家の前で立ち話をしていた女達が、横目でちらちらとこっちの様子を窺っている。さっきまで大声を上げながら走り回っていた子供達はいつのまにかいなくなっていたし、向こうから歩いてきた通行人が私を見るなり回れ右して戻っていった。まるで私を罪人か、罪に問われてもおかしくないことをした者のように見ている。
こんな視線を向けられて良い気分になれる人間などどこにもいないだろうが、敢えて無視して歩くことにした。ここまで露骨な仕草をされることは稀だが、近頃は町に出るたびにこんなものだ。我慢しているうちに慣れてしまったのだから、良くも悪くも人間にはちょっとした特性が備わっていると私は思う。
やがて(人々に避けられながら)この里にある数少ない店の前に辿り着くと、ごんごんと戸を叩いた。中から返事が聞こえたので、私は「失礼する」と言って戸を開けた。
店主は綺麗好きなのか床には汚れが無く、壁のほうにある大きな棚には何十もの引き出しが置いてあり、読み方も分からないような単語が多く書いてある。奥の方にある部屋には調合する予定の草―――毒か薬かは見分けがつきそうもない―――が見えた。中に入ると同時に一種独特な匂いが漂ってきて、思わず顔をしかめた。あの視線に慣れることができても、私がこの匂いに慣れることはおそらく無いだろう。そう思えるほど…臭う。
薬を調合していたのだろう、奥の部屋から店の主人らしき男がのっそりと出てきたが、私の姿を見た途端に歩みを止めた。むしろ私より後ろの幽霊を見てだろうが。
「あんた、領主様の屋敷のもんかい」
薬屋の主人は近くにあった椅子に座ると、私のことを値踏みするような目つきで見た。外の人間のような怯えや嫌悪は無くて、無表情に近いものがその顔にはあった。
「あんたの噂は色々と聞いてるよ、腕が立つとかなんとか。何でも戦の時には後ろにいるそのヒトダマも刀を持って戦うんじゃないのか?」
主人が言ったことを思い浮かべてみると、思わず苦笑してしまう―――この幽霊が刀を持つとは、何とも想像力豊かなものだ。
だが、その直後に言った言葉はとても笑えるようなものではなかった。
「あぁ、あそこにはあの死を呼ぶ娘とやらもいたんだったかな」
主人は口に出すことさえ憚られることを不意に言ってしまったような苦々しい顔をした。
「全く、領主様のところにはおかしな者ばっかり集まるな。まともなのは領主様と奥方様だけじゃないか」
「悪いが訂正してもらいたい」
内心の怒気を押し殺しながら、私は主人に近づいた。
「私の事については否定しないが、幽々子嬢についての根も葉もない事を言うのはやめてもらいたい。雇われているものとして非常に心苦しい」
「事実じゃないのかね?」
「この店は客に対していつもそういった物言いをするのか。別の所を当たるとしよう」
踵を返して歩き出すと、慌てたような声が後ろから聞こえてきた。
「分かった、分かった冗談だ。本気で言ってるのは他の奴だけだよ。何が欲しいんだ」
「その前に、今後私の前でさっきのような中傷はしないでもらいたいんだがね」
「ああ、ああ、お客様は神様だ。神様の言うことには従うさ」
今さっきの失言を必死で覆い隠そうとしているにようなその声に、もしかすれば、この男はいつもそうやって損をしているのかもしれないと思った。
「良かろう」
私は振り向いた。
「熱を出して寝込んだものが居るので熱冷ましが欲しい。念の為に咳止めと頭痛用の薬剤も貰えればありがたいのだが」
店主は立ち上がると、壁のほうにあった棚をあちこち漁り始めた。店主の行動を見る限り、そこに薬を取り纏めているのだろう。
「全部あるとも、とりあえず…五日分は出しておこう」
「ああ」
子供用にある程度量を減らしたものが欲しかったが、それを言うのはあまり好ましくないように思えたため、黙っていた。あとで半分ほどの量に調整しておけば良い。
少しして、店主は色々と物が入ったように膨らんでいる袋を差し出してきた。代金を支払いそのまま店を出ようと思ったが、後ろから声を掛けられたため足を止めた。その内容にも足を止めさせるものがあった。
「ところで、病気になったのは領主様の娘さんか?」
振り向いた私の顔を見て面白かったのか、にやにやとしながら店主は言った。
「前に子供用の薬を欲しがった奴に薬を売ってな、種類はあんたが頼んだものと全く同じだ。いやはや、最近そういう病気が流行っているのかもしれんなあ」
本能的な場所からの直感が電撃のように走り、私にこう告げた。―――幽々子嬢に危険が及ぶかもしれない。
「それでどうした?」
私は振り向くと、腰に差した刀に触れた。いつでもこれを抜けるぞ、お前の首を瞬きする間に飛ばすことも出来るんだぞ、と思わせるように。
「何か薬に細工でもしようと考えたか?」
一応威圧的なものは軽めだったが、それでも一般人には過ぎたものだったらしい。店主は瞬時に顔を青ざめ、首をぶんぶんと横に振った。余程私が恐ろしかったのか、すり足で後ずさり始めていた。
「いや、そういうわけじゃない。ただ、ただ気になっただけだ。この流行病は重いものかもしれないと思って、教えとこうと思ったんだ。悪気は無い。本当だっ」
腰から手を離すと振り返り、再び戸を開けようとする。再度声が聞こえてきたが、どこか早口のように聞こえた。
「気をつけたほうがいいと思うぞ。今朝、また死人が出た。町はずれに住んでた夫婦だ。両方死に方は違ったが、犯人はあんたんとこの娘だと皆が考えてる。何か起きるかもしれないぞ」
「かたじけない」
後ろの男に一言そう言うと、改めて戸を開けて通りに足を踏み出した。燦々とした太陽の下を最初は歩きで、段々と早足になりやがて走り出す。他の人間が先ほどよりも好奇心を強めた目で見ていたが、全く気にならなかった。まさかとは思うが、私が不在の間に何かが起こることだってあった。
それこそ、店主が言う『何か』が。
そう遠くは無い屋敷までの道を辿っている間、心の中に雲のようにわだかまっているものがあった。
『死を呼ぶ娘』
