そのひとが訪ねてくるのは、毎年花水木の香りの満ちる頃だった。
「ごきげんよう、あおい」
そう言って私に近づくのは、日傘を差した匂い立つような貴婦人。艶然とした微笑みの前では、きっと、どんな花でも恥じらうだろう。
彼女の色気にくらくらとしながら、それでもわたしは、にっこりと笑顔を浮かべた。
「いらっしゃい、幽香さん」
風見幽香。誰もが恐れる大妖怪は、わたしにとっては初夏を告げる客人であり、大好きなお得意さんであった。
『いつか、太陽の花を咲かせよう』
「どうぞ、中へ」
店先に『声をかけて下さい』の看板を引っかけて、わたしは幽香さんを家のなかへと招き入れる。
「お邪魔するわ」
うちの家は、やたらと窓が多い。最初に家業の花屋を立ち上げたひい祖父ちゃんが、そういう風に大工へ注文したのだ。家をくるりと囲むように植えられている季節の花々を、どの部屋からでも見えるように、ということらしい。
そんな想いで据え付けられた格子窓を横に見ながら、縁側を進んでいく。ちょうど、四角形の辺に沿って移動するような感じだ。二つの角を曲がり、玄関から見て一番奥にあたる部屋の前で、わたしは立ち止まった。
「おばあちゃん、幽香さんが来たよ」
声をかけて、わたしは障子を音もなく滑らせる。
部屋の中ではおばあちゃんが、いつもの通り安楽椅子に腰かけていた。
「うん、わかってますよ」
おばあちゃんはそう言って、穏やかに微笑んだ。
まっ白になった髪はくるりと後ろでまとめている。かつて日焼けで真っ黒だった肌は、白く透き通るほど。顔に刻まれた皺も、過去だけが持つ儚い優美さを強調するのみだ。
おばあちゃんはきれいだ。多分それは、散り際の美しさなのだろう。一日中疲れを知らないように働き通しだった手も足も、今ではすっかり萎えてしまった。
「八重、調子はいかが?」
すっ、と幽香さんがおばあちゃんに近づき、屈み込んだ。両手でおばあちゃんを抱きしめ、両の頬に軽いキス。おばあちゃんも弱々しいながらも、躊躇いなく同じ仕草を返していた。
貴族のお茶会にでも迷い込んでしまったような、なんとなくこそばゆい気持ちだ。
「この年齢になると、良いって日はないねえ。きついか、まあましか。それぐらいねえ」
「今日はどうなの?」
「あなたが来てくれたから、とってもいい日よ。幽香さん」
おばあちゃんは、ころころと笑った。
「来た甲斐があったわ」
幽香さんはそう言って、優美に笑う。わたしが出してきた椅子に座るだけでも、気品と優雅さが感じられた。変哲もないただの椅子なのに、幽香さんが座るとなんだかおしゃれに見えてしまう。座ってからちらりと、ありがとう、とわたしに微笑み。わたしは首をぶんぶん振りながらうつむいた。ずるいよ、こんなの。たぶん今、わたしの顔は真っ赤になっているだろう。
おばあちゃんと幽香さんはとりとめもなくお喋りを始めた。天気のこと。体調のこと。昔のこと。色々だ。
なにより盛り上がる話題は、やはり花に関することだ。わたしはおばあちゃんの部屋の障子を全開にした。
おばあちゃんの部屋からは、春の庭がよく見える。花水木、菫、躑躅、春紫苑。木蓮の花は甘い香りを四方に散らし、桜草はまるで絨毯のようだ。
百花繚乱、咲き乱れる花々。それでも一等目を引くのは、やっぱり桜だ。染井吉野はもう散ってしまったけれど、八重桜はこんもりと墨染の花弁を振りまいている。
八重桜はおばあちゃんが大好きな花だ。自分の部屋をもらう時、迷うことなく八重桜が一番よく見えるこの部屋を選んだそうだ。そのことを尋ねると、私と同じ名前だからね、と少し照れくさそうに教えてくれたのだった。
「ああ、そうそう。あおい、種を持ってきてちょうだい」
ぼーっと物思いしていた私に向かっておばあちゃんが言う。
「あ、うん」
