それは何時からだったのか覚えていない。
恋は落ちるものと誰かは言ったが、寅丸星の場合は気付けば恋をしていたのだ。
最初は勘違いだと思った、それは敬愛だと思い込むようにした。長年、過ごしてきたことによる家族の情だと決めつけた。
そして今は確信してしまっている、寅丸星はナズーリンのことを愛している。
恋愛という意味でナズーリンのことを愛しているのだ。
認めてしまえば気が楽になった、ナズーリンの一挙一動を追いかけるだけでも心が満たされる。
ナズーリンが隣に座れば気分が高揚する。胸の高鳴りを気付かれないか、少し怖い。それがまた心地よかった。
他者の機微には聡い彼女であったが、自分への好意に疎い彼女は心配そうに気を遣ってくれる。それがまた愛おしく想えるのだ。
それが千年前の話になる。
初恋を恋煩いのまま胸に収めていると、いつの間にか命蓮寺は滅亡していた。
妖怪退治の集団に攻め込まれる時、その寸前でナズーリンが私を命蓮寺から連れ出したのだ。
そして、そのまま妖怪退治によって、全て封印されてしまった。
真夜中、誰も使わなくなった小屋の中、傍に残ったのはナズーリンだけだった。
気付いた時には彼女を押し倒していた。
全てを失って気が動転していたのかもしれない、それとも周りに誰も居なくなったから箍が外れたのかもしれない。
聖という心の支えが失って自棄になっただけなのか、それは自分でもよく分かっていない。
確かなのは、ずっと前からこうしたいと考えていたことだ。
抑えてきたものが弾けただけだ。
私の下でナズーリンが驚きに目を見開いていた。
そして聡い彼女は状況を理解したようで、すぐに脅えるように身を竦ませてみせる。
何も言わずに、ぎゅっと目を閉じると下唇を噛み締める。僅かに布が擦れる音、それだけでナズーリンは身を震わせた。
何時もよりもか弱い姿に背徳感を覚え、そんな彼女に興奮しているどうしようもない自分もいる。
理性が呼び止める、本能が遮る。深層で駄目だと訴える。それでも襲いたいと思ってる。
呼吸が自然と荒くなった。
「君に……全てを委ねるよ……」
ナズーリンが震える声で囁いた。
未だ脅えるような眼で見つめて来る彼女、何時もは不敵に吊り上げられる笑みが、今はとても歪に見える。
それでも彼女は逃げ出さない、抵抗もしない。
「それだけのことを君にしたと思ってる……私のことは好きにしても構わない、それで気が済むのならば何をしてもいい……だからまた、いいや…………」
ナズーリンが自嘲するように笑ってみせる。
「初めてなんだ……優しくしてくれると、助かる……」
良い思い出にしたいからね、と目を伏せる彼女を見て、手を出すことができなくなった。
とても大事なものを失ってしまうような気がしたのだ。もう取り返しがつかないようなことをしてしまったと酷く後悔した、きっとナズーリンも自分の傍から離れるに違いない。どうせ嫌われるなら手を出しておけば良かったと考える自分が嫌だった。
それから、何時の間にか寝てしまっていたようで目覚めると外は明るくなっていた。
昨日まで居たはずのナズーリンの姿は来てしまっていた。仕方ない、昨晩、あれだけのことをしてしまったのだから。不思議と心は落ち着いていて、しかし気力が湧かず、これからどうしようかな、とぼんやり考えた。命蓮寺が消えてしまったこともまだ実感が湧かなくて、でも誰も居ないことだけは感覚で分かってしまっている。不思議と孤独感は感じない、まるで感覚が麻痺してしまっているようだった。そして思考はナズーリンに帰結する。未だ昨晩のことを惜しく思っている自分が下衆く感じる、だからこそナズーリンが居なくなってくれて良かったのだと思った。こんな有様では毘沙門天代理を続けることは無理だろう、こんな自分で命蓮寺の理念を引き継ぐこともできない。
