0'
冬の終わりに小傘さんとふたりでウォータースライダーを見にいった。
亡霊だった。
小傘さんがじゃない、わたしが。わたしが亡霊だった。
季節外れのウォータースライダー、小傘さんはてめえで行きたい行きたいってうるさかったのに、なぜかウォータースライダーそのものには否定的な態度を取っていた。
ねえねえ、流れるだけで金取るってどういうことよ。あらゆるものが流れるわ。それを所有しようたって、できないよ!
じゃあ行かなきゃいいじゃないですか。
でも、試してみないであんまり悪く言うのもよくないからね。
まあ、そう……。
話に聞くところでは、それは河童製。その未来的な建造物がこの幻想郷にいつの間に現れたのか、あるいは造られたのか、ということに関しては誰ひとり知見がなく、ただその存在だけが知られていた。その理由に関しては、当該建造物の透明度によって語ることができる。そうですね、それは透明だった。加えて言えば、巨大で複雑だということにもなっていた。
そいつについて誰かが言ってたのはこんなこと。
ありゃあ、まるでこの幻想郷の毛細血管だね。すでにあたりそこらじゅう至るところに張り巡らされてるんだよ。でも流れてんのは透明な血液だから誰にも見えないよ。さらさらの血液。とっても健康だね。
だからわたしたちはこの場所にいながらもどうにかしてそれを目で捕まえることができたのかも知れず、実際、その姿を探して顔をあげてみたりもしたけれど、やはり透明なので見えず、時折いまも空を流れ続けている液体のことを想像するに留まっていた。
わたしたちは河童のアジトに行けばそれに乗せてもらえると考えていた。少なくとも見せてもらうことはできるだろうと。水着だってちゃんと持って行ったのだ。
でも、だめだった。
河童は言った。
「つまりさ、ないんだよな。そんなものはないんだ。昨日も妖精たちが群れなしてきたよ、一昨日は月の子どもたちだった、その前は……、あー、なんだっけ、とにかく客先対応で大忙しでさ。なんて言えばいいんだろう。べつに難しい話じゃない、いじわるをしてるわけでもないしさ。そもそもウォータースライダーなんてものをわたしたちは造らなかったんだな。それに類するものをさ。要するに、みんなで夢を見てたんだよ。この幻想郷中を走る透明なウォータースライダーの夢を。それだけのことだよ」
夕暮れの中をふたりで帰った。
小傘さんは泣きそうな声で喋っていた。
でも、わたし、知らなかったな。みんなが心の奥ではウォータースライダーなんてもの、ほしがってたなんて。それがみんなに同じ夢を見せたなんて説明が信じられる? そんなの、そんなの、わたしは、全然いらなかったのに
わたしは滑ってみたかったですよ、空。
回転させた水着袋が宙を切る。ぶんぶん回して、小傘さんの背中を打った。
いたい!
ね、ウォータースライダーを、見せてあげましょうか?
だからなかったじゃん、って小傘さんは怒った声でなにやら喋っているけれど、気にもしないでわたしは小傘さんの手を引いて森の方へと進んだ。
そして、そこには川がある。夕暮れに赤くてらてらと輝いた。
それを指差してわたしは言う。
「見てください、ほら。目の前を、見てよ。ねえ、この幻想郷のすべての川、その流れがすべてウォータースライダーなんですよ!」
小傘さんが、笑って言った。
「あはは。なにそれ、いみわかんない」
だけど、わたしたちはその帰り道、駄菓子を買って帰ったその帰り道に、小傘さんがやさぐれぎみに宙に向かって吐き捨てたガムボールが結局戻って来なかった、空に張りついたそのピンク色の塊の向こうに透明な経路を見つけてしまう。それが、つまりは、例のウォータースライダーで、わたしたちはビキニを着込んで幻想郷中に張り巡らされたその透明な水流を流れ流され時に逆流しながら辿ったその先で、誰にも言えない秘密を知ってしまう。
でもそれは、全然関係ないお話だから、また今度。今度ね。
(きみもよく知っているとおり、その季節にわたしは死にかけていた。半分の亡霊だった。冬の終わりから春の始まりの亡霊、それもやっぱり季節外れだった。)
1'
短絡する電撃の最後の悲鳴は、光。
そんなふうに短い詩を小傘さんは書いてきた。
あげく歌までつけて欲しいってせがむからわたしは歌う。それはこんな歌で、わたしは王宮で、その天蓋の下で、たくさんのスキャットに囲まれて眠るお姫様じゃないから音はたったの7つしか知らないけど(そのうち3つは短調で……、)だけど5畳半の布団の上でそんな夢はたいてい見るから、生まれつき与えられてか細い声でとぅとぅるちゅるっちゅちゅちゅっって声を出した。
笑った!
「あは、あははは、なにそれ、なに、さなえ、へんだよぉ。歌が、歌が、うたないし!」
「とぅとぅ、たた、た、んら、くする、でんげきの、さいごの、さいごのひめぁいは、ひかり、ひかりひかりひかりひかり……」
「ひゃ、あはは、あははは」
お腹を押さえてうずくまって笑い、床の上をごろごろごろと転がってはその間にも生命は薄れていくんだろうか薄れていくんだろうな、まるで透明人間が一枚一枚服を脱いでいって最後にその頭のシルクハットをそっと天に向かって投げ捨てたあとで空気のかすかな"揺らぎ"になってしまうみたいにわたしたちは消えてしまうんだと思うと悲しいのかな、よくわからないというのが正直なところで、歌なら鳥だってするし笑うのは犬でもするからわたしたちは今日とっても動物で、宇宙は知性ない獣には興味がないのでわたしたちは宇宙で孤独だった。知的遊戯なら、やったよ。でも全部失敗したから、こうしてふたりで暮らしたのだった。
わたし、生きるのは無理だから、死ぬことにしたんだよ。
そう小傘さんが言ったとき、突然に生活はおわりになった。最期に見たのは干しっぱなしのTシャツ、『えいりあん』それが風に揺れていた。丸い頭に四角い目……、右下に顔だけ出したシャイなやつ。ちょっと泣いてるみたいだった。かわいいやつだったし気に入ってたからそれがとても残念で振り向いたらわたしも泣いてしまいそうで、でももうわたしが着るには小さすぎたから、結局は、ふたりきりで来た。
「昔は、よくやったんだよねえ。最終手段なんだ。こうして、死ぬって、言えば、みんな驚いてくれたんだけど。最近じゃ、もう……」
「ふうん」
「まあ、命にも消費期限があるってことだよね」
「消費期限ですか。命の消費期限……。まあ、そう……。そうかな、どう……かな」
それはべつにそうじゃないと思うんですけどねわたしは。
それってただ小傘さんが嘘を何回も言うからみんなに信じてもらえなくなったっていうだけの話だと思うんですけど。消費期限は命じゃなくて、それを保証するイノセンスの方にあるんですよ。死ぬ"ふり"を繰り返せば、当然のごとく、イノセンスは摩耗して、わたしたちはむきだしの命を晒して人生に臨むことになる。
雨は降らないんだった。
わたしたちは赤い屋根付きの家で、奇跡的に、生きている。
それは、川沿いの家。
いや、川は沿うというより取り囲み、ごうごうごうと四方を流れる。
「ね、今日は、なにが捕まりました?」
「桃! 白いんだ……!」
「それはそれは。どんぶらこどんぶらこって流れてきたわけですね」
「んん?」
「ああ、つまり、そういうお話しがあるんですよね。故郷では」
「それ、どんな話だっけ?」
「たぶん、まだ、お話ししたことはなかったかと思いますが……」
そしたら当然わたしは喋ることになる。
いいですか。はじまりはこうです。昔々、あるところに……。
また、それかあ。早苗も懲りないねえ。
仕方ないじゃないですか、決まり事みたいなものなんですよ。
小傘さんは桃を大事そうに片手で抱え、食べ物を捕るための網状の罠を川へと投げ返す。
ぽ、つん。
川に向かって飛び込もうとするかのように突き出た縁側の上に、わたしたちは並んで座っている。
川面に触れた指先が冷たい。
親指の震えが水面に波紋をつくりそれが何度も拡大しようとしては流れに呑み込まれるのをわたしはぼうっと眺めていて、拡大を繰り返すそれはまるで円状に表示された心音のイメージみたいだけど、わたしの震えは心音じゃない。
ここは、とても寒いところなので。
色あせた木目調の壁面には、薄くなったチョークの白い線が何本も引かれている。
それが、水位の記録だった。
その一番上の、チャンピオンの白線を半ば無意識に撫でている。
この家を買うときに河童がわたしに教えてくれたのはこんなことだった。
「唯一、技術的関心によってのみ、この家は建っているんだよ」
「どういうことですか?」
「こんなところに家を建てることができるのか、そんなことがいまのわたしたちにできるのか、ひとつやってみようと誰かが挑発的に言い、それでやった。そして、建ったんだ。それはひとつの技術的達成だけど、でも、それだけだった。それを継続できるだけの技術的リソースがこっちにはなかったんだね」
本当のことを言えば、その時点ですでに少し沈んでいた。
それは、川の真ん中に建っている一軒家だったんです。
木造二階建て、傾いて、北向きに斜め28度の。
「今日、これを見に来れたのは、ラッキーだと思うよ。この調子じゃ、明日には、崩れ落ちてるだろうね」
「たしかに……、そうかもしれないですね」
「でも、珍しいだろう。こんなところに家なんか」
「ええ。なんだか子どもの頃を思い出しちゃいますね。わたし、子どもの頃、分離帯の上に建つ家に住んでみたいと思ってたんです」
「なんの話?」
「わたしは、昔、幹線道路のそばに住んでいたんですよ。わたしは、いやだったんです。うるさいし、においもひどかった。その道路の真ん中には巨大な中央分離帯があって、そこには芝生が植えられていました。幼いわたしは、草原だと思ったんです。よく走り回って遊び回ったな。寝転がって空を見るのが好きだった。でも、それは、本当は許されないことでした。危ないから、とお母さんによく怒られたんですよ。それだから、わたしはその地帯の理由がわからなかった。何人も踏み入れることのできない草原が。あそこに家を建てたら面白いだろうにってよく思ってたんです」
「ときどき、さなえの話はわかんないな。でも、家を建ててみるっていうのは賛成だね。家を建てるっていうのは、生物が生きることの証明だよ。それが生き続けようとする意思なんだね。家を建てた人間は、たいていは死なない。建てないやつは、たいてい死ぬ。わたしたちが生きてる限り、地がある場所なら、あるいはないとしても、どこでも家を建ててみるべきだ」
「うん」
「この家は譲るよ」
「いいんですか?」
「どうせ、じきに壊れてしまう家なんだ。たしかに言うとおり、早苗だったら、その力で生き長らえさせることができるのかもしれない」
「でも……」
「気にしなくたっていいよ。わたしたちにとってあの家は完成した時点からもうないんだから」
そんなふうにして、わたしたちは川の真ん中の存在しない家でふたりで暮らしている。
それもやっぱりわたしの奇跡によって成り立っている。
白桃や五穀米や鮭の切り身やカップラーメンをこうして川に仕掛けた罠で捕まえることができるのと同様に。
雨は降らない。
激しい雨が降れば、やがて川が氾濫しこの家も押し潰れてしまうだろうから。
わたしの奇跡を起こす力によって雨は降らないんだった。
(ねえ、それで、どうなっちゃったの?)
小傘さんは桃を食べていた。
皮もむかずにそのままかぷりと噛みついて汁はだらりと川に垂れる。渦の回転に溶けて消えていく。混ざり合って境目がわからなくなってしまう。
ほんの少しだけ甘くなった川にわたしは同情をする。
「それでって?」
「おじいさんとおばあさんが、桃から生まれた桃太郎を食べてしまったあと、どーなったのかなぁって」
「えーとですね、桃太郎を食べてしまったおじいさんとおばあさんはですね。なんと、桃太郎になってしまったのです!」
「はぁ?」
「そして、桃太郎になってしまったからには、今度は自分たちが村人に食べられちゃうんです。そして、またその村人たちも同じようにみな桃太郎になり、よそから来た町の人に食べられてしまうのですけどね」
「なに、それ」
「そういうお話なんです。そういう言い伝えってゆうか」
「さなえのしてくれるお話っていっつも人が人を食べたり、戦って死んじゃったりするよね」
「そうですか、そうかな……」
「なんか、ばかっぽいね」
「むぅ……。あ、そうでした! ちなみに、そのお話によると、人間の味は、というか食感も含めて、そのすべてが、桃なんですって」
うぇええ。
小傘さんは、その傘が、舌を出す。
わたしは笑う。
なんで、なんで、食べてないほうが、舌とかだすんですか、なんで。
小傘さんは、今度は人で、舌。
「さなえの、ばぁか」
わたしも舌を出す。3本目。
とぅとぅ-、ちゅっちゅるちゅる。
2'
わたしたちは流されている。
見えない力によって押し流され、また見えない力から逃れようとして流される。知らずしてあっちへ流されこっちへ流され辿りついたと思ったら一息つく間もなくべつの流れに浚われる。それを運命とか呼ぶ巨大な手のせいにしたってぜんぜんいいんだけど、そうしたところでべつに心が救われるわけではない。わたしは救いについて、それが導くところについて、なんて話していたんだろう。
説教は苦手なほうだった。そもそも説教はわたしの仕事でもなかったと思う。それでもときどきは説教を求められることがあった。ありがたいお言葉、というやつですね。
そもそもわたしたちの信仰は即物的だったんじゃなかったっけ。
人気だったのは御利益のあるお守りや熊手の類、守谷に行けば病気も治るし思い人ともうまくいく。ある幸福な人間の来歴を語れば、その物語の随所には守谷神社が現れる。ここで一旦CMです。安心感、それがわたしたちの、言ってしまえばまあ、当面の神様だった。時にはわたしの力を使って手にとってわかる本当に奇跡だって起こしてみせたんですよ。だからわたしが彼らに与えるべき言葉は当然、即物的で即効性の言葉であるべきだったのだと思う。
ここに『ビル・チャールズの人生を変える魔法の言葉』があれば、どれだけよかっただろうか。
わたしが覚えている即物的な魔法の言葉はそうたくさんはない。
もういない父親の書斎の本棚にはもっと多くの魔法があった。それをいくつか持ってくればよかったのかもしれない。でも、知らない世界で「明日から役立つポジティブ・シンキング」とか「ビジネス向け自己鍛錬法」なんかが役に立つとも思えなくて、結局みんな置いてきてしまった。今にして思えば、とても皮肉な気持ちになる。わたしはこの幻想郷にやってくるとき、そういった即物的な魔法の通じない世界でこれからは生きていくのだと信じていたのだろうか。故郷の魔法をそれほどうまく扱えなかったわたしでも、ここでなら、魔法の使い手になれるなどと本当に思っていたのだろうか。原初の魔法が跋扈するこの場所でも、ビル・チャールズの魔法は十分に有効だった。
結局、それが最先端ってことですよね。
「わたしたちは流されています。見えない力によって押し流され、また見えない力から逃れようとして流されます。知らずしてあっちへ流されこっちへ流され辿りついたと思ったら一息つく間もなくべつの流れに浚われるのです。でもだからといって未来を恐れることも現状を憂いることも過去を悲しむ必要も何一つないんですよ。それは大いなる力が貴方を運んだ結果なのです。貴方は選ばれてそこにいるんです」
やっぱりそんなの全然なぐさめにはならなくて。
わたしは、流されて、ここにいる。
幻想郷から流されて、その果てに。
あるいは、故郷の町から流されて、この幻想郷に。
もちろん、それで残してきてしまったものになにか示しがつくわけでもない。
故郷の家族や神奈子様、諏訪子様に向けて、わたしは夢のなかで、言う。
ねえ、わたしがいなくなっちゃったからって、何もそんな顔しないで下さいよ。大丈夫、わたしたちは選ばれて失われたんですよ。
目が覚めると、わたしは泣いている。
まあ、そう……。
わたしの細い腕、浮き草を掴んでもすぐに疲れちゃって力入んなくなって、また流れていく。
わたしの故郷、その町の話。
思い出すのは、服が散らかった汚い部屋のこと。
ハンガーに掛けられた制服、2つ並んだ学生鞄。
湿っぽくて暑くてじめじめして、ぴたぴたぴたと外から聞こえるのは、なにか雨のような降るものだった気がする。声がする。くぐもった押し殺された声。
ねえ、ねぇ。
なんだよぉ。
ねぇえ、あっつぃよぉ。エアコン、下がんない……。
無理だよ壊れてんだからさぁ。
こわれてるってさ、こわれてるって、こわすなよぅ、ばか。
おれが壊したくてやったんじゃないよ、だってそう言ったって……。
それでもわたしの上を通って、手が蠢き、リモコンで設定温度を下げるぴぴぴっていう音。
近いところで、汗のにおいがする。
ごつごつした指の節くれだった部分、そこから熱に従って手のひらのほうへ、その愛おしい暖かい部分をわたしは撫でている。呼応するようにそいつは固くなった股関節をわたしの太腿に何度も擦りつけていて、それにはちょっとうんざりするけど、愛することは大概受け入れることなので、全然いいけど、なんとなく指を嚙む。
悲鳴。
ねえ、だけど、そんな話はつまんないしうざいよね。
それにこんな話をしたら小傘さんはきっと泣いちゃうだろうから、小傘さんには教えてあげないんです。わたしの故郷のことは。
「あのね、わたしの故郷はスキャットの国だったんです」
「スキャットの国?」
「うん。その国の人々はみんなスキャットを喋るんですよ。スキャットっていうのは、まあ……、たったりーぱららとか、そういうの、です。しかも人々は、生まれつき与えられたたった1つの、スキャットしか言うことができないんです。その1つの音が、その国民の名前であり、同じ名前で、国民たちは他の国民やその他の物事を呼ぶんです。その意味で、すべてものはあるひとりの国民の名前であり、あるひとり名前はすべての国民の名前でした」
「うーん、わかんないよ」
「そうですね。たとえば、ここに、たったりーぱららという人が住んでいて、その向かいには、しゅびどぅばるるる、という人が住んでいるとします。たったりーぱららさんのほうでは、たったりーぱららとしか喋ることができないので、しゅびどぅばるるるさん、の名前をたったりーぱららと呼ぶことしかできず、また朝には彼女にたったりーぱららという歌で挨拶するんです」
「あ、女の子なんだ」
「お婆さんです」
「あ、そう……。てか、それ、どうやって、意思疎通すんの?」
「歌い方ですよ。嬉しいときには、たっ、たりー、ぱららー、とか、悲しいときにはたったりぱららぁぁとか、怒ったときには、たったりぱららっ!とか。あとは声の調子とかも……」
「ねえ、それ……、あのさ」
「なんですか」
「早苗は、なんていう歌?」
「わたしですか?」
「うん、そう」
「さなさなさなっえー、です」
「え、本当なの?」
「はい、そですよ。だから、早苗、です」
「ハハハ、そればかっぽいね、まじうける。ひひひひ」
「人の名前を笑うなよ」
「ひたひたい、ほめんごめんねひたいから」
いま、ここで、それを小傘さんは歌っていた。
「ぴっちゃぷっちゃぴちゃぴー」
「……」
「ぴっちゃぷっちゃぴちゃぴー!」
「……」
「ぴっちゃ…ぷちゃ、ぴちゃ…」
「……」
「ねえ、無視しないでよぉ。わたし、無視されるのが一番だめって知ってんよね?」
「……」
「ねぇえー、さなえぇえ」
「あーはい、また小傘さんの負けですね」
「いや、これ無理だって。てか、早苗、喋んないのずるいし!」
「だって、わたしのやつ、なんか恥ずかしいじゃないですか」
「まあ、それは言えてるけどさ」
「うるさいですうるさい」
「ひはいひはい。ごめんね、ほっぺたつねんないで」
「さっきの、わたしの故郷だったら、死刑ものですよ」
「死刑も何も故郷だとその歌しか喋れないんでしょ?」
「喋れないけど、もしも喋っちゃったら、死刑です。小傘さんはいつでも死刑です」
「設定甘くなーい?」
「人の大切な故郷を設定とか言うな」
「ひたひたい」
「ま、今日は洗濯物の刑だけで許してあげますよ」
「ちぇっ、いやなやつ……」
今のところ、わたしたちは流されていない。
この縁側にふたり座って川に棹さし、服を洗っている。
夕暮れだった。
わたしは声には出さず本当の故郷の歌を口ずさみ、じゃぶじゃぶじゃぶと浚う音を隣で聞いている。いつもそうだけど足先はとても冷たく、それにいまは泡立ってもいる。小傘さんの白い腕、わたしのあげたおさがりの灰色のスウェットの腕を捲ってその妙に白みがかった腕を川の流れに突っ込んでいる。小傘さんが腕を捲っているとわたしは嬉しい。空を天狗が水平に飛行していた。夕日はまんまるだった。丸くて赤くて、半分だったのだ。夕日を見ると太陽が燃えているんだってことを思い出す。いつもわたしは忘れている。一日のなかで太陽が炎の塊でいれる時間はとても短い。あとは調光、巨大な手がつまみのざらざらの切れ込みに触れて回す、明るさに関する一単位だった。
夕暮れどきに洗濯物をすることについて、否定的なことを言う人がときどきいる。夕暮れに服を洗いはじめれば夜に干すことになる、というのがその理由だった。昔、なにかの検証的TV番組で、昼に干した衣類と夜に干した衣類について人々がその好不快を判別できるのかという実験をやっていた。多くの人々は夜に干した衣類を見事選び当て、どちらかといえば不快だとしたけど、それってほんとかな。母親もそのひとりだったように記憶している。お母さんは夜のベランダに衣類が吊されることを決して許さなかった。彼女は太陽光線が生活の中で衣類に取り憑いた邪気のようなものを浄化するのだと信じていたように思う。そのおかげでわたしは守られていた。微生物の焼きはらわれたふかふかのタオルで風呂上がりの身体を包み、ありとあらゆる悪しきものから守られたパジャマと毛布で安心して眠ることができた。当然、今は守られていない。嬉しいことに、それでもまだ眠りは安らぎに通ずるなにかだった。
太陽。
おばあさんは川に洗濯にいきました。もちろんそれだって朝のことに決まっている。
そういやそのフレーズもよく聞くね、と小傘さんは言う。
まあ、これもお決まりの、ですからね。
「はい、これ。それ干したら、わたしのもお願いしますね」
「もぉ、ばっちぃなあ」
「なんか言いました?」
「え、いや、早苗じゃない、わたしのが」
「ふふ、でしょうね」
「うるさいなあもう」
小傘さんはふうと息吐いて、もう一度腕を捲り、だるそうな感じでわたしの服を川に浸した。洗面器のなかに突っ込んで、ごしごしと洗い、また川に浸す。
それを何度も繰り返すのを眺めていた。
小傘さんはここでわたしを色あせていた。
空はすっかり紫で、わたしはなんだか眠かった。
川の上から、河童。
物干し竿に洗濯物を掛けている小傘さんの姿を見て言った。
「やっぱり衣類が川の上にかかっているのを見るのは、いいね。惚れ惚れするよ」
「そういうものですかね」
「最近じゃ、先進的な河童たちは、あぱぁとめんとに住んでいるんだよ。わかるかな? とても高い石垣に穴を開けてそれを住処にするような建物さ。まあ、けっこう快適だが、どうしてかな、服を干すっていう点にかけては最悪だね。そこに干された衣類はひとつ残らずみすぼらしく見えるのさ。色合いの問題かな。コンクリート製だから灰色だけどね。でも、岩に掛けるのとは少しちがう。わたしの意見はこうだよ、あぱぁとめんと自体が造られたものだからそいつがあまりに生活を想起させすぎるのさ。つまりさ、衣類たちは、そこに干されながらすでに着られているんだよ。思うに、人間や妖怪にはあんまり衣服が似合わないのかもしれないね。少なくとも、川や木に対するほどにはね」
「まあ、そう……」
そういえば、はじめて小傘さんと会ったときもやっぱり洗濯してたんです。
それは、まだ幻想郷に来たばかりの夏の夜ことで、やはりこちらの夏も暑くてじめじめするんだなあとかなんとか思いながら神奈子様に頼まれたおつかいの食べ物なんかが入った袋を握りしめたその帰りには、教科書でしか見たことなかった古風な町並みやそのファッションや町の外れを彷徨く妖怪たち、そのなにもかもが目新しかったから、珍しいものを見てはこっそりついて行き、気がつけば、いつの間にかわたしは迷い込んでいた。
そこは墓地だった。
わたしは怖かったんです。
だからびくびくと震えながらその墓地の真ん中を歩いて渡っていた。もちろんそこを避けて歩くこともできたけど、でも、それはとても暑い日だったから。ひどく寒気がするのに、相変わらず暑くてしょうがなかった。このべたついた洋服を脱ぎ捨ててしまいたいと思っていた。だからわたしは幽霊にいちばん近い方へ向かって歩いた。いちばん寒気のするところに向かって。相変わらず震えがとまらなかった。暑くていやになってしまいそうだった。知らない世界に迷い込んだわたしは知らない墓地で見当もつかず、ただその恐怖に向けて歩いていたんです。この土地にはわたしが恐怖するもの――妖怪や幽霊やゾンビーだったり、そういったものがありふれていて、たとえばこの場所で暮らしていくのなら、きっとこれからはそれらに慣れていかなければいけないんだとその時は思っていた。
そして、それを見たんです。
正直に告白すると、とても怖かった。
それは、風にかちかち鳴る卒塔婆の少し上あたりに白っぽく光ってた。
最初は霊魂かと思っていた。
次に見た時には、女性用下着だった。
旧い型の白いやつで、その他、一揃いの衣類も周りの卒塔婆に掛かっていた。
小傘さんが突然現れて言った。
「あなたが、最近流行の下着泥棒ね」
別にそのときに気になったわけではないけど、もはや誰かを驚かす余裕もない一生懸命な感じだった。
いや、びっくりしました、とわたしが正直な感想を告げると、そんなことはどうでもいいのだとその人は言う。
「びっくりしたとか、どうでもいいのよ」
「え、は、はいっ……なにがなんだか」
「成敗してくれるわ」
それから小傘さんは、せいばいせいばいあくりょうたいさんとうりゃあとかなんとか言いながら持ってた傘でわたしを叩きはじめた。痛かった。
「いた、ちょ……、いたいいたいですってば」
「うるさい!痛みを知れ!」
「わた、わたし、あ、いたい、わ、わたしやってないですっ」
「嘘おっしゃい。あなたのこと見たことないし。それに顔もいかにもって感じだわ」
「いかにも?」
「いかにも変態っぽい……」
「ち、ちがいますよう。わたし、ここに来たばっかだし、ほら、あの山の上で守谷神社っていうのやってる」
「ああ、山の上になんか偉い神さまが来たらしいわね、えらい……」
「そうですよ、あそこで巫女やってるんです」
「巫女……」
彼女は急に青ざめる。
「みこ、なの」
「みこ、です」
「み、こ」
「み、こ」
「下着、盗んでない巫女?」
「下着、盗んでない巫女!」
「わぁあああ、ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
どうやら彼女は、巫女という言葉にひどく恐怖を抱いているようだったので、やはり妖怪悪霊の類はみな巫女のことを恐れるものなのだろうかとわたしは関心さえしていた。
「ごめ、ごめん、ごめんね。あれだけは勘弁して下さい」
「あれ?」
「巫女のあれだけは……」
「ああ。あれですか……」
「ひぃ」
どうやら、あれは相当恐ろしいものらしかった。
「お願いします許してください。なんだってやるから!お願い!!」
「なんでも……。じゃあ」
「じゃあ?」
「じゃあ道案内してくださいよ。家に、帰れないんです」
「え、そんだけでいいの?」
「はい」
「てか、迷子なんだね。ふっ」
「あれの準備をしないといけないですね……」
「ごめん、ごめんなさい。あんなに怖い巫女にもそういうところあるんだって、びっくりしただけだよ!」
むしろわたしとしては幻想郷入りしてから畏怖してやまなかった妖怪にもこんな一面があるのかと驚きを感じていたので、なにか文化間の価値観のちがいを思いしみじみとしてしまう。
実際のところ、それでもお墓は怖かったので、あれこれ難癖をつけて手を繋がせて神社まで案内してもらった。
「ていうか、盗まれたって言いますけど、あんなところに洗濯物を干すのがよくないですよ」
「そうかな?」
「まあ、罰当たりかと思って触れないかも知んないですけど、これって妖怪たちのスタンダードなんですか?」
「あそこはね、わたしが見つけたんだよ!ちょうどいい高さのところにあって掛けやすいの、いいでしょ」
「でも、盗まれちゃったんですよね?」
「そ、そうだけど、それは泥棒が全面的に悪くなーい?」
「まあ、そう……? どうなんでしょう。わたし、まだ、こっちのルールがよくわかんないんですよねー」
「え、来たばっかの人?」
「そうですよ」
「新しい巫女かぁ……」
小傘さんは、露骨に残念そうな顔をする。いったい巫女が何をしたと言うんだろう。
傍らでは、かたかたかたと卒塔婆が風に鳴っている。墓地には光がない。薄暗闇に慣れた目に墓石の姿がぼんやりとだけ浮かびあがるから、それは様々に形を変えながら、別の意味を持った存在になりかわろうとしていた。四角だった四角だった、とわたしは口の中で唱えていた。
小傘さんは、その時点ですでにあほっぽい感じだったけど、でもそれだからといって安心できるというわけでもなかったんです。墓地が人々を恐れさせるによるところは断じてその下に眠るうらみつらみではないとわたしは思う。むしろ無邪気さ、手持ち無沙汰に人の魂を掴んでみせるその気まぐれさなんです。
夜の墓地を小傘さんと手を繋いで歩いてた。
その気まぐれな指。
落ちつきなく手のひらの中であっちへいったりこっちへいったりする。
でもこうして繋いだ手が、人間のそれと変わんないから、そのことがわたしは嬉しい。
わたしの手よりもずっと小さくて、繋ぎ目が少なかった。(比べればわたしの手なんかつぎはぎだったんです。)まるで子どもみたいだった。
そうやって思うのは、こうして思い出す小傘さんが、無害で力無い妖怪だといま知っているからだろうか。
小傘さんは言う。
「わたし、巫女と手繋いだのはじめて。みんなに自慢できるかなぁ」
「ふふ、そんなこと言えば、わたしだって妖怪と手繋ぐとは思ってなかったですよ。自慢できますかね?」
「知んないよう、そんなの」
あなたが先に言ったんでしょう、と言おうと思ったけどやめた。
歩むと殴られた身体中のあちこちが痛かった。
「いちち……」
「大丈夫? 骨折とかしてないよね?」
「うーん、わかんないですね。あ、いたい、してるかも」
「し、してないよ?」
「どうかなぁ……。わたしは医者じゃないし」
「してないよ。はい、してないっ」
「さぁ……。そんなこと言われてもですね」
「ご、ごめんね、ほんとに。後遺症とか残んないよね」
「残ってたら、一生道案内してもらわないとですね」
もちろん後遺症どころか骨折もしてなかったので一生道案内してもらうようなことにはならなかったけど、でも小傘さんには随分幻想郷のいろんな場所を案内してもらったと思う。その後はちゃんとわからないところに服を干すようになったみたいだし、ふたりでお墓の裏側に潜んで(わたしはまだそれなりに怖かったんですよ。)下着泥棒を懲らしめたりもした。そういえば、小傘さんに人の驚かせ方を教えてあげたりもしましたね。実際に体験してもらうことによって覚えてもらったのだった。
わたしたちはこの場所で、それぞれ別の理由によって少しずつ疲弊していったけど、小傘さんのおかげでそれは随分ゆっくりしたものになったと今にして思う。
(あるいは、わたしたちは、こうして出会い触れあうことによって、むしろお互いの欠けた部分を広げちゃったのかもしれないですよね。)
小傘さんのことはよくわからない。でもわたしについて言えばこれはどうしようもない傾向のようなものだった。どこにいても別に何かがあるわけではないのに、その場所にうまく居座ることができないんだった。残してきたいろんなもののことを考えると泣きそうなる。もちろん、そうするのはお門違いだっていうのはよくわかるから今もこうしてこの場所で、変てこな顔をわたしは浮かべている。
ねえ、早苗、って小傘さんの声。
なんですか、と問い返せば、
(わぁ!)
