ぎちぎち、ぎちぎち。
耳の奥で回る歯車が五月蝿い。鼓膜の上を直に転がるようなこの音が、兎角五月蝿い。
がちがち、がちがち。
自分の歯が五月蝿い。震えにより打ち鳴らされる音が、兎角五月蝿い。
目の前にいるのは只、綺麗なだけの女。
異人の血でも入っているのだろうか。少々くすんだ、しかし美しく輝く金髪。その色は月の光がよく映える。風変わりなその服には乱れなど一点も無く、また乱れることを知らないようでもあった。
そんな存在を前に、私は今惨めに転がっている。
左腕は既に消え、右眼は光を失い、両足の爪は何時の間にか全て剥がれていた。
抉られた腹から臓物が溢れていないのが唯一の救いだろうか。おかげで少しだけ寿命が延びている。
ひゅー、ひゅー。
呼吸をする音が五月蝿い。獣の様に激しく呼吸しているのに、蚊が耳を翳める様な小さな音が兎角五月蝿い。
ぞぶぞぶ、だくだく。
自分を中心に紅が広がる。流石に音は聞こえない。だが、五月蝿い。
今まで私を調伏しようとする愚か者は、一匹残らず八つ裂きにしてきた。生きたまま少しずつ喰らってやった事もあった。
当然だ。他者を滅そうとする者は自らも滅されると言う事を知れ。
そんなこともわかっていない奴らが、見っとも無く赦しを請う姿は快感だった。それらを虫けらのように捻り殺すのは、更に快感だった。
彼奴等の眼には私の存在が紛れも無く、地獄として映った事だろう。
だが今は違った。
立つこともできず。芋虫のように転がりながら、無様に唸っているのは他ならぬ私。女はこれを見て笑うでもなく、喜ぶでもなく。かと言って、悲しんでいるでもない。結果の分かった双六をしているかのように退屈な眼で、まるで路傍の石を見ているようだった。
女は蜻蛉の羽を千切るように、私の尾を毟っていった。
気がつけば一つ―― 気がつけば二つ―― 三つ四つ五つ六つ七つ八つ。
九本あった尾も、今や一本を残すのみとなっている。既に私の力は殆ど失われてしまっているだろう。
もはや九尾ではなく只の化け狐。何処にでもいるような妖怪と成り下がった。
嘘だろう。こんなのは嘘だ。
今まで幾つもの国を傾け、全てを欲しい儘にしてきた私がこのような事になるなど有り得ない。
そもそもこれは何だ? この女は誰だ?
こんなモノは知らない。これ程までにおぞましい力を持つ存在など、私は知らない。
「あなたはちょっと悪ふざけが過ぎたのよ。もうこの世界で生きることが許容できなくなっている。本来ならこちら側に干渉するなんて面倒臭い事はしないのだけど、今回は特別。ここで静かに消してあげるわ」
かつかつかつ。
女が歩み寄ってくる。散歩しているような気軽さで歩を進める。
立ち向かう力など微塵も残されていない。次に手が振るわれた時、私は只の肉塊と化すだろう。そして命を終えるのだ。
しかし見っとも無く命乞いをする気など毛頭無い。それをすれば私の矜持は折れる。それをすれば女に更なる敗北を喫する事になる。
雫ほどしかない余力を以って、女を睨み付けた。私を殺す地獄の姿を、網膜にしかと焼き付けるために。
視線が絡まる。
口からごぶごぶと血を流しながらも、最後の瞬間まで眼を逸らす事はしない。
自己満足以外の何物でもないこの抵抗は、もはや滑稽でしかないだろう。
だが稀代の妖獣、九尾としての誇り。それだけが今の私を動かしていた。
一間ほどの距離で歩みが止まる。
その時、閉じそうになるのを必死にこじ開けている左眼が何かを掴んだ。女の唇が動いているのが分かる。
どうやら何かを話しているようだが、色んな音が邪魔をしてそれが聞こえない。手向けの言葉だろうか。
