「猫が、逃げちゃった」
世界の終わりみたいな顔をして、姉さんが言う。
いつだって私たちの手から、大事なものはみんな逃げていく。
『逃げる黒猫を追いかけて』
振り向いてすぐに後悔した。
いつも辛気臭い姉さんが、いつも以上に辛気臭い顔をして、私を見上げていたから。
「女苑……」
爽やかな朝の命蓮寺と、それに不釣り合いな暗い顔。
厄介事が来やがった。私は苦い顔を隠さなかった。
「何よ、姉さん」
私は、寺のお堂に続く石段の掃き掃除を中断すると、竹箒を肩にかついだ。
目線の先には、私の姉――貧乏神・依神紫苑は、どろどろの負のオーラをいっぱいにまとって、俯いて佇んでいる。私の顔色を伺うように、上目遣いでこちらをちら、と見た。
「……」
私と目が合うと、姉さんは視線を外した。もごもごと何か言おうとして、やめる。所在なげに、しきりに辺りをキョロキョロし始める。
――用がないなら、話しかけないでくれる。
言いかけて、すんでのところで口をつぐんだ。
私は経験上、知っている。こういう、言いたいことがあるのに言いにくそうにそわそわしている姉さんに対して発破を掛けると、余計に口を開くまでに時間がかかるのだ。結局こういうときは、辛抱強く待つしかない。
ふう、と長く息を吐いて、私は石段に腰掛けた。そこら辺に、箒を放り投げる。いい加減、掃除も飽きてきたところだ。寺の修行、クソくらえ。
私は、目で姉さんを促す。姉さんは、たっぷり十秒かけてから、私の隣におずおずと腰かけた。
念のため注釈しておくと、姉さんがいつもこんなに口下手なわけではない。
ただ情緒不安定の気(け)があるだけだ。その不安定な精神が盛り上がる方向に振り切れると、こないだの巫女との対戦のときのようになるが、それが逆の方向に振り切れるととたんに言葉少なになる。ただそれだけなのである。
そういうときがときどきあるのだ。そして、何が原因かは知らないが、今日がその、逆方向に振れたときということなのだろう。
私は、何をするわけでもなく、寺の石段に腰かけてぼけーっと景色を眺める。
雲ひとつない冬の空は高く晴れ上がっている。決して暖かくはないが、風もないせいで寒くもなかった。名前も知らない小鳥が一羽、小うるさくさえずりながら飛んでいく。
横目で、姉さんをちらりと見た。姉さんは、何かから身を守るみたいにして、膝を抱えてうずくまって、地面を見ていた。
姉さんから目線を外して、今度は境内の方へ目を向ける。朝が早いからか、参拝客はなかった。向こうで、入道使いと入道が元気よく朝の体操で体を慣らしているのが見える。朝っぱらから、よくあんなに元気なものだ。
その前を、何やら忙しそうに木箱を抱えて横切ったのは寅丸のなんたらとかいう妖怪だったか。大方、蔵の整理でも任されたのだろう。寺の本尊という話を聞いたが、そんな大層なご身分の彼女に雑用じみたことをさせていいのかは大いに疑問だった。
そうやって、意味のない妖怪観察をして、優に十分は経っただろうか。
姉さんがぽつりと言った。
「猫が、逃げちゃった」
「猫?」
私がオウム返しに訊くと、姉さんはこくんと頷いた。
はて、猫なんてものがかつて私たちの生活に介在したことがあっただろうか。首を捻る。私の記憶が確かならば、私たちの生きてきた道に、猫の影はなかった。仲のいい野良猫なんて居なかったし、ましてや、飼ったこともない。
姉さんの言う猫とは、一体なんのことだろう。
そこまで考えて、ふと気づいた。姉さんの手元に、いつも大事そうに抱えている黒猫のぬいぐるみがないことに。
「ああ、『逃げた』のね」
『逃げた』。
そう表現するのは、私たち姉妹の、癖みたいなものだった。
私たちにとって、すべての物は生きている。人だけでなく、お金も、物も。みんな生きている。だからこそ、自分の意志があるみたいに、独りでに、私の周囲の人から財は消えていくし、姉さんの元からも去っていく。
そうして、私の元からすべてなくなっていく。
それは私たちにとってどうにも出来ないことだ。
だからこそ、私も姉さんも、「失くした」ではなく「逃げた」と表現する。
そう、つまり姉さんの言葉を翻訳すると、お気に入りの猫のぬいぐるみを失くしてしまったということらしい。
はああ、とため息。
――アホらしい。
まるで、世界の終わりみたいな顔をしてるから、私にしては珍しく、ちょっと心配したっていうのに。落ち込んでた原因がただのぬいぐるみの紛失? 徒労にも程がある。
がっくりとうなだれる私の隣で、同じようにますます膝を抱えて姉さんがうずくまる。
「そうなの。私の、猫が」
「あーはいはい」
私は、ひらひらと手を振った。
「わかったわよ。代わりのヤツ、買ってあげる」
思えば、それは貧相なぬいぐるみだった。
ボロ布を繋ぎ合わせたような、つぎはぎだらけの黒い布の塊。中身がまるで入ってなさそうな、ぺらぺらと薄っぺらい代物。年月を重ねて、薄汚れた布切れ。
いつから姉さんが大事そうに持ち歩くようになったのかは覚えてないが、相当の年代物だろうということは想像に難くない。見た目だけで言えば、貧相な姉さんには確かにあつらえたように似合っていたが、物の寿命を考えればそろそろ買い替えの時期だろう。
ぬいぐるみが欲しいとねだるのはいかにも子供っぽいお願いだったが、かと言って無下にすることもできなかった。さっきまでの姉さんの取り乱しようを見ていれば、黒猫のぬいぐるみがよほど好きだったのだろうというのはすぐに分かる。そして、姉さんの貧乏神としての性質からして、その財力では代わりの品など手に入れられないであろうことも。
