約束
隣人
二
朝日が昇り始めた頃。
春の朝は居心地がよく、この時間帯でも寒さを感じない。どこから来たか分からない風は、野原のような緑の強い匂いがした。
行き交う人並みに乗りながら、蓮子はミセの前まで着く。着いてから気づいたことだが、どうやらこのミセは辺りの人からは見えていないようだった。心底不思議に思ったのだが、店主の彼女のことを思い出して「なんでもありか」と小言が口を溢れた。
すっかり開けられるようになった扉を開け放って、蓮子がいう。
「おはようございまーす。頼まれたモノ、買ってきましたよ」
静かな屋敷内に、蓮子の声が広がって消える。返事はなかった。
仕方なく屋敷に上がり、そのまま昨日と同じ部屋に向かう。昨日散々台所と部屋を行き来したせいで、ミセの構図は、だいたい頭の中に入っていた。
目的の部屋の襖を開け、蓮子は中へと入っていく。
蓮子の視線の先には、ソファーの上でぐったりと横になってピクリとも動かない紫の姿だった。その脇でマイとサトノが心配そうに見つめている。
「これ、買ってきましたよ。朝一で空いてるお店探すの大変だったんですからね」
「ああ――うるっさいわね……近くで大声出さないでよ……弱ってる私を労ろうって気はないわけ……?」
相当参っているのか、耳を両手で塞ぎなら気怠そうな瞳で蓮子を見ていた。
まあ、昨日の晩から深夜になるまで天然物のお酒をあれだけ飲み続ければ二日酔いにならないほうが可笑しい。こっちだってそのお酒をつけたり、肴をつくったりで一晩中大変だったんだ。こっちこそ労ってほしい。
結果的に昨日から今日の朝までミセの中で過ごした蓮子は、買ってきたモノを紫に渡して座り込む。
「主様大丈夫ですか?」
「大丈夫。サトノはコップに水、持ってきて」
「はい」
「マイはこれ、開けてちょうだい」
「はーい」
薄紅のワンピースを着ている方、サトノは台所へと走って行き、緑のワンピースを着ている方のマイは紫から蓮子が買ってきた瓶を受け取り、数秒かけて蓋を開けて紫に返す。
そしてちょうどサトノが台所から水を持ってきたところで紫は瓶の中身を一気に飲み干し、サトノから受け取った水を流し込んだ。
「――ああ! よく効くのよねー。これ。さてと……今日も頑張りますか」
勢いよく立ち上がった紫は大きく身体を伸ばすと、酔いが吹き飛んだようににっこり笑う。――そんなに速く効くモノだろうか。
「さて、掃除、洗濯、庭の手入れ、料理に宝物庫の整理清掃。今日は何からやってもらおうかしら」
「全部は無理ですよ……料理だけでもあれだけ大変だったのに」
「それじゃ宝物庫の整理で勘弁してあげる」
トランプを出したときと同様に、紫はどこからともなくハタキと赤いエプロンを取り出して蓮子に手渡す。宝物庫の場所を聞いて、蓮子は早足で宝物庫に向かった。昨日だけでもあれだけ大変だったんだ。紫が料理を要求してくる前に宝物庫の整理を終わらせなければ。
でも何故だろう。妙にこのバイトに納得している自分がいる。
紫がネガイを叶える保証など何処にもないのに、何故か叶えてくれると思ってバイトをしている。出会って一日の相手に信頼関係もなにもないのだけど。
きっと何処かで彼女がいう『等価交換』を受け入れている。――そう落とし込んだ。
着いた宝物庫の扉はどことなく威圧感があり、開かずの間のような不気味さが辺りに漂っている。この中に私の帽子もあるんだろうか。蓮子は扉を引くと、木の軋む音を響かせながら部屋の中に入っていった。
薄暗い。埃っぽい。換気ができていないのか、かび臭さが鼻を突く。入り口周りにスイッチのようなものはなく、この部屋には電気がないようだ。
「物がごった返してる……ってどころじゃないな」
