■
「あなた、こういう服も着た方がいいわ」
幽香はひらりとスカートを翻して、くるりと一回転する。生地は夏物なのか少し薄く、時折覗く太ももに、思わず生唾を飲み込んだ。
フリルのついた、可愛い洋服。とても女の子らしくて、可愛いのだと思う。
「僕は、いい」
僕は蟲の命と言えど、妖怪だ。身長や体重だって変わらないだろうし、着ようと思えばいつだって、そんな服は着れるんだ。だから、そういう服はあとでいい。僕が僕であるためにすべきことが、終わってからでいい。
「そう。残念ね。可愛いあなたも魅力的だと思うけど」
幽香は心底しょんぼりしていた。僕のことを女の子だと気遣ってくれる人は、もう周りには彼女一人しかいない。
「僕は、そのうち元通りになるから」
幽香に背を向けて、元通りってなんだろう、そんなことを思いながら玄関のドアノブを捻った。
■
「次の文章を読んで、チルノ」
先生の芯のある声を右から左へと聞き流し、僕は教室の窓から見える空を眺めていた。背の高い雲が遠くにできていた。今日は夕立に遭うかもしれない。そういえば、傘を幽香の家に忘れてしまった。
案の定、授業が終わるころには雨が降り出していた。濡れて帰るか、止むまで待つか、考えた結果止むまで待つことにした。洗濯の回数が増えるのは面倒くさいし、教科の本が濡れるのも嫌だから。
寺子屋の入り口で雨が上がるのを待っていると、遠くから小柄な人影が近づいてくるのが見えた。
「……」
僕の恋人だった。
「傘、持ってきました。今日は、寄ってくれますか?」
阿求は傘を僕に差し出しながら、尋ねる。
「ありがとう。お邪魔するね」
傘を持ってきた、なんて言いながら手には傘一本。ドジなのか、相合傘がしたいがためなのかは分からないけれど、結局僕が濡れて帰る事には変わりがなさそうだった。
「持つよ。あと阿求、少し濡れてる」
ハンカチを出して、阿求の袖や襟についた雫をふき取る。
「はあリグルくん、なんて素敵な紳士なのでしょう……」
なんだか変なスイッチを押してしまったかもしれない。
「行こう、阿求。濡れてからは冷えちゃいけない」
「はいっ」
■
雨粒を肩に感じつつ、つい数か月前のことを思い出す。
阿求との出会いは衝撃的だった。お互い目と目が合ったとき、何かを感じ取ってしまったのだ。阿求の場合は、僕の少年のような体に。僕は、どこか儚げで可憐な顔に、一瞬で恋に落ちた。二人の間だけ、時間が止まったのかと思ったくらいだ。
問題はいくつかあった。僕は彼女と深い仲になりたい。しかし阿求はあくまでも少年のリグル・ナイトバグに一目惚れをしたという。そこで一つ、僕は変わることにしたのだ。
一人称は「私」から「僕」に。服装や振る舞いは常に男の子らしく。こうして僕は、阿求と付き合うに至った。
■
「濡れちゃいましたね、リグルくん……」
予想通り、傘からはみ出た僕の洋服と体はずぶ濡れだ。それでも、阿求は足元以外濡れていないようなので、エスコートは八割くらいは成功だろう。
「替えの着替えを用意します」
阿求は音もなく静かに部屋の奥に消えてゆく。ていの良い理由をこじつけて、きっと今日も色々な男装をさせられるのだろう。そう思うと、少しだけうつうつとした気分になった。
「お待たせしました」
阿求が替えとして持ってきた服は、お祭りなんかでよく見かける甚平だった。
「私、今年の夏祭りまで居られませんから、どうしても見ておきたくて、えへへ……」
頬をかきながら俯く阿求。とても、彼女に申し訳なくなった。阿求は夏前には転生の儀式を行う。それはつまり、私たちが残り一緒に居られる時間を指していた。
一しきり甚平の僕を愛で終えた阿求は、寂しそうに抱き着いてくる。華奢な体は、抱きしめ返すと壊れてしまいそうだ。
「リグルくん、もう少しだけ、私だけのリグルくんで居てね……」
阿求はやっぱり僕が好きになった女の子で、だけど幻想郷の阿礼乙女だった。
■
幽香が心配そうに僕を覗き込む。寺子屋の授業をフケた日は、幽香の家のベッドで横になるに限る。この家のベットは柔らかくて、いい香りがして、何より広いのだ。
「無理して良い事はないのよ」
僕が幽香の家を訪れるのは、たいてい心が寂しい気持ちでいっぱいになったときだった。振ったはずの彼女の、まだ僕に残っている気持ちを利用して、苦しい気持ちを和らげている。
「リグル私は、女の子のままのあなたも、男の子みたいなあなたも、好きよ」
幽香の言葉は優しい雨のように僕の体に染み込んでくる。じわりと目尻が熱くなり、そこから頬へと水が伝った。この優しさに甘えたい、阿求が好きなのに、阿求に真っすぐに向き合えない。たくさんの葛藤が雫になって、それからもずっと流れ続けた。幽香はずっと、僕の隣に居てくれた。
