「ねえ、さっきから何をやっているの?」
「見て判らない? 鈴仙を落とす為の穴を掘ってるんだよ」
「へえ……そうかあ、てゐは私を落とす為の穴を掘ってるのねえ」
鈴仙にちょっと用事がある――てゐから突然そんなことを言われ、私は大いに訝しんだ。
初めは『てゐが私に用事なんて珍しいこともあるものねえ』などと呑気に思ったりもしたのだが、よくよく考えてみた結果、『てゐが私に用事なんて胡散臭いことこの上ないわ!』という結論に達したのだ。
何せ相手は――胡散臭さにかけては八雲紫と肩を並べるほどの――あの因幡てゐである。『因幡てゐ』というだけで何気ないことも途端に怪しく思えてくるし、『八雲紫』というだけで特に理由はないけど何か怪しいと思ってしまう。このふたりに関しては何はなくともまず疑うべき、というのが健全な幻想郷キッズの共通認識なのである。
そうしていざ用件を訪ねてみれば、「ここではちょっと話せない」というてゐの意味深な返答。これは益々、雲行きが怪しくなり始めたと言ってもいい。私の警戒レベルは二階級特進を経てフェーズ4に達した。
ちなみにこれは八雲紫が口元を扇子で隠した際に発生する警戒レベルと同等である。一言で表せば『あっこいつ、絶対ろくでもないこと考えてやがるな』だ。
その後、私はてゐに連れられるまま、永遠亭から少し離れた位置にある竹薮の中へと足を運んだ。そして、そこでハッとあることに気付いた。どうして私はこんなところまでノコノコとついてきてしまったのだろうと。迂闊にもほどがある。
辺りを見渡せば、そこは日中だというのに薄暗くて私達以外に人の気配はない、つまりは実に薄気味悪い場所だった。ミステリ小説の世界ならば待ったなしで刃傷沙汰に発展しそうだ。ホラー小説の世界ならば地中からボコボコと人の手が生えるぐらいの演出はしそうだ。
これはいよいよキナ臭くなり始めた。私の警戒レベルは直ぐさまフェーズ6に達してレッドゾーンに突入した。同時に私は自身の迂闊な行動を心から悔やんだ。私ってホント馬鹿。
だが、いざ蓋を開けてみれば、私の危惧は徒労であったと気付かされた。
私に用事があると言っておきながら、当の本人は特に何かを語る訳でもなく、スコップを手にして黙々と地面に穴を掘り始めたのだ。つまりは私を落とす為の穴を。しかも私の目の前で。
正に青天の霹靂。私の想定した危惧など遥かに上廻る、もっと恐ろしいものの片鱗がそこにはあった。正直、頭がどうにかなりそうだった。あまりにイミフ過ぎて。
私は大いに苦悩した。一体、この状況はどのように解釈したものかと。そもそも肝心の用事はどうしたのかと。てゐは私に何か用事があるのではなかったのかと。考えれば考えるほど頭が痛くなってきた。あらゆる面で訳が判らないこと山の如しだ。
「あのさあ……ひとつ訊いてもいい? 私を落とす為の穴を私の目の前で掘ってたら、それってもう落とし穴の意味なくない? 流石の私も見えてる地雷は踏まないわよ?」
言いたいこと、訊きたいことは山ほどあったが、私は取り敢えず、探りを入れる意味で手近な疑問を投げ掛けてみた。するとてゐは私の方を一瞥した後、「そんなの実際に試してみるまで判らないじゃない」と澄ました顔でこう返答してきた。
つまりは私が見えてる地雷を踏む確率は決してゼロではないと。こいつは暗にそう言っているのだ。私は少々憤慨した。なんとも不名誉極まりない。
確かに私には少し粗忽なところがあり、それが原因でつまらないケアレスミスをすることは多い。そして、その度に師匠から説教という名のおしおきを受けること火の如しであった。だが、そんな私ではあるが流石に見えてる地雷を踏むほど粗忽ではない。私はそこまでマヌケではないのだ。
そう考えた私はその旨をてゐにやんわりと伝えた。決して、お前の思惑通りにはならないぞ――と目で強く訴えかけながら。しかし、残念なことにそれは暖簾に腕押しというヤツだった。
てゐは作業の手を一旦休めると、満面の笑みと共にサムズアップを決めながら、私にこうのたまったのだ。
「大丈夫! 鈴仙ならきっと期待に応えてくれるよ! 鈴仙はやれば出来る子だって師匠が言ってたし! それに私も鈴仙のこと信じてるから!」
てゐの目はまるで子供のように真っ直ぐでキラキラとしていた。一方で私は泥沼のような目をして深く溜め息を吐いた。これほど嬉しくない期待の掛けられ方もないものだ。
「まあとにかくさ、ウダウダ言ってないでそこで見てなよ。絶対に鈴仙を落としてみせるから」
そう言うとてゐは額の汗を手で拭い、再び穴掘り作業に没頭し始めた。既に下半身は地中に隠れて見えない。あんな小さな身体のどこにそんな力があるのか判らないが、今のところ作業は順調に捗っているようである。その一心不乱な姿にはある種、執念やら情熱といった狂った何かを感じて、なんだか職人みたいだなと私はふと思った。
穴掘り職人。なんだろう。ちょっと卑猥な響きだ。
かたや、てゐが穴掘りに夢中になっている間、私は完全に手持ち無沙汰であった。有り体に言えば暇だ。換言すれば退屈だ。しかし、そう思ったところで特にすることもない訳で。仕方がないので私は近くの竹に背中を預けて、優雅に兎の穴掘り鑑賞会と洒落込むことにした。
風が吹いて竹藪がサワサワと鳴る。偶にはこういうのんびりとした時間もいいかも知れない。目の前で掘られている穴が私を陥れる為のそれだということにさえ目を瞑れば。
「――そう言えば、鈴仙は永遠亭に来たばかりの頃の自分って覚えてる?」
大自然と一体になり、私が永遠亭での仕事や現在進行形で目の前で繰り広げられている嫌な現実から目を背けて心を無にしていると、てゐが不意に口を開いた。
その問いの突飛さに思わず小首を傾げる。
「自分って私のこと? どうしたの急にそんなこと訊いて」
「いや……その……なんとなく気になって」
なんとなく――か。
これはまた、てゐにしては珍しく、随分と濁した言い方だ。
普段、忌憚のない意見で私を泣かせにかかってくる、てゐらしくもない。
「うーん……永遠亭に来たばかりの頃って言われてもねえ。正直、あんまり記憶にないかなあ。あの頃って要するにほら……私が月からその、逃げてきたばかりの頃でもあるから」
