Ass(アス)とは、驢馬の事である
一般的には蔑称である。意味合いとしては下劣で「尻」を指し、また肉欲を満たすためだけの女性を指す。
これと同じように多くの宗教において驢馬は悪しき物として扱われる。
悪魔と暗黒
無知や欺瞞
猥らさに堕落
貧困と不吉
驢馬が顕す物は屈辱・浪費・無能・頑固・愚かなる従順……
正に災い
人の世の陰を形造る負の化身である。
* * *
その日、依神紫苑は幻想郷をあちらこちらにとフラフラしていた。
別段行く当てなど無い、目的もない。
ついでに言えば銭も無いし、腹の中に何もない。
他人から見れば悲惨であり、本人としても悲惨であり、だがしかし紫苑にとっては平常運転である、そんな日であった。
だがまぁ、それだけで済んでいたのならばまだよかったのかもしれない。
頭に何かが当たる感覚を覚えて、上を見上げてみれば、ゆらりゆらりと雪である。
既に日は沈み、それでも解ってしまうほどに雲は重く、どうもこれから降りは強くなりそうだ。
すきっ腹に寒さに雪では、いくら何でも紫苑としても少々辛い。
なので、そこら辺にあった庵……というにはみすぼらしい、あばら屋よりはマシであろう家の軒先に逃げ込む。
そうして軒先から空を仰げば、やはり強く降って来た。
全く、ため息しか出てこない。
これなら比那名居天子と共に輝針城に居つくべきだったか。
だがいつまでも輝針城に居候する訳にもいかない、ただでさえ天子が居候なのだ、居候の伝手の居候では居心地の悪い事この上ない。
少名針妙丸の視線もかなり痛く、一つ屋根の下で空気が悪いとどんなに豪奢な住まいでも息が詰まるというものである。
故に、何処かに住める場所は無いかと探していたのだが……
上を見ても前を見ても横を見ても雪。
となれば、視線は自然と後ろを向く。
格子窓から家の中が覗ける訳なのだが、なんとも素っ気ない家である。
薄暗くてよく分からないが、物も少なく伽藍としているようだ。
……もしや無人ではあるまいか。
ここは人里から少しばかり距離がある、すなわち少しばかり危険なので人はあまり近づかないし、人がいないとなると妖怪も興味を示さないという事だ。
無人であるならば、今宵の塒につかえないか、と少し期待した時であった。
「そこで何をしているんだ?」
そんな声を掛けられ、紫苑は億劫そうに目を向けた。
視線の先に居たのは、蓑を纏い傘をかぶった男である。
よくもまぁ、この寒空のしかも雪の中に外を歩けるものだ。
少しばかり呆れるが、さて、それは紫苑もまた同じ事、口に出すような真似はしない。
何にせよ紫苑にとっては見知らぬ男である。
故に、対応も素っ気ないものであった。
「貴方には関係ないでしょ」
「ここは借家とは言え俺の家なんだが」
家、家と言ったか。
なるほど、住民が居た訳か、それでは塒にするわけにはいくまい。
期待が外れ落胆する。
しかし、次の瞬間にその外れた期待が更に外れた。
「雪に難儀しているのか」
「そうよ、見て解るでしょ」
「じゃあ中に入ると良い」
事も無げに、男は言う。
紫苑は少しばかり目を見開く。
「いいの?」
「あぁ、この寒さだ、軒先では凍えるだろう」
思わぬ親切であるが、思わぬ親切である故に紫苑は戸惑う。
「……私が泥棒かもしれないわよ」
「俺の家にか? もしそうならよっぽどのマヌケか、相当に窮しているのだろうよ。前者なら笑いものだし、後者ならご同類、どちらにしろ恐れるに足らないさ」
「訂正、余計に酷い事になるわ」
「へぇ?」
「私、貧乏神よ」
「貧乏神、へぇ貧乏神」
男はふむ、と一つ頷く。
「ははぁ、蒼い髪の貧乏神、依神紫苑だな?」
「あぁ、やっぱり知ってる訳ね」
「まぁ、噂程度ならね」
さもありなん、そもそも紫苑があちらこちらをフラフラしているのは名が知れてしまったゆえだ。
自分の力の影響を受けぬからと、放蕩天人・比那名居天子と組んですこーしばかり大騒ぎしすぎてしまった。
完全憑依の一騒動で面倒な連中に目を付けられ、その後の雑事で名が知れた。
おかげですっかり行く場所もなく、塒と食い物にすら事欠いてこの様である。
自業自得の一言で言えばそうなのであろうが、元より自分では自分の力を、不幸を招く権能の発動は如何ともしがたいゆえに自棄になっていたというのもある。
人でも神でも妖怪でも、調子に乗ったり八つ当たりをしたい時ぐらいはあるはずだ。
それが紫苑にとってはあの時であったというだけの話なのだ。
……言い訳にしか過ぎずやはり自業自得なのは重々承知の上である。
「ふん、なるほどとうとう本物の貧乏神のおでましってわけか」
なにか、自分で勝手に納得したようにひとりごちる。
そうして、次の瞬間には一寸信じられない事を言ってのけた。
「で、入るのか入らないのか」
「はぁ? 人の話聞いてるの?」
「勿論。その上で聞いていのさ、個人的にはそこに居座られると聊か落ち着かないから中に入ってくれると助かる」
貧乏神を家に招くとはいかなる料簡か。
先の戸惑いを上回る程に混乱する紫苑であるが、さてそれをなんとも嫌な音が中断させてくれた。
ぐうぅぅ、と情けなく鳴る腹の音である。
情けない、本当に情けない。
あまりの情けなさにただでさえ辛気臭い紫苑の顔はますます沈む。
一方の男はぷっと噴き出し、紫苑は反射的に男を睨んだ。
「いや、悪い悪い」
「……ふん」
「さて、では貧乏神、この家の見た目通りの味気も色気も無い飯なら出せないことも無いぜ」
「……いいの?」
「そうもきつい音を聞かされては俺としてもな、軒先に放置しては寝目覚めが悪すぎる」
どうだ? と男は更に問う。
貧乏神に施しか、と紫苑は自嘲するが、一方で魅力的ではあった。
先にも述べた通り、ひもじく寒く更には雪では、流石に耐えられない。
どうせ雨宿りであるならば、転がり込んでみるのも良いだろう。
良いだろうというか、そろそろ限界であった。
そうして、紫苑は男に招かれて家の敷居を跨ぐ。
暗い家の中は、外から見た通りにやっぱり伽藍としていて、生活感が薄い。
物と呼べるようなものもなく、あるのは竈に水瓶、囲炉裏に古臭い鍋、なにやら見すぼらしい茣蓙と火口箱が唯一の調度品だと言えた。
男は蓑と笠の雨水を土間で払うと、それを適当な処にかけて囲炉裏に薪や木屑を並べ火口箱から何かを取り出す。
何かとは言うが、火口箱に入っているものと言えば火打石と金具と消し炭か麻の類と相場は決まっている。
事実、男の手元からはカチッカチッと小気味の良い音が聞こえた。
小さな火種を囲炉裏に放り込むと、木屑に火が上がる。
「しばらく火にあたって待っててくれ、すぐに飯を用意する」
願っても無い、紫苑は囲炉裏の傍に座り、両の手を火に宛てて暖かさを甘受する。
冬の日の火は何物にも代えがたい。
体の凍えを火でほぐせば、思わず安堵の声が出ると言うもの。
そうこうしている内に、男が何やら鍋を持って火の上に吊るす。
水の中に黒や黄も混じるが白い物が見える。
もしや粥でも作るのであろうか、だとすれば冷えた体と長い間空っぽだった腹のどちらにも有り難い。
火に宛てられ、鍋の中身がゆらゆらと、そしてぐつぐつと音が変わる。
立ち上がる湯気だけでも腹が減る。
空だというのに更に減る感覚がなんともキツい、キツいというかもはや痛い。
紫苑の前に膳と箸と湯呑、小皿に乗った青菜の漬物が並べられ、そうして膳に白く熱い粥がよそられた。
「ほら、喰いな」
「頂きます」
事ここに居たり、遠慮するという選択肢は無い。
あったらその前に断っているだろう。
男物の、分厚い造りの膳に息を二三回吹きかけ、箸で粥を運んだ。
熱い粥故に、最初の一口はほんの少しだが、それでも舌触りが予想と違う事に気がつく。
この白は米粥ではない、麦粥だ。
だが構う事は無い、米であろうと麦であろうと食べ物であることに、更には御馳走になったモノには違いないのだ。
熱がある内は舐めるように、だんだんと良い加減になってくると漬物で口の中に塩気を入れて粥を啜る。
瞬く間に膳は空になり、漬物で残った麦を丹念に拭き取って、一粒たりとも残さず腹に納めた。
そこまで来て、人前でやるにはいささか品性が無さ過ぎたかと思うが、見れば男も同じ事をやっている。
麦粥は互いに一杯、鍋の中にはもう何も残っていない。
代わりに水が注がれ、湯を沸かしている。
「食後の茶なんて洒落たものは無くてね、白湯で良いか?」
「貰えるモノなら何でも貰うわ」
紫苑の物言いに、男は笑いながら湯呑に湯を注いだ。
先の麦粥と同じく味気も何もないが、暖かさと水分が入れば大分違う。
湯を口にしながら火で寒さを凌がねば濡れネズミだっただろう。
「これは、どうにも止みそうにないな」
外を眺め、男がぽつりと一言。
確かに、強さはさほどではないがまだ止む気配が無い。
濡れ鼠の上に氷漬けか、ますます洒落にならない。
おまけに暗いとなると、いくら神の身と言えこの時分に外に出るのは無謀である。
「泊っていくか?」
紫苑の表情を読んだのか、それとも空気を読んだのか。
男の申し出は、先の食事と同じく紫苑には有難い。
とはいえ、食事と違うのは遠慮するという選択肢がここにはあるという事だ。
「変な真似する気じゃないでしょうね」
「まぁ、そうくるよな」
痩せ細った貧相な体。
自分でも認めてはいるが、それでも女は女、初対面の男に「泊っていくか」と言われて「お願いします」等と抜かすほどに紫苑は安くも愚かでも無い。
魅力的な話なのは認めざるを得ないが、それはそれである。
男は黙って、湯を嘗める。
貴重なものであるかのように、まさに嘗めるように口に含む。
静かだ。
何か、申し開きでもすればいいのに、あるいは突き放せばよいのに、黙っていられては困ってしまう。
雨の音は変わらず降り注ぎ、湯と火の温かさはますます離れがたい。
故にこそ、心はどうにも揺らいでしまう。
「……妙な真似をしたら」
「うん」
「あんたを全力で不幸にしてやるわ」
「そうか、判った」
迷いに迷い、ある種自虐ともとれる脅し文句をかけて。
要は泊めてくれという事なのだが、さてこれも一種の売り言葉に買い言葉なのだろうか。
結局の処、その夜は男の家に世話になる事にした。
そうして、薄くて無いよりはマシな布団を使わせてもらい、朝までぐっすり眠りこけた。
寒さを防ぐには如何に足りないが、風と雨が凌げて布団があるのは上等である。
基より碌な生活を送っていない紫苑としては、これでもちゃんと寝られるのだから卑屈であっても中々に逞しい。
どれほどに……と問うべきであろうか、時刻の事はよくわからない(なにせ時計が無い)ので何時間寝たのかは分からないが、とにかく朝が来て目は覚めた。
覚めたというか、覚まされたと言うべきだろう。
なにかふうふうぱたぱたと、物音がするので、それで目が覚めてしまったのだ。
「ん? あぁ、起きたのか」
男が、竈の前で火を起こしている。
古臭い火吹き竹で、竈の中に息を吹きかけ、団扇でぱたぱたと仰ぐ。
竈の上には釜が乗っており、なにかぐつぐつと言っていた。
確かめるまでもなく、朝餉の支度である。
「んで、朝飯はどうする貧乏神」
「食べる」
即答であった。
それから、特に言う事は無い。
朝餉は雑穀飯と青菜の漬物、そして白湯、粥では無いという点を除けば昨晩と同じであった。
お互いに膳に盛り、戴きますと手を合わせる。
同じように漬物で塩気を入れて、麦飯をただ食べる。
言葉は無い。
何かを語る程に親しくないし、話題も何もない。
ただ黙々と食事をすれば、たった一杯の雑穀飯なぞあっという間になくなってしまう。
……すこしばかり物足りなく、紫苑の視線は自然と釜に向かう。
見た感じ、まだまだ量がありそうではある。
「悪いが、奢ってやれるのはそれだけだ」
ぴしゃりと一言、釘を刺された。
「アレで俺の昼餉と夕餉も賄うんだ、朝に二杯も喰うと足りなくなる」
それを言われれば、紫苑としても引っ込まざるを得ない。
居候三杯目にはそっと出し、なんて言葉があるが、居候でも無い紫苑には二杯目を出す権利もないのだ。
また一宿一飯の恩は有り難いが返すつもりは無い、だって返せないから。
「御馳走様」
膳の中に湯を注ぎ、残って張り付いた粒を湯で剥がし取って呑み込んで、綺麗に残さず食事を終える。
気取った連中ならば顔をしかめるような食べ方であろうが、その日の食にすら困る紫苑としては雑穀一粒であっても無駄には出来ない。
眼前の男も同様なのだろう、手にした膳からは、ずずっと湯を啜る音がした。
喰い方はお互いに汚いが、男は丁寧に手を合わせ「御馳走様」と呟く。
おや? と紫苑は思う。
こんな襤褸屋に住んでいる割には、中々に所作が良い。
どこぞの貧民か小作人かと思ったが、違うのであろうか。
そんな紫苑の疑問を余所に、男は膳を下げて片づけを始めた。
鍋に残っていた雑穀飯を、手慣れた感じで握り飯に変えると、紫苑の方を向いてこう言うのだ。
「俺は仕事に行くんだけど、お前はどうするんだ?」
「……出ていくわ」
どうするんだ? が言外に「出ていけ」と聞こえるのは紫苑の性根を端的に表しているのであろうか。
二重の意味で間違ってはいないだろう、貧乏神を家に置いておく者もそうはいないだろうし、自分が嫌われ者である事を紫苑は嫌になるほど知っている。
比那名居天子が規格外であると言うだけの話なのだ。
「そうか」
一言だけ言って、男は支度を整えた。
外を見てみれば、雪はさほどに積もってはいない。
どうやら雪女は仕事をサボってくれたようだ、もっとサボれと紫苑は心の中で悪態を吐く。
朝の気温は夜のそれを引きずり、なお厳しい物の、家の宿主よりも遅れて出る訳ぬも行かぬ、流石にその程度の良識ぐらいはある。
二人して家を出て、紫苑は礼を言った。
「有難う、助かったわ」
「どういたしまして、気を付けてな」
何をどう気を付けると言うのか。
貧乏神である自分は好む好まざるを関係なく、不運を生み出すものだ。
自嘲気味に嗤うと、紫苑は「それじゃ」と素っ気なく別れを告げた。
斯くして、一夜の安息を得た紫苑であるが、ここで大事な事を思い出さなければならない。
元々、紫苑にはゆく当てなどないのである。
だから彷徨い、雪に追いやられて偶然にも変わった人間に助けられた。
つまり、どういう事か。
出て行ったところで、やっぱり居場所など無いのだ。
一朝一夕で住処が見つかるのならば苦労などしない。
日が昇って頭上に輝き、いずれ傾き沈んでいく。
それと共にまた腹が減る。
夜になれば寒さが沁みる。
往く場所など無いとなると、掛けられた情けにまた縋りたくなるのが人の性というもの。
結局、その日も、男の家の軒先に蹲る破目になり、男が苦笑したのであった。
* * *
温情というものは人をダメにする。
ぬるい情とは、よく言ったものだ。
居候の居候では居心地が悪い、という理由で輝針城を出たと言うのに、今度は別の人間の家に転がり込んでいる。
それが相手の迷惑になるのは解っている、貧乏神が居ついて喜ぶものはいまい。
だがしかし、飯が朝夕二食出て、家主が何も言わぬとなれば、住いを探さねばと昼間フラフラしてもついつい夜には戻ってしまうものだ。
最初は一応、遠慮して軒先で男の帰りを待ち、それから家の中に入れてもらったのだが、最近は勝手知ったると言わんばかりに先に上がりこんでいる。
それでも何も言わない。
いや、「なんだ、今日は戻ってないのかと思った」等と言ったが、咎められるような事は無かった。
不用心と思うであろうか。
しかしこれがそうでもない。
なにせ家の中に何もないのだ。
せいぜいが雑穀が少しと、壺の中に漬物がいくつか、そして燃料の薪があるぐらいで、金目のものは一つもない。
食い物があるではないか、それが盗まれるだろうと言われるかもしれないが、こんなモノを盗んで何になると言うのだ。
肉や魚の類は無く、雑穀と漬物、どうせ盗むのであればもっとマシなものがある家に入る。
男が言った通り、この家に盗みに入るのはよっぽど困窮しているか、目星も点けられない大マヌケのみであろう。
尤も、そんな家で世話になっている紫苑がその事をとやかく言える立場ではない。
食い物にも燃料にも勝手に手を付けない、という最低限の常識を弁えているだけでは、盗人と左程に変わりはないだろう。
そんな生活がいくつか続き、紫苑は塒探しの時間の幾つかを、人里に裂くようになっていた。
理由としては、やはり男の事が気になったというものである。
貧乏神と知って家に招き、飯を食わせ、そのまま置いておく。
奇妙奇怪極まりない。
さらに可笑しなことが、一緒に過ごしているというのに、不幸が起こる気配が無いという事である。
やれ服に穴が空いただの、飯を少しばかし焦がしてしまったと言った些細な事は無くもないが、逆を言えばその程度しかない。
どう見ても果てない幸運に恵まれた天運の持ち主ではない。
ではなぜ不幸が起こらないのであろう。
その様な者が居るのならば、それ相応に興味が湧くというものである。
それ故に、こっそりと見つからぬように男の様子を探るのが日課になり始めていた。
「おぉーい、こっちたのむー!」
「はい! ただいま!!」
威勢の良い声が、あたりに響く。
紫苑は屋根の上から、男が務める里の木工所を眺めていた。
木工と言っても、木だけを扱う訳では無く、迷いの竹林の竹なども扱う。
なにせ幻想郷は狭い為に資源が貴重なのだ、使えるものは何でも使わねばならぬ。
そして、男がそこで何をしているのか、と言うと……
これが一言で言うのが難しい。
ある時は鉋や鑿で木を削っている。
ある時は斧や鉈で材木を割り
はたまたある時は土運びや他所への遣い
兎に角、あらゆる仕事を何でもやっている。
声がかかれば即座に飛んで行き、任された仕事を黙々とこなす。
なにより驚いたのが、読み書きができるという事であった。
手紙なのか書類なのか、時折なにか書き物をしているのを見かけたことがある。
男の素性は知らぬが、紫苑はそれで男が単なる貧民でないことは理解した。
商家か良家か、多分、そこら辺の出なのであろう。
年も若い、不祥事で縁切りされたか、家が没落して貧乏暮らし、そんな処か。
「悪いがこれたのむわ」
「はい、向こうに運べば?」
「おう」
それにしても、あくせくあくせくと良く動く。
他人の2・3倍は仕事をこなしているのではないだろうか。
昼に雑穀の握り飯だけで、よくもまぁやるものだ。
まるでネズミの様に走り回る様は、意外と見ていて飽きない。
だが、もうよいだろう、ここら辺で観察は止めにして、また家探しと行こう。
どこかに何か建物でも流れ着いているかもしれない、幻想郷では時々起こる、しかして自分には縁のないであろう薄っぺらい期待を胸に、飛び上がろうとしたその時である。
「あっ」
小さい悲鳴を上げて、体がずるりと滑り落ちた。
単純に足を滑らせたのだ、止まる暇もなく、紫苑はそのまま屋根から落ちて木工所の庭先にずしんと落ちる。
「痛ったぁ……」
全く、なんという間抜けか。
いや、これもまた不運か。
何はともあれ、周囲からの奇異の目を受けて、なんとも惨めな気分になる。
ぽかんと口を開ける人間達。
まぁ、上から人(貧乏神)が落ちてくればそういう反応にも成ろう。
「お、おい、アンタ大丈夫かい」
一人が、ようやく常識的な反応を始めたその時である。
誰かが、「あ!」と大きな声を上げたのを聞いた。
「こ、こいつ貧乏神だ!」
「なに、貧乏神!?」
「間違いない、この前の異変と騒動で暴れてる処を見た!」
途端、一斉に周囲の目が変わる。
嫌悪・恐怖・驚愕……
言葉にするのも飽き飽きする程に見て来た感情たちである。
「こいつ! とうとうこんな所にまで悪さをしに来たのか!」
体格のいい一人が、紫苑の腕を掴んで捻りあげる。
やせた腕が締め上げられる感覚に、紫苑は思わずうめき声を挙げた。
こうなる事は予想できた、せめて蹴りだされる程度で済んでくれると嬉しいのだが。
そう、思った時である。
「紫苑?」
ある程度、聞き慣れた声がした。
視線を向ければ、あの男が驚いたような顔をしてそこにいる。
「ん? なんだ、この貧乏神を知っとるのか」
「あ、はい、その、家に下宿してると言いますか」
「はぁ? 下宿? お前、貧乏神を住まわせてるのか!?」
「えぇ、まぁ」
男の、なんというか「そうですが何か」と言わんばかりの軽い物言いに周りは顔を見合わせて困惑しているようである。
ただ、その一方でなにやら納得しているような様子も見られる。
「まぁ、なんだ、お前が貧乏神憑きでも驚きゃせんが」
「あの、紫苑を放してやってくれませんか」
「大丈夫なのか?」
「えぇ、その、悪い奴じゃありません。無愛想ではありますが」
「だがな」
「ご迷惑はおかけしません、」
木工所の面々が顔を見合わせる。