私は頷いてからぴょんと立ち上がり、とたとたと部屋から飛び出た。格子窓を開け、突っかけに足を入れて離れの倉庫へ。
小さめの麻袋を二つ掴むと、わたしは部屋へと逆戻り。ふたりが雑談している間に入り、幽香さんに袋を差し出した。
「はい、幽香さん。今年もよろしくね」
麻袋の中身は、向日葵の種だ。家業の花屋を興したひい祖父ちゃんが最初にやっていた事が、『太陽の畑』での種集めだった。
今考えると中々に命知らずだと思うが、どう交渉したのか幽香さんの許可もとったらしい。その時の条件が、この袋の中身。『一輪につき、三粒。特に質がいいものを』選別して、幽香さんへ上納するのだ。花屋稼業は代を重ね、種拾いをせずともいいくらいには安定しているのだけど、この儀式をおばあちゃんもわたしも、やめることなど思いもしなかった。太陽の畑まで種を取りに行くのはわたしの役目。選定するのは、ふたりの共同作業だ。
「……確認したわ。ご苦労様、今年もよろしくね」
種を取り出して状態を調べていた幽香さんがそう言って頷いたとき、わたしは思わず止めていた息を大きく吐き出した。よかった。毎回、この一時だけはどうしても緊張してしまう。幽香さんはいい加減な仕事に対して容赦はしない。とは言っても、世間一般の印象とは違い即暴力、という事態はよっぽどでない限り起こさない。ただ無言で、こちらを見つめるのだ。期待はずれね、と言わんばかりの冷ややかな視線は、なによりも見つめられる側の心を芯から凍りつける。
「……やれやれ、肩の荷が下りた気がするよ」
おばあちゃんもそう言って笑った。きっと、わたしと同じような思いを味わっていたのだろう。わたしは手を伸ばして、おばあちゃんの小さく皺だらけになった手と掌を軽く合わせた。ふたりだけの、ちょっとしたハイタッチ。
「やったね、おばあちゃん」
「ええ、でもさすがに疲れるねえ」
「そりゃそうだ。少しは楽に生きなよ、ばあさん」
え。
と、わたしの唇が不意の事態に動揺する。
知らない声。わたしは窓の方を向く。知らないひとが、縁側から家の中に入ってきていた。
きれいな女のひとだ。背が高い。二つ結びにした赤髪が、風にゆらゆらと流されている。なんだか大雑把そうなひとだなあ、と頭の中で呑気なわたしが呟いた。着物をいい加減に着流して、全体的にだらしがない。とてもきれいなのに、もったいなあ、とわたしは思った。ぴしっとすれば、きっと幽香さんにも劣らない美人なのだろうに。
それでも、幻想郷のことわざに曰く、「美少女ほど気を使え、出来る事なら関わるなかれ」。彼女は恐るべきひとなのだ。片手で軽々と扱っている得物、背丈ほどある大鎌が、彼女の身分を間違えようのないほどに明らかにしていた。
すなわち、死神だ。
「あなた」
ぞわり、と寒気が全身を走る。わたしはぺたんとしりもちをついた。
体が勝手に震えだす。これは、恐怖だ。わたしのような人間には耐えられないほどの妖気。わたしは歯を食いしばって、渦巻く妖気の中心に目を向ける。
史紀にも記された大妖怪、風見幽香は、わたしの予想とは違い、普段通りの穏やかな表情のままだった。
「招かれざる客、かしら?」
いつも通りの笑顔。それだけに、放たれる圧力には鬼気迫るものがあった。
正直、こわい。あらゆるものをまき散らしながら逃げ出したい。
それでも、それは出来なかった。だって、幽香さんがこんなに怒ってるのは、他ならぬわたしたちの為なんだから。
「ありゃまあ、きつい冗談だねえ」
けらけらと、場違いなほど呑気に死神さんは笑う。
「あたしゃ、仕事で来たんだよ。たまにゃ真面目に仕事しないとねえ」
その言葉を聞いた瞬間、ぴたりと妖気はおさまった。
「……そう」
わたしは幽香さんを見つめた。微笑んでいる。けれどその微笑みは、うまく言えないけれど、笑っていない気がした。胸の中で何かがざわざわとうごめく気配。ぼんやりとしか覚えてないが、わたしはあの微笑みを見たことがあるのだ。
