あるときパチュリーは思った。
照りつける日差しの中を思い切り飛んでみたい。
風のように空を駆け、立ち並ぶ木々を飛び越し、聳え立つ山を越えていけたらどんなに気持ちがいいか。
空高く飛ぶ鳥を見て、パチュリーはそんな空想にふける。
体力は人並みにあると自負している。
体を動かす機会はあまりないが、それでも彼女なりのやり方で一定の水準をキープすることには成功している。
いつぞやレミリアに、運動不足で太るとかどうとか言われたけれど、そんなことは決してないと断言してもいい。
賢人にできないことなど……ほとんどないのだ。
それはさておき。
体力は人並みにあると自負しているパチュリーだが、その体は長時間の運動に殊のほか向いていない。
なぜなら、彼女は喘息を患っているからだ。
軽い運動ならまだいい。
その程度のハンデは十分に克服している。
しかし、それが一定のラインを超えると途端に苦しくなる。
呼吸することが困難になり、ついには動くことさえままならない。
こればかりは彼女の知識をもってしても治すことはできなかった。
せいぜいが症状を緩和することくらい。
別にそれでも構わなかったのだ。昔は。
この図書館に蓄積された知識を自分のものとすること以外に、これといった興味を持っていなかった頃は。
でも、今は違う。
レミリアが引き起こした騒動がきっかけで、彼女の他に知り合いと呼べるものができたからだ。
巫女が一人と魔法使いが一人。
それからしばらくして、魔法使いに連れられてやってきた人形遣いが一人。
さらに時間がたって、亡霊に半妖に境界の妖怪、その式とさらにその式に……しまいには鬼と来た。
今までの人生を振り返れば、これほど変化に富んだ時期はなかったはず。
そうなると、知らないうちに自身にも変化がおきるもの。
事実、フィールドワークなどほとんど眼中になかったはずのパチュリーは、久しぶりに自分の足で、自分の意思で外へと出ていった。
「うぐぅ……」
結果は推して知るべし。
門番相手に準備運動、その後氷精を難なく蹴散らし湖を越えて森に差し掛かった頃、パチュリーは動けなくなった。
突然、喘息の発作が起きた――つまり一定のラインを超えたのだ。
息が苦しくなって咳き込み、そのせいでさらに息ができなくなるという悪循環。
飛んでいることもできなくなって、木の下に座り込んだまま、彼女は発作が治まるのを待った。
「こほっ……こほっ……」
ああ、辛い。苦しい。
なんで自分はこんな思いをしてまで館から出たのだろう?
咳き込む口元にハンカチを当てながら、パチュリーは考えた。
きっかけはふとしたこと。
照りつける日差しの中を思い切り飛んでみたいという、子供じみた思いつき。
空を飛ぶ鳥を見て、そんなことを思ったのだ。
それはなぜ?
私の体を誰よりも知っている私だからこそ、それは絶対にできないとわかっていたはずなのに。
わかっていたのになぜ?
それでも飛びたかった、というのは理由にならないだろうか。
……それを理由と認めよう。
ではなぜ?
考える。
即座に一人の少女が頭に浮かんだ。
いつでも真っ直ぐで、元気いっぱいの魔法使い。
まだまだ未熟だけれど、溢れんばかりのエネルギーでどんな困難にも真正面からぶつかっていく彼女の名は――霧雨魔理沙。
どうして彼女が出てくるのだろう?
考えること暫し。
「……そういうことね」
ようやく理解する。
問題を一つ一つ考えていかなければ答えが出ないのは当たり前。
だって初めてだったから。
百年余りを生きてきて、誰かを羨ましいと思ったのは。誰かのようになりたいと思ったのは。
私は、魔理沙のようになりたいのだ。
どんな困難にも真正面からぶつかっていけるような人間に。
困難――私の場合、さしあたってはこの喘息という病気に。
だからこんな無茶をしたのか。
いつもならもっと対策を考えて、万全を期して物事に望むはずなのに……猪突猛進、彼女の影響は殊のほか大きいらしい。
そこまで考え至ったとき、見知った気配を感じた。
「珍しいわね、パチェ。貴方がこんな無茶をするなんて」
「貴方はそうでもなくなったわね、レミィ」
吸血鬼のくせに昼間に出歩くようになったレミリアは「それもそうね」と言って笑っていた。
その彼女を見てふと思いつく。
私も吸血種になれば、と。
別にレミリアに血を吸ってもらおうというわけではない。
魔法を極めんとした者たちの中には、永い時を生きるために、長命と強靭な肉体を誇る吸血鬼へと成った者もいる。
それにならって自分も吸血種に成れば、この忌々しい喘息ともお別れできる……
――だめ!