ただの獣に帰るの良いか、そんなことを考えながら小屋の外に出ると、そこには見慣れた光景がった。
「おはよう、御主人。意外とよく眠れたようだ、あんな環境でも快眠できるなんて少し感心するよ」
少し言葉に棘があるのは気のせいか。しかし早朝、子鼠を相手に指示を出す姿は、何時も見る彼女そのもので何故だか目元が熱くなって仕方ない。
「御主人には、やはり私が居ないと駄目なようだね」
心なしか優しい声色、溢れる涙が止められずに膝から崩れ落ちた。
此処に来て、命蓮寺が滅んだことよりもナズーリンが傍に居てくれていたことの喜びで泣いているのだから救いはない。
ナズーリンが居てくれるだけで充分だと、それだけで満たされると心から思った。
だからこそ、ナズーリンを裏切ってはいけないと心に誓った。
それからナズーリンとの同居生活が始まる。
命蓮寺が滅亡したことは人間の間でも有名になっており、ほとぼりが冷めるまでは身を潜めようと人里から離れた場所に掘っ立て小屋を建てた。
毘沙門天の加護は弱まったが宝を引きつける能力は健在のようで、値打ちのありそうな物が小屋の近くに集まった。それを元手にナズーリンが人里で生活に必要そうな道具を調達してくる。それでも貧困生活を続けることに変わりない、薄っぺらい布団を二人で使うような日々だ。今でもナズーリンに対して、恋慕の感情を持っている。正直なことを云ってしまえば、時折、欲情してしまうこともあるのだ。それでも手を出したいとは思わなかった。
心なしか、ナズーリンとの距離は離れた。居心地が少しだけ悪い、それでもナズーリンが居てくれるだけで充分だと思った。命蓮寺に居た時のように快活な雰囲気ではないが、こうやって静かに大人しくしているのも悪い気はしなかった。時折、向けられるナズーリンの視線が顔色を窺うように警戒したものだったのは甘受する。
それでもナズーリンに居てくれるだけで幸せだった。
最初の冬越しの時、
薄い布団の中で二人、凍えているとナズーリンが身を寄せて来た。今まで手を触れることも躊躇っていたにも関わらず、ナズーリンの方から触れて来るのは驚きだった。
ナズーリンは顔を布団の中に隠してしまって、様子が窺えない。手首を取られると脈に親指を添えられる。
「……あの時は、気の迷いだった?」
問われる、あの晩のことは今の今まで話し合ったことはない。だから星は惚けることにした。
「さて、何のことでしょうか?」
「……どうして、あの時、あそこで止めたの?」
少し間を置いて、質問を重ねられる。
「質問の意味が、よく分かりませんね」
嘘を重ねる。
「……誰でも良かった?」
有無を言わせない質問の連続に星は息が詰まるような圧迫感を感じ取る、そして大きく息を吐いた。
「あの時は気が動転していたのは間違いありませんね」
「……そう、か」
少し残念そうにナズーリンは呟くと布団から顔を出して「君は私でも欲情するのか?」と上目遣いに問うてきた。胸が大きく高鳴った、するとナズーリンは「そうか、そうか」と心なしか満足げに頷いてみせる。