「ねえ、ばあさん」
どっかりと畳の上に胡坐をかき、死神はすっかりくつろぐ体勢だ。
「どうも、死神さん」
おばあちゃんが、何でもないように挨拶をする。
「約束のお酒、そこに置いてあるよ」
「おっ、いいねえ。そんじゃ、乾杯しようか」
死神は部屋の隅に置いてあった酒瓶を掴むと、その隣に用意してあった硝子碗に手早く注いでいった。
「ほい、ばあさん。あんたらも」
何がなんだかわからないうちに、わたしの手のなかにも硝子碗。酒精がつんと、鼻に当たった。
わたしは多分、混乱していたのだろう。酒精が関係していたのかもしれない。元来わたしは下戸なのだ。
とにかくわたしは、衝動のままに死神へと詰め寄った。
「ねえ、死神さん」
「小町でいいさ」
「小町さん、わたしわからないの。あなた、何のご用ですか」
わたしの問いかけに、それまでの底抜けに明るい表情が不意に消え去った。捧げるように持っていた硝子碗を床に置き、代わりに腰に吊るしていた瓢箪の中身を呷る。
地の底から響くような、小さく低い声が、小町さんの口から絞り出された。
「お嬢ちゃん、あんた、本当にわからないかい?」
ううん、多分わかってる。でも、そんなのわかりたくない。わたしは一縷の望みを抱き、おばあちゃんの方を振り返った。
おばあちゃんは、黙って、にこやかに、ゆっくりと、呟いた。
すまないねえ。
ああ、そっか。わたしはようやく、受け入れようとしている自分を見つけ出した。
もう、おわかれなのだ。
「ばあさん、無茶するねえ。あんた、本来なら寿命なんざ尽き果ててるってのに」
小町さんが、もとの剽軽さで軽口をたたく。なんでも、おばあちゃんは本来なら半年前に寿命が尽きているのだそうだ。
「本当なら、寿命が尽きたら問答無用で引っ張っていっちまうんだがね。たまにいるんさ、意志だけで生き続けちまうような胆の太い御仁がね」
小町さんはそう言って、ぐいと硝子碗の中身を空けた。すぐに手酌で碗に注いでいく。
一升瓶はすでに、半分ほど飲まれてしまっている。
「苦しいだろう、ばあさん。寿命が尽きても生きるってのは。焦熱地獄のとろ火で炙られ続けているようなもんだよ」
「苦しくなんかないよ」
おばあちゃんは、平然と笑った。本当だろうか。本当は、痛かったのだろうか。苦しかったのだろうか。少なくともわたしには、そんな素振りを露ほども見せなかった。
「こうして、顔を見れたんだ。苦しみなんざ一つもない」
おばあちゃんは手を伸ばす。皺だらけの手を、幽香さんが両手でそっと包み込む。白磁のようなきれいな手だ。幽香さんの口角が緩む。また、あの微笑みだ。
「あおい」
おばあちゃんがこっちを向いた。その時、不意に気がついた。そうだ、あの微笑み。あれは、わたしだ。かつてのわたしが浮かべたものだ。父と母の葬儀の日。冷たい雨が降る日だった。
「苦労を掛けたねえ。これからは、あんたの思うように生きな」
流行り病だった。ふたり以外に身寄りもなく、なにより幼かったわたしには、何をする事も出来なかった。組内のひと達が整えてくれた家の中で、わたしはひとりぼっちの通夜を過ごした。寂しかった。辛かった。苦しかった。恐かった。生きるのに必要な物なにひとつ、わたしには見つける事が出来なかったのだ。わたしに出来たのはただ、心を守るために笑うことだけ。泣けなかった。一粒でも涙を流せば、きっと、わたしの心は粉々に砕けていただろう。魔除けの包丁に、何度も何度も手を伸ばし、引っ込め、伸ばし、引っ込めを繰り返して、無限に思えた夜が明けた時、やってきたのがおばあちゃんだ。
養子縁組の申し出だった。
「あんたの父さんと母さんに、あの世とかで出会ったら、言っといてあげるよ。なんでこんな可愛い子を置いていったの、ってね」