誘惑に駆られた心を理性が否定した。
さっき気づいたこと。
私が何になりたいのか。
私がなりたい彼女はどんな人間なのか。
彼女が私ならどうするのか。
……少なくとも、自分を別のものに変えるような真似は絶対にしないだろう。
人間のままで解決への糸口を探そうとするはずだ。
――だから私も、私のままであらゆる手段を使ってこの病気を治してみせる。
ぐっと拳を握るパチュリー。
その目には確かな決意が込められていた。すでに曲がってしまった気がしないでもないが。
「……考えがまとまったみたいだから聞くけど。館まで一人で大丈夫?」
「(ふるふる)」
NO。だめ。限界。連れてって。
やっぱりね、とレミリアは呆れ顔でパチュリーを担ぎ上げた。
どんどん顔色が悪くなっていくパチュリーを最後まで止めなかったのは友情ゆえか。
ともあれ瀕死の病人を担いだレミリアは、その重みにふらふらしながら紅魔館へと帰るのであった。
――で、無事、パチュリーの部屋に到着。
パチュリーを担いだまま、ひょこひょこと部屋に入るレミリア。
「咲夜、いる?」
「――はい。ここに」
「パチェをお願い」
そう言って咲夜にパチュリーを渡す。
「わかりました……って、ずいぶん酷い状態ですね」
咲夜の目はレミリアとパチュリーを行ったり来たりしている。
それもそのはず、太陽にやられたのかレミリアは片足片羽がないし、パチュリーの顔は土気色だった。
まあ暢気に喋っているなら慌てることもない――なにより主のプライドがそれを許さないはずだ。
咲夜はパチュリーをベッドに寝かせた。
「死んではいないと思うわ」
「まあ死んでないのは見ればわかりますが……どちらで?」
「森よ」
「森ですか」
森と聞いて思い当たることでもあるのだろう、咲夜はパチュリーの服を手際よく脱がしていく。
「キノコの胞子にでもやられたのかしらね。まったく、いつもいつも滅菌室に篭ってるから体が弱くなるのよ」
「喘息持ちにその台詞はちょっと……」
咲夜はパチュリーに新しい服を着せた後、髪やらリボンやらについた花粉やら胞子やらを落としていく。
もちろん時を止めているのでそれらはまとめて窓からポイ。
「それよ、それ。喘息なんて私に言えばすぐ治してあげるのに」
「貧血気味の人から半端に血を抜くと本当に死にますよ」
「……」
「……」
「……そのときはアレでも呼ぼうかしら」
◇◇◇◇◇◇◇◇
次の日。
決意を胸に、パチュリーは行動を開始した。
まずは魔法図書館内の捜索。
自分でも把握しきれないほどの蔵書を誇るこの図書館なら、きっと治療法の書かれた本があるはず。
そんな期待を胸に彼女がしたことは、召喚の魔方陣でどこからか呼び出した酒樽を門の前に並べることだった。
どこから呼び出したかは敢えて問うまい。
神社の巫女の迷惑など、彼女には関係のないことだから。
「パ、パチュリー様……これ、くらいで、もう、いいですか……?」
肉体労働担当の美鈴が汗だくになりながら最後の樽を置いた。
え? なんで自分でやらないのかって?
適材適所。病弱少女には肉体労働は似合わないのだ。
「ええ、ご苦労様。あとでもう一働きしてもらうから、それまでゆっくり休んでいて頂戴」
「……はぁい」
美鈴はなぜか泣きながらその場にへたり込んだ。
私の手伝いをすることがそんなに嬉しいのかしら?