「君は私のことを好きにしても良い。何でもするよ、あの時からずっと心が辛いんだ……私は皆を裏切った、そして君を裏切らせた。だから私にお仕置きをして欲しい、罰を与えて欲しい。もう二度と信徒だと名乗れないように……私が卑しい鼠だということを教えて欲しいんだ」
ナズーリンの声が震えているのを感じとった。
手首に添えられた彼女の手に力が入る、怖がっているのだと思った。責任感の強い彼女のことだ、きっと今日まで命蓮寺のことで心を削ってきたに違いない。それに比べて自分は命蓮寺のことを忘れる日が増えた、きっとナズーリンとの共同生活に浮かれていたのだ。我ながら情けない、そして今も彼女が不安を打ち明けてくれていることに共感できていないのだ。
ナズーリンが自分のことを嫌っているわけではないと分かって、嬉しくてしょうがなかった。
「この体を傷付けてもくれても良い、首輪で繋いでくれてもいい。望むなら縛っても構わない、要望があるならば全て受け入れる。私の体は貧相だってことくらいは自覚している……だから、どうか私を…………」
どうして彼女は魅力的な提案ばかりをしてくるのだろうか。
ナズーリンに自分だけの傷を付けてやりたいし、遠くに離れないように首輪を繋いでやりたい。四肢を縛り付けて、全ての世話を見てやりたい欲もある。間違えているのは彼女の体が魅力的じゃないという点だ、寅丸星はナズーリンの存在全てを愛している。口五月蠅いを感じる時もある、そういうところも含めてナズーリンを愛しているのだ。どんな姿であったとしても、どんな風に変化していったとしても、ナズーリンがナズーリンである以上はナズーリンを愛し続けられる自信が星にはあった。
だからこそ、彼女を強く抱き寄せる。それ以上は何もしない。
「ナズーリンは温かくて気持ちいいですね」
「ご、御主人! これは違……ッ!」
「覚えています。ナズーリンはあの時、全てを委ねると言ってくれました。だから、これから毎晩、私に抱き締められてください。そして私の傍から離れないでください」
腕の中ですすり泣く声がした、聞こえなかったことにする。
それから気付けば幻想郷の結界にに巻き込まれて、人間と妖怪が完全な敵対関係になって身動きが取れなくなり、無縁塚に捨てられる子供の世話を続けたりした。
私達の子供も欲しいですね、と冗談交じりに呟くと、そっとナズーリンが距離を取る辺り、まだ駄目かと溜息を零す日々を送る。それは割と満たされる日常で退屈することがなかった。無縁塚で捨てられた子供は妖怪に育てられたこともあってか、人里に送り返した後も妖怪に対して無条件の嫌悪感を抱くことはなかった。それを千年間も続けている内に随分と妖怪に対しる偏見を少なくなったと思う。スペルカードルールが成立する程度には、人間と妖怪の関係は近くなった。
その全てが自分達の功績だとは思わない。でも少しくらいは貢献できたと思っても罰は当たらないと思う。
定期的にナズーリンを襲いたくなる周期があって、それを抑え込むのも難しくなり始めた頃合いだ。
ナズーリンが嘗ての同門であるムラサと一輪を連れて来た。そして聖の救出しようとナズーリンの方から提案してきた。
これには星も賛同して、その旨を一輪にも伝えに行った。
「正直なことを云うとね、ずっと前から御主人(の性欲)は限界に近かったんだよ。捨て子の世話をしていなかったら今頃、正気を保てていない。あれは苦肉の策だったんだよ」
ナズさんや、それはちょっと酷すぎるんじゃないかな?
