にとりちゃんとの待ち合わせ場所に向かう途中、森の中で変な人と出会った。
“出会った”というより、“発見した”だけれど。
「…………」
膝丈程ある雑草の生い茂る草むらに倒れている少女。うつ伏せで両腕を頭の上に伸ばし、いかにも行き倒れました、みたいな恰好をしている。
薄汚れた服や頭のリボンには『差し押さえ』や『催促状』等の札が何枚も貼られていて、微妙に透けた青いスカートから伸びる血色の悪い足は裸足だった。
何だか関わっちゃいけないような雰囲気をバリバリ感じる……が、こちらも危険度では負けず劣らずの厄神様である。この程度の厄さで臆したりなんかしない。
「あのー……大丈夫?」
私は木のかげという安全圏から、おずおずと少女に声を掛けた。
木々の隙間からは木洩れ日が降り注ぎ、小鳥の囀りが聞こえてくる。枝葉がさわさわと風に揺れ、心安らぐ優しい音色を奏でる。
「……ひ……」
「ひ……?」
「ひもじい……」
ぐううううぅぅっと、穏やかな自然の調和を乱すように、少女の腹の虫がこれでもかと主張した。
「……えーっと」
地面に倒れる少女の口から発せられた言葉の意味と、爽やかな空気を乱す異音の正体を、こめかみに指を押し当て考えてみる。答えは考える前から明白だったが……まさかこんな場所に空腹で行き倒れる人がいるなんて信じられなかったのだ。
何せここは妖怪の山の麓にある森の中。見れば自然が恵んだ山の幸がそこかしこに実っている。ついでに彼女が踏みしめたと思われる雑草の中にも、食べられる物が混じっていた。
だから私は彼女が行き倒れている理由よりも、これだけ食料があるにもかかわらず、それらを口にしない彼女に疑問を抱いた。
「そこの草、食べられるけど……」
と言い掛けて、そういえば普段これを食べる時は茹でて食べてるなぁと思い出し、なるほどそういう理由かと納得しかけた矢先──
「これ食べられるの!?」
ガバッと勢い良く起き上がった少女は、足元に生えている雑草を引っこ抜きむしゃむしゃと食べ始めた。
「……苦い」
しかし数回噛んだ後、少女は渋い顔をしながら口に入れた草をペッと吐き出した。
「煮ないと食べられないのよ……」
躊躇なく雑草を口に入れた少女にドン引きしつつやんわり教えてあげると、少女が雑草を握り締めたまま上目遣いにこちらを見た。
「……ひもじいよー」
「うっ……」
いくら小汚い恰好をしているとはいえ、彼女は美少女と呼んで差し支えない面立ちをしている。そんな幸薄そうな美少女にほんのり涙を浮かべて見上げられれば、恐らく私じゃなくてもこうしてしまうだろう。
私はおそるおそる少女に近付き、バスケットから笹の葉の包みを取り出して、包みを解いて少女に差し出した。
「……はい、どうぞ」
笹の葉に包まれていたのは、滑らかなこしあんを纏ったお団子。
これから行こうとしていた友人と一緒に食べる予定だった物だけれど、三つあるし一つくらいなら分けてあげようと思い差し出した──のだが。
「はー、おいしかった」
満足げな少女の発言の後、私の手中に残されたのはこしあんが付着した笹の葉だけだった。
「────」
突如手中から消えた重みに、暫し呆然とする。そして目の前の状況を理解するや否や、私は少女に掴み掛かった。
「ちょっと! なんで全部食べちゃうの!?」
あろう事か、少女は瞬く間に三つあったお団子を全て平らげてしまったのである。
「だって、どうぞって言うから……」
「全部なんて言ってないわよ!」
「一つとも言わなかったし……」
少女の胸倉を掴み、鋭い眼光で睨み付ける。しかし少女は悪びれた様子もなく、気怠そうに視線を逸らした。
「もーっ、せっかく苦労して買いに行ったのに!」
厄を溜め込む私は、他人と関わると相手を不幸にしてしまう。人々は私に関わると不幸になると知っているし、私もなるべく他人と関わらないようひっそりと暮らしている。だからこの森から出るのはもちろん、人里には頻繁に出入りする事は出来ないし、まして店で買い物をするなんて御法度だ。
しかしそれを押してまで、友人を驚かせたいという気持ちから苦労して購入したお団子を、こんなどこの誰とも分からない奴に全部食べられてしまうなんて……。
