大誤算だ。出血の止まらない左腕を抑えながら、藪の中を走る。
幻想郷の実力者どもからも逃げおおせてみせた。数々の反則アイテムも手中に収めた。なのに、どうしてもアイツを撒くことができない。
あまつさえ、こんな手傷さえ負わされて、しかも野良の小動物のように敗走してるだなんて――。
「待て待てー!!」
ガキが興じる鬼ごっこのように、はしゃいだ声。それがとんでもない速度で、藪を切り裂きながら近づいてくる。橙とかいう、あのロリっ子の声が。
「何だってんだよ……ッ!」
腕を垂れてくる血を舐めとって、ベルトに留めておいた道具を掴む。四尺マジックボム。弾幕をかき消すのではなく、目くらましとして――。
背後の低木が切り飛ばされる。橙の派手な服が一瞬だけ目に飛び込んできて、
「捕まえ――」
「――られるかよ、ブァーカがッ!」
破裂直前のマジックボムを目の前に放る。同時にひらり布を被り、光と爆風をやり過ごす――!
刹那、ボムの爆裂。爆音と熱風が私の身体をすりぬける。瞼を閉じてても、目の奥が痛むような閃光だ。橙の姿を確認してる暇はない。この隙に、隙間の折り畳み傘で別の場所へとワープする。
アイテム三つの同時使用。おかげで、私は離れた場所に移動できた。手頃な木の根元に膝をついて、左腕の怪我をボロ布で縛り付ける。
なんて日だ。あぁ、チクショウ。この私が、あんな雑魚に追い詰められるなんて。
つーか、もういいだろ。まだ追いかけられんのか私は。とっくに時効だろ。四年も経ってるんだぞ。弾幕アマノジャクの頒布から。天空璋も憑依華も出たじゃんか。私なんて追っかけてないで、日焼けしたチルノと遊んでろよ。
「隠れちゃったねー? 今度は、かくれんぼかなー?」
10時の方向から、橙の声。ギリ、と奥歯を噛み締めた。遊んでる。遊び感覚なんだ、アイツは。出会い頭もそうだった。「らんしゃまに言われたから、捕まえるね」だと。そんな、はじめてのお○かい感覚でやられて堪るか。5ボスが2ボスに負けるはずないんだよ。
――あ、駄目だ。あいつEx中ボスもやってた。
実際アイツから逃げ延びるとなると、ちょいと厳しい。悔しいが、それが事実だ。なんせ、アイツの速度が想定外過ぎる。しかも、仕掛けてくるのが弾幕ごっこの体裁ですらない。ひたすら、速度に頼った肉弾戦だ。そこが辛い。今までと勝手が違うところだ。
どうする。どうすれば逃げ延びられる。弾幕を前提にした道具じゃ、通用しない。考えろ。頭と能力をフルに使って、この窮地を脱するんだ。
「――苦戦してるようだね、橙」
その声に、思わず背筋が震える。橙がいる方向から聞こえた、アイツの保護者の声。
「あ、らんしゃま!! むぅ、ごめんなさい、あとちょっとなんだけど……」
「ははは、良いんだよ。しょせん小物だ。橙ならすぐにやっつけられるさ」
「……んのやろう。仲良し八雲家しやがって……」
藍が橙の頭を撫でている様子を隠れて見ながら、悪態を吐き捨てる。だが、状況はさっきよりも格段に悪化した。
スキマ妖怪の式。そして式の式。
やつらの親玉から逃げきって見せたのも記憶に新しいが、だからといってその手下を雑魚だと侮れないのは、もう左腕の怪我で肝に銘じてる。
逃げるなら、アイツらがホームコメディ演じてやがる今しかない。
気付かれないように、こっそりとこの場を後にすれば――
――パキ。
「……ッ!!」
踏み出した私の足が、小枝を踏みつけて折ってしまった。
しまった。そう思ったときには、もう遅い。背筋が総毛立つような気配を感じて――
「にゃ! らんしゃま! いま、音がしたよ! 向こうからだよ!」
「くっそ、がぁ……ッ!」
忌々しさを絞り出すように吐き捨てて、私は走り出す。まさかこんなベタ過ぎる展開で気付かれるなんて、どこの三文ドラマだ。