なんやかんやあって、聖を救出して命蓮寺は再建する。
親も同然である聖がいる命蓮寺、まるで実家に帰ったような開放感に腑抜けていると、急にナズーリンの調子が可笑しくなった。それで様子を窺っていると私の様子が変わったことで、ナズーリンが寂しさを患っていることに気付いた。そんな風に思ってくれたことが嬉しくて、つい意地悪がしたくなった。なんせこちとら千年間もお預けを食らってきた身の上だ、ちょっとくらい虐めたところで罰は当たるまい。
ちょっと距離を取った時のナズーリンの拗ねた姿は愛しくて、話しかけてあげると嬉しそうに顔を綻ばせた後に不機嫌そうに顔を背けるのだ。なに、この子、私を殺すつもりなのだろうか。よろしい、全力で殺されにかかろうではないか。
千年間、私の心を弄んだ罰である。恋の恨みは恐ろしいのだ。
そうやって虐めていると遂にナズーリンが家出してしまった。
しかし全然辛くない。何故ならばナズーリンがずっと監視の鼠で自分のことを見張っているのだ。少し困ったことがあるとナズーリンがすぐに現れる。用事があると呼びつけるとすぐに駆け付ける。そして暫く、呼ばない日が続くとナズーリン自身が監視に来るようになる。いやはや、これだけ想い人に興味を持たれていることが嬉しくって仕方ない。むしろナズーリンからの愛を感じる、それに偶に会うのも悪くないもので、何時も新鮮さを感じられるのだ。何よりもナズーリンが何時もよりも素直になってくれるので、愛しさと可愛さが割り増しなのが最高である。
聖辺りは別居中のナズーリンのことを心配しているようだが、大丈夫。あの状態に関しては私が誰よりも熟知している。というよりも別居先が無縁塚と云う時点で全てを察して然るべきだ。ちょっと可愛すぎるでしょう、ナズーリン。
そんなナズーリンが私から離れられるはずがないのだ。
冬時、命蓮寺の縁側でナズーリンと一緒に茶を啜っている時のことだ。
ひっそりとナズーリンが身を寄せてくることに、嬉しさを噛み殺して気付かぬふりをする。
「冬になると何時も思い出すこと上がります」
脈絡なく星が口を開くと、「なんだい?」と少し頬を赤らめたナズーリンが目を細める。
「初めての冬越しの時にした約束、憶えていますか?」
「ああ、憶えているよ。御主人は嘘吐きだった」
「嘘吐きで云えば、ナズーリンもです。あの時の約束、片方は既に破られています」
思い返して、ナズーリンが少し気まずそうに顔を伏せる。その姿も愛おしくて仕方ない。星は余裕のある笑みを浮かべて、軽やかに告げる。
「改めて言いますよ、ナズーリン。決して私の傍から離れないでください」
呆気に取られるナズーリンに「せめて一つくらいは守ってくださいね」と付け加えると彼女は顔を真っ赤にして小さく頷いた。
でも、辛かったら何時でも帰ってきてくれて良いんですよ?
その言葉は口には出さず、心で想うだけに留める。
恋は落ちるものと誰かは言ったが、寅丸星の場合は気付けば恋をしていたのだ。
最初は勘違いだと思った、それは敬愛だと思い込むようにした。長年、過ごしてきたことによる家族の情だと決めつけた。
そして今は確信してしまっている、寅丸星はナズーリンのことを愛している。
恋愛という意味でナズーリンのことを愛しているのだ。
認めてしまえば気が楽になった、ナズーリンの一挙一動を追いかけるだけでも心が満たされる。
ナズーリンが隣に座れば気分が高揚する。胸の高鳴りを気付かれないか、少し怖い。それがまた心地よかった。
他者の機微には聡い彼女であったが、自分への好意に疎い彼女は心配そうに気を遣ってくれる。それがまた愛おしく想えるのだ。
それが千年前の話になる。
初恋を恋煩いのまま胸に収めていると、いつの間にか命蓮寺は滅亡していた。
妖怪退治の集団に攻め込まれる時、その寸前でナズーリンが私を命蓮寺から連れ出したのだ。
そして、そのまま妖怪退治によって、全て封印されてしまった。
真夜中、誰も使わなくなった小屋の中、傍に残ったのはナズーリンだけだった。
気付いた時には彼女を押し倒していた。
全てを失って気が動転していたのかもしれない、それとも周りに誰も居なくなったから箍が外れたのかもしれない。
聖という心の支えが失って自棄になっただけなのか、それは自分でもよく分かっていない。
確かなのは、ずっと前からこうしたいと考えていたことだ。
抑えてきたものが弾けただけだ。
