人間の里から追い出され、妖怪の山には馴染めず、
地上の人妖から疎まれた彼女が行き着いた先が地底の旧地獄街だったのは当然だったと云える。
初めて地底に訪れた彼女は大層、荒れていた。それはもう狂犬と云っても良い有様で、相手が誰であっても、鬼であっても噛み付くほどである。結果、星熊勇儀の強い洗礼を受けた彼女は気絶して、その身柄は旧地獄街の管理者である古明地さとりへと引き渡される。
それは構わない、利益のない面倒ごとを引き受けるのは管理者の務めだ。場所代と称した税金を回収する代わりに、公共の施設や事業を整えるのは為政者の務めである。
困ったのは引き取ったのが彼女であったと云うことである。
眠っている時、彼女の思考を読めなかったのは、それだけ熟睡しているからだと思った。
そして目覚めた彼女から事情を改めて把握しようとした時に、さとりは違和感に気付くことになる。まるで思考が読み取れない、先ず最初に思い浮かんだのは妹のこいしだ。妹と同じように彼女も無意識の極致に達していたのだろうか。
違う、とさとりは首を横に振る。
目の前の少女は明らかに警戒心を露わにしていた、その周囲を見渡して状況を確認する姿は無意識と呼ぶには程遠い。彼女は思考して動いている、極めて冷静に状況を判断しようとしている。
故に解せない。何故、彼女の思考を読み取ることはできない。
「あー……えっと、その……」
彼女の警戒心を解こうとするも、上手く声が出てこなかった。
思考が読めない者との会話は、こいし以外では初めての経験だった。そのこいしも心は読めないが、最も近しい家族という事実に違いはない。所謂、気心の知れた仲というもので、まったくの他人との会話は初めてだと言える。
だから、さとりは何を喋れば良いのか分からずに言葉が詰まる。そんなさとりを目の前に少女は呆れたように溜息を零す。
「さては、お前、あれだな。コミュ障というやつだな」
会話すらも交わしたことがない初対面の相手に告げられる遠慮ない言葉は、今まで素知らぬ顔を続けていたさとりの心に深く突き刺さった。
「大丈夫、安心して欲しい。私も会話は得意な方ではない」
何故か少女に気遣われていることに、さとりの心は更に強く抉られる。
最早、満身創痍に近いさとりが項垂れると、うんうん、と少女はさとりの肩を優しく叩いて励ました。
結果として少女の警戒心を解くことには成功した。しかし、その成果をさとりは素直に受け入れることはできなかった。
◆
少女の名前は、河城みとりと云うらしい。
らしい、と付けるのは彼女の心を読めないためだ。もしかすると偽名を名乗っているだけかもしれない。
無用な推測に思考を巡らせるのは、今まで心を読んできた弊害で、彼女が何を考えているのか分からないせいで疑心暗鬼をこじらせる。もしかすると地霊殿を乗っ取ろうとしているのではないか、もしくは地底界に送り込まれた地上のスパイではあるまいか。相手がこいしであれば、何も考えていないと諦めもつくが、彼女は明確な意思に基づいて動いている訳である。
何より、みとりは馬鹿ではない。彼女の行動を注意深く観察していると常に周囲に気を配り、ペットに対しても相手の様子を窺いながら行動することができている。むしろ慎重な性格をしていると云っても良い、警戒心はその性格の裏返しなのだろう。その気質は物事を真正面から受け止める霊烏路空と云うより、深読みしやすい火焔猫燐に近かった。
だから、さとりはみとりから距離を取ることにした。
心が読めない相手との付き合い方が分からなかったから、さとりはみとりの世話を燐に押し付けたのである。
幸いにも、みとりは粗暴ではあったが礼儀知らずではなかった。
彼女は警戒心こそ高いが身内と認めれば、すぐに皆と溶け込んで地霊殿での仕事を手伝うようになった。さとりの代わりにペット達の世話をしてくれる、家事全般もできるようで彼女が来てから地霊殿の内装は随分と綺麗になった。料理を作ってくれることもある。地霊殿の家族達と食卓を囲んでいる時に、みとりがじっと見つめてくるのだ。そうやって見られていると少し気まずく感じられる、しかし彼女の料理は粗野ではあったが不味くはない。所謂、家庭料理といった感じだろうか。
料理を作るのは、さとりの役目だった。ペット一匹一匹に対して、調味料の量を計算して、好みの味を再現している。これが結構な手間がかかるもので、代わりにみとりが作ってくれるのは非常に助かった。
ただやはり、じっと見つめられるのは少し疲れる。
基本的に地霊殿は居たい者が居れば良い場だ。来る者拒まず去る者追わず、そうして集まったのが地獄鴉や野良猫とか、言葉を介さない動物達が居着くようになった。
だから、みとりも例外に漏れない。
居ても良いし、居なくても構わない。でも彼女が来てから随分と助けられている、だから少し居て欲しい気持ちはある。しかし、これだけ彼女のことを疎ましく扱っておきながら、居て欲しいと願うのは間違っている気がした。ここに居続けたいと思わせることができれば良いが、さとりには彼女がどうして欲しいのか分からない。どんな行動をしても間違っているような気がしてしまうのだ。もしも、万が一、あわよくば、可能性を考えると切りがなかった。
幸いなのは、彼女は燐と相性が良かったようで、よく笑っているところを見かけることだ。
だから、たぶん、地霊殿を嫌っていることはないと思っている。
そう、さとりは願っている。
分からないということは思っていた以上に恐ろしいものだ。
嫌われていることには慣れていても、嫌われているかもしれないことに耐性がなかった。例えば彼女のために何か行動を起こしたとしても、それが彼女にとって本当に良かったことなのか分からない。そうされるのが嫌だと分かるなら構わない、謝って次から別の方法を試せばいいだけの話になる。しかし彼女のためを思っての行動に彼女が喜んでくれたとしても、それが本当に喜んでの表情なのか分からないのである。ただ気遣っているかもしれない、親切を押し売りしているだけかもしれない。そう考えるとみとりと顔を合わせるのが難しくなった、そして何時しかよけいなことをして、みとりに嫌われるのが恐ろしくなってしまった。
だから、さとりはみとりから距離を取る。みとりが何を考えているのか分からないから、どう接すれば良いのか分からないから、さとりはみとりから距離を置くことに決めたのだ。
しかし、さとりの思惑とは裏腹にみとりは暇を見つけては顔を合わせに来るのだ。
「さとり、今日も書類整理をしてんの?」
最早、見慣れた顔にさとりは第三の目を向けるも、やはり彼女の心を見抜くことはできなかった。
彼女は今、何を考えているのだろうか。その仕草、その表情に意味はあるのだろうか。どのような意図が質問に含まれているのだろうか。
分からない、推測できたとしても確信が持てない。故に分からない。
「……そうよ」
だから当たり障りのない言葉で濁した。
どう扱えば良いのか分からない。素っ気ない言葉で訪れる、僅かな沈黙をさとりは恐れた。ちょっと不愛想過ぎただろうか、分からない。どう彼女が感じているのか分からない、この気まずい空気が胸を締め付ける。彼女と会話をすると全てが裏目に出てしまうような気がするのだ。
だからさとりは、早く彼女から解放されたい、と強く願った。
「……えっとね、御飯、できたよ」
みとりは気まずそうに告げると、そっと部屋から出て行った。
「ありがと」
誰も居なくなってから、心に浮かんだことをそのまま零す。
それすらも伝えて良いのか、分からないのだ。彼女と同じ部屋にいるのは息苦しくて仕方ない。
自分の弱い部分を全て、暴かれてしまいそうな気持になる。
嫌いじゃない、傷付けたいわけでもない。
だけど、でも…………
◆
みとりが来てから、どれだけの日数が過ぎただろうか。
数ヶ月は過ぎた、もう半年近くになるだろうか。地底だと気温以外に季節がないので、いまいち時間が分かりづらかった。
腕を上げたみとりの食事を美味しく食べ終えた後のことだ。
「さとり様」
燐が執務室に入ってくる、何時もの業務連絡だろうか。第三の目で燐を見つめて、ちゃんと心を読みとめることに安堵する。
しかし燐が考えていることは、さとりの心を穏やかにするものではない。
みとりのことについて、燐は何かしらの疑念を抱いている。そこにさとりを咎める気持ちが混じる。
「……みとりのことは、嫌いじゃないわ」
質問を先読みして告げる。
燐が考えているのは、みとりを避けていることに関してだ。
別に彼女を避けているわけではない。どう扱えば良いのか分からないだけなのだ。彼女が何を考えているのか分からない。
さとりは心の醜さを知っている、嘘で塗り固められた言葉を知っている。
だから目や耳で見聞きしたことを信じられない。
「むしろ、助かっているくらいね。地霊殿での仕事もよく頑張ってくれている。通信簿があれば花丸を上げてるところよ」
相手が燐であれば軽口を叩ける程度には口が軽くなる。
それは燐が自分のことを嫌っていないと分かるから、本心では嫌がっていないと分かるからどんなことも云える。
でも、みとりは駄目なのだ。
「それではみとりを一言で構いませんので、褒めてあげてください」
普段、寛容な燐がここまで飼い主のさとりに食い下がるのは珍しい。
さとりに対する温かな親愛を持ちながら、明確な敵意に似た感情を燐は抱いていた。言葉にしたことで想いは更に強固になる。
じっと睨み付けてくる燐の視線に耐え切れなくなって、さとりは顔を背けた。
落ち着かない様子で手を動かしながら、ぼそりと零す。
「私だって、嫌っているわけじゃない……」
そのさとりの拗ねるような口振りに、燐は強く動揺した。
何時も自信に満ち溢れていて、周囲を容赦なく詰り続けるさとり様がいじけてみせたのだ。
そんな不届きなことを考えた燐に、さとりはジトっとした目で睨み付ける。
「他に何かある?」
その威圧する言葉に、燐は身を竦ませて部屋から逃げ出してしまった。
また独り残された部屋で、さとりは背もたれに身を委ねると、ペットに当たるなんて最悪だ、と自責の念に溜息を零した。
みとりが来てから何もかもが上手くいかなくなっている。苛立ちに頭痛がする、喉奥に気持ち悪いものを感じる。
そう思いたい訳じゃないのに、みとりに対しての苦手意識が募るばかりだった。
◆
みとりのことは注意深く観察している。
だから、今日の彼女はなんとなしに調子が悪そうだなと感じることはできた。そして、彼女の顔色が日に日に悪くなっていってることをさとりは気付いている。
