談よ、冗談。ちょっと今日はあなたをお花見に誘おうかと思ってね」
花見とはおかしなことを言う。桜はとうの昔に散って、幽香自慢の向日葵も、もう時期を過ぎ、かといって紅葉にはまだ早いし、一体何の花見をしようというのだろう。どうしても気になったわたしは幽香にたずねてみることにした。
「何の花を見ようというの?」
「うふふ、ひ・み・つ」
「どこで見るつもりなの?」
「それも秘密」
「わたしのほかに誰か来る?」
「秘密」
「何よ、秘密、秘密って、馬鹿にしてるの?」
「別にそういうつもりではないわ。楽しいことはぎりぎりまで取っておく主義なの」
「その花、人食い花というオチはないでしょうね?」
「しつこいわね、秘密って言ってるじゃない」
だめだ、さっぱり要領を得ない。こいつは何をたくらんでいるんだろう。
「そんな心配性のあなたにスペシャルヒント。その花は幻想郷でもめったにお目にかかれない素敵な花。きっとあなたの満足の行く花だと思うわ」
「本当に?」
「ええ、最も、あなたにわたしの話の話を疑う要素があれば、だけど」
その言葉に、わたしはぐっと詰まった。
悔しいが、こいつが嘘をついているという証拠は確かにない、が、信用が出来ないのもまた事実。
加えて、こいつが言う花とやらに興味があるというのも動かしがたい事実である。
「いいわよ、あんたと一緒に花見に行ってあげるわ」
「ありがとう、あなたならきっとそう言ってくれると思ったわ」
満足そうな微笑を浮かべると、幽香の身体は宙に浮いていく。
「じゃあ、今度の新月の夜、迎えに来るわ。それから、あなたはお酒も用意して頂戴。安い酒じゃだめよ。せっかくの花見が台無しになるから。それじゃあ、新月の夜、また会いましょう」
手を振りながら、幽香は飛び立っていった。ひとり取り残されたわたしは、眉にしわを寄せ、その姿を見送る。やがて、その姿が完全と見えなくなった頃、溜めていた息を、ふうっ、と吐き出した。
「念のため、お札も持っていこうかしら……」
誰もいない神社で、思わず独り言をつぶやいた。
約束の日。新月の黄昏時。わたしは彼女に言われたものは用意して待っていた。
酒と徳利、それと杯。文句は言われないだろう。
それと念のため、懐にはお札と陰陽玉を用意してある。万が一もありうるので、用心に越したことはない。何しろ相手はあの幽香なのだ。油断は出来ない。
日が落ちる。空に紺色に染まっていく。妖怪たちの時間が来たのだ。
「こんばんは。いい夜になったわね」
ぎょっとして後ろを振り向くと、そこには、にこやかな笑みを浮かべた幽香が、神社の屋根に腰掛けていた。
「あんた、いつの間に……」
「そうね、大体3時前には神社の屋根にいたかしら。じっと気配を殺すのは大変なんだから」
彼女は私の横に下りてくると、わたしの用意した酒の鑑定を始めた。
「ふーん、お酒のほうは悪くないわね。でも、貧乏暮らしの霊夢にはちょっともったいないかしら?」
「うるさい、余計なお世話よ!」
「それから、杯が大きすぎるわ。小さなお猪口がいいわね。早く用意してね、時間がもったいないから」
「注文が多いわね、急いで持ってくるから、ちょっと待ってて!」
「早くしてね、時間は限られているの」
いちいちうるさいわね、まったく。仕方なく、わたしは駆け足で、お猪口二つを準備した。
「これでいい?」
「ええ、上出来よ。ああ、それから……」
「何よ、まだあるの?」
「懐に隠した陰陽玉と、お札は置いてって頂戴ね。せっかくの花見にそんな無粋なものは要らないでしょう?」
……ばれてる。くそ、抜け目ないやつ。わたしは懐の陰陽玉とお札を放り出した。
その様子を見届けると、幽香は満足そうにうなずいた。
「さ、準備万端ね。それじゃ、花見に行きましょう」
「ちょっと、まだ着かないの?」
わたしの質問に、幽香はため息ひとつ。
「あなた、それは今日何回目の質問かしら」
「うるさい、まだか、ってわたしは聞いてるの!」
「これも何回言ったか忘れたけど、もう少しよ。黙ってついてきなさい」
神社を離れてどれだけ飛んでいただろう。幽香は悠々と飛んでいる。一方、わたしは結構疲れてる。なにしろ、用意した荷物は全部わたし持ち。ちょっとぐらい持っていってくれてもいいじゃないか。結構重いんだぞ、これ。
「ちょっと、まだ着かないの!?」
「気が短いわねえ、普段のカルシウム摂取量が足りていないようね。ああ、そういえば、発育のほうがちょっと劣って……」
「やかましい!」
「もう、本当にせっかちね。もうすぐよ、ほら、もう見えてきたでしょう?」
「どこよ、見えるのはうっそうとした森と、やたらに高い岩山と、もう人が住んでない元人里が見えるだけよ」
「ええ、そうよ。もう見えているようね、今からその森に入っていくわよ」
はあ?