ようは、私に無心しに来たのだ。そう考えると、まあ、いつものことだった。
私は、もう一度ため息を吐く。
それから、お気に入りのブランドバッグを開き、財布を探す。ごそごそやりながら、私は姉さんに言ってやった。
「せっかくだからさあ、もっといいやつにしなよ。ふかふかで、高級感あるやつ。安い黒猫のぬいぐるみを持ち歩いてるなんて、いかにも不幸になりそうじゃない。もっと金運が高まりそうなさあ――」
「女苑」
私の言葉を、姉さんが遮る。
ぎょっとして私は動きを止めた。その声音は、先ほどまでとはまた違う真剣味を帯びていた。
「姉さん?」
バッグから視線を外して、姉さんを見る。
姉さんは信じられないもの見るかのように、私を見つめていた。
なぜ、姉さんは私をそんな目で見るのだろう。私は眉をひそめる。
「何よ」
「分からないの?」
「分からないって、何がよ。姉さんはお金をせびりに来たんでしょう。今さら軽蔑とかしないから大丈夫よ、お金あげるからさっさと里に行って――」
「女苑!」
姉さんが、いきなり声を張り上げた。それは怒声というよりも、悲痛な叫びに近かった。
私は、面食らって少し仰け反った。
見れば、姉さんを覆う負のオーラが徐々に濃さを増していき、姉さんを覆い隠そうとしている。その炎のように激しく揺らめくオーラの隙間から、こちらをすごい形相で睨む姉さんの顔が見えた。青黒い目が、ぎらぎらと光っている。
また、変な方向に感情が振れたらしい。
しまった、変なスイッチ入れちゃったか。
「な、何よ。私、変なこと言った?」
「女苑、あの黒猫のこと、ホントに覚えてないの?」
たじろぐ私を、姉さんはさらに睨みつける。
真剣な目。その目は、責めるかのように私をまっすぐ射抜いている。なぜか居たたまれなくなり、思わず目線をそらした。
姉さんは、怒っているのだろうか。しかしなぜ?
考える。しかし、考えてもどうにも答えは見つからなかった。
――やっぱりどう考えても、私は悪くない。
そう思い至ると、理不尽な非難の視線に、逆にだんだん腹が立ってきた。
私は姉さんを睨み返すと、反撃に出た。
「あのさあ、私は親切で言ってやってんだけど。なんで怒られないといけないわけ? 私のところに相談しに来たってことは、結局はお金を工面してほしいってことじゃない。それ以外に、私に用なんてないでしょうに」
私は腕を組んで、食って掛かった。
そうだ。私は悪くない。
黒猫がどうなったとか、そんなの知ったこっちゃない。姉さんにとってどれほど大事なものだろうが、私には何の関係ないのだ。私にとって、そんな金銭的価値のまるでないぬいぐるみ、どうでもいい。それに、もっといいのを買ってやるって言ってるんだから、お礼を言われこそすれ、睨まれる筋合いはない。
私は火がついたように、そうまくし立てた。
姉さんはその間、目を見開いていたが、やがて、こぼすように言った。
「女苑、あの黒猫は。お前が――」
最後の方は、ぼそぼそと喋ったせいで聞き取れなかった。
私が問いただす前に、姉さんはふいと視線を外すと、ふわりと舞い上がり、上空に飛び去っていった。
「逃げんのかよ」
私は、その背中に向かって、独りごちた。
* * *
昼前の人里。
私は、里一番の大通りをふらふらと歩いていた。
人里で一番賑やかと言われるだけあって、その通りにはそれなりに活気が溢れている。
両脇の店には、人気商品や看板メニューを謳うのぼりが数多く立てられ、威勢のいい商売人たちの客引きの声が、ひっきりなしに響いている。往来も多く、ときどき、人波に押されてあらぬ方向に流されそうになる。
外の世界とは比べ物にならない程度の混雑さだが、これはこれで嫌いではなかった。
私は、スクランブル交差点も広告塔の巨大液晶パネルもない繁華街を、店先を物色しながら歩いていく。
理由はもちろん、姉さんのために新しいぬいぐるみを買ってやるためだ。
喧嘩したことは私たちには割りとよくあることで、あまり気にしていない。どうせ、今までの経験から言って、すぐに向こうが折れてくるのは目に見えている。暗い顔をして、目尻に涙をためて、謝ってくるに決まってる。
女苑、ごめんね、と。
結局、彼女には何もないのだ。物も金も。喧嘩しようという気概も、自分の意見を通そうとする意志も。
――私がいないとどうしようもないんだ、あの姉は。
だから、先回りをする。
姉さんが謝ってきたタイミングで、「怒ってないわよ」って言いながら、代わりの品を差し出すのだ。それで円満解決。いつも、そうやって私たちはやってきた。
それなのに――。
「クソっ! なんでこんなにイライラするのよ!」
私は、道端に置かれた樽をいらだちまぎれに蹴りあげる。
周りから、ぎょっとしたような気配を感じる。往来の幾人かが、足を止めて何事かとこちらを見た。
ああ、うざったい。
私は遠巻きに眺める野次馬どもに睨みをきかせてから、またずんずん進んでいく。
――いつも通り。そう、いつも通りのはずなんだ。
姉さんが無心に来て、私が悪態ついて、姉さんが言い返して、ちょっと口喧嘩になって。
それで、間を置いて姉さんが「ごめんね」って謝りに来る。いつもと変わらない展開だ。
なのに、どうして胸をかきむしりたくなるのだろう。
どうして、このまますんなり終わらない予感がするのだろう。
私はまたむしゃくしゃして、今度は花屋の店頭に並んだ鉢植えの一つに狙いを定める。
そうして、足を振り上げたが、止めた。
いつしか、私を興味深げに眺める人垣が出来つつあった。さっきの野次馬たちが、懲りずに私を