「信じられないわ……」
「お団子なら、また買いに行けばいいじゃない」
愕然と項垂れる私を見て、少女は平然とそんな事を言ってのける。
「それが出来れば苦労しないわよ!」
私の大声に驚いた鳥達が慌ただしく空へ飛び立って行く。肝心要の少女はケロッとしたまま、頬を掻くばかりだった。
「ああ、もう!」
少女の胸倉から手を離し大きな溜息を吐く。すると少女がようやくこちらに視線を向けた。
「……おなかが減ってて、つい」
表情は変化に乏しいが、眉尻がさっきより下がっているように見える。元々気弱そうな面立ちなので、そんな表情をされたらこれ以上責める気にもなれなかった。
「……おなかは満たされた?」
やんわり尋ねると、少女はおなかを押さえながらコクリと頷いた。
「それは良かったわ」
怒ったところでお団子が返ってくる訳ではない。ならば一人の少女が救われた事を、厄神である私は喜ぶべきだ。
そう結論付けて立ち上がる。少女は感情の乏しい、透き通った瞳で私を見上げた。
「少し時間が掛かるかもしれないけれど、必ず返すから……」
「別にいいわよ。他人の厄を引き受けるのが私の役目だから」
まあ、他人の厄を引き受けるのと自分が不幸になるのは別問題だけど。
「厄……?」
少女が聞き慣れないように小首を傾げる。そこでようやく、少女が“私”に声を掛けられても平然としていた事に気が付いた。
「私は厄神なの。だからこれ以上関わったら、今より不幸になるわよ」
こんな森の中で行き倒れるくらいだから、目の前の少女はもう充分に不幸だろうけれど。だからと言って、これ以上の不幸が訪れないという保証も無かった。
「食べ物が欲しいなら、少し引き返した所にお芋のツルがたくさん生えてる場所があるから。取って行くといいわ」
そう言い残し、私は足早にその場を後にする。背後から少女が礼を述べる声が聞えたけれど、振り返ろうともしなかった私に、彼女がどんな顔をしているのかは分からなかった。
◇
あれから一週間が経った。
必ず返すと言った少女が再び森を訪れる事は無かった。
私はいつものように、川の辺でにとりちゃんと雑談を交わしていた。
「最近、人里に貧乏神が居ついてるらしいよ」
「貧乏神?」
森から出ない私と違って、にとりちゃんはエンジニアとして幻想郷中を歩き回っている。だから話をするとなると、にとりちゃんが余所で見聞きした事を楽しげに話し、私がそれを聞いて相槌を打つのが常だった。
「そうそう。何でも大通りに立って『お恵みをー』って物乞いしてるらしいよ。人間達は早く消えて欲しいみたいだけど、下手に関わりたくないし、害がある訳じゃないから巫女は『放っておけばそのうちいなくなるわよ』って、もう何日も人里にいるらしいよ」
「そうなんだ……」
にとりちゃんの話を聞いて、私の脳裏には何故か一週間前の少女の姿が浮かんだ。
まさかね……。
その話はそこで終わり、今度は地底の妖怪と天邪鬼が起こした騒動の話になった。しかしにとりちゃんの話に集中する事が出来ず、まさかと切り捨てた筈の考えがチラついて、私の心に暗い影を落とした。
にとりちゃんと別れた後、私は森を出て人里へ向かった。
どうせ人違いだろうと思うのに、確認しない事には気分が落ち着きそうになかった。
人里と外を隔てる門を潜り、里の中心へと向かう。人々は厄神である私の来訪に驚き、私の話題を出さないようにと口を固く結び、目を背けて道を空ける。ピリピリと緊張を孕んだ空気の中、私は貧乏神がいるという大通りを目指して歩みを進めた。
店が軒を連ねる大通りに、彼女はいた。
「お恵みをー、お恵みをー」
道が交差する十字路の真ん中。少女は往来する人々に向かって欠けた茶碗を差し出し、感情に乏しい声音で呼び掛けている。人々は彼女を露骨に避けて通り、すれ違いざまに鋭い視線を向けていた。
彼女に声を掛けようと足を踏み出す。と同時に、少女を避けて流れる人波から一人の男が飛び出した。
「さっさと出てけ! この疫病神!」
男は怒鳴りながら、少女に向かって腕を振りかぶった。男の手中から放たれた小銭は少女にぶつかり、地面に落下する。
「…………」