少しばかり、どうすかと迷うような様を見せたが、紫苑の腕に加えられていた力が緩む。
「お前さんが言うなら……」
「有難うございます」
「ただなぁ、お前の為に言うが貧乏神憑きというなら、祓っておいた方が良いぞ、借金返済が遠のくだろう」
至極当然の事を言い残し、集まっていた人間達はその場を後にした。
場に居るのは、男と紫苑のみである。
「大丈夫か?」
差し出された手を取って、紫苑は立ち上がる。
先ほどの拳とは違う、気遣うような手だ。
職場に乱入したのはいささか気まずいが、「いつもの不幸」だ、自分の責任ではない。
そう、自己弁護を自分の中で図った時、鈍い痛みがふくらはぎから紫苑を襲った。
「っ!」
「どうし……あ、傷になってるじゃないか」
左足に擦り傷がある。
恐らくは落ちる時に擦ってしまったのだろう。
高所から落ちてこの程度なのは、返って運がいいのかさてはてやはり怪我をした不運なのか。
「ほら、こっちこい」
言って、男は紫苑の手を引いて歩きだす。
ちょっと、と言う間もなく、連れてこられたのは井戸であった。
紫苑を井戸の傍にあった腰掛に座らせ、桶を井戸に放り投げ、綱を引いて水をくみ上げる。
桶に並々と入った水は、見るからに冷たそうだ。
「冷たいぞ、我慢しろ」
言わずとも判る、だがそれ故に口に出たであろう忠告の通り、寒空をそのまま雫にしたような感覚が擦り傷を洗う。
冷気特有の、俗に「刺すような」と表現されるソレが傷に触れるのはなんとも辛い。
顔をしかめつつ、先の事で気になった事を男に問う。
「ねぇ」
「うん?」
「貴方、借金があるの?」
「あぁ、ある」
「女? 博打?」
「そういう風に見えるか?」
男は苦笑しつつ、懐から小さな軟膏入れを取り出す。
蓋を開くが、中身は殆ど残っていない、僅かに軟膏であると解る程度に縁やそこにへばり付いているのみである。
その少ない薬を、まさに底をすり減らすかのように指で集めて紫苑の傷口に塗る。
薬の沁みる感覚は、水の冷たさで麻痺した足には殆どない。
「女でも博打でも無い、親の借金だ」
「親の?」
「あぁ、これでも、昔は良い処のボンボンだったんだぜ?」
今度は苦笑では無く、幾ばくかの自嘲である。
「で、そのボンボンがどうして」
「小難しい話じゃないさ、親が欲掻いて無理な商売に手を出し見事に失敗、困ったところに火事と来た」
炎が財産全てを焼き尽し、命は拾ったが負債は残った。
そうして一文無しよりも酷い状態になったのだと、簡単に嘯く。
あっちこっちをさ迷い歩き、里のはずれのボロ小屋に転がり込めたのは幸いであったとも。
「家族は?」
「親父とお袋は心労でぽっくり逝った」
「あの茶碗、お父さんの?」
想像していたよりも、酷い状況だったことに少しばかり驚きながら、独り住まいのあの家に椀が二つあった事に言及する。
男物の椀であるため、当然、父親の思ってのことであった。
ただ、その瞬間、男の手が一瞬止まる。
「…………あぁ」
声に、昏い何かが宿る。
そして、その昏い一言で今度は沈黙が何処かより這い出してきた。
黙りながら、今度は手拭を出して傷に巻き付けてゆく。
明確な、拒否の態度であった。
自分は何をしくじったのだろう。
あの椀に何かあるのだろうか。
場が水の如く冷えるのを感じる。
紫苑の、元々の卑屈な性分と合わさり、耐えられそうになくなった時、しかしてそれを打ち破ったのは男の声であった。
「これで由と」
「……薬」
「うん?」
「よかったの? 使い切っちゃって」
「あぁ、まぁ貰いものだし」
貰いものと言っても、まさか初めからあの量だったわけでもあるまい。
長い間に使ってしまったのか、それとも使い切る程に怪我をする頻度が高いのか、どちらにしろ自分で使う用があったはずだ。
それを、惜しげもなく他者に使うのか。
「借金、幾らあるの」
「借金? えーっと……あと、2千円だったかな」
「にっ……!?」
通貨価値が明治の頃で止まっている幻想郷において、2千円は大金である。
すくなくとも、一般の人間や妖怪はお目に掛かれないであろう。
貧乏神であっても思わず絶句する額だ。
「いや、これでも親父の知り合いからの借金で利子とかは大分良心的でさ、ちょっとづつでもなんとか返せてる…」
「月に幾ら?」
「えっと、4円」
それでも、単純計算で50年はかかる。
一生かかっても返します、とはよく聞く台詞であるが、まさか本当にやってる奴を見たのは初めてだ。
「貴方、それでよく私を家にいれたわね」
「俺は……」
男は言葉を一つ区切り、少しばかり難しい顔をする。
「俺は、只、誰にも恥じない生き方をしたいだけだ」
「借金があるのに?」
「それはまた話が違う」
難しい顔を、今度は苦く曲げて。
呆れた話だ、莫大な借金を背負って馬鹿正直に返そうと汗水たらして必死になって働いて。
食べ物と言えば雑穀飯ばかり。
それなのに、薬も食事も分けると言うのだ。
ここで考えるべきは、まず自分の事だろうに。
だが同時に、自分の力がこの男に及ばぬ理由も察する。
この男には喰らうべき運が無い、無いものを奪うことなど出来るはずもない。
基より不運ににまみれて生きている故に、力が全く意味を成さないのだ。
「さて、そろそろ俺は仕事に戻る」
「あ、ねぇ」
「うん?」
「その、ありがとう、色々」
僅かな薬と、薄く擦り切れそうな手拭。
普通の者が見れば粗末というかもしれないが、治療は治療である。
それだけではない、先に助けてもらった礼もまだであった。
「手拭、どうすれば……」
「帰ったら適当に籠に放り込んでおけばいい」
「……いいの?」
帰ったら、と当たり前に出る。
本来ならば祓った方がよいはずの自分を。
「かまいやしないさ」
軽く笑って、男は背を向けた。
仕事場に戻るその姿を、紫苑はしばし見送って。
それから、重く苦しい寒空へと飛び立った。
その重い空に夜の帳が更に降り、寒さは時と共にその深さを増す。
こうなれば、いかなる者とて空には居られぬ。
例外があるとすれば、冬の化身たる雪女か氷の御霊たる妖精ぐらいであろう。
依神紫苑はそのどちらでもない故に、夜の空には居ない。
今となっては勝手知ったる……知るほどの勝手もないが……彼の家にいつものように転がり込む。
ただ、今日は少し違う。
囲炉裏を前にし、薪が爆ぜる様を見る。
炎の上には鍋が吊るされ、中の雑穀粥がぐつぐつと音を立てていた。
そろそろ頃合いのはずなのだが。
戸を眺め、紫苑は少々やきもきする。
このままでは、粥が焦げてしまうでは無いか。
誰にも聞こえぬ悪態を吐きながら、何もかもを、自分ですら馬鹿にしたような瞳に、いつもとは違う色が見え隠れする。
そしてその色は、戸が揺れると同じように揺れるのだ。
揺れる戸がそのまま開かれ、家主である彼が入ってくる。
ただいま、と言う言葉が途中で切れて、囲炉裏の火と暖かな鍋と並べられた膳に目を丸くした。
あぁ、予想通りの反応だ。
それが可笑しくて、口元が緩みながら「おかえり」と言葉にする。
そしてそこで、その言葉をここに来て初めて言った事に気がついた。
* * *
紫苑の生活は、二度変わった。
一度目はこの家の厄介になった時。
そして二度目は家の仕事をするようになった時。
朝に竈で飯を炊き、夕に囲炉裏で粥を炊く。
夕に竈を使わないのは、薪が一日に二度も竈を起こせるほどには無い為である。
故に、暖を取る為の囲炉裏の火で朝に炊いた飯で粥にするのだ。
偶に男が味噌を手に入れる事があるので、そういう日は味噌汁での汁掛け飯になる。
互いに一杯づつ。腹を満たすには足らないが、飢えを大人しくさせるには何とかなる。
こうして、仕事を始めると空いた時間がどうにももどかしく感じてしまう。
物の無いこの家では、掃除も洗濯も左程の手間にはならないのだ。
時間が空くのであれば、怠惰に過ごすべきであろうか。
紫苑の性分からしてみれば、むしろそちらの方が合っているのかもしれない。
……夜眠る時、彼の寝顔を見る事がある。
火を消して夜の闇に全てを任せてしまえば、彼はすぐに泥の様に眠ってしまう。
疲れ切った、張り詰めていたものがようやく緩んだかのような寝顔。
紫苑が、自分らしくない事を気にかけるのは、それのせいかもしれないと思う。
「ふぅ」
白い息が、紫苑の薄い唇から漏れる。
背に柴を背負い、木々の間を歩く。
紫苑が訪れたのは妖怪の山である。
人が立ち入る事を禁じられたこの山には、沢山の資源がある。
大抵は天狗や河童が使うのだろうが、彼らだけで全てという訳でも無く、紫苑一人がお零れを貰うぐらいの量はあった。
貧乏神が山に入る事に、天狗は顔をしかめるが知った事ではない。
人でない故に山に入るを止められる道理はなく、参道を荒らさぬ故に怒りに触れる道理もなく、他者の物を奪うのではないので咎められる道理もない。
しかめっ面は所詮がしかめっ面である、気分の良いものでは無いが害がある訳では無い。
「よいしょ…っと」
燃料代を浮かす為に集めた柴を背負いなおし、紫苑は山を下りる。
貧乏神である紫苑では、銭を稼ぐことなど出来ない。
雇ってくれるところが無いというのもあるが、当然の事ながら金運を喰らって不運に変える彼女の力自体がそれを不可能にしてしまう。
故に、こうした地道な事をする訳である。
戻ったらこれらを乾かし、使えるようにしなければ。
そうしたら、丁度夕食の支度の時間になるだろう。
そんな事を考えながら、帰路についていた時である。
「姉さん」
この世で、自分をそう呼ぶものは只一人しかいない。
振り返ってみると、そこには相も変わらず成金の装いをした妹がいた。
「女苑」
自分と違い、寺で修行(何の修行か知らないが)を積んでいる妹は、なにか奇怪なものを見るような目を向けている。
無論、それがどういうものなのか理解できぬ紫苑ではない。
「な……」
「姉さん! ホントに姉さん!? 何やってるの姉さん!??」
何か変? と嫌味っぽく切り出す前に、女苑は紫苑の両腕を掴んでがっくんがっくんと紫苑を馬鹿みたいに大きく揺さぶる。
小柄なくせに力だけはある妹の動揺に、紫苑は妙に落ち着いた頭で「そこまでか」と逆に呆れてしまう。
とはいえ、無理もないかもしれない。
なにせ紫苑自身が「らしくない」と思うのだ、長年連れ添って、更に自分の事を少しばかり(穏当な表現で)見下している女苑からしてみれば晴天に霹靂を聞く様なものだろう。
「落ち着いてよ女苑」
「落ちつくって何を落ち着くの!? 姉さんが仕事を! 仕事をしてる! 雨が降る何処じゃないわ! 隕石が降ってくる! 幻想郷のお終いよ!」
そこまで言うか。
なにはともあれ、このままでは埒が明かない、言っても治まりそうにないのであれば実力行使である。
揺れる頭に勢いをつけ、女苑の頭に軽く頭突きを入れる。
ごつっという、生々しい嫌な音がして、女苑は「あうっ」と呻く。
「落ち着いた?」
「一応……」
額をさすりながら、女苑は聊か恨めしそうだ。
紫苑としても額が痛いが、どうという事は無い。女苑とて本当は同じだろう。
「んで、改めて確かめるけど、姉さんは何やってるの」
「確かめるなんて必要ないでしょ、見ての通り柴刈りの帰り」
女苑の顔が、今度は信じられないと言う驚愕に変わる。
そうして、頭を抱えて蹲るのだ。
「ああ……姉さんが、姉さんが、信じられない、こんな事があるなんて!」
つくづく物言いが大げさな子だ。
それだけ信じ難いという事なのだろうが。
「まさか姉さん、どこか悪い男に騙されて仕事をさせられてるとか」
「騙されてるわけじゃ無いわ。ただ、手伝いをしてるだけ」
「男の事は否定しないの!!!!!!?????????」
目を白黒させて、再び女苑は紫苑の腕を掴んで先の火では無いぐらいに大きく揺さぶる……というか、ほとんど振り回しているに近い。
「姉さん! 姉さん、現実を見て! 姉さんみたいな女に近づく男が真っ当な訳ないじゃない! 絶対に姉さんを利用する心算なのよ! 姉さんのヒモになろうとか人を見る目が無さすぎるけど!」
確かにそうかもしれないが、先にもまして酷い言い様だ。
いささか頭に来たので、先よりも勢いをつけた。
今度はゴチンという重いようで軽い、骨同士がぶつかる独特の音がする。
声も出ず、またも蹲る女苑と、自分でやっておいて涙目になる紫苑。
全く持って何をやっているのか。
「だから言ったでしょ、騙されるわけじゃ無いって利用されてる訳でも無いし……真っ当じゃないのはそうだろうけど」
「……まさか、ホントの本当に男な訳?」
「なによ」
「いや、うん、ちょっと」
さしもの女苑とて二階も頭突きを喰らえば言っていい事と悪い事の区別はつくのだろう。
なにか言いかけながら、額をさすりながら女苑は改めて紫苑と向き合う。
「その男と姉さん、どういう関係なの?」
「どうって……家主と居候」
「居候? え、姉さん、男と一緒に生活してるの!?」
「そうよ」
「そいつ、姉さんの事知ってるの?」
「知ってる」
「……どういうヤツなの、マトモじゃないわ」
「どう、と言われても……」
正直な処、状況に流されてなあなあでここまで来てしまってる為、紫苑としても彼をどう評価すべきなのかというのはイマイチよく理解できてない。
借金があり、真正直にそれを返済しようとしてる要領の悪い男としか言いようが無いのだ。
そして、借金があるという事が、紫苑にとっては都合よく働いている事も。
「ふぅん、マイナス方向に振り切れてるせいで姉さんの力が効かない、ねぇ」
理屈としては解るが、納得はいっていない。
そんな感じであろうか、女苑は腕を組んで何か胡散臭そうに首を傾げる。
「本当に、大丈夫なの、そいつ」
幾度目かになる、繰り返される言葉。
しつこい、と言いそうになったのを、紫苑は呑み込む。
身内が、知らぬ男と暮らしていると知って、心配しない者は少ないだろう。
思えば女苑が山を下りたこんな辺鄙な処に居ること自体が不自然である。
大方、どこからか紫苑が山に出入りしている事を聞きつけて様子を見に来たに違いない。
そういう事を察すれば、無碍な事を言わぬぐらいの分別は紫苑にてある。
「別に、どうって事無いよ」
無碍ではないが、どうもひねた物言いになるのは仕方のない事なのだろうか。
だが姉妹なればこそ、そうした「いつも通り」の反応が正解にもなる。
「……まぁ、姉さんが良いって言うなら良いけどさ。どうせ後で痛い目みるのはそいつなんだし」
不安不満はあるものの、とりあえず引いてくれる気にはなったらしい。
そうなれば、油を売っている暇は紫苑には無く、早々に立ち去ろうとしたその時である。
「あ、そういえばさ、今度、寺が縁日やるんだって」
今思い出しましたと言わんばかりに、女苑が全く別の話題を切り出す。
「へぇ、まぁ、あの寺は時々やってるよね」
「まぁねぇ……屋台も出てさ、盛り上がるみたいよ。寺の癖に人集めと金集めは巧いんだから」
「そんなもんでしょ」
「姉さんも来てみたら」
「縁日?」
「そう」
「嫌よ、どいつもこいつも一張羅着て美味しそうなもの食べて、私が惨めになるだけじゃない」
「腹いせにそいつら貧乏にしてやれば良いじゃん」
「また巫女を敵に回すのはウンザリよ」
「そっか」
女苑は、少し視線を逸らし、なにか言いずらそうな……というか気恥ずかしい様子でこう言った。
「気が向いたら、姉さんも寺に来れば? さっきも言ったけど金儲けの巧い寺だからさ姉さんが来ても何とかなるんじゃない? 日頃、綺麗なお題目言ってるんだから姉さんが来て追い払うなんて真似はそうそう出来ないでしょ」
気を使っているのだろう。
力の制御が効かぬ紫苑では、どこへ行っても厄介者だ。
神社で有ろうと寺であろうと道観であろうと変わりはしない。
それでも、妹としては姉の困った時の場所として利用する心算なのだ。
寺の意思や都合など構いはせぬ、寺の姿勢を逆利用してやろうと言う小賢しさだが、姉としては心遣いに悪い気はしない。
「気が向いたら、ね」
だからこそ、その話に飛びつく様な事はしない。
妹の心遣いであるならば、それを控えるのもまた姉の心遣いであった。
「それじゃ、行くから」
「うん。男が妙な真似しようとしたら、容赦なく叩き潰しなさいよ」
「……物騒ねぇ」
「当然でしょ? 私たちは、最凶最悪の禍津神なのよ」
禍津神、すなわち災厄の神である。
餓える貧乏神に、欲深き疫病神。
忘れる事無き、姉妹の本質であった。
「そうね、その通りよ」
ただその一言だけを残して、紫苑はその場を後にする。
女苑は、姉の後姿を見送り、一つ肩を竦めて同じく立ち去って行った。
紫苑は、いつも通り彼の家に戻っていた。
山で集めた柴を軒先に並べ、雪で濡れたそれを乾かす準備を整える。
冬は空気が乾燥している、それなりに早く乾くであろう。
尤も、既に日が傾き始めているこの時分では到底間に合わぬ為、いずれにしろ今日使う訳では無い。
作業が終わるころには、日は隠れ月が昇り始める。
そうなれば、今度は夕餉の支度を始めなくては。
以前に集めた柴を囲炉裏に放り込み、火種を差し込んでパチパチと火の粉が爆ぜて火は勢いを増してゆく。
鍋に水を張り、中に朝の残りの雑穀飯を入れて蓋をする。
夕餉の支度と呼ぶには簡素過ぎるであろうか。
しかし、これと後は漬物を添えるぐらいしかやる事が無いのだから仕方がない。
そうして、火にあたって悴んだ手と足を暖めながら、いつもと同じように待つ。
以前は予め鍋を掛けていた事もあったが、アレは驚かせようと言う少しばかりの悪戯心の為せることである。
大事な食糧、万が一にも焦がしてしまえば勿体ない。
粒一つとして無駄には出来ないのに、よくもあの時はあんな真似をしたと自分の事ながらに呆れてしまう。
そんな思案にふけっていれば、いつも通りに戸が揺れて、家主たる彼が帰ってくる。
「ただいま」
「おかえり」
もはや馴染みにもなった言葉を交わし、紫苑は鍋を火にかけた。
彼も囲炉裏の前に座り、手をかざして暖を取る。
ふと、そこで紫苑は見慣れぬものを見た。
彼が傍らにおいた、何かの包みである。
「何よそれ」
「あぁ、こいつか、実は仕事場の女将さんがもういらなくなった古着を処分したいと言ってさ」
広げてみれば、それは緋色の女物の着物であった。
確かに古びており、少々くたびれているがまだ着れそうである。
「なんでそんなの」
「いや、まぁ、その、いつも色々とやってもらってるからさ」
紫苑の目が、丸くなる。
この家で女物の着物となれば、使い道など一つしか……切り分けて手拭や雑巾にしてしまうという道もあるので一つではないが。
兎も角、着れる着物をとなれば、やはり紫苑への土産ぐらいしか理由はあるまい。
それにしても、予想外の事に言葉が迷い、何も出てこない。
挙句、迷い出たのがこれである。
「貧乏神に贈り物なんて、女苑も言ってたけど貴方やっぱり変な人」
もっとマシな物言いがあるだろうに。
染みついた性根か、あるいは生まれつきの性格か。
腹を立てても良い言葉に、しかして彼が反応したのは別の部分であった。
「女苑……あぁ、妹さんがいるんだっけか」
「うん、今日ばったり」
「変な奴だって?」
「マトモじゃないって」
彼は何とも言えない顔で苦笑する。
「まぁ、そうかもしれないな」
鍋の煮え立つ音が聞こえる。
自業自得とは言え、紫苑の心は気まずい。
何か、話を変えないと。
「紫苑はさ」
揺らめく火を眺めながら、彼が口を開く。
「妹さんの事、大事か?」
「どうだろう」
「わからない?」
「……姉妹だもの、その時々によって変わるわ」
偽りでは無い。
姉妹である。
禍津神の姉妹ともなれば、そこには様々な感情が入り乱れる。
時に利用し合う関係であり
時にいがみ合う関係であり
時に信頼し合う関係であり
ただ、一つ変わらないのだとすれば
「私も女苑も、お互いを理解してるって事だけ」
共に厄災と不運を司る神なれば、昏き資質と定めを理解し合うのは姉妹だけ。
故にこそ、どんなに互いに蔑みあおうとも、どんなに互いを不審に思おうとも、紫苑と女苑の間には分かち難い縁がある。
同じものより生まれた姉妹ゆえの、まさに姉妹としか言いようの無い繋がりなのだ。
「姉妹だからこそか」
彼が、呟く。
火が照らし出すその表情を、紫苑は読み取ることが出来ない。
紫苑と女苑の二人の縁を、どう捉えているのだろう。
あるいは亡くなった両親の事を想っているのか。
ただ、なにか闇が濃くなった事だけはうっすらと感じ取れた。
そうしている内に、雑穀粥が頃合いになる。
鍋の蓋が開かれ、熱い粥が椀によそられた。
粥に息を吹きかけ、冷ましながら口に運ぶ。
すっかり使い慣れた、男物の椀。
紫苑自身も罅の入った椀を持っているが、この家に来てからは一度も使っていない。
彼の親の物だと言う椀。
……それが、本当かどうかは知らない。
これについて尋ねた時と、今の彼は似たような表情をしている。
