恐怖こそが私の糧。
今まで何を見てきた?何を奪ってきた?
下衆な人間どもの恐怖を見てきた。魂を奪ってきた。これまで。
人間など、小手を僅かに捻れば簡単にその身体を差し出した。
血を差し出した。命を差し出した。
その時の恐怖に堕ちる顔の数々。決して忘れる事のできない最高のオードブルだ。
血に塗た。
夜に塗た。
死に塗れた。
私の召使いの厳選した“ディッシュ”達は本当に舌鼓を打つ物だ。
あの首筋、恐怖に汗ばむ肌の群れ。甘い、甘い畏れの味。
それは自然に血に溶け、一種至高の調味料となり、舌を痺れさせる。あらゆる人間を嗜むが――やはりここ幻想郷の者達は格別だ。
私の行為を前に、“戒めの効かない絶対悪”と言う、莫迦な人間もいたが。
その身体に流れる負の感情の奔流を眺めるのもまた一興。
尤も、その人間は少し睨み付けただけで死んでしまった。
当然、血を啜る気にもならなかった。
そしてこの前。人間達から進んでこの館に乗り込んで来る運命を見つけた。
素材は良し。どれだけこの舌を震わせてくれるのかに、興味があった。
――だ、が。何故か。どういう事か分からないが、私には全く理解できない状況が起きた。
人間が、たった二人の人間が私を打ち負かしたのだ。
それもこの館の門を破壊し!
最強の召使いらを退け!
最高の従者を斃し!
たった二人で!人間程度が!!
――思い出すだけでも牙の先がむず痒くなるのを感じる!くそくそくそくそ!
あれ以来血が喉を通らない。五百年の矜持が一気に、音を立てて崩れ沈んだのだ。
あれはなんだ?
紅霧を止めたあいつらはなんだ?
巫女の博麗霊夢と――魔女、霧雨魔理沙。やはり人間だ。この館にも使える人間はいるが、易々と斃される謂れはない。
運命こそは、それこそ私の掌の上の事象のはず。
なのに、運命を手繰る事ができなかった。盲目の世界で。ただ引き裂かれるだけの。始めて“恐怖”を覚えた夜。
あれだけ月が紅かったのに、丸かったのに。
くそくそくそくそ。
あの後、復讐の機会を窺ってはあいつらの家に出向いた。従者を引き連れ、日傘を差してまで。
だが! やはり見えなかった。あいつらには何処にも機会がない。焦燥に苛まれる毎日だ。
しかも、突然妹が脱出を目論んだおかげで、またも館は二人に鎮圧され、内心では最早我慢の限界だった。
この私より強い。それだけであいつらは陽のように煩わしい。
――暫し鬱憤を晴らすとしようか……このままでは威厳が保てそうにない。
ここ一月、一月だ。どれだけ館の者に手を出しそうになったか分からない状態だ。いつまで平静でいられるかも分からない。
友達には悪いけど。実力のあるものでないと、私の相手をするには壊れてしまいそうで不安だ。
全く……私もどこまで甘い考えを持ってしまうんだか。妹を見習ったほうがいいかもしれないわね。
***
漆黒の暗闇の中心に、ぼう、とカンテラの明かりが灯る。
例え火の一つでも空間はある程度までは見渡せるが、壁を望めば、世界の果てのように黒一色。
部屋は――部屋と呼称するのもおこがましい程に――広大。
天は遠く、壁は遠く、広さは事実上、無限に最も近い。
しかし尚、無限にひけを取らないのが、蔵書量だった。
それこそ数は無数、収まる本棚は生物の細胞を想起させ、
中心から放射するように並べられた構造は銀河の星渦を連想させる。
かつて幾人もの魔法使いが発見を渇望した建築物、
“無限の本が腐る場所”ヴワル魔法図書館。
統べるは魔と知の全。
この図書館を遥か昔から実質的に統治している“本の虫”たる魔女――パチュリー・ノーレッジはさながら、
全展望監視型刑務所(パノプティコン)の監守のように、周りを円状に、本に囲まれた場所で生活している。
曰く、「そのほうが効率がいいから」らしい。