今度は、小傘さんの顔。
干してあるタオルとタオルの間から突然現れた。
ピンクとブルーのツートーンの真ん中にその小さい顔だけが飛び出ている。
「もう、あざといですよ」
「え、え、あざ、あざとい?」
「そういえば、わたしたち、会ったときのことをちょっと思い出したんですけど。あのときの、お墓に干してた下着が小傘さんでいちばん怖かったですね。初期衝動っていうか……。ビギナーズ・ラック?っていうか。まあ小傘さんにもそういう時代があったんですから諦めずにまたがんばってくださいよ」
そういう話をしたら何を勘違いしたのか、早苗はパンツが怖いのかと小傘さんは言い、その夜にふと目醒めるとわたしの頭の上のところにパンツが吊るしてあったので、その布の下でわたしは苦笑する。
「ちぇ、汚ないなぁ……」
3'
幻視する町を消すためには、ひたすらに走るしかなかったのです。
電子の森、幻獣たちが駆け回る草原を天使と交雑した一角獣を狩るために。
物語、物語、って小傘さんは、ねだるから言う。
「ねえ、いいですか、わたしたちは魔女なんですよ。悪魔で魔女です。そうですね、それはたとえば森の人形遣い。人形を使役して戦うんです。知ってました? 人形遣いというのは、元々は人間そのものを使役してたんですよ。でもね、人間のことは天使が滅ぼしてしまったから、そのあまりに悪劣ぶりに愛想を尽かした天使たちによって滅亡に至らされてしまったので、代わりに人形を使役することで天使たちに復讐するんですよ。わたしたちは悪魔となって、悪友の敵をとるんです。それが、物語です。いいですか?」
「全然よくない。それは、やだよ」
「天使たちは交雑するんです。有名な幻獣とか神さまとかにね。そうすることで使役することができるんです。一方、わたしたちは黒魔術によって召還した人形で天使の使役するそれらを滅ぼすんです……」
「もー、早苗の、スマホゲームの話、飽きた」
「じゃあいまは大事なイベント中なんですから邪魔はよして下さいね」
「それなら、切断するもん」
「ふふん。これは、わたしの奇跡によってのみ、外界に繋がっています。そのケーブルは充電のケーブルですよ。あ、それ切ってもだめですよ。残念ながら充電も奇跡によって行っています。それは単なる雰囲気作りです、アクセサリーです。ま、ファミコン未満世代の小傘さんにはわからないかもしれませんね」
「切るのはさ、手首の皮」
小傘さんはリスト・カッティング・ベイビードールなんですからまったくもうと呟くと、それって何と言うので、それは、扱いにくい女の子って応えると異なる色のふたつの眼、膨らんで丸くなって……。
でも悪くはない性能ですよ。最高レアだし。
カーテンの隙間からは、明るい光。その向こうに町が見えた。
それは、幻の町。
いつだったんだっけ、ある朝不意に目覚めてそれから冷たい水、顔を洗ったくせに未だ寝ぼけ眼で箒で掃きながら石の階段を降りていたその曲がり角で見慣れない光をわたしは見た。それは知らない反射で、そこで見下ろしたはずの景色は、一面が町だった。
その場所から見える景色が好きだったんです。
色鮮やかな緑の森が山に沿って緩やかに降りていて、その真ん中を石造りの白い階段がくねりながら通っている。煤けた屋根の誰が住んでいるかもわからない小屋、そこから上がる煙とか、建設中ということになっている河童式ロープウェイの柱たち、空には朝の早い天狗たちが新聞を背負って飛び回り、下の方には、田園! こんなにもいっぱいの。秋にはそれが黄金色の稲穂であふれて、あふれたものが朝焼けに輝いてきらきらする。
でも今では、そのすべてが町、幻視するニセモノの町だった。
気がつけばわたしは高層ビルの非常階段のその途中に立っていて、それを見下ろしていた。
町。
たくさんの屋根。ファミリーレストランの看板、高層マンションの壁面、高架線、雑踏、その金髪や帽子の色、信号機赤に信号機青、歩道橋。下って自動販売機の甲高い声。
そういう町的なすべてのもの。
それが田園や森の上に重なっている。
その意味で町は半透明であり、わたしは異種交雑する光粒によって、森と町を同時に見ることさえできたんです。
町を幻視する感じを、今こうして言葉にしようと努力していて、やっぱりうまくは言えないな。
まあでも、それは、夢に似ていると思う。
たとえば、夢の中で迷い込んだ町のなかで見た景色、アスファルトのひび割れや壁に張りついた蔦模様、その詳細がいつでも決まった、複製→ペーストされたテクスチャアだっていうこと、夢は映像ではなく概念そのものを読み込むので。だって目をつぶって見る夢が、イメージじゃあないことは、自明じゃないですか。だから夢には先に概念があり、記憶によって画面を補強する。目覚めたあとで想起して映像にした夢、その夢に似て、幻視する町は細部を失い森と統一されて、そこにある。
そう、それは、本当に夢みたいだったんですよ。
夢みたいだったのは幻想郷にやってくる前の故郷の町のこと。幻視する町は、わたしの記憶や想像のつぎはぎの町だから、わたしの故郷そのものではない。でも、わたしは、ときどき故郷の欠片をそこに見つけてしまう。学校帰りのドーナツ屋とかバイトしてたコンビニ、近所に住むおばあちゃんとか、それが散歩する犬。夢のなかでは、それらは、ちゃんとした形を持っているのに、朝目覚めてみると、その顔さえもよく思い出せない。
この幻想郷で、ある日、突然見えるようになってしまった町。やっぱりそれについてはうまく言うことができなくて。それが、懐かしい何かであることは、まあ、間違いないのだけれど。
うまく想起できないことによってのみ、懐かしく思う景色のこと。
それって、なんだかひどく逆説的じゃないだろうか。
(でも、昨日見た夢の話なんかされてもつまんないですよね、)存在するものの話をする。
わたしの上でだだをこねている小傘さんのこととか。
わたしはスマートフォンを放り出して、すっかりわたしに馬乗りになった小傘さんの、腰のあたりを抱きしめて上身を引き上げる。
顔がお腹にあたっている。そのまま押しこむと、へこんだ。
「やらかいですね」
「それ、馬鹿にしてんの……。さでずむは禁止だからね」
「ふふ、ふふふ」
「なに、笑ってるのさ。言っとくけど、わたしにも手段はあるんだよ」
「どうするんですか?」
「て、手首を切るからね」
「ふふ……」
「だからぁ、笑わないでよぉ」
「いや……、ふふ、やらかい。ちょうど気持ちいい、いい抱き心地です。発売しましょうよ」
「もう、やだ」
小傘さんは、わたしの両方のみみたぶをぎゅっと掴んで内側に折り曲げた。
「ひうっ」
「あはは、ひうだって、あははは」
「むう……。それは、禁止条項じゃないですか」
「だって、そもそも早苗のさでずむがいけないんだよ」
「あれはさでずむのうちに入らないですよー。じゃれあい、です」
朝ご飯がないかどうかと聞くと、小傘さんは床の上に雑に置かれた皿を指さす。
なんですか?
あんまん、とれたてだよ。
わたしはそれを食べる。
小傘さんは、言う。
「てか、さっきのってさ、もしかして、わたしが本気出したらこの程度のさでずむじゃ済まない、みたいなやつ?」
「ふふ、ひゃうれう」
「うざ」
そのめちゃくちゃあついのなんのを飲み込むと、喉の奥まで甘くなってしまうから、わたしは銀色の台所で水を汲んで飲んだ。
それから、時間を聞いた。
「いま、何時です?」
「2時」
スマートフォン上の時間は、22:46。
幻想郷は、タイムゾーンの観点では、カリフォルニアにあったのです。
わたしは布団を丸めていき部屋の隅まで押しやってそこに座る。
小傘さんはその横で座って待っていた。
「さて、お話をしましょうか。どんな話がいいですか?」
「えーとね、巨大ろぼっと? 巨大人型ロボットのやつがいいな。この前は、赤いほうが、戦争で負けちゃったでしょ。そのあとはどうなるの?」
「そのあと、そのあと……そのあとですか? そのあとかあ……、そのあとは、滅亡しちゃったんですよ。負けちゃったので」
「ええー? そんなのひどいよ」
「でも、事実そうなんだから、仕方ないんです」
「めんどくさいだけじゃん」
「ふふふ」
小傘さんは、わたしを舌でこづく。
この長い方の舌の距離感がわたしには、よくわかんない。
遠く伸びて、どこまで届くようなそんな感じ。
あんな小さい傘のどこに……、中で折り畳まれているところを想像してやめた。
甘い、小豆のにおいがしてた。
まったく、いったいどっちがどっちなんですか。
「わかりましたわかりました。赤いほうは、たしかに戦争に負けて滅亡してしまいます。だから、そのあとの話でいいですね」
「うん」
「その何百年も後の話です」
「何百年も?」
「そうです。その戦争から何百年も後、ある星間を旅する男が、その滅亡した惑星を訪れます。するとその荒廃した砂漠にも似た地には赤い塔のようなものがたくさん生えているんです。大きさで言えば、その人間の男の何十倍もあるような、です。それって、なんだと思います?」
「えー、あ、家、家かなぁ? ほら、えーと復興して新しい文明が起こったとか?」
「ぶー、むしろ真逆ですね。その塔はお墓なんですよ。ロボットのお墓です。赤いほうは戦争でたくさん負けたので、たくさんの死骸が生まれますよね。ロボットの死骸ですね。その死骸はたいてい宇宙の屑になりますけど、でも、そのロボットやパイロットのために、その大きな機械の腕を集めてそれを地に突き立てて巨大な墓標にするんです。男はその無数の巨大なオブジェがいったいどんなものかもわからず、歩きながらそれを見ているとあることに気がつくんです」
「なに?」
「つまり、手の指の形ですね、手がこうなってるんです」
「ちょき?」
「ええ、ちょきの形ですね。すべての腕のお墓がみんなちょきの形をしているんです」
「ふーん」
「この形には意味があるんですけど、どういう意味だと思います?」
「こう、手が、はさみになってるんだ? その赤いのがいっぱい、あって?」
「そうですよ」
「わかんないなあ」
「もうちょっと考えてみてください」
「えー、うーん、赤、ちょき、手……あ、かに……蟹をいっぱい食べたあとの感じみたいだね。へへ」
「ああ、蟹、いいですね 久しぶりに食べたいなあ。今日、夕飯に蟹が流れてくるようにお祈りしましょうか。もちろん、剥いた身だけが川を泳いでくるように、ですよ」
「いいから!」
「わかりました、わかりました。それは、ピースサインなんですよ」
「それってどういう意味なの?」
「平和って意味ですよ。これから先わたしたちが永遠に守られて、安全に、夜も昼もなにひとつ恐れることなく、好きなだけ眠っていられるってことですね。それを、死んじゃったみんなでしてる、という、お話です」
「おわり?」
「ええ、おしまいです」
「え、結局そのお話って、どういう意味なの?」
「意味、え意味? えーと、意味はね……。意味か。意味、それはですね……」
「なに?」
「ぴーす」
「は?」
「ふふふ、これがヒントです、ヒントですよ。あとは、自分で考えてみて下さい。次回のお話しまでの宿題ですよ」
「そう言って、あとで教えてくれたことないじゃん!!」
「まあまあ、夕飯は蟹なんだから、いいじゃないですか」
蟹とかべつによくないし驚きで喩えるならちょっとした豆知識程度だしとか小傘さんは言っているので、わたしはなんだかひどくかわいそうになり、哀れみから目を背けるためにスマートフォンを手にとって走ることにした。要するに、ゲームのイベントを消化するんだった。
そうです、この場所にだって、ちゃんと電波は届く。
まるで奇跡的ですね、とか言ってみたところでそれはまあ実際、奇跡にはちがいないから、しょうがない。甘受する。能力によって必然的に発生する幸運をそのたびに奇跡と呼んでいると、想定してなかったラッキーをなんて呼んだらいいのかわからなくなる。昔、奇跡だったもの。それはやっぱり今でも、奇跡にはちがいない。
つまり、スマートフォンを故郷の電波に繋いでゲームをしている時とその少しあとに関しては、不思議と幻の町は視界から消えてしまうんです。これが旧い奇跡の一例。
理屈的な説明がいりますか?
たとえば、わたしに取り憑いた現代的な記憶の残滓がこうして幻想郷に町を見せるとしてスマートフォンを繋ぐ間はそのイメージを画面の向こうに閉じ込めることが出来るとか。あるいはもっとシンプルに、わたしは故郷を懐かしんでしょうがないけれど、ゲームをすればとりあえずそれも収まるとかね。
スマートフォンは現代人のがらがらなんですよ。
まあ、そう。
それから、わたしは、夕飯の蟹のことを祈ることにする。
二階の窓から身を乗り出して屋根にのぼり、その上に立って祈祷棒を振った。
目の前では家に裂かれた川が、二叉になって流れている。
りんしゃんりんしゃんりんしゃんと森のせせらぐ声。
太陽の光が屋根の瓦に反射して粉のようだから眩しくてうるさい。
とってもよく晴れた日は、世界が銀色に光るから、雪の降った朝みたい。
わたしたちの奇跡には限りがある。
こうして川の上に家を保存し続けることも川から流れてくるものを食べることもスマートフォンに電源を入れることもそれを繋ぐことも、わたしの行う奇跡によって成り立っている。
わたしの奇跡。
それは、昔、わたしが巫女だった頃、集めた信仰を基盤として。
だからそこには限りがある。もうやめてしまったわたしの信仰には。
信仰貯金。
そんなふうに思ったりもする。
屋根の端に手が生えて、小傘さんが、屋根に……、奇妙なバランス感覚で傘を揺らして近づき、わたしの横で口笛を吹いてた。
わたしは言う。
「なに?」
「かに?」
うん、って肯いて、わたしたちがこうして生き続けるためには奇跡が必要だったんです。
「わたしたちは無理だよね」
って、小傘さんはよく言う。たとえば朝とか夜に。
あるいは、こんな眠くてしょうがない昼間なんかに。
わたしは少しうんざりするけれど、でも実際なかなか難しいんだろうな。
だから、まあ、そのことはよくわかっているつもり。
わたしたちの生活にはこうして限りがある。それは、どのくらい残っているかも知れないわたしの信仰貯金、小傘さんはもう死んじゃうふりじゃあ誰も驚かすことができなくて、ていうかさ死んだふりで生きてこうなんかもう死んでるのとなんも変わらなくないですか?
まあ、そう……、そうですよ。
ほんとに。
わたしたちはここで少しずつ失われている。
(でも、それはもうすでにうざいくらい話しあったことだし、これからもいくらでも話すことになるんだから、今はそんな話はやめましょうね。)
そういうわけで、わたしは祈ることになる。蟹のこと。とりあえずそれだけを。
そしたら他のことはみんな忘れてしまう。
そうだ、やっぱり、殻付きの蟹にしようかな。複雑な食べ物は、食べるのが難しいから、食べているその間だけは未来のことを忘れることができる。そうだよ、殻付きの蟹。しかもなるべく複雑なやつ。それをわたしは想像する。8本の脚同士が複雑に絡み合っていてまずそれをほどかないと、かにみそにはたどりつけない仕組み。その脚同士の絡み合いっていうのもただごちゃごちゃしてるってだけじゃなくて、気の利いた知恵の輪みたいに素敵なアイデアなしでは解けなくて、当然、殻は超合金みたいにすっごく固いから叩いて切っても壊すことができないわけで、脚を解いてそれぞれ一本一本になった後ではじめて綺麗に半分にわれて中身が食べられるようになっている。
そんな蟹。
どうか、そんな蟹たちがわたしたちのせめてもの気休めになりますように。
そのことを、わたしはここで祈っている。
しばらく祈っていたら、やがて車が流れはじめた。
それは、もちろん、幻視する町の車たち。
祈りもそろそろいいだろうとあくびを交えて伸びをしたその次の瞬間には、目の前に町が立ち現れており、すぐに視神経に飛び込んできたのが車の流れ、それは川の流れに従って、わたしたちの家を中心に二手に分かれ、片側二車線がこちらに向かって進み、もう二車線が遠ざかる。
ごうごうごう、と流れる音。
それは、はたして川の音だったんだろうか、それとも車のエンジン音だったのかも。
まあ、どっちでもいいけれど。
ここは、幹線道路のその真ん中。
左右には壁みたいにビル群が高く立ち並び、その下半分が森風のテクスチュアで緑色に着色。(やっぱし、うまく言えない。)
アスファルトの道路は川の水に滲んで、雨上がりだった。
あるいは、水の底に沈んでしまったみたいな。
もうずっと昔に水没してしまったのにそのことに気がつかないふりをして今も時計を回し続ける町の話。それをあとで、また聞かせてあげますね。
小傘さんの色違いの3つの目。
ううん。目じゃなくて、たぶん、どっか別の器官でね。その景色を見たんです。
車たちの流れは、今は赤信号に停止中。
それでも、ごうごうごうと流れる音は聞こえるから、それはやっぱり川の音なんだろうな。
昔、中央分離帯の上で暮らしてみたいと思ってた。
夕暮れ時、小さな少女が、その上を跳ね回り、今にも車の流れに向かって飛び出してしまいそうになる。すんでのところで、その縁で止まって切る風を受ける。両親が呼ぶ声。振り返って、その怒った顔を見て下唇を出し、あおむけに寝転がり丸くおだやかな太陽を眺め、草原のいびき――アイドリングするエンジンたちのかすかなうなりを聞いている。
ここは、そのつづきの場所だった。
眼下に並んだカラフルな車たちの屋根。
飛び込めばそのまま連続するボンネットの上を跳ねていけるような気さえする。
赤青白白白黒青ってふうにステップを踏んで。
ボンネットの色ごとには、各々べつの音があって、踏みつけたらそれが鳴るんだよ。
そのステップがやがて偉大なメロディーとなり、スティールの足跡が楽譜として記録するけれど車たちのなかに潜む固有の衝動が、それぞれの目的地が、あるいは渋滞が、テールランプの煽りや追い越し車線が、ボンネットの上にスタンプされたト音記号たちをばらばらにしてしまうから失われて二度とは復することがない。わたしはあとでこんなふうに話すことになるだろう。それは偉大な音楽だったけど、わたしは忘れちゃったんだ。ほんとにほんとに、ほんとだよ。それを、ここでみんなに聞かせてあげられたらいいのになあ。でもさそうは言うけど貴方の発明するすべてのメロディーって全部どこかで聞いた音楽の形骸なパロディだよ、って言う人、そのかわいい自信ありげな表情を、とりあえず代わりに記憶することにする。それだって偉大な、ユニークな、発明だよね。大好きだった故郷の音楽も物語も自分で発明したと思ったそれだってみんなわたしは忘れてしまうから、わたしが覚えてるのはいつも表情だけなのです。(ほら、きみの全然わかんないよって言うその顔が目が……)
信号の前には、河童の運転する赤い80年代風スーパーカー。
見ていたらウインドウが降りてそこから顔が現れ、水棲生物特有のぐにゃぐにゃの声で言うのだった。
おーい、おぉおうい、ねえ人間。最近、どぉ?
「存在しないって、感じは、どう?」
祈祷棒でわたしは振り返す。
ポケットのスマートフォンを手に取って繋げた途端、幻影は消え失せて、鳥の声、遠く……、わたしは屋根の端に立ってそのはだかの足を空中に曝けだしていた。
とても冷たいのは、空気だった。
すんでのところで落ちそうになるところを後ろから小傘さんがわたしを抱きしめる。
あはは死んじゃうとこでしたねって皮肉っぽく笑おうとしたけどうまくできなくて、泣きそうな顔、小傘さんの……、わたしの。
ただ、そうってだけで、もう。
わたしたちは、屋根の上に並んで座る。
あ、あのさ、わたし、見たいな。
わたしが死ぬところですか、とか馬鹿なことは言わず、のたまう通り、やる。
画面の向こうには、黒魔術風の壺。魔法の粉を5つ消費してガチャを回す。
わたしは祈っている。
これは信仰を消費しない、いつも叶わない類の祈りだった。
小傘さんが言った。
「ね、いいよね。かに、きたら、いいよ」
「カニ・ドールとか、外れですよ。外れ」
奇跡を連続することはどうにも難しいのです。
それは、すでに奇跡によってこの世界に繋がったアプリケーションのなかで、さらなる奇跡を反映することはできないと言う理由によって。奇跡に奇跡を重ねれば、要請される信仰数は冪乗的に増えていく。
わたしたちは生きることで精一杯の奇跡なので、これ以上の奇跡はなにひとつ望めない。わたしは祈っている。
お願いだから、ダブっていない最高レアのキャラクターを下さい。
お願いだから、複雑な蟹たちをわたしたちのもとへ届けて下さい。
お願いだから、わたしたちのことをもう少しだけ生かして下さい。
わたし越しに画面を覗いて、そのなかの新しい人形を見つめて小傘さんは言う。
「ねえ、それって、どう?」
川の上でたゆたって、河童がわたしたちの会話を眺めている。
生ぬるい風が吹いていた。
川がさざめき立つ。
風は、町なら、なんだろう。
風は、町でも、風なのかも。
わたしはもう一度、河童に向けて、今度は、
「ねえどうって、もお、こう……」
ぴーす、する。
(そういや、最近の計画なら、どう? わたしは絶賛就職活動中。巫女?うん、まあぼちぼちですね……。そろそろ奇跡にも愛想つかされちゃったって感じで、もうねえ。だからきみもはやく生き方を見つけなよ。こだわったってそっち方面の才能はないんですから。あはは、冗談ですよ冗談。ああもう。でもそんなんじゃ、いつまでたっても結婚なんかできないですよ。え、なんでもないですってば……、ほんとにそう、……そうです)
4'
川環境は、年々劣化しているという。
その証明は、流れ着く合成洗剤の名前だった。
それを集めて記録していた。
ハイ・ジア、DAWNY、アリエール、パイプユニッシュ。
もちろん川は山から下り、海へと流れ出る。
幻想郷には、海がない。
それは博霊結界によって区域に限定されているからだけど、結界は霊夢さんの家を中心に円心状に広がり、その端で空間を巨大に拡張している。
結界とは、拡張です。
教えてくれたのは誰だっけ。
幻想郷は、その端っこが、空間的にとほうもない長さになっているらしい。
博霊神社を5として、同心円状に、どーなつ形で4、3、2、1と数字をつけていって、たとえばその端が0なら、0区域はとっても広い。イメージとしては、5、4、3、2、1、0、0、0、0、0……。
(たしかに、ロケットの打ち上げみたいですね。)
そして、その0区域のことを、留まり、というらしい。
実際には、留まりの空間は、径方向だけではなくて周方向にも拡張されるから、そのそれぞれを、森留まり、村留まり、山留まり、地獄留まりとか呼んだりする。
わたしは、一度、小傘さんとふたりで川留まりに向けて、川の中を下っていったことがある。今住んでいるところよりもずっと浅い川だった。
小傘さんは赤い長靴を履いていた。
傘が、長靴に頼るのは、敗退ですよ。退廃です。
なんのさ。
雨具としての、です。あるいは、セックスですか?ふふ。
はあ?何言ってんの……。
わたしたちは、そのようにして長靴の効用の助けも借りながらびちゃびちゃと川を下り、やがてその留まりに近づいた頃に目の前の川が扇状に広がっていくのを見た。空間が拡張されつつあるのだった。そして、その川は、さらに進むにつれ水平線に成りかわり、いつのまにかわたしたちは周囲を川に取り囲まれていた。
それは、現象としては、ほとんど海だった。
わたしたちは、海原の真ん中にふたりきりでいたのだった。
川の流れはまるで波のようで、あっちにこっちに拡張されたその流れは、もはや方向性を失って海は時化ていた。小傘さんもいろんな方向に引っ張られて、変な顔、形だった。笑ってしまう。怒った顔が見えなかった。そういうわたしの方だって、ぐにゃぐにゃだったんだろう。たぶん。
み、水が、い、っぱい、だ、と小傘さんは言う。
それが心底嬉しそうなのでやっぱり雨具なんだなあとなんだかしみじみしてしまい、人間のわたしは故郷への憧憬にちょっと泣いた。
幻想郷には、海がない。
だから、同じ理由で、川の出所がないこともある。
ないときは、それは、幻想郷の外側にあるのだけれど、わたしたちの住んでいる川もそちらに属しているようで、稀に外側の人間が川に捨てたごみたちが流れ着く。
もっとも外の世界から迷い込んだ物資の話を幻想郷ではほとんど聞かなかったから、ここでわたしが奇跡を行っていて食べ物や何やらを引いてきていることも影響しているのかもしれないな。
時折、流れてくるのは捨てられた合成洗剤。それが罠にかかっているときなんかは、拾い集めて中身を検分し、工場へ持って行く。
東風谷スキャット工場とわたしたちが呼ぶその場所は、川の上の存在しない家の一階の角部屋、半分沈んでしまった部屋にある。
家は、日がな傾いている。
家自体は不明な工法によって川の真ん中に建っているけれど、やはり不明な理由によって傾いており、それはちょうど午後2時の太陽に頭のてっぺんを向けるような感じ。
だから、その部屋に通じる廊下もやはり傾いていてその傾きに沿って下って歩くと、きゅうきゅうきゅうというような軋む音が大きくなり、その突き当たりには扉があるけど、開かない。部屋が傾きつつあるせいだった。
だから、工場へは、上から侵入。
2階の寝室の窓枠には白い丈夫なロープが括られていてそれを滑って這い降りる。
ロープに体重を預けると、また、きゅうきゅうきゅうと家のどこかが軋みだし、この家はあらゆる箇所が軋んでばかりだと思い、それはもちろんこの家自体が奇跡によってぎりぎりのところで命を繋いでるからに他ならないからだとは知っているもののそこらじゅうの扉や床はもちろん外壁まで鳴っているのを聞くとなんだか軋みというのはこの家の悲鳴だとか何とかすっかりめいってしまい、ついつい小傘さんに打ち明ければ、驚かし学の講釈がはじまってしまう。
つまりね、軋みっていうのはさ、驚かし的観点から言えば、当然ありきたりな手法のひとつなわけでね、効果としては驚かすことよりも最終的なポイントのインパクトを高めるための仕掛けだよね。まあ初歩だよ……。だからね、軋みは、むしろ悲鳴そのものというよりは悲鳴に向かわせる運動の一種だよね。びっくりしたとき、わあ、って悲鳴をあげるけどさ、ほら、わたしが、たとえば早苗に向かってわあって言う、その、わあは悲鳴じゃないでしょ?
たしかにそれは安心感に関するなにかだった。
いや、安心感じゃないから!
たまには小傘さんも役に立つじゃないですか、言ったら、ゆらゆらと笑う顔、小傘さんには、なにかあらゆる幽霊的現象がもたらす恐怖を中和する特別な力がある。
工場への入り口は、一階の外側の窓、そこに今は非現実の『非常口』が逆さの格好で張りついている。
緑色が、ちらついた。
切れかけの電球だった。
ちちち、ちち。
それはもう、当然、幻聴だってしますよね。
そのウインドウを横に開いて小傘さんと一緒に工場へ入り込んだ。
充満するガスめいた匂い。
思わずせきこんでしまう。
蛍光灯が切れているせいで、中は薄暗い。
浸水が膝の下あたりまで進んでいる。
その水面を、合成洗剤の空っぽの容器がいくつも漂っていた。
プラスチックの容器に、ふやけた紙の箱。胴体を切り離されたノズルや、虫のように寄り集まったキャップたち。洗剤が溶け出して、水は、泡めいて鈍色に光っていた。
まるで、工場っていうよりは、その解体場だった。
あるいは、洗剤容器の検死室かもしれない。
その部屋の真ん中には、錆び付いたドラム缶。
発音塔……、って、小傘さんが言う。
(でも、本当の発音塔は白く、高い。それは、森の中に建てられた7つの塔。夜になると、そこから、ぼぉおおうぼぉおおうという音が聞こえる。でも、そのうちひとつがある日、突然なくなってしまう。その話はちょっとだけしましたよね。失われた第3発音塔と地底人のお話。え、続きですか、それはまた今度)
ドラム缶の向こうの壁には、映画のポスター。
それが、スキャットのお姫様。
ローマの休日のオードリ・ヘップバーンだったと思う。
ゴム製の長靴を履いて注意深く水をかき分けながら、わたしたちは工場を進んだ。
「アメンボ隊だね」
「はい? アメンボがいたんですか?」
「ちがうよ。前に早苗がお話ししてくれたじゃん」
「そうでしたっけ?」
「水の上を歩いたり、火を噴いたり刃物を投げたりするけど、最後はお殿様に裏切られちゃって殺されちゃうんだよ」
別にわたしたちは水の上を歩いてはないじゃないですか、と言えば、うるさいなあと小傘さんは、足で蹴って波をたてる。
アメンボ隊とは忍者だったのです。
「でも、アメンボって変な名前だね。かわいそうだよ」
「まあ、そう……。小傘さんなら、どうします?」
「えー? えーー-、どうしよっかな。うーん、水、水だから……、水虫、とか?」
「うぇ」
それほど広くない部屋だから、中央のドラム缶まではすぐに辿りついた。
そのドラム缶が、スキャット工場の正体でした。
わたしたちは、このなかで、合成洗剤を混ぜ合わせて、スキャットを発明するのです。
(えーと、どこまで話してありましたっけ。)
スキャットの国の話、わたしがそこからやって来たこと、そこに住む人たちのちょっとした生活の話とか、わたしの家族の歌の話、結局そこでわたしが暮らせなかったこと――あのね、わたしは、欲深かったんですよ。ひとつの歌だけじゃ満足できなかったんですよ。他の人のもみんな欲しかった。だから、秘密の工場を造って発明することにしたんです。やり方を見つけてね。でも、すぐに全部ばれちゃって、国を追われたんです。
えー、それってさ、それってさ、早苗の歌がへんだから、他のがよかったってだけの話じゃないの?
けっこう鋭いこと言うじゃないですか。こんな気持ちは小傘さんにはわからないですよね。
ふふ、わかるよ。へんな名前だもん、
うるさいですよもう。(それでも、わたしには、まだ笑ってみせる余裕があるんです。)
「あのさ、早苗の故郷の工場は、もっと大きかったんだよね?」
「ええ、だって、まず、こうした材料――合成洗剤が新品がまるごと手に入りましたからね」
「まじか!」
「そうですよ。しかも、半オートメイドですからね」
「おうとめいど?」
「ああ、つまり、自動っていうことですね。こういうふうにずらりと10個くらいのドラム缶が並んでいてですね。で、そのひとつひとつに、アーム……鉄の手みたいのがそばにいるんです。コンベアを、え、ああ、動く床の上にですね、乗って流れてくる箱に入った合成洗剤を、その鉄の手が勝手に動いて、掬い取っては混ぜ合わせてくれるんですよ」
「へえー。自動ってすごい」
「ふふん」
「いや、べつに早苗がすごいわけじゃないけど……。あ、全自動驚かしとかもあったのかな?」
「え、どういうんですか?」
「機械の傘が、わたしの代わりに、ばあっ、って飛び出てくれんの」
「それ、いいですね。ぜんぜん怖くなさそうで」
いやいや、めちゃこわいって、だって生命の宿ってないものが驚かしてくるんだよ?
