意識が戻ると、体内を激痛という名の猛毒が瞬時に走りぬけた。同時に目の前には一人の男が居るのが視界に入り、反射的に近くにあった筈の刀に手をやる―――どこにも見当たらない。ならばと殴りつけようとしたら、私に気付いたらしい男が慌てて離れた。
「落ち着け、落ち着け旦那。俺だ、あんたが薬を買いに来た時の薬屋だ」
聞き覚えのある早口で男はそう言った。不思議な程重たい拳を下ろしながら見ていると、確かにこの男には見覚えがあった。
「…あんたか」
頭の中の人物と目の前の男が合致すると、私は安堵の息を吐いた。話が通じる相手なら、問答無用で襲い掛かってくることもあるまい。改めて刀を探していると、私からは少し離れた所に置いてあるのが目に入った。おそらく私の反応を見越して薬屋が離しておいたのだろう。
痛む身体を宥めながら起き上がり自身を見下ろすと、あちこち矢が刺さっていたところに止血用の手ぬぐいが巻いてある。この男が手当てしてくれたのだろうか。
「どうしてだ?」
口に出してから分かりにくい質問だとは思ったが、薬屋はすんなりと答えた。
「あんたに死なれたくはなかったからな。里の奴らを見るにこうなるかもしれないとは思っていたが、顔を知ってる奴が目の前で死ぬのは夢見が悪いもんだよ」
それだけ言うと、薬屋は手元に目線を下ろした。つられて見てみると、彼は足のほうにも手ぬぐいを巻いてくれていた。どうやら相当な部位に矢が当たっていたようだ。死ななかっただけ僥倖と言えるだろう。
「これでいいだろ」
やがて手ぬぐいを巻き終わると薬屋はそう言い、立ち上がった。
「暫くはまともに動けないだろうが、死んじまうよりはマシだ。あいつらはあんたが殆ど死んだものと思ってるから、隠れていれば大丈夫だろう。酷く頭に血が上っているし、今のあいつらは猪みたいなもんさ」
あいつらと言った時、薬屋の目が僅かばかり鋭くなった。気が狂った知り合いの事を思い出した目つきのように私には見えた。
唐突に、薬屋に対して疑念が湧き出すのを感じた。私は躊躇い無く、たった今出してきたそれをぶつけてみることにした。
「どうしてここに来ているんだ?」
私の言葉を聞いてから、薬屋は諦めたように溜息をついて、こう答えた。
「あの娘を殺しにきたのさ」
大方予想できた答えだったが、やはりというか何と言うかその言葉に返事をできなかった。顔を俯けると、薬屋がぽつぽつと付け加えはじめ、やがて早口になった。
「だけどな、好きでやろうと思ったんじゃない。里の奴らに脅されたんだよ。これに来ないならお前は里の人間じゃない。出て行けってね。多分、俺と同じ理由でここに来ざるを得なかった奴もいると思うぜ。そうだとも、皆が皆おかしくなっちまった訳じゃないのさ。だってそうだろ、どうして好きこのんで集団して女の子を殺さなきゃならない? それが危ないことをしでかしてると知っていてもな。他にも方法なんざ幾らでもあるだろうに」
女の子を、殺す。
そう聞いた途端、幽々子嬢の顔がすぐに浮かび、それから彼女が立たされているであろう窮地のことに考えが及んだ。そうだ、私にはここで話をしている余裕など無かった。
鈍痛と激痛で作られたような身体を動かし、刀を手に取る。懇親の力を込めて立ち上がると身体が今まで聞いた事の無いような悲鳴をあげたが、そんな些細なものはもう関係なかった。
「おい、ちょっと待っ」
後ろで薬屋の声が聞こえた途端、庭のほうで異質な音がした。異質としか形容の仕様がなかった。
その音を聞いて最初に浮かんだのは、今日目撃したあの蝶。不気味な迫力と威圧感を備えた、多すぎる蝶。根源的に、その蝶と今の音は同じなのだと思った。
辛うじてそれが当てはまる物があるとすれば、一つ。
咆哮。
「行かない方がいいぞ」
薬屋が前に回りこんできた。庭で聞こえた音が恐ろしいせいか、心持ち顔が青い。私も青くなっているのだろうか。
「いいか、あんたは今とても動ける状態じゃない。何重にも巻いてようやく止血できたんだ、下手に動いたりしたら傷口が開いて死んじまうぞ、それに今の音、」
再び咆哮が聞こえ、もしかすれば―――聞き間違いかもしれないが―――悲鳴のようなものさえ聞こえた気がした。
「今のあれ、聞いただろう。畜生、あいつら何をしたんだ? とにかく行くな。行ったらやばいのは分かるだろ」
男が両手を広げて私を押し留めようとしたが、薬屋の肩を掴むと脇にどかす。そのせいでまた腕に痛みが走ったが、既に我慢できるものと―――幽霊を連れたこの身体は、ただの人より幾分かは丈夫だからだ―――なっていた。腕でぬるぬるしたような感触がしたのは気のせいだろうか。
私は庭の方へと歩いていくが、今度は薬屋も止めようとしなかった。代わりに切羽詰ったような声が聞こえた。
「くそっ、勝手にしろ。俺は逃げるからな」
足音、外のほうへと駆け出していく。
おそらく、今はそうすることが正解なのだろう。まともな人間ならばあの咆哮の主と出会いたくないのが当然だろうし、どんな修羅場が向こうでは展開されているのか想像もしたくないに違いない。
だが、あそこには幽々子嬢がいる。そして幽々子嬢はまだ生きているかもしれない。殺されていないかもしれない。私は死体を見ていないし、彼女の悲鳴も聞いていない。死ぬことも、生きていることも可能性としてあるだけだ。