近くの棚にあったたっぷりと埃の被った本を手に取ってみる。本の題には『愛しい終わりに』とあった。埃こそ被っているものの状態は非常によかった。手始めにその一角にあった本を全て退かし、棚と本の埃を払ってから元に戻す。
宝物庫の底はここからじゃ見えない。これを後どれだけ繰り返すことになるのか。
気の遠くなるような話しだったが、思考よりも手を優先的に動かした。
そうした方が、時間が解決してくれる。
――――――
――――
――
「あー! 全然終わんない! どれだけガラクタ集めればこうなるんだ!」
始めてから数時間が経った午後一時。ついに蓮子が音を上げた。いくら何でも物が多すぎる。というかこの宝物庫は何処まで続いているんだ。
「なんだかんだと言っているわりには、よく働くじゃない」
様子を見に来た紫が扉の縁に寄りかかる。服装は昨日から来ていた着物ではなく、ラフにグレーのパーカーになっていた。そのままにしていた髪も、高い位置で一つにまとめている。
「あ! これ懐かしい~。こんなところにあったのね」
紫が手にしていたのは整理序盤に蓮子が片付けたあの本。
「それ、価値のあるものなんですか?」
「これはね、ある女の子が対価として置いていったの。随分と前のことだけど」
「その子は何を願ったんですか?」
何気なく聞いた蓮子だったが、紫は真剣な表情を浮かべて返す。
「知りたい?」
「……やめときます。また対価をよこせっていいそうですし」
それ以上言及することなく、作業を続けた。
「これを機に、整理整頓するようにしてください。勝手に捨てちゃいますよ」
「だってー。全部宝物なんだもん」
「整理整頓できない人は、だいたいそういいます」
本はまだしも他の物は本当に意味不明の物が陳列していて、用途も検討がつかない。
棚の中を綺麗にした後、埃を落とした物を元に戻していく中で、一つを紫に突きつけた。
「じゃあこれなんですか? まるで用途が分からないんですけど」
黒の成型色をベースに部分部分に銀や白の塗装がなされてる長方形型の物体。特徴といえば赤い取っ手のようなものが突き出していて、回せるようになっていること。長方形の一部に何かを差し込むためにつくられたような溝がいくつかあること。
「それは明日を創るためのものよ」
「明日って……また漠然としてますね」
「取り扱いには気をつけた方がいいわよ。国一つ簡単に消しかねない品だから」
和やかに言ってみせる紫だが、手に持つ蓮子の背中には冷たい汗が伝う。
急に指先に力が入るが、力を込めてしまったら何か起きるんじゃないかと力の入れ具合が不安定になっていく。それを見た紫はクスクスと口に手を当てた。
「大丈夫よ。それを使うにはあと二つ、必要な物があるの」
「そ、それならそうと早く言ってください」
「それにそれレプリカだしねー。光って音がなるだけ」
聞いた途端、思い切り地面に叩き付けてやりたくなる衝動に駆られるが、なんとか自制した。これ以上対価を要求されても堪らない。
蓮子は「明日創る道具」を綺麗にした棚に戻し、作業を続行する。純粋に数が多く、両脇の棚には一体どれだけの物が収められているか、目だけで計るのは難しいそうだ。中には大きい物もあり、上げ下げの動作は結構腰にくる。正直一休みしたいが、一応雇い主の目の前で堂々と休むのは気が引けた。
「……一段落ついたら休憩にしましょうか」
「ありがとうござ――」
「お腹すいちゃったしねー。お昼は何にしようかな……あっ! 私ラーメンがいい」
いい人かも――なんて、少しでも思ったことを後悔した。所詮しがないバイトの身。
落とした埃を箒で集め、先の見えない作業の中に無理矢理一段落つけて宝物庫を出る。数時間ぶりの室外の空気はとても美味しく感じて、吸った分ため息が溢れた。
「……ラーメン。味何にします?」
「そうねー。今日は冒険して味噌カレー牛乳ラーメン」
「マニアックなものを……青森の人でもそうそう食べませんよ」
