この話は一夜にて終わる。多くの者が知らぬまま忘れ、知る者も記憶から拭い去ってしまう程度の時間ではあるが、それだけに味わっておく価値もあろうというもの。
さて、幻想郷に住む大方のものは幻想であり、であれば夜もただ翼を広げて大地を覆えばいいというわけにはいかぬ。闇はあらゆる色を持つ帳となり、掛けられる場所によって異なる絢爛の景色を見せていた。隅々まで夜であるならば地上に黒ならざる森はなく、雲で月が隠されたゆえに影ならざる山はなく、眠りが支配するために闇ならざる里はなかった。
だがそのいずれでもない場所、外れであり半端であり地域の境界線上である侘しい野原に依神姉妹が居座っていた。完全憑依を主体とした異変から少しばかり後のことであり、何かしらの理由によりおそらくは嫌われ、追い立てられた末にやむをえず過ごしているらしく、姉の紫苑が地べたに転がり寝息をたてている側で、妹の女苑は所在なさげに己の手指を眺めている。寝床と決めた場所は群生から外れて成長した一本の樹の側であり、一枚の敷物すら持ってはいない。
雲が動いて欠片ほど覗いた月のために結び
普段は地底で暮らす土蜘蛛だったが、時折り得意な建築の腕を振るうべく地上へ出てくることがある。今宵も山の神から秘密襟に工事を頼まれた者たちに混じって、彼女──黒谷ヤマメは存分に手を貸し、振る舞い酒と土産を腹の中へ入れて住処へ帰る途中だったのだ。
「アンタ、ご飯の妖怪だろ」
「なんだって?」
「見たこと無い顔だし、そうに違いない。ちょうどお腹減ってたんだよね。何かちょうだい」
「メチャクチャだねぇ。
答えながらヤマメが取り出した命名決闘のカードを見て、煩わしげに女苑は手を振った。
「すっごい疲れてるから、そういうのはパスで。買い取らせてくれない?」
ヤマメがよくよく見れば相手の綺羅は汚れ、所作の端々から疲れも滲んでいる。寝ているもう一人といえば、口にするのも哀れなほど。辺りに決闘を行った形跡も無く、影の中の影にただ荒んだ二人がいるだけだった。
「握り飯でいいならふたつあるよ。なんでも奇跡の味がするってさ」
ヤマメは腰に巻き付けていた笹の包みを解きはじめた。余り物を帰りにつまもうと首尾よく持っていたのだ。
女苑がヤマメへ小粒を投げると、空中でかすかな光が射して宝石の色がうつろった。色変わりを見せる宝石。地底ではどのような類であれ石など珍しくもないが、これは別。だが一食の値としてはいささか豪奢にすぎ、魂胆を推し量れずにヤマメが石を透かし見ていると女苑は笑って言った。
「そいつは偽物。模造の変色
「人間は訳がわからんからね。それはともかく、外からの品ねぇ」
「あー。土蜘蛛には忌み品だとか?」
「いやいや。なるほどなぁ、という意味の言葉だよ。」
「それでふたつともくれないか」
「いいとも」
包みをそのまま女苑の胸へ放り投げ、再び闇の中へ戻ろうとしてから水へ落ちた墨のごとく緩やかにヤマメは振り返った。
「やっぱり私のがちょっとばかり得だね。オマケをあげるよ」
いずれから取り出したものか闇色の小さな玉を指がつまんでおり、さして動いたとも見えぬのに弾かれるように勢いよく女苑の手の内へ飛ばす。
「いい夢を。我が
今度こそ黒の向こう側へ歩み去ったヤマメの背に傲慢な苦笑を投げつけると、目を瞑ったままの姉を疫病神は見下ろした。
「蜘蛛ごときに
ひとりごち、それからいそいそと握り飯を食べはじめ、すぐさま平らげると続けざまにもうひとつを口へ入れようと試みたが、指を止めて土の上で眠る紫苑の寝顔を見た。いつものように凍った葦のような声でひもじいと言いながら眠りについた光景を思い出し、残った握り飯は包みごと姉の椀へ入れた。それから黒百合じみた色のオマケと飯の入った椀とを交互に見ていた女苑は、静かに玉をつまんで見つめた。
「奇跡とやらは米の味がする。ならこっちは?」
安らぎのためではあった。愉快ならざる今日に対しての当てつけを含み、同時に惰性と忘却のための眠りはしかし、訪れなかった。