いいかい、あおい。あなたは向日葵になりなさい。辛くても、苦しくても、太陽の方を向いている向日葵に。
いつかの夏の、おばあちゃんの言葉を思い出す。
あれからわたしは、ちゃんと前に進めているのかな。
「出来れば、でいいんだけど」
おばあちゃんが、少し躊躇ってから話しはじめた。わたしは全身を耳にして、一言一句逃さない覚悟だった。これは、遺言なのだ。
「この家を、この庭を継いでほしいのよ。おじいさんの代から、丹精込めてきたからねえ」
おばあちゃんの言葉が耳から胸の奥へと沈み、全身へいきわたる。そうやって理解したとき、わたしは心の中で呟いた。なんだ。なんだ、そんなこと。
「おばあちゃん、当たり前じゃない」
わたしは思わず笑っていた。でも、これは前とは違う。心を覆い隠すためでなく、ありのままであるために、わたしは笑っていた。
「わたし、おばあちゃんのひとりっ子だよ。ちんちくりんで、何も出来ない、だめな子だったかもしれないけど。わたし、おばあちゃんの家族だよ」
もうとまらない。とめなくていいんだ。ぼろぼろと涙をこぼしながら、それでもわたしは笑っていた。泣けることが嬉しかった。
涙で顔をぐしゃぐしゃにしたわたしの頭を、幽香さんが優しく撫でてくれる。温かく、大きな手だった。
「幽香さんには、お世話になりました」
「何もしてないわよ、私は」
「こうして、会いに来てくれましたよ。悲しい時も、嬉しい時も、いつでも貴女は側にいてくれた」
おばあちゃんは、そう言って笑った。
「生まれてから死ぬまで、誰かに見守られている。それは、幸せなことなのですよ。貴女にはもしかすると、理解できかねるのかもしれませんが」
「穂高に杏、実、藤吾、桐也、菊江……」
幽香さんが呟く名前の羅列は、わたしにも聞き覚えのあるものだった。おばあちゃんの親戚たち。今は皆亡くなった、ひい祖父さんからはじまる一家のひとりひとりを、幽香さんは覚えている。
「八重。あなたも、逝くのね」
「名残惜しいですけど。これからは、あおいを頼みます」
幽香さんはくすりと笑う。わたしの肩をぽんと叩き、頷いた。
おばあちゃんは安心したように力を抜いて、ゆっくりと窓の外の方に向き直った。
「見て下さい、幽香さん。この庭の花々を。きれいねえ」
そう言って、おばあちゃんはゆっくりと目を閉じた。
「……おやすみ、八重。ええ、本当に、きれいね」
幽香さんはそう答えて、別れのキスをする。その眼から一筋だけ、光るものが滑り落ちた。
季節は巡る。
今年もまた、花水木の花が香る頃合いだ。
「元気そうね」
声をかけられ、私は草をむしる手を止めて顔を上げた。
「お陰様で、幽香さん」
「ええ、あなたもね」
幽香さんは優雅に笑って、傘の先で指示した。八重桜だ。満開に咲き誇っている。
あの桜の下には、おばあちゃんが眠っている。この庭には、そういう死体が咲かせる花というのが何本か存在するのだ。杏に菊、桐に藤。死体の上に植えられた花は、どれも毎年大輪を咲かせてくれる。きっと、いつも見守ってくれていた、誰かさんの為に咲かせているのだろう。季節の折に咲く花々が、とても好きなひとだから。
「ねえ、幽香さん。お願いをしてもいいですか」
わたしは、ふと思いついたことを口に出してみた。それは去年のあの日以来、わたしの胸の中でゆっくりと形作られてきたものだ。どう死ぬか、というのはきっと、どう生きるか、に繋がっているはずだから。
だから、わたしは口にした。
「いつか、私が死んだなら」
向日葵みたいになりなさい。辛くても、苦しくても、太陽の方を向いている向日葵に。
その言葉は、きっと、いつまでも忘れない。
「ごきげんよう、あおい」