きっと嘘なのだろう。
けれど、誰のものなのかと改めて問うつもりは無かった。
「紫苑」
名を呼ばれ、紫苑は視線を向ける。
粥を啜っていた手を止めて、意外な事を口にした。
「今度、寺で縁日があるそうなんだ」
「うん、女苑から聞いた」
「そうか、んでさ、一緒に行かないか」
「縁日に?」
「あぁ」
「仕事は?」
「親方が、その日は少し早く切り上げて良いって、偶には楽しめっていうんで今月分、ほんの少し色を付けてくれたんだ」
色を付けたと言っても、小遣い程度ではあるが、と彼は付け加える。
女苑には自分が惨めになるからと断った。
今はどうであろう。
古着とは言え一張羅があり、僅かと言えど使える金がある。
「……嫌よ」
それでもなお、紫苑の答えは変わらなかった。
「駄目か?」
「貧乏神が縁日に行ったって碌な事無いもの」
結局の処、貧乏神は貧乏神。
人々から拒絶され蔑まれるモノである。
それが、幾ばくかの物を得たからと言って心の暗さを覆い隠せるはずもない。
「けど」
「?」
「その……えっと……」
視線を外し、口ごもりながら辛うじて、紫苑は言葉を紡ぐ。
「寺の、近くになら……縁日の中じゃなくて眺めるぐらいなら」
日に二度も馬鹿な事を口にする。
言った本人が呆れるばかりだ。
だが、その馬鹿な事が紫苑の彼からの申し出に対する限界であった。
「うん、じゃあ、そうしよう」
馬鹿な事を、彼は一つ頷いて受け入れる。
その様に、既視感を覚えるのは不自然な事ではない。
なぜならそれは、紫苑がこの家を見つけた時と同じだったからだ。
あの時と同じように、そしていつもとおなじように粥を啜る。
何故だか少し、満たされた様な気がした。
* * *
日にちが過ぎ、縁日がやってくる。
今日は彼が早くに帰ってくる、という事なので紫苑も柴狩等の仕事を早くに切り上げた。
代わりに、山に吹きだす温泉に浸かり身を清める。
地底の連中がなにやら騒動を起こしてくれたおかげで、山を初めとして温泉がいくつか出来た幻想郷では湯浴みをするに困らない。
尤も、じっくり浸かりきちんと体を綺麗にして、湯を愉しむとなれば、人里の銭湯を初めとする公共の施設や金持ち連中が持つ風呂場が必須である。
いずれにおいても、紫苑にはあまり縁のない場所だ。
こうして湯で垢を流せるのであれば、獣が利用するような温泉であろうと構わない。
余裕のそして力ある人妖であれば、秘湯などと気取って呼ぶのであろうが、紫苑からしてみればただの便利な場所であった
まぁ、なんにせよ、今日はいつもよりも少し長く湯に浸かり、若干念入りに体を清めた。
寒さも緩んできたとは言え、湯冷めはしないようにという心積もりだと紫苑は思っているのだが、さて実際はどうなのか。
己の思惑と本心が違うというのは特に珍しくも無かろうが、第三者がみれば紫苑は浮かれているように見えるだろう。
それが善くわかるのが、家に戻った時である。
貰った着物に袖を通し、帯を幾度も直し。
おかしな処が無いかとあちこちを確認しようとする。
鏡が無いというのが、これほどもどかしく思ったのは紫苑にとっては初めてであった。
「ただいま……お、すっかり準備万端か」
開くにも鈍い戸から、彼が予告通り早く帰って来る。
気がついて振り返った紫苑と視線が合えば、彼の顔が綻ぶのだ。
「うん、似合ってるよ紫苑」
「そう?」
時によって褪せたとは言え、それなりを保っている緋色。
蒼の紫苑と主張し合うでは無く、むしろ真逆ともいえる色彩がピタリと咬みあっていた。
いつもの襤褸から衣一つ変えるだけで、なかなか立派な小町娘。
磨けば瑠璃か蒼玉か。
惜しむらくは磨く術もモノも二人は持ち合わせていないという事であろう。
「一寸待っててくれ、俺もすぐに支度するから」
言うが早いか、彼は紫苑の後ろに向かい仕事着を脱ぎはじめる。
無論、紫苑は振り返ったりはしない。
屏風か衝立があれば良いのだろうか、そんなモノを買う金も無く着替える時はお互いに背を向け合うのが暗黙の了解となっていた。
時折、興味本位から視線を向けそうにはなる。
彼もそうなのだろうか、と紫苑は思う時もあるが、やせたこの躰を見て何が面白いのだろうかと自嘲にしか至らない。
「お待たせ」
支度と言っても、仕事着から余所行きに着替えるだけである。
まぁ、この余所行きも洒落ているわけでも何でもなく、家でも普通に着てる普段着にしか過ぎないのだが。
「それじゃあ、行こうか」
「うん」
家を出て、人里を目指す。
そうして人里に入れば、すこしばかり浮かれた明るい空気が漂う。
祭りの気配だ。
妖怪共の異変騒ぎとは違う、純然たる喜の空気、歓びの香。
寺より離れたここでは、幽かに程度であるがそれでも祭りのソレで有る事に違いは無い。
途中で、団子を買う。
店主には、なんだい寺の出店で買わないのかいと揶揄われた。
彼はそれに対し、腹が減り過ぎて持ちそうにないと加羅加羅笑いながら答える。
自分の我儘故のやりとりを、紫苑は少しばかり俯きながらやり過ごす。
そこに差し出されたのは一本の団子。
彼は気にするなと言いたげに、紫苑に団子を持たせる。
紫苑は団子を齧る。
甘い、久しく口にしていなかった味だ。
その甘さが、紫苑の心を軽くしてくれる。
二人して、くすりと笑うと、そのまま寺を目指す。
寺に近づけば、子供たちの姿が増えてゆく。
子供に混じって、妖精の姿さえ見える。
この子達は、これから祭りの真っただ中へと駆けてゆくのだろう。
羨ましいと心より思う。
だが、羨ましいと思いつつも紫苑は踏み込むような真似はしない。
ここより先は正の領域。
負の神たる紫苑が立ち入るべき場所では無い。
だから、先に述べた通り、離れた場所から祭りを眺める。
幸福に満ちたる、すくなくともあの場にいる人々は不運や不幸を一時は忘れているその姿。
自分が手にした団子一つなどと言わず、出店の料理をお腹いっぱい食べているのだろう。
見ていて面白くないはずだが、それでも目を離すことはできない。
欲しくて手を伸ばしても、紫苑には決して届かぬ場所なのだから。
惜しみつつ齧っていた団子も無くなり、それでも二人して適当な処に腰かけて飽きもせずにただ眺める。
だがそれも、日が暮れてくれば話は別だ。
「帰りましょう」
「いいのか?」
「うん」
祭りは今少し続くのであろうが、闇が閉まれば道行は危険になる。
どのような理由があろうと、二人の祭りはそこでお終いであった。
「じゃあ、帰ろう」
彼が立ち上がって、紫苑もそれに倣う。
先と同じように、人が行き交う里の中だが、祭りから離れるとなると少しばかり様相が異なるのは何故だろうか。
あるいはこれが、寂寥というものなのだろうか。
馬鹿馬鹿しい、自分が寂寥などと。
むしろ、祭りを愉しめなかった彼の方が貧乏籤では無いか。
そんな風に思い、彼の背を見つめていた時であった。
「今日は、ありがとう」
「え、何が?」
「うん、一緒に祭りに来てくれてさ」
一瞬、心を読まれたようで紫苑はドキリとする。
自分の為に、祭りをふいにしたのに礼を口にする彼の背になにか寂しい物を見つけて。
「なぁ、お前の使ってる椀、アレさ本当は親父のじゃないんだ」
「……じゃあ、誰の?」
「兄貴の」
「お兄さん?」
「うん」
兄がいるとは初耳である。
彼が語らず、紫苑が効きもしなかったので当たり前であろうが。
「親父とお袋が死んだ後さ、兄貴と一緒にあの家を見つけたんだ、椀もその時になんとか揃えただよ」
「お兄さんは、どうしたの?」
「さぁ」
「さぁ、って……」
彼は振り返って、なんとも言えない自重を浮かべる。
怒りが滲むような悲しいような、そして寂しいような。
「なんとか親父の伝手を頼って仕事を見つけて、自分の中でもよく整理できてないままに兎に角金を稼がないとって思ってさ」
「それが、今の仕事場?」
「そう、親父さん良い人でさ、俺は運がよかったんだろう、あの人の下で働けてるんだから」
運が良い。
たしかに、仕事にありつけない者もいる中では彼は運がよかったのかもしれない。
それが、大きな不幸に押しつぶされてしまうものであっても。
「親父さんに教えてもらいながら、我武者羅に働いたよ、おかげでちゃんと給金ももらえた。自分で金を稼げた時はすごく嬉しくて、なんか希望が持てる気がしたんだ」
だというのに。
彼の自嘲はさらに深くなる。
闇の中に、更に暗い縁を覗かせる如く。
「信じられるか、兄貴の奴、おれの給金もって逃げちまいやがったんだ」
さしもの紫苑も絶句する。
借金と親の死だけでも、大きな不運と不幸だ、そこに兄弟の裏切りが加わるなど。
彼は、紫苑に何かを投げてよこした。
何かと思って観てみれば、潰れて使えなさそうな鍾銭である。
「これは?」
「兄貴の奴が残していった、俺の初給金だよ。混じっていたのか兄貴が何かやらかしたのか知らないけど、その使えない銭だけが残ってた」
初めての歓びを、彼は無に帰された。
思いつく限り最悪の方法で。
「……正直、首を括ろうって思った」
冷たく言い放つ。
「思ったどころじゃなくて、実際に縄を用意して首を括る直前まで行ったよ」
「でも、生きてるわ」
「あぁ、生きてる。だって、おかしいじゃないか」
口調に、憎悪の熱が加わる。
今までに聞いたことも無い声で。
「あいつが生きて、俺が死ぬ? 俺を捨てて俺から奪って、借金から逃げたあいつが。そんなのは違う、おかしい、間違ってる」
「だから決めたんだ、生きてやるって、何年かかっても構わないから借金を返して真っ当に綺麗な体になって、あいつを見返して扱き下ろしてやるんだ」
「逃げたお前と違う、卑怯なお前と違う、何をどう言おうとどんな地位を手に入れようと、お前は卑しい奴なんだって真正面から言ってやるために!」
いつか聞いた、誰にも恥じない生き方をしたいと。
その始まりが、憎しみであったなど想像がつくだろうか。
「でも、未練があったのかもしれない」
「お兄さんへの?」
「あぁ、あの椀を割らずにとっておいたのも、兄貴への未練だったんじゃないかって……いつか、帰ってきてくれるかもしれないっていう馬鹿な未練さ」
彼は空を仰ぎ大きく息を吸い、心を整えようとする。
「紫苑、お前が俺の家に住み始めた時、嬉しかった」
「どうして」
「永い間忘れてたんだよ、家に帰った時に誰かが居てくれるっていうのが安心できることなんだって」
視線が、紫苑に戻る。
そこに、憎しみも寂しさも無く、ただ柔らかい色があった。
「親方や女将さんや仕事仲間はいたけど、それとは違う家に一緒にいてくれる誰がかいるってこんなにも嬉しいんだって」
紫苑から、鍾銭を受け取り、彼は手の中でそれを弾く。
仕草も表情も、すこし照れ臭そうに。
「あんなものを取っておいて、半端な気持ちなままな俺だから、寂しかったのかもしれない」
「そんな俺の処にお前が来てくれて」
「今日みたいに、一緒に出掛けられて、生活を共にしてくれて俺はお前にすごく感謝してる」
だから、と彼は笑った。
「ありがとう、紫苑」
先のそれよりも、深い響きだった。
紫苑は、そんな響きを以て誰かに感謝されるなど初めての事で体が熱くなるのをはっきりと感じる。
「別に、そんな事……」
その熱がある事を、照れ臭いという感情がある事を自分自身で驚きながら、故にこそ彼の顔をまともに見られない。
嗚呼、だがしかし、そんな紫苑に構う事無く……いや、紫苑の心を察するように、彼の手が紫苑の手を捉える。
そのまま、繋がりあって彼に手を引かれて、紫苑は帰路に就く。
後ろから祭りの音が未だに聞こえるが、もはや紫苑に未練はなかった。
* * *
祭りの日より幾ばくかが過ぎ、紫苑と彼の生活は変わらずに続いている。
その日の朝も、彼が朝のうちにできる雑事をしている間、紫苑が朝餉の支度を整えていた。
生活の場が二人に増えたからこそ、朝の貴重な時間を活用できる。
忙しいには違いなかろうか、以前彼が独りでやっていた頃よりは余裕が生まれていた。
そうした、なにか緩い感じの中、竈を起こしていた紫苑は一つ違和感を覚える。
火吹き竹を用いて火に風を送っているのだが、いつもよりも火の起こりが鈍い。
いや、鈍いのは火ではない、火に送られる息の勢いである。
もしや、と紫苑は手にしていた火吹き竹を確かめて、案の定な出来事に思わずため息を吐いた。
「もうっ……」
「うん? どうした」
紫苑の様子に気がついた彼が、何事かとやってくる。
手にしていた火吹き竹を見せると、彼もまた困った顔をした。
「ありゃ、罅いってるな」
竈を起こすに使い続けていた火吹き竹は、竈の熱に当てられ所々が黒く焦げ、さらにはそれらによってひび割れていた。
「これじゃ流石に使えないわ」
「うぅん……しかたない、暇を見つけて竹林から竹取ってこよう」
買うような事はしない。
幸いに竹ならば迷いの竹林にごまんとあり、火吹き竹程度ならば作るのは難しくない。
「それまでどうするの?」
「団扇でなんとかしよう」
「アレも薄くて破れるか擦り切れそうなんだけど」
「なんとか誤魔化しながらつかうしかないよ」
ある種、これも二人にとってはなれた会話である。
アレが壊れたコレがダメになりそうだ。
なにせ銭が無い故に手に入るのが古い物か出来が良くないモノなわけで。
そうするとガタが来るなどしょっちゅうだ。
二人からしてみれば、「またか」とは思っても本気で「困った」という訳にはならない。
「とりあえず、持ってくるから……」
と、そこまで言いかけた時である。
誰かが、戸を叩いた。
二人は顔を見合わせる。
はて、朝のこんな時間に一体誰だろうか。
里のはずれのこんなボロ屋に客など今まで来た例は無いのだが。
よもや妖怪の類であろうか。
そうこう訝しんでいる間に、戸の向こうから声がかけられた。
「おぉい、すまんが開けてもらえんか。お兄さんの事で大事な話があるんだ」
彼の目が見開く。
唐突にやって来た、肉親の知らせ。
迷うことなく戸に駆けつけると、立て付けの悪いそれをいくらか強引に開く。
「やぁ、朝も早くからすまないね」
来客の姿に、紫苑は眉根を顰めた。
身形の良い、中年の男である。
問題はその装いであった。
一目で金がかかっているなと判る、仕立ての良い着物だ。
それを、さも誇示するかの如く纏っている。
女苑もいかにもな成金の姿をしているが、この男からは女苑の成金とは違う、金の匂いのする様であった。
ただ、その匂いが嫌な匂いの類であるというのを、貧乏神である紫苑は否応なしに感じる。
彼と男が二三言葉を交わす。
本人であるかどうかを確かめているようだ。
そうして、男は一つ頷くと、神妙な趣でこう告げたのであった。
「実はだね、君のお兄さんなんだが……亡くなったんだよ」
空気が、先ほどまで和らいでいた朝の気配が唐突に止まる。
唐突な訃報。
人の世において、決して珍しいものでは無いが、さりとて我が身に降りかかればその衝撃は計り知れない。
「兄が……死んだ?」
絞り出されるような彼の声。
「一昨日、玄武の沢辺りで死体が見つかってね」
河童辺りにやられたのかもしれないね、と男が続ける。
彼の顔は蒼白になり、その心を表すかのように震えていた。
しかして、歯を食いしばり、手を握りしめ、凶報を携えた男に頭を下げる。
「わざわざ、知らせてくださって有り難うございます」
その様に、芯が通っているのは或いはこのような事を覚悟していたからであろうか。
ここは幻想郷、人間の命が露と消える事など珍しくは無い。
ましてや、行方知れずの相手となれば尚更であろう。
「あぁ、うん、ご遺体は命蓮寺に預けてあるのでね」
「はい、ではすぐにでも引き取りにまいります」
「そうかそうか」
男は頷くと、表情を変える。
神妙さから、なにか後ろめたい感じに。
だが、何か嘘くさい。
「それで、だね……お兄さんが死んだときにこんなことを言うのもなんなんだが……」
「はい、なんでしょう」
「実はね、お兄さん、借金があったんだ」
借金。
二人には慣れたものである。
紫苑と彼はお互いの顔を見合わせ、男の言を訝しむ。
「家に借金があるのは知っておりますが……」
「いやいや、そうじゃないよ。お兄さん個人の借金だ」
「…………………は?」
間の抜けた声がする。
兄の死よりも、なお予想していなかった事柄であったのだろう。
男が言うには、彼の兄は商いをやっていたという事らしい。
ただし、商いと言っても真っ当な代物では無く、ほとんど詐欺に近いものだったそうだ。
元手が何処かというのははっきりしないのだが、情婦がいたそうなのでそこらあたりから強請ったのではないかとも。
何はともあれ、そうしたケチな詐欺紛いの事を繰り返したせいで里の自警団辺りから目を付けられ、商売が立ち行かなくなっていたらしい。
そこで、借金をしていたという事なのだが……
「一体、幾らの借金が?」
「そうさね、百円ほどかな」
「ひゃ……!?」
一個人としては過分な借金に、思わず絶句する。
「待ってください、兄が百円も借金をしたっていうんですか!?」
「うん、そうだね」
「言っちゃなんですが、兄は身元も怪しい不逞者です、そんなのに百円も貸すなんて……!」
「勿論、最初は少額だったんだよ、ただねぇ、利子が膨らんでねぇ」
彼が、紫苑にも聞こえそうなぐらいに歯ぎしりをする。
嫌な臭いという予感に間違いは無かった、この男は高利貸しの類だ。
「兄の借金です、俺には関係ない!」
「そうは言っても、お兄さんからはもしもの時は君からって文言で証文とってるんだがね」
「俺は承知してません!」
高利貸しは、ふむと一つ頷きとぼけた様にこう呟く。
「この家、借家だそうじゃないか」
何が言いたいか、二人はそれだけで気がついてしまった。
もし仮に、この高利貸しがこの家の権利を買い取ったらどうなるか。
まず間違いなく、此処には住めなくなるだろう。
押し黙る二人を見て、高利貸しは卑しく笑う。
「まぁ、私だって鬼じゃない、数日待ってあげようじゃないか……誠実な返答を期待しているよ」
傲岸にそういい放ち、高利貸しは見下すが如き足取りで家から出てゆく。
残された……彼と紫苑は、余りの事に何も言えず何もできずにいた。
だが、紫苑は彼の様子が小刻みに震えている事に気がつく。
何か、声を掛けようとしたその時、彼は吠えた。
まさに咆哮としか言いようの無い憤怒の体現であった。
亡き兄に対する憎悪と侮蔑を吐き出し、それを幾度重ねようと癒えぬ苦しみに悶え狂う。
どれほどの間、そうしていただろう。
やがて力尽きるように彼はその場にへたり込み、顔を俯かせて動かなくなってしまった。
「あ……ねぇ……」
重苦しい、息も詰まる程の気配に溜まらず声が上がる。
まるで幽鬼の様に、まるで生気も現実感もないまま彼が顔を上げ、紫苑はそこで彼の目に涙があふれている事に気がついた。
自身の苦境を語った時も、悲愴さを見せなかった彼の、紫苑が初めて見る苦悩の涙である。
「紫苑……」
彼が、自分の名を呼ぶ。
力もなく、ただぽつりと。
それは目の前にあるものに対して、単にその名を呟いただけにも等しかった。
「嗚呼」
感嘆であった。
何ゆえの感嘆なのか、紫苑には想像もつかぬ。
「なんて、顔してるんだよ紫苑」
それほどに、酷い顔をしているのだろうか。
紫苑には、眼前の彼こそ見ていられない顔を、しているように……
いや、ちがう。
涙が止まる、光が戻る。
悲愴と苦悩の向こうに、それらに酔わぬ意思が垣間見える。
「そうだな、こんな事してられないよな」
立ち上がる。
握った拳に力がある。
「まずは……そうだな、誰かに相談だろうな。親方辺りにちょっと話してみるか」
そうして、彼は微笑んだ。
以前の様なものとは違うが、たしかに笑みで有った。
「大丈夫、なんて言えないけど、それでもやれるだけやってみるよ」
だから、心配するなよ紫苑
そんな、優しい一言を呟いて。
彼は、紫苑を残して、早春の朝の中を踏み出していった。
そう、紫苑は残された。
独り、誰も居ない家の中で。
優しい言葉を噛み締めて、嗤う。
心配、するな?
心配するな。
心配するななんて!
嗤い、哂い、嘲笑う。
嗚呼! なんて的外れな事を言うのだろう!
彼は自分をなんだと思っているのだろう。
自分は依神紫苑。
最凶最悪の貧乏神。
そうだとも、最凶最悪の貧乏神だ!
自分の想像を絶する程の力に、紫苑は嘲笑を上げるほかにない。
もとより金運亡き故に、自分が喰らう運はなし、生み出す不運も不幸も無し。
すでに負の領域であるならば、己の力が無意味になるなど!
ある訳がない、マイナスに底など無い、状況はいくらだって悪くなってゆくのだ。
これは貧乏神たる自分がやってきた時点で約束されていた事態だ。
だというのに、心配するなだと?
なんて愚かなのだろう、そもそもの元凶を解っていない。
紫苑は嘲笑う。
何を、誰を?
