一、
記憶は粉を吹く。
永続性は原則として活力に即する。新鮮な肉体を持つ者ならば、事情の大小は厭わずに、その情報を清澄に保ち続けることができるはずだ。俗世で言う若人はこれに相当するだろう。少年少女ともすればいざ知らず。
移ろう星霜は許多の体験をもたらす。それを年功と形容する者もいる。
こうした事情から、長寿とは人々の憧憬となる。
されども、先述の弁を引き合いにしようものなら、長寿は人にとって必ずしも良いことではないと言えよう。いかんせん経験の堆積は歳の数に沿って上昇していく。
これに対して、肉体鮮度は交差するように下降していくのだ。
すなわち、長寿にとっての脅威とは記憶資産の忘却なのである。
「あな、有為転変は世の習い哉」と痩せこけた僧侶は鈴を打ち鳴らし、今宵も夜道を放浪する。蚊柱を潜るみすぼらしい面構えは、まさに幻想に取り憑かれし生き屍。
未だ蝉も地中を掘り起こさぬ時分のこと。
紅魔館に来訪した博麗の巫女は、月下のテラスで平手を煽った。
「煩わしいったらありゃしない」
「黙らせますか?」
給仕長の咲夜がかくも提言するも、当主はこれを抑止した。
「たった一羽の野鳥を取り立てて追い回すこともないでしょうに」
外界で数々の風説をさらった洋館。
ときに、魑魅魍魎の棲む邪悪な場所として恐れられた。
ときに、禍福得喪を司る神聖な場所として求められた。
それらの根拠となり得たのが、当主レミリアの存在であった。
誰よりも人を愛し、誰よりも人を蔑んだ少女は、人智を超えた永劫の力を手に入れた。蒼生の流言蜚語は長い歳月の中で尾を連ね、運命を司る幼い悪魔は生きとし生けるあらゆる者達の話題を席巻し続けた。
それはまさしく、鬼神とも形容できる来歴であろう。
したがって、レミリアは卓越した価値観を併せ持つ。
その相手が、たとえ箱庭の調停者であったとしても。
「稗田の娘は知っているかしら?」
咲夜の入れた紅茶を受け取るなり、話を切り出したのはレミリア自身であった。
さして屋外に関心を持たないと見ていた巫女は、口をぽかんと空けたまま首を縦に振った。
「あんたからその名が出るとは思わなかったわ」
「なんでも、先祖の記憶が継承されているんですってね」
「なりはあんたよりも餓鬼だろうけど、中身はとんだ化物よ。見聞の観点から言えば、の話だけど。私もそんな経験してみたいものね」
これに対して、レミリアは一つ相槌を打つだけだった。
彼女の動静をうかがうようにして、しばしの沈黙が訪れた。
月明かり映し出す深紅の水鏡が夜風に揺れる。
僧侶の念仏はいよいよ此方より彼方へ失せんとする。
鈴の音が没すると、ようやくレミリアは口を開いた。
「パチェが言ってた。記憶はアニマに移管されるんだって」
「移管?」
「貴女の言葉で言えば霊魂とか……。これ、理解してる?」
かくも言われるなり、巫女は鼻息を荒くして腕を組んだ。
「失礼ね。これでも神職よ。魂は人格的且つ非物質的な性質を持つ永遠の存在とでも言いたいんでしょ」
「しかし、御嬢様。それは私達のいた世界では肉体と精神を分離した存在と言われておりました。何故、博識であるパチュリー様がそのようなことを」
従者の発言に主人は首を傾げた。
「啓蒙程度の伝聞は聞き飽きた。そういうことじゃない」
従者がうなだれる傍ら、レミリアは悠長に紅茶に口をつける。
そして、巫女の立腹した顔を真紅の眸子に映し出すと答えた。
「私達は今もなお生き続ける、妖とも神とも呼べない存在。各々が化物としての転機を迎え今に至った。だとすれば、私やフランはなんなのかしら。人間としての生涯を破り捨てても、未だ過去の記憶を持続させている。それはつまり、存在の単位に魂が設けられている確たる証ではないかしら」
膨れっ面を突かれたように巫女は一息吐きつけると、それが阿求とどう繋がるのかしら、と不満を漏らした。
レミリアはいたずらに気品ある笑みを溢すと、
「だからね。先祖の魂を持つ者はその存在に翻弄されるのよ。それを継承しても平然といられる。稗田の娘を化物と呼ぶのなら、根幹はそこにある」
あるいは、と口にすると彼女は遠方の僧侶の声に耳を傾けた。
「あの野鳥は先祖の魂に惑わされているのかもしれない。外の世界に戻りたいという、人間の夢にね。だとしたら、彼にとってここは地獄の鳥籠ね」
「それが一人格で生ける自分との違い。そう自慢でもしたいの?」
レミリアは静かに首を振ると、人でなしのごとく伸び切った真紅の鋭爪を愛おしげに手のひらで撫でこう返答した。
「いいえ。私やフランは稗田の娘のように人間としての側に傾倒しない。おおかたの妖怪のように純粋さも持ち合わせない。人とも言えず、妖とも言えず。その意思は常に互いを切り落とそうと闘争状態にある。だから、私達は貴女のように意識を捨てた夢が見られないの」
巫女はすぐさま言葉をかけることができなかった。
眠りたい──生物としての欲求とも呼べるそれは、種族の差異にかかわらずにすべからくして幸福にあたると考えていた彼女にとって、レミリアの弁は自身の許容の範疇を逸脱してしまっていた。
先述の通り、巫女がその思想においてレミリアを上回ることはない。
認識の限界は自ずと人の弁舌の質を下げる。
「そんなに羨ましいなら、好きに寝ればいいじゃない」
せめてもの慰めになれば、と。
巫女が自分なりに選んだ言葉であった。
しかし、それは決してレミリアを救うものではない。むしろ、彼女は議論の相手として突き放されてしまった。従者も巫女と同じ類いであろう。
人間としての性質でなら、屋敷内において彼女に優る者はいないはずだ。
誰しもが皆一様に何かを失い、その虚空を異物で埋め合わせている。従者にはその違和感を共有することができないのだ。
巫女が屋敷をあとにすると、レミリアは深夜もまだ先であるというのに、眠りにつきたい、と従者を送り出し自室へと籠もった。
アイボリーのベッドに横たわる少女は、その見てくれには釣り合わない大きな責任感と罪悪感を背中の黒翼とともに抱える。
瞼を閉じたところで、その重責から逃避することなどできやしない。