「それがいいんじゃない。それじゃおねが――」
不意に、紫の顔をから笑顔が消える。
「やっぱりいいわ。代わりにお茶を」
「どうかしたんですか? 別に作れないことはないですけど」
「――客よ」
声のトーンが一つ下がった紫の表情は冷たく、真剣だった。昨日初めて会ったときもそうだったが、この落差はどうにかならないだろうか。さっきまでの気まぐれでおちゃらけたような性格。そして今や初めて会ったときのような冷たくミステリアスな雰囲気。
どちらが本当の彼女なのか。
客を玄関すぐ横の客間に通した紫は、白のレースブラウスに着替えて客と差し向かいに座っていた。蓮子はテーブルに着いた客と紫にお茶を出し、襖の陰からその様子を見守る。紫の対応が見たかった。同じく様子を見たいのか、マイとサトノも蓮子の陰から紫を見ている。
客は蓮子より年上の女性だった。品の良さそうな服装をしていて、紫と同じくらいの長さの銀髪をサイドテールにまとめている。顔は美人というより可愛いという形容が正しかった。青い瞳はなんだか不安そうに彷徨い、少し動揺しているようにも見えた。
「あの……私、気づいたら此処の玄関に入ってきてしまって……」
「ここはネガイを叶えるミセ。貴女がミセに入れたということは、叶えてほしいネガイがあるはずよ」
「……ありますけど」
「どんなネガイでも叶えて差し上げるわ。ただし、それ相応の対価をいただくけれど」
なんかが昨日会ったときと同じようなフレーズで問いかける紫に、蓮子は眉を寄せた。いつもこんな感じなのだろうか。あのお客さんも私と同じようにいつの間にか入ってきてたみたいだし。
「もしかして私みたいに、ミセに来た人へ次々と毒牙をかけてるんじゃ……」
「毒牙一発?」
「毒牙一発……!」
「そこぉ! 聞こえてるわよ!」
聞こえていたらしい。紫の怒鳴る声に後ろにいたマイとサトノはクスクスと笑いながらミセの奥へと走っていく。蓮子も怒鳴られた拍子に襖を閉めてしまい、客の様子はもう見られなかったが、話しだけでも聞こうと襖に耳を当てた。張り詰めた空気感の中に、時計の秒針が知らん顔ではいってくる。
「さあ、貴女のネガイ……聞きましょう」
「……私には入院中の娘がいまして……娘を助けて欲しいんです」
「――つづけて」
「この前手術して、成功したハズなのに……容態は悪くなる一方で。さっきも面会に行ったんですけど、ろくに話しもできずに「帰って」って言われちゃって……私が仕事ばっかりでかまってあげなかったから」
「……ふうん。貴女のネガイは娘さんが元気になることね」
「はい、本当に叶えていただけるんですか?」
「ええ、もうお帰りなって結構よ。マイ、サトノ、お見送りを」
紫が二人の名を呼ぶと、奥に下がっていた二人が走ってこちらへ戻ってきた。
ここで襖を開けられると変人に思われる――蓮子は襖の前から離れると、マイとサトノが襖を開け、客の前に立つ。
「で、でも、対価は……」
「後払いで結構よ?」
「そ、それじゃ……失礼します」
客は困惑気味に紫へ頭を下げると、マイとサトノに連れられてミセを去って行った。
静かになった部屋に、蓮子は足を踏み入れる。
「アナタ、人のネガイを盗み聞くなんて良い趣味してるじゃなーい」
ミステリアスな雰囲気がまた消えて、ニタニタと笑う。
この温度差には、やはり慣れない。
「まあ、褒められた事じゃないですけど……アナタが――」
「……紫でいいわ」
「じゃあ、紫さん。対価の後払いなんて許さないと思ってました」
「私をなんだと思ってるの? ――まあ、情も湧くのよね」
「お知り合いだったんですか?」
「全然。ただメイクでクマを隠してるし、顔色もよくない。良い物着てたから多分お偉いさんなのね。それでいて娘さんが入院してる。色々重くなっていくでしょ――潰れそうなくらい」
