私が生まれるずっとずっと前から、家の庭にはその樹は生えていた。
名前は西行妖。今でこそ樹は裸同然で花びらが咲く事がないけれど、あれでも桜の一種だという。だけどそれは桜のままではいたくなかったらしくて、何時からか妖怪桜となってしまいみんなからは怖がられている。
どうして妖怪桜と言うの? と以前に妖忌に尋ねると、あの桜は人に迷惑をかけているのですよ、という返事が返ってきた。西行妖は時々人間の魂を食ってその人を殺すらしいし、人間がこれ以上我慢できないと思って西行妖を切ろうとしたら、桜が怒って攻撃してきた所為で何人も死んでしまったらしい。だから今では周りに桜を弱めるための方陣を描いて、また人に危害を加えないように力を抑えることで精一杯ということみたい。
じゃあ、と私は妖忌に言った。不意に口をついて出てきた言葉で、それがどんな意味を持つのかあまり考えていなかった。
その桜は、私とおんなじなんだね、と。
妖忌は薬でも飲んだように苦々しい顔をしてから、決してそんなことはありませんよ、と言った。今はまだ操りきれていないだけであって、あと数年もすれば、手足のように立派に操れるようになりましょう。ですから、貴方はあの桜と同じなどではないのです。
心の中ではそうだとは思えなかったけれど、妖忌に気を使わせたくなかったから、私はそうだねと言った。ちょっと散歩してくると妖忌に伝えて庭の方に行く。西行妖に近づいてはいけませんよと声が聞こえてきたけど、返事はしなかった。
今、私の目の前には聳え立つほど大きな桜の木が立っている。お父さんやお母さん、それに妖忌が生まれる前からその桜は立っているそうで、そのぐらい古い物だと根っこはこの町を包み込めるほど広いものじゃないか、と私は思った。だって想像もできないほど古くからあるなら、それぐらい根っこが広くたっておかしくないからだ。
いつもその中には絶対に入ってはいけないときつく言われている方陣の前に立って、私はとても背の高いそれを見上げる。その桜は人間の魂を奪ってしまう恐くて嫌なものなんだろうけど、私にはそう怖いとは思えない。剣術の指南をしているときの妖忌や、里に降りたときにわんわん吼える、雑貨屋さんの犬の方がよっぽど怖い。
私が目の前にいるこの時に、西行妖はいったい何を考えているんだろう。人間が目の前に立っていて、殺されるかもしれないと怯えているんだろうか。それとも新しい餌がやってきたって喜んでいるんだろうか。別のことを考えているんだろうか。……考えて分かるものじゃないんだとは思うけど。けど、考えずにはいられない。
そして私は、あることをしてみようという気になった。私がやろうとしていることはとても悪いことで、絶対に他の人に見られてはいけないものだと分かっている。もし見つかったらすごく怒られると思う。だけどそうしたいっていう気持ちは強かったし、やらなきゃいけないって気になっていた。
音を立てないように忍び足になって、周りに人がいないか伺いながら、誰もいないことを確認する。こんなことをするのは始めてだから、やっぱり緊張する。
方陣の上に足を踏み出すと、なんだか背筋がぞわぞわして変な気持ちになった。くちゃって感触がして、足の裏がなんだかべたべたする。草履の上からでも、その感触は裸足で触っているみたいに伝わってきた。きっとこの方陣はそれくらい強いものなんだろう。そうでなきゃ桜は封じ込められないんだ。
構わずに中に入って、西行妖に手を触れる。表面はざらざらとしていて、期待していた訳じゃないけどそれは桜だった。例え妖怪の一種だとしても、別な感触になったりすることはないみたい。ちょっとほっとした。
だけど…この桜は、実際に人間を殺す。そうすることができる。
「あなたも、私と同じなんだね」