ならば行動する価値はある。西行寺殿との約束と、己自身に課した制約に報いるにはそうするべきだ。
あの子を守りたいならば。
改めて庭へと向かおうとした途端、雨の音がすることに気がついた。さて、月でさえもこの修羅場に嫌気が差したのかと思ってから、今晩は雲など出ていなかったことに思い当たった。薄い雲ぐらいはあったかもしれないが、こんな雨が降り出しそうなものではなかった。
歩きながら雨の理由について考えていたが、思い当たる理由なんてどこにもなかった。頭を振り、たった今起きたことを気にしないことにした。今は幽々子嬢の元へ向かうのが先決だ。
庭に向かう足は、自然と早足になった。
―――寸前、私の声がそれを止めた。それは確かに私の声だったけれど、口を開いた覚えなんて無かった。
「待って。最後に……最後に、あれに触らせてください」
動かしてもいないのに私の顔が動き、目線の先には桜があった。
西行妖という名前の妖怪桜が。
胸の奥に、何か違うものが入り込んでいる。元々私の中にいたものでなくて、外からやってきたものだ。それが何かは分からないし、多分どんなに調べても詳しく分からないとは思うけれど、直感的に思った。目の前の桜が私の中に入り込み、私の声を使ったのだと。それがどんな意味を持つのか分からないし、どうしてそう言ったのかも分からない。けれども西行妖が私の中に入り込んできたことはすぐに分かった。
そのことに気を取られていたら、いきなり桜のほうへと突き飛ばされた。後ろからお父さん達が何か叫んでいたけれど、私を突き飛ばした人は構わずこう言った。
「おら、さっさと行け。変な真似をしたらお父さんとお母さんが大変なことになるからな。すぐに戻って来い」
きっと私はその言葉に従うべきなのだろうけれど、敢えてそうしなかった。どうしてか分からないけど命拾いしたことや、桜が口走った事を頭の中に入れても、黙って行こうとは思わなかった。さっきまで刀を突きつけていた人に目を向ける。痛かった、怖かった、そういうものを無理矢理押し付けてきたあの男の人が憎かった。こっちがそれを欲しいなんて一言も言っていないのに、こんな形にして叩きつけてきた人が。
ぎゅっと目に力を入れて、背の高い男の人を見た―――その瞬間、男の人が僅かに後ずさった。私のことを怪物のように見てからほんの僅かに息を飲んだことが。その目は、明らかにこう叫んでいた。
この娘に殺されるかもしれない、と。
それを見た途端、男の人に抱いた敵意が少し治まって、代わりに後悔が芽生えてきた。お父さんとお母さんが里の人に捕まっていること、どこにも見当たらない妖忌、首を落とされそうになった私。
全部、私の能力が引き起こしたことだった。私がいなければ、こんなことは起きなかったのだ。そうなれば今日だって里の人は押しかけてこなかったし、皆は静かな夜を過ごしていた筈。
もう何をする気にもなれず、私は桜のほうへと向き直った。なるべく先のことを知りたくないからゆっくりと歩いていって、前に一度だけ越えたことのある方陣を踏み越える。あのぬるぬるした感触は裸足のせいで前よりずっと強かったけれど、なんとか我慢できた。
そうして目の前にある大きな桜の木に触れて、上を見上げる。空の中を桜の枝が幅広く占めていて、こうしていると桜がこの世界の全てみたいに見えた。
始めてこの桜に触れた時は、私は何を考えていただろうか。桜のことを考えていたのだろうか、それとも……今のような事になることを考えていただろうか。あの日が、これから起こることを知らないまま過ごしていた時が無性に懐かしくなった。
こうやって桜を見上げてから、本当に色んな事が起こった。楽しいこともあったし、辛いこともあったし、それに―――
―――人だって殺しただろう、と耳元で囁く声がした。もう反応する気にもなれない、あの人たちだった。
《お前は沢山の人を殺した。皆苦しんでいった。子供がいる奴だっていた、家族がいる奴だっていた。それらを皆お前はぶち壊しにした。ぶち壊しにした。ぶち壊しにした。ぶち壊しにした》あの人たちは私の周りを回りながら、口々にそう言ってくる。お父さんにもお母さんにも里の人にも誰にも見えない人たちは、私の周りで踊っていた。
何も言い返せなかった。全部が本当のことだった。泣きたくなった。
殺したと、購えと、何度もあの人たちが告げてくる。今まで死んできた人たちが、私が殺した人たちが怨みに怨んで放つ呪いの言葉。
ごめんなさいと言えれば良かった。もうしません、絶対にしません、だから許してくださいと、這い蹲って言うことが出来れば本当に良かった。だけども、そうすることができなかった。
私の中には私じゃないものがいるから。
私じゃどうにもできないものが存在しているから、謝ることができない。もし謝って約束を破れば、今よりももっともっと怒りだす。そうなったら私はどうなるんだろう。私はどうすればいいんだろう。
簡単さ、とあの人たちが喋りだした。どうすればいいかなんて、とても簡単なことさ。簡単。
《お前が死ねばいいんだ》
そう言った声は、今まで考えたことも無かった素晴らしい提案を出すみたいに、とてもうきうきとしていた。あの人たちは喜んでいるみたいに口々に叫んで、私はそれが良いのか悪いのか分からなかった。