観察しているらしかった。
「けっ」
私は、そのままそっと足を下ろす。
正直、周りにどう思われようが知ったこっちゃなかった。
が、それでも蹴りを思い止まったのは、人里の奴らはみんな、私のお客さん候補だからだ。ちょっと科(しな)を作ってすり寄ってやれば簡単に財布の紐を緩める上客。つまり、金品を巻き上げることを生業とする私の、所謂カモだ。
未来の金づるのためにも、ここで人里に変な悪評をばらまいてしまうのは得策ではない。
私は、きょろきょろと辺りを見回し、一番最初に目に入った店に、看板も見ずに飛び込んだ。
* * *
私が意図せず飛び込んだそこは、こじゃれた雑貨店だった。
和風の店がほとんどの人里では珍しく、店内は洋風の装いだった。壁にはめ込まれた棚や並べられたテーブルには、同じく西洋のものらしい雑貨類が、ところ狭しと並んでいる。
入り口近くの棚を、横目でざっと眺める。
ティーセットやガラス細工の調度品、食器類、木の写真立て――そんなものたちが、次から次へと目に飛び込んできた。よくもまあ、和の箱庭たる幻想郷に店を構えながらここまで集めたものだと感心する。店主はよほどの酔狂か、あるいは金持ちの道楽か。
ここなら、代わりのぬいぐるみくらいはあるだろう。
私はそう見切りをつけると、店の奥につま先を向けた。
決して広くない店内を、バッグを商品に引っかけないように手で押さえながら、慎重に奥へと進んで行く。進んだ先にカウンターが置かれており、その向こうで、初老の男性が眼鏡を拭いている。この男がきっと店主だろう。
「いらっしゃいませ」
こちらに気づいたらしい店主が、私に声をかけた。
急いで眼鏡を掛けると、カウンターを回り込み、こちらに近づいてくる。
「何か、お探しですか」
人の良さそうな笑顔を浮かべ、店主がかしこまりながら尋ねてくる。
「ぬいぐるみって置いてる?」
「はい、はい、各種取りそろえてますよ。どういった……」
「一番高いの、ちょうだい」
「は」
店主は、言葉をつまらせた。眼鏡の奥で目をしばたたかせている。
「聞こえなかった? あんたんちで一番高いぬいぐるみを、この私が買ってやるって言ってんの」
お金ならいくらでもある、値段を聞くまでもない。
私が、いらだちを表現するみたいに、わざと腕を組んで指をせわしなく動かしてやると、やっと我に帰った店主が店の奥に引っ込んでいった。
やれやれ、これでなんとかなったかな。
私はため息を吐く。
姉さんは、喜ぶだろうか。
私は自問自答する。
喜ぶに決まってる。なんたって、この女苑が、その財力を駆使してプレゼントしてやるのだから。姉さんは、私と違って、持たざるものだった。私が恵んでやったものなら、今までだってどんなものでも喜んだじゃないか。
だから、今回もこれでいいんだ。
なのになんで。
なんでこんなに、心がざわつくんだろう――。
「お待たせしました。こちらが、当店一高価なぬいぐるみになります」
はっとする。
どうやら、今度はこちらがぼうっとしていたようだ。見ると、店主が一抱えもある大きなうさぎのぬいぐるみを持って、立っている。
私は、店主が差し出すそれを、うやうやしく両手で受け取る。
腕の中に抱かれたそれを、しばし黙って見つめた。
――女苑、あの黒猫は。お前が――
私は、思い起こす。今朝の姉さんの言葉を。
あの黒猫は、私が? その続きは? はたして、姉さんは何と続けようとしたのか。
姉さんは本当に、このうさぎを喜んでくれるのだろうか――。
私は、大きく頭を振る。
迷いを吹っ切るようにお金を叩きつけると、目を白黒させる男を尻目に、お釣りも受け取らずに店から飛び出した。
* * *
「ふう」
飛び出した店先で、深呼吸。
気持ちをいったん落ち着けるため、深く息を吸って、吐く。
それから、受け取ったうさぎを、改めてまじまじと観察する。
上質らしい生地の肌触りが上品な、なんとも品のあるぬいぐるみだった。抱き締めてみると程よく弾力があり、ふかふかしている。確かに高かったが、なるほど値段に見合うだけの出来映えだ。
私は、抱き締めたその大きなぬいぐるみに、顔を埋める。
これなら、きっと姉さんも満足するよね。
想像する。
私の慈悲深いぬいぐるみのプレゼントに、涙をぼろぼろこぼして感激する姉さんを思い描く。その頭の中の映像は、私を微笑ませた。ぬいぐるみを抱き締める腕に力が入る。
ふと、視線を感じた。
そちらを見ると、まだ年端もいかぬ童女が、物欲しそうな顔で私のぬいぐるみを見ていた。薄汚れた麻の着物を着たその童女は、乞食とまではいかないまでも、見るからに貧乏そうな家の子どもだった。
私が見つめていると、それに気づいたのか、童女も私へと視線を移す。
私と目が合う。
その瞳。
あどけなさの残る瞳の中に、私は見た。人の物をうらやんでやまない、貧するもの特有の浅ましさの光を。
かつてどこかで見たような、その光。
「何よ。これは私が買ったの。私のなのよ。悔しかったら、大人になって自分の金で買いな」
しっしっ、と煙を払いのけるように手を振り、童女を追い払う。童女は、一目散に逃げていった。
それを見送ると、ぬいぐるみを抱き直して歩き出す。童女が逃げた方とは、反対の方向に。
――果たして、彼女のような貧困の生まれの者が、将来、この高価なぬいぐるみを買えるような金を手にするだろうか。
そんなの分からなかったし、分かる気もさらさらない。
* * *
さて、どうやってこれを渡そうか。
考えながら歩いていたら、いつの間にか登り階段を踏みしめていた。顔を上げれば、階段の先に寺の境内、さらに先に、もはや見慣れつつあるお堂が見える。どうやら、命蓮寺に帰って来てしまったらしい。