私の下でナズーリンが驚きに目を見開いていた。
そして聡い彼女は状況を理解したようで、すぐに脅えるように身を竦ませてみせる。
何も言わずに、ぎゅっと目を閉じると下唇を噛み締める。僅かに布が擦れる音、それだけでナズーリンは身を震わせた。
何時もよりもか弱い姿に背徳感を覚え、そんな彼女に興奮しているどうしようもない自分もいる。
理性が呼び止める、本能が遮る。深層で駄目だと訴える。それでも襲いたいと思ってる。
呼吸が自然と荒くなった。
「君に……全てを委ねるよ……」
ナズーリンが震える声で囁いた。
未だ脅えるような眼で見つめて来る彼女、何時もは不敵に吊り上げられる笑みが、今はとても歪に見える。
それでも彼女は逃げ出さない、抵抗もしない。
「それだけのことを君にしたと思ってる……私のことは好きにしても構わない、それで気が済むのならば何をしてもいい……だからまた、いいや…………」
ナズーリンが自嘲するように笑ってみせる。
「初めてなんだ……優しくしてくれると、助かる……」
良い思い出にしたいからね、と目を伏せる彼女を見て、手を出すことができなくなった。
とても大事なものを失ってしまうような気がしたのだ。もう取り返しがつかないようなことをしてしまったと酷く後悔した、きっとナズーリンも自分の傍から離れるに違いない。どうせ嫌われるなら手を出しておけば良かったと考える自分が嫌だった。
それから、何時の間にか寝てしまっていたようで目覚めると外は明るくなっていた。
昨日まで居たはずのナズーリンの姿は来てしまっていた。仕方ない、昨晩、あれだけのことをしてしまったのだから。不思議と心は落ち着いていて、しかし気力が湧かず、これからどうしようかな、とぼんやり考えた。命蓮寺が消えてしまったこともまだ実感が湧かなくて、でも誰も居ないことだけは感覚で分かってしまっている。不思議と孤独感は感じない、まるで感覚が麻痺してしまっているようだった。そして思考はナズーリンに帰結する。未だ昨晩のことを惜しく思っている自分が下衆く感じる、だからこそナズーリンが居なくなってくれて良かったのだと思った。こんな有様では毘沙門天代理を続けることは無理だろう、こんな自分で命蓮寺の理念を引き継ぐこともできない。
ただの獣に帰るの良いか、そんなことを考えながら小屋の外に出ると、そこには見慣れた光景がった。
「おはよう、御主人。意外とよく眠れたようだ、あんな環境でも快眠できるなんて少し感心するよ」
少し言葉に棘があるのは気のせいか。しかし早朝、子鼠を相手に指示を出す姿は、何時も見る彼女そのもので何故だか目元が熱くなって仕方ない。
「御主人には、やはり私が居ないと駄目なようだね」
心なしか優しい声色、溢れる涙が止められずに膝から崩れ落ちた。
此処に来て、命蓮寺が滅んだことよりもナズーリンが傍に居てくれていたことの喜びで泣いているのだから救いはない。
ナズーリンが居てくれるだけで充分だと、それだけで満たされると心から思った。
だからこそ、ナズーリンを裏切ってはいけないと心に誓った。
それからナズーリンとの同居生活が始まる。
命蓮寺が滅亡したことは人間の間でも有名になっており、ほとぼりが冷めるまでは身を潜めようと人里から離れた場所に掘っ立て小屋を建てた。
毘沙門天の加護は弱まったが宝を引きつける能力は健在のようで、値打ちのありそうな物が小屋の近くに集まった。それを元手にナズーリンが人里で生活に必要そうな道具を調達してくる。それでも貧困生活を続けることに変わりない、薄っぺらい布団を二人で使うような日々だ。今でもナズーリンに対して、恋慕の感情を持っている。正直なことを云ってしまえば、時折、欲情してしまうこともあるのだ。それでも手を出したいとは思わなかった。
心なしか、ナズーリンとの距離は離れた。居心地が少しだけ悪い、それでもナズーリンが居てくれるだけで充分だと思った。命蓮寺に居た時のように快活な雰囲気ではないが、こうやって静かに大人しくしているのも悪い気はしなかった。時折、向けられるナズーリンの視線が顔色を窺うように警戒したものだったのは甘受する。
それでもナズーリンに居てくれるだけで幸せだった。
最初の冬越しの時、
薄い布団の中で二人、凍えているとナズーリンが身を寄せて来た。今まで手を触れることも躊躇っていたにも関わらず、ナズーリンの方から触れて来るのは驚きだった。
