身体中の熱がなくなっちゃって、いっそのことアルコールで全部溶かしてしまおうかと思っていたけれど、三日三晩の後、どうも体調不良な感じだったから、やめた。そのせいもあってか、ここしばらくは消化器系の不調が続いていたのだった。死ぬことは怖くないし、てか死なねえし、痛いのにもそろそろ慣れたつもりだったけど、やっぱだめだった。気持ち悪いと我慢が効かない。そんなわけで昼間から部屋の中で布団を被ってうんうん唸っている。肌の上に汗が滲んで、まるで身体中が夏の日の飴玉みたいになっていた。それで、そっかもう夏なんだよなあ、とか思っていたけど、それは、まだ5月の終わりのことだったから、もう全然勘違いで、なあ慧音わたしさあわたしまた季節を間違えたよと言うと、慧音の方では、宇宙戦争だとかエイリアンだとかそんな話ばかりしていた。宇宙人の侵略はすぐそこまで迫っているらしい。具体的に言えば今晩だよと慧音は言いながら、毛布を剥がしてわたしの顔を曝す。こんな日に優れた造形をしているはずがないから見られたくなかったのに。
カーテンの隙間から差し込む太陽の光がだるい。
少しは気分よくなったかとわたしに聞くのは慧音で、わたしは立ちくらみ、ふらついて、支えにしようと触れたその肩もやっぱり慧音だった。
わたしは言う。
「そういや今朝のことなんだけど、うぇ、いや今朝かな……、でも昼前だ。それはよくわかるんだよ。太陽さえ出てればね……。練習したんだよ。習得するのに10年かかった、いやもっとかな。わたしは怠惰だからさ。でも、今は太陽の位置で正午がわかる。でも他の時間はめっぽうだめで。当然、ためしに言ってみることは出来るよ。でも、それは、当推量だから、みんな出来るよね。つまりさ、当時はそれしかなかったんだ。正午を刻む影時計は持ってたんだけど、そいつは、ひとつの盤面に季節ごとの正午の推移をすべて記してるから、そのおかげで、どんな時期でも完璧な正午がわかるけど、正午以外の時間は人と変わらない。あ、でも、この逆パターンとかもわかる。今度は、星空の形で、正子を言い当てるの。当時は、せっかく死ぬほど時間があるからいろんなことを覚えようと色々思ってやったけど、みんな中途半端だったな。今、思えば、だけどね。あの頃は、必死だったんだよこれでも」
「何の話だ?」
「あ、つまりさ、今朝、てか昼前に、気分悪いんで見てもらって薬もらおうと思って、永遠亭に行ったのよ。嫌、々、な」
「それはいいことだ」
「でも、行かなかったんだよ」
「はあ?」
「輝夜にあったらめんどくさいなあとか途中で思ってさ、健康ならいいけど気分悪いしな、で、やめて、道半ばで志も絶えてだよ、屋台で安酒買って飲んだら、そのときはよかったけど、やっぱだめだな。最低だよ最低」
聞いてるのか聞いてないんだろうな、慧音は支度をしていた。例の宇宙侵略とやらを見学にいくための支度だった。まさかわたしだってなあ本当に宇宙人がいるって信じてるわけじゃないぞおと言う慧音の、牧歌的な間延びした声、それ聞いたらそりゃあそうだろうなと思う。子どもたちが信じているというところだろう。だから引率するのかそうか、とかひとり納得していたら、ちがった。慧音は、子どもたちが宇宙人を見にいかないよう見張りに行くのだと言う。
「見張りってまた過保護だね。いない宇宙人くらい好きに見させてやればいいよ」
「だめだ。夜の森は危ないんだぞ。明かりだってないし道にも迷いやすい。何が出るか知れたものじゃないだろう」
「そうだな、危ない。でも子どもにしてみりゃそのスリルがたまんないんだ。わたしも幼い頃には色々やったな。大人に石を投げたり、盗みに入ったりな」
「妹紅お前そんなことをしてたのか」
「いや、その……。時効だよ。まじで、そうだろ。それに慧音だってそれを知らないわけじゃないでしょ。実を言うとわたしはびっくりしてたんだ。わたしたちが知り合った頃、慧音が逢瀬の場所には必ず人里や時には学校のそばを選んだこと。慧音先生は知り合いにわたしたちの関係がバレないかどうかほのめかしては楽しんでたんだ。物語には典型なタイプだね。お堅い人間ほどスリルを好みたがる。うんざりするよ。むかつくし。それって、まるで貴方とただ会うだけじゃあたし物足りないわって感じでしょ」
「なあ、妹紅、おい」
「あー、なに」
「そういうことじゃない。わたしだって出来れば子どもたちのささやかな楽しみを奪いたくはないさ。でも、今回はちょっとばかし事態がちがうんだ」
「どういうこと?」
「もとは子どもたちのたわいない遊びだが、今じゃ噂は里中に広まってる。大人たちの中でも信じてる者もいるんだぞ」
「まさか」
「子どもたちにはチラシを持たせたよ。そこには、親向けに、噂はまったくのデマだってことや子どものことをちゃんと見ておくよう書いてある。もちろん子どもたちには宇宙人を見にいかないよう口酸っぱく言ったよ」
そこでやっと、わたしは、慧音の言いたいことに思い当たる。
つまり、危険な宇宙人は必ずしも宇宙人に非ず、ということらしい。宇宙人襲来の噂は里中に伝わっているので、怪しげな連中やある種の妖怪たちもそのことをよく知っているのだろう。そいつらが、乗じて子どもたちを襲う可能性がある、ということだ。そしてそれは恐らくいもしない宇宙人のせいになるし、さらにうまくいけば良識のある人間たちさえも愚かな噂を信じはじめるだろう。そうすれば同じことを二度三度と繰り返すこともできるかもしれない。いや、たぶん、繰り返した方がいいのだ。これもまた類型だな、と思う。本当に怖いのは身近にあったという類のオカルトである。
「悪い子は連れていかれちゃうってわけね」
「そうだよ。そして、お前に言わせれば、こどもはみんな悪い子だろう。だからわたしたちが安全を守らなければならないんだよ」
「まあ、そうね」
合点がいったのでわたしは満足してまた寝ることにする。汗ばんでいるのでそれが気持ち悪くて風呂でも入ろうかと思ったけれどそれも時間がかかるのでめんどくさくなり、布団を被ると、もしかしたら汗ばんでいるのは毛布の方もではないかと思いつき、それじゃやっぱり風呂入ってもしょうがないなと入浴の理由が何もなくなってしまって、寝る。すると慧音がまた毛布を剥がすのでこれは何事かと思っていると、おうい妹紅はやく行くぞみたいなことを言っているから、慧音は最初からわたしと行くつもりだったらしい。わたしはだめなんだよう、と応えると、そんな甘えた声出したってだめだぞって言いたいつもりだったのかな、慧音は、そんな声、そんな、声……、とかもごもごと言いながら、布団の上をわたしを揺すっていた。
「今日は、無理。あした……、あした行こ。明後日かな」
「ばか。今日じゃないとだめに決まってるだろう。それに見たところ、体調は回復してそうじゃないか」
「いや、体調もよくないけど、それよりもだめなんだ。だるくてさ。身体のでっぱったとこみんなにバルブがついててさ、そいつがみんな開いちゃってるんだよ。何一つわたしにストックされないの。垂れ流しさ。行動っていうのは、つまり爆発だからね。こう、衝動が身体中に少しずつ溜まっていって、あるとき、ばんっ。やる。する。水飲み行くのだって、破裂だよ。でも……、だから、今はなんもできない。したくもないし、ね。こういうの、たまにあるんだよ。周期的なものかな。身体中の熱がなくなっちゃったみたいで……。でも、冷えるのとはちがう。冷えるのは、もっとクリアリー、って感じ。たとえば輝夜の憎しみでいっぱいの夜はそんな風だね。最初は怒りでいっぱいでもうたまらないけど、次第に落ち着いてきて、澄む。風の音とか。思うに怒りに関係する神経がどんどん熱くなってきて焼き切れちゃうのかな。でも、今は……、温いっていうのとも、ちょっとちがうな。生暖かい時は気持ちよくもあるから。温い風呂につかってるのは、けっこう気分いいでしょ。だから気分悪くて最悪なんだけど、その中にある種快楽めいたものを感じることができる。最低、って言うそん中にも、最高はあるってわけで……。でも、今は、そうでもなくて。だから、この温度って、わからなくて。生温いよりはもっと冷たいけど、そんなにはっきりしないし、だるいことはそれなりにだるい。ただ、熱がないってふう……」
「たぶん飲み水にはちょうどいいさ」
「え。飲みもんは冷たい方がいいよ」
「それもそうだな」
納得したのか、それとも説得を諦めたのか、知らないが、慧音はどこかへ消えてしまう。しばらくすると、水でいっぱいの桶を抱えて戻ってきた。特に考えなしに思いつくまま、それって飲み水なの……、とかわたしが言ったりしていると、慧音は、布団に横になっているわたしの頭にその水をかけた。わたしはびしょ濡れになった。
「あ? え、なあ、慧音?」
「はやく着替えて、出かけるぞ」
「え、お前、ばか? もう、さ、まじで、部屋がこんな水びたしになっちゃって……」
「わたしの部屋だ。気にしないよ」
「いや、まあ……、そう? でも、床、腐ると思うよ」
「腐るなら勝手に腐らせておけばいいさ」
そう言って家を出てしまう。
そこではじめて、慧音は怒っていたんだな、とわたしは思った。
外行きの服に着替えて床を掃除してから慧音の後を追った。
慧音は森の入り口で座って待っていた。
座り方が、少し足を開いて俯き加減な感じなんで、せっかくなんだから顔あげて空でも見ろよな月の明かりで雲がこんなにも透明で……とか思ったけれど、余計なことはもう言わない。生涯言わないと思うんだけど、どうかな。生涯しないでいようと思ったことはたくさんある。生涯しないと思ったまま、結局したことはそれよりたくさんある。
「この論理わかる?」
「つまり、もう一生しないと思ったあることを、お前はそのあと何度もやったんだろう」
「うん。なにしろ人生が長いもんな」
「そうだな」
それからわたしたち、森の中へと歩き出す。
満天には少しはやい時間だけど、すでにあたりは真っ暗で、わたしは手で炎をつくって明かりにする。踏みしめる、落ち葉や枯れ枝のしゃきしゃき鳴る音。
「床、きれいにしといたよ」
「うん」
「あのさ、床のことはともかく慧音はけっこうずぼらなところがあるよね。類型で言やきれい好きなタイプだけど、でも、あんま気にしないでしょ」
「そうかあ?」
「思うよ。部屋とかわりと汚いしがっこの書類とかそこらへんにばらまいておいたり、整理整頓できないよね」
「妹紅はけっこう綺麗好きだ」
「人並みにはね」