それは、驚かす側がその革新さに驚くという話で驚かされるほうにしてみれば突然現れる系びっくりとしての質はそれほど変わらないのではないかと思ったけれど、またうるさくなってしまうので言わない。小傘さんが、驚かしに関してはそれなりに理論派ということは、けっこうな驚きだった。傘のくせに頭のほうが大きいんですね。
「なんか言った?」
「え、まあ……」
ドラム缶の中の濁った水面が鉄色に膨らんだ泡を乗せて張力していた。
ミルキー色の薄い膜、まるでお菓子作りの行程のどこかみたいだった。
写真にはならない1コマの。
つぎに、お好みの合成洗剤を投入して下さい。
わたしは、川で拾いあげた液体の合成洗剤をその中に注ぎ込む。
鉄の棒で、かき混ぜた。
ドラム缶のなかには、すでに今まで混ぜ合わせた分の洗剤の、そのアルカリ性の、酸性のものが残っているから、うまく刺激を与えることができれば、化学反応が起こる。
それがスキャットのレシピでした。
わたしたちふたりは違法スキャットマンなのでこうして工場で合成洗剤を混ぜ合わせることでたくさんのスキャットを発明するんだった。
目の前で、スキャットのお姫様がわたしたちを笑んだまま見下ろしている。
揺れる水面には、覗き込んだ小傘さんの顔が映っている。それを混ぜ合わせて溶かす。雨の音。わたしは考えてみる。でもそんなのは単純すぎるよね。今日、小傘さんはとても甘そうだった。
さあ、行きましょうか、とわたしは言う。
来た道を同じやり方で戻った。
帰り際、振り向いたら、部屋が白緑色のガスで薄く満ちるのが見えた。それがロープを上るとき少し開けた窓の隙間から一筋の半透明な線になって立ちのぼり空に吸い込まれた。
工場の煙。
頭痛めいた尖った匂いだった。
わたしは新しく覚えたメロディを口ずさむ。
それを、小傘さんに聞かせるために、発明する。
わたしがスキャットの国で生まれたんだって信じてもらえるように。
ら、ら、らっぱりぃぱっぱっぱぁ。
壁面に張りついた逆向きの『非常口』それが、今は赤色に点滅してた。
そこには白いチョークでこんなことが書いてある。
『東風谷スキャット・ファクトリー(自然派)』
ピースマーク、『Super Lucky』、相合傘、Hello Kitty、吹出しにはこう。『わぁ!』『わぁ!』『わあ!』
その他、いろいろ。
お昼は川で捕れたハンバーガーだった。
そのびしょぬれの包装を手でちぎって引きはがせば奇跡的に中身は濡れていないのでその必然的な奇跡にわたしは感謝しつつ、かじる。ぱさぱさした、アメリカ色に着色された柔らかい岩塩みたいなしょっぱい味。せめてケチャップとマスタードが欲しかったけれどそんなのは用意してないからまずいまずいと言いながら食べるのに、小傘さんは大好きだった。
まあ、馬鹿舌ですよね。言えば、じっと、刺す目が返る。
窓の外には、未だ、薄くなった工場の煙が漂っている。
「ねえー、今日はどんなスキャットが、できた?」
「ひゃふふうひははひは」
「もの、食いながら、ゆわない」
「ふぁい」
長い間、嚙みしめていると口の中で肉汁やレタスの野菜味が染み出してやっと味が出てくるのに小傘さんはたくさん急かすのでとりあえず水で流しては咳き込んだ。
「あーあー、えほんえほん」
「うん」
「なんかそんなに見つめられると言いにくいですね」
「大丈夫だよ。いつものことじゃん」
「えーと、まあ、そう…………、へへ、えへへへ」
「そういうのいいから!」
わたしが歌うのを、小傘さんが真似する。
らっぱりぃぱっぱぁぱあらっぱりぃぱぁぱぁぱあ。
「らっぱりぃらっぱっぱ? かっぱりーかっぱっぱ、かっぱ」
「アレンジは、禁止です」
「えーずるいよ」
小傘さんは口を尖らせてぶーぶー言う。
「でもさ、でもさ、いつも発明するのは、早苗ばっかりでしょ。わたしもやりたい!」
「え~、小傘さんには無理ですよぅ」
「で、できるもん」
「じゃあ、いま一個やってみて下さいね」
「うん。いくよ」
「はい」
「あ、ちょっと待ってね、えー」
「やっぱ思いつかないんじゃないですか~?」
「いくから」
「はい」
「あーー、えとね、……て、てて、てんてん、てんてん、てん、て」
「ふふふ」
「なにさ」
「ふふ、いや、和風……。というか、古風?」
「しかたないじゃん!昔の人だもん!」
「ていうか、そもそも、小傘さんにはないですからね」
「そうだよ。どーせ、わたしにはセンスとかないよ」
「いや、音感ですよね」
「うるさいなあもう」
小傘さんはすっかり拗ねてしまったようで窓際のほうにひとりふらふら歩いて行きウインドウ越しに川を眺めその水の音を歌っていた。
「ぴっちゃぷっちゃぴちゃぴー」
「あ、ちなみに、それもわたしが発明したやつですからね」
「うっさいなぁ、わかってるよ」
さなさなさなえ、あはは、さなさな、あははは、とか小傘さんが歌うのでハンバーガーの包み紙を丸めて投げて後頭部にぶつけた。
あう、と犬みたいな声を小傘さんは出す。
振り返って睨んだ。
わたしは、紙コップの中の液体をストローで飲む。
目をつぶって味わってその液体がペプシ・コーラだと信じようとしたけれど、やっぱりそれはどこまでいっても限りなく水道水で、でもなんだか甘い気がした。
この場所が、fishness burgerの店内だったらよかったのにね。
そしたら、Wi-Fiだって借りることができたのに。
信仰を失ったわたしの奇跡の範囲は日々弱まっている。
この輝く「4G」を見てね。これこそ、奇跡の証明なんです。
まあ、そう。
でも今は、たったのアンテナ1本だったから、ゲームのアップデートもろくにできない。『コンビニWi-Fi入ります。徒歩1分圏内2つあり』という不動産のチラシが川から流れてきて、洗濯機置場はないけど2階にコインランドリーがあるからいいなあって思ってたらそれは本当は天狗新聞の折り込みチラシだった。月世界を未来に分譲中。侵略計画だってあるらしい。チラシはこんな文章で締めくくられている。
『月は、すでに幻想郷の一部です。貴方も幻想郷の未来に投資してみませんか』
(超、暴力的ゴシック体。アイスキャンデーみたいなね。活版技術を独自に発展させたこの場所ではフォントも独特の進化を遂げていた。それは、ひたすらによみにくい。)
月面アパートには当然Wi-Fiだって通ってないし月の土地に関する怪しげな噂だって種族的に経験済みなのでわたしは全然ひかれないけど、小傘さんは、すっかり月に夢中だった。
ねえ、月だってねえ、やっぱ月だよねえ。
わたしはハンバーガーをまたかじる。
「なにが、やっぱ月ですか」
「ほら、ここ見てよ」
「なんですかもう」
そこには、完成予想図、とある。
月の白い荒野に、ぎざぎざのアパート。
四角い箱を少しずつずらして回転させながら上にいくつも積んでいったような不思議な形をした幾何学的Towerの。
「これ、めっちゃかっこよくない?」
「そうですかぁ? 住みづらそうじゃないですかね。最初はまあいいかもしれないですけど、全然いいとは思いませんけど、この真っ白な感じも未来的?をイメージしてんのかもしんないですけど、汚れたら悲惨ですよね」
「月は、"汚れ"がないって、話だよ」
「ああ、そう……。でもだめですよ。月にはWi-Fiないですもん」
「それは知んないし」
でも、それは大切なことだった。
こうしてる間にも家のすぐ横を車が走って通りすぎるその音が聞こえているし、ときどきはクラクションが鳴る。びー。耳を塞いでも音がする。
窓から見える空には、飛行機。
それは天狗だった、と思った。
今では町はあちらこちらで無分別に重なり、烏天狗の山に伺ったなら、そこに無数の飛行機がたむろするのを拝むことができたかもしれない。
天狗空港金曜日、古い機械。
そういえば、この前は、鳥天狗が原付バイクに乗って空を飛んでいるのを見た。
別にこの場所でこうして無為に暮らしてる限り、どこに町を見たっていいけれど、わたし自信のイメージの乏しさには呆れてしまうな。それにしても、空を飛ぶ新聞配達のバイクか……、あーあ。
町を幻視すること、それがわたしがこうしてやたらめったら奇跡を行使することの代償だという説。もしかしたら、そうなのかもしれない。あるいは、ホームシックによるものだっていう考えもある。
慣れれば、それほどは気にならない。
いずれは、望んだものを望んだ場所に見ることができるようになるかもしれない。
わたしは、この場所が空想のfishness burgerに見えるような訓練をする。
でもそれは未だ水道水だった。わたしのストローで飲む液体は。
まだ、そう。今はまだ……。
月にも町はあるんだろうか。まあ、あるかな。どこにでも、町はある。
「ねえ、月への行き方教えてあげましょうか」
「え?」
「わたし、月に行ったことあるんですよ」
「えー、ほんとに?」
「ほんとですよ。月の地上侵略計画! 実は幻想郷はわるーい月の民の手中に落ちようとしていたんです。そこで、この東風谷早苗が、月へ駆けつけ、悪者たちを退治に退治に退治。そして最後には、3つの世界を統べる大悪党をけちょんけちょんにやっつけるんですよ。人知れず地球を救うんです。わたしは、秘密のスーパーヒロインになるんです。是非、お話聞きたいですよね?」
「あーうん……まあ、そうね」
(あ、でも、その話は前にもしましたっけ?)
わたしは、嘘を言う。
「月には、秘密の経路で行くんですよ」
「秘密の経路?」
「月の民が連絡に使う夢の経路です」
「それって、どこにあるの?」
「もちろん夢のなかですよ。でも、ただ眠っても月の夢は見れません。息を止めて眠るんです。つまり、月では呼吸できませんからね。それと同じ状態で眠りに入ることで、月の夢を見るんですよ」
だからわたしは布団の上で裸の小傘さんをロープでぐるぐる巻きにして鼻をガムテープで塞いでその口に手のひらを押しあてて息を奪うけど、じたばたする手足の指先、手のひらに触れる吐息の熱量、それが、とってもポジティブな生命に溢れているからなぜか裏切られたような気持ちなり、わからなくなって、いつの間にか押さえた手を離すのも忘れて小傘さんの小さな白い身体が瞬間宙に浮き上がるのを見る。そして小傘さんの身体はそのまま布団の上に横たわり二度と吐息することがない。わたしは憔悴していて、小傘さんの身体からロープを解いて(赤いロープの跡だった、)それをドアノブに掛けて、首を差し込んで一緒に月に行こうとするけれど、物音を聞く。振り向けば、目。小傘さんの傘、唐傘お化けの部分のその目だけが、わたしを見つめている。
まあ、そうですよね。
だって、小傘さんは妖怪だもんね。
息、止めたくらいじゃ、死なないよね。
わたしのか細い力無い両手、それを自分で見つめて、ため息をつく。
しかも、一度は傘としてみんなにうち捨てられたのに、必要とされなくなったその後も懲りずにまた妖怪として生まれ変わってやり直したくらいなんだよ。執着心は人一倍強いんだから、消えたりしないよ。
そのことはちゃんとよくわかっているつもりなのに、わたしはいつもその後を用意していないんです。
わたしには想像できないな。
殺されちゃった小傘さんは、悲しいんだろうか、怒るんだろうか、許してくれるんだろうか。わたしに向かってなんて言うんだろう。逆にわたしは何を言うかな。とりあえず言い訳するとか、謝り尽くすとか、あれれ死んでないんですねわたしびっくりさせられちゃいましたあはは。
なみだめ。
それは、唐傘の、お化けの、潤んだ一つ目、のなかでひとり戸惑い立ち尽くすわたしの目。
小傘さんは泣きそうな声で言う。
「ねえ、それってさあ、あれでしょ、死後の世界は月でした、みたいな話でしょ?」
「まあ、そうですね。実際は、月に着くまでの間だけ息を止めてるんです」
「じゃあ、さなえは、月に行ったとき、やっぱ、その、息止めてもらうの、したんだ?」
「ええ、霊夢さんにしてもらいました。お互い裸になってね。ふふ、やられるのもけっこう悪くなかったですよ」
「へんたい」
小傘さんは、やっぱり泣きそうな顔だった。
唐傘お化けの方の一つ目みたいに目ん玉が大きくなって、非人間的表面張力下で、あと少し触れたらこぼれてしまいそうだった。ゼリー状の目。白葡萄とアップル味の。
本当は人間よりもずっと強いのに先に消えてしまうのは絶対に人間なのに、弱々しい人間の子どもみたいに小傘さんがすぐ泣いてしまうことが、ときどき許せなくなりそうになる。
わたしは、そんな顔して欲しくないのに、いつも泣かせるのはわたしのせいだった。
「もー泣かないでくださいよう。冗談ですってば」
「泣いてないわ」
「ほら、ごめんなさい。ほんとの月の話を聞かせてあげますから」
「べつに、そんなの、聞きたくないもん」
「さっきと言ってることはちがうじゃないですか」
「だって、さなえが、へんたいだから、変態の話は聞いちゃ駄目って言われてるから」
「誰が、言うんですか」
「わわ、やめて、耳が、変態に、なる」
それでも、わたしは月の話をする。
少し先の未来を見る薬のこと、夢の経路のこと、凍りついた町のこと、弾幕ごっこのこと、変なTシャツを着た地獄の女神のこと。
「だからまあ、月とこの地上は確かに夢の経路で繋がっているのは事実なんですよ」
「夢か。わたしも夢見れば行けるかなあ」
「かもしれないですね」
「でも、そんな都合よく月の夢なんか見れるかな?」
「それを、見る方法があるって言ったらどうします?」
「ほんと!?」
「言ったじゃないですか、月への行き方を教えてあげますって」
「やったー!教えて教えて!」
「あ、でも、小傘さんに言ってもしょうがないか」
「なしてさ!」
「だって、小傘さん、変態の言うことは聞かないんですよね。わたしは変態だし……」
「早苗は変態じゃない!」
「それでは、何でしょう?」
「え……、えーー? なに……? なにって、あー、神さま、かな?」
「ぶっぶー。正解は女の子でした。正確には、素敵な女の子、ですね」
「えー、ああ、そうね……、あ、いや、そうだよね。早苗は素敵な女の子だよっ! わたしったら憧れちゃうわね」
「うーん、まあ、いいでしょう。夜まで待ってくださいね」
それで、夜。
わたしは片手に斧を握りしめ、スキャット工場にいた。
夜の工場は生きている。
その暗闇の中をスマートフォンの灯りを頼りに進む。水面は黒色、失敗した実験の産物、液状のDemonだった。ところどころで反射するプラスチックの容器がまるで光る眼のようで。18の魔眼がわたしを刺す……。小傘さんの6倍ですね。小傘さんの目ならいくらあっても怖くない、というわけでもない。
ぴつぅうん、ぴつぅうん、ぴつぅうん、と、どこかで滴る音がする。
妙に水が足に絡みつくように思うのは気のせいだろうか。見てはいけないものを見てしまいそうで、画面の灯りもささやかにすぐ足元を照らすだけにとどめる。水面は洗剤の油で滲んで怪光線色に光っていた。壁に描かれたチョークの落書きでさえなんだか今にも動き出しそうだった。Hallo Kittyがこっちを向いてにやにやと笑っている。
幻想郷には妖怪だって幽霊だって実際に触れられる形で存在し、時にはお話をしたり戦ったりしているのに、未だに夜が怖くて仕方ないのは、どういうことなんだろうか。思うに、暗闇は鏡のような効果があるんじゃないだろうか。夜には闇が視界を覆うので、わたしたちの眼は自らの心の内の方を向かわざるを得なくなり、それが薄暗く見えるオブジェクトに形態以上の意味を与えるのだ。わたしたちはいつでも情緒不安定だった。
どしん。
震動が、天井を揺らす。
どしん、どしん、どしん。
でも、その音は、むしろわたしを安心させた。
揺れる方へ向かって歩みを進めその下側に立ち、斧の柄で叩いて、小傘さんに合図を返す。すぐに音がやんだ。しばらく待ったあとで斧を振り上げて天井を打つ。刃の先が少し刺さっただけだった。
わたしは、繰り返し、工場の屋根を何度も叩く。
やがて、天井に穴が空いた。
月の光。
あふれて、夜の工場を浄化する。
その透明な光に追い立てられ、水溶化したDemonは闇のさらに深いところに隠れこみ、水面は再び色を取り戻す。壁のHallo Kittyは笑ってない。そもそも口がないのだった。光の差し込む穴を覗くと、それは上の階――寝室に繋がっており、寝室の天井にも同じような穴が空き、それは月へと続いている。ひとつ上の穴から、小傘さんが顔を出した。
「ね、調子は、どーう?」
「小傘さんって、ぜんぜん、怖くないですね。安心します」
「ばぁか」
小傘さんがべろを出すので、わたしは嬉しかった。
最後にドラム缶を穴の下に動かして戻ることにした。
帰り道、工場の出入り口の窓のところで振り向いたら、月明かりの下になにか黒っぽい影のようなものが見えた。まさか、とは思いつつも目が離せず、次第にそれは形作られてまるで人影のように、とかそんなことはないですよねたぶん後ろの壁の染みか、あるいは小傘さんが足をすべらせて落ちたのかもこんなにも月の光で明るいのに。その影はこちらに向かって、手をこまねいているようだった。水面が小さく波打つ。暗闇の黒い色じゃなくて、月明かりの白い色の波。まるで無数の手のひらだった。そのたくさんの白い手がわたしの方へいっせいに向かいかかり、わたしは喉の奥まで声が出かかったのを、のみこんだ。あわててロープを引いて上り、二度とは振り向かない。
寝室に戻った後もまだ震えていた。
どうしたのなんか怖い顔して、あ、やっぱわたしが怖かったんでしょ、これでも暗闇はわたしのホームグラウンドだからね、とかなんとか言っている小傘さんの顔を見たら不思議と落ち着いてくる。
そういえばと思い出して確認すると、スマートフォンの画面は真っ暗だった。
月明かりで周囲が見えるようになったので無意識に接続を切っていたようだった。
だから、あれは、本当の意味で単なる幻覚だったのだ。
川を流れる車とか、空を飛ぶ天狗飛行機とか、そういうごくありふれた景色の一部。
そういうことにした。
それからは、もうそのことは忘れるようにして、服を着替えて月のことだけを考える。
「それで、どうやって月の夢を見るの?」
「見たい夢に関する物や絵を枕の下に挟み込むとその夢を見られるっていう話をご存じですか?」
「あ、それ、聞いたことあるよ」
「つまりね、月を枕の下に閉じ込めれば、月の夢が見れるってわけです」
「あはは、そんなことできないって!」
「ふふふ、じゃあ、ちょっと見て下さい」
さっき、下側から開けた床の穴をわたしは指さした。
そこからは配置した通り、ドラム缶が見える。
そして、その中には、月があった。
今日は偶然、満月に近い日だったから、とっても丸い月だった。
そこに住んでいる兎や蟹だってはっきりと見える。
あ、月。小傘さんが呟く。
「そうです。わたしたちは、こうして、月を発音塔のなかに閉じ込めました」
それから、その穴より少し大きめの板(空き部屋の壁から引きはがしたものです)を使って床の穴を塞いぐ。そして、ちょうどその上に枕がくるように、布団を敷く。
「で、こうすれば――ほら、枕の下に、月があるじゃないですか!」
「わあ、わー、まじじゃん! すごい!」
「ふふん、どうですか」
「これでさ、これで、月の夢を見れるよね」
「じゃあ、早速、月世界旅行に行きましょうか。寒いし」
わたしが布団のなかに入ろうとすると、小傘さんが呼び止める。
「あれ……、でもさ、これって意味、ないんじゃない?」
「どうしてですか?」
「だってさ、こう、光が……、月の光がこう入って来ても結局枕があるから、その下のとこまで行かないでしょ?」
「いや、そんなことないですよ。今こうして月の光が届くとか届かないとか、そんなんはもう全然、関係ないんです。さっきも見たでしょう。いいですか、わたしたちは、こうして枕の下に月を閉じ込めたんですよ!」
「えー、でも、でもさ」
「その証拠に、ほら――」
もう一度、枕を上げて板を外す。
ドラム缶の中には、依然として、月。真ん丸の。
「ちゃんと、残ってるじゃないですか」
小傘さんは考え込んでしまう。
元に戻してわたしは先に布団に入った。
後から小傘さんも入り込んでくる。
空けた天窓から風がびゅーびゅー侵入してきて、とても寒い。
ねえ、はぁあ、息が、見て、白いです。
月明かりの下で、煙みたいだった。
小傘さんが言う。
あのさ、さっきのさ、なんかさ、なんか、ずっこいよね?
ずるくなんかないですよ。
わたしは毛布を被る。その暗闇の中で小傘さんの身体を抱いた。
こめかみにかかるのはリズム感のない吐息。
かすかにあたたかい。
あの工場の影のことを思い出す。
たしかに、あれは、いつも通り幻視する町の一部だったんだろう。
でも、町を幻視するときは、それが現実の現象に重なりあうことが多いんでは。
それならば、あの影は……。
小傘さんの、心臓の音。
お化けのくせに、ちゃんと鳴ったりするんだな。
そのことがなぜだか今日はとてもおかしくて、わたしは嬉しくなってしまう。
わたし、小傘さんがお化けでよかったです。
あのね、言っとくけど、わたし、お化けでも妖怪でもないからね。付喪神って言ってね……。
よかったです。よかった。
まあ、そうね……。
だけど、お化けのくせに泣き虫だからそれはむかつきますね。それはまじでもう毎日3時間くらい反省して下さいよ。
うっさいな。
でも、ほんとに小傘さんがいてくれてよかったんですよ。
うん、聞いたよ。
小傘さんの心音はもう聞こえなかった。
たぶん、わたしのほうが先に寝たんだと思う。
夢を見た。
帰れないピクニックの夢、夏の夢、守矢神社の夢、どうしても解けなかった宿題の夢、得体の知れない暗闇に追われる夢、故郷の夢、ドーナッツを食べ損なう夢、シュークリームを食べ損なう夢。
喋るのはいつでも月の夢だった。
5'
ある朝目醒めると不意にこれまでその複雑さによって高度に足らしめられ、ある種神秘めいてさえいたものが、視神経の奥まったところでばらばらに分解されて単なる要素の集合にしか見えなくなることがある。対象からディティールが失われ、画一的で平板な表情しかそこには残らない。複雑さとディティールの間には密接な関係がある。ディティールとはつまり要素と要素の連絡に関する様式だからだった。
それが、理解の地平を切り開く、という類のことなら、べつにいい。寝ている間にわたしたちは学習したことを配置し直すので、昨日まで難解に見えていた問題が次の日には
ふと解決されることもある。
覚えること、繋ぎ直すこと、理解すること。
でも、それはたいてい、あるひとつの過剰トラフィック神経系の焼けつきにすぎない。わたしたしは昨日までとても熱中していた物急に退屈してしまう。わたしはある朝目醒めたその寝ぼけ眼でもはや連絡の失われた要素を辿る。これは布団、これは毛布、これは枕、あれは机、コップ、水道水、汚れた綿棒……。どこかから短絡したシナプスの焦げ臭いにおいがする――焦げ臭いにおいが、煙……。煙?
「あ、さなえ。おはよ。うん、これのことだよね、これはね……えへへ。ほら、この前、お肉をバーナーで焼いたでしょ? 今日のお昼はパン・ベーコンエッグがとれたから、あたたかくしようと思って焼いてみたんだけどね、失敗しちゃった! 午前中のごはん、なくなっちゃった……。ごめんなさい! お願いだから怒らないでね。これからは、わたしのこと、焦がしちゃんって呼んでも良いから」
「こがしちゃん? まあ、べつにいいですけど……」
顔を洗って服を着替えた後でキャリーケースの中の銀色の缶の中のへそくりビスケットを食べることにすると、小傘さんの方ではわたしがへそくりビスケットを食べているのを見ている。
「ねーちょうだい」
「えー」
「お腹減っちゃった」
「それも元はと言えば、小傘さんのせいなんですよ。反省してます?」
「してるよう! ほら、ごめんねのポーズ」
「うーん……、じゃあ、犬の真似してくださいよ」
「いぬぅ?」
「そしたらあげますよ」
「わかったよ……へっへうへっへっへうへう」
「え、なんですか、それ」
「犬だよ」
「いっつも思いますけど、小傘さんへたですね」
「下手ってなにさ!」
「普通にわんわんとかでいいじゃないですか……」
「あのさ、早苗、犬ってさ、わんわん鳴くのは威嚇とか敵意を示すときの鳴き声なんだよね。いまは、反省の意を示してる場面だから、わんわんはちがうよね?」
「いや、そういうディティールはいらないんですよ。新しいのきちゃうと、こう、こっちもびっくりしちゃって、あんまり喜べないというか……。あれですね、焼餃子を食べたいと思って中華屋で頼んだら水餃子が出てきて、本場はこうなんです、とか言われても困る感じです」
「知んないよ。とにかくちょーだい」
「はい」
「ありがとう、いただきまーす……。うぇえ、これ、へそごまビスケットじゃん!」
「あはは」
「わたしも栗味が食べたい!」
「だめです。小傘さんは胡麻味で我慢して下さい」
「これ、めちゃまずだもんなぁ……」
じゃあいらないですよねとか聞くまでもなく小傘さんは、ばりばりかりかり食べているから馬鹿舌だなあと思いつつもあまりに威勢よく食べるのでもしかしたら段々とやみつきになるところがあるのかもと思って胡麻味の方をひとつとって食べてみたらやはりひどくまずかった。水を飲む。
そうこうしていれば、気がついて、例のゲームのアップデートが終わっていた。
タイトル画面には桜吹雪。新しいキャラクター。
でも、それは、べつに、ぜんぜん刺激的じゃないから画面に触れてそっと消す。
使い回しのイベント、既視感のある展開。
友だちはもう43日もログインしてないんです。
ゲーム内のチャットコーナーでは予言者たちが拡声器を片手に終末論を語り回り、人々は新世界の夢を見る。方舟に関する怪しい噂が町を走る。路地裏を歩いていると浮浪者然とした男がわたしに言う。なあ、姉ちゃん、聞くだろう。ここはもうおしまいだよ。だが俺は切符を持っている。ひとつ分けてもいい。道の、どこに行けばいいか。そうだな、たったの金貨3枚でいい……。
どうしたら、そんなことが想像できたのかな。わたしは考えてもみなかった。
ずっとわたしは、わたしが失われる未来のこと、わたしの信仰の貯蓄が空っぽになってしまいもはや故郷への接続も断たれただその画面の上に黒だけを映す死んだ板を握りしめている未来のことばかり考えていたのに、ここに、わたしは今いて、まるきりそのまま完全体でいて、ひとつのソーシャルゲームが終わりゆくところを眺めている。わたしは未だ存続し、ある社会の方が失われる。
わたしは、わたしが思うよりもずっと強固なのかもしれない。
もちろん、それだからって、喜べる道理はどこにもない。
ねえ、どうしよう。全然わかんないよ。
わたしは、こうして正しく失われたものをちょっと羨ましく思っていて、そのことが、今ここでわたしを寂しい気持ちにさせるけれど、それは単に、あるひとつのものが失われるときに感じる寂寥感一般にすぎないのかもしれない。
「ねえ、早苗、見てあれ!」
小傘さんが、何かを言った。
見れば、窓の方を指さしている。
そこでは河童が川を流れていた。
もちろん、河童は日がな流れされている。仰向けになって昼下がりの光を浴びながら心地よさそうに流れていたり、カップルらしき二人が手を繋ぎお互いを触れ回りながら泳いでいたり、時には工具を握りなにやら遠いところで考え事をしたまま流されていることもある。
でも、そこにいた河童は、あまりにも数が多かった。
わたしたちは縁側へそれを見に行ったのだ。
河童たちは、ざっと20人以上もいた。それが、横に並び縦に並び乱雑な形でまとまり、みな一往に仰向けになって流れている。泳ぐのとはちがう、川の速度そのままだった。
そんなにたくさんの河童が一度に流れているところを見たのは、はじめてだったから、わたしは少し驚いてしまう。なんだかちょっと異様な光景だった。
だからその流れがちょうどわたしたちの家の前までやってきたとき、その先頭あたりにいる顔見知りのひとりをつかまえて話を聞いたものかどうか逡巡してたら、小傘さんの方が、先に話をかけた。
「ねえねえ、なに、してんの?」
近くまでやって来てはじめてわかったのだけれど、流れる河童の周りには、たくさんの花びらや花弁、あるいは、同じ種類のものらしい花束、なにやら丁重に包装された不思議な素材の黒い箱のようなものまであり、それらが一緒になって流れている。
声をかけられた河童が半回転し、白い花びらの絨毯を裂きながら、ついーっとこちらへ泳いできた。
「やあやあ」
「こんにち、わぁ」
小傘さんの新しい挨拶はとてもうざい。
ずっと一緒にいるから、わたしは、わざわざ挨拶とかされないんで、別にいいけど。いいけど。
河童は言う。
「そういえば、早苗、聞いたよ。月に行ったんだって?」
「え、まあ、そう……」
「河童たちの間でも評判だよ。ロケットをつくる――宇宙に行くっていうのは、河童たちの夢のひとつだからね。どうしてなかなか面白いアイデアだね。もちろん夢の経路は、わたしたちの望むところじゃないんだけど、でも、それはひとつの達成だよ。あとで味噌を贈ろう。気にしなくてもいいよ。わたしたちの風習さ。技術的達成には、たくさんのきゅうりを、空想的達成――つまりは、アイデアってことだけど、にはね、味噌を贈ることにしてるんだ」
「それはそれは。ありがとうございます」
小傘さんは河童たちといつの間にか仲良くなり、わたしの知らないところで色んな話をしているらしかった。
その小傘さんが、流れる河童の集団を指さして聞いた。
「あれは、なに?」
「ああ。あれはね、葬式なんだ」
「そうしき?」
「うん、そうだよ。だれかが亡くなったときは、その亡骸をああやって流すんだよ。人間なら焼くんだよね?」
「わたしの周りは、まあそうですね」
「それは魂が天にある国に行けるようにするためって、聞くよ。別の妖怪たちの中には埋めて残しておくのもいるって聞く。それはやがて魂が戻ってきて復活を遂げるためっていう話らしいけど、河童たちは魂を信じてはないからね。信じてるのは、仕組みだよ。正しく働く仕組みがわたしたちの神様なんだ。死んだものは、つまり、すでに仕組みが機能していないってことでしょ、そこには何もないんだよ。空っぽだ。とっておいてもしょうがないだろう。だから、流すのさ」
「あのひとたち、みんな、死んじゃったの……」
「いや、お亡くなりになったのはひとりだけ。ま、昔の名残だよ。狸や狐たちなんかと戦争をしていた頃のね。ああすることによって誰が死んだか情報が漏れないようにするんだよ。特にお偉いさんが亡くなったときにはね。向こうの士気や作戦に関わるでしょ?」
「うん」
「今は、そんな必要もないけどね……。でも、死んだ河童は空っぽだけど、残されたものには、その影がはっきりと染みついてる。それが、彼らを笑わせたり悲しくさせたり、時々は仕組みをおかしくするのさ。だから、一緒に流れることには今でも意味がある。死んだものを弔うことを、河童の言葉では、影を流すって言う」
それはなにかわたしには理解できない発音の言葉だった。
New York……。
数学。
ぐにゃぐにゃの声。
「じゃあ、あれはなかよしだった人なんだね?」
「うん。家族や親戚、友だち、恋人、みんなで流れるんだよ」
たしかに、言われてみれば、それは葬列のようだった。
花びらや花束が、彼を中心に添えられているようだから、たぶん、あの真ん中あたりにいるのが今まさに葬られている者なんだろう。
ここか見るとその河童は、まるでまだ生きてるみたいだった。それとも、周りのみんなが、もう死んじゃってるように見えるのかもしれない。死んだものは単なる機械的な残骸になってしまうという信仰のわりに随分ご大層な葬儀じゃないだろうか。そう簡単に割り切れるものでもないんだろうな、きっと。あるいはどこかの時点で他の種族との文化的接触が起こったのかも知れない。死者の隣を流れるあの黒い箱の中にはわたしたちが棺桶の中にそうするみたいに生前死者が愛用していたものなどが入っているんじゃないかと想像をしてみた。
よくよく観察していると周囲の河童たちは、時折、もぞもぞと動いているようだった。特に身体の小さい子どもの河童たちは、その動きが大きく、ばしゃばしゃと波を立てたり回転する者までいる。そのへんは人間とちっとも変わんないんだなあと、なんだかおかしい。
「あれ、子どもたちですよね」
「うん。彼らはまだこういう場に慣れていないんだよ。中には、泳ぎが上達してきた年頃の子はそれが嬉しいのか、どんどん泳いでいってしまうものもいるね」
「ふふ、人間でもいますね、そういう子」
「でも、いい経験だよ、死んでみるっていうのはね。はじめは我慢できないし退屈かもしれないけど、でも幼い頃に一度は体験してみるべきだ」
「かもしれないですね」
ひとりの子ども河童が、例の黒い箱に手をつけようとして、母親らしき河童からたしなめられているのを見た。ぶたれるのも見てしまった。
ふと、おじいちゃんの葬式の時に、親戚の小さい子が棺桶の中のお菓子を見て、いいなあと呟いていたのを思い出す。不謹慎なのかもしれないが、その発言にはなにか肉体の生死とは別のところに祖父の存在を肯定しているような気がして胸の空く思いがしたのを覚えている。
「しかし、ぶつとは、こわいお母さんですね」
「早苗みたいだね!」
「え、わたしはぜんぜん優しいんですけど」
「まあ、あそこには、河童のいちばん大事なものが入ってるからね」
「それって、なーに?」
「それっていうのは、設計図だよ。わたしたちは、みんな自分の特別な設計図を持っているんだよ。とても素晴らしい発明ではあるけれど、技術的には実現できないような、そういう類のね。それを大切に他の河童にはわからないように隠しておいて、死んだらああやって誰もそれを見ないようにして、一緒に流してあげるんだよ」
「え、どうしてです……。素晴らしい発明なら、みんなで共有すればいいじゃないですか。そうすれば、その時は創れなくても、そのうち技術が発展すれば、実現の可能性だってあるのに……」
「わたしたちには、プライドがあるからね。自分の最大の発明には、自分自身がエンジニアとして携わりたいんだよ。逆に残されたわたしたちのほうでは、失われたものがどんな優れたアイデアだろうと、自分たちで発明できるって思うわけさ」
「ふうん」
「愚かだと思うかい?」
「べつに、そんなことは……」
「いや、いいんだよ。実際、わたしたちは愚かなのさ」
「まあ、そう……? あ、でも、わかったな。そんなんだから、いつまで待っても巨大ロボットができないんですね。わたしね、ずっと待ってるんですよ」
「ふふ、まあ、そうかもね」
笑うと、そのまま河童は水の中に消えてしまう。流れてはみんなのところに混ざり、そして仰向けに浮かびあがりその後はただ死んでしまった。
小傘さんは、とうに家の向こう側へと過ぎ去った河童たちに手を振っている。葬列に手を振るのもどうなんだろう、とわたしは思いながら言わず、スマートフォンでゲームをする。それは、遠くなる霊柩車だった。色とりどりのスーパーカーたちに周囲を取り囲まれた。
へんなの、とやがて小傘さんが言う。
「河童は、いつでも昔のスーパーカーみたいだ、っていうことがですか?」
「え、なあに?」
「いや……」
「河童たちってやっぱりなんかへんだよねー。わたし、好きだな」
「わたしも好きです」
ちょうど外に出たタイミングということもあり、わたしたちはそのまま洗濯をする。
気がつけば、もう夕暮れだった。
わたしたちの手は赤い。
冷たい川の水に曝されて赤く、夕日に染まって赤かった。
ぴちゃぴちゃぴちゃと音を立てながら服を擦り合わせる小傘さんに後ろから近づいて、その泡だらけの冷たい手でうなじに触れるのに、小傘さんは、う、ああ、と静かに呟いたきりで、じっと川の流れを見つめていた。
ねえ、ってしばらくあとで言う
「なんですか?」
「ねえ、わたしたちだったら、一緒に流れてくれる人いないよね」
「そうかもしれないですね」
「それって、寂しいことだよね」
「まあ、そう……」
「ねえ……、ねえ?」
「なんですか、もう」
「あのさ、わたし考えたんだけど、わたしが死んでも、早苗が一緒に流れてくれるかな」
わたしは、小傘さんがそんなことを言う理由がわからない。
小傘さんには、選ぶ権利がある。
もういちど、今度は両手で、その首に触れる。
「わ、つめたい、うぅ……」
「あたりまえじゃないですか。逆にね、わたしが死ぬとわかったら、絶対、絶対、死ぬその前にわたしのいちばん大切な、いちばんの発明の、小傘さんをあの箱の中に閉じ込めて一緒に流しますからね、覚悟してください」
「ね、それって、さでずむ?」
わたしは小傘さんのほっぺたを、ひねる。
「これが、さでずむです」
「うぅ、ひたいよう」
洗い終えた服を絞って水気を抜くと、ぼたぼたぼたと水滴はいっぱい垂れ落ち、物干し竿にそれらを景気よく掛けていくけれど、ピンク色のバスタオルの向こう側で小傘さんはまだ喋っている。その薄い影が。
「あのさ、思ったんだけど、わたしたちに子どもとかいればよかったよね」
「子ども?」
「そしたら一緒に流れてくれると思うし、わたしたちが死んでも残るでしょ。それにかわいかったよねえ。あの、河童の子たち、かわいくなかった?」
「まあ、そう……どうかな」
そんな勝手な理由で残されてしまった子どもはたまったものじゃないだろうなあとわたしは思う。物干し竿の上から向こう側に町が見える。広告塔のヴィジョンには、最新のうがい薬のCM。『お願いします。どうか進歩を、感じて下さい』まあ、そう。スマートフォンを手にとってゲームをする。
「っていうか、妖怪って子どもとかつくれるんですか?」
「だからー、わたし妖怪じゃなくて、いわゆる……」
「ああ、ためしに分裂とかしてみればいいじゃないですか」
「早苗は妖怪をなんだと思ってるのよ……」
小傘さんは、ため息。
それから干された洗濯物たちを端っこを順番に引っ張って伸ばしていたけれど、そのどこかで呟いた。
子どもなんかできないよね。
スマートフォンの画面で反射する夕日がとてもうざい。
夕ご飯にはオムライスを食べた。
そのあと身体を洗ったらもうすることがなにもなくなって布団に入って眠る。
頭上ではブルーシートがはためいている。この前、月を閉じ込めようとした際に開けた穴だった。今ではその穴も、ぱりぱりの青空の向こう側から隙間風を許すにとどまっている。
小傘さんは、やっぱりずっと上の空で、布団に入ってからもこんなことを聞いてきた。
「ねえ、さなえは、子ども欲しい?」
別にそうは思わないとわたしが答えると、また少し考え込んで言う。
「あのね、早苗の故郷じゃ、子どもはどうやってできるの?」
そりゃあもちろんこっちの人間とおんなじですって答えようとして、やめた。
「うーん、微妙な問題なんですよね」
「なにそれ?」
「わたしの故郷、つまり、スキャットの国ではね、人々は子どもを産むことはできないんです。でもたしかに愛し合ったふたりに子どもはできるんです」
「どういうこと?」
「つまりね、あー、どこから説明したらいいでしょう」
「そりゃあ、はじめからだよ」
「当然ながら、はじめには、愛しあうふたりがいます。物事はそこからしかはじまらないですよね。それで、ふたりは、逢瀬を交わしたりするうちに愛が深まった挙げ句、最終的には何もかもを統一したくなって、丘の上で、婚姻の儀を交わすことになるんです。まあ結婚式ですね……。とは言っても、誓いの言葉を吐いたり指輪を取り交わしたりするんじゃないですよ。何をすると思います?」
「なにって……そりゃあ、ね」
「何が、そりゃあねですか、ばーか。単に、そこで、ふたりで歌うんですよ。お互いの固有のスキャットで一緒にデュエットをするんですよ」
「ばかってさ、ばかって、そっちの方がずっとばかっぽくない?」
「あー、うるさいです。とにかく、えーと……、そう、ところで、その彼らが歌う丘の先には、渓谷があります。その崖の壁には穴が空いていて、そこにはスキャットのない子どもたちが住んでいるんです。スキャットのない子どもたちは、みな日の当たらない洞窟の奥に住んでいるため肌が白く、言語さえ持っておらず時折ぶーとかうーとかの言葉にならない言葉を発しながら、洞窟の中をうろうろうろうろしています。そうですね、だからそれは渓谷の上から見下ろせば、崖の脇の穴の中で、まるで白い入道雲が形を変えながら蠢いているように見えます。その時点で、彼らには意思といったものはほとんどなくなく、不明な走性によって動き回り、彼らにいわゆる生命があるのかどうかも定かじゃないんです。でもですね、やがて彼らは変態します」
「へんたい?」
「ちがいますよ。形が変わるってことです。羽化……。彼らは時期が来るとやがてひとつの歌を喋るようになるんです。それを彼らは空の方から授かります。ある日、天から唐突に聞こえてくる歌――そのスキャットを自分の歌にするんです。もう、わかりますよね?」
「ああ、結婚式の?」
「そうです。愛しあうふたりは丘の上で一緒に歌をうたい、そしてそれは、峡谷の下で混ざり合って新しいひとつの歌になるんです。そして、それがスキャットのない子どもたちを、スキャットの国の子ども――彼らふたりの子どもに変えるんです」
「みーんな、同じ子どもになるの?」
「いや、その歌を覚えることができるのは、なぜか決まって、ひとりか数人です。そして新しい子どもたちはそれぞれ微妙に異なるスキャットを有しています。ふたつの歌が混じり合ったものを、ひとりで、そのまま歌うことはできないですから、それぞれの子どもたちが、たとえば洞窟の高さとかその中での位置とか、そういったもので、異なる歌、性格をもった兄弟になりますよね」
「あ、ね、ひとついい?」
「なんです?」
「じゃあさ、そのスキャットのない子どもたちは、どこから来るの?」
「それは、わたしたちには、わからないんです。峡谷の間にはとても強い風が吹き、その下に降りる手段は、少なくともわたしのいた頃は、なかったんですよ」
「ふうん。そっかあ……」
そして沈黙。ばさばさと青空だけが揺れている。
少しあとで小傘さんは言う。
「ね、じゃあ、もう早苗も、子どもとかつくれないんだ?」
「いいえ」
「えー、なんで? だってここにはそんな子どもたち、いないじゃん」
「だってね、小傘さんが、そのスキャットのない子どもたちのひとりなんですから」
「え、まじ? 知らなかったわ、そんなの」
「ふふ。だって歌を、思いつかないじゃないですか」
「……むう」
ちょっと考えたあとに小傘さんは、じゃあわたしは早苗の子どもだね、って言う。
それなら、なれるよね?
