※作品集22「hoffnungslos -erster Band-」の続きになります。
「人間風情が小賢しい真似を……!」
「か……はッ……あ…ぁぁあ!」
片腕で魔理沙を貫いた格好のまま瓦礫の下から現れたのは、間違いなくレミリアだった。
服もボロボロになり、体中を焦げ付かせていたその姿は傍目から見ていてもすぐに解るほどに疲弊していたが、その目は紅く光り輝き、口元からは二本の犬歯が牙のように伸びていた。
「この傷の代償、お前の血をもって償ってもらおうか」
「! そんな事させる訳ないじゃない!」
レミリアの思惑に気付いた霊夢だったが、飛んでいったのでは間に合わない。
手にしたお札にありったけの力を込めて放ったが、それを見たレミリアが忌々しげに腕を払うと、そこから発せられた紅く輝く光の玉になす術もなく飲み込まれていった。
そしてそれらは文字通り弾幕となって霊夢を襲う。一片の隙間もなく迫ってくる弾幕に最早避ける手立てはなく、悲鳴と共に霊夢の体は大きく吹き飛ばされた。
その様子を見ていたレミリアが今度は満足そうに笑みを浮かべると、その視線を傍らで痛みに身悶える魔理沙の首筋へと移した。
「や……め…ろ……!」
「大丈夫よ、痛くなんてしないから」
空いたもう一方の手で乱暴に魔理沙の頭を掴み、片側に倒して固定する。
魔理沙も必死の抵抗を試みるが、吸血鬼の力で抑えられたとあってはそれも叶わない事だった。
そして伸びた二本の牙の先が白い首筋に触れたかと思うと、ずぶりと一気に突き刺さっていった。
「んあ! ……あ…ぁ……や………ぁふ…ん……」
最初こそ激痛に目を見開いた魔理沙だったが、次第にその瞳が恍惚に曇っていった。
魔理沙の心臓が脈打つたびに、その鼓動に合わせて貫かれた手と突き刺さった牙の淵から赤い血が溢れ出てくる。
吹き飛ばされて這い蹲るように倒れていた霊夢は、その瞬間を見て頭が真っ白になった。
アソコニイルノハダレダ? ナニヲサレテイル?
だがそれも一瞬のこと。徐々に力の抜けていく魔理沙の顔を見て、霊夢が再びその名を叫ぶ。
「魔理沙ぁああぁぁァああアァぁぁッ!」
「あーぁ、服が汚れちゃったじゃない。これだから直接血を吸うのって嫌いなのよね」
首筋から口を離して突き刺していた右腕を引き抜くと、魔理沙の体は糸が切れた操り人形のように、重力に導かれるままどさっと倒れこんだ。
一方のレミリアは口の周りに付いた血を指先で拭い、それをまた舐めとっていく。
その様子はなによりも艶やかに、まるで相手を誘うようにも見えたが、霊夢にとってはそれは同じ誘いでも自分を見下した挑発にしか見えていなかった。
斑模様に赤く染まったレミリアの服。だがその赤は全て、他ならぬ魔理沙のもの。
そして足元には物言わぬ彼女の姿。
博麗霊夢という人間を知るものならば、少なからずこういった表現をする者がいるだろう。
──空気のような人だ──と。
流れるままに身を任せ、怒る時には怒り、笑う時には笑う。
だがそのどれもが線を引いた向こう側から眺めているような、そんな感じが霊夢にはあった。
しかし、今目の前に立つ彼女はどうだ。
これほどまでに激しく怒りと悔しさに歪む顔を、今までに誰が見ただろうか。
奇しくも唯一の目撃者となったレミリアでさえ、そこから発せられる圧倒的な威圧感に眉を顰めたのだ。
人間どころか、並以上の妖怪であってもその威圧感だけで尻尾を巻いて逃げ出しただろう。
「あんた……魔理沙に何をしたの……」
「やっぱり力のある人間の血はまた違った味がしていいものね。……さて、これで仕切りなおしよ」
「何をしたって言ってるのよ!」
吼える霊夢が風を巻いて駆け抜ける。
レミリアは自然体のまま、ただその目に全神経を集中して迫る風を見た。
だが、確かに捉えていたはずの姿が消えたかと思うと、次の瞬間には既に己の眼前にあった。
「だからなんなのよそれは!」
またしても見切る事の出来なかった霊夢の動きに寸でのところで身を退いて避けるが、深く踏み込んだ一撃はくの字に曲げた腹にまで到達していた。
横一線の軌跡を描いた切っ先が身を裂くのを気にも留めず、そのままとーんとーんと後ろに跳ねて距離を置く。
霊夢にそれを追う気配はなく、一撃を放ったその場所で御幣を振りぬいた格好のまま静かに佇んでいた。
足元に倒れた魔理沙を見る。
仰向けに倒れていたためにその顔は見えなかったが、その下には今も赤い泉がその淵を広げていっていた。
噛み締めた奥歯が痛い。
解っていながら助ける事ができなかった心が痛い。
やられた傷は……痛くない。
こんなもの、魔理沙が味わった痛みに比べれば……いや、比べるまでもない。
できる事ならば、今すぐ魔理沙を抱えてこの場を去ってしまいたかったが、そこに至るには最早レミリアを越えていくしか道はない。
二度三度跳ねて床に足をつけると同時に、ぼろぼろに焼き切れた服の裾が再び綺麗な線を取り戻していた。
しかしそれは最初よりも幾分短く、更に裾に沿って腹に赤い筋が走っていた。
下ろしていた視線を上げると共に、その顔からは笑みが消える。
腹に付いた赤い筋をつ…っと指でなぞり、同じ赤に染まった指先を小さく開けた口先に当てる。
ここまで手を煩わされたのは、数百年前に妹が暴れた時以来だろうか。
僅かな期待に胸を躍らせながらも、その身を焦がすは怒りの炎。
霊夢が魔理沙の体を囲むようにお札を置く。
小さく何かを呟いた後にその中心点に触れると、魔理沙を覆うように小さな霊気の囲いが作られた。
これなら多少の事があってもこれ以上の被害を受ける事はないだろうと、御幣を片手に立ち上がる。
向き直り、睨むように視線を交わせる二人。双方その顔に表情は無く、嘘のような静けさがその場に下りた。
「どうやら、貴方を見くびっていたようね」
沈黙を破り、そっと呟いたレミリアが右手を上げた。
頭上に掲げた手、そこから一本ぴんと伸ばした人差し指を中心に、紅い妖気が広がっていく。
「ここから先、私は本気で貴方を殺すわ」
「──っ!?」
歌うように紡がれていくレミリアの言葉。それはどこまでも冷たく響き渡る。
そしてその声に合わせるように紅い妖気はその範囲を広げ、瓦礫を、霊夢を、目の前にあるもの全てを飲み込んでいった。
静かに、しかし有無を言わせず迫りくる妖気の並を前に、霊夢は思わず両腕で顔を覆って目を伏せた。
「だって……こんなにも月が紅いんだもの」
続いて聞こえたその声に霊夢が恐る恐る目を開けると、そこは一面が紅に染まった世界だった。
掲げていた右手を下ろすレミリアの背後には、異様なまでに巨大な月が周りに広がる紅より一層強い紅にその身を輝かせていた。
「時間も空間も超越したこの場所で、貴方は紅い幻想の一つとなる。……美しいわね」
「……その言葉、そっくりそのまま返すわ」
「ふふ、この状況を見てまだそんな事が言えるなんて。益々大した人間だわ」
紅い世界、これこそがレミリアの持つ彼女の結界なのだろう。
そんな中、招かれざる者である霊夢はこの窮地ともいえる状況をどうしたものかと、懐に忍ばせた手の平大の陰陽玉をそっと指先で撫でた。
チャンスは一回。外せばレミリアの言葉どおり、自分はここで塵と果てるだろう。
それ以上の言葉はない。ただ互いの一手があれば、それが会話となる。
霊夢が御幣を前に構えていざ駆け出さんとした直後、それよりも早くレミリアが行動を起こした。
霊夢が踏み込んだ右足を軸に上半身を翻す。一見何もない空間を裂いたかに見えた御幣は、しかしレミリアの爪を受け止めていた。
すぐさま懐からお札を取り出し、霊力を込めて凶器となったそれを振り上げるように放ち、返しの一手でまたも放つ。
レミリアは跳ねるように右へ左へとかわしていながら後退していき、一刹那の隙を突いてまた一気に前へと飛ぶ。
それを視認するよりも早く、霊夢が左手に御幣を持ち替えてそのまま左方へと繰り出すと同時に、右にお札を持って掌底のように同じく右方へと突き出した。
霊夢が両手を広げきったその瞬間、右手に構えたお札が迫り来る光弾を弾き、左に構えた御幣がレミリアを受け止めた。
「読みが浅いのよ!」
「──言われなくても!」
左右からの攻撃を受けた事を確認するまでもなく、霊夢がバックステップを踏む。
焼け付くような妖気が鼻先をかすめ、続いて目の前に紅い悪魔が現れた。
レミリアは攻撃の手を休めることなく、退く霊夢をそのまま追いかける。
即座に零となった距離の中で左の爪が振り上げられる。霊夢はそれを上半身を反らして避けるが、上を向いた視線はほんの一瞬、一コンマにも満たない時間だがレミリアの姿を見失った。
(……やられる!)