何を言ってるんだ、こいつは?
わたしの疑問を無視するかのように、幽香は高度を下げていった。
「早くしなさい。今日の花見は、有限なんだから」
森の中は、湿度が高く、黒髪がうなじに張り付いて気持ち悪い。ああ、花見だなんてどうでもよくなってくる。一刻も早くこの森から出たい。そん事が頭の中をよぎりだした。しかし、わたしの手は幽香に握られ、決して離れようとしない。こんな暗い森を人間一人の力では歩くことも無理だろうと、彼女が手を繋いで引っ張っていってくれているのだ。
「ちょっと、歩きだなんて、聞いてないわよ」
「言ってないもの」
「あああ、こいつは!」
「本当に気が短いわね、あんたを誘ったのは失敗だったかしら」
幽香は冷ややかな目をわたしに向けた。
わたしはこいつの頭を殴ってやりたい衝動に駆られたが、ぐっとこらえる。もしここで置いてきぼりにされたらさすがにたまらない。
黙ってついていくことにした。
それにしても、こんな森に花見をするほど見事な花が咲いているものなのだろうか?確かに道中、いくつか花を見かけたが、どれも酒を傾けてまで見ていたいとは思えないものばかりである。
「どこまで歩くのよ?」
「もう少し」
「もう少しってどのくらい?」
「さあ」
「まさか道に迷ったなんてことはないわよね!?」
「とりあえず、わたしについていく間は、それはないから安心していいわ」
「どうでもいいけど、荷物を持つの手伝ってよ」
「それは絶対いや」
そんなことを話し合いながら、森の中を奥へ、奥へと歩いていく。新月の夜、森の暗さは最高潮。普通の人間なら絶対お近づきになりたくないであろう場所を、わたしは奥へと歩いていく。それも、人間の敵、妖怪と二人っきり。間違いなく正気では無理な話だと我ながら思う。
「…………」
「…………」
お互いに喋ることがなくなり、森の静寂が深くなる。夜の中、静かな森の中をずんずん進むわたしを人はなんと呼ぶだろう。勇者と呼ばれるのだろうか、狂人と罵られるのだろうか。もし、わたしがひとり、この森に入っていたら、心細さで泣いていたかもしれない。そんなことを考えると、幽香の手の冷たさが、いやでもわたしが一人じゃないということを感じさせる。悔しいが今の幽香が頼もしく見える。
「…………」
「……正直に言うけどね」
突然、幽香が口を開いた。
「一人で来るのはちょっと寂しかったのよ」
「……意外だわ。あんたがそんな事言うなんて」
「これから行くところは、実はわたしだけのとっておきの場所なんだけど、一人で見るのはそろそろつまらなくなってきたの。だからといって、誰かを連れて行きたくても、わたしが肩を並べてもいいと思う人間や妖怪は久しくいなかったの。だから……」
幽香はちょっとだけ口をつぐむ。
「あなたのような人間が現れたことには感謝してるのよ。これから見せるものは、そのお礼と思って頂戴」
「気持ち悪いわね。なんか裏があるんじゃない?」
「はあ、これだから人間は……何で人の言うことを素直に受け止められないのかしら」
「あんたは妖怪だ」
軽口を叩きあいながらも、わたしは彼女の孤独を少しだけ理解できたような気がした。
「さ、もうすぐ着くわよ」
幽香の声にはっとする。夜闇に慣れた目が、薄ぼんやりとだが、わたしが今いる場所が、やや開けた場所になってきたことを教えてくれた。目的地は近い。
「…………」
「着いたわよ」
幽香の手が離れる。頼りない目で、わたしは彼女の背中を追う。彼女はわたしの前をさえぎるように立ち、何かからわたしを隠そうとしているようであった。
やがて。
彼女はその歩みを止めた。
「さあ、これよ」
幽香は半歩横にずれ、わたしの視界から消えた。
そして、わたしの目に飛び込んできたのは……
それは、一輪の白い花。
木の根から伸びたすらりと美しい茎。
