こいしはお菓子が好きである。
チョコレート、ビスケット、マカロン、クッキー、何でも食べる。嫌いなお菓子は無いようだ。
こいしはお菓子が好きである。
いつもどこにいるのか分からないが、おやつの時間には必ず帰ってくる。出されたお菓子は全部食べてしまう。
こいしはお菓子が好きである。
ひとたびお菓子を食べ始めれば、テーブルマナーはお構いなしだ。他所にいるときの彼女の行儀が心配である。
こいしはお菓子が好きである。何故か。それは彼女が子供だからだ。おいしいから、好き。それだけの理由で、子供はお菓子を好きになる。実にありふれた、どこにでもいる子供の思考である。こいしはお菓子が好きなのである。
だが、それだけではなかった。
こいしはお菓子が好きである。未来永劫、永遠に。
彼女はずっと、子供のままである。大人になることは、決して無い。これは、姉である私が、妹であるこいしに対し、「そろそろ大人になって欲しい」と呆れいていることを表現した言葉などではない。そう思う気持ちが無いわけではないが、それでもやはり、こいしは大人にはなれないのである。
彼女はもう、成長することは無い。肉体的に成長することはあっても、精神的に成長することは決して無い。彼女の精神年齢は、あの日を最後に、完全に固定されてしまったのだ。瞳を閉じた、あの日を境に。
人も妖怪も、互いに関わり、心を交わし、心情を推し量ることによって成長する。だがこいしには、それを行う術が無い。彼女がどんなに他者と言葉を交わし、どんなに弾幕を交わそうとも、心が交わされることは決してない。どんなに大勢の他者に囲まれ、どんなに長い時間をともに過ごそうとも、彼女は悉く孤独なのである。
閉じた恋の瞳。他者への扉を閉ざした彼女に、恋の季節はやってこない。いつまでも子供のまま、いつまでも古明地こいしとして、凍結された心の残滓を引き摺りながら生きていく。いつまでも、お菓子が大好きな子供のまま。
そうして彼女は、今日もまた、おやつを食べに帰ってくる。
「ただいまー」
「おかえり。はい、これおやつ」
用意しておいたおやつを出すと、こいしは早速、バリボリと食べ始めた。手を汚しながら、口を汚しながら、食べかすを撒き散らしながら、こいしは無心におやつを食べている。カステラが消費され、ドーナツが消費され、キャラメルが消費された。
「おいしい?」
「うん、おいしー」
こいしのおやつの間だけ、私は彼女とまともな会話をすることができた。机にお菓子がある限り、彼女は決して席を離れないからだ。
「今日はどこ行ってきたの」
「今日ねー、お空のところに行ってねー、焼きマシュマロしたのー」
「あら。外でもお菓子食べてたのね」
「おいしかったー」
「それは……よかった、わね」
分からなかった。彼女は地獄の火で焦がしたマシュマロが美味しかったと言ったのか、それとも私が出したおやつが美味しかったと言ったのか。サトリである私にさえ分からなかった。
旧地獄において、いや、幻想郷全体を見渡しても、私が心を読めないのは古明地こいしただ一人だけである。私は、サトリ妖怪でなくなった彼女を前にしたときだけ、サトリ妖怪という呪縛から解放されるのだ。
「でも、そんなにお菓子ばっかり食べてると、頭がお菓子になっちゃうわよ」
私は忠告したが、こいしはなぜか嬉しそうに笑っていた。そうして彼女は、ありったけのお菓子を帽子に乗せ、こう言った。
「あたまお菓子なるで」
私は笑った。
こいしも、笑っていた。
◇ ◇ ◇
「今日のおやつもおいしかったなぁ」
手と口についた食べかすを丁寧に拭き取りながら、私は昇降口を出た。
「お姉ちゃんも元気そうでよかった」
私はくるりと後ろを振り返り、先程まで自分のいた建物を見渡してみた。
真っ白な壁に、大きなな窓。重苦しい見た目に、申し訳程度の草花。その四階建てのコンクリート構造物を見て、私は、まるで大きな下駄箱みたいだと思った。
再びくるりと振り返り、敷地を出る。たった今くぐった正門には、無機質な文字で、こう書かれていた。
〈医療法人蓮見会 神経サナトリウム〝地霊殿〟〉
私はここに、お見舞いに来たのだ。心を患った、姉のために。
人の心を読めるという妄想に、彼女が取り憑かれるようになったのは、およそ十年前のことだった。当時の私はまだ幼く、姉の身に何が起きているのか分からなかった。しかし両親は、そんな姉の姿を見て気味悪がり、すぐにこの病院に入院させてしまったという。
彼らは、妹である私を姉から遠ざけようとした。これは幼い私にショッキングな光景を見せないため、という建前で行われた処置だった。しかし、その本心では、両親は妹の私も同じように心を病んでしまうのではないかと恐れていたのだ。そんなことも知らないまま、私は姉の居ない幼少期を過ごした。私がお見舞いに行くことを許されたのは、それから十年経ってからのことだった。