「逃、が、さ、ないよーー!!」
走り出して数秒もしない内に、もう橙は私のすぐ後ろまで迫って来ていた。最後の手段、とばかりに私はレプリカの小槌を手にする。コイツをブン殴れば、と。
だが――
「させないよ!」
振りかぶった小槌を、繰り出された爪の一撃が狙い撃ちにしてくる。握った小槌が私の手から弾き飛ばされた。あっ、と思う間もなく私の喉が鷲掴みにされ、
「それーーーー!」
「ぐぅ……!?」
一瞬、重力を失って、背中に鈍い痛みが走る。首筋に鋭い爪が当てられている。勝ち誇る橙の顔が、私を見下ろしていた。
「やったやった! らんしゃま! 捕まえましたー!」
「クソッ!! 放しやがれ!!」
「だーめ♪」
ギリ、と喉が締め付けられる。幼い見かけによらず、その力は強い。二度、三度と肺の奥から痛みを伴う咳がこぼれた。
「さすが私の可愛い橙だ! よくやったな!」
「えへへぇ♪ ありがとうらんしゃま! だーいすき♪」
親バカを思わせる藍の声が、遠くから近づいてくる。必死に橙を跳ね除けようと暴れるが、私を掴む橙はビクともしない。
――もう、万事休すなのか。
世間が新妻正邪で盛り上がってるこんなよく判らない微妙なタイミングで、捕まって終わるのか……。
――ピピピ、ピピピ、ピピピ。
「……は?」
あまりにも場にそぐわない間抜けな電子音。それは、橙の被っている帽子の中から聞こえてきた。
途端、幼稚な笑みを自慢げに浮かべていた橙が、スッと真顔になる。私に馬乗りになっていた彼女は、帽子の中に手を突っ込んで電子音を止めると、何でもないように私の喉から手を離し、立ち上がる。
「………………へ?」
「すいません、もう時間なんで」
「……え?」
私はたぶん、ポカンと間の抜けた顔をしていただろう。
これまでノリノリで私を追っていた橙が嘘のようだった。というか、なんか話し方まで変わってるんだけどコイツ。さっきまでの舌っ足らずな喋り方はどうした。
「ちょ、橙……?」
藍が歩み寄ってきて、呆然と橙を見ている。そんな狐の顔を見て、あ、私もこんな顔をしてるのかな、なんて遠い思考で思う。橙は髪の毛を指先で弄りながら、退屈そうに藍を見ると、
「あぁ、藍さん。私、定時なんで。お先です」
「「いやいやいやいやいやいや……!」」
奇しくも藍と声を揃えて、帰ろうとする橙の背中に呼びかける。
――なに? え? どんな状況? ちょっと待って? 色々と説明して?
「そんな……橙、もう少しくらい良いじゃないか……」
「無理です」
「いやだって、ここまで追い詰めたんだし……」
「私、派遣なんで」
「え? 派遣なの?」
思わず藍を見てしまう。だが、彼女は私をチラと見やっただけで、すぐに橙へと向き直った。いや、ちょっと待て。さっきまでの仲良し八雲家っぷりはどこ行った。
「橙、頼むよ……そんな、ちょっとくらい時間オーバーしても良いじゃないか……」
「失礼ですが、御社はサービス残業を奨励していらっしゃるのでしょうか」
少しだけ眉根を険しくした橙が、取り澄ました声で問いかける。うっ、と声を詰まらせた藍が一歩後ずさると、橙は彼女を見つめたまま、
「弊派遣元では、残業を認める36協定が締結されてません。この場合、派遣先の上長の指示であっても被派遣者を残業させることが不可であることは、当然承知していらっしゃるものと存じます。それを無視して残業を行わせることは、労働基準法ならびに労働者派遣法に抵触いたします。御社のコンプライアンスが問われる事態になりかねないことを、認識されておりますでしょうか」
「嘘だろ、おい」
ツッコミどころ多すぎない?
え? お前らの関係って、派遣先と派遣元だったの?
私がさっきまで見せられてた仲睦まじさも、派遣業務に含まれてたの?