慧音がわたしを小突くのでなにかと思ったら、いつの間にか炎を点すのを忘れていた。手は首の後ろにあった。褒められると、首の後ろに手をやってしまうのがわたしの癖らしい。そっか褒められたのかと思う。いや別に慧音は全然わたしを褒めてなんかなくて単にその性質に言及しただけなのかも知れなかったけれど、ともかくわたしは嬉しく思っているようだった。暗くて前が見えない。木の根っこに足をかけて前のめりになった。火をつけてくれって言う、ランタンを差し出した慧音の顔が熱い光で下から照らされて赤色になった。
「そういや、この前さ、暇だったから家の水道を掃除してたんだ。汚かったからな。なんか、白くなってただろ。せっかく綺麗な青色をしてるのに。だから、ざっとだけどな、掃除して、そしたら、結構きれいになったんだけど、知ってた?」
「いや、知らなかった」
「まあ、そうだよな。だってさ、その日のうちにその白いの?そいつがまた出てきたんだよ。あれ、何だ? カビかな。根こそぎやんないとだめなやつ? それとも水道管からなんか漏れてんじゃないかな……。とにかくさ、一度見てもらった方がいいと思うよ」
「じゃあ、今度お前が、配管屋でも呼んで聞いてみてくれ」
「うん、いいよ。ああ、でも……、わたし、やなんだよな。ああいう、業者とかうちに呼ぶの。仕事だってのは承知だけど、家の中見られんのとか嫌じゃねえ?」
「お前の家じゃないから別にいいじゃないか」
「ま、そうだけど……。気まずいじゃん。ああいう作業してる間とかに、ふたりきりでいると、こっちは何していいかわからなくてさ。見てんのも、なんかお互いに気まずいしな。向こうがこっちを意識してんのがわかるんだよ。それって、自意識過剰か? あと、お茶とか出した方がいいのかな、とかも思うけど、たぶん絶対いらないよなあ。あっちだって、はよ帰りたいよね」
「気にしすぎだよ」
「そう……、そうかなやっぱ。あんま感覚わかんないんだよなあ。家の中に自分以外のひとがいるっていう感覚がさ。ほらわたしって何百年もいつも自然の仮住まいに住んでただろ。だから自己完結してたんだよ。なんか問題あったら、燃やして移り住むだけだったしね」
「でも昔からよく居候はしてたんだろう」
「まあね。それは、全然大歓迎。たいてい条件があるわけで、向こうがわたしに求めるものもわかる。でも、一緒に家を所有するっていう感覚は、未だにわかんないな。あー、つまりさ、わたし、慧音んちに居候してんだなっていう引け目感じてんのかな」
「わたしの家をお前の家だと思っていいっていつも言ってるじゃないか」
「でも、さっき慧音、お前の家じゃないって言っただろ」
「そんなの言葉の綾だろう。もしかしてお前二人の家が欲しいんじゃないか」
「そう、思う?」
「ああ」
「そうかな、そうかも」
「わたしは嫌だよ。あの家を手放す気はない。昔、家族が住んでた大事な家なんだ」
慧音はまだ怒っているのかと思ったけれど、どうやらそうでもないようで、洗面台をきれいにしたらなにを置こうとかそういうことを楽しそうにつらつらと話している。わたしは緑のイルカがいい、と思った。イルカは、昔、本で知った外の世界の生き物だった。慧音は知らず、わたしは慧音にも知らないことがあるんだなあと言葉を言ったりしたが、実際は慧音が知らなくてわたしが知っていることはたくさんあるし、わたしは長生きなのでそれなりに物知りだった。竹林の賢者なんだよと言ったけど、そうではないと慧音は言う。緑のイルカの置物はたしか里の出店で見た気がする。でも、幻想郷にそんな置物があるはずもないから、なにかを勘違いしてたのかもしれないな。イルカのことはすっかり諦めて、誰かのお土産でもらった小さめのトーテムポールを飾ることにする。おそろいの歯ブラシを使うのはどうだろうという話をしようと思ったが、やめた。よく考えてみると、取り違えてしまう可能性は高そうだった。
「それにしても、こうしてお前とふたりで出掛けるのも久しぶりだな」
「そうだっけ」
「うん」
「あ、ほら、この前、ミュージカル行っただろ。あれはどうなの?」
「たしか、お前は寝てたな」
「退屈でさ。いや、退屈っていうのとはちがうな……。退屈な劇ってむしろわたしは好きなのよ。退屈ってことは、そこにゆっくりした時間が流れているってことだろ。芸術の役割は別の時間を提示することにあるんだよ。芸術を構成する諸要素は、時間をつくりだすことに奉仕すんのさ。その、別の速さ、形、色の、時間を鑑賞することで、わたしたちはむしろ、今こうして自分の周りに流れる時間の形をその一部を理解するんだよ。あれは、その意味じゃ最悪の劇だったね。時間がずたずたなんだ。時系列がどうとか急ぎすぎとか展開の速さとかそういう話じゃないよ。造形に時間の観点がないんだよ。典型的なその場しのぎってタイプの話でさ」
「そうか? でもずいぶん愉快な話だったぞ」
「そう?」
「ああ」
「じゃあ、損したね」
まだ着かない。慧音の話では、宇宙人がやってくることになっているのは森の奥の子どもたちの秘密の広場だという。聞いてみたいなって思うことはたくさんある。どうして宇宙人がやってくる場所が予めわかるのか、とか。子どもたちの秘密の広場をなんで慧音が知ってんのかな、とか。でも、なんだか面倒だったし答えもわかる気がしたから、言わない。わたしはいつも聞こうと思ったことを後でいいやと思ってそのまま時期を逃してしまう。たいていは聞いても聞かなくても変わんないことだから後悔なんか全然しないけど、たぶん本当は優先順位とかをつけるべきなんだろう。慧音にいちばん聞きたいこと、それをちょっと考えてみたけど今は特にこれっていうのが思いつかないな。わたしは歩き疲れて、慧音の背中で揺れる巨大なリュックサック、あんなにもいっぱいで、いったい何が入っているんだろうと思うけど、そのことは聞かず代わりに、なあ慧音さあわたしお前のリュックサックになりたいようって言う。なればいいさと慧音は笑った。最近寝たきりだったせいか少し歩くだけで足が痛い。やっぱりまだ着きそうにもなかった。夜も更けるよなあ、とか、そう思う。
「ねえ」
「なんだ?」
「あー、つまりさ」
「なんだ」
「あ、そう……、宇宙人ってどんな姿してるって話なの?」
「それがおもしろいところなんだよ」
ひとりでふふふと笑って慧音は黙ってしまう。
仕方ないのでわたしはまた聞く。
「え、なにが?」
「ああ、つまり、宇宙人については、子どもたちがそれぞれに言うことが違うんだよ。その想像、それぞれに個性が出ててとてもおもしろいんだ」
「へえ、たとえば?」
「あるやつは宇宙人は虫だって言うんだよ。巨大な昆虫な。今地球にいる虫たちはスパイらしい。そうだ、お菓子のUFOが来るって言ってる子もいるよ。饅頭をバタークッキーで挟むんだ」
「お菓子のUFO? それ、やばくない?」
「そうかあ? 子どもらしくてかわいいじゃないか」
「じゃなくてさ、じゃなくて、教育が。きょーいく、が、だ、よ」
「教育?」
「そうだよ。かわいらしいとか、言ってる場合じゃないよ」
「いいじゃないか、まだ小さい子だよ。そのくらいの年齢には想像力を育んであげることが大事だ」
「ああ、そう……。」「いや、想像力?」
「そうだよ?」
「それって、やっぱ、まずくねえ? 子どもたちが想像力あんのは、別に、いいよ。まあでも、厳密に言や、想像力なんてものはないんだよ。あるのは、造形。想像力って言葉はよくないとわたしは思うな。それって、なんだか何もないところから新しい形をぽっと取りだしてみる、みたいな感じじゃん。でも、実際にはそうじゃなくて、みんな考えを創り上げるんだ。子どもが好き勝手造形すんのは、いいよ。でも、大人が、それを手放しで喜んでいちゃだめだろうが。子どもが、色んな変なものを考えるのは、想像力が豊かだからじゃない、単に作り方を知らないからだよ」
「ふうん、そうか」
「怒ったの?」
「いや……、じゃあ、宇宙人ってのは、どんな形をしてるんだろうな?」
「そりゃあ、人と変わんないさ。月の人間を知らないわけじゃないだろう。性格は最悪。傲慢だし、オリエンタリズムで排外的、もうどうしようもないね」
「あはは。造形に、人生経験が出てるぞ」
「うるさいなあもう」
慧音は笑っている。むっとするかなとわたしは思っていたからそのことはなんだか不思議だった。それに、続けてこんなことまで言う。
「今度さ、子どもたちに会いに来たら、どうだ?」
「まじで?」
「ああ」
「やめとく」
「どうしてだ?」
「なんとなく、だけど……」
「いいじゃないか。子どもたちだって妹紅先生に会いたがってるよ」
「なんで?」
「わたしがよく話を聞かせてるからだ。色んなことを知っていて、面白いし、楽しい人だってな」
「余計行けなくなったな。ああ……。」「てか、そういや、プールは、どう?」
「いい感じだよ。もう半分くらい掘れたな。この調子なら、夏には間に合いそうだ。ここのところは、毎日子どもたちとみんなでシャベルを持って穴を掘ってる」
「なんかさ、それって、中世の奴隷児童労働みたいだな」
「お前なあ」
「いや、悪かった。ほんとに。たぶん、わたし、慧音の子どもたちに嫉妬してるんだな。取られちゃわないかそういう心配で……、わかるでしょ? なに・コンプレックスって言うんだっけ? ほら、子どもが夜にふと目を醒まして、父親が母親の乳を飲んだりしてるところを見ちゃったりすると、その子どもはわけもわからないなりに深い孤独に陥るって言うだろ。それが、正常な発達に影響して、不良をつくるんだよ。わたしのは、あの逆ヴァージョンだね」
「なあ妹紅、どうして、父親が母親のおっぱいを飲んだりするんだ?」
「わたしが知るかよそんなの。」「……まじでさ」
少し開けたところに出たなと思ったらそれは低い崖の下の岩場で、菱形の平らな石に腰を下ろした慧音は、明らかに歩き疲れた風のわたしを気遣ったのか、それとも元々そういうつもりだったのかもしれないけれどもとにかく、夕飯にしようと言った。慧音はリュックサックの中から質のいい赤い生地の風呂敷を取り出して土の上に敷き、料理をてきぱきとを並べた。魔法瓶からマグカップにコーンスープをなみなみ注いでわたしに手渡す。風が凪いだ。木々の揺れる音がしなくなる。こういう瞬間には、はっとするようなことを言ってやりたいとわたしは思っているけど慧音は絶対思っていないから、これ熱いな、とか呟いてた。たしかにやけに熱かった。飲むと甘い味がする。熱くて甘い物はぬるいのがいちばんいいよ、とわたしが言うと、ふーふー息を吐いてる慧音もうんと肯いて同意する。おにぎりを食べた。これ中身何って聞いてみたけど、慧音はわからなかった。かすかにしょっぱくて、どことなく甘い味。中身は鮭だった。