姉の、私に関する記憶は、あの日を境に止まっていた。彼女は今も私をお菓子が好きな子供だと思い込み、看護師が用意してくれたお菓子を全て私に渡してくれたのだった。
そんな彼女を、私は哀れみはしなかった。寧ろ、懐かしいとさえ思った。十年間も彼女を独りにした私を、彼女はお菓子で歓迎してくれていたのだ。その歓迎に応えたかった。だから私は、姉が思った通りの、お菓子が好きな子供を演じることにした。そうしている時だけ、彼女は笑ってくれた。
姉の時間は、確かに止まっていた。だが、彼女の中で、時計の針は回り続けていたようだった。現実の時が止まってしまった代わりに、姉の頭の中には、自分の居場所としての幻想世界が作り出されていた。心が読めるという自分を正当化するために、彼女は妄想の世界を、その住人や地形もろとも創り上げてしまっていたのだ。
姉を少しでも退屈させないために、私はその世界についてたくさんのことを聞いた。私はたくさんのことを学び、たくさんのことを知った。姉の中にしかない、幻想世界のこと。姉が主を務めている、立派なお屋敷のこと。姉と共に住んでいる、たくさんんのペットたちのこと。それらは皆幻想で、でも、だからこそ美しくて。どうしてここまで素敵な幻想世界を、全くの無から作り出せるのか、私は不思議でならなかった。
そしてあるとき、私は気づいた。
その世界にただ一人、私という現実の存在が紛れ込んでいることに。
姉が私の心を読めないのは当然だ。
私という現実は、姉の想像の産物などではないからだ。
ただ一人、私だけが、彼女の世界に居場所を許されていた。
ただ一人、私を前にしたときだけ。
姉は、一人の人間として在ることができる。
姉は、妖怪というしがらみから逃れることができる。
だから私は、あれ以来、毎日姉の元に通っている。
古明地さとりの、ただ一人の妹として。
幻の世界に必要とされた、ただ一人の現実として。
私が地霊殿に〝帰って〟くれば、
姉は私を〝迎えて〟くれる。
私が「ただいま」と声をかければ、
姉は「おかえり」と返してくれる。
そんな、〝サトリ妖怪〟の妹であれたことを。
私は、今では誇りに思っている。
チョコレート、ビスケット、マカロン、クッキー、何でも食べる。嫌いなお菓子は無いようだ。
こいしはお菓子が好きである。
いつもどこにいるのか分からないが、おやつの時間には必ず帰ってくる。出されたお菓子は全部食べてしまう。
こいしはお菓子が好きである。
ひとたびお菓子を食べ始めれば、テーブルマナーはお構いなしだ。他所にいるときの彼女の行儀が心配である。
こいしはお菓子が好きである。何故か。それは彼女が子供だからだ。おいしいから、好き。それだけの理由で、子供はお菓子を好きになる。実にありふれた、どこにでもいる子供の思考である。こいしはお菓子が好きなのである。
だが、それだけではなかった。
こいしはお菓子が好きである。未来永劫、永遠に。
彼女はずっと、子供のままである。大人になることは、決して無い。これは、姉である私が、妹であるこいしに対し、「そろそろ大人になって欲しい」と呆れいていることを表現した言葉などではない。そう思う気持ちが無いわけではないが、それでもやはり、こいしは大人にはなれないのである。
彼女はもう、成長することは無い。肉体的に成長することはあっても、精神的に成長することは決して無い。彼女の精神年齢は、あの日を最後に、完全に固定されてしまったのだ。瞳を閉じた、あの日を境に。
人も妖怪も、互いに関わり、心を交わし、心情を推し量ることによって成長する。だがこいしには、それを行う術が無い。彼女がどんなに他者と言葉を交わし、どんなに弾幕を交わそうとも、心が交わされることは決してない。どんなに大勢の他者に囲まれ、どんなに長い時間をともに過ごそうとも、彼女は悉く孤独なのである。
閉じた恋の瞳。他者への扉を閉ざした彼女に、恋の季節はやってこない。いつまでも子供のまま、いつまでも古明地こいしとして、凍結された心の残滓を引き摺りながら生きていく。いつまでも、お菓子が大好きな子供のまま。
そうして彼女は、今日もまた、おやつを食べに帰ってくる。
「ただいまー」
「おかえり。はい、これおやつ」
用意しておいたおやつを出すと、こいしは早速、バリボリと食べ始めた。手を汚しながら、口を汚しながら、食べかすを撒き散らしながら、こいしは無心におやつを食べている。カステラが消費され、ドーナツが消費され、キャラメルが消費された。
