旅
-1-
足元の石畳に丸い染みができたのを見つけて、口を閉じた。あっという間に染みは石畳全体に広がって所々にできた水たまりが私の顔を映し出す。風に吹かれる木々のざわめきに似た雨音が私の耳に流れ込んでくる。服はしっとりと濡れだしてきた。
「雨ごい、おつかれさん」
魔理沙から傘を受け取る。
「これで水不足もひとまず解消だな。里から御礼の品がくるんじゃないのか?」
「いらないって伝えてるわ。私も水がないと困るから」
「もらえる物はもらっておけよ」
「雨を降らせてくれた神様に失礼になるわ。私はあくまでも頼んだだけだから」
魔理沙と一緒に神社に向かって歩き出す。一歩進めるたびに雨脚は強くなって乾いた大地に潤いを与えている。雨がやんで、太陽が顔を覗かせれば人も植物も背を伸ばすだろう。
「そういえば、雨ごいの時の祈りの言葉ってどういう意味があるんだ? どこかの神様を呼び出しているのか?」
「言葉自体には大した意味がないの。巫女の祈りの気持ちが神様を引き寄せてそれに応えてるだけなのよ。重要なのは誠実な気持ち」
「霊夢の気持ちに引き寄せられなんて物好きな神様もいるもんだな」
魔理沙の顔を睨みつけると、小走りで私との距離を取った。はにかんだ笑顔を私に投げかけてくる。
「冗談。今日は私が料理をしてやるよ。濡れたんだし、はやく着替えないと風邪をひいちゃうぞ」
魔理沙は走って神社に入っていった。
私は空を仰ぎ見る。灰色の空が一面に広がっている。開いていた傘を閉じて、雨を全身に受け止める。ほっと吐き出した溜息が私の身体からよどんだ思いを消そうとする。
ここ最近、寒さも暑さもよくわからなくっている。お酒を飲んでも酔いが回りにくくなっていた。
人でない者に交わりすぎて、人でなくなろうとしているのだ。
もう長くはここにいられない。
だって、博麗の巫女は人間のための存在だ。
-2-
「じゃあ、後はお願いね」
桜色の圧倒的な洪水が石畳の両脇を埋め尽くす中で、私と次の巫女が立っていた。今日を限りに私は巫女ではなくなる。
「精一杯がんばります」
新しい巫女は頭を下げる。彼女の来ている服は紅も白もくすみがいっさいない綺麗な服だ。桜と一緒だ。しわがついて、くすみ始めたら終わりの合図だ。
「前も言ったけど、まじめにやらなくていいのよ。怪しいやつは問答無用で叩きのめせばいいの。実力はあるんだから」
「私はそういう乱暴な手段はとりたくありません。話ができる相手なら話をします」
「人間の理屈が通じないやつだって大勢いる。最初に甘いところを見せたら次の瞬間には喰われるかもしれないわよ」
彼女は首をふる。ゆっくりと、しかしはっきりわかるほど大きく。
「だったら私は遠からず死ぬかもしれません。けど、それが信念です」
この子を指導していく中で感性の違いを感じることは何度もあった。相手を思いやりすぎている。妖怪を甘く見ていた。神社で教える中で妖怪と何度も顔を合わせてしまっていたからそんな風に育ったのかもしれない。それを時代の移り変わりと語ったやつがいるけど私はそんな風には見れなかった。
「あんたは……私を退治できる?」
「できるわけないじゃないですか。師匠ですよ」
「タブーを犯したのに? すっかり妖怪よ」
「やりたくてやったわけじゃないでしょう」
だから甘いのだ。自分の意志なんて関係ない。違反した者には罰を与えるべきだ。その単純な原則が巫女の存在を周囲にしらしめることになる。人間にとっても妖怪にとってもそうであるべきなのだ。
私は両手を広げる。
「退治してみなさい」
「それは命令ですか?」
「なんでもいい。なんなら卒業試験にしてもいいわ」