■
「リグルくん、最近辛そうです」
阿求は開口一番に僕の心配をしてくれた。心づかいが痛くて、苦しかった。だって、僕は自分のつらさばかりを見ているから。
「そんなことないよ。ほらこの通り!」
ない力こぶを作って、元気だと伝える。
「……もうすぐ、儀式だね」
言いづらかったことを口に出してくれた阿求。
「リグルくん、楽しかった?」
その言い方は、本当に? と尋ねているかのようで、なにか拷問のようにも思えた。
「阿求と居られて、同じ時間を過ごせて、楽しかったよ。だけど……」
これ以上は言ってはいけないのに。
「私のこと、見てほしかった、かな」
阿求の様子を恐る恐る窺うと、彼女は不思議そうに笑った。
「最初から、私はリグルくんのことしか、見えてませんよ」
そうじゃないのだ。
「ごめん、阿求。やっぱり私は」
言い終えられなかった。何故ならば、阿求が唇を僕のそれと重ねたから。
「ごめんなさいを言うのは私です、リグルくん。私は生まれ変わる前に、一度でいいから、男の子と付き合いたかったんです」
そう言うと阿求は、謝る言葉を口にして、それからえへっといつものように笑った。
「ごっこでもいいんだ。私は本当に阿求が好きだった」
いつのまにか必死になっている。
「ありがとうございます」
阿求の瞳は少し潤んでいた。
「これでおしまいにしましょう。もう私は、リグルくんのことを、くん付けで呼びません。男の子の服も着せません。ふるまい方だって、自由でいいんです」
私たちは、お互いの表面的な所しか、見えていなかったのだろうか。
阿求とはその後会うことは無く、数週間後、阿礼乙女は無事に転生の時を迎えたらしい。
■
「ねえ幽香、私、髪伸ばそうかな」
本をパラパラめくりながら、声をかける。幽香は嬉しそうにニコニコしている。
「そうしたら毎日、私が梳かしてあげる」
それも悪くない。
「可愛い服も、着てみようかなあ」
「それはいいわ。今度仕立ててもらいましょ」
ぼーっとしていると、たまに阿求のことを思い出す。一目惚れってこんなものなのかなって、ついつい考えてしまう。けれど、あの時きらめいた感情は本物で、この先何があっても私は阿求のことは、忘れられないような、そんな気がする。
「あなた、こういう服も着た方がいいわ」
幽香はひらりとスカートを翻して、くるりと一回転する。生地は夏物なのか少し薄く、時折覗く太ももに、思わず生唾を飲み込んだ。
フリルのついた、可愛い洋服。とても女の子らしくて、可愛いのだと思う。
「僕は、いい」
僕は蟲の命と言えど、妖怪だ。身長や体重だって変わらないだろうし、着ようと思えばいつだって、そんな服は着れるんだ。だから、そういう服はあとでいい。僕が僕であるためにすべきことが、終わってからでいい。
「そう。残念ね。可愛いあなたも魅力的だと思うけど」
幽香は心底しょんぼりしていた。僕のことを女の子だと気遣ってくれる人は、もう周りには彼女一人しかいない。
「僕は、そのうち元通りになるから」
幽香に背を向けて、元通りってなんだろう、そんなことを思いながら玄関のドアノブを捻った。
■
「次の文章を読んで、チルノ」
先生の芯のある声を右から左へと聞き流し、僕は教室の窓から見える空を眺めていた。背の高い雲が遠くにできていた。今日は夕立に遭うかもしれない。そういえば、傘を幽香の家に忘れてしまった。
案の定、授業が終わるころには雨が降り出していた。濡れて帰るか、止むまで待つか、考えた結果止むまで待つことにした。洗濯の回数が増えるのは面倒くさいし、教科の本が濡れるのも嫌だから。
寺子屋の入り口で雨が上がるのを待っていると、遠くから小柄な人影が近づいてくるのが見えた。
「……」
僕の恋人だった。
「傘、持ってきました。今日は、寄ってくれますか?」
阿求は傘を僕に差し出しながら、尋ねる。
「ありがとう。お邪魔するね」
傘を持ってきた、なんて言いながら手には傘一本。ドジなのか、相合傘がしたいがためなのかは分からないけれど、結局僕が濡れて帰る事には変わりがなさそうだった。
「持つよ。あと阿求、少し濡れてる」
ハンカチを出して、阿求の袖や襟についた雫をふき取る。
「はあリグルくん、なんて素敵な紳士なのでしょう……」
なんだか変なスイッチを押してしまったかもしれない。
「行こう、阿求。濡れてからは冷えちゃいけない」
「はいっ」
■
雨粒を肩に感じつつ、つい数か月前のことを思い出す。
阿求との出会いは衝撃的だった。お互い目と目が合ったとき、何かを感じ取ってしまったのだ。阿求の場合は、僕の少年のような体に。僕は、どこか儚げで可憐な顔に、一瞬で恋に落ちた。二人の間だけ、時間が止まったのかと思ったくらいだ。
