里の拝み屋である滝野川樫子による牛尾重蔵の殺人は、彼女の信念に背く方法だった。
風音もしない静かな夜。まだ少女だったころ、善意から格安で間借りさせてもらい続けている一軒家、もう七年目になり仕事道具や神饌台や薬箪笥がひしめく小さな城だった。
そこで初めて人に死ぬような憑き物を送った。もう真っ当な人間とは言えない所業を成した自分を壁掛けの鏡で見て、ため息をつきながら結っていた髪を解いた。
使ったのはゴボウダネという憑き物だった。血筋に染みつくという言わば呪われた力だ。これから先、墓場までもっていかなくてはいけない。
手応えは無いが失敗した様子も無い。滝野川の経験上こういう時は成功だ。灯りも付けずひたすら心を鎮める。死んだであろう牛尾に向けてのせめてもの供養の念もあった。
拝み屋を始めた頃、一度金を借りた。牛尾の評判が悪く、やや不条理な高利というのは後から知ったが、滝野川は自分の落ち度だと割切って返した。しかしその後もやれ客を紹介するなどと、要らぬ節介をされ、仲が良いように思われたり、あらぬ事も多々出てきた。憎しみと言うよりは、煩わしさが勝ったが故だった。
そんな苦い思い出も無くなると思えば感傷の情も生まれよう。
だから、急患だと言って牛尾が一人飛び込んで来たときは、滝野川も目を疑わざるを得なかった。
「すまんねえ、何か悪い物に憑かれたらしい。取っ払って欲しいんだ」
額に玉の汗を浮かべ息を切らし、衰弱しているのは明らか。顔は気の良い青年のため、弱っていると罪の意識が沸き上がって来てしまった。
「いけません、座って待ってて下さい」
滝野川は牛尾を神饌台の前に座らせた。焦ってはいけない、まだ不幸中の幸いだ。他の霊媒師にでも頼みに行かれたら、滝野川の仕業と一発でわかったに違いない。
今ここで冷静に祓い適当言えば、憑き物の証拠は消える。
「それで、どうしたんですか」
「仲間と呑んでたら急に体がだるくなって、こりゃ憑かれたなと。乗っ取られる感じは無いが仲間には気分が悪いって出て来たんだ。憑き物を落としに行くなんて言ったら、心の弱い奴と思われかねん」
「またそんな……」
牛尾は妙なプライドを持った男だった。単に素直じゃないとも言える。そこが絶妙に好印象を与えるらしく、やってることの割には本気で憎まれもしない。滝野川も本気で拒絶できない厄介な奴だった。
しかし、今回は滝野川の有利に働いた。憑き物に憑かれたので祓いに来た、というプロセスは誰も知らない。滝野川は勇気を振り絞った。
「すぐ準備するので、目を閉じて気を落ち着かせていて下さい」
滝野川は神妙そうに言って奥の間から道具箱を漁り金槌を握る。奇しくもこれも牛尾に貰った外来性のセット品だった。牛尾は律儀に目を瞑り息を落ち着かせようとしている。弱っているのだから当然だが、どこか滑稽だった。
忍び足で背後によると滝野川は大きく金槌を振り上げた。これは事故なのだ、一発で息の根を止めねばならない。
息を呑み振り下ろす。今度はそれなりの手応えがあった。
倒れ込む牛尾を前に、滝野川は手が震え金槌を落としてしまった。牛尾の頭からじんわりと血が出てきたため、輪を掛けてパニックになりそうだったが、最後の最後に踏みとどまれるのが滝野川の取り柄だった。どうにか気を落ち着かせる事に成功すると、事態を誤魔化す為に偽装を考えた。
本棚を倒し、あたりの物を闇雲に払いのけた。まるで憑かれた狂人が暴れたかのように装う。髪を振り乱し冷静に蛮行に行う自分は一体何者なのか、というのは考えないでおいた。
その後息も絶え絶えのまま、滝野川は自警団を呼んだ。襲われたと言うとすぐに飛んできて、現場の確認を行った。その際に頭から血を流す牛尾の手に簡易な幣束が握らされた。滝野川は直ぐに憑きものが憑くと幣帛が動くという憑依の確認法とわかった。
予想外の行為だった。冷や汗が出るがもう神だか仏だかに祈るしか無い。固唾を呑み幣帛を見守ると、確かに幣束は揺れ動いた。やはりゴボウダネが失敗していたわけでは無かったのだ。 自警団の一人がが不安そうな滝野川に声を掛けてくれる。
「危ない目にあいましたね」
滝野川は青年の言葉でようやく震えが止まった気がした。
彼は不明な何かに憑かれ狂乱状態、半ば妖怪化して拝み屋に入り込んだ。暴れる彼をやむを得ず殴り、当たり所が悪く殺めるという結果を招いた。まったくもって滝野川の思惑通りの解釈に落着した。
翌日に中年の自警団員が一度来たが、疑う様子も無い。トラブルになるといけないから、牛尾の通夜と葬式は出ないでほしいという遺族からの伝言を受けた。遺族への謝罪の意を文にしたためて渡した。自警団も大変だな、と滝野川は同情した。
店は開けず、髪も結わないで自分で荒らした室内を片付け始めた。流石に噂になって仕事は減るだろうが、それはやむを得ないし、休みを貰ったと思えば良い。大仕事を終えたのだ。
それでも心優しい人がいくらか顔を出してくれて、心配する声を掛けてくれた。滝野川は仮病を使って寺子屋を休んだときを思い出した。優しさが心に針を刺してゆく。そのあふれ出る罪悪感が自分に在る事は、むしろ心地よい。