彼女は幣を持ったまま立ちすくむ。私は両手を広げたままだ。この距離なら私の手を取ることもできるし、私の胸に刃物を突き立てることができる。
幣を頭上に持ち上げる。
「えい」
幣は確かに頭に当たったけど少しも痛くなかった。
「不合格」
「それで結構です」
「やっぱり向いてないわ」
けど、この子は私の予想より長く巫女を務めることになった。単に運がよかっただけだと私は思っていたけど、周囲の評判も悪くなかったし、それなりの業績も上げていたようだ。
-3-
神社を去ってからは私はあちこちを放浪した。知り合いの家に数日泊まって、また別の知り合いの世話になる。ときには空き家を見つけて一年誰とも会わないこともあった。季節の移り変わりや星座の変化を眺めるのもけっこう悪くなかった。気まぐれにどこかに顔を出して、気まぐれに誰かとお酒を飲む日々が続いた。
「いいかげん定住先を見つけなさいよ」
命蓮寺の村紗はそんな風に説教をしてきた。隣の一輪が派手に頷く。
二人ともお酒を片手に熱い息を私に吹きかけてくる。
「やってることは野良妖怪と同じレベルなんだから。やる気になれば何でもできるじゃん、あんた」
「何でもできるから、なにもやる気が起こらないの。どうせ時間はたくさんあるんだから自由にやるわよ」
「あんた本当に巫女一筋だったのね」と、一輪。
「時々あんたみたいな年寄りが来るわ。仕事を引退してやることがないって」
眉を吊り上げて一輪を睨みつけた。酒を一気に飲み干してグラスをテーブルにたたきつけた。
「あんたらだって仏教一筋でしょう。千年くらい」
「まあ、そうだけどブランクもあったかな」
「地底にいた時のこと?」
村紗がテーブルの上でグラスを傾ける。氷がカランと音を立てて崩れた。一輪もその音を合図に表情を変える。
「頼ってたものが無くなっちゃったからね。どんどん仲間もいなくなるし」
「諦めようとか思わなかったの」
「正直、わからない。待っていたのか、諦めてたのか。たまたま来たチャンスに乗っかっただけっていう思いはあるよ。もしなかったから今も地底にいたかも」
村紗と一輪がちらりと視線を交わす。地底にいる時から数えきれないほど重ねてきたであろう行為だ。
「けど、忘れるつもりはなかったな。あのまま地底の生活が続いていてもね」
一輪が思いを続ける。
「そうね。霊夢は気にしすぎなのよ。新しくやり直しても、これまでの経験を否定することには繋がらないでしょう。あんたは気にしすぎ」
「……それができれば、こんな風にはできないわよ」
矛盾が多すぎてうまく整理することができない。
「人妖なんて面倒なやつよ。退治して屈服させるにかぎるわ」
「私たちはいいの?」と、村紗と一輪は丸い目で私を見つめる。
「あんたたちは私がとっくに退治してるの。だから問題ない」
急に二人が息をそろえてうなづきだす。
「なにそれ、まるで自殺願望じゃない。退治されたいって言ってるようなものよ」
「まあ、無理でしょう。霊夢は人気者だから。退治されなくても、みんな受け入れてくれるから気にしなくていいよ」
形式にこだわりすぎているのはわかってる。けど、それをやめたら昔の自分を否定する気がしてやりきれないんだ。
-4-
引退した後は巫女らしいことはしていなかったけど、一度だけ手伝ったことがあった。人間と河童の交渉の場にいてほしいと言われ、その場に同席した。内容は水の配分についてのデリケートな問題だったから殴り合いの雰囲気が立ち込めていた。ここで殴り合いになったら両成敗にするというプレッシャーを与える目的で私が呼ばれたのは明白だった。そのおかげか両者ともギリギリのところで我慢して話し合いの体裁にはなっていた。私が発言することはなかったけど、河童はお前たちに工業製品を売ってやらないぞと叫び、人間はきゅうり用の肥料を売らないぞと言い争う場面を何度も聞かされた。私の知らないところで、確実に、人と妖怪は交わろうとしていた。