ぽつりと呟いた。さっき妖忌に言ったことと同じ、考えて言ったんじゃなくて、風みたいにするりと口の中から言葉は出てきた。
「なんでかな、時々あなたが凄くうらやましくなるの。あなたは人を食べて楽しいって思うかもしれないけど、私は悲しい。ごめんなさいって謝りたい気持ちになるし、怖い夢を見た後の気分になる。妖忌は私が普通だから仕方ないって言ってくれるけど、私は普通じゃないと思うの。普通の人なんて、こんなことしないから。よく生まれてこなきゃよかったって思ったりもするし涙だってぼたぼた出てくる。
でも、あなたはそんなことぜんぜん感じないし、泣いたりしないと思う。だから、すごくあなたがうらやましいの。終わった後にいやな気持ちにならないし、泣かなくてすむから。自分の中に何がいるのか分からなくて、怖くなることがないから」
もう一度手を触れて、幹の中を流れているものを感じ取ろうとする。今の自分ならそれができそうな気がしたけど、実際には何の音もしなかった。普通の桜でないから何も流れていないのかもしれないけど、もしかしたら、人間では感じられないものが流れているのかもしれない。
上を見上げても、枝と枝がぐちゃぐちゃに絡まっている木のてっぺんが見えてくるだけだった。何も変なものは見えなかったし、私が食べられたりすることもなかった。戻ろうかなと思って方陣を出た途端に、後ろのほうですごく大きな声が聞こえて心臓が飛び跳ねた。
「幽々子嬢っ!!」
おそるおそる振り向くと、縁側の方から顔を真っ赤にして妖忌が走ってくるのが見える。この樹まではかなり距離があるけれど、そんな長さを物ともしない速さで駆けてきた妖忌はすぐにやってきた。草履を履いていなかったから、縁側から直接飛び出してきたんだと思う。後ろにいる幽霊もせわしなく飛び回りつつ、妖忌の後についていた。
「あれほどまでに西行妖に近づいてはなりませんと申したではありませんかっ! 説教は後です、今はこの場を離れませんとっ」
言った後から私を抱き上げると、妖忌はすぐに縁側の方まで走っていった。見上げる妖忌の顔はちょっと怖かったけれど、それ以上に心配してくれているというのが分かって、悪いことをしたんだなっていう気持ちになった。あの桜がそれほど悪いものとは思えなかったけど、妖忌やお父さん達を心配させそうだと思ったら、できるだけ近づかないほうがいいのかもしれない。
縁側に座らされて暫く妖忌の説教を聞いていると、唐突に妖忌が今までと違う口調で言った。
「しかし、どうしてあの桜に近づこうと思ったのですか?」
「えっと……その」
あの桜が私と同じようなものかもしれないと思ったから興味を持った、とはちょっと言えない。
「うんと…ちょっと、妖忌やお父さんの言っていることを聞いてたら、近くにいって見てみたくなって。それだけ」
左様ですか、と妖忌は嘆息した。もしかしたら、言うことを聞かない私に愛想を尽かしたのかもしれない。もしそうだったらどうしよう。段々心配になってきた。
「あの、妖忌、ごめんなさい」
正座の状態から頭を下げると、凄く慌てた妖忌の声が聞こえた。
「め、滅相もない! 幽々子嬢、どうか顔を上げてくださいっ」
多分彼が連れている幽霊は、どうしたら良いか分からないみたいにあたりを右往左往しているに違いないと思った。顔を上げると本当に右往左往していたから、ちょっとおかしくなった。
「じゃあ、嫌いにならないでくれる?」
ちょっと卑怯な手かもしれないけど、私はこう言った。こうすれば大体妖忌が折れてくれるという心が半分だったけど、もう半分は本当に嫌われませんように、というものだった。
「…………分かりました。この魂魄妖忌、幽々子嬢に甘いのは重々承知の上ですが…了承しましょう」
良かったと思って息をつくと妖忌が付け足した。
「ただし、今後は二度とあの妖怪桜に近づかれませんように、いいですね?」
