Our Lost Age
ニューヨークは何処までも果てしなく続くビルの谷間ではなかったのだ。そこには限りがあった。その最も高いビルディングの頂上で人がはじめて見出すのは、四方の先端を大地の中にすっぽりと吸い込まれた限りある都市の姿である。果てることなくどこまでも続いているのは街ではなく、青や緑の大地なのだ。ニューヨークは結局のところただの街でしかなかった、宇宙なんかじゃないんだ、そんな思いが人を愕然とさせる。彼が想像の世界に営々と築き上げてきた光輝く宮殿は、もろくも地上に崩れ落ちる。エンパイア・ステート・ビルこそはかのアルフレッド・E・スミスがニューヨーク市民に贈った迂闊なプレゼントということになるだろう。
――F・スコット・フィッツジェラルド『マイ・ロスト・シティー』より。
#01
グッチにデン・ビル、シャネル、そしてルイ・ヴィトン。女苑は店の中を歩き回りながら目についたものを手当たり次第に脇へと抱えこんだ。スーツを着こんだ店主の唇がひきつるのが見えた。ひと通り堪能したのち女苑はサングラスを引き上げてカウンターへと顎を向けた。店主が深々と頭を下げて自ら会計を始める。手首を返して腕時計を確認すると女苑は大量の紙袋を提げて店から出た。見送りに出てきた店主一同に笑みを返して歩き始める。
店の屋根に座って待機していた紫苑がこちらに気づいてふよふよと降りてきた。女苑は彼女の手に紙袋をすべて押しつけると欠けたお椀のなかにお釣りの硬貨を放りこんでやった。紫苑が眉を寄せて姿勢を下げこちらの表情を窺うように睨んできた。そして云った。
まさかこれがお駄賃じゃないでしょうね。けっこう重いんだけど。
姉さんに大金は渡したくないもの。すぐに失くしちゃうのが眼に見えてる。
私のせいじゃない。
ほらまた。私のせいじゃない。何回きかされたかしら。
女苑。お前……。
さて。買い物は終わったし、次はお食事ね。
女苑が歩きだすと往来の人波がまるでモーセの奇蹟のように左右に分けられていくように思えた。得意げな顔で振り返ると紫苑は仏頂面で視線をそらした。彼女は眼をそむけたまま女苑にだけ聴こえるような小さな声でつぶやく。
また買ってしまったのね。それも沢山。
だったら何よ。
別に。
羨ましいんだ?
それ以前に呆れてる。ストイックな生き方はもうお終い? 紫苑は首を傾げて続ける。お寺に戻ったんじゃなかったの。急に呼び出してきたと思ったら人に荷物持ちさせてショッピングなんて。向こうにいたときとちっとも変わってないじゃない。
女苑は立ち止まった。ブランコしていた派手なイヤリングがじっと垂れ下がる。
……そういう姉さんはあの天人とは別れたわけ?
まあね。私たち二人の相性は好かったんだけどこの世界と私たちの相性は最悪だったみたい。次に暴れたらこの世界から追放してやると巫女に云われたんじゃさすがにハンカチを振らざるを得なかったわ。
振れるようなハンカチもないくせに。
そうね。
それで別行動?
ええ。
ふうん。
なに。嫉妬?