私は、自分が思っている以上に、ここに愛着があるらしい。自嘲気味に苦笑する。ちょっと迷ったが、ここまできたのだ、階段を登り切ることにした。
私は、一度、寺を離れている。
例の完全憑依事件の後、私は更正のためと称し、寺で修行僧の真似事をさせられた。そうやってしばらくは寺で過ごしたものの、私はその後、寺から去った。
寺での生活や住職の教えが、私の心に全く響かなかったといえば嘘になる。修行を通し、私なりに思うところはあった。が、結局私が選んだのは、人から貢がせ、金品を巻き上げる、元の疫病神生活の方だった。
質素倹約な慎ましい生き方は、私には性に合っていなかった、ということなのだろう。
だが、どういうわけか。
寺から出た私は、元の疫病神生活に、以前のような魅力を見出だせなくなっていた。
溺れるような大金も無駄に高い美酒も高級店で流れる美麗な音楽も――かつて楽しかったその全てが。なぜか、今の私にはそぐわなかった。全力で楽しんでいるつもりでも、ふとした拍子に、どこからか隙間風が入ってきて私の心に吹きつけるのだ。
空しい。
私の目の前を逃げていく人や物や金たちを見送っては、そんなことを思った。
そうして、気がついたら、寺の土を踏んでいた。寺を去ったときに何も言わなかった白蓮は、やはり何も言わず、ただ私に雑用を申し付けた。
そうやって、片一方の生き方に飽きたら、もう片方の生き方に戻る。
そんなどっち付かずの生活を、私は続けている。
私は気づけば腰掛けて思案にくれていた。
お堂に続く石段だった。今朝、姉さんと一緒に座った、ちょうどその位置に、私はいた。
私はいったい、どうしたいのだろう。
私は、以前のように金品に溺れ、贅沢に暮らしたいのか。それとも、寺で説くような、貧しくとも清くある生き方に惹かれているのか。
私は首を振った。
違う、今考えるべきは、姉さんにどうやってぬいぐるみを渡すかのはずだ。
姉さんは今、あのちんちくりんな天人崩れと一緒に天界にいるはず。いや待てよ。今朝はここで会ったんだから、まだそこらにいるかもしれない――。
「女苑や」
声が降ってくる。
顔を上げた。天高い太陽を背に、寺の住職、聖白蓮がこちらを覗き込んでいた。
「何よ、生臭坊主」
「あらあら、酷い言われよう」
言葉の割に、まるで気にしていないように、からから笑う。
「いや別に、貴方に用があった訳ではないのですけどね。ちょっと、思い悩んでいるように見えたから」
「別に、悩んでた訳じゃ」
そこで、言い淀む。彼女の目は、優しい光をたたえて私を見据えている。
私は、大事な何かを見透かされている気がして、思わず目をそらした。
「あんたには、関係ないでしょ」
突き放すような言葉を選んで、ぶつける。
はたして、白蓮は追及してくるだろうか。不安になったが、意外にも彼女はそれ以上訊かなかった。
求める者には応じるし、求めない者には執拗に善意を押し付けない。そういうスタンスなのだろう、彼女は。だからこそあの日、寺にふらっと戻ってきた私に、何も訊かずに黙って掃除道具を手渡したのだろう。
目線をそらしたまま、私は言う。
「私に用がなきゃ、何しにきたの」
「お仕事ですよ」
視界の端で、白蓮が背を向け、前方を指さした。
つられて頭を上げると、境内の奥まったところに鐘楼(しょうろう)が立っており、丈が一メートル半はあろうかという梵鐘(ぼんしょう)がぶら下がっていた。
私は、左手首を返す。
銀色に光るゴツい腕時計の文字盤を見れば、正午に近かった。なるほど、この住職は昼時を知らせる鐘を撞(つ)こうというのだろう。
しかし、あの鐘。撞くための撞木(しゅもく)が見当たらない気がするのだが、気のせいか。
「白蓮、あの鐘――」
「ところで女苑」
背中に尋ねようしたところで、白蓮が急に振り向いた。
その口調に、何かただならぬ気配を感じ、口をつぐむ。にこり、と白蓮が微笑むと、なんだか悪寒が走った。
「貴方に、境内の掃除を言いつけておいたと思いますが、終わりましたか?」
「あ」
げ、忘れてた。
私、さぼって人里にぬいぐるみ買いに行ってたんだった。
「いや、ほんと違くて、これは」
「今朝、弟子の一人がここで投げ捨てられてる箒を見つけました。まさか、言いつけを破ってどこかに遊びに行ってたなんてことはないですよね」
「ぐ」
全部見透かされてるらしい。遊びに行ってたわけではない、と反論しようとしたが、そういう話ではないだろう。
ちくしょう、こうなったら。
私は開き直ることにした。まっすぐに、彼女の瞳を睨み返す。
「何よ。前は出て行っても何も言わなかったくせに、こういうときだけお説教垂れるわけ? ずいぶんみみっちいのね」
私が喧嘩腰に言う。
白蓮は、私の鋭い視線をのらりくらりと躱すようにして、私の周りをゆっくりと歩き始めた。私は立ち上がり、彼女の動きに合わせて向き直る。
「私は確かに去るものは追いません。ただ、今回は勝手が違う。私が掃除をお願いした。貴方は引き受けた。それを反故にしたということはつまり、人の信頼を裏切ったということに他ならない」
言うと、白蓮は腰を落として身を屈めた。
突如、その体から光が迸った。姉さんの陰険な不幸オーラとは真逆の、力強く輝くオーラだ。これが、法の光というやつだろうか。
――え、ちょっと待って、なにする気なのこの僧侶。
ヤバい雰囲気を感じて、とっさに私も臨戦態勢を取ろうとするが、遅かった。
「人を裏切る行為は、信頼関係で成り立つ人の世において、最も恥ずべき行為と知れ!」