閉ざされた空間で、彼女が闇に映し出すのは今を生きる眷属達と、それらを屋敷ごと滅さんと松明を掲げる群衆の姿。たとえそれが過去の伝承になったとしても、この箱庭に人間がいる限り脅威を払拭することは困難に等しい。それに抗い他者を殺めた時、自らはおろか眷属達にも再び猜疑の烙印が押し付けられることだろう。
考え出せば果てはない。
さもすれば、背ける目線の先に幽玄を探したとしても不思議ではない。
しばしの間。艶めく蒼髪を散らかしていた彼女は、華奢な上体を起こすなり、真人間に戻ったかのような憧憬を口にした。
「……私も、御父様や御母様の夢が見てみたい……」と。
主人の身を按じ室外で耳を欹てる従者は、人知れずむせび泣いていた。
二、
総代は常住坐臥(ざが)その責務と向き合わねばならない。
すなわち、眷属に示しのつく振る舞いが求められているということ。
漂わせる気品の瞭然たるや否や。
言の葉一つが手繰り寄せる威厳。
毛の先一本として乱せない容貌。
これら努力の紡績が束ねられ、彼女という美姫を創り出している。
咲夜はそれを借問せずとも承知し、その姿形に心配りを欠かさない。
主従間のこうしたやり取りをまるで人形狂いのようだと一線を引くのが、魔法図書館の主を自称する魔女パチュリーであった。
この二人は盟友の仲にあると言われている。
しかれども、それは決して単純な友情に由来するものではない。
パチュリーからすれば、レミリアは嫌いたい性分の相手だった。人間ならば尚のこと。その小芝居に付き合わされる時間の方が惜しい。それでも、レミリアは彼女と距離を取ろうとはしない。悪逆非道の限りを赦し、彼女を魔女狩りの脅威から救い出した過去があるからだ。その幽玄たる心に歩み寄るようにパチュリーもまた、人でなしの少女を受け入れていたのである。
故に、互いの意思が経由でもしない限り双方は干渉しない。
方や執拗に着飾ろうとしていようとも。
方や偏屈に外から傍観していようとも。
それが、魔女と総代との暗黙の了解となっていたのである。
こうした経緯もあってか。
魔女が形式的招致に応じることは極めて稀有なことだった。
草木も眠る丑三つ時。
約束された定刻を幾分か過ぎると、レミリアの待つ玉座の間に怪しげな光が立ち込めた。それは濃厚な葡萄酒を急激に気化させたような紫紺の浅霧をもたらす。
総代がかつて、この箱庭を混迷の渦にいざなった際の手法だ。
醜怪なまでに脆弱な肉体を倦厭する彼女は、自らの二本足の活用を惜しむ。
さりとて、過ちを連想させるこの芸当はレミリアの眉をぐっと寄せさせた。
「我々を試されているのです。どうか寛容な言動を御心がけくださいますよう」
咲夜は魔女がどういう質の輩であるかを了知していた。魔女は交渉の手札として正攻法の相対を持ち合わせない。
いや、仮に保有していたとしても敢えてそれを机上から除外するのだ。
相手の感情を揺さぶり、主導権を握るために。
力なき平手が視界を拭うと、浅霧の狭間から青白い顔が顕現した。
健全を放棄したと思しき細身の体躯。
牡丹花の絞り汁を啜ったような衣服。
なびく紫紺の長髪。知識を貪る瞳孔。
それが人間の真理を知り尽くした魔女の風骨だ。
しかし、臆してはならない。
それが魔女と謳われた者の術であるならば尚更。
紫紺の浅霧が晴れ、双方は各々の姿形を捉える。
「……流石は御当主様。腹が据ってらっしゃる」
「パチェ。これをどう解釈すればいいのかしら」
黒ずんだ目下の引き攣りを指先で押さえると、レミリアはこれと言った感情を露わにすることなく尋ねた。
「貴女が私と対等であると思うならば、どうということもないでしょう。この一芸は貴女が私の了承なしに成した一片。私はこれを甘受し、黙認したのだから」
「随分遅れた清算に目くじらを立てるのね」
動じることなく王座に頬杖をつく盟友を曇りがかった瞳でまじまじと見つめると、パチュリーは憫(びん)笑とも咳嗽(がいそう)とも取れぬ粗い声を吐出させた。
「そういうレミィは見ていて嫌いじゃないわ」
「別に。私は貴女を嫌いたいわけじゃないの」
パチュリーは剥き出しの腕をだらりと下ろすと、ぬらりくらりと本題を催促した。
「貴女は外界の神々の力を未だ継承する人でなし。八雲との条約に抵触しない限り、あらゆる一存を具現化することができる。そんな当主様が、いったい何用かしら?」
そこで、レミリアは咲夜の顔色をうかがうことなく願望を口外した。
「私を眠らせて頂戴」
「どうしたいの?」
「人と同じように寝て、人と同じように夢を見たいのよ」
パチュリーは乾燥した口唇を舐めると、
「本当に……人間の夢が見てみたいだけかしら?」
すると、傾いた頭はそのままに。
レミリアは頬杖だけをすっと引き抜くと、その手を広げてこのように返した。
「ええ。パチェぐらいの魔女なら造作もない話でしょ?」
なおも総代としての威厳を奮おうとするレミリアという存在が魔女は滑稽で仕方がなかった。気高い薔薇垣の奥部に潜在するのは、純真さを秘めた少女の本心。
鼻につく言動。生臭くも、青臭くもある。
皮肉は意図せずとも滲出する。
「人間に還りたいのね。子が母の胎動を追慕するように」
「総代がただの遊戯に興じるのがそんなに不満かしら?」
矜持を逆撫でされたパチュリーは、すかさず目尻をぴくりと動かす。
「いいわ。御当主様の要望ならば協力を拒むことはできそうにないし」
「飲み込みが早いようで何より。やるなら明日の朝でも構わないわよ」
対談は比較的円満に収束したように思えた。
だがしかし、魔女の仕草を咲夜は見逃さなかった。
従者は主人の傍らで一抹の不安に胸をざわつかせていたのであった。
三、
陽射しが肌を焼く。何もかもがきらめく昼下がり。
いつしか忘れてしまった感覚。再び戻る日が来ようとは思ってもみなかった。
歓喜は収まるところを知らずに、彼女は咲き乱れる薔薇の庭園を駆け巡った。
すると、妙齢の給仕が日傘を片手にやってきた。
「御嬢様、またそのような。御召し物が汚れてしまいます」
「……誰かしら?」
咲夜でも美鈴でもない、彼女はただの人。
「私めのことは覚えてくださらなくても結構です。しかし、旦那様と奥方様の言いつけは守って頂きませんと。叱られるのは私どもであります」