パチュリーはそんなことを思った。
「まあいいわ。……それじゃあ」
短い呪文を唱えて、胸の前で手を打ち合わせる。
パン、という音とともに酒樽の蓋が一斉に宙に舞う。
日本酒の芳醇な香りがあたりに漂った。
見れば美鈴は痙攣している。……どうやら酒に弱かったらしい。ご愁傷さま。
「これでいいと思うけど……」
半信半疑、といった顔で空を見上げるパチュリー。
予想が正しければアレは必ずやって来る。
しかし、空は相変わらずの晴れ模様。異変が起きる様子は微塵もない。
「駄目だったのかしら?」と、パチュリーが諦めにも似た感情を抱いたその時だ。
充満する妖気。
いつの間にか、それはここにいた。
「ぷはー。美味しー!」
――そして召喚した樽のうち半分は空になっていた。
「こんなところでただ酒飲めるなんて今日はついてるねー。……でも、これどこかで見たことのあるような……ま、いいか」
そう言って次の樽に取り掛かる。
聞いていてパチュリーは頭が痛くなった。
あまりに警戒心がなさ過ぎる。いくら自分の力に自信を持っていてもこれはやりすぎだ。
「ご丁寧に蓋を開けた酒樽が何の意味もなく置いてあるわけないでしょ!」思わずそう突っ込みそうになるのを、パチュリーはすんでのところで堪えた。
きっとヤマタノオロチを退治した英雄も、今の自分と同じ気持ちだったに違いない。
とはいえ、このまま見ていると全部飲み干されてしまいそうだから、そろそろ行動を起こすことにする。
「そこまでにしなさい、小鬼さん」
「……んぁ?」
空になった酒樽を放り投げてパチュリーを見る小鬼――もとい萃香。
「あ、いつかの紫モヤシ」
「……パチュリーよ」
「そんな名前だったっけ? まあいいや。それで、何の用?」
「貴方に探してもらいたいものがあるの」
「やだ」
即答。
これには頭痛を通り越して気が遠くなりかけた。
「……どうして?」
「お酒が目の前にあるのよ? 飲まなきゃお酒に失礼でしょ」
「……じゃあ、貴方が飲んでいるそのお酒、どこから来たものか知ってる?」
「…………」
パチュリーの話を無視して酒樽に伸びた手がぴたりと止まる。
つぅ、と一筋の汗が頬を流れて落ちた。
「御明察。それは博麗神社から召喚したお酒よ」
萃香の足元にだらだらと汗が流れ落ちていく。
「咲夜にあの紅白を呼んできてもらうわ。きっとお酒がなくなって怒ってるでしょうね。そこに空になった酒樽と貴方がいるの。素敵ね」
すでに足元の汗は水溜りになっていた。
もう少し経てば萃香が干物になるんじゃないかというほどの量だ。
「どうするの?」
「……決まってるじゃない」
即決。そう言った萃香の目はやる気全開だった。
彼女の目的はただ一つ。
ここでパチュリーを倒して逃走、責任は全部ここの奴らに押し付ける。
幸い今は昼間だ。
最も手強いと思われる吸血鬼も、まさかこの状況で自分に戦いを挑むとは考えられない。
つまりパチュリーさえ倒してしまえば全て丸く収まるということだ。
「やる気?」
「もちろん。前にも言ったけど、私にそんな精霊は通用しない。私が出て行くのを黙って見送るなら、痛い目を見ずにすむけど?」
「止めておいたほうがいいわ。痛い目を見るのはそっちだから」
「へぇ、面白いじゃない――やってみなよ!」
萃香は自慢の豪腕を振り回し、間合いに踏み込みながら勢いよく突き出す。
いや、突き出すというより撃ち抜くと言ったほうが正しい。
彼女の拳は、幼い外見からは想像もできないほどの腕力と相まって、空気の壁すら撃ち抜くからだ。
それは純粋な力押しであるだけに防ぐことは難しく、スピードに至っては音速を超えるため回避はより難しくなる。
事実、萃香の一撃はパチュリーの魔法障壁を容易く粉砕した。
魔理沙の魔法を防ぎきるほどの性能を持っているそれを一撃で、だ。
大きく後ろへ吹き飛ばされるパチュリー。
が、ダメージはほとんどないらしい。
さして慌てることもなく、彼女は風に乗って羽のようにふわりと地面に降り立った。
「ちょっとはやるようになったみたいね。でも無駄無駄ぁ! また前みたいにのしてやるんだ……か……ら」
ざらざらと大量の砂利を流したような音。
パチュリーの周りに浮かんだ物を見て、得意気だった萃香の表情が凍りつく。