最近、白黒の魔法使いに好き勝手暴れられたりした歴史もあるが、
ご覧のとおり魔女は排他的で、来客なんて全く以って好ましい事態ではない。
とぐろを巻く本の群れの中心に、二つの影があった。
尊大な図書館の館長には好ましく無い事態が起こっている、という事だった。
来客が例え、親愛なる友人だとしても。
パチュリーが何等かの気配に気づき、薄目で傍らの時計を見た時は、時刻は二時を過ぎる頃だった。
起き抜けの身体は本人には堪えるが、湛えるアメジストが流れるような長髪には癖一つ無く、同色の潤う瞳には濁り一つ無く。
ベッドの上で半身を起こしたまま来客に興味のないように膝の上に目を落とす。
右手にカンテラを吊り下げ、一瞬の瞬きの後、いつもの半目に戻り、上目遣いのように眼光を前へ向ける。
その視線の先には、雑然とした本の群れの中に足場を見出した、白い影。
「あら、やっぱりバレるの?」
薄暗闇の向こうから幼い声が聞こえる。
それが一歩、細く白い脚を差し出す。カンテラの光がその深紅の相貌を見初める。
図書館の上方にあり、特殊な繋がりを持つ紅魔館。その実権を握る紅の吸血鬼。
パチュリーは友人として、又は知識を提供する者として、彼女に接する事は多い。
だがしかし並大抵の人妖ならば、名を出すのも畏れ多い――レミリア・スカーレット。
それが真夜中の来客だった。
「こんな時間に何よ、レミィ」
「こんな時間、ですって。最近は生活がなってるのね」
「私が寝たい時間に寝るのが正しい生活なのよ」
というわけでお休み、とパチュリーはシーツを掴むが、いつの間にかベッドの傍らまで
移動していたレミリアの指がそれを拒んだ。
「ちょっと聞きたいんだけど」
レミリアは微笑んでいた。
そのブルーベリーを思わせる透き通った青髪を揺らして上半身を乗り出し、
パチュリーのそれによく似た帽子の鍔をくっつけるほどに近づいて。
純白の聖衣を模した冒涜者は、既にパチュリーをベッドに押し倒していた。だがあくまで取り乱す事はない魔女。
吸血鬼の相貌を見据え、
「何をよ?」
ぶっきら棒に聞き反す。
「最近ちょーっと良くないことが色々あったじゃない。苛々が収まらないから、そこであなたをいじめようかと」
「疲れてるから断る」
というわけでお休み、とパチュリーは再びシーツを掴むが、肩に乗せられたレミリアの手がやんわりとそれを否定した。
「……私に聞く意味はなんなのよ」
長年悪魔と友人を務めるパチュリーにとっては、レミリアが面倒事を画策するのに付き合わされる事は慣れっこだった。
だから、溜息だけで事は足りる。
「それなら、ねぇ。パチェ」
突然レミリアはベッドから飛び降り、パチュリーに背を向ける。
「久しぶりに弾幕ごっこやりましょう」
小ぶりな翼をひらひらさせながら、小柄な悪魔は肩越しに魔女を誘った。
パチュリーは肩を竦めると、ようやく覚醒し出した頭を二、三回左右に振って、告げる。
全ての本はある程度の防御魔術を施してある。暴れる程度、問題ないだろう。
「拒否権は……なさそうね。いいわ」
レミリアは背を向けたままだったが、その暗く深い眼差しは歓喜に歪められているのが分かった。
そこでパチュリーは「代わりに」と続ける。
「私が勝ったらレミィは諦めてね」
――我ながら、やはり頭はまだ覚醒し切っていないようだ。月を示す道標には、不安の元が記してあるのに。
――満月。あろう事か、今夜は十五夜なのだ。
妖怪が跋扈し、吸血鬼は狂喜し、夜の眷属は皆、その純然な力の泉に集る。
魔女はずっと不機嫌な顔を崩していないが、既に手の平は汗を握っていた。
その様子を知ってか知らずか、其の夜の眷属たるレミリアはくっくっ、と喉を鳴らす。
「いいわね、それ。今夜も月がとても丸くて大きくて紅くて綺麗だから」