さようなら。
それじゃあね。
おやすみなさい。
どの言葉でもよく似合っている気がした。
自分に終りをもたらす相手は、最後になんと言っているのだろう。
あぁ、それにしても音が止まないのが悔やまれる。私の意思に反して五月蝿くなるばかりなのは、一体どういう事か。
ぎちぎち、がちがち、ひゅーひゅー、ぞぶぞぶ、だくだく、ぎちぎち、がちがち、ひゅーひゅー、ぞぶぞぶ、だくだく、ぎちぎち、がちがち、ひゅーひゅー、ぞぶぞぶ、だくだく、ぎちぎち……
ぴたり――
ふいに、音が止まった。
怖いほどの静寂。
そして女の言葉が耳に届く。
それはとても甘美な果実。その声に全てを委ねてしまいたい。
私の耳はこう聞いた。
「ねえ、あなたはまだ生きていたい?」
考えるまでも無い。誰だって死にたいとは思わない。生きたい、と心から思った。
だが、女に答える前に私の意識はぶつりと途切れ、全てが闇の中へと喰われていった。
「連れて行ってあげる。全てを受け入れてくれる世界にね。それはそれは残酷な世界だけれど」
さっきまで狐がいた場所を前に、女は心底楽しそうに呟いた。
これは外界の厄介ごとに気まぐれを起こした幻想郷の大妖怪と、それに巻き込まれてしまった九尾の狐のお話。
それは気が遠くなるぐらい、昔々のお話。
そして二人の馴初め。
<終幕>
耳の奥で回る歯車が五月蝿い。鼓膜の上を直に転がるようなこの音が、兎角五月蝿い。
がちがち、がちがち。
自分の歯が五月蝿い。震えにより打ち鳴らされる音が、兎角五月蝿い。
目の前にいるのは只、綺麗なだけの女。
異人の血でも入っているのだろうか。少々くすんだ、しかし美しく輝く金髪。その色は月の光がよく映える。風変わりなその服には乱れなど一点も無く、また乱れることを知らないようでもあった。
そんな存在を前に、私は今惨めに転がっている。
左腕は既に消え、右眼は光を失い、両足の爪は何時の間にか全て剥がれていた。
抉られた腹から臓物が溢れていないのが唯一の救いだろうか。おかげで少しだけ寿命が延びている。
ひゅー、ひゅー。
呼吸をする音が五月蝿い。獣の様に激しく呼吸しているのに、蚊が耳を翳める様な小さな音が兎角五月蝿い。
ぞぶぞぶ、だくだく。
自分を中心に紅が広がる。流石に音は聞こえない。だが、五月蝿い。
今まで私を調伏しようとする愚か者は、一匹残らず八つ裂きにしてきた。生きたまま少しずつ喰らってやった事もあった。
当然だ。他者を滅そうとする者は自らも滅されると言う事を知れ。
そんなこともわかっていない奴らが、見っとも無く赦しを請う姿は快感だった。それらを虫けらのように捻り殺すのは、更に快感だった。
彼奴等の眼には私の存在が紛れも無く、地獄として映った事だろう。
だが今は違った。
立つこともできず。芋虫のように転がりながら、無様に唸っているのは他ならぬ私。女はこれを見て笑うでもなく、喜ぶでもなく。かと言って、悲しんでいるでもない。結果の分かった双六をしているかのように退屈な眼で、まるで路傍の石を見ているようだった。
女は蜻蛉の羽を千切るように、私の尾を毟っていった。
気がつけば一つ―― 気がつけば二つ―― 三つ四つ五つ六つ七つ八つ。
九本あった尾も、今や一本を残すのみとなっている。既に私の力は殆ど失われてしまっているだろう。
もはや九尾ではなく只の化け狐。何処にでもいるような妖怪と成り下がった。
嘘だろう。こんなのは嘘だ。
今まで幾つもの国を傾け、全てを欲しい儘にしてきた私がこのような事になるなど有り得ない。
そもそもこれは何だ? この女は誰だ?