レミリアは記憶を辿る。そして、背後にそびえる洋館を見上げた。それは紅の罪に染まる前の本来の場所。誰かに怯えることなく、ある家族が暮らした人の住処。
広間の中央に引き返すと、彼女はすかさず妹に抱きつかれた。
「見つけた。鬼ごっこは御姉様の負けね!」
それに合わせるように、高貴な身嗜みをした夫妻がレミリアのもとに歩み寄る。
「はっはっは。やっと来たな。我が家のじゃじゃ馬娘め」
「皆お茶にしようと言っていたの。貴女もいらっしゃい」
「御父様……御母様……」
その声色も姿形も、数百年経とうと忘却することのできなかったもの。レミリアが父の胸へと顔を埋めると、父はそのまま彼女を抱え上げぐるぐると回ってみせた。
「見て! 世界が回ってる……私を中心に回ってるわ!」
破顔する少女の瞳には生温かい雫がこぼれ落ちる。
それは重厚な十字架を背負わされた、ちっぽけな少女が秘めた心象の記憶。
まどろみが造り出した夢幻の世界で、幼き悪魔は抑圧から解放されていた。
レミリアの部屋に漆黒の棺が用意されたのは数日前のこと。その中では魔女の術式によって、人の夢を謳歌する総代が深い眠りについている。施行にあたっては、本人が目覚めるまで棺を開けていけないということが咲夜には告げられた。それだもので、日の高いうちは総代の片腕とてその真相をうかがい知ることができない。
だが、従者の不審感は日に日に堆積していった。
主人からおもむろに活気が失われていったのだ。加えて独り言が増え、脈絡のない話をするようにもなった。そして遂に、レミリアは夜の食事の最中にこう咲夜へと命じたのである。
「今夜は御父様と御母様が遊宴から帰ってくるわ。支度をしておいて頂戴」と。
これには咲夜も辛抱堪らなくなった。
ある晩。咲夜は主人の名を騙って、パチュリーを王座へと呼び出した。
紫煙の中から魔女は表出すると、咲夜の姿を認めるなりほくそ笑んだ。
「……レミィに呼ばれたはずだったけど」
「生憎ですが、御嬢様は棺から起き上がっておりませんので」
「面白い冗談ね。あの子が起きられないことは貴女だって分かってるはず」
この物言いに、咲夜は確信も持たずに声を荒げた。
「貴女様は……御嬢様に何をなさったのですか!」
魔女はわざとらしく首を傾ぐと、耳穴を気にする素振りを見せた。
そして、紅緋の絨毯に腰を下ろすとこう応えた。
「私はあの子の願いを素直に叶えてやったつもりよ」
「詭弁です。あの御方は今、深刻な中毒状態にある」
「それも人の夢見じゃない。人の感性を失っているのは貴女だったようね」
咲夜はパチュリーを睨めつけると腹に沸くものを押し殺した。
「……どういうことですか?」
「知ってたわけではないのね」
不気味な笑みを浮かべると、魔女はこのように語りを始めた。
「赤子は本能のまま眠る。人妖問わず、それが生物として本来の睡眠の姿。その方法は成長に連れて自我が芽生えることで誰もが忘れてしまうの。でもね、自我を失えば本能の赴くまま眠れるかと言えば、それは偽りにあたるんじゃないかしら。だって、自我の喪失は個性の廃絶に繋がるもの。あの子が求めていたのは、人間と同じ夢を見ることでも、人間らしい睡眠でもない。生理的な理性からの解放なのよ」
咲夜はエプロンをぎゅっと握り締めた。屋敷の者達は主人の精神に過多な負担をかけていた。自らも例外ではないだろう。だが、それでもなお彼女は折れなかった。
魔女の弁が真であるとするならば──。
「……死と何が違うのでしょうか……」
その時。咲夜の視線の遥か先の大扉がゆっくりと開かれた。
レミリアである。だが、そこにはもはや総代としての威厳は漂ってはいなかった。
倦怠感からか脱力した体。美麗だったはずの面持ちは憔悴しているではないか。
主人のあまりの変貌ぶりに、従者は口を覆う衝動を抑え切れなかった。
四、
レミリアは世界の人形として在ることをやめた。
誰かのために鎮座することも。
誰かのために着飾ることにも。
はびこる一切を放擲し、自由と願望の成就を果たしたのである。
酩酊した記憶の片隅で、自らの肩を揺さぶる者がいたとしても。
自身がここで何を成したかったか。それすら亡失したとしても。
漆黒の棺は醜怪な心身を受け止めてくれるのだ。
外蓋は他者との隔絶を担い、甘美な眠りへ自らを手招いてくれる。
泡沫の夢幻の中では、いつだって少女は子供に還ることができる。
魔女の皮肉を払拭することなく、幼い少女は闇雲に眠りを求めた。
夢幻は五感を侵食する。彼女の居場所を曖昧にすべくして。
そうして、古の記憶は今宵も再現される。
少女は秀外恵中と謳われていた。良き長女であると嘆じられた。
己の本質すらも忘れ、かつて愛した神の逸話を敬虔にも讃えた。
ある日。図書館で独学を試みていた彼女は、聖書に目を通していた。
はらはらと頁を捲り、メシアの言葉に差し掛かった時だった。
福音書の中での氏は、こう述べていた。
『……もし片眼が貴女方を躓かせるならば、抉り取ってしまいなさい』
少女の思考はぐにゃりと捻じ曲がった。
穢れを知らない指先は、小刻みに震えながらも方やの視界を掴む。
「……眼を抉る……眼を……私の眼を……なんのために……神は……」
不快感は夢幻を切り捨てるには充分過ぎた。
レミリアは見てはならないものを見てしまったのである。
晩餐の頃合いのことであった。
レミリアが酩酊に首を揺らしていると、咲夜がこのように申し出てきた。
「御嬢様……昨日は、霊夢との茶会を予定していましたが、その……何用があって断りもなく欠席したのか、と。彼女は立腹しておりました」
「…………知らない名前ね……どこの屋敷の者かしら」
「霊夢の誘いに頷かれたのは貴女様ではありませんか」
咲夜がこのように諌めると、レミリアは途端に気色ばんだ様相で食卓を叩いた。
「知らないから知らないって言ってるんじゃないの!」
突如として豹変した主人の血相に、咲夜は敬いなき恐怖を覚えた。
その際に食卓から銀のナイフが一本落ちた。
これについてもレミリアは主人風を吹かせ、従者に強要を迫った。
「ほら。落ちたナイフなんて使えないわよ。さっさと棄ててしまいなさい!」
「お、御嬢様……破棄の必要はないかと。私どもが洗浄します故にどうか」