脱走兵である私の元へ月から追手が送られて来るんじゃないか、という恐怖。
この穢れまみれの地上で生きていけるのか、という不安。
ウドンゲってなんだよ、という師匠に対する若干の不満。
あの頃、私の心と頭を占めていたのはそんな負の感情と気掛かりばかりだった。
「多分……色々と気持ちの整理がついてなかったのよねえ。いやむしろ、自分の気持ちを整理するのに精一杯だったというか。だから――自分のことも周りのことも気に留める余裕なんて、あの頃の私には全然なかったのよ」
そう言って私は苦笑した。酷く情けない話ではあるけど、実際そうなのだから仕方ない。
だが、てゐは私のそんな返答に不満があったのか、まるで呆れたように大きく息を吸い込み細く長い息を吐いた。心なしか、真剣味を含んだ目が少し怒っているようにも見える。私の気の所為だろうか。
「ふーん……そっか。まあ、私の方は未だによく覚えてるけどね、鈴仙と初めて会った時のこと」
「そうなの……? ああそれじゃあ、あの頃の私ってさあ、てゐの目から見てどんな感じだった? 今とはかなり印象とか違う感じ?」
私が興味本位にそう尋ねると、てゐは一拍の間をおいた後、おもむろに口を開いた。
「――最初に見た時はお人形みたいだなって思った。髪の毛はサラサラだし、手足も長くてスラッとしてたし。肌なんかも雪のように白くて、兎特有の真っ赤な目も不思議と宝石みたいに綺麗に見えた。本当にまるでお人形みたい――同じ兎なのに私みたいな地上の兎とは比べ物にならないくらい何もかもが違ってた」
「えっ!? ええっ!? ち、ちょっとてゐってば! 貴女、何を言い出すのよ!」
確信した。やっぱり、今日のてゐはどこからしくないようだ。
普段は忌憚のない意見で私のことを馬鹿にしてくる、あの因幡てゐが――私を褒めるなんて普通、天地がひっくり返っても有り得ないことなのだから。
いやまあ、容姿を褒められて悪い気はしないけど。ただ、ちょっと照れ臭いというか。胸の奥が擽ったいというか。心がざわつくこと林の如しというか。私がお人形みたいって。そんなこと、師匠にも姫様にも言われたことないのに。
「もうてゐったら冗談は止めてよお、私がお人形みたいに綺麗で美しいだなんて! そんなこと全然ないから~! そりゃあ私は顔立ちは割りと整ってる方だし〜スタイルだってなかなかのものだけど〜! でも、流石にお人形みたいに綺麗で美しいは言い過ぎよ〜! ホント、全然そんなことないんだから〜!」
「うわあ……すんげえ満更でもないって顔してるよ。やれやれ。この兎、本当にチョロイなあ」
てゐの口から何やらドン引きしたような言葉が漏れたけど私は気にしない。あとなんだか顔がちょっと熱い気がするけどそれも気にしない。気にしないこと風の如しだ。
しかし、それにしても本当に今日のてゐはどうしたのだろう。明らかに言動が普段のそれとは違っておかしい気がする。いや。そもそも私に用事があるとか珍しいことを言ったり、こんな場所にわざわざ私を連れ出してみたりと――冷静に考えてみれば、てゐの行動は最初からおかしかったように思える。
はて――てゐの言動がおかしくなった原因はなんだろうか。
まさか、どこかに頭でも強く打ち付けて変になったか。
あるいはもしや――師匠に何か変な薬でも盛られたか。
「ところでさっきから一体、てゐはどこまで掘り続けるつもりなの? もう大分、深くまで掘ったような気がするんだけど」
てゐの言動に何か不審なものを感じつつ、私は落とし穴に近付いて穴の中を見下ろした。
気付けば、落とし穴はてゐの身体がすっぽりと収まる程度の深さにまでなっていた。
「まだまだどんどん掘っていくよ。この落とし穴は特別だからね、私の愛情をたっぷり注いで上げるんだあ」
まるで植物に水を上げているみたいな言い方だ。
やれやれ。落とし穴に愛情を注ぐ前にもっと他のところへ愛情を注ぐべきだろう。
例えば、誰かさんの作る落とし穴に落ちては、いつも悲嘆に暮れる可哀想な兎とかに。
「ああ、落とし穴と言えばさあ。私とてゐのこういう関係もなんだかんだで長いわよねえ」
「こういう関係……と言いますと?」
「てゐが落とし穴を掘って、私がそれに落とされる関係」
「ははあ、なるほどね。確か私が落とし穴を掘るようになったのって、鈴仙が永遠亭に来て間もなくの頃だったから……まあ結構な長さにはなるね」
私は遠い記憶に思いを馳せてみた。そうすると、実にあの手この手で騙されて、てゐの作った落とし穴に私が落とされてきた歴史がまざまざと蘇ってくる。そして、私は密かにこう思うのだ。ああ――なんて悲惨な歴史なんだろうと。
でも、結果的にそれで今の私があるのだと思う。永遠亭でみんなと楽しく笑い合える私が。
朧気な記憶をどうにか辿れば、永遠亭に来た当初の私は、てゐを含めた地上の兎達と距離があったように思う。というのも、彼女達にどう接していけばいいのか判らなかったからだ。ところがある日を境にして、その距離が徐々に縮まってきた。気付けば、私は地上の兎達と普通に会話するほどの仲になっていた。
それもこれも元を辿れば、てゐの落とし穴がキッカケだったんだと思う。そこから徐々に私は彼女達、地上の兎との接し方を覚えていった気がするのだ。だから、実のところ、私はてゐに感謝しているのである。てゐがいてくれたお陰で私は、兎達の中で孤立せずに済んだのだから。
「それにしてもアレよねえ。今にして思えば、全部いい思い出だけど――最初の頃なんかは私、なんでこんな仕打ちをされるのか判らなくて、新手の新人虐めかと思ったわよ」
「あははっ! 何言ってんのさ鈴仙……思ったわも何も実際そうだったし」
「――えっ?」
まるで心の内側を殴られたように鼓動が一度だけ激しく高鳴り、私は思わず瞠目した。
なんだ。なんだこれは。てゐは何を言っている。冗談。これはまた、いつもの質の悪い冗談だろうか。だって、私はてゐのお陰で孤立せずに済んで。だから、私はてゐには凄く感謝してて。
それなのにてゐがしていたことは私への単なる虐めだったの?