西行妖とはまた違った原因不明の突然死が最初に起きたのは、幽々子嬢が生まれて年が二つ過ぎたころだった。その死体に目に見える傷はなく、異常なのは干物のように干からびているだけという何かと奇妙なものだった。事件が起きた直後では何かの疫病か祟りのようなものだと考えられていたが、数ヶ月もするとぴたりとおさまった。念のために西行妖を調べたが、桜が動いた形跡はどこにも無かった。西行寺殿から聞いた話だが、妖怪桜が行動を起こすと桜の周りに敷いてある特殊な方陣に変化が起こるらしい。
再び変死事件が発生したのが、幽々子嬢が五歳になってからだった。一月に一人、性別も老若も関係なし、本当に無差別だった。何かの儀礼なのかそうでないのかは分からなかったが、突然死が起きたのは定期的だった。一体何が原因なのか検討もつかず、犯人なんてものがいるのかどうか危うかった。それこそ神が人間の悪行にとうとう怒り、人を殺し始めたのだと主張するものも出てきたものだった。付け加えるとすれば、数週間ほどでその主張と主張をした人間も掻き消えたことだ。
半年もするとまたも変死事件はぴたりと止んだ。この頃の幽々子嬢は重い病気を患っていて、長い時間をかけて幽々子嬢の体調が健康を取り戻すとほぼ同時に、変死事件が終わった。
殆ど確信に近い物を得たのは、それ以前の変死事件は幽々子嬢の体調がおかしくなると同時に起きているという事実を知った時だった。
彼女が病気になれば人が死に始め、治ると同時に人死にが止む。私の結論はこうだった。
そして私が気づいたことを里の人間が気づかない筈が無く、程なくこういう噂が流れ出した。
『山の上にある領主の娘が皆を殺した。彼女の中には怪物が閉じ込められていて、彼女が病気になると同時に身体の中から出てきて人を殺し始める』
『友人が殺された前日の夜、領主の娘が夜道を歩いているのを見た。方角からしてあの娘は友人の家に向かっていた。彼女は大量の蝶みたいなものを連れていた』
『彼女は人を殺すことが出来る蝶を飼っていて、蝶に与える餌とは人の命だ』
『西行寺幽々子は死病を患っていると同時に病気を人に移すこともできる。死病を移すことにより人を殺し、それによって彼女の病気は一時的に軽くなる』
流した人物も根拠も明らかでない、根も葉もない噂だと私は思っていた。たまたま推測がひとつ当てはまっただけで少女が人を殺すなどという結論に達する事など、私にはとても信じることが出来なかった。
しかしその噂は町中に定着していき、幽々子嬢に対する人々の考えは徐々に―――徐々にだが、塗り替えられていった。もしかすれば、その前年に干ばつや飢饉が相次いだことも関係していたのかもしれない。画期的な策を生み出さない領主に皆が不満を持ち、たまたま流行り始めた噂を信じることにしたのだと。
どちらにせよ、西行寺幽々子は『死を呼ぶ娘』と謂れの無いあだ名を付けられることになった。里の者たちが幽々子嬢に対して敵意に近い物を持ち始め、やがて今のような状態が出来上がった。直接的な迫害は無いものの、間接的に。この場所に居辛くなるようにすることを彼らはしてきた。最低の手口だとは思ったが、それを行った人間は必ずしもそう思っていなかったらしい。
噂が流行り始めてから、西行寺家にいた女中が一人残らず消えた。暇を求めた理由はやはりそれぞれ違ったものだったが、『あの娘に殺されたくありません』という意図を読み取ることはあまりにも簡単だった。
そして恐ろしいのは、その噂があながち間違いでもなかったことだ。
以前に病中の幽々子嬢の様子を見に行った際、不意に彼女は泣きじゃくりながら私にしがみついてきた。小さな体を震えさせながら彼女は私に、自分が人を殺したのだと話した。
夢の中で自分は蝶を操って人を殺し、今日もまた殺してしまったと。そしてそう時間が経たずして、変死体が見つかったとの知らせが届いた。
噂の内容と幽々子嬢の話は殆ど合致した。私にとっては非常に衝撃的だったが、彼女の両親には打ち明けることが出来なかった。自分の娘が人殺しであると同時に、ひびが入った瓶から水が漏れるように人知を越えた自身の能力を制御できないことを考えれば、どうしても出来なかった。打ち明けることは、あなたの娘は殺人鬼であり未だに無意識に人々を殺して回る可能性を秘めています、と告げることと同じだ。
焼け石に水であると分かっていても噂を流した人物が誰かは探った。だがその人物が見つかることは無かった。まるで元を流した人間などいなく、人々が自然と気づき始めたかのように。それが運命であるかのように。
しかし、この間までは変死事件は起こらなかった。西行妖もまた大人しくあり、この調子ならば最早幽々子嬢の立場が悪くならないのではないかと思っていた。このままの状態でいれば、次第に噂が立ち消えていくと。
けれども、今朝幽々子嬢は流行病のせいか熱を出して寝込んだ。
そして人が死んだ。
身を包む悔しさに顔が歪む。ぎち、と己が歯噛みする音までもが聞こえてきた。外の音は殆ど耳に入らず、私が自分の考えに深く没頭していることが分かった。
幽々子嬢はあまりに不憫すぎるではないか。
欲しくもなかった能力を持って生まれたせいで周りから蔑まされ、彼女は殆ど隔離に近い状況にまで追い込まれている。無差別に人を殺してしまう能力(呪いと形容した方が大分しっくりくる)をあんな幼い娘に押し付けるとは、仏は一体何を考えているのか。
今まで溜め込んでいたものを幽々子嬢が打ち明けた時、涙をぼろぼろと流し鼻水を垂らしながら彼女は言った。殆ど叫びに近い言葉のようだった。
『私が殺しちゃった、あの人を私が殺しちゃった、ごめんなさい、殺しちゃった』と。
あの体躯の中に彼女はどれほどの苦悩を押し込んでいたのか? 無意識に人を殺してしまうという尋常ならざる重みに彼女はどれほどの恐ろしさを感じていたのか? あの時私に全てを吐き出した瞬間、彼女はどれほどの救いを求めていたのか? いや、あれが全てだということも正しいのか?