「どうして私の言うことが聞けないのかしら! この役立たずは!」
咲夜は強い失意を受けた。
一本のナイフでも大切にするのが、自らが敬い傅いた主人だった。
同時にいかに醜悪な者であろうとも自らの胸を開く。
そんな人間離れした少女はここにはいない。
狂気に塗れる真紅の眸子は、どんよりと淀んでいる。
憤慨に逆立つ水縹(はなだ)の毛髪は艶の劣化が進んでいる。
俗としての心があるならば、彼女を醜いと言わずしてなんと形容しようか。
レミリアはふらりと離席すると、覚束ない足取りで出口を目指した。
咲夜は介抱しようと試みたが、レミリアは虚弱な腕でこれを振り払おうとする。
「……頭が、痛い……何も……何も、分からないの……」
「寝過ぎなのです、御嬢様。あの棺に、いったい何が隠されているのですか!」
主人に従者の懸命な忠告は届かず。
至福の安眠に戻ろうと。レミリアは魔女の待つ寝室を目指した。
魔女に棺を閉ざされると、レミリアは本来の自分が在るべき場所へと還った。
しかれども、もう遅過ぎた。少女は開いてしまったのだ。
夢幻の中。先までいたはずの図書館の机には神を讃える書が。だが、見開きには血塗られたナイフが立っている。天井からは囁き声が彼女の耳穴を蝕みにかかった。
『……その片眼を抉れ……其が敬虔なる神の子であるのならば……』
悍ましさから背筋の凍る思いをした少女は助けを呼ぼうと喚いた。
しかし、次第に空間は縮小を始める。
出口は紅茶に注がれた砂糖のようにたゆたい消失した。
焦燥感から逃げ惑う彼女は、迫り来るそれを見上げる。
天井には赤よりも紅い鮮血が。部屋一面を、覆わんと侵していた。
使徒と呼ぶには不気味な小悪でしかない。
不意に少女に鋭気が宿った。それはいつか誰かを救った勇気。
「私は違う!」
聖書に刺さるナイフを抜き取ると、少女は鮮血目掛けて投擲した。
それは伸びのある筋で、真っすぐに鮮血を射抜く。
刹那、ナイフは形状を変えて大いなる槍となった。
少女には見覚えがあった。それは──。
「……私の、グングニルが……私の……? まさか……そんな馬鹿な……」
目線を手元に戻した時には、すべてが現実に溶け込んでいた。
彼女は自覚してしまった。その罪悪を。
背骨からは悪魔の翼が。
指先からは鋭爪が。
少女の視る世界は狂乱に渦巻いた。
それこそが人智を超越した、紅魔の象徴――スカーレット――だったのだ。
どこからともなく聞こえる無数の慟哭が耳をつんざく。父と母もその中にいた。
すべての苦痛を乗り越えた少女は、天井の使徒がいないことに気づいた。
途端に、背後に気配を感じる。それは少女の振り向きを待たずに尋ねる。
「御姉様……どうして私を、裏切ったの……?」
神の槍に腹中を射抜かれていたのは、愛おしき妹フランだったのである。
五、
ナイトメアに精神を蹂躙されてしまったレミリアは、この日を境にして棺を撤去するようにパチュリーに命じた。すると、床ですら眠ることのない日々が続いた。
それだけ彼女の負った傷は深かったのである。
理不尽な癇癪を振りかざすことはなくなった。
だが、今度は突然泣き出すことが増えてしまった。
あまつさえ四六時中屋敷を跋扈するのだ。
これには従者も疲労の色を滲ませていた。
しかし、生物が永続的な不眠を獲得することは難しいこと。
ある日のこと。唐突に寝室へと駆け込んだレミリアは、憑き物にやられたようにアイボリーのベッドへと倒れ込むとそれきり深い眠りについてしまった。
その際に彼女が見たものは、定かな記憶と言うには遠いところにあった。
理由なく目覚めると、彼女の眼前には盟友たる魔女がちょこんと腰掛けていた。
「気分はどう?」
それで、レミリアは以前と比べて記憶に残らない何かを見たことを彼女に話した。
「……とても、つまらなかったわ。覚える価値のない、そんな夢……」
「それが人の夢よ。私も貴女も、かつてはそう呼んでいたはず。その不可侵な世界にこそ魂や精神の活力は宿るの。ほら。少しは身体も動くようになったでしょ?」
きょとんとしていたレミリアだったが、その顛末を辿ってみると盟友にしてやられたことを察した。自身の落ち度に、彼女の口からは思わず失笑が溢れる。
「……知ってたのね」
眉一つ動かすことのない表情とは裏腹に、パチュリーは友に手を差し出す。
「おかえりなさい、御当主様」
レミリアはこれを受け取ると、こくりと頷いた。
それから数日も経つと、夜のテラスに主従の姿があった。
主人は威厳と気品を漂わせ、高尚な紅茶の味に舌鼓を打つ。
従者は少々強張った表情で、主人の機嫌を恐る恐るうかがった。
「御嬢様……最近はよく眠れてますでしょうか。それとも、未だ」
レミリアは微笑してこれに応じる。
「私ね、もう人間ごっこはやめたの。ここには貴女達がいるから」
そこで、咲夜は一つの借問をレミリアへと投げかけた。
「御嬢様は落とされたナイフをどのように扱いますでしょうか?」
レミリアは閉口した。咲夜はその様に固唾を呑んだのであるが、開口されるなり当然と言わんばかりの語調でこのように諭した。
「いいこと、咲夜。一本のナイフでも大切にしないと駄目よ。それは貴女の手となり足となる物だから。他人に対しても同じような幽玄を持って接しなさい」
咲夜ははらはらと涙を流した。それは確かに従者が忠誠を誓った主人。
感極まった彼女は小さな背中を強く抱き寄せた。
「ちょっと、何よ。暑苦しいじゃない」
「御許し下さい。咲夜は嬉しくて仕方ないのです」
だが、その物言いの内でレミリアは記憶の断片を思い起こしていた。従者の喜悦は夢の中で自らが抱いた感情そのもの。だとすれば、自らが在りし日の父母の姿を望んだように、彼女もまた今まで自身との再開を待ち侘びていたのかもしれない。
主人は従者の無礼を甘んじて受け入れた。
他者の善悪をあまねく赦し認める。それは彼女だけが成し得る神の業。
幼い主人は従者の大きな手を握ると静かに応えた。
「ここにいるわ。それが私の魂が選んだ運命ならば」
薄曇りに隠遁した満月を初夏の風が露わにする。
湖畔の彼方では、今日も僧侶の鈴の音が哀しげに鳴り渡っていた。