私はこっくりと頷き、妖忌は宜しいと言った。彼の後ろにいる幽霊も、満足したようにただふわふわしているだけになった。
妖忌は私が生まれたか生まれてないかぐらいにこの家に来て、それからずっとここで庭師をしている。刀を持っているのにどうして庭師をしているのかと聞いてみたけど、「何分これを性根とした暮らしをしているからですよ。性分みたいなものです」と、ちょっとよく分からない答えが返ってきた。でも刀を持っているだけあって凄く強くて、試合をしたときにはお父さんでさえも敵わなかったぐらいだった。だから剣術の指南もお父さんから妖忌に交代したし、屋敷の番に妖忌が加わるようになった。
妖忌が連れている幽霊は彼を最初に見たときから後ろにいたし、前に彼からは「私はこういう者なのですよ。人間ではありませんが、かといって幽霊でもありません。私のような者を半人半霊と言います」と話してくれた。幽霊の方は妖忌が生まれた時からいっしょにいるみたいで、少し羨ましくなった。生まれた時から一心同体なのはなんとなくだけど、かっこいいと思ったから。でもそのことを妖忌に言ったら、「風呂や厠の時には邪魔な奴ですよ。ただ浮いているだけで家事手伝いもしてくれませんからな」と笑いながら言われて、その時はちょっとがっかりした。
そんなことを考えていると、太陽のほうに目を向けながら妖忌が口を開いた。
「幽々子嬢、丁度良い時分となりましたし、お菓子でも如何でしょう?」
妖忌は私が何て答えるか、どういう顔をするか、殆ど分かった上で言ったと思う。だって、あんなに顔が綻んでるんだから。私がそれが大好きなことを知っているんだから。
「うんっ!!」
夢の中にいる。
私は空を飛んでいる。暗い空、青黒い雲、太陽の代わりに月が白く光りながら空の真ん中にあって、私は無限に降り注ぐ月光に照らされている。何故これが夢と分かるのか、それは私が空を飛んでいるからで、つまり私は人間ではないからだ。こうして飛んでいることも私の意思で行っていないし、空を見上げることや何かを感じることも私の意思で行っていることではないから。他の人の感覚を私が共有しているものと言っても良い。
下に目を向けると、そこにはたくさんの動いているものがあった。風に吹かれて飛ぶ落ち葉、微かに揺れる木、茂みの中で夜行性の生き物ががさがさ動き、遠くの山で吠え声が聞こえてくる。一月前は暑かったのが最近はめっきり涼しくなって、秋の虫もそこらの草むらでりんりんと鳴いている。りんりーん、ころろろろ、りりりりりり。無数の音と物、この世界は生き物で満ちている。
私は小さいまま、無限に広い空の中を縦横無尽に飛び回る。どこかに行くわけでもなく、ふわふわとただ風任せのように。言うなれば、私は蝶だ。夜に飛ぶ蝶、太陽でなくて月の光を浴び、暖かく陽気な空気ではなく冷たい夜気の中を飛び回る。
あてもなくふらふらと彷徨い続けると、やがて一つの家が見えてくる。すぐ近くに林があって、その家からは砂利道が伸びている。近くには人っ子一人立っていることはなく、一番近い家でも遥か向こう。この建物にふと興味を魅かれる。ここには誰か住んでいるのだろうか? どんな人が? 一人なのか? 誰かいっしょに住んでいるのだろうか? 今ここにはいるのだろうか?
気になる、気になる、気になる。頭の中に火花みたいなちりちりとしたものが居座って、それらは何度も私に告げてくる。気になる、気になる、気になる。気になる。それに従おうと思う私がいる。逆らおうとしている私はいない。存在しない。
ふと気がつくと、私の近くにはたくさんの蝶が飛んでいた。黒い色、白い色、音もなく羽を動かしながら私を見て、彼らはどうすればいいかを求めている。今まで私の背後を付いてきていたことに気づかなかったのだろうか、それとも別の場所から出てきた?
