『――貴女は己の在り方に無自覚すぎる。
自分の想いを押し付け、他人の事を顧みず、ただ自分の欲望のままに生きる。
これは妖精であるならば当然の事。そこには罪はなく、そして罰もない。
だけどそれが許されるのは妖精が『非力』だから。
他の存在に大きな影響を与える事が出来ないから。
だけど貴女は違う。望むままに世界の在り方を変える『力』を持っている。
貴女の罪は、貴女が自分の事を知らないという事。
納得いかないという顔ですね。
ええ、私も言葉だけで済ますつもりはありません。
ええ、私も言葉だけで済むとは思っておりません。
力を持って力を制す。これは愚者の論理だと解っているのですが
それでも今の貴女を見過ごす事はできない。
憎まれ、疎まれ、死してなお地獄の業火で焼かれる前に
貴女の罪――この私が裁きましょう』
それが、『私』が聞いた最後の言葉。
私は己の罪を理解する事も出来ず
私は己の身に何が起こったのかも認識できないまま
白く輝く破魔の光に、揺るぎない断罪の意思に
身体を、心を、魂を
一切の容赦も、僅かばかりの慈悲もなく
後悔する時間も、懺悔を行う猶予もなく
破片も欠片も、一片たりと残すことなく
結局のところ何一つ解らないまま、私は
――切り裂かれた。
『白い咎 ~black and white~』
「……んゃ………ふぃ……………くゅー……」
んー何か眩しい。閉じた瞼を通して日の光が差し込んでくる。瞼を閉じて見る世界が黒から赤に変わってる。
むーまだ寝足りないのに……もちっとガンバレ私の瞼。
ごろりと寝返りを打って日の光に背を向けると、背中と翼にぽかぽかとした暖かさが伝わってくる。今日はずいぶんと日差しが強い。まだ冬なのに、春じゃないのに…………………………………………………………………………………………………………春?
「はるっ!」
私は勢い良く起き上がって、目の前に広がる世界を視界に収める。
柔らかな日差しに優しい空気、周りを覆っていた一面の雪は跡形もなく消え去り、一面に力強い赤茶けた大地が広がっている。
「はるっはるっはるっはるはるはるはるはるはるはるはる………………はるっ!」
私は勢い良く立ち上がって両手と翼を一杯に広げる。
春の日差しを、春の風を、春の匂いを全身で受け止める。眩しい世界に心躍らせ、足元に伝わる大地の鼓動を噛み締める。
「ん、んんんんんんんんんんんんんん~~~~~~~~~~~~~~~~~~~」
小さな身体を丸め、力をお腹一杯に貯め、全身に走る歓喜に身を震わせながら
「は~る~で~す~よ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~!!!」
世界中に届くように、大きな声で力の限り叫んだ――
「春~春~は~る~で~す~よ~♪」
私は大空を舞いながら、歌うように春を告げる。
寝坊助なカエルさんが目を覚ますように。低血圧な福寿草さんが「ん、もう出番なのかい?」と起きだすように。
目の前に広がる世界にもう雪の欠片は僅かに残すだけ。冬の間に枯れ落ちた木の葉も、世代交代の時を迎え僅かに芽吹いている。私は春の喜びを込めて歌い続けていた。
楽しい、嬉しい、最高に幸せだ。
去年の冬は妙に長く、空の上の方まで行かないと春を見つける事が出来なかった。今年は違う。空だけでなく大地にも満遍なく春が広がっている。空には春を喜んでくれる人がいない。喜んでくれる人がいないと張り合いがない。今年は違う。私も精一杯春を叫ぼう。
池で跳ねる若魚に目を丸くし、寒い冬を耐え抜いた常緑樹にお疲れ様と言い、小さく芽吹く名も知らぬ新芽にがんばれーとエールを贈る。
みんな、みんな春が好きなんだ。春が来るのを待ってたんだ。
私と一緒だ。おんなじだ。嬉しくって踊りまくりたい。ごろごろ転がって、にへにへ笑って、まだ花を咲かせようとしない寝ぼけ眼の桜の木にさっさと起きろと小一時間問い詰めたい。
でもダメ。私は春が来た事をみんなに伝えなければならない。それが私の仕事であり、生き甲斐でもあり、存在意義でもあるのだ。
これは私の使命なんだ。だから胸を張って大きな声で叫ぼう、伝えよう。
「は~る~で~す~よ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~!!!」
「っはー咽喉がひたい~」
ずっと叫び続けたせいか咽喉がひりひりする。
春のためなら24時間365日戦えますが、身体がついてこないのが悔しいところ。私は大地に寝転がって咽喉と身体を休める事にした。
「あーでも気持ち良いなぁ……」
目を閉じても感じる眩い光。吹き抜ける風はまだ冷たさが残るものの、僅かに混じった土の匂いが生命の息吹を感じさせる。柔らかい日差しに、気持ちの良い風に、意識を全部持ってかれそう。春眠暁を覚えずというが、春眠どころか永眠しかねないほどの気持ちよさ。私も誘惑に負け、まどろみに落ちかけそうに……
はっ、いけないいけない。まだ私は春を伝えきっていない。
私の声で初めて春に気付くものだっているだろう。幻想郷中に春を伝えるまでは怠ける事は許されない。
「ん~~~よしっ休憩終わりっ!」
私は身体に絡みついた睡魔を振り切って立ち上がると、空に顔を向ける。空は高く蒼く無限に広がり、生命の象徴である太陽が世界に力を与えている。目を細めて太陽を見上げると、私の身体にも力が漲ってくる。うん、まだまだ頑張れる。
「さて、行きますか!」
私は再び春を伝えに飛び立った。世界は広い、怠けてる暇なんてない。この辺りには大体、春を伝える事が出来たと思うから、今日はちょっと遠くまで行ってみよう。
私は背中にある灰色の翼を大きく広げ、天空へと飛び上がる。
風を切り、雲を切り、大気を切って大空へ