傾き始めた夕陽が窓を射して、テーブルが温かく照らされる。
土曜日の昼下がりは静けさを取り戻して、秒針の音も自然に溶け込み始めた。
座り込んでいた紫が一つ大きく伸びると、にっこり笑っていう。
「いくか。マイー。サトノー。お出かけしてくるから」
立ち上がって二人を呼ぶと、二人は外行き用の服を手に持っていた。白いレースブラウスの上からベージュのトレンチ風ロングコートを羽織って蓮子に呼びかける。
「アナタも行く?」
「……行きます」
「うーん。なんだかアナタって言い続けるのも他人行儀ね。そうだ。ここはフレンドリーに宇佐見って呼ぶことにするわ」
「フレンドリーなのに名字なんですか……まあ、いいですけど」
「それじゃ宇佐見、張り切って行くわよ」
部屋を出て。玄関の扉を開け放って。歩き出す道に人気は少なかった。
空に昇る日はそろそろ傾き始め、次第には落ちてくるだろう。でもそれは数時間も先の話だ。留守番をマイとサトノに任せて、ミセの敷地を出る紫の半歩後ろを蓮子は着いていく。病院に行くのだろうか。
「病院、何処にあるか知ってるんですか?」
「知らないわ。でも多分こっち。ちゃんと着くわよ」
声色は真剣だったが、表情は少し柔らかかった。
自分より少し背の高い彼女の後ろに着いてあるこの感覚、なんだか覚えがあるような。それは小さい頃だったような。――ふと、自分が帽子を被っていないことが気になって、少し落ち着かなくなった。
「――縁は結ばれたから」
春風に揺れる紫の長く綺麗な髪。
風に運ばれた匂いからは――ちょっと懐かしい味がした。
◇◆◇
紫と蓮子が病院に着く頃には、もう五時を過ぎたあたり。春の陽射しはすでに弱々しく、東の空は黒く染まる。病院の前は用を達して帰って行く人、これから用を達しようとする人が行き交っていた。二人はその流れに乗るようにして病院の中に入っていく。
自動ドアを潜れば一階のロビー。夕方にもかかわらず、診察を待つ患者や診察が終わり会計を待つ人が設置されているソファーに座り込んでいる。
さきほどの客の娘に会いに来たはいいが、一体どうするつもりなのか。
蓮子は訝しげな視線を紫に向けるが、紫はそれに笑って返して歩みを進める。受付の前を素通りし、階段の方へ向かう。やっぱり無断で入っていくのか――予想が早々に的中して、小さく両肩を竦めて紫の後に続いた。堂々としていないと怪しまれてしまう。
紫の後に続いて二階、三階と階段を上がっていく。歩く紫の態度から、何かを探している雰囲気はない。決まっている目的地へ真っ直ぐ進んでいるようだった。
そして三階の廊下を歩く紫の足が、ピタリと止まる。
紫が立ち止まった病室の名札を見てみると、誰の名前も書かれていない。首を傾げる蓮子を置いて紫は病室の中へと入っていく。蓮子はその後を慌てて追いかけ病室へ足を踏み入れた。
病室はかなり広く、眩しい西日が白い床や壁に反射して蓮子は目を細める。静かな病室だった。全開の窓から吹き込む風に揺れるカーテンのはためきが、部屋の中を反芻している。室内の左奥、ベッドに座る少女の姿がどうしてか現実味が薄くて――声をかけられない。その少女は沈む陽を何も言わずに眺めている。
春風が優しくその金髪を揺らすと、少女はこちらを向く。
そして小さく口を開いた。
「だれ?」
なんて答えていいか分からず、蓮子は紫に視線を送る。
紫は小さく笑って少女に歩み寄っていう。
「アナタのお母さんの友だちかしら」
「お母さんの……ともだち?」
「ええ、お母さんからアナタの元気にして欲しいって。アナタの身体、治してあげる」
しかし少女は首を横に振る。
「いい、治さないで」
「えっ、どうして……?」
そこで初めて蓮子は口を開く。少女の言っていることが理解できなかった。病気を患ったら、誰だった完治したいと思うのが普通なのに。こんな病室にいるより外に出て入院する前の生活に戻った方が、幸せなはずなのに――。