-5-
部屋のドアを閉じて、ひとつ溜息をついた。重い足を前に出してレミリアが待っている部屋に向かう。
ずっと前から分かっていたことだけど、実際に目の当たりにすると辛いものがあった。
テーブルの紅茶を前にしてレミリアは微笑んでいた。どことなく無理して微笑んでいたように見えた。
「どうだった?」
「すっかり老け込んだわね。けど、喋りはしっかりしてた」
木の枝ような細い髪、しわの入った肌、ベッドに横たわった彼女は老いてもなお綺麗に見えた。
立ち枯れを迎える巨木を思わせて静かにゆっくりと終わりを迎えていた。
「全然会ってないみたいね」
「使えないメイドに用はないよ」
淡々とした口調だが、冷淡さというよりは主人としての貫禄を意識しているように見えた。
「本当に食べるつもりなの?」
「そういう約束だったからね」
「年を取りすぎて美味しくないだろうって笑ってたわよ」
「約束は約束だよ。居場所を与える代わりに死後は私の晩餐にする」
レミリアは紅茶に口をつける。その紅茶は誰が入れているのだろう。
「伝統的な調理法があるんだ。肉はフルコースにする。血は最後の一滴まで飲む。髪は服に織り込む。骨は装飾品にする。頭蓋骨は私の部屋に飾るよ」
目を閉じて、開く。そこにある眼差しは確かな決意の表れだった。
「咲夜は私の物だ。墓には入れないよ」
おめでとう、咲夜。貴女は愛されていた。
貴女のすべてを受け入れて、共に過ごし、別れを惜しんでいる。人の愛し方を知らない吸血鬼ができる最高の愛情表現だ。
行き先を見つけられない私よりずっと良い終わらせ方を迎えようとしている。
「幸せ者ね」
「そうかな? あの子の望みを叶えられたのか今でもわからないんだ」
「普通の人生ではなかったかもしれない。けど、愛されていたわ」
「ありがとう」
レミリアと一緒に紅茶とクッキーを口につける。味の違いが気になって聞いてみたらフランドールがつくったものらしかった。最近料理を始めたらしい。
「魔理沙はどこにいるか知らない?」
「いや。全然会えてない」
「魔法使いになってから、ふらふらしすぎよね。顔を出してくれるといいんだけど」
「けど、魔理沙はあれが自然だと思うよ」
「だからって限度があるでしょ」
「そういうところは君と魔理沙は正反対だよね」
「そう?」
「だって、君は変化を拒む側だったけど、魔理沙は変化を追いかける側だ。異変に出かける時も目的が全然違ったんだ。彼女は知ることが大好きだったんだよ」
レミリアの言葉に返答ができず、椅子から立ち上がった。しっかりと閉じたカーテンの隙間から館の庭を眺める。沈みゆく太陽が館の紅い外壁をさらに紅く染めあげて深紅となっていた。
初めての異変はここだった。それが今では一緒にお茶を飲んで。最期の瞬間を見届けようとしている。人と人の繋がりなんてどうなるのかわかったもんじゃない。そして、私自身も魔理沙もわからない。
レミリアの言う通り、私は変化を否定して守ってきた側だ。それは巫女を辞めた後も続いている。魔理沙が魔法使いになったと聞いた瞬間、私は頭に血がのぼるのを感じた。けれど同時にホッとしたような、安堵を感じた。魔理沙なら私の手を取ってくれる気がするのだ。
ずっと。
-6-
人気のない暗い墓地だけど、ころばない程度には歩ける。最近では普通の人間はこんなに目が良くないことを忘れそうになる時がある。歩くたびに聞こえる霜柱のさくさとした音が落ち着かない気分にさせる。
ある墓石の前で女の子が1人立っていた。その子の栗色の髪はある人物を思い出させた。