(了)
記憶は粉を吹く。
永続性は原則として活力に即する。新鮮な肉体を持つ者ならば、事情の大小は厭わずに、その情報を清澄に保ち続けることができるはずだ。俗世で言う若人はこれに相当するだろう。少年少女ともすればいざ知らず。
移ろう星霜は許多の体験をもたらす。それを年功と形容する者もいる。
こうした事情から、長寿とは人々の憧憬となる。
されども、先述の弁を引き合いにしようものなら、長寿は人にとって必ずしも良いことではないと言えよう。いかんせん経験の堆積は歳の数に沿って上昇していく。
これに対して、肉体鮮度は交差するように下降していくのだ。
すなわち、長寿にとっての脅威とは記憶資産の忘却なのである。
「あな、有為転変は世の習い哉」と痩せこけた僧侶は鈴を打ち鳴らし、今宵も夜道を放浪する。蚊柱を潜るみすぼらしい面構えは、まさに幻想に取り憑かれし生き屍。
未だ蝉も地中を掘り起こさぬ時分のこと。
紅魔館に来訪した博麗の巫女は、月下のテラスで平手を煽った。
「煩わしいったらありゃしない」
「黙らせますか?」
給仕長の咲夜がかくも提言するも、当主はこれを抑止した。
「たった一羽の野鳥を取り立てて追い回すこともないでしょうに」
外界で数々の風説をさらった洋館。
ときに、魑魅魍魎の棲む邪悪な場所として恐れられた。
ときに、禍福得喪を司る神聖な場所として求められた。
それらの根拠となり得たのが、当主レミリアの存在であった。
誰よりも人を愛し、誰よりも人を蔑んだ少女は、人智を超えた永劫の力を手に入れた。蒼生の流言蜚語は長い歳月の中で尾を連ね、運命を司る幼い悪魔は生きとし生けるあらゆる者達の話題を席巻し続けた。
それはまさしく、鬼神とも形容できる来歴であろう。
したがって、レミリアは卓越した価値観を併せ持つ。
その相手が、たとえ箱庭の調停者であったとしても。
「稗田の娘は知っているかしら?」
咲夜の入れた紅茶を受け取るなり、話を切り出したのはレミリア自身であった。
さして屋外に関心を持たないと見ていた巫女は、口をぽかんと空けたまま首を縦に振った。
「あんたからその名が出るとは思わなかったわ」
「なんでも、先祖の記憶が継承されているんですってね」
「なりはあんたよりも餓鬼だろうけど、中身はとんだ化物よ。見聞の観点から言えば、の話だけど。私もそんな経験してみたいものね」
これに対して、レミリアは一つ相槌を打つだけだった。
彼女の動静をうかがうようにして、しばしの沈黙が訪れた。
月明かり映し出す深紅の水鏡が夜風に揺れる。
僧侶の念仏はいよいよ此方より彼方へ失せんとする。
鈴の音が没すると、ようやくレミリアは口を開いた。
「パチェが言ってた。記憶はアニマに移管されるんだって」
「移管?」
「貴女の言葉で言えば霊魂とか……。これ、理解してる?」
かくも言われるなり、巫女は鼻息を荒くして腕を組んだ。
「失礼ね。これでも神職よ。魂は人格的且つ非物質的な性質を持つ永遠の存在とでも言いたいんでしょ」
「しかし、御嬢様。それは私達のいた世界では肉体と精神を分離した存在と言われておりました。何故、博識であるパチュリー様がそのようなことを」
従者の発言に主人は首を傾げた。
「啓蒙程度の伝聞は聞き飽きた。そういうことじゃない」
従者がうなだれる傍ら、レミリアは悠長に紅茶に口をつける。
そして、巫女の立腹した顔を真紅の眸子に映し出すと答えた。
「私達は今もなお生き続ける、妖とも神とも呼べない存在。各々が化物としての転機を迎え今に至った。だとすれば、私やフランはなんなのかしら。人間としての生涯を破り捨てても、未だ過去の記憶を持続させている。それはつまり、存在の単位に魂が設けられている確たる証ではないかしら」
膨れっ面を突かれたように巫女は一息吐きつけると、それが阿求とどう繋がるのかしら、と不満を漏らした。
レミリアはいたずらに気品ある笑みを溢すと、
「だからね。先祖の魂を持つ者はその存在に翻弄されるのよ。それを継承しても平然といられる。稗田の娘を化物と呼ぶのなら、根幹はそこにある」
あるいは、と口にすると彼女は遠方の僧侶の声に耳を傾けた。
「あの野鳥は先祖の魂に惑わされているのかもしれない。外の世界に戻りたいという、人間の夢にね。だとしたら、彼にとってここは地獄の鳥籠ね」
「それが一人格で生ける自分との違い。そう自慢でもしたいの?」
レミリアは静かに首を振ると、人でなしのごとく伸び切った真紅の鋭爪を愛おしげに手のひらで撫でこう返答した。
「いいえ。私やフランは稗田の娘のように人間としての側に傾倒しない。おおかたの妖怪のように純粋さも持ち合わせない。人とも言えず、妖とも言えず。その意思は常に互いを切り落とそうと闘争状態にある。だから、私達は貴女のように意識を捨てた夢が見られないの」
巫女はすぐさま言葉をかけることができなかった。
眠りたい──生物としての欲求とも呼べるそれは、種族の差異にかかわらずにすべからくして幸福にあたると考えていた彼女にとって、レミリアの弁は自身の許容の範疇を逸脱してしまっていた。
先述の通り、巫女がその思想においてレミリアを上回ることはない。
認識の限界は自ずと人の弁舌の質を下げる。
「そんなに羨ましいなら、好きに寝ればいいじゃない」
せめてもの慰めになれば、と。
巫女が自分なりに選んだ言葉であった。
しかし、それは決してレミリアを救うものではない。むしろ、彼女は議論の相手として突き放されてしまった。従者も巫女と同じ類いであろう。
人間としての性質でなら、屋敷内において彼女に優る者はいないはずだ。
誰しもが皆一様に何かを失い、その虚空を異物で埋め合わせている。従者にはその違和感を共有することができないのだ。
巫女が屋敷をあとにすると、レミリアは深夜もまだ先であるというのに、眠りにつきたい、と従者を送り出し自室へと籠もった。
アイボリーのベッドに横たわる少女は、その見てくれには釣り合わない大きな責任感と罪悪感を背中の黒翼とともに抱える。
瞼を閉じたところで、その重責から逃避することなどできやしない。