「べつに、わたしの、ってわけじゃないですけど、でも、そうですね、わたしが、いろんな男の子とか女の子とか交わって生まれたすべての音楽を、そのメロディを小傘さんに分けてあげますよ。こうやってね、足とか手とか縛り付けて口を塞いで押し入れのなかに閉じ込めてね、その……、薄い扉一枚の向こう側で喘ぎ声を聞いて下さいね」
そして、情報案内所の裏側のラスベガス風の黄金の滝の後ろに隠された『新天地』で、そこで、わたしは、入れ替わり立ち替わりたくさんの人間と寝ることになる。
その、音が。
アトランダムな交雑が、それが音楽を生み出してポップソングとなって店頭に張りついたスピーカーを通して町中に響きわたり、パレードを現象させるので、わたしたちは楽しい気分で毎日を過ごすことができる。
乱交は音楽だった。
いろんな人たちの体液の……、精液や愛液、滲んだ汗や唾液とかの交わったやつが染みついたその下着をドラム缶のなかの合成洗剤で焼いて漂白する。
小傘さんのは、雨の色――とっても透明だから混ぜてあげないんです。
ぴ、こん!
(通知音。わたしたち、とてもびっくりしてしまって毛布を引き込んでその中にすっぽり隠れてしまう。)
まるで、それは、天使たちが魔女の人形を漂白するコインランドリーで乾燥機に投げ込んだ濡れた衣服はみんな燃えてしまうからわたしたちは裸のままその遺失物置場の毛布の中に隠れる、みたいな。
泣いたりはしちゃだめなんだよ。
わたしたちが見つかっちゃうから、そこに存在する、ってことがはっきりわかるから。
小傘さんのやせ細った鎖骨の部分、そのくぼみを円周に沿って舌で撫でて、それから、耳を嚙むと声を出す。あ。
「ねえ、早苗」
お願いだから、く、すぐ、っ、たい、とかは言わないでくださいね。
(わたし、そういうの、とっても萎えちゃうんです。いつでも真剣にいて欲しい。)
言わないけれど小傘さんは泣いている。
「ごめんね」
そうやって小傘さんが言ったのが聞こえなかった。
わたしの胸のあたりに額を押し当てて泣いている。
窓の外には信号機。赤色に点滅してた。
車の流れが今はとても緩やかだった。
遠いところで救急車のサイレン。バックファイアするバイクの音。
着いたままのスマートフォンの明かりが毛布の中で小傘さんの白い肌を反射する。
その手を、取る。
ロック画面の通知欄には、『魔力がたまったよ!』の文字。
日々閉じていくソーシャルゲームに関する太古の予言。すすり泣き。
それが、わかんないこと、泣きそうになって電話も繋がらなくなってひとりぼっちでそこでここであたりそこらじゅうあちこちで泣いている人たちみんなを救ってあげたいと思うけどそんなことできるわけもないし電線とかってわたしも好きだよ。それがここにないことがとてもとてもとても残念でそれだけでもうホームシックになっちゃったみたいな感じで、てめぇで選んだのにそんなふうに感傷したら、駐禁を切られたカローラの赤いボンネットとかコンビニエンスストアの前の濡れた傘立て、老人と警察が座って言い争う錆び付いた黄色いベンチとか、そういうすべてのものを包括するひとつなぎの表面の汚れとかが愛おしくてたまらなくなってそう感じたいがためにこうして今失ったんじゃないかと思うほどなんだかばからしくて笑いが出る。それらがみんな木みたいになってこの場所で自生したらいいのになあ。それらを、まるで連続写真みたいに切り取って高速で再生して町の部分部分が立ち現れては消えていく映像の、それは、なにか巨大な手のようなものがミニチュアの町を積んでは取り払っていく児戯のようで、高層ビルや商店街や家々や、家々の間に奇妙に収まった三角形のアパートや学校やグラウンドや、子どもたちや大人たち、満員電車とか歩道橋、その表面の造形が……。
愛しいものはみんな巨大な手によって創られる。
きみの、すべすべした傷ひとつない小さな手、あんまりに無意味だからうんざりしてしまう。
(ねえ、嘘ですよ、驚いた?)
もういっぱい愛してるんです。
こんなにもかわいらしい無垢な手なんだから。
だからさあ、そんなふうに泣かないでね。
泣かないで、泣かないで、泣かないで、ねえ……。
泣かないでよう。
それから、遠いところで音を聞いた。
ぱた、
ぱた、ぱたぱた、ぱた。
何でしたっけ、この音は。
ぱたぱたぱたぱたぱたぱたぱた。
小傘さんはまだ泣いている。
外から聞こえる音はだんだん強くなっていた。
ぱたぱたぱたぱたぱたぱたぱたぱたぱた。
そうだった、それは雨の音でした。
わたしは敷かれた布団にそっと耳を当てる。川の流れる音がする。
わたしは想像する。
奔流する川に家が流されるところ、わたしたちが、ない海へ向かって延々と流れていくところ、川の留まりでこの小さな寝室がどんどん広がっていき、その真ん中でわたしたちも膨らんでやがて奇妙な菌糸類のようになってしまいこうしてひっついているにも関わらず心臓の鼓動も遠く、雨の音しか聞こえない。
ぱた、ぱたぱたぱたぱた……。
それでも、小傘さんは泣いていた。
おへそからに足のほうへと流れる冷たいもので、それがわかってしまう。
わたしたちは知らない。
憂うつや悲しさや寂しさわたしたちを狂気に連れていく何者かのことを。
そういったものすべてを捨てるために、逃げてきてしまったから、睡眠薬も抗鬱剤のことも知らないままわたしたちは、しかたなく今日も合成洗剤の名前を蒐集するんだよ。
中身のなくなった洗剤をまた川に戻して、ありうべき最期に向けて工場を目張りする。
白いチョークで、工場の壁にこんなメモを残す。(そして、すぐに消すんです。)
はろーはろー、ダウニー。ばいばい、アリエール。
(ねえ、いつまでもそんな布団の中で隠れてないで冷たい飲み物でも買いに行きましょうよ。とびきりの甘いやつを、コンビニエンスなストアにね。なにそれって言われたって、まあ、それはそういう……。わたしずっと喋りぱなしだったから喉が渇いてこうして張りついてうまく声が出せないんです、あー、あー、あー。ほら、傘なら持ったからはやく立ってよ。雨音、好きでしょう。そんなうんざりしたふりしなくたってどうせすぐにみんなだめになるんですから、だるいとかそんなさ……、体はもういいでしょう。ね、アイディアひとつ、教えてあげますよ。わたしたちは今日から亡霊になるんです。お話の残りなら、歩きながら聞かせてあげますから、ほら、歩いて……。)
.6
あれから雨は降り続いている。
三日三晩止むことなく、雨は降り続け工場は完全に川の底に沈んでしまった。
チョークでチャンピオンの線を引くのもやめた。
引き直したところで、すぐに更新されてしまうので。
わたしは屋根の上に座り小傘さんを差している。
それが、言う。
「ねえ、さなえ、怒ってる?」
「おこってなんかないですよ」
薄暗い土砂降りの中で、信号待ちのヘッドライトの列だけがぼんやりと輝いていた。
テールランプの赤い光。
それらが境界の曖昧な紐になり、まるでこの家を取り囲む電飾、巨大なクリスマスの黄昏のようだった。
雨音は途切れなく続き、ラジオの空きチャンネルみたいな音がする。
じぃざぁあああ……。
霧めいたその向こう側に、ヘリコプター。
高層ビルと高層ビルの間を旋回していた。
「雨、嬉しくないですか?」
「うん、好き」
「じゃあ、そんなこと聞かないでくださいよ」
だいたい傘が喋るなんてそんなのおかしくないですか。
喋る傘なんてわたしは嫌だから目をつぶって、コンビニエンスストアの入り口で盗んだ透明な傘と取り替えてしまって、あとはその暗闇の中に小傘さんのべちゃべちゃした声だけを聞く。雨傘は水棲だった。あるいは、単に舌が長いってだけなのかも。
「ねえわたしたち、ブラックレインみたいですよね」
「え、なぁにそれ?」
「昔住んでた町の話」
どういう話って聞かれるから黒い雨とだけ言う。
それじゃお話になれないって。起、承、転、結、とか知んないわけじゃないでしょ?
どの口で、そんなこと言うんですか。
目を開いて見上げれば、紫色の空が見える。
わたしは小傘さんの裏側が好きだったんです。
その骨組みの、一生懸命広げて、端っこをぎゅっと握った小さな小さな手が。
指で、押してみる。
あえ。
凹んだ。
「黒い、雨が、降る、っていうお話ですよ」
「そんだけ?」
「ええ。小傘さんなら、どんな色の雨を受けてみたいですか?」
「えー、なにそれ。雨の色なんか考えたこともないよー。でも、うーん、黄色、黄色かな。わたしの紫色に黄色は映えると思うんだよねえ」
「ばーか、緑ですよ。緑が一番に決まってるじゃないですか」
「え、緑は、ちょっと」
「む。なんでです」
「なんか、なんか、緑色の雨って気持ちわるくない?」
黄色い雨だって十分気持ち悪いだろうがようと思ったけど、でもたしかにわたしは小傘さんの雨にはなれないな。
わたしは小傘さんの頭のてっぺんの緑のへたですよ。
ちゃんと育んでね。
通り過ぎるトラックの荷台には、電柱。
小傘さんが言う。
わたしは、茄子じゃ、ないし。
まあ、そう。
「ほんとに、ほんとに怒ってない?」
「ええ、ほんとですよ。どうしてそんなふうに思うんですか」
「だって、雨……、ずっと降ってなかったのに、今は止まないから、早苗、怒って雨降らしてるんじゃないかなあって」
「まったくもう。人を何だと思ってるんですか」
でも、言うとおり、この地に降る雨のすべてはわたしたちの悲しみや寂しさや憂鬱の比喩だった。わたしは悲しい時には雨が降る町で育ったので、やっぱりここでもそれをやる。
まあ、そう……、そう。
気分にあわせてその色合いを変える空模様とか怒りとともに激しくなる川だとか、そんなお話は、なんだか馬鹿っぽい気もするけれど、でも奇跡を行使するというのはそういうことなんじゃないだろうか。間違えなくそれまでのわたしは現人神だった。そんなことはもう忘れて小傘さんと暮らすためにこんなところまで流れ着いたつもりだったのに、結局わたしは、まだ……。
ねえだけど、それは小傘さんがいつも、お話、お話、って、ねだるせいですよ。
(それに、まずいことに、わたしの方でもそれを愛してもいるんです。)
わたしは小傘さんを裏返してみたいと思う。裏返して、ヴァンパイアにしたい。わたしは小傘さんについて本当のことを暴いてやりたいとずっと思っている。でも、小傘さんは決して安っぽいビニール傘じゃないから、その構造が全然ちがうから、こうして上に掲げて下方向に思い切り引っ張ってもそのままの形状で落ちてくる。
「わ、やめ、やめてっ」
「わたし、小傘さんがこうもり傘になるとこ見たいなー」
「どういう欲求?」
「でも、でも、牙、とか、羽、生やしてみたら、結構怖いフォルムになると思いますよ」
「そしたらジャンル変わっちゃうじゃん。わたしはね、この唐傘で人を驚かして見せたいのよ。お化け傘としての矜持があるんだよ」
「よく言うよ」
信号が青に変わると、走り出した車のバンパーが雨を切ってまるで川の流れのようだった。
わたしはそれを眺めていた。
小傘さんが上の方から言う。
ねえねえさなえ。
なんですか?
わたし、雨降ってると楽しいよ。
うん。
でも、早苗はそうじゃないから、わたし、どうしたらいいかわかんないな。どうしたらいいんだろう?
小傘さんは口ずさむことができる。
自分の、空いっぱいに貼ったその身体中を跳ねる雨音を。
ぱちゃぴちゃぷっぷーちっちっちっ。
それはぐにゃぐにゃの発音の歌、ダイヤルをひねってチャンネルを変える。傘を閉じた。
じぃざぁあああ……、ぷつん。
雨が降り出してからは、わたしたち月旅行しかやることがない。
月への入り口は、工場の屋根に空いた穴だった。
わたしたちは石を抱いてその中に飛び込むのだった。
石飛行=月世界旅行。
わたしたちは、とうとう月に到達したんです。
その経路を見つけたのは小傘さんだった。
工場へ降りるのに使っていたロープを寝室に引き込んでその先に大きい石を括りつけたら、それを抱えたまま、床に空けた穴から川底へ沈んだ工場に飛びこむ。身体が六分の一に軽くなって、月の上を浮力で以て泳ぎ回り、息が、できない。
わたしはそれを架空のTVで見ていた。
ざらざらに滲んだ映像。それはまるで水面のようで、その向こう側で、月面で、小傘さんが楽しそうに泳いでいる。宇宙服さえ着ないで、裸のまま月の上を、犬みたいにね。宇宙船は丸っこい灰色の石だった。
座って眺めていたら、そのTVの画面の向こうから、水面を裂いて、ロープを上って小傘さんが現れた。
その、びしょ濡れの顔が。額に張りついた前髪。
月の光にてらてらと輝いた。
言う。
「わたし知ったな。沈むってのは、大概飛ぶって感じ!」
「まあ、そう……」
小傘さんは裸のまま、ぶるぶると震えている。
バスタオルを渡してあげると、それで身体を拭いてから服を着た。
「月はどうでした?」
「さむいね、さむい」
わたしたちはロープで以って石を引き上げる。
天窓からは雨が吹き込んでいた。
雲の薄い部分を割いて月の光が溢れだし部屋を照らす。あたりそこら中が隙間を抜ける雨に濡れそぼち、床は大きく傾いていた。わたしたちはその傾きの端に座り込んでいる。
家は崩壊しかけていた。
降る雨が、穴の水面に波紋をつくる。
川の底に沈んだ工場、そこに閉じ込めておいた月のこと。
ゴーグルを、する。
今度はわたしが石を抱いて、水面に飛び込んだ。
その重さで、ゆっくりと沈んでいる。
そのまま石の下敷きになって二度とは上がってこれないのではないかとか思ってしまう。飛ぶってより素直に溺れる感じだった。
工場の中は月のあかりに白く染まっていた。そうだ、たしかにそれは、TVの中に見たあのモノクロのの月面みたいで――。
そして、次に目を開いたときには、わたしはそこにいた。
つきせかい。
月世界工場廃墟。
身体が、軽い、重い。うまく歩けない。
工場のどこか側面に穴が空いているらしく、水の流れがあった。煽られて、ドラム缶を倒してしまう。底の方にかろうじて残っていたらしい月の最後の残滓が、水中に白く溶け出した。ロープをぎゅっと握りしめてバランスをとる。小傘さんみたいに自由に泳いだりはできない。やっぱり小傘さんは水棲生物なのだった。
わたしは、月を幻視する。
合成洗剤の容器が周囲をふわふわと漂っている。
お世辞にも着陸成功とは言えない感じだな。
宇宙船のかけら、知らない機械。
目の前の壁で、しわくちゃになったオードリ・ヘップバーンが水流にはためていた。
アメリカン・ドリームですね。
(でも本当の月では”はためかない”んでしたっけ?そう、見えるだけ……)
わたしは裸になるのは嫌だったので気にしない服を着て、それが今は宇宙服だった。
消えかけのえいりあん。
壁にチョークで描いた、その絵が。
今ではとても懐かしい。
(そういえば、夏休みの終わりに友だちの家に泊まった夜、ふたりでコンビニエンスストアに行ってその灯りの下で並んでチキンを食べたんです。目の前を自転車が通りすぎて、友だちが言いました。さっきの同中だった。そう? おいしいものはみんな口の中で柔らかい紙みたいな音がする。友だちは灰色の上下スウェットを着ていて、わたしは『えいりあん』のTシャツを着てたんです。どうしてそんなTシャツを来てきちゃったんでしょうね。友だちが言う。チーズも食べてみる? チーズか……。うん。甘いねこれ。え甘かった?絶対に甘くはないでしょ)
わたしは結局Alienにさえなれなかったなあ、と思う。
水面から小傘さんが降ってくる。
器用にもロープをするするとつたりながら落ちてきた。
そのまま、わたしのほうへ飛び込んだ。
受け止めようとして、うまくできなくて、倒れる。
泡を吐く。
小傘さんがわたしの上に乗りかかるから、倒れ込んだままそれを抱きしめた。息が苦しい。
わたしは言う。
(ねえ、小傘さん、本当はわたしが、スキャットのない子どもたちなんですよ。)
聞こえないよ、って小傘さんの顔。
わたしの発明する歌がみんな故郷のそれのパロディでしかないって知ったら小傘さんはどんな顔をするのかな。
わたしは工場でそれを発明する、ふりをする。
小傘さんがいつでも変だ変だと笑ってくれるあの名前を歌えたなら、どれだけよかったんだろう。でもそれだって結局は盗んだ名前で、それでもわたしは、わたしに与えられたそのメロディーを音階を抑揚を知っていて、知ってはいたけれど歌うことはできないな。わたしの生まれついてか細い声。ねえ、声が出ないんだよ。そう声が、あー、あー、あー、少女発声練習中……。あーあ。町の中にはこれだけたくさんのメロディーがあるのに、そのうちひとつだけでも、たとえば夜に思いついたちょっとしたアイデアだって、それがなにか過ぎ去ったものの形骸なパロディだったとしても、こうして聞いて欲しかったけれど、いまは声が出ないから、それは、あとでね。またあとで。
「わたしたち、ここで、ふたりだけで生きていけるって思ったけど、そういうわけにもいかないんですよ、たぶん」
もちろん、声は小傘さんには聞こえない。
そろそろ息も限界だから、小傘さんを上にして、ロープを昇って地上に帰る。
穴の縁に手を掛けて身を乗り上げようとしたとき、何かがポケットからこぼれ落ちた。
それは、スマートフォンだった。
その存在をすっかり忘れていた。
元々防水機能付きだし、奇跡的に、濡れても何も問題なかったっていう可能性は高いけど、このまま流されて見つからなくなったら流石にもう元には戻らない。
わたしは、これから町の中で生きていくんだろうか。
どこだって結局そんなに変わらない気がした。
だけどそれは恐らく反射に近い何かで――気がつけば、わたしは再び月の中に飛び込んでいる。
でも追いつかない。
わたしは河童でも雨傘でもなかったから。
スマートフォンは流れに呑まれ、くるくるくると回転してあっちへこっちへ踊り回り床で一度跳ねて、工場の壁に空いた穴からその外に飛び出してしまう。
わたしは制動を失っている。
ロープを掴もうとするけど、届かない。
いつの間にか遠いところに来てしまっている。
工場の黒い口がわたしを呑み込んだ。
そしてその向こう側にはあるのは、どこにも辿り着くことなく流れる川の暗闇だった。
目をつぶる前に見たのは、車の列、その通りすぎるヘッドライトの光。
怖くて祈ることもできず、そのままわたしは轢かれてしまうと思ったのに、流されていってしまうと思っていたのに、わたしは川の底に留まったままだった。
上の方から小傘さんの笑う声がする。
「早苗がとれたっ! あはは、早苗がとれたよ!」
わたしがいたのは、網の中だった。
朝飯や昼飯や夕飯を捕まえるために川に張っていた網、その網にわたしは捕えられていたのだった。
もがいて浮上すると、小傘さんが寝室の窓から身を乗り出してわたしの方に手を伸ばすのが見えた。それを掴もうとして届かなくて流れに呑まれて、それでもわたしは網の中。
それがなんだか妙におかしかった。
わたしたちは、普通に、生き延びてしまったのです。
そのことに、笑ってしまう。
笑うと、呼吸ができない。
わたしは、水面での呼吸のしかたを忘れて、自動車のライト……、その光、みたいな線になって通りすぎては、手を振る、通りすぎる水中のヘッドライト。何度も手を伸ばしては触れる、触れらんない……光に、手が、白いつるつるした手。指先が触れて、触れ、触れて触れて、ふれ、ふれらんない……、ほら、掴まえた!
か弱い力、とても愛おしい力が、上方向に、引き上げる。
その時、不思議にもわたしは、月の匂い――溶けだした合成洗剤の、そのアルカリ性の酸性の、匂いを嗅いだ。
その匂いがわたしを遠い過去に連れていき、それは学校の夕暮れたプールサイドのこと、自ら着込んだ真っ白の体操着、そいつが雑に打たれたコンクリートの上で体育座りをしたままプールの水しぶきや時計回りの水流やそれに乱反射する夕日の赤色やみんなの笑い声を眺めて隣で同じように体操着を着込んだ女の子とだるいお喋りをしながら、ああ、わたしもあの中に混ざれたらとか思っていた。不意に誰かがプールの内側から水を浴びせかけるからわたしたちはびしょぬれになった。ぴたぴたになった体操着、まるで服を着たままで水中にいるみたいだったけど、わたしたちはやっぱりプールサイドでだるいお喋りをしながら、遠い笛の音――。「水をかけてはいけません!」 だからわたしはそこに混じれないと思っていたけど、濡れてしまった体操着、夕日に滲んで変な色だった。それが水面とそっくり同じ色だったから、気がつかないうちに、いつの間にかわたしもそこに、みんなのいる場所にいて、流れていた。
それはずっと昔の話。
いまは小傘さんの馬鹿な舌。
はじめてふたりで川の上の家にやって来てそれぞれが持ちよったものをみんな広げてしまったその後で、レースのカーテンの最後の爪を差し込んだその時に小傘さんが言ったこと。
(ねえ、早苗、わたしたちこれから、生活をやるんだよ!)
それから小傘さんはえへへと笑って舌を出して、それは薄いピンク色の、チョコレイト色の、小豆色の、駄菓子色の、その季節とともに移りゆく様々な色あいの――、かき氷ってわたし、はじめて食べたな。絶対まずいと思ってたのよ。だってただの氷だよ。青緑に染まった舌がのびる。わたしのは赤色、いちご色だった。まるでわたしたち歩行者用信号機みたいですね。
信号機? なにそれ、うける。
小傘さんのかわいい馬鹿な舌。小さいのと大きいの1つずつ。暗闇でゆらゆら揺れていた。そんなの全然怖くないですよーって笑って、夜の墓地をふたり手を繋いで、水中でこの手を握って、でもわたしは怖かった。(ねえ、早苗、わたしたち)そんなときには決まって悪い考えばっかり現れるから、はじめて幻想郷に来たその夜にもしも小傘さんに出会わなかったらどうなっていただろうかとかそういうことを考えていたら、それはとっても恐ろしいことの気がしたけれど、でも本当のことを言えば、その夜でいちばん怖かったものは小傘さんだった。わたしは小傘さんが怖かったんです。でも、驕んないでくださいよ。それは小傘さんの才能や知識や驚かしに関するなにかではなくて、小傘さんがただ妖怪だってそれだけのことがわたしには怖いんだよ。人間ならみんなそうじゃないかしら。わたしなんかさもう、きみが在るっていうそれだけのことが怖いんだから。それなのに全然怖くなんかないですよとか嘘をついてたら、いつの間にか、こんなところまで来てしまって、そんなことがわたしにできるなんて思ってもみなかったのに、小傘さんはここまで連れてきた。
ねえ、きみの妖怪然としたその白い腕!
それを今こうしてわたしは握りしめていて、夜を、夜の墓地をふたりで手を繋いで、水中で、月の裏側で、夕暮れた洗濯物の下で、学校の帰り道で、神社の境内で、夜の風俗街の路地裏で、やっぱりわたしは小傘さんが怖かった。あんまりにも怖いもんだから、それからは怖い物全部がどれも小傘さんになっちゃったみたいな感じで、わたしのいちばん怖かった夜も気がつけば小傘さんだった。ねえ、覚えてる? きみは、夜の口だった。それがこの場所でわたしを呑み込んだんだよ。わたしは小傘さんがものを食べるところを見るのが好きだったから、その犬みたいなへたくそな食べ方とかぴちゃぴちゃと音を立てるところとか口の端から欠片がこぼれ出るそんなところまで含めてわたしは好きだったから、わたしはこの場所で暗闇に呑み込まれてしまったと思っていたのに、最期のに見たのは、ピンク色の舌、小傘さんの、きみの、舌の色だった――笛の音。怒号がする。「水の中に入ってはいけません!」それでもわたしは歩み続け、いつの間にか、みんなのいる場所にいて、背中からプールの水の中にゆっくりと沈み込むその間に塩素の匂いを嗅いだ。その匂いがもはやボディーイメージを失い形のない影になって水中を漂うわたしのシナプスを走り込み、それを別の形に繋ぎ直す。わたしは驚く。
わたしは、わたしたちが生きてるんだってことにびっくりしてしまう。
そして声も出なくなった後で、星の光反射した水面を切り裂く口、口が水面を裂いて、呼吸をする。
わぁ、わぁ、わあ!
それから、もう一度、光を見た。
わたしは小傘さんの白い腕に抱きかかえられるようにしながら、それを見つめていたのだ。
灰色の空で瞬く星、降る雨粒に反射する月の光、ビルディングに反射した町の火、あるいはそれ自体が所有する窓枠のその四角形の灯り、その下を通りすぎる快速列車が光の筋へと移り変わりながら、向かう先で巨大な駅と統合されて大きな光の束になる。
今ではそのすべてが、ただ、確かな光線だった。
だから、わたしは、目で受ける。
そのあとは、転回して、きみのずぶ濡れのあほ面を視界に表示。
(嘘だよ、たくさん愛してるんだからね。)
わたしたちは、川を横切って歩きはじめる。
信号に停止した車のヘッドライトに、両側から挟まれるようにして照らされていた。
まるで映画スターみたいですね、とか言ったって、そんなんはもう全然嘘で、わたしたちはふらついていて、水しぶきを上げたりしながら、やっぱりふらついたまま歩く。
雨が降っているのに、いつも二人で一本の傘しか持たないせいで半分だけ濡れていた。
わたしたちは横断歩道を渡っている。
変わりかけの信号が、ちか、ちか、ちか、と瞬いた。
少し急いで、水溜まりを踏みつけたら跳ねた水。
向かいのファミリーレストランからは、光線。
わあ。
わたしたちは別の世界に逃げてしまいたいとずっと思っていたのに、夜になるたびここじゃないどこかなら暮らしていけるなんて計画の話ばかりしていたのに、結局いつも最後には話疲れてそのまま眠ってしまうんだった。
もう、いいですよね?
つまりね、わたしたちは、この場所で二人で暮らしていたんだよ。
そのことはそれだけでこのまま永遠に生きていけるような驚きだったので永遠に生きていこうって思ったけど、それはやっぱり嘘だと思うから、近いうちにわたしたちは死ぬんでしょう。
だから、もしも生まれ変わったら、スキャットの国で、そこで、こんな呼吸の音、こんな声を出して暮らすんです。
「ねえ早苗、わたしたちこれから、生活をやるんだよ!」
それって、いったい、どんな類の祈りでしたっけ?
冬の終わりに小傘さんとふたりでウォータースライダーを見にいった。
亡霊だった。
小傘さんがじゃない、わたしが。わたしが亡霊だった。
季節外れのウォータースライダー、小傘さんはてめえで行きたい行きたいってうるさかったのに、なぜかウォータースライダーそのものには否定的な態度を取っていた。
ねえねえ、流れるだけで金取るってどういうことよ。あらゆるものが流れるわ。それを所有しようたって、できないよ!