「気に入らなかったんだよねえ。永遠亭に来たばかりの頃の鈴仙ってさあ、とにかく口を開けば永琳様〜輝夜様〜って感じで。そのふたり以外のことはまったく目に入ってない様子だったから。……永遠亭には私達、地上の兎も居たってのにね」
てゐの目は暗く、声のトーンが低い。まるで冗談を言っているようには聞こえない。
私の視界がにわかにぐらついた。
「私ねえ、凄く悔しかったんだよ? だって鈴仙ってば、私のことなんて完全に知らんぷりなんだもん。私の存在なんてまるで眼中にないみたいにさあ」
「そ、それは違う! 私、そんなつもりはまったく……」
私はただ、てゐ達との接し方が判らなかったのだ。師匠や姫様の件にしても、故郷が同じということもあって、あの当時の私が頼れるのはおふたりだけだったから、結果的にそうなってしまったという話で。
「だからね私、腹が立ったから、鈴仙に何か嫌がらせしてやろうと思ったの。それで思い付いたのが落とし穴。まあもっとも、初めは躓いて転ぶ程度の小さな穴だったけどね」
「ねえてゐ、私の話を聞いて? それは誤解っていうか……とにかく、てゐが思ったような、そういうのじゃないのよ」
私は必死に弁解を述べるが、最早、てゐは聞く耳を持とうとしない。
ただ淡々と。腹の底に溜まった澱を吐き出すように話を続けた。
「私は落とし穴作りに夢中になった。そして、新しい落とし穴を作る度、穴の深さはどんどん深くなっていった――ねえ鈴仙、どうしてそうなっていったか判る?」
「……ごめんなさい、私には判らないわ」
今にも溢れ出してしまいそうな涙をどうにか堪え、私は力なく頭を振った。
「それはね、とっても楽しかったからだよ。落とし穴が深くなればなるほど、鈴仙の反応が変わっていったから。最初は遠くから私を睨むだけだったのが、直接口頭で文句を言うようになって……次第に掴み合いの喧嘩までするようになって。そして、今では怒りながら私を追いかけ回すようになった。――あの鈴仙がだよ? 私ね、それが本当に楽しかったの」
それはさぞかし楽しかったのだろう。てゐの嬉々として語る口調が如実に物語っている。
でも、聞きたくなかったこんな話。
もしかして、てゐが今日、私に用事があると言ったのは、この話を私に聞かせる為だったのだろうか。
「でね、そうやって何個も落とし穴を作る内、私、ようやく気付いちゃったんだあ」
「……き、気付いたって?」
「私は――鈴仙のことが好きだってことに。判らないけど多分、初めて会った時からずっと……」
てゐの視線が刺すように私を射抜いた。
一方で私は急な話の流れに思考が追いつけず、ただただ唖然とするしかなかった。
「私は鈴仙のことが好き。いつも直ぐ近くにいて、私はずっと鈴仙のことを見ていたいし、鈴仙にも私のことを見て欲しい。それでいっぱいふたりでお喋りしたり、仲良く手を繋いでどこかに出掛けたりして――そんな毎日を私は鈴仙とすごしたい」
「……てゐ」
突然のことに亡羊とする思考の中で、私が辛うじて言えたのはその一言だけだった。
いや。実のところ、てゐの言っていることは充分に理解していた。ただ、思考がそれを上手く消化出来なかった。何度も反芻してはどうにか消化しようとするのだが、結局は判らないという解答に行き着いてしまうのだ。
私は判らない。てゐになんて言えばいいのか判らない。てゐの気持ちをどう受け止めていいのか判らない。笑えばいいのか、怒ればいいのか、それすらも判らずにいた。
そうして、お互いの視線が交差する中、暫し嫌な沈黙が流れた。
するとやがて――。
「……な、なーんてね。今のは全部嘘。鈴仙ったらもう、直ぐ私の嘘に騙されるんだから〜」
そう言うとてゐは踵を返して私に背中を向ける。
その瞬間、私はしまったと思った。何か取り返しがつかないことをしてしまったと思った。
「あの……ほら。なんて言うの。鈴仙って騙されやすいし、ちょっと褒められると直ぐに調子乗るから。そんな感じだとこの先、うっかり悪い男に引っ掛かるんじゃないかなーって……。だから、そうならないように予行練習というか……こういうことに耐性を付けさせた方がいいなって思ったの。それがつまり、さっきのアレってわけ。どうよ鈴仙、私の演技は。なかなかの迫真の演技だったでしょ?」
これまで散々とてゐに騙されてきた私だからこそ判る。
これは嘘だ。それもあまりにも杜撰な嘘だ。言っていることが滅茶苦茶である。
でも、こんなにも酷い嘘を吐かせてしまった原因は私にあるのだと思う。
もしも、私がてゐの立場だったら、あの沈黙ほど怖いものはない。
私だったら恐怖に耐え切れず、気が狂っていたかも知れない。
だったら。そう思うのならば、今直ぐにでも私はてゐに何かを言ってやるべきなのだろう。
だが相変わらず、私は何を言えばいいのか判らなかった。
ふと穴の中を見下ろす。てゐの身体が小さく見える。元から小さい身体が今は何故だか、更に小さく見えた。まるで萎んでいく風船のようだ。このまま放置していたら、てゐの身体はもっと小さくなっていって、終いには消えてなくなってしまう気がする。
永遠亭からも私の前からも、てゐがどこかにいなくなってしまう気がする。
そんなのは嫌だ!――私は心の中でそう叫んだ。
私はてゐを失いたくない。こんなのは完璧に子供の我儘だ。どうして失いたくないか、なんて理屈を尋ねられても答えに困ってしまう。でも、とにかく私はてゐをこのまま失いたくないと心の底から強く思った。
