寒い寒い冬の、何て事の無い一日が終わろうとする夜の事。
幻想郷のとある場所にあるお屋敷に、こたつに当たりながらコクリコクリとよだれを垂らし船を漕ぐ、橙の姿がありました。
こたつのある居間には時計の音だけが響き、その針はこぞって上の方を向いていました。
その時間は普段なら橙はお屋敷にある自室に戻り、すやすやと心地よく眠っているはずの時間でした。
いつもより長く居間にいた橙ですが、別にそこで何かを待っていただとか、何か作業をしていたとかいうわけではありません。
橙はただ、夕食後の満腹感と、こたつの暖かさに負けて、ついうつらうつらと居眠りをしてしまっているだけなのでした。
「ひゃう!」
うつつに階段を踏み外す夢を見て、つられて橙はビクンと体を跳ねさせます。
同時に鳴ったゴンという音は、橙のつま先がこたつの足にぶつかる音です。
それに続いたのは押し殺した様な唸り声でした。
橙は目に涙を浮かべながら、しばらく足をさすりました。
足の痛みが引くと、今度は壁に掛かっている時計を見上げます。
「もうこんな時間」
橙はそう言うなりこたつから抜け出しふらふら立ち上がると、まだ眠たそうに目をこすりながらこたつと部屋の照明を消しました。
こんな時間では、お屋敷に一緒に暮らす紫や藍も自室に籠もって居間にはやって来ないでしょう。
居間から出ると、橙は自室を目指してひんやり薄暗い廊下を歩きました。
お屋敷はとても広いので、廊下は居間から橙の自室に行くまでに幾度も曲がりくねり、両脇にはいくつもの部屋の扉が並びます。
橙はその隙間から見える真っ黒な部屋の暗闇や、時折風に揺られてゴトゴトと鳴る扉の音を怖く感じて、思わず足の進みを早めました。
そうやってぎこちない足取りで廊下を進み、何度目かの角を曲った時の事でした。
橙の目の前に、すき間からうっすらと明かりがこぼれる扉がひとつ現れたのです。
「こんな時間に、どうして……?」
その扉の向こうは台所になっているのですが、こんな時間に台所の明かりが付いている理由が、橙には思い当たりません。
何でだろう?
泥坊? おばけ?
怖いなあ。怖いなあ。
でもやっぱり気になっちゃうなあ。
恐怖心と好奇心。勝ったのは好奇心でした。
橙は勇気を振り絞って手を伸ばし、ゆっくりと扉を開けました。
襲ってきたまばゆい明かりに目をくらませながらも、橙は懸命に中の様子を覗います。
「おや橙、もう寝ているものかと思っていたよ」
明るさに目が慣れる前に聞こえてきたのは、泥坊の声でもおばけの声でもありません。
次第に見えてきた光の先には先程の声の主、割烹着を身に着けた藍の姿がありました。
藍は子供の胴程もありそうな大きな紙袋を重たそうに抱えていて、普段綺麗に整頓されている台所はいつもより散らかっていました。
「藍さま、こんな時間に何をしているんですか?」
橙が不思議そうに尋ねると、藍は紙袋を床に置いてから優しく微笑んで手招きをしました。
橙がそれに従って側に寄ると、藍はその紙袋を開けて見せました。
「わあ、大豆がたくさん」
紙袋の中には、固く実の締まったまんまるな大豆がぎっしりと詰まっていました。
「手伝ってくれるかい?」
それだけでは何を手伝うのかは分かりませんでしたが、橙は先ほどまで感じていた眠気も忘れて元気よく返事をして、意気揚々と服の袖をまくりました。
「うん、その意気や良しだ」
藍は満足そうに橙を褒めると、台所の隅にある棚の奥からザルを取り出して橙に手渡します。
「では、それを使って一緒に大豆を洗っておくれ」
そう言って藍が両手で大豆をすくい上げ、橙はそれをザルで受け取ります。
大豆はザルの上で転がって、ころころと可愛らしい音を立てました。
橙はそんな大豆の様子を面白がって、ザルをぐるぐると夢中になって回します。
そんな橙の様子を見たもんだから、藍のニヤニヤは止まりません。
橙が我に返って視線に気付き頬を赤らめて恥ずかしがるまで、藍は橙の様子を眺め続けました。
二人は水を張ったオケを使って大豆をザル一杯分ずつ洗っていきます。