どうでもいい事柄だから、考えるのは止めにした。改めて蝶を見ると、色々な事が心の中に入ってくるのが分かる。こうすることによって自分の中で眠っていた知識を思い出すかのように、暗がりに徐々に光を灯していくように。
どうすればこの蝶たちを操れるのか、この存在感が希薄なものは何をするのか、この薄っぺらい蝶達がどういうものなのかを私は知っている。知っているからこそ彼らは私のそばにいる。
私が命じると蝶達は家の周りを囲った。今更気がついたけれど、蝶達はとても数が多く、もしかすれば何百匹もいるかもしれない。そのくらいの数を私が指揮していることに驚きは感じない。これは夢の中であるし、あの蝶達は私がいなくては成り立たないからだ。どんな素晴らしい組織でも指導者がいないと決して成り立たない、それと同じこと。私は然るべき場所に治まり、彼らもまた然るべき場所に治まっているのだ。
中の人間に逃げ出される心配が無くなったから、私はゆっくりと家の中に入っていった。木製の戸をすり抜けて、座敷の上を通過し、その場所にいるかもしれない所へ。あの部屋、この部屋、ゆっくりと浮かび漂いながら私は進む。彼らはすべて外にいるから、ここを飛んでいるのは私一人。
そして、いた。
私の下で、それは寝息を立てていた。布団は二つ、膨らみがあるのはそのうち一つ。もう一つの中におさまるべき人はそこにいない、家の中を見て回ってもいないのだから、まだ外にいるのだろう。寝ているそれはいない者が帰ってくることが分かっているのだろうか、帰ってこないことは考えないのだろうか。
部屋を見回すと、上の方に木製の格子がついた窓がある。そこから柔らかな月の光が降り注ぎ、私とそれを照らしている。ついでだけれど、部屋の隅には蚊取り線香が焚いてあった。私が呼ぶと、蝶達は窓から入ってきた。一匹、十匹、五十匹、百匹。音も立てずに無数の蝶はするりと入り込み、あるかも分からない目で眠っているそれを見下ろす。何か疼きのようなものを覚える。じくじくとして、胸のあたりを突いてくるもの。ある一つの言葉。
おいしそう。
蝶に命じると、それらは開いた口から、鼻から、ありとあらゆる穴から侵入しようとした。できないものは肌色の皮膚にはりつき、べたべたとたくさんの蝶達がくっつくと、奇妙な彫刻のようなものは出来上がる。ただ普通の作品とは違う点は、それは生きているということだ。さっきまで眠っていたそれは息もしないまま目を開けて、その目に蝶が張り付いた。胃の中に彼らは入り込み、内臓を包み、頭の中に羽を伸ばし、心さえも奪い尽くそうとしていた。
彼女は必死に動こうとしているのだろうけれど、神経までもが冒されているためかそれも叶わないようだった。彼女の心の機微が手に取るように分かる。苦しい、助けて、気持ち悪い、張り付いて何かが自分の中にいる。
身体の中で、蝶達が吸い取っているのが感じられる。それは蝶達を伝わって私の中に入り、私を満たす。よく冷えた水を飲んでいるみたいに、透き通ったものが入ってくる。とてもおいしい、きんきんとしていて飲まずにはいられない。素晴らしいものだ。
やがて彼女の身体から根こそぎ吸い取ってしまうのを感じてから、蝶達は体の中から出てきた。彼女はさっきと少しも変わらない姿勢のまま絶命し、丁度干物のような状態になっている。最後の一匹が乾ききった口の中から出てくると、私は家の中を通って外に出る。入ってきたときにそうしたのだから、帰りにそうするのは当然だ。ある種の礼儀みたいなものだとも言える。
家を出ると、私は再び空の中で飛ぶ。そこはあまりに広くて、ちっぽけな自分が消えてしまいそうな程だった。更に求めて別の場所へ行くという選択肢もあるけれど、私は敢えて戻ることを選んだ。今の身体事情を考えてもそうしなければいけないのは分かっていたし、誰かに云われなくてもそうするつもりだった。
寄生しているものが宿主の身体へと帰ること、それと同じようなものだ。
他の蝶達は既に姿を消していて、残っているのは私だけだった。どこかへと消えたのだろうか、それとも私の中へと消えたのだろうか。何故か自分でも知らないことを考えているうちに、満腹感と至福が頭の中を満たしていくのが感じられた。後からやってきたそれはとても大きく、さっきまでの疑問を簡単に吹き飛ばしてしまった。