ひっそりと片付けを続けていると戸を叩かれた。そろそろ野次馬根性の文屋でも来たかと警戒して戸を隙間ほど空けた。しかし外には紅白の巫女がに立っていた。
「こんにちは、博麗霊夢よ」
返す間もなく霊夢は戸に手を掛け、こじ開けてきた。随分と乱暴な人だなと滝野川は唖然とした。
「こ、こんにちは。博麗の巫女様がどうしてこんな所に?」
霊夢は首だけ突っ込んで室内を観察し始めた。
「いやね、事件があったって聞いたから」
滝野川には霊夢の思惑がわからなかった。事件と言っても異変とまでは行かない。こんな直ぐ巫女が動く事があるだろうか。故意に殺したことを疑われている思うと自然と身が固くなる。
「ええと、殺人犯は私なんですけど……」
「ああ、あんたも嫌な役回りになったみたいね。ご愁傷様。ちょっと中見てもいい?」
「今は片付けてる最中なんですが」
「見るだけだから、お願い」
牛尾殺しには疑問を持っていない。ならこの巫女は何を知りたがっているのか。腑に落ちないが、滝野川は強く断る理由も上手く思いつかなかった。
「片付けながらでいいなら」
「ありがとう」
霊夢は愛想良い笑顔で入ると辺りを見回した。
「なんか色々あるのね、拝み屋なんて滅多に入らないから新鮮」
「うちは憑き物メインですから、巫女様なら尚更来る機会も無いでしょう」
滝野川は片付けに集中することにした。ひっくり返した神饌台を起こし、野菜を拾った。幸い潰れる様な物は置いてなかったので、問題なく後で食べられそうだ。
「お経に祝詞に易経に秘奥鈔に占事略決……何でもありなのねここ」
滝野川が振り向くと霊夢が本棚から雪崩れ落ちた本をパラパラと物色していた。
「あのー、見るだけって」
「想像以上に散らかってたから、ちょっとお手伝いしようかと思って」
霊夢は名残惜しそうに手を離した。そんな気無かったのは一目瞭然だ。
「でも宗派とか無いのね、節操ないというか。これは何に使うの?」
今度は転げている物をかき集めて拾ってきた。
「私たちはあまり難しい事は出来ませんから、効く物は広く浅く集めるんです。それは有名な松葉いぶし用の葉ですよ、煙で憑きものを燻り出します。知りませんか」
「いやあ知ってるけど、本当に使うとは……んじゃいっぱいあるこれは?」
「蛇腹本のお経です。叩いたり扇いで憑きものを追い出します。あんまり使いませんけど」
「このべったり黒い札は?」
「貰った能勢の黒札です。元は火伏せですが狐憑きに利くそうです」
「あれ、前に小鈴が持ってたのと違う……」
「あのー、見るだけってどういうことか分かります?」
「ごめんなさい、なんか気になっちゃって。ついでにお経の下にこんなシミがあったんだけど」
頭をかきつつ霊夢が指さしたのは、小さい潰れた血痕だった
「頭から血を流してましたからですかね」
「いやいや、暴れた後に殴ったなら、血が下敷きになってるのはおかしくない?」
滝野川は言葉に詰まる。暗かったので全く気がつかなかった。
「私そそっかしいので、以前どこか切った時のかもしれません」
「ふーん……」
道具を受け取って滝野川は各々を元の位置に戻した。目ざとさにどぎまきさせられ、会話が無くなってしまったが、霊夢の方から切り出してきた。
「気になってたのは被害者なの。妖怪みたいな勢いだったって聞いたから。手がかりが欲しくて……どんな様子だった?」
滝野川は納得した。何が憑いたかが気になっているのだ。考えてみればそれも当然考えるべき案件だ。
「えーと、牛尾ですか。私の所に来たときは既にまともでは無かったみたいで……」
「その牛尾って奴と関係あったの?」
「彼は以前、犬神に憑かれてまして。拝んで剥がした事があります。もしかしたらあの時の犬神が再び憑いたのかも」
「なるほど。あんたの拝みってあんまり効かないってこと?」
「……やっぱり特に心当たりないかもしれません」
滝野川が苦笑いで答え、本棚を起こしていると手に違和感があさた。安い家具だったため、側面から釘が斜めに浮いてしまっている。
「引っかけると危ないわ。打つか抜くかしないと」
後にいた霊夢が、またもめざとくのぞき込む。お節介
「ええ、そうします」
滝野川は奥の道具箱から釘抜きを持ってきた。
「道具箱は奥にあるのね、金槌もそこに?」
「ええ、金槌は使う気になれないので捨てようかと、今は外に置いてありますが」
これは本音だった。殺人に使った道具など、事故だろうが何だろうが手元には置きたくない。
「そういうことなら神社で引き取ってお祓いするけど」
「本当ですか、なら是非お願いします。表に立てかけてありますので」
霊夢は戸から首だけ出したが別の何か見つけた様だった。
「これね。ん……」
身を乗り出して取った物を滝野川に見せる。巻き煙草の吸い殻だった。
「あなたの? 拝みで煙草とかも使うんでしょ」
さっきはあれだけ聞いてきたのに、これは知っているというのが、滝野川にはなんとも謀られた気分だった。
「昨日自警団が来たので、その中の方じゃないですか、思ったよりも多くの方がいらしたので」
滝野川はできるだけ自然な笑顔を意識して答えた。
「ふーん……」
霊夢ははまじまじと煙草を眺めると、布に包み懐に入れ外に出た。