オケの水はとても冷たく、橙は身を縮めながらもそれに耐えました。
洗った大豆は大きなタライに移され、橙のがんばったかいがあって気が付けば紙袋の中身はあっという間に空になりました。
しかし、一袋分の大豆を洗い切ってもタライにはまだまだ余裕があったので、橙はまた新しく大豆の詰まった袋がいくつも出てくるんじゃないかと、赤くかじかんだ手をこすりながら不安に思いました。
「藍さま、まだまだ続きがあるんですか?」
「いいや、後はそのタライに水を張って、今日の作業は仕舞いだよ」
そう言って藍はホースを使ってタライに水を入れていきます。
橙はもう冷たい水に触れなくて済むのだとほっとしてタライに水が注がれるのを眺めました。
タライの中では水の流れに乗って大豆がくるくると賑やかに舞っていて、橙はまたもそれに見惚れてしまいます。
それを見つめる藍の表情は言うまでもありません。
「藍さま、ちょっと思ったんですけど」
藍がタライいっぱいに水を入れ終わってすぐ、静かに底に落ち着いた大豆達を寂しげに見ながら橙が聞きました。
「何だい?」
「このタライは、この大豆の量には大きすぎるんじゃないですか?」
「いいや、これくらいでちょうどいいんだよ。このまま一晩漬けておくと、大豆が水をたっぷり吸って今の倍以上に膨らむからね」
「そんなに」
「ああ、今は金平糖程しかないこの大豆も、明日の朝には普段食卓に上がる煮豆程の大きさに膨らんでタライから溢れんばかりになっているはずだよ」
それを聞いて橙は驚きつつも感動して、タライの中の大豆を今度は愛おしそうに見つめました。
「そっかあ、でもそんなに沢山の煮豆、食べきるの大変そうですね」
橙がそう言うと、背を向けて後片付けをしていた藍はしまった、という顔をして橙の方へと振り返ります。
「すまない、そういえばまだ教えていなかったね。今やった作業は煮豆を作るためではなくて、味噌を作るための下準備だったんだよ」
それを聞いて橙はまた驚きました。
今まで何気なく口にしていた味噌が一体何で出来ているかなんて考えた事も無かったからです。
例え考えたとしても、それが大豆で出来ているだなんて思いつきもしなかった事でしょう。
「え! おみそが大豆だったなんて知りませんでした」
「ふふ、新しい事を知ってまた一つ成長したね。最も、味噌を造るには大豆だけでなく、塩とあともう一つの材料が必要だがね」
そう言って藍が棚から取り出したのは、白いさらしの入った大きな木箱でした。
橙に見えるように中のさらしをめくると、中には淡く黄色い小さな粒が沢山入っていて、粒の表面は砂糖菓子の様につやの無いざらざらとしたもので覆われていました。
「お米…… ですか?」
「お米、だったものかな。これは米麹といって、蒸した米に麹菌を撒いた後、それを暖かい場所で醗酵させて造った物なんだよ」
「こうじ…… はっこー……?」
「そう、水を吸わせた大豆を明日しっかり煮た後潰して、塩とこの麹を混ぜて一年程置いておけば味噌の出来上がりだよ」
「一年もですか? お料理みたいに、ゆでたり混ぜたりするだけでできるものじゃないんですか?」
藍の説明がまるで理解できなかった橙は、悩ましげな顔をしながら藍と米麹を交互に見て精一杯考えましたが、そうやっても頭が余計にこんがらがってしまうばかりでした。
そんな橙の様子を見て、藍は何とか橙が理解できる説明方法は無いものかと橙と同様に頭を精一杯働かせて知恵を絞ります。
「そうだねえ、米麹の事を橙に分かり易く例えるなら、米という素材に、麹という目に見えない程小さな式をたくさん憑けたもの。と言った所かな」
「式…… じゃあこの白いつぶは大豆をおみそに変えてしまう力をもっている式で、それが一年間もずっとがんばって、それでおみそができる。ということですか?」
橙がなんとなくでも麹について理解できたのを見て、藍は我ながらいい例えを思いついたものだと気分を良くして、少し得意げになって返事を返します。