今日の物はとてもおいしかった。今までの事情を考えてみれば、これは大したものと言えるだろう。絶え間なく襲ってくる満腹感と睡魔の波に襲われながら、私は屋敷へと戻っていく。人間と同じようなもの、腹が膨れれば眠くなるのだ。こんなところで意識を無くしてしまう前に、さっさとねぐらへと帰らなければ。
次はいつになるだろうか、この前食べた日はもう少し月が満ちていた気がする。今日の月は十六夜だろうか。となると次はどうなるだろう。ずっと後になるか、それほど後ではないだろうか。あまり複雑に考えることはできなかったが、それでも考える価値はあった。
やがて屋敷が見えてくると、私は庭を横断し、部屋へと戻ろうとする。……だが、敢えて私は振り返り、背後にあるものを見た。
西行妖、他の桜と変わらない容姿でありながら、夜毎に人の魂を盗って行く忌むべき妖怪桜。気のせいか、それが振動すらしている気がする。表面が震えているような、内部の痙攣が外に出てきたような。
この中には何かがいるに違いない。至極ゆっくりとだが表面の中をかけめぐるものが感じられたし、それらは人の目で見えるものではない。それどころか見ていいものでもないのだ。また、その樹からは形容し難いものを感じた。人間であれば思わず吐き気を覚えてしまうもの、絶対に良いとは思えないものだ。
他に何か感じ取れるかと暫く西行妖を観察していたが、やはり眠気に勝つことが出来ず私は部屋へと戻ることにした。
目がさめた時、もう一人の私は何を考えるだろうか。戻る直前、その考えが頭を過ぎったが、考えても仕方のないことだとも思った。
だからすぐにそれは打ち消した。
目が覚めると、目から涙が零れ落ちてきた。頬に手を当てると冷たい痕が残っていて、胸の中にじくじくするしこりがあった。それを感じて私は悟った、悟ってしまった。いつもこうだったから。
またやってしまったんだ、と。
今度はどんな人だったんだろうか。若かったのか、それとも年をとっていたのか、もしかしたら赤ん坊だったのかもしれない。今ごろは石のように冷たくなって布団か道の上でぐったりしてるんだろう。そうなることはその人が望んでいたことじゃなかったのに、それなのに私が死に誘ってしまった。その人の人生を私が吹き消してしまったのだ。誰にも直せないことを、二度と取り返しのつかないことをしてしまったのだ。
布団の上に丸まるようにして、耳を塞いで目を閉じた。どんなに抑えようとしても涙が出てきた。ごめんなさい、と心の中で謝った。目の前が真っ暗な中で、私が殺した人に謝った。ごめんなさい。ごめんなさい。今度こそもう無いと思ったんです、最後だと思ったんです。許してください。ごめんなさい、ごめんなさい!
《許すものか》と暗闇の中から声が聞こえた。どこかこことは別の所から聞こえてくるように最初は思っていたけど、私の中から聞こえてくるものだということにそのうちに気づいた。《俺たち(私たち)は苦しかった。反吐を吐きそうなほどだった(心臓が止まるって想像できる?肺が動かないって分かる?脳みそが腐ることって考えられる?死ぬって分かるの?あなたに理解できるのそれを?)、何もかもをなくしてしまった、お前に食われてしまった。どうするんだ、え? 一体どうしてくれるんだ!?》
声自体は遠かったけど、とても怖かった。今にも手を伸ばして私の髪を掴んできそうな、そんな感じさえした。何度も謝っていたけど、あの人たちは許そうとしなかった。だって、自分から一番大切な物を奪い取って壊したんだから。
絶対に許せる筈もないんだから。
《寒い。ここはどこだ。どうして俺たち(私たち)はこんな寒い(熱い)ところにいるんだ。こんなに目の前が真っ暗なのはどうしてなんだ?どうして俺たちをこんなところに放り込んだ!? どうして! どうして! どうして!!!》
「ごめんなさい」