次の行動は、一瞬だった。
辛うじて見えたのは、白蓮が右手を突き出し、それを私の額に据える、その残像。そして。
「――滅ッ(めっ)!」
次の瞬間、彼女の弾き出した指が私の額に炸裂した。
その超速ターボでこぴんは、ものすごいパワーをもって私を弾き飛ばす。私は後方に、とんでもない勢いで吹っ飛ぶ。体が面白いように宙に舞ったのが分かった。
そして、そうやって空中を漫画みたいに飛びながら――。
――私は、夢を見た。
きっとそれは、端から見たら一瞬の出来事だっただろう。
しかし、その一瞬の間に、私の脳裏には洪水みたいな量のイメージが流れてきた。
今朝、姉さんが見せた、この世の終わりみたいなしみったれた顔、上目遣いで見つめる瞳、震える弱々しい声音。
逃げちゃった。
その言葉が、私の頭に響く。
逃げちゃった、逃げちゃった、逃げちゃった。
何度も何度も、私の頭の中で反響する。
突然、私の前に童女が現れる。
あの、雑貨屋の前で私と対峙した侘しい身なりの少女。彼女が、私をまっすぐ見据えていた。その目は、店先で会ったときと同じ、幼さと、隠しきれない浅ましさを宿している。
知っている。私は、その目に会ったことがある。あれは――。
ぐにゃりと童女の顔が歪んだ。徐々に変容し、新たな顔が形作られていく。そして、それは懐かしい顔に変化した。
幼い頃の姉さんだ。
今よりも幼くて、浅ましくて、それでも純粋に――何かを見据えている、まっすぐな瞳。
あどけないその顔が、くしゃりと歪む。喉から弱々しい声が絞り出された。
――猫が逃げちゃった。
幼い姉さんが、この世の終わりみたいな顔で言う。
私ははっとした。そっか、あの猫。姉さんが大事にしてたあの黒猫のぬいぐるみ。あれはあのとき――。
そこまで考えたとき。
ごおおぉぉん――。
私の後頭部が梵鐘を撞き、荘厳な音が、辺りに正午を知り渡らせた。
* * *
こう見えて、私にも質素に暮らしてた頃がある。
私と姉さんが、疫病神と貧乏神という存在として産み落とされてすぐの頃のことだ。
私たちは、貧困に喘いでいた。
私は幼かったし、それなりに純粋さも持ちあわせていた。だから、自分の力を有効活用する術なんか知らなかったし、人に貢がせるような方法も思いつかなかった。いや、心のどこかで思いついていたが、人からお金を奪って生きるような行為を拒絶した。ちっぽけな正義心だった。
当然、貧乏神の姉さんにも、金を稼ぐ手段はない。
そして当然、そんな私たちを、奉って信仰してくれるような者はおらず。
幼い神の姉妹は、日陰者として生を繋げていくしかなかった。
――女苑。
頼りないか細い声が、耳に届く。
振り向くと、ぼろ切れ同然の衣服を纏った姉さんがいた。私も当然、今みたく派手な服なんて着られるはずもなく、姉さんと似たり寄ったりのみすぼらしい格好をしていた。
何、どうしたの。
――猫。
え?
私は眉をひそめる。
私たちは当時、繁華街の裏路地を根城にしていた。飲食店や飲み屋が軒を連ねる大通りの裏で、そこは残飯を始めとした有用なごみたちが、いくらでも手に入った。
どうやら信仰がなくても、飯さえ食いつないでさえいれば消えないらしい、と気づいた私たちの、最後の牙城だった。
私たちは、生きていくためにごみを漁った。店の残飯は美味しく頂いたし、高く売れそうなものは確保して質屋で売りさばいた。それが、生活のすべてだった。
私たちに残された裕福に暮らす道が、外道しかないなら。
だったら、私たちは質素で貧しい生活だって構わない。
そう半ば意地のように誓っていた。私は幼かった。
――猫。逃げちゃった。
また。懲りないね。
そういう暮らしだから、猫はライバルだった。生きるために、お互いがお互いの食料を奪い合う。私はだから、猫が嫌いだった。
しかし、姉さんは違ったらしい。
何に惹かれたのか、たびたび仲良くなろうと猫なで声で近づいたり、残飯をネタに手なづけようとしたりしていた。
その餌付けに失敗し、また一匹、姉さんを避けるように居なくなったのだろう。
いつだって、大事なものは私たちの手から逃げていく。
私たちは疫病神に貧乏神だ。私は価値あるものを浪費させるだけの存在だし、姉さんには決して価値あるものは寄り付かない。
仕方ないな。はい、これ。
私は、「それ」を取り出す。実は、かねてから用意したものがあった。猫に近づき、逃げられ続ける姉さんに贈る、とっておきのアイテム。
姉さんは、私が取り出した「それ」を見て、目を丸くする。
「それ」は、黒猫のような何かだった。
ごみ箱に打ち捨てられてた服や小物から、汚れてない布地を切り取って。適当に中に綿とかつめて。慣れない手つきで縫い合わせて。そうやって、幼い私の手で作られた、黒猫のぬいぐるみだった。
ボロ布をつなぎ合わせたような、つぎはぎだらけの黒い布の塊。
中身がまるで入ってない、ぺらぺらと薄っぺらい代物。
そしてそれは、今この瞬間。
世界中の何よりも、とびきり「価値のないもの」だった。それゆえ、私のいっとうの自信作だった。
私が差し出すと、姉さんはおずおずとそれを受け取った。
不思議なものを見るような目で、しきりに見つめている。
ねえ、姉さん。
私たちからは、価値のあるものたちは全部逃げていく。金も物も人も、猫だって、残りゃしない。
だから、それをあげる。ごみから出て、ごみよりもなお価値のない、取るに足らないもの。
私は、得意気にふんぞり返って、言ってやった。
それだったら、きっと逃げないでしょ。
それはなんとも子供じみたおまじないだった。
