私の部屋の浴槽に人魚が現れた。
ちょうど、寝る前に飲むココアを温めていたときだった。
自慢じゃないけれど、変なことなら人一倍に経験してきたと思ってる。サナトリウムにだって収容された。だけど、誰も居ないはずの浴室から歌が聞こえてきたときには、さすがに驚いてしまった。
とても綺麗な歌声だった。夜空に銀色のペンで線を引くときみたいな繊細さがあった。私は中途半端な温かさのココアを持って浴室を覗いた。確かにお湯を抜いたはずの浴槽に、人魚がスッポリと収まっていた。人魚が貝殻の水着じゃなくて、緑色の和服を着ているのがひどく不思議だった。彼女が浸かる浴槽には、お湯の代わりに水が溜められてたようだった。そりゃあ、お湯だと熱いわよね、と私は妙な納得感を覚えた。
「こんばんは」
私に気が付いた人魚は、歌うのをやめて微笑みかけてきた。せっかく挨拶をしてくれたのに、私はすぐ返事をせず、中途半端な温かさのココアを軽くすすった。動揺していたのだ。
「……えぇ、こんばんは」
「美味しそうね。とても甘い香りがする」
浴槽の縁にもたれて、人魚が眠そうな顔で言った。尾ひれが水面から出て、チャプ、と音を立てた。彼女の尾ひれは、オーロラのようにひらひらと透き通っていた。子どもの頃に観た映画に、オーロラが映されていたのを思い出した。その映画が好きだったから、私はこの人魚のことを嫌いになれないな、と思った。
「一口、飲む?」
「ありがとう。いただくわ」
ココアの入ったマグカップを手渡す。人魚は両手でマグカップを受け取り、そのまま口へと持っていった。
「とっても美味しい」
「それは良かった」
人魚が喜んでくれて、私はホッとした。私が彼女からマグカップを受け取ると、人魚は自分の唇を親指でなぞって、ペロリと舐めた。
「アナタはどうしてここに居るの?」
私は脱衣所のバスマットの上にしゃがんだ。人魚を見下ろしながら話すのが嫌だったのだ。私が屈んだことで、人魚との距離はずっと近くなった。
「私はどうしてここに居るの?」
一瞬、小難しい哲学の話かと思った。だけど人魚は困った顔をしていたから、別に彼女はまどろっこしい存在論者というわけじゃなく、自分でも自分がここに居る理由が判らないのだと悟った。
「そう、困ったわね……」
可哀相な人魚を見ながら、私は同情にもならない言葉を口にする。
私が住む部屋は一人暮らし用だ。ルームシェアは認められていない。契約書の細かい文言は思い出せないけど、『人魚は例外とする』という但し書きは無かったと思う。
「でも、きっと何とかなるわよね。覚めない夢はないし、明けない夜もないのだから」
「前向きなのね。私がアナタなら、もっと取り乱していたかもしれない」
「人魚は前にしか進まないもの。脚なんて移り気なモノのある人間とは違ってね」
彼女はそう呟くと、両手で掬った水で顔を洗い流す。小さく息を吐いた人魚は、また浴槽の縁に身体をもたれさせて、目を閉じたまま歌い出した。人魚の歌声は浴室の壁で跳ね返ることで、心地の良い残響を伴って私の鼓膜を震わせた。
私は気持ちよさそうに歌う彼女の横顔を見ながら、何だか色んなことがどうでもよくなってくるのを感じていた。私が持つ常識とか、私を社会に紐づける規範とか、そういう肩ひじが張った考え方が、優しい歌声に溶けていくみたいだった。
歌う。
人魚が歌う。
甘い旋律を、しっとりと紡いで。
ピンク色のタイルに、声を染み込ませて。
恋の歌。
けっして成就しない、悲しい恋の歌。
私は人魚だから。
アナタは人間だから。
私は陸に上がれないし、
アナタは水底に降りられない。
私の想いは泡になって、
アナタの気持ちは過去になる。
だけど、
もしも、
アナタが私を掬い上げれば。
私がアナタを引きずり込めば。
私は金魚鉢に捕らわれてもいいと、
アナタは湖の底で骨になってもいいと、
そう誓い合えれば、
永遠なんていう言葉も、
私たちのものにできるのに。
「――悲しい歌ね」
コトン、とマグカップを床に置いて、ポツリ、そう呟く。
私は目を閉じる。目蓋の裏には、残酷な運命に嘆きくれるふたりの影があった。チャプ、と水面が揺れる音がする。人魚が小さく含み笑いをした。そういえば私は、まだ彼女の名前も聞いていない。
「実らないから恋なのよ。実ってしまったら、愛だもの。花は綺麗でも、果実まで綺麗ではいられない。熟して、堕ちて、腐っていくだけ」
「ままならないものね」
「ままならないからこそ、歌にする意味があるの」
うっとりと艶めかしく、人魚は言った。その含蓄ある言葉は彼女が大人だからか、人魚だからこそなのか、私には判らなかった。そしてまた、人魚がゆっくりと歌い始める。彼女の歌声を独り占めしているのは、悪いな、と思った。
……だけど、いったい誰に対して悪いのだろう?