この場において、紫苑が嘲笑うのは只一人しかいない。
いつまでも、どこまでも。
侮蔑の傍らで涙が流れている事にも気づかぬまま。
嗚咽もまた嘲笑にかき消される。
そして、その総てが停まった時
そこには、ただ一つの闇があった。
彼が、家に戻った時、すでに紫苑の姿は無く。
方々を探して歩くも、ついには見つけられず。
結局、紫苑が戻ってくることは無かった。
* * *
春も大分近づいたこの頃の里の商家の奥座敷。
さて、そこに珍しい人がいた。
清き白と鮮やかな紅。
この色彩となれば、幻想郷にて当てはまるのは一人しかいない。
そう、博麗の巫女たる博麗霊夢である。
霊夢の目の前には、一人の中年男がこの商家の主がどんよりと不景気な面を下げて座っていた。
出された座布団に座した霊夢は、そんな中年男の様にすこしばかり眉を顰める。
あまり似合ってるとは言えない、趣味も良くない気取った着物はただでさえ嫌味臭いというのに、それが暗い面が加わるのだ。
遠慮を知らぬ霊夢としては、一言嫌味を言わぬだけでも自重していると言える。
「それで、妖怪に憑りつかれてるって?」
無遠慮な霊夢の問いに、商家の主はビクリと震える。
「は、はい、お助け下さい巫女様」
そう、そも霊夢がこの様な場所に居るのも、この男に憑き物落としを依頼されたからである。
常日頃、妖怪神社と揶揄される博麗神社に遣いが来たのが昨日で、その時は霊夢は中々に上機嫌であった。
博麗の巫女の役目は妖怪退治。
人の味方として、人里を荒らす妖怪を倒すのが霊夢の仕事である。
だというに人里では自警団やら命蓮寺やら守矢やらがでしゃばり、霊夢の仕事を奪うのだ。
神社の参拝客増加を目論む……基、巫女の務めを果たさんとする霊夢としては面白くない事この上ない。
そこに、きわめて久しぶりに(というか、記憶にも無い)博麗神社に憑き物落としの依頼である。
実に殊勝で幻想郷の理を弁えた輩であると、霊夢が上機嫌になるも無理らしからぬ事であろうが。
ただまぁ、霊夢の常としてそういう時に要らない茶々が入るものだ。
昨日は二ツ岩のマミゾウが神社の冷やかしに訪れており、仕事に張り切る霊夢に余計な事を吹き込んだ。
曰く、この商家は安くて出来の悪いモノを言葉巧みに売りつけているらしい。
一見すると悪くないのだが、割とすぐにダメになるような代物で客からの評判が宜しくない。
それだけならまだしも、金貸し業まで営んでいて、そいつの利子がまた高い。
商売下手で金貸しとなるとこれはもう碌でも無い者で、客からどころか里の商家の旦那衆からも倦厭されていて会合に呼ばれない事も多いのだとか。
博麗に解決を願い出たのも、そうした悪評が命蓮寺や守矢に届いていてあまりいい顔をされないからだろうと言うのだ。
もう少しばかり里の事情に精通するべきじゃないかい、というマミゾウの揶揄いとどうでもよい情報を霊夢は横で払った。
誰であれどうであれ、自分は巫女としての仕事をするだけだ。
そうかい、と小馬鹿にするマミゾウの顔が今思い出してもムカつくが、まずは目の前に集中しなければ。
「実は、ここ最近、良くない事が続いておりまして」
曰く、入荷しようとした商品がダメになった。
曰く、家宝にしていた骨董が壊れた。
曰く、商売に失敗して大損した。
曰く、帳簿を間違えてやはり損をした。
曰く、客足が急速に遠のいた。
一つ一つならば、在りえる事ではあるがこうも続けて起こると主としても頭が痛く尚且つ作為的なものを感じてしまう。
しかし、それよりも尚、恐ろしい事が主を悩ませていた。
「夢を、見るのです」
「夢?」
「へぇ、恐ろしい、何かがこちらを睨みつけている夢を……」
何時ごろからであろうか、店主が夢を見ている時に視線を感じるようになったという。
勿論、夢の内容などまともに覚えている方が稀な事なので、詳細は思い出せない。
しかし、どんな夢を見ていても、いずこかの暗がりから昏い憎悪に満ち満ちた視線があるのだ。
それに気がつくと、余りの恐ろしさに目を覚ましてしまい、しかも毎晩続くのだからたまらない。
夜だけならまだ救いがあるかもしれないが、昼間であっても眠れば感じるのだ、おかげで真面に眠れずこの頃は体調も頗る悪い。
「お、お願いです、巫女様、私に憑りついてる妖怪を祓ってくださいまし!」
ふぅん、と霊夢は一つ頷く。
なるほど、そいつは妖怪の仕業……と言っていいのだろうか。
下らない言葉遊びではあるが、「妖怪」の仕業では無い。
何方にしろ、霊夢としては退治る事に変わりはないのだが。
「アンタに憑いてるの、妖怪じゃないわ」
「は? で、では?」
「貧乏神よ」
店主が、目を見開く。
正直、霊夢としては最初に見た時に見当はついていたのだ。
話は一応聞いてみただけの話。
そもそも、これほどの負のオーラを纏わりつかせる者など霊夢からしてみれば心当たりは一つしかない。
「出てきなさいよ、紫苑! あんたの仕業でしょう!!」
主の鼻先に御払い棒が突きつけられる。
すると、主の全身より首を絞めつけるような悪しき気配が黒煙の如く渦巻入れ行く。
やがて、その気配の奥から蛇が引きずり出されるように一つの人影が顕れ始めた。
「……随分と早いお出ましだね」
影が形となり、肉を纏い、少女の姿になる。
霊夢を忌々しく睨みつけるそれは、紛れもなく最凶最悪の貧乏神・依神紫苑であった。
「お、お前……! あの家にいた……」
店主は、紫苑の姿を見てあからさまに狼狽える。
紫苑は、主の顔を細い指で掴み、霊夢もたじろぐような凄みをもって囁くのだ。
「あの男は、破滅させてやった。家を失い借金漬け、肉親は誰もおらず独りぼっち……もうあそこにもたらす不幸は何もない」
「つ、次は私だというのか」
「そうだ、お前を同じ目に……いいや、もっともっと悲惨な目に会わせてやる、どんな幽かな希望ものこしてやるもんか」
「ちょっと! アンタ、まだ暴れまわってたの!?」
紫苑の予想外の迫力と、なにか表の方から聞こえてくる喧噪を押しのけて霊夢が紫苑に詰め寄る。
「何が悪い、私は貧乏神だ、人を貧困に引きずり込むのが本分だ」
「それを私の前で言う訳だ!」
なんたる大胆不敵の傲岸不遜。
幻想郷の調停者たる博麗霊夢を前にして、災を成す事を由などと。
数多の妖怪が霊夢を恐れ人里に手を出す事などしないというに。
「私はこいつを貶めるぞ、苦しめるぞ、呪い祟り喰らい尽すぞ、だれであろうと私を阻めるものか!」
肚の底より猛毒の様な怨嗟を滲ませ、紫苑は呪詛を吐く。
凄まじき負のオーラは、その色をさらに濃くもはや漆黒の焔である。
だからこそ、霊夢は訝しむ。
紫苑の所業と、その物言いを。
なにか、外が囂々としているが、そんな事よりまずは紫苑である。
「あんた、そんなキャラだった?」
他人の富を掠め盗ろうとする卑しい紫苑は知っている。
調子に乗って暴れる紫苑も知っている。
図々しい紫苑も知っている。
だが、こうまで誰かを呪う紫苑を霊夢は知らない。
一時面倒をみていただけの関係ではあるが、それでも尚、霊夢の中の紫苑とこの紫苑が一致しない。
「黙れ、何もかも貧しい小癪な巫女め、お前であろうと邪魔はさせないぞ!」
「あーそう、そう来る訳だ!」
吠える紫苑に、霊夢は御払い棒を突きつける。
事ここに至っては、もはや問う事は何もなし。
巫女の務めに従って、人里を脅かす禍津神を祓うのみ!
だというのに、なんださっきから!
「なんなのよ、一体!」
だんだんと近づいてくる、騒がしい声がいい加減に癇に障り、霊夢が怒鳴り声を上げたその時であった。
ばん! と派手な音を立てて障子戸が開かれる。
現れたのは、襤褸を纏った青年。
その後ろには、店の使用人達が袖やら脚やらを掴んでいる。
恐らく、この青年は店の者達が押しとどめようとするのを無視して、強引にここまでやってきたのであろう。
先ほどからの騒々しさは、使用人と青年の揉み合いだったわけだ。
霊夢はそう合点するが、他の者は事態をお互いに呑み込めていないのか、謎の状況に茫然としていた。
青年はジロリと部屋の中を見回し、一つの影を見つけると、ようやくと言った風に息を吐く。
「ようやく見つけたぞ紫苑」
「あ、貴方……」
青年の視線を受け、先ほどまでの威勢はどこへやら、紫苑が気まずそうに委縮する。
「全く、その旦那に憑りついていたのか、そりゃあ探しても見つからない訳だ」
「ど、どうして……」
「そりゃあお前、金貸しの旦那がここの処不運続きで、さらに巫女様が呼ばれたなんて話があればお前の仕業じゃないかって思うだろう」
そして、青年は紫苑に手を伸ばす。
「帰ろう、紫苑」
「帰る?」
「そう、家に帰ろう」
紫苑は、あからさまに動揺した風で息を詰まらせ固まっていたが、やがて何かを決したように声を振り絞る。
「嫌よ」
「嫌?」
「そうよ、あんなボロ小屋、もう用なんかない。絶対に帰らない」
「やれや確かにボロでしかも借家だが、それでも俺にとっちゃ御殿だ」
「アンタにとっては、でしょう私には違う」
言い捨てると、紫苑は腕を店主の首に廻しその背に隠れる。
「ひえぇ」と情けない悲鳴を上げる店主の無様さを、紫苑は嘲笑う。
「今はこいつから搾り取るのが愉しいの、アンタなんかどうでもいいのよ」
「……お前、そういうキャラじゃないだろう」
先の霊夢と同じことを宣い、青年は呆れたように頭を掻く。
そして、掴みかかっていた使用人達を振り払い、座敷に乗り込んできた。
「まぁ、あれだ、要はこうすりゃ良い訳だ」
そういうと、青年は懐からなにかの包みを取り出す。
店主の前まで来ると、その包みを勢いよく床に叩きつけギロリと、まるで任侠者が如く店主を睨みつけた。
「兄がお借りした百円、今この場で耳を揃えてきっちりとお返しいたします」
「は……はぁ!!?」
「へ?」
「えぇ!??」
霊夢と紫苑と店主。
三者三葉に目を丸くした。
特に霊夢にとっては紫苑と青年の関りを知らぬ故、百円という大金が飛び出した事に驚くばかりである。
「ど、どうしたのよ、こんな大金!」
「うん、ちょっとな」
「ちょっとって……家にこんなお金なかったじゃない!」
「そこら辺もちゃんと話すから」
青年はそこで一言区切り、紫苑に優しく語り掛けた。
「まずは帰ろう、もうこんな事をする理由は無いよ」
再び差し出された手を、紫苑は震えて見つめる。
わずかに、青年の手を取るような仕草を見せて……
それでも、最後に浮かんだのは拒絶の色であった。
「嫌よ! 私は、私はこいつを破滅させてやる! その為に来たんだ!」
「おい、紫苑」
「帰って!」
「紫苑、何を意固地に……いや、自棄になってるなお前」
癇癪をおこした子供の様な紫苑に、青年は困った顔をする。
仕方がない、と言わんばかりに嘆息し、青年は再び懐に手を入れた。
今度取り出したのは、包みでは無い、なにか筒状の……いや、なにか特別なものでは無い。
ところどころに焦げたような痕のある、竹筒であった。
その竹筒を、紫苑に向ける。
「悪いな、ちょっと我慢してくれ」
「何? ……きゃ!」
小さな悲鳴を上げ、紫苑はたちまちの内に、竹筒の中へと吸い込まれていった。
青年は、竹筒に札を貼って、それをまた懐にしまい込む。
そして、店主に向かいあまり好意的ではない目を向けるのだ。
「さて、旦那、借金はお返ししたのですから証文をいただきたいのですが」
「へ? え? お、おまえさん」
店主は、何が何だかわからず呼吸困難な魚みたいに口をぱくぱくさせていたが、やがてごくりと唾をのむと顔を真っ赤にして青年に食って掛かった。
「おまえさん、あの貧乏神を私に嗾けたな!!」
「人聞きの悪い、確かに紫苑がこんな事をしたのは俺の不徳ですが、旦那を破滅させようとするほど腐っちゃいませんよ」
「だが実際に貧乏神は私に憑りついたじゃないか!」
「ですから、こうして封じたでしょう」
「あ、封じたんだ」
すっかり蚊帳の外であった霊夢が、そこでようやく反応した。
同時に、店主が霊夢にみっともなく縋る。
「巫女様、こいつを退治してください!」
「いや、その人、人間でしょ?」
「巫女様もご覧になったでしょう、貧乏神を使役してる外術使いですぞ!」
「えぇ……?」
霊夢は、至極面倒くさそうに青年を見る。
百円をポンと出したり、紫苑を封じたりしているがどうみても人畜無害な青年だ。
気に入らない相手は人間であろうと叩きのめす霊夢であるが、逆を言えば気に入らない訳でも無い相手を叩きのめしたりはしない。
「封じたのよね、紫苑を」
「はい」
「ふぅーん……じゃあ、いいんじゃないの別に」
一つ頷いて、あっさりと。
店主は信じられないように、あんぐりと口を開く。
「どうせ後で封印を解くにきまっているだろう!」
もはや外面を取り繕う気も無いらしい。
高圧的な良い方でも、霊夢はどこ吹く風で。
「解くの?」
「えぇ、まぁ家に帰ったら」
「あっそう」
このざまである。
店主はますます顔を赤くする。
「それじゃあ、意味が無かろうが!」
「うるさい!!」
喚く店主を遮って、霊夢がどかりと一つ、床を大きく踏みつけた。
ギロリと店主にメンチを切って、これまたドスの利いた事を言うのだ。
「紫苑は封印されて、あんたからは祓われた、これで一件落着!」
「し、しか……」
「あぁん? あたしの裁定にケチつけようっての?」
ひえっ、と悲鳴が上がる。
見かけは小娘でも、幻想郷の大妖悪鬼荒神どもと渡り合う巫女である。
その胆力と迫力は並大抵のものではなく、大の大人がすっかり委縮してしまっていた。
ふんっ、と不機嫌そうに鼻を鳴らし、霊夢はその場を大股でワザとらしく足音をたてて出て行ったのであった。
そうして霊夢は、店を後にして改めて振り返る。
全く、自分に人を討てなどと。確かにマミゾウの言う通り碌でも無い感じの奴だった。
あの様では、紫苑が憑こうが憑くまいがこの店は長くはもつまい。
博麗の巫女の、ある種予知にも等しい直感がそう告げる。
そうしている内に、あの青年が店から出てくるのが見えた。
青年も霊夢を認めると、一つ頭を下げてやってくる。
「申し訳ありません巫女様、なんか、仕事を横取りにしたみたいになって」
「別に、無事に事が終われば文句は無いわよ」
本心を言えば、自分が解決して博麗神社の名声を高める機会や、謝礼金が惜しいと言えば惜しいのだが。
終わってしまったのなら仕方がない。
それよりも、確認しなければならない事がある。
「んで、紫苑の事、どうするの?」
「さっき言った通りですよ、連れ帰って封印を解きます」
「……大丈夫なんでしょうね」
店主の言ではないが、紫苑が里で暴れられると困るというのは霊夢にとっても本音である。
警戒するのはある種当然であった。
そんな霊夢に対し、青年は柔らかく笑う。
「大丈夫です。紫苑にはこんな真似二度とさせませんし、こんな思いもさせません。約束します」
「ふぅん」
何か、なんだろう、妙にこそばゆい感の籠った物言いである。
まぁ、なんにせよ、紫苑の事に関して責任を持つというのであれば責任を持ってもらおう。
なんだか、それがもっとも納まりが良いような気がする。
青年は「それでは」と一言残して去ってゆく。
それを見送った霊夢は、背伸びを一つして、手間賃程度はあの店主からふんだくってやるべきだったかと、どうでもよい事を考えながら、のんびりと神社への帰路に就くのであった。
* * *
里での騒動から少しして、里のはずれのボロ屋に一人の青年が座していた。
言うまでもなく、このボロ屋に住む彼である。
彼は懐から、例の竹筒を取り出すと、札を剥がして中身を出す可能様に、床を叩いた。
すると、竹筒の中から封じられていた依神紫苑と、小さな音をたてて銭が一つ落ちたでは無いか。
解放された紫苑は、彼の姿を認めると、たちどころにむすっと不機嫌になる。
そうして、自分と一緒にでた銭を見てみれば、それはあの潰れた鐚銭ではないか。
竹筒は、先日使えなくなった火吹き竹。
使い古した火吹き竹と鐚銭、大晦日などに行われる貧乏神封じの呪い道具である。
なるほど、この呪いを知っていたのか、どこで知ったのか知らないが、お陰で紫苑の目的は達せられなかった。
「やれやれ、あまり心配をかけないでくれよ」
彼が苦笑してそういう。
心配をかけたつもりは無い、ただ、事を解決しようとしただけだ。
だというのに邪魔されて、紫苑の機嫌は治らない。
しかし、起源が悪かろうと不貞腐れていようと、紫苑には問わねばならない事がある。
「あのお金、どうしたのよ」
このボロ小屋に、百円もあった記憶は紫苑には無い。
ましてや、隠し持っていた様子もなく、手に入れる手段もあるとは思えないのだ。
彼は、そんな紫苑の疑問にさもありなんと頷いてこう言ってのけた。
「うん、借りた」
「は?」
「だから借りたのさ、ほら親父の知り合いの二千円貸してくれてる人から」
「はぁ!!?」
借金返済のために借金をする。
聞かない話では無いが、それはどん詰まりの者がする事だ。
借金に関して何も解決などしていない。
「それじゃ、増えただけで何も変わらないじゃない!」
「利子が違うだけでもだいぶ違う」
「そうかもしれないけど!」
確かに、高利貸しに借りているよりはずっとマシかもしれないが、マシというだけだ。
「何考えてるのよ……」
「そりゃあ、まぁ、巫女様が動いたと聞いたら取れる手段はもうそれぐらいしかなかったもんだから」
「巫女が何の関係があるのよ」
「だってあの借金なんとかしないと、お前が巫女様に退治されるじゃないか」
あっけらかんと言う言葉に、紫苑は一つ身じろぎをする。
たぶん、彼が自分の意図を察している。
「お前、あの金貸しの旦那を貶めた上で、自分が巫女様に討たれるつもりだっただろう」
言い返せない。
何故ならば図星だからだ。
「……ったく、今回の事を自分の力のせいだと思ったか?」
「そうよ」
紫苑は、力無く呟いた。
ただでさえ多額の借金が、更に増える、しかも本人の与り知らぬところで。
貧乏神である紫苑の力以外の何物であるというのだろう。
だから、紫苑はとうとう自分の力に嫌気がさしてしまったのだ。
「だから、巫女に倒されて消えてしまいたかったのに」
「それじゃあ俺はどうなるんだよ」
少しばかり、怒りが滲む彼に、紫苑は意図が解らず眉を顰める。
自分が消えたから、彼がどうなると言うのか。
「……あの時、兄貴の死と借金を知った時、そりゃあ辛かったさ、けど……それを救ってくれたのはお前だよ紫苑」
「私、が?」
「あぁ、まだ俺にはお前がいる。だから、絶望してる暇なんかないってそう思ったんだ」
「だって、それは私の力で……」
「確かに、そうかもしれないな」
彼自身から、紫苑の力の災禍を言及され、紫苑は弱く震える。
自分でそれを知り、妹や数多の者から突きつけられても尚、なんともなかった事実。
しかして、彼の口からのそれは、紫苑にとって心を苛むものであった。
「けどなぁ紫苑」
優しい、声がする。
紫苑を苛んだ声が、逆に紫苑を包む。
「俺は、お前が呼び寄せた災禍であったとしても、お前がいてくれればそれを背負える気がするよ」
「な……なによ、それ」
「そのまんまの意味さ」
彼は笑う。
あざけるのではなく、正しく清い意味での笑みだ。
「言ったろ、俺はお前がいてくれて嬉しいって。それは、今でも変わらないよ」
「それは、そんなの……」
「そんなの、在りえないって? そんな事ないさ、兄貴が死んだことよりもお前がいなくなった事の方が俺にはずっと辛かった」
独りきりの家が、寂しかった。
けど、それだけでは無かった。
紫苑が居なくなったことが、その事自体が、彼の心に穴をあけてしまう程に辛かったのだと。
巫女が呼ばれた時、紫苑の死を予感した時、何物に代えても防がねばならぬと奮起したのだと。
そう語られ、紫苑は驚きを隠せない。
そんな事を語るものは、いままで誰も居なかった。
妹の女苑ならば、近しい事を言うかもしれないが、おなじ禍神でもない、人間から言われるなど。
「紫苑」
彼が、名を呼ぶ。
貧しき神ではなく、愛しき花を抱くが如く。
「これから先、旨い物なんか食べさせてやれない、腹いっぱいって事だって稀だろう
綺麗な着物も無理だし、ましてや小間物だって買ってやれない
きっと、大変な事が多くて楽な暮らしはできない
けど
けれど
なぁ、紫苑、それでも、俺と一緒に居てくれないか」
嗚呼、と感嘆の思いと共に、紫苑の心の何かが一つづつ焼け落ちてゆく。
この熱い気持ちを、紫苑は初めて知る。
「馬鹿ね」
皮肉を言おうとしても、上手く行かない。
「女への口説き文句としては最低の類よ」
何を言おうと、自分が緩んでいくのが解る。
「美味しいもの食べたい、綺麗に着飾りたい、お金いっぱい使ってうんと楽したい」
その願望の全てが、些末に思える。
だから、だからこそ。
「でも」
そう、だからこそ。
紫苑は、自分がどんな顔をしているのか、全然わからなかった。
だって、全部初めてなのだ解るはずが無い
ただ一つ、一つだけ言える事があるとすれば。
「私には、お似合いなのかも」
きっと、今の自分は、とても幸せな顔をしているのだろうと。