再び人混みへ紛れて行く男には目もくれず、少女はしゃがみ込んで地面に散らばった小銭を拾い集めている。往来する人々は相変わらず、すれ違いざまに少女を忌々しげに見下ろしていた。
私は何かに突き動かされるように地面を蹴り、少女の許へ駆け寄った。少女は小銭を拾う事に夢中で、そばに立った私に気付かない。
「……こんな所で何してるのよ」
声を掛けると、少女はようやくこちらの存在に気付いて顔を上げた。私の顔を確認した少女の目が見開かれる。
「あなた……」
「行くわよ」
私が手を差し伸べると、少女はその手をじっと見つめた。数度の瞬きの後、少女は自分の膝に手を突いてよろよろと立ち上がり、緩やかに首を振った。
「まだ、行けないわ」
「どうして?」
少女は感情を映さない、ガラス玉のような瞳でまっすぐこちらを見据える。
「あのお団子を買うにはまだ、お金が足りないのよ」
それを聞いて、私は驚きのあまり言葉を失った。
たったそれだけの為に彼女はずっと、あの視線に晒され続けたというのか。
目の前にいる少女に得体の知れない薄寒さを感じると同時に、胸の中に沸々と熱がこみ上げてきた。
私は少女の腕を掴み、力任せに地面を踏んだ。
「ちょっと……」
抗議の声を無視し、少女を連れて人混みが割れて出来た道を歩いて行く。抗議の声は二言三言であっさり聞こえなくなった。
少女を刺していた視線はもう無いけれど、一刻も早く、彼女を人目に付く所から遠ざけたかった。
大通りを抜けて人気の無い路地へ入ると、私は少女を解放した。
「どうして……?」
表情に困惑を滲ませている。少女は何故自分が連れて来られたのか、分かりかねているようだった。
「あんな事をしてまで、恩を返す必要は無いのよ」
元より礼を期待して施しをした訳ではない。ましてこんな風に集めたお金でお返しを貰ったところで、気分が悪くなるだけだ。
「でも、なかなか買えない物なんでしょう?」
「買いに来れないだけで、買えない訳じゃないわ。だからいいの」
「そう……」
手を引いた時と同じく、少女はあっさりと引き下がった。
誰かに対して恩を返す事も、その為に自身が苦汁を舐める事も、彼女にとってどうでもいい事なのだろう。だからあっさりと手放してしまえる。
……いや、違う。もし本当にどうでもいいのなら、最初からこんな事しない筈だ。
彼女はきっと、慣れてしまったのだ。叶わない望みを抱き、報われない努力をする事に。
遠くにある喧騒がやけにはっきり聞こえてくる。普段耳にする事の無い集団が生み出す賑やかさが、胸を酷くざわつかせる。
「なんで……」
少女の顔に驚愕の色が浮かぶ。見開かれた瞳が感情を映して揺らいでいる。
「そんな顔も出来るのね」と言おうとしたのに、言葉が詰まって出て来ない。
鉛みたいに重くなった胸を押さえて俯くと、乾いた地面に黒い斑点が浮かび上がった。一つ、また一つと増えていくそれを遮るように、少女が私の頬を両手で包み込んだ。
「……なんであなたが辛そうなのよ」
親指で涙を拭う少女は、悲痛に顔を歪めながらまっすぐ私の目を見つめている。
「あなたが平気な顔するからよ……」
私は少女の手に自分の手を重ね、現実から目を背けるように瞳を閉じた。
いつの間に、こんなに弱くなってしまったのだろう。厄神なんかやっているせいで、他人の不幸を直視するのに耐えられなくなってしまったのかもしれない。
彼女が集めたお金でお団子を買った。彼女の言う通りお金が足りず、一つしか買えなかったけれど、それで良かった。
人里を出て山の麓にある森へ向かった。道すがら、今さらになった自己紹介をして、『依神紫苑』という彼女の名前を知った。
森の中にある川の辺で腰を下ろし、川のせせらぎに耳を傾けながら、半分に割ったお団子を少しずつ消化していく。既にお団子を胃袋に収めた紫苑は、私の隣で退屈そうに陽光を湛える川を眺めていた。
「紫苑はどうして森の中にいたの?」
彼女は普段人里の近くでひっそりと暮らしているそうで、こちらへ来る事は滅多に無いそうだ。
「妹に怒られたのよ。みっともない真似しないでって」
「妹?」
「女苑って、疫病神の妹よ」
「疫病神……」
貧乏神の姉に疫病神の妹とは、なかなかに凶悪な姉妹である。
「だから山菜を取りに森に入ったんだけど、おなかが空いて動けなくなっちゃって」