彼女の心が読めない以上、その原因を知る術がない。
この日は何時ものように家族達と食卓を囲んでいた日だ。近頃のみとりの家庭料理は何時も美味しくて、外食が続く日には、ふとみとりの料理が食べたいと思うようになってしまった。それが良いことなのか、悪いことなのかは分からない。ただ、みとりには地霊殿に居て欲しいと思っている。それと同じくらいにみとりとは顔を合わせたくない。何か喋る度に彼女を傷付けてしまうようで怖かった。
近頃、さとりは食卓ではほとんど口を開いていない。ただ黙々と淡々とみとりの料理を口に運んだ。
美味しかった、気まずくてもみとりの料理が衰えることはない。
みとりの視線から逃れるために食事に集中する。
ふと燐が言っていたことを思い出す。
褒めてあげてください、と、それは気の迷いのようなものだった。
この時、みとりのことを忘れてしまっていたのだ。
「……美味しい」
ポツリと零した一言に、ハッとして、みとりを見上げた。
みとりは呆然とした顔を見せていると、つぅっと頬に一筋の涙が零れ落ちた。そのことに気付いたみとりは、慌てて服の袖で目元を拭い取るが涙が溢れて止まることはない。
遂には嗚咽を零して泣き始めたみとりに、さとりは狼狽した。何がいけなかったのか、美味しいと言ったことは駄目だったのか。やはり何も言わない方が良かった。彼女は泣き止まず、そして心を覗くことはできない。やっぱり何も喋らないことが正解だったのではないか。やっぱり彼女は他の皆と同じように自分のことを嫌っていたのではないか。思考が悪い方へ、悪い方へと傾いていく。
皆が気遣うように、みとりの傍に集まる様子を見て、さとりは強い眩暈を覚えた。
そして急に気分が悪くなって、胃液が込み上げてきて、料理を全て吐き出してしまった。床に落ちる未消化の吐瀉物、勿体ないと思いながら机に手を置くと全身から力が抜けるのを感じた。
体が崩れる、地面に落ちる。食器を巻き添えに、美味しい料理が地面にぶち撒けられる。勿体ない、本当に勿体ない。
薄れゆく意識の中、さとりが見たのは、蒼白となった顔で目を見開く、みとりの姿だった。
◆
目覚めたのは寝室だった。
看病をしてくれていたのは燐で、良かった、と安心や心配でたっぷりの愛情を寝起きの自分に与えてくれた。
飼い主の目覚めを燐が皆に伝えると、屋敷中のペットが寝室に集まってきた。皆、考えていることは似たり寄ったりで、良かったね、安心した、とか単純な感情ばかりだ。
動物は単純で良い、複雑怪奇な思考をする人間よりも遥かに分かりやすい。直球な想いに、さとりの心も満たされる。
その中で、ふとみとりの姿がないことにさとりは気付いた。
そのことをさとりが問うと、燐は憂鬱そうに顔を俯かせて告げる。
「みとりは地霊殿を出ていきました」
「……そう」
口から出たのは素っ気ない言葉、しかし心への衝撃が思いのほか大きかった。
別に仲が良かった訳ではない、あまり話もしてきたわけでもない。ただ嫌いじゃなかった、好きかどうかはわからない。しかし、みとりの料理は美味しかった。他では味わえない温もりがある。温もり、はて、どうしてそんなことを思ったのだろうか。みとりの料理は全てが美味しかった。特別に料理の腕が上手い訳ではない、それならば外食している方が遥かに上品で豪華な料理を食べられる。それでも、みとりの料理の方が惜しいと思ったのだ。最初から、そういう訳ではなかった。味が濃かったり、薄かったり、それがいつの間にか、適量になっていて――その光景を思い浮かべる。何処かで見た光景、嘗て、よく自分が立っていた場所だ。
ペットの好みの味に合わせるのは大変で、でもそうすると皆が喜んでくれるから手間を惜しまずに作り続けた。その立ち位置は今や、みとりが立っていて、でもそのみとりはもう居なくなった。
取り返しの付かないことをした、どうしようもない間違いを犯した。
「さとり様?」
気付けば拳を握り締めていた、下唇を噛みしめていた。目尻から涙が零れるのも気にしていられなくて、ただ自分の不甲斐なさを呪った。
第三の目がなければ、何も気づくことができない自分の愚かさを強く強く呪った。第三の目がなくても、もっとしっかりと二つの目で見ていれば気付けたことだ。気付けなかったのは彼女を避けていた自分のせいだ。
ボロボロと零れる涙、嗚咽を押し殺し、ただ只管に自分を責める。馬鹿だと、大馬鹿だと、地底一の大馬鹿者だと、自分自身を罵った。
鉄の味がする唇を噛み切ったようだ、しかし気にしている場合ではない。
脅える燐にさとりは指示を出す。
「みとりを探すわよ」
「……はいッ!」
その時の燐は、とても清々しい顔を浮かべていた。
◆
河城みとりは独りぼっちだった。
河童と人間の混血児である彼女は、人間からは妖怪もどきと疎まれて、妖怪からは人間もどきと嘲られた。
石を投げつけられることは日常茶飯事、妖怪相手に暴行を受けることも少なくない。だから生きるためには強くなるしかなかった。自分を虐める奴らには、私は危険だぞ、と訴えるように暴れまくった。手を出せば、自分が傷つく可能性があると相手が悟った時、パタリと暴行は止んで、そして陰湿で執拗な嫌がらせが始まるようになる。
例えば、隠れ家に糞が投げ込まれたり、保存していた食料に尿がかけられたり、寝床の枯れ草に虫を仕込むのは朝飯前だ。木の上で寝ている時に枝ごと落とされたこともある、大事な生活道具を肥溜めに捨てられたことだってある。とはいえやられっぱなしだったわけではない。仕返しをしたことはある、隠れて奇襲を仕掛けたこともあった。そうしている内に、何時しか命すらも狙われるようになり、討伐隊を組まれて集団で襲われることもあった。
生きることが難しくなり始めた頃合い。みとりは新天地を求めて、後ろ指を指されながら地底に降りた。
仲間なんて求めない、せめて誰も手出しをしてこないことだけを祈ったのだ。
その時には、周り全てが敵のように思えた。
だから差し伸べられた手を払った。鬼も土蜘蛛もおかまいなく、自分は危険な奴だと知らしめるために全てを拒絶した。
結果、星熊勇儀を相手に情けなくと打ち倒され、地霊殿に引き取られることになる。
地霊殿の主である古明地さとりは、想像していたのとは違っていた。
疎むのでもなく、避けるのでもなく、ましてや嘲ることもせずに脅えたのだ。危険な奴だと思われることはあっても、みとりは強い妖怪ではない。むしろ弱い部類に入る妖怪であると云える。
なんとなしに彼女からは、自分のことを嫌うような真似をしないと思ったのだ。
臭いと呼べば良いのだろうか、彼女は皆から好かれることを諦めているような雰囲気を感じ取れてしまった。嫌われて当然、そんな空気がみとりの心を揺らがせた。ペットは居るが独りぼっち、ペット以外には心を開けないような寂しい奴。
それが初対面でみとりが感じた、さとりの印象である。
その晩、さとりが料理を作ってくれた。
初めて他人が作ってくれた料理を口にすることに戸惑い、そして他人が作ってくれた料理の美味しさに感動を覚えた。つい言葉を発することもできず、次から次に料理を口に運んだ。
さとりは終始、自分のことを訝しげな顔で観察し続けていた。
暫く地霊殿に住まわせて貰うことになった。
地霊殿に住まわせてもらっている以上は仕事をしなくてはならない。働かざる者食うべからず、という訳ではないが、今まで独りで生きてきたみとりにとって、誰かの世話になり続けるだけというのは我慢ならなかった。しかし地霊殿の仕事が何なのか分からなかったみとりは、とりあえず家事全般をすることに決めたのだ。人化できる妖怪が少ない地霊殿にとって、大きな館である地霊殿の掃除などは意外と重労働で手が回らない。燐は喜んで、みとりに家事を教え込んだ。
何をするにしても、みとりは器用で覚えが良かった。三日もすれば、大体のことはできるようになったし、よく分からないことは素直に聞き直してくる。例えば、この部屋は掃除しても良いのか、とか、ここは触れても大丈夫なのか、とか、その姿勢に燐は喜び、優秀な後輩の出現にとてもよく可愛がった。幸いにも料理は最初から基本はできていた。といっても鍋を煮込んだり、食材を刻んだりする程度だが、それだけでも燐の教えることは少なくなった。元より燐は料理は上手ではない、何故ならば、何時もさとりが料理を作ってくれるためだ。手伝い程度の技術はあっても、献立を決めるとなれば難しかった。
ここでみとりは試行錯誤を始める。料理本に齧りつき、最初は寸分たがわずに調味料を計ったりする。しかしペット達には不評だった。さとり様はもっと甘かった、辛かった、塩が足りない、醤油が多すぎる、等々、余りにも纏まりのない多種多様な意見にみとりは眩暈を起こした。その容赦ないペット達の感想に燐は気まずそうに「さとり様って、相手によって味付け変えてるんだよね」と告げる。ちなみに燐は、美味しいと思うけど、と前置きした後に、もうちょっと砂糖が欲しいかな、と教えてくれた。
さとりの代わりとして台所に立っている以上は、さとりと同じ、いや、それ以上の料理を作る必要があるとみとりは考えた。
そして、数ヶ月以上にも渡る奮闘を送ることになるのだ。
食事を終えた後は必ず、ペットに意見を求める。
メモ帳に一匹一匹の好みを個別に書き込んで、そして少しずつ彼等の好みに近づけていくのだ。そうしていく内に辛いもの好きや、しょっぱいもの好きと幾つかのグループに分けることができることを知り、更に云えば、相手によってメニューを変えることも行ってきた。途中で相手の好きな料理ばかりを与えていれば、栄養が偏って不健康になってしまうことに気付いたみとりは、栄養バランスまで考えてメニューの考案を始める。
ざっと一週間後までまとめたグループ別のメニュー表、ゾンビ妖精に必要な食材のメモを渡して買い出しに行かせた。
ここまで小慣れてきた頃にはペット達の評判も変わり、まるでさとり様のようだ、という評価を頂くことができた。これがペット達にとっての最強評価であり、さとり以上という評価はついぞ頂けなかった。そのことに悔しさは感じられず、むしろ微笑ましく感じた。
ペット達に愛情をたっぷり注ぐさとりを思い浮かべると、つい頬が弛んでしまうのだ。
さてペット達の最高評価を頂いたが、まだ難敵が残っている。
それはさとりであり、彼女から美味しいの言葉を一度も頂けていないのである。口元を綻ばせることも黙々と食事を摂るさとりは美味しいのか不味いのか分からない。それでも食事を口に運ぶ早さや、一度に運ぶ量といった些細な情報から彼女の好みに合わせようと試みる。水を飲む量が多ければ、調味料を減らし、さりげなく彼女の傍に醤油などを置いて、調味料を足したりしないのか観察する。