そう言って私に近づくのは、日傘を差した匂い立つような貴婦人。艶然とした微笑みの前では、きっと、どんな花でも恥じらうだろう。
彼女の色気にくらくらとしながら、それでもわたしは、にっこりと笑顔を浮かべた。
「いらっしゃい、幽香さん」
風見幽香。誰もが恐れる大妖怪は、わたしにとっては初夏を告げる客人であり、大好きなお得意さんであった。
『いつか、太陽の花を咲かせよう』
「どうぞ、中へ」
店先に『声をかけて下さい』の看板を引っかけて、わたしは幽香さんを家のなかへと招き入れる。
「お邪魔するわ」
うちの家は、やたらと窓が多い。最初に家業の花屋を立ち上げたひい祖父ちゃんが、そういう風に大工へ注文したのだ。家をくるりと囲むように植えられている季節の花々を、どの部屋からでも見えるように、ということらしい。
そんな想いで据え付けられた格子窓を横に見ながら、縁側を進んでいく。ちょうど、四角形の辺に沿って移動するような感じだ。二つの角を曲がり、玄関から見て一番奥にあたる部屋の前で、わたしは立ち止まった。
「おばあちゃん、幽香さんが来たよ」
声をかけて、わたしは障子を音もなく滑らせる。
部屋の中ではおばあちゃんが、いつもの通り安楽椅子に腰かけていた。
「うん、わかってますよ」
おばあちゃんはそう言って、穏やかに微笑んだ。
まっ白になった髪はくるりと後ろでまとめている。かつて日焼けで真っ黒だった肌は、白く透き通るほど。顔に刻まれた皺も、過去だけが持つ儚い優美さを強調するのみだ。
おばあちゃんはきれいだ。多分それは、散り際の美しさなのだろう。一日中疲れを知らないように働き通しだった手も足も、今ではすっかり萎えてしまった。
「八重、調子はいかが?」
すっ、と幽香さんがおばあちゃんに近づき、屈み込んだ。両手でおばあちゃんを抱きしめ、両の頬に軽いキス。おばあちゃんも弱々しいながらも、躊躇いなく同じ仕草を返していた。
貴族のお茶会にでも迷い込んでしまったような、なんとなくこそばゆい気持ちだ。
「この年齢になると、良いって日はないねえ。きついか、まあましか。それぐらいねえ」
「今日はどうなの?」
「あなたが来てくれたから、とってもいい日よ。幽香さん」
おばあちゃんは、ころころと笑った。
「来た甲斐があったわ」
幽香さんはそう言って、優美に笑う。わたしが出してきた椅子に座るだけでも、気品と優雅さが感じられた。変哲もないただの椅子なのに、幽香さんが座るとなんだかおしゃれに見えてしまう。座ってからちらりと、ありがとう、とわたしに微笑み。わたしは首をぶんぶん振りながらうつむいた。ずるいよ、こんなの。たぶん今、わたしの顔は真っ赤になっているだろう。
おばあちゃんと幽香さんはとりとめもなくお喋りを始めた。天気のこと。体調のこと。昔のこと。色々だ。
なにより盛り上がる話題は、やはり花に関することだ。わたしはおばあちゃんの部屋の障子を全開にした。
おばあちゃんの部屋からは、春の庭がよく見える。花水木、菫、躑躅、春紫苑。木蓮の花は甘い香りを四方に散らし、桜草はまるで絨毯のようだ。
百花繚乱、咲き乱れる花々。それでも一等目を引くのは、やっぱり桜だ。染井吉野はもう散ってしまったけれど、八重桜はこんもりと墨染の花弁を振りまいている。
八重桜はおばあちゃんが大好きな花だ。自分の部屋をもらう時、迷うことなく八重桜が一番よく見えるこの部屋を選んだそうだ。そのことを尋ねると、私と同じ名前だからね、と少し照れくさそうに教えてくれたのだった。
「ああ、そうそう。あおい、種を持ってきてちょうだい」
ぼーっと物思いしていた私に向かっておばあちゃんが言う。
「あ、うん」
私は頷いてからぴょんと立ち上がり、とたとたと部屋から飛び出た。格子窓を開け、突っかけに足を入れて離れの倉庫へ。