ふと胸中に波紋を落とした疑問は、答えを見出す間もなく、微睡みに混じって消えた。
そして、そう、私は夢を見た。
夢の中の私は、原初の海に揺蕩うイヴだった。漂うアミノ酸が必死になって生命を真似ようとしている様を、私はジッと見ていた。そこでは、私だけが私で、他に私を認識できるモノなんて何もなかった。私の隣に佇むアダムなんて、存在しなかった。まだ地球に、およそ生命と呼べる有機化合物が居ない時代。私は母になる前の海に包まれていた。
これが夢だと判ったのは、プカプカと漂っていた私が、不意に網で掬われたからだった。私を掬ったのは、小さな船に乗ったコーカサスオオカブトの船長だった。彼はパクチーの香りがする紙煙草を吸いながら、網の中の私を真っ赤な亀の甲羅に放り込んだ。逆さになった甲羅の真ん中には、島があり、都市があり、文明があった。紋甲イカがたくさんのイワシを奴隷にして作り上げた、立派な街だった。
私は街中に張り巡らされている水路を、笹の葉で出来た小舟で運ばれた。オールを握るのは、誰でもない人という名前のアンモナイトだった。誰でもない人は、ラピスラズリの飴玉を口の中で転がしながら、共産主義を讃える歌を歌っていた。私が民主主義の話をすると、彼は水路に飛び込んで溺死した。漕ぎ手を喪った笹の葉は燃え上がり、私は火の手から逃れるために川へ飛び込んだ。私の身体は水底を突き抜け、ガニメデの衛星軌道に乗った。私は首尾よくエウロパから飛んできた伝書鳩の背に乗って、ハレー彗星の上に建てられた病院に送られた。伝書鳩が私のおでこに貼った切手には、三百七十四円と書かれていた。
病室のベッドに寝かされた私を、単眼症のロバが見舞いに来た。結婚を前提に清い交際を申し込まれたので、丁重に断った。ロバは私への愛を七言絶句にして書面にしたためると、隣のベッドで寝ていたヤツメウナギの眼をひとつひとつ愛撫した。私が七言絶句を読まずに破ると、切れ端からココアが流れ出た。
「……本当に、ままならない」
そう呟いた途端、私は目を覚ました。
私はパジャマのままバスマットの上で寝ていて、身体中がギシギシと強張っていた。ここが原初の海でも紋甲イカの都市でもハレー彗星でもなく、自分の部屋の脱衣所であることを今さらのように確認した私は、扉を開けっ放しにしていたお風呂場を見た。
もちろん、そこには人魚なんて居なかった。浴槽は栓も空いたまま、すっかり乾燥していた。
――どこからが夢だったんだろう?