そう思った瞬間、まるで鉄の塊が突進してきたかのような衝撃を受け、霊夢の体が吹き飛ばされた。
それでも今度は宙でくるりと回転し、そこが地面だとでもいうように壁に“着地”した。
流石のレミリアもそれには唖然として立ち止まったが、すぐに自分へと迫るお札の弾幕に目を移すと光弾を放ってそれを撃退、残るお札を後ろへと跳ねてかわした。
「咄嗟に霊気の壁を展開するなんて……その先見の力こそが博麗の者たる証なのかしら?」
「……ただの勘よ」
先の瞬間、霊夢は考えるよりも先に手が動き、自分の前に霊気の壁を展開していた。
お札という媒介を通していなかったので若干本来のものより強度の点で劣っていたが、それさえも無ければ今頃は魔理沙の二の舞となっていただろう。
痛みを無視できなくなってきた左手を震わせながら、霊夢が荒い呼吸を繰り返す。
「そう、安心したわ」
不意に微笑んだレミリアに、霊夢が僅かに眉間に皴を寄せた。
「だって、お前の血を飲んで博麗の力を得たとしても、既に持ってる力じゃ面白くないものね」
「え……?」
その顔から再び表情が消える。それに触発されたかのように、周りの紅がその色を濃くしていったかのように見えた。
霊夢は自分の背が震え上がるのを感じていた。
次の攻防が最後になるだろう。自分にはそれ以上の力は残されてはいない。
そしてレミリアは間違いなく本気だった。
その動きは最早視認する事も敵わず、放たれる攻撃を勘任せに受ける事で精一杯だった。
(まったく、今日は震えっぱなしね)
懐の陰陽玉へと手を伸ばす。
一瞬でいい、一瞬の隙さえあればこの一撃を確かなものにできる。
だが、今のままではたとえ永遠にこの状況を続けたとしても、レミリアにそんな隙は生まれないだろう。
ならば作らなければいけない。
レミリアの攻撃の二手、いや、更にその先を見切る事さえできれば、それも敵わぬ事ではない。
二人を取り巻く空気は張り詰めていき、緊張感は否応なく高められていく。
そんな中、霊夢は何を思ったか唐突に体の力を抜いた。
今度はレミリアが眉間に皴を寄せて、訝しげな視線で霊夢を見た。
それにも構わず、力の抜けた両腕をだらりと下げ、二度、三度、静かに深呼吸を繰り返す。
一瞬自分が愚弄されているのではないかと思ったレミリアだったが、それでも気を張り詰めたまま、霊夢の髪の毛一本の動きまでをも見逃すまいと睨み据える。
「……面白いじゃない」
レミリアも更に闘気を高めていく。
身の内に収まりきらずに溢れ出た妖気が周りの空間を揺らめかせ、その背後が陽炎のようにぼやけて見えた。
そしてレミリアはゆっくりと、誰の目にも見えるほどにゆっくりと、腰を落とした。
レミリアの紅い妖気が唸るような声を上げて空間を侵食していく中、二人はただ静かに向かい合った。
一瞬とも永遠とも言える時間の中、レミリアが動く。
「滅んで塵と散れッ!」
時間も、空間も、全てを超越したスピードでレミリアが迫る。
だが、霊夢は目を伏せたまま微動だにしない。
見てはいけない。
見てしまえば、たとえ相手の動きを感じ取ったとしても反応が遅れてしまう。
聞いてはいけない。
聞けば、余計な音に惑わされてしまう。
視界と音を捨て、精神を研ぎ澄まし、己の感覚に全てを集中させる。
ただそれだけで、見えていないはずの物が見えた。
ただそれだけで、聞こえていないはずの音が聞こえた。
それは舞い上がる粉塵の一つに至るまで、鮮明に脳裏に描かれていった。
「──そこッ!」
振り向く霊夢の頬を紅い刃が過ぎ去り、その皮膚を薄く裂いた。
そして──確かに感じた、レミリアの体を撃つ感触。
だがその刃は体を裂くまでに至らず、レミリアは体を折り曲げたまま吹き飛ばされ、瓦礫の中へと突っ込んでいった。
「お望みどおり……」
霊夢が呟くと同時にレミリアが吹き飛んでいった先一帯の瓦礫が吹き飛ばされ、その中から怒りにその目を紅く輝かせる彼女が姿を現した。
しかし、二人の間には決定的な距離ができていた。
この期を逃してはならないと、霊夢は懐から勢いよく陰陽玉を取り出すと同時に、叫んだ。
「夢想──封印!」
それは手を離れ、白く輝きながら内側から押し出されるように肥大していく。
やがて人の頭ほどにまで膨れ上がった陰陽玉から漏れ出た光が、その周りを駆け巡った。
「なに……? あの光」
その、まるで自分を焼き焦がす太陽のように強い光を放つ霊気の塊を、レミリアはただ唖然と見つめていた。
体力だって残っていない、霊力だって既に空っぽのはず。
なのにあの人間の一体どこに、これだけの力が残っていたというのか。
「見せてあげるわ……博麗の力を!」
抱えるように添えていた両手を引き、左手を陰陽玉の前に突き出してそこへ重ねるように御幣を持った右手を添えた。
左手をゆっくりと握りこむと、それに呼応するように陰陽玉を内から押し広げていた霊気も一点に凝縮されていく。
「──散!」
そして霊夢が握りこんだ左手を解放すると同時に、玉を形成していた外殻を突き破った霊気の塊が荒れ狂う波のように四方八方へとその手先を伸ばしていく。
紅い世界の中を縦横無尽に駆け巡る白い光。それはさながら龍の如く、唸りをあげて二人の視界を白く染め上げていく。
その地の底から響いてくるような咆哮の中に、凍えた湖が割れ砕けるような破砕音が確かに聞こえた。
足元、頭上、見渡す限りの場所に亀裂が入り、紅い世界を罅割れで覆い尽くしていく。
「そんな……破られるというの? 私の結界が……」
やがて……紅い世界はガラス細工のように、その破片を撒き散らしながら砕け散った。
落ちる事もなく宙を彷徨う破片に白い霊気が反射され、万華鏡のようにその姿を移り変えていく。
そしてその破片すらをも飲み込んで、白き龍は天へと昇っていった。
紅から闇へと変わった世界に再び色が戻ってくる。
その中で呆然と立ち尽くしていたレミリアに、しかし霊夢はまだ気を緩める事はなかた。
「まだよ!」
再び霊夢が吼えると同時に、開いたままの左手を今度は一気に握りこむ。
そう、白き龍はまだ消えてはいない。霊夢の想いに応えるように頭上からその姿を見せたかと思うと、ただ一点を目掛け幾本もの光が螺旋の軌跡を描いて下降していく。
その先には──レミリアの姿。
「──集!」
「この程度──!」
だが、レミリアは霊夢のその叫びによって我を取り戻すと、自分の周りに障壁を展開、最大限の力を持って迫り来る霊力の塊を真正面から受け止めた。
ドォン! という爆発音にも似た音と共にレミリアの周りを取り囲むように包んだ光の奔流は、中心で耐える彼女を潰さんとせめぎ合い、その表面には火花が散った。
外からその様子を見ていた霊夢は、両手を前に構えたままただ行く末を見守っていた。
「最後の一手ね……」
流れた汗が頬を伝い、顎の先から床へと落ちていく……そんな事はどこか遠く。霊夢は左手に正真正銘最後となった四枚のお札を構えて放った。
その先では、ひしめき合っていた霊力の塊が内部爆発を起こしたかのように内側から吹き飛ばされ、その中心にはレミリアの姿があった。
吐く息は荒く、かかないはずの汗を流し、しかし睨みつける視線には最大限の殺気を込めて、ゆらりと左手を前に突き出した。
「ほんと、その力はどこから出てくるのかしら」
レミリアの左手に紅い妖気が集まっていく。
凝縮されたそれはやがて一つの小さな点となった。
荒ぶる妖気は解放されるその時を待つ獣のように、その周りに紫電を走らせまだかまだかと唸りをあげる。
「貴方はよく頑張ったわ。だから……そろそろ終わりにしましょうか」
「残念、それもこっちの台詞よ」
「なんだって……?」
だがそれも一瞬、手の中の妖気を解放する寸前のところでレミリアの体はまたしても自由を封じられた。
何事かと見上げれば、自分の周りには先ほどと同じ霊気の壁が高くそびえている。
肩を揺らして呼吸するのも苦しげに、霊夢を睨む。
「また……なの?」
「いい加減、大人しくしなさいよね」
「ふざけないで! 二度も同じ手で私を止められると思っているの!?」
最後に残った退魔の符、再び形成された封魔陣。
敷かれた結界は確かにレミリアをその内に縛っていた。
しかし、その中でレミリアはなお対抗するように、突き出したままの左手に添えるように右手を合わせ、前方へと力を集中させていく。
先ほどとは逆に、内側から破ろうとする力は閉じていく結界を逆に広げ、粘る霊夢の願いも虚しく結界内の空間は四隅に貼られたお札にまで押し戻された。
こうなれば後は結界を破るなどもう造作もない事。
さっきは思いがけない乱入があったが、もうその人間もいない。
勝利を確信したレミリアが不敵に笑う。
「今度こそ……終わりよ、博麗霊夢」
(お願い。あと少し……あと少しだけ!)
御幣を前に構えて懇願するように祈る霊夢だったが、極限を超える力の行使に体がついていかず、崩れるように片膝をついた。
「ここまで……なの?」
項垂れる霊夢の顔を幾筋もの汗が流れ落ちていく。
結界の壁には無数の亀裂が走り、それに合わせるかのように構えた御幣がぴきっと嫌な音を立てた。
(いいや、ここからだぜ!)
「え……?」
その瞬間、ありえない声が聞こえた。
それは耳から入ったのではなく、霊夢の頭の中に直接聞こえてきたような声。
聞き間違えるはずもない、魔理沙の声だった。
だが、それはありえない事だった。魔理沙は今も大広間の隅で倒れているのが霊夢の目にも見えているのだ。
(霊夢、まだまだこんなものじゃないんだろ? 見せてやろうぜ、私たちの力を!)