じゃあ行かなきゃいいじゃないですか。
でも、試してみないであんまり悪く言うのもよくないからね。
まあ、そう……。
話に聞くところでは、それは河童製。その未来的な建造物がこの幻想郷にいつの間に現れたのか、あるいは造られたのか、ということに関しては誰ひとり知見がなく、ただその存在だけが知られていた。その理由に関しては、当該建造物の透明度によって語ることができる。そうですね、それは透明だった。加えて言えば、巨大で複雑だということにもなっていた。
そいつについて誰かが言ってたのはこんなこと。
ありゃあ、まるでこの幻想郷の毛細血管だね。すでにあたりそこらじゅう至るところに張り巡らされてるんだよ。でも流れてんのは透明な血液だから誰にも見えないよ。さらさらの血液。とっても健康だね。
だからわたしたちはこの場所にいながらもどうにかしてそれを目で捕まえることができたのかも知れず、実際、その姿を探して顔をあげてみたりもしたけれど、やはり透明なので見えず、時折いまも空を流れ続けている液体のことを想像するに留まっていた。
わたしたちは河童のアジトに行けばそれに乗せてもらえると考えていた。少なくとも見せてもらうことはできるだろうと。水着だってちゃんと持って行ったのだ。
でも、だめだった。
河童は言った。
「つまりさ、ないんだよな。そんなものはないんだ。昨日も妖精たちが群れなしてきたよ、一昨日は月の子どもたちだった、その前は……、あー、なんだっけ、とにかく客先対応で大忙しでさ。なんて言えばいいんだろう。べつに難しい話じゃない、いじわるをしてるわけでもないしさ。そもそもウォータースライダーなんてものをわたしたちは造らなかったんだな。それに類するものをさ。要するに、みんなで夢を見てたんだよ。この幻想郷中を走る透明なウォータースライダーの夢を。それだけのことだよ」
夕暮れの中をふたりで帰った。
小傘さんは泣きそうな声で喋っていた。
でも、わたし、知らなかったな。みんなが心の奥ではウォータースライダーなんてもの、ほしがってたなんて。それがみんなに同じ夢を見せたなんて説明が信じられる? そんなの、そんなの、わたしは、全然いらなかったのに
わたしは滑ってみたかったですよ、空。
回転させた水着袋が宙を切る。ぶんぶん回して、小傘さんの背中を打った。
いたい!
ね、ウォータースライダーを、見せてあげましょうか?
だからなかったじゃん、って小傘さんは怒った声でなにやら喋っているけれど、気にもしないでわたしは小傘さんの手を引いて森の方へと進んだ。
そして、そこには川がある。夕暮れに赤くてらてらと輝いた。
それを指差してわたしは言う。
「見てください、ほら。目の前を、見てよ。ねえ、この幻想郷のすべての川、その流れがすべてウォータースライダーなんですよ!」
小傘さんが、笑って言った。
「あはは。なにそれ、いみわかんない」
だけど、わたしたちはその帰り道、駄菓子を買って帰ったその帰り道に、小傘さんがやさぐれぎみに宙に向かって吐き捨てたガムボールが結局戻って来なかった、空に張りついたそのピンク色の塊の向こうに透明な経路を見つけてしまう。それが、つまりは、例のウォータースライダーで、わたしたちはビキニを着込んで幻想郷中に張り巡らされたその透明な水流を流れ流され時に逆流しながら辿ったその先で、誰にも言えない秘密を知ってしまう。
でもそれは、全然関係ないお話だから、また今度。今度ね。
(きみもよく知っているとおり、その季節にわたしは死にかけていた。半分の亡霊だった。冬の終わりから春の始まりの亡霊、それもやっぱり季節外れだった。)
1'
短絡する電撃の最後の悲鳴は、光。
そんなふうに短い詩を小傘さんは書いてきた。
あげく歌までつけて欲しいってせがむからわたしは歌う。それはこんな歌で、わたしは王宮で、その天蓋の下で、たくさんのスキャットに囲まれて眠るお姫様じゃないから音はたったの7つしか知らないけど(そのうち3つは短調で……、)だけど5畳半の布団の上でそんな夢はたいてい見るから、生まれつき与えられてか細い声でとぅとぅるちゅるっちゅちゅちゅっって声を出した。
笑った!
「あは、あははは、なにそれ、なに、さなえ、へんだよぉ。歌が、歌が、うたないし!」
「とぅとぅ、たた、た、んら、くする、でんげきの、さいごの、さいごのひめぁいは、ひかり、ひかりひかりひかりひかり……」
「ひゃ、あはは、あははは」
お腹を押さえてうずくまって笑い、床の上をごろごろごろと転がってはその間にも生命は薄れていくんだろうか薄れていくんだろうな、まるで透明人間が一枚一枚服を脱いでいって最後にその頭のシルクハットをそっと天に向かって投げ捨てたあとで空気のかすかな"揺らぎ"になってしまうみたいにわたしたちは消えてしまうんだと思うと悲しいのかな、よくわからないというのが正直なところで、歌なら鳥だってするし笑うのは犬でもするからわたしたちは今日とっても動物で、宇宙は知性ない獣には興味がないのでわたしたちは宇宙で孤独だった。知的遊戯なら、やったよ。でも全部失敗したから、こうしてふたりで暮らしたのだった。
わたし、生きるのは無理だから、死ぬことにしたんだよ。
そう小傘さんが言ったとき、突然に生活はおわりになった。最期に見たのは干しっぱなしのTシャツ、『えいりあん』それが風に揺れていた。丸い頭に四角い目……、右下に顔だけ出したシャイなやつ。ちょっと泣いてるみたいだった。かわいいやつだったし気に入ってたからそれがとても残念で振り向いたらわたしも泣いてしまいそうで、でももうわたしが着るには小さすぎたから、結局は、ふたりきりで来た。
「昔は、よくやったんだよねえ。最終手段なんだ。こうして、死ぬって、言えば、みんな驚いてくれたんだけど。最近じゃ、もう……」
「ふうん」
「まあ、命にも消費期限があるってことだよね」
「消費期限ですか。命の消費期限……。まあ、そう……。そうかな、どう……かな」
それはべつにそうじゃないと思うんですけどねわたしは。
それってただ小傘さんが嘘を何回も言うからみんなに信じてもらえなくなったっていうだけの話だと思うんですけど。消費期限は命じゃなくて、それを保証するイノセンスの方にあるんですよ。死ぬ"ふり"を繰り返せば、当然のごとく、イノセンスは摩耗して、わたしたちはむきだしの命を晒して人生に臨むことになる。
雨は降らないんだった。
わたしたちは赤い屋根付きの家で、奇跡的に、生きている。
それは、川沿いの家。
いや、川は沿うというより取り囲み、ごうごうごうと四方を流れる。
「ね、今日は、なにが捕まりました?」
「桃! 白いんだ……!」
「それはそれは。どんぶらこどんぶらこって流れてきたわけですね」
「んん?」
「ああ、つまり、そういうお話しがあるんですよね。故郷では」
「それ、どんな話だっけ?」
「たぶん、まだ、お話ししたことはなかったかと思いますが……」
そしたら当然わたしは喋ることになる。
いいですか。はじまりはこうです。昔々、あるところに……。
また、それかあ。早苗も懲りないねえ。
仕方ないじゃないですか、決まり事みたいなものなんですよ。
小傘さんは桃を大事そうに片手で抱え、食べ物を捕るための網状の罠を川へと投げ返す。
ぽ、つん。
川に向かって飛び込もうとするかのように突き出た縁側の上に、わたしたちは並んで座っている。
川面に触れた指先が冷たい。
親指の震えが水面に波紋をつくりそれが何度も拡大しようとしては流れに呑み込まれるのをわたしはぼうっと眺めていて、拡大を繰り返すそれはまるで円状に表示された心音のイメージみたいだけど、わたしの震えは心音じゃない。
ここは、とても寒いところなので。
色あせた木目調の壁面には、薄くなったチョークの白い線が何本も引かれている。
それが、水位の記録だった。
その一番上の、チャンピオンの白線を半ば無意識に撫でている。
この家を買うときに河童がわたしに教えてくれたのはこんなことだった。
「唯一、技術的関心によってのみ、この家は建っているんだよ」
「どういうことですか?」
「こんなところに家を建てることができるのか、そんなことがいまのわたしたちにできるのか、ひとつやってみようと誰かが挑発的に言い、それでやった。そして、建ったんだ。それはひとつの技術的達成だけど、でも、それだけだった。それを継続できるだけの技術的リソースがこっちにはなかったんだね」
本当のことを言えば、その時点ですでに少し沈んでいた。
それは、川の真ん中に建っている一軒家だったんです。
木造二階建て、傾いて、北向きに斜め28度の。
「今日、これを見に来れたのは、ラッキーだと思うよ。この調子じゃ、明日には、崩れ落ちてるだろうね」
「たしかに……、そうかもしれないですね」
「でも、珍しいだろう。こんなところに家なんか」
「ええ。なんだか子どもの頃を思い出しちゃいますね。わたし、子どもの頃、分離帯の上に建つ家に住んでみたいと思ってたんです」
「なんの話?」
「わたしは、昔、幹線道路のそばに住んでいたんですよ。わたしは、いやだったんです。うるさいし、においもひどかった。その道路の真ん中には巨大な中央分離帯があって、そこには芝生が植えられていました。幼いわたしは、草原だと思ったんです。よく走り回って遊び回ったな。寝転がって空を見るのが好きだった。でも、それは、本当は許されないことでした。危ないから、とお母さんによく怒られたんですよ。それだから、わたしはその地帯の理由がわからなかった。何人も踏み入れることのできない草原が。あそこに家を建てたら面白いだろうにってよく思ってたんです」
「ときどき、さなえの話はわかんないな。でも、家を建ててみるっていうのは賛成だね。家を建てるっていうのは、生物が生きることの証明だよ。それが生き続けようとする意思なんだね。家を建てた人間は、たいていは死なない。建てないやつは、たいてい死ぬ。わたしたちが生きてる限り、地がある場所なら、あるいはないとしても、どこでも家を建ててみるべきだ」
「うん」
「この家は譲るよ」
「いいんですか?」
「どうせ、じきに壊れてしまう家なんだ。たしかに言うとおり、早苗だったら、その力で生き長らえさせることができるのかもしれない」
「でも……」
「気にしなくたっていいよ。わたしたちにとってあの家は完成した時点からもうないんだから」
そんなふうにして、わたしたちは川の真ん中の存在しない家でふたりで暮らしている。
それもやっぱりわたしの奇跡によって成り立っている。
白桃や五穀米や鮭の切り身やカップラーメンをこうして川に仕掛けた罠で捕まえることができるのと同様に。
雨は降らない。
激しい雨が降れば、やがて川が氾濫しこの家も押し潰れてしまうだろうから。
わたしの奇跡を起こす力によって雨は降らないんだった。
(ねえ、それで、どうなっちゃったの?)
小傘さんは桃を食べていた。
皮もむかずにそのままかぷりと噛みついて汁はだらりと川に垂れる。渦の回転に溶けて消えていく。混ざり合って境目がわからなくなってしまう。
ほんの少しだけ甘くなった川にわたしは同情をする。
「それでって?」
「おじいさんとおばあさんが、桃から生まれた桃太郎を食べてしまったあと、どーなったのかなぁって」
「えーとですね、桃太郎を食べてしまったおじいさんとおばあさんはですね。なんと、桃太郎になってしまったのです!」
「はぁ?」
「そして、桃太郎になってしまったからには、今度は自分たちが村人に食べられちゃうんです。そして、またその村人たちも同じようにみな桃太郎になり、よそから来た町の人に食べられてしまうのですけどね」
「なに、それ」
「そういうお話なんです。そういう言い伝えってゆうか」
「さなえのしてくれるお話っていっつも人が人を食べたり、戦って死んじゃったりするよね」
「そうですか、そうかな……」
「なんか、ばかっぽいね」
「むぅ……。あ、そうでした! ちなみに、そのお話によると、人間の味は、というか食感も含めて、そのすべてが、桃なんですって」
うぇええ。
小傘さんは、その傘が、舌を出す。
わたしは笑う。
なんで、なんで、食べてないほうが、舌とかだすんですか、なんで。
小傘さんは、今度は人で、舌。
「さなえの、ばぁか」
わたしも舌を出す。3本目。
とぅとぅ-、ちゅっちゅるちゅる。
2'
わたしたちは流されている。
見えない力によって押し流され、また見えない力から逃れようとして流される。知らずしてあっちへ流されこっちへ流され辿りついたと思ったら一息つく間もなくべつの流れに浚われる。それを運命とか呼ぶ巨大な手のせいにしたってぜんぜんいいんだけど、そうしたところでべつに心が救われるわけではない。わたしは救いについて、それが導くところについて、なんて話していたんだろう。
説教は苦手なほうだった。そもそも説教はわたしの仕事でもなかったと思う。それでもときどきは説教を求められることがあった。ありがたいお言葉、というやつですね。
そもそもわたしたちの信仰は即物的だったんじゃなかったっけ。
人気だったのは御利益のあるお守りや熊手の類、守谷に行けば病気も治るし思い人ともうまくいく。ある幸福な人間の来歴を語れば、その物語の随所には守谷神社が現れる。ここで一旦CMです。安心感、それがわたしたちの、言ってしまえばまあ、当面の神様だった。時にはわたしの力を使って手にとってわかる本当に奇跡だって起こしてみせたんですよ。だからわたしが彼らに与えるべき言葉は当然、即物的で即効性の言葉であるべきだったのだと思う。
ここに『ビル・チャールズの人生を変える魔法の言葉』があれば、どれだけよかっただろうか。
わたしが覚えている即物的な魔法の言葉はそうたくさんはない。
もういない父親の書斎の本棚にはもっと多くの魔法があった。それをいくつか持ってくればよかったのかもしれない。でも、知らない世界で「明日から役立つポジティブ・シンキング」とか「ビジネス向け自己鍛錬法」なんかが役に立つとも思えなくて、結局みんな置いてきてしまった。今にして思えば、とても皮肉な気持ちになる。わたしはこの幻想郷にやってくるとき、そういった即物的な魔法の通じない世界でこれからは生きていくのだと信じていたのだろうか。故郷の魔法をそれほどうまく扱えなかったわたしでも、ここでなら、魔法の使い手になれるなどと本当に思っていたのだろうか。原初の魔法が跋扈するこの場所でも、ビル・チャールズの魔法は十分に有効だった。
結局、それが最先端ってことですよね。
「わたしたちは流されています。見えない力によって押し流され、また見えない力から逃れようとして流されます。知らずしてあっちへ流されこっちへ流され辿りついたと思ったら一息つく間もなくべつの流れに浚われるのです。でもだからといって未来を恐れることも現状を憂いることも過去を悲しむ必要も何一つないんですよ。それは大いなる力が貴方を運んだ結果なのです。貴方は選ばれてそこにいるんです」
やっぱりそんなの全然なぐさめにはならなくて。
わたしは、流されて、ここにいる。
幻想郷から流されて、その果てに。
あるいは、故郷の町から流されて、この幻想郷に。
もちろん、それで残してきてしまったものになにか示しがつくわけでもない。
故郷の家族や神奈子様、諏訪子様に向けて、わたしは夢のなかで、言う。
ねえ、わたしがいなくなっちゃったからって、何もそんな顔しないで下さいよ。大丈夫、わたしたちは選ばれて失われたんですよ。
目が覚めると、わたしは泣いている。
まあ、そう……。
わたしの細い腕、浮き草を掴んでもすぐに疲れちゃって力入んなくなって、また流れていく。
わたしの故郷、その町の話。
思い出すのは、服が散らかった汚い部屋のこと。
ハンガーに掛けられた制服、2つ並んだ学生鞄。
湿っぽくて暑くてじめじめして、ぴたぴたぴたと外から聞こえるのは、なにか雨のような降るものだった気がする。声がする。くぐもった押し殺された声。
ねえ、ねぇ。
なんだよぉ。
ねぇえ、あっつぃよぉ。エアコン、下がんない……。
無理だよ壊れてんだからさぁ。
こわれてるってさ、こわれてるって、こわすなよぅ、ばか。
おれが壊したくてやったんじゃないよ、だってそう言ったって……。
それでもわたしの上を通って、手が蠢き、リモコンで設定温度を下げるぴぴぴっていう音。
近いところで、汗のにおいがする。
ごつごつした指の節くれだった部分、そこから熱に従って手のひらのほうへ、その愛おしい暖かい部分をわたしは撫でている。呼応するようにそいつは固くなった股関節をわたしの太腿に何度も擦りつけていて、それにはちょっとうんざりするけど、愛することは大概受け入れることなので、全然いいけど、なんとなく指を嚙む。
悲鳴。
ねえ、だけど、そんな話はつまんないしうざいよね。
それにこんな話をしたら小傘さんはきっと泣いちゃうだろうから、小傘さんには教えてあげないんです。わたしの故郷のことは。
「あのね、わたしの故郷はスキャットの国だったんです」
「スキャットの国?」
「うん。その国の人々はみんなスキャットを喋るんですよ。スキャットっていうのは、まあ……、たったりーぱららとか、そういうの、です。しかも人々は、生まれつき与えられたたった1つの、スキャットしか言うことができないんです。その1つの音が、その国民の名前であり、同じ名前で、国民たちは他の国民やその他の物事を呼ぶんです。その意味で、すべてものはあるひとりの国民の名前であり、あるひとり名前はすべての国民の名前でした」
「うーん、わかんないよ」
「そうですね。たとえば、ここに、たったりーぱららという人が住んでいて、その向かいには、しゅびどぅばるるる、という人が住んでいるとします。たったりーぱららさんのほうでは、たったりーぱららとしか喋ることができないので、しゅびどぅばるるるさん、の名前をたったりーぱららと呼ぶことしかできず、また朝には彼女にたったりーぱららという歌で挨拶するんです」
「あ、女の子なんだ」
「お婆さんです」
「あ、そう……。てか、それ、どうやって、意思疎通すんの?」
「歌い方ですよ。嬉しいときには、たっ、たりー、ぱららー、とか、悲しいときにはたったりぱららぁぁとか、怒ったときには、たったりぱららっ!とか。あとは声の調子とかも……」
「ねえ、それ……、あのさ」
「なんですか」
「早苗は、なんていう歌?」
「わたしですか?」
「うん、そう」
「さなさなさなっえー、です」
「え、本当なの?」
「はい、そですよ。だから、早苗、です」
「ハハハ、そればかっぽいね、まじうける。ひひひひ」
「人の名前を笑うなよ」
「ひたひたい、ほめんごめんねひたいから」
いま、ここで、それを小傘さんは歌っていた。
「ぴっちゃぷっちゃぴちゃぴー」
「……」
「ぴっちゃぷっちゃぴちゃぴー!」
「……」
「ぴっちゃ…ぷちゃ、ぴちゃ…」
「……」
「ねえ、無視しないでよぉ。わたし、無視されるのが一番だめって知ってんよね?」
「……」
「ねぇえー、さなえぇえ」
「あーはい、また小傘さんの負けですね」
「いや、これ無理だって。てか、早苗、喋んないのずるいし!」
「だって、わたしのやつ、なんか恥ずかしいじゃないですか」
「まあ、それは言えてるけどさ」
「うるさいですうるさい」
「ひはいひはい。ごめんね、ほっぺたつねんないで」
「さっきの、わたしの故郷だったら、死刑ものですよ」
「死刑も何も故郷だとその歌しか喋れないんでしょ?」
「喋れないけど、もしも喋っちゃったら、死刑です。小傘さんはいつでも死刑です」
「設定甘くなーい?」
「人の大切な故郷を設定とか言うな」
「ひたひたい」
「ま、今日は洗濯物の刑だけで許してあげますよ」
「ちぇっ、いやなやつ……」
今のところ、わたしたちは流されていない。
この縁側にふたり座って川に棹さし、服を洗っている。
夕暮れだった。
わたしは声には出さず本当の故郷の歌を口ずさみ、じゃぶじゃぶじゃぶと浚う音を隣で聞いている。いつもそうだけど足先はとても冷たく、それにいまは泡立ってもいる。小傘さんの白い腕、わたしのあげたおさがりの灰色のスウェットの腕を捲ってその妙に白みがかった腕を川の流れに突っ込んでいる。小傘さんが腕を捲っているとわたしは嬉しい。空を天狗が水平に飛行していた。夕日はまんまるだった。丸くて赤くて、半分だったのだ。夕日を見ると太陽が燃えているんだってことを思い出す。いつもわたしは忘れている。一日のなかで太陽が炎の塊でいれる時間はとても短い。あとは調光、巨大な手がつまみのざらざらの切れ込みに触れて回す、明るさに関する一単位だった。
夕暮れどきに洗濯物をすることについて、否定的なことを言う人がときどきいる。夕暮れに服を洗いはじめれば夜に干すことになる、というのがその理由だった。昔、なにかの検証的TV番組で、昼に干した衣類と夜に干した衣類について人々がその好不快を判別できるのかという実験をやっていた。多くの人々は夜に干した衣類を見事選び当て、どちらかといえば不快だとしたけど、それってほんとかな。母親もそのひとりだったように記憶している。お母さんは夜のベランダに衣類が吊されることを決して許さなかった。彼女は太陽光線が生活の中で衣類に取り憑いた邪気のようなものを浄化するのだと信じていたように思う。そのおかげでわたしは守られていた。微生物の焼きはらわれたふかふかのタオルで風呂上がりの身体を包み、ありとあらゆる悪しきものから守られたパジャマと毛布で安心して眠ることができた。当然、今は守られていない。嬉しいことに、それでもまだ眠りは安らぎに通ずるなにかだった。
太陽。
おばあさんは川に洗濯にいきました。もちろんそれだって朝のことに決まっている。
そういやそのフレーズもよく聞くね、と小傘さんは言う。
まあ、これもお決まりの、ですからね。
「はい、これ。それ干したら、わたしのもお願いしますね」
「もぉ、ばっちぃなあ」
「なんか言いました?」
「え、いや、早苗じゃない、わたしのが」
「ふふ、でしょうね」
「うるさいなあもう」
小傘さんはふうと息吐いて、もう一度腕を捲り、だるそうな感じでわたしの服を川に浸した。洗面器のなかに突っ込んで、ごしごしと洗い、また川に浸す。
それを何度も繰り返すのを眺めていた。
小傘さんはここでわたしを色あせていた。
空はすっかり紫で、わたしはなんだか眠かった。
川の上から、河童。
物干し竿に洗濯物を掛けている小傘さんの姿を見て言った。
「やっぱり衣類が川の上にかかっているのを見るのは、いいね。惚れ惚れするよ」
「そういうものですかね」
「最近じゃ、先進的な河童たちは、あぱぁとめんとに住んでいるんだよ。わかるかな? とても高い石垣に穴を開けてそれを住処にするような建物さ。まあ、けっこう快適だが、どうしてかな、服を干すっていう点にかけては最悪だね。そこに干された衣類はひとつ残らずみすぼらしく見えるのさ。色合いの問題かな。コンクリート製だから灰色だけどね。でも、岩に掛けるのとは少しちがう。わたしの意見はこうだよ、あぱぁとめんと自体が造られたものだからそいつがあまりに生活を想起させすぎるのさ。つまりさ、衣類たちは、そこに干されながらすでに着られているんだよ。思うに、人間や妖怪にはあんまり衣服が似合わないのかもしれないね。少なくとも、川や木に対するほどにはね」
「まあ、そう……」
そういえば、はじめて小傘さんと会ったときもやっぱり洗濯してたんです。
それは、まだ幻想郷に来たばかりの夏の夜ことで、やはりこちらの夏も暑くてじめじめするんだなあとかなんとか思いながら神奈子様に頼まれたおつかいの食べ物なんかが入った袋を握りしめたその帰りには、教科書でしか見たことなかった古風な町並みやそのファッションや町の外れを彷徨く妖怪たち、そのなにもかもが目新しかったから、珍しいものを見てはこっそりついて行き、気がつけば、いつの間にかわたしは迷い込んでいた。
そこは墓地だった。
わたしは怖かったんです。
だからびくびくと震えながらその墓地の真ん中を歩いて渡っていた。もちろんそこを避けて歩くこともできたけど、でも、それはとても暑い日だったから。ひどく寒気がするのに、相変わらず暑くてしょうがなかった。このべたついた洋服を脱ぎ捨ててしまいたいと思っていた。だからわたしは幽霊にいちばん近い方へ向かって歩いた。いちばん寒気のするところに向かって。相変わらず震えがとまらなかった。暑くていやになってしまいそうだった。知らない世界に迷い込んだわたしは知らない墓地で見当もつかず、ただその恐怖に向けて歩いていたんです。この土地にはわたしが恐怖するもの――妖怪や幽霊やゾンビーだったり、そういったものがありふれていて、たとえばこの場所で暮らしていくのなら、きっとこれからはそれらに慣れていかなければいけないんだとその時は思っていた。
そして、それを見たんです。
正直に告白すると、とても怖かった。
それは、風にかちかち鳴る卒塔婆の少し上あたりに白っぽく光ってた。
最初は霊魂かと思っていた。
次に見た時には、女性用下着だった。
旧い型の白いやつで、その他、一揃いの衣類も周りの卒塔婆に掛かっていた。
小傘さんが突然現れて言った。
「あなたが、最近流行の下着泥棒ね」
別にそのときに気になったわけではないけど、もはや誰かを驚かす余裕もない一生懸命な感じだった。
いや、びっくりしました、とわたしが正直な感想を告げると、そんなことはどうでもいいのだとその人は言う。
「びっくりしたとか、どうでもいいのよ」
「え、は、はいっ……なにがなんだか」
「成敗してくれるわ」
それから小傘さんは、せいばいせいばいあくりょうたいさんとうりゃあとかなんとか言いながら持ってた傘でわたしを叩きはじめた。痛かった。
「いた、ちょ……、いたいいたいですってば」
「うるさい!痛みを知れ!」
「わた、わたし、あ、いたい、わ、わたしやってないですっ」
「嘘おっしゃい。あなたのこと見たことないし。それに顔もいかにもって感じだわ」
「いかにも?」
「いかにも変態っぽい……」
「ち、ちがいますよう。わたし、ここに来たばっかだし、ほら、あの山の上で守谷神社っていうのやってる」
「ああ、山の上になんか偉い神さまが来たらしいわね、えらい……」
「そうですよ、あそこで巫女やってるんです」
「巫女……」
彼女は急に青ざめる。
「みこ、なの」
「みこ、です」
「み、こ」
「み、こ」
「下着、盗んでない巫女?」
「下着、盗んでない巫女!」
「わぁあああ、ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
どうやら彼女は、巫女という言葉にひどく恐怖を抱いているようだったので、やはり妖怪悪霊の類はみな巫女のことを恐れるものなのだろうかとわたしは関心さえしていた。
「ごめ、ごめん、ごめんね。あれだけは勘弁して下さい」
「あれ?」
「巫女のあれだけは……」
「ああ。あれですか……」
「ひぃ」
どうやら、あれは相当恐ろしいものらしかった。
「お願いします許してください。なんだってやるから!お願い!!」
「なんでも……。じゃあ」
「じゃあ?」
「じゃあ道案内してくださいよ。家に、帰れないんです」
「え、そんだけでいいの?」
「はい」
「てか、迷子なんだね。ふっ」
「あれの準備をしないといけないですね……」
「ごめん、ごめんなさい。あんなに怖い巫女にもそういうところあるんだって、びっくりしただけだよ!」
むしろわたしとしては幻想郷入りしてから畏怖してやまなかった妖怪にもこんな一面があるのかと驚きを感じていたので、なにか文化間の価値観のちがいを思いしみじみとしてしまう。
実際のところ、それでもお墓は怖かったので、あれこれ難癖をつけて手を繋がせて神社まで案内してもらった。
「ていうか、盗まれたって言いますけど、あんなところに洗濯物を干すのがよくないですよ」
「そうかな?」
「まあ、罰当たりかと思って触れないかも知んないですけど、これって妖怪たちのスタンダードなんですか?」
「あそこはね、わたしが見つけたんだよ!ちょうどいい高さのところにあって掛けやすいの、いいでしょ」
「でも、盗まれちゃったんですよね?」
「そ、そうだけど、それは泥棒が全面的に悪くなーい?」
「まあ、そう……? どうなんでしょう。わたし、まだ、こっちのルールがよくわかんないんですよねー」
「え、来たばっかの人?」
「そうですよ」
「新しい巫女かぁ……」
小傘さんは、露骨に残念そうな顔をする。いったい巫女が何をしたと言うんだろう。
傍らでは、かたかたかたと卒塔婆が風に鳴っている。墓地には光がない。薄暗闇に慣れた目に墓石の姿がぼんやりとだけ浮かびあがるから、それは様々に形を変えながら、別の意味を持った存在になりかわろうとしていた。四角だった四角だった、とわたしは口の中で唱えていた。
小傘さんは、その時点ですでにあほっぽい感じだったけど、でもそれだからといって安心できるというわけでもなかったんです。墓地が人々を恐れさせるによるところは断じてその下に眠るうらみつらみではないとわたしは思う。むしろ無邪気さ、手持ち無沙汰に人の魂を掴んでみせるその気まぐれさなんです。
夜の墓地を小傘さんと手を繋いで歩いてた。
その気まぐれな指。
落ちつきなく手のひらの中であっちへいったりこっちへいったりする。
でもこうして繋いだ手が、人間のそれと変わんないから、そのことがわたしは嬉しい。
わたしの手よりもずっと小さくて、繋ぎ目が少なかった。(比べればわたしの手なんかつぎはぎだったんです。)まるで子どもみたいだった。
そうやって思うのは、こうして思い出す小傘さんが、無害で力無い妖怪だといま知っているからだろうか。
小傘さんは言う。
「わたし、巫女と手繋いだのはじめて。みんなに自慢できるかなぁ」
「ふふ、そんなこと言えば、わたしだって妖怪と手繋ぐとは思ってなかったですよ。自慢できますかね?」
「知んないよう、そんなの」
あなたが先に言ったんでしょう、と言おうと思ったけどやめた。
歩むと殴られた身体中のあちこちが痛かった。
「いちち……」
「大丈夫? 骨折とかしてないよね?」
「うーん、わかんないですね。あ、いたい、してるかも」
「し、してないよ?」
「どうかなぁ……。わたしは医者じゃないし」
「してないよ。はい、してないっ」
「さぁ……。そんなこと言われてもですね」
「ご、ごめんね、ほんとに。後遺症とか残んないよね」
「残ってたら、一生道案内してもらわないとですね」
もちろん後遺症どころか骨折もしてなかったので一生道案内してもらうようなことにはならなかったけど、でも小傘さんには随分幻想郷のいろんな場所を案内してもらったと思う。その後はちゃんとわからないところに服を干すようになったみたいだし、ふたりでお墓の裏側に潜んで(わたしはまだそれなりに怖かったんですよ。)下着泥棒を懲らしめたりもした。そういえば、小傘さんに人の驚かせ方を教えてあげたりもしましたね。実際に体験してもらうことによって覚えてもらったのだった。
わたしたちはこの場所で、それぞれ別の理由によって少しずつ疲弊していったけど、小傘さんのおかげでそれは随分ゆっくりしたものになったと今にして思う。
(あるいは、わたしたちは、こうして出会い触れあうことによって、むしろお互いの欠けた部分を広げちゃったのかもしれないですよね。)
小傘さんのことはよくわからない。でもわたしについて言えばこれはどうしようもない傾向のようなものだった。どこにいても別に何かがあるわけではないのに、その場所にうまく居座ることができないんだった。残してきたいろんなもののことを考えると泣きそうなる。もちろん、そうするのはお門違いだっていうのはよくわかるから今もこうしてこの場所で、変てこな顔をわたしは浮かべている。
ねえ、早苗、って小傘さんの声。
なんですか、と問い返せば、
(わぁ!)