レミリアの肢体から、目に見えない力が放出される。少しづつ音を立てて周りの本棚が軋む。
久々に見る“本物の吸血鬼”の圧力に、パチュリーはわずかな声も漏らす事が出来ない。
指を動かすのも、脚を進めるのも、眼球を動かすのも、全てがもどかしい。
「手加減はできそうにないけど」
一斉に図書館の空気が凍りつく。
圧力は一瞬にして元のレミリアへと収縮された。
魔女は開放された隙を見て、傍に置いてあった辞典を腕に収める。だが、彼女はぎょっとした。
目の前の悪魔の背中の、翼の骨がぎりぎりと音を立てて持ち上がってゆく。
張られた赤黒い翼膜が展開する様は、空間に裂傷が出来るように美しかった。
しかし、パチュリーが最も目を奪われたのは、
レミリアの翼が、異様なまでに、巨大だった事。
自身の身長を優に数回越し、翼長こそは本棚を退けるまでに。
それが展開を終えると、生ぬるい風が一瞬だけ起こり、パチュリーの髪とカンテラの炎を揺らした。
黴臭い埃が、パチュリーの喉をかすかに撫でる。
威嚇の如く、求愛の如く、刃のように、盾のように。血の色を模した荘厳な儀式。
パチュリーは静かに、神聖な空気を穢さないように、友人へ言葉を放つ。
「今夜は随分とご機嫌なようね」
「あら、分かるかしら。でもパチェは大切な友達だし、すぐに終わらせてあげるから」
「ありがたいお言葉ね。今日は喘息の調子があまり良く無いし」
パチュリーはカンテラをそっと傍へ置く。
「ふふ」
悪魔の微笑みと、その右手に深紅の閃光が迸る瞬間が合図になった。
「神槍“スピア・ザ・グングニル”」
閃光は一瞬で長槍を形作り、レミリアは振り向き様にパチュリーへそれを投擲した。
大げさな放物線を描き、紅の流星は敵を見据え、加速。
――神槍グングニル。
その最大の特性は決して相手を逃さず、それ自体が意思を以ってして敵を追い、貫き通す事。
だがなんてことはない。どんな強力な攻撃もあたらなければ意味がない。
あたりにくるならば、止めれば良い。
「えーと……目の前の槍を消極的に止めるには……」
パチュリーの左手に収まった辞典が、風に煽られるかの如く高速で頁を捲ってゆく。
同時に彼女の眼球が恐ろしい速さで蠢き、
「これね」
頁と目がぴた、と止まる。
瞬間、パチュリーの目と鼻の先で爆発が起こる。
魔法の辞典の生み出した五芒星の魔法陣が主を覆い、紅き槍を破壊したのだ。
館が轟音に揺れる。伴う紅の衝撃波が回りの本を吹き飛ばす。
レミリアが上空から飛び込んでくる。
槍の投擲と同時に跳躍した吸血鬼は、その身体能力で間合いを一瞬で詰めたらしい。
無論パチュリーはそれに気付いているが、なにぶん対処しようがない。
深紅に染まった爪が、わきわき蠢く指に合わせて踊り狂う。
薄暗闇にそのネイルアートが矢鱈と映える。
それは音速で振り下ろされ、わずかに後退したパチュリーの鼻先を掠った。
目の前に降り立つやいなや、レミリアは直線的に白皙の頬を削った。
四筋の傷を付けられた本人は、何が起こったのか理解できていないようで、目を瞬かせる。
立て続けに腹へ衝撃。パチュリーは身体をくの字に折り曲げ、膝から崩れる。
肩に紅い線が何本も走る腕が一瞬あらぬ方向へ曲がる脇腹に裂傷が入る。
倒れる事も許されぬかのようにレミリアから断続的に加えられる打撃。
がくがくと身を委ねるように、パチュリーは翻弄される。
胸に打撃を加えられ、向かいの本棚まで吹っ飛ぶ。
衝突の衝撃で、厚いカバーをされた辞典が大量に落ち、パチュリーの身体に鞭を打った。
繰り出される攻撃が全く予測できない。冷や汗を額に作る。
既にレミリアはパチュリーの目の前に立っていた。
――次の打撃はどこだ?次の切裂きはどこだ?その深紅の相貌は、どこを捉えている?