「金槌のお祓いもあるしそろそろ帰るわ。また、来るわね」
滝野川は表まで見送ると、妙な悪寒を感じながら部屋の片付けを続けた。なにやら台風が去ったようだと滝野川は思った。巫女は何が憑いたのか気にしていたというより、牛尾自体を調べているように見える。
一つ考え至る事があった。幻想郷の里人が妖怪と化した時、何処となく消えてしまうという噂だ。それが真実で、博麗の巫女が絡んでいるんじゃ無いだろうか。だから今回牛尾が半ば妖怪になってしまったという、下らない人言を調査しに来たのだ。 そうだしたら滝野川のやったことも、単に咎められて終わるとは限らない。しかも、また来るというではないか。
滝野川は大きく首を振って自分を鼓舞した。悪いことはしてない。そう思いたい。
翌日、片付いたので形としては拝み屋を再開させ、薬研で漢方を挽き生薬を作っている際、再び霊夢が顔を出した。
「こんにちは、博麗霊夢よ」
滝野川は即座に警戒した。
「今日はどうかされましたか。何か憑きものでも」
「まさか。また来るって言ったからね」
「一応仕事中なので……」
わざと薬研の車輪でざりざりと音を立てる。霊夢はやや申し訳なさそうな低姿勢で、結局入って来た。
「邪魔をするのは心苦しいけど、ちょっと聞きたいことがあって……」
霊夢は上がり込んで、滝野川の真横に座った。滝野川は腰を浮かせて少しだけ離れた。
「被害者の牛尾って人の遺体を見に行って話を聞いたの。確かに一発だけ殴られて死んだみたいね、あんた本当に初めて人殴ったの?」
「悪い冗談はやめてください……御遺族はどうでしたか」
霊夢は滝野川が動かす薬研に興味を持ち、目を離さないでいる。
「逆に襲ったのを申し訳なさそうにしていたわよ。殴られた傷としては弱かったみたいで、あんたも殴るのは躊躇してたんだろうって」
「優しい方達ですね……」
滝野川は殴ったときの手応えを思い出す。あれで弱い部類だったと言われると、自分は人殺しには向いてないなと思った。
「居酒屋から具合が悪かったみたいでね、それもあって亡くなったみたい。私はその時から何かに憑かれてたって睨んでるけど」
「なるほど……」
「それと牛尾は金貸しであんまり評判良くもなかったのね。でも不思議と憎まれても無かったみたい」
「……まあ、世の中いろんな人が居ますからね」
「ちなみにあなたは借りたことは」
滝野川は薬研で挽く手を止めた。
「ありますよ。私はちゃんと返しましたけどね」
薬研の粉末を並べた薬包紙に分け、一つを霊夢に手渡した。
「よかったらどうぞ」
霊夢は確認もせず口に流し込んだ。
「ブフォ! 苦っ!」
「なにやってるんですか、気付け薬のセンブリですよ」
「先に言ってよ」
霊夢が即座にげえげえしている。いきなり口に入れるとは滝野川も思っていなかった。湯飲みに水を用意してやって渡した。
「言う前に呑まれたので……で、気になることって言うのは牛尾さんのことですか」
「その前に……折角だから私も拝みってのをやってみようと思ったの。ちょっと採点してよ!」
滝野川は目を丸くした。
「い、今ですか? 拝みって言うのはせめて誰か対象者がいないと……」
霊夢は答えずに咳払いで苦みに歪んだ顔をきりっとさせ、神饌台の前に座る。一呼吸置いてお祓い棒を左右に振り始めたので、滝野川はやむを得ず見守ることにした。やがて願文めいた物を唱え始める。
「かけまくもかしこき滝野川殿偽り謀り有らむをばここにおほせたまふ――」
それは滝野川に対する拝みであった。しかも悪さしてるなら素直に話せと宣戦布告じみた内容だ。しかし滝野川はその内容より、所作や言葉の一つ一つの抑揚の良さに見惚れ聞き惚れてしまった。自分より若いのにちょっとずるいなと思った。
一通り終わると霊夢は満面の笑みで振り向いた。
「どうよ、心に響いた?」
「流石本職というか、まいりました。でもそれじゃ、うちのような拝み屋にはなれません」
「なんでよ」
霊夢は訝しげに滝野川を睨んだが、拝み屋としてここは挫けられなかった。
「拝み屋は相手を正しいと認めるものです。例え悪い物に憑かれていても興味を持って頂いていると、障りがあっても気遣いを頂いていると。でも人には厳しいからこの位にして下さいと拝むのです。巫女様は自分が正しいから相手にも言うこと聞けと言っているように思えます」
「うーん、確かに……しょうにあってない。普通の神相手とはちょっと違う気がする」
霊夢は詰まらなそうに頭をかいた。
「正しく無いと思ってるのに認めるなんて、できないでしょう」
「だから拝み屋が居るのかも知れません」
「まぁ、誰でもできるなら拝み屋なんていらないし。私は私のやり方って事ね」
滝野川がにっこり笑うと、霊夢も薄くわらった。霊夢が何か疑っているのは確かだ。それが殺人の事なのか、或いはもっと深いところかは、判別できなかった。
「満足ですか」
「ええ、でも話の続きがあるわ。彼の遺体はこんな物持ってたの」
霊夢は懐から四つ折りのぼろい紙を取り出して広げた。お経と、賢見皇大神の文字。そして帯刀した尊そうな男とその前に犬が数匹描かれている。滝野川は見覚えがあった。