ナズーリンは顔を布団の中に隠してしまって、様子が窺えない。手首を取られると脈に親指を添えられる。
「……あの時は、気の迷いだった?」
問われる、あの晩のことは今の今まで話し合ったことはない。だから星は惚けることにした。
「さて、何のことでしょうか?」
「……どうして、あの時、あそこで止めたの?」
少し間を置いて、質問を重ねられる。
「質問の意味が、よく分かりませんね」
嘘を重ねる。
「……誰でも良かった?」
有無を言わせない質問の連続に星は息が詰まるような圧迫感を感じ取る、そして大きく息を吐いた。
「あの時は気が動転していたのは間違いありませんね」
「……そう、か」
少し残念そうにナズーリンは呟くと布団から顔を出して「君は私でも欲情するのか?」と上目遣いに問うてきた。胸が大きく高鳴った、するとナズーリンは「そうか、そうか」と心なしか満足げに頷いてみせる。
「君は私のことを好きにしても良い。何でもするよ、あの時からずっと心が辛いんだ……私は皆を裏切った、そして君を裏切らせた。だから私にお仕置きをして欲しい、罰を与えて欲しい。もう二度と信徒だと名乗れないように……私が卑しい鼠だということを教えて欲しいんだ」
ナズーリンの声が震えているのを感じとった。
手首に添えられた彼女の手に力が入る、怖がっているのだと思った。責任感の強い彼女のことだ、きっと今日まで命蓮寺のことで心を削ってきたに違いない。それに比べて自分は命蓮寺のことを忘れる日が増えた、きっとナズーリンとの共同生活に浮かれていたのだ。我ながら情けない、そして今も彼女が不安を打ち明けてくれていることに共感できていないのだ。
ナズーリンが自分のことを嫌っているわけではないと分かって、嬉しくてしょうがなかった。
「この体を傷付けてもくれても良い、首輪で繋いでくれてもいい。望むなら縛っても構わない、要望があるならば全て受け入れる。私の体は貧相だってことくらいは自覚している……だから、どうか私を…………」
どうして彼女は魅力的な提案ばかりをしてくるのだろうか。
ナズーリンに自分だけの傷を付けてやりたいし、遠くに離れないように首輪を繋いでやりたい。四肢を縛り付けて、全ての世話を見てやりたい欲もある。間違えているのは彼女の体が魅力的じゃないという点だ、寅丸星はナズーリンの存在全てを愛している。口五月蠅いを感じる時もある、そういうところも含めてナズーリンを愛しているのだ。どんな姿であったとしても、どんな風に変化していったとしても、ナズーリンがナズーリンである以上はナズーリンを愛し続けられる自信が星にはあった。
だからこそ、彼女を強く抱き寄せる。それ以上は何もしない。
「ナズーリンは温かくて気持ちいいですね」
「ご、御主人! これは違……ッ!」
「覚えています。ナズーリンはあの時、全てを委ねると言ってくれました。だから、これから毎晩、私に抱き締められてください。そして私の傍から離れないでください」
腕の中ですすり泣く声がした、聞こえなかったことにする。
それから気付けば幻想郷の結界にに巻き込まれて、人間と妖怪が完全な敵対関係になって身動きが取れなくなり、無縁塚に捨てられる子供の世話を続けたりした。
私達の子供も欲しいですね、と冗談交じりに呟くと、そっとナズーリンが距離を取る辺り、まだ駄目かと溜息を零す日々を送る。それは割と満たされる日常で退屈することがなかった。無縁塚で捨てられた子供は妖怪に育てられたこともあってか、人里に送り返した後も妖怪に対して無条件の嫌悪感を抱くことはなかった。それを千年間も続けている内に随分と妖怪に対しる偏見を少なくなったと思う。スペルカードルールが成立する程度には、人間と妖怪の関係は近くなった。
その全てが自分達の功績だとは思わない。でも少しくらいは貢献できたと思っても罰は当たらないと思う。
定期的にナズーリンを襲いたくなる周期があって、それを抑え込むのも難しくなり始めた頃合いだ。
ナズーリンが嘗ての同門であるムラサと一輪を連れて来た。そして聖の救出しようとナズーリンの方から提案してきた。
これには星も賛同して、その旨を一輪にも伝えに行った。
「正直なことを云うとね、ずっと前から御主人(の性欲)は限界に近かったんだよ。捨て子の世話をしていなかったら今頃、正気を保てていない。あれは苦肉の策だったんだよ」
ナズさんや、それはちょっと酷すぎるんじゃないかな?