そして、私が自分の愚かさを知るにはその決然とした思いだけで充分だった。
てゐに何を言っていいか判らない――そんなのは当然だ。だって結局、こんなことに正しい答えなどないのだから。強い感情や思いは理屈では語れない。理性でも推し量れない。故にそういったものに対峙した時の答えはいつだって未知数で不確定なのだ。まったく。実に滑稽な話ではないか。要するに私は今の今までないものねだりをしていたのだ。
だったら、私はどうすればいい。いや。そんなものは既に決まっている。てゐがその小さな身体で気持ちを精一杯伝えてくれたように、私も今ある自分の気持ちをありのまま精一杯伝えればいいのだ。強い思いに対しては同じだけ強い思いをぶつけるしかない。それが正解かどうかはともかくとして、少なくとも最善であるように思えた。
私は空を見上げて一度だけ深呼吸をすると、意を決して穴の中に飛び込んだ。そして、目の前でビクリと跳ね上がる小さな背中を思い切り抱き締めた。腕にぽとりポトリと落ちてくる熱いものが、こんなになるまで待たせてしまったことへの罪悪感を私に募らせる。
「ゴメンね……。さっきは突然のことだったから吃驚しちゃって。てゐが私のことをそういう風に思ってたなんて知らなかったから」
「……私の方こそゴメン。自分でも判ってるんだ、女同士でこんなの、絶対に変だって。鈴仙に迷惑掛けちゃうって。でも……それでも私は」
「お願いだから謝らないで。確かにちょっと戸惑ったりして、正直、てゐの気持ちにどう応えていいか判らない部分はあるけど。私はとっても嬉しかったから。てゐからああいう風に言って貰えて」
そうだ。自分で言っていて気付いた。私は嬉しかったのだ、てゐに好きだと言って貰えて。だって、そうでなかったら今頃、私はとっくにこの場から逃げ出していた筈だ。つまりは逆説的に今、こうして私がここにいることこそが、その何よりの証明と言っても過言ではない。
私は深く息を吐く。気持ちを素直に吐露することで今まで見えてなかったものが見えた気がした。あとは私を好きだと言ってくれたてゐの気持ちと、それを嬉しく感じた私の気持ちが無駄にならないように。台無しにならないように言葉を紡げばいい。
「だからその……いきなりそういう関係になるのはまだ、私の気持ちの整理がついてないから無理だけど。これからちょっとずつ、その……お互いにそっちの方へ歩み寄って行ければいいなって、私はそう思うの。――今はそれじゃあ駄目かしら?」
「うん……うん。私も今はそれでいい。……ありがとう鈴仙」
「まったくもう。本当に今日のてゐは全然らしくないわねえ。私にありがとうだなんて」
喉元過ぎればなんとやら。
さっきまでウジウジと悩んでいた自分が嘘みたいに、今はとても晴れやかな気持ちでいっぱいだった。
「ほら、こっち向きなさいよ。顔、拭いて上げるから」
そう言って振り返させたてゐの顔は、涙と鼻水でグシャグシャになっていて、私が予想していた通りに酷い有り様だった。私はその涙と鼻水をハンカチで丁寧に拭き取って綺麗にする。実はお気に入りのハンカチだったりしたのだが、不思議と嫌悪感はなかった。
そうして、すっかりと元通り――とはいかないまでも、幾分はマシになったてゐの顔を見て、私は満足気に頷いた。てゐの方も徐々に元の調子を取り戻したのか、その顔には笑みが咲いている。そう――私を小馬鹿にするような、いつも通りのあの憎たらしい笑みが。
「ちょっとなんなのよ、その顔は。気味が悪いわねえ」
「いやーだってさあ、これで私の言った通りになったなあと思ったから」
「はあ? それって一体、なんの話よ?」
「私、最初に言ったじゃない。――絶対に鈴仙を落としてみせるって」
そう言われて私は自分の現状を改めて確認し――直ぐになるほどなと頷いた。
確かにてゐの言う通りだ。どうやら私はてゐにまんまとしてやられたらしい。
私とてゐは同時に吹き出した。その笑い声は狭い落とし穴の中で暫くの間こだました。
その後、仕事をサボったのが師匠にバレて、ふたり仲良く説教を食らったのはいい思い出である。
「見て判らない? 鈴仙を落とす為の穴を掘ってるんだよ」
「へえ……そうかあ、てゐは私を落とす為の穴を掘ってるのねえ」
鈴仙にちょっと用事がある――てゐから突然そんなことを言われ、私は大いに訝しんだ。
初めは『てゐが私に用事なんて珍しいこともあるものねえ』などと呑気に思ったりもしたのだが、よくよく考えてみた結果、『てゐが私に用事なんて胡散臭いことこの上ないわ!』という結論に達したのだ。
何せ相手は――胡散臭さにかけては八雲紫と肩を並べるほどの――あの因幡てゐである。『因幡てゐ』というだけで何気ないことも途端に怪しく思えてくるし、『八雲紫』というだけで特に理由はないけど何か怪しいと思ってしまう。このふたりに関しては何はなくともまず疑うべき、というのが健全な幻想郷キッズの共通認識なのである。
そうしていざ用件を訪ねてみれば、「ここではちょっと話せない」というてゐの意味深な返答。これは益々、雲行きが怪しくなり始めたと言ってもいい。私の警戒レベルは二階級特進を経てフェーズ4に達した。
ちなみにこれは八雲紫が口元を扇子で隠した際に発生する警戒レベルと同等である。一言で表せば『あっこいつ、絶対ろくでもないこと考えてやがるな』だ。