夜は夜。ただし夢の中。ただの闇にすぎぬ闇の中で、女苑は暗い神殿を見上げている。現とは違う働きのためか見えずとも目は輪郭を捉えており、それによると石台と石壁が黒撫子じみて立ち並び、奥には複層の建物と装飾の刻まれた暗い円柱が生い茂るように聳えていた。広大な土地をぐるりと囲む壁には時折り陰が房となって垂らされているようだったが、あまりに高い場所にあるため(もしくはあまりに暗くなっているために)正体を判別することはできないまま。疑問を捨て置いてから女苑は壁沿いに歩きだし、すぐにこれら巨大な造物がわずかな時間で、おそらくは一夜かそこらで建てられたものだという確信を得た。よく見えぬまでも地面には用途の分からぬ部品や壊れた道具の欠片が散らばり、足裏へひね回された土の形が伝わってくるからだ。恐るべき造成にはよほど工事に堪能な手足を使ったとみえ、地べたに絡みあい
足音すら吸い上げていく静寂の中をしばらく進み、風のないために毛ほども揺るがぬ不可視の陰房を数えるのも飽きてきたころ、空を押し戻すほどの丈高い神殿の最上部から水平に伸びる光の線が見えた。その先は闇の向こうのさらに奥、地平線すらも越えていくようであり、薄弱ながらも白あざやかな光を支えるのは神殿と同じ高さをもつ壁と知れた。あれは神殿の中身のために続く道なのだろう。神の命による一夜にして建てられた荘厳建築物へ吸い込まれていく人々の信仰。すなわち富である。
──奪おう。
疫病神は決意した。野に生える果実をもぎ取るがごとく見境なく、無関心に。あれほどの富を持つのであれば、胸いっぱいになるほど奪ったところで何ほどのこともなかろうと。あるはずの入口を見つけんがため彼女は壁の周りを調べはじめた。少しずつ星か月でも出てきたのだろうか、辺りへわずかながら白い光が芽生えはじめたようだったが、相変わらず壁や神殿の細部は見えず、足元の訳もわからぬ残骸は足蹴にされるばかり。彷徨う内に、ふと目先や背後を何かが横切っていく気配を感じた。それは敏捷な丸みを帯びた獣のよう。例えば黒い猫などにふさわしい漂い方だった。
──姉さん?
女苑が立ち止まる。夢の世界はひとつの世界であり、もしくは一人の世界である。必ずしも同じ夢の中にいるとは限らないが、それにしてもよく知る気配は色濃く香り、いつものように近くを姉が浮遊しているかのような感覚すらあった。
違和感が
女苑が壁に背をつけるのと同時に一番近くの足跡と周りの土が消えた。花弁が散るように世界から落ちたのだ。穴をのぞけば二十重色の色彩が狂咲する空間がポッカリと口を開けており、ところどころに黒檀を削り出したと思わしき柱が林立しているのが見えた。どうやら造夢主は世界すら一夜で建ててみせたらしい。疫病神の手から指輪が一つこぼれ落ち(ありえぬ事だ)、不明の光に煌めいたかと思うやすぐさま燻るような色に変わり、地面を転がりながら萎びて枯れた。
──ふざけた夢。
動揺を覚えた者の常として言葉が口をついて這い回ってしまったことを意識しながらふらつくと、目の前に伸びる壁へ拳が思い切り振りおろされる。蛇の吐く唾のごとく。殴りつけられた壁は傷ひとつ、震えひとつ差し出さなかった。唾棄を受け止めた天のごとく。さもあろう。自惚れと傲慢に塗りたくられた疫病神の拳は取りたてるため、奪うために弱き者へ対して振るわれるものであり、強いものには蝶が止まるほどにも効きはすまい。神体からは程遠い殻を撫ぜるのが精一杯といったところ。つまるところ、女苑は弱い神だった。
──その時のためにすべてを燃やす生き方をするような。
またもや転びでた言葉を見つめてしまわぬよう顔を背けた女苑の中で渦巻くのは猜疑である。寝る前に口にした玉が原因としか思えないでいた。土蜘蛛。病の運び手。このような夢にかかる病などあっただろうか。あるのだろう。不完全な言葉を培養地にするすると伸び、葉ざわりの音を降らせてくるほど高いところで付けられた名前がきっと。実際このような目にあった女苑でさえ反駁するであろう分類指定構文。
黒猫が壁の中を駆けていった。
綿毛となって飛びかけた分別が彼女の中へ戻ってくる。
──信仰を集めるのも、私がいただくのも中身は同じこと。取り立てのこすっからい貧乏性ども。しみったれの強奪者たち! 力の限りに奪えないのなら、全てをかけて使い切ることもできないじゃない!