「これあんたが作った護符でしょう。賢見皇大神って動物霊の憑き物落としで有名な神様よね」
「犬神を落とした時に渡した物です……まだ持っていたとは」
「動物霊に、経はその辺の低級霊対策かしら。これも全く効かなかったって事はないと思う」
滝野川は想起した。かつて牛尾に渡した物だ。これを持っていたために憑き物がうまく憑かなかったのかもと思うと、誇らしさと馬鹿らしさで顔が少し歪んだ。
「そうなるとますます何が憑いてたのやら。ぶっちゃけあんたは何が犯人だと思う?」
滝野川は返答に困った。拝み屋という立場で意見を求められると適当も言えず、勿論答えも言うわけにはいかない。
「狐憑きや狸憑きは精神的な乱れを起こす事が多いですし、僭越ですが護符が効いてとするなら……通り悪魔や行き合い神の様な、出会い頭の憑き物かもしれません」
「それでも体調悪変から凶行に行くのはおかしいと思う。まず居酒屋は屋内だし、端から見ても具合が悪い程度だったのよ」
「ですよね。あまり考えたくないですが、強い死霊や怨霊に乗っ取られていたなら、利口な行動も腑に落ちます。私を害するために操られたと考えるべきかも知れません」
「恨まれる覚えでもあるの?」
「世の中色んな人が居ますからね」
「そればっかね。でもそんな強い怨霊なら、昨晩も襲われてそうだけどなあ……」
霊夢はやや考え込んでいるようだった。滝野川はいい加減帰って貰いたいと考えながら、気付け薬を手製の薬箱に納めた。客が来ないため追い出す決め手は今日も無い。
「こうは考えられませんか? 体調が悪かったのは別の理由だった、あえて言うなら不摂生が祟ったんです。それで弱っていたところ通り悪魔に憑かれて、目に付いた拝み屋に飛び込んだ」
「牛尾は元々体が悪かったのかしら」
「さあ、ただ見栄を張って無闇に呑んだり……健康とは縁遠かったように思います」
「なるほどね、ちょっと洗い直してみるかなあ。でも怨霊とかの線も捨てきれないから、用心はしてよね」
「ありがとうございます」
「これ、貼っといてあげる」
霊夢は懐から博麗と書かれた御札を出して、ひらひらとさせた。
「いえそんな、結構です」
「なんでよ、ただなのよ?」
滝野川はこういう押しにはどうにも弱い。御札を戸に貼り付けて出て行く霊夢を笑顔で見送るしかなかった。
塩でも撒きたくなった滝野川は、葛藤の末塩を大さじに掬った。ところが戸に手を掛けた途端、静電気のような痛みを感じて落としてしまった。
大さじは多すぎたかと後悔したが、博麗の札は妙な気を起こしそうな妖怪等に効くというのを思い出した。塩を撒くのが妙な気かはともかく、人としての一線を越えてしまって反応してしまったらしい。これは本格的にどうしようもない。滝野川はため息が出た。
巫女に憑きものを送ってみようか、と邪心も起きたが効くとも思えず、そこまで自分を堕とす気にもならなかった。まだ不幸中の幸いだ、このままがずっと続くならそれでもいい。
とりあえず戸をこのままにして置くわけにはいかず、今度は無心を努め、おっかなびっくり触ると平気だった。慎重にはがしてそのまま赤子のように大切に運び、ぞんざいに捨てた。自分の量産した気休めの気付け薬より、この一枚の方が何倍も役に立つ気がして少しげんなりした。
牛尾を殺めてから二日目の朝、今日も客は来ないとふんで滝野川は貸本の返却と買い物に出た。
遠くに見える山を眺める。いっそ里から逃げ出してしまおうかな。滝野川は気楽に考えてみたが、心の底からそう思う事はできなかった。外で生きていける程の力量も度胸も持ち合わせてはいない。
さっさと貸本を返却し、生薬の材料を買い集めた。掘り出し物でも無いかとね気に入っている店を巡りながら帰る。滝野川の気に入っているルートで、見ているだけで気分が晴れた。
拝み屋の前まで来ると、戸の前で風呂敷包みを持った霊夢がうろうろと中の様子を窺おうとしていた。滝野川がしれっと横を素通りすると気まずそうな顔をした。
滝野川は振り向いて笑って見せた。
「こんにちは、博麗霊夢さん」
「あ、あら……偶然で奇遇」
「ちょっと白々しすぎませんか」
「返事が無いから、夜逃げでもしたのかと心配だったのよ」
「逃げる理由なんてありません、上がりますか?」
滝野川は半ば諦観して戸を引くと、霊夢も笑顔で入ってきた。「あれ、昨日の御札もう剥がしちゃったのね」
霊夢が入った直後指摘する。
「拝み屋に来るのにああいう物があっては、余計な刺激になりますので。申し訳ないですが……」
「それは悪いことしたわね」
「いいえ、それで今日は何の用ですか」
「今日は……これ!」
霊夢が風呂敷をほどくと、古ぼけた小さめの薬研が出てきた。
「あんた上手そうだから教えてよ」
「こんなのただ挽くだけで上手下手無いですよ」
「いいからいいから、重たいの持ってきたのよ」
なにがいいのか、滝野川の意思など解せず話が進んでしまった。霊夢はさらに風呂敷から材料らしき紙の小袋を雑に並べている。
「ギンギョーサン?って言うの作りたくて、材料も持ってきたのよ。えーっと、キンギンカにハッカにレン……ギョウ?」
霊夢が小袋のラベルをぎこちなく読み上げていく。