その後、私はてゐに連れられるまま、永遠亭から少し離れた位置にある竹薮の中へと足を運んだ。そして、そこでハッとあることに気付いた。どうして私はこんなところまでノコノコとついてきてしまったのだろうと。迂闊にもほどがある。
辺りを見渡せば、そこは日中だというのに薄暗くて私達以外に人の気配はない、つまりは実に薄気味悪い場所だった。ミステリ小説の世界ならば待ったなしで刃傷沙汰に発展しそうだ。ホラー小説の世界ならば地中からボコボコと人の手が生えるぐらいの演出はしそうだ。
これはいよいよキナ臭くなり始めた。私の警戒レベルは直ぐさまフェーズ6に達してレッドゾーンに突入した。同時に私は自身の迂闊な行動を心から悔やんだ。私ってホント馬鹿。
だが、いざ蓋を開けてみれば、私の危惧は徒労であったと気付かされた。
私に用事があると言っておきながら、当の本人は特に何かを語る訳でもなく、スコップを手にして黙々と地面に穴を掘り始めたのだ。つまりは私を落とす為の穴を。しかも私の目の前で。
正に青天の霹靂。私の想定した危惧など遥かに上廻る、もっと恐ろしいものの片鱗がそこにはあった。正直、頭がどうにかなりそうだった。あまりにイミフ過ぎて。
私は大いに苦悩した。一体、この状況はどのように解釈したものかと。そもそも肝心の用事はどうしたのかと。てゐは私に何か用事があるのではなかったのかと。考えれば考えるほど頭が痛くなってきた。あらゆる面で訳が判らないこと山の如しだ。
「あのさあ……ひとつ訊いてもいい? 私を落とす為の穴を私の目の前で掘ってたら、それってもう落とし穴の意味なくない? 流石の私も見えてる地雷は踏まないわよ?」
言いたいこと、訊きたいことは山ほどあったが、私は取り敢えず、探りを入れる意味で手近な疑問を投げ掛けてみた。するとてゐは私の方を一瞥した後、「そんなの実際に試してみるまで判らないじゃない」と澄ました顔でこう返答してきた。
つまりは私が見えてる地雷を踏む確率は決してゼロではないと。こいつは暗にそう言っているのだ。私は少々憤慨した。なんとも不名誉極まりない。
確かに私には少し粗忽なところがあり、それが原因でつまらないケアレスミスをすることは多い。そして、その度に師匠から説教という名のおしおきを受けること火の如しであった。だが、そんな私ではあるが流石に見えてる地雷を踏むほど粗忽ではない。私はそこまでマヌケではないのだ。
そう考えた私はその旨をてゐにやんわりと伝えた。決して、お前の思惑通りにはならないぞ――と目で強く訴えかけながら。しかし、残念なことにそれは暖簾に腕押しというヤツだった。
てゐは作業の手を一旦休めると、満面の笑みと共にサムズアップを決めながら、私にこうのたまったのだ。
「大丈夫! 鈴仙ならきっと期待に応えてくれるよ! 鈴仙はやれば出来る子だって師匠が言ってたし! それに私も鈴仙のこと信じてるから!」
てゐの目はまるで子供のように真っ直ぐでキラキラとしていた。一方で私は泥沼のような目をして深く溜め息を吐いた。これほど嬉しくない期待の掛けられ方もないものだ。
「まあとにかくさ、ウダウダ言ってないでそこで見てなよ。絶対に鈴仙を落としてみせるから」
そう言うとてゐは額の汗を手で拭い、再び穴掘り作業に没頭し始めた。既に下半身は地中に隠れて見えない。あんな小さな身体のどこにそんな力があるのか判らないが、今のところ作業は順調に捗っているようである。その一心不乱な姿にはある種、執念やら情熱といった狂った何かを感じて、なんだか職人みたいだなと私はふと思った。
穴掘り職人。なんだろう。ちょっと卑猥な響きだ。
かたや、てゐが穴掘りに夢中になっている間、私は完全に手持ち無沙汰であった。有り体に言えば暇だ。換言すれば退屈だ。しかし、そう思ったところで特にすることもない訳で。仕方がないので私は近くの竹に背中を預けて、優雅に兎の穴掘り鑑賞会と洒落込むことにした。
風が吹いて竹藪がサワサワと鳴る。偶にはこういうのんびりとした時間もいいかも知れない。目の前で掘られている穴が私を陥れる為のそれだということにさえ目を瞑れば。
「――そう言えば、鈴仙は永遠亭に来たばかりの頃の自分って覚えてる?」
大自然と一体になり、私が永遠亭での仕事や現在進行形で目の前で繰り広げられている嫌な現実から目を背けて心を無にしていると、てゐが不意に口を開いた。
その問いの突飛さに思わず小首を傾げる。
「自分って私のこと? どうしたの急にそんなこと訊いて」
「いや……その……なんとなく気になって」
なんとなく――か。
これはまた、てゐにしては珍しく、随分と濁した言い方だ。
普段、忌憚のない意見で私を泣かせにかかってくる、てゐらしくもない。
「うーん……永遠亭に来たばかりの頃って言われてもねえ。正直、あんまり記憶にないかなあ。あの頃って要するにほら……私が月からその、逃げてきたばかりの頃でもあるから」
脱走兵である私の元へ月から追手が送られて来るんじゃないか、という恐怖。
この穢れまみれの地上で生きていけるのか、という不安。
ウドンゲってなんだよ、という師匠に対する若干の不満。
あの頃、私の心と頭を占めていたのはそんな負の感情と気掛かりばかりだった。
「多分……色々と気持ちの整理がついてなかったのよねえ。いやむしろ、自分の気持ちを整理するのに精一杯だったというか。だから――自分のことも周りのことも気に留める余裕なんて、あの頃の私には全然なかったのよ」
そう言って私は苦笑した。酷く情けない話ではあるけど、実際そうなのだから仕方ない。