小さめの麻袋を二つ掴むと、わたしは部屋へと逆戻り。ふたりが雑談している間に入り、幽香さんに袋を差し出した。
「はい、幽香さん。今年もよろしくね」
麻袋の中身は、向日葵の種だ。家業の花屋を興したひい祖父ちゃんが最初にやっていた事が、『太陽の畑』での種集めだった。
今考えると中々に命知らずだと思うが、どう交渉したのか幽香さんの許可もとったらしい。その時の条件が、この袋の中身。『一輪につき、三粒。特に質がいいものを』選別して、幽香さんへ上納するのだ。花屋稼業は代を重ね、種拾いをせずともいいくらいには安定しているのだけど、この儀式をおばあちゃんもわたしも、やめることなど思いもしなかった。太陽の畑まで種を取りに行くのはわたしの役目。選定するのは、ふたりの共同作業だ。
「……確認したわ。ご苦労様、今年もよろしくね」
種を取り出して状態を調べていた幽香さんがそう言って頷いたとき、わたしは思わず止めていた息を大きく吐き出した。よかった。毎回、この一時だけはどうしても緊張してしまう。幽香さんはいい加減な仕事に対して容赦はしない。とは言っても、世間一般の印象とは違い即暴力、という事態はよっぽどでない限り起こさない。ただ無言で、こちらを見つめるのだ。期待はずれね、と言わんばかりの冷ややかな視線は、なによりも見つめられる側の心を芯から凍りつける。
「……やれやれ、肩の荷が下りた気がするよ」
おばあちゃんもそう言って笑った。きっと、わたしと同じような思いを味わっていたのだろう。わたしは手を伸ばして、おばあちゃんの小さく皺だらけになった手と掌を軽く合わせた。ふたりだけの、ちょっとしたハイタッチ。
「やったね、おばあちゃん」
「ええ、でもさすがに疲れるねえ」
「そりゃそうだ。少しは楽に生きなよ、ばあさん」
え。
と、わたしの唇が不意の事態に動揺する。
知らない声。わたしは窓の方を向く。知らないひとが、縁側から家の中に入ってきていた。
きれいな女のひとだ。背が高い。二つ結びにした赤髪が、風にゆらゆらと流されている。なんだか大雑把そうなひとだなあ、と頭の中で呑気なわたしが呟いた。着物をいい加減に着流して、全体的にだらしがない。とてもきれいなのに、もったいなあ、とわたしは思った。ぴしっとすれば、きっと幽香さんにも劣らない美人なのだろうに。
それでも、幻想郷のことわざに曰く、「美少女ほど気を使え、出来る事なら関わるなかれ」。彼女は恐るべきひとなのだ。片手で軽々と扱っている得物、背丈ほどある大鎌が、彼女の身分を間違えようのないほどに明らかにしていた。
すなわち、死神だ。
「あなた」
ぞわり、と寒気が全身を走る。わたしはぺたんとしりもちをついた。
体が勝手に震えだす。これは、恐怖だ。わたしのような人間には耐えられないほどの妖気。わたしは歯を食いしばって、渦巻く妖気の中心に目を向ける。
史紀にも記された大妖怪、風見幽香は、わたしの予想とは違い、普段通りの穏やかな表情のままだった。
「招かれざる客、かしら?」
いつも通りの笑顔。それだけに、放たれる圧力には鬼気迫るものがあった。
正直、こわい。あらゆるものをまき散らしながら逃げ出したい。
それでも、それは出来なかった。だって、幽香さんがこんなに怒ってるのは、他ならぬわたしたちの為なんだから。
「ありゃまあ、きつい冗談だねえ」
けらけらと、場違いなほど呑気に死神さんは笑う。
「あたしゃ、仕事で来たんだよ。たまにゃ真面目に仕事しないとねえ」
その言葉を聞いた瞬間、ぴたりと妖気はおさまった。
「……そう」
わたしは幽香さんを見つめた。微笑んでいる。けれどその微笑みは、うまく言えないけれど、笑っていない気がした。胸の中で何かがざわざわとうごめく気配。ぼんやりとしか覚えてないが、わたしはあの微笑みを見たことがあるのだ。
「ねえ、ばあさん」