「お待ちしてました」
「待っててもらって悪いわね」
「いえ。来ていただいて嬉しいです。祖母も喜んでると思います」
用意しておいた線香を備えて、手を合わせる。みんなどんどんいなくなってしまう。咲夜も小鈴もだ。
「おばあちゃん、貴方のことをよく話してましたよ。世界を広げてくれたって」
「お転婆な子だったわ。助けてもらったことも多かったけど、何度も面倒に巻き込まれた」
「若い時からそうだったんですね。ホント年相応に落ち着いて欲しかったです。私も親もヒヤヒヤしました」
目を細めて立つ彼女のシルエットは私に昔の光景を思い出させる。不安に思いながらもその時の幸せを精一杯享受していたあの頃を。
「お葬式に来てくれればよかったのに」
「妖怪が人間の葬式に行くのは良くない。不安になっちゃうでしょ」
「霊夢さんでしたら誰も困らないですよ。祖母とは仲が良かったのはみんな知ってます」
「それでもよ。守らなきゃいけない決まりはまもらないと」
彼女の吐き出す息は白いもやとなって顔を一瞬だけ覆う。もやから覗かせる顔はどことなく見覚えがあった。けど、それは小鈴の表情ではない。
「私、もうすぐ引っ越しするんです」
「引っ越しって、どこに?」
「新しい町ができるんです。人と妖怪が一緒に住めるように」
立ち上がって正面から見つめた。
「本気?」
「ええ。若い人を中心に結構な数の人が行くって言ってます」
私の目つきが険しくなっているのには気づいてるはずだけど、彼女の視線は少しも揺るがない。この眼差しはずっと前に巫女を譲ったときのあの子の眼差しと同じだと気が付いた。
「嫌ですか?」
「そうね。危ないからやめなさいって言いたいわ」
「お言葉ですが、時代は変わったと思います。仲良くなれると思います」
「今でも妖怪が人を襲うことはある。殺人犯と同居するつもり?」
「人間同士でも、仲良くなれる人とできない人がいます。だったら仲良くなれる妖怪もいるはずです。妖怪だからと一括りにするのは古い考えです」
「……そうじゃないとやっていけなかったの」
私は新しい町のはずれに居を構えることになった。確かに、里に比べて人と妖怪は混ざり合って暮らしていた。もちろんトラブルは発生していたが、不思議と全面的な衝突には発展しなかった。むしろ目立ったのは、古い里と新しい町の対立構造であり、種族の対立ではなく考え方の違いによる対立だった。最終的には新しいものを積極的に受け入れる町の方が人口・経済共に発展し里は古臭い考え方をもつ偏屈者の集まりという形に落ち着いた。
私が長い間守ろうとしてきたものは、時間に押しつぶされて化石になってしまったのだと認めるしかなかった。
-7-
地上が世界を変えても、空は変わらない。嫌なことがあれば飛べばいい。飛んでいる間だけは忘れられる。
全てから。
耳元では風を切る唸りの音。
何かの生き物みたいに。
そいつから逃れようとして体を捻る。
何度も。何度も。
ロールする。
視界は青と緑が交互に入れ替わる。
時折、眩しい太陽が一瞬だけ目をくらませる。
雲に飛び込んで視界が真っ白になる。
抜けた先には真っ青な世界。
自由で。
綺麗で。
何もない。
私だけ。
どうして?
誰もいないの?
私はここで飛んでいる。
まだ懐にはカードがある。
弾幕でなくてもいい。
飛ぼうよ。
ごっこ遊びを、続けよう。
ふっと体から力が抜けて。
頭から重力に向かって落ちる。
視界いっぱいに青い空。
白い雲が小さくなっていく。
風の音が変わって。
においが腐って。
嫌な物が近づいてくる。
目を完全に閉じようとした瞬間に体がバウンドした。
何度も跳ねてわけがわからなかった。