ここに来て、みとりは居場所を手に入れた。そのことに、みとりは深く感謝していた。だから、さとりに喜んでほしかった。美味しい料理を食べて欲しいと思った。
さとりは気に留めてもいないと思うが、誰かに料理を作って貰えることは幸せなのだ。あの時に味わった幸せを少しでも良いから返したい、そう思ったからさとりに喜んでもらえるように料理を作った。たっぷりの愛情を注ぎ込んだ。さとりのことだけを考えて作った料理である。
自分を受け入れてくれたおかげでみとりは独りではなくなった。だから、さとりに自分が居ると教えたかった。
疎まれているのは分かる。会話も成り立たない、皆はさとりが心を読めると云うが、自分にはそのようには思えなかった。心当たりはある。周囲を拒絶し続けることで目覚めてしまった能力がある。
“あらゆるものを禁止する程度の能力”
元々は相手に対して自分に干渉することを禁止する、一方通行の能力だった。それがきっと、さとりの能力を阻んでいる。
想いを言葉で伝えることは簡単だ。しかし、恐らくだが、さとりは言葉だけでは信じない。同じ独りぼっちだからこそ分かることがある。さとりはきっと自分に対して人間不信に陥っているはずなのだ。確信が持てないから信じることができない、しかし確信を持つ手段がない。周り全てが敵だと感じていた時、自分も似たような状況に陥った時がある。
だから行動で示そうと考えた。目一杯の愛情を振り撒けば、何時か信じて貰えると思って続けた半年間である。
まるで進展する気配を見せないさとりに、みとりの心は擦り切れていた。
やっぱり自分は嫌われているのだろうか。そんな考えがよぎるのは仕方ない、さとりの態度は日に日に悪くなっていた。近頃では言葉を交わす事すらも嫌がられているようである。地霊殿に自分の居場所があると考えたのは間違いだったのか、最初から自分は独りぼっちにしかなれなかったのか。どうして、自分はこんな能力を持ってしまったのだろうか。相手を拒絶するための能力、これさえなければ、さとりの態度はもっと良かったのかもしれない。いや、むしろ、心を見られたら、もっと嫌われていたかもしれない。心を読まずとも、そういうところをさとりは察していたのかもしれない。
独りではない、燐がいる。ペット達がいる。しかし、地霊殿の主であるさとりに嫌われてはここには居られなかった。
「ここを出て行こうかなって、ちょっと思ってる」
そのように相談した相手は燐だった。
燐は慌てた様子で思い直すことを提案し、あたいがさとり様に問い詰めてきてやる、と部屋を飛び出してしまった。
いや、しかし、もう疲れたな。疎まれ続けるのは辛い、でも、それは憎いとか怒りとかそういったもので、疎まれることを悲しいと感じたのは此処に来てから初めてだった。
部屋に戻ってきた燐の話は頭に入って来ない、何時頃に出て行こうかなとぼんやりと考えていた。
日課というのは侮れないもので、上の空になりながらも料理を作った。
この時も皆の味の好みに合わせて、料理を作ってある。もう皆の好みは覚えている、分からないのはさとりだけだ。何時も、じっと相手の様子を窺っていたが、今日この時に限っては、さとりの顔を見る気にはなれなかった。正直なことを云えば、今すぐに席を立ちたい。しかし、燐に居るように言われたから、大人しく席に座っている。
そういえば、初めてさとりが料理を作っていた時に、さとりが訝しげに自分のことを見つめていたのを思い出した。あれはきっと相手が美味しいのかどうか確認していたのだろう、今なら分かる。あの時はまだ自分に嫌悪は抱いていなかった、しかし今となってはもう遅かった。
重い空気、重い食卓、誰も喋らず、食器の音だけが部屋に響いた。
もう耐え切れない、その時だ。
「……美味しい」
ポツリと零れた言葉、思わず顔を上げた。
嘘だろうか、聞き間違いじゃないだろうか。燐を見ると、彼女が黙って頷き返してくれたのを確認して、ポロリと涙が零れた。
良かった、頑張ってきて良かった。
これ以上の至福の時はないと思った、溢れる涙が止めらず、ボロボロと情けない程に涙が流れ出た。
そして、次の瞬間、
さとりは食事を吐き出した。そして、そのまま料理と一緒に地面に倒れてしまった。
何が起きたのか分からなかった。
ペット達や燐、空がさとりに駆け付ける中、自分だけが立ち往生したまま身動きが取れない。
震える体、もしかして自分の料理がさとりを傷付けたのか。それとも何か料理に間違ったものを入れてしまったのか。
今日は上の空だった、どんな風に料理を作ったのか覚えていない。
美味しいと言ったのはなんだったのか、嘘だったのか、最初からそんな言葉なんてなかったのか。
自分は取り返しの付かないことをしてしまった。
燐が肩に手を乗せて、必死に何かを呼び掛けているような気がするが声が聞こえなかった。
もう誰にも触れて欲しくなかった。もう誰も自分に関わって欲しくなかった。
気付いた時には地霊殿の外を走っていた。
◆
さとりは必死に走っていた。
何処を探せば良いのか分からない。半年間も一緒に居て、彼女のことが何一つも分からなかった。
しかし探さなくてはならない、見つけ出さなくてはいけない。こんな私のことを彼女は愛してくれたのだ。何処か分からないけども必死に走った、破れかぶれになって走り続けた。地底界きっての引き籠りの体力は長く持たない。直ぐに息が上がったが、それでも頑張って走り続けた。もう全身の穴という穴から液体を溢れさせて、それでも頑張って走ったのだ。最早、一般人の歩行速度よりも遅くなっても、さとりは走り続けたのである。
息を切らせて、当てもなく、最早、まともに体が動かなくなっても、頑張って足を動かし続けた。
視界に白い靄がかかり、周りが見えなくなったところで何かにぶつかった。
「おお、さとりじゃないか。こんなところに来るなんて珍しいな」
聞きなれた声、旧地獄街の喧嘩番長、星熊勇儀が少し困惑した様子で尋ねる。
さとりは彼女の服にしがみつくとありったけの声を張り上げた。
「み゛どり゛がァ……ッ! い゛な゛ぐなっだの゛よ゛ォ……ッ!!」
恥も外聞も投げ捨てて、さとりは声を荒げて、勇儀を似た見つける。
「……ざがじでッ!!」
この一大事に勇儀は小さな地霊殿の主に胸を叩いて応える。
任せろ、と。
◆
旧地獄街は大騒動となっていた。
地底界に住む妖怪という妖怪が束になって、みとりを探し始めていたのである。
このことにみとりは驚き竦み、そして暗い暗い洞窟を見つけると奥深くに逃げ込むと、耳を塞いで息を殺すと小さく身を丸めた。
独りで生きることしか知らなかった彼女は、地霊殿に来て誰かと生きることの意味を知ってしまった。地上に居た時と比べると、みとりは孤独に対する耐性が大きく損なわれている。
そして、みとりの心には未だに周囲から虐められることに対するトラウマを抱えていた。
何故、こんな事態になっているのか分からない。もしかすると、さとりのことが旧地獄街に広まったのかもしれない。そのせいで皆から追い回されているのだろうか。分からない、分からない、何も分かりたくない。もう自分には誰も関わらないで欲しい。もうあの頃のような生活には戻れない、戻りたくない。
塞ぎ込む、強く塞ぎ込んだ。無差別に、無意識に、みとりの能力は発動して、周囲全てを洞窟から拒絶する。
洞窟の外では既に妖怪が侵入しようとしたが、全て弾き返されている。
地上で河城みとりが必要以上に疎まれていたことには理由がある。
それは彼女の能力があまりにも危険で強力だったためだ。あらゆるものを禁止する程度の能力、それは最早、概念に干渉するもので、この能力を受けた妖怪の中で生活に支障をきたす者が現れたのだ。みとりが望んだのは洞窟に入らないことだ。どの洞窟と指定しなかったがために、その妖怪はありとあらゆる洞窟に入ることができなくなった。
そして、その妖怪が洞窟に生活圏を築く、河童だったことが致命的であった。
ただの混血児は、幻想郷の秩序を脅かす凶悪な妖怪と定められて、幻想郷中で指名手配されたことをみとりは知らない。中でも躍起になったのは妖怪の山の妖怪であり、面子が潰されたとして血を眼にしてみとりを追い立て、昼夜問わずに襲撃する。
それで止む無く、みとりは地底へと逃げ延びることになったのだ。
その強力無比の能力は鬼すらも突破を許さない、ただの鬼であれば弾き返す。
「みぃとりぃぃッ!!」
しかし、それがただの鬼であればの話だ。
大鯰の地震を彷彿とさせる揺れに、みとりは飛び起きた。そして洞穴の入口の方を見ると、嘗てみとりを殴り飛ばした星熊勇儀の姿があった。
みとりは立ち上がる、そして勇儀を敵意に満ちた目で睨み付ける。
「全く変わってないじゃねぇか、この野郎」
勇儀は不敵に笑って、大盃の酒を煽る。
「今から洞窟から引きずり出してやる、好きに抵抗してみろ」
そう言いながら、一歩、踏み込んだ勇儀、そして二歩目が動かない。
それなりの力を込めても動かない体に勇儀は首を傾げる、そして目の前の河童から禍々しい妖気が解き放たれているのが分かった。
幻想郷全てから疎まれて、畏れられた妖怪。河城みとりが目の前の障害を拒絶する。
勇儀は楽しそうに笑うと力尽くで彼女の能力を引き剥がした。
◆
地底界、全てを揺るがす地震が鳴り響いた。
一度、二度、そして三度――四度、五度、三歩を超える衝撃に誰も洞窟に近づこうとする者はいなかった。むしろ地底界が持つかどうかの衝撃である。地底の妖怪達が騒然とする中で、漸く辿り着いたのは息絶え絶えのさとりだった。呼吸をするのも苦しい状態、倒れているところを空に救出されて、ここまで担がれてきたのだ。
さとりはゆっくりと地面に降ろされると、時折、訪れる地震の衝撃に体勢を崩しながら洞窟に歩み寄った。
地底界でも嫌われ者のさとりであったが、この時ばかりは周囲の妖怪も彼女の安否を気遣って呼び止めた。
しかし、さとりは意にも介さずに足を進める。
その聞く耳持たない様子に、つい肩を叩こうとすると、さとりは力一杯に手を払いのけた。
「私の邪魔をしないでッ!!」
地底界では弱い方とされる妖怪、その覚妖怪の気迫に周囲の妖怪は気圧された。
そして、また地震が鳴り響く、さとりは舌打ちを鳴らすと洞窟の方に振り返って、みとりのいる方へと向かって行った。
もうさとりを呼び止める者は居らず、ふらつく体に不安を覚えながら、その小さな背中を見送るのだった。
◆