「驕りね。私が何の用意もせずに貴方を呼んだと思うの?」
豆、豆、豆、豆、豆、豆、豆、豆、豆、豆………………。
どこから呼び出したのか。とりあえずかまくらを作れるくらいの数はあった。
思わず後ずさる萃香。
別に炒った豆をぶつけられたところで死にはしない。
でも、鬼は炒った豆に弱いというルールがあるため、当たるとものすごく痛い。
それをあんな数ぶつけられようものなら……想像するだけでも恐ろしい。
「……白旗揚げてもいい?」
「いいわよ。こっちは止めるつもりないけど」
笑顔で言うパチュリー。
ざわりと、彼女の周りで大量の豆がうねり、泣き笑いのような顔の萃香に襲い掛かる。
「うきゃーーーーーーーー!!!」
萃香の悲鳴は、体と一緒に豆雪崩に飲み込まれていった……。
◇◇◇◇◇◇◇◇
――所変わってここは魔法図書館。
「で? 私は何を探せばいいのよぅ?」
瓢箪を取り上げられ、首に柊と鰯の頭をぶら下げられた萃香は、不満そうに口を尖らせて言った。
言いながら体に巻かれている包帯を力任せに引っぱる。
ぶちぶちと音を立てながら、それは細い糸のようにあっけなく千切られていく。
パチュリーは目を見開いた。
炒った豆を全身に浴びて気絶した萃香は、体中に火傷のような跡があった。
しかし、今はひとつも残っていない。
うっすらと赤い痕が見えるところもあるが、全体的に見ればほとんど治っているようだ。
弱点でさえこれだ。もしまともに戦っていたらと思うと……ぞっとする。
ま、それはそれとして。
「喘息の治療法が書かれた本。貴方の力があれば簡単でしょう?」
椅子に座りながらパチュリーは言う。
彼女が萃香を呼んだ目的は、この膨大な蔵書の中から喘息の治療法について書かれた本を見つけてもらうことにあったからだ。
「ふ~ん。喘息を、ねえ」
意味ありげな目で、ちらりとパチュリーを見やる萃香。
目を合わせることができなくて、パチュリーは少しだけ視線を逸らした。
「……早く行ってきて。じゃないと、また豆をぶつけるわよ」
「はいはい。……でさ、喘息治すのって誰のため?」
「――!!?」
ぼっ、と火がついたように顔が赤くなるのがわかった。
「あはははは! それじゃ行ってくるよー」
本棚の間を走っていく萃香。
その後ろ姿に本を投げつけようとして……パチュリーはどうにか思いとどまった。
いけないいけない。ここでムキになったら自分から認めているようなものじゃないか。
まあ、あれはもう全部わかっている顔にしか見えなかったのだけれど。
「……はぁ」
本で顔を隠しながらパチュリーはため息をついた。
こんな顔、他の誰にも見せるわけにはいかない。
咲夜にも、レミリアにも。
「でも……隠すなんて無理よね」
私の変化にレミリアはもう気づいている。
きっと咲夜も……あれは私がそうと言わない限り知らないふりをする。彼女はそういう人間だから。
気づいていないのは、肝心の魔理沙くらい。
いつもと変わらない態度で私に接し、いつもと同じように本を奪って去っていく。
「今度来たら返すぜ」なんて約束は一度も守った試しがない。
「……まったく。私がどんな気持ちで待ってるか、知っているのかしらね」
ついついそんな愚痴がこぼれ出る。
はっとなって周りを見回すが誰もいない。
安心してほっと一息――
「つけると思った?」
「……」
目の前にはニコニコ笑う萃香。
いつの間に、とは言うまい。
霧のように薄く広がって幻想郷を包み込んだ彼女だ、この魔法図書館全体を満たすことくらい訳もないはず。
萃香を利用していたという思い込みが、逆に付け入る隙を与えてしまったわけだ。
わずかに距離を置いて身構えるパチュリー。
しかし、
「本、なかったよ」
萃香はいたって普通にそう言った。
まるで、パチュリーの様子などこれっぽっちも気にしていないように。
「そ、そう……」
「うん。とりあえず医学の本を集めてざっと目を通してみたんだけど、それらしいことが書かれた本はなかったね」
「……」
「やー大変だね。ここにないなら、この幻想郷じゃどこを探してもないんじゃないかな?」
「そ、そうね」
まさかさっきの一言はこのことを言っていたのか?
何を考えている?
何を知っている?