「私が通り掛からなかったどうするつもりだったのよ?」
「何日もすれば妹が迎えに来るわ」
「あなたねぇ……」
投げやりにも程がある。呆れて言葉も出ない。
溜息を零す私を、紫苑は眩しそうに目を細め見つめていた。
「雛は優しいのね」
「別に普通よ、これくらい」
「私にとっては特別だわ」
紫苑の微笑みを受けるのはくすぐったくて、私はプイッとそっぽを向いて、残ったお団子を口に放り込んだ。それを見た紫苑がクスリと笑う。
「私、雛に会えて良かった」
紫苑は立ち上がり、高い空に浮かぶ太陽に向かって手を翳した。青白い肌の下に、赤々とした血管が透けている。
「こんな風に話が出来る人、妹以外にいなかったから」
私を見下ろす紫苑の顔に、倦怠感は見当たらない。
「ありがとう、雛」
「何よ、急に畏まっちゃって」
「私ね──」
サアアアァッと、柔らかな涼風が戯れるように紫苑の髪を靡かせる。フワフワと揺れる髪が、陽の光を反射して青く輝いている。
夜明けの瑠璃色の淡い残像を残し、紫苑は崖の向こうの青空へと消えて行った。
私はその後ろ姿を見送り、頭の中で先程の紫苑の言葉を繰り返した。
──嬉しいの。友達って呼べる人、初めてだったから。
「友達、ね……」
空を見上げる。太陽の強い陽射しに目が眩み、手を翳して庇を作った。高い空にはもう、紫苑の姿は見当たらなかった。
◇
それから数日後。私はいつものように、川の辺でにとりちゃんとお喋りをする為に待ち合わせをしていた。
「おーい、雛ー」
にとりちゃんは私の姿を見つけると、大きく手を振ってこちらに駆け寄って来た。
「ごめん、ちょっと予定が押しちゃって……」
「大丈夫よ。お仕事お疲れ様」
にとりちゃんは私の隣に座って空を仰いだ。にとりちゃんはしきりに手を動かし、話題を探している様子。
「にとりちゃん」
声を掛けると、にとりちゃんはワタワタと動かしていた手を止めてこちらを向いた。
「にとりちゃん、あのね──」
その日は珍しく、いつも話をするにとりちゃんが聞き手に回った。
後日、にとりちゃんから、災厄をばら撒く姉妹が起こした異変の話を聞いた。
異変を切っ掛けに依神姉妹の存在が幻想郷に轟き、多くの人妖に認知されるようになったらしい。
異変に直接関わったにとりちゃんは、その時の様子を詳らかに語ってくれたけれど、にとりちゃんの話の中の依神紫苑は、私の出会った彼女とは別人のように感じられた。
◇
森の中を歩いていたら、変な人と出会った。
“出会った”というより、“発見した”だけれど。
「こんな所で何やってんのよ……」
地面に倒れるその人物の傍らに立ち、腰に手を当てて溜息を零す。地面に伏していたその人物は顔を上げ、様子を窺うようにこちらを見上げた。
「ちょっと行き倒れてみた」
「……にしては随分顔色が良いじゃない?」
紫苑は得意げな笑みを浮かべて、地面に手を突き上半身を起こした。その拍子に、彼女の懐からポロポロとキノコが零れ落ちる。
「最近はちゃんと食べてるからね」
「なるほど」
紫苑は地面に散らばったキノコを拾い集め、パーカーの裾を摘み袋状にしてそこへ入れた。
「大収穫じゃない」
「二人分だからね」
そう言ってこちらを見上げる紫苑に、思わず苦笑が零れる。
「毒キノコよ? それ」
「えっ……」
ポロポロポロと、地面に極彩色のキノコが散らばる。紫苑はパーカーの裾を軽く掴んだまま、地面に散らばったキノコを呆然と見つめていた。
「……ふふっ」
間抜けな姿に笑みを漏らすと、紫苑が不満げに顔を顰めて私を見据えた。
「……煮たら食べられるわ」
「煮ても食べられないわよ」
おなかを抱えて笑うと、紫苑は頬を膨らませてそっぽを向いてしまった。
「ごめんって」
「悪いと思うなら、ちゃんと食べられるの教えてよ」
「はいはい」
じっとり睨め付ける紫苑の肩を叩き、私はくるりと身を翻して手招きする。紫苑はいまだ不服そうな顔で睨んでいるものの、ぴょこぴょこと髪を揺らしながら、私の後をついて来た。
幻想郷に災厄をもたらしたという最凶の神様は、私に大きな面倒事と、小さな幸せを与えてくれる、愛おしい神様だった。
“出会った”というより、“発見した”だけれど。