なんとか立ち上がると、その半目は真っ直ぐとレミリアを見据える。
レミリアは薄笑いを浮かべて、身体を捻る。
翼が湾曲したと思えば、それはしなる触腕の如く、先端は刃となってパチュリーを捉える。
顔を反らして初撃をかわすと、レミリアの右拳が彼女の頬を捉えていた。
上半身が仰け反る。反す手でレミリアが爪を振りかぶるのを視認し、
呟く。
――土よ!
パチュリーが掌を翻すと、床からクナイ状の小岩が噴出し、レミリアの身体を叩く。
一歩、レミリアは後退する。
零距離でなければいい。ネグリジェに手を挿し入れ、一枚の符を取り出す。
「木火符“フォレストブレイズ”!」
宣言。
どこからとも無く現れた木の葉が、辺りを舞い始める。
それらは想い想いにレミリアへ吸い込まれるように張り付く。すると次々と発火、爆散
してゆく。
「熱! 何ようっとおしい!」
レミリアは駄々をこねる子供のように、両腕を振り回しながら木の葉を払おうとする。
しかし次から次へと現れるそれは一瞬で加速し、炎を纏い、張り付いて爆発。
着実にレミリアを後退させ、ダメージを蓄積させてゆく。
パチュリーは符を掲げたまま、術の行使に専念していた。とにかく手数の多さで反撃の余地を与えぬよう。
次の符の宣言の機会を待ち望む。
尤も、
「もうっ、服が汚れるじゃないの!」
レミリアには単純な力では、
「紅魔“スカーレットデビル”!」
捻じ伏せる、といった事は到底不可能なのだが。
肢体を大の字にして力を解放する吸血鬼。
パチュリーの手にあった符は一瞬にして紅の前に燃え尽きてしまう。
レミリア自身から放たれる巨大なエネルギーが、焔すら一瞬で掻き消して、新たな破壊を上書きする。
渦を巻く深紅の奔流は十字架を形作っていた。
吸血鬼の、最大の冒涜として。
力を前にして、聖者でもない魔女はあっけなく弾かれ、床を転がり、ベッドの脚に衝突。
「ぐぅ! げほ、げほ」
身体中が打撲で痛い。喘息で呼吸が辛い。
ベッドへ肘をつき、起き上がるも、
「ごほ」
咳き込み、バランスの崩れたパチュリーは、ベッドに凭れるようにして斃れた。
身体の傷は自動的な治癒魔法で既に治りかけていたが、軋むように肢体が悲鳴を上げている。
血に塗れ、ぼろぼろになったネグリジェが、先の攻撃の殺傷性を示していた。
髪がざっくりやられなかったのが救いだろう。
殺す気が無い事は確かだったが。
しかしその殺戮を見せ付けた本人――レミリアは、静寂の中へ消えていた。
パチュリーは無音の暗闇へ問いかける。友人は、まだ、
「レミィ――まだ終わったわけじゃな――?」
腹に衝撃を感じた。
うつ伏せになっていた身体を動かそうとすると、わき腹が焼けるように熱を持ってパチュリーを苦しめる。
「はっ?、はっ、げほ、! ぐっう……」
唇の端から紅い血が漏れ、シーツに滲む。黒く染まる。
パチュリーのわき腹から赤黒い剣が生えていた。
ベッドを貫いて隆起したそれが、わずかに揺れ動き――それがパチュリーに悲鳴をあげさせたが――引き抜かれる。
次の瞬間、ベッドは中に浮いていた。大きく回転がかかり、パチュリーは投げ出される。
宙を舞い、もんどりうって、本棚へ激突。ネグリジェに新たに血が広がる。咳き込む。血が噴出する。
「……本棚にぶつかるのが流行なのかしら」
パチュリーはぼそ、と呟いていた。
帽子がなくなっていた。ゆっくりと立ち上がる。半目が、情報を求め左右へ動く。
まずベッドが真っ二つに拉げていた。その傍らにはレミリアがいた。
その口元の深い亀裂を見て、パチュリーはそれが悪魔なのだなと、改めて思った。
彼女は嗤っている。楽しいのだ。可笑しいのだ。