それでも頭の中の声はなおも霊夢に語りかける。
その声が聞こえたと同時に、前に突き出した霊夢の両手を暖かい何かが包み込んだ。
見えない。でも解る。魔理沙がその手を握りこんだ自分の手に重ねてくれているのが。
伝わる。魔理沙の温もりを確かに感じる。その温もりは力となり、立ち上がると共に再び霊夢の瞳に確かな光をもたらした。
「ガッ!?」
結界の中、突き出した両手を再び締め上げられる格好となったレミリアの顔は、苦痛よりも驚きの色に染まっていた。
抵抗する力がなくなった事で結界は再びその範囲を狭めていく。
後はこのまま、空間ごと亜空間へ封じ込めてしまえば、この陣は完了する……はずだった。
「なんなのよ……なんなのよ! お前たちは!」
不恰好に締め上げられ、一切の自由も封じられた結界の中で、しかしレミリアの目は未だ敗北の色を宿してはいなかった。
魔理沙に牙を立てた時と同じように、その目は紅く輝き、口元からは二本の牙が伸びていくのが見えた。
空間に貼り付けられた体を無理矢理に動かし、ぎしぎしと悲鳴を上げる右手を高く頭上へと掲げていく。
動かせば動かすほどに、力に逆らった腕だけではなく体中から紅い血が飛沫となって噴き出し、鈍い音と共に関節の一つ増えた腕が奇妙な場所で折れ曲がった。
「誉めてあげるわ。私にこれを使わせた事を──!」
絶体絶命の窮地の中、それでも笑みを浮かべるレミリアを見て、霊夢は薄ら寒いものを感じていた。
もうこうなってしまっては対抗する手など無い。
それにも関わらず、なぜあの吸血鬼は笑っていられるのか。
「な──によ、それ……」
だが、その答えは図らずも霊夢自身の目によって見る事となった。
結界の中、紅い霧のようなものがレミリアを纏うように現れたかと思うと、それらはやがて掲げた右手の先へと集まり、一つの形をもって具現化していった。
それはまるで──。
「神槍……グングニル!」
禍々しいほどの紅に染まった一本の長大な槍。
残った紅い霧で折れた腕を無理矢理握り伸ばしてその手に握りこませると、またしても血飛沫を上げながら震える右手を後ろへと反らせていく。
その矛先は真っ直ぐに霊夢を向いていた。
圧倒的有利な立場にいるにも関わらず、自分に向けられたあまりにも出鱈目な魔力を放つ槍を前に、霊夢はここにきて初めてその顔に絶望のそれを浮かべた。
「楽しかったわ……本当に楽しかった。でもそれももう終わりよ!」
紅い妖気と紅い飛沫の中で、紅い瞳を輝かせたレミリアが一気に槍を放とうと腕を振る。
がっくりと膝をつき、再び項垂れる形となった霊夢は……全てを諦め、目を閉じた。
「ごめんね……魔理沙。折角助けてもらったのに、やっぱり駄目だったみたい……」
でもあんたを追って逝けるのなら、それも悪くないかもしれないわね……。
そう思って薄く笑ってから何秒か。
しかしいつまで経っても訪れない死への衝撃に疑問を抱いた霊夢が顔を上げると、そこには槍を構えた姿勢のまま、ありえないものを見たというふうな顔をしたレミリアの姿があった。
「あの人間……この紅魔館の壁を外からここまで貫いていたというの……?」
そう、霊夢の本当の狙い、最後の一手が今ようやく発動したのだった。
その身を縛る結界が消えたにも関わらず、呆然と立ち尽くして呟くレミリアの顔が白く照らされる。
それは世界の息吹を感じさせる、確かな光。太陽の輝きだった。
魔理沙がマスタースパークで乱入した際、それは幸か不幸か、真東の壁を貫いていたのだった。
「お前……まさか最初からこれが狙いで」
「……一か八かだったけどね」
小さな笑みを浮かべたまま、霊夢がしっかりとレミリアの目を見返した。
それに釣られるように、レミリアもまたふっと目を閉じて口元を緩めた。
槍は再び紅い霧と消え、伸びていた牙も隠れたレミリアは、早くも光に照らされた足元から徐々に崩れていっていた。
「なるほど、結界内に私を封じるのではなく、最初からこの場所へ私を留めるのが……そこまで読みきれなかった私の油断ね」
レミリアは自分を照らす光の方向、彼方の山間から覗く太陽を見つめてその目を細めた。
光と一緒に吹き込んだ夏の風に、崩れゆくレミリアの体が流されていく。
「まさか私が負けるなんてね。そんな運命は見えてもいなかったし、作ってもいなかったのだけれど」
話す間にもレミリアの体はさらさらと崩れていく。
既に下半身は全て灰と消え、両腕も肘の辺りまでなくなっていた。
「本当、面白い人間たちね。でも残念だわ、貴方ほどの力の使い手が人間だなんて」
そう言いながらも、その顔は残念というよりも、むしろ嬉しそうに微笑んでいた。
満足そうな笑みを浮かべた彼女は実は吸血鬼なんて大妖怪ではなく、見た目相応のただの少女だったのかもしれない。
「そうだ、貴方もこっち側に来ない? 貴方ほどの者を人間の域に留めておくのは勿体無いわ」
「……お断りよ」
さらさらと、さらさらと、風に流されて少女の体が崩れていく。
最後に残った顔半分。彼女は「そう言うと思ったわ」と微笑んで、白く輝く朝日の中に消えていった。
∽
──あれから五日が過ぎた。
あの後、日の光に照らされた事で完全に消滅してしまったのか、レミリアが再びその姿を見せる事はなかった。
そして驚く事に、あれほどの傷を負っていたにも関わらず、魔理沙はまだ辛うじて息があった。
あの時聞こえたのは幻聴でもなんでもなく、確かな彼女の声だったのかもしれない。
そうして全てが終わった後、瀕死の魔理沙を背負って博麗神社に戻ってきたときには、もう西の山に日が暮れかかっていた。
あれから五日……魔理沙はまだ眠ったまま。
貫かれた胸の傷は嘘のように綺麗に塞がっていたが、首筋につけられた二つの痕だけは一向に消えなかった。
薬を塗ろうが、呪術的な処置を施そうが、一切の反応を見せずに残ったまま。
「魔理沙……本当に変わってしまったの?」
布団に寝かされた魔理沙の横に座って、そっとその髪を撫でた。
変わってしまったなんて思いたくもなかったし信じたくもなかったが、そうでなければあの傷の説明がつけられない。
彼女のしぶとさは十分に心得ているつもりだったが、それでも間違いなくあれは致命傷であり、手当てをするには全てが遅すぎた。
それこそ吸血鬼のような化け物じみた生命力でもなければ助かるはずがなかったのだ。
霊夢は髪を撫でていた手をそのまま頬へと移した。
その頬は柔らかく、温かかった。
これは人の持つ、人の命の温もり。そうであると信じたかった。
「もしあんたが目覚めて……これから先、全てに絶望するような事があったとしても……大丈夫、その時は私も一緒に堕ちてあげるわ……」
一人なら諦めてしまうかもしれない。一人なら挫けてしまうかもしれない。
でも二人なら、自分と魔理沙の二人なら、たとえ未来に闇しか見えていなくてもきっと飛び込んでいける。
二人なら、きっと……。
「……いきなりそんな大告白を聞けるとは思わなかったぜ」
「え……?」
改めて霊夢が見下ろした先には、頬に添えた手に重ねられた温かい手。
そして何よりも見たかった笑顔が、そこにはあった。
「魔理沙……なの?」
「ひどいな。霊夢は私以外にもこんな事をしているのか?」
「……バカ」
そのまま覆いかぶさるように抱きついた霊夢だったが、ひどく衰弱していたのか、力なく笑う魔理沙を見て「ちょっと待ってて。すぐ何か持ってくるから」と、ぱたぱたと部屋を出ていってしまった。
取り残された魔理沙は暫く天上を眺めていたが、上半身を起こすとそっと左の首筋を指でなぞった。
そこには未だに残る二つの痕。
それが今までの出来事が夢などではなかったという事を、嫌というほどに知らしめていた。
その事実に顔を曇らせる魔理沙だったが「お待たせ」という声と共に霊夢が戻ってくると、すぐにまたいつものようににっと笑った。
「ごめんね、お粥くらいしか作れなかったんだけど」
「いや、十分だぜ。霊夢の作った物はなんでも美味いからな」
「はいはい、熱いから気をつけなさいよ」
だが魔理沙は黙ったまま、差し出された粥を受け取ろうとはしなかった。
不審に思った霊夢が「どうしたの?」と訊ねると、ほんの少しだけ頬を朱に染めた魔理沙が上目遣いにこちらを向いた。
「食べさせて……くれないのか?」
「……しょうがないわねぇ」
一瞬唖然とした霊夢だったが、椀を下ろすとそこから蓮華で一掬い。湯気の昇る粥を冷ますようにふーっと息を吹きかけて、魔理沙の前に差し出した。
「ほら」
「あー……ん」
それでもまだ少し熱かったのか、はふはふと忙しなく口を動かす魔理沙を見て、霊夢がくすりと笑みを零す。
変わってなどいない。魔理沙は魔理沙のままだ。
やっとその想いに自信がもてたのか、霊夢は再び椀から粥を掬うと、先ほどよりも少し長めに冷まして魔理沙の口元へと差し出した。
ここまできて、霊夢はようやく息をつく事ができた。
レミリアが灰と消えてしまった事には少し胸を刺される思いがあるが、それでもこうして再び魔理沙と笑いあっていられる時間が戻ってきたのかと思うと、それだけでもう十分だった。
幸せだ。
今の自分は間違いなく幸せだと言える。
なのに何故だろう。
この幸せをも、どこか他人事のように見ている自分がいるのは。
そして最後のひとさじを魔理沙が飲み込んだところで、ふいに二人の間に沈黙が下りた。
「霊夢……そういえば、この服って」
食器を片付けようとする霊夢を横目に、魔理沙が自分の着ている服の袖を上げて訊ねた。
「あぁ、あんたの服、穴が空いたりしてぼろぼろになってたから。私の予備のなんだけど、それしかなかったのよ」
少しだけサイズの大きい白衣の袖を揺らして「そうか」と答える魔理沙だったが、それっきりまた黙り込んでしまう。
そこで一区切りと思ったのか、霊夢が食器を盆に乗せて立ち上がったところで、またしても魔理沙がその背に向けて声をかけた。
「なぁ霊夢、覚えてるか? 私たちが初めて会った時の事」
「なに? どうしたのよ急に」
少し困ったような顔をして霊夢が振り返る。
魔理沙も呼び止めたはいいものの、何をどう言ったらいいのかが解らずに、あたふたと次に出すべき言葉を捜した。
「いや、なんだ。昔話が…したくなってな」
「覚えてるもなにも、そんなに昔の事でもないような気がするけど……。あの頃のあんたは赤かったわね」
「……言うなよ、それを」
言い出したのはあんたじゃないの、と言い残して再び霊夢が部屋を出て行く。
またしても一人取り残された魔理沙は、大きな溜息を一つ。
「何を言ってるんだ……私は」
右手でがしがしと頭を掻き乱して、もう一度大きく息を吐く。
覚悟を決めなければいけない。
決断しなければいけない。
私が頼み込めば、霊夢はきっと……いや、絶対に私を擁護してくれるだろう。
しかし、それではいけないのだ。
霊夢の優しさに付け入るような、決断を預けるような真似は絶対にしてはいけない。
自分で決断しなければ、結果に後悔する事すらできないのだから。
魔理沙が立ち上がった。
長いこと寝ていたのだろう、立ち上がると同時に少しふらついた。
それでも、着慣れぬ和服の感触に少し戸惑いつつも、一歩、霊夢が出ていったのとは反対側の襖に向かって踏み出した。
顔を見れば、声を聞けば、折角の決意も揺らいでしまうだろう。
別れは早い方がいい。
「さよならだ、霊夢」
振り返る事もなく、俯いたまま小さく呟いた。
全てを拒絶するかのように、その背は何も語らない。
「……なにそれ、ふざけてるの?」
あぁ……やっぱりお前はなんでもお見通しなんだな。
「仕方のない事なんだよ」
振り返ってはいけない。振り返ってはいけない。
背を向けたまま答えた魔理沙が次の一歩を踏み出したところで、背後から軽い衝撃を受けた。
見下ろすと、自分の腰に回された霊夢の手が見えた。
「嫌よ……そんなの」
「霊夢、これ以上私たちが一緒にいても……いや、一緒にいる事なんて許されないんだ」
「本当にそう思ってる?」
「……そんな訳ないだろ」
「じゃあ……!」
「駄目なんだよ! もう私は……お前とは一緒にはいられない」
「……逃げるの? それくらいの事で、あんたは逃げ出すって言うの!?」
「私はもうお前と同じじゃないんだよ!」
「そんなの関係ないじゃない!」
再び二人を包む沈黙。
外から微かに、ちりんと風鈴の揺れる音が聞こえてきた。
「言ったでしょ? 私も一緒に堕ちてあげるって」
「でも、それじゃあ霊夢、お前まで……」
「それに……ここ以外のどこにあんたの居場所があるっていうのよ」
「……いいのか? まだ私はここにいても……本当に」
「出て行くなんて言う方が、私は許さないわ」
霊夢が抱きとめていた手をそっと緩めると、それに応えるように魔理沙がゆっくりと振り向く。
向き合った二人の顔は相手の吐息がかかるほどに近く、今にも触れてしまいそうなほど。
撫でるように前髪を払い、粉雪に触れるようにそっと頬に手を添える。
目を閉じれば、五月蝿いほどに聞こえてくる確かな命の鼓動。
徐々に近づく二つの心音、かかる吐息はそれだけでも十分に目の前の彼女の存在を感じさせてくれた。
「魔理沙……」
「霊夢……」
(お嬢様、完全に入るタイミングを逃してしまいましたね)
(まったくよ。……って咲夜、なんか息が荒いわよ? うわ、押さないでってば!)