「…………」
膝丈程ある雑草の生い茂る草むらに倒れている少女。うつ伏せで両腕を頭の上に伸ばし、いかにも行き倒れました、みたいな恰好をしている。
薄汚れた服や頭のリボンには『差し押さえ』や『催促状』等の札が何枚も貼られていて、微妙に透けた青いスカートから伸びる血色の悪い足は裸足だった。
何だか関わっちゃいけないような雰囲気をバリバリ感じる……が、こちらも危険度では負けず劣らずの厄神様である。この程度の厄さで臆したりなんかしない。
「あのー……大丈夫?」
私は木のかげという安全圏から、おずおずと少女に声を掛けた。
木々の隙間からは木洩れ日が降り注ぎ、小鳥の囀りが聞こえてくる。枝葉がさわさわと風に揺れ、心安らぐ優しい音色を奏でる。
「……ひ……」
「ひ……?」
「ひもじい……」
ぐううううぅぅっと、穏やかな自然の調和を乱すように、少女の腹の虫がこれでもかと主張した。
「……えーっと」
地面に倒れる少女の口から発せられた言葉の意味と、爽やかな空気を乱す異音の正体を、こめかみに指を押し当て考えてみる。答えは考える前から明白だったが……まさかこんな場所に空腹で行き倒れる人がいるなんて信じられなかったのだ。
何せここは妖怪の山の麓にある森の中。見れば自然が恵んだ山の幸がそこかしこに実っている。ついでに彼女が踏みしめたと思われる雑草の中にも、食べられる物が混じっていた。
だから私は彼女が行き倒れている理由よりも、これだけ食料があるにもかかわらず、それらを口にしない彼女に疑問を抱いた。
「そこの草、食べられるけど……」
と言い掛けて、そういえば普段これを食べる時は茹でて食べてるなぁと思い出し、なるほどそういう理由かと納得しかけた矢先──
「これ食べられるの!?」
ガバッと勢い良く起き上がった少女は、足元に生えている雑草を引っこ抜きむしゃむしゃと食べ始めた。
「……苦い」
しかし数回噛んだ後、少女は渋い顔をしながら口に入れた草をペッと吐き出した。
「煮ないと食べられないのよ……」
躊躇なく雑草を口に入れた少女にドン引きしつつやんわり教えてあげると、少女が雑草を握り締めたまま上目遣いにこちらを見た。
「……ひもじいよー」
「うっ……」
いくら小汚い恰好をしているとはいえ、彼女は美少女と呼んで差し支えない面立ちをしている。そんな幸薄そうな美少女にほんのり涙を浮かべて見上げられれば、恐らく私じゃなくてもこうしてしまうだろう。
私はおそるおそる少女に近付き、バスケットから笹の葉の包みを取り出して、包みを解いて少女に差し出した。
「……はい、どうぞ」
笹の葉に包まれていたのは、滑らかなこしあんを纏ったお団子。
これから行こうとしていた友人と一緒に食べる予定だった物だけれど、三つあるし一つくらいなら分けてあげようと思い差し出した──のだが。
「はー、おいしかった」
満足げな少女の発言の後、私の手中に残されたのはこしあんが付着した笹の葉だけだった。
「────」
突如手中から消えた重みに、暫し呆然とする。そして目の前の状況を理解するや否や、私は少女に掴み掛かった。
「ちょっと! なんで全部食べちゃうの!?」
あろう事か、少女は瞬く間に三つあったお団子を全て平らげてしまったのである。
「だって、どうぞって言うから……」
「全部なんて言ってないわよ!」
「一つとも言わなかったし……」
少女の胸倉を掴み、鋭い眼光で睨み付ける。しかし少女は悪びれた様子もなく、気怠そうに視線を逸らした。
「もーっ、せっかく苦労して買いに行ったのに!」
厄を溜め込む私は、他人と関わると相手を不幸にしてしまう。人々は私に関わると不幸になると知っているし、私もなるべく他人と関わらないようひっそりと暮らしている。だからこの森から出るのはもちろん、人里には頻繁に出入りする事は出来ないし、まして店で買い物をするなんて御法度だ。
しかしそれを押してまで、友人を驚かせたいという気持ちから苦労して購入したお団子を、こんなどこの誰とも分からない奴に全部食べられてしまうなんて……。
「信じられないわ……」
「お団子なら、また買いに行けばいいじゃない」
愕然と項垂れる私を見て、少女は平然とそんな事を言ってのける。