どっかりと畳の上に胡坐をかき、死神はすっかりくつろぐ体勢だ。
「どうも、死神さん」
おばあちゃんが、何でもないように挨拶をする。
「約束のお酒、そこに置いてあるよ」
「おっ、いいねえ。そんじゃ、乾杯しようか」
死神は部屋の隅に置いてあった酒瓶を掴むと、その隣に用意してあった硝子碗に手早く注いでいった。
「ほい、ばあさん。あんたらも」
何がなんだかわからないうちに、わたしの手のなかにも硝子碗。酒精がつんと、鼻に当たった。
わたしは多分、混乱していたのだろう。酒精が関係していたのかもしれない。元来わたしは下戸なのだ。
とにかくわたしは、衝動のままに死神へと詰め寄った。
「ねえ、死神さん」
「小町でいいさ」
「小町さん、わたしわからないの。あなた、何のご用ですか」
わたしの問いかけに、それまでの底抜けに明るい表情が不意に消え去った。捧げるように持っていた硝子碗を床に置き、代わりに腰に吊るしていた瓢箪の中身を呷る。
地の底から響くような、小さく低い声が、小町さんの口から絞り出された。
「お嬢ちゃん、あんた、本当にわからないかい?」
ううん、多分わかってる。でも、そんなのわかりたくない。わたしは一縷の望みを抱き、おばあちゃんの方を振り返った。
おばあちゃんは、黙って、にこやかに、ゆっくりと、呟いた。
すまないねえ。
ああ、そっか。わたしはようやく、受け入れようとしている自分を見つけ出した。
もう、おわかれなのだ。
「ばあさん、無茶するねえ。あんた、本来なら寿命なんざ尽き果ててるってのに」
小町さんが、もとの剽軽さで軽口をたたく。なんでも、おばあちゃんは本来なら半年前に寿命が尽きているのだそうだ。
「本当なら、寿命が尽きたら問答無用で引っ張っていっちまうんだがね。たまにいるんさ、意志だけで生き続けちまうような胆の太い御仁がね」
小町さんはそう言って、ぐいと硝子碗の中身を空けた。すぐに手酌で碗に注いでいく。
一升瓶はすでに、半分ほど飲まれてしまっている。
「苦しいだろう、ばあさん。寿命が尽きても生きるってのは。焦熱地獄のとろ火で炙られ続けているようなもんだよ」
「苦しくなんかないよ」
おばあちゃんは、平然と笑った。本当だろうか。本当は、痛かったのだろうか。苦しかったのだろうか。少なくともわたしには、そんな素振りを露ほども見せなかった。
「こうして、顔を見れたんだ。苦しみなんざ一つもない」
おばあちゃんは手を伸ばす。皺だらけの手を、幽香さんが両手でそっと包み込む。白磁のようなきれいな手だ。幽香さんの口角が緩む。また、あの微笑みだ。
「あおい」
おばあちゃんがこっちを向いた。その時、不意に気がついた。そうだ、あの微笑み。あれは、わたしだ。かつてのわたしが浮かべたものだ。父と母の葬儀の日。冷たい雨が降る日だった。
「苦労を掛けたねえ。これからは、あんたの思うように生きな」
流行り病だった。ふたり以外に身寄りもなく、なにより幼かったわたしには、何をする事も出来なかった。組内のひと達が整えてくれた家の中で、わたしはひとりぼっちの通夜を過ごした。寂しかった。辛かった。苦しかった。恐かった。生きるのに必要な物なにひとつ、わたしには見つける事が出来なかったのだ。わたしに出来たのはただ、心を守るために笑うことだけ。泣けなかった。一粒でも涙を流せば、きっと、わたしの心は粉々に砕けていただろう。魔除けの包丁に、何度も何度も手を伸ばし、引っ込め、伸ばし、引っ込めを繰り返して、無限に思えた夜が明けた時、やってきたのがおばあちゃんだ。
養子縁組の申し出だった。
「あんたの父さんと母さんに、あの世とかで出会ったら、言っといてあげるよ。なんでこんな可愛い子を置いていったの、ってね」
いいかい、あおい。あなたは向日葵になりなさい。辛くても、苦しくても、太陽の方を向いている向日葵に。