星熊勇儀は苦戦していた、みとりの能力を突破できずにいる。
どれだけ踏み込んだとしても、みとりの禁止する能力が働いて、無理矢理に攻撃を逸らされるのである。
まるで磁石同士が反発するように、勇儀が全霊で振りかぶった拳は、みとりに近づけば近づくほどに横へと逸れて行った。
攻略法がないわけではない、しかし、その手段を勇儀は選ばない。
多少なりとも力で対抗できている事実がある以上、勇儀に分がある。
であればこそだ、勇儀には真正面から打ち破る矜持がある。
相手が消耗しきる前に、絶対に殴り飛ばしてやると盃を片手に力を籠める。
勇儀が闘志を漲らせている一方で、みとりは事態がよく分かっていなかった。
怖い人が洞窟に入って来たと思ったら、急に喧嘩を吹っ掛けて来たのだ。相手が襲ってきたから対処にしているに過ぎない。
そして、ふと思ってしまったのだ。なんで自分は抵抗しているのだろうか、と。
勇儀の拳は自分なんかを簡単に殺せてしまう程の代物であり、彼女の気質から惨たらしく殺されることもこともない。
きっと一思いにやってくれるに違いない。
どうせ、もう自分の居場所は何処にもない。何よりも怖いのは、独りで生き続ける事だった。
次の瞬間、勇儀の拳がみとりの胴体を打ち抜いた。
そのまま洞窟の天井に叩きつけられて、地面に跳ね返った。普通では味わえない衝撃に、みとりは血反吐を吐きながら身を丸める。どうして死んでいないのか理解できない。
その一方で勇儀は、急に抵抗がなくなったことに驚きを禁じ得なかった。胴体を綺麗に打ち抜いた拳を見つめる、そしてゆっくりと地面に蹲るみとりを見た。辛うじて、みとりを殺さずに済んだのは、違和感に気付いた時に拳を引いたためだ。それでも拳の半分以上がみとりの体にめり込んだし、その余波だけでみとりの体は吹っ飛んだ。
そうじゃない、そこじゃないのだ。重要なのは、どうしてみとりが急に抵抗を止めてしまったのか、だ。
苦しそうに嗚咽を零すみとりを、勇儀は暫し呆然と眺めるほかになかった。
「みとりッ!?」
そして驚きに声を荒げたのは、洞窟の中まで入り込んでいたさとりだった。
「勇儀……ッ、く……ッ!」
さとりは勇儀には一瞥するだけで、地面に倒れるみとりに駆け寄ると、その体を優しく抱き寄せる。
慌てて勇儀もみとりの様態を確かめようとしたが、それをさとりが手を上げて制する。
「分かっています。だから、その……今は近付かないでください。貴方が悪くないことは、もう視ました……今の私は貴方を許せない、分かっています。貴方は悪くない、感謝しています。だから、今は、ごめんなさい。……後は私達に任せてください」
さとりが冷たく告げると、遅れて燐と空が駆けつけて来た。
洞窟にさとりを連れて来た後で、どうすれば良いのか分からなくなった空は燐を呼びに行っていた。そして今、洞窟まで二人で追いついたのである。
これだけ居れば人手は足りるか、と判断した勇儀は無言で頭を下げると静かに洞窟を出た。
酒は頗る不味かった。
◆
「私には貴方のことが分からない……」
洞窟に取り残されたさとりを想いを漏らした。
みとりの状態が重傷なのは見てわかる。故に燐は早く医療施設に連れ込むことを提案しようとしたが、肝心のさとりがこの場から動こうとしなかった。ここで何があったのか燐には分からない、想像するしかない。だから、急いでください、と燐は心の中だけでさとりに告げる。
さとりは無言で微動だにしなかったが、承諾してくれたような気がした。
「私には貴方の心を読むことができない、だから分からない……」
さとりは視ている。勇儀が拳を放つ瞬間に抵抗を止めてしまったことを、まるで生きることを止めた時のように力ない笑みを浮かべていたことをさとりは知っている。だから、さとりには分からない、どうして自分から死を望むような真似をしたのか、さとりには想像すらもできなかった。
「…………………」
血反吐塗れのみとりが小さく口を動かした。
それは二文字、それが何を意味しているのか燐には直ぐに察することができた。それはまるで脈絡のない言葉、しかし燐は歯を食い縛って堪える。もどかしかった。
さとりにはその言葉が届いていないことがもどかしかった。必死に読み取ろうとしているけども、彼女には届かない。
みとりは心なしか、困ったような表情を浮かべると瞳だけを動かして燐を見つめる。
「……さとり様、みとりの口元に耳を近づけてください」
燐に言われるがまま、さとりはみとりの口元に顔を近づける。
「…………す……き……」
唖然とした顔をするさとり、燐を見て、空を見て、そしてみとりを見た。
みとりは静かに目を伏せると小さな笑みを浮かべる。
「お燐、お空ッ! みとりを連れていくわよ、急いでッ!! 絶対に死なせないでッ!」
その言葉で二人は飛び出すように、みとりを抱えて洞窟の外へと出て行った。
取り残されたさとりも二人の後を追いかける。
無論、全力疾走でだ。
◇
ところ変わって地霊殿、
旧地獄街を巻き込んだ騒動から三日が過ぎて、さとりは久しぶりに料理作りに勤しんでいた。
ペットの好みは理解している。完璧に丁寧に手間と愛情を込めて、作り上げる。半年のブランクはあれども、その程度のさとりの腕が落ちることはない。
それだけ、さとりは地霊殿の家事を続けて来たのだ。ポッと出の家政婦とは年季が違うのである、年季が。
何時ものようにペットに囲まれての食卓、しかし、この時、少し可笑しなことが起きた。
――さとり様、腕落ちた?
その言葉に、さとりは手に持っていたフォークを落とした。
一匹だけであれば、気にすることはなかったかもしれない。しかし、この時はペット全員が揃いも揃って、何時もよりも美味しくない、と告げるのだ。
狼狽えるさとりに事情を把握しているらしき燐が苦笑している。
その心を読み取るとすぐに答えが分かった。
――申し訳ありませんが、みとりの方が美味しいです。
――どうして、今日はみとりじゃないの?
――ねえねえ、みとりの料理は何処?
――さとり様の料理も美味しいよ?
――うん、さとり様も美味しい! 大丈夫!
燐の心の声に続くようにペット達が次々にみとりを賞賛し始めたのである。
いや、まさか、いやいや、まさか。心が読めて、完璧に好みを把握している自分がみとりに料理で負けるというのか。
信じられない現実に、空の心の声が響いた。
――仕方ないよ、さとり様は半年も作ってなかったんだから。
その気遣いがさとりの心を打ち砕いた。
◇
溜息交じり、食事を終えたさとりは再び台所に立っていた。
先ほどまでの料理とは違って、今度はとろっとろに煮込んだ粥である。今度こそは美味しいと云わせるために、それはもう気合を入れて作った自信の一品、熱々の土鍋を盆に置いて鼻唄交じりに台所を出る。
そして目的の部屋まで訪れると、ノックを三回、返事を待たずに扉を開いた。
中は個室で、ベッドの上には全身を包帯で固定された河童が寝かされている。
「……食事を、持って来たわ」
まだ彼女と話すことには慣れていない。
それでもさとりは勇気を振り絞って、彼女の傍らに腰を掛ける。
みとりはあまり喋らない、肋骨が砕けているせいで喋るだけでも痛みが伴うそうだ。
それでも、にっこりと笑って感情を表現してくれようとする。
こんな状態の彼女でも心を読むことはできなかった。
「今日の御粥はね、うん、私の自信作よ」
拙い言葉使い、それでも少しずつ慣れていきたいと思った。
彼女のことをもっと知りたいと思っている、これ程までに他人に興味を持ったことは――あるとすれば、こいしくらいか。しかし彼女は考えていることが分からないというよりも、そもそも考えていることがないのだから知りようもない。
目の前には心が読めない存在がいる、何を考えているのか分からない存在がいる。そんな貴方の考えていることが今は知りたくて仕方ない。みとりは微笑みながら、じっとさとりのことを見つめている。彼女も自分のことを知りたがっているのだろうか、だとすれば少し嬉しい気がする。そして同時に少しだけ思っちゃうのだ、彼女に心を読む能力がなくて良かった、と思ってしまうのだ。
覚妖怪が皆から嫌われると云うのは、こういう意味なのだろうかと少し考えてしまった。
だから、こいしも心を閉じてしまったのだろうか、とも。
「………………」
みとりが口をパクパクと開閉する、どうやら食事を催促しているようだ。
甘えたがりの河童に苦笑を零しながら、さとりは粥を匙で掬って、ふーふーと息を吹きかける。心が分からないから、熱いかどうかも微妙な匙加減が分からないから念入りに冷ました。そして、ゆっくりとみとりの口元に持っていくと、彼女は嬉しそうに喰らい付いた。じっくりと咀嚼した後に、こくりと喉を鳴らしてみせる。この時、彼女は顔を顰める。
やはり痛いのだろうか、心配して見つめていると彼女はにっこりと笑い返してみせる。
「…………おい、しい……よ」
言ってから彼女は眉間に皺を寄せる。やはり痛かったのだろう。
「こんなことを伝えるために痛がるなんて馬鹿のすることね」
そう告げると、みとりは首を横に振ってみせる。そして、じっとさとりを見つめてくるのだ。
「……そこまでして、えっと、伝えたい……ことだったのかしら?」
恐る恐る問うてみると彼女は嬉しそうに首を縦に振ってみせる。
さとりは溜息を零しつつ、つい口元が弛むのを抑えきれなかった。
「痛かったら御飯も無理して食べなくても良いのよ?」
そう問うと、みとりは口元をパクパクと開閉させる。
これは次を寄越せという合図だ、まるで雛鳥に餌を与えている気分だと思いながら粥を食べさせる。
この食事を食べさせる時間が、今の二人の語り合いの時間になっている。
「自分のことを大切にしなさい。皆、悲しむわよ。貴方はもう地霊殿の一員なのだから」
そう伝えるとみとりは神妙な顔で頷き、そして、さとりは切り替えるように華やかな声で話し始める。
「そういえばね、さっき食卓を囲んでいた時にペット達に食事を与えるとね――――――」
それはとても尊く感じられる一時だった。
地上の人妖から疎まれた彼女が行き着いた先が地底の旧地獄街だったのは当然だったと云える。
初めて地底に訪れた彼女は大層、荒れていた。それはもう狂犬と云っても良い有様で、相手が誰であっても、鬼であっても噛み付くほどである。結果、星熊勇儀の強い洗礼を受けた彼女は気絶して、その身柄は旧地獄街の管理者である古明地さとりへと引き渡される。
それは構わない、利益のない面倒ごとを引き受けるのは管理者の務めだ。場所代と称した税金を回収する代わりに、公共の施設や事業を整えるのは為政者の務めである。