「なにやってるの」
早苗がこっちを見下ろしていた。
「今のは早苗の仕業?」
「もちろん。地面を柔らかくする程度の奇跡なんて朝飯前よ」
得意げな顔だった。神社の仕事が忙しいらしいけど彼女は変わらない。私に立ち退きを迫ったあの頃から、全く姿を変えずに目を輝かせて毎日走り続けている。
「で、何で落ちてたの? わざとじゃない?」
「飛ぶのに飽きる時もあるわ」
生返事で早苗は終わらせた。
「久しぶりにウチの神社にこない?」
この世界も随分と姿を変えたが、守矢神社と妖怪の山周辺はまだ開発が進んでおらず私が最初に見た頃からは変わっていない。ただ、石畳や柱の劣化から時間が立っていたことだけはわかる。
早苗の部屋でお茶をもらう。
「ありがと」
「いえいえ」
気まずい空白が二人の間に流れてしまった。なんて声をかければいいかわからず口元を湯のみで隠そうとしてしまう。
「町の様子はどうですか?」
「いたって平和よ。昔みたいな私たちの手助けはいらなさそう」
「美味しいご飯屋さんとか知りませんか? 連れてってくださいよ」
返事ができなかった。どこになんのお店があるかは知っているけどどこが美味しいとか、有名なところとかほとんど知らない。
「ひょっとして詳しくないですか?」
「だってご飯なんて滅多に食べなくなったもん。調べておくわ」
早苗はひとつ溜息。手元の湯飲みに目を落としてもう一度私の眼を真っすぐ見つめる。
「霊夢さん。私最近気づいたことがあるの」
「藪から棒ね」
「妖怪って若い見た目をしていることが多いじゃないですか。あれって理由があると思うんです」
「みんなの好みでしょ?」
「ちょっと違います。私が長生きして思ったんだけど、長生きすると毎日がつまらなくなるの。何も変わらないように感じてどんどん沈んでいく気がした。だから、毎日の生活が楽しくなるように生きていかなければいけなかった。小さいことに驚いて、楽しんで、泣いて、子供みたいに。だから、みんな若い見た目なのよ。毎日を子供みたいに楽しむために子供みたいな姿を取らないといけなかった。そんな気がするの」
そういって早苗は笑っていた。子供みたいに。
「早苗は今の毎日は楽しい?」
「もちろん。楽しむための驚きなんてどこにでもあるわ」早苗は一呼吸置いた。「霊夢さんは?」
「……駄目ね。みんなみたいに楽しめない。今更変えられないわ」
湯飲みに映った私の顔は少しも笑っていなかった。
「大丈夫よ。再スタートなんていくらでもできるわ」
早苗は立ち上がって私に手を伸ばす。
「神様。やらない?」
「神様?」
「妖怪よりも神様の方が周りの人と交流しやすいの。霊夢さんは知名度もまだあるし、たぶん楽にできるわ」
「私を信仰する人なんていないでしょ」
「町がちょうどいいです。あそこは信仰の空白地帯で、ウチも狙い目だと思ってたんです」
「じゃああんたに譲るわよ」
「ウチと関連付けて神話をでっちあげるから気にしなくていいです」
「でっちあげでいいの?」
「時間がたつごとに神話が大げさになるなんてよくあることよ」
早苗の見た目は全然変わらないけど、世渡りの才能は身に着けたようだ。
-8-
早苗の指導の下、私は神として祀られることになった。私のための祠をたてて、守矢神社と関連づけた神話を町の中で広められた。人間と妖怪の双方、特に人間のこどもを中心に伝えると私は博麗の巫女の功績が認められて、神様になったのだと言われるようになった。特に私自身に変化はなかったけど、人と交流することが格段に増えて笑う回数が増えた。
神としての認知が安定したころ、魔理沙に出会った。ただし、声だけで。
よう、霊夢。
「魔理沙?」
そ、久しぶりだよな。いつぶりだ?