そんな予感があるだけで。
そしてそれは、何一つとして間違っていなかった。
* * *
Ass(アス)とは驢馬の事である。
驢馬は古において神聖なるものとして扱われた。
その頭は男根に譬えられ、男性と女性の双方を持つ両性具有の神として崇められた。
偉大なるローマを開きしロームルスはパラティヌスの丘にてこの神を祀り、それは宮殿(palace)の語源である。
中東では生命-ハオマ-の大樹を護る聖獣であり
ギリシャでは家庭と竈の女神ヘスティアの純潔を護った功績により、女神の神使となった。
聖書においても救世主は驢馬に乗り聖地へと赴いたという。
驢馬が顕すものは勇気・忍耐・貧困・謙譲・平和。
苦難を背負い、荒野を往く。
それでもなお、気高く強くあらんとする輝かしき人の在り方である。
一般的には蔑称である。意味合いとしては下劣で「尻」を指し、また肉欲を満たすためだけの女性を指す。
これと同じように多くの宗教において驢馬は悪しき物として扱われる。
悪魔と暗黒
無知や欺瞞
猥らさに堕落
貧困と不吉
驢馬が顕す物は屈辱・浪費・無能・頑固・愚かなる従順……
正に災い
人の世の陰を形造る負の化身である。
* * *
その日、依神紫苑は幻想郷をあちらこちらにとフラフラしていた。
別段行く当てなど無い、目的もない。
ついでに言えば銭も無いし、腹の中に何もない。
他人から見れば悲惨であり、本人としても悲惨であり、だがしかし紫苑にとっては平常運転である、そんな日であった。
だがまぁ、それだけで済んでいたのならばまだよかったのかもしれない。
頭に何かが当たる感覚を覚えて、上を見上げてみれば、ゆらりゆらりと雪である。
既に日は沈み、それでも解ってしまうほどに雲は重く、どうもこれから降りは強くなりそうだ。
すきっ腹に寒さに雪では、いくら何でも紫苑としても少々辛い。
なので、そこら辺にあった庵……というにはみすぼらしい、あばら屋よりはマシであろう家の軒先に逃げ込む。
そうして軒先から空を仰げば、やはり強く降って来た。
全く、ため息しか出てこない。
これなら比那名居天子と共に輝針城に居つくべきだったか。
だがいつまでも輝針城に居候する訳にもいかない、ただでさえ天子が居候なのだ、居候の伝手の居候では居心地の悪い事この上ない。
少名針妙丸の視線もかなり痛く、一つ屋根の下で空気が悪いとどんなに豪奢な住まいでも息が詰まるというものである。
故に、何処かに住める場所は無いかと探していたのだが……
上を見ても前を見ても横を見ても雪。
となれば、視線は自然と後ろを向く。
格子窓から家の中が覗ける訳なのだが、なんとも素っ気ない家である。
薄暗くてよく分からないが、物も少なく伽藍としているようだ。
……もしや無人ではあるまいか。
ここは人里から少しばかり距離がある、すなわち少しばかり危険なので人はあまり近づかないし、人がいないとなると妖怪も興味を示さないという事だ。
無人であるならば、今宵の塒につかえないか、と少し期待した時であった。
「そこで何をしているんだ?」
そんな声を掛けられ、紫苑は億劫そうに目を向けた。
視線の先に居たのは、蓑を纏い傘をかぶった男である。
よくもまぁ、この寒空のしかも雪の中に外を歩けるものだ。
少しばかり呆れるが、さて、それは紫苑もまた同じ事、口に出すような真似はしない。
何にせよ紫苑にとっては見知らぬ男である。
故に、対応も素っ気ないものであった。
「貴方には関係ないでしょ」
「ここは借家とは言え俺の家なんだが」
家、家と言ったか。
なるほど、住民が居た訳か、それでは塒にするわけにはいくまい。
期待が外れ落胆する。
しかし、次の瞬間にその外れた期待が更に外れた。
「雪に難儀しているのか」
「そうよ、見て解るでしょ」
「じゃあ中に入ると良い」
事も無げに、男は言う。
紫苑は少しばかり目を見開く。
「いいの?」
「あぁ、この寒さだ、軒先では凍えるだろう」
思わぬ親切であるが、思わぬ親切である故に紫苑は戸惑う。
「……私が泥棒かもしれないわよ」
「俺の家にか? もしそうならよっぽどのマヌケか、相当に窮しているのだろうよ。前者なら笑いものだし、後者ならご同類、どちらにしろ恐れるに足らないさ」
「訂正、余計に酷い事になるわ」
「へぇ?」
「私、貧乏神よ」
「貧乏神、へぇ貧乏神」
男はふむ、と一つ頷く。
「ははぁ、蒼い髪の貧乏神、依神紫苑だな?」
「あぁ、やっぱり知ってる訳ね」
「まぁ、噂程度ならね」
さもありなん、そもそも紫苑があちらこちらをフラフラしているのは名が知れてしまったゆえだ。
自分の力の影響を受けぬからと、放蕩天人・比那名居天子と組んですこーしばかり大騒ぎしすぎてしまった。
完全憑依の一騒動で面倒な連中に目を付けられ、その後の雑事で名が知れた。
おかげですっかり行く場所もなく、塒と食い物にすら事欠いてこの様である。
自業自得の一言で言えばそうなのであろうが、元より自分では自分の力を、不幸を招く権能の発動は如何ともしがたいゆえに自棄になっていたというのもある。
人でも神でも妖怪でも、調子に乗ったり八つ当たりをしたい時ぐらいはあるはずだ。
それが紫苑にとってはあの時であったというだけの話なのだ。
……言い訳にしか過ぎずやはり自業自得なのは重々承知の上である。
「ふん、なるほどとうとう本物の貧乏神のおでましってわけか」
なにか、自分で勝手に納得したようにひとりごちる。
そうして、次の瞬間には一寸信じられない事を言ってのけた。
「で、入るのか入らないのか」
「はぁ? 人の話聞いてるの?」
「勿論。その上で聞いていのさ、個人的にはそこに居座られると聊か落ち着かないから中に入ってくれると助かる」
貧乏神を家に招くとはいかなる料簡か。
先の戸惑いを上回る程に混乱する紫苑であるが、さてそれをなんとも嫌な音が中断させてくれた。
ぐうぅぅ、と情けなく鳴る腹の音である。
情けない、本当に情けない。
あまりの情けなさにただでさえ辛気臭い紫苑の顔はますます沈む。
一方の男はぷっと噴き出し、紫苑は反射的に男を睨んだ。
「いや、悪い悪い」
「……ふん」
「さて、では貧乏神、この家の見た目通りの味気も色気も無い飯なら出せないことも無いぜ」
「……いいの?」
「そうもきつい音を聞かされては俺としてもな、軒先に放置しては寝目覚めが悪すぎる」
どうだ? と男は更に問う。
貧乏神に施しか、と紫苑は自嘲するが、一方で魅力的ではあった。
先にも述べた通り、ひもじく寒く更には雪では、流石に耐えられない。
どうせ雨宿りであるならば、転がり込んでみるのも良いだろう。
良いだろうというか、そろそろ限界であった。
そうして、紫苑は男に招かれて家の敷居を跨ぐ。
暗い家の中は、外から見た通りにやっぱり伽藍としていて、生活感が薄い。
物と呼べるようなものもなく、あるのは竈に水瓶、囲炉裏に古臭い鍋、なにやら見すぼらしい茣蓙と火口箱が唯一の調度品だと言えた。
男は蓑と笠の雨水を土間で払うと、それを適当な処にかけて囲炉裏に薪や木屑を並べ火口箱から何かを取り出す。
何かとは言うが、火口箱に入っているものと言えば火打石と金具と消し炭か麻の類と相場は決まっている。
事実、男の手元からはカチッカチッと小気味の良い音が聞こえた。
小さな火種を囲炉裏に放り込むと、木屑に火が上がる。
「しばらく火にあたって待っててくれ、すぐに飯を用意する」
願っても無い、紫苑は囲炉裏の傍に座り、両の手を火に宛てて暖かさを甘受する。
冬の日の火は何物にも代えがたい。
体の凍えを火でほぐせば、思わず安堵の声が出ると言うもの。
そうこうしている内に、男が何やら鍋を持って火の上に吊るす。
水の中に黒や黄も混じるが白い物が見える。
もしや粥でも作るのであろうか、だとすれば冷えた体と長い間空っぽだった腹のどちらにも有り難い。
火に宛てられ、鍋の中身がゆらゆらと、そしてぐつぐつと音が変わる。
立ち上がる湯気だけでも腹が減る。
空だというのに更に減る感覚がなんともキツい、キツいというかもはや痛い。
紫苑の前に膳と箸と湯呑、小皿に乗った青菜の漬物が並べられ、そうして膳に白く熱い粥がよそられた。
「ほら、喰いな」
「頂きます」
事ここに居たり、遠慮するという選択肢は無い。
あったらその前に断っているだろう。
男物の、分厚い造りの膳に息を二三回吹きかけ、箸で粥を運んだ。
熱い粥故に、最初の一口はほんの少しだが、それでも舌触りが予想と違う事に気がつく。
この白は米粥ではない、麦粥だ。
だが構う事は無い、米であろうと麦であろうと食べ物であることに、更には御馳走になったモノには違いないのだ。
熱がある内は舐めるように、だんだんと良い加減になってくると漬物で口の中に塩気を入れて粥を啜る。
瞬く間に膳は空になり、漬物で残った麦を丹念に拭き取って、一粒たりとも残さず腹に納めた。
そこまで来て、人前でやるにはいささか品性が無さ過ぎたかと思うが、見れば男も同じ事をやっている。
麦粥は互いに一杯、鍋の中にはもう何も残っていない。
代わりに水が注がれ、湯を沸かしている。
「食後の茶なんて洒落たものは無くてね、白湯で良いか?」
「貰えるモノなら何でも貰うわ」
紫苑の物言いに、男は笑いながら湯呑に湯を注いだ。
先の麦粥と同じく味気も何もないが、暖かさと水分が入れば大分違う。
湯を口にしながら火で寒さを凌がねば濡れネズミだっただろう。
「これは、どうにも止みそうにないな」
外を眺め、男がぽつりと一言。
確かに、強さはさほどではないがまだ止む気配が無い。
濡れ鼠の上に氷漬けか、ますます洒落にならない。
おまけに暗いとなると、いくら神の身と言えこの時分に外に出るのは無謀である。
「泊っていくか?」
紫苑の表情を読んだのか、それとも空気を読んだのか。
男の申し出は、先の食事と同じく紫苑には有難い。
とはいえ、食事と違うのは遠慮するという選択肢がここにはあるという事だ。
「変な真似する気じゃないでしょうね」
「まぁ、そうくるよな」
痩せ細った貧相な体。
自分でも認めてはいるが、それでも女は女、初対面の男に「泊っていくか」と言われて「お願いします」等と抜かすほどに紫苑は安くも愚かでも無い。
魅力的な話なのは認めざるを得ないが、それはそれである。
男は黙って、湯を嘗める。
貴重なものであるかのように、まさに嘗めるように口に含む。
静かだ。
何か、申し開きでもすればいいのに、あるいは突き放せばよいのに、黙っていられては困ってしまう。
雨の音は変わらず降り注ぎ、湯と火の温かさはますます離れがたい。
故にこそ、心はどうにも揺らいでしまう。
「……妙な真似をしたら」
「うん」
「あんたを全力で不幸にしてやるわ」
「そうか、判った」
迷いに迷い、ある種自虐ともとれる脅し文句をかけて。
要は泊めてくれという事なのだが、さてこれも一種の売り言葉に買い言葉なのだろうか。
結局の処、その夜は男の家に世話になる事にした。
そうして、薄くて無いよりはマシな布団を使わせてもらい、朝までぐっすり眠りこけた。
寒さを防ぐには如何に足りないが、風と雨が凌げて布団があるのは上等である。
基より碌な生活を送っていない紫苑としては、これでもちゃんと寝られるのだから卑屈であっても中々に逞しい。
どれほどに……と問うべきであろうか、時刻の事はよくわからない(なにせ時計が無い)ので何時間寝たのかは分からないが、とにかく朝が来て目は覚めた。
覚めたというか、覚まされたと言うべきだろう。
なにかふうふうぱたぱたと、物音がするので、それで目が覚めてしまったのだ。
「ん? あぁ、起きたのか」
男が、竈の前で火を起こしている。
古臭い火吹き竹で、竈の中に息を吹きかけ、団扇でぱたぱたと仰ぐ。
竈の上には釜が乗っており、なにかぐつぐつと言っていた。
確かめるまでもなく、朝餉の支度である。
「んで、朝飯はどうする貧乏神」
「食べる」
即答であった。
それから、特に言う事は無い。
朝餉は雑穀飯と青菜の漬物、そして白湯、粥では無いという点を除けば昨晩と同じであった。
お互いに膳に盛り、戴きますと手を合わせる。
同じように漬物で塩気を入れて、麦飯をただ食べる。
言葉は無い。
何かを語る程に親しくないし、話題も何もない。
ただ黙々と食事をすれば、たった一杯の雑穀飯なぞあっという間になくなってしまう。
……すこしばかり物足りなく、紫苑の視線は自然と釜に向かう。
見た感じ、まだまだ量がありそうではある。
「悪いが、奢ってやれるのはそれだけだ」
ぴしゃりと一言、釘を刺された。
「アレで俺の昼餉と夕餉も賄うんだ、朝に二杯も喰うと足りなくなる」
それを言われれば、紫苑としても引っ込まざるを得ない。
居候三杯目にはそっと出し、なんて言葉があるが、居候でも無い紫苑には二杯目を出す権利もないのだ。
また一宿一飯の恩は有り難いが返すつもりは無い、だって返せないから。
「御馳走様」
膳の中に湯を注ぎ、残って張り付いた粒を湯で剥がし取って呑み込んで、綺麗に残さず食事を終える。
気取った連中ならば顔をしかめるような食べ方であろうが、その日の食にすら困る紫苑としては雑穀一粒であっても無駄には出来ない。
眼前の男も同様なのだろう、手にした膳からは、ずずっと湯を啜る音がした。
喰い方はお互いに汚いが、男は丁寧に手を合わせ「御馳走様」と呟く。
おや? と紫苑は思う。
こんな襤褸屋に住んでいる割には、中々に所作が良い。
どこぞの貧民か小作人かと思ったが、違うのであろうか。
そんな紫苑の疑問を余所に、男は膳を下げて片づけを始めた。
鍋に残っていた雑穀飯を、手慣れた感じで握り飯に変えると、紫苑の方を向いてこう言うのだ。
「俺は仕事に行くんだけど、お前はどうするんだ?」
「……出ていくわ」
どうするんだ? が言外に「出ていけ」と聞こえるのは紫苑の性根を端的に表しているのであろうか。
二重の意味で間違ってはいないだろう、貧乏神を家に置いておく者もそうはいないだろうし、自分が嫌われ者である事を紫苑は嫌になるほど知っている。
比那名居天子が規格外であると言うだけの話なのだ。
「そうか」
一言だけ言って、男は支度を整えた。
外を見てみれば、雪はさほどに積もってはいない。
どうやら雪女は仕事をサボってくれたようだ、もっとサボれと紫苑は心の中で悪態を吐く。
朝の気温は夜のそれを引きずり、なお厳しい物の、家の宿主よりも遅れて出る訳ぬも行かぬ、流石にその程度の良識ぐらいはある。
二人して家を出て、紫苑は礼を言った。
「有難う、助かったわ」
「どういたしまして、気を付けてな」
何をどう気を付けると言うのか。
貧乏神である自分は好む好まざるを関係なく、不運を生み出すものだ。
自嘲気味に嗤うと、紫苑は「それじゃ」と素っ気なく別れを告げた。
斯くして、一夜の安息を得た紫苑であるが、ここで大事な事を思い出さなければならない。
元々、紫苑にはゆく当てなどないのである。
だから彷徨い、雪に追いやられて偶然にも変わった人間に助けられた。
つまり、どういう事か。
出て行ったところで、やっぱり居場所など無いのだ。
一朝一夕で住処が見つかるのならば苦労などしない。
日が昇って頭上に輝き、いずれ傾き沈んでいく。
それと共にまた腹が減る。
夜になれば寒さが沁みる。
往く場所など無いとなると、掛けられた情けにまた縋りたくなるのが人の性というもの。
結局、その日も、男の家の軒先に蹲る破目になり、男が苦笑したのであった。
* * *
温情というものは人をダメにする。
ぬるい情とは、よく言ったものだ。
居候の居候では居心地が悪い、という理由で輝針城を出たと言うのに、今度は別の人間の家に転がり込んでいる。
それが相手の迷惑になるのは解っている、貧乏神が居ついて喜ぶものはいまい。
だがしかし、飯が朝夕二食出て、家主が何も言わぬとなれば、住いを探さねばと昼間フラフラしてもついつい夜には戻ってしまうものだ。
最初は一応、遠慮して軒先で男の帰りを待ち、それから家の中に入れてもらったのだが、最近は勝手知ったると言わんばかりに先に上がりこんでいる。
それでも何も言わない。
いや、「なんだ、今日は戻ってないのかと思った」等と言ったが、咎められるような事は無かった。
不用心と思うであろうか。
しかしこれがそうでもない。
なにせ家の中に何もないのだ。
せいぜいが雑穀が少しと、壺の中に漬物がいくつか、そして燃料の薪があるぐらいで、金目のものは一つもない。
食い物があるではないか、それが盗まれるだろうと言われるかもしれないが、こんなモノを盗んで何になると言うのだ。
肉や魚の類は無く、雑穀と漬物、どうせ盗むのであればもっとマシなものがある家に入る。
男が言った通り、この家に盗みに入るのはよっぽど困窮しているか、目星も点けられない大マヌケのみであろう。
尤も、そんな家で世話になっている紫苑がその事をとやかく言える立場ではない。
食い物にも燃料にも勝手に手を付けない、という最低限の常識を弁えているだけでは、盗人と左程に変わりはないだろう。
そんな生活がいくつか続き、紫苑は塒探しの時間の幾つかを、人里に裂くようになっていた。
理由としては、やはり男の事が気になったというものである。
貧乏神と知って家に招き、飯を食わせ、そのまま置いておく。
奇妙奇怪極まりない。
さらに可笑しなことが、一緒に過ごしているというのに、不幸が起こる気配が無いという事である。
やれ服に穴が空いただの、飯を少しばかし焦がしてしまったと言った些細な事は無くもないが、逆を言えばその程度しかない。
どう見ても果てない幸運に恵まれた天運の持ち主ではない。
ではなぜ不幸が起こらないのであろう。
その様な者が居るのならば、それ相応に興味が湧くというものである。
それ故に、こっそりと見つからぬように男の様子を探るのが日課になり始めていた。
「おぉーい、こっちたのむー!」
「はい! ただいま!!」
威勢の良い声が、あたりに響く。
紫苑は屋根の上から、男が務める里の木工所を眺めていた。
木工と言っても、木だけを扱う訳では無く、迷いの竹林の竹なども扱う。
なにせ幻想郷は狭い為に資源が貴重なのだ、使えるものは何でも使わねばならぬ。
そして、男がそこで何をしているのか、と言うと……
これが一言で言うのが難しい。
ある時は鉋や鑿で木を削っている。
ある時は斧や鉈で材木を割り
はたまたある時は土運びや他所への遣い
兎に角、あらゆる仕事を何でもやっている。
声がかかれば即座に飛んで行き、任された仕事を黙々とこなす。
なにより驚いたのが、読み書きができるという事であった。
手紙なのか書類なのか、時折なにか書き物をしているのを見かけたことがある。
男の素性は知らぬが、紫苑はそれで男が単なる貧民でないことは理解した。
商家か良家か、多分、そこら辺の出なのであろう。
年も若い、不祥事で縁切りされたか、家が没落して貧乏暮らし、そんな処か。
「悪いがこれたのむわ」
「はい、向こうに運べば?」
「おう」
それにしても、あくせくあくせくと良く動く。
他人の2・3倍は仕事をこなしているのではないだろうか。
昼に雑穀の握り飯だけで、よくもまぁやるものだ。
まるでネズミの様に走り回る様は、意外と見ていて飽きない。
だが、もうよいだろう、ここら辺で観察は止めにして、また家探しと行こう。
どこかに何か建物でも流れ着いているかもしれない、幻想郷では時々起こる、しかして自分には縁のないであろう薄っぺらい期待を胸に、飛び上がろうとしたその時である。
「あっ」
小さい悲鳴を上げて、体がずるりと滑り落ちた。
単純に足を滑らせたのだ、止まる暇もなく、紫苑はそのまま屋根から落ちて木工所の庭先にずしんと落ちる。
「痛ったぁ……」
全く、なんという間抜けか。
いや、これもまた不運か。
何はともあれ、周囲からの奇異の目を受けて、なんとも惨めな気分になる。
ぽかんと口を開ける人間達。
まぁ、上から人(貧乏神)が落ちてくればそういう反応にも成ろう。
「お、おい、アンタ大丈夫かい」
一人が、ようやく常識的な反応を始めたその時である。
誰かが、「あ!」と大きな声を上げたのを聞いた。
「こ、こいつ貧乏神だ!」
「なに、貧乏神!?」
「間違いない、この前の異変と騒動で暴れてる処を見た!」
途端、一斉に周囲の目が変わる。
嫌悪・恐怖・驚愕……
言葉にするのも飽き飽きする程に見て来た感情たちである。
「こいつ! とうとうこんな所にまで悪さをしに来たのか!」
体格のいい一人が、紫苑の腕を掴んで捻りあげる。
やせた腕が締め上げられる感覚に、紫苑は思わずうめき声を挙げた。
こうなる事は予想できた、せめて蹴りだされる程度で済んでくれると嬉しいのだが。
そう、思った時である。
「紫苑?」
ある程度、聞き慣れた声がした。
視線を向ければ、あの男が驚いたような顔をしてそこにいる。
「ん? なんだ、この貧乏神を知っとるのか」
「あ、はい、その、家に下宿してると言いますか」
「はぁ? 下宿? お前、貧乏神を住まわせてるのか!?」
「えぇ、まぁ」