「それが出来れば苦労しないわよ!」
私の大声に驚いた鳥達が慌ただしく空へ飛び立って行く。肝心要の少女はケロッとしたまま、頬を掻くばかりだった。
「ああ、もう!」
少女の胸倉から手を離し大きな溜息を吐く。すると少女がようやくこちらに視線を向けた。
「……おなかが減ってて、つい」
表情は変化に乏しいが、眉尻がさっきより下がっているように見える。元々気弱そうな面立ちなので、そんな表情をされたらこれ以上責める気にもなれなかった。
「……おなかは満たされた?」
やんわり尋ねると、少女はおなかを押さえながらコクリと頷いた。
「それは良かったわ」
怒ったところでお団子が返ってくる訳ではない。ならば一人の少女が救われた事を、厄神である私は喜ぶべきだ。
そう結論付けて立ち上がる。少女は感情の乏しい、透き通った瞳で私を見上げた。
「少し時間が掛かるかもしれないけれど、必ず返すから……」
「別にいいわよ。他人の厄を引き受けるのが私の役目だから」
まあ、他人の厄を引き受けるのと自分が不幸になるのは別問題だけど。
「厄……?」
少女が聞き慣れないように小首を傾げる。そこでようやく、少女が“私”に声を掛けられても平然としていた事に気が付いた。
「私は厄神なの。だからこれ以上関わったら、今より不幸になるわよ」
こんな森の中で行き倒れるくらいだから、目の前の少女はもう充分に不幸だろうけれど。だからと言って、これ以上の不幸が訪れないという保証も無かった。
「食べ物が欲しいなら、少し引き返した所にお芋のツルがたくさん生えてる場所があるから。取って行くといいわ」
そう言い残し、私は足早にその場を後にする。背後から少女が礼を述べる声が聞えたけれど、振り返ろうともしなかった私に、彼女がどんな顔をしているのかは分からなかった。
◇
あれから一週間が経った。
必ず返すと言った少女が再び森を訪れる事は無かった。
私はいつものように、川の辺でにとりちゃんと雑談を交わしていた。
「最近、人里に貧乏神が居ついてるらしいよ」
「貧乏神?」
森から出ない私と違って、にとりちゃんはエンジニアとして幻想郷中を歩き回っている。だから話をするとなると、にとりちゃんが余所で見聞きした事を楽しげに話し、私がそれを聞いて相槌を打つのが常だった。
「そうそう。何でも大通りに立って『お恵みをー』って物乞いしてるらしいよ。人間達は早く消えて欲しいみたいだけど、下手に関わりたくないし、害がある訳じゃないから巫女は『放っておけばそのうちいなくなるわよ』って、もう何日も人里にいるらしいよ」
「そうなんだ……」
にとりちゃんの話を聞いて、私の脳裏には何故か一週間前の少女の姿が浮かんだ。
まさかね……。
その話はそこで終わり、今度は地底の妖怪と天邪鬼が起こした騒動の話になった。しかしにとりちゃんの話に集中する事が出来ず、まさかと切り捨てた筈の考えがチラついて、私の心に暗い影を落とした。
にとりちゃんと別れた後、私は森を出て人里へ向かった。
どうせ人違いだろうと思うのに、確認しない事には気分が落ち着きそうになかった。
人里と外を隔てる門を潜り、里の中心へと向かう。人々は厄神である私の来訪に驚き、私の話題を出さないようにと口を固く結び、目を背けて道を空ける。ピリピリと緊張を孕んだ空気の中、私は貧乏神がいるという大通りを目指して歩みを進めた。
店が軒を連ねる大通りに、彼女はいた。
「お恵みをー、お恵みをー」
道が交差する十字路の真ん中。少女は往来する人々に向かって欠けた茶碗を差し出し、感情に乏しい声音で呼び掛けている。人々は彼女を露骨に避けて通り、すれ違いざまに鋭い視線を向けていた。
彼女に声を掛けようと足を踏み出す。と同時に、少女を避けて流れる人波から一人の男が飛び出した。
「さっさと出てけ! この疫病神!」
男は怒鳴りながら、少女に向かって腕を振りかぶった。男の手中から放たれた小銭は少女にぶつかり、地面に落下する。
「…………」
再び人混みへ紛れて行く男には目もくれず、少女はしゃがみ込んで地面に散らばった小銭を拾い集めている。往来する人々は相変わらず、すれ違いざまに少女を忌々しげに見下ろしていた。