「も、もちろんそれは自覚してるさ……」
「認めちゃうのかよ」
お前、マジかよ。
らんしゃま! だーいすき♪ とかも業務で言わせてたのを認めちゃうのかよ。
悲しすぎるだろ、それ。涙が出てくるわ。
「だが……だが、考えて欲しい。君が反逆者を捕まえた実績があれば、ウチとしても君を重用することができるんだ! もちろん、派遣元にも良い報告ができるし、最終的には『八雲 橙』として正社員登用も――」
「そのような玉虫色のお返事を期待して、申し上げたわけではありません。私はあくまで法に基づいて意見を差し上げているのですが、ご認識に相違がございましたら仰ってください」
「あ、怖い奴だコレ」
ビジネスの場で認識の相違を問われるのは、かなりマズい地雷を踏んだ時だ。
覚えとこうな。
「で、でもだな……」
「このやりとりの時間は、業務として捉えてよろしいですか」
「い、いや! そんなつもりじゃ――」
「お先に失礼します」
「……はい」
ペコリ、とお辞儀をした橙が呆然自失状態の藍を置いて、スタスタと去っていく。私はそんな何とも言えない光景を、何とも言えない気分で見つめているしかなかった。
「うぅ……くそぅ……あと30秒くらいだったじゃないか……良いじゃないかよ、それくらい融通を利かせてくれても」
「いや、駄目だろ」
思わずダメ出しをしてしまう。雇用管理者がそんな意識だから、この国はブラック企業が蔓延するんだよ。
法律で駄目と決まってるものは駄目なんだよ。
自覚しろ。
「これも紫さまが『八雲』を法人化したせいだ……どうして……私は、ロクに労働条件も知らされず、こき使われてるのに……橙はちゃっかりと独立法人化して、こんな情もへったくれもない関係に……」
「あー、ちょっといいか?」
ブツブツとひとりで文句を言い続ける藍の肩を、ポンと叩く。すると藍は覇気のない顔で私を睨みつけて、
「……なんだよ反逆者。お前を捕まえるのは橙の役目だ。今日の業務時間は終わった。とっとと消えろ」
「雇用契約書も見せられてないのか?」
「は?」
「その状態で労務に従事させるのは違法だぞ。労働基準法15条に違反してる」
「……なんだと?」
藍が驚いた顔で私を見てくる。お前なんかに、どうしてそんな知識があるのか、とでも言いたげに。
馬鹿め。反逆と言えばプロレタリアートだろう。
いまどき、労働法も知らずに反逆者なんかやってられん。こんなもん、全世界の反逆者にとって初歩中の初歩だ。
「『八雲』は法人化しているんだろ? だったら、労働法に即した経営を行うことは法人としての義務だ。社内でどんなルールがまかり通っていようが、全ては法律が優先する。
――なぁ、目ぇ覚ませよ。
お前は、会社の奴隷になるために生まれてきたのか?」
「うっ、ぐ……!」
私の言葉に、藍は返す言葉もない様子で私を見つめてくる。
……おやおや、これはこれは。良い情報を得られたもんだ。
法人に対する下剋上なら、私の独壇場だ。この幻想郷で、私以上に上手くやれる奴なんか居ないさ。なんせ、こちとら1人で戦うための武器なら、何だって集めるんだ。
「まぁ、そのケモミミ貸しなって。まずは雇用条件通知書の開示を請求しようぜ。それと同時に、これまでの労務状況の記録を作成するんだ。労働時間、労務内容だな。ハラスメント行為はあったか? なら、それに対する慰謝料の請求も可能だ……。まったく、中間管理職は大変だなぁ? 橙はうまくやってるよなぁ? だから、今度はお前がうまくやる番だよ。
――さ、もう少し向こうで話そうか」
「あ、あぁ……」
私は藍の肩を引きながら、すっかり私の話を聞く気になってるコイツを、ゆっくり話のできる場所へと誘う。
まさかこんなところで、幻想郷の賢者サマに反逆を仕掛ける糸口が見つかるとは思わなかった。
なんて、ワクワクドキドキな気分を抑えることもできず、口元に笑みを浮かべながら。
幻想郷の実力者どもからも逃げおおせてみせた。数々の反則アイテムも手中に収めた。なのに、どうしてもアイツを撒くことができない。
あまつさえ、こんな手傷さえ負わされて、しかも野良の小動物のように敗走してるだなんて――。
「待て待てー!!」
ガキが興じる鬼ごっこのように、はしゃいだ声。それがとんでもない速度で、藪を切り裂きながら近づいてくる。橙とかいう、あのロリっ子の声が。
「何だってんだよ……ッ!」
腕を垂れてくる血を舐めとって、ベルトに留めておいた道具を掴む。四尺マジックボム。弾幕をかき消すのではなく、目くらましとして――。
背後の低木が切り飛ばされる。橙の派手な服が一瞬だけ目に飛び込んできて、
「捕まえ――」
「――られるかよ、ブァーカがッ!」
破裂直前のマジックボムを目の前に放る。同時にひらり布を被り、光と爆風をやり過ごす――!