そんな百合の花咲く一間の向こう。襖の隙間に影二つ。
しかし忘れてはいけない。ここは博麗神社なのだ。
日頃から頑丈な紅魔館で生活をしていた彼女たちには想像もつかなかったが、この建物はお世辞にも丈夫とは言いがたいほどに古かった。
そうでなくても、襖なんてものはもたれかかれば結果は火を見るより明らか。
(あ……)
支えを無くして倒れる体、傾く視界。
こうなってしまっては、いかに吸血鬼と完全で瀟洒なメイドといえど文字通り手も足も出ないだろう。
(咲夜、時間を止めなさい!)
(間に合いませんよぉ~)
びたーん!
突然の出来事に、抱き合ったまま唖然とした顔で侵入者を見下ろす二つの視線。
重なり合うように倒れこんだ姿勢から、そんな二人を見上げるこれまた二つの視線。
かくして、確かに時間は止められた。
ただ少し予定と違っていたのは、止まったはずの時間の中でどこからか涼しげな風鈴の音色が聞こえてきた事くらいだろうか。
∽
「で、なんであんたがここに居るのよ」
腕を組んで仁王立ちになって立つ霊夢の前には、整った顔が無残にも──あえて言い表すならばボコボコに──腫れ上がった吸血鬼とメイドが正座をしていた。
そんな二人の反対側、霊夢の後ろでは魔理沙が壁にもたれて座っていたが、先の霊夢とのやり取りを見られていた事がよほど恥ずかしかったのか、俯かせた顔は耳まで朱に染まっていた。
まだ日が沈む前とはいえ、なぜ自分が人間相手にこうも一方的にタコ殴りにされなければいけないのか。
そんな疑問が頭の中を渦巻いていたが、咲夜という従者の手前これ以上情けない姿を晒す訳にもいかず、レミリアはおもむろに立ち上がると、右手を胸に当ててまるで舞台の上のヒロインのように左手を広げた。
「私は貴方の事が気に入ったわ。私の定めた運命を覆したのなんて貴方が初めてだったからね。だから今日はこうして、敬意を表して親睦を深めに来てあげたのよ」
「本当の目的は?」
「姉ちゃんちょいと血ぃ吸わせろや」
ばしこーん! という軽快な音と共にレミリアの体が宙を舞った。
それを見た魔理沙の脳裏に「それは舞い散る木の葉のように」なんてフレーズが浮かんだが、残念ながら「けれど輝く夜空のように」とはいかず、レミリアの体は見事な回転と共に放物線を描いて床に崩れ落ちた。
世の中はいつだって非情である。だがこの場合は自業自得とも言えるだろう。
「な、な……な…ッ!?」
数ある腫れの中に新しく加わった、赤く染まった頬を抑えながらレミリアが声にならない声で霊夢を見上げた。
その手にはどこから取り出したのか、ハリセンが握られていた。
「退魔の札で作ってみたんだけど、効果はばっちりってとこかしらね。さて、次は三回転捻りでも加えてみる?」
「あぁもう、解ったわよ。解ったからそれを仕舞いなさい」
怪しく目を光らせる霊夢に向かって、ぶんぶんと両手を振って降参をアピールする。
もう体裁とかカリスマとか気にしている場合じゃない。これ以上逆らったら次こそ殺られてしまう。
レミリアが再び立ち上がって、咳払いを一つ。喋りだす前にちらりと座る咲夜を横目に見てみたが、案の定というかなんというか、自分を見るその視線が痛かった。
「簡単に言えば、水と同じようなものなのよ。水だって熱されれば蒸気となって気体になるわ。そしてそれも冷やされればまた水になり、更に冷やせば氷に。そこからまた熱を加えれば水に戻る。つまりはそういう事なのよ」
「……そんなものなの?」
「本当はもっとややこしいんだけどね。実際私がこうしてここに立っているのだから、細かい事はどうでもいいのよ」
いまひとつ要領を得ないといった霊夢だったが、レミリアの言うとおり難しい理論は抜きにして、彼女がここにいるのだからそういう事なのだろうと自分を納得させた。
だが、それでも晴れない疑問はまだ残っている。
「そうよ、そんな事は別にどうでもいいのよ! 魔理沙よ! 魔理沙を治しなさい! 今すぐ!」
突然叫びだしたかと思うと、レミリアの胸倉を掴んでもの凄い勢いでがくがくと前後に揺さぶった。
当のレミリアは言われた事がなんなのかを判断する事もできず、かといって揺れる視界の中でそれを口に出す事も叶わず、ただただされるがままになっていた。
次第にエキサイトしていった霊夢によって、その足が床から離れて揺れる顔が青白くなってきたところで、今まで傍らで黙ってその様子を見ていた咲夜が腰を上げた。
「その点については私から説明いたしましょう」
その一言に、霊夢はレミリアを掴んでいた手をぱっと離した。
そのまま床に崩れ落ちて泡を吹いている主に歩み寄り、助け起こしたところで咲夜が霊夢に向き直った。
「まず、お嬢様は非常に小食です。本来であれば赤子の血量でも十分に事足りるのですが、その際にいつも血を零されて服を真っ赤に染め上げてしまうのですよ。お嬢様が“スカーレットデビル”と呼ばれている所以がそこにあるのですが、血の汚れは落ちにくいので正直もう少し上手に食事を済ましていただきたいですね」
後ろから抱きすくめられるように立っていたレミリアは、咲夜の最後の一言にうっとその顔を顰めた。
普段であればそんな物言いは許すはずもないのだが、先ほどまでの醜態を考えれば強く言い返すこともできない。
「それに……お嬢様、少々失礼いたします」
しかしレミリアの胸中など知ってか知らずか、咲夜がその小さな口に引っかけるように二本の人差し指を突っ込むと、むにっと口を開かせた。
「ひょっほひゃふや、はひほすふほよ」
「いくら普段は隠しているといっても、それでもご覧の通り、犬歯が普通の人間にしてはありえない長さになっているんですよ」
「っはぁ、こんな事しなくてもそのくらい見せてあげるわよ。まったく……」
解放されたレミリアは頬を擦りながら不満げに見上げたが、咲夜は澄ました顔のまま「申し訳ありません」と軽く頭を下げるだけだった。
レミリアもそれほど怒っていた訳でもなかったのか、それ以上は言及せずに霊夢へと視線を移した。
「それで、つまりはどういう事なのよ」
「つまり、私は眷属を作るところまで血を吸い尽くせないのよ。よってそいつはただの人間のまま。どういう訳か傷も問題なし。残念だわ、折角初めての下僕が出来たと思ったのに」
それを聞いて何かを思い出したのか、霊夢が右後方へとばっと振り向いた。が、そこにあるはずの姿は既になかった。
そして反対側、左後方へと振り向くと、つま先立ちになってそろりそろりと部屋を出て行こうとしていた魔理沙が、霊夢の視線に気付いてはっと立ち止まった。
無言のまま歩み寄っていく霊夢に、思わず尻をついて後退る。その様子は正に蛇に睨まれた蛙のよう。
部屋の隅まで追い詰めてがしっと両肩を掴んで睨むように見つめる霊夢に対し、魔理沙は滝のように汗を流しながらその目は宙を彷徨うばかり。
「ねぇ魔理沙? あんた、もしかして知ってたの?」
「い、いやだな霊夢。私だってそんな事は初耳だぜ?」
「本当に?」
「結局私も人のままでいられたんだからよかったじゃないか。万々歳だぜ」
「……人と話をする時は相手の目を見てものを言えって教わらなかったかしら?」
「大丈夫、私はいつだって霊夢の事を見ているからな」
一転、きりっとした顔で見返す魔理沙。
その先、満面の笑みを浮かべた霊夢。
じっと見つめること幾拍か、魔理沙の頬を冷たい汗が一筋流れ落ちた。
「その時は私も一緒に堕ちてあげるわ……」
「あぁ……お嬢様、私などにはもったいないお言葉」
──ぷちっ。
「あ、やべ」
「あんたらまとめていっぺん死んでこーーーーーい!」
こうして幻想郷を覆った紅い霧の異変は終焉を迎えた。
それから毎日のように、昼夜を問わず絶妙のタイミングで博麗神社に乗り込んでくる、風変わりな吸血鬼の姿が見られるようになったのは言うまでもない事だろう。
その直後に巫女の叫びが木霊するのも、今となっては幻想郷のちょっとした名物になっている事を記載して、この物語を締めくくろう。
ここより舞台裏。
「ねぇ魔理沙。あんた魔力なんてすっからかんだったんでしょ? なんでマスタースパークとか撃てたのよ」
「あぁ、それはな。前々から研究を進めていた薬のおかげだぜ」
「薬?」
「本来なら、失った魔力の回復には時間が必要なのは解るよな? 簡単に言えばよく寝ろって事だな。でもこの薬は強制的に失った魔力を全快させる効果があるんだよ」
「へぇ、便利な薬じゃない」
「だが、綺麗な花ほど棘があるってな。おかげで霊夢も知っての通り、五日間もくたばってるとかいう事態になった訳だ」
「なるほど、目が覚めなかったのはそういう訳だったのね。でも、それじゃああの傷は?」
「あれも薬の作用だろうな。魔力を急に回復させるために、体内の細胞とかまで活性化されたんじゃないか? もしくは、吸血鬼に噛まれたんだから少しはそれの影響も……なんてのは考えたくないな」
「結局魔理沙にも解らないって事なのね」
「まぁまぁ、結果よければ全てよしだぜ。けどなるべく使いたくないな、こんな物は」
「どうして? 使う場所さえ弁えれば中々に便利な物じゃない。今回は私もそれで助けられたんだし」
「いやまぁ、そうなんだがな。今回は五日で済んだからよかったものの、最悪二度と目覚めないなんて事にもなりかねないし、それに……」
「それに?」
「その……なんだ。くたばってる間は…霊夢の顔が見れないだろ?」
「……なに言ってんのよ、この白黒は」
「人間風情が小賢しい真似を……!」
「か……はッ……あ…ぁぁあ!」
片腕で魔理沙を貫いた格好のまま瓦礫の下から現れたのは、間違いなくレミリアだった。
服もボロボロになり、体中を焦げ付かせていたその姿は傍目から見ていてもすぐに解るほどに疲弊していたが、その目は紅く光り輝き、口元からは二本の犬歯が牙のように伸びていた。
「この傷の代償、お前の血をもって償ってもらおうか」
「! そんな事させる訳ないじゃない!」
レミリアの思惑に気付いた霊夢だったが、飛んでいったのでは間に合わない。
手にしたお札にありったけの力を込めて放ったが、それを見たレミリアが忌々しげに腕を払うと、そこから発せられた紅く輝く光の玉になす術もなく飲み込まれていった。
そしてそれらは文字通り弾幕となって霊夢を襲う。一片の隙間もなく迫ってくる弾幕に最早避ける手立てはなく、悲鳴と共に霊夢の体は大きく吹き飛ばされた。
その様子を見ていたレミリアが今度は満足そうに笑みを浮かべると、その視線を傍らで痛みに身悶える魔理沙の首筋へと移した。
「や……め…ろ……!」
「大丈夫よ、痛くなんてしないから」
空いたもう一方の手で乱暴に魔理沙の頭を掴み、片側に倒して固定する。
魔理沙も必死の抵抗を試みるが、吸血鬼の力で抑えられたとあってはそれも叶わない事だった。
そして伸びた二本の牙の先が白い首筋に触れたかと思うと、ずぶりと一気に突き刺さっていった。
「んあ! ……あ…ぁ……や………ぁふ…ん……」
最初こそ激痛に目を見開いた魔理沙だったが、次第にその瞳が恍惚に曇っていった。
魔理沙の心臓が脈打つたびに、その鼓動に合わせて貫かれた手と突き刺さった牙の淵から赤い血が溢れ出てくる。
吹き飛ばされて這い蹲るように倒れていた霊夢は、その瞬間を見て頭が真っ白になった。
アソコニイルノハダレダ? ナニヲサレテイル?