「高騰してるんだっけ?」
「ああ。え、なにが、鮭?」
「うん」
「今年はあんまりのぼってきてないらしい」
「熊ががんばってるんだね」
「どうだろうな」
「みんな生きるのに必死だ」
「ああ」
みんな必死ならどっちかというと熊を応援したくなるよ、というようなことをわたしが言うと、熊は怖いと慧音は言う。お前が応援したいのはティディベアかなんかだろう、って。言われなくたってわたしは本物の熊のことをよく知ってる。むしろ慧音はそんなに知らないだろう。でも、慧音の言うことは概ね正しかったから、わたしは何も言わない。木の箸で肉じゃがをつついて食べた。よく味がしみていておいしい。それがなんの味かっていうのはよくわからないんだけどね。舌の上で味を分解できないな。何百年も毎日食べてんのに、わたしはいつまでたっても、ものを食べるのが上手にならない。
「それはお前が今までろくなものを食べてこなかったからだよ」
「そうかな、まあそっか」
「料理の練習はしなかったのか? 時間はあっただろうに」
「どうも苦手でさ」
「そうか? 妹紅には向いてそうだと思ったんだけどな」
「そう思う?」
「ああ。まあ、そう……、化学の実験、とか、よりはそうだな」
「そりゃあね。でも今は嬉しいよ。慧音が毎日おいしいものつくってくれるから」
「そうだろうそうだろう」
「これ怒るとこだよ。もこーは、飯さえつくってくれればそれでいいのかって」
「実際お前はそうじゃないか。それにわたしは楽しみにしてるんだ」
「なにを? わたしがおいしそうに慧音のつくるもの食べてあげること?」
「まさか。わたしが死んだ後、おいしいものを知っちゃったお前が、またまずい飯を泣きながら食うところだよ」
「いやなやつ」
「あはは」
「でも、どうしよっかな……」
「さあな」
「慧音お前、死ぬ前に向こう百年分くらい作り置きしといてくれねえ?」
「そうだな、考えておくよ」
わたしはすっかりお腹がくちくなった。お腹がくちくなると眠くなるし、はたして慧音もくちくなっているだろうかと思って見れば、慧音はマグカップを両手で持ったまま、うつらうつらとしていた。忙しいやつだなって思いながら揺すって起こして、中身の少し残ったカップにコーンスープをついでやる。ずいぶん飲みやすい温度になったよと教える。待ったかいがあったよって慧音は笑った。それってほんとかよ。だって、別に、コーンスープの温度が下がるのを待ってたわけじゃないだろう。ただお腹いっぱいになったから勝手にうとうとして――、まあ、なんでもいいか。あくびを吐いて背の低い岩を枕に仰向けの格好で寝転がると視界には星空、慧音お前さもう元々の目的忘れてるんじゃないか、とか、言おうかなやっぱやめようかな、考えてたら、慧音が言った。
「そうだ。昔はお前、もてなかったんじゃないか?」
「え、なにそれ」
「前から聞こうと思ってたんだ。恋人の過去のことって気になるだろう?」
「まあ……、どうだろ。慧音の言うようなとこも、あったかも、しんないけど」
なぜか慧音はにこにこと笑っていた。
「なんだよう」
「いや、嬉しいんだ」
「はあ?」
「授業で子どもたちに歴史を教えるだろう? 教科書の昔の偉人の絵を見てみんな笑うんだ。変な顔だって言うんだな。世界三大美人とかもあるだろう? ああいうの見てもこれが美人なんてありえないとかって言ったりな」
「想像はつく、けど」
「それで考えたんだが、もしかしたら、妹紅もそうなんじゃないかって。ほら、妹紅は今はまあ、愛嬌がある感じだが……、逆に昔はそれが時代にそぐわなかったんじゃないか。未来じゃ、きっと、流行も変わるし……。つまり、今の妹紅がいちばんかわいい妹紅なんじゃないだろうかって、この前な、ふと思ったんだよ」
「いや、え、それ、なに? 褒めてんの? わかんないよ」
「別に褒めてはない。自分自身の幸運を噛みしめてるんだよ」
「あ、そう」
「あと数百年もすればお前のかわいい顔も時代遅れだな」
「余計なお世話だよ。」「でも、慧音先生の考えは間違ってると思うけどね」
「そうか?」
「やっぱさ、通底はあんだよ。そりゃいわゆるムーブメントはあるよ。でも、たぶん、昔のいちばん綺麗なやつが、今に来たら、やっぱ綺麗なんじゃねえ? 教科書の絵が変に見えるのは、むしろ絵画作成技術の問題だね。別に顔貌に限らずさ、美しさとかって通底するものがあるってわたしは思うよ」
「ま、お世辞にもお前の顔貌は美の到達点にはほど遠いだろうな」
「そうゆう話じゃないからさ。」「あーあ、まじで、そう……」
そういえば、輝夜のとこで人の顔貌を好きなように変える技術的発見があるらしい、と聞いたのをわたしは思い出す。それが本当ならわたしの顔もいつの時代の流行にもついていけるよなという話をするとまずは輝夜と仲直りしなきゃみたいなことを慧音が言うので仲直りとかそんな言葉で済まされる問題じゃないんだけどなって思うけど、でもわたしは結構当てにしてたから輝夜のせいで変な顔になっちゃったりしたらたしかに堪らないなということを少し考えた。
「どうも、うどんげちゃんが、実験を頼まれてるらしいよ」
元はと言えばその話を教えてくれたのもうどんげちゃんだった。
永遠亭には出来れば近づきたくないので、あそこのことはたいていうどんげちゃんに聞いて知る。あの子は心の優しい子だから、わたしは好きだった。そのうどんげちゃんと言えば、その実験によってさらに(って、うどんげちゃんは言ってた)かわいくなることには依存はないし結果が気にくわなければまたその都度変えればいいのだけど、いつか顔に一度も人工的な変更を加えないということ自体が価値を持つようになったら困るので今はなんとか拒んでいるらしい。一生を添い遂げたいと思うような気に入る人が見つかったら、その人を意見を聞きたいと言っていた。
難儀だよな、とわたしが言うと、なにが?って慧音は言う。
そうやって返されると具体的にはないので、いろいろだよってわたしは笑った。
そろそろ行くかって慧音が言うのでわたしたちは行くことにした。
そして行けば、当然いつかは帰ることになるけれど、とりあえずのところわたしたちは相変わらず行っていて、それがどういうことかというと、まだ着かないってことだった。そう、まだ着かない。わたしは足が痛かった。「ねえ、慧音」って道中、何回言ったんだろう。
「ねえ、慧音、まだ着かない?」
「まだ着かない」
「ねえ、慧音、脚痛えよう」
「我慢しろ」
「ねえ、慧音、夏でもないのに今日暑くない?」
「うん、暑いな」
「ねえ、慧音、カレンダーの大安とかってあれなんだ? いらなくない? 占いとしても中途半端だしさあ。いや、その意義は理解できるよ。あ、てか、カレンダーって癒着だよな。悪い共同体はみんな刷るだろ、この前の守矢が出したのを見たか? 8月には一面の鹿だ。なんで一面の鹿?」
「さあな」
「ねえ、慧音?」
「なに?」
「ねえ、慧音、お前なんかおもしろい話ないの?」
「今はないな」
「ねえ、慧音、まだ着かない?」
「まだ着かない」
「ねえ、慧音、わたし待つのはいくらでも待てんだよ、100年前くらいかな、氷の国でオーロラを見るために極寒の中でものも食わずに183回死んだ。我ながらよく我慢できたよね、でも着かないのはだめだな我慢きかなくて、不思議だよ、これって脚が痛いせいか?」
「わたしが思うに、妹紅は永遠に生きるから待つことはそれほど苦じゃないんだ。逆に死ぬ人間ならいずれみんな死んで同じところに辿りつくけど、でもお前は永遠にどこにも着かないからそれを恐怖するんだよ」
「ねえ、慧音、それってまじ?」
「どうかな」
「ねえ、慧音」
「なんだ?」
「ねえ、慧音」
「何?」
「ねえ、慧音、まだ着かない?」
「もう着いたよ」
「よかった」
子どもたちの秘密の庭は、森の中に丸く空いた芝生の広場だった。
今はその青い葉の先で露のしずくが月明かりに照らされて、遠目には湖のようだった。風が吹いて水面がさざめく。映らない星々は空に浮かび、その回転する星模様の真ん中には、半月。
遠く虫の音がする……。
りん、りん、りん。
たしかに、エイリアンを迎えるには、ちょうどいい夜だった。
「綺麗なところだね」
「ああ」
わたしたちは、踏みしめる。
広場の真ん中に立って中空に炎を浮かべ周囲を見渡すけれど、エイリアンどころかわたしたち以外の人間の影も見つからない。
「子どもたち、いないね?」
「ああ……」
慧音は考え込み、わたしは芝生の上に仰向けに寝転がる。
「まあ、待とうよ」
「それ、濡れないか?」
今日は水難だから、とかよくわからないことをわたしが言えば、慧音は少し笑ってわたしの隣に腰を下ろす。見上げた慧音の顔が月明かりで白かった。血管がわかるかな、と思って眺めていたけれど、結局わからなかった。
「ていうかさ、子どもたち、来てないんだよ。無駄足だったわけ。あの怖い慧音先生にあれほど言われたら流石の子どもたちも悪さしないさ。それに、親たちにも連絡しているんでしょ? そりゃあ、来れないって」
「そうだな、わたしもそう思う」
ふぁあ、と慧音は小さなあくびをした。
それから言う。
「なあ、妹紅」
「なぁに?」
「今度、子どもたちに会いに来るといい」
「またその話?」
「みんな良い子たちばかりだから、きっと、お前も大好きになるさ」
「その、大好きになる、ってのが、わたしは嫌なんだよな」
「ああ、あれか。別れが寂しくなるから、ってやつか」
「ちがうよ、ばか。これは、わたしとお前の教育方針の問題だよ」
「なんだそれは」
「つまりさ、わたしは、お前の教育理念には断固反対なわけ。ま、話で聞く分にはね……。子どもたち、好きになったら、わたし絶対口出したくなる。」
「ほう、いったい、それはどういう?」
「さっきの話、あったでしょ。UFOの造形の」
「ああ」
「あれがいい例だよ。わたしは、子どもには優れた思想を教えるべきだと思う」
「それはあんまりいい考えとは言えないな。まだ若いうちには自分でものを考える力をつけてやるべきなんだ。だって、そうだろう。ある考えを押しつけても、それがもしも間違えだとわかったらどうする?」