私を押し潰そうとしてくる声に向かって何度も言った。喉が掠れて体中ががたがたと震えて、改めて怖くなった。この人たちのことも、自分がしたことも。これを受けずに済むなら他の何を捨てても良いと思えるほどだった。
「ごめんなさい、もうしません、ごめんなさい、もうしません。本当にしません。許してください許してください、ゆるして、ください……っ……」
一言だけ、聞こえた。
《絶対に許さない》
断末魔のように強く残るその声とともに、あの人たちはやっと消えてくれた。だけど、それが一時的なものに過ぎないことは知っていた。あの人たちがまた戻ってきて、何度でも私のしたことを責めることが分かっていた。
それを作りあげたのは私だから、いままでもあの人たちは戻ってきたから。
今も耳の中に声が重く残って、私に呪いを振りかけようとしていた。そうされても私には何の文句も言えなかったし、殺されたって何も言えるわけなかった。
私が人を殺す度にあの声はやってきた。一人殺せば一人増え、二人死んだら二人増え、時には一編に何人も増えることもあった。けれど減ることは絶対に無かった。今ではもう何人になっているだろう、数えることなんか怖くてとてもできなかった。皆は私を恨んでいる、自分たちを殺した私を恨んでる。いくら謝っても許してくれない、お父さんや妖忌やお母さんみたいに許してくれることはなくて、いつまでも恨んでる。
どんなに謝っても。
ふと、廊下の方から足音が聞こえるのが分かった。耳の中ではまだ声が残っていたけど、なんとか聞き取ることができた。お父さんは書き物の仕事をしているだろうし、お母さんもこの時間なら家事をしていると思う。それならきっと妖忌だ。少しほっとした。
お父さんやお母さんは私のことを知らないけれど、妖忌は知っていた。私の中にいるものや、私が何をしているのか。そういうことを全部話していたから、妖忌は知っている。お父さん達には話せないことも、妖忌なら打ち明けることが出来た。
私がやってしまったことをどういう風に妖忌に話そうかと考えると、それと同時に恐ろしい考えが湧きあがってきた。
もしも妖忌が、あの人たちに取り憑かれたらどうなるのだろう?
私の中に入ることができるんだから、妖忌の中に入り込むことだって簡単なはず、もし妖忌が私を責めたらどうしよう。怒鳴りつけられたりしたら、私は一体どうなってしまうんだろう。
あの声がまた近くなってきたように感じられた。顔が青ざめるのが分かる。あの人たちが私の中に戻ってこようとしていることも分かる。妖忌に取り憑こうとしていることも、それから私がどんなことになるのかも、全てが見通せるような気がして、この場所から消えたくてたまらなかった。どこか何もない所に行きたかった。それが出来ないからこそそうしたかった。
「幽々子嬢、もう起床の時間です」
襖を叩く音が聞こえたけれど、私にはどうしようもできなかった。この布団の上から動いたら、声を出したり指一本を動かしたりするだけであの人たちが動き出すと思うとできなかった。心臓がぎゅっと縮んだように思えて、吐いてしまいたくなった。
きっと今ごろは、私が返事しないのを変に思っているんだろう。私の見張り役も務めている妖忌ならどうするか分かっているし、その通りに行動したことがすぐに分かった。
失礼しますと声がかかって、襖が開く音がした。もう本当にどうしようも無いんだと思うと、頭の中ががんがんとして身体が冷えきっていく。そのくせお腹の底にあるような体の芯がちりちりと熱くなって、もしかして何かの病気に(呪いに)かかったのかもしれないと思った。目の中がぐるぐると揺れ動いて、この目がまともなのかさえよく分からない。気がつくと妖忌が私の身体に触れていて、焦っているような、それでも優しい声を投げかけてくれた。その声のおかげで私は分かることができた。そうなって良かったと心から思った。
―――ここにいるのはいつもの妖忌。悪いことをすれば怒ったり叱ったりするけど、だけど凄く優しい妖忌なんだ。身体が大きくて、ふわふわした幽霊をいつも後ろに連れていて、私と一緒に遊んでくれるあの妖忌なんだ。
あの人たちとは関係無いいつもの妖忌なんだ。
「どうされましたか? 幽々子嬢?」