男の、なんというか「そうですが何か」と言わんばかりの軽い物言いに周りは顔を見合わせて困惑しているようである。
ただ、その一方でなにやら納得しているような様子も見られる。
「まぁ、なんだ、お前が貧乏神憑きでも驚きゃせんが」
「あの、紫苑を放してやってくれませんか」
「大丈夫なのか?」
「えぇ、その、悪い奴じゃありません。無愛想ではありますが」
「だがな」
「ご迷惑はおかけしません、」
木工所の面々が顔を見合わせる。
少しばかり、どうすかと迷うような様を見せたが、紫苑の腕に加えられていた力が緩む。
「お前さんが言うなら……」
「有難うございます」
「ただなぁ、お前の為に言うが貧乏神憑きというなら、祓っておいた方が良いぞ、借金返済が遠のくだろう」
至極当然の事を言い残し、集まっていた人間達はその場を後にした。
場に居るのは、男と紫苑のみである。
「大丈夫か?」
差し出された手を取って、紫苑は立ち上がる。
先ほどの拳とは違う、気遣うような手だ。
職場に乱入したのはいささか気まずいが、「いつもの不幸」だ、自分の責任ではない。
そう、自己弁護を自分の中で図った時、鈍い痛みがふくらはぎから紫苑を襲った。
「っ!」
「どうし……あ、傷になってるじゃないか」
左足に擦り傷がある。
恐らくは落ちる時に擦ってしまったのだろう。
高所から落ちてこの程度なのは、返って運がいいのかさてはてやはり怪我をした不運なのか。
「ほら、こっちこい」
言って、男は紫苑の手を引いて歩きだす。
ちょっと、と言う間もなく、連れてこられたのは井戸であった。
紫苑を井戸の傍にあった腰掛に座らせ、桶を井戸に放り投げ、綱を引いて水をくみ上げる。
桶に並々と入った水は、見るからに冷たそうだ。
「冷たいぞ、我慢しろ」
言わずとも判る、だがそれ故に口に出たであろう忠告の通り、寒空をそのまま雫にしたような感覚が擦り傷を洗う。
冷気特有の、俗に「刺すような」と表現されるソレが傷に触れるのはなんとも辛い。
顔をしかめつつ、先の事で気になった事を男に問う。
「ねぇ」
「うん?」
「貴方、借金があるの?」
「あぁ、ある」
「女? 博打?」
「そういう風に見えるか?」
男は苦笑しつつ、懐から小さな軟膏入れを取り出す。
蓋を開くが、中身は殆ど残っていない、僅かに軟膏であると解る程度に縁やそこにへばり付いているのみである。
その少ない薬を、まさに底をすり減らすかのように指で集めて紫苑の傷口に塗る。
薬の沁みる感覚は、水の冷たさで麻痺した足には殆どない。
「女でも博打でも無い、親の借金だ」
「親の?」
「あぁ、これでも、昔は良い処のボンボンだったんだぜ?」
今度は苦笑では無く、幾ばくかの自嘲である。
「で、そのボンボンがどうして」
「小難しい話じゃないさ、親が欲掻いて無理な商売に手を出し見事に失敗、困ったところに火事と来た」
炎が財産全てを焼き尽し、命は拾ったが負債は残った。
そうして一文無しよりも酷い状態になったのだと、簡単に嘯く。
あっちこっちをさ迷い歩き、里のはずれのボロ小屋に転がり込めたのは幸いであったとも。
「家族は?」
「親父とお袋は心労でぽっくり逝った」
「あの茶碗、お父さんの?」
想像していたよりも、酷い状況だったことに少しばかり驚きながら、独り住まいのあの家に椀が二つあった事に言及する。
男物の椀であるため、当然、父親の思ってのことであった。
ただ、その瞬間、男の手が一瞬止まる。
「…………あぁ」
声に、昏い何かが宿る。
そして、その昏い一言で今度は沈黙が何処かより這い出してきた。
黙りながら、今度は手拭を出して傷に巻き付けてゆく。
明確な、拒否の態度であった。
自分は何をしくじったのだろう。
あの椀に何かあるのだろうか。
場が水の如く冷えるのを感じる。
紫苑の、元々の卑屈な性分と合わさり、耐えられそうになくなった時、しかしてそれを打ち破ったのは男の声であった。
「これで由と」
「……薬」
「うん?」
「よかったの? 使い切っちゃって」
「あぁ、まぁ貰いものだし」
貰いものと言っても、まさか初めからあの量だったわけでもあるまい。
長い間に使ってしまったのか、それとも使い切る程に怪我をする頻度が高いのか、どちらにしろ自分で使う用があったはずだ。
それを、惜しげもなく他者に使うのか。
「借金、幾らあるの」
「借金? えーっと……あと、2千円だったかな」
「にっ……!?」
通貨価値が明治の頃で止まっている幻想郷において、2千円は大金である。
すくなくとも、一般の人間や妖怪はお目に掛かれないであろう。
貧乏神であっても思わず絶句する額だ。
「いや、これでも親父の知り合いからの借金で利子とかは大分良心的でさ、ちょっとづつでもなんとか返せてる…」
「月に幾ら?」
「えっと、4円」
それでも、単純計算で50年はかかる。
一生かかっても返します、とはよく聞く台詞であるが、まさか本当にやってる奴を見たのは初めてだ。
「貴方、それでよく私を家にいれたわね」
「俺は……」
男は言葉を一つ区切り、少しばかり難しい顔をする。
「俺は、只、誰にも恥じない生き方をしたいだけだ」
「借金があるのに?」
「それはまた話が違う」
難しい顔を、今度は苦く曲げて。
呆れた話だ、莫大な借金を背負って馬鹿正直に返そうと汗水たらして必死になって働いて。
食べ物と言えば雑穀飯ばかり。
それなのに、薬も食事も分けると言うのだ。
ここで考えるべきは、まず自分の事だろうに。
だが同時に、自分の力がこの男に及ばぬ理由も察する。
この男には喰らうべき運が無い、無いものを奪うことなど出来るはずもない。
基より不運ににまみれて生きている故に、力が全く意味を成さないのだ。
「さて、そろそろ俺は仕事に戻る」
「あ、ねぇ」
「うん?」
「その、ありがとう、色々」
僅かな薬と、薄く擦り切れそうな手拭。
普通の者が見れば粗末というかもしれないが、治療は治療である。
それだけではない、先に助けてもらった礼もまだであった。
「手拭、どうすれば……」
「帰ったら適当に籠に放り込んでおけばいい」
「……いいの?」
帰ったら、と当たり前に出る。
本来ならば祓った方がよいはずの自分を。
「かまいやしないさ」
軽く笑って、男は背を向けた。
仕事場に戻るその姿を、紫苑はしばし見送って。
それから、重く苦しい寒空へと飛び立った。
その重い空に夜の帳が更に降り、寒さは時と共にその深さを増す。
こうなれば、いかなる者とて空には居られぬ。
例外があるとすれば、冬の化身たる雪女か氷の御霊たる妖精ぐらいであろう。
依神紫苑はそのどちらでもない故に、夜の空には居ない。
今となっては勝手知ったる……知るほどの勝手もないが……彼の家にいつものように転がり込む。
ただ、今日は少し違う。
囲炉裏を前にし、薪が爆ぜる様を見る。
炎の上には鍋が吊るされ、中の雑穀粥がぐつぐつと音を立てていた。
そろそろ頃合いのはずなのだが。
戸を眺め、紫苑は少々やきもきする。
このままでは、粥が焦げてしまうでは無いか。
誰にも聞こえぬ悪態を吐きながら、何もかもを、自分ですら馬鹿にしたような瞳に、いつもとは違う色が見え隠れする。
そしてその色は、戸が揺れると同じように揺れるのだ。
揺れる戸がそのまま開かれ、家主である彼が入ってくる。
ただいま、と言う言葉が途中で切れて、囲炉裏の火と暖かな鍋と並べられた膳に目を丸くした。
あぁ、予想通りの反応だ。
それが可笑しくて、口元が緩みながら「おかえり」と言葉にする。
そしてそこで、その言葉をここに来て初めて言った事に気がついた。
* * *
紫苑の生活は、二度変わった。
一度目はこの家の厄介になった時。
そして二度目は家の仕事をするようになった時。
朝に竈で飯を炊き、夕に囲炉裏で粥を炊く。
夕に竈を使わないのは、薪が一日に二度も竈を起こせるほどには無い為である。
故に、暖を取る為の囲炉裏の火で朝に炊いた飯で粥にするのだ。
偶に男が味噌を手に入れる事があるので、そういう日は味噌汁での汁掛け飯になる。
互いに一杯づつ。腹を満たすには足らないが、飢えを大人しくさせるには何とかなる。
こうして、仕事を始めると空いた時間がどうにももどかしく感じてしまう。
物の無いこの家では、掃除も洗濯も左程の手間にはならないのだ。
時間が空くのであれば、怠惰に過ごすべきであろうか。
紫苑の性分からしてみれば、むしろそちらの方が合っているのかもしれない。
……夜眠る時、彼の寝顔を見る事がある。
火を消して夜の闇に全てを任せてしまえば、彼はすぐに泥の様に眠ってしまう。
疲れ切った、張り詰めていたものがようやく緩んだかのような寝顔。
紫苑が、自分らしくない事を気にかけるのは、それのせいかもしれないと思う。
「ふぅ」
白い息が、紫苑の薄い唇から漏れる。
背に柴を背負い、木々の間を歩く。
紫苑が訪れたのは妖怪の山である。
人が立ち入る事を禁じられたこの山には、沢山の資源がある。
大抵は天狗や河童が使うのだろうが、彼らだけで全てという訳でも無く、紫苑一人がお零れを貰うぐらいの量はあった。
貧乏神が山に入る事に、天狗は顔をしかめるが知った事ではない。
人でない故に山に入るを止められる道理はなく、参道を荒らさぬ故に怒りに触れる道理もなく、他者の物を奪うのではないので咎められる道理もない。
しかめっ面は所詮がしかめっ面である、気分の良いものでは無いが害がある訳では無い。
「よいしょ…っと」
燃料代を浮かす為に集めた柴を背負いなおし、紫苑は山を下りる。
貧乏神である紫苑では、銭を稼ぐことなど出来ない。
雇ってくれるところが無いというのもあるが、当然の事ながら金運を喰らって不運に変える彼女の力自体がそれを不可能にしてしまう。
故に、こうした地道な事をする訳である。
戻ったらこれらを乾かし、使えるようにしなければ。
そうしたら、丁度夕食の支度の時間になるだろう。
そんな事を考えながら、帰路についていた時である。
「姉さん」
この世で、自分をそう呼ぶものは只一人しかいない。
振り返ってみると、そこには相も変わらず成金の装いをした妹がいた。
「女苑」
自分と違い、寺で修行(何の修行か知らないが)を積んでいる妹は、なにか奇怪なものを見るような目を向けている。
無論、それがどういうものなのか理解できぬ紫苑ではない。
「な……」
「姉さん! ホントに姉さん!? 何やってるの姉さん!??」
何か変? と嫌味っぽく切り出す前に、女苑は紫苑の両腕を掴んでがっくんがっくんと紫苑を馬鹿みたいに大きく揺さぶる。
小柄なくせに力だけはある妹の動揺に、紫苑は妙に落ち着いた頭で「そこまでか」と逆に呆れてしまう。
とはいえ、無理もないかもしれない。
なにせ紫苑自身が「らしくない」と思うのだ、長年連れ添って、更に自分の事を少しばかり(穏当な表現で)見下している女苑からしてみれば晴天に霹靂を聞く様なものだろう。
「落ち着いてよ女苑」
「落ちつくって何を落ち着くの!? 姉さんが仕事を! 仕事をしてる! 雨が降る何処じゃないわ! 隕石が降ってくる! 幻想郷のお終いよ!」
そこまで言うか。
なにはともあれ、このままでは埒が明かない、言っても治まりそうにないのであれば実力行使である。
揺れる頭に勢いをつけ、女苑の頭に軽く頭突きを入れる。
ごつっという、生々しい嫌な音がして、女苑は「あうっ」と呻く。
「落ち着いた?」
「一応……」
額をさすりながら、女苑は聊か恨めしそうだ。
紫苑としても額が痛いが、どうという事は無い。女苑とて本当は同じだろう。
「んで、改めて確かめるけど、姉さんは何やってるの」
「確かめるなんて必要ないでしょ、見ての通り柴刈りの帰り」
女苑の顔が、今度は信じられないと言う驚愕に変わる。
そうして、頭を抱えて蹲るのだ。
「ああ……姉さんが、姉さんが、信じられない、こんな事があるなんて!」
つくづく物言いが大げさな子だ。
それだけ信じ難いという事なのだろうが。
「まさか姉さん、どこか悪い男に騙されて仕事をさせられてるとか」
「騙されてるわけじゃ無いわ。ただ、手伝いをしてるだけ」
「男の事は否定しないの!!!!!!?????????」
目を白黒させて、再び女苑は紫苑の腕を掴んで先の火では無いぐらいに大きく揺さぶる……というか、ほとんど振り回しているに近い。
「姉さん! 姉さん、現実を見て! 姉さんみたいな女に近づく男が真っ当な訳ないじゃない! 絶対に姉さんを利用する心算なのよ! 姉さんのヒモになろうとか人を見る目が無さすぎるけど!」
確かにそうかもしれないが、先にもまして酷い言い様だ。
いささか頭に来たので、先よりも勢いをつけた。
今度はゴチンという重いようで軽い、骨同士がぶつかる独特の音がする。
声も出ず、またも蹲る女苑と、自分でやっておいて涙目になる紫苑。
全く持って何をやっているのか。
「だから言ったでしょ、騙されるわけじゃ無いって利用されてる訳でも無いし……真っ当じゃないのはそうだろうけど」
「……まさか、ホントの本当に男な訳?」
「なによ」
「いや、うん、ちょっと」
さしもの女苑とて二階も頭突きを喰らえば言っていい事と悪い事の区別はつくのだろう。
なにか言いかけながら、額をさすりながら女苑は改めて紫苑と向き合う。
「その男と姉さん、どういう関係なの?」
「どうって……家主と居候」
「居候? え、姉さん、男と一緒に生活してるの!?」
「そうよ」
「そいつ、姉さんの事知ってるの?」
「知ってる」
「……どういうヤツなの、マトモじゃないわ」
「どう、と言われても……」
正直な処、状況に流されてなあなあでここまで来てしまってる為、紫苑としても彼をどう評価すべきなのかというのはイマイチよく理解できてない。
借金があり、真正直にそれを返済しようとしてる要領の悪い男としか言いようが無いのだ。
そして、借金があるという事が、紫苑にとっては都合よく働いている事も。
「ふぅん、マイナス方向に振り切れてるせいで姉さんの力が効かない、ねぇ」
理屈としては解るが、納得はいっていない。
そんな感じであろうか、女苑は腕を組んで何か胡散臭そうに首を傾げる。
「本当に、大丈夫なの、そいつ」
幾度目かになる、繰り返される言葉。
しつこい、と言いそうになったのを、紫苑は呑み込む。
身内が、知らぬ男と暮らしていると知って、心配しない者は少ないだろう。
思えば女苑が山を下りたこんな辺鄙な処に居ること自体が不自然である。
大方、どこからか紫苑が山に出入りしている事を聞きつけて様子を見に来たに違いない。
そういう事を察すれば、無碍な事を言わぬぐらいの分別は紫苑にてある。
「別に、どうって事無いよ」
無碍ではないが、どうもひねた物言いになるのは仕方のない事なのだろうか。
だが姉妹なればこそ、そうした「いつも通り」の反応が正解にもなる。
「……まぁ、姉さんが良いって言うなら良いけどさ。どうせ後で痛い目みるのはそいつなんだし」
不安不満はあるものの、とりあえず引いてくれる気にはなったらしい。
そうなれば、油を売っている暇は紫苑には無く、早々に立ち去ろうとしたその時である。
「あ、そういえばさ、今度、寺が縁日やるんだって」
今思い出しましたと言わんばかりに、女苑が全く別の話題を切り出す。
「へぇ、まぁ、あの寺は時々やってるよね」
「まぁねぇ……屋台も出てさ、盛り上がるみたいよ。寺の癖に人集めと金集めは巧いんだから」
「そんなもんでしょ」
「姉さんも来てみたら」
「縁日?」
「そう」
「嫌よ、どいつもこいつも一張羅着て美味しそうなもの食べて、私が惨めになるだけじゃない」
「腹いせにそいつら貧乏にしてやれば良いじゃん」
「また巫女を敵に回すのはウンザリよ」
「そっか」
女苑は、少し視線を逸らし、なにか言いずらそうな……というか気恥ずかしい様子でこう言った。
「気が向いたら、姉さんも寺に来れば? さっきも言ったけど金儲けの巧い寺だからさ姉さんが来ても何とかなるんじゃない? 日頃、綺麗なお題目言ってるんだから姉さんが来て追い払うなんて真似はそうそう出来ないでしょ」
気を使っているのだろう。
力の制御が効かぬ紫苑では、どこへ行っても厄介者だ。
神社で有ろうと寺であろうと道観であろうと変わりはしない。
それでも、妹としては姉の困った時の場所として利用する心算なのだ。
寺の意思や都合など構いはせぬ、寺の姿勢を逆利用してやろうと言う小賢しさだが、姉としては心遣いに悪い気はしない。
「気が向いたら、ね」
だからこそ、その話に飛びつく様な事はしない。
妹の心遣いであるならば、それを控えるのもまた姉の心遣いであった。
「それじゃ、行くから」
「うん。男が妙な真似しようとしたら、容赦なく叩き潰しなさいよ」
「……物騒ねぇ」
「当然でしょ? 私たちは、最凶最悪の禍津神なのよ」
禍津神、すなわち災厄の神である。
餓える貧乏神に、欲深き疫病神。
忘れる事無き、姉妹の本質であった。
「そうね、その通りよ」
ただその一言だけを残して、紫苑はその場を後にする。
女苑は、姉の後姿を見送り、一つ肩を竦めて同じく立ち去って行った。
紫苑は、いつも通り彼の家に戻っていた。
山で集めた柴を軒先に並べ、雪で濡れたそれを乾かす準備を整える。
冬は空気が乾燥している、それなりに早く乾くであろう。
尤も、既に日が傾き始めているこの時分では到底間に合わぬ為、いずれにしろ今日使う訳では無い。
作業が終わるころには、日は隠れ月が昇り始める。
そうなれば、今度は夕餉の支度を始めなくては。
以前に集めた柴を囲炉裏に放り込み、火種を差し込んでパチパチと火の粉が爆ぜて火は勢いを増してゆく。
鍋に水を張り、中に朝の残りの雑穀飯を入れて蓋をする。
夕餉の支度と呼ぶには簡素過ぎるであろうか。
しかし、これと後は漬物を添えるぐらいしかやる事が無いのだから仕方がない。
そうして、火にあたって悴んだ手と足を暖めながら、いつもと同じように待つ。
以前は予め鍋を掛けていた事もあったが、アレは驚かせようと言う少しばかりの悪戯心の為せることである。
大事な食糧、万が一にも焦がしてしまえば勿体ない。
粒一つとして無駄には出来ないのに、よくもあの時はあんな真似をしたと自分の事ながらに呆れてしまう。
そんな思案にふけっていれば、いつも通りに戸が揺れて、家主たる彼が帰ってくる。
「ただいま」
「おかえり」
もはや馴染みにもなった言葉を交わし、紫苑は鍋を火にかけた。
彼も囲炉裏の前に座り、手をかざして暖を取る。
ふと、そこで紫苑は見慣れぬものを見た。
彼が傍らにおいた、何かの包みである。
「何よそれ」
「あぁ、こいつか、実は仕事場の女将さんがもういらなくなった古着を処分したいと言ってさ」
広げてみれば、それは緋色の女物の着物であった。
確かに古びており、少々くたびれているがまだ着れそうである。
「なんでそんなの」
「いや、まぁ、その、いつも色々とやってもらってるからさ」
紫苑の目が、丸くなる。
この家で女物の着物となれば、使い道など一つしか……切り分けて手拭や雑巾にしてしまうという道もあるので一つではないが。
兎も角、着れる着物をとなれば、やはり紫苑への土産ぐらいしか理由はあるまい。
それにしても、予想外の事に言葉が迷い、何も出てこない。
挙句、迷い出たのがこれである。
「貧乏神に贈り物なんて、女苑も言ってたけど貴方やっぱり変な人」
もっとマシな物言いがあるだろうに。
染みついた性根か、あるいは生まれつきの性格か。
腹を立てても良い言葉に、しかして彼が反応したのは別の部分であった。
「女苑……あぁ、妹さんがいるんだっけか」
「うん、今日ばったり」
「変な奴だって?」
「マトモじゃないって」
彼は何とも言えない顔で苦笑する。
「まぁ、そうかもしれないな」
鍋の煮え立つ音が聞こえる。
自業自得とは言え、紫苑の心は気まずい。
何か、話を変えないと。
「紫苑はさ」
揺らめく火を眺めながら、彼が口を開く。
「妹さんの事、大事か?」
「どうだろう」
「わからない?」
「……姉妹だもの、その時々によって変わるわ」
偽りでは無い。
姉妹である。
禍津神の姉妹ともなれば、そこには様々な感情が入り乱れる。
時に利用し合う関係であり
時にいがみ合う関係であり
時に信頼し合う関係であり
ただ、一つ変わらないのだとすれば
「私も女苑も、お互いを理解してるって事だけ」
共に厄災と不運を司る神なれば、昏き資質と定めを理解し合うのは姉妹だけ。
故にこそ、どんなに互いに蔑みあおうとも、どんなに互いを不審に思おうとも、紫苑と女苑の間には分かち難い縁がある。
同じものより生まれた姉妹ゆえの、まさに姉妹としか言いようの無い繋がりなのだ。
「姉妹だからこそか」
彼が、呟く。
火が照らし出すその表情を、紫苑は読み取ることが出来ない。
紫苑と女苑の二人の縁を、どう捉えているのだろう。
あるいは亡くなった両親の事を想っているのか。
ただ、なにか闇が濃くなった事だけはうっすらと感じ取れた。
そうしている内に、雑穀粥が頃合いになる。
鍋の蓋が開かれ、熱い粥が椀によそられた。
粥に息を吹きかけ、冷ましながら口に運ぶ。