「こっちもわからないわよ。それより顔を見せてよ」
いや、見せる顔をもってないんだ。
「どういうこと?」
色々研究をやってたら体を捨てる方法を見つけたんだ。今は魂だけかな。神霊が一番近いと思う。
「……怖くなかったの? 人間を辞めて魔法使いになって、体も捨てて。悩んだりしなかったの?」
魔理沙は答えない。姿が見えないから私の幻聴だったのかと不安になりそうだった。
「魔理沙?」
ああ、ごめん。そんなの考えたこともなかった。
目を丸くして、一瞬だけ息を止めていた。
まるで、そんなの最初から問題でもないと言わんばかりの返事だった。
楽しかったんだ。新しいことができるようなって、新しいものを見ていくのが。人間の寿命と身体じゃあ見れなかったものが山ほど見れた。
そうだ。この子はそういうやつだ。どんな変化でも本気で楽しめる。
なあ、霊夢。
そういって魔理沙は私に手を伸ばす。もちろん、今の魔理沙に体はない。けど、魔理沙が私の手を取ろうとしているイメージは伝わっていて、波となって私の肌をくすぐっていた。
ずっと、お前を追いかけて追い越した。今度は私を追いかけてみせろ。
魔理沙が私に向かって笑顔を向ける。人間だった時と同じはじけるような子供っぽい笑顔で。
大丈夫、今のお前は神様なんだろう。
今度はそれほど遠くない。
波は光となって私を照らし出す。
-9-
「わかった。やってあげる」
紫はすんなりと了承してくれた。あっさりしすぎて不思議なくらいだった。
「ダメって言わないのね」
「言って欲しかった?」
「言われたらムカつくだけだから言わなくていい」
紫はしょっちゅう薄ら笑いを浮かべているけど、今回はいつも以上に嬉しそうだった。
「ひょっとして嬉しいの?」
「ええ。予想より早かったから」
「早い?」
「あなたが神になったと聞いて嬉しかった。人も妖怪も神も一人で経験できる人物はごく稀だから。しかもその先を目指してくれるなんて」
私は何も言わなかった。紫は子どもみたいに語っている。恋人を自慢するみたいに夢を見ているような熱っぽい表情で。
「私はね、見たいの。人も神も妖怪も全てが等しく混ざり合った世界の光景を。そこにあるのは確かな平和と繁栄よ。太古の昔に一瞬だけそれが見えた。私はまだそれを探してる」
「……私たちはそれに付き合わされていたの?」
「心外ね。私はみんなを守りたいの」
「だったら神になればいい」
私が神になれたように。
紫ははっきりと首を横に振った。
「私はある時は人だったし、ある時は妖怪で、ある時は神だった。けど今は妖怪が一番いいの。人と神は離れすぎている」
紫は私の背中に手を伸ばして引き寄せる。
「貴方は繋ごうとしているの。ありがとう。愛してる」
紫は私を抱きしめる。両腕で力強くしっかりと。あまりにも強くて息苦しいほどだった。けど不思議と苦しさよりも心地よさを感じていた。誰かに抱きしめられるなんて全然なかった。
紫が私の頭を撫でる。頭の形を覚えようとするかのようにゆっくりと丹念に。
少しずつ体が楽になってくる。体が軽くなって息苦しさがなくなっていく。抱きしめられる感触も、大地を踏みしめる感触も、心臓が動く感触も無くなっていく。
紫が手を離して一歩さがる。もう私は手も足も顔も持っていなかった。とっさのイメージで人の形をとろうとする。
ありがとう
「どういたしまして」
ねえ。さっき愛してるって言ったわね。あれ本気?
「本気よ」
誰にでも言ってるんじゃない?
「口に出して言うことは滅多にない。なんならもう一度言ってあげましょう」
紫は私に向かって手を伸ばす。微笑みながらも力強い眼差しを向けていた。
「前を向きなさい、愛しい子。あなたは私を超えたの」
-10-
すぐに魔理沙と合流したかったのだが、ひっきりなしに神が私のもとにやってきた。人からここまで到達した存在は今どき珍しいと面白がられた。全ての神に挨拶をしていたらとても時間が足りなかったが今の私はいくらでも分かれることができた。挨拶が終わったら再びひとつにまとまる方法で随分と時間が短縮できた。
「ここまでいくとは思ってなかったわ」と、早苗はあきれ顔だった。
「私でもやろうとは思わない」
怖い?
「そりゃあね。概念だけの神になるのはリスクが大きすぎる」
早苗は一度深く息を吸った。
「これ言うつもりはなかったんだけど、言うわ。霊夢さんに神様を勧めた時、あの時会ったのは偶然じゃない」
やっぱり。タイミングが良すぎたもん。
「このままだと良くない結末になるから、神格化してやり直しのチャンスを作ってくれって頼まれたの。しかも一人や二人じゃないの、数え上げるのがめんどうなくらいたくさんの人や妖怪から頼まれたの」
早苗はまっすぐに私を見つめる。
「言いたいことわかります? あなたはちゃんと愛されていたんです。羨ましいって思ってしまうほど」
そして、その人たちの思いが今の私を繋ぎとめている。
「ええ。だから忘れちゃいけないんです。霊夢さんがこれまで出会ってきた人たちも、これから出会う人たちも。ひっくるめて全部」
頼んできた人の中に紫は混ざってる?
