海を見たことはあるか。
唐突に訊ねられ、椛は少しだけ眉根を寄せた。
「海、ですか」
「おう」
将棋盤を挟んで座る白狼天狗が、ごろごろと笑った。
「見たことはありますが」
「そうなのか、ええのう。儂は幻想郷生まれだからのう。海を見たことがないんじゃ」
しみじみと呟く白狼の事を、椛はほとんど見てはいなかった。海。なんとも懐かしい響きだ。
幻想郷へ来る以前は、海がすぐ近くに迫っている山が椛の住処だった。風に乗って磯の香りがするような場所が、椛の故郷である。
「それで、何故海の話に?」
「おう、それがな」
白狼がぱんと手を打つと、懐から白い貝殻を取り出し、椛に差し出した。
「こんな物を拾ってのう。値打ち品では、と勇んで河童へ持って行ったら、唯の貝殻だと馬鹿にされてな。腹が立ったんで怒鳴ってやったわ」
「なんと?」
「『痩せっぽちの川魚が、大海のなんたるを語るとは笑止千万!』とな」
「……はあ」
「しかし、啖呵を切ったはいいが儂もこの貝が何だかわからぬ。犬走、お主、わかるか?」
椛は手を伸ばし、白狼から貝殻を受け取った。白っぽい縦巻きの貝だ。殻にはぐるりと棘が付き、ごつごつとした手触りを強調している。
「これは、さざえですね」
椛はすぐに断定した。中身のないのが残念だ。この時期、確かさざえは旬のはずだから。
「この穴を耳に近づけると、海鳴りが聞こえるんですよ」
「ほう。どれどれ」
椛はぽっかりと空いた穴を示しながら、貝を白狼へと返した。白狼は面白がって貝を耳に当てる。が、五秒、十秒と経つにつれ表情が曇っていく。
最後は口をへの字に曲げながら、椛に貝を押し付けた。
「……何も聞こえんが」
椛は黙って貝を耳につけた。目をつぶり、息をひそめて耳に意識を振り向けた。
聞こえる。微かに、海鳴りが聞こえた。
椛がそう思った時、不意に海鳴りが大きくなった。
ざざああん、ざざああん、ざざああん。
もう意識せずとも、海鳴りは耳に張り付いて離れない。
椛はぱちりと目を開くと、胡乱げに見つめてくる白狼に対してにこりと微笑んだ。
「これ、私が貰ってもいいですか?」
「そりゃ、別にかまわんが……」
「代わりに、河童には私からとりなしておきますよ」
やや不満気な表情の白狼。だが椛が重ねてそう言うと、にかり、と白狼が笑った。
「おお、そりゃ助かる」
要するに、河童の前で見得を切ってしまった手前、引くに引けなくなっていたのだろう。恥の上塗りをせずに済むとわかると、途端に上機嫌になった。
「さ、打とう打とう。今日こそは儂が勝つぞ」
じゃらじゃらと駒を並べ始めた白狼を見て淡く微笑み、椛は将棋盤の前に座り直した。
海鳴りは絶えることなく続いていた。
その夜。
椛は不寝番だった。
山の境界線近くで、椛はひとり警戒をおこなう。
といっても、がちがちに緊張しきっている訳ではなく、むしろゆったりとリラックスしきっているようにも見える。見張り用の大岩の上に座り込み、ちびちびと猪口に注がれた酒をなめていた。
「…………」
椛は何気なく懐から件の貝殻を取り出し、耳に当てた。
ざざああん、ざざああん、と、貝の奥より波の音が聞こえる。
つうん、と磯の香りも漂ってきた。
椛は目を閉じ、波の音に全てを委ねた。
ざざああん、ざざああん、ざざああん。
潮騒の間に、懐かしい声が聞こえた気がする。
椛は、ゆっくりと瞼を開けた。
そこは、椛の故郷だった。
椛は松の木に体を預けていた。ふかふかとした腐葉土が地面を覆い、椛を優しく受けとめる。眼前に広がる青い海。すぐ近くをかもめが飛んでいく。
土の匂い。肌をそよぐ風の心地。柔らかな日の光。椛はとても満ち足りていた。