「そうだけど、考える力って言ったって、結局、多くの子どもたちは選べないし考えないんだよ。慧音だってわからないわけじゃないでしょ。蛙の子は蛙って言葉にあるように、八百屋の子は八百屋を継ぐし肉屋の子は肉屋を継ぐ。実際にはそうじゃないけど、少なくとも考えっていう意味じゃ、そうだよね。つまりさ、いくら考える力があっても考えの題材はどうしてもその個人の周囲に存在するものに限定されるから染まる。結局、考える力っていうのはその共同体の中の立位置に影響するだけなんだよ。それもまったく無意味ってわけじゃないけどね。だから、教育っていう意味を考えたときには、先に思想を教えなきゃいけない。たしかにそれが後々間違いだってわかるかもしれないよ。でも、それをやらなきゃ何も変わらないんだよ。永遠にずっと同じことを繰り返すだけ。慧音の言いたいことはわかるよ。これって言い方を悪くすれば、思想実験みたいなものだもんね。でも……、わたしだって、子どもたちのことは好きだよ。これから先永遠に生まれては通りすぎてく子どもたち……。彼らが、みんな幸せだったらいいと思うし。そのためには……、いや、嘘。こんなのみんな冗談だよ。慧音を困らせたくてさ……。ああ、やめようやめよう。もうさ、まじで……。しまいには、わたし、お前とわたしでそれぞれ子ども育てさせて、どっちが強いか戦わせようとか言うよ。そういうのって最低だよね、最っ低」
「どうかな」
「わたしは最低だよ」
「お前は誰かを愛するには少し気が長すぎるのかもな」
「ああ? だと、いいんだけど……」
わたしは、目を閉じる。
風に揺れる草木の音と虫の鳴き声だけが永遠に広がる闇の一番遠いところで鳴っていて、近いところで衣擦れの音が何度もする。慧音の音だ。見れば、体育座りの格好で落ちつきなそうに前後に揺れている。その悪態をべつの慧音先生が見たら注意するんだろうとか、そういうことを考えていた。
「ねえ」
「何?」
「やっぱ、子どもたちのこと、不安?」
「ああ」
「慧音は心配症だね」
わたしは起き上がって、慧音の後ろに立って両肩に手をやる。
手のひらの下の部分に力を込めて何度か押してみる。
「おお」
「凝ってんね」
「そうか?」
「やっぱり、子どもたちのことは、子ども思いの慧音先生に任せるのが一番だよ」
「妹紅」
「これ、まじだよ。全然もう冗談なんかじゃあ、ない」
そのまま背中から慧音を抱きしめた。
慧音の身体は硬い感じがする。たぶん、やせているからだろう。それは心配性のせいかな、って思ったけれど、もともと体質なのかもしれない。骨ばった身体が嫌というわけではない。何百年も生きているとあんまりそういうことは気にならなくなる、外見や体質や癖に関する後ろ向きな質問を慧音に聞かれたときはそんなふうに答えるようにしている。
「わたし、慧音の骨が出てるところとか、好きだよ。そういうのって何年も一緒にいると段々気に入るようになる」
いきなりどうしたんだ、と慧音は笑う。
慧音を抱いたままわたしは座り込む。
彼女を倒して、わたしの組んだ脚の上で頭を置いて寝かすような格好にした。
「とにかく待つことだよ。ここに来るまでの間、悲鳴も異音も聞こえなかった。わたし、これでもずっと気を遣ってたんだよ。なにか起こる可能性があるとすれば、これから子どもたちがやってくることかな。それも考えにくいけどさ」
「そうだな。ありがとう」
「うん、気にしてね」
わたしは空を見ていた。半透明の薄い雲が煙のように月の傍を漂っている。星空は回転しているな、と思う。不意に、なにか予感めいたものが胸の奥のところを刺した。目を閉じて心の指でその鈍く疼く予感の外周に触れて形を確かめようとするけれど、予感はうきのように沈み、また浮き上がってはもう一度かすかな波紋を心に広げる。なんだかひどくもどかしい。ため息をついて目蓋を開けば、星空――、そうだ、その形、それが……、回転する……、でも、いったい何の予感だろう。慧音の声がした。
「なあ、妹紅」
「なに?」
「待つと言えば、はじめて、デートしたときのことを思い出したよ」
「ああ、そうね」
慧音は声を出して笑う。
はじめてのデートのとき、わたしは約束の待ち合わせ場所で、二週間も慧音のことを待っていたのだ。
「あれは、傑作だったな」
「どうしても時間に遅れたくなかったんだよ。お前、時間にうるさいだろ。わたしは、どうしても、ルーズだから、うまくやりたかったし……」
「それにしても、なあ」
待ち合わせ場所に仮住まいをつくってわたしは住んでいた。それなら絶対に遅刻することはないだろうから。でも結局、約束の時間には、家を出ることができなかったな。
慧音とそこでふたりで暮らしたから。
待ち合わせ場所の竹林の入り口に建てられた竹の小屋を見て慧音はとても面白がった。勝手に上がり込んで住み着いた。今から家を出ても絶対に間に合わないぞ、と慧音は何回くらい言ったかな、その度にひとりでくくくと笑っていた。べつにおもしろくもないだろうがようと思ったけれどわたしは言わず、慧音が笑うそのことが無性に嬉しいので一緒になって笑っていた。味のしない蓄えをふたりでまずいまずいと言いながら食べて、慧音の聞きたがるわたしの過去の話をした。幸い出来る話はたくさんあった。それでもすぐにやることはなくなって、わたしにすれば、ふたりで藁葺きの屋根の隙間から見える空模様が移り変わるのを眺めているだけでも十分だったけれど、慧音はそうじゃないみたいで地面に線を引いて子どものやる遊びをやったりした。わからないように手を抜くのが慧音はうまいので、それがわたしにはたまらなく腹立たしかった。死ぬ人間に腹を立てたのはとても久しぶりのことだった。それがなんだかおかしくてわたしが笑うと、今度は慧音の方がわけもわからず一緒になって笑っていた。慧音は想像していたよりもずっとせわしくて慌ただしい感じだった。
わたしが家を出たのはその6日後になる。
もちろん、6日経った後も慧音は約束の場所で待っていた。
わたしは笑う。
「そうね、楽しかった」
「ああ」
「うん……。」「あのときくらいだよね」
「なにが?」
「いや、慧音が学校さぼったの」
「さぼったって。わたしは先生だぞ」
「でも、けーね、無断で寺子屋空けてたよねえ。覚えてる? わたしが言ったんだよ。子どもたちが心配するから帰った方がいいよって」
「そうだったかな」
「もう覚えてるくせにさあ。あんときは困ったね……。まじだよ」
「悪かったよ……、のぼせてたんだ」
「ふふ、あつあつだったね」
「飲むのには困る温度だ」
「だね……」「いや、熱い飲み物は別に熱くてもいいかな。それを待つ時間もおいしいからさ」
「そうか? よく、わからないけど」
「そうだよ、決まってんじゃん」
それから、わたしは言う。
「聞こえる? UFOが来るよ」
「まさか」
「うん。聞こえない?」
「そうだな。いま聞こえるのは、虫の声、風の音、木々や草葉が揺れるざわざわとした音も。衣擦れ、それにお前のかわいい声……」
「ねえ……、慧音、UFOが来る」
「お前、噂を信じてるのか」
「ちがうよ。今じゃない、いつか、遠い未来の話だよ。いつか、ずっとずっとずーっと、先の未来でさ、UFOがやってきてわたしたちみんなを攫っていくんだよ」
「妹紅はそう信じてるのか?」
「うん。そしたらわたしたちみんな新しい形になる。すべてが変わるんだ。すべての枠組みが……、それがどんなふうっていうのは、当然わたしにはわかんねえけどね。今のわたしたちの形は完全じゃない。生きることとか死ぬってことや暮らすこと、それに時間だね、時間の流れ方、そういうすべての認識が……、一新される。ねえ、慧音、知ってた?知ってよ、ねえ……、わたしは永遠に生きるんだよ、永遠に生きるっていうそのことが、今で言う永遠に生きるっていう言葉の意味を持たなくなる時代まで、さ。そのとき、わたしは、はじめて死ぬんだよ。慧音、お前や、うどんげちゃんや、人間たちと同じようにね」
「そうなのか」
「ああ、そうだけど。でも変だな、こんなこと誰にも話したことなかったのに」
慧音はわたしの顔を見て眺め、微笑んだ。
「なんだよ」
「いや……。わたし、少し寝て待つから、子どもたちが来たら起こしてくれるか」
「いい、けど」
ふぁあ、と慧音はあくびをして、そのまま目を閉じて眠ってしまう。
すーすー、と寝息を立てている。
星を眺めていると、来る、と思った。
今やわたしはその予感の理由を知っていた。
それは、星々が正子の形になる、という予感だった。すぐに思いあたらなかったのは、その頃見て覚えたのとは星模様が少し違っていたからだ。考えてみれば、何百年も過ぎるうちに、星の位置だって少しずつ変わっていき、消えてしまう星だってあるし新しく生まれる星もある。こちらの見るレンズだって変化していて、思い出すのは外の世界からやって来た紫色のスモッグが空を覆うってニュースのこと、わたしの視力はあの頃よりよくなったのかな悪くなったのかな、よくなってるってことはねえよなあ、とか、生きてればすぐに星の形だって変わるよねって思うし、きっとそんなふうにして時間の流れ方というのもいつの間にか変わってしまうものなんだろう。
あんなふうに慧音には話してみたけど、たぶん、本当はあらゆるものが少しずつ地滑りするように変化して、すべて変わる劇的な瞬間というのはないのかもしれない。
たしかに。UFOなんか、ないよね。
それでもわたしは想像をする。
夜を切り裂いた円盤がわたしたちふたりをレーザービームで照射して連れ去って時間のゆっくり流れるところに連れていくところを。もしもできることなら、この秘密の庭に家を建てて慧音と一緒にそれを待っていたいと思った。そして少なくともその時は必ず来るのだ。たとえ、それが、わたしの方では理解できないくらい滑らかにやって来るとしても。
これから先、いつかわたしは、顔も姿もファッションも変わりその存在さえも変化させながら、宇宙を流れることになるだろう。わたしはもはや妹紅という名で表せるような存在じゃなくなって、こうやって慧音とふたりで待つ楽しみの意味ようなものもわからなくなり、再びわかるようになり、そしてまたわからなくなるんだろう。きっと、わたしは慧音のことだって忘れてしまう。その後で、なお形を変え続け、そしていつかはどこかに到達するんだろうか、それとも永遠に流れ続けるだけかな、もちろんその時には辿りつくっていう言葉の意味さえも変わっているだろうからこんなことを考えるのは無益だけど、それでも辿りつくなら、その旅の終わりで振り返った、少しずつ重ねては薄れていき見えなくなってしまったすべての通過点のその先に、わたしの長い旅路のはじまりの場所、慧音の名前のついたその場所を再び眺めることができるんじゃないだろうか。
ねえ、慧音、だからわたし着かないことが怖いっていうのは、どう?