困ったのは引き取ったのが彼女であったと云うことである。
眠っている時、彼女の思考を読めなかったのは、それだけ熟睡しているからだと思った。
そして目覚めた彼女から事情を改めて把握しようとした時に、さとりは違和感に気付くことになる。まるで思考が読み取れない、先ず最初に思い浮かんだのは妹のこいしだ。妹と同じように彼女も無意識の極致に達していたのだろうか。
違う、とさとりは首を横に振る。
目の前の少女は明らかに警戒心を露わにしていた、その周囲を見渡して状況を確認する姿は無意識と呼ぶには程遠い。彼女は思考して動いている、極めて冷静に状況を判断しようとしている。
故に解せない。何故、彼女の思考を読み取ることはできない。
「あー……えっと、その……」
彼女の警戒心を解こうとするも、上手く声が出てこなかった。
思考が読めない者との会話は、こいし以外では初めての経験だった。そのこいしも心は読めないが、最も近しい家族という事実に違いはない。所謂、気心の知れた仲というもので、まったくの他人との会話は初めてだと言える。
だから、さとりは何を喋れば良いのか分からずに言葉が詰まる。そんなさとりを目の前に少女は呆れたように溜息を零す。
「さては、お前、あれだな。コミュ障というやつだな」
会話すらも交わしたことがない初対面の相手に告げられる遠慮ない言葉は、今まで素知らぬ顔を続けていたさとりの心に深く突き刺さった。
「大丈夫、安心して欲しい。私も会話は得意な方ではない」
何故か少女に気遣われていることに、さとりの心は更に強く抉られる。
最早、満身創痍に近いさとりが項垂れると、うんうん、と少女はさとりの肩を優しく叩いて励ました。
結果として少女の警戒心を解くことには成功した。しかし、その成果をさとりは素直に受け入れることはできなかった。
◆
少女の名前は、河城みとりと云うらしい。
らしい、と付けるのは彼女の心を読めないためだ。もしかすると偽名を名乗っているだけかもしれない。
無用な推測に思考を巡らせるのは、今まで心を読んできた弊害で、彼女が何を考えているのか分からないせいで疑心暗鬼をこじらせる。もしかすると地霊殿を乗っ取ろうとしているのではないか、もしくは地底界に送り込まれた地上のスパイではあるまいか。相手がこいしであれば、何も考えていないと諦めもつくが、彼女は明確な意思に基づいて動いている訳である。
何より、みとりは馬鹿ではない。彼女の行動を注意深く観察していると常に周囲に気を配り、ペットに対しても相手の様子を窺いながら行動することができている。むしろ慎重な性格をしていると云っても良い、警戒心はその性格の裏返しなのだろう。その気質は物事を真正面から受け止める霊烏路空と云うより、深読みしやすい火焔猫燐に近かった。
だから、さとりはみとりから距離を取ることにした。
心が読めない相手との付き合い方が分からなかったから、さとりはみとりの世話を燐に押し付けたのである。
幸いにも、みとりは粗暴ではあったが礼儀知らずではなかった。
彼女は警戒心こそ高いが身内と認めれば、すぐに皆と溶け込んで地霊殿での仕事を手伝うようになった。さとりの代わりにペット達の世話をしてくれる、家事全般もできるようで彼女が来てから地霊殿の内装は随分と綺麗になった。料理を作ってくれることもある。地霊殿の家族達と食卓を囲んでいる時に、みとりがじっと見つめてくるのだ。そうやって見られていると少し気まずく感じられる、しかし彼女の料理は粗野ではあったが不味くはない。所謂、家庭料理といった感じだろうか。
料理を作るのは、さとりの役目だった。ペット一匹一匹に対して、調味料の量を計算して、好みの味を再現している。これが結構な手間がかかるもので、代わりにみとりが作ってくれるのは非常に助かった。
ただやはり、じっと見つめられるのは少し疲れる。
基本的に地霊殿は居たい者が居れば良い場だ。来る者拒まず去る者追わず、そうして集まったのが地獄鴉や野良猫とか、言葉を介さない動物達が居着くようになった。
だから、みとりも例外に漏れない。
居ても良いし、居なくても構わない。でも彼女が来てから随分と助けられている、だから少し居て欲しい気持ちはある。しかし、これだけ彼女のことを疎ましく扱っておきながら、居て欲しいと願うのは間違っている気がした。ここに居続けたいと思わせることができれば良いが、さとりには彼女がどうして欲しいのか分からない。どんな行動をしても間違っているような気がしてしまうのだ。もしも、万が一、あわよくば、可能性を考えると切りがなかった。
幸いなのは、彼女は燐と相性が良かったようで、よく笑っているところを見かけることだ。
だから、たぶん、地霊殿を嫌っていることはないと思っている。
そう、さとりは願っている。
分からないということは思っていた以上に恐ろしいものだ。
嫌われていることには慣れていても、嫌われているかもしれないことに耐性がなかった。例えば彼女のために何か行動を起こしたとしても、それが彼女にとって本当に良かったことなのか分からない。そうされるのが嫌だと分かるなら構わない、謝って次から別の方法を試せばいいだけの話になる。しかし彼女のためを思っての行動に彼女が喜んでくれたとしても、それが本当に喜んでの表情なのか分からないのである。ただ気遣っているかもしれない、親切を押し売りしているだけかもしれない。そう考えるとみとりと顔を合わせるのが難しくなった、そして何時しかよけいなことをして、みとりに嫌われるのが恐ろしくなってしまった。
だから、さとりはみとりから距離を取る。みとりが何を考えているのか分からないから、どう接すれば良いのか分からないから、さとりはみとりから距離を置くことに決めたのだ。
しかし、さとりの思惑とは裏腹にみとりは暇を見つけては顔を合わせに来るのだ。
「さとり、今日も書類整理をしてんの?」
最早、見慣れた顔にさとりは第三の目を向けるも、やはり彼女の心を見抜くことはできなかった。
彼女は今、何を考えているのだろうか。その仕草、その表情に意味はあるのだろうか。どのような意図が質問に含まれているのだろうか。
分からない、推測できたとしても確信が持てない。故に分からない。
「……そうよ」
だから当たり障りのない言葉で濁した。
どう扱えば良いのか分からない。素っ気ない言葉で訪れる、僅かな沈黙をさとりは恐れた。ちょっと不愛想過ぎただろうか、分からない。どう彼女が感じているのか分からない、この気まずい空気が胸を締め付ける。彼女と会話をすると全てが裏目に出てしまうような気がするのだ。
だからさとりは、早く彼女から解放されたい、と強く願った。
「……えっとね、御飯、できたよ」
みとりは気まずそうに告げると、そっと部屋から出て行った。
「ありがと」
誰も居なくなってから、心に浮かんだことをそのまま零す。
それすらも伝えて良いのか、分からないのだ。彼女と同じ部屋にいるのは息苦しくて仕方ない。
自分の弱い部分を全て、暴かれてしまいそうな気持になる。
嫌いじゃない、傷付けたいわけでもない。
だけど、でも…………
◆
みとりが来てから、どれだけの日数が過ぎただろうか。
数ヶ月は過ぎた、もう半年近くになるだろうか。地底だと気温以外に季節がないので、いまいち時間が分かりづらかった。
腕を上げたみとりの食事を美味しく食べ終えた後のことだ。
「さとり様」
燐が執務室に入ってくる、何時もの業務連絡だろうか。第三の目で燐を見つめて、ちゃんと心を読みとめることに安堵する。
しかし燐が考えていることは、さとりの心を穏やかにするものではない。
みとりのことについて、燐は何かしらの疑念を抱いている。そこにさとりを咎める気持ちが混じる。
「……みとりのことは、嫌いじゃないわ」
質問を先読みして告げる。
燐が考えているのは、みとりを避けていることに関してだ。
別に彼女を避けているわけではない。どう扱えば良いのか分からないだけなのだ。彼女が何を考えているのか分からない。
さとりは心の醜さを知っている、嘘で塗り固められた言葉を知っている。
だから目や耳で見聞きしたことを信じられない。
「むしろ、助かっているくらいね。地霊殿での仕事もよく頑張ってくれている。通信簿があれば花丸を上げてるところよ」
相手が燐であれば軽口を叩ける程度には口が軽くなる。
それは燐が自分のことを嫌っていないと分かるから、本心では嫌がっていないと分かるからどんなことも云える。
でも、みとりは駄目なのだ。
「それではみとりを一言で構いませんので、褒めてあげてください」
普段、寛容な燐がここまで飼い主のさとりに食い下がるのは珍しい。
さとりに対する温かな親愛を持ちながら、明確な敵意に似た感情を燐は抱いていた。言葉にしたことで想いは更に強固になる。
じっと睨み付けてくる燐の視線に耐え切れなくなって、さとりは顔を背けた。
落ち着かない様子で手を動かしながら、ぼそりと零す。
「私だって、嫌っているわけじゃない……」
そのさとりの拗ねるような口振りに、燐は強く動揺した。
何時も自信に満ち溢れていて、周囲を容赦なく詰り続けるさとり様がいじけてみせたのだ。
そんな不届きなことを考えた燐に、さとりはジトっとした目で睨み付ける。
「他に何かある?」
その威圧する言葉に、燐は身を竦ませて部屋から逃げ出してしまった。
また独り残された部屋で、さとりは背もたれに身を委ねると、ペットに当たるなんて最悪だ、と自責の念に溜息を零した。
みとりが来てから何もかもが上手くいかなくなっている。苛立ちに頭痛がする、喉奥に気持ち悪いものを感じる。
そう思いたい訳じゃないのに、みとりに対しての苦手意識が募るばかりだった。
◆
みとりのことは注意深く観察している。
だから、今日の彼女はなんとなしに調子が悪そうだなと感じることはできた。そして、彼女の顔色が日に日に悪くなっていってることをさとりは気付いている。
彼女の心が読めない以上、その原因を知る術がない。
この日は何時ものように家族達と食卓を囲んでいた日だ。近頃のみとりの家庭料理は何時も美味しくて、外食が続く日には、ふとみとりの料理が食べたいと思うようになってしまった。それが良いことなのか、悪いことなのかは分からない。ただ、みとりには地霊殿に居て欲しいと思っている。それと同じくらいにみとりとは顔を合わせたくない。何か喋る度に彼女を傷付けてしまうようで怖かった。
近頃、さとりは食卓ではほとんど口を開いていない。ただ黙々と淡々とみとりの料理を口に運んだ。