萃香の表情からその答えは読み取れない。
この雰囲気はどこか……誰かに似ていた。
例えば西行寺の亡霊姫。
例えば幻想郷の境界を守る妖怪。
のらりくらりと追及をかわして本当のことを隠し通す彼女ら。
これが年季の違いというやつだろうか。
「……じゃあ、もういいわ」
結局、パチュリーは萃香を帰らせる――追い払うことに決めた。
探し物が見つからなかったなら、これ以上ここに居られてからかわれるのも面白くない。
「さっきのお酒は瓢箪と一緒に食堂に運ばせてあるから、好きなだけ飲んで帰りなさい」
「えー。だってあれは」
「――霊夢には黙っておいてあげる。元々、あれを勝手に呼び出したのは私だから気にすることはないわ」
言いながら、パチュリーは萃香の首に掛けておいた柊と鰯の頭を外す。
自由になった萃香は少しの間考えていたようだが、
「ま、いっか。それじゃ」
図書館の外へ走っていった。
一人になって。
パチュリーは考える。
――本、なかったよ。
――やー大変だね。ここにないなら、この幻想郷じゃどこを探してもないんじゃないかな?
萃香はそう言っていた。
彼女の言葉が嘘か本当か、考えるまでもない。
鬼は嘘を嫌う生き物だからだ。
彼女の場合……まあ、多少イレギュラーな存在ではあるが、基本的な部分は他の鬼と変わらないだろう。
つまり、嘘を嫌うという点は。
あれが鬼でなければ、痛めつけられた腹いせに嘘を教えるということも考えられるのだけど……。
「八方塞ね……はぁ……」
白玉楼の書庫を調べてみようかという気にもなったが、あそこにあるものは昔の資料ばかりだろう。
それに、絶えて久しい家の書庫に、着々と蔵書量を増やしつつあるこの魔法図書館になかった物があるとは思えない――否、思いたくない。
知識人としてのプライドも手伝って、その選択肢はパチュリーの頭の中から綺麗さっぱり消え去った。
が、それで問題が解決するわけでもなく。
解決策を見出せないまま、問題はパチュリーの頭の中をぐるぐる回る。
この幻想郷の中にはない……それなら幻想郷の外にならあるのか?
あるかもしれない。
けど、駄目だ。
外に出るためにはあのスキマ妖怪を説得する必要がある。もしくは紅白巫女を。
彼女らを説得するのは並大抵のことではないし、それ以前に自分はその『並』程度のこともできそうにない。
いや、そもそも彼女らに説得は通じないのだった。
であれば力ずくで従わせるということになるが、それこそ論外。
あれらと戦って勝つ自信はほぼ皆無。
自力で結界を抜けることもできなくはないが、あの性格の捻くれたスキマ妖怪のことだ。
喜々として帰り道を塞いでしまうだろう。
つまり外側からの帰還はほぼ絶望的となる。
ついでに言えば、長きに渡る紅魔館生活による自活能力の低下は、彼女から一人暮らしのスキルをも奪っていた。
要は一人になったら生きていけないってことだ。
「困ったわ……」
ばったりと机に倒れこむ。
無意識に木目の数を数えながら、しかし、パチュリーの頭はどうやって問題を解決するかに向けられていた。
萃香は言った。
この魔法図書館に喘息の治療法が書かれた本はなかったと。
同じく萃香はこうも言った。
ここにないなら、この幻想郷じゃどこを探してもないんじゃないかと。
「……あれ?」
今、何か閃いた気がする。
何だろう? とても重要なことのような……。
もう一度、今度は口に出して言ってみる。
「『この魔法図書館に喘息の治療法が書かれた本はなかった。ここにないなら、この幻想郷じゃどこを探してもないんじゃないか』」
どうも引っかかる。
でも具体的に言うことができない。
痒いところに手が届かないような、なんとももどかしい気持ちだ。
「あーいらいらするわ……」
カルシウムでも足りてないんだろうか。
「えーと……カルシウムを効率よく取る方法は……」
突っ伏したまま愛用の魔道書をぺらぺらめくる。
ページをめくる手が何かにぶつかった。
と、
――……ドサドサッ!
机に所狭しと積み上げられていた本の一角が、突然崩れた。
パチュリーがあっと声を出した時にはもう遅い。
その一角を起点として、周りに積んであった本が崩れ出す。
少しだけ外側に、残りは全部内側に。
~回想~
――パチュリー様。何度も言うようですが、この本、少しは整理していただけませんか?