どうして彼女が救われないのか?
「……糞」
舌打ちし、頭を振ってそこに詰まっている考えを追い出す。今はそんなことを思い出すな、屋敷に戻ることに専念しろ。『何か』に備えろ。
屋敷に通じる長い階段を二段飛ばしで駆け上がり、目の前に西行寺家の屋敷を納める。見た感じ、どうやら危惧していたようなことは起きていないようだった。ほっと一息ついてから、なるべく早足で家の中へと戻ることにした。
安らかな寝息を立てている幽々子嬢に一安心しながら母親殿に薬を渡してから、何やら外が騒がしくなっていることに気がついた。何十人分もの足音、喚声、人が密集している空気。
まさか、と思うと身体は既に動き出し、玄関の方へと向かっていた。もしかすれば、店主が言っていたことがとうとう起こったのかもしれない。『何か』が。
外に出ると、麓へと通じる広い階段から人々が上がってくるのが見えた。私と同じく音を聞きつけたらしく、少し遅れて西行寺殿も駆けつけてきたが、階段を上ってくる人数を見て閉口していた。私もまた、閉口していた。
五人十人の単位ではない。何十人以上という里の人口の半分を集めたような数がそこにはあっただろう。全体を見ることは叶わなかったが、屋敷前の広場に集まった人から考えればおそらく過言ではない。農作業をしている途中に集団に参加したかのようにクワや鋤を持っている者、そこらへんに落ちているような棒切れを掲げている者、中には薪割り用の斧まで持っている者さえいた。自警団は何をしているのかと思ったが、すぐに無駄だろうと思い直した。自警団ですらこの民衆に賛同しているかもしれないからだ。
この人数を見て、私は確信した。―――この人数全てからは西行寺家の人間を守りきることはできないだろう。十何人か、一部の人間を斬れたとしても、倍以上の人数によって私は捕まり殺されるだろう。そうすれば、西行寺殿や幽々子嬢、母親を守ることは出来なくなる。この場には百人を越しそうな人間が集まっているのだ。とうてい刀を持った人間一人で対処できる数ではない。
そうこうしている間にも民衆はゆっくりと距離を詰めてきていたが、彼らは口々に何かを叫んでいた。あまりに声を出す人間が多すぎるため、声が重なり合って何を言っているのかも判然としない。大きい風が吹き、それで近くの木々がざわめき止まっていた鳥達が逃げ出した。背中を冷や汗が伝い落ちるのが分かる、これは不味かった。非常に悪い状況だった。
「皆の者、どうか気を静めてくれ!」
隣にいた西行寺殿が一歩前に出て、民衆に叫んだ。
「一体何があったかは知らないが、まずは落ち着こうではないか! そうでないと話し合―――」
「また人が死んだんだぞっ!」
一際大きな声がその言葉を遮った。ぴたりと民衆が騒ぐのを止めたせいで、少しの間沈黙で場が満たされる。鼻白んでいた西行寺殿に対して続けざまに声が叩きつけられた。
「今度は町外れの奴だ! しかも二人一遍だぞ、二人もだ!!」
姿が見えない声の主が奇病にでも罹っているように、段々と声音が高くなる。最後のほうにはキンキン声のようになって聞こえてきた。
「だが、それがここにやってくる理由にはならんではないか!」
気を取り直した西行寺殿が言ったが、その言葉に反応したのか今度は民衆が大きく騒ぎ始めた。せめてもの抑止力になればと思い刀の柄に手を伸ばしたが、それを見て目を丸くしたのは先頭の二人三人ぐらいだった。それも彼らはすぐに気を取り直したのか、さっきよりも憤然とした調子で再び叫び始めた。
「領主様のとこの娘がやったに決まってるだろうが!」
先ほどの声とは別の声が聞こえたが、これもまた民衆の中に紛れて声の主は見えなかった。叫びたてられる声の中でもそれはよく聞き取ることが出来て、最早魑魅魍魎の類がこの暴動を扇動しているのではないかと私には思えた。
「もう我慢なんか出来るか! 畜生っ俺達は殺されてなんかやらないぞっ!!」
大きく響いた声に感応したように民衆が得物を高く高く持ち上げ、何かの儀式のように足踏みをしはじめた。どん、どん、どん、どん。どん、どん、どん、どん。私の感覚がおかしくなってきているのか、まるで足踏みのせいで地面が揺れ始めているように思えた。
せめてもの安全策として中に入るよう西行寺殿に促そうとした途端、不意に気付いた。風が吹いていないのに遠くの木々が揺れ、視界が震える。地面の下から音が聞こえてきた。
これは気のせいではない。
本当の地震だ。
ぐらぐらと石畳が揺れ始め、あやうくバランスを崩しそうになるのをこらえる。私と同じく倒れそうになっていた西行寺殿を支えると、民衆のうちの何人かが辺りを見回し地震に気がついたようだった。ほんの一瞬ぴたりと今までの騒ぎが止み、やがて別種類の声がその場を満たし始めた。
その間も揺れは収まる所か、むしろ強くなっていく一方だった。震える地面を越えて何とか西行寺殿と家の中に引き返して振り返ると、迷子になり途方に暮れた子供のように、民衆はただその場で突っ立っているだけだった。その中には逃げ出したりしゃがみこんだ者もいるだろうが、私からみえる限り、大部分の者は魂でも抜かれたように立っているだけだった。
どれくらいの時間が経ったか、最後に一ゆれ強いものが来るとそれで揺れは打ち止めとなった。ぴたりと揺れはおさまり、少し経っても揺れは再開しなかった。
立ち尽くすだけだった民衆に目をやると、ほんの少しの間を置いて再び騒ぎ出すのが見えた。ただ、今度は今までのものと違い、彼らは逃げ出していた。最初に一人が逃げ出し、それに続いて二人が逃げ、五人逃げ、十人逃げ。ついには広場には誰もいなくなった。もしかすれば、下に降りる途中で転げ落ちたものもいるかもしれない。地震の影響で階段が崩れることだってありえた。
西行寺殿に怪我が無いか尋ねると、大丈夫だという返事が返ってきた。西行寺殿には中の様子を見てもらうこととして、私は外に出る。屋敷の周りを見回しても深刻な影響のように思えるものは見当たらなかった。強いて言えば、庭の石灯籠が倒れているぐらいだろうか。
屋敷の中に戻ろうかと思ったが、思い直して庭の中にある、ある物に目を向けた。
私の視線の先には、妖怪桜が偉容とした姿で庭に聳え立っていた。何百年を生き延びてきたしぶとさか、この地震でも何か被害を被ったようには見えなかった。
だが、私はそれとはまた違う事を考えていた。あの暴動寸前で発生した絶妙な感覚。民衆だけが逃げ帰り、屋敷や桜には被害が出ていない程度の強さの地震。
………あの桜が地震を起こしたとは考えられないだろうか?