強い風が私の髪を嬲る。でもその感触すらも心地よい。高い高い空の天蓋まで届いた時、私は羽ばたきを止めて翼を閉じた。
慣性に突き動かされ、まだ空の高みへと昇ろうとする私の身体。
重力に手足を摑まれ、また大地へと戻されようとする私の身体。
やがて慣性と重力の釣り合いが取れて、私の身体は全てから開放された。
私は目を閉じ、完全なる自由を全身で感じ取る。
白い太陽、蒼い風、水色の大気
今の私はそれらの存在と等しく、ただ……そこに在るもの。
開放された何物にも囚われぬ心と身体、それは世界と同位。
今、私は世界と等しい。
やがて重力が慣性を上回り、私の身体を呼び戻す。
最初は徐々に、やがて加速していく自由落下。
ここまで辿り着くのに要した倍の速度で落ちていく身体。
唸る風が聴覚を揺さぶる。それでも私は翼を開かない。目を開かない。
大気を切り、雲を切り、風を切った時
ようやく私は瞳を開いた。
眼下に広がる世界。
緑の森と、赤い大地と、蒼い湖
あぁ……これが私の世界だ。
私が愛する、大切な世界だ。
この世界に素晴らしき春の訪れを伝える。それは、なんて素敵な事だろう。
私は翼を広げ、落下する方向を制御する。
まだまだ仕事は終っていない。もっともっと世界の果てまで春の訪れを伝えなくては。
翼が風を摑まえる。
さぁこの風に乗って旅立とう。まだ見ぬ場所へ飛び出そう。私は前だけを見つめながら、知らない土地に胸をどきどきさせながら
流れる風に身を委ねた。
「さーて、ここら辺で良いかな?」
風に揺られて小一時間。この辺りは私も来るのは初めてだ。
とは言っても所詮同じ幻想郷。極端に風景が変わる訳でもない。
「んーでも……」
気のせいか、この辺りは春の気配が少ない。
確かに花は咲いているし雪なんか残っていない。
日差しは優しく風は暖かい。春といえば春だろう。
「何だろ? 何か変な感じ……」
何か違和感がある。
言葉には出来ないけど何か……その時、ふと視覚が何かを捉えた。
世界は優しい光に包まれているのに
空は柔らかい色で彩られているのに
世界の一部が反転しているかのような
空の天蓋が、破り取られているような
春の気配に相応しくない何かを―――感じた。
「何だろう……あれ……」
私は目を凝らす。一瞬だけ視界を掠めた違和感、それが何なのか確かめる。
彼方に見つけた違和感のもと。遠すぎて良く見えないが……あれだ、と思った。
それは一言で言えば『黒』
遠く離れた場所で空に浮かぶ黒い点。最初は昼間からふらふらとしている宵闇妖怪かと思ったが直感がそれを否定する。
あれは……違う。違うものだ。
近寄ってはいけないと本能が告げる。
接触してはならないと理性が告げる。
それなのに私はその『黒』に向けて地面を蹴っていた。
逃がしてはならないと運命が告げる。
出会わなければならないと魂が叫ぶ。
心を駆り立てる焦燥感。理由も判らないままに私は速度を上げていく。
それに近づく毎に、違和感が大きくなっていった。
いや、もうそれは違和感などではない。私はもうその異常がどんなものか理解していた。
花は枯れ、大地は凍り、生命が停止している。
太陽が翳り、風は止まり、そこだけ世界から切り取られている。
此処は、春が死んでいる。
そしてそれを引き起こしている者を、春を殺している者を見つけた。
黒い衣服に腰まで届く金の髪、鈍く輝く赤い瞳に、身体に纏った昏い影。
そして背中に背負った白い翼。
それは―――私と同じ顔をしていた。
「貴女……何?」
私の声は震えていたと思う。
今までにも春の邪魔をする者はいた。
それは冬が好きだから、それは夏が好きだから
理由はそれぞれ、でもそこには意思があった、願いがあった、想いがあった。
だけど、これには理由はない
だけど、これには意思はない
何故かそれが解る。何故だかそれが解ってしまう。
彼女の存在そのもの―――それが春を殺していた。
彼女は私より先に気付いていたようで、私が来る前から私を見つめていた。
その瞳は昏く、まるで冥府からの使いのよう。
私は震えながらも、彼女から目を逸らしてはいけないと必死で堪える。
「あ、貴女は……」
掠れる声を振り絞る、だがそれは外界まで届いただろうか。
自分の耳にすら届かないような小さな声しか出せない。彼女には届かなかったかもしれない。彼女は私の目をじっと見つめたまま動かない。
私がもう一度声を掛けようと息を吸い込んだ時――いきなり彼女は右手を振るった。
振るった右手は黒い風を生み、右手の軌道上にあった私の身体は為す術もなく吹き飛ばされる。何とか空中で姿勢を戻したものの、途端に全身を酷い虚脱感が襲う。気力と体力が根こそぎ失われ、私は飛ぶ力すら奪われて地面に崩れ落ちた。
「う……ぅあ……」
声が出せない。身体が動かない。
私がどれだけ必死になろうとも、顔を上げる事しか出来なかった。
見上げるそこには冷たい視線。
まるで無感動な瞳が、私を見下ろすだけ。
「――」
彼女は何か呟いた。
だけど私の耳は馬鹿になっていて、何も聞き取ることが出来ない。
私がもがいている様を見下ろしていた彼女は、ふいっと顔を背け飛び去ってしまう。
私はそれを見ているだけ。
彼女の言葉を聞き取れなかった事が――何故かとても哀しかった。
あの出会いから数ヶ月。
今年の春はとても変だった。
春に咲く花だけでなく夏や秋に咲く花も一斉に咲き誇り、見渡す限り花の映る世界が広がっている。桜の花びらが舞い散る横で青い朝顔が花開き、福寿草の隣で鳳仙花が赤い花を揺らせている。おまけに何時まで経っても春が終わらないのだ。
確かに春は嬉しい。思わず踊り出してしまう程に嬉しい。
だけど何かが心に引っ掛かっている。記憶の底にある遠い記録。
私はこの異変を知っている?