――まさか、本気にはなってないよね? あぁ、やっぱり今日のレミィは危ない。
ベッドがレミリアの翼に持ち上げられていた。
成程パチュリーを貫いた剣は、あの刃のような翼の切っ先だったのだろう。
腕のように器用にベッドを掲げると、身体を捻りそれをパチュリーの方へ投げた。
金を装飾された鋼鉄の骨組みは、それだけで凶器だろう。
しかし血を少々失った魔女は、ろくな回避方法を思いつかなかった。
彼女は髪に留まったいくつものリボンのうち、淡い桃色のものを解いた。それは一枚の札へと変形する。
拉げた虎ばさみとなったベッドは、今にもパチュリーを飲み込まんとし、彼女は気だるそうに符を掲げる。
――河よ柄となれ
――岩よ鎚となれ
――渓流は弓へ砂州は矢へ
呪詛を与えると同時に、掌に収まった符は青い閃光と共に飛散し、
それが十分の一秒後には持ち主すら覆い隠す、青の水塊に変質する。
「水土符“ノエキアンデリュージュ”!」
宣言。
射出。
水塊が無数の矢となってベッドを貫き、パチュリーへ到達する前に粉々に砕け散らせる。
妙に響く甲高い破壊音に、少し覚醒したパチュリーは重くだるい身体を奮い立たせた。
しかし破片の隙間を縫うように、紅い軌跡が連なってゆく。
レミリアが手を閃かせ、紅の奔流を生み出し、パチュリーへ仕向けたのだ。
凝縮されたエネルギーの弾丸が、高速で迫る小さな針のような紅い弾となって、
爆砕した寝床の残骸の向こうから無数に這い出してくる。
――風よ!
呟くと同時に、パチュリーの周りに小規模の竜巻が起こる。
風に煽られるように飛び上がり、弾丸を回避。
あっという間に本棚を飛び越え、その上へと降り立つ。
――既に悪魔が待ち構えていた。
細長い棚の上で、魔女と悪魔は対峙していた。
――レミィがさっき受けた傷なんて、服ごと完璧に再生している。割に合わないじゃない。
魔女の側が肩をすくめる。
「面白い事してくれるじゃない」
悪魔の側が手を当てて嗤う。
「今日のパチェは張り合いがないわね」
「……さっきからやりたい放題やってくれて」
じくじく痛む脇腹の傷はある程度ふさがっていた。それを見せ付けるようにパチュリーは身体を傾ける。
「御免なさいね」
レミリアは少しだけ瞼を伏せる。
「パチェ、いつも貴方は大切だわ。素晴らしい友達を持てて幸せだもの」
相貌が、深紅を越して焔の色となる。
「だから、貴方には特別負けられない」
再び翼が、自己主張するように天を仰ぐ。
「あー……レミィ?」
ようやく口を挟んだパチュリーの顔は、暫し困惑に染まっていた。
「何をイライラしてるのか……知らないけど、いつものように相談はしてくれないのかしら」
顔を背け、ため息をついてみせる。わざとらしくではない。内心わざとらしくはない。
これまで、何十年も、そうしてきたのに。
「レミィ一人で……自己完結なんて寂しいわ」
レミリアはばっ、と顔を上げる。その瞳は友達の言葉に泳いでいた。
だがすぐに口を引き結び、
「勝ちなさい。勝って私を止めてみなさい、パチェ」
言い放つ。
再び悪魔の身体からは、それを体現するどす黒い焔が上っていた。
「……いいわ」
全ては勝ってから聞きだすとしよう。
再びパチュリーはレミリアを見据えると、
レミリアの姿は本棚の上から既に消えていた。紅い軌跡を刻み、霞んで消えていたのだ。
次の瞬間には、パチュリーの周り数十尺を、数えるのも馬鹿らしい程の弾幕が取り囲んでいた。
レミリアの扱う、ナイフを模した弾幕だった。
乱舞するように奇妙な軌道で迫ってくるが、速度自体は大した事はない。
ほう、とパチュリーの唇から湿った息が漏れる。
――焔よ!