そうだ、お母さんやお父さんだって私が死ねば助かる。里の人から嫌がられることだって無い。妖忌だって買い物に苦労することもない。あの女中さんたちだって戻ってくるだろう。みんなが幸せになる。
何より、誰も死なない。
どろどろとしていて、大きく重さのある物が頭の中にゆっくりと広がっていく。体の中が今の考えに同調して、熱のようなものが全身に回っていく。ゆっくりと、ゆっくりと―――
がくん、といきなり膝が落ちた。そのくせ手が幹にひっついたままで離れなくて、手の骨がおかしくなったみたいだった。変な術でもかけられたみたいに手が離れなくて、頭の中が真っ白になっていく。行き場を無くした熱が体中をぐるぐると回り始めた。
そのまま体中から生気が吸い取られていくような、背筋が薄ら寒くなっていくみたいな感覚があった。身動き一つとれなくて、身体がただ震えた。声の一つも出てこない。何がどうなっているんだろうかも分からない。
「おい、一体何をしてっ!?」
後ろで聞こえた声が途中で途切れる。何か水が噴出すような音がして、私の上に降り注ぐ。後ろにあるものが知りたくて渾身の力を込めて顔を動かすと、目の前には、……何かあった。
幾つかに分かれた手とか足みたいなものがびくびくと動きながら、砂利の上に落ちていた。あの背の高い男の人はどこを見てもそこにはいなかった。男の人に似た首みたいなものが私を見ながらびくびくと震えている。首の下には糸みたいなものがはみ出ていて、それが何か分からなかった。ただ、気持ちが悪いな、と思った。その姿も、私に降りかかった赤い液体も、私の心も。
上の方で変な音が聞こえた。かさぶたを無理矢理はがした時に聞こえるような、べりべりという音。少しして、樹の向こうで何かが落ちる音が聞こえた。
身体は動かなかったけどなんとか顔だけは動いたから、庭中の人を見た。皆ばらばらになっている物には目もくれないで、ただ私の上を目をぐっと見開いて凝視していた。お父さんも、お母さんも。
つられて私も上を見上げて、ようやくその原因が分かった。
あれほど花をつけることがなかった妖怪桜の枝先に、考えられないほどたくさんの花びらが咲いていた。
溢れるほどたくさなる花びらを目で追っていると、桜の中で何かが動くのが分かった。目でわかる表面の部分でなくて、もっと奥の方から。
唐突に、物凄く大きな音がした。耳にした瞬間に、あ、私の耳が潰れた、と思った。
何か大きな動物があげる吠え声とか叫び声を私は連想した。とても大きくて、人間が今まで見たことも無いような動物。頭の中がびりびりとしていたけど、少しするとびりびりするのも収まってきたし、耳も段々と聞こえるようになってきた。
それから、今の音は桜が上げたものなんだ、と気付いた。どうしてかは分からなかったけれど。
その頃には、上から降り注いでくるものに注意を向けることができた。ぼやけ気味になっていた頭でも、何とかそれが何かは分かった。
雨。
最初はただ何も考えずに雨に打たれていたけれど、そのうちにどうして降って来るのかが分からなくなった。雲なんてどこにも出ていないし、どう考えても雨が降るのはおかしかった。
そう思っていると、後ろから音と声が聞こえた。最初に聞こえた物は何だったのか判別できなかったけど、次に聞こえた音はなんとなく予想がついた。
肉を包丁で潰す、あのだんだんって音。前にお母さんが料理をするときにそうやっていたから分かる。あれが後ろで聞こえてきた。
それが分かってから、今更のように声は悲鳴なんだと分かった。
雨はいつの間にか止んでいた。
庭へ出る少し前に雨は止んだ。
私は痛む身体をひきずりながら出来る限り急ぎ足で進み、そして西行寺家が持つ庭へ入った途端に、歩みが止まった。
「なんだ、あれは」
無意識のうちにそう言っている自分に気がついた。さっきまでどういう状況にいたのかも忘れて、ただ上を見上げることしか出来なかった。
この状況がどういうものなのか、当初は見当もつかなかった。頭の思考を司る部位が凍結したように、何かを考えることが出来なかった。見入ることしかできなかった。
視界に入るものは………桜の花びら。
ただただ、凄いという感慨しか抱けなかった。天まで届けとばかりに枝は高く、花は大きく、あの桜だけが季節を間違えたのではないかと思うほどだった。
妖怪桜は今、どの樹でも咲かせることの出来なかったほどの見事な花びらを生み出していた。どうして枯れている筈の桜が花を咲かせているのか、幽々子嬢が桜の下にいるのはどうしてかという疑問も、全て払拭してしまうほどに素晴らしい代物だった。
もしも他の状況であれば、遠くでそれを眺めながら酒を飲んでいたかもしれない。―――――今この時でなければ。
庭は、阿鼻叫喚の様だった。
あちこちで人間が、いや人間だったものが落ちている。ばらばらになっていたり、大岩にでも潰されたようにぺしゃんこになっていたり、それこそ、…異常だった。
多くの人間が悲鳴をあげながら走り回り、何かを試しているかのように、全員が違う死に様を見せた。胸に大穴を空けている者、全身に穴が開いて地面をのた打ち回る者、上半身と下半身が真っ二つにされている者。
庭は死体だらけだった。