妖忌は声を掛けてくれながらも、私の体を抱きしめてくれるみたいに腕を回していた。身体はまだガチガチだったけれども、なんとか私の言うことを聞いてくれそうだった。
耳からゆっくりと手を離すと、ぼやけ気味だった妖忌の声がすっきり聞こえた。私の手は汗でべたべたになっていたけど、おそるおそる妖忌の体に手を回して、時間をかけて大きな身体にしがみついた。凄く安心できて、妖忌が着ている着物のざらざらとした感触が温かくて、だからとても悲しくなった。あの人たちはこんなことも出来なくなってしまったから。
最初は声が出なかったけれども、涙で目の中がにじむうちに小さくだけど出てきた。それから何も考えることが出来なくなって、私は泣き始めた。泣き終わるまで妖忌は手を離さないでいてくれたし、何も言わないでいてくれた。じわじわとだけどあの人たちの声が耳から消えていって、それが嬉しくてまた泣いた。
泣き終えて、妖忌に昨日(寝ている間に起きたんだから多分昨日で良いんだと思う)の事を話すと、頭の中がぼうっとすることに気がついた。喉のあたりもがらがらした感じがするし、さっきのめまいや寒気もそのせいだったのかもしれない。念のためにほっぺたを触ってみると、熱を持ったみたいに熱かった。妖忌にそれを言うと、薬を買って来ますので横になっていてください、と言って部屋から出て行った。妖忌が出て行くのは寂しかったけれど、私の心を読んだのか「すぐに戻ってくるので、心配は無用です」と笑いながら言ってくれた。
その顔を見て、やっぱりほっとしている私に気がついた。
屋敷を出て行く時にお母さんに伝えてくれたのか、少し経ってから慌てたようにお母さんが部屋に入ってきた。熱の具合とか今はどんな気分かと聞いてきながら、冷たくて気持ちが良い布巾をおでこに乗せてくれるお母さんを見て、何でか私は嬉しくなった。動きが止まったお母さんの手の甲に私の手を乗せると、お母さんはもうひとつの手でそれを上から包んでくれた。それから私の顔を見て、お母さんが笑ってくれて、私も笑った。
少ししてから、お母さんと作法(この里にはそういうのを教えられる人がいないらしくて、お母さんが作法の先生をしてくれていた)、前に私がみんなの前でした舞について、それから今日寝込んでいなければ受けるはずだった勉強をいつに引き伸ばすか、色々と話をした。里の方で起こっているだろう事件については一言も話に出てこなかったし、出てこなくて良かったと思った。
話し込んでいるうちに随分と時間が経ったと思ったけど、妖忌はまだ戻ってこなかった。
「遅いわねえ」
お母さんが開いた窓から昇っていく太陽を眺めながらそう言った。
「屋敷を出てからだいぶ時間が経っているというのに」
「…うん」
お母さんと話をしているうちに、大分気分は良くなってきた。最近お母さんが忙しくてあまり話が出来なかったから、ひょっとしてその所為もあったのかもしれない。
「ね、お母さん」
私がそう言うと、外を見ていたお母さんが顔を向けた。
「手、繋いでてもいい?」
お母さんは苦笑いのようなものを浮かべてから、私の手をさっきよりも強く握り締めた。熱が一気に下がるとかそういうことは無かったけれど、やっぱり嬉しかった。
「これでいい?」
「うん」
その状態のまま私はすこすこと布団に入り、天井を見上げた。さっきまでの怖く思う心とか、不安とか、そういうのはすっかり消えていた。今なら眠っても大丈夫な気がした。
そう思ったせいか、次第に眠くなってきた。薬は飲んでいないけれど、もしかしたらお母さんと手を繋ぐことにはそれくらいの効果があるのかもしれない。そう思っていると更に眠気は増していって、何を考えているのかもよく分からなくなってきた。
お母さんの顔を最後に見て、私は目を閉じた。
そうするとすぐに、意識がとろんとした暗闇の中に包まれていった。
続きが非常に楽しみなのでレスさせてもらうが、執筆中でレスすると云う事を詫びる。
不思議な感じというのは私自身ではどう捉えたら良い物か現在の時点ではよく理解することができませんが、非常に嬉しいです。
続きの方は近く上げますので、少々の間お待ち下さいな。