そう思ったが、考えてもどうなるものでもないと思ったために屋敷の中に戻ることにした。幽々子嬢の傍にいた母親殿が無事かどうか知りたいし、何より幽々子嬢の安全も確認したかった。程度が弱くても、それによって棚や箪笥が倒れることだって十分にありうる。
戻り際に再び西行妖に目を向けたが、それはただ何をするでもなくそこに立っているだけだった。
お前が何を考えようと、私には関係のないことだ。とでも言うように。
音。
廊下の方で聞こえる。急ぎ足のような音、とんとん、とんとん。何か話しているのが聞こえるけど、耳がごんごんとしていて聞こえにくい。
たい ょうがおもわし な このま では すりがたらなくな かも
わか した わたしはゆゆ ょうのそ に
たの ぞ
音の一つが離れていく。もう一つの音はもっと近づいてきて、それは部屋の前にいた。
襖が開く音。閉じる音。
誰かが傍にいる。座っている。大きな人。誰だろう。
唐突に、心の中に声が聞こえた。
出たい、ここから出たい。外に出たい。外に行きたい。
声の感じがざわざわとしていてとても多い気がする。それも近い。本当にすぐ近くで声がする。近い、そうだ。
私の中にいるんだ。
それらは出て行こうとしている。私は必死に閉じ込めようとしているけれど、いつもなら楽にできることがなかなかできない。あっと言う間にそれらは私の中から出ていってしまい、部屋の外へと飛び出してしまう。
まって、と追いかける。私は自分の中から出て、外へ。追いかけなくちゃいけない。好き勝手にさせてはいけない。抜け殻になった私の傍には誰かがいるけど、その人の事はあまり気にしないことにした。今は彼らをなんとかしなくちゃいけないから。
ふわりと空の中を飛んでいって、彼らが進もうとする方に向かう。けれど彼らは多すぎて、あっちにも、こっちにも、あそこにも、本当に色んな所に逃げ出してしまった。
あっちこっちと探し回っても、彼らの姿は見当たらない。どうしてだろうか。草の中、家の上、物の中、色んな所。どこを探しても見当たらない。何を見落としているんだろう。
そうだ、上。
見上げると、彼らはぎっちりと固まっていた。まるで私に連れ戻されるのに抵抗しようとしているみたいに。彼らはいつもそうやっているように蝶の姿を借りて、空という空をぎゅうぎゅうに埋め尽くしながら浮かんでいる。戻りたくない、狭いあの中に戻りたくないと彼らは口々に言っていた。時々彼らが私の中で漏らす文句じゃなくて、それとは段違いに、本気で嫌がっているように聞こえた。
だめだよ、私は返す。もどらなくちゃいけない、そうしないといけないんだから。
いやだ、と一斉に彼らは言った。その声はとても大きくて迫力があって、私は少し怖くなった。戻らないぞ、ずっとここにこうしているんだ。ずっと広いところにいるんだから。あんな狭苦しい所にはもういたくない。もうまっぴらだ。
下を見ると、影みたいなものがたくさんいた。大きい影、小さい影、犬みたいな影もいる。みんな声を出したりちょろちょろと動き回ったりしているし、ニワトリや犬のような影はこっちに向かって吠えていた。
ほら、みんな見られてるよ、もどらなくちゃ。
いやだいやだ。もどるの。いや。ぜったいにいやだ。
だったら、と私は言った。こうしてあげる。
体の中にうんと力を込めて、色んな所が痛くて悲鳴を上げているけど気にしないようにして。少ししてから溜まったそれを私は蝶達に投げつける。それは私の檻、檻に蝶が当たってしまえば、すぐに私の中に戻ってしまう。そういう仕組み。凄く大きく作ったから、広がった蝶もすぐに全部捕まる。
ゆっくりと檻が近づいていく間、蝶達は色んな悲鳴をあげていた。やめて、もどさないで、狭いのは嫌だ、もっと食べたい。人間を食べたいよう。
様々なことを言っているけれども、蝶が檻に触れるとすぐに皆は中に入れられてしまう。殆ど一瞬で、蝶達は私の中に戻っていった。私も抜け殻の私の中に戻ろうと思って、その途端に胸の辺りに強い痛みが走った。
きっと檻を使ったからだ。使えることはできたけれど本当に使ったのは今が始めてだし、何より彼らが多かった。数えることができないぐらい、万とか、億とか、それぐらいいたんじゃないだろうか。暫く動けないと思うぐらい痛みは強くて、まるで胸が溶けてしまったようだった。
それでも、痛みをどうにか堪えて私に戻ろうとする。空から下にいる体へと私が下がっていくにつれて、どんどん気分が悪くなってくる。それに頭痛もしてきた。もう一人の私の調子が悪いから、だから私も調子が悪いんだ。