今度は、小傘さんの顔。
干してあるタオルとタオルの間から突然現れた。
ピンクとブルーのツートーンの真ん中にその小さい顔だけが飛び出ている。
「もう、あざといですよ」
「え、え、あざ、あざとい?」
「そういえば、わたしたち、会ったときのことをちょっと思い出したんですけど。あのときの、お墓に干してた下着が小傘さんでいちばん怖かったですね。初期衝動っていうか……。ビギナーズ・ラック?っていうか。まあ小傘さんにもそういう時代があったんですから諦めずにまたがんばってくださいよ」
そういう話をしたら何を勘違いしたのか、早苗はパンツが怖いのかと小傘さんは言い、その夜にふと目醒めるとわたしの頭の上のところにパンツが吊るしてあったので、その布の下でわたしは苦笑する。
「ちぇ、汚ないなぁ……」
3'
幻視する町を消すためには、ひたすらに走るしかなかったのです。
電子の森、幻獣たちが駆け回る草原を天使と交雑した一角獣を狩るために。
物語、物語、って小傘さんは、ねだるから言う。
「ねえ、いいですか、わたしたちは魔女なんですよ。悪魔で魔女です。そうですね、それはたとえば森の人形遣い。人形を使役して戦うんです。知ってました? 人形遣いというのは、元々は人間そのものを使役してたんですよ。でもね、人間のことは天使が滅ぼしてしまったから、そのあまりに悪劣ぶりに愛想を尽かした天使たちによって滅亡に至らされてしまったので、代わりに人形を使役することで天使たちに復讐するんですよ。わたしたちは悪魔となって、悪友の敵をとるんです。それが、物語です。いいですか?」
「全然よくない。それは、やだよ」
「天使たちは交雑するんです。有名な幻獣とか神さまとかにね。そうすることで使役することができるんです。一方、わたしたちは黒魔術によって召還した人形で天使の使役するそれらを滅ぼすんです……」
「もー、早苗の、スマホゲームの話、飽きた」
「じゃあいまは大事なイベント中なんですから邪魔はよして下さいね」
「それなら、切断するもん」
「ふふん。これは、わたしの奇跡によってのみ、外界に繋がっています。そのケーブルは充電のケーブルですよ。あ、それ切ってもだめですよ。残念ながら充電も奇跡によって行っています。それは単なる雰囲気作りです、アクセサリーです。ま、ファミコン未満世代の小傘さんにはわからないかもしれませんね」
「切るのはさ、手首の皮」
小傘さんはリスト・カッティング・ベイビードールなんですからまったくもうと呟くと、それって何と言うので、それは、扱いにくい女の子って応えると異なる色のふたつの眼、膨らんで丸くなって……。
でも悪くはない性能ですよ。最高レアだし。
カーテンの隙間からは、明るい光。その向こうに町が見えた。
それは、幻の町。
いつだったんだっけ、ある朝不意に目覚めてそれから冷たい水、顔を洗ったくせに未だ寝ぼけ眼で箒で掃きながら石の階段を降りていたその曲がり角で見慣れない光をわたしは見た。それは知らない反射で、そこで見下ろしたはずの景色は、一面が町だった。
その場所から見える景色が好きだったんです。
色鮮やかな緑の森が山に沿って緩やかに降りていて、その真ん中を石造りの白い階段がくねりながら通っている。煤けた屋根の誰が住んでいるかもわからない小屋、そこから上がる煙とか、建設中ということになっている河童式ロープウェイの柱たち、空には朝の早い天狗たちが新聞を背負って飛び回り、下の方には、田園! こんなにもいっぱいの。秋にはそれが黄金色の稲穂であふれて、あふれたものが朝焼けに輝いてきらきらする。
でも今では、そのすべてが町、幻視するニセモノの町だった。
気がつけばわたしは高層ビルの非常階段のその途中に立っていて、それを見下ろしていた。
町。
たくさんの屋根。ファミリーレストランの看板、高層マンションの壁面、高架線、雑踏、その金髪や帽子の色、信号機赤に信号機青、歩道橋。下って自動販売機の甲高い声。
そういう町的なすべてのもの。
それが田園や森の上に重なっている。
その意味で町は半透明であり、わたしは異種交雑する光粒によって、森と町を同時に見ることさえできたんです。
町を幻視する感じを、今こうして言葉にしようと努力していて、やっぱりうまくは言えないな。
まあでも、それは、夢に似ていると思う。
たとえば、夢の中で迷い込んだ町のなかで見た景色、アスファルトのひび割れや壁に張りついた蔦模様、その詳細がいつでも決まった、複製→ペーストされたテクスチャアだっていうこと、夢は映像ではなく概念そのものを読み込むので。だって目をつぶって見る夢が、イメージじゃあないことは、自明じゃないですか。だから夢には先に概念があり、記憶によって画面を補強する。目覚めたあとで想起して映像にした夢、その夢に似て、幻視する町は細部を失い森と統一されて、そこにある。
そう、それは、本当に夢みたいだったんですよ。
夢みたいだったのは幻想郷にやってくる前の故郷の町のこと。幻視する町は、わたしの記憶や想像のつぎはぎの町だから、わたしの故郷そのものではない。でも、わたしは、ときどき故郷の欠片をそこに見つけてしまう。学校帰りのドーナツ屋とかバイトしてたコンビニ、近所に住むおばあちゃんとか、それが散歩する犬。夢のなかでは、それらは、ちゃんとした形を持っているのに、朝目覚めてみると、その顔さえもよく思い出せない。
この幻想郷で、ある日、突然見えるようになってしまった町。やっぱりそれについてはうまく言うことができなくて。それが、懐かしい何かであることは、まあ、間違いないのだけれど。
うまく想起できないことによってのみ、懐かしく思う景色のこと。
それって、なんだかひどく逆説的じゃないだろうか。
(でも、昨日見た夢の話なんかされてもつまんないですよね、)存在するものの話をする。
わたしの上でだだをこねている小傘さんのこととか。
わたしはスマートフォンを放り出して、すっかりわたしに馬乗りになった小傘さんの、腰のあたりを抱きしめて上身を引き上げる。
顔がお腹にあたっている。そのまま押しこむと、へこんだ。
「やらかいですね」
「それ、馬鹿にしてんの……。さでずむは禁止だからね」
「ふふ、ふふふ」
「なに、笑ってるのさ。言っとくけど、わたしにも手段はあるんだよ」
「どうするんですか?」
「て、手首を切るからね」
「ふふ……」
「だからぁ、笑わないでよぉ」
「いや……、ふふ、やらかい。ちょうど気持ちいい、いい抱き心地です。発売しましょうよ」
「もう、やだ」
小傘さんは、わたしの両方のみみたぶをぎゅっと掴んで内側に折り曲げた。
「ひうっ」
「あはは、ひうだって、あははは」
「むう……。それは、禁止条項じゃないですか」
「だって、そもそも早苗のさでずむがいけないんだよ」
「あれはさでずむのうちに入らないですよー。じゃれあい、です」
朝ご飯がないかどうかと聞くと、小傘さんは床の上に雑に置かれた皿を指さす。
なんですか?
あんまん、とれたてだよ。
わたしはそれを食べる。
小傘さんは、言う。
「てか、さっきのってさ、もしかして、わたしが本気出したらこの程度のさでずむじゃ済まない、みたいなやつ?」
「ふふ、ひゃうれう」
「うざ」
そのめちゃくちゃあついのなんのを飲み込むと、喉の奥まで甘くなってしまうから、わたしは銀色の台所で水を汲んで飲んだ。
それから、時間を聞いた。
「いま、何時です?」
「2時」
スマートフォン上の時間は、22:46。
幻想郷は、タイムゾーンの観点では、カリフォルニアにあったのです。
わたしは布団を丸めていき部屋の隅まで押しやってそこに座る。
小傘さんはその横で座って待っていた。
「さて、お話をしましょうか。どんな話がいいですか?」
「えーとね、巨大ろぼっと? 巨大人型ロボットのやつがいいな。この前は、赤いほうが、戦争で負けちゃったでしょ。そのあとはどうなるの?」
「そのあと、そのあと……そのあとですか? そのあとかあ……、そのあとは、滅亡しちゃったんですよ。負けちゃったので」
「ええー? そんなのひどいよ」
「でも、事実そうなんだから、仕方ないんです」
「めんどくさいだけじゃん」
「ふふふ」
小傘さんは、わたしを舌でこづく。
この長い方の舌の距離感がわたしには、よくわかんない。
遠く伸びて、どこまで届くようなそんな感じ。
あんな小さい傘のどこに……、中で折り畳まれているところを想像してやめた。
甘い、小豆のにおいがしてた。
まったく、いったいどっちがどっちなんですか。
「わかりましたわかりました。赤いほうは、たしかに戦争に負けて滅亡してしまいます。だから、そのあとの話でいいですね」
「うん」
「その何百年も後の話です」
「何百年も?」
「そうです。その戦争から何百年も後、ある星間を旅する男が、その滅亡した惑星を訪れます。するとその荒廃した砂漠にも似た地には赤い塔のようなものがたくさん生えているんです。大きさで言えば、その人間の男の何十倍もあるような、です。それって、なんだと思います?」
「えー、あ、家、家かなぁ? ほら、えーと復興して新しい文明が起こったとか?」
「ぶー、むしろ真逆ですね。その塔はお墓なんですよ。ロボットのお墓です。赤いほうは戦争でたくさん負けたので、たくさんの死骸が生まれますよね。ロボットの死骸ですね。その死骸はたいてい宇宙の屑になりますけど、でも、そのロボットやパイロットのために、その大きな機械の腕を集めてそれを地に突き立てて巨大な墓標にするんです。男はその無数の巨大なオブジェがいったいどんなものかもわからず、歩きながらそれを見ているとあることに気がつくんです」
「なに?」
「つまり、手の指の形ですね、手がこうなってるんです」
「ちょき?」
「ええ、ちょきの形ですね。すべての腕のお墓がみんなちょきの形をしているんです」
「ふーん」
「この形には意味があるんですけど、どういう意味だと思います?」
「こう、手が、はさみになってるんだ? その赤いのがいっぱい、あって?」
「そうですよ」
「わかんないなあ」
「もうちょっと考えてみてください」
「えー、うーん、赤、ちょき、手……あ、かに……蟹をいっぱい食べたあとの感じみたいだね。へへ」
「ああ、蟹、いいですね 久しぶりに食べたいなあ。今日、夕飯に蟹が流れてくるようにお祈りしましょうか。もちろん、剥いた身だけが川を泳いでくるように、ですよ」
「いいから!」
「わかりました、わかりました。それは、ピースサインなんですよ」
「それってどういう意味なの?」
「平和って意味ですよ。これから先わたしたちが永遠に守られて、安全に、夜も昼もなにひとつ恐れることなく、好きなだけ眠っていられるってことですね。それを、死んじゃったみんなでしてる、という、お話です」
「おわり?」
「ええ、おしまいです」
「え、結局そのお話って、どういう意味なの?」
「意味、え意味? えーと、意味はね……。意味か。意味、それはですね……」
「なに?」
「ぴーす」
「は?」
「ふふふ、これがヒントです、ヒントですよ。あとは、自分で考えてみて下さい。次回のお話しまでの宿題ですよ」
「そう言って、あとで教えてくれたことないじゃん!!」
「まあまあ、夕飯は蟹なんだから、いいじゃないですか」
蟹とかべつによくないし驚きで喩えるならちょっとした豆知識程度だしとか小傘さんは言っているので、わたしはなんだかひどくかわいそうになり、哀れみから目を背けるためにスマートフォンを手にとって走ることにした。要するに、ゲームのイベントを消化するんだった。
そうです、この場所にだって、ちゃんと電波は届く。
まるで奇跡的ですね、とか言ってみたところでそれはまあ実際、奇跡にはちがいないから、しょうがない。甘受する。能力によって必然的に発生する幸運をそのたびに奇跡と呼んでいると、想定してなかったラッキーをなんて呼んだらいいのかわからなくなる。昔、奇跡だったもの。それはやっぱり今でも、奇跡にはちがいない。
つまり、スマートフォンを故郷の電波に繋いでゲームをしている時とその少しあとに関しては、不思議と幻の町は視界から消えてしまうんです。これが旧い奇跡の一例。
理屈的な説明がいりますか?
たとえば、わたしに取り憑いた現代的な記憶の残滓がこうして幻想郷に町を見せるとしてスマートフォンを繋ぐ間はそのイメージを画面の向こうに閉じ込めることが出来るとか。あるいはもっとシンプルに、わたしは故郷を懐かしんでしょうがないけれど、ゲームをすればとりあえずそれも収まるとかね。
スマートフォンは現代人のがらがらなんですよ。
まあ、そう。
それから、わたしは、夕飯の蟹のことを祈ることにする。
二階の窓から身を乗り出して屋根にのぼり、その上に立って祈祷棒を振った。
目の前では家に裂かれた川が、二叉になって流れている。
りんしゃんりんしゃんりんしゃんと森のせせらぐ声。
太陽の光が屋根の瓦に反射して粉のようだから眩しくてうるさい。
とってもよく晴れた日は、世界が銀色に光るから、雪の降った朝みたい。
わたしたちの奇跡には限りがある。
こうして川の上に家を保存し続けることも川から流れてくるものを食べることもスマートフォンに電源を入れることもそれを繋ぐことも、わたしの行う奇跡によって成り立っている。
わたしの奇跡。
それは、昔、わたしが巫女だった頃、集めた信仰を基盤として。
だからそこには限りがある。もうやめてしまったわたしの信仰には。
信仰貯金。
そんなふうに思ったりもする。
屋根の端に手が生えて、小傘さんが、屋根に……、奇妙なバランス感覚で傘を揺らして近づき、わたしの横で口笛を吹いてた。
わたしは言う。
「なに?」
「かに?」
うん、って肯いて、わたしたちがこうして生き続けるためには奇跡が必要だったんです。
「わたしたちは無理だよね」
って、小傘さんはよく言う。たとえば朝とか夜に。
あるいは、こんな眠くてしょうがない昼間なんかに。
わたしは少しうんざりするけれど、でも実際なかなか難しいんだろうな。
だから、まあ、そのことはよくわかっているつもり。
わたしたちの生活にはこうして限りがある。それは、どのくらい残っているかも知れないわたしの信仰貯金、小傘さんはもう死んじゃうふりじゃあ誰も驚かすことができなくて、ていうかさ死んだふりで生きてこうなんかもう死んでるのとなんも変わらなくないですか?
まあ、そう……、そうですよ。
ほんとに。
わたしたちはここで少しずつ失われている。
(でも、それはもうすでにうざいくらい話しあったことだし、これからもいくらでも話すことになるんだから、今はそんな話はやめましょうね。)
そういうわけで、わたしは祈ることになる。蟹のこと。とりあえずそれだけを。
そしたら他のことはみんな忘れてしまう。
そうだ、やっぱり、殻付きの蟹にしようかな。複雑な食べ物は、食べるのが難しいから、食べているその間だけは未来のことを忘れることができる。そうだよ、殻付きの蟹。しかもなるべく複雑なやつ。それをわたしは想像する。8本の脚同士が複雑に絡み合っていてまずそれをほどかないと、かにみそにはたどりつけない仕組み。その脚同士の絡み合いっていうのもただごちゃごちゃしてるってだけじゃなくて、気の利いた知恵の輪みたいに素敵なアイデアなしでは解けなくて、当然、殻は超合金みたいにすっごく固いから叩いて切っても壊すことができないわけで、脚を解いてそれぞれ一本一本になった後ではじめて綺麗に半分にわれて中身が食べられるようになっている。
そんな蟹。
どうか、そんな蟹たちがわたしたちのせめてもの気休めになりますように。
そのことを、わたしはここで祈っている。
しばらく祈っていたら、やがて車が流れはじめた。
それは、もちろん、幻視する町の車たち。
祈りもそろそろいいだろうとあくびを交えて伸びをしたその次の瞬間には、目の前に町が立ち現れており、すぐに視神経に飛び込んできたのが車の流れ、それは川の流れに従って、わたしたちの家を中心に二手に分かれ、片側二車線がこちらに向かって進み、もう二車線が遠ざかる。
ごうごうごう、と流れる音。
それは、はたして川の音だったんだろうか、それとも車のエンジン音だったのかも。
まあ、どっちでもいいけれど。
ここは、幹線道路のその真ん中。
左右には壁みたいにビル群が高く立ち並び、その下半分が森風のテクスチュアで緑色に着色。(やっぱし、うまく言えない。)
アスファルトの道路は川の水に滲んで、雨上がりだった。
あるいは、水の底に沈んでしまったみたいな。
もうずっと昔に水没してしまったのにそのことに気がつかないふりをして今も時計を回し続ける町の話。それをあとで、また聞かせてあげますね。
小傘さんの色違いの3つの目。
ううん。目じゃなくて、たぶん、どっか別の器官でね。その景色を見たんです。
車たちの流れは、今は赤信号に停止中。
それでも、ごうごうごうと流れる音は聞こえるから、それはやっぱり川の音なんだろうな。
昔、中央分離帯の上で暮らしてみたいと思ってた。
夕暮れ時、小さな少女が、その上を跳ね回り、今にも車の流れに向かって飛び出してしまいそうになる。すんでのところで、その縁で止まって切る風を受ける。両親が呼ぶ声。振り返って、その怒った顔を見て下唇を出し、あおむけに寝転がり丸くおだやかな太陽を眺め、草原のいびき――アイドリングするエンジンたちのかすかなうなりを聞いている。
ここは、そのつづきの場所だった。
眼下に並んだカラフルな車たちの屋根。
飛び込めばそのまま連続するボンネットの上を跳ねていけるような気さえする。
赤青白白白黒青ってふうにステップを踏んで。
ボンネットの色ごとには、各々べつの音があって、踏みつけたらそれが鳴るんだよ。
そのステップがやがて偉大なメロディーとなり、スティールの足跡が楽譜として記録するけれど車たちのなかに潜む固有の衝動が、それぞれの目的地が、あるいは渋滞が、テールランプの煽りや追い越し車線が、ボンネットの上にスタンプされたト音記号たちをばらばらにしてしまうから失われて二度とは復することがない。わたしはあとでこんなふうに話すことになるだろう。それは偉大な音楽だったけど、わたしは忘れちゃったんだ。ほんとにほんとに、ほんとだよ。それを、ここでみんなに聞かせてあげられたらいいのになあ。でもさそうは言うけど貴方の発明するすべてのメロディーって全部どこかで聞いた音楽の形骸なパロディだよ、って言う人、そのかわいい自信ありげな表情を、とりあえず代わりに記憶することにする。それだって偉大な、ユニークな、発明だよね。大好きだった故郷の音楽も物語も自分で発明したと思ったそれだってみんなわたしは忘れてしまうから、わたしが覚えてるのはいつも表情だけなのです。(ほら、きみの全然わかんないよって言うその顔が目が……)
信号の前には、河童の運転する赤い80年代風スーパーカー。
見ていたらウインドウが降りてそこから顔が現れ、水棲生物特有のぐにゃぐにゃの声で言うのだった。
おーい、おぉおうい、ねえ人間。最近、どぉ?
「存在しないって、感じは、どう?」
祈祷棒でわたしは振り返す。
ポケットのスマートフォンを手に取って繋げた途端、幻影は消え失せて、鳥の声、遠く……、わたしは屋根の端に立ってそのはだかの足を空中に曝けだしていた。
とても冷たいのは、空気だった。
すんでのところで落ちそうになるところを後ろから小傘さんがわたしを抱きしめる。
あはは死んじゃうとこでしたねって皮肉っぽく笑おうとしたけどうまくできなくて、泣きそうな顔、小傘さんの……、わたしの。
ただ、そうってだけで、もう。
わたしたちは、屋根の上に並んで座る。
あ、あのさ、わたし、見たいな。
わたしが死ぬところですか、とか馬鹿なことは言わず、のたまう通り、やる。
画面の向こうには、黒魔術風の壺。魔法の粉を5つ消費してガチャを回す。
わたしは祈っている。
これは信仰を消費しない、いつも叶わない類の祈りだった。
小傘さんが言った。
「ね、いいよね。かに、きたら、いいよ」
「カニ・ドールとか、外れですよ。外れ」
奇跡を連続することはどうにも難しいのです。
それは、すでに奇跡によってこの世界に繋がったアプリケーションのなかで、さらなる奇跡を反映することはできないと言う理由によって。奇跡に奇跡を重ねれば、要請される信仰数は冪乗的に増えていく。
わたしたちは生きることで精一杯の奇跡なので、これ以上の奇跡はなにひとつ望めない。わたしは祈っている。
お願いだから、ダブっていない最高レアのキャラクターを下さい。
お願いだから、複雑な蟹たちをわたしたちのもとへ届けて下さい。
お願いだから、わたしたちのことをもう少しだけ生かして下さい。
わたし越しに画面を覗いて、そのなかの新しい人形を見つめて小傘さんは言う。
「ねえ、それって、どう?」
川の上でたゆたって、河童がわたしたちの会話を眺めている。
生ぬるい風が吹いていた。
川がさざめき立つ。
風は、町なら、なんだろう。
風は、町でも、風なのかも。
わたしはもう一度、河童に向けて、今度は、
「ねえどうって、もお、こう……」
ぴーす、する。
(そういや、最近の計画なら、どう? わたしは絶賛就職活動中。巫女?うん、まあぼちぼちですね……。そろそろ奇跡にも愛想つかされちゃったって感じで、もうねえ。だからきみもはやく生き方を見つけなよ。こだわったってそっち方面の才能はないんですから。あはは、冗談ですよ冗談。ああもう。でもそんなんじゃ、いつまでたっても結婚なんかできないですよ。え、なんでもないですってば……、ほんとにそう、……そうです)
4'
川環境は、年々劣化しているという。
その証明は、流れ着く合成洗剤の名前だった。
それを集めて記録していた。
ハイ・ジア、DAWNY、アリエール、パイプユニッシュ。
もちろん川は山から下り、海へと流れ出る。
幻想郷には、海がない。
それは博霊結界によって区域に限定されているからだけど、結界は霊夢さんの家を中心に円心状に広がり、その端で空間を巨大に拡張している。
結界とは、拡張です。
教えてくれたのは誰だっけ。
幻想郷は、その端っこが、空間的にとほうもない長さになっているらしい。
博霊神社を5として、同心円状に、どーなつ形で4、3、2、1と数字をつけていって、たとえばその端が0なら、0区域はとっても広い。イメージとしては、5、4、3、2、1、0、0、0、0、0……。
(たしかに、ロケットの打ち上げみたいですね。)
そして、その0区域のことを、留まり、というらしい。
実際には、留まりの空間は、径方向だけではなくて周方向にも拡張されるから、そのそれぞれを、森留まり、村留まり、山留まり、地獄留まりとか呼んだりする。
わたしは、一度、小傘さんとふたりで川留まりに向けて、川の中を下っていったことがある。今住んでいるところよりもずっと浅い川だった。
小傘さんは赤い長靴を履いていた。
傘が、長靴に頼るのは、敗退ですよ。退廃です。
なんのさ。
雨具としての、です。あるいは、セックスですか?ふふ。
はあ?何言ってんの……。
わたしたちは、そのようにして長靴の効用の助けも借りながらびちゃびちゃと川を下り、やがてその留まりに近づいた頃に目の前の川が扇状に広がっていくのを見た。空間が拡張されつつあるのだった。そして、その川は、さらに進むにつれ水平線に成りかわり、いつのまにかわたしたちは周囲を川に取り囲まれていた。
それは、現象としては、ほとんど海だった。
わたしたちは、海原の真ん中にふたりきりでいたのだった。
川の流れはまるで波のようで、あっちにこっちに拡張されたその流れは、もはや方向性を失って海は時化ていた。小傘さんもいろんな方向に引っ張られて、変な顔、形だった。笑ってしまう。怒った顔が見えなかった。そういうわたしの方だって、ぐにゃぐにゃだったんだろう。たぶん。
み、水が、い、っぱい、だ、と小傘さんは言う。
それが心底嬉しそうなのでやっぱり雨具なんだなあとなんだかしみじみしてしまい、人間のわたしは故郷への憧憬にちょっと泣いた。
幻想郷には、海がない。
だから、同じ理由で、川の出所がないこともある。
ないときは、それは、幻想郷の外側にあるのだけれど、わたしたちの住んでいる川もそちらに属しているようで、稀に外側の人間が川に捨てたごみたちが流れ着く。
もっとも外の世界から迷い込んだ物資の話を幻想郷ではほとんど聞かなかったから、ここでわたしが奇跡を行っていて食べ物や何やらを引いてきていることも影響しているのかもしれないな。
時折、流れてくるのは捨てられた合成洗剤。それが罠にかかっているときなんかは、拾い集めて中身を検分し、工場へ持って行く。
東風谷スキャット工場とわたしたちが呼ぶその場所は、川の上の存在しない家の一階の角部屋、半分沈んでしまった部屋にある。
家は、日がな傾いている。
家自体は不明な工法によって川の真ん中に建っているけれど、やはり不明な理由によって傾いており、それはちょうど午後2時の太陽に頭のてっぺんを向けるような感じ。
だから、その部屋に通じる廊下もやはり傾いていてその傾きに沿って下って歩くと、きゅうきゅうきゅうというような軋む音が大きくなり、その突き当たりには扉があるけど、開かない。部屋が傾きつつあるせいだった。
だから、工場へは、上から侵入。
2階の寝室の窓枠には白い丈夫なロープが括られていてそれを滑って這い降りる。
ロープに体重を預けると、また、きゅうきゅうきゅうと家のどこかが軋みだし、この家はあらゆる箇所が軋んでばかりだと思い、それはもちろんこの家自体が奇跡によってぎりぎりのところで命を繋いでるからに他ならないからだとは知っているもののそこらじゅうの扉や床はもちろん外壁まで鳴っているのを聞くとなんだか軋みというのはこの家の悲鳴だとか何とかすっかりめいってしまい、ついつい小傘さんに打ち明ければ、驚かし学の講釈がはじまってしまう。
つまりね、軋みっていうのはさ、驚かし的観点から言えば、当然ありきたりな手法のひとつなわけでね、効果としては驚かすことよりも最終的なポイントのインパクトを高めるための仕掛けだよね。まあ初歩だよ……。だからね、軋みは、むしろ悲鳴そのものというよりは悲鳴に向かわせる運動の一種だよね。びっくりしたとき、わあ、って悲鳴をあげるけどさ、ほら、わたしが、たとえば早苗に向かってわあって言う、その、わあは悲鳴じゃないでしょ?
たしかにそれは安心感に関するなにかだった。
いや、安心感じゃないから!
たまには小傘さんも役に立つじゃないですか、言ったら、ゆらゆらと笑う顔、小傘さんには、なにかあらゆる幽霊的現象がもたらす恐怖を中和する特別な力がある。
工場への入り口は、一階の外側の窓、そこに今は非現実の『非常口』が逆さの格好で張りついている。
緑色が、ちらついた。
切れかけの電球だった。
ちちち、ちち。
それはもう、当然、幻聴だってしますよね。
そのウインドウを横に開いて小傘さんと一緒に工場へ入り込んだ。
充満するガスめいた匂い。
思わずせきこんでしまう。
蛍光灯が切れているせいで、中は薄暗い。
浸水が膝の下あたりまで進んでいる。
その水面を、合成洗剤の空っぽの容器がいくつも漂っていた。
プラスチックの容器に、ふやけた紙の箱。胴体を切り離されたノズルや、虫のように寄り集まったキャップたち。洗剤が溶け出して、水は、泡めいて鈍色に光っていた。
まるで、工場っていうよりは、その解体場だった。
あるいは、洗剤容器の検死室かもしれない。
その部屋の真ん中には、錆び付いたドラム缶。
発音塔……、って、小傘さんが言う。
(でも、本当の発音塔は白く、高い。それは、森の中に建てられた7つの塔。夜になると、そこから、ぼぉおおうぼぉおおうという音が聞こえる。でも、そのうちひとつがある日、突然なくなってしまう。その話はちょっとだけしましたよね。失われた第3発音塔と地底人のお話。え、続きですか、それはまた今度)
ドラム缶の向こうの壁には、映画のポスター。
それが、スキャットのお姫様。
ローマの休日のオードリ・ヘップバーンだったと思う。
ゴム製の長靴を履いて注意深く水をかき分けながら、わたしたちは工場を進んだ。
「アメンボ隊だね」
「はい? アメンボがいたんですか?」
「ちがうよ。前に早苗がお話ししてくれたじゃん」
「そうでしたっけ?」
「水の上を歩いたり、火を噴いたり刃物を投げたりするけど、最後はお殿様に裏切られちゃって殺されちゃうんだよ」
別にわたしたちは水の上を歩いてはないじゃないですか、と言えば、うるさいなあと小傘さんは、足で蹴って波をたてる。
アメンボ隊とは忍者だったのです。
「でも、アメンボって変な名前だね。かわいそうだよ」
「まあ、そう……。小傘さんなら、どうします?」
「えー? えーー-、どうしよっかな。うーん、水、水だから……、水虫、とか?」
「うぇ」
それほど広くない部屋だから、中央のドラム缶まではすぐに辿りついた。
そのドラム缶が、スキャット工場の正体でした。
わたしたちは、このなかで、合成洗剤を混ぜ合わせて、スキャットを発明するのです。
(えーと、どこまで話してありましたっけ。)
スキャットの国の話、わたしがそこからやって来たこと、そこに住む人たちのちょっとした生活の話とか、わたしの家族の歌の話、結局そこでわたしが暮らせなかったこと――あのね、わたしは、欲深かったんですよ。ひとつの歌だけじゃ満足できなかったんですよ。他の人のもみんな欲しかった。だから、秘密の工場を造って発明することにしたんです。やり方を見つけてね。でも、すぐに全部ばれちゃって、国を追われたんです。
えー、それってさ、それってさ、早苗の歌がへんだから、他のがよかったってだけの話じゃないの?
けっこう鋭いこと言うじゃないですか。こんな気持ちは小傘さんにはわからないですよね。
ふふ、わかるよ。へんな名前だもん、
うるさいですよもう。(それでも、わたしには、まだ笑ってみせる余裕があるんです。)
「あのさ、早苗の故郷の工場は、もっと大きかったんだよね?」
「ええ、だって、まず、こうした材料――合成洗剤が新品がまるごと手に入りましたからね」
「まじか!」
「そうですよ。しかも、半オートメイドですからね」
「おうとめいど?」
「ああ、つまり、自動っていうことですね。こういうふうにずらりと10個くらいのドラム缶が並んでいてですね。で、そのひとつひとつに、アーム……鉄の手みたいのがそばにいるんです。コンベアを、え、ああ、動く床の上にですね、乗って流れてくる箱に入った合成洗剤を、その鉄の手が勝手に動いて、掬い取っては混ぜ合わせてくれるんですよ」
「へえー。自動ってすごい」
「ふふん」
「いや、べつに早苗がすごいわけじゃないけど……。あ、全自動驚かしとかもあったのかな?」
「え、どういうんですか?」
「機械の傘が、わたしの代わりに、ばあっ、って飛び出てくれんの」
「それ、いいですね。ぜんぜん怖くなさそうで」
いやいや、めちゃこわいって、だって生命の宿ってないものが驚かしてくるんだよ?