とりあえず私は春を告げて回った。それが私の存在意義だから。
だけど心に刺さった棘が抜けない。春の喜びを告げる声がうまく出てこない。
あの娘の事、冷たい瞳をしたあの娘の事が頭から離れない。
私は知ってる筈なんだ。
心がそう教えてくれている、だけど記憶が思い出す事を拒んでいる。
あれからあちこち飛んであの娘の姿を探したけれど、出会うのは花の異変に踊る人妖ばかりで、あの娘の姿は影も形も見当たらない。出会ってどうするか、その答えを持たないまま私は飛び続けている。
いっそこのまま出会わなければ……そう思ってしまう自分の弱さが嫌だった。
その日、私の中に何か予感はあっただろうか。
あったかもしれない。
なかったかもしれない。
だけど私は、もう一度彼女と出会った。
花の映る塚で
紫の桜が咲き乱れるその場所で――
「あ、あのっ!」
声が上擦っている。落ち着け私。
彼女はあの時と同じく黒い衣服に身を包み、冷たい瞳で私を見ている。
彼女は右手を振るい紫の桜を散らしていた。その動きに合わせ紫の桜は薙がれたように舞い散り、花を生命を無残に散らす。
「え、えと……あ、貴女は何?」
出会った時と同じ質問。私の足りない頭では他に何も思いつかなかった。
だけど私が彼女に聞きたいのは、ただそれだけ
私の中でもう答えの出ている、ただの問い掛け
だから彼女は答える。答えの要らない答えを。感情の起伏のない――私と同じ声で。
『……私は私。貴女と同じ』
あぁ、やっぱりそう……だったんだ。
彼女の言葉が胸に痛い。
記憶は霞が掛かったように虚ろだったけど、それだけは解っていた。
私が春を振り撒き、彼女が春を殺す。
そして互いに春に関わる事でしか現界できない存在。
本当は、出会った瞬間に解っていた。
私とあの娘は二つで一つ
同じ存在の――『表』と『裏』
蘇った記憶の洪水が私を押し流す。
昔、私とあの娘が一つだった時、私は全てを春にしようとしていた。
私が望めば、秋だろうが冬だろうが春色に染まる。
私が右手を振るうだけで、夏も秋も冬も死に絶え
私が左手を振るうだけで、世界は春へと生まれ変わる。
それがとても楽しかった。
それがとても嬉しかった。
春は素晴らしい季節。誰もが喜び、誰もが私に感謝する。
だから私は頑張って世界中を春で包もうとしたのだ。
みんな喜んでくれる……そう信じて
それが、どれだけ罪深い事なのかも知らずに。
今の私は春の訪れを告げるだけ
今のあの娘は春を殺すだけ
ただそれだけの、ちっぽけな――存在。
私が何も出来ず、何も言えず、ただ俯いている間も、彼女の右手は止まらない。
私の存在を無視して、ただひたすらに春を殺している。機械のように、心無いままに。
紫の桜がざらざらと無残に散る。散り逝く桜の悲鳴が聞こえるようで私は耳を塞ぎたくなった。
「あ、あの……や、止めてくれないかな」
私の呟き、小さすぎるその声。掠れた声。
届かないと思った。届くわけがないと思った。自分にも届かない声が他人に届く筈もないと解り切っていた。
彼女は振り向きもせず、春を殺し続ける。春を殺す右手を同じリズムで振るっている。
ほら、やっぱり届かなかった。
「や、止めてくれないかな」
今度は先程よりも強い声。勇気を振り絞った、それでも消え入りそうな小さな声。
届くだろうか。届いただろうか。春を殺すのを止めてくれるだろうか。
彼女の右手が止まり、彼女が私に振り向く。
良かった、今度は届いた。だけど――
きんっ
空気が裂ける音がして、彼女の姿が一瞬で目前に迫る。
その大きく開かれた目に射抜かれ私の心臓は止まり、昏い底なし穴のような紅い瞳に私の悲鳴は飲み込まれる。
恐怖を感じるより早く彼女の右手が私の首を摑み、鉄のような冷たさと力で締め上げる。
「ぐっ……あぅ……」
首にかかる凄まじい力に思わず声が洩れ、ぎりぎりと指先が食い込む度に頚椎が悲鳴を上げる。
彼女は本気だ。本気で私を殺す気だ。
生まれて初めて向けられた本物の殺意。それは酷く暗く冷たく、そして哀しくて
喉より先に心が潰されるようだった。
『……ふざけないで』
誰のせいだと思っている。
誰のためにこんな事をしていると思っている。
お前が春を告げる事しかできないように、私は春を殺す事しかできない。
止めろ、だと。
お前がそれを言うのかっ!
彼女は一言しか発していない。
でも判った。言葉にしなくてもそれが判った。
私と彼女は同じ存在の表と裏。
だから言葉にしなくても彼女の苦しみが解ってしまった。
春を殺す事しか出来ない――彼女の哀しみを。
ぎりぎりと彼女の右手に力が篭る。
もう少し力を込めれば私の首は砕けるだろう。
このまま絞め続ければ私の呼吸は止まるだろう。
彼女は射抜くような瞳で私を見つめたまま。
私は血の通わぬ胡乱な頭で
彼女に殺されるなら仕方ない――そう、思った。
私の身体から力が抜ける。
私の心が死を受け入れる。
死が怖くない訳じゃない。生きてやりたい事がない訳じゃない。
でも……仕方ないよね?
いいよ。
貴 女 に な ら 殺 さ れ て も い い よ。
『……ちっ』
彼女の舌打ちが聞こえた。
彼女は右手を振り回し、私の身体を投げ捨てる。
「けほっ! かふっ! ……………けほっ!!」
突然自由になった喉に新鮮な空気が流れ込む。一度は死を受け入れただけに、突然の開放は喜びよりも戸惑いを生んだ。
私はけほけほ咳き込みながら、頭上の彼女を見上げる。
彼女は――とても悔しそうな顔をしていた。
「……どうして?」
殺さないの?
私の声にならない呟き。それでも彼女には伝わっただろう。
彼女は悔しそうで、怒っているようで――泣いているようだった。
「……ど、」
『煩いっ! しゃべるなっ!』
彼女の強い叱責にびくりと身体が震える。私はびくびくしながら彼女の顔を覗き込んだ。
先程までの色んな色に染まった表情ではない。『怒り』それ一色に彼女は染まっている。
「……?」
私には解らない。何故彼女がこんなにも怒っているのか。私が何かしたのだろうか? 悪い事をしたら謝らないと……
「あ、あの……その……ご、ごめんなさ……」
『簡単に謝るんじゃないっ!』
再度の強い叱責に私の頭は混乱した。ど、どうすれば良いのだろう。私はおろおろしながら、ただ彼女の顔を見ている事しか出来ない。
『……こんなのが私の半身だなんて……馬鹿にしてる。私はこんな簡単に生命を投げ出したりしない……』
彼女は私の無様な姿を見て、まるで挑むような目付きで私を睨んだ。
それは炎。凍らせていた心の奥底に沈んでいた怒り。死を振り撒く氷の身体に潜んでいた魂の劫火。
その炎が私を焦す。
『私は……生命を投げ出したりしない。あんたとは……違うんだから!』
彼女の血を吐くような叫び、その響きが耳朶を揺さぶる。
私には彼女の言葉が、怒りが、その理由が解らない。
彼女は私を殺そうとして、私はそれを受け入れた。それが何故いけないのだろう?