星空は何度も見て覚えた既知の形へと向かってゆっくりと変遷を続けながら、その動きによってこの場所で時間を創り出そうとしていた。
来る、来る、来る……。
慧音が少し目を醒まして、寝ぼけ眼で呟いた。
「なあ、妹紅、忘れないでくれよ。わたしたちの子どもたちのこと……」
やがて星々は何度も重ね合わせては確かめた懐かしい形になり、そして、空からやって来た不完全な深夜0時が同じ時の中にわたしたちを包み込んだ。
おわり
カーテンの隙間から差し込む太陽の光がだるい。
少しは気分よくなったかとわたしに聞くのは慧音で、わたしは立ちくらみ、ふらついて、支えにしようと触れたその肩もやっぱり慧音だった。
わたしは言う。
「そういや今朝のことなんだけど、うぇ、いや今朝かな……、でも昼前だ。それはよくわかるんだよ。太陽さえ出てればね……。練習したんだよ。習得するのに10年かかった、いやもっとかな。わたしは怠惰だからさ。でも、今は太陽の位置で正午がわかる。でも他の時間はめっぽうだめで。当然、ためしに言ってみることは出来るよ。でも、それは、当推量だから、みんな出来るよね。つまりさ、当時はそれしかなかったんだ。正午を刻む影時計は持ってたんだけど、そいつは、ひとつの盤面に季節ごとの正午の推移をすべて記してるから、そのおかげで、どんな時期でも完璧な正午がわかるけど、正午以外の時間は人と変わらない。あ、でも、この逆パターンとかもわかる。今度は、星空の形で、正子を言い当てるの。当時は、せっかく死ぬほど時間があるからいろんなことを覚えようと色々思ってやったけど、みんな中途半端だったな。今、思えば、だけどね。あの頃は、必死だったんだよこれでも」
「何の話だ?」
「あ、つまりさ、今朝、てか昼前に、気分悪いんで見てもらって薬もらおうと思って、永遠亭に行ったのよ。嫌、々、な」
「それはいいことだ」
「でも、行かなかったんだよ」
「はあ?」
「輝夜にあったらめんどくさいなあとか途中で思ってさ、健康ならいいけど気分悪いしな、で、やめて、道半ばで志も絶えてだよ、屋台で安酒買って飲んだら、そのときはよかったけど、やっぱだめだな。最低だよ最低」
聞いてるのか聞いてないんだろうな、慧音は支度をしていた。例の宇宙侵略とやらを見学にいくための支度だった。まさかわたしだってなあ本当に宇宙人がいるって信じてるわけじゃないぞおと言う慧音の、牧歌的な間延びした声、それ聞いたらそりゃあそうだろうなと思う。子どもたちが信じているというところだろう。だから引率するのかそうか、とかひとり納得していたら、ちがった。慧音は、子どもたちが宇宙人を見にいかないよう見張りに行くのだと言う。
「見張りってまた過保護だね。いない宇宙人くらい好きに見させてやればいいよ」
「だめだ。夜の森は危ないんだぞ。明かりだってないし道にも迷いやすい。何が出るか知れたものじゃないだろう」
「そうだな、危ない。でも子どもにしてみりゃそのスリルがたまんないんだ。わたしも幼い頃には色々やったな。大人に石を投げたり、盗みに入ったりな」
「妹紅お前そんなことをしてたのか」
「いや、その……。時効だよ。まじで、そうだろ。それに慧音だってそれを知らないわけじゃないでしょ。実を言うとわたしはびっくりしてたんだ。わたしたちが知り合った頃、慧音が逢瀬の場所には必ず人里や時には学校のそばを選んだこと。慧音先生は知り合いにわたしたちの関係がバレないかどうかほのめかしては楽しんでたんだ。物語には典型なタイプだね。お堅い人間ほどスリルを好みたがる。うんざりするよ。むかつくし。それって、まるで貴方とただ会うだけじゃあたし物足りないわって感じでしょ」
「なあ、妹紅、おい」
「あー、なに」
「そういうことじゃない。わたしだって出来れば子どもたちのささやかな楽しみを奪いたくはないさ。でも、今回はちょっとばかし事態がちがうんだ」
「どういうこと?」
「もとは子どもたちのたわいない遊びだが、今じゃ噂は里中に広まってる。大人たちの中でも信じてる者もいるんだぞ」
「まさか」
「子どもたちにはチラシを持たせたよ。そこには、親向けに、噂はまったくのデマだってことや子どものことをちゃんと見ておくよう書いてある。もちろん子どもたちには宇宙人を見にいかないよう口酸っぱく言ったよ」
そこでやっと、わたしは、慧音の言いたいことに思い当たる。
つまり、危険な宇宙人は必ずしも宇宙人に非ず、ということらしい。宇宙人襲来の噂は里中に伝わっているので、怪しげな連中やある種の妖怪たちもそのことをよく知っているのだろう。そいつらが、乗じて子どもたちを襲う可能性がある、ということだ。そしてそれは恐らくいもしない宇宙人のせいになるし、さらにうまくいけば良識のある人間たちさえも愚かな噂を信じはじめるだろう。そうすれば同じことを二度三度と繰り返すこともできるかもしれない。いや、たぶん、繰り返した方がいいのだ。これもまた類型だな、と思う。本当に怖いのは身近にあったという類のオカルトである。
「悪い子は連れていかれちゃうってわけね」
「そうだよ。そして、お前に言わせれば、こどもはみんな悪い子だろう。だからわたしたちが安全を守らなければならないんだよ」
「まあ、そうね」
合点がいったのでわたしは満足してまた寝ることにする。汗ばんでいるのでそれが気持ち悪くて風呂でも入ろうかと思ったけれどそれも時間がかかるのでめんどくさくなり、布団を被ると、もしかしたら汗ばんでいるのは毛布の方もではないかと思いつき、それじゃやっぱり風呂入ってもしょうがないなと入浴の理由が何もなくなってしまって、寝る。すると慧音がまた毛布を剥がすのでこれは何事かと思っていると、おうい妹紅はやく行くぞみたいなことを言っているから、慧音は最初からわたしと行くつもりだったらしい。わたしはだめなんだよう、と応えると、そんな甘えた声出したってだめだぞって言いたいつもりだったのかな、慧音は、そんな声、そんな、声……、とかもごもごと言いながら、布団の上をわたしを揺すっていた。
「今日は、無理。あした……、あした行こ。明後日かな」
「ばか。今日じゃないとだめに決まってるだろう。それに見たところ、体調は回復してそうじゃないか」
「いや、体調もよくないけど、それよりもだめなんだ。だるくてさ。身体のでっぱったとこみんなにバルブがついててさ、そいつがみんな開いちゃってるんだよ。何一つわたしにストックされないの。垂れ流しさ。行動っていうのは、つまり爆発だからね。こう、衝動が身体中に少しずつ溜まっていって、あるとき、ばんっ。やる。する。水飲み行くのだって、破裂だよ。でも……、だから、今はなんもできない。したくもないし、ね。こういうの、たまにあるんだよ。周期的なものかな。身体中の熱がなくなっちゃったみたいで……。でも、冷えるのとはちがう。冷えるのは、もっとクリアリー、って感じ。たとえば輝夜の憎しみでいっぱいの夜はそんな風だね。最初は怒りでいっぱいでもうたまらないけど、次第に落ち着いてきて、澄む。風の音とか。思うに怒りに関係する神経がどんどん熱くなってきて焼き切れちゃうのかな。でも、今は……、温いっていうのとも、ちょっとちがうな。生暖かい時は気持ちよくもあるから。温い風呂につかってるのは、けっこう気分いいでしょ。だから気分悪くて最悪なんだけど、その中にある種快楽めいたものを感じることができる。最低、って言うそん中にも、最高はあるってわけで……。でも、今は、そうでもなくて。だから、この温度って、わからなくて。生温いよりはもっと冷たいけど、そんなにはっきりしないし、だるいことはそれなりにだるい。ただ、熱がないってふう……」
「たぶん飲み水にはちょうどいいさ」
「え。飲みもんは冷たい方がいいよ」
「それもそうだな」
納得したのか、それとも説得を諦めたのか、知らないが、慧音はどこかへ消えてしまう。しばらくすると、水でいっぱいの桶を抱えて戻ってきた。特に考えなしに思いつくまま、それって飲み水なの……、とかわたしが言ったりしていると、慧音は、布団に横になっているわたしの頭にその水をかけた。わたしはびしょ濡れになった。
「あ? え、なあ、慧音?」
「はやく着替えて、出かけるぞ」
「え、お前、ばか? もう、さ、まじで、部屋がこんな水びたしになっちゃって……」
「わたしの部屋だ。気にしないよ」
「いや、まあ……、そう? でも、床、腐ると思うよ」
「腐るなら勝手に腐らせておけばいいさ」
そう言って家を出てしまう。
そこではじめて、慧音は怒っていたんだな、とわたしは思った。
外行きの服に着替えて床を掃除してから慧音の後を追った。
慧音は森の入り口で座って待っていた。
座り方が、少し足を開いて俯き加減な感じなんで、せっかくなんだから顔あげて空でも見ろよな月の明かりで雲がこんなにも透明で……とか思ったけれど、余計なことはもう言わない。生涯言わないと思うんだけど、どうかな。生涯しないでいようと思ったことはたくさんある。生涯しないと思ったまま、結局したことはそれよりたくさんある。
「この論理わかる?」
「つまり、もう一生しないと思ったあることを、お前はそのあと何度もやったんだろう」
「うん。なにしろ人生が長いもんな」
「そうだな」
それからわたしたち、森の中へと歩き出す。
満天には少しはやい時間だけど、すでにあたりは真っ暗で、わたしは手で炎をつくって明かりにする。踏みしめる、落ち葉や枯れ枝のしゃきしゃき鳴る音。
「床、きれいにしといたよ」
「うん」
「あのさ、床のことはともかく慧音はけっこうずぼらなところがあるよね。類型で言やきれい好きなタイプだけど、でも、あんま気にしないでしょ」
「そうかあ?」
「思うよ。部屋とかわりと汚いしがっこの書類とかそこらへんにばらまいておいたり、整理整頓できないよね」
「妹紅はけっこう綺麗好きだ」
「人並みにはね」
慧音がわたしを小突くのでなにかと思ったら、いつの間にか炎を点すのを忘れていた。手は首の後ろにあった。褒められると、首の後ろに手をやってしまうのがわたしの癖らしい。そっか褒められたのかと思う。いや別に慧音は全然わたしを褒めてなんかなくて単にその性質に言及しただけなのかも知れなかったけれど、ともかくわたしは嬉しく思っているようだった。暗くて前が見えない。木の根っこに足をかけて前のめりになった。火をつけてくれって言う、ランタンを差し出した慧音の顔が熱い光で下から照らされて赤色になった。
「そういや、この前さ、暇だったから家の水道を掃除してたんだ。汚かったからな。なんか、白くなってただろ。せっかく綺麗な青色をしてるのに。だから、ざっとだけどな、掃除して、そしたら、結構きれいになったんだけど、知ってた?」
「いや、知らなかった」