閉ざされた空間で、彼女が闇に映し出すのは今を生きる眷属達と、それらを屋敷ごと滅さんと松明を掲げる群衆の姿。たとえそれが過去の伝承になったとしても、この箱庭に人間がいる限り脅威を払拭することは困難に等しい。それに抗い他者を殺めた時、自らはおろか眷属達にも再び猜疑の烙印が押し付けられることだろう。
考え出せば果てはない。
さもすれば、背ける目線の先に幽玄を探したとしても不思議ではない。
しばしの間。艶めく蒼髪を散らかしていた彼女は、華奢な上体を起こすなり、真人間に戻ったかのような憧憬を口にした。
「……私も、御父様や御母様の夢が見てみたい……」と。
主人の身を按じ室外で耳を欹てる従者は、人知れずむせび泣いていた。
二、
総代は常住坐臥(ざが)その責務と向き合わねばならない。
すなわち、眷属に示しのつく振る舞いが求められているということ。
漂わせる気品の瞭然たるや否や。
言の葉一つが手繰り寄せる威厳。
毛の先一本として乱せない容貌。
これら努力の紡績が束ねられ、彼女という美姫を創り出している。
咲夜はそれを借問せずとも承知し、その姿形に心配りを欠かさない。
主従間のこうしたやり取りをまるで人形狂いのようだと一線を引くのが、魔法図書館の主を自称する魔女パチュリーであった。
この二人は盟友の仲にあると言われている。
しかれども、それは決して単純な友情に由来するものではない。
パチュリーからすれば、レミリアは嫌いたい性分の相手だった。人間ならば尚のこと。その小芝居に付き合わされる時間の方が惜しい。それでも、レミリアは彼女と距離を取ろうとはしない。悪逆非道の限りを赦し、彼女を魔女狩りの脅威から救い出した過去があるからだ。その幽玄たる心に歩み寄るようにパチュリーもまた、人でなしの少女を受け入れていたのである。
故に、互いの意思が経由でもしない限り双方は干渉しない。
方や執拗に着飾ろうとしていようとも。
方や偏屈に外から傍観していようとも。
それが、魔女と総代との暗黙の了解となっていたのである。
こうした経緯もあってか。
魔女が形式的招致に応じることは極めて稀有なことだった。
草木も眠る丑三つ時。
約束された定刻を幾分か過ぎると、レミリアの待つ玉座の間に怪しげな光が立ち込めた。それは濃厚な葡萄酒を急激に気化させたような紫紺の浅霧をもたらす。
総代がかつて、この箱庭を混迷の渦にいざなった際の手法だ。
醜怪なまでに脆弱な肉体を倦厭する彼女は、自らの二本足の活用を惜しむ。
さりとて、過ちを連想させるこの芸当はレミリアの眉をぐっと寄せさせた。
「我々を試されているのです。どうか寛容な言動を御心がけくださいますよう」
咲夜は魔女がどういう質の輩であるかを了知していた。魔女は交渉の手札として正攻法の相対を持ち合わせない。
いや、仮に保有していたとしても敢えてそれを机上から除外するのだ。
相手の感情を揺さぶり、主導権を握るために。
力なき平手が視界を拭うと、浅霧の狭間から青白い顔が顕現した。
健全を放棄したと思しき細身の体躯。
牡丹花の絞り汁を啜ったような衣服。
なびく紫紺の長髪。知識を貪る瞳孔。
それが人間の真理を知り尽くした魔女の風骨だ。
しかし、臆してはならない。
それが魔女と謳われた者の術であるならば尚更。
紫紺の浅霧が晴れ、双方は各々の姿形を捉える。
「……流石は御当主様。腹が据ってらっしゃる」
「パチェ。これをどう解釈すればいいのかしら」
黒ずんだ目下の引き攣りを指先で押さえると、レミリアはこれと言った感情を露わにすることなく尋ねた。
「貴女が私と対等であると思うならば、どうということもないでしょう。この一芸は貴女が私の了承なしに成した一片。私はこれを甘受し、黙認したのだから」
「随分遅れた清算に目くじらを立てるのね」
動じることなく王座に頬杖をつく盟友を曇りがかった瞳でまじまじと見つめると、パチュリーは憫(びん)笑とも咳嗽(がいそう)とも取れぬ粗い声を吐出させた。
「そういうレミィは見ていて嫌いじゃないわ」
「別に。私は貴女を嫌いたいわけじゃないの」
パチュリーは剥き出しの腕をだらりと下ろすと、ぬらりくらりと本題を催促した。
「貴女は外界の神々の力を未だ継承する人でなし。八雲との条約に抵触しない限り、あらゆる一存を具現化することができる。そんな当主様が、いったい何用かしら?」
そこで、レミリアは咲夜の顔色をうかがうことなく願望を口外した。
「私を眠らせて頂戴」
「どうしたいの?」
「人と同じように寝て、人と同じように夢を見たいのよ」
パチュリーは乾燥した口唇を舐めると、
「本当に……人間の夢が見てみたいだけかしら?」
すると、傾いた頭はそのままに。
レミリアは頬杖だけをすっと引き抜くと、その手を広げてこのように返した。
「ええ。パチェぐらいの魔女なら造作もない話でしょ?」
なおも総代としての威厳を奮おうとするレミリアという存在が魔女は滑稽で仕方がなかった。気高い薔薇垣の奥部に潜在するのは、純真さを秘めた少女の本心。
鼻につく言動。生臭くも、青臭くもある。
皮肉は意図せずとも滲出する。
「人間に還りたいのね。子が母の胎動を追慕するように」
「総代がただの遊戯に興じるのがそんなに不満かしら?」
矜持を逆撫でされたパチュリーは、すかさず目尻をぴくりと動かす。
「いいわ。御当主様の要望ならば協力を拒むことはできそうにないし」
「飲み込みが早いようで何より。やるなら明日の朝でも構わないわよ」
対談は比較的円満に収束したように思えた。
だがしかし、魔女の仕草を咲夜は見逃さなかった。
従者は主人の傍らで一抹の不安に胸をざわつかせていたのであった。
三、
陽射しが肌を焼く。何もかもがきらめく昼下がり。
いつしか忘れてしまった感覚。再び戻る日が来ようとは思ってもみなかった。
歓喜は収まるところを知らずに、彼女は咲き乱れる薔薇の庭園を駆け巡った。
すると、妙齢の給仕が日傘を片手にやってきた。
「御嬢様、またそのような。御召し物が汚れてしまいます」
「……誰かしら?」
咲夜でも美鈴でもない、彼女はただの人。
「私めのことは覚えてくださらなくても結構です。しかし、旦那様と奥方様の言いつけは守って頂きませんと。叱られるのは私どもであります」