ばか云え。
女苑は歩きながら再び腕時計を確認した。姉さんおやつにはぴったりの時間ね。そう呼びかけると紫苑が激しく身体を上下させて周囲をくるくると飛び回った。そうね。もう三時だものね。云っておくけど女苑だけレストランでスペシャル・パフェを頼んで私は屋台のポン菓子ってのはなしだからね。
ええ。任せておきなさい。あとあんまり暴れないでよ袋なくしちゃうじゃない。
紫苑はお椀からあふれ出てきた濃い紫色の光を慌てて押しとどめるとふうっと息をついた。
女苑は釘を刺しておいた。文句ひとつでも云ったらただ働きしてもらうから。
や。堪忍してぇ。
よろしい。――つーか姉さん。私がお下がりに譲ってやったブランドの服とか宝石はどうしたのよ。
売った。
なんで。
とにかく浴びるほどの現金(キャッシュ)が欲しかったから。それにまずはお腹いっぱい食べたい。
あいかわらず発想が貧困ねぇ。
女苑はお酒ばかり飲んで栄養あるもの食べないからね。だから身体ちっこいし肉づきも悪いのよ。
それこそ姉さんには云われたくないわよ。
紫苑が少しだけ顎を引いた。長いまつげが群青色の瞳にさしかかった。
本当を云うと失くしたり汚しちゃうのが怖かったから。大切に扱っているつもりなのにいつもこうだもの。
そう云って継ぎはぎと警告文だらけのパーカーの裾を引っ張った。
女苑は返す言葉も思いつかず黙っていた。二人は里の広場を横切って別の通りに入ると店の一軒一軒を覗きまわって歩いた。その途中で紫苑が声を上げる。
お下がりで思い出した。
なに。
むかしあんたが譲ってくれたアクセサリーにロケットがあったでしょ。メッキした真鍮製の。
そんなのあったっけ。
あったわよ。中を開いたら空だったけどあれって写真とかを入れるものなんでしょ。本当は何が入っていたの。
覚えてない。
あらそう。
もしかしてそれも売っ払っちゃったわけ。
やっぱり気にしてるじゃない。
うるせえ。
好さげな甘味処の前で女苑が立ち止まると紫苑は人差し指を唇に当てた。
予約は? 高いんでしょここ。
私の持ってるブランド品とこの買い物袋を見せつけたら今いる客を追い出してでも入れてくれるわよ。心配しないで。
頼もしい妹。
#02
陽が落ちても夜が更けても女苑の豪遊という名の浪費は続いた。最初は紫苑も彼女の暴飲暴食に大いに付き合っていたが、三軒目も終わりになるころには消化に慣れていない胃腸が悲鳴を上げ肝臓が断末魔と共に事切れた。酔っぱらった女苑に足首をつかまれて宙に浮かびながら仰向けに連行されるさまは浜辺に打ち上げられた土左衛門のようだった。胃液まじりの涎を垂らしながら夜空を眺めている紫苑の視界には満天の冬の星空。里の繁華街とも呼ぶべきこの通りには提灯が朝まで消されることなく灯され続けていて、ぼやけた眼には魔法で生み出された燈火(ともしび)の行列のように見えた。それは紫苑にかつて過ごした街の夜の最期の明かりを思い起こさせた。二人で過ごしたあの季節。音楽。そして潜り続けてきた札束と金品の山。
さあ付いてきなさいっ。まだまだ私たちの夜は終わらないわよ!
女苑の旅路に付き従うのは紫苑だけではない。今や次の店を探す彼女の後ろには幾人もの若者たちがいた。裕福で夜の暇をもてあました次男坊たち。この世で足りないものは自由だけだと朗らかに赤らんだ顔は告げている。そんな彼らを紫苑は横目で見ていた。何も言葉を手渡すこともなく。
河童の手で中が洋風に改装されたその店は泡(あぶく)のように金が消えていく他はそこらの居酒屋と何も変わらなそうに思われた。女苑はこの日のために店に届けさせた特別な酒を惜しげもなく若者たちに振る舞った。
席についた紫苑は乾杯のあとで妹に向けて云った。
ねえ女苑。このお酒。
妹の声は呂律が回っていない。ええそうよ。ロマネ・コンティをドンペリのロゼで割ったやつ。
よくもまあこの世界にあったものね。
ほんと。云ってみるものね。懐かしいでしょ。ね、ね?