――いいのよ。それは全部必要なものだから。
――でも、こんなに積み上げていると倒れたときに危ないと思います。
――心配しなくていいわ。そんなへまはしないから。
~回想・了~
そういえば咲夜とこんなやり取りをしたわね……ああ、私の馬鹿。
次々と視界を埋めていく本の群れを見ながら、パチュリーはそんなことを思った。
◇◇◇◇◇◇◇◇
その日の夜。
パチュリーの自室にて。
「……えーと、質問してもいいかしら」
「何かしら?」
「私はどうしてこんな所にいるの?」
「貴方がここにいる理由? 私が呼んだからよ」
「……それは、お風呂に入っていたら突然気を失ったことに関係があるのかしら?」
「多分ね」
「……」
「……」
「…………」
「…………」
「じゃあ、私が今、バスタオル一枚なのは?」
「意外と似合ってるわよ」
「椅子に縛り付けられてるのは?」
「そそるわね……じゃなくて。暴れられると面倒じゃない」
平然とのたまうパチュリー。
うっかり本音が飛び出しても慌てない。
逆に、もしも手足が動くなら今すぐにでも飛び掛りそうな勢いのバスタオル少女、アリス。
咲夜にアリスを連れて来いといっただけなのに、なぜこんなことになったのだろう?
正直な話、パチュリーにもよくわかっていなかった。
◆◆◆◆◆◆◆◆
――遡ること数時間。
本の崩落からしばらくして、パチュリーは意識を取り戻した。
本に埋もれるという体験はなかなかできるものではないができればもう二度としたくない。
日ごろからそこそこ鍛えてるおかげで怪我はなかったけど痛いし苦しいからだ。
「やれやれね……あら?」
床に落ちている一冊の本にパチュリーの目は吸い寄せられた。
手にとってみる。
ありふれた魔道書、というのもおかしな話だが、その魔道書は彼女にとってまさに『ありふれた』物で、まったく必要性を感じないものだった。
奇妙な違和感。それはすぐに解明される。
ここに積んでおいたものはみな何かしら必要な物で、そこに必要のないものが混ざる可能性はない。
じゃあこれはどこから……?
「まったく。こんな初歩の召喚術なんて……ぁ」
閃く。
もう一度萃香の言葉を思い出す。
――本、なかったよ。
――やー大変だね。ここにないなら、この幻想郷じゃどこを探してもないんじゃないかな?
「…………わかった」
確実な解決策が見つかったわけではない。
どちらかと言えば、僅かな望みに掛ける博打のようなもの。
だが、それも場合によっては有効な手段として用いることができる。
ならばどうする?
迷うまでもない。
やれることがあるならやるだけだ。
まあ、このお膳立てをしてくれたのはおそらく……だろうけど。
「ありがとう、と言っておくべきかしらね」
それはともかくと。
これであとは必要な人材を探すだけだ。
といっても、その必要な人材はほとんど揃っている。
足りないのは魔法に精通し、なおかつそれを扱う術に長けている人物。
「――いいのが一人いるじゃない。咲夜、いる?」
「お呼びですか、パチュリー様?」
「ええ、貴方に連れてきてもらいたい人が一人いるの」
◆◆◆◆◆◆◆◆
「というわけなのよ」
暴れないようにと固く念を押した上で縄を解き、アリス誘拐の顛末を一通り語り終えたパチュリーは、メイドに運んできてもらった紅茶を啜りながら言った。
大雑把な誰かさんのせいでちょっとした誤解があったようだが、それも解消されただろう。
彼女が加われば成功する確率はぐんと上がる。
無事に健康体となる自分を想像して自然と笑みが浮かんだ。
「協力、してもらえるわ――」
「するわけないでしょ!!」
「……あら?」
交渉決裂。ものすごい剣幕で怒鳴られた。
理不尽なこともあるものだ。
「寒いだろうと思って服を着せてあげたのに」
「メイド服だけどね」
「下着だってあげたじゃない」
「ええ、『いつの間にか』着けられていたわね。ぴったりのサイズの物を」
「……それで何か不足でも?」
「その開き直りっぷり……呆れを通り越して感心してしまいそうだわ……」
硬く握り締めた拳を震わせながら声を絞り出すアリス。
一方、とぼけた顔をするパチュリー。
「もしかして、バスタオルのほうがよかったとか?」
「違う!」