すっかり使い慣れた、男物の椀。
紫苑自身も罅の入った椀を持っているが、この家に来てからは一度も使っていない。
彼の親の物だと言う椀。
……それが、本当かどうかは知らない。
これについて尋ねた時と、今の彼は似たような表情をしている。
きっと嘘なのだろう。
けれど、誰のものなのかと改めて問うつもりは無かった。
「紫苑」
名を呼ばれ、紫苑は視線を向ける。
粥を啜っていた手を止めて、意外な事を口にした。
「今度、寺で縁日があるそうなんだ」
「うん、女苑から聞いた」
「そうか、んでさ、一緒に行かないか」
「縁日に?」
「あぁ」
「仕事は?」
「親方が、その日は少し早く切り上げて良いって、偶には楽しめっていうんで今月分、ほんの少し色を付けてくれたんだ」
色を付けたと言っても、小遣い程度ではあるが、と彼は付け加える。
女苑には自分が惨めになるからと断った。
今はどうであろう。
古着とは言え一張羅があり、僅かと言えど使える金がある。
「……嫌よ」
それでもなお、紫苑の答えは変わらなかった。
「駄目か?」
「貧乏神が縁日に行ったって碌な事無いもの」
結局の処、貧乏神は貧乏神。
人々から拒絶され蔑まれるモノである。
それが、幾ばくかの物を得たからと言って心の暗さを覆い隠せるはずもない。
「けど」
「?」
「その……えっと……」
視線を外し、口ごもりながら辛うじて、紫苑は言葉を紡ぐ。
「寺の、近くになら……縁日の中じゃなくて眺めるぐらいなら」
日に二度も馬鹿な事を口にする。
言った本人が呆れるばかりだ。
だが、その馬鹿な事が紫苑の彼からの申し出に対する限界であった。
「うん、じゃあ、そうしよう」
馬鹿な事を、彼は一つ頷いて受け入れる。
その様に、既視感を覚えるのは不自然な事ではない。
なぜならそれは、紫苑がこの家を見つけた時と同じだったからだ。
あの時と同じように、そしていつもとおなじように粥を啜る。
何故だか少し、満たされた様な気がした。
* * *
日にちが過ぎ、縁日がやってくる。
今日は彼が早くに帰ってくる、という事なので紫苑も柴狩等の仕事を早くに切り上げた。
代わりに、山に吹きだす温泉に浸かり身を清める。
地底の連中がなにやら騒動を起こしてくれたおかげで、山を初めとして温泉がいくつか出来た幻想郷では湯浴みをするに困らない。
尤も、じっくり浸かりきちんと体を綺麗にして、湯を愉しむとなれば、人里の銭湯を初めとする公共の施設や金持ち連中が持つ風呂場が必須である。
いずれにおいても、紫苑にはあまり縁のない場所だ。
こうして湯で垢を流せるのであれば、獣が利用するような温泉であろうと構わない。
余裕のそして力ある人妖であれば、秘湯などと気取って呼ぶのであろうが、紫苑からしてみればただの便利な場所であった
まぁ、なんにせよ、今日はいつもよりも少し長く湯に浸かり、若干念入りに体を清めた。
寒さも緩んできたとは言え、湯冷めはしないようにという心積もりだと紫苑は思っているのだが、さて実際はどうなのか。
己の思惑と本心が違うというのは特に珍しくも無かろうが、第三者がみれば紫苑は浮かれているように見えるだろう。
それが善くわかるのが、家に戻った時である。
貰った着物に袖を通し、帯を幾度も直し。
おかしな処が無いかとあちこちを確認しようとする。
鏡が無いというのが、これほどもどかしく思ったのは紫苑にとっては初めてであった。
「ただいま……お、すっかり準備万端か」
開くにも鈍い戸から、彼が予告通り早く帰って来る。
気がついて振り返った紫苑と視線が合えば、彼の顔が綻ぶのだ。
「うん、似合ってるよ紫苑」
「そう?」
時によって褪せたとは言え、それなりを保っている緋色。
蒼の紫苑と主張し合うでは無く、むしろ真逆ともいえる色彩がピタリと咬みあっていた。
いつもの襤褸から衣一つ変えるだけで、なかなか立派な小町娘。
磨けば瑠璃か蒼玉か。
惜しむらくは磨く術もモノも二人は持ち合わせていないという事であろう。
「一寸待っててくれ、俺もすぐに支度するから」
言うが早いか、彼は紫苑の後ろに向かい仕事着を脱ぎはじめる。
無論、紫苑は振り返ったりはしない。
屏風か衝立があれば良いのだろうか、そんなモノを買う金も無く着替える時はお互いに背を向け合うのが暗黙の了解となっていた。
時折、興味本位から視線を向けそうにはなる。
彼もそうなのだろうか、と紫苑は思う時もあるが、やせたこの躰を見て何が面白いのだろうかと自嘲にしか至らない。
「お待たせ」
支度と言っても、仕事着から余所行きに着替えるだけである。
まぁ、この余所行きも洒落ているわけでも何でもなく、家でも普通に着てる普段着にしか過ぎないのだが。
「それじゃあ、行こうか」
「うん」
家を出て、人里を目指す。
そうして人里に入れば、すこしばかり浮かれた明るい空気が漂う。
祭りの気配だ。
妖怪共の異変騒ぎとは違う、純然たる喜の空気、歓びの香。
寺より離れたここでは、幽かに程度であるがそれでも祭りのソレで有る事に違いは無い。
途中で、団子を買う。
店主には、なんだい寺の出店で買わないのかいと揶揄われた。
彼はそれに対し、腹が減り過ぎて持ちそうにないと加羅加羅笑いながら答える。
自分の我儘故のやりとりを、紫苑は少しばかり俯きながらやり過ごす。
そこに差し出されたのは一本の団子。
彼は気にするなと言いたげに、紫苑に団子を持たせる。
紫苑は団子を齧る。
甘い、久しく口にしていなかった味だ。
その甘さが、紫苑の心を軽くしてくれる。
二人して、くすりと笑うと、そのまま寺を目指す。
寺に近づけば、子供たちの姿が増えてゆく。
子供に混じって、妖精の姿さえ見える。
この子達は、これから祭りの真っただ中へと駆けてゆくのだろう。
羨ましいと心より思う。
だが、羨ましいと思いつつも紫苑は踏み込むような真似はしない。
ここより先は正の領域。
負の神たる紫苑が立ち入るべき場所では無い。
だから、先に述べた通り、離れた場所から祭りを眺める。
幸福に満ちたる、すくなくともあの場にいる人々は不運や不幸を一時は忘れているその姿。
自分が手にした団子一つなどと言わず、出店の料理をお腹いっぱい食べているのだろう。
見ていて面白くないはずだが、それでも目を離すことはできない。
欲しくて手を伸ばしても、紫苑には決して届かぬ場所なのだから。
惜しみつつ齧っていた団子も無くなり、それでも二人して適当な処に腰かけて飽きもせずにただ眺める。
だがそれも、日が暮れてくれば話は別だ。
「帰りましょう」
「いいのか?」
「うん」
祭りは今少し続くのであろうが、闇が閉まれば道行は危険になる。
どのような理由があろうと、二人の祭りはそこでお終いであった。
「じゃあ、帰ろう」
彼が立ち上がって、紫苑もそれに倣う。
先と同じように、人が行き交う里の中だが、祭りから離れるとなると少しばかり様相が異なるのは何故だろうか。
あるいはこれが、寂寥というものなのだろうか。
馬鹿馬鹿しい、自分が寂寥などと。
むしろ、祭りを愉しめなかった彼の方が貧乏籤では無いか。
そんな風に思い、彼の背を見つめていた時であった。
「今日は、ありがとう」
「え、何が?」
「うん、一緒に祭りに来てくれてさ」
一瞬、心を読まれたようで紫苑はドキリとする。
自分の為に、祭りをふいにしたのに礼を口にする彼の背になにか寂しい物を見つけて。
「なぁ、お前の使ってる椀、アレさ本当は親父のじゃないんだ」
「……じゃあ、誰の?」
「兄貴の」
「お兄さん?」
「うん」
兄がいるとは初耳である。
彼が語らず、紫苑が効きもしなかったので当たり前であろうが。
「親父とお袋が死んだ後さ、兄貴と一緒にあの家を見つけたんだ、椀もその時になんとか揃えただよ」
「お兄さんは、どうしたの?」
「さぁ」
「さぁ、って……」
彼は振り返って、なんとも言えない自重を浮かべる。
怒りが滲むような悲しいような、そして寂しいような。
「なんとか親父の伝手を頼って仕事を見つけて、自分の中でもよく整理できてないままに兎に角金を稼がないとって思ってさ」
「それが、今の仕事場?」
「そう、親父さん良い人でさ、俺は運がよかったんだろう、あの人の下で働けてるんだから」
運が良い。
たしかに、仕事にありつけない者もいる中では彼は運がよかったのかもしれない。
それが、大きな不幸に押しつぶされてしまうものであっても。
「親父さんに教えてもらいながら、我武者羅に働いたよ、おかげでちゃんと給金ももらえた。自分で金を稼げた時はすごく嬉しくて、なんか希望が持てる気がしたんだ」
だというのに。
彼の自嘲はさらに深くなる。
闇の中に、更に暗い縁を覗かせる如く。
「信じられるか、兄貴の奴、おれの給金もって逃げちまいやがったんだ」
さしもの紫苑も絶句する。
借金と親の死だけでも、大きな不運と不幸だ、そこに兄弟の裏切りが加わるなど。
彼は、紫苑に何かを投げてよこした。
何かと思って観てみれば、潰れて使えなさそうな鍾銭である。
「これは?」
「兄貴の奴が残していった、俺の初給金だよ。混じっていたのか兄貴が何かやらかしたのか知らないけど、その使えない銭だけが残ってた」
初めての歓びを、彼は無に帰された。
思いつく限り最悪の方法で。
「……正直、首を括ろうって思った」
冷たく言い放つ。
「思ったどころじゃなくて、実際に縄を用意して首を括る直前まで行ったよ」
「でも、生きてるわ」
「あぁ、生きてる。だって、おかしいじゃないか」
口調に、憎悪の熱が加わる。
今までに聞いたことも無い声で。
「あいつが生きて、俺が死ぬ? 俺を捨てて俺から奪って、借金から逃げたあいつが。そんなのは違う、おかしい、間違ってる」
「だから決めたんだ、生きてやるって、何年かかっても構わないから借金を返して真っ当に綺麗な体になって、あいつを見返して扱き下ろしてやるんだ」
「逃げたお前と違う、卑怯なお前と違う、何をどう言おうとどんな地位を手に入れようと、お前は卑しい奴なんだって真正面から言ってやるために!」
いつか聞いた、誰にも恥じない生き方をしたいと。
その始まりが、憎しみであったなど想像がつくだろうか。
「でも、未練があったのかもしれない」
「お兄さんへの?」
「あぁ、あの椀を割らずにとっておいたのも、兄貴への未練だったんじゃないかって……いつか、帰ってきてくれるかもしれないっていう馬鹿な未練さ」
彼は空を仰ぎ大きく息を吸い、心を整えようとする。
「紫苑、お前が俺の家に住み始めた時、嬉しかった」
「どうして」
「永い間忘れてたんだよ、家に帰った時に誰かが居てくれるっていうのが安心できることなんだって」
視線が、紫苑に戻る。
そこに、憎しみも寂しさも無く、ただ柔らかい色があった。
「親方や女将さんや仕事仲間はいたけど、それとは違う家に一緒にいてくれる誰がかいるってこんなにも嬉しいんだって」
紫苑から、鍾銭を受け取り、彼は手の中でそれを弾く。
仕草も表情も、すこし照れ臭そうに。
「あんなものを取っておいて、半端な気持ちなままな俺だから、寂しかったのかもしれない」
「そんな俺の処にお前が来てくれて」
「今日みたいに、一緒に出掛けられて、生活を共にしてくれて俺はお前にすごく感謝してる」
だから、と彼は笑った。
「ありがとう、紫苑」
先のそれよりも、深い響きだった。
紫苑は、そんな響きを以て誰かに感謝されるなど初めての事で体が熱くなるのをはっきりと感じる。
「別に、そんな事……」
その熱がある事を、照れ臭いという感情がある事を自分自身で驚きながら、故にこそ彼の顔をまともに見られない。
嗚呼、だがしかし、そんな紫苑に構う事無く……いや、紫苑の心を察するように、彼の手が紫苑の手を捉える。
そのまま、繋がりあって彼に手を引かれて、紫苑は帰路に就く。
後ろから祭りの音が未だに聞こえるが、もはや紫苑に未練はなかった。
* * *
祭りの日より幾ばくかが過ぎ、紫苑と彼の生活は変わらずに続いている。
その日の朝も、彼が朝のうちにできる雑事をしている間、紫苑が朝餉の支度を整えていた。
生活の場が二人に増えたからこそ、朝の貴重な時間を活用できる。
忙しいには違いなかろうか、以前彼が独りでやっていた頃よりは余裕が生まれていた。
そうした、なにか緩い感じの中、竈を起こしていた紫苑は一つ違和感を覚える。
火吹き竹を用いて火に風を送っているのだが、いつもよりも火の起こりが鈍い。
いや、鈍いのは火ではない、火に送られる息の勢いである。
もしや、と紫苑は手にしていた火吹き竹を確かめて、案の定な出来事に思わずため息を吐いた。
「もうっ……」
「うん? どうした」
紫苑の様子に気がついた彼が、何事かとやってくる。
手にしていた火吹き竹を見せると、彼もまた困った顔をした。
「ありゃ、罅いってるな」
竈を起こすに使い続けていた火吹き竹は、竈の熱に当てられ所々が黒く焦げ、さらにはそれらによってひび割れていた。
「これじゃ流石に使えないわ」
「うぅん……しかたない、暇を見つけて竹林から竹取ってこよう」
買うような事はしない。
幸いに竹ならば迷いの竹林にごまんとあり、火吹き竹程度ならば作るのは難しくない。
「それまでどうするの?」
「団扇でなんとかしよう」
「アレも薄くて破れるか擦り切れそうなんだけど」
「なんとか誤魔化しながらつかうしかないよ」
ある種、これも二人にとってはなれた会話である。
アレが壊れたコレがダメになりそうだ。
なにせ銭が無い故に手に入るのが古い物か出来が良くないモノなわけで。
そうするとガタが来るなどしょっちゅうだ。
二人からしてみれば、「またか」とは思っても本気で「困った」という訳にはならない。
「とりあえず、持ってくるから……」
と、そこまで言いかけた時である。
誰かが、戸を叩いた。
二人は顔を見合わせる。
はて、朝のこんな時間に一体誰だろうか。
里のはずれのこんなボロ屋に客など今まで来た例は無いのだが。
よもや妖怪の類であろうか。
そうこう訝しんでいる間に、戸の向こうから声がかけられた。
「おぉい、すまんが開けてもらえんか。お兄さんの事で大事な話があるんだ」
彼の目が見開く。
唐突にやって来た、肉親の知らせ。
迷うことなく戸に駆けつけると、立て付けの悪いそれをいくらか強引に開く。
「やぁ、朝も早くからすまないね」
来客の姿に、紫苑は眉根を顰めた。
身形の良い、中年の男である。
問題はその装いであった。
一目で金がかかっているなと判る、仕立ての良い着物だ。
それを、さも誇示するかの如く纏っている。
女苑もいかにもな成金の姿をしているが、この男からは女苑の成金とは違う、金の匂いのする様であった。
ただ、その匂いが嫌な匂いの類であるというのを、貧乏神である紫苑は否応なしに感じる。
彼と男が二三言葉を交わす。
本人であるかどうかを確かめているようだ。
そうして、男は一つ頷くと、神妙な趣でこう告げたのであった。
「実はだね、君のお兄さんなんだが……亡くなったんだよ」
空気が、先ほどまで和らいでいた朝の気配が唐突に止まる。
唐突な訃報。
人の世において、決して珍しいものでは無いが、さりとて我が身に降りかかればその衝撃は計り知れない。
「兄が……死んだ?」
絞り出されるような彼の声。
「一昨日、玄武の沢辺りで死体が見つかってね」
河童辺りにやられたのかもしれないね、と男が続ける。
彼の顔は蒼白になり、その心を表すかのように震えていた。
しかして、歯を食いしばり、手を握りしめ、凶報を携えた男に頭を下げる。
「わざわざ、知らせてくださって有り難うございます」
その様に、芯が通っているのは或いはこのような事を覚悟していたからであろうか。
ここは幻想郷、人間の命が露と消える事など珍しくは無い。
ましてや、行方知れずの相手となれば尚更であろう。
「あぁ、うん、ご遺体は命蓮寺に預けてあるのでね」
「はい、ではすぐにでも引き取りにまいります」
「そうかそうか」
男は頷くと、表情を変える。
神妙さから、なにか後ろめたい感じに。
だが、何か嘘くさい。
「それで、だね……お兄さんが死んだときにこんなことを言うのもなんなんだが……」
「はい、なんでしょう」
「実はね、お兄さん、借金があったんだ」
借金。
二人には慣れたものである。
紫苑と彼はお互いの顔を見合わせ、男の言を訝しむ。
「家に借金があるのは知っておりますが……」
「いやいや、そうじゃないよ。お兄さん個人の借金だ」
「…………………は?」
間の抜けた声がする。
兄の死よりも、なお予想していなかった事柄であったのだろう。
男が言うには、彼の兄は商いをやっていたという事らしい。
ただし、商いと言っても真っ当な代物では無く、ほとんど詐欺に近いものだったそうだ。
元手が何処かというのははっきりしないのだが、情婦がいたそうなのでそこらあたりから強請ったのではないかとも。
何はともあれ、そうしたケチな詐欺紛いの事を繰り返したせいで里の自警団辺りから目を付けられ、商売が立ち行かなくなっていたらしい。
そこで、借金をしていたという事なのだが……
「一体、幾らの借金が?」
「そうさね、百円ほどかな」
「ひゃ……!?」
一個人としては過分な借金に、思わず絶句する。
「待ってください、兄が百円も借金をしたっていうんですか!?」
「うん、そうだね」
「言っちゃなんですが、兄は身元も怪しい不逞者です、そんなのに百円も貸すなんて……!」
「勿論、最初は少額だったんだよ、ただねぇ、利子が膨らんでねぇ」
彼が、紫苑にも聞こえそうなぐらいに歯ぎしりをする。
嫌な臭いという予感に間違いは無かった、この男は高利貸しの類だ。
「兄の借金です、俺には関係ない!」
「そうは言っても、お兄さんからはもしもの時は君からって文言で証文とってるんだがね」
「俺は承知してません!」
高利貸しは、ふむと一つ頷きとぼけた様にこう呟く。
「この家、借家だそうじゃないか」
何が言いたいか、二人はそれだけで気がついてしまった。
もし仮に、この高利貸しがこの家の権利を買い取ったらどうなるか。
まず間違いなく、此処には住めなくなるだろう。
押し黙る二人を見て、高利貸しは卑しく笑う。
「まぁ、私だって鬼じゃない、数日待ってあげようじゃないか……誠実な返答を期待しているよ」
傲岸にそういい放ち、高利貸しは見下すが如き足取りで家から出てゆく。
残された……彼と紫苑は、余りの事に何も言えず何もできずにいた。
だが、紫苑は彼の様子が小刻みに震えている事に気がつく。
何か、声を掛けようとしたその時、彼は吠えた。
まさに咆哮としか言いようの無い憤怒の体現であった。
亡き兄に対する憎悪と侮蔑を吐き出し、それを幾度重ねようと癒えぬ苦しみに悶え狂う。
どれほどの間、そうしていただろう。
やがて力尽きるように彼はその場にへたり込み、顔を俯かせて動かなくなってしまった。
「あ……ねぇ……」
重苦しい、息も詰まる程の気配に溜まらず声が上がる。
まるで幽鬼の様に、まるで生気も現実感もないまま彼が顔を上げ、紫苑はそこで彼の目に涙があふれている事に気がついた。
自身の苦境を語った時も、悲愴さを見せなかった彼の、紫苑が初めて見る苦悩の涙である。
「紫苑……」
彼が、自分の名を呼ぶ。
力もなく、ただぽつりと。
それは目の前にあるものに対して、単にその名を呟いただけにも等しかった。
「嗚呼」
感嘆であった。
何ゆえの感嘆なのか、紫苑には想像もつかぬ。
「なんて、顔してるんだよ紫苑」
それほどに、酷い顔をしているのだろうか。
紫苑には、眼前の彼こそ見ていられない顔を、しているように……
いや、ちがう。
涙が止まる、光が戻る。
悲愴と苦悩の向こうに、それらに酔わぬ意思が垣間見える。
「そうだな、こんな事してられないよな」
立ち上がる。
握った拳に力がある。
「まずは……そうだな、誰かに相談だろうな。親方辺りにちょっと話してみるか」
そうして、彼は微笑んだ。
以前の様なものとは違うが、たしかに笑みで有った。
「大丈夫、なんて言えないけど、それでもやれるだけやってみるよ」
だから、心配するなよ紫苑
そんな、優しい一言を呟いて。
彼は、紫苑を残して、早春の朝の中を踏み出していった。
そう、紫苑は残された。
独り、誰も居ない家の中で。
優しい言葉を噛み締めて、嗤う。
心配、するな?
心配するな。
心配するななんて!
嗤い、哂い、嘲笑う。
嗚呼! なんて的外れな事を言うのだろう!
彼は自分をなんだと思っているのだろう。
自分は依神紫苑。
最凶最悪の貧乏神。
そうだとも、最凶最悪の貧乏神だ!
自分の想像を絶する程の力に、紫苑は嘲笑を上げるほかにない。
もとより金運亡き故に、自分が喰らう運はなし、生み出す不運も不幸も無し。
すでに負の領域であるならば、己の力が無意味になるなど!
ある訳がない、マイナスに底など無い、状況はいくらだって悪くなってゆくのだ。
これは貧乏神たる自分がやってきた時点で約束されていた事態だ。
だというのに、心配するなだと?
なんて愚かなのだろう、そもそもの元凶を解っていない。
紫苑は嘲笑う。
何を、誰を?