「まあ、そうだよな。だってさ、その日のうちにその白いの?そいつがまた出てきたんだよ。あれ、何だ? カビかな。根こそぎやんないとだめなやつ? それとも水道管からなんか漏れてんじゃないかな……。とにかくさ、一度見てもらった方がいいと思うよ」
「じゃあ、今度お前が、配管屋でも呼んで聞いてみてくれ」
「うん、いいよ。ああ、でも……、わたし、やなんだよな。ああいう、業者とかうちに呼ぶの。仕事だってのは承知だけど、家の中見られんのとか嫌じゃねえ?」
「お前の家じゃないから別にいいじゃないか」
「ま、そうだけど……。気まずいじゃん。ああいう作業してる間とかに、ふたりきりでいると、こっちは何していいかわからなくてさ。見てんのも、なんかお互いに気まずいしな。向こうがこっちを意識してんのがわかるんだよ。それって、自意識過剰か? あと、お茶とか出した方がいいのかな、とかも思うけど、たぶん絶対いらないよなあ。あっちだって、はよ帰りたいよね」
「気にしすぎだよ」
「そう……、そうかなやっぱ。あんま感覚わかんないんだよなあ。家の中に自分以外のひとがいるっていう感覚がさ。ほらわたしって何百年もいつも自然の仮住まいに住んでただろ。だから自己完結してたんだよ。なんか問題あったら、燃やして移り住むだけだったしね」
「でも昔からよく居候はしてたんだろう」
「まあね。それは、全然大歓迎。たいてい条件があるわけで、向こうがわたしに求めるものもわかる。でも、一緒に家を所有するっていう感覚は、未だにわかんないな。あー、つまりさ、わたし、慧音んちに居候してんだなっていう引け目感じてんのかな」
「わたしの家をお前の家だと思っていいっていつも言ってるじゃないか」
「でも、さっき慧音、お前の家じゃないって言っただろ」
「そんなの言葉の綾だろう。もしかしてお前二人の家が欲しいんじゃないか」
「そう、思う?」
「ああ」
「そうかな、そうかも」
「わたしは嫌だよ。あの家を手放す気はない。昔、家族が住んでた大事な家なんだ」
慧音はまだ怒っているのかと思ったけれど、どうやらそうでもないようで、洗面台をきれいにしたらなにを置こうとかそういうことを楽しそうにつらつらと話している。わたしは緑のイルカがいい、と思った。イルカは、昔、本で知った外の世界の生き物だった。慧音は知らず、わたしは慧音にも知らないことがあるんだなあと言葉を言ったりしたが、実際は慧音が知らなくてわたしが知っていることはたくさんあるし、わたしは長生きなのでそれなりに物知りだった。竹林の賢者なんだよと言ったけど、そうではないと慧音は言う。緑のイルカの置物はたしか里の出店で見た気がする。でも、幻想郷にそんな置物があるはずもないから、なにかを勘違いしてたのかもしれないな。イルカのことはすっかり諦めて、誰かのお土産でもらった小さめのトーテムポールを飾ることにする。おそろいの歯ブラシを使うのはどうだろうという話をしようと思ったが、やめた。よく考えてみると、取り違えてしまう可能性は高そうだった。
「それにしても、こうしてお前とふたりで出掛けるのも久しぶりだな」
「そうだっけ」
「うん」
「あ、ほら、この前、ミュージカル行っただろ。あれはどうなの?」
「たしか、お前は寝てたな」
「退屈でさ。いや、退屈っていうのとはちがうな……。退屈な劇ってむしろわたしは好きなのよ。退屈ってことは、そこにゆっくりした時間が流れているってことだろ。芸術の役割は別の時間を提示することにあるんだよ。芸術を構成する諸要素は、時間をつくりだすことに奉仕すんのさ。その、別の速さ、形、色の、時間を鑑賞することで、わたしたちはむしろ、今こうして自分の周りに流れる時間の形をその一部を理解するんだよ。あれは、その意味じゃ最悪の劇だったね。時間がずたずたなんだ。時系列がどうとか急ぎすぎとか展開の速さとかそういう話じゃないよ。造形に時間の観点がないんだよ。典型的なその場しのぎってタイプの話でさ」
「そうか? でもずいぶん愉快な話だったぞ」
「そう?」
「ああ」
「じゃあ、損したね」
まだ着かない。慧音の話では、宇宙人がやってくることになっているのは森の奥の子どもたちの秘密の広場だという。聞いてみたいなって思うことはたくさんある。どうして宇宙人がやってくる場所が予めわかるのか、とか。子どもたちの秘密の広場をなんで慧音が知ってんのかな、とか。でも、なんだか面倒だったし答えもわかる気がしたから、言わない。わたしはいつも聞こうと思ったことを後でいいやと思ってそのまま時期を逃してしまう。たいていは聞いても聞かなくても変わんないことだから後悔なんか全然しないけど、たぶん本当は優先順位とかをつけるべきなんだろう。慧音にいちばん聞きたいこと、それをちょっと考えてみたけど今は特にこれっていうのが思いつかないな。わたしは歩き疲れて、慧音の背中で揺れる巨大なリュックサック、あんなにもいっぱいで、いったい何が入っているんだろうと思うけど、そのことは聞かず代わりに、なあ慧音さあわたしお前のリュックサックになりたいようって言う。なればいいさと慧音は笑った。最近寝たきりだったせいか少し歩くだけで足が痛い。やっぱりまだ着きそうにもなかった。夜も更けるよなあ、とか、そう思う。
「ねえ」
「なんだ?」
「あー、つまりさ」
「なんだ」
「あ、そう……、宇宙人ってどんな姿してるって話なの?」
「それがおもしろいところなんだよ」
ひとりでふふふと笑って慧音は黙ってしまう。
仕方ないのでわたしはまた聞く。
「え、なにが?」
「ああ、つまり、宇宙人については、子どもたちがそれぞれに言うことが違うんだよ。その想像、それぞれに個性が出ててとてもおもしろいんだ」
「へえ、たとえば?」
「あるやつは宇宙人は虫だって言うんだよ。巨大な昆虫な。今地球にいる虫たちはスパイらしい。そうだ、お菓子のUFOが来るって言ってる子もいるよ。饅頭をバタークッキーで挟むんだ」
「お菓子のUFO? それ、やばくない?」
「そうかあ? 子どもらしくてかわいいじゃないか」
「じゃなくてさ、じゃなくて、教育が。きょーいく、が、だ、よ」
「教育?」
「そうだよ。かわいらしいとか、言ってる場合じゃないよ」
「いいじゃないか、まだ小さい子だよ。そのくらいの年齢には想像力を育んであげることが大事だ」
「ああ、そう……。」「いや、想像力?」
「そうだよ?」
「それって、やっぱ、まずくねえ? 子どもたちが想像力あんのは、別に、いいよ。まあでも、厳密に言や、想像力なんてものはないんだよ。あるのは、造形。想像力って言葉はよくないとわたしは思うな。それって、なんだか何もないところから新しい形をぽっと取りだしてみる、みたいな感じじゃん。でも、実際にはそうじゃなくて、みんな考えを創り上げるんだ。子どもが好き勝手造形すんのは、いいよ。でも、大人が、それを手放しで喜んでいちゃだめだろうが。子どもが、色んな変なものを考えるのは、想像力が豊かだからじゃない、単に作り方を知らないからだよ」
「ふうん、そうか」
「怒ったの?」
「いや……、じゃあ、宇宙人ってのは、どんな形をしてるんだろうな?」
「そりゃあ、人と変わんないさ。月の人間を知らないわけじゃないだろう。性格は最悪。傲慢だし、オリエンタリズムで排外的、もうどうしようもないね」
「あはは。造形に、人生経験が出てるぞ」
「うるさいなあもう」
慧音は笑っている。むっとするかなとわたしは思っていたからそのことはなんだか不思議だった。それに、続けてこんなことまで言う。
「今度さ、子どもたちに会いに来たら、どうだ?」
「まじで?」
「ああ」
「やめとく」
「どうしてだ?」
「なんとなく、だけど……」
「いいじゃないか。子どもたちだって妹紅先生に会いたがってるよ」
「なんで?」
「わたしがよく話を聞かせてるからだ。色んなことを知っていて、面白いし、楽しい人だってな」
「余計行けなくなったな。ああ……。」「てか、そういや、プールは、どう?」
「いい感じだよ。もう半分くらい掘れたな。この調子なら、夏には間に合いそうだ。ここのところは、毎日子どもたちとみんなでシャベルを持って穴を掘ってる」
「なんかさ、それって、中世の奴隷児童労働みたいだな」
「お前なあ」
「いや、悪かった。ほんとに。たぶん、わたし、慧音の子どもたちに嫉妬してるんだな。取られちゃわないかそういう心配で……、わかるでしょ? なに・コンプレックスって言うんだっけ? ほら、子どもが夜にふと目を醒まして、父親が母親の乳を飲んだりしてるところを見ちゃったりすると、その子どもはわけもわからないなりに深い孤独に陥るって言うだろ。それが、正常な発達に影響して、不良をつくるんだよ。わたしのは、あの逆ヴァージョンだね」
「なあ妹紅、どうして、父親が母親のおっぱいを飲んだりするんだ?」
「わたしが知るかよそんなの。」「……まじでさ」
少し開けたところに出たなと思ったらそれは低い崖の下の岩場で、菱形の平らな石に腰を下ろした慧音は、明らかに歩き疲れた風のわたしを気遣ったのか、それとも元々そういうつもりだったのかもしれないけれどもとにかく、夕飯にしようと言った。慧音はリュックサックの中から質のいい赤い生地の風呂敷を取り出して土の上に敷き、料理をてきぱきとを並べた。魔法瓶からマグカップにコーンスープをなみなみ注いでわたしに手渡す。風が凪いだ。木々の揺れる音がしなくなる。こういう瞬間には、はっとするようなことを言ってやりたいとわたしは思っているけど慧音は絶対思っていないから、これ熱いな、とか呟いてた。たしかにやけに熱かった。飲むと甘い味がする。熱くて甘い物はぬるいのがいちばんいいよ、とわたしが言うと、ふーふー息を吐いてる慧音もうんと肯いて同意する。おにぎりを食べた。これ中身何って聞いてみたけど、慧音はわからなかった。かすかにしょっぱくて、どことなく甘い味。中身は鮭だった。
「高騰してるんだっけ?」
「ああ。え、なにが、鮭?」
「うん」
「今年はあんまりのぼってきてないらしい」
「熊ががんばってるんだね」
「どうだろうな」
「みんな生きるのに必死だ」
「ああ」
みんな必死ならどっちかというと熊を応援したくなるよ、というようなことをわたしが言うと、熊は怖いと慧音は言う。お前が応援したいのはティディベアかなんかだろう、って。言われなくたってわたしは本物の熊のことをよく知ってる。むしろ慧音はそんなに知らないだろう。でも、慧音の言うことは概ね正しかったから、わたしは何も言わない。木の箸で肉じゃがをつついて食べた。よく味がしみていておいしい。それがなんの味かっていうのはよくわからないんだけどね。舌の上で味を分解できないな。何百年も毎日食べてんのに、わたしはいつまでたっても、ものを食べるのが上手にならない。
「それはお前が今までろくなものを食べてこなかったからだよ」