それは、驚かす側がその革新さに驚くという話で驚かされるほうにしてみれば突然現れる系びっくりとしての質はそれほど変わらないのではないかと思ったけれど、またうるさくなってしまうので言わない。小傘さんが、驚かしに関してはそれなりに理論派ということは、けっこうな驚きだった。傘のくせに頭のほうが大きいんですね。
「なんか言った?」
「え、まあ……」
ドラム缶の中の濁った水面が鉄色に膨らんだ泡を乗せて張力していた。
ミルキー色の薄い膜、まるでお菓子作りの行程のどこかみたいだった。
写真にはならない1コマの。
つぎに、お好みの合成洗剤を投入して下さい。
わたしは、川で拾いあげた液体の合成洗剤をその中に注ぎ込む。
鉄の棒で、かき混ぜた。
ドラム缶のなかには、すでに今まで混ぜ合わせた分の洗剤の、そのアルカリ性の、酸性のものが残っているから、うまく刺激を与えることができれば、化学反応が起こる。
それがスキャットのレシピでした。
わたしたちふたりは違法スキャットマンなのでこうして工場で合成洗剤を混ぜ合わせることでたくさんのスキャットを発明するんだった。
目の前で、スキャットのお姫様がわたしたちを笑んだまま見下ろしている。
揺れる水面には、覗き込んだ小傘さんの顔が映っている。それを混ぜ合わせて溶かす。雨の音。わたしは考えてみる。でもそんなのは単純すぎるよね。今日、小傘さんはとても甘そうだった。
さあ、行きましょうか、とわたしは言う。
来た道を同じやり方で戻った。
帰り際、振り向いたら、部屋が白緑色のガスで薄く満ちるのが見えた。それがロープを上るとき少し開けた窓の隙間から一筋の半透明な線になって立ちのぼり空に吸い込まれた。
工場の煙。
頭痛めいた尖った匂いだった。
わたしは新しく覚えたメロディを口ずさむ。
それを、小傘さんに聞かせるために、発明する。
わたしがスキャットの国で生まれたんだって信じてもらえるように。
ら、ら、らっぱりぃぱっぱっぱぁ。
壁面に張りついた逆向きの『非常口』それが、今は赤色に点滅してた。
そこには白いチョークでこんなことが書いてある。
『東風谷スキャット・ファクトリー(自然派)』
ピースマーク、『Super Lucky』、相合傘、Hello Kitty、吹出しにはこう。『わぁ!』『わぁ!』『わあ!』
その他、いろいろ。
お昼は川で捕れたハンバーガーだった。
そのびしょぬれの包装を手でちぎって引きはがせば奇跡的に中身は濡れていないのでその必然的な奇跡にわたしは感謝しつつ、かじる。ぱさぱさした、アメリカ色に着色された柔らかい岩塩みたいなしょっぱい味。せめてケチャップとマスタードが欲しかったけれどそんなのは用意してないからまずいまずいと言いながら食べるのに、小傘さんは大好きだった。
まあ、馬鹿舌ですよね。言えば、じっと、刺す目が返る。
窓の外には、未だ、薄くなった工場の煙が漂っている。
「ねえー、今日はどんなスキャットが、できた?」
「ひゃふふうひははひは」
「もの、食いながら、ゆわない」
「ふぁい」
長い間、嚙みしめていると口の中で肉汁やレタスの野菜味が染み出してやっと味が出てくるのに小傘さんはたくさん急かすのでとりあえず水で流しては咳き込んだ。
「あーあー、えほんえほん」
「うん」
「なんかそんなに見つめられると言いにくいですね」
「大丈夫だよ。いつものことじゃん」
「えーと、まあ、そう…………、へへ、えへへへ」
「そういうのいいから!」
わたしが歌うのを、小傘さんが真似する。
らっぱりぃぱっぱぁぱあらっぱりぃぱぁぱぁぱあ。
「らっぱりぃらっぱっぱ? かっぱりーかっぱっぱ、かっぱ」
「アレンジは、禁止です」
「えーずるいよ」
小傘さんは口を尖らせてぶーぶー言う。
「でもさ、でもさ、いつも発明するのは、早苗ばっかりでしょ。わたしもやりたい!」
「え~、小傘さんには無理ですよぅ」
「で、できるもん」
「じゃあ、いま一個やってみて下さいね」
「うん。いくよ」
「はい」
「あ、ちょっと待ってね、えー」
「やっぱ思いつかないんじゃないですか~?」
「いくから」
「はい」
「あーー、えとね、……て、てて、てんてん、てんてん、てん、て」
「ふふふ」
「なにさ」
「ふふ、いや、和風……。というか、古風?」
「しかたないじゃん!昔の人だもん!」
「ていうか、そもそも、小傘さんにはないですからね」
「そうだよ。どーせ、わたしにはセンスとかないよ」
「いや、音感ですよね」
「うるさいなあもう」
小傘さんはすっかり拗ねてしまったようで窓際のほうにひとりふらふら歩いて行きウインドウ越しに川を眺めその水の音を歌っていた。
「ぴっちゃぷっちゃぴちゃぴー」
「あ、ちなみに、それもわたしが発明したやつですからね」
「うっさいなぁ、わかってるよ」
さなさなさなえ、あはは、さなさな、あははは、とか小傘さんが歌うのでハンバーガーの包み紙を丸めて投げて後頭部にぶつけた。
あう、と犬みたいな声を小傘さんは出す。
振り返って睨んだ。
わたしは、紙コップの中の液体をストローで飲む。
目をつぶって味わってその液体がペプシ・コーラだと信じようとしたけれど、やっぱりそれはどこまでいっても限りなく水道水で、でもなんだか甘い気がした。
この場所が、fishness burgerの店内だったらよかったのにね。
そしたら、Wi-Fiだって借りることができたのに。
信仰を失ったわたしの奇跡の範囲は日々弱まっている。
この輝く「4G」を見てね。これこそ、奇跡の証明なんです。
まあ、そう。
でも今は、たったのアンテナ1本だったから、ゲームのアップデートもろくにできない。『コンビニWi-Fi入ります。徒歩1分圏内2つあり』という不動産のチラシが川から流れてきて、洗濯機置場はないけど2階にコインランドリーがあるからいいなあって思ってたらそれは本当は天狗新聞の折り込みチラシだった。月世界を未来に分譲中。侵略計画だってあるらしい。チラシはこんな文章で締めくくられている。
『月は、すでに幻想郷の一部です。貴方も幻想郷の未来に投資してみませんか』
(超、暴力的ゴシック体。アイスキャンデーみたいなね。活版技術を独自に発展させたこの場所ではフォントも独特の進化を遂げていた。それは、ひたすらによみにくい。)
月面アパートには当然Wi-Fiだって通ってないし月の土地に関する怪しげな噂だって種族的に経験済みなのでわたしは全然ひかれないけど、小傘さんは、すっかり月に夢中だった。
ねえ、月だってねえ、やっぱ月だよねえ。
わたしはハンバーガーをまたかじる。
「なにが、やっぱ月ですか」
「ほら、ここ見てよ」
「なんですかもう」
そこには、完成予想図、とある。
月の白い荒野に、ぎざぎざのアパート。
四角い箱を少しずつずらして回転させながら上にいくつも積んでいったような不思議な形をした幾何学的Towerの。
「これ、めっちゃかっこよくない?」
「そうですかぁ? 住みづらそうじゃないですかね。最初はまあいいかもしれないですけど、全然いいとは思いませんけど、この真っ白な感じも未来的?をイメージしてんのかもしんないですけど、汚れたら悲惨ですよね」
「月は、"汚れ"がないって、話だよ」
「ああ、そう……。でもだめですよ。月にはWi-Fiないですもん」
「それは知んないし」
でも、それは大切なことだった。
こうしてる間にも家のすぐ横を車が走って通りすぎるその音が聞こえているし、ときどきはクラクションが鳴る。びー。耳を塞いでも音がする。
窓から見える空には、飛行機。
それは天狗だった、と思った。
今では町はあちらこちらで無分別に重なり、烏天狗の山に伺ったなら、そこに無数の飛行機がたむろするのを拝むことができたかもしれない。
天狗空港金曜日、古い機械。
そういえば、この前は、鳥天狗が原付バイクに乗って空を飛んでいるのを見た。
別にこの場所でこうして無為に暮らしてる限り、どこに町を見たっていいけれど、わたし自信のイメージの乏しさには呆れてしまうな。それにしても、空を飛ぶ新聞配達のバイクか……、あーあ。
町を幻視すること、それがわたしがこうしてやたらめったら奇跡を行使することの代償だという説。もしかしたら、そうなのかもしれない。あるいは、ホームシックによるものだっていう考えもある。
慣れれば、それほどは気にならない。
いずれは、望んだものを望んだ場所に見ることができるようになるかもしれない。
わたしは、この場所が空想のfishness burgerに見えるような訓練をする。
でもそれは未だ水道水だった。わたしのストローで飲む液体は。
まだ、そう。今はまだ……。
月にも町はあるんだろうか。まあ、あるかな。どこにでも、町はある。
「ねえ、月への行き方教えてあげましょうか」
「え?」
「わたし、月に行ったことあるんですよ」
「えー、ほんとに?」
「ほんとですよ。月の地上侵略計画! 実は幻想郷はわるーい月の民の手中に落ちようとしていたんです。そこで、この東風谷早苗が、月へ駆けつけ、悪者たちを退治に退治に退治。そして最後には、3つの世界を統べる大悪党をけちょんけちょんにやっつけるんですよ。人知れず地球を救うんです。わたしは、秘密のスーパーヒロインになるんです。是非、お話聞きたいですよね?」
「あーうん……まあ、そうね」
(あ、でも、その話は前にもしましたっけ?)
わたしは、嘘を言う。
「月には、秘密の経路で行くんですよ」
「秘密の経路?」
「月の民が連絡に使う夢の経路です」
「それって、どこにあるの?」
「もちろん夢のなかですよ。でも、ただ眠っても月の夢は見れません。息を止めて眠るんです。つまり、月では呼吸できませんからね。それと同じ状態で眠りに入ることで、月の夢を見るんですよ」
だからわたしは布団の上で裸の小傘さんをロープでぐるぐる巻きにして鼻をガムテープで塞いでその口に手のひらを押しあてて息を奪うけど、じたばたする手足の指先、手のひらに触れる吐息の熱量、それが、とってもポジティブな生命に溢れているからなぜか裏切られたような気持ちなり、わからなくなって、いつの間にか押さえた手を離すのも忘れて小傘さんの小さな白い身体が瞬間宙に浮き上がるのを見る。そして小傘さんの身体はそのまま布団の上に横たわり二度と吐息することがない。わたしは憔悴していて、小傘さんの身体からロープを解いて(赤いロープの跡だった、)それをドアノブに掛けて、首を差し込んで一緒に月に行こうとするけれど、物音を聞く。振り向けば、目。小傘さんの傘、唐傘お化けの部分のその目だけが、わたしを見つめている。
まあ、そうですよね。
だって、小傘さんは妖怪だもんね。
息、止めたくらいじゃ、死なないよね。
わたしのか細い力無い両手、それを自分で見つめて、ため息をつく。
しかも、一度は傘としてみんなにうち捨てられたのに、必要とされなくなったその後も懲りずにまた妖怪として生まれ変わってやり直したくらいなんだよ。執着心は人一倍強いんだから、消えたりしないよ。
そのことはちゃんとよくわかっているつもりなのに、わたしはいつもその後を用意していないんです。
わたしには想像できないな。
殺されちゃった小傘さんは、悲しいんだろうか、怒るんだろうか、許してくれるんだろうか。わたしに向かってなんて言うんだろう。逆にわたしは何を言うかな。とりあえず言い訳するとか、謝り尽くすとか、あれれ死んでないんですねわたしびっくりさせられちゃいましたあはは。
なみだめ。
それは、唐傘の、お化けの、潤んだ一つ目、のなかでひとり戸惑い立ち尽くすわたしの目。
小傘さんは泣きそうな声で言う。
「ねえ、それってさあ、あれでしょ、死後の世界は月でした、みたいな話でしょ?」
「まあ、そうですね。実際は、月に着くまでの間だけ息を止めてるんです」
「じゃあ、さなえは、月に行ったとき、やっぱ、その、息止めてもらうの、したんだ?」
「ええ、霊夢さんにしてもらいました。お互い裸になってね。ふふ、やられるのもけっこう悪くなかったですよ」
「へんたい」
小傘さんは、やっぱり泣きそうな顔だった。
唐傘お化けの方の一つ目みたいに目ん玉が大きくなって、非人間的表面張力下で、あと少し触れたらこぼれてしまいそうだった。ゼリー状の目。白葡萄とアップル味の。
本当は人間よりもずっと強いのに先に消えてしまうのは絶対に人間なのに、弱々しい人間の子どもみたいに小傘さんがすぐ泣いてしまうことが、ときどき許せなくなりそうになる。
わたしは、そんな顔して欲しくないのに、いつも泣かせるのはわたしのせいだった。
「もー泣かないでくださいよう。冗談ですってば」
「泣いてないわ」
「ほら、ごめんなさい。ほんとの月の話を聞かせてあげますから」
「べつに、そんなの、聞きたくないもん」
「さっきと言ってることはちがうじゃないですか」
「だって、さなえが、へんたいだから、変態の話は聞いちゃ駄目って言われてるから」
「誰が、言うんですか」
「わわ、やめて、耳が、変態に、なる」
それでも、わたしは月の話をする。
少し先の未来を見る薬のこと、夢の経路のこと、凍りついた町のこと、弾幕ごっこのこと、変なTシャツを着た地獄の女神のこと。
「だからまあ、月とこの地上は確かに夢の経路で繋がっているのは事実なんですよ」
「夢か。わたしも夢見れば行けるかなあ」
「かもしれないですね」
「でも、そんな都合よく月の夢なんか見れるかな?」
「それを、見る方法があるって言ったらどうします?」
「ほんと!?」
「言ったじゃないですか、月への行き方を教えてあげますって」
「やったー!教えて教えて!」
「あ、でも、小傘さんに言ってもしょうがないか」
「なしてさ!」
「だって、小傘さん、変態の言うことは聞かないんですよね。わたしは変態だし……」
「早苗は変態じゃない!」
「それでは、何でしょう?」
「え……、えーー? なに……? なにって、あー、神さま、かな?」
「ぶっぶー。正解は女の子でした。正確には、素敵な女の子、ですね」
「えー、ああ、そうね……、あ、いや、そうだよね。早苗は素敵な女の子だよっ! わたしったら憧れちゃうわね」
「うーん、まあ、いいでしょう。夜まで待ってくださいね」
それで、夜。
わたしは片手に斧を握りしめ、スキャット工場にいた。
夜の工場は生きている。
その暗闇の中をスマートフォンの灯りを頼りに進む。水面は黒色、失敗した実験の産物、液状のDemonだった。ところどころで反射するプラスチックの容器がまるで光る眼のようで。18の魔眼がわたしを刺す……。小傘さんの6倍ですね。小傘さんの目ならいくらあっても怖くない、というわけでもない。
ぴつぅうん、ぴつぅうん、ぴつぅうん、と、どこかで滴る音がする。
妙に水が足に絡みつくように思うのは気のせいだろうか。見てはいけないものを見てしまいそうで、画面の灯りもささやかにすぐ足元を照らすだけにとどめる。水面は洗剤の油で滲んで怪光線色に光っていた。壁に描かれたチョークの落書きでさえなんだか今にも動き出しそうだった。Hallo Kittyがこっちを向いてにやにやと笑っている。
幻想郷には妖怪だって幽霊だって実際に触れられる形で存在し、時にはお話をしたり戦ったりしているのに、未だに夜が怖くて仕方ないのは、どういうことなんだろうか。思うに、暗闇は鏡のような効果があるんじゃないだろうか。夜には闇が視界を覆うので、わたしたちの眼は自らの心の内の方を向かわざるを得なくなり、それが薄暗く見えるオブジェクトに形態以上の意味を与えるのだ。わたしたちはいつでも情緒不安定だった。
どしん。
震動が、天井を揺らす。
どしん、どしん、どしん。
でも、その音は、むしろわたしを安心させた。
揺れる方へ向かって歩みを進めその下側に立ち、斧の柄で叩いて、小傘さんに合図を返す。すぐに音がやんだ。しばらく待ったあとで斧を振り上げて天井を打つ。刃の先が少し刺さっただけだった。
わたしは、繰り返し、工場の屋根を何度も叩く。
やがて、天井に穴が空いた。
月の光。
あふれて、夜の工場を浄化する。
その透明な光に追い立てられ、水溶化したDemonは闇のさらに深いところに隠れこみ、水面は再び色を取り戻す。壁のHallo Kittyは笑ってない。そもそも口がないのだった。光の差し込む穴を覗くと、それは上の階――寝室に繋がっており、寝室の天井にも同じような穴が空き、それは月へと続いている。ひとつ上の穴から、小傘さんが顔を出した。
「ね、調子は、どーう?」
「小傘さんって、ぜんぜん、怖くないですね。安心します」
「ばぁか」
小傘さんがべろを出すので、わたしは嬉しかった。
最後にドラム缶を穴の下に動かして戻ることにした。
帰り道、工場の出入り口の窓のところで振り向いたら、月明かりの下になにか黒っぽい影のようなものが見えた。まさか、とは思いつつも目が離せず、次第にそれは形作られてまるで人影のように、とかそんなことはないですよねたぶん後ろの壁の染みか、あるいは小傘さんが足をすべらせて落ちたのかもこんなにも月の光で明るいのに。その影はこちらに向かって、手をこまねいているようだった。水面が小さく波打つ。暗闇の黒い色じゃなくて、月明かりの白い色の波。まるで無数の手のひらだった。そのたくさんの白い手がわたしの方へいっせいに向かいかかり、わたしは喉の奥まで声が出かかったのを、のみこんだ。あわててロープを引いて上り、二度とは振り向かない。
寝室に戻った後もまだ震えていた。
どうしたのなんか怖い顔して、あ、やっぱわたしが怖かったんでしょ、これでも暗闇はわたしのホームグラウンドだからね、とかなんとか言っている小傘さんの顔を見たら不思議と落ち着いてくる。
そういえばと思い出して確認すると、スマートフォンの画面は真っ暗だった。
月明かりで周囲が見えるようになったので無意識に接続を切っていたようだった。
だから、あれは、本当の意味で単なる幻覚だったのだ。
川を流れる車とか、空を飛ぶ天狗飛行機とか、そういうごくありふれた景色の一部。
そういうことにした。
それからは、もうそのことは忘れるようにして、服を着替えて月のことだけを考える。
「それで、どうやって月の夢を見るの?」
「見たい夢に関する物や絵を枕の下に挟み込むとその夢を見られるっていう話をご存じですか?」
「あ、それ、聞いたことあるよ」
「つまりね、月を枕の下に閉じ込めれば、月の夢が見れるってわけです」
「あはは、そんなことできないって!」
「ふふふ、じゃあ、ちょっと見て下さい」
さっき、下側から開けた床の穴をわたしは指さした。
そこからは配置した通り、ドラム缶が見える。
そして、その中には、月があった。
今日は偶然、満月に近い日だったから、とっても丸い月だった。
そこに住んでいる兎や蟹だってはっきりと見える。
あ、月。小傘さんが呟く。
「そうです。わたしたちは、こうして、月を発音塔のなかに閉じ込めました」
それから、その穴より少し大きめの板(空き部屋の壁から引きはがしたものです)を使って床の穴を塞いぐ。そして、ちょうどその上に枕がくるように、布団を敷く。
「で、こうすれば――ほら、枕の下に、月があるじゃないですか!」
「わあ、わー、まじじゃん! すごい!」
「ふふん、どうですか」
「これでさ、これで、月の夢を見れるよね」
「じゃあ、早速、月世界旅行に行きましょうか。寒いし」
わたしが布団のなかに入ろうとすると、小傘さんが呼び止める。
「あれ……、でもさ、これって意味、ないんじゃない?」
「どうしてですか?」
「だってさ、こう、光が……、月の光がこう入って来ても結局枕があるから、その下のとこまで行かないでしょ?」
「いや、そんなことないですよ。今こうして月の光が届くとか届かないとか、そんなんはもう全然、関係ないんです。さっきも見たでしょう。いいですか、わたしたちは、こうして枕の下に月を閉じ込めたんですよ!」
「えー、でも、でもさ」
「その証拠に、ほら――」
もう一度、枕を上げて板を外す。
ドラム缶の中には、依然として、月。真ん丸の。
「ちゃんと、残ってるじゃないですか」
小傘さんは考え込んでしまう。
元に戻してわたしは先に布団に入った。
後から小傘さんも入り込んでくる。
空けた天窓から風がびゅーびゅー侵入してきて、とても寒い。
ねえ、はぁあ、息が、見て、白いです。
月明かりの下で、煙みたいだった。
小傘さんが言う。
あのさ、さっきのさ、なんかさ、なんか、ずっこいよね?
ずるくなんかないですよ。
わたしは毛布を被る。その暗闇の中で小傘さんの身体を抱いた。
こめかみにかかるのはリズム感のない吐息。
かすかにあたたかい。
あの工場の影のことを思い出す。
たしかに、あれは、いつも通り幻視する町の一部だったんだろう。
でも、町を幻視するときは、それが現実の現象に重なりあうことが多いんでは。
それならば、あの影は……。
小傘さんの、心臓の音。
お化けのくせに、ちゃんと鳴ったりするんだな。
そのことがなぜだか今日はとてもおかしくて、わたしは嬉しくなってしまう。
わたし、小傘さんがお化けでよかったです。
あのね、言っとくけど、わたし、お化けでも妖怪でもないからね。付喪神って言ってね……。
よかったです。よかった。
まあ、そうね……。
だけど、お化けのくせに泣き虫だからそれはむかつきますね。それはまじでもう毎日3時間くらい反省して下さいよ。
うっさいな。
でも、ほんとに小傘さんがいてくれてよかったんですよ。
うん、聞いたよ。
小傘さんの心音はもう聞こえなかった。
たぶん、わたしのほうが先に寝たんだと思う。
夢を見た。
帰れないピクニックの夢、夏の夢、守矢神社の夢、どうしても解けなかった宿題の夢、得体の知れない暗闇に追われる夢、故郷の夢、ドーナッツを食べ損なう夢、シュークリームを食べ損なう夢。
喋るのはいつでも月の夢だった。
5'
ある朝目醒めると不意にこれまでその複雑さによって高度に足らしめられ、ある種神秘めいてさえいたものが、視神経の奥まったところでばらばらに分解されて単なる要素の集合にしか見えなくなることがある。対象からディティールが失われ、画一的で平板な表情しかそこには残らない。複雑さとディティールの間には密接な関係がある。ディティールとはつまり要素と要素の連絡に関する様式だからだった。
それが、理解の地平を切り開く、という類のことなら、べつにいい。寝ている間にわたしたちは学習したことを配置し直すので、昨日まで難解に見えていた問題が次の日には
ふと解決されることもある。
覚えること、繋ぎ直すこと、理解すること。
でも、それはたいてい、あるひとつの過剰トラフィック神経系の焼けつきにすぎない。わたしたしは昨日までとても熱中していた物急に退屈してしまう。わたしはある朝目醒めたその寝ぼけ眼でもはや連絡の失われた要素を辿る。これは布団、これは毛布、これは枕、あれは机、コップ、水道水、汚れた綿棒……。どこかから短絡したシナプスの焦げ臭いにおいがする――焦げ臭いにおいが、煙……。煙?
「あ、さなえ。おはよ。うん、これのことだよね、これはね……えへへ。ほら、この前、お肉をバーナーで焼いたでしょ? 今日のお昼はパン・ベーコンエッグがとれたから、あたたかくしようと思って焼いてみたんだけどね、失敗しちゃった! 午前中のごはん、なくなっちゃった……。ごめんなさい! お願いだから怒らないでね。これからは、わたしのこと、焦がしちゃんって呼んでも良いから」
「こがしちゃん? まあ、べつにいいですけど……」
顔を洗って服を着替えた後でキャリーケースの中の銀色の缶の中のへそくりビスケットを食べることにすると、小傘さんの方ではわたしがへそくりビスケットを食べているのを見ている。
「ねーちょうだい」
「えー」
「お腹減っちゃった」
「それも元はと言えば、小傘さんのせいなんですよ。反省してます?」
「してるよう! ほら、ごめんねのポーズ」
「うーん……、じゃあ、犬の真似してくださいよ」
「いぬぅ?」
「そしたらあげますよ」
「わかったよ……へっへうへっへっへうへう」
「え、なんですか、それ」
「犬だよ」
「いっつも思いますけど、小傘さんへたですね」
「下手ってなにさ!」
「普通にわんわんとかでいいじゃないですか……」
「あのさ、早苗、犬ってさ、わんわん鳴くのは威嚇とか敵意を示すときの鳴き声なんだよね。いまは、反省の意を示してる場面だから、わんわんはちがうよね?」
「いや、そういうディティールはいらないんですよ。新しいのきちゃうと、こう、こっちもびっくりしちゃって、あんまり喜べないというか……。あれですね、焼餃子を食べたいと思って中華屋で頼んだら水餃子が出てきて、本場はこうなんです、とか言われても困る感じです」
「知んないよ。とにかくちょーだい」
「はい」
「ありがとう、いただきまーす……。うぇえ、これ、へそごまビスケットじゃん!」
「あはは」
「わたしも栗味が食べたい!」
「だめです。小傘さんは胡麻味で我慢して下さい」
「これ、めちゃまずだもんなぁ……」
じゃあいらないですよねとか聞くまでもなく小傘さんは、ばりばりかりかり食べているから馬鹿舌だなあと思いつつもあまりに威勢よく食べるのでもしかしたら段々とやみつきになるところがあるのかもと思って胡麻味の方をひとつとって食べてみたらやはりひどくまずかった。水を飲む。
そうこうしていれば、気がついて、例のゲームのアップデートが終わっていた。
タイトル画面には桜吹雪。新しいキャラクター。
でも、それは、べつに、ぜんぜん刺激的じゃないから画面に触れてそっと消す。
使い回しのイベント、既視感のある展開。
友だちはもう43日もログインしてないんです。
ゲーム内のチャットコーナーでは予言者たちが拡声器を片手に終末論を語り回り、人々は新世界の夢を見る。方舟に関する怪しい噂が町を走る。路地裏を歩いていると浮浪者然とした男がわたしに言う。なあ、姉ちゃん、聞くだろう。ここはもうおしまいだよ。だが俺は切符を持っている。ひとつ分けてもいい。道の、どこに行けばいいか。そうだな、たったの金貨3枚でいい……。
どうしたら、そんなことが想像できたのかな。わたしは考えてもみなかった。
ずっとわたしは、わたしが失われる未来のこと、わたしの信仰の貯蓄が空っぽになってしまいもはや故郷への接続も断たれただその画面の上に黒だけを映す死んだ板を握りしめている未来のことばかり考えていたのに、ここに、わたしは今いて、まるきりそのまま完全体でいて、ひとつのソーシャルゲームが終わりゆくところを眺めている。わたしは未だ存続し、ある社会の方が失われる。
わたしは、わたしが思うよりもずっと強固なのかもしれない。
もちろん、それだからって、喜べる道理はどこにもない。
ねえ、どうしよう。全然わかんないよ。
わたしは、こうして正しく失われたものをちょっと羨ましく思っていて、そのことが、今ここでわたしを寂しい気持ちにさせるけれど、それは単に、あるひとつのものが失われるときに感じる寂寥感一般にすぎないのかもしれない。
「ねえ、早苗、見てあれ!」
小傘さんが、何かを言った。
見れば、窓の方を指さしている。
そこでは河童が川を流れていた。
もちろん、河童は日がな流れされている。仰向けになって昼下がりの光を浴びながら心地よさそうに流れていたり、カップルらしき二人が手を繋ぎお互いを触れ回りながら泳いでいたり、時には工具を握りなにやら遠いところで考え事をしたまま流されていることもある。
でも、そこにいた河童は、あまりにも数が多かった。
わたしたちは縁側へそれを見に行ったのだ。
河童たちは、ざっと20人以上もいた。それが、横に並び縦に並び乱雑な形でまとまり、みな一往に仰向けになって流れている。泳ぐのとはちがう、川の速度そのままだった。
そんなにたくさんの河童が一度に流れているところを見たのは、はじめてだったから、わたしは少し驚いてしまう。なんだかちょっと異様な光景だった。
だからその流れがちょうどわたしたちの家の前までやってきたとき、その先頭あたりにいる顔見知りのひとりをつかまえて話を聞いたものかどうか逡巡してたら、小傘さんの方が、先に話をかけた。
「ねえねえ、なに、してんの?」
近くまでやって来てはじめてわかったのだけれど、流れる河童の周りには、たくさんの花びらや花弁、あるいは、同じ種類のものらしい花束、なにやら丁重に包装された不思議な素材の黒い箱のようなものまであり、それらが一緒になって流れている。
声をかけられた河童が半回転し、白い花びらの絨毯を裂きながら、ついーっとこちらへ泳いできた。
「やあやあ」
「こんにち、わぁ」
小傘さんの新しい挨拶はとてもうざい。
ずっと一緒にいるから、わたしは、わざわざ挨拶とかされないんで、別にいいけど。いいけど。
河童は言う。
「そういえば、早苗、聞いたよ。月に行ったんだって?」
「え、まあ、そう……」
「河童たちの間でも評判だよ。ロケットをつくる――宇宙に行くっていうのは、河童たちの夢のひとつだからね。どうしてなかなか面白いアイデアだね。もちろん夢の経路は、わたしたちの望むところじゃないんだけど、でも、それはひとつの達成だよ。あとで味噌を贈ろう。気にしなくてもいいよ。わたしたちの風習さ。技術的達成には、たくさんのきゅうりを、空想的達成――つまりは、アイデアってことだけど、にはね、味噌を贈ることにしてるんだ」
「それはそれは。ありがとうございます」
小傘さんは河童たちといつの間にか仲良くなり、わたしの知らないところで色んな話をしているらしかった。
その小傘さんが、流れる河童の集団を指さして聞いた。
「あれは、なに?」
「ああ。あれはね、葬式なんだ」
「そうしき?」
「うん、そうだよ。だれかが亡くなったときは、その亡骸をああやって流すんだよ。人間なら焼くんだよね?」
「わたしの周りは、まあそうですね」
「それは魂が天にある国に行けるようにするためって、聞くよ。別の妖怪たちの中には埋めて残しておくのもいるって聞く。それはやがて魂が戻ってきて復活を遂げるためっていう話らしいけど、河童たちは魂を信じてはないからね。信じてるのは、仕組みだよ。正しく働く仕組みがわたしたちの神様なんだ。死んだものは、つまり、すでに仕組みが機能していないってことでしょ、そこには何もないんだよ。空っぽだ。とっておいてもしょうがないだろう。だから、流すのさ」
「あのひとたち、みんな、死んじゃったの……」
「いや、お亡くなりになったのはひとりだけ。ま、昔の名残だよ。狸や狐たちなんかと戦争をしていた頃のね。ああすることによって誰が死んだか情報が漏れないようにするんだよ。特にお偉いさんが亡くなったときにはね。向こうの士気や作戦に関わるでしょ?」
「うん」
「今は、そんな必要もないけどね……。でも、死んだ河童は空っぽだけど、残されたものには、その影がはっきりと染みついてる。それが、彼らを笑わせたり悲しくさせたり、時々は仕組みをおかしくするのさ。だから、一緒に流れることには今でも意味がある。死んだものを弔うことを、河童の言葉では、影を流すって言う」
それはなにかわたしには理解できない発音の言葉だった。
New York……。
数学。
ぐにゃぐにゃの声。
「じゃあ、あれはなかよしだった人なんだね?」
「うん。家族や親戚、友だち、恋人、みんなで流れるんだよ」
たしかに、言われてみれば、それは葬列のようだった。
花びらや花束が、彼を中心に添えられているようだから、たぶん、あの真ん中あたりにいるのが今まさに葬られている者なんだろう。
ここか見るとその河童は、まるでまだ生きてるみたいだった。それとも、周りのみんなが、もう死んじゃってるように見えるのかもしれない。死んだものは単なる機械的な残骸になってしまうという信仰のわりに随分ご大層な葬儀じゃないだろうか。そう簡単に割り切れるものでもないんだろうな、きっと。あるいはどこかの時点で他の種族との文化的接触が起こったのかも知れない。死者の隣を流れるあの黒い箱の中にはわたしたちが棺桶の中にそうするみたいに生前死者が愛用していたものなどが入っているんじゃないかと想像をしてみた。
よくよく観察していると周囲の河童たちは、時折、もぞもぞと動いているようだった。特に身体の小さい子どもの河童たちは、その動きが大きく、ばしゃばしゃと波を立てたり回転する者までいる。そのへんは人間とちっとも変わんないんだなあと、なんだかおかしい。
「あれ、子どもたちですよね」
「うん。彼らはまだこういう場に慣れていないんだよ。中には、泳ぎが上達してきた年頃の子はそれが嬉しいのか、どんどん泳いでいってしまうものもいるね」
「ふふ、人間でもいますね、そういう子」
「でも、いい経験だよ、死んでみるっていうのはね。はじめは我慢できないし退屈かもしれないけど、でも幼い頃に一度は体験してみるべきだ」
「かもしれないですね」
ひとりの子ども河童が、例の黒い箱に手をつけようとして、母親らしき河童からたしなめられているのを見た。ぶたれるのも見てしまった。
ふと、おじいちゃんの葬式の時に、親戚の小さい子が棺桶の中のお菓子を見て、いいなあと呟いていたのを思い出す。不謹慎なのかもしれないが、その発言にはなにか肉体の生死とは別のところに祖父の存在を肯定しているような気がして胸の空く思いがしたのを覚えている。
「しかし、ぶつとは、こわいお母さんですね」
「早苗みたいだね!」
「え、わたしはぜんぜん優しいんですけど」
「まあ、あそこには、河童のいちばん大事なものが入ってるからね」
「それって、なーに?」
「それっていうのは、設計図だよ。わたしたちは、みんな自分の特別な設計図を持っているんだよ。とても素晴らしい発明ではあるけれど、技術的には実現できないような、そういう類のね。それを大切に他の河童にはわからないように隠しておいて、死んだらああやって誰もそれを見ないようにして、一緒に流してあげるんだよ」
「え、どうしてです……。素晴らしい発明なら、みんなで共有すればいいじゃないですか。そうすれば、その時は創れなくても、そのうち技術が発展すれば、実現の可能性だってあるのに……」
「わたしたちには、プライドがあるからね。自分の最大の発明には、自分自身がエンジニアとして携わりたいんだよ。逆に残されたわたしたちのほうでは、失われたものがどんな優れたアイデアだろうと、自分たちで発明できるって思うわけさ」
「ふうん」
「愚かだと思うかい?」
「べつに、そんなことは……」
「いや、いいんだよ。実際、わたしたちは愚かなのさ」
「まあ、そう……? あ、でも、わかったな。そんなんだから、いつまで待っても巨大ロボットができないんですね。わたしね、ずっと待ってるんですよ」
「ふふ、まあ、そうかもね」
笑うと、そのまま河童は水の中に消えてしまう。流れてはみんなのところに混ざり、そして仰向けに浮かびあがりその後はただ死んでしまった。
小傘さんは、とうに家の向こう側へと過ぎ去った河童たちに手を振っている。葬列に手を振るのもどうなんだろう、とわたしは思いながら言わず、スマートフォンでゲームをする。それは、遠くなる霊柩車だった。色とりどりのスーパーカーたちに周囲を取り囲まれた。
へんなの、とやがて小傘さんが言う。
「河童は、いつでも昔のスーパーカーみたいだ、っていうことがですか?」
「え、なあに?」
「いや……」
「河童たちってやっぱりなんかへんだよねー。わたし、好きだな」
「わたしも好きです」
ちょうど外に出たタイミングということもあり、わたしたちはそのまま洗濯をする。
気がつけば、もう夕暮れだった。
わたしたちの手は赤い。
冷たい川の水に曝されて赤く、夕日に染まって赤かった。
ぴちゃぴちゃぴちゃと音を立てながら服を擦り合わせる小傘さんに後ろから近づいて、その泡だらけの冷たい手でうなじに触れるのに、小傘さんは、う、ああ、と静かに呟いたきりで、じっと川の流れを見つめていた。
ねえ、ってしばらくあとで言う
「なんですか?」
「ねえ、わたしたちだったら、一緒に流れてくれる人いないよね」
「そうかもしれないですね」
「それって、寂しいことだよね」
「まあ、そう……」
「ねえ……、ねえ?」
「なんですか、もう」
「あのさ、わたし考えたんだけど、わたしが死んでも、早苗が一緒に流れてくれるかな」
わたしは、小傘さんがそんなことを言う理由がわからない。
小傘さんには、選ぶ権利がある。
もういちど、今度は両手で、その首に触れる。
「わ、つめたい、うぅ……」
「あたりまえじゃないですか。逆にね、わたしが死ぬとわかったら、絶対、絶対、死ぬその前にわたしのいちばん大切な、いちばんの発明の、小傘さんをあの箱の中に閉じ込めて一緒に流しますからね、覚悟してください」
「ね、それって、さでずむ?」
わたしは小傘さんのほっぺたを、ひねる。
「これが、さでずむです」
「うぅ、ひたいよう」
洗い終えた服を絞って水気を抜くと、ぼたぼたぼたと水滴はいっぱい垂れ落ち、物干し竿にそれらを景気よく掛けていくけれど、ピンク色のバスタオルの向こう側で小傘さんはまだ喋っている。その薄い影が。
「あのさ、思ったんだけど、わたしたちに子どもとかいればよかったよね」
「子ども?」
「そしたら一緒に流れてくれると思うし、わたしたちが死んでも残るでしょ。それにかわいかったよねえ。あの、河童の子たち、かわいくなかった?」
「まあ、そう……どうかな」
そんな勝手な理由で残されてしまった子どもはたまったものじゃないだろうなあとわたしは思う。物干し竿の上から向こう側に町が見える。広告塔のヴィジョンには、最新のうがい薬のCM。『お願いします。どうか進歩を、感じて下さい』まあ、そう。スマートフォンを手にとってゲームをする。
「っていうか、妖怪って子どもとかつくれるんですか?」
「だからー、わたし妖怪じゃなくて、いわゆる……」
「ああ、ためしに分裂とかしてみればいいじゃないですか」
「早苗は妖怪をなんだと思ってるのよ……」
小傘さんは、ため息。
それから干された洗濯物たちを端っこを順番に引っ張って伸ばしていたけれど、そのどこかで呟いた。
子どもなんかできないよね。
スマートフォンの画面で反射する夕日がとてもうざい。
夕ご飯にはオムライスを食べた。
そのあと身体を洗ったらもうすることがなにもなくなって布団に入って眠る。
頭上ではブルーシートがはためいている。この前、月を閉じ込めようとした際に開けた穴だった。今ではその穴も、ぱりぱりの青空の向こう側から隙間風を許すにとどまっている。
小傘さんは、やっぱりずっと上の空で、布団に入ってからもこんなことを聞いてきた。
「ねえ、さなえは、子ども欲しい?」
別にそうは思わないとわたしが答えると、また少し考え込んで言う。
「あのね、早苗の故郷じゃ、子どもはどうやってできるの?」
そりゃあもちろんこっちの人間とおんなじですって答えようとして、やめた。
「うーん、微妙な問題なんですよね」
「なにそれ?」
「わたしの故郷、つまり、スキャットの国ではね、人々は子どもを産むことはできないんです。でもたしかに愛し合ったふたりに子どもはできるんです」
「どういうこと?」
「つまりね、あー、どこから説明したらいいでしょう」
「そりゃあ、はじめからだよ」
「当然ながら、はじめには、愛しあうふたりがいます。物事はそこからしかはじまらないですよね。それで、ふたりは、逢瀬を交わしたりするうちに愛が深まった挙げ句、最終的には何もかもを統一したくなって、丘の上で、婚姻の儀を交わすことになるんです。まあ結婚式ですね……。とは言っても、誓いの言葉を吐いたり指輪を取り交わしたりするんじゃないですよ。何をすると思います?」
「なにって……そりゃあ、ね」
「何が、そりゃあねですか、ばーか。単に、そこで、ふたりで歌うんですよ。お互いの固有のスキャットで一緒にデュエットをするんですよ」
「ばかってさ、ばかって、そっちの方がずっとばかっぽくない?」
「あー、うるさいです。とにかく、えーと……、そう、ところで、その彼らが歌う丘の先には、渓谷があります。その崖の壁には穴が空いていて、そこにはスキャットのない子どもたちが住んでいるんです。スキャットのない子どもたちは、みな日の当たらない洞窟の奥に住んでいるため肌が白く、言語さえ持っておらず時折ぶーとかうーとかの言葉にならない言葉を発しながら、洞窟の中をうろうろうろうろしています。そうですね、だからそれは渓谷の上から見下ろせば、崖の脇の穴の中で、まるで白い入道雲が形を変えながら蠢いているように見えます。その時点で、彼らには意思といったものはほとんどなくなく、不明な走性によって動き回り、彼らにいわゆる生命があるのかどうかも定かじゃないんです。でもですね、やがて彼らは変態します」
「へんたい?」
「ちがいますよ。形が変わるってことです。羽化……。彼らは時期が来るとやがてひとつの歌を喋るようになるんです。それを彼らは空の方から授かります。ある日、天から唐突に聞こえてくる歌――そのスキャットを自分の歌にするんです。もう、わかりますよね?」
「ああ、結婚式の?」
「そうです。愛しあうふたりは丘の上で一緒に歌をうたい、そしてそれは、峡谷の下で混ざり合って新しいひとつの歌になるんです。そして、それがスキャットのない子どもたちを、スキャットの国の子ども――彼らふたりの子どもに変えるんです」
「みーんな、同じ子どもになるの?」
「いや、その歌を覚えることができるのは、なぜか決まって、ひとりか数人です。そして新しい子どもたちはそれぞれ微妙に異なるスキャットを有しています。ふたつの歌が混じり合ったものを、ひとりで、そのまま歌うことはできないですから、それぞれの子どもたちが、たとえば洞窟の高さとかその中での位置とか、そういったもので、異なる歌、性格をもった兄弟になりますよね」
「あ、ね、ひとついい?」
「なんです?」
「じゃあさ、そのスキャットのない子どもたちは、どこから来るの?」
「それは、わたしたちには、わからないんです。峡谷の間にはとても強い風が吹き、その下に降りる手段は、少なくともわたしのいた頃は、なかったんですよ」
「ふうん。そっかあ……」
そして沈黙。ばさばさと青空だけが揺れている。
少しあとで小傘さんは言う。
「ね、じゃあ、もう早苗も、子どもとかつくれないんだ?」
「いいえ」
「えー、なんで? だってここにはそんな子どもたち、いないじゃん」
「だってね、小傘さんが、そのスキャットのない子どもたちのひとりなんですから」
「え、まじ? 知らなかったわ、そんなの」
「ふふ。だって歌を、思いつかないじゃないですか」
「……むう」
ちょっと考えたあとに小傘さんは、じゃあわたしは早苗の子どもだね、って言う。
それなら、なれるよね?