刹那、ボムの爆裂。爆音と熱風が私の身体をすりぬける。瞼を閉じてても、目の奥が痛むような閃光だ。橙の姿を確認してる暇はない。この隙に、隙間の折り畳み傘で別の場所へとワープする。
アイテム三つの同時使用。おかげで、私は離れた場所に移動できた。手頃な木の根元に膝をついて、左腕の怪我をボロ布で縛り付ける。
なんて日だ。あぁ、チクショウ。この私が、あんな雑魚に追い詰められるなんて。
つーか、もういいだろ。まだ追いかけられんのか私は。とっくに時効だろ。四年も経ってるんだぞ。弾幕アマノジャクの頒布から。天空璋も憑依華も出たじゃんか。私なんて追っかけてないで、日焼けしたチルノと遊んでろよ。
「隠れちゃったねー? 今度は、かくれんぼかなー?」
10時の方向から、橙の声。ギリ、と奥歯を噛み締めた。遊んでる。遊び感覚なんだ、アイツは。出会い頭もそうだった。「らんしゃまに言われたから、捕まえるね」だと。そんな、はじめてのお○かい感覚でやられて堪るか。5ボスが2ボスに負けるはずないんだよ。
――あ、駄目だ。あいつEx中ボスもやってた。
実際アイツから逃げ延びるとなると、ちょいと厳しい。悔しいが、それが事実だ。なんせ、アイツの速度が想定外過ぎる。しかも、仕掛けてくるのが弾幕ごっこの体裁ですらない。ひたすら、速度に頼った肉弾戦だ。そこが辛い。今までと勝手が違うところだ。
どうする。どうすれば逃げ延びられる。弾幕を前提にした道具じゃ、通用しない。考えろ。頭と能力をフルに使って、この窮地を脱するんだ。
「――苦戦してるようだね、橙」
その声に、思わず背筋が震える。橙がいる方向から聞こえた、アイツの保護者の声。
「あ、らんしゃま!! むぅ、ごめんなさい、あとちょっとなんだけど……」
「ははは、良いんだよ。しょせん小物だ。橙ならすぐにやっつけられるさ」
「……んのやろう。仲良し八雲家しやがって……」
藍が橙の頭を撫でている様子を隠れて見ながら、悪態を吐き捨てる。だが、状況はさっきよりも格段に悪化した。
スキマ妖怪の式。そして式の式。
やつらの親玉から逃げきって見せたのも記憶に新しいが、だからといってその手下を雑魚だと侮れないのは、もう左腕の怪我で肝に銘じてる。
逃げるなら、アイツらがホームコメディ演じてやがる今しかない。
気付かれないように、こっそりとこの場を後にすれば――
――パキ。
「……ッ!!」
踏み出した私の足が、小枝を踏みつけて折ってしまった。
しまった。そう思ったときには、もう遅い。背筋が総毛立つような気配を感じて――
「にゃ! らんしゃま! いま、音がしたよ! 向こうからだよ!」
「くっそ、がぁ……ッ!」
忌々しさを絞り出すように吐き捨てて、私は走り出す。まさかこんなベタ過ぎる展開で気付かれるなんて、どこの三文ドラマだ。
「逃、が、さ、ないよーー!!」
走り出して数秒もしない内に、もう橙は私のすぐ後ろまで迫って来ていた。最後の手段、とばかりに私はレプリカの小槌を手にする。コイツをブン殴れば、と。
だが――
「させないよ!」
振りかぶった小槌を、繰り出された爪の一撃が狙い撃ちにしてくる。握った小槌が私の手から弾き飛ばされた。あっ、と思う間もなく私の喉が鷲掴みにされ、
「それーーーー!」
「ぐぅ……!?」