「銀翹散って風邪薬ですよ。練習するならゴマとかおすすめですよ」
「私は本番で練習するタイプなのよ」
自信ありげに言うと、霊夢は漢方の葉を船型の器に次々と放り込んでいく。
「ああ、そんなにいっぱい入れてやるもんじゃ無いですよ」
量が多いと潰しきれない。昔同じようなことをやったことのある滝野川は見ていられず量を調整してやった。
「これだけ?」
「この薬研は小さめですからね。少しずつやって最後に混ぜましょう」
「わかった」
霊夢はガッタンガッタンと薬研の車輪を前後させ、葉を潰し始める。拝みはどこか卓越した物も見えたが、こちらは実に初心者らしい手つきで、滝野川は何故かほっとした。
「もっと小刻みに動かして大丈夫です。車輪は立てすぎず斜めにしたり、左右にぶれさせるのがコツです」
「やっぱり上手下手あるじゃないの」
霊夢は細かく車輪を動かしながら、喋り始めた。
「そういえば前に見せた紙巻き煙草。あれは牛尾の物だったの。外来物の珍しい物だって仲間内で自慢してたみたいよ」
「それが本題ですよね……。彼はお金持ちでしたから、容易に想像できます……あ、そろそろこっちの器に移して次いきましょう」
滝野川が用意した小鉢に粉末が流し込まれる。霊夢は別の材料も続けてやって良いのか迷っていたが、滝野川が次のキキョウの根を入れると再び挽き始めた。
「あなたが勧めたんだって? 煙草は気を落ち着かせて憑きものの障りを押さえられるって」
「彼は憑きやすい体質だったので教えたんです。何を勘違いしたのか今やヘビースモーカーでしたけど」
「でも、そうなるとおかしいのよ。憑かれて狂乱状態の人が煙草吸ってから突入はしないでしょ」
「嘘をついて居酒屋を抜け、拝み屋の中で、何かに憑かれたと言いたいんですか?」
滝野川はふと霊夢の顔をじっと見た。薬研に一生懸命な顔だった。
「居酒屋から抜けたのは、やむを得ない事情があったはず。予め予定があるなら最初から断れる集まりだもの。彼は居酒屋で何かに憑かれたのよ」
「言ってることが噛み合ってない気がしますが」
「わからないかしら、牛尾は憑かれたけど体調を崩しただけよ。憑き物といえば拝み屋と思って必死でここに来た。煙草も吸って少しでも和らげようとしたのね」
霊夢は要領を憶え、自分で小鉢に挽いた物を流し込むと、次の材料を入れた。
「最初から最後まで、錯乱状態になんか陥って居なかったということですか」
「そう、無論妖怪化なんてもってのほか。憑き物で具合が悪かった所をあんたに普通に殴り殺されたってわけ」
「そんな馬鹿なこと仰ってはいけません」
「違ったかしら」
「私は部屋を荒らされましたよ」
「そんなのどうだってなるわよ。血が荒らされる前の所にあったし」
「あれは私のだって言ったじゃ無いですか。戸を開けた瞬間とり憑かれることもあるかもしれません」
「それなんだけど、お祓いしてる時に、気づいちゃったことがあるの」
霊夢は四つん這いで風呂敷を引き寄せると、棒状の物を取り出した。殺人に使った、滝野川がもう見たくも無い金槌だった。「ここにほら、血ついてるでしょう?」
打撃部分に小さく丸い血がついている。
「あの時に見た、自分でやったって床の血痕と同じに見えるんだけど」
「それは……私が怪我したときに一緒にそれもあっただけです。それに床の血痕は実はあの後消しちゃいましたよ」
「ああ、ごめんなさい。あの時っていうのは床の方じゃ無くて」
霊夢は立ち上がり本棚を眺め、折本の経を一部取り出した。
「こっちにもついてたのよね、血が」
手伝いと称して本を物色していたとき、床の血痕の上に乗っていた経だ。裏面に鉄錆色の血が在り、金槌の血の跡とうり二つ。
「たぶん血が落ちた所に気づかず金槌を置いたのね、血の跡も潰れていたし。金槌が動いた後、直ぐに折本が上に乗った。殴った後に自分で部屋も荒らせば息も荒れてそれっぽく見える」
滝野川は絶句した。あった事を言われただけで、これほど気力を奪われるのか。観念するしかなかった。
「最初見たとき、お経の血のことは言いませんでしたよね?」
「あんたの嘘に乗ってあげたのよ。あの時は状況もよく分からなかったしね」
霊夢はいたずらな笑みを浮かべると金槌を戻して、再び薬研を動かし始めた。
「悪いことはできませんね、確かに私が殺意を持って殴りました……」
「やっぱりね。ただ、ぶっちゃけそこはどうでも良いのよ」
「は?」
「憑き物をけしかけたのもあんたでしょう。それも妙な力を使ってね。そこが一番問題よ」
霊夢は打って変わって目を鋭くした。滝野川は言葉も返せなかった。
「弱ってる牛尾を手に負えないとか言って放置してみても良かった。態々殴ったのは、他の人に憑きものを見られると困るから」
「それは……でも何がついたか分からないって」
「あんたの言ったとおり、動物霊の類でなく、死霊でもない、妖怪の類でもない。あんたが憑けたのは怨霊……というか生霊かしらね」
「生霊もよほどの恨みが無いと体調までは崩せません……誰が見ても呪い殺す程恨みを持っていないと……」
「そう、だからあんたは、ろくに恨んで無くても生霊が飛ぶ方法を使ったのよ」