まあ。うん。
女苑はハイペースで呑み続けていった。紫苑はと云えばピンドンをひと口のんだだけで舌が痺れるような感覚が走りほっぺがぎゅっとすぼまった。ピンクのしゅわしゅわ、と口の中で呟いた。饗宴もここまで来てしまうと酒ばかりが進んで料理にはあまり手が付けられなくなる。紫苑は勿体なく思えて箸を動かす手を止められなかった。パーカーのフードを被って横顔を隠しひたすら食べ続ける。となりに座っていた若者が心配そうに声をかけてきた。紫苑は答えた。食べるったら食べるの。好いから。構わないで。こんなの次にいつありつけるか分からないじゃない。
宴は続き余興が始まる。男たちは服を脱いだり得たいの知れないカクテルを罰ゲームと称して飲ませあったりし始めた。紫苑は箸を置いて座席にもたれた。シーリング・ファンに合わせて視界がぐるぐると回った。そのうち酩酊のあまり首が紐で吊るされた穴あき硬貨のように前後し始めた。女苑の叫ぶような歓声が聴こえる。なんて素晴らしい夜なんでしょう。なんて甘美なひと時なんでしょう!
妹は突然ブーツを脱いだ。テーブルの上に飛び乗るとシルクハットを手に取り危なっかしく一礼した。若者たちが拳を振りあげ指笛を吹き鳴らす。紫苑が呆気に取られて見ていると妹はこちらを見てにっと白い歯を見せた。そしてジュリ扇を広げるとテーブルをスポットライトに飾られたステージに見立てて踊り始めた。店に沸き起こった歓声は虹色の輝きに満ちていて天井を突き破らんばかりだった。
そのうち女苑は歯止めが掛からなくなった。金をばらまき酒をイッキ飲みし男たちと肩を組んで合唱した。そして若者の一人から煙草らしきものを受け取って吸ったところでぐったりとして席に項垂れてしまった。煙草を吸わせた男が介抱のために姉妹の間に割りこむように座った。紫苑は身を乗り出して二人を見た。彼は女苑の背中をさすりながらもう一方の手をスカートの中に潜りこませていた。彼が手を動かすと女苑が子猫のように首を動かして男の肩に頭をもたせかけた。
紫苑は立ち上がった。
おいてめえ。――ちょっと女苑。ねえってば。
なによぅ。
帰りましょう。
まだまだこれからじゃない。
いくらなんでも飲みすぎ。見てられないわ。
でも気持ち好いの。とっても気持ち好いのよ。なんで帰らないといけないの。
そう云っていつも後悔してるじゃない。
紫苑の言葉に女苑は無言になった。さっきまであれだけどんちき騒ぎしていた若者たちも押し黙った。そして一人また一人と立ち上がってこちらを見ていた。紫苑の深い海色の髪が逆立ち渦を巻くように動き始めると彼らは身を引いた。
好い子ね。
紫苑はそう云って女苑に肩を貸し金を支払って店を出た。
昼間は晴れていた空からいつの間にか雪が降っていた。人影は疎らだった。歩けない妹を負ぶって紫苑は歩きだした。紙袋と合わさって重みは凄まじいものだった。女苑の酒くさい息が頬をなでてくる。その濁った吐息は屋根の庇(ひさし)にたどり着く前に消えてしまった。すこし進んでから紫苑は立ち止まって耳を澄ませた。妹が肩を震わせながら泣いていた。
女苑。
……使っちゃった。
え?