生命は自分のものなのに
生も死も自分で選べるはずなのに
彼女は私を殺したいと思った。私はそれを仕方がないと思った。
だからそれを受け入れた。
それは間違っているのだろうか。
解らない、判らない、分からない。
死なんて眠る事と一緒。春が終れば私は、次の春までの永い眠りにつく。
たとえ死んだって、眠りがずーーっと続くだけの事。
新しい春を見れないのは残念だけど、別に私がいなくても次の春が来る事には変わりがない。
私のようなちっぽけな存在。いなくなっても何も世界は変わらないのに。
どうして、彼女は怒っているんだろう?
彼女は強い眼差しで、私を睨んでいる。
私は戸惑いながら、彼女を見つめている。
痛い程の沈黙が私達を包む。
どちらも動けず、口も開けず、互いの瞳に自分の顔を映している。
色が違うだけの――同じ顔を。
永い沈黙。
ひょっとしたら瞬間で、もしかしたら永遠の、そんないつまでも続く二人きりの無音な世界。
恐らくはこのまま二人で化石になる筈だった。化石となってそのまま停止する筈だった。二人といっても、私達は元々一つの生命。
一人ぼっちの――哀しい世界。
結局、私達だけではその世界を切り開く事が出来なかっただろう。
だから私達を切り裂いたのは
私達の世界を終わらせたのは――
『黒』の背後に現れた第三者の存在。
「どうしたのですか? まだ仕事の途中ですよ」
それは唐突すぎる出現。
いつの間に現れたのか、私達は全く気付かなかった。こんなに間近に存在しているというのに、声を掛けられるまで認識出来なかった。
その人は、慈愛すら含んだ優しい声を『黒』に放つ。
緑の髪に、紺を主体に金をあしらった豪奢で厳しい服を纏った小柄な女性。白磁のような滑らかな肌に浮かぶ表情は幼ささえ残っている。
なのに、その姿を網膜が認めた瞬間――私の全身が凍った。
記憶には無い。顔も名前も覚えていない。
だけど私はこの空気を知っている。
だけど私はこの恐怖を知っている。
六十年前のあの時に
今と同じく、四季折々の花が咲き乱れた時に
終わらない春に、無邪気に喜びの歌を歌っている時に
一人きりの世界を、何一つ疑問に思う事のなかったあの頃に
私はこの人に出会っている!
「あら、お久しぶりですね」
彼女が私に向け、微笑と共に放った何気ない一言。
だけどその言葉は、私の身体と思考を稲妻のように貫いた。
動かない動けない逃げ出す事が出来ない。
彼女の目を見た時から、彼女の声を聞いた時から、私の時間が奪われたように動けない。
「……あれから六十年。貴女は少しは変わったかしら? 変わっていてくれると良いのだけれど。
私は説教が下手なのでしょうか? 誰も私の言う事を聞いてくれないんですよ。
死後に苦労するのは自分だというのに、ね」
ふぅ、と彼女は溜息をつく。
その姿は苦悩に満ちていて
その表情は哀しみに翳って
それでも私を縛る感情は恐怖でしかなかった。
「あら、どうしてそんなに怯えているのかしら?
あぁ、あの時の事を覚えているのですね。
六十年前の春の日の事を
貴女が世界の全てを春で染めようとした事を
そして私が――貴方を裁いた日の事を」
あの時の事はよく覚えていない。昔の記憶が蘇った今も、ぼぅっと霞に包まれている。
だけど解る。この人が私と『私』を裂いたんだ。
頭の中にあの時の言葉が蘇る。私と『黒』が一つだった時
世界の全てを春にしようとしていた私を
夏も秋も冬も全て春にしようとした私を
見事に、反論の余地なく、綺麗さっぱりと――この人が裁いた。
文字通り、私を白と黒に裁いたのだ。
「……見たところ余り変わっていないようですね。
貴方を裁いたあの日、目を覚ました貴女に伝えた筈ですよ。貴女がこれから積むべき善行を」
私は怯えたままで考える。何だっけ、何を言われたんだっけ?
覚えていない覚えていない思い出せないっ!