美味しかった、気まずくてもみとりの料理が衰えることはない。
みとりの視線から逃れるために食事に集中する。
ふと燐が言っていたことを思い出す。
褒めてあげてください、と、それは気の迷いのようなものだった。
この時、みとりのことを忘れてしまっていたのだ。
「……美味しい」
ポツリと零した一言に、ハッとして、みとりを見上げた。
みとりは呆然とした顔を見せていると、つぅっと頬に一筋の涙が零れ落ちた。そのことに気付いたみとりは、慌てて服の袖で目元を拭い取るが涙が溢れて止まることはない。
遂には嗚咽を零して泣き始めたみとりに、さとりは狼狽した。何がいけなかったのか、美味しいと言ったことは駄目だったのか。やはり何も言わない方が良かった。彼女は泣き止まず、そして心を覗くことはできない。やっぱり何も喋らないことが正解だったのではないか。やっぱり彼女は他の皆と同じように自分のことを嫌っていたのではないか。思考が悪い方へ、悪い方へと傾いていく。
皆が気遣うように、みとりの傍に集まる様子を見て、さとりは強い眩暈を覚えた。
そして急に気分が悪くなって、胃液が込み上げてきて、料理を全て吐き出してしまった。床に落ちる未消化の吐瀉物、勿体ないと思いながら机に手を置くと全身から力が抜けるのを感じた。
体が崩れる、地面に落ちる。食器を巻き添えに、美味しい料理が地面にぶち撒けられる。勿体ない、本当に勿体ない。
薄れゆく意識の中、さとりが見たのは、蒼白となった顔で目を見開く、みとりの姿だった。
◆
目覚めたのは寝室だった。
看病をしてくれていたのは燐で、良かった、と安心や心配でたっぷりの愛情を寝起きの自分に与えてくれた。
飼い主の目覚めを燐が皆に伝えると、屋敷中のペットが寝室に集まってきた。皆、考えていることは似たり寄ったりで、良かったね、安心した、とか単純な感情ばかりだ。
動物は単純で良い、複雑怪奇な思考をする人間よりも遥かに分かりやすい。直球な想いに、さとりの心も満たされる。
その中で、ふとみとりの姿がないことにさとりは気付いた。
そのことをさとりが問うと、燐は憂鬱そうに顔を俯かせて告げる。
「みとりは地霊殿を出ていきました」
「……そう」
口から出たのは素っ気ない言葉、しかし心への衝撃が思いのほか大きかった。
別に仲が良かった訳ではない、あまり話もしてきたわけでもない。ただ嫌いじゃなかった、好きかどうかはわからない。しかし、みとりの料理は美味しかった。他では味わえない温もりがある。温もり、はて、どうしてそんなことを思ったのだろうか。みとりの料理は全てが美味しかった。特別に料理の腕が上手い訳ではない、それならば外食している方が遥かに上品で豪華な料理を食べられる。それでも、みとりの料理の方が惜しいと思ったのだ。最初から、そういう訳ではなかった。味が濃かったり、薄かったり、それがいつの間にか、適量になっていて――その光景を思い浮かべる。何処かで見た光景、嘗て、よく自分が立っていた場所だ。
ペットの好みの味に合わせるのは大変で、でもそうすると皆が喜んでくれるから手間を惜しまずに作り続けた。その立ち位置は今や、みとりが立っていて、でもそのみとりはもう居なくなった。
取り返しの付かないことをした、どうしようもない間違いを犯した。
「さとり様?」
気付けば拳を握り締めていた、下唇を噛みしめていた。目尻から涙が零れるのも気にしていられなくて、ただ自分の不甲斐なさを呪った。
第三の目がなければ、何も気づくことができない自分の愚かさを強く強く呪った。第三の目がなくても、もっとしっかりと二つの目で見ていれば気付けたことだ。気付けなかったのは彼女を避けていた自分のせいだ。
ボロボロと零れる涙、嗚咽を押し殺し、ただ只管に自分を責める。馬鹿だと、大馬鹿だと、地底一の大馬鹿者だと、自分自身を罵った。
鉄の味がする唇を噛み切ったようだ、しかし気にしている場合ではない。
脅える燐にさとりは指示を出す。
「みとりを探すわよ」
「……はいッ!」
その時の燐は、とても清々しい顔を浮かべていた。
◆
河城みとりは独りぼっちだった。
河童と人間の混血児である彼女は、人間からは妖怪もどきと疎まれて、妖怪からは人間もどきと嘲られた。
石を投げつけられることは日常茶飯事、妖怪相手に暴行を受けることも少なくない。だから生きるためには強くなるしかなかった。自分を虐める奴らには、私は危険だぞ、と訴えるように暴れまくった。手を出せば、自分が傷つく可能性があると相手が悟った時、パタリと暴行は止んで、そして陰湿で執拗な嫌がらせが始まるようになる。
例えば、隠れ家に糞が投げ込まれたり、保存していた食料に尿がかけられたり、寝床の枯れ草に虫を仕込むのは朝飯前だ。木の上で寝ている時に枝ごと落とされたこともある、大事な生活道具を肥溜めに捨てられたことだってある。とはいえやられっぱなしだったわけではない。仕返しをしたことはある、隠れて奇襲を仕掛けたこともあった。そうしている内に、何時しか命すらも狙われるようになり、討伐隊を組まれて集団で襲われることもあった。
生きることが難しくなり始めた頃合い。みとりは新天地を求めて、後ろ指を指されながら地底に降りた。
仲間なんて求めない、せめて誰も手出しをしてこないことだけを祈ったのだ。
その時には、周り全てが敵のように思えた。
だから差し伸べられた手を払った。鬼も土蜘蛛もおかまいなく、自分は危険な奴だと知らしめるために全てを拒絶した。
結果、星熊勇儀を相手に情けなくと打ち倒され、地霊殿に引き取られることになる。
地霊殿の主である古明地さとりは、想像していたのとは違っていた。
疎むのでもなく、避けるのでもなく、ましてや嘲ることもせずに脅えたのだ。危険な奴だと思われることはあっても、みとりは強い妖怪ではない。むしろ弱い部類に入る妖怪であると云える。
なんとなしに彼女からは、自分のことを嫌うような真似をしないと思ったのだ。
臭いと呼べば良いのだろうか、彼女は皆から好かれることを諦めているような雰囲気を感じ取れてしまった。嫌われて当然、そんな空気がみとりの心を揺らがせた。ペットは居るが独りぼっち、ペット以外には心を開けないような寂しい奴。
それが初対面でみとりが感じた、さとりの印象である。
その晩、さとりが料理を作ってくれた。
初めて他人が作ってくれた料理を口にすることに戸惑い、そして他人が作ってくれた料理の美味しさに感動を覚えた。つい言葉を発することもできず、次から次に料理を口に運んだ。
さとりは終始、自分のことを訝しげな顔で観察し続けていた。
暫く地霊殿に住まわせて貰うことになった。
地霊殿に住まわせてもらっている以上は仕事をしなくてはならない。働かざる者食うべからず、という訳ではないが、今まで独りで生きてきたみとりにとって、誰かの世話になり続けるだけというのは我慢ならなかった。しかし地霊殿の仕事が何なのか分からなかったみとりは、とりあえず家事全般をすることに決めたのだ。人化できる妖怪が少ない地霊殿にとって、大きな館である地霊殿の掃除などは意外と重労働で手が回らない。燐は喜んで、みとりに家事を教え込んだ。
何をするにしても、みとりは器用で覚えが良かった。三日もすれば、大体のことはできるようになったし、よく分からないことは素直に聞き直してくる。例えば、この部屋は掃除しても良いのか、とか、ここは触れても大丈夫なのか、とか、その姿勢に燐は喜び、優秀な後輩の出現にとてもよく可愛がった。幸いにも料理は最初から基本はできていた。といっても鍋を煮込んだり、食材を刻んだりする程度だが、それだけでも燐の教えることは少なくなった。元より燐は料理は上手ではない、何故ならば、何時もさとりが料理を作ってくれるためだ。手伝い程度の技術はあっても、献立を決めるとなれば難しかった。
ここでみとりは試行錯誤を始める。料理本に齧りつき、最初は寸分たがわずに調味料を計ったりする。しかしペット達には不評だった。さとり様はもっと甘かった、辛かった、塩が足りない、醤油が多すぎる、等々、余りにも纏まりのない多種多様な意見にみとりは眩暈を起こした。その容赦ないペット達の感想に燐は気まずそうに「さとり様って、相手によって味付け変えてるんだよね」と告げる。ちなみに燐は、美味しいと思うけど、と前置きした後に、もうちょっと砂糖が欲しいかな、と教えてくれた。
さとりの代わりとして台所に立っている以上は、さとりと同じ、いや、それ以上の料理を作る必要があるとみとりは考えた。
そして、数ヶ月以上にも渡る奮闘を送ることになるのだ。
食事を終えた後は必ず、ペットに意見を求める。
メモ帳に一匹一匹の好みを個別に書き込んで、そして少しずつ彼等の好みに近づけていくのだ。そうしていく内に辛いもの好きや、しょっぱいもの好きと幾つかのグループに分けることができることを知り、更に云えば、相手によってメニューを変えることも行ってきた。途中で相手の好きな料理ばかりを与えていれば、栄養が偏って不健康になってしまうことに気付いたみとりは、栄養バランスまで考えてメニューの考案を始める。
ざっと一週間後までまとめたグループ別のメニュー表、ゾンビ妖精に必要な食材のメモを渡して買い出しに行かせた。
ここまで小慣れてきた頃にはペット達の評判も変わり、まるでさとり様のようだ、という評価を頂くことができた。これがペット達にとっての最強評価であり、さとり以上という評価はついぞ頂けなかった。そのことに悔しさは感じられず、むしろ微笑ましく感じた。
ペット達に愛情をたっぷり注ぐさとりを思い浮かべると、つい頬が弛んでしまうのだ。
さてペット達の最高評価を頂いたが、まだ難敵が残っている。
それはさとりであり、彼女から美味しいの言葉を一度も頂けていないのである。口元を綻ばせることも黙々と食事を摂るさとりは美味しいのか不味いのか分からない。それでも食事を口に運ぶ早さや、一度に運ぶ量といった些細な情報から彼女の好みに合わせようと試みる。水を飲む量が多ければ、調味料を減らし、さりげなく彼女の傍に醤油などを置いて、調味料を足したりしないのか観察する。
ここに来て、みとりは居場所を手に入れた。そのことに、みとりは深く感謝していた。だから、さとりに喜んでほしかった。美味しい料理を食べて欲しいと思った。
さとりは気に留めてもいないと思うが、誰かに料理を作って貰えることは幸せなのだ。あの時に味わった幸せを少しでも良いから返したい、そう思ったからさとりに喜んでもらえるように料理を作った。たっぷりの愛情を注ぎ込んだ。さとりのことだけを考えて作った料理である。