困惑する蓮子に、少女が答えるようにいう。
「だってその方がお母さんが幸せになれるから」
少女は再び西日に視線を戻して話始める。――さっきより、少し陽が沈んでいた。
「うちはお父さんがいないの。でもお母さんお仕事忙しいのにいつも私と遊んでくれた。お休みの日には色んなところ連れて行ってくれた。本当はすごく疲れてて休みたいはずなのに……。病気になってからも、お母さん毎日お見舞いに来てくれた。けどきっとお母さん前より辛い。見る度に元気がなくなっていくもん。だから――」
私はいなくなったほうが、いい。
口からこぼれるその声は、小さく、悲しく、病室に広がって消える。
そんなこと――っと蓮子が声を上げそうになると、紫がそれを手で制した。瞳を閉じて首を横に振る。
「そう、じゃあまたね」
「さようなら」
紫は少女に別れを告げ、納得のいかない様子の蓮子の手を引いて病室を後にする。
病室の外に出ると、急に病院内の喧騒が聞こえ始め蓮子は大きく息を吐いた。
「私たちも帰るとしましょうか」
「で、でも――」
あっさりと帰ろうとする紫に食い下がろうとする蓮子だったが、通りすがった看護師の訝しげな視線に気づき、足早にその場を離れる。階段を降り、誰に咎められることもなくフロントの前を通って病院の外へと出る。外はもう陽が数分もすれば消えてしまいそう。空の茜色がそれを告げていた。
「いいんですか……あのままで」
「良いも悪いもないわ。あの子が選んだことだから。人はなんだって願うことができるのよ。生きることも……死ぬことも。生きることを望まない肉体は、長くは持たないでしょう」
「そんな……死ぬことを願うだなんて。死んでもいいことなんか一つもないのに」
「――なんでそう言い切れるの?」
整った顔が蓮子にぐ――っと寄せられる。紫の言葉に蓮子は胸の内が冷たくなるのを感じて押し黙った。
「死ぬことにだってメリットは存在するのよ。それ以降のすべての可能性と幸福を対価に、永い安らぎと恐怖からの解放を得る。他の生き物ならそうはならないでしょう。ヒトはこの世で一番生きづらい生き物だから。生まれてから死ぬまで、常に生きる以上のことを要求される」
「生きる……以上のこと?」
「例えばアナタが学んでる数学系の知識や他の国の言葉、それは生きる為に本当に必要? 知らなくても生きていけるわよね。アナタが生まれるずっと前から、ヒトはそういう社会を作ってしまった」
「――」
「ただ空を眺めながら呼吸をして、お腹が減ったらご飯を食べて、何時しか眠る――そんな風に一生を終えられる者なんて、何処にもいないのよ」
そう話す紫の顔は哀愁に満ちていて。
暮れゆく京都の風が漏れる息を攫っていく。
「それにあの子の場合は、心の問題。精神と肉体は密接な関係にあるから。私があんまり凄いことしちゃうと、あの客は対価を払えないでしょう」
「――だったら」
蓮子は言い捨てるように呟くと、紫に踵を返して病院へと走り出す。
紫はその背中に「今日はもう帰ってこなくていいわよ」と声をかける。蓮子はそれに言葉を返さず、自動ドアの向こうに消えていった。
「アナタがミセに来た時点で、こうなることも必然――だったのね。きっと」
――――――
――――
――
今日はどのような……ちょっと、ちゃんと受付を――。
慌てた様子で引き留めようとする受付に見向きもせず、蓮子は三階の病室に駆け上がっていった。早く伝えないと、きっと取り返しのつかないことになるから。
きっと、紫さんの言うとおり……死んで得られることもあるのだろう。
でもあの子が死にたがってるのは、現実が辛いからでも、恐怖から逃げる為でもない。
ただ――お母さんに幸せになってほしいだけなんだ。
あの子が死んでもお母さんが元気になることなんてない。誰も救われないじゃないか。