だがそれも一瞬のこと。徐々に力の抜けていく魔理沙の顔を見て、霊夢が再びその名を叫ぶ。
「魔理沙ぁああぁぁァああアァぁぁッ!」
「あーぁ、服が汚れちゃったじゃない。これだから直接血を吸うのって嫌いなのよね」
首筋から口を離して突き刺していた右腕を引き抜くと、魔理沙の体は糸が切れた操り人形のように、重力に導かれるままどさっと倒れこんだ。
一方のレミリアは口の周りに付いた血を指先で拭い、それをまた舐めとっていく。
その様子はなによりも艶やかに、まるで相手を誘うようにも見えたが、霊夢にとってはそれは同じ誘いでも自分を見下した挑発にしか見えていなかった。
斑模様に赤く染まったレミリアの服。だがその赤は全て、他ならぬ魔理沙のもの。
そして足元には物言わぬ彼女の姿。
博麗霊夢という人間を知るものならば、少なからずこういった表現をする者がいるだろう。
──空気のような人だ──と。
流れるままに身を任せ、怒る時には怒り、笑う時には笑う。
だがそのどれもが線を引いた向こう側から眺めているような、そんな感じが霊夢にはあった。
しかし、今目の前に立つ彼女はどうだ。
これほどまでに激しく怒りと悔しさに歪む顔を、今までに誰が見ただろうか。
奇しくも唯一の目撃者となったレミリアでさえ、そこから発せられる圧倒的な威圧感に眉を顰めたのだ。
人間どころか、並以上の妖怪であってもその威圧感だけで尻尾を巻いて逃げ出しただろう。
「あんた……魔理沙に何をしたの……」
「やっぱり力のある人間の血はまた違った味がしていいものね。……さて、これで仕切りなおしよ」
「何をしたって言ってるのよ!」
吼える霊夢が風を巻いて駆け抜ける。
レミリアは自然体のまま、ただその目に全神経を集中して迫る風を見た。
だが、確かに捉えていたはずの姿が消えたかと思うと、次の瞬間には既に己の眼前にあった。
「だからなんなのよそれは!」
またしても見切る事の出来なかった霊夢の動きに寸でのところで身を退いて避けるが、深く踏み込んだ一撃はくの字に曲げた腹にまで到達していた。
横一線の軌跡を描いた切っ先が身を裂くのを気にも留めず、そのままとーんとーんと後ろに跳ねて距離を置く。
霊夢にそれを追う気配はなく、一撃を放ったその場所で御幣を振りぬいた格好のまま静かに佇んでいた。
足元に倒れた魔理沙を見る。
仰向けに倒れていたためにその顔は見えなかったが、その下には今も赤い泉がその淵を広げていっていた。
噛み締めた奥歯が痛い。
解っていながら助ける事ができなかった心が痛い。
やられた傷は……痛くない。
こんなもの、魔理沙が味わった痛みに比べれば……いや、比べるまでもない。
できる事ならば、今すぐ魔理沙を抱えてこの場を去ってしまいたかったが、そこに至るには最早レミリアを越えていくしか道はない。
二度三度跳ねて床に足をつけると同時に、ぼろぼろに焼き切れた服の裾が再び綺麗な線を取り戻していた。
しかしそれは最初よりも幾分短く、更に裾に沿って腹に赤い筋が走っていた。
下ろしていた視線を上げると共に、その顔からは笑みが消える。
腹に付いた赤い筋をつ…っと指でなぞり、同じ赤に染まった指先を小さく開けた口先に当てる。
ここまで手を煩わされたのは、数百年前に妹が暴れた時以来だろうか。
僅かな期待に胸を躍らせながらも、その身を焦がすは怒りの炎。
霊夢が魔理沙の体を囲むようにお札を置く。
小さく何かを呟いた後にその中心点に触れると、魔理沙を覆うように小さな霊気の囲いが作られた。
これなら多少の事があってもこれ以上の被害を受ける事はないだろうと、御幣を片手に立ち上がる。
向き直り、睨むように視線を交わせる二人。双方その顔に表情は無く、嘘のような静けさがその場に下りた。
「どうやら、貴方を見くびっていたようね」
沈黙を破り、そっと呟いたレミリアが右手を上げた。
頭上に掲げた手、そこから一本ぴんと伸ばした人差し指を中心に、紅い妖気が広がっていく。
「ここから先、私は本気で貴方を殺すわ」
「──っ!?」
歌うように紡がれていくレミリアの言葉。それはどこまでも冷たく響き渡る。
そしてその声に合わせるように紅い妖気はその範囲を広げ、瓦礫を、霊夢を、目の前にあるもの全てを飲み込んでいった。
静かに、しかし有無を言わせず迫りくる妖気の並を前に、霊夢は思わず両腕で顔を覆って目を伏せた。
「だって……こんなにも月が紅いんだもの」
続いて聞こえたその声に霊夢が恐る恐る目を開けると、そこは一面が紅に染まった世界だった。
掲げていた右手を下ろすレミリアの背後には、異様なまでに巨大な月が周りに広がる紅より一層強い紅にその身を輝かせていた。
「時間も空間も超越したこの場所で、貴方は紅い幻想の一つとなる。……美しいわね」
「……その言葉、そっくりそのまま返すわ」
「ふふ、この状況を見てまだそんな事が言えるなんて。益々大した人間だわ」
紅い世界、これこそがレミリアの持つ彼女の結界なのだろう。
そんな中、招かれざる者である霊夢はこの窮地ともいえる状況をどうしたものかと、懐に忍ばせた手の平大の陰陽玉をそっと指先で撫でた。
チャンスは一回。外せばレミリアの言葉どおり、自分はここで塵と果てるだろう。
それ以上の言葉はない。ただ互いの一手があれば、それが会話となる。
霊夢が御幣を前に構えていざ駆け出さんとした直後、それよりも早くレミリアが行動を起こした。
霊夢が踏み込んだ右足を軸に上半身を翻す。一見何もない空間を裂いたかに見えた御幣は、しかしレミリアの爪を受け止めていた。
すぐさま懐からお札を取り出し、霊力を込めて凶器となったそれを振り上げるように放ち、返しの一手でまたも放つ。
レミリアは跳ねるように右へ左へとかわしていながら後退していき、一刹那の隙を突いてまた一気に前へと飛ぶ。
それを視認するよりも早く、霊夢が左手に御幣を持ち替えてそのまま左方へと繰り出すと同時に、右にお札を持って掌底のように同じく右方へと突き出した。
霊夢が両手を広げきったその瞬間、右手に構えたお札が迫り来る光弾を弾き、左に構えた御幣がレミリアを受け止めた。
「読みが浅いのよ!」
「──言われなくても!」
左右からの攻撃を受けた事を確認するまでもなく、霊夢がバックステップを踏む。
焼け付くような妖気が鼻先をかすめ、続いて目の前に紅い悪魔が現れた。
レミリアは攻撃の手を休めることなく、退く霊夢をそのまま追いかける。
即座に零となった距離の中で左の爪が振り上げられる。霊夢はそれを上半身を反らして避けるが、上を向いた視線はほんの一瞬、一コンマにも満たない時間だがレミリアの姿を見失った。
(……やられる!)