辛うじて生き残っているのは、桜の下にいる幽々子嬢。私と同じように呆然と状況を見ていた西行寺殿と母親殿、西行寺殿に刀を突きつけていた者は、たった今首を飛ばされた。
その様を見て、私はようやく思い至った。
あの妖怪桜が全てを行なったのだと。
何も考えられなかった。ただ歯を鳴らして震えながら後ろの悲鳴を聞くことしか出来なかった。悪い夢だと思いたかったし、もしもそうなら本当に良かった。
何回も人が死ぬ音が聞こえた。柔らかいものが引きちぎれる音とか、刺さる音とか、どう表現したら分からないけれど、物が潰れたような音も聞こえた。その後に聞こえる微かな呻き声でその人が死にかけていることが分かる。気持ち悪くて仕方が無かったのに、吐くこともできなかった。
どんどん人が死んでいくのが分かって、その度に怖くなった。呻き声が止むたびに、とても大きな悲鳴が聞こえるたびに涙が出てきた。怖くて怖くて、胸が押し潰れそうだった。
それから、人が死ぬたびにあの人たちが増えていった。おまえのせいだ、全部おまえのせいだと叫びながら私の周りを飛び回って、みんな私を責めていた。片目が潰れている人が叫んで、足がもげかけている人がそれに賛同していた。目を閉じてもあの人たちの声は聞こえてきた。
私の中にいるものが吸い取られていることも分かった。あの私にはどうしようもない物が桜のなかに入っていって、その度に桜は喜んでいた。これで力が得られた、ずっと前よりも力が増えた、って。桜は喜んでいたけれど、私には怖くて仕方が無かった。あんまりに怖くてこのまま私は死んじゃうんだ、って思った。
叫んでくるあの人たちから目を逸らしたくて、私は桜を見た。桜の中には私の能力がたくさん溜まっているけれど、あまりに多すぎるからはちきれそうになっていた。どこかで溜まりすぎたそれを出さなきゃいけなくて、だから桜は雨を降らせた。今こんな風に、人を殺していることも。
そうして見ているうちに、私自身が桜の中に入り込んでいることに気が付いた。桜の中は広くてがらんどうとしていた。人間でいう心とか、魂とかそんなのはどこにも無くて、隅っこに欠片のような物―――きっとあれを使って桜は考えているんだ―――が少しだけ落ちているだけ。それが桜の全てだった。
桜の中で蝶がますます増えているのが感じられたし、桜を通じて外の音を聞けた。けど、叫び声と悲鳴だけだったからすぐにやめた。
音を聞けるように、桜の目から外を見ることができた。今の桜はお父さん達を見ていた。他の人はみんな死んじゃっていて、お父さんの傍には刀を持った人の死体があった。隣でお母さんが座り込んでいて、少し遠くのほうに妖忌も立っていた。お父さん達は自分を忘れてしまったみたいにぼうっとしていて、桜の目にはただの殺すべき存在としてしか写っていなかった。今の妖怪桜には、私達が塵のようなものにしか見えていないのも分かった。
だから、身体が反射的に動いた。桜が使っている能力を私も使えることは分かっていたから、たった今お父さん達に向けたそれを反転させて桜に向かせた。意識してそうしたんじゃなくて、妖忌たちが危ないと思ったからただそうした。
桜の中の感覚がごちゃごちゃになって、すぐ後で桜があげた悲鳴が聞こえた。錆びついた鉄同士が擦れたような、そんな嫌な音だった。ようやく開いた桜の目で外を見ると、桜の枝がずたずたになっていたし表皮もめちゃくちゃになっていた。そこから変などろどろしたものが流れ出ている……もしかしたら、あれが桜にとっての血なのかもしれない。
妖怪桜は、ようやくといった感じで私に気づいていた。自分のしていることに夢中になっていたから、私が入り込んでいたことに気づかなかったのだろう。私は構わないで、もう一回桜の能力を使った。
枝じゃなくて肉を切り落とすような気持ち悪い音がして、また枝が一本落ちる。桜が大きな声で叫んで、私を憎んでいるのが分かる。私のことを怖がってもいる。桜の中は酷く混乱していた。
また同じ事をしてやろうと思った所で、あの人たちのがなり声が耳に入ってきた。《何もかもお前のせいだ、死んでしまえ、死んでしまえ》
うるさいと言えれば、声を無視できれば良かったのに、私はそうできなかった。何度も声は繰り返されて、私は何もできなかった。そうしているうちに、桜の中で何かが弾けとんだ。
何があったのかを桜の中にある目で追って、納得した。
桜が耐え切れなくなったんだ。
妖怪桜の中では蝶がひしめき合いながら、がらんどうの身体の中をぐるぐる回っていた。数え切れないほどの蝶が身体の中に入り込んでいて、みるみるうちに桜は死に始めた。内壁が音を立てて腐っていき、つんとした吐き気がする匂いをさせた。
桜は混乱していた。凄く混乱していた。自分の中から懸命に蝶を追い出そうとしていたけど、逆に蝶は桜を食い尽くそうとしていた。また桜が悲鳴をあげる。さっきよりも甲高い音だった。逆流してきたみたいに、桜が考えていることが私の中に入り込んでくる。
痛い、痛い、どうしてこんなことになったのだ、痛い、痛い。痛い。痛い。
ずっと桜は悲鳴をあげていたけれど、やがて私の事を思い出したのか、私を殺そうと触手のようなものを伸ばしてきた。私の中から蝶を吸い取った時の、あの触手。
逃げる必要も無かった。身体を殆ど満たそうとしていた死蝶の群れが私と触手の間に割り込んで、蝶がそれを食い始めた。死にかけていた桜がまた悲鳴をあげて、私はそろそろ自分の耳がおかしくなるんじゃないかと考えた。