霊夢は持参した漢方から乾燥した種子を一粒、手渡した。それを見て滝野川はもう駄目だと思った。
「これはゴボウシ……牛蒡の種ですか、またずいぶん直球で……」
「元の牛蒡の種は衣服にくっつきやすいのよね。それと似て、少し憎んだだけで相手に生霊を飛ばしてしまう法がある、憑き物筋のゴボウダネってね。今のところ本人を殴れるくらい憎んでるのはあんたぐらいよ」
滝野川は呆れつつ薬研の器にゴボウシを投げ入れた。
「そんな嫌味言うために持ってきたんですか?」
「薬研を教えて貰いたかったのは本当よ」
「何使ったかまでばれちゃうとは、流石巫女様というか……」
疲れた手を休ませたあと、霊夢は粉末にしたゴボウシを小鉢に注いだ。全ての材料が挽き終わった。
「ゴボウダネは修験道の護法童子の術が民間に降りて、護法の代わりに自分の生霊が飛ぶのでしょう。見識の広そうなあんたなら、使えても不思議じゃ無いからね」
「そう言われると、光栄な気もしますけどね」
滝野川は小鉢に匙を入れて混ぜ合わせてやった。
「こんな回りくどいことして、なんで大して憎んでない相手を殺しちゃったわけよ」
「彼には関わりたくないのに、何かと突っかかってくるから……」
「それだけで?」
「彼は拝もうが頼もうが、聞き入れてくれません。怖いことですよ」
「憑き物みたいなの相手にしてて、そんなの怖いなんてね」
「霊や妖怪よりも話を聞いてもくれない相手に付きまとわれる方が、よほど怖いですよ。皆が恨みもしないなら尚更です」
「馬鹿ね、本心をそのままぶつければ良いのに……なんにせよ、殺そうとしたのは下の下策ね」
「あと、床の血を偶然見つけてしまう巫女様も怖かったですけど」
「ここに入ったときから、違和感はあったのよ」
霊夢は部屋の隅に平置きになっていた折本を手に取る。
「折本で叩く除霊は原始的で間に合わせの手段でしょう。拝み屋でこんな沢山散らばってあるのは、もしもの時の護身用ってこと。咄嗟に金槌を持ってきて殴ってる時点で変よ」
最初から色々見られていたらしい。
「こういう事するのは向いてなかったみたいです」
「そうね、生霊も金槌も即死の強さじゃ無かった。どっか手を抜いてたんじゃないの」
ゴボウダネも金槌も心のどこかで最後の最後、ほんの少し自制で踏みとどまったのだろうか。今となっては分からないし、結果も変わらない。
「ただ、あなたはもう普通の人間じゃ無い、ゴボウダネの始祖よ。ゴボウダネは血筋に憑いて伝承されるし、下手すると赤の他人に能力ごと伝染する。あなたは上手く扱えてるみたいだけど、後世や周りが同じとは限らない」
「ちょっとした恨みで生き霊が飛び交って、里が疑心暗鬼になったら大変。ですもんね」
「そういうこと、私もあなたに恨みは無いけど、最後の最後までケリを付けないとね。だからあなたはここまでよ」
滝野川は意外と嫌な気がしなかった。きっとこれもまた、不幸中の幸いなのだ。
「その前に完成させましょう」
滝野川は霊夢の作った銀翹散を一包ずつに分けた。
「ゴボウシは風邪系統の感染症に薬効があるんです、因果な物ですよね」
そのうちの一つを自分の口に流し込む。滝野川の予想通りな苦みが広がる。舌触りはなめらかで均等な粒子に出来ていた。
「良くできてると思います、流石巫女様です。かないませんね」
「拝んでも駄目よ?」
滝野川はにっこり笑って見せた。
「拝み屋はいつだって本心です」
風音もしない静かな夜。まだ少女だったころ、善意から格安で間借りさせてもらい続けている一軒家、もう七年目になり仕事道具や神饌台や薬箪笥がひしめく小さな城だった。
そこで初めて人に死ぬような憑き物を送った。もう真っ当な人間とは言えない所業を成した自分を壁掛けの鏡で見て、ため息をつきながら結っていた髪を解いた。
使ったのはゴボウダネという憑き物だった。血筋に染みつくという言わば呪われた力だ。これから先、墓場までもっていかなくてはいけない。
手応えは無いが失敗した様子も無い。滝野川の経験上こういう時は成功だ。灯りも付けずひたすら心を鎮める。死んだであろう牛尾に向けてのせめてもの供養の念もあった。
拝み屋を始めた頃、一度金を借りた。牛尾の評判が悪く、やや不条理な高利というのは後から知ったが、滝野川は自分の落ち度だと割切って返した。しかしその後もやれ客を紹介するなどと、要らぬ節介をされ、仲が良いように思われたり、あらぬ事も多々出てきた。憎しみと言うよりは、煩わしさが勝ったが故だった。
そんな苦い思い出も無くなると思えば感傷の情も生まれよう。
だから、急患だと言って牛尾が一人飛び込んで来たときは、滝野川も目を疑わざるを得なかった。
「すまんねえ、何か悪い物に憑かれたらしい。取っ払って欲しいんだ」
額に玉の汗を浮かべ息を切らし、衰弱しているのは明らか。顔は気の良い青年のため、弱っていると罪の意識が沸き上がって来てしまった。
「いけません、座って待ってて下さい」
滝野川は牛尾を神饌台の前に座らせた。焦ってはいけない、まだ不幸中の幸いだ。他の霊媒師にでも頼みに行かれたら、滝野川の仕業と一発でわかったに違いない。
今ここで冷静に祓い適当言えば、憑き物の証拠は消える。