部屋の外でごほごほと咳をしてから、息切れしながら襖を通り抜ける。部屋の中には慌てたような様子の男の人が二人いて、一人は刀を腰に差している。男たちは何か話し合っていた。それからどこか得心したのか、刀を持っていない人は私の脇を通り抜けて部屋を出て行った。刀を差した人はもう一人の私の隣に座って、そわそわと落ち着かない様子を見せている。まるで自分の子供が病気になったみたいな感じだった。
体の中に入り込むと、物凄い虚脱感を覚えた。手足のどこにも力が入らなくて、関節が酷く痛む。喉が潰れたみたいにとてもいがらっぽい。けれども、これで完全に戻ったわけじゃない。体に入ってから、私を定着させなければいけない。
少しの間そのままの状態でいると、ようやく私は身体の中に戻ることが出来た。身体の隅々にまで私自身を行き渡らせて、時間をかけてゆっくりと身体を慣らしていく。
身体に完全に溶け込んだと思った瞬間、ロウソクの火を吹き消したように私の意識もふっと消えた。
一体あれは何だったのだろうか。
背中からじわりと滲み出てくる汗を感じる。おそらく過度の緊張のせいで未だに汗をかいているのだろう。額を袖で拭い、ざわざわとしている気を静めようと目を閉じる。だが、さっき私が目撃したものは頭の中にしつこく浮かんできた。
いや、あれは私だけが見たものではない。あれは西行寺殿も、母親殿も、町の人間だって見ただろう。見ていないとすれば、それはここで眠っていた幽々子嬢ぐらいのものだ。
あの時、散歩をすると庭に出ていた筈だった母親殿の悲鳴が聞こえてきて、私は何事かと急いで外に出た。すぐ前には尻餅をついたあられもない姿の母親殿がいた。その顔はまさしく怯えていると言ってよかったし、彼女の目線を追えばその理由も分かった。分からないはずが無かった。
上空には、無数の蝶がひしめきあっていた。
それこそ無数、無限、どこからここまでの量を集めたのかと思えるほどに。
それを見た途端、胸の中に何かとてつもなく重いものが沈み込み、どろりと底を流れていくのが感じられた。他にも何か感じたのだろうが、生憎覚えていない。覚えていなくて良かったと思う。
まさしく私は、あの光景に対して純然とした恐怖を感じていた。これほどの恐怖なぞ何処を探してもないと言えるほど、根源的な、酷く歪で巨大な。
右を見ても、左を見ても、視界に入る限り里の上空は全てが覆われていた、まるで誰かが見ている悪夢の中に紛れ込んでしまったかのように。遅れてやってきた西行寺殿も息を飲んでいる様が見えた。母親殿は腰が抜けてしまったのか、立ち上がることさえ出来ないようだった。
無理も無い。
あれは何と表現すればいいものか―――天変地異、異常気象、天災、いや、そんな言葉で括れるほどあれは正常なものなのか? そもそもあれを正確に出来る言葉なんて存在するのか? あんな―――あんな異常としか言い様の無い代物を。あれらは全て幻覚で、私や西行寺殿達の目がおかしくなってしまったという事実の方が、まだ納得できるように思われた。
けれども蝶の群れは何をするわけもなく、ある程度時間が経つ(無限のように思えたが)と煙の如く消えてしまった。本当に一瞬のことで、いつ消えたのかも分からない程だった。その場から動くことが出来ずにそのまま上を見ていたが、また蝶が出てくることもなさそうだった。
「これは大変なことになるな」
振り向くと、西行寺殿が呟いているのが見えた。
「これは。……これは、本当に大変なことになるだろう」
その通りだと私は思った。
それから、ついさっきまで頭の中から消えうせていた幽々子嬢の存在を思い出し、同時に腹の底に冷え切ったものが幾つも落とし込まれたような感覚を覚えた。
あれを呼び出したのは幽々子嬢ではないのか?
二重の意味で心配になった私は急いで部屋に戻り、何事も無かったかのように眠っていた幽々子嬢を発見し、西行寺殿に里の様子を確認に行ってもらい、今に至っている。
そして今思う―――幽々子嬢は、本当にここで眠っていたのだろうか。彼女はただ目を閉じているだけで、外で何が起こっていたのか、何が出てきたのか、それについて全て知っていたのではないか?
私は人を殺す能力を持っていて、それは蝶みたいな形をしている。幽々子嬢からはそう打ち明けられた。
人を殺す蝶、死蝶。
だが、私はそれを極々小規模なものだと考えていた。一夜に死んでいる数と同じく、人間を一人か二人死に誘うことが精一杯であり、さっきの蝶のように非常に大規模なものなど出せないと。………まだ『人間』が扱える範疇の能力であると。
その推測がもしもただの勘違いであったら?
あの無数無限の蝶を幽々子嬢が呼び出すことが可能であったら?
あれら全てが里中の人間に襲い掛かったら?