階段をあがっていく蓮子の脳裏浮かぶ、幼い時の記憶。
蓮子には両親がいない。小学生になる頃に事故で亡くなった。兄妹もおらず、天涯孤独の身となった蓮子は唯一の血縁者である大伯母に引き取られることになった。蓮子を引き取った大伯母は定年をとうに迎えていたが、自営業であったため蓮子を育てる経済力は持ち合わせており、何不自由なく育ててもらった。
大伯母は仕事のことを探偵――と言ってはいたが、働いているところ蓮子は見たことがなかった。時折家に依頼人が来て、少し話をして、帰って行く。大伯母は家から出ることなくただただ寝ていた。その分起きてる時は家にいるし、遊んでくれるから嬉しくはあったが、訝しくもあった。けれど数日すれば依頼人がちゃんと報酬を払いにくるのだから、きちんと仕事はこなしてるようだった。
でも家から出ずにどうやって仕事をしているのだろう。
気になった蓮子はある日、大伯母に尋ねた。
寝るのが仕事なのさ――っとはぐらかされて、大伯母は帽子を顔に被せてソファーに寝転んでいた。――そして結局、何の真相も分からないまま、大伯母はこの世を去った。
少女の辛さは分からないが、残される者の辛さはよく知ってる。
大伯母のように寝ている間になんでも解決はできないけれど。
紫さんのようになんでもネガイを叶えられはしないけど。
目の前で死にたがっている少女を放っておくように育てられた覚えはない。
開け放った病室の扉。静かなフロアにスライド式の扉が跳ね返る音が響く。
ベッドに横たわる少女は少し驚いたように蓮子の方を見て、身体を起こす。
「忘れ物?」
「違うよ。ちょっとお話しようかなって」
蓮子は少女のいるベッドへ歩み寄り、その端に腰掛けた。
少女は嫌がるようなそぶりも見せず、ただ黙っていた。
カーテンのはためきが止んだのを機に、蓮子がいう。
「やっぱり……死んじゃだめだよ」
「どうして?」
「キミが死んだら、お母さん、悲しむから」
今は被っていない帽子を探すように頭へ手を這わせて、蓮子は続ける。
「お母さんはキミが好きだから。辛くても頑張れるし、無理してでもお見舞いに来る。私はそう思う。キミが死んでもお母さんは悲しむだけで、幸せにはなれないよ」
「じゃあ、どうすればいいの? どうすればお母さんは幸せになる?」
少女は蓮子を真っ直ぐ見つめる。蓮子もその視線を逸らさないように努めた。
蓮子は答えなきゃいけない。少女に生きてもらうために。
「早く病気を治して、お母さんの側にいることじゃないかな。それで楽しいとき、嬉しいとき、幸せだな――って感じたときに笑えば、きっと……ううん。絶対お母さんも幸せになるよ」
それを聞いた少女はしばらく黙り込み、「本当に?」と首を捻る。
うん、本当だよ。蓮子は答えて少女の頭を軽く撫でる。私がこのぐらいの歳の頃。私は両親の幸せなんて考えただろうか。きっとこの子はそれが考えられるほど、豊かに、大切に育てられたに違いない。そんな子には尚更死んでほしくない。
まだ不安そうに考え込む少女を見て、蓮子は彼女に小指を差し出した。
「じゃあ約束。退院したら私が一つだけネガイを叶えるから」
「なんでも?」
「……うん、なんでも」
「それじゃ――お母さんが休みの日に、一緒にお昼寝がしたいな」
「わかった。約束」
蓮子の小指と少女の小指が絡み合う。
指切りげんまん――っと懐かしい歌を歌い。ゆっくりと離した。約束を終えた少女は嬉しそうに微笑んで、蓮子もつられて笑顔になる。
うん、きっとこんな笑顔を見たくてあの人も頑張っているんだろう。
そう確信できた。
そしてそれを待っていたかのように、病室に差し込む茜が消える。どうやら陽が落ちたらしい。蓮子は立ち上がって窓とカーテンを閉める。
去り際に「またお見舞いにくるから」というと「またね」と手を振ってくれた。