「じゃあ何? スッパ?」
「くぅっ…………!!」
アリスがテーブルに倒れこんだ。
小刻みに震えながらテーブルを殴りつけている。
その背中からは怨念じみたどす黒いオーラが立ち上っていた。
「……ふぅ」
しばらくして顔を上げたアリスは、意外なほど落ち着いていた。
どうやら彼女の負の感情はどす黒いオーラとともに消え去ったらしい。
「まあ、貴方の非常識さには目をつぶるとして……」
「――協力してくれるのね?」
返答の代わりにアリスはにっこりと笑った。
明らかに『殺すぞ』的な雰囲気を漂わせて。
前言撤回。負の感情は彼女の中で立派に花開いていたようです。
「……ごめんなさい」
「わかればいいわ。……でね、人に物を頼むときは何かあると思うのよ」
「対価のこと?」
「そう。それもなしに人に何かをさせるのは、虫が良すぎると思わない?」
言われてみれば尤もな話。
アリスとはただで仕事を引き受けてもらえるほど仲が良くはない。何かを要求されるのは当然のこと。
パチュリーにしてもそれほど都合のいい展開を期待していたわけではないから、二つ返事でその提案を呑んだ。
これも計算どおりの展開だからだ。
「それにしても、対価ねえ……何がいいかしら?」
言いながらさりげなく部屋の隅に視線を動かすパチュリー。
アリスも釣られて視線を動かす。
そして、小さく息を呑むのがわかった。
――にやり。
掛かった。パチュリーは確信する。
これで私の勝ちは揺るがないと。
「どうしたの? 何かあったのかしら?」
「え!? な、なにもないわよ!?」
ほら。軽くカマを掛けただけでこんなに動揺して。可愛いものね。
そんな悪女の顔はいつもかぶっている無表情の仮面の下に追いやって。
パチュリーは静かに立ち上がると、部屋の隅へと歩き出す。
はらはらしながらその後ろ姿を見ているアリス。
彼女は完全にパチュリーの術中に嵌っていた。
「……これ?」
壁に掛けておいたそれを取り外し、胸の前に持って振り返るパチュリー。
アリスは何も答えない。
代わりにちらちらと、どこか物欲しそうな目をしてパチュリーとパチュリーの持つそれを見ている。
パチュリーの手にあるのは一つの帽子。
もうおわかりだろう。
黒くて先がちょっとひん曲がっているそれは、間違いなく――霧雨魔理沙、彼女の帽子だ。
「欲しいの?」
「う……」
ストレートに聞くと、アリスは「まさか」と言わんばかりに顔を背けた。
でも相変わらず注意は帽子に向けられている。それでは欲しいと言っているのと同義だ。
まだまだね、とパチュリーは心の中で苦笑する。まあ、そこが可愛くもあるのだけれど。
さて、ではもう一押し。
「そう。じゃあ仕方ないわね」
「……」
「咲夜に言って返してきてもら……」
「――待って!」
「?」
パチュリーはわざと驚いたような顔をしてアリスを見つめ返す。
「ぁ……ぅ」
対してアリスは顔を真っ赤にして俯いてしまった。
言ってから自分の行動に気づいた、といった感じに。
「素直じゃないのね」
「――!!」
アリスはとうとう耳まで真っ赤になってしまった。
ごにょごにょと、なにやら弁解らしきものが聞こえてくる。
これはこれで見ていて面白いのだが、このままでは話が先に進まない。
少しの名残惜しさを感じながら、パチュリーは最後の行動に出た。
手に持った魔理沙の帽子をアリスの頭に乗せる。
アリスは一瞬怯えたように体を震わせるが、頭の上に乗せられたものを手で触り、それが何かわかると、信じられないといった顔でパチュリーを見た。
「それは大切なものだけど……貴方にあげるわ」
「……いいの?」
「もちろんよ。きっと貴方が持っていた方が彼女も喜ぶわ。だって――」
◆◆◆◆◆◆◆◆
「相変わらずやり方がえげつないわね……」
パチュリーの部屋から遠く離れた一室で、レミリアはため息をついた。
過去に同じような目にあったからか、アリスを見るその瞳には強い同情の色が浮かんでいた。
彼女の前にあるのは『遠見』という魔法の掛けられた鏡。
この鏡は、魔力を通すことで離れた場所の映像を映し出す。
それを使ってレミリアは、パチュリーの部屋を覗いていた。
……別に日課ではない。それだけは間違えないように。