その細い茎にはやや不釣合いな、大きな白い花。
暗い森の中でも、ひときわ目立つその白さは、闇夜でもその美しさをいやでも強調させる。
しかし、それに内包しているのは、力強さよりも、むしろ儚さ。吹いてはそのまま飛んでいってしまいそうなか細さが感じられる。それはまるで、女性本来の象徴のように思えてならなかった。
「綺麗……」
自分でも間抜けな感想だ、と思う。が、それ以上の言葉が出てこない。貧弱な自分のボキャブラリーを今、少しだけ呪いたくなった。
「気に入ってくれたようね、何よりだわ」
幽香は満足げに、花の横に立ち、そのまま腰を下ろした。彼女の小さな手が、いとおしそうに花を撫でている。
「この子はね、年に一度、新月の夜にだけしか咲かないの。つぼみの様子から、今日あたりが満開の時期と思っていたけど、まだ完全に咲ききっていないようね、よかった、間に合ったわね」
「間に合った?」
「ええ、この花が満開になるまで、あなたと飲みながら、その瞬間を待ちたいと思ってね」
そうか、そういう趣向だったのか。
参ったなあ、かなわないや。
わたしは背負った荷物を降ろし、徳利に酒を注ぐ。ロケーションを定める。そうだな……うん、やっぱり間近で花が見れる場所がいい。
用意した空のお猪口を、幽香に差し渡し、徳利を傾ける。鼻腔には、酒の匂い以外に、花の香りであろう、なんともいえない芳香が感じられた。
幽香のお猪口に、酒が満たされたのを見届けると、わたしのお猪口にも、酒を満たした。
「あんたがお猪口にしろ、といった理由がわかった気がする」
「ね、わかるでしょ?」
「ええ、こんな花を目の前にして、大きな杯で飲んだら、花に失礼だわ。こんな花を目の前にして飲むときには、静かに、ただ花を愛でながら飲むのが一番ね」
「あなたが、風情がわかる人間でよかったわ。これがあの黒いのだったら……」
「ああ、たしかに……」
わたしは苦笑した。たしかに魔理沙なら、この花を目の前にして馬鹿騒ぎするに違いない。しかし、この花にはやかましいのは似合わない。そう、静けさこそがこの花にふさわしい、そうわたしは思うのだ。それは幽香も同じ感想だったようだ。彼女ははわたしにお猪口を差し出した。それを見て、わたしもお猪口を差し出す。
お猪口同士が、瀬戸物特有の乾いた音を発した。
くいっ、と酒を口の中に流す。酒の香りと、花の香りが、鼻いっぱいに広がり、口の中に転がる酒の甘さと重なる。
「はあ……」
恍惚としたため息が漏れた。こんなにうまい花見酒はいつ以来だろう。
「さあ、花が開くまで、飲み明かしましょう。羽目をはずし過ぎない程度に、ね」
「いいわね」
わたしは幽香のお猪口に酒を満たした。静かな森に、さわさわと小さい音が聞こえる。花が開いているのだ。
わたしたち二人は、酒を交わしながら、静かにそのときを待った。
「もうすぐよ……」
幽香が口を開いた。わたしは、酒を口につけようとする手を止め、その瞬間を見届けるため、花に集中した。
花びらが大きく開ききり、ふわりと特有の香りが漂う。それはひと時の美しい幻想。わたしたちは、幻想が生まれる瞬間に立ち会ったのだ。
わたしは、どれだけ長い時間それを見届けていたのだろうか。気がつくと、幽香が徳利を差し出していた。わたしはあわてて、自分のお猪口を差し出した。酒が注がれる。
「どうかしら、わたしの用意した花見酒は?」
「……最高よ、悔しいぐらいに」
「そう、ありがとう」
幽香は微笑を返してくれた。
「さて、花見の余興として、わたしの芸を披露してあげましょう」
「なに、ここから馬鹿騒ぎなんてやめて頂戴、興が削げるわ」
「まあ、御照覧あれ」
幽香は、そう言うと、近場の草葉をむしりとる。それを口につける。
静かな森に、草笛の心地よい音色がこだました。
「いかが?」
「素敵……ちょっと負けてられないかしら」