身体のどこかで、べきんと何かが折れる音がした。
それが決定打になった。
桜の中が潰れると同時に、私の意識も外に弾かれた。
あっという間のことだった―――西行妖の身体に大きな裂傷が走ったかと思うと、妖怪桜から声のようなものが聞こえた。声というよりは何と表現すべきか……断末魔、だろうか。あまりに痛々しい音に耳を塞ぐことも忘れて、ただ顔を顰めることしかできなかった。
私たちはその場から動くこともできず、ただ事態が終わることを待っているしかできなかった。身体の中が空っぽになったように力が入らなくて、足を動かすことさえ出来なかった。
やがて時間が経ち、枝から咲き誇っていた花々が一斉に枯れ落ちた。桜色の突風のようにそれらは私たちの方へと吹きつけてくる。風が強くなってきていると思いながら、私は目を覆った。
突風が吹き止むのを待って目を開けると、すでに丸裸当然となっていた西行妖の前に幽々子嬢が倒れていた。その姿を見ても、最初は足が動かなかった………再び何かが起こるのではないかと思うと、幽々子嬢に駆け寄ることよりも警戒心の方が先に立っていた。雲が無い空から雨が降り、桜が人々を殺し始めるような夜だったのだ。それならばいたちの最後っ屁をこいても不思議ではない、私はそう思っていた。
その凍りついた場を壊したのが、母親殿だった。
「幽々子っっ!!」
彼女は叫ぶなり走り出し、累々と横たわる死体を乗り越えて幽々子嬢のもとへと向かっていた。その様子を見て私と西行寺殿は顔を見合わせ、それから駆け出した。
母親殿が抱き上げた幽々子嬢の身体に触れると、肌は酷く熱かった。その瞬間今まで頭から飛んでいたことが戻ってきて、顔が青ざめるのが分かった―――幽々子嬢は今、重病人だったのだ。それがこんな状況に置かれてしまい、悪化しないほうがおかしいに決まっている。
すぐに部屋へと連れ戻そうとした矢先、幽々子嬢の身体が微かに動いた。彼女の顔を見ると、幽々子嬢はうっすらと目を開けていた。
ほんの少しだが安堵し声を掛けようとすると、彼女の頬を何かが伝い落ちた。
………涙?
それを見た直後、私と西行寺殿と母親殿は動きを止めた。驚いたとかそういうものではなく、あまりにそれが自然すぎて動くことが出来なかったからだ。宝物のように幽々子嬢を支えていた母親殿も、上から娘の体調を心配しながら見下ろしていた西行寺殿も、すぐ傍で幽々子嬢が持っているものが見えた私にも。
幽々子嬢は短刀のようなものを持っていた。けれどもそれは普通な形をした短刀でもなく、私が今まで見たことも無いような形をしていた。何かで形容できるとすれば…あの殺戮の際、西行妖から放たれていた不可視の刃、それに近いものを感じた。
おそらくその短刀は、全員の目に入っていただろう―――それを承知の上で、誰も止めなかった。否、止めることが出来なかった。彼女のしようとしていることを、何を引き起こすかを予感に近い形で知りつつも、全員が止めようとしなかった。他者によるものならば誰かが止めたかもしれない。だがそうではない。
幽々子嬢は、それを自分の手で行なおうとしていた。
それを彼女は胸の前に掲げ、私達が見ている前で短刀を己の胸に振り下ろした。
どこか遠くから私は私自身を見ていた。どこか似通った感覚があることを思いだし、人を食うときと同じだということに気が付いた。私が外にいる間、もう一人の私は眠っていること。だから感じているものや思っている事、そういう物は違っている、そんな感じ。もうひとりの私はお母さん達に支えられながら横になっていて、ぼんやりと目を開けていた。その視線の先に私は浮いている。
周りを見渡すと、様々な人が死んでいるのが見えた。若い男の人、おじいさんみたいな人や私より少し年上みたいな人も中には混じっていた。あちらこちらに彼らは散らばっていて、本当に酷い有様だ。
私のすぐ傍で何かが飛んでいて、すぐにそれが蝶だと分かった。蝶は空の中に広く浮かんでいて、この屋敷の中を一杯にできそうな程に多い。けれどもそれが下の人たちに見えることはない。本来私達は不可視なものなのだ。それがおかしくなったのは、おそらく幽々子が弱っていたからだろう。だから私が希薄になってしまい、この蝶達は身体の中から逃げ出してしまったのだ。
そこまで考えた時点で気付いた。私は幽々子の蝶、彼女の中にいる物だ。望む時に人を食うのが私、あの子は何も知らないただの宿主。私がこの蝶達を全て束ねているのだからこそ蝶は私の傍にいるのだし、私の言うことに従うのだ。
幽々子に目を向けると、彼女が考えていることが伝わってきた。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい―――彼女の口癖のようなものだ、彼女の周りでは自虐心が現実となり、いつも幽々子を責め苛んでいる。
空想の怨霊にいつも周りを囲まれ、一人怯えて泣きじゃくっている少女。それが西行寺幽々子、もうひとりの私だ。
彼女はもう、限界に達してしまっている。
あの妖怪桜が殺した人間が幽々子を責めている。お前のせいで俺達は死んだ、バラバラにされた、お前があの桜に近づかなければ良かったんだ、と。西行妖、あの妖怪桜が私を吸い込んでいたせいで私と幽々子は分離したのだろう。だから私はこうしてここにいる。他にもこの状況を引き起こした物はあるだろうが、可能性としてはそれが一番高い。