レミリアは記憶を辿る。そして、背後にそびえる洋館を見上げた。それは紅の罪に染まる前の本来の場所。誰かに怯えることなく、ある家族が暮らした人の住処。
広間の中央に引き返すと、彼女はすかさず妹に抱きつかれた。
「見つけた。鬼ごっこは御姉様の負けね!」
それに合わせるように、高貴な身嗜みをした夫妻がレミリアのもとに歩み寄る。
「はっはっは。やっと来たな。我が家のじゃじゃ馬娘め」
「皆お茶にしようと言っていたの。貴女もいらっしゃい」
「御父様……御母様……」
その声色も姿形も、数百年経とうと忘却することのできなかったもの。レミリアが父の胸へと顔を埋めると、父はそのまま彼女を抱え上げぐるぐると回ってみせた。
「見て! 世界が回ってる……私を中心に回ってるわ!」
破顔する少女の瞳には生温かい雫がこぼれ落ちる。
それは重厚な十字架を背負わされた、ちっぽけな少女が秘めた心象の記憶。
まどろみが造り出した夢幻の世界で、幼き悪魔は抑圧から解放されていた。
レミリアの部屋に漆黒の棺が用意されたのは数日前のこと。その中では魔女の術式によって、人の夢を謳歌する総代が深い眠りについている。施行にあたっては、本人が目覚めるまで棺を開けていけないということが咲夜には告げられた。それだもので、日の高いうちは総代の片腕とてその真相をうかがい知ることができない。
だが、従者の不審感は日に日に堆積していった。
主人からおもむろに活気が失われていったのだ。加えて独り言が増え、脈絡のない話をするようにもなった。そして遂に、レミリアは夜の食事の最中にこう咲夜へと命じたのである。
「今夜は御父様と御母様が遊宴から帰ってくるわ。支度をしておいて頂戴」と。
これには咲夜も辛抱堪らなくなった。
ある晩。咲夜は主人の名を騙って、パチュリーを王座へと呼び出した。
紫煙の中から魔女は表出すると、咲夜の姿を認めるなりほくそ笑んだ。
「……レミィに呼ばれたはずだったけど」
「生憎ですが、御嬢様は棺から起き上がっておりませんので」
「面白い冗談ね。あの子が起きられないことは貴女だって分かってるはず」
この物言いに、咲夜は確信も持たずに声を荒げた。
「貴女様は……御嬢様に何をなさったのですか!」
魔女はわざとらしく首を傾ぐと、耳穴を気にする素振りを見せた。
そして、紅緋の絨毯に腰を下ろすとこう応えた。
「私はあの子の願いを素直に叶えてやったつもりよ」
「詭弁です。あの御方は今、深刻な中毒状態にある」
「それも人の夢見じゃない。人の感性を失っているのは貴女だったようね」
咲夜はパチュリーを睨めつけると腹に沸くものを押し殺した。
「……どういうことですか?」
「知ってたわけではないのね」
不気味な笑みを浮かべると、魔女はこのように語りを始めた。
「赤子は本能のまま眠る。人妖問わず、それが生物として本来の睡眠の姿。その方法は成長に連れて自我が芽生えることで誰もが忘れてしまうの。でもね、自我を失えば本能の赴くまま眠れるかと言えば、それは偽りにあたるんじゃないかしら。だって、自我の喪失は個性の廃絶に繋がるもの。あの子が求めていたのは、人間と同じ夢を見ることでも、人間らしい睡眠でもない。生理的な理性からの解放なのよ」
咲夜はエプロンをぎゅっと握り締めた。屋敷の者達は主人の精神に過多な負担をかけていた。自らも例外ではないだろう。だが、それでもなお彼女は折れなかった。
魔女の弁が真であるとするならば──。
「……死と何が違うのでしょうか……」
その時。咲夜の視線の遥か先の大扉がゆっくりと開かれた。
レミリアである。だが、そこにはもはや総代としての威厳は漂ってはいなかった。
倦怠感からか脱力した体。美麗だったはずの面持ちは憔悴しているではないか。
主人のあまりの変貌ぶりに、従者は口を覆う衝動を抑え切れなかった。
四、
レミリアは世界の人形として在ることをやめた。
誰かのために鎮座することも。
誰かのために着飾ることにも。
はびこる一切を放擲し、自由と願望の成就を果たしたのである。
酩酊した記憶の片隅で、自らの肩を揺さぶる者がいたとしても。
自身がここで何を成したかったか。それすら亡失したとしても。
漆黒の棺は醜怪な心身を受け止めてくれるのだ。
外蓋は他者との隔絶を担い、甘美な眠りへ自らを手招いてくれる。
泡沫の夢幻の中では、いつだって少女は子供に還ることができる。
魔女の皮肉を払拭することなく、幼い少女は闇雲に眠りを求めた。
夢幻は五感を侵食する。彼女の居場所を曖昧にすべくして。
そうして、古の記憶は今宵も再現される。
少女は秀外恵中と謳われていた。良き長女であると嘆じられた。
己の本質すらも忘れ、かつて愛した神の逸話を敬虔にも讃えた。
ある日。図書館で独学を試みていた彼女は、聖書に目を通していた。
はらはらと頁を捲り、メシアの言葉に差し掛かった時だった。
福音書の中での氏は、こう述べていた。
『……もし片眼が貴女方を躓かせるならば、抉り取ってしまいなさい』
少女の思考はぐにゃりと捻じ曲がった。
穢れを知らない指先は、小刻みに震えながらも方やの視界を掴む。
「……眼を抉る……眼を……私の眼を……なんのために……神は……」
不快感は夢幻を切り捨てるには充分過ぎた。
レミリアは見てはならないものを見てしまったのである。
晩餐の頃合いのことであった。
レミリアが酩酊に首を揺らしていると、咲夜がこのように申し出てきた。
「御嬢様……昨日は、霊夢との茶会を予定していましたが、その……何用があって断りもなく欠席したのか、と。彼女は立腹しておりました」
「…………知らない名前ね……どこの屋敷の者かしら」
「霊夢の誘いに頷かれたのは貴女様ではありませんか」
咲夜がこのように諌めると、レミリアは途端に気色ばんだ様相で食卓を叩いた。
「知らないから知らないって言ってるんじゃないの!」
突如として豹変した主人の血相に、咲夜は敬いなき恐怖を覚えた。
その際に食卓から銀のナイフが一本落ちた。
これについてもレミリアは主人風を吹かせ、従者に強要を迫った。
「ほら。落ちたナイフなんて使えないわよ。さっさと棄ててしまいなさい!」
「お、御嬢様……破棄の必要はないかと。私どもが洗浄します故にどうか」