「おいしい?」
「うん、おいしー」
こいしのおやつの間だけ、私は彼女とまともな会話をすることができた。机にお菓子がある限り、彼女は決して席を離れないからだ。
「今日はどこ行ってきたの」
「今日ねー、お空のところに行ってねー、焼きマシュマロしたのー」
「あら。外でもお菓子食べてたのね」
「おいしかったー」
「それは……よかった、わね」
分からなかった。彼女は地獄の火で焦がしたマシュマロが美味しかったと言ったのか、それとも私が出したおやつが美味しかったと言ったのか。サトリである私にさえ分からなかった。
旧地獄において、いや、幻想郷全体を見渡しても、私が心を読めないのは古明地こいしただ一人だけである。私は、サトリ妖怪でなくなった彼女を前にしたときだけ、サトリ妖怪という呪縛から解放されるのだ。
「でも、そんなにお菓子ばっかり食べてると、頭がお菓子になっちゃうわよ」
私は忠告したが、こいしはなぜか嬉しそうに笑っていた。そうして彼女は、ありったけのお菓子を帽子に乗せ、こう言った。
「あたまお菓子なるで」
私は笑った。
こいしも、笑っていた。
◇ ◇ ◇
「今日のおやつもおいしかったなぁ」
手と口についた食べかすを丁寧に拭き取りながら、私は昇降口を出た。
「お姉ちゃんも元気そうでよかった」
私はくるりと後ろを振り返り、先程まで自分のいた建物を見渡してみた。
真っ白な壁に、大きなな窓。重苦しい見た目に、申し訳程度の草花。その四階建てのコンクリート構造物を見て、私は、まるで大きな下駄箱みたいだと思った。
再びくるりと振り返り、敷地を出る。たった今くぐった正門には、無機質な文字で、こう書かれていた。
〈医療法人蓮見会 神経サナトリウム〝地霊殿〟〉
私はここに、お見舞いに来たのだ。心を患った、姉のために。
人の心を読めるという妄想に、彼女が取り憑かれるようになったのは、およそ十年前のことだった。当時の私はまだ幼く、姉の身に何が起きているのか分からなかった。しかし両親は、そんな姉の姿を見て気味悪がり、すぐにこの病院に入院させてしまったという。
彼らは、妹である私を姉から遠ざけようとした。これは幼い私にショッキングな光景を見せないため、という建前で行われた処置だった。しかし、その本心では、両親は妹の私も同じように心を病んでしまうのではないかと恐れていたのだ。そんなことも知らないまま、私は姉の居ない幼少期を過ごした。私がお見舞いに行くことを許されたのは、それから十年経ってからのことだった。
姉の、私に関する記憶は、あの日を境に止まっていた。彼女は今も私をお菓子が好きな子供だと思い込み、看護師が用意してくれたお菓子を全て私に渡してくれたのだった。
そんな彼女を、私は哀れみはしなかった。寧ろ、懐かしいとさえ思った。十年間も彼女を独りにした私を、彼女はお菓子で歓迎してくれていたのだ。その歓迎に応えたかった。だから私は、姉が思った通りの、お菓子が好きな子供を演じることにした。そうしている時だけ、彼女は笑ってくれた。
姉の時間は、確かに止まっていた。だが、彼女の中で、時計の針は回り続けていたようだった。現実の時が止まってしまった代わりに、姉の頭の中には、自分の居場所としての幻想世界が作り出されていた。心が読めるという自分を正当化するために、彼女は妄想の世界を、その住人や地形もろとも創り上げてしまっていたのだ。
姉を少しでも退屈させないために、私はその世界についてたくさんのことを聞いた。私はたくさんのことを学び、たくさんのことを知った。姉の中にしかない、幻想世界のこと。姉が主を務めている、立派なお屋敷のこと。姉と共に住んでいる、たくさんんのペットたちのこと。それらは皆幻想で、でも、だからこそ美しくて。どうしてここまで素敵な幻想世界を、全くの無から作り出せるのか、私は不思議でならなかった。
そしてあるとき、私は気づいた。
その世界にただ一人、私という現実の存在が紛れ込んでいることに。
姉が私の心を読めないのは当然だ。
私という現実は、姉の想像の産物などではないからだ。
ただ一人、私だけが、彼女の世界に居場所を許されていた。
ただ一人、私を前にしたときだけ。
姉は、一人の人間として在ることができる。
姉は、妖怪というしがらみから逃れることができる。
だから私は、あれ以来、毎日姉の元に通っている。
古明地さとりの、ただ一人の妹として。
幻の世界に必要とされた、ただ一人の現実として。
私が地霊殿に〝帰って〟くれば、
姉は私を〝迎えて〟くれる。
私が「ただいま」と声をかければ、
姉は「おかえり」と返してくれる。
そんな、〝サトリ妖怪〟の妹であれたことを。
私は、今では誇りに思っている。