私は救いを求めるように、『黒』を見る。
彼女は哀しそうな顔で、ふるふると首を振った。
「ふぅ……どうやら覚えていないようですね。誠心誠意、心を込めて説教したつもりでしたが貴女にも届きませんでしたか。
自信を無くしてしまいますね……」
彼女は目に見えて肩を落とし項垂れる。その姿はまるで普通の女の子のよう。
その細く小柄な体躯と相まって、まるで失せ物をした子供のよう。
これで私を縛る呪縛も解ける? まさか、そんな事はありえない。
私は思い出していた。
六十年前のあの時もこうだった事を、そしてこれから彼女が何を言うのかも。
「では、改めて――裁判を行いましょう」
あぁ、やっぱり……
『――貴女は己の在り方に無自覚すぎる。
自分の想いを押し付け、他人の事を顧みず、ただ自分の欲望のままに生きる。
これは妖精であるならば当然の事。そこには罪はなく、そして罰もない。
だけどそれが許されるのは妖精が『非力』だから。
他の存在に大きな影響を与える事が出来ないから。
貴女がただの妖精に過ぎないのであれば、私も何も言いません。
だけど貴女は違う。望むままに世界の在り方を変える『力』を持っている。
貴女の罪は、貴女が自分の事を知らないという事。
納得いかないという顔ですね。
ええ、私も言葉だけで済ますつもりはありません。
ええ、私も言葉だけで済むとは思っておりません。
力を持って力を制す。これは愚か者の論理だと解っているのですが
それでも今の貴女を見過ごす事はできない。
憎まれ、疎まれ、死してなお地獄の業火で焼かれる前に
貴女の罪――この私が裁きましょう』
閻魔の強い目の光が私を貫く。
同じだ。あの時と一言一句同じだ。ならばこの後に訪れる判決も、あの時と同じだというのか。
文字通り身を裂かれる痛み。嫌だ、もうあんな思いはしたくない。
「わ、わぁぁああああっっ!!」
私は逃げ出す。恥も外聞もなく、見栄も誇りもかなぐり捨てて無様に逃げ出す。
必死で翼を動かし、少しでも僅かでも遠くへと。
「逃げられませんよ?」
「ひっ!」
必死で飛んだ筈なのに、目の前に閻魔がいる。
私は悲鳴を飲み込み、方向を転じて逃げ出す。
「いい加減にしなさい」
閻魔の声と共に無数の笏が襲い来る。罪人を閉じ込める為に組まれた檻。その格子を必死で避わす。身体を掠める弾幕に凍りつきながら、私は逃げて逃げて逃げ続けた。空間を渡り、存在濃度をゼロにし、弾幕を滅茶苦茶にばら撒きながら、懸命に翼を動かした。何処に逃げるかなんて考えていない。ぐちゃぐちゃと頭は何をどうすればなんて考えてもくれない。ただ少しでも遠くへ行かなくてはと、それだけを求めて翼を動かす。
戦う事などこれっぽっちも考ない。頭の中はただ逃げる事だけ。
笑いたければ笑うが良い。
獅子を前にした兎に逃げる以外に何が出来る。
鷹に狙われた小雀に怯える以外に何が出来る。
呼吸は過剰で、心臓が破れそうで、翼は千切れそう。
一度は死を受け入れた私なのに、どうしてこうも怖いのか。
解らない。解らないから怖い。理由も理屈もなく、ただ彼女が怖い。
「……『黒』よ、退路を塞ぎなさい」
閻魔の無情なる宣言。
名を呼ばれた彼女は一瞬怯えたように身体を震わせて、そして私に襲い掛かる。私の動きを読んだかの如く、道を遮るように散弾を撒く。密度を増した弾幕に、私の髪が、翼が、身体が削られる。檻に閉じ込められそうな身体を無理に捻って空に逃げれば、そこに待つ無情なる裁きが身体を抉っていく。ただでさえ一方的な戦い。二対一ともなれば運命は決定したというべきだろう。いや、こんなもの最初から戦いとは呼べない。
彼女達にとって、これはただの掃除。六十年前に片付け損なった後始末。
だから私は足掻くだけ。無様に、未練たらしく、怯えて、泣き喚きながら足掻くだけ。
閻魔の鉄柵に『黒』の弾幕が重なる。
前後左右を阻まれ、私は翼を畳み重力に身を任せる事で何とか避わす。彼女達の弾幕が先程まで私がいた場所で一点に萃まり、閃光と轟音が空を裂く。びりびりと空気が鳴り響く中、地面に激突する寸前に再び翼を広げ逃走した。
追撃を左右に身体を振る事で狙いをずらす。地面すれすれを全力で飛ばしながら、時には空間を渡って、時には目晦ましにわざと地面に向けて弾幕を放ち、土煙を巻き上げながら必死に逃げる。
だけどそんな私の行動も、僅かに生命を永らえさせただけ。
『黒』のばら撒く散弾に上空へ逃れた時、私の動きを読んでいた閻魔の笏が目前に迫っていた。
「――!」
方向を転じた直後。どんなに身を捩ろうとも、これを避わす事など出来ない。私は目を閉じ身体を丸める。避けれない以上、少しでもダメージを軽減する為の理性ではなく本能の行動。やがてくる衝撃に備え身体と精神を殻に包み込む。やがてくる衝撃と痛みに呼吸を止めて、そしてついに鼓膜を震わせる激しい爆音が――
「――あれ?」
恐る恐る目を開けば目の前には薄い紫煙が漂うだけ。弾幕が破裂した後の残滓が焦げ付いた匂いと共に漂うだけ。
あれ? 痛くない。絶対当たったと思ったのに……弾が消えた?
私が戸惑っている隙に、目の前に『黒』が迫る。
混乱して上手く働かない脳を切り捨てて、心の命じるまま背中を向けて逃げ出した。
『黒』の放つ散弾を、再び身体を左右に振って回避する。
パターンに嵌められている事は解っている。先程までと全く変わらぬ展開。そしてそれが解っていながらも、迫り来る弾幕はそれ以外の行動を許さない。まるで誘われているように、灼かれると知りながらも炎に向かう蛾のように、定められた運命をなぞるだけ。目の前の死を避ける事で一杯一杯な私は、そうと知りながらもそれに抗う術はない。
予想通り『黒』の散弾を避け、空へ飛び上がると同時に迫り来る閻魔の笏。さっきと同じ。解っていても避けられない!
だが、奇跡は二度起きた。
閻魔の放つ無数の笏に、『黒』が放つ散弾が重なる。
軋むような音を上げ、相殺され消えゆく決死弾幕。これって……
「……邪魔をするなら下がっていなさい。『黒』よ」
能面のような顔で冷たく言い放つ閻魔と、顔を伏せ視線を逸らす『黒』
そう……奇跡なんてそうそう起こるものじゃない。
助けてくれてたんだ……閻魔に叱られるのを覚悟の上で……
「全く。貴女が邪魔をするなんて。
宜しい、貴女への詰問は後程行う事として……今は目の前の問題から片付けましょう」
再び閻魔の目が私に向けられる。
悔しい。折角あの娘が助けてくれたというのに、とても逃げられる気がしない。それだけの絶対性を閻魔は持っている。それは単純な力の問題ではなく、存在の重み。天網恢恢疎にして漏らさぬ神の力。彼女に抗うというのは正に天に唾吐く行為。でも私は……それでも私は……
「リリー・ホワイト……そろそろ観念なさい。逃げれば逃げる程、貴女の罪は重くなりますよ?」
「わ、私が何をしたって言うのですか!」
ようやく声が出せた。先程までは怯えるだけで何も考える事が出来なかったけど。
昔の私なら兎も角、何故、今の私が裁かれなければならないのだろう。私は春を伝えただけ。何も悪い事はしていない……筈だ。
「ふむ、罪の自覚がない、と?