問題はいくつかあった。僕は彼女と深い仲になりたい。しかし阿求はあくまでも少年のリグル・ナイトバグに一目惚れをしたという。そこで一つ、僕は変わることにしたのだ。
一人称は「私」から「僕」に。服装や振る舞いは常に男の子らしく。こうして僕は、阿求と付き合うに至った。
■
「濡れちゃいましたね、リグルくん……」
予想通り、傘からはみ出た僕の洋服と体はずぶ濡れだ。それでも、阿求は足元以外濡れていないようなので、エスコートは八割くらいは成功だろう。
「替えの着替えを用意します」
阿求は音もなく静かに部屋の奥に消えてゆく。ていの良い理由をこじつけて、きっと今日も色々な男装をさせられるのだろう。そう思うと、少しだけうつうつとした気分になった。
「お待たせしました」
阿求が替えとして持ってきた服は、お祭りなんかでよく見かける甚平だった。
「私、今年の夏祭りまで居られませんから、どうしても見ておきたくて、えへへ……」
頬をかきながら俯く阿求。とても、彼女に申し訳なくなった。阿求は夏前には転生の儀式を行う。それはつまり、私たちが残り一緒に居られる時間を指していた。
一しきり甚平の僕を愛で終えた阿求は、寂しそうに抱き着いてくる。華奢な体は、抱きしめ返すと壊れてしまいそうだ。
「リグルくん、もう少しだけ、私だけのリグルくんで居てね……」
阿求はやっぱり僕が好きになった女の子で、だけど幻想郷の阿礼乙女だった。
■
幽香が心配そうに僕を覗き込む。寺子屋の授業をフケた日は、幽香の家のベッドで横になるに限る。この家のベットは柔らかくて、いい香りがして、何より広いのだ。
「無理して良い事はないのよ」
僕が幽香の家を訪れるのは、たいてい心が寂しい気持ちでいっぱいになったときだった。振ったはずの彼女の、まだ僕に残っている気持ちを利用して、苦しい気持ちを和らげている。
「リグル私は、女の子のままのあなたも、男の子みたいなあなたも、好きよ」
幽香の言葉は優しい雨のように僕の体に染み込んでくる。じわりと目尻が熱くなり、そこから頬へと水が伝った。この優しさに甘えたい、阿求が好きなのに、阿求に真っすぐに向き合えない。たくさんの葛藤が雫になって、それからもずっと流れ続けた。幽香はずっと、僕の隣に居てくれた。
■
「リグルくん、最近辛そうです」
阿求は開口一番に僕の心配をしてくれた。心づかいが痛くて、苦しかった。だって、僕は自分のつらさばかりを見ているから。
「そんなことないよ。ほらこの通り!」
ない力こぶを作って、元気だと伝える。
「……もうすぐ、儀式だね」
言いづらかったことを口に出してくれた阿求。
「リグルくん、楽しかった?」
その言い方は、本当に? と尋ねているかのようで、なにか拷問のようにも思えた。
「阿求と居られて、同じ時間を過ごせて、楽しかったよ。だけど……」
これ以上は言ってはいけないのに。
「私のこと、見てほしかった、かな」
阿求の様子を恐る恐る窺うと、彼女は不思議そうに笑った。
「最初から、私はリグルくんのことしか、見えてませんよ」
そうじゃないのだ。
「ごめん、阿求。やっぱり私は」
言い終えられなかった。何故ならば、阿求が唇を僕のそれと重ねたから。
「ごめんなさいを言うのは私です、リグルくん。私は生まれ変わる前に、一度でいいから、男の子と付き合いたかったんです」
そう言うと阿求は、謝る言葉を口にして、それからえへっといつものように笑った。
「ごっこでもいいんだ。私は本当に阿求が好きだった」
いつのまにか必死になっている。
「ありがとうございます」
阿求の瞳は少し潤んでいた。
「これでおしまいにしましょう。もう私は、リグルくんのことを、くん付けで呼びません。男の子の服も着せません。ふるまい方だって、自由でいいんです」
私たちは、お互いの表面的な所しか、見えていなかったのだろうか。
阿求とはその後会うことは無く、数週間後、阿礼乙女は無事に転生の時を迎えたらしい。
■
「ねえ幽香、私、髪伸ばそうかな」
本をパラパラめくりながら、声をかける。幽香は嬉しそうにニコニコしている。
「そうしたら毎日、私が梳かしてあげる」
それも悪くない。
「可愛い服も、着てみようかなあ」
「それはいいわ。今度仕立ててもらいましょ」
ぼーっとしていると、たまに阿求のことを思い出す。一目惚れってこんなものなのかなって、ついつい考えてしまう。けれど、あの時きらめいた感情は本物で、この先何があっても私は阿求のことは、忘れられないような、そんな気がする。
惚れた弱みで男として振る舞い、結局成りきれなかったところにやりきれなさを感じられて良かったです