そう思った瞬間、まるで鉄の塊が突進してきたかのような衝撃を受け、霊夢の体が吹き飛ばされた。
それでも今度は宙でくるりと回転し、そこが地面だとでもいうように壁に“着地”した。
流石のレミリアもそれには唖然として立ち止まったが、すぐに自分へと迫るお札の弾幕に目を移すと光弾を放ってそれを撃退、残るお札を後ろへと跳ねてかわした。
「咄嗟に霊気の壁を展開するなんて……その先見の力こそが博麗の者たる証なのかしら?」
「……ただの勘よ」
先の瞬間、霊夢は考えるよりも先に手が動き、自分の前に霊気の壁を展開していた。
お札という媒介を通していなかったので若干本来のものより強度の点で劣っていたが、それさえも無ければ今頃は魔理沙の二の舞となっていただろう。
痛みを無視できなくなってきた左手を震わせながら、霊夢が荒い呼吸を繰り返す。
「そう、安心したわ」
不意に微笑んだレミリアに、霊夢が僅かに眉間に皴を寄せた。
「だって、お前の血を飲んで博麗の力を得たとしても、既に持ってる力じゃ面白くないものね」
「え……?」
その顔から再び表情が消える。それに触発されたかのように、周りの紅がその色を濃くしていったかのように見えた。
霊夢は自分の背が震え上がるのを感じていた。
次の攻防が最後になるだろう。自分にはそれ以上の力は残されてはいない。
そしてレミリアは間違いなく本気だった。
その動きは最早視認する事も敵わず、放たれる攻撃を勘任せに受ける事で精一杯だった。
(まったく、今日は震えっぱなしね)
懐の陰陽玉へと手を伸ばす。
一瞬でいい、一瞬の隙さえあればこの一撃を確かなものにできる。
だが、今のままではたとえ永遠にこの状況を続けたとしても、レミリアにそんな隙は生まれないだろう。
ならば作らなければいけない。
レミリアの攻撃の二手、いや、更にその先を見切る事さえできれば、それも敵わぬ事ではない。
二人を取り巻く空気は張り詰めていき、緊張感は否応なく高められていく。
そんな中、霊夢は何を思ったか唐突に体の力を抜いた。
今度はレミリアが眉間に皴を寄せて、訝しげな視線で霊夢を見た。
それにも構わず、力の抜けた両腕をだらりと下げ、二度、三度、静かに深呼吸を繰り返す。
一瞬自分が愚弄されているのではないかと思ったレミリアだったが、それでも気を張り詰めたまま、霊夢の髪の毛一本の動きまでをも見逃すまいと睨み据える。
「……面白いじゃない」
レミリアも更に闘気を高めていく。
身の内に収まりきらずに溢れ出た妖気が周りの空間を揺らめかせ、その背後が陽炎のようにぼやけて見えた。
そしてレミリアはゆっくりと、誰の目にも見えるほどにゆっくりと、腰を落とした。
レミリアの紅い妖気が唸るような声を上げて空間を侵食していく中、二人はただ静かに向かい合った。
一瞬とも永遠とも言える時間の中、レミリアが動く。
「滅んで塵と散れッ!」
時間も、空間も、全てを超越したスピードでレミリアが迫る。
だが、霊夢は目を伏せたまま微動だにしない。
見てはいけない。
見てしまえば、たとえ相手の動きを感じ取ったとしても反応が遅れてしまう。
聞いてはいけない。
聞けば、余計な音に惑わされてしまう。
視界と音を捨て、精神を研ぎ澄まし、己の感覚に全てを集中させる。
ただそれだけで、見えていないはずの物が見えた。
ただそれだけで、聞こえていないはずの音が聞こえた。
それは舞い上がる粉塵の一つに至るまで、鮮明に脳裏に描かれていった。
「──そこッ!」
振り向く霊夢の頬を紅い刃が過ぎ去り、その皮膚を薄く裂いた。
そして──確かに感じた、レミリアの体を撃つ感触。
だがその刃は体を裂くまでに至らず、レミリアは体を折り曲げたまま吹き飛ばされ、瓦礫の中へと突っ込んでいった。
「お望みどおり……」
霊夢が呟くと同時にレミリアが吹き飛んでいった先一帯の瓦礫が吹き飛ばされ、その中から怒りにその目を紅く輝かせる彼女が姿を現した。
しかし、二人の間には決定的な距離ができていた。
この期を逃してはならないと、霊夢は懐から勢いよく陰陽玉を取り出すと同時に、叫んだ。
「夢想──封印!」
それは手を離れ、白く輝きながら内側から押し出されるように肥大していく。
やがて人の頭ほどにまで膨れ上がった陰陽玉から漏れ出た光が、その周りを駆け巡った。
「なに……? あの光」
その、まるで自分を焼き焦がす太陽のように強い光を放つ霊気の塊を、レミリアはただ唖然と見つめていた。
体力だって残っていない、霊力だって既に空っぽのはず。
なのにあの人間の一体どこに、これだけの力が残っていたというのか。
「見せてあげるわ……博麗の力を!」
抱えるように添えていた両手を引き、左手を陰陽玉の前に突き出してそこへ重ねるように御幣を持った右手を添えた。
左手をゆっくりと握りこむと、それに呼応するように陰陽玉を内から押し広げていた霊気も一点に凝縮されていく。
「──散!」
そして霊夢が握りこんだ左手を解放すると同時に、玉を形成していた外殻を突き破った霊気の塊が荒れ狂う波のように四方八方へとその手先を伸ばしていく。
紅い世界の中を縦横無尽に駆け巡る白い光。それはさながら龍の如く、唸りをあげて二人の視界を白く染め上げていく。
その地の底から響いてくるような咆哮の中に、凍えた湖が割れ砕けるような破砕音が確かに聞こえた。
足元、頭上、見渡す限りの場所に亀裂が入り、紅い世界を罅割れで覆い尽くしていく。
「そんな……破られるというの? 私の結界が……」
やがて……紅い世界はガラス細工のように、その破片を撒き散らしながら砕け散った。
落ちる事もなく宙を彷徨う破片に白い霊気が反射され、万華鏡のようにその姿を移り変えていく。
そしてその破片すらをも飲み込んで、白き龍は天へと昇っていった。
紅から闇へと変わった世界に再び色が戻ってくる。
その中で呆然と立ち尽くしていたレミリアに、しかし霊夢はまだ気を緩める事はなかた。
「まだよ!」
再び霊夢が吼えると同時に、開いたままの左手を今度は一気に握りこむ。
そう、白き龍はまだ消えてはいない。霊夢の想いに応えるように頭上からその姿を見せたかと思うと、ただ一点を目掛け幾本もの光が螺旋の軌跡を描いて下降していく。
その先には──レミリアの姿。
「──集!」
「この程度──!」
だが、レミリアは霊夢のその叫びによって我を取り戻すと、自分の周りに障壁を展開、最大限の力を持って迫り来る霊力の塊を真正面から受け止めた。
ドォン! という爆発音にも似た音と共にレミリアの周りを取り囲むように包んだ光の奔流は、中心で耐える彼女を潰さんとせめぎ合い、その表面には火花が散った。
外からその様子を見ていた霊夢は、両手を前に構えたままただ行く末を見守っていた。
「最後の一手ね……」
流れた汗が頬を伝い、顎の先から床へと落ちていく……そんな事はどこか遠く。霊夢は左手に正真正銘最後となった四枚のお札を構えて放った。
その先では、ひしめき合っていた霊力の塊が内部爆発を起こしたかのように内側から吹き飛ばされ、その中心にはレミリアの姿があった。
吐く息は荒く、かかないはずの汗を流し、しかし睨みつける視線には最大限の殺気を込めて、ゆらりと左手を前に突き出した。
「ほんと、その力はどこから出てくるのかしら」
レミリアの左手に紅い妖気が集まっていく。
凝縮されたそれはやがて一つの小さな点となった。
荒ぶる妖気は解放されるその時を待つ獣のように、その周りに紫電を走らせまだかまだかと唸りをあげる。
「貴方はよく頑張ったわ。だから……そろそろ終わりにしましょうか」
「残念、それもこっちの台詞よ」
「なんだって……?」
だがそれも一瞬、手の中の妖気を解放する寸前のところでレミリアの体はまたしても自由を封じられた。
何事かと見上げれば、自分の周りには先ほどと同じ霊気の壁が高くそびえている。
肩を揺らして呼吸するのも苦しげに、霊夢を睨む。
「また……なの?」
「いい加減、大人しくしなさいよね」
「ふざけないで! 二度も同じ手で私を止められると思っているの!?」
最後に残った退魔の符、再び形成された封魔陣。
敷かれた結界は確かにレミリアをその内に縛っていた。
しかし、その中でレミリアはなお対抗するように、突き出したままの左手に添えるように右手を合わせ、前方へと力を集中させていく。
先ほどとは逆に、内側から破ろうとする力は閉じていく結界を逆に広げ、粘る霊夢の願いも虚しく結界内の空間は四隅に貼られたお札にまで押し戻された。
こうなれば後は結界を破るなどもう造作もない事。
さっきは思いがけない乱入があったが、もうその人間もいない。
勝利を確信したレミリアが不敵に笑う。
「今度こそ……終わりよ、博麗霊夢」
(お願い。あと少し……あと少しだけ!)
御幣を前に構えて懇願するように祈る霊夢だったが、極限を超える力の行使に体がついていかず、崩れるように片膝をついた。
「ここまで……なの?」
項垂れる霊夢の顔を幾筋もの汗が流れ落ちていく。
結界の壁には無数の亀裂が走り、それに合わせるかのように構えた御幣がぴきっと嫌な音を立てた。
(いいや、ここからだぜ!)
「え……?」
その瞬間、ありえない声が聞こえた。
それは耳から入ったのではなく、霊夢の頭の中に直接聞こえてきたような声。
聞き間違えるはずもない、魔理沙の声だった。
だが、それはありえない事だった。魔理沙は今も大広間の隅で倒れているのが霊夢の目にも見えているのだ。
(霊夢、まだまだこんなものじゃないんだろ? 見せてやろうぜ、私たちの力を!)