声が壁を打つたびに遠方の光が輝きを増した。呼応するように長けていく信仰の光を眩しそうに見てから、根深い闇の方へ疫病神は遠ざかる。希薄になっていく彼女と替わるように
──神から与えられる富を福という。すると神が奪う富はどう名付けられているのだろう?
──贄? より大きなものへ捧げられるために設けられた血肉と同じく、喰らわれるための神格もあるのではないか。
黒猫が篭った音を起こした。
世界中の足元が崩落していく音を初めて女苑は聞いた。地面が次々と剥がれては内側へ落ち込んでいき、神殿のあたりをのぞけば混沌とした黒がなみなみと
──落ちてしまおう。あの光は目が焼ける。
踵に体重をかけて傾斜していき、浮遊する感覚に包まれた女苑は自らを包む感覚が熱夢のものだと思い至った。
風が吹いた。
颯々と、ただの一回。黒い毛皮を持つ獣のような風に思いきり吹き上げられた身体は地面へ投げ戻され、足から着地すると踏みとどまろうとして手のひらを壁に押し付けた。体よく転ばずに呻く女苑が指に異様なものを感じて手を離すと、そこには督促状と書かれた紙が一枚貼られていた。いつも彼女が使用しているものと瓜二つ。だが何の意味が? 目の前のものから取り立てるものなど一つとしてない。貸したものなど無いのだから。もしあるとすれば、それは何かが奪い去られた後であり、きっと取り返す手立ても力も失ったあとだろう。
張り紙の文字がのたうつ。督促の文字が黒く、まるで獣のようにしなやかな動きでせきたてた。災厄が忍び寄ってきた時と同様のわななきを心に与えられ、意識しながら疫病神は問うた。
──姉さん?
