ふ、と何かが視界の端を過ぎていくのを感じ、東風谷早苗は足を止めて後ろを向いた。霧雨と吐く息とで白く煙った視界に映るのは、仄かな明かりと並んだ露店、そして境内を行き交う人々だった。
年も明けて、少しずつ雪の降る日が減ってきていた春の始まりに、博麗神社の巫女は縁日をやろうと企画した。元々決まっていたわけではなく、完全に思い付きである。それを不敬である、怠惰であると憤慨することが無くなるほどには、早苗も幻想郷の空気に染まっていたわけだが。
だが幻想郷の巫女はそんなことは気にも留めていなかったし、事実とんとん拍子に事が運び、こうして沢山の人を集めることに成功していた。もし世が世ならば英傑になっていたかもしれないと早苗は感じたが、どうでもいいかと頭を一度横に振る。親代わりの二柱が完全に客として出店を愉しんでいたのを見ながら、参道を一歩外れ、森の中へと足を向けた。
先程まであった光や温もりは消え、代わりに雨に濡れてしっとりとした闇が、ひやりとした感覚と一緒に早苗の身体を撫でていく。昔の自分ならば、きっと身体を縮こまらせていただろう。不思議と闇を楽しむことが出来る自分が可笑しくて、妖怪のように笑った。
ひとしきり笑った後に、早苗は目を閉じると深く息を吐き、ふわりと浮かび上がる。祭りを楽しんでいる人々に気づかれぬように浮かんだ早苗の眼下には、雨で滲んだ光が輪になって連なっている。その光景が早苗はいっよう好きで、その胸に甘い、じわりとした痛みを与えた。
子供の頃、両親に連れられて行った夏祭りを思い出した。笑っていた両親。きっと自分も笑顔だったのだろう。あの時はただただ楽しかった。それが今は微かな痛みを胸の奥に与えることに、早苗は時間というものを感じた。
曇り空とまだ冬の空気が残る空は、墨を垂らしたように黒く蠢いている。きっと明日の天気もぐずつくだろう。そろそろ宴も酣かというところで、真っ黒な空を割る光の尾を見た。それは星をまき散らしながら、こちらへと近づいてくる。
星を出した魔法使いは、早苗を見るとにかっと笑う。その笑顔があまりに今の空模様と対照的で、早苗もつられて笑ってしまった。
眼下では、祭りに来ていた人々が何かを期待するかのようにざわついている。どこからか、紅白巫女の声も聞こえる。そのざわめきに呼応するかのように、再び早苗の胸に痛みが走った。だが、それはさっき感じた感情とは別のもので。それが早苗を幸福にさせた。
自分は、これからもこの甘い痛みを思い返すことが出来て、そして新しい、暖かい痛みにこれから出会っていくのだろう。それがたまらなく、嬉しいのだ。
雨の夜空を星の弾幕と、弾幕で形作られた星が行き交う。早苗は胸の痛みに、確かに幸福を感じた。