呟きは引き金。
彼女を中心に五芒星を記した水晶が四つ形成される。
一瞬後に全ての水晶から放たれた赤い閃光は、純粋な力となってナイフを打ち払い、堕とす。
図書館を縦横無尽に駆け回りながらの全包囲攻撃だろう。レミリアも粋な事をする。
無論、たかが一方位の刃を落とす程度では足りない。
時に反転させ、時に旋回させ、時に互いに螺旋を描かせ。
貫き、
弾き、
薙ぎ払い。
水晶達を操り、乱舞するように、巧みに、確実に弾を撃ち落としてゆく。
本棚上の攻防で、なおも増える紅の凶器に対し、しびれを切らす事は命取りだ。
あくまでも余裕を体現する魔女はタイミングをいつかいつか、と待ち続ける。
脳をフル回転させれば、魔女の頭脳で見えない物はない。少しだけ時間の緩んだ視界を、パチュリーはねめつける。
レミリアはわずかに歪んだ軌跡を残している。それを追えば飛んでくる位置は――肩から鮮血が飛び散った。
「っあ!」
平静を保てなくなった魔女は顔をゆがめる。右肩から深紅のナイフが落ちた。
――速過ぎる!
矢の如く上空へ飛び上がっていたレミリアをパチュリーは捉えられずに、一撃を甘んじてしまったのだ。
一瞬だけ水晶の反撃が緩くなる。その一瞬が、
最大の身体能力を持つレミリアには、それが最大の好機だった。
「サーヴァントフライヤー! 続け!」
巨大な翼を翻し、上空からパチュリーを見据え、自身の周囲を深紅の五芒星で覆う。
それは赤い渦となり、悪魔を覆い、より禍々しく変化した翼をドリルのように変化させ。
拳の中には、一枚の符。
吸血鬼が唇を沿わせると、符は紅く燃え尽き、
「夜王“ドラキュラクレイドル”!!」
――錐揉み急降下。
音速を超えた単純明快な突進は、重力すら超えて、垂直にパチュリーを捉える。
パチュリーはすぐさま体勢を立て直し、頭上に全水晶を収束、巨大な魔法陣へと換算さ
せる。迎撃の余裕は――確認するまでもなかった。
小さな隕石のインパクト。
硝子が易々と粉々に砕け散るような光景を目の当たりにして、曝け出されるのは深紅の閃光。
“本物の吸血鬼”に、即興で挑んだのは矢張り拙かったか。
パチュリーの魔法陣はあっけなく崩れ去り掻き消え、
紅の奔流が激突し、身体を突き抜ける。刃となって襲い掛かる。
胸を切り裂く。腹を切り裂く。脚を切り裂き腕を切り裂き、貫通する。
血が肉片が飛び散り、目に入って視界が紅く染まる。
本棚は、自身を通り抜ける力によってビリビリと音を立てる。
彼女の意識も紅で締められてゆく。
血管が数本千切れる程の速度で脳が回転し、状況を理解しようとする。
悲鳴も出せなくなった身体で導き出した答を、
――勝てない。今の私では、彼女には勝てない――
“魔女パチュリー・ノーレッジ”は淡々と理解した。
魔女たるもの、あらゆる物への“理解”が肝なのだ。そう。
そう――だがそう考えた瞬間、パチュリーの腕は本能的に、辞典の一頁を掴んでいた。
それを破り抜く。頁はまたも、一枚の符に変形する。
出血が酷い。
血飛沫が飛ぶ。
四肢が妙に痙攣する。
既に魔女としての耐久力は限界だった。
だが、宣言していた。分からなかった。自分はもう符を掲げる事も億劫だったのに。
――陽よ刃となれ
――陽よ剣となれ
――光明いずるは霹靂の如し
「日符“ロイヤルフレア”」
パチュリーの呟きそのものが光となり、轟音を立てて破裂。
閃光が全てを埋め尽くす。大気が焼ける。何かが酸化する音が所々で響く。
「なぁ?! がああぁぁぁぁぁぁっ!!」
素っ頓狂な声が聞こえ、悲鳴。
“言葉”としては聞き取れない呪詛をレミリアは吐き、身体を翻しながら空中で悶え、