そうですね。確かに貴女のしている事は春を伝えるだけ。
その行為に罪はありません。ですが……もっと根源的なところで貴女は罪を犯している。
それが自分で解らない事。それが貴女の罪なのですよ」
何? この人は何を言っているんだろう。根源的なところ? それこそ意味が解らない。
私の頭が悪いのがいけないんだろうか。でも、そんな事言われても……
「……納得できないようですね。
私は貴女に伝えた筈ですよ。『己を自覚せよ』と。
貴女は自分の危うさに気が付いていない。
自分の歪みに気が付いていない。
もっと貴女は自分自身を知らなくてはいけない。
これは人に言われて解る事ではないのです。
貴女が自分で自覚しなければ―――意味はない」
私の歪み? 解らない、私の何が歪んでいるんだろう。
私は春の喜びを伝えたいだけ。それ以外は何もいらないのに。
「……やはり解らないようですね。
残念です。非常に残念ですよ。
貴女はとても素直な心を持っている。
私の話に耳を傾ける数少ない存在。できれば自分の罪を自分で見つけ出して欲しかったのですが……どうやら時間がないようです。
今のままでは貴女は崩壊する。そしてあの娘も……」
え? 崩壊……それにあの娘もって……
「ど、どういう事なんです! お願いします、教えて下さいっ!」
私は恐怖も忘れて閻魔に食って掛かった。
まだ震える足を無理矢理押さえ込んで、縺れる舌を必死で動かして。
私だけなら別に構わない。だけどなんであの娘まで……
私は自分の罪が解らない。解らなければ償えない。それが罪だと言うならば、それを教えてくれれば良いのに。
私は私の全てを持ってその罪を償おう。私だけならどうなっても別に構わない。
でもあの娘まで……咎められるのを知りながら私を助けてくれたあの娘まで……それだけは
――納得できない。
閻魔は私の剣幕に少しだけ驚いた顔をして。
だけど……緩やかに首を振った。
「駄目なんですよ。教わったのでは意味がない。
貴女が自分で自覚しなければ無意味なのです。
教えてしまっては、貴女は意味も解らぬままそれを成そうとするでしょう。それでは
――永遠に貴女は救われない」
心が失望に染まる。
確かにそう。私は解らないままそれに従うだろう。
でも、それならどうすれば良いんだろう。何をすれば良いんだろう。何を自覚し何を償えば良いんだろう。
どうすれば……私達は救われるのだろう。
「ふむ、悩んでいるようですね。
悩む事は良い事です。悩む事、考える事は言い換えれば自分自身との対話。
その無限の問い掛けこそが自身の罪を浮き彫りにするでしょう。
本来であれば説教はここまで。
後は貴女の自覚に任せるべきなのですが……
先に話したように時間がないのですよ。貴女達には」
時間がない? どういう事?
「さて、随分長くなってしまいましたね。
先程申したように貴女の罪は貴女が自覚するしかない。
さりとてそれを待つだけの時間もない。
本来、貴女には時間が与えられていたのですよ。
六十年前のあの時から、それこそ今に至るまで。
六十年経て出来ない事が、どうして六十年後に出来ようか。
ならば私に出来ることは――貴女を裁く事だけです」
「そ、そんな……」
「これ以上の問答は無用。
貴女は罪の自覚を持つ事が出来なかった。
ならば私から貴女へ贈る言葉は一つだけ……」
閻魔の背後の空間が歪む。
歪みから洩れ出る白い光。
私は知っている、あの光を知っている。
あの時、私を裂いた光。
容赦も慈悲も一切ない断罪の剣。
「あ……あぅ……あ…………」
咽喉が引き攣る。表情が歪む。嫌だ、あれは嫌だ。
痛いのは嫌だ。苦しいのは嫌だ。あんな思いはもう嫌だ。
逃げなきゃいけないのに、一秒でも早く、一ミリでも遠くへ逃げなきゃいけないのに。
身体が震えるだけで――言うことを聞かない!
閻魔の瞳が私を射抜く。
背中に尊き白光を背負い、表情は翳になって良く見えない。
手にした笏を真っ直ぐに私に向け、そして厳かに言い放つ。
「これが貴女に対する答え。私から贈る最後の言葉……」
『最期の審判(ラストジャッジメント)』
――そして断罪の光が、世界を切り裂いた。
ちっぽけな私の身体は光の波に飲まれ、激流に翻弄される木の葉のように押し流される。全身を貫く痛みが私の意識を消し飛ばし、灼けるような熱さが私の意識を呼び戻す。掻き混ぜられる私の感覚。霧消していく私の意識。虚無へと落とされる私の身体。
終わった――そう思った。
私の身体が灰になる。
私の意識が塵となる。
私の喜びも、私の悲しみも、何もなかった事にされてしまう。
消える。
消えてしまう。
私の存在が無くなってしまう。
嫌だな、それ(でも、仕方ないか)
そんなの嫌だ(そう、仕方ないよね)
きっと悪いのは私。
何が悪かったのかも解らないけど、きっと私が悪かったんだろう。
あぁ、ひょっとしたら
私が春ばっかり褒めてたのがいけなかったのかも。
夏も――
秋も――
冬も――どれもとっても素敵なのに。
ごめんね(消えたくない)
本当にごめんね(消えたく――ない)
次が、もしもあるのなら
今度は、全てを愛せるように――
?
あれ?
私
まだ
生きてる?
眩い光に眩んだ目を、おそるおそる開く。
光に灼かれた瞳は、中々焦点を合わそうとしない。
徐々に網膜が機能を取り戻してきた時、視界が最初に捉えたもの。それは
――両手と両足を広げ、私を護るように立ち塞がった『黒』
全身を白光で灼かれ、身体中から白い煙を立ち上らせている。
私は目の前の光景が理解できない。
消えるのは私なのに、罰せられるのは私だけでいいのに。
彼女の身体がゆらりと傾き、糸の切れた人形のように倒れこむ。ぼろぼろになった彼女がまっ逆さまに堕ちていく。
私の頭は真っ白なまま、だけど弾かれたように翼を閃かせ、その黒い身体を受け止めた。
予想以上に軽いその身体は、哀しいくらいぼろぼろで
血の気の薄いその顔は私の身体よりも真っ白で
意識は無く、鼓動は弱く、呼吸が止まりそう。
私は声を出す事も出来ず、もう一人の『私』を見つめる事しか出来なかった。
「……予想外ですね。貴女が私に抗うとは」
閻魔は冷たい目で私達を見ている。
先程までと同じく、私の心を蝕もうと根を這わす恐怖。
だけど、それ以外の何かが私の中で生まれようと……
「『黒』よ……貴女は感情を無くした存在。欠けたる者。虚ろな器。ただの虚無」
彼女の言葉が淡々と風に乗る。
その言葉の意味が解らない。
解らないけどどうでも良い。
ただその言葉が届く度に、私の中の何かが大きく膨れ上がっていく。
「貴女は『陰』。そうであるよう生み出されたもの。何故その運命に抗うのですか?」
ぐるぐる回る。
ぐつぐつ煮立つ。
何かが私の中で、出口を求めて荒れ狂っている。
「貴女は貴女のままでいる事。それが――」
「うるさいっ!」
突然の大声に閻魔は目を丸くした。私自身も驚いていた。
だけど、この溢れ出る感情を――抑え切れないっ!