また使っちゃったよう。ぜんぶ。すべて。何もかも。
もっかい稼げば好いじゃない。あんたにはそれができるんだから。
ちがう。そうじゃないの。姉さん分かってて意地悪いってるでしょ。
まあね。
しばらくして女苑は泣き止んだ。鼻をスンと云わせる音が紫苑の鼓膜を打った。妹はバッグに入れていたスキットルからブランデーを口に含むとすこしゆすいでから吐き出した。そして紫苑の肩に顎を乗せて話した。
ああ。くそ。あいつ煙草なんて嘘ついて変なもの吸わせやがった。
紫苑は微笑みを返してから歩き出した。
ずっと前にハートの形をした錠剤を飲まされていたときに比べれば全然マシな顔色をしているわよ。
姉さんももっと早く止めに入ってくれれば好かったんだ。
あんたがほどほどで切り上げちゃったら私がおこぼれに与かれないじゃない。
……姉さん。
なに。
私はこの前に限らず頑張ってきたんだよこれでも。
ええ見ていたわよ。
少しは私なんかでも変われるのかなって。
そうね。
姉さんだって同じでしょ。何とかしたいっていつも――。
ぜんぶ空振りに終わったけどね。けっきょく自分から動けば動くほど周りがとばっちりを喰らうから最近はそれも面倒になったわ。あんたには云ってなかったけど向こうにいたころは真面目に働こうと一念発起して地下鉄工事に志願したことがあったのよ。それであんなことが起こって思い知らされたわ。私はそもそも働いちゃいけない存在なんだってね。
……金で手に入らない幸せってなんだろね。
クサいこと云わないでよ今さら。
私もお寺を出たあとにもう一度だけ働いてみたのよ。
あれから?
ええ。
どこで。
それって答える必要あるの。
あんた放っておくとすぐ楽して稼げるヤバい仕事はじめちゃうんだもの。眼が離せないわ。
ただの飲み屋よ。さっきの店よりもうんと惨めなところ。
私の眼にはさっきのあんた以上に惨めになるなんて信じられない。
うるさいな。
それで?
散々下町の酔客の相手をさせられて分かったのはやっぱ貧乏ってクソだし清貧なんて言葉はやせ我慢の嘘っぱちってことね。結局のところ貧すれば貧するほど心も貧しくなるのよ。間違っても逆はないわ。
これからどうするの。
姉さんこそどうしたいの。
……天運を待つ。
私たちにはもっとも縁遠い言葉ね。
ええそうね。
#03
その建物の前で紫苑は立ち止まると眉をひそめた。寝息を立てている女苑の顔を横目で見た。溶けた雪が鼻の頭で雫をなしていた。それは山荘と云えば聞こえが好いが実際には半世紀ちかく放置されて忘れ去られたアパートの残骸に思えた。妖怪の山の麓に位置していて谷間から吹き下ろしてきた冷たい風が紫苑の素足を震わせた。
階段を昇って教えてもらった部屋に入り敷かれっぱなしの布団に妹を落ち着けると部屋のすみに荷物を置いて紫苑は溜め息をついた。時代遅れのブラウン管テレビが最初に眼についた。ラックに収められたVHSテープ。妹の丸っこい字でタイトルが書かれていてそこにはかつて姉妹でいっしょに鑑賞したトレンディ・ドラマがあった。きちんと整理整頓されているのはそこまでだった。あとはボスニア戦争が去った後のような散らかり具合だ。
相変わらず綺麗なのは外面(そとづら)ばかりなのね。
……聴こえてるわよ。
起きてたんだ。
女苑はうつ伏せになったまま身動きしなかった。紫苑は壁にもたれながら腕を組んで妹の言葉を待った。だが彼女は何も云わなかった。痺れを切らした紫苑は壁から身を離した。
女苑。ねえ。
なに。
帰って好いかな。
…………ゃ。
外にいるときは平気な顔して追っ払うくせに。
…………。
もう。――分かったわよ。
紫苑は女苑のそばに腰を下ろして枕元の本を手に取った。かつて妹がよく読んでいたフィッツジェラルドの短篇集だった。紫苑は女苑の髪をまとめているリボンに薬指を触れさせた。そして本を最初から読み始めた。
しばらくして女苑が身を起こした。爪で頭をかきながら薄緑色の重そうな冷蔵庫から水を取りだして空になるまで飲んだ。二リットルのペットボトルを片手の握力だけでくしゃくしゃにしてしまうとポケットから煙草を一本取り出して吸い始めた。
姉さんなに読んでるの。
マイ・ロスト・シティー。