金銭的価値のあるものが逃げていくのなら、金銭的価値がないものを持てばいい。そんな、私と姉さんの、ささやかな抵抗。
生きた猫の代わりが、ぼろっちいぬいぐるみに務まるはずありゃしないのに。
それでも。
――ありがとうね。女苑。
ぎこちなく、顔をくしゃっと歪めて。
姉さんは、しみったれたぬいぐるみを大事そうに抱いて、世界の終わり一歩手前のしみったれた笑顔を見せた。
ほら、私が恵んでやったものならなんでも喜ぶんだ、姉さんは。
私は、なんとなく、胸がかっと熱くなるのを感じた。
* * *
気がつくと、白木の天井を見上げていた。
どうやら、気を失って寝かされていたらしい。額と後頭部がずきずき痛む。視界がぼんやりと霞んでいる。先ほどまでの、過去の夢の残滓がまだ見えるような、不思議な感覚。
そっと頭を傾ける。寝かされた布団の隣に、いつも私が身につけているバッグとコートと帽子とサングラスが、丁寧に並べられている。さらに視線を巡らせる。部屋の壁際に、文机に向かって何か書き物をしているような背中があった。残った夢の幻影と、その背中が重なる。
「姉さん……?」
思わず呟く。
その背中が、ゆっくりとこちらに向き直った。
「おや、目が覚めましたか」
違う。
振り返った顔は、姉さんとは似ても似つかないものだった。整った顔立ちに、すっと線を引いたような柳眉、慈愛に満ちた眼。寺の本尊、寅丸なんたらその人だった。
だんだんと意識がはっきりしてきた。それと同時に、全く見当違いの人の名前を呼んでしまったことが恥ずかしくなる。
いや、寅丸は書き物をしていた。きっと、私の失言は聞こえなかったに違いない。
「ここは、私の自室です。まだ寝てて大丈夫ですよ。私は貴方のお姉さんの代わりにはなれませんが、出来る限りの介抱をしましょう」
「ちくしょう聞いてやがった」
顔が熱い。
寅丸はくすくすと優しそうに微笑んだ後、柳眉を心配そうに歪める。
「聖に介抱するように頼まれたので、とりあえず私の部屋に寝かせておいたのですが。いったい何があったのですか。誰がそんな酷いことを」
「その聖にやられたんだけど」
「えっ」
理由は隠して、聖のエキセントリック鐘つきを説明する。
寅丸は、あごに手を当てて、考えていたが、やがて爽やかに笑った。
「ならば、よほど貴方の言動が目に余ったということでしょう。聖は間違っていない」
妄信的すぎるだろコイツ。宗教怖い。
私はゆっくりと体を起こす。慌てて、寅丸が心配そうに手を差し伸べるのを、大丈夫だから、と手で静止した。額も後ろ頭もまだ痛むが、寝ているほどじゃない。あれくらいで何とかなるような、やわな疫病神じゃないのだ。
つまり、あれは体が頑丈な人のための、彼女なりの荒療治なのだろう。それにしても、限度ってものがあるとは思うが。
寅丸は不安そうに起き上がった私を見つめていたが、やがて思い出したように手を打った。
「起きたら、貴方に渡したいものがあったんです」
「渡したいもの?」
「ちょっと待っていてくださいね」
寅丸は立ち上がると、部屋をつかつかと歩き部屋を横断する。
向かった先には、押し入れがあった。襖(ふすま)を開くと、こちらに尻を向けてごそごそと何かを探し始めた。
「ええと、これじゃない、これでもない……」
寅丸の、呟くような独り言が聞こえる。それを聞くに、お目当てのものを探し出すのは時間がかかりそうな気がした。
待っている間、私は手持ち無沙汰になって部屋をぐるりと眺める。
物の少ない質素な部屋だった。
決して広くはない和室で、家具といえるのは文机と桐の箪笥があるだけ。寺の偉い妖怪に割り当てられた部屋にしては、随分と侘しく感じられる。もしかして、こいつは私が思った以上にぞんざいに扱われているのだろうか。今朝、雑用まがいのことをして境内を歩き回っていたのも、そのせいだったり。
私がそう訊くと、頭を押し入れに押し込んだまま、からからと笑い声を響かせた。
「ずいぶん、明け透けな物言いですね」
「悪いね。あんたら徳の高い奴らと違って、持って回った言い方は苦手でね」
「はは。いや、いいですよ。私も、そういう方が好きです。回りくどい伝え方を選んだせいで、伝えたい事が正しく伝わらないよりも、ずっといい」
寅丸は、やっと頭を押し入れから引き抜く。
探し物が終わったのかと思ったが、どうやら違うらしい。一抱えもある木箱を引っ張り出すと、部屋の中央に置いて、またごそごそやり始めた。
「私が、この部屋の割り当てを志願したんです。私にはお似合いですから」
「そう? なんか、あんたは派手なイメージがあるんだけど。確か財宝が集まってきたりするような力があったじゃない」寅丸とはあまり面識がなかったが、なんとなく覚えていた。財を浪費させたり、それを利用して巻き上げたりする私の疫病神の力と、何か通じるものがあった気がしたからだろうか。「だったら、それを利用して豪遊でも出来そうなもんだけど」
「私のこの力は、私腹を肥やす為のものではありませんよ。寺のため、そしてひいては、寺を通じて私に信仰を寄せてくれる衆生へ報いるための力です」
「そりゃまた、ご立派なことで」
誰彼構わず、自分のために金品を巻き上げる私とは大違いだ。
「それにですね」
寅丸は探しものを中断し、こちらに顔を向ける。
私と目があった。その目が、いたずらっ子のように笑った。そして、子どもが秘密を打ち明けるみたいに、声を潜めて言う。
「私の力は、そんなに万能じゃないんです」
そう言って、寅丸は目の前の木箱を指さす。その木箱が、能力と何か関係しているのだろうか?