それでも頭の中の声はなおも霊夢に語りかける。
その声が聞こえたと同時に、前に突き出した霊夢の両手を暖かい何かが包み込んだ。
見えない。でも解る。魔理沙がその手を握りこんだ自分の手に重ねてくれているのが。
伝わる。魔理沙の温もりを確かに感じる。その温もりは力となり、立ち上がると共に再び霊夢の瞳に確かな光をもたらした。
「ガッ!?」
結界の中、突き出した両手を再び締め上げられる格好となったレミリアの顔は、苦痛よりも驚きの色に染まっていた。
抵抗する力がなくなった事で結界は再びその範囲を狭めていく。
後はこのまま、空間ごと亜空間へ封じ込めてしまえば、この陣は完了する……はずだった。
「なんなのよ……なんなのよ! お前たちは!」
不恰好に締め上げられ、一切の自由も封じられた結界の中で、しかしレミリアの目は未だ敗北の色を宿してはいなかった。
魔理沙に牙を立てた時と同じように、その目は紅く輝き、口元からは二本の牙が伸びていくのが見えた。
空間に貼り付けられた体を無理矢理に動かし、ぎしぎしと悲鳴を上げる右手を高く頭上へと掲げていく。
動かせば動かすほどに、力に逆らった腕だけではなく体中から紅い血が飛沫となって噴き出し、鈍い音と共に関節の一つ増えた腕が奇妙な場所で折れ曲がった。
「誉めてあげるわ。私にこれを使わせた事を──!」
絶体絶命の窮地の中、それでも笑みを浮かべるレミリアを見て、霊夢は薄ら寒いものを感じていた。
もうこうなってしまっては対抗する手など無い。
それにも関わらず、なぜあの吸血鬼は笑っていられるのか。
「な──によ、それ……」
だが、その答えは図らずも霊夢自身の目によって見る事となった。
結界の中、紅い霧のようなものがレミリアを纏うように現れたかと思うと、それらはやがて掲げた右手の先へと集まり、一つの形をもって具現化していった。
それはまるで──。
「神槍……グングニル!」
禍々しいほどの紅に染まった一本の長大な槍。
残った紅い霧で折れた腕を無理矢理握り伸ばしてその手に握りこませると、またしても血飛沫を上げながら震える右手を後ろへと反らせていく。
その矛先は真っ直ぐに霊夢を向いていた。
圧倒的有利な立場にいるにも関わらず、自分に向けられたあまりにも出鱈目な魔力を放つ槍を前に、霊夢はここにきて初めてその顔に絶望のそれを浮かべた。
「楽しかったわ……本当に楽しかった。でもそれももう終わりよ!」
紅い妖気と紅い飛沫の中で、紅い瞳を輝かせたレミリアが一気に槍を放とうと腕を振る。
がっくりと膝をつき、再び項垂れる形となった霊夢は……全てを諦め、目を閉じた。
「ごめんね……魔理沙。折角助けてもらったのに、やっぱり駄目だったみたい……」
でもあんたを追って逝けるのなら、それも悪くないかもしれないわね……。
そう思って薄く笑ってから何秒か。
しかしいつまで経っても訪れない死への衝撃に疑問を抱いた霊夢が顔を上げると、そこには槍を構えた姿勢のまま、ありえないものを見たというふうな顔をしたレミリアの姿があった。
「あの人間……この紅魔館の壁を外からここまで貫いていたというの……?」
そう、霊夢の本当の狙い、最後の一手が今ようやく発動したのだった。
その身を縛る結界が消えたにも関わらず、呆然と立ち尽くして呟くレミリアの顔が白く照らされる。
それは世界の息吹を感じさせる、確かな光。太陽の輝きだった。
魔理沙がマスタースパークで乱入した際、それは幸か不幸か、真東の壁を貫いていたのだった。
「お前……まさか最初からこれが狙いで」
「……一か八かだったけどね」
小さな笑みを浮かべたまま、霊夢がしっかりとレミリアの目を見返した。
それに釣られるように、レミリアもまたふっと目を閉じて口元を緩めた。
槍は再び紅い霧と消え、伸びていた牙も隠れたレミリアは、早くも光に照らされた足元から徐々に崩れていっていた。
「なるほど、結界内に私を封じるのではなく、最初からこの場所へ私を留めるのが……そこまで読みきれなかった私の油断ね」
レミリアは自分を照らす光の方向、彼方の山間から覗く太陽を見つめてその目を細めた。
光と一緒に吹き込んだ夏の風に、崩れゆくレミリアの体が流されていく。
「まさか私が負けるなんてね。そんな運命は見えてもいなかったし、作ってもいなかったのだけれど」
話す間にもレミリアの体はさらさらと崩れていく。
既に下半身は全て灰と消え、両腕も肘の辺りまでなくなっていた。
「本当、面白い人間たちね。でも残念だわ、貴方ほどの力の使い手が人間だなんて」
そう言いながらも、その顔は残念というよりも、むしろ嬉しそうに微笑んでいた。
満足そうな笑みを浮かべた彼女は実は吸血鬼なんて大妖怪ではなく、見た目相応のただの少女だったのかもしれない。
「そうだ、貴方もこっち側に来ない? 貴方ほどの者を人間の域に留めておくのは勿体無いわ」
「……お断りよ」
さらさらと、さらさらと、風に流されて少女の体が崩れていく。
最後に残った顔半分。彼女は「そう言うと思ったわ」と微笑んで、白く輝く朝日の中に消えていった。
∽
──あれから五日が過ぎた。
あの後、日の光に照らされた事で完全に消滅してしまったのか、レミリアが再びその姿を見せる事はなかった。
そして驚く事に、あれほどの傷を負っていたにも関わらず、魔理沙はまだ辛うじて息があった。
あの時聞こえたのは幻聴でもなんでもなく、確かな彼女の声だったのかもしれない。
そうして全てが終わった後、瀕死の魔理沙を背負って博麗神社に戻ってきたときには、もう西の山に日が暮れかかっていた。
あれから五日……魔理沙はまだ眠ったまま。
貫かれた胸の傷は嘘のように綺麗に塞がっていたが、首筋につけられた二つの痕だけは一向に消えなかった。
薬を塗ろうが、呪術的な処置を施そうが、一切の反応を見せずに残ったまま。
「魔理沙……本当に変わってしまったの?」
布団に寝かされた魔理沙の横に座って、そっとその髪を撫でた。
変わってしまったなんて思いたくもなかったし信じたくもなかったが、そうでなければあの傷の説明がつけられない。
彼女のしぶとさは十分に心得ているつもりだったが、それでも間違いなくあれは致命傷であり、手当てをするには全てが遅すぎた。
それこそ吸血鬼のような化け物じみた生命力でもなければ助かるはずがなかったのだ。
霊夢は髪を撫でていた手をそのまま頬へと移した。
その頬は柔らかく、温かかった。
これは人の持つ、人の命の温もり。そうであると信じたかった。
「もしあんたが目覚めて……これから先、全てに絶望するような事があったとしても……大丈夫、その時は私も一緒に堕ちてあげるわ……」
一人なら諦めてしまうかもしれない。一人なら挫けてしまうかもしれない。
でも二人なら、自分と魔理沙の二人なら、たとえ未来に闇しか見えていなくてもきっと飛び込んでいける。
二人なら、きっと……。
「……いきなりそんな大告白を聞けるとは思わなかったぜ」
「え……?」
改めて霊夢が見下ろした先には、頬に添えた手に重ねられた温かい手。
そして何よりも見たかった笑顔が、そこにはあった。
「魔理沙……なの?」
「ひどいな。霊夢は私以外にもこんな事をしているのか?」
「……バカ」
そのまま覆いかぶさるように抱きついた霊夢だったが、ひどく衰弱していたのか、力なく笑う魔理沙を見て「ちょっと待ってて。すぐ何か持ってくるから」と、ぱたぱたと部屋を出ていってしまった。
取り残された魔理沙は暫く天上を眺めていたが、上半身を起こすとそっと左の首筋を指でなぞった。
そこには未だに残る二つの痕。
それが今までの出来事が夢などではなかったという事を、嫌というほどに知らしめていた。
その事実に顔を曇らせる魔理沙だったが「お待たせ」という声と共に霊夢が戻ってくると、すぐにまたいつものようににっと笑った。
「ごめんね、お粥くらいしか作れなかったんだけど」
「いや、十分だぜ。霊夢の作った物はなんでも美味いからな」
「はいはい、熱いから気をつけなさいよ」
だが魔理沙は黙ったまま、差し出された粥を受け取ろうとはしなかった。
不審に思った霊夢が「どうしたの?」と訊ねると、ほんの少しだけ頬を朱に染めた魔理沙が上目遣いにこちらを向いた。
「食べさせて……くれないのか?」
「……しょうがないわねぇ」
一瞬唖然とした霊夢だったが、椀を下ろすとそこから蓮華で一掬い。湯気の昇る粥を冷ますようにふーっと息を吹きかけて、魔理沙の前に差し出した。
「ほら」
「あー……ん」
それでもまだ少し熱かったのか、はふはふと忙しなく口を動かす魔理沙を見て、霊夢がくすりと笑みを零す。
変わってなどいない。魔理沙は魔理沙のままだ。
やっとその想いに自信がもてたのか、霊夢は再び椀から粥を掬うと、先ほどよりも少し長めに冷まして魔理沙の口元へと差し出した。
ここまできて、霊夢はようやく息をつく事ができた。
レミリアが灰と消えてしまった事には少し胸を刺される思いがあるが、それでもこうして再び魔理沙と笑いあっていられる時間が戻ってきたのかと思うと、それだけでもう十分だった。
幸せだ。
今の自分は間違いなく幸せだと言える。
なのに何故だろう。
この幸せをも、どこか他人事のように見ている自分がいるのは。
そして最後のひとさじを魔理沙が飲み込んだところで、ふいに二人の間に沈黙が下りた。
「霊夢……そういえば、この服って」
食器を片付けようとする霊夢を横目に、魔理沙が自分の着ている服の袖を上げて訊ねた。
「あぁ、あんたの服、穴が空いたりしてぼろぼろになってたから。私の予備のなんだけど、それしかなかったのよ」
少しだけサイズの大きい白衣の袖を揺らして「そうか」と答える魔理沙だったが、それっきりまた黙り込んでしまう。
そこで一区切りと思ったのか、霊夢が食器を盆に乗せて立ち上がったところで、またしても魔理沙がその背に向けて声をかけた。
「なぁ霊夢、覚えてるか? 私たちが初めて会った時の事」
「なに? どうしたのよ急に」
少し困ったような顔をして霊夢が振り返る。
魔理沙も呼び止めたはいいものの、何をどう言ったらいいのかが解らずに、あたふたと次に出すべき言葉を捜した。
「いや、なんだ。昔話が…したくなってな」
「覚えてるもなにも、そんなに昔の事でもないような気がするけど……。あの頃のあんたは赤かったわね」
「……言うなよ、それを」
言い出したのはあんたじゃないの、と言い残して再び霊夢が部屋を出て行く。
またしても一人取り残された魔理沙は、大きな溜息を一つ。
「何を言ってるんだ……私は」
右手でがしがしと頭を掻き乱して、もう一度大きく息を吐く。
覚悟を決めなければいけない。
決断しなければいけない。
私が頼み込めば、霊夢はきっと……いや、絶対に私を擁護してくれるだろう。
しかし、それではいけないのだ。
霊夢の優しさに付け入るような、決断を預けるような真似は絶対にしてはいけない。
自分で決断しなければ、結果に後悔する事すらできないのだから。
魔理沙が立ち上がった。
長いこと寝ていたのだろう、立ち上がると同時に少しふらついた。
それでも、着慣れぬ和服の感触に少し戸惑いつつも、一歩、霊夢が出ていったのとは反対側の襖に向かって踏み出した。
顔を見れば、声を聞けば、折角の決意も揺らいでしまうだろう。
別れは早い方がいい。
「さよならだ、霊夢」
振り返る事もなく、俯いたまま小さく呟いた。
全てを拒絶するかのように、その背は何も語らない。
「……なにそれ、ふざけてるの?」
あぁ……やっぱりお前はなんでもお見通しなんだな。
「仕方のない事なんだよ」
振り返ってはいけない。振り返ってはいけない。
背を向けたまま答えた魔理沙が次の一歩を踏み出したところで、背後から軽い衝撃を受けた。
見下ろすと、自分の腰に回された霊夢の手が見えた。
「嫌よ……そんなの」
「霊夢、これ以上私たちが一緒にいても……いや、一緒にいる事なんて許されないんだ」
「本当にそう思ってる?」
「……そんな訳ないだろ」
「じゃあ……!」
「駄目なんだよ! もう私は……お前とは一緒にはいられない」
「……逃げるの? それくらいの事で、あんたは逃げ出すって言うの!?」
「私はもうお前と同じじゃないんだよ!」
「そんなの関係ないじゃない!」
再び二人を包む沈黙。
外から微かに、ちりんと風鈴の揺れる音が聞こえてきた。
「言ったでしょ? 私も一緒に堕ちてあげるって」
「でも、それじゃあ霊夢、お前まで……」
「それに……ここ以外のどこにあんたの居場所があるっていうのよ」
「……いいのか? まだ私はここにいても……本当に」
「出て行くなんて言う方が、私は許さないわ」
霊夢が抱きとめていた手をそっと緩めると、それに応えるように魔理沙がゆっくりと振り向く。
向き合った二人の顔は相手の吐息がかかるほどに近く、今にも触れてしまいそうなほど。
撫でるように前髪を払い、粉雪に触れるようにそっと頬に手を添える。
目を閉じれば、五月蝿いほどに聞こえてくる確かな命の鼓動。
徐々に近づく二つの心音、かかる吐息はそれだけでも十分に目の前の彼女の存在を感じさせてくれた。
「魔理沙……」
「霊夢……」
(お嬢様、完全に入るタイミングを逃してしまいましたね)
(まったくよ。……って咲夜、なんか息が荒いわよ? うわ、押さないでってば!)