彼女の目には、罪悪感と慙愧と虚無と後悔、哀しいものしか存在していなかった。みんなに迷惑をかけたくないと彼女は思っている。これ以上お父さんやお母さん、妖忌に迷惑をかけたくないと。ここから消え去りたいと。いっそ死んでしまいたいと。
そうすれば皆が幸せになると。
だが、彼女を取り巻く人たちは誰もそう思っていない。彼女が自尽を望んでいることに対して、彼らは生きることを望んでいる。まさしく両極だ。
私が少し力を込めると、彼女の手に短刀が出現した。不可視の蝶を変化させたものだ、余程特殊な者で無い限り人には見えない。
幽々子の手が、それをぐっと握り締める。刃の部分に手が食い込み、血が出てくる。幽々子は私を見ていた…決めかねているのだろうか。この世界にいることを望んでいるのか、ここから消えたいのか。怨霊から逃げ出すか、あの人間達から離れるか。判断することが出来ないのだろうか。
私は何も言わず、ただ幽々子に『それ』を感じさせた。
私と幽々子が分離した衝撃で私の存在が消滅しかけていること。蝶達は幽々子の中に吸収され、正式に彼女の能力となるだろうが、身体に落ち着くまでにある程度暴走するだろうということ。そのある程度の時間で、この一帯にいる人間は幽々子を除いて全て食い尽くされるだろうこと。幽々子が死ねば蝶達も仮死状態になり、暴走の可能性も無くなるということ。
そうすることで何を呼び込むかは分かっていたが、私は躊躇わずに伝えた。強要したわけではない。ただ選びやすくしただけだ。
幽々子は何も言わなかった。ただ頬を一粒涙が伝い落ち、彼女は短刀を強く握り締めた。手の中を血が流れるのを見て、私は目を閉じた。既にこれから何が起きるかは、彼女の意思を通して知っている。
風切音。
灼熱。
激痛。
目を開けると、私の視界はぼやけがかっていた。そこまで私が希薄になってしまったからか、それとも幽々子が死に掛けているからだろうか?
幽々子に目をやると、彼女の胸元は血で染まり、そこから短刀が生えていた。人間達は何が起こったか分からないように凍りつき、幽々子は激痛で濁った目で私を見ていた。
達成感―――だろうか。一瞬だとしても彼女の目からは先程の哀しいものが消え、本当に小さくその感情が見えた。
そして、微かに。ほんの微かに彼女は笑った。口から血を溢れさせて身体を痙攣させながらも、彼女は懸命に笑っていた。
これで皆が救える。もう誰も死なない、そう彼女の目は語っていた。
束の間のことだろうが、幽々子は幸せそうに笑っていた。
誓っても良い。今の彼女の周りに、あの怨霊達はいないと。
やがて彼女は笑いながら目を閉じて、逝った。
それと同時に私も消失した。
時間が止まっていたように、短刀の柄が幽々子嬢の胸元から生える様を、ただ黙って見ていた。幽々子嬢は口から血を流し笑いながら目を閉じて、その身体から力が抜けていくのが感じられた。段々と身体が重くなっていき、重量は既に少女の体重とはとても呼べないものとなっていた。それが何を意味しているか、分からないほど私は愚かではなかった。
風が強くなっていき、私の黒髪がばさばさと音を立てる。幽々子嬢から生えた短刀が音も無く消えた。西行妖にまだ残っていた数枚ほどの花びらが全て吹き飛び、本当に枯れ木となった。庭の死体が吹き散らかされ、ある程度軽いものは隅っこへと飛ばされていった。全てが止まったような空間の様子を横目で見ていると、母親殿が口を開いた。
「…どうしてでしょうか」
風に負けそうな程小さな声で呟いたそれは、私には独り言のように聞こえた。いや、本当に独り言なのだろう。娘の死体を抱いた母親は抜け殻のような声で、尚も言った。
「どうしてこの子が死ななければならなかったのでしょう。どうしてこの子が苦しまなければならなかったのでしょうか。どうしてこの子は笑いながら死んでいったのでしょう。どうして、どう、して、どう、し、て…っぇ………!」
あまりの辛さに叫びたてるわけでもなく、凄惨な結末に怒り狂うわけでもなく、ただこの人は―――悲しんでいた。今まで耐え忍んできたものにとうとう押し潰され、ただ、すすり泣いていた。これほど物寂しい情景は、かつて見たことも聞いたことも考えたことも無かった。
そして、私も泣いていることに気がついた。
理不尽で、訳が分からなく、不条理だった幽々子嬢の死に対して、私はただ泣くことしかできなかった。それでどうなるものでもなく、それでもただ、泣いているだけだった。
彼女は笑いながら逝った。どうして笑ったのだろうか。どうして自尽を選んだのだろうか。どうして私は止めることが出来なかったのだろうか。母親殿と同じことを考えながら、私はただ泣いた。
「幽々子の死体を西行妖の下に埋める」と西行寺殿が言い出したのは、庭に散らばっていた大量の死体をかき集めて焼却した後だった。辺りには生き物の気配が全くせず、それこそ全ての生き物が死んでしまったのかと思われた。
「今はただ一時的に小康状態に陥っているだけで、この妖怪桜も時間が経てば元の力を取り戻すだろう。遥か昔に一度、西行妖が力を無くしたことがあったが、時間と共に力を取り戻している。