夜、彼女が目を覚ますとメイド長の咲夜がアリスとかいう魔法使いを攫ってきたことを知った。というか、咲夜本人の口から聞いた。
運んだ先はパチュリーの部屋。
何でも彼女の協力が必要なことがあるとか。
気になったのでこうしてパチュリーの様子を見ているというわけだ。
鏡から視線をはずして、「咲夜」と名前を呼ぶ。
時計の秒針がカチリと一つ音を立てると、レミリアの隣には咲夜の姿があった。
「御苦労」
「いえ」
差し出された紅茶のカップを受け取って一口啜る。
咲夜は遠見の鏡に目を移す。と、それは見る間にげんなりとした表情に変わった。
「……またパチュリー様ですか?」
「ええ。あの娘にどんな利用価値があるのか知らないけど……何をするつもりなのかしらね?」
鏡の中ではひしと抱き合うパチュリーとアリス。二人とも目に涙を浮かべている。
両方とも頭に『美』のつく少女であるため絵になってはいるのだが……。
「どうにも……」
「……ええ」
主人と従者は目で意思疎通を行った。
――空気が、ね。
◆◆◆◆◆◆◆◆
片や友情に涙する金髪の少女。
片や同じように涙しているはずなのに、何故か策謀の臭いしかしない紫の髪の少女。
まあ、何はともあれ二人は固く抱き合った。
「ごめんなさいパチュリー。私、貴方のことを誤解してた」
「いいのよ。誤解されるのは私に原因があったから……アリスは悪くないわ」
「ありがとう」
抱き合った体を離し、正面から見つめ合う二人。
初恋の相手を目の前にした少女のように顔を赤らめているアリスと、自愛に満ちた微笑みを浮かべているパチュリー。
「……ねえ、私もパチェって呼んでもいいかしら?」
「もちろんよ、アリス」
「嬉しい!」
再び抱き合う二人。
――この時、ナニかの限界を超えたレミリアが鏡を叩き割ったことを二人は知らない。
――鬼神のごとく荒れ狂う主人を咲夜が命がけでなだめていたことも。
「ねえ、パチェ。貴方のやろうとしていること、私にも協力させてもらえるかしら?」
「……え? でも、私には」
「いいの。だって……私たち、もうお友だちでしょ?」
――瞬間、グングニルの投擲によって咲夜は星になった。鏡は欠片になっても映像を送っていたのだ。……音声付で。
◇◇◇◇◇◇◇◇
翌日、ヴワル魔法図書館。
朝も昼も夜もあまり関係のないこの空間に、紅魔館の名立たる面々+1が集まっていた。
紅魔館の主、レミリア・スカーレット。
メイド長、十六夜咲夜。
門番、紅美鈴。
そして今回の主犯、パチュリー・ノーレッジと、自覚無き被害者のアリス・マーガトロイド。
この面子が一堂に会するのは珍しいことだったが、
「朝から何の用よ、パチェ。……くだらない用事だったら頭引き抜くわよ?」
場の空気は最悪だった。
あれから不貞寝をしていたところを叩き起こされたレミリアの機嫌が、未だレッドゾーンを抜けていないからだ。
しかし、そこは長年の友人。
レミリアの怒りのオーラを軽く受け流して涼しい顔をしている。
「どうしたのレミィ? 機嫌がよくないみたいだけど」
「「誰のせいだと思ってる」んですか」
不機嫌な声が一つ重なる。
その声の主は咲夜だ。
何故か全身包帯ぐるぐる巻きで立っている。
本人曰く「大気圏を越えたときは死んだと思った」そうだが、何のことだかよくわからなかった。
適当に聞き流していると、ゆるゆると手が上がった。
「あの~パチュリー様」
「何かしら?」
「……私もいなくちゃいけないんでしょうか?」
「そうよ」
「……(パタリ)」
力尽きたように手が落ちる。ベッドの上に。
彼女――美鈴もまた、全身包帯だらけで備え付けのベッドに寝かされていた。
本人曰く「見張りをしてたら空から何かいっぱい降ってきた」らしい。
何かって何だ。
「ちょっとみんな、元気がないわよ!」
そして一人だけテンションの高いアリス。
メイド服はそのままに、上海と蓬莱を引き連れてやる気全開である。
レミリアの目が細められるのも咲夜の眉が釣りあがるのも気にしない。
友情(?)の前に敵はないのだ。
その様子を見つめて微笑むパチュリ-。
――ふふ……これなら上手くいくわ。待っててね、魔理沙……。
読みやすいような、読みにくいような展開が面白い。
続きに期待します。