恐怖が鎖のように私を縛っている。
それでも、怒りが私を突き動かす。
「貴女は――」
「うるさい。しゃべるな。この娘を……馬鹿にするなっ!」
私は睨む。真っ直ぐに彼女を睨む。
私の中で吹き荒れる何か、それは大きな炎を纏い弱い私を焼き尽す。
この娘を……これ以上傷つける事は赦さない。
ただそれだけを胸に私は――立つ。
「……意外ですね。『陽』の心しか持たない筈の貴女が、そのような言葉を放つとは……」
「もう良いでしょ。私は私の想いを伝えるだけ。貴女は貴女の信じるものを貫くだけ。言葉はもう……いらない」
私と彼女は見詰め合う。
もう私の中に怯えはない。
私と彼女は、今お互いに確固たる自己を持った対等な存在。
私は『黒』を静かに大地に横たえると、庇うようにその前に立ち塞がった。
『黒』が私を護ってくれたように、今度は私が――護ってみせる。
私を突き動かしていた嵐のような怒り。それはまだお腹の底に残っている。
でも今の私を動かしているのは、この娘を護りたいという気持ち。暴風を宿しながら凪のように静謐。矛盾しながらも想いは一つ。
改めて目の前の閻魔を見る。そういえば六十年越しの付き合いなのに、彼女の瞳を見たのは初めてな気がする。
深く優しい瞳。遥かに遠き空のような、深い水底のような――そんな蒼。
あぁ、彼女はこんなに綺麗な人だったんだ。
彼女は、その深く蒼い瞳をすっと目を閉じる。
気のせいだろうか? 一瞬、彼女が微笑ったように見えたのは。
「……そうですね。これ以上の言葉は無粋。
幻想郷の理に従い、弾幕を持ってお互いの意を通しましょう」
彼女は目を閉じたまま、右手に持った笏を私に向ける。
私は両足を広げ、両手を広げ、灰色の翼を一杯に広げる。
「では……『リリー・ホワイト』よ。
貴女の正義、貴女の意思、貴女の想い。
貴女の心と身体、全身全霊を全てを持って
閻魔たるこの『四季映姫・ヤマザナドゥ』に
――貴女の『存在』を示してみよっ!」
そして私は……生まれて初めて自分の意思で戦った。
力の差は歴然で
私の身体はぼろぼろで
もう声も出せないけれど
もう指一本動かないけど
それでも、最後に一発だけ。
自分の想いをありったけ込めた一発を
あのいつも涼しい顔をした綺麗な人に――届かせる事ができた。
勝てなかったけど……負けなかった。
喧嘩なんてそんなもの。
どんなにぼろぼろになっても、どんなに体を傷付けられても、どんなに痛くて苦しくても
自分の想いを伝えた者の勝ちなんだ。
「……良く頑張りましたね。伝わりましたよ、貴女の想い」
ほら、ね。伝わった。
「本当に驚きましたよ。
『陽』の心しか持たない筈の貴女が『陰』を知り
『陰』の心しか持たない筈のあの娘が『陽』を持つ。
『黒の中の白、白の中の黒』
貴女達は……すでに別々の存在なのですね」
今更何を言ってるんだろ。
私は私、あの娘はあの娘……そんなの当たり前。
だって、ほら
こんなにも――愛おしい。
「……これでもう大丈夫ですね。
貴女達はもともと一つの存在。私が白黒に分かったとはいえ、白だけの白、黒だけの黒なんて不安定な存在がいつまでも持つ筈がない。
貴女達はいつ消滅してもおかしくなかった。
春を殺す事しか出来ない自分を呪いつつ、自己を殺せない『黒』
春を愛する事しか出来ず、自分の存在を愛す事が出来ない『白』
ですが……最早、貴女達は別々の存在。
欠けたるものを、お互いに埋め合い補う事で独立している。
――もう消滅する事はないでしょう」
あぁ、やっぱりね。心配してくれてたんだ。
私、判ってたよ。
閻魔さまの癖に――あんなに優しい目をしてるんだもん。
「さて、そろそろ行きますね。『黒』の事は私に任せなさい。貴女も元気になったら会いに来なさいな。
彼岸花の咲くところで、暇そうにしている死神が場所を教えてくれますよ」
うん、行くよ。絶対
「それでは……あぁ、そうそう、これを言わないといけなかった」
ん、何?