だから死の能力を持っている幽々子を西行妖の根元に埋めて、今度こそ西行妖を封じる」というのが西行寺殿の言い分だった。
母親殿はその意見に対して猛反発していたが、私は黙って妖怪桜の根元で穴を掘り始めた。私達はここを離れなければいけないのだから、ここに埋めなければならない謂れも無い。例え桜が復活したとしても、ここから人が消えるだけ、幽々子をこの地に縛り付けるのはもう耐えられない。彼女の言い分はこうだった。
そのうち非難する声が途切れた事に不思議に思って振り向くと、西行寺殿は―――泣いていた。拳を硬く握り締め、穴のすぐ傍で横たわっている幽々子嬢を見つめながら、今まで一度も見たことの無かった涙を零していた。
「それが…私のするべきことだ。なすべきこと、だ。良い領主でなかったかもしれない。…上手く彼らをまとめられず、こんな惨事も引き起こした。この子がやろうとしたことを止められなかった。この子を救えなかった。
だが…私はここの領主だ。これからは違うとしても、ここの…この地の領主だったんだ。だから、私は……、最後の、この仕事を…果たさなければ、…いけないんだっ…!!」
西行寺殿は俯きながら死体を見下ろし、掠れ疲弊した声でそう言っただけだった。だがそれで十分だと私は思ったし、母親殿も何も言わなかった。率先して西行寺殿が穴掘り用の道具を手にし、母親殿も消極的ながらそれに続いた。
必要な深さだけ穴を掘り終えると、穴の底には微かに西行妖の根が見えた。とても樹から生えているものとは思えない色合いをしており、僅かな腐臭までもが嗅ぎ取れた。こんなところに幽々子嬢を放り込まなければいけないことに強い抵抗感を覚えたが、努めて我慢した。
ゆっくりと穴の底に幽々子嬢を下ろし、土を埋めながら母親殿が言った。
「今度生まれる時には―――もっと、楽しいことを考えられる子になってほしいですね。いつもにこにこと笑って、毎日が楽しくてしかたないような、そんな子に」
「この桜の妖力に縛り付けられるから、おそらく転生することは出来ないだろう」
西行寺殿が額の汗を拭いながらそう返し、もう一言言った。
「だが、妖怪桜の力に当てられて、この地に根付いた亡霊にはなるだろう。もしかすれば…その通りに。生まれ変わるかもしれないな」
母親殿は西行寺殿の顔を見据えて、ぎこちなくだが微笑んだ。この子が幸せになれるかもしれないなら、それで十分です。とでも言うように。
やがて穴が埋まりきった。未来永劫この地に残り続ける幽々子嬢のことを思うと心の中が並々ならぬもので溢れそうになったが、強く歯を噛んで堪える。もっと辛い人もいるのだ、私よりももっと辛く感じている人が隣で立っているのだと思って。
墓を立てることが頭の中を過ぎったが、敢えて提案しなかった。墓を立てれば本当に幽々子嬢が死んだことを認めることになるのだろうし、そうしても平気だとは今の状態では到底言いきれなかった。
一際強い風が庭を吹き抜けていく。この場所で起きた忌まわしい出来事を振るい落とすために、神仏の類が情を利かせてくれたのだろう―――そう考えてしまうのは、感傷的すぎるだろうか。
最後に盛り上がった土に手を合わせてから、私達は屋敷から出た。
あれから何年経ったか、正確な年月はよく覚えていない。その間にも色々なことがあり、まさしく千差万別だった。嬉しいもの、辛いもの、楽しいもの…それが味わえることを幸せだと思うのは、決してやりすぎではあるまい。あの地での殺戮を経験したとなっては。
焚き火の中で薪が爆ぜ、ぱちんと音を立てた。闇の中でフクロウが鳴く音が聞こえる、それに応えて虫が鳴く音も。刀が手元にあることを確認してから、私は焚き火の中にぼんやりと目を落とす。
私の隣では、布にくるまれた赤ん坊が眠っている。小さい手を握り締めているその姿を焚き火が煌々と照らし、その様を見ていると野営で張り詰めた気持ちが随分と穏やかになるのが感じられた。
この赤ん坊に恵まれて、何年経ったか。この子は私の子供ではない。細かい所は省くが、私の孫だ。名前は妖夢と言い、西行寺殿は寝床の中で良い名だと言ってくれたことを覚えている。妖夢が生まれたとき、母親殿は病でこの世から去っていた。
私が妖夢を連れ家を―――西行寺家を出てから、今まで住んでいた所だ―――出る直前に、西行寺殿は亡くなった。何ヶ月か前から寝たきりとなっていて、町医者の話によれば寿命による老衰らしかった。骨ばった顔でなんとか笑みを作りつつ、臨終の床で西行寺殿はこう告げた―――妖忌、その子を連れて行け。ここにはもう未練はあるまい、長年私達はお前を縛っていたろうが、お前はもう自由だ。好きに行動しろ、と。途切れ途切れの息で言い切ったその言葉が、未だに耳の中に残っているようだ。
不意に痒みを覚えて、月日のせいで幾分白くなった頭を掻く。かつてはあれほど若々しかった己が、今では白髪が黒髪と同じぐらいの比率になっていることに苦笑した。いくら人より老化が遅い半人半霊と言っても、老いて行くことには変わりが無いらしい。
隣の妖夢が寝ぼけたせいかくしゃみをして、私は腕の中におさまる程小さな赤ん坊をなるべく丁寧に抱き上げた。親馬鹿ならぬ爺馬鹿という訳ではないと思うが、この子は将来きっと美人になるだろう。すぐに眠りに落ちた妖夢の顔を見ながら、そう思った。