頭の中がゆっくりと、己でさえ分かるほどゆっくりと凍りつきはじめ、それが胸、腹、足まで伝わり、足の指までが冷たくなっていった。気付くと長い時間息をしていないことに気付き、慌てて口を開けて空気を吸い込む。喉が渇ききっているのかひりひりとしていた。
眠っている(筈だ)幽々子嬢を見下ろす。体が暑いのか苦しそうに寝息を立てながら、布団を少し捲り上げている。静かに布団を元に戻して、眠ったままの幽々子嬢の心臓に迷い無く刀を突き立てることを考えた。安らかな顔のまま逝く少女の顔を思い描き、それから己の喉仏に刀を突き通す自分の姿を思い浮かべた。
その瞬間に私は、自分が何を考えていたかを理解し、はっきりと分かるほど己をおぞましく感じた。急に刀を持っていることが恐ろしく感じられ、急いで刀を身から外す。部屋の隅、一瞬では手の届かないところに刀を投げて、ようやく息をつくことができた。部屋は寒いとさえ言えるほど涼しかったというのに、先程とは比べ物にならないほどの汗が流れ落ちてきた。
私は、私はなんと浅ましい考えをしたのだろうか。里の人間や西行寺殿達を殺し尽くす可能性があるからと言って、幽々子嬢を殺そうとするとは。それでは町の人間と全く同じだ、あの棒切れや斧を掲げた暴徒と同じ存在になってしまう。足を踏み鳴らし、一人の少女を嬲り殺しにしようとした彼らと同じに。
だからこそ、私は幽々子嬢を守るべきだった。彼女の安全を守り、これ以上人を殺めてしまうことがないように少女を見張っているべきだったのだ。それを遵守してこそ、始めて幽々子嬢を守ることに繋がる。どちらかが欠けても守ることには繋がらない。
今まで何の対策も立ててこなかった己の短慮さに歯噛みした。あまりの不甲斐なさに目を強く閉じ、ぎりぎりと歯を食いしばって、この場で出来る限りの猛省はしたと思った。力を持て余し、何人もの人の人生を破滅させてしまった少女に対する罪滅ぼしとしては。
目を開けると、少しは目の前が明瞭に見えたように思われた。すうと深呼吸をしてから、深く吐き出す。
よし。
もう大丈夫だ。
立ち上がると剣を取り、それを脇に差しながら母親殿と西行寺殿と話すために部屋を出た。母親殿には幽々子嬢を看て貰おうと。
西行寺殿にはこの屋敷を離れることを提案しに。
「里の人間が何かしてくるとなったら、おそらく明日らへんだと思う。最低限の準備ぐらいは必要だろうからな」
西行寺殿は強い夕暮れの光が差しこむ部屋の中でそう言い、少しの間言いにくそうにしていたが、やがてはっきりと言った。
「今度は本気で幽々子を殺しにくるだろう」
彼は沈鬱な様子で目を伏せていた。それもそうだろう、自分が治めてきた里の人間が己の家族を殺そうとしているのだから。自警団は頼りにならず、辛うじて信じられるのは自分たちだけか。
「幽々子の容態は、芳しくない」
苦々しく、吐き捨てるように西行寺殿は言った。
「今日で五日目だ。薬屋から貰った薬も今夜で尽きる。また薬を貰えれば良いが、下に下りている間に彼らが何かしてこないはずがない」
西行寺殿は自分自身の力が至らないとばかりに、力の限り拳を握り締めていた。突きつけられている事実に怒っているのか悲しんでいるのかは、私には分からなかったが。
「今年の流行病は、相当重いものだったようです」
私はそれだけの言葉を返すことしかできなく、西行寺殿の次の言葉には耳を疑った。
「あるいは、あの子の能力のせいかもしれん」
私が驚いたことは声に出さなかったが、気配として西行寺殿に伝わったらしい。彼は西日に晒された顔を上げると、私の目を見据えた。
「本当の事なんだな?」
既に決まっていることについて敢えて確認するような、そんな口調だった。私は込み上げて来るものをぐっと飲み込んで頭を伏せた。
「今まで隠し立てをしていて、申し訳ありません」
「……やはりか」
西行寺殿は立ち上がり、強い西日が差す窓に近寄った。私は顔を上げた。
「薄々は感づいていたよ。あの噂が流れ出してから、お前と幽々子の私達に見せる様子が少しだけ変わったしな。それにあの子が寝込むと同時に人が死に、外で走れるようになると人死にが止む事。何か関係はあるかもしれないと思っていたが、まさか、本当だったとはな」
彼は遠くを見るような目つきで外を見ながら、大きくため息をついた。
「親として、自分の子供が人殺しだとは信じたくなかったのかもしれんな。私も妻も」
何も言えなかった。
「幽々子は、内緒にしてくれと頼んだのだろう?」
私の方を向いた西行寺殿は、酷く悲しい顔をしているように見えた。だが逆光のせいで、正確なところはわからない。私が頷くと西行寺殿は黙って首を振った。
「あの子は、昔から変なところで責任感が強くてな。言うまいと決意すれば口が裂けても言わないような子だった」
「……ですが、その」
私は何を言いたいのかも頭の中でまとまらず、口をもごもごとさせていた。私の様子がおかしかったのか西行寺殿は笑い、再度向かいに座った。
「妖忌、お前がいてくれて良かったと思っている」
「は………恐悦、至極です」
「お前は私達にとって必要だ。庭の剪定にも役に立つし、碁の相手にもなってくれる。妻の手伝いもしてくれるし、何より幽々子の遊び相手になってくれる。あの子の立場は分かるだろう―――お前はもう、この家にとって無くてはならない存在なのだ。今更だが礼を言う」
私が何を言いたいのかを計りかねていると、西行寺殿はこう言った。
「だから、死なないでくれ」
彼はさっきよりも強く私の目を見据え、心持ち真剣に感じられる口調で言った。
「これから先、何があったとしても、死ぬことなく私達の所へと戻ってきて欲しい。あの子の為にも」
言葉は出さず、私はただ頭を下げた―――何かを言うよりも、その方がずっと良いと思ったからだった。自分自身をこれほどまでに必要としてくれる人に対してどう返答すれば良いか、こうしたほうがいいと直感的に判断していた。
何を置いても、この人達だけは守らなければならないと思った。西行寺殿、母親殿、そして幽々子嬢、この人たちこそ自分が最も守るべき人達なのだ。
守らなければいけない人達なのだ。
「妻には私の方から話しておこう。今夜は長くなるだろうから、今のうちに休んでおいてくれ」
西行寺殿はすっくと立ち上がり、襖を開けると部屋を出て行った。
残った私は刀を身につけると、西行寺殿と同じく部屋を出た。