文字は止まった。失われた。もしくは手放した。役割は果たしたのだと言わんばかりに。やりかけの用事を途中で手放すような無気力な様に妹は苦笑する。確かに役は済んでいた。女苑は夢を見ている。ただし夢の世界の女苑でもなければ土蜘蛛の病に侵されているでもない、現の女苑として立っていた。あたりを見回してみれば、そこにあるのは混沌の上に敷かれた広大な神殿群。ただし一夜越しの安普請。天衝く頂きに向けて手ずから運ばれる信仰の光。刈り入れを待つ稲穂に過ぎぬ。
鼻で笑いをたてると、女苑は拳を作り半歩引いた。目がけるのは黒壁、督促状の張り付いた部分。
そもそも彼女は誰にも貸したりはしない。そういった意味で督促状を正しく使ったことがどれほどあったか。貸借契約など理由にならない。これはただ奪うための象徴にすぎず、金を巻き上げることができるという機能だけを果たす札だった。ただ奪うための象徴。強奪を命名したにすぎぬ。
──姉さん。
自らを思い出させてくれた者へ呼びかける。聞いていようといまいと女苑の知ったことではない。姉たる貧乏神のことなど、妹たる疫病神にとってどれほどのことがあろう。
では何故ふたりは姉妹なのか? 幻惑がもう一度追いすがってきたものの、蛾が唾を吐くようにして強奪者は猜疑を棄てた。
見よ。いまや女苑は笑い、黄金が輝く速さで思い切り拳を壁に打ち付ける。ひとつとして音は起こらず、しかし二の腕から先を挿し込まれた壁には巨大な罅が垂直に走り、無残な傷が続々と浮き上がって蜘蛛の巣状に覆いつくしていく。一瞬ごとに渦巻いていく亀裂は泡のように膨れ、縦に断たれるとついには開花して全てが崩れていった。吹き上がる膨大な粉塵の中を悠々と歩いて進む女苑は、いま目覚めたと言わんばかりの生気を顔に宿らせて首と肩を回す。目指すのはこの地の頂き。すべての黄金が眠る場所。
さざ波を通った日光が描く網紋のような影を受けながら、小石やガラクタが地面を転がっていく。その中で女苑の足元まで跳ねてきた幾つかが飛び上がり白い指へ蔦のように巻きつくと、目も眩む輝きを放ちながら指輪へと戻っていった。装飾をなじませるようにして手指を開閉させて笑うあいだにも、疫病神の歩みはまったく止まらない──。
夢から覚めて女苑が最初に見たのは膝を抱えてうずくまる姉の姿だった。太陽はまだ浅い場所から幻想郷を照らしており、あらゆるところで一日の始まりを告げる瑞々しさが溢れているにも関わらず、貧乏神である紫苑の辺りだけは何かしらの暗さが淀んでいる。挨拶を交わすと女苑は立ち上がり、身体をほぐしながら汚れた装飾品の様子を確かめていった。
「椀に入れといたご飯は食べた?」
「落としちゃって、どこかに転がって行ったわ。ひもじいよう」
沈んでいるのはそのせいか、と女苑は納得した。まわりに握り飯が転がるほどの傾斜などありはしないのだが、そうなるのではないかとも思っていた。そういう姉なのだ。より日差しの強く当たる場所へ女苑は出ていくと、うつむいたままの姉へ顔を向ける。
「昨日は熱夢を見たよ。姉さん。わざわざ助けてくれたの?」
「夢見が悪そうだったから。でもロクに手を出せないし、どんな恨みを買ったのよ。あ。おにぎり、ありがと」
「食べてないじゃん」
ため息をつくと女苑は視線をさまよわせ、ふと土蜘蛛が去った辺りへ目をやった。そこには何も痕跡はなかったが、寝る前に出会った妖怪は確かにオマケを残していったのだ。いつものように恨みによるものではないが、かといって祝福でもない。
「蜘蛛って夢に出てくると不吉なんだっけ」
「蜘蛛が夢に託すのは吉凶の双方。見るもの次第ってところね。え、蜘蛛を食べたの?」
「食べない」
食べてないはずだ、と心の中でつぶやいて疫病神は前へ進みだした。後をついてくる紫苑へ女苑は言った。
「とりあえずおにぎりを追ってみようか」
「めんどうだなぁ。近くにあるならいいけど」
「近くにはないんじゃない」
場所に心当たりがあると言わんばかりの妹へ疑わしげな視線を向ける紫苑へ、女苑は傲慢な笑顔を返した。
「おにぎりコロコロ。となれば行く先は地底しかないじゃん」
こうして二人は地上から消えた。やがてたどり着いた地底は嫌われ者の依神姉妹にとって居心地の良い場所だったらしく、しばらくは楽しみながら暮らしていたという。しかし金目の物にまつわる事柄がことごとくロクでもないという理由で離れざるをえなくなり、その顛末についてはまた別の一夜が生まれ咲き、多くの者が知らぬまま飲み干されてしまうことだろう。
(終)
大変面白かったです
そう思いました。
姉妹にはうってつけの語り口ですね