一瞬、重力を失って、背中に鈍い痛みが走る。首筋に鋭い爪が当てられている。勝ち誇る橙の顔が、私を見下ろしていた。
「やったやった! らんしゃま! 捕まえましたー!」
「クソッ!! 放しやがれ!!」
「だーめ♪」
ギリ、と喉が締め付けられる。幼い見かけによらず、その力は強い。二度、三度と肺の奥から痛みを伴う咳がこぼれた。
「さすが私の可愛い橙だ! よくやったな!」
「えへへぇ♪ ありがとうらんしゃま! だーいすき♪」
親バカを思わせる藍の声が、遠くから近づいてくる。必死に橙を跳ね除けようと暴れるが、私を掴む橙はビクともしない。
――もう、万事休すなのか。
世間が新妻正邪で盛り上がってるこんなよく判らない微妙なタイミングで、捕まって終わるのか……。
――ピピピ、ピピピ、ピピピ。
「……は?」
あまりにも場にそぐわない間抜けな電子音。それは、橙の被っている帽子の中から聞こえてきた。
途端、幼稚な笑みを自慢げに浮かべていた橙が、スッと真顔になる。私に馬乗りになっていた彼女は、帽子の中に手を突っ込んで電子音を止めると、何でもないように私の喉から手を離し、立ち上がる。
「………………へ?」
「すいません、もう時間なんで」
「……え?」
私はたぶん、ポカンと間の抜けた顔をしていただろう。
これまでノリノリで私を追っていた橙が嘘のようだった。というか、なんか話し方まで変わってるんだけどコイツ。さっきまでの舌っ足らずな喋り方はどうした。
「ちょ、橙……?」
藍が歩み寄ってきて、呆然と橙を見ている。そんな狐の顔を見て、あ、私もこんな顔をしてるのかな、なんて遠い思考で思う。橙は髪の毛を指先で弄りながら、退屈そうに藍を見ると、
「あぁ、藍さん。私、定時なんで。お先です」
「「いやいやいやいやいやいや……!」」
奇しくも藍と声を揃えて、帰ろうとする橙の背中に呼びかける。
――なに? え? どんな状況? ちょっと待って? 色々と説明して?
「そんな……橙、もう少しくらい良いじゃないか……」
「無理です」
「いやだって、ここまで追い詰めたんだし……」
「私、派遣なんで」
「え? 派遣なの?」
思わず藍を見てしまう。だが、彼女は私をチラと見やっただけで、すぐに橙へと向き直った。いや、ちょっと待て。さっきまでの仲良し八雲家っぷりはどこ行った。
「橙、頼むよ……そんな、ちょっとくらい時間オーバーしても良いじゃないか……」
「失礼ですが、御社はサービス残業を奨励していらっしゃるのでしょうか」
少しだけ眉根を険しくした橙が、取り澄ました声で問いかける。うっ、と声を詰まらせた藍が一歩後ずさると、橙は彼女を見つめたまま、
「弊派遣元では、残業を認める36協定が締結されてません。この場合、派遣先の上長の指示であっても被派遣者を残業させることが不可であることは、当然承知していらっしゃるものと存じます。それを無視して残業を行わせることは、労働基準法ならびに労働者派遣法に抵触いたします。御社のコンプライアンスが問われる事態になりかねないことを、認識されておりますでしょうか」
「嘘だろ、おい」
ツッコミどころ多すぎない?
え? お前らの関係って、派遣先と派遣元だったの?
私がさっきまで見せられてた仲睦まじさも、派遣業務に含まれてたの?