私は訝しげに、木箱のそばに寄っていき、中を覗き込む。
そこには、鉄くず、青磁の壺、書きかけの手紙、割れた食器類、ブランドものっぽい服、置き時計――たくさんの物たちがひしめき合っていた。玉石混淆、価値がありそうなものも、価値がなさそうなものも、ごちゃ混ぜになって詰め込まれている。
「私の周りには、確かに『お宝』が集まってきます。それは、信徒たちのお供えやお布施という形だったり、もっと超常的な形で、いつの間にやら私の近くに引き寄せられていたり、です」
「そりゃ、便利そうな話だけど」
「でもね。『お宝』なんか人によって違うんですよ」
寅丸は、木箱からそっと書きかけの手紙を取り出す。金銭的価値のまるでなさそうな、ごみのようなそれ。
「確かに、金銭的な意味で価値のあるものは、間違いなく、誰にとってもお宝でしょう。ですが」
寅丸は、愛おしそうに手紙の縁をそっと指でなぞる。
「例えばですね。これは、おそらく男性から愛する女性に宛てた手紙です。残念ながら書きかけなので、実際に送られることはなかったんでしょうが。それでも、こうして私の元に集まった」
そこで得心が行った。なるほど、つまり、その木箱の中身は。
箱いっぱいのガラクタたちは、全部、誰かにとっての『お宝』だったということか。
寅丸は続ける。
「なるほど、これらは貴方が巻き上げるような金品には該当しないでしょう。金銭的な価値なんて、まるでありませんものね。私にとってだって、価値がまるでないごみのようなものです。でも、それでもその誰かはこれを『お宝』だと信じ、大事に思ってきた」
その手紙には、どんな物語があったのか。きっとそれは、物語を込めた張本人たちにしか知り得ないのだろう。それでもきっと、その物語を知る人にとっては、かけがえのない物なのだ。
寅丸は、手紙をそっと胸に掻き抱く。まるで愛し子を抱くように。
それが、遠いあの日、あの黒猫のぬいぐるみを抱きしめた姉さんと重なって見えた。
「その木箱。今朝、それ持ってふらふらしてたわね。あれって」
「ああ、見られてましたか」
寅丸は気恥ずかしそうに、頬を掻く。
「ただ座して待っていると、宝は貯まる一方ですからね。定期的にああやって仕分けして、持ち主が簡単にわかりそうなものから順に、本人の家に行ってお返ししてるんです。一つずつですから、時間はかかりますが」
「面倒なら、他の人に押し付けちゃえばいいじゃない。あんたくらい偉い立場なんだったら、他の寺の奴ら、あごで使えそうなもんだけど」
「そんなことはしませんよ。こうやって直々に向かって、その人柄に触れて、お話を聞いてくる。その行為や対話すべてが、我々仏教徒にとっての修行でもあります」
相変わらず、真面目なことで。
私は呆れて、寅丸から視線を外す。外した先、文机の上に見覚えのあるぬいぐるみが乗っていた。
大枚をはたいて買い上げた、大きなうさぎのぬいぐるみ。
私の視線に気づいた寅丸が、言う。
「ああ、それ。境内に落ちていたのですよ。もしかしたら、貴方のかなと思って」
「うんまあ」
私はうつむき、考えを巡らせる。
確かに、私が買ったものだ。だけど、今となっては――あの日のことを思い出した今となっては、どの面さげてそれを渡しに行けばいいのか、まるで見当がつかなかった。
考え込む私の前に、すっと差し出される、黒い影。
貧乏臭いぼろい黒の布を、不器用に縫い合わせた粗末なぬいぐるみ。
まさしく、それは姉さんの元から『逃げ』出した、あの黒猫だった。
私は、弾かれたように顔を上げる。
寅丸が、私を見据え、黒猫を差し出していた。
「やっと見つかりました。今朝、境内に落ちていて、拾ったんです。私の能力に引き寄せられて来たんだな、とぴんときて、しまっておいたんです」
私は、恐る恐る差し出されたぬいぐるみに両手を伸ばす。
「どこかで見たことがあった気がしてたんですが、貴方の顔を見て思い出しました。それは、貴方のお姉さん、紫苑さんの持ち物ですね。彼女が大事そうに持っていたのを見たことがあります」
両手で、ぬいぐるみをしっかりと支える。そっと、寅丸の手から離れて、私の腕にその重心が移される。
それを抱き止めて、驚いた。驚くほど軽いし、薄っぺらかった。
姉さんは、今まで、この薄っぺらい布きれにどれくらいの物語を込めてきたのだろう。
私はそれを抱き締め、そっと目を閉じる。
なぜ、このぬいぐるみのことを忘れていたか。今なら、その理由が分かる。
あれが、ひもじく喘ぎ苦しんでた、幼い頃の私の象徴だったからだ。
忘れたい時代の産物だからだ。金品を巻き上げて贅沢に生きることを選んだ私が捨て去った、過去の残り香だからだ。
あれから、それなりに長い年月を経て、私たちはオトナになった。
私は、その力の活用法を見つけ、荒稼ぎした。そういうやり方を嫌うちゃちな正義心は、巻き上げた巨万の富の前に、いつの間にかすり減った。そして、姉さんだけが、あの頃の暮らしに取り残された。
それでよかったはずだ。私が選んだ道は間違ってなかったはずだ。
でも、寺の生活を通して、気づきつつあった。質素でも心が豊かに暮らせる生活の心地よさ。財を巻き上げ、撒き散らす、華やかな生活の裏に潜む消しきれない虚しさ。その両方に。
ただ怖かったのだ。
あの時代の記憶も、あの時代を象徴するようなその猫のぬいぐるみも。
姉を置き去りにして、自分があの頃を忘れたまま今を生きていることを咎められるようで。
今の私の生き方よりも価値のある、選び損ねた選択肢を見せつけられているようで。
――逃げているのは私かもしれない。
ふと、思う。
だからこそ、私は以前のような派手な生活にも、寺の暮らしにも馴染めず、ふらふらとしているのではないのか。