だが、てゐは私のそんな返答に不満があったのか、まるで呆れたように大きく息を吸い込み細く長い息を吐いた。心なしか、真剣味を含んだ目が少し怒っているようにも見える。私の気の所為だろうか。
「ふーん……そっか。まあ、私の方は未だによく覚えてるけどね、鈴仙と初めて会った時のこと」
「そうなの……? ああそれじゃあ、あの頃の私ってさあ、てゐの目から見てどんな感じだった? 今とはかなり印象とか違う感じ?」
私が興味本位にそう尋ねると、てゐは一拍の間をおいた後、おもむろに口を開いた。
「――最初に見た時はお人形みたいだなって思った。髪の毛はサラサラだし、手足も長くてスラッとしてたし。肌なんかも雪のように白くて、兎特有の真っ赤な目も不思議と宝石みたいに綺麗に見えた。本当にまるでお人形みたい――同じ兎なのに私みたいな地上の兎とは比べ物にならないくらい何もかもが違ってた」
「えっ!? ええっ!? ち、ちょっとてゐってば! 貴女、何を言い出すのよ!」
確信した。やっぱり、今日のてゐはどこからしくないようだ。
普段は忌憚のない意見で私のことを馬鹿にしてくる、あの因幡てゐが――私を褒めるなんて普通、天地がひっくり返っても有り得ないことなのだから。
いやまあ、容姿を褒められて悪い気はしないけど。ただ、ちょっと照れ臭いというか。胸の奥が擽ったいというか。心がざわつくこと林の如しというか。私がお人形みたいって。そんなこと、師匠にも姫様にも言われたことないのに。
「もうてゐったら冗談は止めてよお、私がお人形みたいに綺麗で美しいだなんて! そんなこと全然ないから~! そりゃあ私は顔立ちは割りと整ってる方だし〜スタイルだってなかなかのものだけど〜! でも、流石にお人形みたいに綺麗で美しいは言い過ぎよ〜! ホント、全然そんなことないんだから〜!」
「うわあ……すんげえ満更でもないって顔してるよ。やれやれ。この兎、本当にチョロイなあ」
てゐの口から何やらドン引きしたような言葉が漏れたけど私は気にしない。あとなんだか顔がちょっと熱い気がするけどそれも気にしない。気にしないこと風の如しだ。
しかし、それにしても本当に今日のてゐはどうしたのだろう。明らかに言動が普段のそれとは違っておかしい気がする。いや。そもそも私に用事があるとか珍しいことを言ったり、こんな場所にわざわざ私を連れ出してみたりと――冷静に考えてみれば、てゐの行動は最初からおかしかったように思える。
はて――てゐの言動がおかしくなった原因はなんだろうか。
まさか、どこかに頭でも強く打ち付けて変になったか。
あるいはもしや――師匠に何か変な薬でも盛られたか。
「ところでさっきから一体、てゐはどこまで掘り続けるつもりなの? もう大分、深くまで掘ったような気がするんだけど」
てゐの言動に何か不審なものを感じつつ、私は落とし穴に近付いて穴の中を見下ろした。
気付けば、落とし穴はてゐの身体がすっぽりと収まる程度の深さにまでなっていた。
「まだまだどんどん掘っていくよ。この落とし穴は特別だからね、私の愛情をたっぷり注いで上げるんだあ」
まるで植物に水を上げているみたいな言い方だ。
やれやれ。落とし穴に愛情を注ぐ前にもっと他のところへ愛情を注ぐべきだろう。
例えば、誰かさんの作る落とし穴に落ちては、いつも悲嘆に暮れる可哀想な兎とかに。
「ああ、落とし穴と言えばさあ。私とてゐのこういう関係もなんだかんだで長いわよねえ」
「こういう関係……と言いますと?」
「てゐが落とし穴を掘って、私がそれに落とされる関係」
「ははあ、なるほどね。確か私が落とし穴を掘るようになったのって、鈴仙が永遠亭に来て間もなくの頃だったから……まあ結構な長さにはなるね」
私は遠い記憶に思いを馳せてみた。そうすると、実にあの手この手で騙されて、てゐの作った落とし穴に私が落とされてきた歴史がまざまざと蘇ってくる。そして、私は密かにこう思うのだ。ああ――なんて悲惨な歴史なんだろうと。
でも、結果的にそれで今の私があるのだと思う。永遠亭でみんなと楽しく笑い合える私が。
朧気な記憶をどうにか辿れば、永遠亭に来た当初の私は、てゐを含めた地上の兎達と距離があったように思う。というのも、彼女達にどう接していけばいいのか判らなかったからだ。ところがある日を境にして、その距離が徐々に縮まってきた。気付けば、私は地上の兎達と普通に会話するほどの仲になっていた。
それもこれも元を辿れば、てゐの落とし穴がキッカケだったんだと思う。そこから徐々に私は彼女達、地上の兎との接し方を覚えていった気がするのだ。だから、実のところ、私はてゐに感謝しているのである。てゐがいてくれたお陰で私は、兎達の中で孤立せずに済んだのだから。
「それにしてもアレよねえ。今にして思えば、全部いい思い出だけど――最初の頃なんかは私、なんでこんな仕打ちをされるのか判らなくて、新手の新人虐めかと思ったわよ」
「あははっ! 何言ってんのさ鈴仙……思ったわも何も実際そうだったし」
「――えっ?」
まるで心の内側を殴られたように鼓動が一度だけ激しく高鳴り、私は思わず瞠目した。
なんだ。なんだこれは。てゐは何を言っている。冗談。これはまた、いつもの質の悪い冗談だろうか。だって、私はてゐのお陰で孤立せずに済んで。だから、私はてゐには凄く感謝してて。
それなのにてゐがしていたことは私への単なる虐めだったの?