私は何かに突き動かされるように地面を蹴り、少女の許へ駆け寄った。少女は小銭を拾う事に夢中で、そばに立った私に気付かない。
「……こんな所で何してるのよ」
声を掛けると、少女はようやくこちらの存在に気付いて顔を上げた。私の顔を確認した少女の目が見開かれる。
「あなた……」
「行くわよ」
私が手を差し伸べると、少女はその手をじっと見つめた。数度の瞬きの後、少女は自分の膝に手を突いてよろよろと立ち上がり、緩やかに首を振った。
「まだ、行けないわ」
「どうして?」
少女は感情を映さない、ガラス玉のような瞳でまっすぐこちらを見据える。
「あのお団子を買うにはまだ、お金が足りないのよ」
それを聞いて、私は驚きのあまり言葉を失った。
たったそれだけの為に彼女はずっと、あの視線に晒され続けたというのか。
目の前にいる少女に得体の知れない薄寒さを感じると同時に、胸の中に沸々と熱がこみ上げてきた。
私は少女の腕を掴み、力任せに地面を踏んだ。
「ちょっと……」
抗議の声を無視し、少女を連れて人混みが割れて出来た道を歩いて行く。抗議の声は二言三言であっさり聞こえなくなった。
少女を刺していた視線はもう無いけれど、一刻も早く、彼女を人目に付く所から遠ざけたかった。
大通りを抜けて人気の無い路地へ入ると、私は少女を解放した。
「どうして……?」
表情に困惑を滲ませている。少女は何故自分が連れて来られたのか、分かりかねているようだった。
「あんな事をしてまで、恩を返す必要は無いのよ」
元より礼を期待して施しをした訳ではない。ましてこんな風に集めたお金でお返しを貰ったところで、気分が悪くなるだけだ。
「でも、なかなか買えない物なんでしょう?」
「買いに来れないだけで、買えない訳じゃないわ。だからいいの」
「そう……」
手を引いた時と同じく、少女はあっさりと引き下がった。
誰かに対して恩を返す事も、その為に自身が苦汁を舐める事も、彼女にとってどうでもいい事なのだろう。だからあっさりと手放してしまえる。
……いや、違う。もし本当にどうでもいいのなら、最初からこんな事しない筈だ。
彼女はきっと、慣れてしまったのだ。叶わない望みを抱き、報われない努力をする事に。
遠くにある喧騒がやけにはっきり聞こえてくる。普段耳にする事の無い集団が生み出す賑やかさが、胸を酷くざわつかせる。
「なんで……」
少女の顔に驚愕の色が浮かぶ。見開かれた瞳が感情を映して揺らいでいる。
「そんな顔も出来るのね」と言おうとしたのに、言葉が詰まって出て来ない。
鉛みたいに重くなった胸を押さえて俯くと、乾いた地面に黒い斑点が浮かび上がった。一つ、また一つと増えていくそれを遮るように、少女が私の頬を両手で包み込んだ。
「……なんであなたが辛そうなのよ」
親指で涙を拭う少女は、悲痛に顔を歪めながらまっすぐ私の目を見つめている。
「あなたが平気な顔するからよ……」
私は少女の手に自分の手を重ね、現実から目を背けるように瞳を閉じた。
いつの間に、こんなに弱くなってしまったのだろう。厄神なんかやっているせいで、他人の不幸を直視するのに耐えられなくなってしまったのかもしれない。
彼女が集めたお金でお団子を買った。彼女の言う通りお金が足りず、一つしか買えなかったけれど、それで良かった。
人里を出て山の麓にある森へ向かった。道すがら、今さらになった自己紹介をして、『依神紫苑』という彼女の名前を知った。
森の中にある川の辺で腰を下ろし、川のせせらぎに耳を傾けながら、半分に割ったお団子を少しずつ消化していく。既にお団子を胃袋に収めた紫苑は、私の隣で退屈そうに陽光を湛える川を眺めていた。
「紫苑はどうして森の中にいたの?」
彼女は普段人里の近くでひっそりと暮らしているそうで、こちらへ来る事は滅多に無いそうだ。
「妹に怒られたのよ。みっともない真似しないでって」
「妹?」
「女苑って、疫病神の妹よ」
「疫病神……」
貧乏神の姉に疫病神の妹とは、なかなかに凶悪な姉妹である。
「だから山菜を取りに森に入ったんだけど、おなかが空いて動けなくなっちゃって」
「私が通り掛からなかったどうするつもりだったのよ?」
「何日もすれば妹が迎えに来るわ」