ここから遠く離れた西行寺家という所で女の幽霊を見た。旅人らしき風体の男は同業者らしき男にそう話していた。
私がここで野宿することになった直接の発端はその話だ。それを聞くまでは昔の西行寺家のことなどすっかり忘れていたし、あれから西行妖や西行寺家近辺の人々がどうしたかも頭の中からは消えていた。幽々子嬢は時たま頭を掠めていたが、ただそれだけだった。
小銭を掴ませて男から話を聞きだすと、彼は頼まれてもいないことまでぺらぺらと喋りだした。昔から西行寺家は曰く付きだったらしく、かつてその屋敷で大量殺人が起こったこともあったらしい。奇跡的に生き残った者の話によると犯人は人型の妖怪らしく、集会を行なっていた人々を庭荒らしという理由で斬って回ったとか。他にもその庭にあった妖怪桜が自我を持ち、これまた集会を行なっていた人々を食って回っていた等、男から聞いた噂は多岐に昇っていた。噂が広まったせいで元々その地に住んでいた人々も別の場所へと移動し、やがて不毛の地となったという噂もあった。
男はその噂を聞きつけ、その時の目的地近辺にあったため西行寺家の中に入る気になったという。中は打ち捨てられたように荒廃し、家具らしきものはあらかた盗人に持ち去られていた。庭の方も見て回ったが、そこには枯れた桜と砂埃しかなく見る価値は全く無かった。
そして落胆し屋敷を出ようとした途端、縁側に少女が座っていたのを見たという。
少女は手に持った扇―――本当に扇がどうだったかは怪しかったらしいが―――をためつすがめつしながら、ぼんやりと足元に目を落とし、その場に座っていた。さっきまでは誰も居なかったそこに見慣れぬ服装の少女が座っているのを見た男は驚き、一瞬声をかけるかそうしないか迷ったらしい。理由の一つとして、少女は酷く美しかったからだ。
だが少女が目を上げると男と目が合い、あっと言う間に消えうせてしまったという。あまりに唐突なことで目を擦ったが、一瞬前に少女が座っていたその縁側にはもう誰も居なかった、と。
話はここで終わり、家に戻ると私はそれをそっくりそのまま西行寺殿に報告した。そうか、と一言だけ彼は言い、それで一旦それは終いとなった。だが西行寺殿は死ぬ寸前にその話を蒸し返し、やがてここに至る。
『この桜の妖力に縛り付けられるから、転生することは出来ないだろう。だがこの地に根付いた幽霊にはなるかもしれない』
遥か昔、私にとって娘同然だった少女を埋めた際、西行寺殿はそう言った。
勿論、別な存在である可能性はある。幽々子嬢とは全く関係の無い、ただの幽霊ということだってある。
だが考える度に描いてしまう。西行妖の妖力のせいで幾分か大人びた幽々子嬢が縁側に座り、手に持った扇をためつすがめつしている情景を。何をするわけでもなく、その場にただ存在しているだけの情景を。
西行寺家に戻りその幽霊と会ったとして、私は最初に何と言うだろうか。……お久しぶりです。駆けつけるのが遅くなりました。魂魄妖忌です、幽々子嬢、覚えておりませんか?
おそらく、今考えているそれら全てが出会った瞬間に吹き飛ぶだろう。その幽霊を目にし、頭の中の存在と照らし合わせた瞬間に他にある全ての物が消え去るのだ。
落ち着け、と諌める自分がいる。冷静になれ、もっと状況をよく考えろとその自分は言っている。だが会いたくて仕方が無いと叫びたてる自分もまた存在している。幽々子嬢に再び会い、その姿を確認したいと言っている。
そして私は、その言葉に従おうと思う。長年に渡って私の中に積み重なってきた物を、彼女と会うことによって無くしたいと思っている。
彼女が自尽したこと、妖怪桜の根元に埋められたこと、西行妖とあの少女が巡り合ったこと。その果てに何が生まれたのか、私は西行寺家に赴いて確かめたい。
気付けば焚き火が随分弱くなっていたので、薪を一本放り込んだ。音を立てて薪がまた爆ぜる。そろそろ休もう、明日からはまた強行軍だ、こんなところで体力を消耗しているわけにはいかない。妖夢のことも考えると、なるべく早めに着かねばならない。
妖夢をそっと隣に降ろし、私も横になる。眠気がようやく私を包み込むのが感じられる。
意識が暗闇の中に落ち込む寸前、ある一つの絵が出てきた。本当にごく自然な、ありえそうだと思える光景だった。
夜の中。幽々子嬢が誰も存在しない庭で扇と共に、くるりくるりと踊っている。柔らかな動きで見る者を魅了し、穏やかな気持ちにさせるようなものだ。もしそれを見られる者がいれば、その者は幸運だと言わざるを得ない。
彼女は最早泣いていないし、何かに怯えることもなかった。己の所業について自尽を考えるほど思い悩んでいないし、何度も何度も必要の無い謝罪をすることもない。
彼女は笑っていた。
こういう原作でほとんど語られていない話を書くと設定云々を気にしてしまいがちですが、この作品は違いました。
正直、原作の設定が邪魔に感じるくらいです。
良い作品をありがとうございました。
私には分不相応な程の感想、非常に有り難く思います。
この感想を励みに、次の作品にも尽力していきたいと思います。
それでは。
私的にはそれなりに良いものと思っていたので残念ですが、その点を直すために頑張っていこうと思います。
感想をありがとうございました。