「べつに、わたしの、ってわけじゃないですけど、でも、そうですね、わたしが、いろんな男の子とか女の子とか交わって生まれたすべての音楽を、そのメロディを小傘さんに分けてあげますよ。こうやってね、足とか手とか縛り付けて口を塞いで押し入れのなかに閉じ込めてね、その……、薄い扉一枚の向こう側で喘ぎ声を聞いて下さいね」
そして、情報案内所の裏側のラスベガス風の黄金の滝の後ろに隠された『新天地』で、そこで、わたしは、入れ替わり立ち替わりたくさんの人間と寝ることになる。
その、音が。
アトランダムな交雑が、それが音楽を生み出してポップソングとなって店頭に張りついたスピーカーを通して町中に響きわたり、パレードを現象させるので、わたしたちは楽しい気分で毎日を過ごすことができる。
乱交は音楽だった。
いろんな人たちの体液の……、精液や愛液、滲んだ汗や唾液とかの交わったやつが染みついたその下着をドラム缶のなかの合成洗剤で焼いて漂白する。
小傘さんのは、雨の色――とっても透明だから混ぜてあげないんです。
ぴ、こん!
(通知音。わたしたち、とてもびっくりしてしまって毛布を引き込んでその中にすっぽり隠れてしまう。)
まるで、それは、天使たちが魔女の人形を漂白するコインランドリーで乾燥機に投げ込んだ濡れた衣服はみんな燃えてしまうからわたしたちは裸のままその遺失物置場の毛布の中に隠れる、みたいな。
泣いたりはしちゃだめなんだよ。
わたしたちが見つかっちゃうから、そこに存在する、ってことがはっきりわかるから。
小傘さんのやせ細った鎖骨の部分、そのくぼみを円周に沿って舌で撫でて、それから、耳を嚙むと声を出す。あ。
「ねえ、早苗」
お願いだから、く、すぐ、っ、たい、とかは言わないでくださいね。
(わたし、そういうの、とっても萎えちゃうんです。いつでも真剣にいて欲しい。)
言わないけれど小傘さんは泣いている。
「ごめんね」
そうやって小傘さんが言ったのが聞こえなかった。
わたしの胸のあたりに額を押し当てて泣いている。
窓の外には信号機。赤色に点滅してた。
車の流れが今はとても緩やかだった。
遠いところで救急車のサイレン。バックファイアするバイクの音。
着いたままのスマートフォンの明かりが毛布の中で小傘さんの白い肌を反射する。
その手を、取る。
ロック画面の通知欄には、『魔力がたまったよ!』の文字。
日々閉じていくソーシャルゲームに関する太古の予言。すすり泣き。
それが、わかんないこと、泣きそうになって電話も繋がらなくなってひとりぼっちでそこでここであたりそこらじゅうあちこちで泣いている人たちみんなを救ってあげたいと思うけどそんなことできるわけもないし電線とかってわたしも好きだよ。それがここにないことがとてもとてもとても残念でそれだけでもうホームシックになっちゃったみたいな感じで、てめぇで選んだのにそんなふうに感傷したら、駐禁を切られたカローラの赤いボンネットとかコンビニエンスストアの前の濡れた傘立て、老人と警察が座って言い争う錆び付いた黄色いベンチとか、そういうすべてのものを包括するひとつなぎの表面の汚れとかが愛おしくてたまらなくなってそう感じたいがためにこうして今失ったんじゃないかと思うほどなんだかばからしくて笑いが出る。それらがみんな木みたいになってこの場所で自生したらいいのになあ。それらを、まるで連続写真みたいに切り取って高速で再生して町の部分部分が立ち現れては消えていく映像の、それは、なにか巨大な手のようなものがミニチュアの町を積んでは取り払っていく児戯のようで、高層ビルや商店街や家々や、家々の間に奇妙に収まった三角形のアパートや学校やグラウンドや、子どもたちや大人たち、満員電車とか歩道橋、その表面の造形が……。
愛しいものはみんな巨大な手によって創られる。
きみの、すべすべした傷ひとつない小さな手、あんまりに無意味だからうんざりしてしまう。
(ねえ、嘘ですよ、驚いた?)
もういっぱい愛してるんです。
こんなにもかわいらしい無垢な手なんだから。
だからさあ、そんなふうに泣かないでね。
泣かないで、泣かないで、泣かないで、ねえ……。
泣かないでよう。
それから、遠いところで音を聞いた。
ぱた、
ぱた、ぱたぱた、ぱた。
何でしたっけ、この音は。
ぱたぱたぱたぱたぱたぱたぱた。
小傘さんはまだ泣いている。
外から聞こえる音はだんだん強くなっていた。
ぱたぱたぱたぱたぱたぱたぱたぱたぱた。
そうだった、それは雨の音でした。
わたしは敷かれた布団にそっと耳を当てる。川の流れる音がする。
わたしは想像する。
奔流する川に家が流されるところ、わたしたちが、ない海へ向かって延々と流れていくところ、川の留まりでこの小さな寝室がどんどん広がっていき、その真ん中でわたしたちも膨らんでやがて奇妙な菌糸類のようになってしまいこうしてひっついているにも関わらず心臓の鼓動も遠く、雨の音しか聞こえない。
ぱた、ぱたぱたぱたぱた……。
それでも、小傘さんは泣いていた。
おへそからに足のほうへと流れる冷たいもので、それがわかってしまう。
わたしたちは知らない。
憂うつや悲しさや寂しさわたしたちを狂気に連れていく何者かのことを。
そういったものすべてを捨てるために、逃げてきてしまったから、睡眠薬も抗鬱剤のことも知らないままわたしたちは、しかたなく今日も合成洗剤の名前を蒐集するんだよ。
中身のなくなった洗剤をまた川に戻して、ありうべき最期に向けて工場を目張りする。
白いチョークで、工場の壁にこんなメモを残す。(そして、すぐに消すんです。)
はろーはろー、ダウニー。ばいばい、アリエール。
(ねえ、いつまでもそんな布団の中で隠れてないで冷たい飲み物でも買いに行きましょうよ。とびきりの甘いやつを、コンビニエンスなストアにね。なにそれって言われたって、まあ、それはそういう……。わたしずっと喋りぱなしだったから喉が渇いてこうして張りついてうまく声が出せないんです、あー、あー、あー。ほら、傘なら持ったからはやく立ってよ。雨音、好きでしょう。そんなうんざりしたふりしなくたってどうせすぐにみんなだめになるんですから、だるいとかそんなさ……、体はもういいでしょう。ね、アイディアひとつ、教えてあげますよ。わたしたちは今日から亡霊になるんです。お話の残りなら、歩きながら聞かせてあげますから、ほら、歩いて……。)
.6
あれから雨は降り続いている。
三日三晩止むことなく、雨は降り続け工場は完全に川の底に沈んでしまった。
チョークでチャンピオンの線を引くのもやめた。
引き直したところで、すぐに更新されてしまうので。
わたしは屋根の上に座り小傘さんを差している。
それが、言う。
「ねえ、さなえ、怒ってる?」
「おこってなんかないですよ」
薄暗い土砂降りの中で、信号待ちのヘッドライトの列だけがぼんやりと輝いていた。
テールランプの赤い光。
それらが境界の曖昧な紐になり、まるでこの家を取り囲む電飾、巨大なクリスマスの黄昏のようだった。
雨音は途切れなく続き、ラジオの空きチャンネルみたいな音がする。
じぃざぁあああ……。
霧めいたその向こう側に、ヘリコプター。
高層ビルと高層ビルの間を旋回していた。
「雨、嬉しくないですか?」
「うん、好き」
「じゃあ、そんなこと聞かないでくださいよ」
だいたい傘が喋るなんてそんなのおかしくないですか。
喋る傘なんてわたしは嫌だから目をつぶって、コンビニエンスストアの入り口で盗んだ透明な傘と取り替えてしまって、あとはその暗闇の中に小傘さんのべちゃべちゃした声だけを聞く。雨傘は水棲だった。あるいは、単に舌が長いってだけなのかも。
「ねえわたしたち、ブラックレインみたいですよね」
「え、なぁにそれ?」
「昔住んでた町の話」
どういう話って聞かれるから黒い雨とだけ言う。
それじゃお話になれないって。起、承、転、結、とか知んないわけじゃないでしょ?
どの口で、そんなこと言うんですか。
目を開いて見上げれば、紫色の空が見える。
わたしは小傘さんの裏側が好きだったんです。
その骨組みの、一生懸命広げて、端っこをぎゅっと握った小さな小さな手が。
指で、押してみる。
あえ。
凹んだ。
「黒い、雨が、降る、っていうお話ですよ」
「そんだけ?」
「ええ。小傘さんなら、どんな色の雨を受けてみたいですか?」
「えー、なにそれ。雨の色なんか考えたこともないよー。でも、うーん、黄色、黄色かな。わたしの紫色に黄色は映えると思うんだよねえ」
「ばーか、緑ですよ。緑が一番に決まってるじゃないですか」
「え、緑は、ちょっと」
「む。なんでです」
「なんか、なんか、緑色の雨って気持ちわるくない?」
黄色い雨だって十分気持ち悪いだろうがようと思ったけど、でもたしかにわたしは小傘さんの雨にはなれないな。
わたしは小傘さんの頭のてっぺんの緑のへたですよ。
ちゃんと育んでね。
通り過ぎるトラックの荷台には、電柱。
小傘さんが言う。
わたしは、茄子じゃ、ないし。
まあ、そう。
「ほんとに、ほんとに怒ってない?」
「ええ、ほんとですよ。どうしてそんなふうに思うんですか」
「だって、雨……、ずっと降ってなかったのに、今は止まないから、早苗、怒って雨降らしてるんじゃないかなあって」
「まったくもう。人を何だと思ってるんですか」
でも、言うとおり、この地に降る雨のすべてはわたしたちの悲しみや寂しさや憂鬱の比喩だった。わたしは悲しい時には雨が降る町で育ったので、やっぱりここでもそれをやる。
まあ、そう……、そう。
気分にあわせてその色合いを変える空模様とか怒りとともに激しくなる川だとか、そんなお話は、なんだか馬鹿っぽい気もするけれど、でも奇跡を行使するというのはそういうことなんじゃないだろうか。間違えなくそれまでのわたしは現人神だった。そんなことはもう忘れて小傘さんと暮らすためにこんなところまで流れ着いたつもりだったのに、結局わたしは、まだ……。
ねえだけど、それは小傘さんがいつも、お話、お話、って、ねだるせいですよ。
(それに、まずいことに、わたしの方でもそれを愛してもいるんです。)
わたしは小傘さんを裏返してみたいと思う。裏返して、ヴァンパイアにしたい。わたしは小傘さんについて本当のことを暴いてやりたいとずっと思っている。でも、小傘さんは決して安っぽいビニール傘じゃないから、その構造が全然ちがうから、こうして上に掲げて下方向に思い切り引っ張ってもそのままの形状で落ちてくる。
「わ、やめ、やめてっ」
「わたし、小傘さんがこうもり傘になるとこ見たいなー」
「どういう欲求?」
「でも、でも、牙、とか、羽、生やしてみたら、結構怖いフォルムになると思いますよ」
「そしたらジャンル変わっちゃうじゃん。わたしはね、この唐傘で人を驚かして見せたいのよ。お化け傘としての矜持があるんだよ」
「よく言うよ」
信号が青に変わると、走り出した車のバンパーが雨を切ってまるで川の流れのようだった。
わたしはそれを眺めていた。
小傘さんが上の方から言う。
ねえねえさなえ。
なんですか?
わたし、雨降ってると楽しいよ。
うん。
でも、早苗はそうじゃないから、わたし、どうしたらいいかわかんないな。どうしたらいいんだろう?
小傘さんは口ずさむことができる。
自分の、空いっぱいに貼ったその身体中を跳ねる雨音を。
ぱちゃぴちゃぷっぷーちっちっちっ。
それはぐにゃぐにゃの発音の歌、ダイヤルをひねってチャンネルを変える。傘を閉じた。
じぃざぁあああ……、ぷつん。
雨が降り出してからは、わたしたち月旅行しかやることがない。
月への入り口は、工場の屋根に空いた穴だった。
わたしたちは石を抱いてその中に飛び込むのだった。
石飛行=月世界旅行。
わたしたちは、とうとう月に到達したんです。
その経路を見つけたのは小傘さんだった。
工場へ降りるのに使っていたロープを寝室に引き込んでその先に大きい石を括りつけたら、それを抱えたまま、床に空けた穴から川底へ沈んだ工場に飛びこむ。身体が六分の一に軽くなって、月の上を浮力で以て泳ぎ回り、息が、できない。
わたしはそれを架空のTVで見ていた。
ざらざらに滲んだ映像。それはまるで水面のようで、その向こう側で、月面で、小傘さんが楽しそうに泳いでいる。宇宙服さえ着ないで、裸のまま月の上を、犬みたいにね。宇宙船は丸っこい灰色の石だった。
座って眺めていたら、そのTVの画面の向こうから、水面を裂いて、ロープを上って小傘さんが現れた。
その、びしょ濡れの顔が。額に張りついた前髪。
月の光にてらてらと輝いた。
言う。
「わたし知ったな。沈むってのは、大概飛ぶって感じ!」
「まあ、そう……」
小傘さんは裸のまま、ぶるぶると震えている。
バスタオルを渡してあげると、それで身体を拭いてから服を着た。
「月はどうでした?」
「さむいね、さむい」
わたしたちはロープで以って石を引き上げる。
天窓からは雨が吹き込んでいた。
雲の薄い部分を割いて月の光が溢れだし部屋を照らす。あたりそこら中が隙間を抜ける雨に濡れそぼち、床は大きく傾いていた。わたしたちはその傾きの端に座り込んでいる。
家は崩壊しかけていた。
降る雨が、穴の水面に波紋をつくる。
川の底に沈んだ工場、そこに閉じ込めておいた月のこと。
ゴーグルを、する。
今度はわたしが石を抱いて、水面に飛び込んだ。
その重さで、ゆっくりと沈んでいる。
そのまま石の下敷きになって二度とは上がってこれないのではないかとか思ってしまう。飛ぶってより素直に溺れる感じだった。
工場の中は月のあかりに白く染まっていた。そうだ、たしかにそれは、TVの中に見たあのモノクロのの月面みたいで――。
そして、次に目を開いたときには、わたしはそこにいた。
つきせかい。
月世界工場廃墟。
身体が、軽い、重い。うまく歩けない。
工場のどこか側面に穴が空いているらしく、水の流れがあった。煽られて、ドラム缶を倒してしまう。底の方にかろうじて残っていたらしい月の最後の残滓が、水中に白く溶け出した。ロープをぎゅっと握りしめてバランスをとる。小傘さんみたいに自由に泳いだりはできない。やっぱり小傘さんは水棲生物なのだった。
わたしは、月を幻視する。
合成洗剤の容器が周囲をふわふわと漂っている。
お世辞にも着陸成功とは言えない感じだな。
宇宙船のかけら、知らない機械。
目の前の壁で、しわくちゃになったオードリ・ヘップバーンが水流にはためていた。
アメリカン・ドリームですね。
(でも本当の月では”はためかない”んでしたっけ?そう、見えるだけ……)
わたしは裸になるのは嫌だったので気にしない服を着て、それが今は宇宙服だった。
消えかけのえいりあん。
壁にチョークで描いた、その絵が。
今ではとても懐かしい。
(そういえば、夏休みの終わりに友だちの家に泊まった夜、ふたりでコンビニエンスストアに行ってその灯りの下で並んでチキンを食べたんです。目の前を自転車が通りすぎて、友だちが言いました。さっきの同中だった。そう? おいしいものはみんな口の中で柔らかい紙みたいな音がする。友だちは灰色の上下スウェットを着ていて、わたしは『えいりあん』のTシャツを着てたんです。どうしてそんなTシャツを来てきちゃったんでしょうね。友だちが言う。チーズも食べてみる? チーズか……。うん。甘いねこれ。え甘かった?絶対に甘くはないでしょ)
わたしは結局Alienにさえなれなかったなあ、と思う。
水面から小傘さんが降ってくる。
器用にもロープをするするとつたりながら落ちてきた。
そのまま、わたしのほうへ飛び込んだ。
受け止めようとして、うまくできなくて、倒れる。
泡を吐く。
小傘さんがわたしの上に乗りかかるから、倒れ込んだままそれを抱きしめた。息が苦しい。
わたしは言う。
(ねえ、小傘さん、本当はわたしが、スキャットのない子どもたちなんですよ。)
聞こえないよ、って小傘さんの顔。
わたしの発明する歌がみんな故郷のそれのパロディでしかないって知ったら小傘さんはどんな顔をするのかな。
わたしは工場でそれを発明する、ふりをする。
小傘さんがいつでも変だ変だと笑ってくれるあの名前を歌えたなら、どれだけよかったんだろう。でもそれだって結局は盗んだ名前で、それでもわたしは、わたしに与えられたそのメロディーを音階を抑揚を知っていて、知ってはいたけれど歌うことはできないな。わたしの生まれついてか細い声。ねえ、声が出ないんだよ。そう声が、あー、あー、あー、少女発声練習中……。あーあ。町の中にはこれだけたくさんのメロディーがあるのに、そのうちひとつだけでも、たとえば夜に思いついたちょっとしたアイデアだって、それがなにか過ぎ去ったものの形骸なパロディだったとしても、こうして聞いて欲しかったけれど、いまは声が出ないから、それは、あとでね。またあとで。
「わたしたち、ここで、ふたりだけで生きていけるって思ったけど、そういうわけにもいかないんですよ、たぶん」
もちろん、声は小傘さんには聞こえない。
そろそろ息も限界だから、小傘さんを上にして、ロープを昇って地上に帰る。
穴の縁に手を掛けて身を乗り上げようとしたとき、何かがポケットからこぼれ落ちた。
それは、スマートフォンだった。
その存在をすっかり忘れていた。
元々防水機能付きだし、奇跡的に、濡れても何も問題なかったっていう可能性は高いけど、このまま流されて見つからなくなったら流石にもう元には戻らない。
わたしは、これから町の中で生きていくんだろうか。
どこだって結局そんなに変わらない気がした。
だけどそれは恐らく反射に近い何かで――気がつけば、わたしは再び月の中に飛び込んでいる。
でも追いつかない。
わたしは河童でも雨傘でもなかったから。
スマートフォンは流れに呑まれ、くるくるくると回転してあっちへこっちへ踊り回り床で一度跳ねて、工場の壁に空いた穴からその外に飛び出してしまう。
わたしは制動を失っている。
ロープを掴もうとするけど、届かない。
いつの間にか遠いところに来てしまっている。
工場の黒い口がわたしを呑み込んだ。
そしてその向こう側にはあるのは、どこにも辿り着くことなく流れる川の暗闇だった。
目をつぶる前に見たのは、車の列、その通りすぎるヘッドライトの光。
怖くて祈ることもできず、そのままわたしは轢かれてしまうと思ったのに、流されていってしまうと思っていたのに、わたしは川の底に留まったままだった。
上の方から小傘さんの笑う声がする。
「早苗がとれたっ! あはは、早苗がとれたよ!」
わたしがいたのは、網の中だった。
朝飯や昼飯や夕飯を捕まえるために川に張っていた網、その網にわたしは捕えられていたのだった。
もがいて浮上すると、小傘さんが寝室の窓から身を乗り出してわたしの方に手を伸ばすのが見えた。それを掴もうとして届かなくて流れに呑まれて、それでもわたしは網の中。
それがなんだか妙におかしかった。
わたしたちは、普通に、生き延びてしまったのです。
そのことに、笑ってしまう。
笑うと、呼吸ができない。
わたしは、水面での呼吸のしかたを忘れて、自動車のライト……、その光、みたいな線になって通りすぎては、手を振る、通りすぎる水中のヘッドライト。何度も手を伸ばしては触れる、触れらんない……光に、手が、白いつるつるした手。指先が触れて、触れ、触れて触れて、ふれ、ふれらんない……、ほら、掴まえた!
か弱い力、とても愛おしい力が、上方向に、引き上げる。
その時、不思議にもわたしは、月の匂い――溶けだした合成洗剤の、そのアルカリ性の酸性の、匂いを嗅いだ。
その匂いがわたしを遠い過去に連れていき、それは学校の夕暮れたプールサイドのこと、自ら着込んだ真っ白の体操着、そいつが雑に打たれたコンクリートの上で体育座りをしたままプールの水しぶきや時計回りの水流やそれに乱反射する夕日の赤色やみんなの笑い声を眺めて隣で同じように体操着を着込んだ女の子とだるいお喋りをしながら、ああ、わたしもあの中に混ざれたらとか思っていた。不意に誰かがプールの内側から水を浴びせかけるからわたしたちはびしょぬれになった。ぴたぴたになった体操着、まるで服を着たままで水中にいるみたいだったけど、わたしたちはやっぱりプールサイドでだるいお喋りをしながら、遠い笛の音――。「水をかけてはいけません!」 だからわたしはそこに混じれないと思っていたけど、濡れてしまった体操着、夕日に滲んで変な色だった。それが水面とそっくり同じ色だったから、気がつかないうちに、いつの間にかわたしもそこに、みんなのいる場所にいて、流れていた。
それはずっと昔の話。
いまは小傘さんの馬鹿な舌。
はじめてふたりで川の上の家にやって来てそれぞれが持ちよったものをみんな広げてしまったその後で、レースのカーテンの最後の爪を差し込んだその時に小傘さんが言ったこと。
(ねえ、早苗、わたしたちこれから、生活をやるんだよ!)
それから小傘さんはえへへと笑って舌を出して、それは薄いピンク色の、チョコレイト色の、小豆色の、駄菓子色の、その季節とともに移りゆく様々な色あいの――、かき氷ってわたし、はじめて食べたな。絶対まずいと思ってたのよ。だってただの氷だよ。青緑に染まった舌がのびる。わたしのは赤色、いちご色だった。まるでわたしたち歩行者用信号機みたいですね。
信号機? なにそれ、うける。
小傘さんのかわいい馬鹿な舌。小さいのと大きいの1つずつ。暗闇でゆらゆら揺れていた。そんなの全然怖くないですよーって笑って、夜の墓地をふたり手を繋いで、水中でこの手を握って、でもわたしは怖かった。(ねえ、早苗、わたしたち)そんなときには決まって悪い考えばっかり現れるから、はじめて幻想郷に来たその夜にもしも小傘さんに出会わなかったらどうなっていただろうかとかそういうことを考えていたら、それはとっても恐ろしいことの気がしたけれど、でも本当のことを言えば、その夜でいちばん怖かったものは小傘さんだった。わたしは小傘さんが怖かったんです。でも、驕んないでくださいよ。それは小傘さんの才能や知識や驚かしに関するなにかではなくて、小傘さんがただ妖怪だってそれだけのことがわたしには怖いんだよ。人間ならみんなそうじゃないかしら。わたしなんかさもう、きみが在るっていうそれだけのことが怖いんだから。それなのに全然怖くなんかないですよとか嘘をついてたら、いつの間にか、こんなところまで来てしまって、そんなことがわたしにできるなんて思ってもみなかったのに、小傘さんはここまで連れてきた。
ねえ、きみの妖怪然としたその白い腕!
それを今こうしてわたしは握りしめていて、夜を、夜の墓地をふたりで手を繋いで、水中で、月の裏側で、夕暮れた洗濯物の下で、学校の帰り道で、神社の境内で、夜の風俗街の路地裏で、やっぱりわたしは小傘さんが怖かった。あんまりにも怖いもんだから、それからは怖い物全部がどれも小傘さんになっちゃったみたいな感じで、わたしのいちばん怖かった夜も気がつけば小傘さんだった。ねえ、覚えてる? きみは、夜の口だった。それがこの場所でわたしを呑み込んだんだよ。わたしは小傘さんがものを食べるところを見るのが好きだったから、その犬みたいなへたくそな食べ方とかぴちゃぴちゃと音を立てるところとか口の端から欠片がこぼれ出るそんなところまで含めてわたしは好きだったから、わたしはこの場所で暗闇に呑み込まれてしまったと思っていたのに、最期のに見たのは、ピンク色の舌、小傘さんの、きみの、舌の色だった――笛の音。怒号がする。「水の中に入ってはいけません!」それでもわたしは歩み続け、いつの間にか、みんなのいる場所にいて、背中からプールの水の中にゆっくりと沈み込むその間に塩素の匂いを嗅いだ。その匂いがもはやボディーイメージを失い形のない影になって水中を漂うわたしのシナプスを走り込み、それを別の形に繋ぎ直す。わたしは驚く。
わたしは、わたしたちが生きてるんだってことにびっくりしてしまう。
そして声も出なくなった後で、星の光反射した水面を切り裂く口、口が水面を裂いて、呼吸をする。
わぁ、わぁ、わあ!
それから、もう一度、光を見た。
わたしは小傘さんの白い腕に抱きかかえられるようにしながら、それを見つめていたのだ。
灰色の空で瞬く星、降る雨粒に反射する月の光、ビルディングに反射した町の火、あるいはそれ自体が所有する窓枠のその四角形の灯り、その下を通りすぎる快速列車が光の筋へと移り変わりながら、向かう先で巨大な駅と統合されて大きな光の束になる。
今ではそのすべてが、ただ、確かな光線だった。
だから、わたしは、目で受ける。
そのあとは、転回して、きみのずぶ濡れのあほ面を視界に表示。
(嘘だよ、たくさん愛してるんだからね。)
わたしたちは、川を横切って歩きはじめる。
信号に停止した車のヘッドライトに、両側から挟まれるようにして照らされていた。
まるで映画スターみたいですね、とか言ったって、そんなんはもう全然嘘で、わたしたちはふらついていて、水しぶきを上げたりしながら、やっぱりふらついたまま歩く。
雨が降っているのに、いつも二人で一本の傘しか持たないせいで半分だけ濡れていた。
わたしたちは横断歩道を渡っている。
変わりかけの信号が、ちか、ちか、ちか、と瞬いた。
少し急いで、水溜まりを踏みつけたら跳ねた水。
向かいのファミリーレストランからは、光線。
わあ。
わたしたちは別の世界に逃げてしまいたいとずっと思っていたのに、夜になるたびここじゃないどこかなら暮らしていけるなんて計画の話ばかりしていたのに、結局いつも最後には話疲れてそのまま眠ってしまうんだった。
もう、いいですよね?
つまりね、わたしたちは、この場所で二人で暮らしていたんだよ。
そのことはそれだけでこのまま永遠に生きていけるような驚きだったので永遠に生きていこうって思ったけど、それはやっぱり嘘だと思うから、近いうちにわたしたちは死ぬんでしょう。
だから、もしも生まれ変わったら、スキャットの国で、そこで、こんな呼吸の音、こんな声を出して暮らすんです。
「ねえ早苗、わたしたちこれから、生活をやるんだよ!」
それって、いったい、どんな類の祈りでしたっけ?
文章がフワフワしてて読み解くのに苦労させるような
自分がエンタメ作品のが好きでそう言うのばっかり読んでるからだと思うけど、自分は読むのに疲れたかな
まあ相性が悪かったのかもね
ただ、なんだか酷く不安定で不定形で
掴んだと思った次の瞬間には逃げられてしまい
あとには寂しや悲しさが残る
そんな感じの作品だったなあと個人的に思いました
面白いとか面白くないとかじゃなくて
暫く経ったあとも、あれは何だったんだろうと思い起こすような
そういう印象深い作品でした
集合的無意識を虫眼鏡で見るみたいな、つまり柳瀬さんの訳したフィネガンズ・ウェイクに少し近いものがあると思うのですが、僕個人が柳瀬さんをあまり好きじゃなくてですね、すごく残念です。
でも、これをもっと分かりやすくしようとしたなら、間違いなくもっと評価されると思います。
あなたが次にどんなものを書いて下さるか、楽しみです。
この点数だけ置いときますね