出し抜けに、山全体に声が響いた。遠吠えだ。聞くだけで身体の芯を震わせる、力のこもった声。
この山の主、椛の母である大神だ。母の声に続いて、きょうだいのこえがあちこちであがる。狼たちの合唱は波音に合わせて高くなり、低くなり、複雑な旋律を奏でていく。椛も続こうと、大きく口を開け、
「やめなさい」
椛は目を開けた。幻は消え去り、ほの薄い暗闇が椛を包んでいる。静かな夜だ。この時期は騒がしくてかなわない虫や蛙も、今夜はとてもおとなしい。
椛の目の前には、良く見知った烏天狗が立っていた。
「文、」
それ以上何も言わず、椛はじっと文を見つめる。耳に当てていた手は、だらりと下りた。
貝殻は、その手の中に握られている。
「腐れ縁ではありますが、旧友が身を滅ぼすのを見過ごすほど趣味は悪くはないので」
軽く首を振った後、文は椛の視線に真正面から向き合った。
「椛。やめなさい。言わずもがなでしょうが、私たちの故郷は、もう」
「わかっています」
寂しげに、椛は微笑む。そして、貝殻を岩に投げ落とした。ぱきり、と低い音がして、さざえの貝殻は大きな破片に割れ転がる。
「所詮は蜃気楼。貝の見せた幻です」
そう呟く椛。文は無言で近付くと、椛の隣に腰を下ろした。
「呑みましょう、文」
椛は猪口二つに、酒を注ぐ。
「少しだけ、酔いたい気分です」
ふたりは静かに、呑みはじめた。
波の音は聞こえない。幻想郷に、海はないのだ。
唐突に訊ねられ、椛は少しだけ眉根を寄せた。
「海、ですか」
「おう」
将棋盤を挟んで座る白狼天狗が、ごろごろと笑った。
「見たことはありますが」
「そうなのか、ええのう。儂は幻想郷生まれだからのう。海を見たことがないんじゃ」
しみじみと呟く白狼の事を、椛はほとんど見てはいなかった。海。なんとも懐かしい響きだ。
幻想郷へ来る以前は、海がすぐ近くに迫っている山が椛の住処だった。風に乗って磯の香りがするような場所が、椛の故郷である。
「それで、何故海の話に?」
「おう、それがな」
白狼がぱんと手を打つと、懐から白い貝殻を取り出し、椛に差し出した。
「こんな物を拾ってのう。値打ち品では、と勇んで河童へ持って行ったら、唯の貝殻だと馬鹿にされてな。腹が立ったんで怒鳴ってやったわ」
「なんと?」
「『痩せっぽちの川魚が、大海のなんたるを語るとは笑止千万!』とな」
「……はあ」
「しかし、啖呵を切ったはいいが儂もこの貝が何だかわからぬ。犬走、お主、わかるか?」
椛は手を伸ばし、白狼から貝殻を受け取った。白っぽい縦巻きの貝だ。殻にはぐるりと棘が付き、ごつごつとした手触りを強調している。
「これは、さざえですね」
椛はすぐに断定した。中身のないのが残念だ。この時期、確かさざえは旬のはずだから。
「この穴を耳に近づけると、海鳴りが聞こえるんですよ」
「ほう。どれどれ」
椛はぽっかりと空いた穴を示しながら、貝を白狼へと返した。白狼は面白がって貝を耳に当てる。が、五秒、十秒と経つにつれ表情が曇っていく。
最後は口をへの字に曲げながら、椛に貝を押し付けた。
「……何も聞こえんが」
椛は黙って貝を耳につけた。目をつぶり、息をひそめて耳に意識を振り向けた。
聞こえる。微かに、海鳴りが聞こえた。
椛がそう思った時、不意に海鳴りが大きくなった。
ざざああん、ざざああん、ざざああん。
もう意識せずとも、海鳴りは耳に張り付いて離れない。
椛はぱちりと目を開くと、胡乱げに見つめてくる白狼に対してにこりと微笑んだ。
「これ、私が貰ってもいいですか?」
「そりゃ、別にかまわんが……」
「代わりに、河童には私からとりなしておきますよ」
やや不満気な表情の白狼。だが椛が重ねてそう言うと、にかり、と白狼が笑った。
「おお、そりゃ助かる」