「それで、どうしたんですか」
「仲間と呑んでたら急に体がだるくなって、こりゃ憑かれたなと。乗っ取られる感じは無いが仲間には気分が悪いって出て来たんだ。憑き物を落としに行くなんて言ったら、心の弱い奴と思われかねん」
「またそんな……」
牛尾は妙なプライドを持った男だった。単に素直じゃないとも言える。そこが絶妙に好印象を与えるらしく、やってることの割には本気で憎まれもしない。滝野川も本気で拒絶できない厄介な奴だった。
しかし、今回は滝野川の有利に働いた。憑き物に憑かれたので祓いに来た、というプロセスは誰も知らない。滝野川は勇気を振り絞った。
「すぐ準備するので、目を閉じて気を落ち着かせていて下さい」
滝野川は神妙そうに言って奥の間から道具箱を漁り金槌を握る。奇しくもこれも牛尾に貰った外来性のセット品だった。牛尾は律儀に目を瞑り息を落ち着かせようとしている。弱っているのだから当然だが、どこか滑稽だった。
忍び足で背後によると滝野川は大きく金槌を振り上げた。これは事故なのだ、一発で息の根を止めねばならない。
息を呑み振り下ろす。今度はそれなりの手応えがあった。
倒れ込む牛尾を前に、滝野川は手が震え金槌を落としてしまった。牛尾の頭からじんわりと血が出てきたため、輪を掛けてパニックになりそうだったが、最後の最後に踏みとどまれるのが滝野川の取り柄だった。どうにか気を落ち着かせる事に成功すると、事態を誤魔化す為に偽装を考えた。
本棚を倒し、あたりの物を闇雲に払いのけた。まるで憑かれた狂人が暴れたかのように装う。髪を振り乱し冷静に蛮行に行う自分は一体何者なのか、というのは考えないでおいた。
その後息も絶え絶えのまま、滝野川は自警団を呼んだ。襲われたと言うとすぐに飛んできて、現場の確認を行った。その際に頭から血を流す牛尾の手に簡易な幣束が握らされた。滝野川は直ぐに憑きものが憑くと幣帛が動くという憑依の確認法とわかった。
予想外の行為だった。冷や汗が出るがもう神だか仏だかに祈るしか無い。固唾を呑み幣帛を見守ると、確かに幣束は揺れ動いた。やはりゴボウダネが失敗していたわけでは無かったのだ。 自警団の一人がが不安そうな滝野川に声を掛けてくれる。
「危ない目にあいましたね」
滝野川は青年の言葉でようやく震えが止まった気がした。
彼は不明な何かに憑かれ狂乱状態、半ば妖怪化して拝み屋に入り込んだ。暴れる彼をやむを得ず殴り、当たり所が悪く殺めるという結果を招いた。まったくもって滝野川の思惑通りの解釈に落着した。
翌日に中年の自警団員が一度来たが、疑う様子も無い。トラブルになるといけないから、牛尾の通夜と葬式は出ないでほしいという遺族からの伝言を受けた。遺族への謝罪の意を文にしたためて渡した。自警団も大変だな、と滝野川は同情した。
店は開けず、髪も結わないで自分で荒らした室内を片付け始めた。流石に噂になって仕事は減るだろうが、それはやむを得ないし、休みを貰ったと思えば良い。大仕事を終えたのだ。
それでも心優しい人がいくらか顔を出してくれて、心配する声を掛けてくれた。滝野川は仮病を使って寺子屋を休んだときを思い出した。優しさが心に針を刺してゆく。そのあふれ出る罪悪感が自分に在る事は、むしろ心地よい。
ひっそりと片付けを続けていると戸を叩かれた。そろそろ野次馬根性の文屋でも来たかと警戒して戸を隙間ほど空けた。しかし外には紅白の巫女がに立っていた。
「こんにちは、博麗霊夢よ」
返す間もなく霊夢は戸に手を掛け、こじ開けてきた。随分と乱暴な人だなと滝野川は唖然とした。
「こ、こんにちは。博麗の巫女様がどうしてこんな所に?」
霊夢は首だけ突っ込んで室内を観察し始めた。
「いやね、事件があったって聞いたから」
滝野川には霊夢の思惑がわからなかった。事件と言っても異変とまでは行かない。こんな直ぐ巫女が動く事があるだろうか。故意に殺したことを疑われている思うと自然と身が固くなる。
「ええと、殺人犯は私なんですけど……」
「ああ、あんたも嫌な役回りになったみたいね。ご愁傷様。ちょっと中見てもいい?」
「今は片付けてる最中なんですが」
「見るだけだから、お願い」
牛尾殺しには疑問を持っていない。ならこの巫女は何を知りたがっているのか。腑に落ちないが、滝野川は強く断る理由も上手く思いつかなかった。
「片付けながらでいいなら」
「ありがとう」
霊夢は愛想良い笑顔で入ると辺りを見回した。
「なんか色々あるのね、拝み屋なんて滅多に入らないから新鮮」
「うちは憑き物メインですから、巫女様なら尚更来る機会も無いでしょう」
滝野川は片付けに集中することにした。ひっくり返した神饌台を起こし、野菜を拾った。幸い潰れる様な物は置いてなかったので、問題なく後で食べられそうだ。
「お経に祝詞に易経に秘奥鈔に占事略決……何でもありなのねここ」
滝野川が振り向くと霊夢が本棚から雪崩れ落ちた本をパラパラと物色していた。
「あのー、見るだけって」
「想像以上に散らかってたから、ちょっとお手伝いしようかと思って」
霊夢は名残惜しそうに手を離した。そんな気無かったのは一目瞭然だ。