「気に入らなかったんだよねえ。永遠亭に来たばかりの頃の鈴仙ってさあ、とにかく口を開けば永琳様〜輝夜様〜って感じで。そのふたり以外のことはまったく目に入ってない様子だったから。……永遠亭には私達、地上の兎も居たってのにね」
てゐの目は暗く、声のトーンが低い。まるで冗談を言っているようには聞こえない。
私の視界がにわかにぐらついた。
「私ねえ、凄く悔しかったんだよ? だって鈴仙ってば、私のことなんて完全に知らんぷりなんだもん。私の存在なんてまるで眼中にないみたいにさあ」
「そ、それは違う! 私、そんなつもりはまったく……」
私はただ、てゐ達との接し方が判らなかったのだ。師匠や姫様の件にしても、故郷が同じということもあって、あの当時の私が頼れるのはおふたりだけだったから、結果的にそうなってしまったという話で。
「だからね私、腹が立ったから、鈴仙に何か嫌がらせしてやろうと思ったの。それで思い付いたのが落とし穴。まあもっとも、初めは躓いて転ぶ程度の小さな穴だったけどね」
「ねえてゐ、私の話を聞いて? それは誤解っていうか……とにかく、てゐが思ったような、そういうのじゃないのよ」
私は必死に弁解を述べるが、最早、てゐは聞く耳を持とうとしない。
ただ淡々と。腹の底に溜まった澱を吐き出すように話を続けた。
「私は落とし穴作りに夢中になった。そして、新しい落とし穴を作る度、穴の深さはどんどん深くなっていった――ねえ鈴仙、どうしてそうなっていったか判る?」
「……ごめんなさい、私には判らないわ」
今にも溢れ出してしまいそうな涙をどうにか堪え、私は力なく頭を振った。
「それはね、とっても楽しかったからだよ。落とし穴が深くなればなるほど、鈴仙の反応が変わっていったから。最初は遠くから私を睨むだけだったのが、直接口頭で文句を言うようになって……次第に掴み合いの喧嘩までするようになって。そして、今では怒りながら私を追いかけ回すようになった。――あの鈴仙がだよ? 私ね、それが本当に楽しかったの」
それはさぞかし楽しかったのだろう。てゐの嬉々として語る口調が如実に物語っている。
でも、聞きたくなかったこんな話。
もしかして、てゐが今日、私に用事があると言ったのは、この話を私に聞かせる為だったのだろうか。
「でね、そうやって何個も落とし穴を作る内、私、ようやく気付いちゃったんだあ」
「……き、気付いたって?」
「私は――鈴仙のことが好きだってことに。判らないけど多分、初めて会った時からずっと……」
てゐの視線が刺すように私を射抜いた。
一方で私は急な話の流れに思考が追いつけず、ただただ唖然とするしかなかった。
「私は鈴仙のことが好き。いつも直ぐ近くにいて、私はずっと鈴仙のことを見ていたいし、鈴仙にも私のことを見て欲しい。それでいっぱいふたりでお喋りしたり、仲良く手を繋いでどこかに出掛けたりして――そんな毎日を私は鈴仙とすごしたい」
「……てゐ」
突然のことに亡羊とする思考の中で、私が辛うじて言えたのはその一言だけだった。
いや。実のところ、てゐの言っていることは充分に理解していた。ただ、思考がそれを上手く消化出来なかった。何度も反芻してはどうにか消化しようとするのだが、結局は判らないという解答に行き着いてしまうのだ。
私は判らない。てゐになんて言えばいいのか判らない。てゐの気持ちをどう受け止めていいのか判らない。笑えばいいのか、怒ればいいのか、それすらも判らずにいた。
そうして、お互いの視線が交差する中、暫し嫌な沈黙が流れた。
するとやがて――。
「……な、なーんてね。今のは全部嘘。鈴仙ったらもう、直ぐ私の嘘に騙されるんだから〜」
そう言うとてゐは踵を返して私に背中を向ける。
その瞬間、私はしまったと思った。何か取り返しがつかないことをしてしまったと思った。
「あの……ほら。なんて言うの。鈴仙って騙されやすいし、ちょっと褒められると直ぐに調子乗るから。そんな感じだとこの先、うっかり悪い男に引っ掛かるんじゃないかなーって……。だから、そうならないように予行練習というか……こういうことに耐性を付けさせた方がいいなって思ったの。それがつまり、さっきのアレってわけ。どうよ鈴仙、私の演技は。なかなかの迫真の演技だったでしょ?」
これまで散々とてゐに騙されてきた私だからこそ判る。
これは嘘だ。それもあまりにも杜撰な嘘だ。言っていることが滅茶苦茶である。
でも、こんなにも酷い嘘を吐かせてしまった原因は私にあるのだと思う。
もしも、私がてゐの立場だったら、あの沈黙ほど怖いものはない。
私だったら恐怖に耐え切れず、気が狂っていたかも知れない。
だったら。そう思うのならば、今直ぐにでも私はてゐに何かを言ってやるべきなのだろう。
だが相変わらず、私は何を言えばいいのか判らなかった。
ふと穴の中を見下ろす。てゐの身体が小さく見える。元から小さい身体が今は何故だか、更に小さく見えた。まるで萎んでいく風船のようだ。このまま放置していたら、てゐの身体はもっと小さくなっていって、終いには消えてなくなってしまう気がする。