どのあたり。
夕空の下タクシーでビルの谷間を進んでいく回想のところ。言葉にならない声。これ以上は手に入らない幸せについて。
今はあまり読みたい気分じゃないな。その場面。
あら。前はあんなに読み返していたのに。
本当に何もかも失ってしまったらやっぱりもういちど求めてしまうんだ。一生で手に入る幸せに限りがあるなんて信じられないし信じたくないもの。
傲慢ね。
疫病神だし。不遜で飄逸なくらいじゃないとやっていけない。
そうね。私もよ。
女苑がテレビを点けてビデオ・デッキにVHSのテープを入れた。巻き戻しをしていなかったのか途中の場面からいきなり始まった。ハンサムな男優と一世を風靡した女優が会食をしているところだった。紫苑は最初のうち本に意識を集中していたが諦めて妹のとなりに腰を落ち着けた。彼女は横目で見てきただけで離れることはしなかった。
姉さん。電気消して。
なんで。
いいから。
むき出しの電球の紐を引っ張ると部屋の照明はブラウン管からあふれ出す気だるい光の束だけになった。小さくて暗い部屋で二人はかつてのトレンディ・ドラマを無言で観続けた。肩を寄せ合いながら。息を通わせながら。ゆいいつ盛り上がったのはドラマのクライマックスとその後に録画されていた栄養ドリンクのコマーシャルだった。二人は腕を振りながら合唱した。二十四時間戦えますか。その後に大手家電メーカーのコンポの宣伝、当時は大人気で財力の象徴だった外国車のデモンストレーション、そして化粧品の広告が続いた。録画の再生が終わると映像は途切れテープが自動的に巻き戻しされた。きゅるきゅるという間の抜けていてそれでもどこか親しみの持てるような音が二人の肩をくすぐり天井に漂って消えていった。
紫苑は訊ねた。怒らないで聞いて欲しいんだけど。
どうしたの。
今でも面白いと思うの。ああいうドラマ。
ええ。楽しめるわよ。女苑はうなずいてからすぐうつむいた。ただ遠い世界の出来事のように感じるだけで。
本当に魔法のような時代だったわね。街の窓から漏れる明かりのひとつひとつに呪文がかけられていた。どんなことだって起こりうるし何ならどんなことだって起こせるんだという気概に満ちていた。私はあんたに振り回されていただけだったけど。
あの頃は過ごしやすかったわ。今日みたいに散財しても金は後から後から浴びるほど集めることができたからね。誰の不幸も気にする必要がないくらい街には運気があったし。
どうかな。私みたいな持たざる者にとってはけっきょく何も変わらなかったよ。すべてが終わった後でとばっちりだけはしっかり喰らっただけで。
そうかもね。まあ少なくともあの頃の姉さんにはまだ姉なりの威厳があったよ。
あんたには妹らしい可愛げがあったわ。
うるせえ。
ひびの入った窓からは雪がちらついているのが見えた。女苑の誘いもあって紫苑は泊まっていくことにした。テレビの電源を消すと二人は布団を分け合って横になった。女苑は昔話をした。淡々とした口調だった。晴れた日の小川のせせらぎのように変わらないがだからこそ安心できるようなそんな調子だった。
働くにしてもせめて楽して稼げる仕事が好かったわ。それでツテを頼りに紹介されたのがずいぶん奇妙なやつでね。何人かの仲間といっしょに誰も住んでいない部屋で数日間過ごすのよ。明かりを点けて。水道は流しっぱなしで。ただ来客があっても絶対に応対してはならないし外も出ちゃいけないって感じ。私は漫画を読んで過ごしていた。本当にそれだけだった。そのうち仲間が麻雀を始めたもんだから賭け試合にもつれ込んで大いに盛り上がった。さすがにうるさすぎるんじゃないかと思ったけどむしろ騒いだほうが好いらしいんだな。何度か来客があったけど云いつけ通り応対しなかった。楽しい時間は過ぎ去って仕事はあっという間に終わった。それでも一時間に一回鳴っていた柱時計の音は嫌に鮮明に覚えているわね。
紫苑は黙って話に耳を傾けていた。