「そうかな、まあそっか」
「料理の練習はしなかったのか? 時間はあっただろうに」
「どうも苦手でさ」
「そうか? 妹紅には向いてそうだと思ったんだけどな」
「そう思う?」
「ああ。まあ、そう……、化学の実験、とか、よりはそうだな」
「そりゃあね。でも今は嬉しいよ。慧音が毎日おいしいものつくってくれるから」
「そうだろうそうだろう」
「これ怒るとこだよ。もこーは、飯さえつくってくれればそれでいいのかって」
「実際お前はそうじゃないか。それにわたしは楽しみにしてるんだ」
「なにを? わたしがおいしそうに慧音のつくるもの食べてあげること?」
「まさか。わたしが死んだ後、おいしいものを知っちゃったお前が、またまずい飯を泣きながら食うところだよ」
「いやなやつ」
「あはは」
「でも、どうしよっかな……」
「さあな」
「慧音お前、死ぬ前に向こう百年分くらい作り置きしといてくれねえ?」
「そうだな、考えておくよ」
わたしはすっかりお腹がくちくなった。お腹がくちくなると眠くなるし、はたして慧音もくちくなっているだろうかと思って見れば、慧音はマグカップを両手で持ったまま、うつらうつらとしていた。忙しいやつだなって思いながら揺すって起こして、中身の少し残ったカップにコーンスープをついでやる。ずいぶん飲みやすい温度になったよと教える。待ったかいがあったよって慧音は笑った。それってほんとかよ。だって、別に、コーンスープの温度が下がるのを待ってたわけじゃないだろう。ただお腹いっぱいになったから勝手にうとうとして――、まあ、なんでもいいか。あくびを吐いて背の低い岩を枕に仰向けの格好で寝転がると視界には星空、慧音お前さもう元々の目的忘れてるんじゃないか、とか、言おうかなやっぱやめようかな、考えてたら、慧音が言った。
「そうだ。昔はお前、もてなかったんじゃないか?」
「え、なにそれ」
「前から聞こうと思ってたんだ。恋人の過去のことって気になるだろう?」
「まあ……、どうだろ。慧音の言うようなとこも、あったかも、しんないけど」
なぜか慧音はにこにこと笑っていた。
「なんだよう」
「いや、嬉しいんだ」
「はあ?」
「授業で子どもたちに歴史を教えるだろう? 教科書の昔の偉人の絵を見てみんな笑うんだ。変な顔だって言うんだな。世界三大美人とかもあるだろう? ああいうの見てもこれが美人なんてありえないとかって言ったりな」
「想像はつく、けど」
「それで考えたんだが、もしかしたら、妹紅もそうなんじゃないかって。ほら、妹紅は今はまあ、愛嬌がある感じだが……、逆に昔はそれが時代にそぐわなかったんじゃないか。未来じゃ、きっと、流行も変わるし……。つまり、今の妹紅がいちばんかわいい妹紅なんじゃないだろうかって、この前な、ふと思ったんだよ」
「いや、え、それ、なに? 褒めてんの? わかんないよ」
「別に褒めてはない。自分自身の幸運を噛みしめてるんだよ」
「あ、そう」
「あと数百年もすればお前のかわいい顔も時代遅れだな」
「余計なお世話だよ。」「でも、慧音先生の考えは間違ってると思うけどね」
「そうか?」
「やっぱさ、通底はあんだよ。そりゃいわゆるムーブメントはあるよ。でも、たぶん、昔のいちばん綺麗なやつが、今に来たら、やっぱ綺麗なんじゃねえ? 教科書の絵が変に見えるのは、むしろ絵画作成技術の問題だね。別に顔貌に限らずさ、美しさとかって通底するものがあるってわたしは思うよ」
「ま、お世辞にもお前の顔貌は美の到達点にはほど遠いだろうな」
「そうゆう話じゃないからさ。」「あーあ、まじで、そう……」
そういえば、輝夜のとこで人の顔貌を好きなように変える技術的発見があるらしい、と聞いたのをわたしは思い出す。それが本当ならわたしの顔もいつの時代の流行にもついていけるよなという話をするとまずは輝夜と仲直りしなきゃみたいなことを慧音が言うので仲直りとかそんな言葉で済まされる問題じゃないんだけどなって思うけど、でもわたしは結構当てにしてたから輝夜のせいで変な顔になっちゃったりしたらたしかに堪らないなということを少し考えた。
「どうも、うどんげちゃんが、実験を頼まれてるらしいよ」
元はと言えばその話を教えてくれたのもうどんげちゃんだった。
永遠亭には出来れば近づきたくないので、あそこのことはたいていうどんげちゃんに聞いて知る。あの子は心の優しい子だから、わたしは好きだった。そのうどんげちゃんと言えば、その実験によってさらに(って、うどんげちゃんは言ってた)かわいくなることには依存はないし結果が気にくわなければまたその都度変えればいいのだけど、いつか顔に一度も人工的な変更を加えないということ自体が価値を持つようになったら困るので今はなんとか拒んでいるらしい。一生を添い遂げたいと思うような気に入る人が見つかったら、その人を意見を聞きたいと言っていた。
難儀だよな、とわたしが言うと、なにが?って慧音は言う。
そうやって返されると具体的にはないので、いろいろだよってわたしは笑った。
そろそろ行くかって慧音が言うのでわたしたちは行くことにした。
そして行けば、当然いつかは帰ることになるけれど、とりあえずのところわたしたちは相変わらず行っていて、それがどういうことかというと、まだ着かないってことだった。そう、まだ着かない。わたしは足が痛かった。「ねえ、慧音」って道中、何回言ったんだろう。
「ねえ、慧音、まだ着かない?」
「まだ着かない」
「ねえ、慧音、脚痛えよう」
「我慢しろ」
「ねえ、慧音、夏でもないのに今日暑くない?」
「うん、暑いな」
「ねえ、慧音、カレンダーの大安とかってあれなんだ? いらなくない? 占いとしても中途半端だしさあ。いや、その意義は理解できるよ。あ、てか、カレンダーって癒着だよな。悪い共同体はみんな刷るだろ、この前の守矢が出したのを見たか? 8月には一面の鹿だ。なんで一面の鹿?」
「さあな」
「ねえ、慧音?」
「なに?」
「ねえ、慧音、お前なんかおもしろい話ないの?」
「今はないな」
「ねえ、慧音、まだ着かない?」
「まだ着かない」
「ねえ、慧音、わたし待つのはいくらでも待てんだよ、100年前くらいかな、氷の国でオーロラを見るために極寒の中でものも食わずに183回死んだ。我ながらよく我慢できたよね、でも着かないのはだめだな我慢きかなくて、不思議だよ、これって脚が痛いせいか?」
「わたしが思うに、妹紅は永遠に生きるから待つことはそれほど苦じゃないんだ。逆に死ぬ人間ならいずれみんな死んで同じところに辿りつくけど、でもお前は永遠にどこにも着かないからそれを恐怖するんだよ」
「ねえ、慧音、それってまじ?」
「どうかな」
「ねえ、慧音」
「なんだ?」
「ねえ、慧音」
「何?」
「ねえ、慧音、まだ着かない?」
「もう着いたよ」
「よかった」
子どもたちの秘密の庭は、森の中に丸く空いた芝生の広場だった。
今はその青い葉の先で露のしずくが月明かりに照らされて、遠目には湖のようだった。風が吹いて水面がさざめく。映らない星々は空に浮かび、その回転する星模様の真ん中には、半月。
遠く虫の音がする……。
りん、りん、りん。
たしかに、エイリアンを迎えるには、ちょうどいい夜だった。
「綺麗なところだね」
「ああ」
わたしたちは、踏みしめる。
広場の真ん中に立って中空に炎を浮かべ周囲を見渡すけれど、エイリアンどころかわたしたち以外の人間の影も見つからない。
「子どもたち、いないね?」
「ああ……」
慧音は考え込み、わたしは芝生の上に仰向けに寝転がる。
「まあ、待とうよ」
「それ、濡れないか?」
今日は水難だから、とかよくわからないことをわたしが言えば、慧音は少し笑ってわたしの隣に腰を下ろす。見上げた慧音の顔が月明かりで白かった。血管がわかるかな、と思って眺めていたけれど、結局わからなかった。
「ていうかさ、子どもたち、来てないんだよ。無駄足だったわけ。あの怖い慧音先生にあれほど言われたら流石の子どもたちも悪さしないさ。それに、親たちにも連絡しているんでしょ? そりゃあ、来れないって」
「そうだな、わたしもそう思う」
ふぁあ、と慧音は小さなあくびをした。
それから言う。
「なあ、妹紅」
「なぁに?」
「今度、子どもたちに会いに来るといい」
「またその話?」
「みんな良い子たちばかりだから、きっと、お前も大好きになるさ」
「その、大好きになる、ってのが、わたしは嫌なんだよな」
「ああ、あれか。別れが寂しくなるから、ってやつか」
「ちがうよ、ばか。これは、わたしとお前の教育方針の問題だよ」
「なんだそれは」
「つまりさ、わたしは、お前の教育理念には断固反対なわけ。ま、話で聞く分にはね……。子どもたち、好きになったら、わたし絶対口出したくなる。」
「ほう、いったい、それはどういう?」
「さっきの話、あったでしょ。UFOの造形の」
「ああ」
「あれがいい例だよ。わたしは、子どもには優れた思想を教えるべきだと思う」
「それはあんまりいい考えとは言えないな。まだ若いうちには自分でものを考える力をつけてやるべきなんだ。だって、そうだろう。ある考えを押しつけても、それがもしも間違えだとわかったらどうする?」
「そうだけど、考える力って言ったって、結局、多くの子どもたちは選べないし考えないんだよ。慧音だってわからないわけじゃないでしょ。蛙の子は蛙って言葉にあるように、八百屋の子は八百屋を継ぐし肉屋の子は肉屋を継ぐ。実際にはそうじゃないけど、少なくとも考えっていう意味じゃ、そうだよね。つまりさ、いくら考える力があっても考えの題材はどうしてもその個人の周囲に存在するものに限定されるから染まる。結局、考える力っていうのはその共同体の中の立位置に影響するだけなんだよ。それもまったく無意味ってわけじゃないけどね。だから、教育っていう意味を考えたときには、先に思想を教えなきゃいけない。たしかにそれが後々間違いだってわかるかもしれないよ。でも、それをやらなきゃ何も変わらないんだよ。永遠にずっと同じことを繰り返すだけ。慧音の言いたいことはわかるよ。これって言い方を悪くすれば、思想実験みたいなものだもんね。でも……、わたしだって、子どもたちのことは好きだよ。これから先永遠に生まれては通りすぎてく子どもたち……。彼らが、みんな幸せだったらいいと思うし。そのためには……、いや、嘘。こんなのみんな冗談だよ。慧音を困らせたくてさ……。ああ、やめようやめよう。もうさ、まじで……。しまいには、わたし、お前とわたしでそれぞれ子ども育てさせて、どっちが強いか戦わせようとか言うよ。そういうのって最低だよね、最っ低」
「どうかな」
「わたしは最低だよ」
「お前は誰かを愛するには少し気が長すぎるのかもな」
「ああ? だと、いいんだけど……」
わたしは、目を閉じる。