永遠亭からも私の前からも、てゐがどこかにいなくなってしまう気がする。
そんなのは嫌だ!――私は心の中でそう叫んだ。
私はてゐを失いたくない。こんなのは完璧に子供の我儘だ。どうして失いたくないか、なんて理屈を尋ねられても答えに困ってしまう。でも、とにかく私はてゐをこのまま失いたくないと心の底から強く思った。
そして、私が自分の愚かさを知るにはその決然とした思いだけで充分だった。
てゐに何を言っていいか判らない――そんなのは当然だ。だって結局、こんなことに正しい答えなどないのだから。強い感情や思いは理屈では語れない。理性でも推し量れない。故にそういったものに対峙した時の答えはいつだって未知数で不確定なのだ。まったく。実に滑稽な話ではないか。要するに私は今の今までないものねだりをしていたのだ。
だったら、私はどうすればいい。いや。そんなものは既に決まっている。てゐがその小さな身体で気持ちを精一杯伝えてくれたように、私も今ある自分の気持ちをありのまま精一杯伝えればいいのだ。強い思いに対しては同じだけ強い思いをぶつけるしかない。それが正解かどうかはともかくとして、少なくとも最善であるように思えた。
私は空を見上げて一度だけ深呼吸をすると、意を決して穴の中に飛び込んだ。そして、目の前でビクリと跳ね上がる小さな背中を思い切り抱き締めた。腕にぽとりポトリと落ちてくる熱いものが、こんなになるまで待たせてしまったことへの罪悪感を私に募らせる。
「ゴメンね……。さっきは突然のことだったから吃驚しちゃって。てゐが私のことをそういう風に思ってたなんて知らなかったから」
「……私の方こそゴメン。自分でも判ってるんだ、女同士でこんなの、絶対に変だって。鈴仙に迷惑掛けちゃうって。でも……それでも私は」
「お願いだから謝らないで。確かにちょっと戸惑ったりして、正直、てゐの気持ちにどう応えていいか判らない部分はあるけど。私はとっても嬉しかったから。てゐからああいう風に言って貰えて」
そうだ。自分で言っていて気付いた。私は嬉しかったのだ、てゐに好きだと言って貰えて。だって、そうでなかったら今頃、私はとっくにこの場から逃げ出していた筈だ。つまりは逆説的に今、こうして私がここにいることこそが、その何よりの証明と言っても過言ではない。
私は深く息を吐く。気持ちを素直に吐露することで今まで見えてなかったものが見えた気がした。あとは私を好きだと言ってくれたてゐの気持ちと、それを嬉しく感じた私の気持ちが無駄にならないように。台無しにならないように言葉を紡げばいい。
「だからその……いきなりそういう関係になるのはまだ、私の気持ちの整理がついてないから無理だけど。これからちょっとずつ、その……お互いにそっちの方へ歩み寄って行ければいいなって、私はそう思うの。――今はそれじゃあ駄目かしら?」
「うん……うん。私も今はそれでいい。……ありがとう鈴仙」
「まったくもう。本当に今日のてゐは全然らしくないわねえ。私にありがとうだなんて」
喉元過ぎればなんとやら。
さっきまでウジウジと悩んでいた自分が嘘みたいに、今はとても晴れやかな気持ちでいっぱいだった。
「ほら、こっち向きなさいよ。顔、拭いて上げるから」
そう言って振り返させたてゐの顔は、涙と鼻水でグシャグシャになっていて、私が予想していた通りに酷い有り様だった。私はその涙と鼻水をハンカチで丁寧に拭き取って綺麗にする。実はお気に入りのハンカチだったりしたのだが、不思議と嫌悪感はなかった。
そうして、すっかりと元通り――とはいかないまでも、幾分はマシになったてゐの顔を見て、私は満足気に頷いた。てゐの方も徐々に元の調子を取り戻したのか、その顔には笑みが咲いている。そう――私を小馬鹿にするような、いつも通りのあの憎たらしい笑みが。
「ちょっとなんなのよ、その顔は。気味が悪いわねえ」
「いやーだってさあ、これで私の言った通りになったなあと思ったから」
「はあ? それって一体、なんの話よ?」
「私、最初に言ったじゃない。――絶対に鈴仙を落としてみせるって」
そう言われて私は自分の現状を改めて確認し――直ぐになるほどなと頷いた。
確かにてゐの言う通りだ。どうやら私はてゐにまんまとしてやられたらしい。
私とてゐは同時に吹き出した。その笑い声は狭い落とし穴の中で暫くの間こだました。
その後、仕事をサボったのが師匠にバレて、ふたり仲良く説教を食らったのはいい思い出である。
最終的にくっついたわけではないですけど 落とし穴と(恋に)落とすで掛かっていたりするんでしょうか
あと真ん中あたりの生理はたぶん整理の誤字では
くっついちゃいなよぉぉ!と前のめりになって僕まで穴に落ちてしまった気分です
いつてゐが裏切るだろうかと内心どきどきしながら読んでましたが、ちゃんといい感じに終わってくれてホッとしました。可愛らしいてゐんげで心が暖かくなりました。
ほっこり
鈴仙とてゐ。二人ともお幸せに。