いつかの夏の、おばあちゃんの言葉を思い出す。
あれからわたしは、ちゃんと前に進めているのかな。
「出来れば、でいいんだけど」
おばあちゃんが、少し躊躇ってから話しはじめた。わたしは全身を耳にして、一言一句逃さない覚悟だった。これは、遺言なのだ。
「この家を、この庭を継いでほしいのよ。おじいさんの代から、丹精込めてきたからねえ」
おばあちゃんの言葉が耳から胸の奥へと沈み、全身へいきわたる。そうやって理解したとき、わたしは心の中で呟いた。なんだ。なんだ、そんなこと。
「おばあちゃん、当たり前じゃない」
わたしは思わず笑っていた。でも、これは前とは違う。心を覆い隠すためでなく、ありのままであるために、わたしは笑っていた。
「わたし、おばあちゃんのひとりっ子だよ。ちんちくりんで、何も出来ない、だめな子だったかもしれないけど。わたし、おばあちゃんの家族だよ」
もうとまらない。とめなくていいんだ。ぼろぼろと涙をこぼしながら、それでもわたしは笑っていた。泣けることが嬉しかった。
涙で顔をぐしゃぐしゃにしたわたしの頭を、幽香さんが優しく撫でてくれる。温かく、大きな手だった。
「幽香さんには、お世話になりました」
「何もしてないわよ、私は」
「こうして、会いに来てくれましたよ。悲しい時も、嬉しい時も、いつでも貴女は側にいてくれた」
おばあちゃんは、そう言って笑った。
「生まれてから死ぬまで、誰かに見守られている。それは、幸せなことなのですよ。貴女にはもしかすると、理解できかねるのかもしれませんが」
「穂高に杏、実、藤吾、桐也、菊江……」
幽香さんが呟く名前の羅列は、わたしにも聞き覚えのあるものだった。おばあちゃんの親戚たち。今は皆亡くなった、ひい祖父さんからはじまる一家のひとりひとりを、幽香さんは覚えている。
「八重。あなたも、逝くのね」
「名残惜しいですけど。これからは、あおいを頼みます」
幽香さんはくすりと笑う。わたしの肩をぽんと叩き、頷いた。
おばあちゃんは安心したように力を抜いて、ゆっくりと窓の外の方に向き直った。
「見て下さい、幽香さん。この庭の花々を。きれいねえ」
そう言って、おばあちゃんはゆっくりと目を閉じた。
「……おやすみ、八重。ええ、本当に、きれいね」
幽香さんはそう答えて、別れのキスをする。その眼から一筋だけ、光るものが滑り落ちた。
季節は巡る。
今年もまた、花水木の花が香る頃合いだ。
「元気そうね」
声をかけられ、私は草をむしる手を止めて顔を上げた。
「お陰様で、幽香さん」
「ええ、あなたもね」
幽香さんは優雅に笑って、傘の先で指示した。八重桜だ。満開に咲き誇っている。
あの桜の下には、おばあちゃんが眠っている。この庭には、そういう死体が咲かせる花というのが何本か存在するのだ。杏に菊、桐に藤。死体の上に植えられた花は、どれも毎年大輪を咲かせてくれる。きっと、いつも見守ってくれていた、誰かさんの為に咲かせているのだろう。季節の折に咲く花々が、とても好きなひとだから。
「ねえ、幽香さん。お願いをしてもいいですか」
わたしは、ふと思いついたことを口に出してみた。それは去年のあの日以来、わたしの胸の中でゆっくりと形作られてきたものだ。どう死ぬか、というのはきっと、どう生きるか、に繋がっているはずだから。
だから、わたしは口にした。
「いつか、私が死んだなら」
向日葵みたいになりなさい。辛くても、苦しくても、太陽の方を向いている向日葵に。
その言葉は、きっと、いつまでも忘れない。
あおいちゃんは「花屋の娘」なのかな、なんて考えてました
綺麗なお話で良かったです
世代を超えて続く営みが幽香の目にはどう映っているのかが気になりました
一瞬、なんのこっちゃと思いました
良い作品でした