「……リリー・ホワイト、貴女は貴女でいる事。それが貴女に積める善行よ」
そう言って、閻魔さまはあの娘を抱いて飛び去った。
さすが閻魔さま、難しい事を仰る。
私が私のままでいる。難題だ、どうすれば良いかも判らない。
私は私の事を、未だに何一つ知らないというのに。
だけど方法はある。私自身を知るたった一つの方法が。
私ともう一人の『私』
二人で一緒に考えよう――
咲き乱れていた花は落ち着きを見せ、世界は鮮やかな色彩から濃い緑へと移り変わる。
もう花の映える季節は終わってしまう。
私は春の終わりに一抹の寂しさを覚えながら、無縁塚へと向かっていた。
すでに散ってしまった桜、花びらを散らした春の花、求愛の季節を終えた鳥達。
でもこれは哀しい事じゃない。
これは次の春に新しい生命を生み出すための仮初の静寂。
春の終わりは哀しくても、また次の季節は巡り来る。果てず尽きず終わり無く、それでも世界は回っている。
私は春が好き。それは誰にも消せない私の想い。
でも夏も秋も冬も……それぞれに好きな人達がいる。私が春を好きなのと同じくらい、他の季節を好きな人達がいる。
私は私が好き。それは誰にも否定させない私の誇り。
でも私が私を好きなのと同じくらい、皆も自分の事が好き。自分の事が好きだから、他の人にも優しくできる。
それを教えてくれたのは、もう一人の『私』
だから去り行く春を見送りながら
真新しい季節に祝福を贈りながら
私は『私』に会いに行こう――
~終~
言い回し、深い意図、裏の優しさ、全てが美しく素晴らしいものでした。
リリーの着眼点とその発想から紡ぎだされたこのお話。
リリーだからこそ、作者様のメッセージも読者に上手く伝えられていると思います。
作品で涙を流すことはまずない私ですが、これは正直少しだけウルっときました。
この気持ちで加点して つ100点
好きですよ、この感性。
映姫さんの非情とも思える断罪にはらはらし、黒の反抗にわくわくして、そして白の強い真っ直ぐな思いに魅せられて。
最後はしっかり優しく締める。氏の後書きまで含めた、作品の豊かな味わいに感謝を込めて。ありがとう、といいたいです。お見事でした。
画一的なイメージしか与えないこれらのものに
確かな個性を吹き込んだ綴りはお見事でした。
黒を疎む烏もいれば、白を疎む兎もいる。
当たり前のことを当たり前と思わないだけでも、
世界は少し違って見えてきますね。
映姫様の白黒をつけたところのあたりから話に引き込まれてしまいました。
このあたりの氏の文章力にはあなどれないものがあるとつくづく感じました。
白の中に黒を持つこと、黒の中に白を持つことは罪であり、同時に強さでもあるということ、
それを自覚させようとした映姫様の慈悲に、さすが閻魔様だなと思っちゃいました。
しかし、リリーホワイトをこれほどにまで悲劇的に綴った作品は見たことがありませんでした。
私はリリーのいいとこだけしか見てなかったのかもしれません。それほど衝撃的な作品でした。
本当にいいものが読めました。GJ!です。
だが真に評されるは春妖精、なれば道を示した閻魔様も心底嬉しく思うだろう。…ううむ、これにて一件落着。よい心地にさせてくだすった作者様に感謝を。
氏の素晴らしい感性、また堪能させていただきました!
その上黒リリーが可愛いので文句などあろうはずがありません!
bernerd様 過分な評価を頂き赤面する想いです。四季映姫の優しさを伝える
事が出来たようで嬉しいですよー。これからも宜しくです。
銀の夢様 チャットでは色々とご指導頂いたにも関わらず、結局自分の意を
通してしまい申し訳ありませんw 『白』は子供じゃないってのがどうしても
譲れませんでした。できればこれからも見捨てずにご指導頂ければ、と。
名前が~様 黒と白の関係。それはあくまで私の妄想に過ぎません。にも関わ
らず、それを認めてくださってありがとうございました。
全も個も思も幻も……きっと単色じゃない。だからこそ『此処』にある。
単色となればそれはもはやただのシステム。そんなものは生命じゃない。
なーんて事を考えてみたりなんかしちゃったりしてw
箒 様 白黒と閻魔ちゃんを、気に入って下さりありがとうございました。
罪なき者は脆いです。罪を持ちそれでも立ち上がる事、それが意志の強さ。
でも罪って何でしょう? 自分の罪を見直す事。それも時には必要な事かも
しれません。とりあえず私に積める善行は『食べすぎに注意』だそーです。
ルドルフ様 ひょっとしたら迷裁きかもしれませんが、楽しんで頂けて何より
です。春妖精も本当は、白黒共にほわほわしてるだけかもしれません。
でも出来れば頑張る『リリー』を書きたかった。
満足して頂けたようでありがたいです。
豆蔵 様 いつもご感想を下さりありがとうございます。黒リリーは最初、
無口キャラで設定してたのに、気が付けば結構熱いキャラになっちゃいま
したw 気に入ってくださりなによりです。
感想を頂いた方々、最後まで読んで下さった方々、本当にありがとうござい
ました!
……きっと描写はされてなくても弾幕ばら撒いてたんでしょうねw
『―――貴女は己の在り方に無自覚すぎる。……
なるほどw
無自覚に迷惑な春妖精さん萌え。
そしてさりげなくやさしい閻魔様の裁きっぷりに痺れました。
お見事でした。
そんな中、一際惹きつけられました。
黒と白の関係は自分がよく聞く話では姉妹ネタが多いのですが、
これではもともと同一人物とのこと。
設定を含め非常に楽しく読ませていただきました。
リリーにはこれからはもっと自分を愛してあげてほしい。
リリーホワイトは春を伝える妖精ではあるけれど、
春を伝えるだけの存在ではないのだから。
映姫様のイメージも自分好みでした。
映姫様は絶対に損をしていると思います。
皆のことを考え行動をしているのに誰にも理解されない…
その上、皆に煙たがられて……
ですが、それでも彼女は生あるものを愛し続けるのでしょうね。
最後に本当にいい作品をありがとうございました!
おやつさん>チャットではいつもお世話になってます。貴方とHodumiさんとで
リリーについて語り合った時に、この物語は生まれました。
私観が入りすぎて、お二方の思い描くリリー像とは異なってしまった事が悔や
まれます。力不足を笑ってやってくださいなw
ぎちょふさん>空気を気に入って下さったとの事。正直、ストーリーを追うあ
まりキャラを都合良く動かしてしまったような気がします。もっと自然に物語
を紡げるようになれれば良いのですが。
読んでいて気持ちの良い空気。それをこれからも目指していきますので、宜し
くお願いします。
名前が~さま>三人を気に入って下さり、ありがとうございますw
映姫様が説教臭くて好きじゃないという意見を聞く事が多かったので、説教の
裏の優しさが伝える事が出来たなら嬉しいです。
SSを~さま>過分なまでの評価をありがとうございますw
この話におけるリリーの歪み(罪)と映姫の見え難い優しさを読み取って下さ
り嬉しいです。ちょっと説明くさい描写が多かったと思うので、もっと自然な
流れでそれを伝える事ができたら良かったんですけど。精進しますw
感想を頂いた方、読んで下さった方、本当にありがとうございました!
ご馳走様でした。