それから一階のフロントで受付の人に見つかり、こっぴどく叱られた。どうにか不審者でないことを説明して、その日のうちに帰してもらえた。昨日の内に身分証明書が見つかって本当によかった。
星降る夜が時間を告げる午後九時。
病院から出た蓮子は出入り口から歩道へと歩く道でくるりと振り返る。
見上げるのは三階の病室。あの子が元気になりますように――そう星に願った。
私も帰らないと。小さく息を吐き出して、帰路につこうと病院の敷地を抜けて歩道に足を踏み入れる。
「まあ、お疲れ様ね」
病院の塀に寄りかかっていた紫の声に蓮子は心底驚いてその場で飛び上がる。
その様子を見て紫はクスクスと笑った。驚きすぎでしょ。おもしろーい。
「帰ったんじゃなかったんですか!」
「帰るなんて一言も言ってないわよ」
そうだったかな――蓮子は息を整えながら思い返すも、どうだったか定かじゃない。
さあ、帰りましょう。――そういう紫に、蓮子はついて歩いた。一つ、気になることがあったからだ。
「……どうして何もしなかったんですか」
「怒ってる?」
「怒ってません。ただ、試されているような気が、今になってしたんです」
誰かを説得するなんて、あまり得意なほうではない。相手が少女でなければ上手くいかなかったかもしれない。けれどその点紫は蓮子に比べて口は達つだろうし、経験も豊富だろう。自分にできて彼女に出来なかったはずは……ないだろう。
「宇佐見がそう感じているなら、そうなんじゃない?」
はぐらかすような物言いに、どこか大伯母の影を感じながら、納得のいかないまま帰路を歩く。辺りは静かに夜に染まりながら二人を包んでいた。
「けどあんな約束してよかったの?」
「えっ!? 何処から聞いてたんですか!?」
驚く蓮子に紫は得意げに紙コップで作った糸電話をどこからともなく取り出す。
んな馬鹿な。
「約束っていうのは、人が使える魔法の一つなのよ」
「魔法って……」
「何もモノをやり取りせずに相手に希望を与えられる。言葉の中でも特別な分類よ。ただ出会っただけでは結べない。堅く強い縁を結ぶことができる。人はそれを時に運命の赤い糸……と呼ぶ」
だから小指なのよ。と紫は小指を立ててみせる。
「でもそれは幸福の前借りのようなものだから、きちんと果たさなければない。そうでないと幸福と不運が反転する――ちゃんと責任を持ちなさい」
「――はい」
あの子のお見舞いに行ったり、ミセでバイトをしていれば、きっとあの子の母親と会えるだろう。そのときどうにか頼むしかない。それでダメなら気は進まないけど……この人に頼もう。対価がどれだけつくかは分からないが。
あの子の笑顔は裏切れないから。
それからしばらく二人は黙って歩いた。街が夜に染まりきると、次第に辺りの喧騒が耳につき始める。けれど二人の周りはどうしてか静まりかえっていた。
「それにしてもヤクソク――ね」
唐突に紫が呟く。
夜空を見上げる横顔は、哀愁とノスタルジーで満たされていた。
「どうか、しました?」
「思い出したのよ。たくさんの約束で結ばれた二人がいたなって」
ずっと前の話。と紫は話し始める。
「その二人は深い仲だったけど、いつか別れてしまうことがわかっていたから、明日にでもやってくる別れに恐怖を感じないように、明日のことが好きになれるように、そして結果として離ればなれになっても繋がっていられるように、たくさんの約束をしたの」
「その二人は……どうなったんですか?」
「知りたい?」
紫が立ち止まって、蓮子に尋ねる。
蓮子は笑って返す。
「知りたいです」
「じゃあ夕ご飯作ってくれたら、食べながら話してあげる」
「いいですよ。何食べます?」
「食べ損ねた味噌カレー牛乳ラーメン!」
「わかりました。腕によりをかけて作りますよ」
もしも続きがあるならば、是非読みたいですね。