その一瞬後には翼をはためかせて闇の彼方へ消えた。
なおも光は本を巻き上げ、絨毯を焼き、隆起する本棚を飛び越え、館を蹂躙する。
自身の魔法を制御できずにいる魔法使い。
ロイヤルフレアが封印されたスペルカードを、朦朧とする意識の中で握り締めて。
光はそこから止め処なく溢れ、図書館を余す事なく白で埋め尽くしていくが、
やがて断続的にな物になって、
次第に薄れてゆく。
掻き消える。
血達磨が、そのまま仰向けに、本棚の上から床へと落ちた。
床に投げ出されたカンテラの炎が、最後の自己主張を終えて。
館に、再び闇と静寂が戻った。
――頂点とは。
決して全てを想うままに出来るわけではない……むしろ頂点だからこそ、と言えようか。
ぼーっとそんな事を考えつつ、パチュリーはのそのそと暗闇に上半身を起こした。
身体の痛みは、もうない。
どれだけ経ったのか分からない。
分からないが、一日一度は訪れるレミリアの従者の匂いがないという事は、そんなにたいした時間は経っていないという事だ。
「レミィ、ごほ、大丈夫?」
好き勝手に舞い上がる埃にむせかえりながら、尋ねる。
「いやね、パチェ。下半身が消滅したんだけど」
「あそう」
ぼやける思考で、どこからか漂ってくる友達の声に相槌を打つ。
全く危機感の無い事に胸をなでおろす。
まぁ、下半身がなくなったくらいで死ぬわけじゃないし、と。
「よくない事って、あの人間達の事でしょ? いつも紅茶と本を掻っ攫ってく」
――我ながら全く不服な事だ。
パチュリーとしては、人間に後れを取ってる、と考えた事はないにしろ。
思いあたる節なんていくらでもあったが。
「あら、分かってるじゃないの。流石私の友達」
けらけら、嗤う声が甲高く響く。
「――落ち着いた?」
「――痛み分けだけどね」
「それで、どうするの?」
「吹っ切れたみたい。……ありがとう」
「……私は……やるからには、やれるだけの事をしようとしただけ」
ふふん、とパチュリーは鼻を鳴らす。こんなところで礼を貰うとは思いつかなかったから。
「やっぱり好きなように、好きなようにするわ」
悪魔は、レミリア・スカーレットは、さも当然のように、結論を告げた。
これでいいのだろう。これで。
抑揚のない声に、不安は覚えない。
なぜなら、今までにこういう事はそれなりにあったから。
それに今するべき事は、この図書館の被害に頭を抱える事だから。
“好きなようにする”この言葉が生み出す結末は、知を統べる魔女にも、運命を手繰る悪魔にも見えない未来だから。
どれもこれも、結局は無意味な事。
――だから。
「そう」
溜息だけで、事は足りる。
紛らわしくてごめん('A`)
あとは感想を。レミ様が劣等感にさいなやまされる話は実にめずらしかったです。冒頭部の葛藤が王者たる苦悩を表しててちょっぴり怖かったです。
とはいえ面白かったですよ。
自分の作品に点数付けるのも撤回としてどうかと思うが、レス消しても戒めにならないのでこうします。
自分の作品を卑下している訳ではないです、決して。
読者様方、管理者様双方に申し訳無い。
てか本当に無意味なことってそうそうないと思うんですよ、といろいろ考えてしまったり。
話は面白かったです。レミリアの苦悩とか。
いつも余裕を感じさせるレミリアって実は…?
真面目な話、紅魔郷~妖々夢の間にこんなことが一度や二度あったかもしれませんね。
パチェが最終的には、あたかも「それ」を狙っていたかのような伏線描写などを入れるなどしても良かったのではないでしょうか?
でも…内容的には凄く面白かったです。こういう吸血鬼吸血鬼してるレミリアは大好きです。