自分を受け入れてくれたおかげでみとりは独りではなくなった。だから、さとりに自分が居ると教えたかった。
疎まれているのは分かる。会話も成り立たない、皆はさとりが心を読めると云うが、自分にはそのようには思えなかった。心当たりはある。周囲を拒絶し続けることで目覚めてしまった能力がある。
“あらゆるものを禁止する程度の能力”
元々は相手に対して自分に干渉することを禁止する、一方通行の能力だった。それがきっと、さとりの能力を阻んでいる。
想いを言葉で伝えることは簡単だ。しかし、恐らくだが、さとりは言葉だけでは信じない。同じ独りぼっちだからこそ分かることがある。さとりはきっと自分に対して人間不信に陥っているはずなのだ。確信が持てないから信じることができない、しかし確信を持つ手段がない。周り全てが敵だと感じていた時、自分も似たような状況に陥った時がある。
だから行動で示そうと考えた。目一杯の愛情を振り撒けば、何時か信じて貰えると思って続けた半年間である。
まるで進展する気配を見せないさとりに、みとりの心は擦り切れていた。
やっぱり自分は嫌われているのだろうか。そんな考えがよぎるのは仕方ない、さとりの態度は日に日に悪くなっていた。近頃では言葉を交わす事すらも嫌がられているようである。地霊殿に自分の居場所があると考えたのは間違いだったのか、最初から自分は独りぼっちにしかなれなかったのか。どうして、自分はこんな能力を持ってしまったのだろうか。相手を拒絶するための能力、これさえなければ、さとりの態度はもっと良かったのかもしれない。いや、むしろ、心を見られたら、もっと嫌われていたかもしれない。心を読まずとも、そういうところをさとりは察していたのかもしれない。
独りではない、燐がいる。ペット達がいる。しかし、地霊殿の主であるさとりに嫌われてはここには居られなかった。
「ここを出て行こうかなって、ちょっと思ってる」
そのように相談した相手は燐だった。
燐は慌てた様子で思い直すことを提案し、あたいがさとり様に問い詰めてきてやる、と部屋を飛び出してしまった。
いや、しかし、もう疲れたな。疎まれ続けるのは辛い、でも、それは憎いとか怒りとかそういったもので、疎まれることを悲しいと感じたのは此処に来てから初めてだった。
部屋に戻ってきた燐の話は頭に入って来ない、何時頃に出て行こうかなとぼんやりと考えていた。
日課というのは侮れないもので、上の空になりながらも料理を作った。
この時も皆の味の好みに合わせて、料理を作ってある。もう皆の好みは覚えている、分からないのはさとりだけだ。何時も、じっと相手の様子を窺っていたが、今日この時に限っては、さとりの顔を見る気にはなれなかった。正直なことを云えば、今すぐに席を立ちたい。しかし、燐に居るように言われたから、大人しく席に座っている。
そういえば、初めてさとりが料理を作っていた時に、さとりが訝しげに自分のことを見つめていたのを思い出した。あれはきっと相手が美味しいのかどうか確認していたのだろう、今なら分かる。あの時はまだ自分に嫌悪は抱いていなかった、しかし今となってはもう遅かった。
重い空気、重い食卓、誰も喋らず、食器の音だけが部屋に響いた。
もう耐え切れない、その時だ。
「……美味しい」
ポツリと零れた言葉、思わず顔を上げた。
嘘だろうか、聞き間違いじゃないだろうか。燐を見ると、彼女が黙って頷き返してくれたのを確認して、ポロリと涙が零れた。
良かった、頑張ってきて良かった。
これ以上の至福の時はないと思った、溢れる涙が止めらず、ボロボロと情けない程に涙が流れ出た。
そして、次の瞬間、
さとりは食事を吐き出した。そして、そのまま料理と一緒に地面に倒れてしまった。
何が起きたのか分からなかった。
ペット達や燐、空がさとりに駆け付ける中、自分だけが立ち往生したまま身動きが取れない。
震える体、もしかして自分の料理がさとりを傷付けたのか。それとも何か料理に間違ったものを入れてしまったのか。
今日は上の空だった、どんな風に料理を作ったのか覚えていない。
美味しいと言ったのはなんだったのか、嘘だったのか、最初からそんな言葉なんてなかったのか。
自分は取り返しの付かないことをしてしまった。
燐が肩に手を乗せて、必死に何かを呼び掛けているような気がするが声が聞こえなかった。
もう誰にも触れて欲しくなかった。もう誰も自分に関わって欲しくなかった。
気付いた時には地霊殿の外を走っていた。
◆
さとりは必死に走っていた。
何処を探せば良いのか分からない。半年間も一緒に居て、彼女のことが何一つも分からなかった。
しかし探さなくてはならない、見つけ出さなくてはいけない。こんな私のことを彼女は愛してくれたのだ。何処か分からないけども必死に走った、破れかぶれになって走り続けた。地底界きっての引き籠りの体力は長く持たない。直ぐに息が上がったが、それでも頑張って走り続けた。もう全身の穴という穴から液体を溢れさせて、それでも頑張って走ったのだ。最早、一般人の歩行速度よりも遅くなっても、さとりは走り続けたのである。
息を切らせて、当てもなく、最早、まともに体が動かなくなっても、頑張って足を動かし続けた。
視界に白い靄がかかり、周りが見えなくなったところで何かにぶつかった。
「おお、さとりじゃないか。こんなところに来るなんて珍しいな」
聞きなれた声、旧地獄街の喧嘩番長、星熊勇儀が少し困惑した様子で尋ねる。
さとりは彼女の服にしがみつくとありったけの声を張り上げた。
「み゛どり゛がァ……ッ! い゛な゛ぐなっだの゛よ゛ォ……ッ!!」
恥も外聞も投げ捨てて、さとりは声を荒げて、勇儀を似た見つける。
「……ざがじでッ!!」
この一大事に勇儀は小さな地霊殿の主に胸を叩いて応える。
任せろ、と。
◆
旧地獄街は大騒動となっていた。
地底界に住む妖怪という妖怪が束になって、みとりを探し始めていたのである。
このことにみとりは驚き竦み、そして暗い暗い洞窟を見つけると奥深くに逃げ込むと、耳を塞いで息を殺すと小さく身を丸めた。
独りで生きることしか知らなかった彼女は、地霊殿に来て誰かと生きることの意味を知ってしまった。地上に居た時と比べると、みとりは孤独に対する耐性が大きく損なわれている。
そして、みとりの心には未だに周囲から虐められることに対するトラウマを抱えていた。
何故、こんな事態になっているのか分からない。もしかすると、さとりのことが旧地獄街に広まったのかもしれない。そのせいで皆から追い回されているのだろうか。分からない、分からない、何も分かりたくない。もう自分には誰も関わらないで欲しい。もうあの頃のような生活には戻れない、戻りたくない。
塞ぎ込む、強く塞ぎ込んだ。無差別に、無意識に、みとりの能力は発動して、周囲全てを洞窟から拒絶する。
洞窟の外では既に妖怪が侵入しようとしたが、全て弾き返されている。
地上で河城みとりが必要以上に疎まれていたことには理由がある。
それは彼女の能力があまりにも危険で強力だったためだ。あらゆるものを禁止する程度の能力、それは最早、概念に干渉するもので、この能力を受けた妖怪の中で生活に支障をきたす者が現れたのだ。みとりが望んだのは洞窟に入らないことだ。どの洞窟と指定しなかったがために、その妖怪はありとあらゆる洞窟に入ることができなくなった。
そして、その妖怪が洞窟に生活圏を築く、河童だったことが致命的であった。
ただの混血児は、幻想郷の秩序を脅かす凶悪な妖怪と定められて、幻想郷中で指名手配されたことをみとりは知らない。中でも躍起になったのは妖怪の山の妖怪であり、面子が潰されたとして血を眼にしてみとりを追い立て、昼夜問わずに襲撃する。
それで止む無く、みとりは地底へと逃げ延びることになったのだ。
その強力無比の能力は鬼すらも突破を許さない、ただの鬼であれば弾き返す。
「みぃとりぃぃッ!!」
しかし、それがただの鬼であればの話だ。
大鯰の地震を彷彿とさせる揺れに、みとりは飛び起きた。そして洞穴の入口の方を見ると、嘗てみとりを殴り飛ばした星熊勇儀の姿があった。
みとりは立ち上がる、そして勇儀を敵意に満ちた目で睨み付ける。
「全く変わってないじゃねぇか、この野郎」
勇儀は不敵に笑って、大盃の酒を煽る。
「今から洞窟から引きずり出してやる、好きに抵抗してみろ」
そう言いながら、一歩、踏み込んだ勇儀、そして二歩目が動かない。
それなりの力を込めても動かない体に勇儀は首を傾げる、そして目の前の河童から禍々しい妖気が解き放たれているのが分かった。
幻想郷全てから疎まれて、畏れられた妖怪。河城みとりが目の前の障害を拒絶する。
勇儀は楽しそうに笑うと力尽くで彼女の能力を引き剥がした。
◆
地底界、全てを揺るがす地震が鳴り響いた。
一度、二度、そして三度――四度、五度、三歩を超える衝撃に誰も洞窟に近づこうとする者はいなかった。むしろ地底界が持つかどうかの衝撃である。地底の妖怪達が騒然とする中で、漸く辿り着いたのは息絶え絶えのさとりだった。呼吸をするのも苦しい状態、倒れているところを空に救出されて、ここまで担がれてきたのだ。
さとりはゆっくりと地面に降ろされると、時折、訪れる地震の衝撃に体勢を崩しながら洞窟に歩み寄った。
地底界でも嫌われ者のさとりであったが、この時ばかりは周囲の妖怪も彼女の安否を気遣って呼び止めた。
しかし、さとりは意にも介さずに足を進める。
その聞く耳持たない様子に、つい肩を叩こうとすると、さとりは力一杯に手を払いのけた。
「私の邪魔をしないでッ!!」
地底界では弱い方とされる妖怪、その覚妖怪の気迫に周囲の妖怪は気圧された。
そして、また地震が鳴り響く、さとりは舌打ちを鳴らすと洞窟の方に振り返って、みとりのいる方へと向かって行った。
もうさとりを呼び止める者は居らず、ふらつく体に不安を覚えながら、その小さな背中を見送るのだった。
◆
星熊勇儀は苦戦していた、みとりの能力を突破できずにいる。
どれだけ踏み込んだとしても、みとりの禁止する能力が働いて、無理矢理に攻撃を逸らされるのである。
まるで磁石同士が反発するように、勇儀が全霊で振りかぶった拳は、みとりに近づけば近づくほどに横へと逸れて行った。
攻略法がないわけではない、しかし、その手段を勇儀は選ばない。
多少なりとも力で対抗できている事実がある以上、勇儀に分がある。
であればこそだ、勇儀には真正面から打ち破る矜持がある。
相手が消耗しきる前に、絶対に殴り飛ばしてやると盃を片手に力を籠める。