なんやかんやあって、聖を救出して命蓮寺は再建する。
親も同然である聖がいる命蓮寺、まるで実家に帰ったような開放感に腑抜けていると、急にナズーリンの調子が可笑しくなった。それで様子を窺っていると私の様子が変わったことで、ナズーリンが寂しさを患っていることに気付いた。そんな風に思ってくれたことが嬉しくて、つい意地悪がしたくなった。なんせこちとら千年間もお預けを食らってきた身の上だ、ちょっとくらい虐めたところで罰は当たるまい。
ちょっと距離を取った時のナズーリンの拗ねた姿は愛しくて、話しかけてあげると嬉しそうに顔を綻ばせた後に不機嫌そうに顔を背けるのだ。なに、この子、私を殺すつもりなのだろうか。よろしい、全力で殺されにかかろうではないか。
千年間、私の心を弄んだ罰である。恋の恨みは恐ろしいのだ。
そうやって虐めていると遂にナズーリンが家出してしまった。
しかし全然辛くない。何故ならばナズーリンがずっと監視の鼠で自分のことを見張っているのだ。少し困ったことがあるとナズーリンがすぐに現れる。用事があると呼びつけるとすぐに駆け付ける。そして暫く、呼ばない日が続くとナズーリン自身が監視に来るようになる。いやはや、これだけ想い人に興味を持たれていることが嬉しくって仕方ない。むしろナズーリンからの愛を感じる、それに偶に会うのも悪くないもので、何時も新鮮さを感じられるのだ。何よりもナズーリンが何時もよりも素直になってくれるので、愛しさと可愛さが割り増しなのが最高である。
聖辺りは別居中のナズーリンのことを心配しているようだが、大丈夫。あの状態に関しては私が誰よりも熟知している。というよりも別居先が無縁塚と云う時点で全てを察して然るべきだ。ちょっと可愛すぎるでしょう、ナズーリン。
そんなナズーリンが私から離れられるはずがないのだ。
冬時、命蓮寺の縁側でナズーリンと一緒に茶を啜っている時のことだ。
ひっそりとナズーリンが身を寄せてくることに、嬉しさを噛み殺して気付かぬふりをする。
「冬になると何時も思い出すこと上がります」
脈絡なく星が口を開くと、「なんだい?」と少し頬を赤らめたナズーリンが目を細める。
「初めての冬越しの時にした約束、憶えていますか?」
「ああ、憶えているよ。御主人は嘘吐きだった」
「嘘吐きで云えば、ナズーリンもです。あの時の約束、片方は既に破られています」
思い返して、ナズーリンが少し気まずそうに顔を伏せる。その姿も愛おしくて仕方ない。星は余裕のある笑みを浮かべて、軽やかに告げる。
「改めて言いますよ、ナズーリン。決して私の傍から離れないでください」
呆気に取られるナズーリンに「せめて一つくらいは守ってくださいね」と付け加えると彼女は顔を真っ赤にして小さく頷いた。
でも、辛かったら何時でも帰ってきてくれて良いんですよ?
その言葉は口には出さず、心で想うだけに留める。
ただ正直、もうちょっと上品にもできた気がします