これから忙しくなる、そう思った。
夜が更けていく。
既に日は落ち、空にはちっぽけな月が浮かんでいる。外からは虫の鳴き声が聞こえ、それに応えるかのようにフクロウの鳴き声もまた聞こえた。
玄関にほど近い一室で、私は脇に刀を置いて座っていた。幽々子嬢はもう眠っているだろうし、母親殿や西行寺殿も隣の部屋にいる。庭に程近い場所であるし、こっちで何かあればすぐに分かるだろう。
できれば来ないでほしい、と私は願っていた。幽々子の病は、おそらく今夜が峠―――母親殿は重く沈んだ顔でそう告げた。私が幽々子嬢の様子を見に行ったとき、彼女の顔は熱のせいで赤らみ頻繁に咳き込んでいた。私の姿は目に入っていただろうが、あれほどの体調では私が部屋に入ったことが分かっていたかどうかも怪しかった。今夜里の者達にやってこられれば、彼女を連れて逃げなければならない。今の幽々子嬢に強行軍が耐えられるかどうか……
外のほうから、足音のようなものが聞こえた。瞬間的に刀に手をかけ外に飛び出す。階段の方まで向かい、隠れるようにしゃがみながら下を見た。
遥か下の方に彼らはいた。あちこちで篝火を焚きつけているせいでその様はよく見える。絶対にやり遂げなければいけないことを目の前にしたような重苦しい顔をしながら、その手に獲物を持っている。クワ、包丁、斧、棒切れ、その他諸々。
やれやれ、当てが外れましたな西行寺殿。額からひと筋流れ落ちてきた汗を拭いながら、私は皮肉を吐いた。どうやら彼らにとってはこれは、火急の事だったようです。
あの部屋からでも、直にこの篝火が見えるだろう。もしも賊に襲われた時のために、屋敷には秘密の抜け道がある。屋敷の地下を通って行くその抜け道を使えば、安全に村はずれまで避難できるはずだ。
それまでは、一人でも多く足止めし追撃しようとする人数を減らすことが私の務め。脇に下げた刀に手をかける。まだ抜かない、まだ抜くな、もう少ししてからだ。
特別眼が良い奴がいたのか、民衆の一人が私の姿を認めたらしい。大声で何か叫びちらし、集団が一気に早足になった。幸いなことに、特に早くやってくるのは先頭集団だけだ。何人かが我先にとばかりに集団から飛び出しこちらに向かってくる。四か五人と言った所か。
主集団が来るまでには片付けられる。
私は踵を返すと急いで屋敷の中に入り込み、物陰に隠れる。大声をあげて男達が走ってくることが分かる。足音が近くなる。心臓が大きな音を立てている、私は深く深呼吸した。
やるならば今だ。
一人目が陰に隠れた私の傍を通り過ぎざまに、背中に刀を突き立てる。げっと一言うめいて一人目が倒れ、突き立った刀を無理やり抜き取ると振り返りざまに二人目を袈裟斬りにした。少し後ろに居た二人目は、何が起こったのか分からない顔をして倒れ、私は一瞬の事態に動転している男達―――二人いる、斧を持ったのとクワだ―――に血と脂に塗れた刀で斬りかかる。行け、行け、行け、行け、躊躇するな。
一刀目で斧男の首を跳ね飛ばすと、首を失い倒れ付す胴体の横で、ようやく反応したもう一人が武器を振り下ろしてくる。受けるまでの攻撃でもなかった。大ぶりのそれを軽く後退して避けると、クワ男の喉元に刀を突きこんだ。男はクワを落として喉に手を伸ばしかけたが、刀を横に振りぬくと大量の流血とともに男が崩れ落ちた。急いで入り口に目をやると、まだ誰もいない。
それまでが何秒のことだったろうか、私の足元には四人の男が倒れ、一つの首が落ちている。私は男達の返り血に服と刀を濡らしながら息切れし、眼を血走らせていた。己はまさに修羅に等しい存在だと思った。何人たりとも寄せ付けることのない怪物のような存在。心臓の音が激しい。
確かに私は人を斬ったことがある。遥か昔、この家に来るもっともっと前のことだ。あまりに前すぎて正確には思い出せないが、その時は不思議と高揚感じみたものがあった。おそらく人を斬ったという背徳感と敵を倒したという達成感が混ぜ合わさった拍子に快感のようなものへと変わり、その感情が自身を神にも等しい存在だと思い込ませていたのだと思う。
だが今感じたそれは、かつて味わったそれとはまったく違ったものだった。手や柄が血でぬるぬるするという気持ちの悪さ、胃を不規則に上下させるつんとした鉄っぽく気持ちの悪い匂い。それと共に己がこんな凄惨な光景を作り出したということに対しての罪悪感があった。
あの少女を、幽々子嬢を救うために人を殺し、本当にそれで良いのかと自身に問い掛ける疑念。人の人生を無理やり終結させた己への強い自虐心。床に膝を付き、反吐をぶちまけたかった。こんな酷い感情をあの少女はいつも味わってきたのだろうか。人が死ぬたびに、夢から覚める度に空想の血で手がべとつくのを感じていたのか。
改めて思う―――あの少女こそ、絶対に救われなければならないと。目を閉じて歯をかみ締め、上下する胃を落ち着かせる。体中の細胞を平静にさせる。よし、もう大丈夫だ、これなら動ける。
もう数人ぐらいならば片付けられるかもしれない。そうすれば適度に時間を稼いで、里の人間たちを振り切って逃げるだけだ。
そう思い外に出てから、自分の考えが如何に浅はかだったと思い知らされることとなった。
ごう、といった風切音。体から異物が生える感覚。痛覚。熱した棒を身体に突っ込まれた感覚。それら全てが一瞬で襲い掛かってきた。無意識に弾き落とした矢が何本か地面に落ちているが、その倍はありそうな数が身体に刺さっている。最初からそれは生えていたのであり、さっきまでの状態がおかしかった。そう思いたくなった。
もう一連射、矢が幾つも私の身体に突き刺さる。腕、足、胴体、心臓には辛うじて当たっていない。だが大量に出血している。足に力が入らない。刀を落とす。倒れる。
男達が私の上を乗り越えて屋敷へと入っていく。歓声をあげ、わざと私を踏みつけていく者もいる。別働隊と連携しろ、あいつらを捕まえろという声がどこかで聞こえる。
頭の中で、かちんと音を立ててそれがはまる。
何もこいつらが全員というわけではないのだ。おそらく幾つかに集団を分けて動いているに違いない。もしかすれば、抜け道も見つけられたのかもしれない―――
その推測に納得し、西行寺殿と誓ったことを果たすことができないことを非常に残念に思ってから、意識が闇に落ちた。
目の前が霞んでいてよく見えない。けれども身体が動いていて、何だろう、おんぶされてる?