「どうして私の言うことが聞けないのかしら! この役立たずは!」
咲夜は強い失意を受けた。
一本のナイフでも大切にするのが、自らが敬い傅いた主人だった。
同時にいかに醜悪な者であろうとも自らの胸を開く。
そんな人間離れした少女はここにはいない。
狂気に塗れる真紅の眸子は、どんよりと淀んでいる。
憤慨に逆立つ水縹(はなだ)の毛髪は艶の劣化が進んでいる。
俗としての心があるならば、彼女を醜いと言わずしてなんと形容しようか。
レミリアはふらりと離席すると、覚束ない足取りで出口を目指した。
咲夜は介抱しようと試みたが、レミリアは虚弱な腕でこれを振り払おうとする。
「……頭が、痛い……何も……何も、分からないの……」
「寝過ぎなのです、御嬢様。あの棺に、いったい何が隠されているのですか!」
主人に従者の懸命な忠告は届かず。
至福の安眠に戻ろうと。レミリアは魔女の待つ寝室を目指した。
魔女に棺を閉ざされると、レミリアは本来の自分が在るべき場所へと還った。
しかれども、もう遅過ぎた。少女は開いてしまったのだ。
夢幻の中。先までいたはずの図書館の机には神を讃える書が。だが、見開きには血塗られたナイフが立っている。天井からは囁き声が彼女の耳穴を蝕みにかかった。
『……その片眼を抉れ……其が敬虔なる神の子であるのならば……』
悍ましさから背筋の凍る思いをした少女は助けを呼ぼうと喚いた。
しかし、次第に空間は縮小を始める。
出口は紅茶に注がれた砂糖のようにたゆたい消失した。
焦燥感から逃げ惑う彼女は、迫り来るそれを見上げる。
天井には赤よりも紅い鮮血が。部屋一面を、覆わんと侵していた。
使徒と呼ぶには不気味な小悪でしかない。
不意に少女に鋭気が宿った。それはいつか誰かを救った勇気。
「私は違う!」
聖書に刺さるナイフを抜き取ると、少女は鮮血目掛けて投擲した。
それは伸びのある筋で、真っすぐに鮮血を射抜く。
刹那、ナイフは形状を変えて大いなる槍となった。
少女には見覚えがあった。それは──。
「……私の、グングニルが……私の……? まさか……そんな馬鹿な……」
目線を手元に戻した時には、すべてが現実に溶け込んでいた。
彼女は自覚してしまった。その罪悪を。
背骨からは悪魔の翼が。
指先からは鋭爪が。
少女の視る世界は狂乱に渦巻いた。
それこそが人智を超越した、紅魔の象徴――スカーレット――だったのだ。
どこからともなく聞こえる無数の慟哭が耳をつんざく。父と母もその中にいた。
すべての苦痛を乗り越えた少女は、天井の使徒がいないことに気づいた。
途端に、背後に気配を感じる。それは少女の振り向きを待たずに尋ねる。
「御姉様……どうして私を、裏切ったの……?」
神の槍に腹中を射抜かれていたのは、愛おしき妹フランだったのである。
五、
ナイトメアに精神を蹂躙されてしまったレミリアは、この日を境にして棺を撤去するようにパチュリーに命じた。すると、床ですら眠ることのない日々が続いた。
それだけ彼女の負った傷は深かったのである。
理不尽な癇癪を振りかざすことはなくなった。
だが、今度は突然泣き出すことが増えてしまった。
あまつさえ四六時中屋敷を跋扈するのだ。
これには従者も疲労の色を滲ませていた。
しかし、生物が永続的な不眠を獲得することは難しいこと。
ある日のこと。唐突に寝室へと駆け込んだレミリアは、憑き物にやられたようにアイボリーのベッドへと倒れ込むとそれきり深い眠りについてしまった。
その際に彼女が見たものは、定かな記憶と言うには遠いところにあった。
理由なく目覚めると、彼女の眼前には盟友たる魔女がちょこんと腰掛けていた。
「気分はどう?」
それで、レミリアは以前と比べて記憶に残らない何かを見たことを彼女に話した。
「……とても、つまらなかったわ。覚える価値のない、そんな夢……」
「それが人の夢よ。私も貴女も、かつてはそう呼んでいたはず。その不可侵な世界にこそ魂や精神の活力は宿るの。ほら。少しは身体も動くようになったでしょ?」
きょとんとしていたレミリアだったが、その顛末を辿ってみると盟友にしてやられたことを察した。自身の落ち度に、彼女の口からは思わず失笑が溢れる。
「……知ってたのね」
眉一つ動かすことのない表情とは裏腹に、パチュリーは友に手を差し出す。
「おかえりなさい、御当主様」
レミリアはこれを受け取ると、こくりと頷いた。
それから数日も経つと、夜のテラスに主従の姿があった。
主人は威厳と気品を漂わせ、高尚な紅茶の味に舌鼓を打つ。
従者は少々強張った表情で、主人の機嫌を恐る恐るうかがった。
「御嬢様……最近はよく眠れてますでしょうか。それとも、未だ」
レミリアは微笑してこれに応じる。
「私ね、もう人間ごっこはやめたの。ここには貴女達がいるから」
そこで、咲夜は一つの借問をレミリアへと投げかけた。
「御嬢様は落とされたナイフをどのように扱いますでしょうか?」
レミリアは閉口した。咲夜はその様に固唾を呑んだのであるが、開口されるなり当然と言わんばかりの語調でこのように諭した。
「いいこと、咲夜。一本のナイフでも大切にしないと駄目よ。それは貴女の手となり足となる物だから。他人に対しても同じような幽玄を持って接しなさい」
咲夜ははらはらと涙を流した。それは確かに従者が忠誠を誓った主人。
感極まった彼女は小さな背中を強く抱き寄せた。
「ちょっと、何よ。暑苦しいじゃない」
「御許し下さい。咲夜は嬉しくて仕方ないのです」
だが、その物言いの内でレミリアは記憶の断片を思い起こしていた。従者の喜悦は夢の中で自らが抱いた感情そのもの。だとすれば、自らが在りし日の父母の姿を望んだように、彼女もまた今まで自身との再開を待ち侘びていたのかもしれない。
主人は従者の無礼を甘んじて受け入れた。
他者の善悪をあまねく赦し認める。それは彼女だけが成し得る神の業。
幼い主人は従者の大きな手を握ると静かに応えた。
「ここにいるわ。それが私の魂が選んだ運命ならば」
薄曇りに隠遁した満月を初夏の風が露わにする。
湖畔の彼方では、今日も僧侶の鈴の音が哀しげに鳴り渡っていた。
(了)