この場において、紫苑が嘲笑うのは只一人しかいない。
いつまでも、どこまでも。
侮蔑の傍らで涙が流れている事にも気づかぬまま。
嗚咽もまた嘲笑にかき消される。
そして、その総てが停まった時
そこには、ただ一つの闇があった。
彼が、家に戻った時、すでに紫苑の姿は無く。
方々を探して歩くも、ついには見つけられず。
結局、紫苑が戻ってくることは無かった。
* * *
春も大分近づいたこの頃の里の商家の奥座敷。
さて、そこに珍しい人がいた。
清き白と鮮やかな紅。
この色彩となれば、幻想郷にて当てはまるのは一人しかいない。
そう、博麗の巫女たる博麗霊夢である。
霊夢の目の前には、一人の中年男がこの商家の主がどんよりと不景気な面を下げて座っていた。
出された座布団に座した霊夢は、そんな中年男の様にすこしばかり眉を顰める。
あまり似合ってるとは言えない、趣味も良くない気取った着物はただでさえ嫌味臭いというのに、それが暗い面が加わるのだ。
遠慮を知らぬ霊夢としては、一言嫌味を言わぬだけでも自重していると言える。
「それで、妖怪に憑りつかれてるって?」
無遠慮な霊夢の問いに、商家の主はビクリと震える。
「は、はい、お助け下さい巫女様」
そう、そも霊夢がこの様な場所に居るのも、この男に憑き物落としを依頼されたからである。
常日頃、妖怪神社と揶揄される博麗神社に遣いが来たのが昨日で、その時は霊夢は中々に上機嫌であった。
博麗の巫女の役目は妖怪退治。
人の味方として、人里を荒らす妖怪を倒すのが霊夢の仕事である。
だというに人里では自警団やら命蓮寺やら守矢やらがでしゃばり、霊夢の仕事を奪うのだ。
神社の参拝客増加を目論む……基、巫女の務めを果たさんとする霊夢としては面白くない事この上ない。
そこに、きわめて久しぶりに(というか、記憶にも無い)博麗神社に憑き物落としの依頼である。
実に殊勝で幻想郷の理を弁えた輩であると、霊夢が上機嫌になるも無理らしからぬ事であろうが。
ただまぁ、霊夢の常としてそういう時に要らない茶々が入るものだ。
昨日は二ツ岩のマミゾウが神社の冷やかしに訪れており、仕事に張り切る霊夢に余計な事を吹き込んだ。
曰く、この商家は安くて出来の悪いモノを言葉巧みに売りつけているらしい。
一見すると悪くないのだが、割とすぐにダメになるような代物で客からの評判が宜しくない。
それだけならまだしも、金貸し業まで営んでいて、そいつの利子がまた高い。
商売下手で金貸しとなるとこれはもう碌でも無い者で、客からどころか里の商家の旦那衆からも倦厭されていて会合に呼ばれない事も多いのだとか。
博麗に解決を願い出たのも、そうした悪評が命蓮寺や守矢に届いていてあまりいい顔をされないからだろうと言うのだ。
もう少しばかり里の事情に精通するべきじゃないかい、というマミゾウの揶揄いとどうでもよい情報を霊夢は横で払った。
誰であれどうであれ、自分は巫女としての仕事をするだけだ。
そうかい、と小馬鹿にするマミゾウの顔が今思い出してもムカつくが、まずは目の前に集中しなければ。
「実は、ここ最近、良くない事が続いておりまして」
曰く、入荷しようとした商品がダメになった。
曰く、家宝にしていた骨董が壊れた。
曰く、商売に失敗して大損した。
曰く、帳簿を間違えてやはり損をした。
曰く、客足が急速に遠のいた。
一つ一つならば、在りえる事ではあるがこうも続けて起こると主としても頭が痛く尚且つ作為的なものを感じてしまう。
しかし、それよりも尚、恐ろしい事が主を悩ませていた。
「夢を、見るのです」
「夢?」
「へぇ、恐ろしい、何かがこちらを睨みつけている夢を……」
何時ごろからであろうか、店主が夢を見ている時に視線を感じるようになったという。
勿論、夢の内容などまともに覚えている方が稀な事なので、詳細は思い出せない。
しかし、どんな夢を見ていても、いずこかの暗がりから昏い憎悪に満ち満ちた視線があるのだ。
それに気がつくと、余りの恐ろしさに目を覚ましてしまい、しかも毎晩続くのだからたまらない。
夜だけならまだ救いがあるかもしれないが、昼間であっても眠れば感じるのだ、おかげで真面に眠れずこの頃は体調も頗る悪い。
「お、お願いです、巫女様、私に憑りついてる妖怪を祓ってくださいまし!」
ふぅん、と霊夢は一つ頷く。
なるほど、そいつは妖怪の仕業……と言っていいのだろうか。
下らない言葉遊びではあるが、「妖怪」の仕業では無い。
何方にしろ、霊夢としては退治る事に変わりはないのだが。
「アンタに憑いてるの、妖怪じゃないわ」
「は? で、では?」
「貧乏神よ」
店主が、目を見開く。
正直、霊夢としては最初に見た時に見当はついていたのだ。
話は一応聞いてみただけの話。
そもそも、これほどの負のオーラを纏わりつかせる者など霊夢からしてみれば心当たりは一つしかない。
「出てきなさいよ、紫苑! あんたの仕業でしょう!!」
主の鼻先に御払い棒が突きつけられる。
すると、主の全身より首を絞めつけるような悪しき気配が黒煙の如く渦巻入れ行く。
やがて、その気配の奥から蛇が引きずり出されるように一つの人影が顕れ始めた。
「……随分と早いお出ましだね」
影が形となり、肉を纏い、少女の姿になる。
霊夢を忌々しく睨みつけるそれは、紛れもなく最凶最悪の貧乏神・依神紫苑であった。
「お、お前……! あの家にいた……」
店主は、紫苑の姿を見てあからさまに狼狽える。
紫苑は、主の顔を細い指で掴み、霊夢もたじろぐような凄みをもって囁くのだ。
「あの男は、破滅させてやった。家を失い借金漬け、肉親は誰もおらず独りぼっち……もうあそこにもたらす不幸は何もない」
「つ、次は私だというのか」
「そうだ、お前を同じ目に……いいや、もっともっと悲惨な目に会わせてやる、どんな幽かな希望ものこしてやるもんか」
「ちょっと! アンタ、まだ暴れまわってたの!?」
紫苑の予想外の迫力と、なにか表の方から聞こえてくる喧噪を押しのけて霊夢が紫苑に詰め寄る。
「何が悪い、私は貧乏神だ、人を貧困に引きずり込むのが本分だ」
「それを私の前で言う訳だ!」
なんたる大胆不敵の傲岸不遜。
幻想郷の調停者たる博麗霊夢を前にして、災を成す事を由などと。
数多の妖怪が霊夢を恐れ人里に手を出す事などしないというに。
「私はこいつを貶めるぞ、苦しめるぞ、呪い祟り喰らい尽すぞ、だれであろうと私を阻めるものか!」
肚の底より猛毒の様な怨嗟を滲ませ、紫苑は呪詛を吐く。
凄まじき負のオーラは、その色をさらに濃くもはや漆黒の焔である。
だからこそ、霊夢は訝しむ。
紫苑の所業と、その物言いを。
なにか、外が囂々としているが、そんな事よりまずは紫苑である。
「あんた、そんなキャラだった?」
他人の富を掠め盗ろうとする卑しい紫苑は知っている。
調子に乗って暴れる紫苑も知っている。
図々しい紫苑も知っている。
だが、こうまで誰かを呪う紫苑を霊夢は知らない。
一時面倒をみていただけの関係ではあるが、それでも尚、霊夢の中の紫苑とこの紫苑が一致しない。
「黙れ、何もかも貧しい小癪な巫女め、お前であろうと邪魔はさせないぞ!」
「あーそう、そう来る訳だ!」
吠える紫苑に、霊夢は御払い棒を突きつける。
事ここに至っては、もはや問う事は何もなし。
巫女の務めに従って、人里を脅かす禍津神を祓うのみ!
だというのに、なんださっきから!
「なんなのよ、一体!」
だんだんと近づいてくる、騒がしい声がいい加減に癇に障り、霊夢が怒鳴り声を上げたその時であった。
ばん! と派手な音を立てて障子戸が開かれる。
現れたのは、襤褸を纏った青年。
その後ろには、店の使用人達が袖やら脚やらを掴んでいる。
恐らく、この青年は店の者達が押しとどめようとするのを無視して、強引にここまでやってきたのであろう。
先ほどからの騒々しさは、使用人と青年の揉み合いだったわけだ。
霊夢はそう合点するが、他の者は事態をお互いに呑み込めていないのか、謎の状況に茫然としていた。
青年はジロリと部屋の中を見回し、一つの影を見つけると、ようやくと言った風に息を吐く。
「ようやく見つけたぞ紫苑」
「あ、貴方……」
青年の視線を受け、先ほどまでの威勢はどこへやら、紫苑が気まずそうに委縮する。
「全く、その旦那に憑りついていたのか、そりゃあ探しても見つからない訳だ」
「ど、どうして……」
「そりゃあお前、金貸しの旦那がここの処不運続きで、さらに巫女様が呼ばれたなんて話があればお前の仕業じゃないかって思うだろう」
そして、青年は紫苑に手を伸ばす。
「帰ろう、紫苑」
「帰る?」
「そう、家に帰ろう」
紫苑は、あからさまに動揺した風で息を詰まらせ固まっていたが、やがて何かを決したように声を振り絞る。
「嫌よ」
「嫌?」
「そうよ、あんなボロ小屋、もう用なんかない。絶対に帰らない」
「やれや確かにボロでしかも借家だが、それでも俺にとっちゃ御殿だ」
「アンタにとっては、でしょう私には違う」
言い捨てると、紫苑は腕を店主の首に廻しその背に隠れる。
「ひえぇ」と情けない悲鳴を上げる店主の無様さを、紫苑は嘲笑う。
「今はこいつから搾り取るのが愉しいの、アンタなんかどうでもいいのよ」
「……お前、そういうキャラじゃないだろう」
先の霊夢と同じことを宣い、青年は呆れたように頭を掻く。
そして、掴みかかっていた使用人達を振り払い、座敷に乗り込んできた。
「まぁ、あれだ、要はこうすりゃ良い訳だ」
そういうと、青年は懐からなにかの包みを取り出す。
店主の前まで来ると、その包みを勢いよく床に叩きつけギロリと、まるで任侠者が如く店主を睨みつけた。
「兄がお借りした百円、今この場で耳を揃えてきっちりとお返しいたします」
「は……はぁ!!?」
「へ?」
「えぇ!??」
霊夢と紫苑と店主。
三者三葉に目を丸くした。
特に霊夢にとっては紫苑と青年の関りを知らぬ故、百円という大金が飛び出した事に驚くばかりである。
「ど、どうしたのよ、こんな大金!」
「うん、ちょっとな」
「ちょっとって……家にこんなお金なかったじゃない!」
「そこら辺もちゃんと話すから」
青年はそこで一言区切り、紫苑に優しく語り掛けた。
「まずは帰ろう、もうこんな事をする理由は無いよ」
再び差し出された手を、紫苑は震えて見つめる。
わずかに、青年の手を取るような仕草を見せて……
それでも、最後に浮かんだのは拒絶の色であった。
「嫌よ! 私は、私はこいつを破滅させてやる! その為に来たんだ!」
「おい、紫苑」
「帰って!」
「紫苑、何を意固地に……いや、自棄になってるなお前」
癇癪をおこした子供の様な紫苑に、青年は困った顔をする。
仕方がない、と言わんばかりに嘆息し、青年は再び懐に手を入れた。
今度取り出したのは、包みでは無い、なにか筒状の……いや、なにか特別なものでは無い。
ところどころに焦げたような痕のある、竹筒であった。
その竹筒を、紫苑に向ける。
「悪いな、ちょっと我慢してくれ」
「何? ……きゃ!」
小さな悲鳴を上げ、紫苑はたちまちの内に、竹筒の中へと吸い込まれていった。
青年は、竹筒に札を貼って、それをまた懐にしまい込む。
そして、店主に向かいあまり好意的ではない目を向けるのだ。
「さて、旦那、借金はお返ししたのですから証文をいただきたいのですが」
「へ? え? お、おまえさん」
店主は、何が何だかわからず呼吸困難な魚みたいに口をぱくぱくさせていたが、やがてごくりと唾をのむと顔を真っ赤にして青年に食って掛かった。
「おまえさん、あの貧乏神を私に嗾けたな!!」
「人聞きの悪い、確かに紫苑がこんな事をしたのは俺の不徳ですが、旦那を破滅させようとするほど腐っちゃいませんよ」
「だが実際に貧乏神は私に憑りついたじゃないか!」
「ですから、こうして封じたでしょう」
「あ、封じたんだ」
すっかり蚊帳の外であった霊夢が、そこでようやく反応した。
同時に、店主が霊夢にみっともなく縋る。
「巫女様、こいつを退治してください!」
「いや、その人、人間でしょ?」
「巫女様もご覧になったでしょう、貧乏神を使役してる外術使いですぞ!」
「えぇ……?」
霊夢は、至極面倒くさそうに青年を見る。
百円をポンと出したり、紫苑を封じたりしているがどうみても人畜無害な青年だ。
気に入らない相手は人間であろうと叩きのめす霊夢であるが、逆を言えば気に入らない訳でも無い相手を叩きのめしたりはしない。
「封じたのよね、紫苑を」
「はい」
「ふぅーん……じゃあ、いいんじゃないの別に」
一つ頷いて、あっさりと。
店主は信じられないように、あんぐりと口を開く。
「どうせ後で封印を解くにきまっているだろう!」
もはや外面を取り繕う気も無いらしい。
高圧的な良い方でも、霊夢はどこ吹く風で。
「解くの?」
「えぇ、まぁ家に帰ったら」
「あっそう」
このざまである。
店主はますます顔を赤くする。
「それじゃあ、意味が無かろうが!」
「うるさい!!」
喚く店主を遮って、霊夢がどかりと一つ、床を大きく踏みつけた。
ギロリと店主にメンチを切って、これまたドスの利いた事を言うのだ。
「紫苑は封印されて、あんたからは祓われた、これで一件落着!」
「し、しか……」
「あぁん? あたしの裁定にケチつけようっての?」
ひえっ、と悲鳴が上がる。
見かけは小娘でも、幻想郷の大妖悪鬼荒神どもと渡り合う巫女である。
その胆力と迫力は並大抵のものではなく、大の大人がすっかり委縮してしまっていた。
ふんっ、と不機嫌そうに鼻を鳴らし、霊夢はその場を大股でワザとらしく足音をたてて出て行ったのであった。
そうして霊夢は、店を後にして改めて振り返る。
全く、自分に人を討てなどと。確かにマミゾウの言う通り碌でも無い感じの奴だった。
あの様では、紫苑が憑こうが憑くまいがこの店は長くはもつまい。
博麗の巫女の、ある種予知にも等しい直感がそう告げる。
そうしている内に、あの青年が店から出てくるのが見えた。
青年も霊夢を認めると、一つ頭を下げてやってくる。
「申し訳ありません巫女様、なんか、仕事を横取りにしたみたいになって」
「別に、無事に事が終われば文句は無いわよ」
本心を言えば、自分が解決して博麗神社の名声を高める機会や、謝礼金が惜しいと言えば惜しいのだが。
終わってしまったのなら仕方がない。
それよりも、確認しなければならない事がある。
「んで、紫苑の事、どうするの?」
「さっき言った通りですよ、連れ帰って封印を解きます」
「……大丈夫なんでしょうね」
店主の言ではないが、紫苑が里で暴れられると困るというのは霊夢にとっても本音である。
警戒するのはある種当然であった。
そんな霊夢に対し、青年は柔らかく笑う。
「大丈夫です。紫苑にはこんな真似二度とさせませんし、こんな思いもさせません。約束します」
「ふぅん」
何か、なんだろう、妙にこそばゆい感の籠った物言いである。
まぁ、なんにせよ、紫苑の事に関して責任を持つというのであれば責任を持ってもらおう。
なんだか、それがもっとも納まりが良いような気がする。
青年は「それでは」と一言残して去ってゆく。
それを見送った霊夢は、背伸びを一つして、手間賃程度はあの店主からふんだくってやるべきだったかと、どうでもよい事を考えながら、のんびりと神社への帰路に就くのであった。
* * *
里での騒動から少しして、里のはずれのボロ屋に一人の青年が座していた。
言うまでもなく、このボロ屋に住む彼である。
彼は懐から、例の竹筒を取り出すと、札を剥がして中身を出す可能様に、床を叩いた。
すると、竹筒の中から封じられていた依神紫苑と、小さな音をたてて銭が一つ落ちたでは無いか。
解放された紫苑は、彼の姿を認めると、たちどころにむすっと不機嫌になる。
そうして、自分と一緒にでた銭を見てみれば、それはあの潰れた鐚銭ではないか。
竹筒は、先日使えなくなった火吹き竹。
使い古した火吹き竹と鐚銭、大晦日などに行われる貧乏神封じの呪い道具である。
なるほど、この呪いを知っていたのか、どこで知ったのか知らないが、お陰で紫苑の目的は達せられなかった。
「やれやれ、あまり心配をかけないでくれよ」
彼が苦笑してそういう。
心配をかけたつもりは無い、ただ、事を解決しようとしただけだ。
だというのに邪魔されて、紫苑の機嫌は治らない。
しかし、起源が悪かろうと不貞腐れていようと、紫苑には問わねばならない事がある。
「あのお金、どうしたのよ」
このボロ小屋に、百円もあった記憶は紫苑には無い。
ましてや、隠し持っていた様子もなく、手に入れる手段もあるとは思えないのだ。
彼は、そんな紫苑の疑問にさもありなんと頷いてこう言ってのけた。
「うん、借りた」
「は?」
「だから借りたのさ、ほら親父の知り合いの二千円貸してくれてる人から」
「はぁ!!?」
借金返済のために借金をする。
聞かない話では無いが、それはどん詰まりの者がする事だ。
借金に関して何も解決などしていない。
「それじゃ、増えただけで何も変わらないじゃない!」
「利子が違うだけでもだいぶ違う」
「そうかもしれないけど!」
確かに、高利貸しに借りているよりはずっとマシかもしれないが、マシというだけだ。
「何考えてるのよ……」
「そりゃあ、まぁ、巫女様が動いたと聞いたら取れる手段はもうそれぐらいしかなかったもんだから」
「巫女が何の関係があるのよ」
「だってあの借金なんとかしないと、お前が巫女様に退治されるじゃないか」
あっけらかんと言う言葉に、紫苑は一つ身じろぎをする。
たぶん、彼が自分の意図を察している。
「お前、あの金貸しの旦那を貶めた上で、自分が巫女様に討たれるつもりだっただろう」
言い返せない。
何故ならば図星だからだ。
「……ったく、今回の事を自分の力のせいだと思ったか?」
「そうよ」
紫苑は、力無く呟いた。
ただでさえ多額の借金が、更に増える、しかも本人の与り知らぬところで。
貧乏神である紫苑の力以外の何物であるというのだろう。
だから、紫苑はとうとう自分の力に嫌気がさしてしまったのだ。
「だから、巫女に倒されて消えてしまいたかったのに」
「それじゃあ俺はどうなるんだよ」
少しばかり、怒りが滲む彼に、紫苑は意図が解らず眉を顰める。
自分が消えたから、彼がどうなると言うのか。
「……あの時、兄貴の死と借金を知った時、そりゃあ辛かったさ、けど……それを救ってくれたのはお前だよ紫苑」
「私、が?」
「あぁ、まだ俺にはお前がいる。だから、絶望してる暇なんかないってそう思ったんだ」
「だって、それは私の力で……」
「確かに、そうかもしれないな」
彼自身から、紫苑の力の災禍を言及され、紫苑は弱く震える。
自分でそれを知り、妹や数多の者から突きつけられても尚、なんともなかった事実。
しかして、彼の口からのそれは、紫苑にとって心を苛むものであった。
「けどなぁ紫苑」
優しい、声がする。
紫苑を苛んだ声が、逆に紫苑を包む。
「俺は、お前が呼び寄せた災禍であったとしても、お前がいてくれればそれを背負える気がするよ」
「な……なによ、それ」
「そのまんまの意味さ」
彼は笑う。
あざけるのではなく、正しく清い意味での笑みだ。
「言ったろ、俺はお前がいてくれて嬉しいって。それは、今でも変わらないよ」
「それは、そんなの……」
「そんなの、在りえないって? そんな事ないさ、兄貴が死んだことよりもお前がいなくなった事の方が俺にはずっと辛かった」
独りきりの家が、寂しかった。
けど、それだけでは無かった。
紫苑が居なくなったことが、その事自体が、彼の心に穴をあけてしまう程に辛かったのだと。
巫女が呼ばれた時、紫苑の死を予感した時、何物に代えても防がねばならぬと奮起したのだと。
そう語られ、紫苑は驚きを隠せない。
そんな事を語るものは、いままで誰も居なかった。
妹の女苑ならば、近しい事を言うかもしれないが、おなじ禍神でもない、人間から言われるなど。
「紫苑」
彼が、名を呼ぶ。
貧しき神ではなく、愛しき花を抱くが如く。
「これから先、旨い物なんか食べさせてやれない、腹いっぱいって事だって稀だろう
綺麗な着物も無理だし、ましてや小間物だって買ってやれない
きっと、大変な事が多くて楽な暮らしはできない
けど
けれど
なぁ、紫苑、それでも、俺と一緒に居てくれないか」
嗚呼、と感嘆の思いと共に、紫苑の心の何かが一つづつ焼け落ちてゆく。
この熱い気持ちを、紫苑は初めて知る。
「馬鹿ね」
皮肉を言おうとしても、上手く行かない。
「女への口説き文句としては最低の類よ」
何を言おうと、自分が緩んでいくのが解る。
「美味しいもの食べたい、綺麗に着飾りたい、お金いっぱい使ってうんと楽したい」
その願望の全てが、些末に思える。
だから、だからこそ。
「でも」
そう、だからこそ。
紫苑は、自分がどんな顔をしているのか、全然わからなかった。
だって、全部初めてなのだ解るはずが無い
ただ一つ、一つだけ言える事があるとすれば。
「私には、お似合いなのかも」
きっと、今の自分は、とても幸せな顔をしているのだろうと。
そんな予感があるだけで。
そしてそれは、何一つとして間違っていなかった。
* * *
Ass(アス)とは驢馬の事である。
驢馬は古において神聖なるものとして扱われた。
その頭は男根に譬えられ、男性と女性の双方を持つ両性具有の神として崇められた。
偉大なるローマを開きしロームルスはパラティヌスの丘にてこの神を祀り、それは宮殿(palace)の語源である。
中東では生命-ハオマ-の大樹を護る聖獣であり
ギリシャでは家庭と竈の女神ヘスティアの純潔を護った功績により、女神の神使となった。
聖書においても救世主は驢馬に乗り聖地へと赴いたという。
驢馬が顕すものは勇気・忍耐・貧困・謙譲・平和。
苦難を背負い、荒野を往く。
それでもなお、気高く強くあらんとする輝かしき人の在り方である。
>>綺麗な着物も無理だし、ましてや小間物だって買ってやれない
>>きっと、大変な事が多くて楽な暮らしはできない
>>けど
>>けれど
>>なぁ、紫苑、それでも、俺と一緒に居てくれないか」
せっかくのカッコイイ台詞が、閉じ括弧の重複のせいでアホなプログラマーの仕事みたいになっちゃってますよ
あと個人的には使いまわしだって開き直らないほうが良かったと思います
素晴らしいですね。しかしここだけ少し。
何せ銭がないのだ。家にあるのは古い物と安い出来損ないばかりなのだ。
あるいは安かろう悪かろうという表現を使う……どう使えばいいかな。
とにかく私は面白いと思いました。もっと面白いものが投下された時のために90点にしておきます。
この先の二人がどうなるのか心配でたまらない
ただ、少なくとも今回はこの男キャラが、紫苑の恋愛相手としてカチっと嵌まったような気がしていて、最後まで二人の行末をハラハラ見守ることが出来ました。紫苑お姉ちゃん可愛い。