「妖忌が時間を稼いでいる。後で合流する手はずになっているから彼は大丈夫だ。急ごう」
すぐ前で声が聞こえる。お父さんだろうか。
「でも、大丈夫でしょうか」
すぐ隣でお母さんの声も聞こえる。どうしてこうなっているんだろう。確か私は布団の中で寝ていたはずなのに。あれ? さっきは明るかったけど、今は暗い。どうして?
「大丈夫だ、彼を信じて早くここを出よう」
ここを出る? 何があったの? どうして出なきゃいけないの?
「ぁ……げほんえほんっ!」
思ったことを声に出そうとしたら、痰が喉に詰まってむせた。それを聞いたのか、お母さんが私の背中をさすった。ひんやりしていて気持ちがよかった。
「幽々子、起きたの? 大丈夫、何も心配することはないの。ちょっと遠くの方へ行くだけだか―――」
奥のほうで物音が聞こえた。何か物が落ちたような、間違えて蹴っ飛ばしてしまったみたいな。それから声みたいなものも聞こえた。
お父さんとお母さんが顔を見合わせる。それから私がお母さんにおんぶされて、お父さんはどこからそんなのを持ってきたのか、刀を抜いた。それはぎらぎらしていて怖かったけれども、私はお父さんの目の方が怖かった。それこそ、人でも殺しそうな目に見えたから。
私達は後ろに下がり始めていたけれど、部屋を出る前に奥の襖が開いた。どやどやと里の人達が土足で入り込んできて、その人達は埃と煤まみれだった。あっという間に里の人達は私達を囲んで、彼らは色々な物を持っていた。クワとか、錆びた刀とか、色々と。
「領主様も混乱していて、ここまで頭が回らなかったみたいだな」
先頭にいる、妖忌みたいに刀を脇に差して、斧を持っていた背の高い男の人が言った。
「抜け道を作った奴も、俺たちの仲間なんだぜ」
お父さんが刀を振り上げて、途端に突き飛ばされたみたいに倒れた。お父さんの横には里の人がいて、よく大工仕事で使いそうな、大きな棒を持っていた。また怖くなったけれども、それはお父さんが倒れたことと、こんなに大勢人がいるのに皆何も言わないことだった。一言も口を利かないで手に何か持って、お母さんでなくてお父さんでもなくて、私をただじっと見ている。
私だけを。
そのうちに里の人たちが殺到してきて、すぐに私とお母さんは捕まって引き離された。
「庭に出せ、こんな所じゃよく見えやしねえ」と男の人が言って、足音と一緒に庭に連れ出される。
三日月の明かりで周りの景色がよく見えた。玄関のほうにも、奥のほうにも、男の人達が立っていて、中の人と同じように私をじっと見ていた。
中ごろまで来ると無理矢理座らされる。後ろで前に聞いた事のある音がして、その音を思い出したら、心臓の動きが一瞬止まった。
刀を、鞘から抜く音。
「化けてでられちゃ困るからな」
背の高い人の声がする。心なしか、どこか震えている気もした。
「自分が死んだことを自覚しながら冥府へ行ってもらわねえと」
『死んだことを自覚』背の高い人はそう言った。
死ぬ?
誰が?
私が?
身体が震えはじめる。頭の中が毒でいっぱいになったみたいに何も思いつかない。逃げようとしたけど押さえつけられた。横で空気を切る音がして、目を向けるとすぐ横に刀があった。この近さだと、先端の紋様まで見ることが出来た。つやつやしてとても綺麗で、
それが私の血でべたべたに汚れると思うと、背中の筋が嫌な音を立ててばきばきと折れるような感じがした。神経がちぎれたみたいに足から力が抜ける。その事実を認めると、自分がどうなるかがはっきりと見えた。気を失いそうなほどはっきりと見えた。
私は殺される。
どこかでそれに頷く人たちがいた。心の隅っこにいる人たち、人が死ぬたびに私を責める人たちだった。
《死んでしまえ、お前に生きる価値なんてないぞ、今までの報いがやってきたんだ、報いがこの男たちに乗り移ってやってきたんだ。お前はここで死ななければいけないんだから》
本当にそうなのだろうか。私は死ななきゃいけないんだろうか。刀で首を落とされなきゃいけないんだろうか。
分からなかった。ただ段々とあの人たちの声は大きくなって、刀の先を思い浮かべるとぞわぞわした。あの人たちが笑いながら私にこう言ってくる。
《死んでしまえ。
死んでしまえ。
死んでしまえ》
声が大きくなる。どんどん大きくなって、耳の中が一杯に――――
「やめろやめろ畜生ども! 娘は関係ない! やったのは私だ! 全部私がやった! だから私を殺せっ!」
お父さんの叫び声がどこか遠くから聞こえてくる。あんなに大きな声なのに、凄い遠い。それこそ地上の果てから聞こえてくるような声だった。お母さんが泣いている。鼻を啜って、どうして泣いているのか分からない。考えられない。
「幽々子を離せ、離せえぇええぇぇえええええ!!」
「あんたは黙っててくれ」
背が高い男の人の声も聞こえた。声の震えはさっきより大きくなっていた。
「あんたに用なんか無い。あるのはこいつだけなんだからな」
お父さんがまた何かを言っていたけど、その声も耳の中からすぐに消える。周りで見ているあの人たちも段々と薄らいでいって、後に残ったのは一つの音だった。
刀を振り上げる、風切音。
ぎらぎらしている刀が落ちて、私の首も一緒に落ちて、血が凄い出て、皆が凄い騒いで、お父さんとお母さんが泣き出して、どうしてもそんな自分の未来を思い浮かべてしまう。砂利についた血の色まで想像できてしまう。おしっこを漏らしたかもしれない。漏らしていないのかもしれない。どっちでも良いんだ。どうせ。
どうせ死ぬんだから。
「地獄へ帰れ、死を呼ぶ娘め」
背の高い男の人が、最後にそう言った。
刀が、落ちる―――