声がふわりと落ちてきた。
「女苑。貴方は、このぬいぐるみがなぜここにあるか、分かりますか」
「それは」
閉じていた目を開く。
それは、姉さんが今まで大事にしてきたから。だから、寅丸の能力に引き寄せられたのだ。
しかし、私の答えを待たず、寅丸は続けた。
「貴方のお姉さんは、神社を離れた後、天人について行ったそうですね。天人の棲み家は天界にある。天界は空を高く高く、昇って行った先にあると聞きます」
寅丸が、一度、言葉を切る。
穏やかに微笑みながら、人指し指を立てる。出来の悪い教え子を諭すように。
「そんな遠い場所にいるはず人の持ち物が、なぜお寺の境内で見つかったのでしょう」
「なぜって、それは、あんたの能力で引き寄せられて……」
「まさか」からからと、快活に彼女が笑う。「いくらなんでも、天界にまで私の力は及びませんよ。そんなに広範囲のお宝が集まって来ようものなら、こんな木箱はとっくにパンクしてます」
寅丸は肩をすくめてみせた。
木箱を改めて見る。なるほど確かに、これらが、そこら中から無作為に集めたものだとしたら、少なすぎる気がした。
「私の能力が及ぶのは、せいぜいお寺の周りや、寺と関わりの深い、信徒の皆さんのような方たちまでです」
「寺と関わりが深い……」
するとどういうことか。
姉さんは、ぬいぐるみに逃げられたから、私に相談するために寺に来たのではなく。
もともと、何度も足繁く寺に訪ねて来ていて、ある日、寅丸のお宝収集能力の網に引っ掛かったと。そういうことか。
でも、天界に行って上手くやってるはずの姉さんが、何のために寺にやって来ていたんだろうか。
――何のために? 決まってるじゃないか。私は自嘲する。
姉さんと寺を繋ぐ接点。そんなの、ひとつしかないじゃないか。
「今までも、紫苑さんが寺の周りをふよふよ浮いているのを、何度か見かけたことがあります。妹の様子をこっそり見に来てたみたいですね。上手くやってるかどうか、心配だったんじゃないでしょうか。いいお姉さんですね」
まあ、その度に犬に吠えられたり、風に煽られて飛ばされたり、散々な目に合われていたみたいですが、と付け加える。
私は俯いていた。
唇を噛んで、黒猫を抱きしめる腕に力を込めた。腕の中で、黒猫がくたりと折れた。
寅丸は、窓際にそっと歩いていく。外を眺めながら、ぽつりと言った。
「風が、出てきましたね。ほら、向こうの木があんなに体を揺らしてる。そう、こんな日ですよ。貴方のお姉さんが風に煽られて飛ばされて、あの向こうの木に引っ掛かってたことがあったんです。もしかしたら」
最後まで聞くつもりはなかった。
私は顔を上げた。脇にあったコートを着込み、サングラスをつけて帽子を被ると、バッグを掴んで勢いよく立ち上がる。
私はもう迷わない。迷うことを迷わない。
金品を巻き上げる生き方か、それとも昔みたいに質素でも心豊かな生き方か、どっちがいいか。
さんざん迷ってやる。そして、ちょうどいい道を――疫病神でも貧乏神でも、笑って過ごせる道を探してやる。今度こそ逃げずに、姉さんと一緒に。
出口まで大股で歩いていって、襖を開け放つ。
「女苑」
出ていこうとしたところで、後ろから呼び止められた。
振り向くと、私の胸元に何かが投げてよこされる。ぬいぐるみとバッグとで手が塞がってるのに、と思いながら、両手で抱えるようになんとかそれを受け取る。
それは、うさぎのぬいぐるみだった。黒猫のぬいぐるみと比べ物にならないほどの金銭的価値を持つ、上物。
今さらこんなの、要らないんだけどな。
私は苦笑した。でも、ここにおいておくわけにもいかない。ぬいぐるみの処遇を、ちょっと思い悩み。
――例えば、あの童女にやるのはどうだろう。
その妙案に思い至った。
あの童女は、いつかまた、あの店の前に来るだろうか。あの、あどけない物欲しそうな瞳で、雑貨屋の中をガラス越しに覗いていたりするだろうか。もし今度、あの店に行ってあの童女に出会ったら、これを押し付けてやろう。
それは、金銭的価値はいっとうあるが、それ以外は何もないものだ。
それを受け取ってどうしようが、私にはどうでもいい。
大事にしようが、簡単に打ち捨てようが、売り払って日々の飯代にしようが、新しい服を買おうが。それをどうしようが関係ない。
そのぬいぐるみに、それ以上の物語を込めるのは、彼女自身なのだから。
その思いつきは、私を笑顔にした。私たちにとって価値のないものに彼女が価値を見出して、彼女にとって価値がないものに私たちは価値を見出だす。それできっといいのだ。
私は、下駄箱から靴を引っ張り出す。はやる気持ちを抑えられず、乱暴にブーツに足を突っ込む。
お気に入りの上げ底のブーツが、今日に限って履きにくくて仕方がなかった。
やっとのことで履き終え、私は歩き出す。
――境内に出たら、とりあえず、木を片っ端から探してやるか。
木に引っ掛かって、世界の終わりみたいな顔でじたばたもがく姉さんの顔を頭に描いて、笑顔で私は外に飛び出していく。
<おわり>
あと寅丸星の能力の解釈に「なるほどなあ」と感心いたしました
ご指摘ありがとうございます。
ほんとだ、スマホ表示おかしくなってる……書式弄ったのが上手く働いてないみたいです、直しますのでしばらくお待ちください。
ご迷惑をおかけして済みませんでした。
(追記)
修正しました! ご指摘、ありがとうございました。
この二人のためにあるような発想だなと感じました
終わり方がとても好きな感じです
自然とそういう流れへ持っていく寺組が実に仏教徒らしいですね
後日、女苑ちゃんを福の神だと思い込む童女の姿が…
白蓮の突き抜けたお仕置きシーンのお陰で話全体の説教臭さが無いのも好印象。