そんな百合の花咲く一間の向こう。襖の隙間に影二つ。
しかし忘れてはいけない。ここは博麗神社なのだ。
日頃から頑丈な紅魔館で生活をしていた彼女たちには想像もつかなかったが、この建物はお世辞にも丈夫とは言いがたいほどに古かった。
そうでなくても、襖なんてものはもたれかかれば結果は火を見るより明らか。
(あ……)
支えを無くして倒れる体、傾く視界。
こうなってしまっては、いかに吸血鬼と完全で瀟洒なメイドといえど文字通り手も足も出ないだろう。
(咲夜、時間を止めなさい!)
(間に合いませんよぉ~)
びたーん!
突然の出来事に、抱き合ったまま唖然とした顔で侵入者を見下ろす二つの視線。
重なり合うように倒れこんだ姿勢から、そんな二人を見上げるこれまた二つの視線。
かくして、確かに時間は止められた。
ただ少し予定と違っていたのは、止まったはずの時間の中でどこからか涼しげな風鈴の音色が聞こえてきた事くらいだろうか。
∽
「で、なんであんたがここに居るのよ」
腕を組んで仁王立ちになって立つ霊夢の前には、整った顔が無残にも──あえて言い表すならばボコボコに──腫れ上がった吸血鬼とメイドが正座をしていた。
そんな二人の反対側、霊夢の後ろでは魔理沙が壁にもたれて座っていたが、先の霊夢とのやり取りを見られていた事がよほど恥ずかしかったのか、俯かせた顔は耳まで朱に染まっていた。
まだ日が沈む前とはいえ、なぜ自分が人間相手にこうも一方的にタコ殴りにされなければいけないのか。
そんな疑問が頭の中を渦巻いていたが、咲夜という従者の手前これ以上情けない姿を晒す訳にもいかず、レミリアはおもむろに立ち上がると、右手を胸に当ててまるで舞台の上のヒロインのように左手を広げた。
「私は貴方の事が気に入ったわ。私の定めた運命を覆したのなんて貴方が初めてだったからね。だから今日はこうして、敬意を表して親睦を深めに来てあげたのよ」
「本当の目的は?」
「姉ちゃんちょいと血ぃ吸わせろや」
ばしこーん! という軽快な音と共にレミリアの体が宙を舞った。
それを見た魔理沙の脳裏に「それは舞い散る木の葉のように」なんてフレーズが浮かんだが、残念ながら「けれど輝く夜空のように」とはいかず、レミリアの体は見事な回転と共に放物線を描いて床に崩れ落ちた。
世の中はいつだって非情である。だがこの場合は自業自得とも言えるだろう。
「な、な……な…ッ!?」
数ある腫れの中に新しく加わった、赤く染まった頬を抑えながらレミリアが声にならない声で霊夢を見上げた。
その手にはどこから取り出したのか、ハリセンが握られていた。
「退魔の札で作ってみたんだけど、効果はばっちりってとこかしらね。さて、次は三回転捻りでも加えてみる?」
「あぁもう、解ったわよ。解ったからそれを仕舞いなさい」
怪しく目を光らせる霊夢に向かって、ぶんぶんと両手を振って降参をアピールする。
もう体裁とかカリスマとか気にしている場合じゃない。これ以上逆らったら次こそ殺られてしまう。
レミリアが再び立ち上がって、咳払いを一つ。喋りだす前にちらりと座る咲夜を横目に見てみたが、案の定というかなんというか、自分を見るその視線が痛かった。
「簡単に言えば、水と同じようなものなのよ。水だって熱されれば蒸気となって気体になるわ。そしてそれも冷やされればまた水になり、更に冷やせば氷に。そこからまた熱を加えれば水に戻る。つまりはそういう事なのよ」
「……そんなものなの?」
「本当はもっとややこしいんだけどね。実際私がこうしてここに立っているのだから、細かい事はどうでもいいのよ」
いまひとつ要領を得ないといった霊夢だったが、レミリアの言うとおり難しい理論は抜きにして、彼女がここにいるのだからそういう事なのだろうと自分を納得させた。
だが、それでも晴れない疑問はまだ残っている。
「そうよ、そんな事は別にどうでもいいのよ! 魔理沙よ! 魔理沙を治しなさい! 今すぐ!」
突然叫びだしたかと思うと、レミリアの胸倉を掴んでもの凄い勢いでがくがくと前後に揺さぶった。
当のレミリアは言われた事がなんなのかを判断する事もできず、かといって揺れる視界の中でそれを口に出す事も叶わず、ただただされるがままになっていた。
次第にエキサイトしていった霊夢によって、その足が床から離れて揺れる顔が青白くなってきたところで、今まで傍らで黙ってその様子を見ていた咲夜が腰を上げた。
「その点については私から説明いたしましょう」
その一言に、霊夢はレミリアを掴んでいた手をぱっと離した。
そのまま床に崩れ落ちて泡を吹いている主に歩み寄り、助け起こしたところで咲夜が霊夢に向き直った。
「まず、お嬢様は非常に小食です。本来であれば赤子の血量でも十分に事足りるのですが、その際にいつも血を零されて服を真っ赤に染め上げてしまうのですよ。お嬢様が“スカーレットデビル”と呼ばれている所以がそこにあるのですが、血の汚れは落ちにくいので正直もう少し上手に食事を済ましていただきたいですね」
後ろから抱きすくめられるように立っていたレミリアは、咲夜の最後の一言にうっとその顔を顰めた。
普段であればそんな物言いは許すはずもないのだが、先ほどまでの醜態を考えれば強く言い返すこともできない。
「それに……お嬢様、少々失礼いたします」
しかしレミリアの胸中など知ってか知らずか、咲夜がその小さな口に引っかけるように二本の人差し指を突っ込むと、むにっと口を開かせた。
「ひょっほひゃふや、はひほすふほよ」
「いくら普段は隠しているといっても、それでもご覧の通り、犬歯が普通の人間にしてはありえない長さになっているんですよ」
「っはぁ、こんな事しなくてもそのくらい見せてあげるわよ。まったく……」
解放されたレミリアは頬を擦りながら不満げに見上げたが、咲夜は澄ました顔のまま「申し訳ありません」と軽く頭を下げるだけだった。
レミリアもそれほど怒っていた訳でもなかったのか、それ以上は言及せずに霊夢へと視線を移した。
「それで、つまりはどういう事なのよ」
「つまり、私は眷属を作るところまで血を吸い尽くせないのよ。よってそいつはただの人間のまま。どういう訳か傷も問題なし。残念だわ、折角初めての下僕が出来たと思ったのに」
それを聞いて何かを思い出したのか、霊夢が右後方へとばっと振り向いた。が、そこにあるはずの姿は既になかった。
そして反対側、左後方へと振り向くと、つま先立ちになってそろりそろりと部屋を出て行こうとしていた魔理沙が、霊夢の視線に気付いてはっと立ち止まった。
無言のまま歩み寄っていく霊夢に、思わず尻をついて後退る。その様子は正に蛇に睨まれた蛙のよう。
部屋の隅まで追い詰めてがしっと両肩を掴んで睨むように見つめる霊夢に対し、魔理沙は滝のように汗を流しながらその目は宙を彷徨うばかり。
「ねぇ魔理沙? あんた、もしかして知ってたの?」
「い、いやだな霊夢。私だってそんな事は初耳だぜ?」
「本当に?」
「結局私も人のままでいられたんだからよかったじゃないか。万々歳だぜ」
「……人と話をする時は相手の目を見てものを言えって教わらなかったかしら?」
「大丈夫、私はいつだって霊夢の事を見ているからな」
一転、きりっとした顔で見返す魔理沙。
その先、満面の笑みを浮かべた霊夢。
じっと見つめること幾拍か、魔理沙の頬を冷たい汗が一筋流れ落ちた。
「その時は私も一緒に堕ちてあげるわ……」
「あぁ……お嬢様、私などにはもったいないお言葉」
──ぷちっ。
「あ、やべ」
「あんたらまとめていっぺん死んでこーーーーーい!」
こうして幻想郷を覆った紅い霧の異変は終焉を迎えた。
それから毎日のように、昼夜を問わず絶妙のタイミングで博麗神社に乗り込んでくる、風変わりな吸血鬼の姿が見られるようになったのは言うまでもない事だろう。
その直後に巫女の叫びが木霊するのも、今となっては幻想郷のちょっとした名物になっている事を記載して、この物語を締めくくろう。
ここより舞台裏。
「ねぇ魔理沙。あんた魔力なんてすっからかんだったんでしょ? なんでマスタースパークとか撃てたのよ」
「あぁ、それはな。前々から研究を進めていた薬のおかげだぜ」
「薬?」
「本来なら、失った魔力の回復には時間が必要なのは解るよな? 簡単に言えばよく寝ろって事だな。でもこの薬は強制的に失った魔力を全快させる効果があるんだよ」
「へぇ、便利な薬じゃない」
「だが、綺麗な花ほど棘があるってな。おかげで霊夢も知っての通り、五日間もくたばってるとかいう事態になった訳だ」
「なるほど、目が覚めなかったのはそういう訳だったのね。でも、それじゃああの傷は?」
「あれも薬の作用だろうな。魔力を急に回復させるために、体内の細胞とかまで活性化されたんじゃないか? もしくは、吸血鬼に噛まれたんだから少しはそれの影響も……なんてのは考えたくないな」
「結局魔理沙にも解らないって事なのね」
「まぁまぁ、結果よければ全てよしだぜ。けどなるべく使いたくないな、こんな物は」
「どうして? 使う場所さえ弁えれば中々に便利な物じゃない。今回は私もそれで助けられたんだし」
「いやまぁ、そうなんだがな。今回は五日で済んだからよかったものの、最悪二度と目覚めないなんて事にもなりかねないし、それに……」
「それに?」
「その……なんだ。くたばってる間は…霊夢の顔が見れないだろ?」
「……なに言ってんのよ、この白黒は」
「熱いね! お二人さん!」
……馬鹿か私は……
すいません、でもハラハラしたんだと思います。
ご馳走様でした。
一時はどうなることかと思いましたが、
最後のパートでうまいこと丸く収めてくれたので一安心。ああ、百合の大輪ががが。
レミリア様かっこかわいいよかっこかわいいよレミリア様。
ラストは正直走りすぎた感が否めません。(汗
いつものペースで書いた別ルートをプチの方に投稿させていただいたので、
よろしければ是非そちらも。
良くも悪くも“いつも通り”な結末ですが。
>おやつさん
最初からそんな兆候はあったのですが、やりすぎでしたね……。
でも自分はどちらかと言えばマリアリ、むしろゆゆ様。
>名前が無い程度の能力
あばよ涙。
一番欲しかった言葉をありがとう。
>セノオさん
戦闘シーンを書くにはまだまだ未熟で、色々粗もあったかと思われます。
でもかっこいい(?)レミリアが書けたのでもう満足です。
たまには誰しもが笑っていられるような結末があっても……いいですよね。
それでは、改めてお読みいただいた皆様、ありがとうございましたー!