「あなたねぇ……」
投げやりにも程がある。呆れて言葉も出ない。
溜息を零す私を、紫苑は眩しそうに目を細め見つめていた。
「雛は優しいのね」
「別に普通よ、これくらい」
「私にとっては特別だわ」
紫苑の微笑みを受けるのはくすぐったくて、私はプイッとそっぽを向いて、残ったお団子を口に放り込んだ。それを見た紫苑がクスリと笑う。
「私、雛に会えて良かった」
紫苑は立ち上がり、高い空に浮かぶ太陽に向かって手を翳した。青白い肌の下に、赤々とした血管が透けている。
「こんな風に話が出来る人、妹以外にいなかったから」
私を見下ろす紫苑の顔に、倦怠感は見当たらない。
「ありがとう、雛」
「何よ、急に畏まっちゃって」
「私ね──」
サアアアァッと、柔らかな涼風が戯れるように紫苑の髪を靡かせる。フワフワと揺れる髪が、陽の光を反射して青く輝いている。
夜明けの瑠璃色の淡い残像を残し、紫苑は崖の向こうの青空へと消えて行った。
私はその後ろ姿を見送り、頭の中で先程の紫苑の言葉を繰り返した。
──嬉しいの。友達って呼べる人、初めてだったから。
「友達、ね……」
空を見上げる。太陽の強い陽射しに目が眩み、手を翳して庇を作った。高い空にはもう、紫苑の姿は見当たらなかった。
◇
それから数日後。私はいつものように、川の辺でにとりちゃんとお喋りをする為に待ち合わせをしていた。
「おーい、雛ー」
にとりちゃんは私の姿を見つけると、大きく手を振ってこちらに駆け寄って来た。
「ごめん、ちょっと予定が押しちゃって……」
「大丈夫よ。お仕事お疲れ様」
にとりちゃんは私の隣に座って空を仰いだ。にとりちゃんはしきりに手を動かし、話題を探している様子。
「にとりちゃん」
声を掛けると、にとりちゃんはワタワタと動かしていた手を止めてこちらを向いた。
「にとりちゃん、あのね──」
その日は珍しく、いつも話をするにとりちゃんが聞き手に回った。
後日、にとりちゃんから、災厄をばら撒く姉妹が起こした異変の話を聞いた。
異変を切っ掛けに依神姉妹の存在が幻想郷に轟き、多くの人妖に認知されるようになったらしい。
異変に直接関わったにとりちゃんは、その時の様子を詳らかに語ってくれたけれど、にとりちゃんの話の中の依神紫苑は、私の出会った彼女とは別人のように感じられた。
◇
森の中を歩いていたら、変な人と出会った。
“出会った”というより、“発見した”だけれど。
「こんな所で何やってんのよ……」
地面に倒れるその人物の傍らに立ち、腰に手を当てて溜息を零す。地面に伏していたその人物は顔を上げ、様子を窺うようにこちらを見上げた。
「ちょっと行き倒れてみた」
「……にしては随分顔色が良いじゃない?」
紫苑は得意げな笑みを浮かべて、地面に手を突き上半身を起こした。その拍子に、彼女の懐からポロポロとキノコが零れ落ちる。
「最近はちゃんと食べてるからね」
「なるほど」
紫苑は地面に散らばったキノコを拾い集め、パーカーの裾を摘み袋状にしてそこへ入れた。
「大収穫じゃない」
「二人分だからね」
そう言ってこちらを見上げる紫苑に、思わず苦笑が零れる。
「毒キノコよ? それ」
「えっ……」
ポロポロポロと、地面に極彩色のキノコが散らばる。紫苑はパーカーの裾を軽く掴んだまま、地面に散らばったキノコを呆然と見つめていた。
「……ふふっ」
間抜けな姿に笑みを漏らすと、紫苑が不満げに顔を顰めて私を見据えた。
「……煮たら食べられるわ」
「煮ても食べられないわよ」
おなかを抱えて笑うと、紫苑は頬を膨らませてそっぽを向いてしまった。
「ごめんって」
「悪いと思うなら、ちゃんと食べられるの教えてよ」
「はいはい」
じっとり睨め付ける紫苑の肩を叩き、私はくるりと身を翻して手招きする。紫苑はいまだ不服そうな顔で睨んでいるものの、ぴょこぴょこと髪を揺らしながら、私の後をついて来た。
幻想郷に災厄をもたらしたという最凶の神様は、私に大きな面倒事と、小さな幸せを与えてくれる、愛おしい神様だった。
紫苑と雛という禁断のコンビが出会ってしまったというワクワク感がありました
お人好しで貧乏神の能力も気にしない雛と、紫苑の優しい関係に癒されました。