にわかに混乱する私が傍らのマグカップを見ると、確かに飲み残していたはずのココアが、空になっていた。
ちょうど、寝る前に飲むココアを温めていたときだった。
自慢じゃないけれど、変なことなら人一倍に経験してきたと思ってる。サナトリウムにだって収容された。だけど、誰も居ないはずの浴室から歌が聞こえてきたときには、さすがに驚いてしまった。
とても綺麗な歌声だった。夜空に銀色のペンで線を引くときみたいな繊細さがあった。私は中途半端な温かさのココアを持って浴室を覗いた。確かにお湯を抜いたはずの浴槽に、人魚がスッポリと収まっていた。人魚が貝殻の水着じゃなくて、緑色の和服を着ているのがひどく不思議だった。彼女が浸かる浴槽には、お湯の代わりに水が溜められてたようだった。そりゃあ、お湯だと熱いわよね、と私は妙な納得感を覚えた。
「こんばんは」
私に気が付いた人魚は、歌うのをやめて微笑みかけてきた。せっかく挨拶をしてくれたのに、私はすぐ返事をせず、中途半端な温かさのココアを軽くすすった。動揺していたのだ。
「……えぇ、こんばんは」
「美味しそうね。とても甘い香りがする」
浴槽の縁にもたれて、人魚が眠そうな顔で言った。尾ひれが水面から出て、チャプ、と音を立てた。彼女の尾ひれは、オーロラのようにひらひらと透き通っていた。子どもの頃に観た映画に、オーロラが映されていたのを思い出した。その映画が好きだったから、私はこの人魚のことを嫌いになれないな、と思った。
「一口、飲む?」
「ありがとう。いただくわ」
ココアの入ったマグカップを手渡す。人魚は両手でマグカップを受け取り、そのまま口へと持っていった。
「とっても美味しい」
「それは良かった」
人魚が喜んでくれて、私はホッとした。私が彼女からマグカップを受け取ると、人魚は自分の唇を親指でなぞって、ペロリと舐めた。
「アナタはどうしてここに居るの?」
私は脱衣所のバスマットの上にしゃがんだ。人魚を見下ろしながら話すのが嫌だったのだ。私が屈んだことで、人魚との距離はずっと近くなった。
「私はどうしてここに居るの?」
一瞬、小難しい哲学の話かと思った。だけど人魚は困った顔をしていたから、別に彼女はまどろっこしい存在論者というわけじゃなく、自分でも自分がここに居る理由が判らないのだと悟った。
「そう、困ったわね……」
可哀相な人魚を見ながら、私は同情にもならない言葉を口にする。
私が住む部屋は一人暮らし用だ。ルームシェアは認められていない。契約書の細かい文言は思い出せないけど、『人魚は例外とする』という但し書きは無かったと思う。
「でも、きっと何とかなるわよね。覚めない夢はないし、明けない夜もないのだから」
「前向きなのね。私がアナタなら、もっと取り乱していたかもしれない」
「人魚は前にしか進まないもの。脚なんて移り気なモノのある人間とは違ってね」
彼女はそう呟くと、両手で掬った水で顔を洗い流す。小さく息を吐いた人魚は、また浴槽の縁に身体をもたれさせて、目を閉じたまま歌い出した。人魚の歌声は浴室の壁で跳ね返ることで、心地の良い残響を伴って私の鼓膜を震わせた。
私は気持ちよさそうに歌う彼女の横顔を見ながら、何だか色んなことがどうでもよくなってくるのを感じていた。私が持つ常識とか、私を社会に紐づける規範とか、そういう肩ひじが張った考え方が、優しい歌声に溶けていくみたいだった。
歌う。
人魚が歌う。
甘い旋律を、しっとりと紡いで。
ピンク色のタイルに、声を染み込ませて。
恋の歌。
けっして成就しない、悲しい恋の歌。
私は人魚だから。
アナタは人間だから。
私は陸に上がれないし、
アナタは水底に降りられない。
私の想いは泡になって、
アナタの気持ちは過去になる。
だけど、
もしも、
アナタが私を掬い上げれば。
私がアナタを引きずり込めば。
私は金魚鉢に捕らわれてもいいと、
アナタは湖の底で骨になってもいいと、
そう誓い合えれば、
永遠なんていう言葉も、
私たちのものにできるのに。
「――悲しい歌ね」
コトン、とマグカップを床に置いて、ポツリ、そう呟く。
私は目を閉じる。目蓋の裏には、残酷な運命に嘆きくれるふたりの影があった。チャプ、と水面が揺れる音がする。人魚が小さく含み笑いをした。そういえば私は、まだ彼女の名前も聞いていない。
「実らないから恋なのよ。実ってしまったら、愛だもの。花は綺麗でも、果実まで綺麗ではいられない。熟して、堕ちて、腐っていくだけ」
「ままならないものね」
「ままならないからこそ、歌にする意味があるの」
うっとりと艶めかしく、人魚は言った。その含蓄ある言葉は彼女が大人だからか、人魚だからこそなのか、私には判らなかった。そしてまた、人魚がゆっくりと歌い始める。彼女の歌声を独り占めしているのは、悪いな、と思った。
……だけど、いったい誰に対して悪いのだろう?