早苗はすぐには返事しなかった。ただ返事に至るまでの沈黙の長さがそのまま回答であった。
「ええ。あの人も頼んでます」
私はもう誰かを抱きしめることも、誰かに抱きしめられることもできなくなったけど、紫から抱きしめられた時の息苦しさははっきり覚えている。あの息苦しいまでの力強さは間違いなく彼女からの愛だったのだ。
-11-
魔理沙の案内で色んなものを見た。立ち入り禁止の天狗の聖地に忍び込んだ。湖の地下洞窟にはまだ見たことがない妖怪の集落があった。外の世界とつながる出入口をいくつも見つけた。
ある時、呼ばれた気がして地上に降りて行った。石畳の上で女の子が言葉を唱えていた。言葉の意味が分かった瞬間、パッと懐かしさが胸を覆った。
私はここの神社で暮らし、あの紅白の服を着ていた。そこで空を飛んで、妖怪を退治して、たくさんの人間と妖怪に出会った。
ひょっとして久しぶりにここに来たのか
来る理由がないから
挨拶くらいしたらどうだ
いいわよ。この子へたっぴだし。それに、あの茶色の肌に巫女服は似合ってない。デザインを変えてほしいわ。
けど、お前はこの子に呼ばれたんだ。それに応えるべきだろう?
私は意識を広げて世界を見渡してみる。乾いた川と枯れそうな植物、元気を無くした人間と妖怪が力なく歩いていた。
さらに高度を上げて雲と同じ高さに上がる。そこで私は薄く広がり雲に手を伸ばす。
ありったけの雲をかき集めて押し固めると、白い雲は灰色となり重くなる。そして雨を降らす。
雲の遥か下から歓声が沸き起こった。声は波となって私の身体を震えさせた。
気恥ずかしくなって雲の上を目指す。上がった先には青い空と雲がどこまでも広がって水平線になっていた。
そうだ、海を見よう。海はまだ見たことが無い。
私は分霊を飛ばす。
この子、お願いね。
わかった。お前本人が行かなくていいのか?
神様だから、ここにいる。
物好きな性格になったもんだ。
魔理沙は私を連れていった。
いつかあの子が帰ってきて一つにまとまったとき私は知る。海の匂いを、海の音を、海の景色を。
そして私は驚き、楽しむのだ。まだ見たことのない新しい世界を。
面白くて素敵なお話でした
カワセミ氏のお話はいつも新鮮な驚きに満ちていて好きです。
その斬新な解釈と意外な展開からは学べることが多いですね。
いつもありがとうございます。
燃え尽き症候群にかかったような霊夢でしたが、無事に第2の人生を始められたようで安心しました
霊夢は本当に愛されている姿が似合うと思いました
霊夢が博麗の巫女を終えた後の姿と新しい時代へと移り変わる幻想郷、そして霊夢のそれからを彼女の内側から巧みに描かれており心地良かったです。霊夢と魔理沙の関係と霊夢が積み上げてきたものを「神」と言うファクターで映し出す作者様の着眼点にも感服致しました。
空を飛ぶ描写、「神」へと至った後の旅の描写についても感覚的に伝わってくる点も大変気持ちが良かったです。
素晴らしい物語をありがとうございました。
魔理沙の「ずっと、お前をー」のシーンと紫の「前を向きなさいー」の
シーンが凄くグッと来ました。
自由奔放で皆から愛されて、それでも一人だけじゃ生きて行けなくて、
そんな時に皆から手を差し伸べられて救われる、という流れに凄く霊夢らしさを感じました。
また変わりゆく世界に置いて行かれる側の人物の心情というものが
すごく伝わってきてそこにも感銘を受けました
欲を言えば、そうだからこそ永遠亭組にも出てきて欲しかった気持ちはありますが、それを加味しても文句なしの作品でした。