要するに、河童の前で見得を切ってしまった手前、引くに引けなくなっていたのだろう。恥の上塗りをせずに済むとわかると、途端に上機嫌になった。
「さ、打とう打とう。今日こそは儂が勝つぞ」
じゃらじゃらと駒を並べ始めた白狼を見て淡く微笑み、椛は将棋盤の前に座り直した。
海鳴りは絶えることなく続いていた。
その夜。
椛は不寝番だった。
山の境界線近くで、椛はひとり警戒をおこなう。
といっても、がちがちに緊張しきっている訳ではなく、むしろゆったりとリラックスしきっているようにも見える。見張り用の大岩の上に座り込み、ちびちびと猪口に注がれた酒をなめていた。
「…………」
椛は何気なく懐から件の貝殻を取り出し、耳に当てた。
ざざああん、ざざああん、と、貝の奥より波の音が聞こえる。
つうん、と磯の香りも漂ってきた。
椛は目を閉じ、波の音に全てを委ねた。
ざざああん、ざざああん、ざざああん。
潮騒の間に、懐かしい声が聞こえた気がする。
椛は、ゆっくりと瞼を開けた。
そこは、椛の故郷だった。
椛は松の木に体を預けていた。ふかふかとした腐葉土が地面を覆い、椛を優しく受けとめる。眼前に広がる青い海。すぐ近くをかもめが飛んでいく。
土の匂い。肌をそよぐ風の心地。柔らかな日の光。椛はとても満ち足りていた。
出し抜けに、山全体に声が響いた。遠吠えだ。聞くだけで身体の芯を震わせる、力のこもった声。
この山の主、椛の母である大神だ。母の声に続いて、きょうだいのこえがあちこちであがる。狼たちの合唱は波音に合わせて高くなり、低くなり、複雑な旋律を奏でていく。椛も続こうと、大きく口を開け、
「やめなさい」
椛は目を開けた。幻は消え去り、ほの薄い暗闇が椛を包んでいる。静かな夜だ。この時期は騒がしくてかなわない虫や蛙も、今夜はとてもおとなしい。
椛の目の前には、良く見知った烏天狗が立っていた。
「文、」
それ以上何も言わず、椛はじっと文を見つめる。耳に当てていた手は、だらりと下りた。
貝殻は、その手の中に握られている。
「腐れ縁ではありますが、旧友が身を滅ぼすのを見過ごすほど趣味は悪くはないので」
軽く首を振った後、文は椛の視線に真正面から向き合った。
「椛。やめなさい。言わずもがなでしょうが、私たちの故郷は、もう」
「わかっています」
寂しげに、椛は微笑む。そして、貝殻を岩に投げ落とした。ぱきり、と低い音がして、さざえの貝殻は大きな破片に割れ転がる。
「所詮は蜃気楼。貝の見せた幻です」
そう呟く椛。文は無言で近付くと、椛の隣に腰を下ろした。
「呑みましょう、文」
椛は猪口二つに、酒を注ぐ。
「少しだけ、酔いたい気分です」
ふたりは静かに、呑みはじめた。
波の音は聞こえない。幻想郷に、海はないのだ。
例えば前半のちょっと浅はかで見栄っ張りな白狼天狗と、上手く彼の顔を立てつつ自分の要求を通す椛の如才なさが上手い対比になっていて、椛が長く生きてきた天狗なのだなと実感できました。だからこそ貝の海鳴りに郷愁を誘われ、文が危惧するほどに過去の幻に囚われてしまう椛の様子にも説得力が増していたように思います。
その椛の郷愁を断ち切らせつつも無言で彼女に寄りそって共感を示す文からもまた、歳を重ねた者らしい厳しさと気遣いが感じられたように思います。
締めの一文に反して、寄り添って海を見つめながら波の音を聞く椛と文の背中が思い浮かびました。
少し寂しいけれども読後感の優しいお話だったと思います。
ありがとうございました。
もっと先が読みたいお話だと思いました。
貝殻をよすがに故郷を偲ぶ天狗の姿が非常に良かった、こういう作品は大好きです。
過去に思えを馳せる椛が寂しそうで良かったです