風に揺れる草木の音と虫の鳴き声だけが永遠に広がる闇の一番遠いところで鳴っていて、近いところで衣擦れの音が何度もする。慧音の音だ。見れば、体育座りの格好で落ちつきなそうに前後に揺れている。その悪態をべつの慧音先生が見たら注意するんだろうとか、そういうことを考えていた。
「ねえ」
「何?」
「やっぱ、子どもたちのこと、不安?」
「ああ」
「慧音は心配症だね」
わたしは起き上がって、慧音の後ろに立って両肩に手をやる。
手のひらの下の部分に力を込めて何度か押してみる。
「おお」
「凝ってんね」
「そうか?」
「やっぱり、子どもたちのことは、子ども思いの慧音先生に任せるのが一番だよ」
「妹紅」
「これ、まじだよ。全然もう冗談なんかじゃあ、ない」
そのまま背中から慧音を抱きしめた。
慧音の身体は硬い感じがする。たぶん、やせているからだろう。それは心配性のせいかな、って思ったけれど、もともと体質なのかもしれない。骨ばった身体が嫌というわけではない。何百年も生きているとあんまりそういうことは気にならなくなる、外見や体質や癖に関する後ろ向きな質問を慧音に聞かれたときはそんなふうに答えるようにしている。
「わたし、慧音の骨が出てるところとか、好きだよ。そういうのって何年も一緒にいると段々気に入るようになる」
いきなりどうしたんだ、と慧音は笑う。
慧音を抱いたままわたしは座り込む。
彼女を倒して、わたしの組んだ脚の上で頭を置いて寝かすような格好にした。
「とにかく待つことだよ。ここに来るまでの間、悲鳴も異音も聞こえなかった。わたし、これでもずっと気を遣ってたんだよ。なにか起こる可能性があるとすれば、これから子どもたちがやってくることかな。それも考えにくいけどさ」
「そうだな。ありがとう」
「うん、気にしてね」
わたしは空を見ていた。半透明の薄い雲が煙のように月の傍を漂っている。星空は回転しているな、と思う。不意に、なにか予感めいたものが胸の奥のところを刺した。目を閉じて心の指でその鈍く疼く予感の外周に触れて形を確かめようとするけれど、予感はうきのように沈み、また浮き上がってはもう一度かすかな波紋を心に広げる。なんだかひどくもどかしい。ため息をついて目蓋を開けば、星空――、そうだ、その形、それが……、回転する……、でも、いったい何の予感だろう。慧音の声がした。
「なあ、妹紅」
「なに?」
「待つと言えば、はじめて、デートしたときのことを思い出したよ」
「ああ、そうね」
慧音は声を出して笑う。
はじめてのデートのとき、わたしは約束の待ち合わせ場所で、二週間も慧音のことを待っていたのだ。
「あれは、傑作だったな」
「どうしても時間に遅れたくなかったんだよ。お前、時間にうるさいだろ。わたしは、どうしても、ルーズだから、うまくやりたかったし……」
「それにしても、なあ」
待ち合わせ場所に仮住まいをつくってわたしは住んでいた。それなら絶対に遅刻することはないだろうから。でも結局、約束の時間には、家を出ることができなかったな。
慧音とそこでふたりで暮らしたから。
待ち合わせ場所の竹林の入り口に建てられた竹の小屋を見て慧音はとても面白がった。勝手に上がり込んで住み着いた。今から家を出ても絶対に間に合わないぞ、と慧音は何回くらい言ったかな、その度にひとりでくくくと笑っていた。べつにおもしろくもないだろうがようと思ったけれどわたしは言わず、慧音が笑うそのことが無性に嬉しいので一緒になって笑っていた。味のしない蓄えをふたりでまずいまずいと言いながら食べて、慧音の聞きたがるわたしの過去の話をした。幸い出来る話はたくさんあった。それでもすぐにやることはなくなって、わたしにすれば、ふたりで藁葺きの屋根の隙間から見える空模様が移り変わるのを眺めているだけでも十分だったけれど、慧音はそうじゃないみたいで地面に線を引いて子どものやる遊びをやったりした。わからないように手を抜くのが慧音はうまいので、それがわたしにはたまらなく腹立たしかった。死ぬ人間に腹を立てたのはとても久しぶりのことだった。それがなんだかおかしくてわたしが笑うと、今度は慧音の方がわけもわからず一緒になって笑っていた。慧音は想像していたよりもずっとせわしくて慌ただしい感じだった。
わたしが家を出たのはその6日後になる。
もちろん、6日経った後も慧音は約束の場所で待っていた。
わたしは笑う。
「そうね、楽しかった」
「ああ」
「うん……。」「あのときくらいだよね」
「なにが?」
「いや、慧音が学校さぼったの」
「さぼったって。わたしは先生だぞ」
「でも、けーね、無断で寺子屋空けてたよねえ。覚えてる? わたしが言ったんだよ。子どもたちが心配するから帰った方がいいよって」
「そうだったかな」
「もう覚えてるくせにさあ。あんときは困ったね……。まじだよ」
「悪かったよ……、のぼせてたんだ」
「ふふ、あつあつだったね」
「飲むのには困る温度だ」
「だね……」「いや、熱い飲み物は別に熱くてもいいかな。それを待つ時間もおいしいからさ」
「そうか? よく、わからないけど」
「そうだよ、決まってんじゃん」
それから、わたしは言う。
「聞こえる? UFOが来るよ」
「まさか」
「うん。聞こえない?」
「そうだな。いま聞こえるのは、虫の声、風の音、木々や草葉が揺れるざわざわとした音も。衣擦れ、それにお前のかわいい声……」
「ねえ……、慧音、UFOが来る」
「お前、噂を信じてるのか」
「ちがうよ。今じゃない、いつか、遠い未来の話だよ。いつか、ずっとずっとずーっと、先の未来でさ、UFOがやってきてわたしたちみんなを攫っていくんだよ」
「妹紅はそう信じてるのか?」
「うん。そしたらわたしたちみんな新しい形になる。すべてが変わるんだ。すべての枠組みが……、それがどんなふうっていうのは、当然わたしにはわかんねえけどね。今のわたしたちの形は完全じゃない。生きることとか死ぬってことや暮らすこと、それに時間だね、時間の流れ方、そういうすべての認識が……、一新される。ねえ、慧音、知ってた?知ってよ、ねえ……、わたしは永遠に生きるんだよ、永遠に生きるっていうそのことが、今で言う永遠に生きるっていう言葉の意味を持たなくなる時代まで、さ。そのとき、わたしは、はじめて死ぬんだよ。慧音、お前や、うどんげちゃんや、人間たちと同じようにね」
「そうなのか」
「ああ、そうだけど。でも変だな、こんなこと誰にも話したことなかったのに」
慧音はわたしの顔を見て眺め、微笑んだ。
「なんだよ」
「いや……。わたし、少し寝て待つから、子どもたちが来たら起こしてくれるか」
「いい、けど」
ふぁあ、と慧音はあくびをして、そのまま目を閉じて眠ってしまう。
すーすー、と寝息を立てている。
星を眺めていると、来る、と思った。
今やわたしはその予感の理由を知っていた。
それは、星々が正子の形になる、という予感だった。すぐに思いあたらなかったのは、その頃見て覚えたのとは星模様が少し違っていたからだ。考えてみれば、何百年も過ぎるうちに、星の位置だって少しずつ変わっていき、消えてしまう星だってあるし新しく生まれる星もある。こちらの見るレンズだって変化していて、思い出すのは外の世界からやって来た紫色のスモッグが空を覆うってニュースのこと、わたしの視力はあの頃よりよくなったのかな悪くなったのかな、よくなってるってことはねえよなあ、とか、生きてればすぐに星の形だって変わるよねって思うし、きっとそんなふうにして時間の流れ方というのもいつの間にか変わってしまうものなんだろう。
あんなふうに慧音には話してみたけど、たぶん、本当はあらゆるものが少しずつ地滑りするように変化して、すべて変わる劇的な瞬間というのはないのかもしれない。
たしかに。UFOなんか、ないよね。
それでもわたしは想像をする。
夜を切り裂いた円盤がわたしたちふたりをレーザービームで照射して連れ去って時間のゆっくり流れるところに連れていくところを。もしもできることなら、この秘密の庭に家を建てて慧音と一緒にそれを待っていたいと思った。そして少なくともその時は必ず来るのだ。たとえ、それが、わたしの方では理解できないくらい滑らかにやって来るとしても。
これから先、いつかわたしは、顔も姿もファッションも変わりその存在さえも変化させながら、宇宙を流れることになるだろう。わたしはもはや妹紅という名で表せるような存在じゃなくなって、こうやって慧音とふたりで待つ楽しみの意味ようなものもわからなくなり、再びわかるようになり、そしてまたわからなくなるんだろう。きっと、わたしは慧音のことだって忘れてしまう。その後で、なお形を変え続け、そしていつかはどこかに到達するんだろうか、それとも永遠に流れ続けるだけかな、もちろんその時には辿りつくっていう言葉の意味さえも変わっているだろうからこんなことを考えるのは無益だけど、それでも辿りつくなら、その旅の終わりで振り返った、少しずつ重ねては薄れていき見えなくなってしまったすべての通過点のその先に、わたしの長い旅路のはじまりの場所、慧音の名前のついたその場所を再び眺めることができるんじゃないだろうか。
ねえ、慧音、だからわたし着かないことが怖いっていうのは、どう?
星空は何度も見て覚えた既知の形へと向かってゆっくりと変遷を続けながら、その動きによってこの場所で時間を創り出そうとしていた。
来る、来る、来る……。
慧音が少し目を醒まして、寝ぼけ眼で呟いた。
「なあ、妹紅、忘れないでくれよ。わたしたちの子どもたちのこと……」
やがて星々は何度も重ね合わせては確かめた懐かしい形になり、そして、空からやって来た不完全な深夜0時が同じ時の中にわたしたちを包み込んだ。
おわり
素晴らしいものを読ませていただいた
次も期待させてもらう
ありがとう
今回は町田康に似ている気がしました。
面白かったですよ。
町田康は斜め読みしたことしかないけどこんな感じか~
依存はないし結果~
異存
ただただ慧音が愛しい妹紅が愛おしくて、二人が愛おしくて、笑いながらすこし涙を流しそうになりました。
とっても素晴らしいお話でした。ありがとう。読めてよかったです。
飄々としながら好きあってる二人がかわいい
言葉の意味さえもすべて変わってしまうという話は特に興味深かったです。
個人的にはあとがきの方がバカっぽくて好きです
本題そっちのけで繰り広げられる妹紅たちのやり取りが面白かったです
まさしく過度にしゃべる口下手の妹紅が途中から自分でも何言ってるか分からなくなっている感じが最高でした
それをひと言で切って捨てる慧音も素晴らしかったです
「ふふ、あつあつだったね」あたりが好きです
もっと読みたい
何気ない二人の日常ですが、とても愛おしいと感じてしまいます。最高でした。