「も、もちろんそれは自覚してるさ……」
「認めちゃうのかよ」
お前、マジかよ。
らんしゃま! だーいすき♪ とかも業務で言わせてたのを認めちゃうのかよ。
悲しすぎるだろ、それ。涙が出てくるわ。
「だが……だが、考えて欲しい。君が反逆者を捕まえた実績があれば、ウチとしても君を重用することができるんだ! もちろん、派遣元にも良い報告ができるし、最終的には『八雲 橙』として正社員登用も――」
「そのような玉虫色のお返事を期待して、申し上げたわけではありません。私はあくまで法に基づいて意見を差し上げているのですが、ご認識に相違がございましたら仰ってください」
「あ、怖い奴だコレ」
ビジネスの場で認識の相違を問われるのは、かなりマズい地雷を踏んだ時だ。
覚えとこうな。
「で、でもだな……」
「このやりとりの時間は、業務として捉えてよろしいですか」
「い、いや! そんなつもりじゃ――」
「お先に失礼します」
「……はい」
ペコリ、とお辞儀をした橙が呆然自失状態の藍を置いて、スタスタと去っていく。私はそんな何とも言えない光景を、何とも言えない気分で見つめているしかなかった。
「うぅ……くそぅ……あと30秒くらいだったじゃないか……良いじゃないかよ、それくらい融通を利かせてくれても」
「いや、駄目だろ」
思わずダメ出しをしてしまう。雇用管理者がそんな意識だから、この国はブラック企業が蔓延するんだよ。
法律で駄目と決まってるものは駄目なんだよ。
自覚しろ。
「これも紫さまが『八雲』を法人化したせいだ……どうして……私は、ロクに労働条件も知らされず、こき使われてるのに……橙はちゃっかりと独立法人化して、こんな情もへったくれもない関係に……」
「あー、ちょっといいか?」
ブツブツとひとりで文句を言い続ける藍の肩を、ポンと叩く。すると藍は覇気のない顔で私を睨みつけて、
「……なんだよ反逆者。お前を捕まえるのは橙の役目だ。今日の業務時間は終わった。とっとと消えろ」
「雇用契約書も見せられてないのか?」
「は?」
「その状態で労務に従事させるのは違法だぞ。労働基準法15条に違反してる」
「……なんだと?」
藍が驚いた顔で私を見てくる。お前なんかに、どうしてそんな知識があるのか、とでも言いたげに。
馬鹿め。反逆と言えばプロレタリアートだろう。
いまどき、労働法も知らずに反逆者なんかやってられん。こんなもん、全世界の反逆者にとって初歩中の初歩だ。
「『八雲』は法人化しているんだろ? だったら、労働法に即した経営を行うことは法人としての義務だ。社内でどんなルールがまかり通っていようが、全ては法律が優先する。
――なぁ、目ぇ覚ませよ。
お前は、会社の奴隷になるために生まれてきたのか?」
「うっ、ぐ……!」
私の言葉に、藍は返す言葉もない様子で私を見つめてくる。
……おやおや、これはこれは。良い情報を得られたもんだ。
法人に対する下剋上なら、私の独壇場だ。この幻想郷で、私以上に上手くやれる奴なんか居ないさ。なんせ、こちとら1人で戦うための武器なら、何だって集めるんだ。
「まぁ、そのケモミミ貸しなって。まずは雇用条件通知書の開示を請求しようぜ。それと同時に、これまでの労務状況の記録を作成するんだ。労働時間、労務内容だな。ハラスメント行為はあったか? なら、それに対する慰謝料の請求も可能だ……。まったく、中間管理職は大変だなぁ? 橙はうまくやってるよなぁ? だから、今度はお前がうまくやる番だよ。
――さ、もう少し向こうで話そうか」
「あ、あぁ……」
私は藍の肩を引きながら、すっかり私の話を聞く気になってるコイツを、ゆっくり話のできる場所へと誘う。
まさかこんなところで、幻想郷の賢者サマに反逆を仕掛ける糸口が見つかるとは思わなかった。
なんて、ワクワクドキドキな気分を抑えることもできず、口元に笑みを浮かべながら。
定時って概念まで幻想入りされたらもう酷いもんですね。
>「そんな……橙、もう少しくらい良いじゃないか……」
風俗店かな
笑いながらも、他人ごとではないので基本的な法律の知識は頭に叩き込んでおこうと思いました
「いまどき、労働法も知らずに反逆者なんかやってられん。こんなもん、全世界の反逆者にとって初歩中の初歩だ」
こんな事言う正邪きっと世界中探してもこの作品だけだと思います。
労基法違反ダメ、ゼッタイ
橙が豹変する所と正邪の甘言に惑わされる藍様が良かったです
お題出しておいてなんですがこうくるとは思いませんでした
こうって言うのはつまり、創想話に投稿するって意味ですが
東自分でもよくわかりませんが東方二次らしさを感じました