それがどんな意味を持つ仕事だったのか知ったのはずいぶん後になってからだった。あのころ私のやった仕事は空き家に居座ったり留守の家の鍵を交換したり紙切れを玄関に貼りつけたりする地味なことばかりだった。それで大金が手に入った。誓って云うけど誰かを直接ぶん殴ったりして傷つけたことなんて一度もないよ。でもそうした仕事が崖から突き落とされるほどの不幸を誰かにもたらしていたなんて想像もしていなかった。疫病神の本質は自分が疫病神なんだっていう自覚すら持っていないということね。だから今は加減というものを覚えたわ。でもそこまでして神として存在する意味ってなんなんだ。
紫苑は囁いた。だから反省してこっちでやっていこうとしたんでしょう。
女苑は布団を引き上げて顔を隠した。人も神もそう簡単に変わることなんてできないよ。
確かにあんたの心のなかは変わらず貧相ね。
姉さん今日に限って辛辣すぎない?
でもだからこそ新しい思想を受け容れる余地もあるということ。
……そうかな。
そうよ。現に何度もやり直そうとあがいているじゃない。私はもう半ば諦めているわそのあたり。
新しい思想か。
別に信じなくても好いわよ。口から出まかせだしね。
最っ低。
ふふ。おやすみ。
#04
夜が明けると雪は止んでいた。二人はベランダに出て朝陽を浴びた。冬の風に吹かれて女苑の小麦色の髪が揺れていた。彼女が身体を震わせて身を寄せてきた。山間の廃屋を染め上げる弱い光。積もった雪に反射する淡い光。夜のネオンにずっと慣らされてきた眼には優しく響いた。
昨日のことだけど。女苑が云った。すこしは懐かしい気持ちになってくれた、姉さん?
どうしたの急に。
思い出してほしかったのよ。あの頃のきらめき。少なくとも今よりは笑顔の多かった姉さんの瞳の輝き。
呆れた。それで荷物持ちなんて口実つけたの。
でも楽しんでいたのは私だけだったのかな。
紫苑は髪を手櫛で梳いた。途中までは楽しめたわ。あんたがやり過ぎさえしなければね。でも大丈夫。またやり直せば好いわよ。
そんな風に焚きつけてまた私のおこぼれに与かる気なんでしょ。
悪いの。
別に。姉妹だし。
紫苑は頬杖を解き顔を上げて女苑を見つめた。彼女は空に視線を据えたまま膨れっ面を浮かべている。
ありがとね。女苑。
妹は咳払いして話題をそらした。――思えばあの街の夜は素晴らしかったけど、私は朝も好きだったな。
へえ。珍しく意見が合うわね。
狂騒が終わって静まりかえった街の上空から朝陽を拝んでいると最高に澄んだ気分になった。始発の駅に向かう人間たちの格好や表情を眺めながらいろいろ生い立ちを想像したりするのも楽しかったな。なんでそうまで働いて生きてるんだと不思議になったよ。みんな魔法にかかってたんだな。あの時代のあの街に住んでた奴はみんな。何かが起こると信じてた。少なくとも刺激になるような何かが。それは私のような疫病神でも姉さんのような貧乏神でも変わらなかったと思うよ。
女苑は深く息を吸いこむとシルクハットを被り直した。そしてベランダから飛び降りて雪の中に着地するとこちらを見上げながら云った。とにかく姉さんの云う通り、やり直していくしかないんだよね。地道に。
また鬱憤ため込んで自爆しなきゃ好いけど。
そのために姉さんがいるんじゃない。
私が暴走したときは鎮めるどころかむしろ煽ってきたくせに。
――いつかきっと姉さんのことも幸せにしてみせるからね。
紫苑は口を開いてから閉じた。パーカーのフードが風に吹かれて揺れていた。リボンもまた山風の唄のリズムに合わせるように身体を泳がせていた。紫苑は眼を閉じた。新しい世界の音を聴きながら微笑んで云った。
……嘘つき。
ええ嘘よ。
妹は歯を見せて笑った。いつもの笑顔に戻っていた。紫苑はベランダの手すりを柔らかく握った。もう一方の手にはロケットが握られていた。古ぼけていて幾度もの紛失と発見を通じて傷ついていたが剥がれたメッキから覗いた真鍮は今でも太陽の光を反射して輝いていた。紫苑はロケットを開いて新たに収まった写真をじっと見つめてからまた閉じた。そしてかけがえのない宝物を祈るように両手で閉じこめ胸に引き寄せた。
~ おしまい ~
(引用元)
Francis Scott Key Fitzgerald:My Lost City, Fitzgerald Personal Essays (1920-1940), Cambridge University Press, 2005.