ふと胸中に波紋を落とした疑問は、答えを見出す間もなく、微睡みに混じって消えた。
そして、そう、私は夢を見た。
夢の中の私は、原初の海に揺蕩うイヴだった。漂うアミノ酸が必死になって生命を真似ようとしている様を、私はジッと見ていた。そこでは、私だけが私で、他に私を認識できるモノなんて何もなかった。私の隣に佇むアダムなんて、存在しなかった。まだ地球に、およそ生命と呼べる有機化合物が居ない時代。私は母になる前の海に包まれていた。
これが夢だと判ったのは、プカプカと漂っていた私が、不意に網で掬われたからだった。私を掬ったのは、小さな船に乗ったコーカサスオオカブトの船長だった。彼はパクチーの香りがする紙煙草を吸いながら、網の中の私を真っ赤な亀の甲羅に放り込んだ。逆さになった甲羅の真ん中には、島があり、都市があり、文明があった。紋甲イカがたくさんのイワシを奴隷にして作り上げた、立派な街だった。
私は街中に張り巡らされている水路を、笹の葉で出来た小舟で運ばれた。オールを握るのは、誰でもない人という名前のアンモナイトだった。誰でもない人は、ラピスラズリの飴玉を口の中で転がしながら、共産主義を讃える歌を歌っていた。私が民主主義の話をすると、彼は水路に飛び込んで溺死した。漕ぎ手を喪った笹の葉は燃え上がり、私は火の手から逃れるために川へ飛び込んだ。私の身体は水底を突き抜け、ガニメデの衛星軌道に乗った。私は首尾よくエウロパから飛んできた伝書鳩の背に乗って、ハレー彗星の上に建てられた病院に送られた。伝書鳩が私のおでこに貼った切手には、三百七十四円と書かれていた。
病室のベッドに寝かされた私を、単眼症のロバが見舞いに来た。結婚を前提に清い交際を申し込まれたので、丁重に断った。ロバは私への愛を七言絶句にして書面にしたためると、隣のベッドで寝ていたヤツメウナギの眼をひとつひとつ愛撫した。私が七言絶句を読まずに破ると、切れ端からココアが流れ出た。
「……本当に、ままならない」
そう呟いた途端、私は目を覚ました。
私はパジャマのままバスマットの上で寝ていて、身体中がギシギシと強張っていた。ここが原初の海でも紋甲イカの都市でもハレー彗星でもなく、自分の部屋の脱衣所であることを今さらのように確認した私は、扉を開けっ放しにしていたお風呂場を見た。
もちろん、そこには人魚なんて居なかった。浴槽は栓も空いたまま、すっかり乾燥していた。
――どこからが夢だったんだろう?
にわかに混乱する私が傍らのマグカップを見ると、確かに飲み残していたはずのココアが、空になっていた。
日常の中に現れる不思議に触れる秘封倶楽部は素敵ですね
素敵な取り合わせです。
突如現れた人魚と平気で戯れるメリーの適応力が高さに怯みました
結局どこからが夢だったのか
でもタグにメリーって書いてなかったら誰だかわからなかったです