「その通り。この式は大した奴でね、大豆を味噌に変えるだけでなく、醤油や酒、橙の大好きな甘酒だって作り出してしまう奴なんだよ」
「へえ、すごい! 藍さまはそんなこともできるすごい式も持ってるんですね!」
橙は目をきらきらとさせながら興奮して、思わず藍に抱きついて嬉しそうにしながら尊敬の眼差しを藍に送りました。
「いやいや、式と言うのは例えであって、私の式という……」
そこまで言って、藍は言葉を止めてしまいます。橙の様子に異変を感じたからです。
橙はたったさっきまで大喜びで笑っていたと言うのに、突如しゅんと暗い表情を見せた後、その顔を藍の体にうずめてしまったのです。
「ちぇん……?」
突然の事に、藍は自分でも間抜けだと思えるような声で橙の名前を呼びました。
橙は藍の声掛けにも返事をせず、逆に顔をより強く藍の体に押し当てて、服をぎゅっと掴んで放しません。
「どうしたんだい? どこか具合でも?」
そこまで聞いて、ようやく橙は首だけを僅かに横に振って精一杯の返事をします。
よく見ると、橙は時折り体をぴくっと震わせていて、うずめた顔からは堪えきれずに漏れ出た嗚咽が微かに聞こえていました。
藍はそれ以上もう何も言わずに橙の頭をやさしく撫でて、橙が落ち着くのをずっと待ちました。
「……ごめんなさい」
しばらくして、少し落ち着きを取り戻した橙がようやく顔を離して、涙をぬぐいながら藍に言いました。
「良いんだよ。でも、一体何がそんなに悲しかったんだい?」
藍の問いに、橙はまた泣きそうになるのを必死に堪えながら、うつむいたまま弱々しくそれに答えます。
「はじめは嬉しかったんです。おみそだけじゃなくて、お酒やあま酒までつくってしまうすごい式を藍さまは持ってるんだって。でも、わたしも同じ藍さまの式なのに、わたしにはそんな事できなくて。できるのはお家のお手伝いぐらいで。それがくやしくて、くやしくて……」
そこまで何とか喋った橙は再び大粒の涙を流しながら泣き出してしまいました。
気持ちを言葉にする事で余計に悔しい気持ちが強くなってしまったのか、今度は涙も声も全く抑える事ができずに、大きな声をあげて泣いてしまいます。
藍はそんな橙を抱きしめながらなだめつつ、式の例えは失敗だったな、と後悔しました。
長い間泣き続け、少しずつ落ち着き始める橙を撫でながら、藍は思い込みとはいえそうやって悔しがる橙の姿を目の当たりにして、それをとても頼もしく思いました。
今の自分に満足せず、少しでも力を付けて役に立ちたい。
そんな野心や心意気が橙に無ければこんなにも悔しがる事は無いと藍は考えたのです。
「悔しがるのはいい事だ。でも、そんな事気にする必要は無いんだよ。例え同じ私の式であって、それがどんな力を持っていようとも、橙を凌ぐ式などありはしないよ。何故なら……」
そこまで言って、藍はまた言葉を止めました。
腕の中に居る橙は力なく藍に寄りかかり、そのまますーすーと寝息をたて初めてしまっていたのでした。
「やれやれ、笑ったり泣いたり眠ったり。忙しい奴だねお前さんは」
苦笑しつつも、自らの全てを預けて無垢な寝顔を見せている橙を見て、藍はより一層橙を愛おしく感じて思わず顔をほころばせます。
起こさない様、藍は慎重に橙の体を抱きかかえると、そのまま橙の自室へと向かいました。
布団に寝かしつけると、橙は一瞬目をあけたものの、藍の顔を見るや否や、安心しきった笑顔を見せて、そのまますぐに穏やかな顔でまた寝息をたて始めました。
「何故なら、何故ならこんなにも、私の心を惹き付けて放さない者など、橙をおいて他には無いのだからね」
寝室からの去り際、藍は静かに眠る橙にそう言い残して、静かに扉を閉めました。
式の例え以外に、何か分かりやすい言い方は無いものか。
藍はまた頭を悩ませつつ、自らも明日に備えて自分の寝室へとあくびをしながら向かうのでした。
お味噌って、時間さえかければ家庭で作れるのですね。自家製の味噌って美味しそう。
健気な橙が微笑ましかったです
初体験となる味噌作りに純粋な反応を示す橙が可愛かったです