わたしも負けじと、草をむしりとる。これでも、草笛は子供の頃に結構得意だったのだ。
幽香の音色にあわせて、わたしの草笛の音を合わせる。
それに加わり、花びらがこすれあう音色が重なり、それはひとつの音楽となった。今日だけしか奏でることの出来ない素敵な音楽。わたしたちは、自分の奏でる音楽に酔いしれる。
やがて、どれだけ草笛を吹いていただろう。幽香の笛の根がひときわ高い音を鳴らした。それは、ひと時の音楽の結びとなり、わたしたちの演奏は終わった。しかし、高揚の余韻はいつまでもわたしの心に残っていた。
「あなたも素敵だったわ。笛を吹き続けて、喉が渇いたでしょう?」
「あら、それはあんたも一緒でしょう?」
わたしは笑う。幽香もつられて笑った。
そして、わたしたちは、互いのお猪口に酒を満たし合った。
どれだけ飲み続けていただろうか。私は酔いが回ってきて、それに伴う耐え難い眠気が襲ってきた。わたしの一夜限りの花見は、もう終わりが近いようだ。わたしは、あえて睡魔に身を任せ、まどろみに落ちてみることにした。この瞬間、幽香に襲われるかもしれないとか、森の湿度の気持ち悪さとか、そんなことはどうでもいいことのように思えていた。この気分を味わいながら眠りにつくのが今は一番だと、そう思えた。そんなことを考えている間にも、わたしの意識は、心地よい眠りの底に落ちていった……
「お目覚めかしら」
「……まだ眠い」
目覚めると、幽香の顔が真っ先に飛び込んできた。大きく伸びをして、頭に血を上らせる。
「まったく、酔いつぶれるなんて人間はこれだから……」
「うるさい!」
と、軽口を叩きながらも、わたしは昨日の花を目で追う。
「あ……」
花はもう、昨日とは見る影もなく、しぼんでしまっていた。その様子は、どこか切なささえ感じられた。
「昨日でこの子は咲き終えたの。わたしは最後までそれを見届けていたわ」
「そう……」
わたしは力なく、呟いた。昨日のあの幻想的な花見酒は、本当に幻の中の出来事だったかのようにさえ思えてくる。
「大丈夫よ、あなたが見たものは本物。それだけは間違いないから」
わたしの気持ちを察してか、彼女はそう声をかけてきた。
「さあ、花見はおしまい。帰りましょうか」
「あ、うん……そうだ!」
「何?」
「このしぼんだ花、もらっていっていい?」
「どうするのよ」
「酒に漬けて楽しむの。来年、もう一度ここにきたときにそれを飲むのよ。悪くない趣向だと思わない?」
「あら、素敵。そういうことならどうぞ」
わたしは花を慎重に取る。それを傷つかないように、そっと布で包む。
「それじゃ、帰りましょう。ああ、荷物は全部あなたが持っていってね」
「えー、帰りくらい持っていってくれたっていいじゃない!」
「い・や」
「……ったく」
わたしは荷物を抱えると、幽香の道案内で森の外に出た。
「それじゃ、この辺でお別れしましょうか」
「そうね、それじゃまた来年、ここでまた、花見をしましょう」
「ええ、あなたがそれまで生きていれば」
そう言い残して、幽香は空へ飛んでいった。わたしはそれを見送ると、それに背を向ける形で神社への帰途に着いた。
ピリピリしすぎな霊夢で間を持たせるのではなくてもう一工夫欲しいところ。
私も花好きなので名前や存在だけは知ってましたが、ロマンティックな花ですよね。
幽香と霊夢というちょっと異色のコンビが織り成すストーリが、月下美人が醸す幻想的な雰囲気とマッチして素敵な作品でした。
それは兎も角、静かで綺麗なお花見。いつもの賑やかな宴会も良いけど
偶には本当に花を愛でる花見酒も良いですねぇ。
なんていうかもう、お花見始めてからの澄んだ空気がこちらにまで伝わってくるようで、
花開く瞬間とか草笛とか、とにかく綺麗で良かったです。ありがとうございました!