こんなモノは知らない。これ程までにおぞましい力を持つ存在など、私は知らない。
「あなたはちょっと悪ふざけが過ぎたのよ。もうこの世界で生きることが許容できなくなっている。本来ならこちら側に干渉するなんて面倒臭い事はしないのだけど、今回は特別。ここで静かに消してあげるわ」
かつかつかつ。
女が歩み寄ってくる。散歩しているような気軽さで歩を進める。
立ち向かう力など微塵も残されていない。次に手が振るわれた時、私は只の肉塊と化すだろう。そして命を終えるのだ。
しかし見っとも無く命乞いをする気など毛頭無い。それをすれば私の矜持は折れる。それをすれば女に更なる敗北を喫する事になる。
雫ほどしかない余力を以って、女を睨み付けた。私を殺す地獄の姿を、網膜にしかと焼き付けるために。
視線が絡まる。
口からごぶごぶと血を流しながらも、最後の瞬間まで眼を逸らす事はしない。
自己満足以外の何物でもないこの抵抗は、もはや滑稽でしかないだろう。
だが稀代の妖獣、九尾としての誇り。それだけが今の私を動かしていた。
一間ほどの距離で歩みが止まる。
その時、閉じそうになるのを必死にこじ開けている左眼が何かを掴んだ。女の唇が動いているのが分かる。
どうやら何かを話しているようだが、色んな音が邪魔をしてそれが聞こえない。手向けの言葉だろうか。
さようなら。
それじゃあね。
おやすみなさい。
どの言葉でもよく似合っている気がした。
自分に終りをもたらす相手は、最後になんと言っているのだろう。
あぁ、それにしても音が止まないのが悔やまれる。私の意思に反して五月蝿くなるばかりなのは、一体どういう事か。
ぎちぎち、がちがち、ひゅーひゅー、ぞぶぞぶ、だくだく、ぎちぎち、がちがち、ひゅーひゅー、ぞぶぞぶ、だくだく、ぎちぎち、がちがち、ひゅーひゅー、ぞぶぞぶ、だくだく、ぎちぎち……
ぴたり――
ふいに、音が止まった。
怖いほどの静寂。
そして女の言葉が耳に届く。
それはとても甘美な果実。その声に全てを委ねてしまいたい。
私の耳はこう聞いた。
「ねえ、あなたはまだ生きていたい?」
考えるまでも無い。誰だって死にたいとは思わない。生きたい、と心から思った。
だが、女に答える前に私の意識はぶつりと途切れ、全てが闇の中へと喰われていった。
「連れて行ってあげる。全てを受け入れてくれる世界にね。それはそれは残酷な世界だけれど」
さっきまで狐がいた場所を前に、女は心底楽しそうに呟いた。
これは外界の厄介ごとに気まぐれを起こした幻想郷の大妖怪と、それに巻き込まれてしまった九尾の狐のお話。
それは気が遠くなるぐらい、昔々のお話。
そして二人の馴初め。
<終幕>
いいですねぇ、こういう馴れ初め。
なんて声が、真っ昼間の寝床から聞こえてきそうですね
ただ少し短いかもしれません
あと空白を使うのもいいですが、ちょっと使いすぎです
その2点がマイナス要素
でも着眼点や表現などはとても自分好みで楽しめました
これからの更なる成長に期待しております
楽しく読ませていただきました~。
そうですね、私もちょっと裏を覗けば殺伐としていると思います>幻想郷
何せ妖怪が人を襲う世界ですから。(現実と比べてどっちが殺伐かは分からないですけど)
でも、何気に優しい紫に乾杯。
ちなみにラスト10行目を読むまで、タイトルに騙された? と思った私は小心者かもしれません~。
欲を言えば、二人の戦闘(?)描写もあればもっとよかったかも・・・・
今度書いてくだs(四重決界
そうして今の関係になる為にどれだけの物を積み上げたのか
想像して顔が綻びます。
できるだけ言葉を減らして、端的に述べる手法は好きです。
イメージが頭に広がります。
言葉の取捨選択が上手くないと出来ない手法ですね。ナイスです♪
続きがあるのならとても気になります
指摘された箇所は改善するように努めますので……
あと、続編は今のところ考えておりません。申し訳ない。
いや、書きたいのですがちょっと広げすぎたので収拾がつきそうにも無いのです。
重ね重ね申し訳ないです。