村上春樹 訳(邦題『マイ・ロスト・シティー』)、同短編集所収,中央公論新社,2006年。
最初に出会えた依神姉妹のSSがこの作品で良かった。
強く生きてほしいですね
新しい歩みで幸せになって欲しいものです
ふたりてをつないで
過ぎ去った時代の残り火を胸の中に燻ぶらせ続けつつも、劇的に何かが変わることはない現在を一握りの希望と期待を自分に言い聞かせながら生きる二人の心情が丁寧に伝わってきます。
いまとなってはおぼろげですが「あったあった」とCMの懐かしさを思い出しながら、うちはベータだったなぁと動かなくなって久しいデッキが頭にちらつきました。VHSももう幻想入りかぁ(しみじみ)
きらきらの理想は激動の時代に置き忘れたのかもしれないけれど、あの頃の思い出はいつまでも胸にしまったまま(紫苑にとっては、たぶんロケットがそれで)、ふたりにとっての夜明けをこれからの幻想郷で見つけていくのでしょうね
そういえば、今作を含めた三作前から書き方を変えていますね(と言っても芯は変わらず、短編の範囲での試みだと思うのですが)、それでいて読みやすく洗練されていることに感嘆させられるばかりです
(とは言ったもののなにも変えてないよでしたらごめんなさい汗)
今回もとても素敵なお話で楽しめました、目と脳の保養です、ありがとうございました
と、個人的にはそんな解釈を致しました
ともあれ、とても面白い作品でした
所々にある比喩表現も個人的には好みです
気になったところといえば、世界観がちょっと幻想郷と離れている感じがしたくらいでと読んでて姉妹の絆をじんわり感じるとてもいい作品でした。ごちそうさまです
正反対なような似た者同士のようなよくわからない姉妹ですが、なんだかんだ仲良しな感じが良かったです
手に入れられない幸せに溺れそうになりながらも二人寄り添い強く生きる姉妹の姿がとてもよかったです
二人とも素直じゃない、回りくどい形で思いやりを示す姿に暖かい気持ちになりました。
いいぞもっとやれ
キャラクター像が自分のなかで腑におちる感じで、面白かったです
掴んでは喪くしていく星のもと、彼女たちは何に執着して生きていくのだろうと考えさせられる気持ちでした。クラムボン、クラムボン。
時代の流れにも己が性分にも逆らえなくても、残る物も掴める物もきっとある、そんな姉妹の神生の一端を味わった気分です。
当時小学生とはいえリアルタイムで体験したオッサンにとって、大変懐かしいものがありました。
思えば、黄昏作品ひいては格ゲーというジャンルも、スト2が社会現象化した90年代の狂騒の名残みたいなものですしね。
スケベ男が女苑ちゃんの下の方に手を伸ばしてる隙に、私は慎ましやかな上半身をですな…