勇儀が闘志を漲らせている一方で、みとりは事態がよく分かっていなかった。
怖い人が洞窟に入って来たと思ったら、急に喧嘩を吹っ掛けて来たのだ。相手が襲ってきたから対処にしているに過ぎない。
そして、ふと思ってしまったのだ。なんで自分は抵抗しているのだろうか、と。
勇儀の拳は自分なんかを簡単に殺せてしまう程の代物であり、彼女の気質から惨たらしく殺されることもこともない。
きっと一思いにやってくれるに違いない。
どうせ、もう自分の居場所は何処にもない。何よりも怖いのは、独りで生き続ける事だった。
次の瞬間、勇儀の拳がみとりの胴体を打ち抜いた。
そのまま洞窟の天井に叩きつけられて、地面に跳ね返った。普通では味わえない衝撃に、みとりは血反吐を吐きながら身を丸める。どうして死んでいないのか理解できない。
その一方で勇儀は、急に抵抗がなくなったことに驚きを禁じ得なかった。胴体を綺麗に打ち抜いた拳を見つめる、そしてゆっくりと地面に蹲るみとりを見た。辛うじて、みとりを殺さずに済んだのは、違和感に気付いた時に拳を引いたためだ。それでも拳の半分以上がみとりの体にめり込んだし、その余波だけでみとりの体は吹っ飛んだ。
そうじゃない、そこじゃないのだ。重要なのは、どうしてみとりが急に抵抗を止めてしまったのか、だ。
苦しそうに嗚咽を零すみとりを、勇儀は暫し呆然と眺めるほかになかった。
「みとりッ!?」
そして驚きに声を荒げたのは、洞窟の中まで入り込んでいたさとりだった。
「勇儀……ッ、く……ッ!」
さとりは勇儀には一瞥するだけで、地面に倒れるみとりに駆け寄ると、その体を優しく抱き寄せる。
慌てて勇儀もみとりの様態を確かめようとしたが、それをさとりが手を上げて制する。
「分かっています。だから、その……今は近付かないでください。貴方が悪くないことは、もう視ました……今の私は貴方を許せない、分かっています。貴方は悪くない、感謝しています。だから、今は、ごめんなさい。……後は私達に任せてください」
さとりが冷たく告げると、遅れて燐と空が駆けつけて来た。
洞窟にさとりを連れて来た後で、どうすれば良いのか分からなくなった空は燐を呼びに行っていた。そして今、洞窟まで二人で追いついたのである。
これだけ居れば人手は足りるか、と判断した勇儀は無言で頭を下げると静かに洞窟を出た。
酒は頗る不味かった。
◆
「私には貴方のことが分からない……」
洞窟に取り残されたさとりを想いを漏らした。
みとりの状態が重傷なのは見てわかる。故に燐は早く医療施設に連れ込むことを提案しようとしたが、肝心のさとりがこの場から動こうとしなかった。ここで何があったのか燐には分からない、想像するしかない。だから、急いでください、と燐は心の中だけでさとりに告げる。
さとりは無言で微動だにしなかったが、承諾してくれたような気がした。
「私には貴方の心を読むことができない、だから分からない……」
さとりは視ている。勇儀が拳を放つ瞬間に抵抗を止めてしまったことを、まるで生きることを止めた時のように力ない笑みを浮かべていたことをさとりは知っている。だから、さとりには分からない、どうして自分から死を望むような真似をしたのか、さとりには想像すらもできなかった。
「…………………」
血反吐塗れのみとりが小さく口を動かした。
それは二文字、それが何を意味しているのか燐には直ぐに察することができた。それはまるで脈絡のない言葉、しかし燐は歯を食い縛って堪える。もどかしかった。
さとりにはその言葉が届いていないことがもどかしかった。必死に読み取ろうとしているけども、彼女には届かない。
みとりは心なしか、困ったような表情を浮かべると瞳だけを動かして燐を見つめる。
「……さとり様、みとりの口元に耳を近づけてください」
燐に言われるがまま、さとりはみとりの口元に顔を近づける。
「…………す……き……」
唖然とした顔をするさとり、燐を見て、空を見て、そしてみとりを見た。
みとりは静かに目を伏せると小さな笑みを浮かべる。
「お燐、お空ッ! みとりを連れていくわよ、急いでッ!! 絶対に死なせないでッ!」
その言葉で二人は飛び出すように、みとりを抱えて洞窟の外へと出て行った。
取り残されたさとりも二人の後を追いかける。
無論、全力疾走でだ。
◇
ところ変わって地霊殿、
旧地獄街を巻き込んだ騒動から三日が過ぎて、さとりは久しぶりに料理作りに勤しんでいた。
ペットの好みは理解している。完璧に丁寧に手間と愛情を込めて、作り上げる。半年のブランクはあれども、その程度のさとりの腕が落ちることはない。
それだけ、さとりは地霊殿の家事を続けて来たのだ。ポッと出の家政婦とは年季が違うのである、年季が。
何時ものようにペットに囲まれての食卓、しかし、この時、少し可笑しなことが起きた。
――さとり様、腕落ちた?
その言葉に、さとりは手に持っていたフォークを落とした。
一匹だけであれば、気にすることはなかったかもしれない。しかし、この時はペット全員が揃いも揃って、何時もよりも美味しくない、と告げるのだ。
狼狽えるさとりに事情を把握しているらしき燐が苦笑している。
その心を読み取るとすぐに答えが分かった。
――申し訳ありませんが、みとりの方が美味しいです。
――どうして、今日はみとりじゃないの?
――ねえねえ、みとりの料理は何処?
――さとり様の料理も美味しいよ?
――うん、さとり様も美味しい! 大丈夫!
燐の心の声に続くようにペット達が次々にみとりを賞賛し始めたのである。
いや、まさか、いやいや、まさか。心が読めて、完璧に好みを把握している自分がみとりに料理で負けるというのか。
信じられない現実に、空の心の声が響いた。
――仕方ないよ、さとり様は半年も作ってなかったんだから。
その気遣いがさとりの心を打ち砕いた。
◇
溜息交じり、食事を終えたさとりは再び台所に立っていた。
先ほどまでの料理とは違って、今度はとろっとろに煮込んだ粥である。今度こそは美味しいと云わせるために、それはもう気合を入れて作った自信の一品、熱々の土鍋を盆に置いて鼻唄交じりに台所を出る。
そして目的の部屋まで訪れると、ノックを三回、返事を待たずに扉を開いた。
中は個室で、ベッドの上には全身を包帯で固定された河童が寝かされている。
「……食事を、持って来たわ」
まだ彼女と話すことには慣れていない。
それでもさとりは勇気を振り絞って、彼女の傍らに腰を掛ける。
みとりはあまり喋らない、肋骨が砕けているせいで喋るだけでも痛みが伴うそうだ。
それでも、にっこりと笑って感情を表現してくれようとする。
こんな状態の彼女でも心を読むことはできなかった。
「今日の御粥はね、うん、私の自信作よ」
拙い言葉使い、それでも少しずつ慣れていきたいと思った。
彼女のことをもっと知りたいと思っている、これ程までに他人に興味を持ったことは――あるとすれば、こいしくらいか。しかし彼女は考えていることが分からないというよりも、そもそも考えていることがないのだから知りようもない。
目の前には心が読めない存在がいる、何を考えているのか分からない存在がいる。そんな貴方の考えていることが今は知りたくて仕方ない。みとりは微笑みながら、じっとさとりのことを見つめている。彼女も自分のことを知りたがっているのだろうか、だとすれば少し嬉しい気がする。そして同時に少しだけ思っちゃうのだ、彼女に心を読む能力がなくて良かった、と思ってしまうのだ。
覚妖怪が皆から嫌われると云うのは、こういう意味なのだろうかと少し考えてしまった。
だから、こいしも心を閉じてしまったのだろうか、とも。
「………………」
みとりが口をパクパクと開閉する、どうやら食事を催促しているようだ。
甘えたがりの河童に苦笑を零しながら、さとりは粥を匙で掬って、ふーふーと息を吹きかける。心が分からないから、熱いかどうかも微妙な匙加減が分からないから念入りに冷ました。そして、ゆっくりとみとりの口元に持っていくと、彼女は嬉しそうに喰らい付いた。じっくりと咀嚼した後に、こくりと喉を鳴らしてみせる。この時、彼女は顔を顰める。
やはり痛いのだろうか、心配して見つめていると彼女はにっこりと笑い返してみせる。
「…………おい、しい……よ」
言ってから彼女は眉間に皺を寄せる。やはり痛かったのだろう。
「こんなことを伝えるために痛がるなんて馬鹿のすることね」
そう告げると、みとりは首を横に振ってみせる。そして、じっとさとりを見つめてくるのだ。
「……そこまでして、えっと、伝えたい……ことだったのかしら?」
恐る恐る問うてみると彼女は嬉しそうに首を縦に振ってみせる。
さとりは溜息を零しつつ、つい口元が弛むのを抑えきれなかった。
「痛かったら御飯も無理して食べなくても良いのよ?」
そう問うと、みとりは口元をパクパクと開閉させる。
これは次を寄越せという合図だ、まるで雛鳥に餌を与えている気分だと思いながら粥を食べさせる。
この食事を食べさせる時間が、今の二人の語り合いの時間になっている。
「自分のことを大切にしなさい。皆、悲しむわよ。貴方はもう地霊殿の一員なのだから」
そう伝えるとみとりは神妙な顔で頷き、そして、さとりは切り替えるように華やかな声で話し始める。
「そういえばね、さっき食卓を囲んでいた時にペット達に食事を与えるとね――――――」
それはとても尊く感じられる一時だった。
しかしこのさとりんメンタル弱いなぁw拗ねちゃうところはとても可愛かったですけども。勇儀ですら手こずるほどの強力さはさすがのPhantasmキャラでしたね。こいしちゃんの能力が封じれるのかが気になるところです
互いに初めて出来た対等な人間もとい妖怪関係がこれから深くなっていくのをきっかけに、彼女たちを取り巻く関係も変わっていけば、いつかは隔たりもなくなるかもしれませんね
とても暖かい気持ちになれて楽しめました、ありがとうございました
誤字脱字報告にて終わります↓
それだけ熟睡しているかだと結論付けた→いるから?
今まで素知らぬ顔を続けていたさとりの心を強く突き刺さった→さとりの心に?
気付かべ拳を握り締めていた→気付けば?
鬼も土蜘蛛もおかないなく→おかまいなく?
さしげなく彼女の傍に醤油などを置いて→さりげなく?(私の知識不足だったらごめんなさい汗)
まだ彼女の話すことには慣れていない→彼女と?(作中喋るのが困難な様子だったのが理由ですが、こちらも私の知識不足でしたらごめんなさい汗)
さとりが可愛らしかったです
好きです。素敵な作品をありがとうございました。