「でも宗派とか無いのね、節操ないというか。これは何に使うの?」
今度は転げている物をかき集めて拾ってきた。
「私たちはあまり難しい事は出来ませんから、効く物は広く浅く集めるんです。それは有名な松葉いぶし用の葉ですよ、煙で憑きものを燻り出します。知りませんか」
「いやあ知ってるけど、本当に使うとは……んじゃいっぱいあるこれは?」
「蛇腹本のお経です。叩いたり扇いで憑きものを追い出します。あんまり使いませんけど」
「このべったり黒い札は?」
「貰った能勢の黒札です。元は火伏せですが狐憑きに利くそうです」
「あれ、前に小鈴が持ってたのと違う……」
「あのー、見るだけってどういうことか分かります?」
「ごめんなさい、なんか気になっちゃって。ついでにお経の下にこんなシミがあったんだけど」
頭をかきつつ霊夢が指さしたのは、小さい潰れた血痕だった
「頭から血を流してましたからですかね」
「いやいや、暴れた後に殴ったなら、血が下敷きになってるのはおかしくない?」
滝野川は言葉に詰まる。暗かったので全く気がつかなかった。
「私そそっかしいので、以前どこか切った時のかもしれません」
「ふーん……」
道具を受け取って滝野川は各々を元の位置に戻した。目ざとさにどぎまきさせられ、会話が無くなってしまったが、霊夢の方から切り出してきた。
「気になってたのは被害者なの。妖怪みたいな勢いだったって聞いたから。手がかりが欲しくて……どんな様子だった?」
滝野川は納得した。何が憑いたかが気になっているのだ。考えてみればそれも当然考えるべき案件だ。
「えーと、牛尾ですか。私の所に来たときは既にまともでは無かったみたいで……」
「その牛尾って奴と関係あったの?」
「彼は以前、犬神に憑かれてまして。拝んで剥がした事があります。もしかしたらあの時の犬神が再び憑いたのかも」
「なるほど。あんたの拝みってあんまり効かないってこと?」
「……やっぱり特に心当たりないかもしれません」
滝野川が苦笑いで答え、本棚を起こしていると手に違和感があさた。安い家具だったため、側面から釘が斜めに浮いてしまっている。
「引っかけると危ないわ。打つか抜くかしないと」
後にいた霊夢が、またもめざとくのぞき込む。お節介
「ええ、そうします」
滝野川は奥の道具箱から釘抜きを持ってきた。
「道具箱は奥にあるのね、金槌もそこに?」
「ええ、金槌は使う気になれないので捨てようかと、今は外に置いてありますが」
これは本音だった。殺人に使った道具など、事故だろうが何だろうが手元には置きたくない。
「そういうことなら神社で引き取ってお祓いするけど」
「本当ですか、なら是非お願いします。表に立てかけてありますので」
霊夢は戸から首だけ出したが別の何か見つけた様だった。
「これね。ん……」
身を乗り出して取った物を滝野川に見せる。巻き煙草の吸い殻だった。
「あなたの? 拝みで煙草とかも使うんでしょ」
さっきはあれだけ聞いてきたのに、これは知っているというのが、滝野川にはなんとも謀られた気分だった。
「昨日自警団が来たので、その中の方じゃないですか、思ったよりも多くの方がいらしたので」
滝野川はできるだけ自然な笑顔を意識して答えた。
「ふーん……」
霊夢ははまじまじと煙草を眺めると、布に包み懐に入れ外に出た。
「金槌のお祓いもあるしそろそろ帰るわ。また、来るわね」
滝野川は表まで見送ると、妙な悪寒を感じながら部屋の片付けを続けた。なにやら台風が去ったようだと滝野川は思った。巫女は何が憑いたのか気にしていたというより、牛尾自体を調べているように見える。
一つ考え至る事があった。幻想郷の里人が妖怪と化した時、何処となく消えてしまうという噂だ。それが真実で、博麗の巫女が絡んでいるんじゃ無いだろうか。だから今回牛尾が半ば妖怪になってしまったという、下らない人言を調査しに来たのだ。 そうだしたら滝野川のやったことも、単に咎められて終わるとは限らない。しかも、また来るというではないか。
滝野川は大きく首を振って自分を鼓舞した。悪いことはしてない。そう思いたい。
翌日、片付いたので形としては拝み屋を再開させ、薬研で漢方を挽き生薬を作っている際、再び霊夢が顔を出した。
「こんにちは、博麗霊夢よ」
滝野川は即座に警戒した。
「今日はどうかされましたか。何か憑きものでも」
「まさか。また来るって言ったからね」
「一応仕事中なので……」
わざと薬研の車輪でざりざりと音を立てる。霊夢はやや申し訳なさそうな低姿勢で、結局入って来た。
「邪魔をするのは心苦しいけど、ちょっと聞きたいことがあって……」
霊夢は上がり込んで、滝野川の真横に座った。滝野川は腰を浮かせて少しだけ離れた。
「被害者の牛尾って人の遺体を見に行って話を聞いたの。確かに一発だけ殴られて死んだみたいね、あんた本当に初めて人殴ったの?」
「悪い冗談はやめてください……御遺族はどうでしたか」
霊夢は滝野川が動かす薬研に興味を持ち、目を離さないでいる。
「逆に襲ったのを申し訳なさそうにしていたわよ。殴られた傷としては弱かったみたいで、あんたも殴るのは躊躇してたんだろうって」
「優しい方達ですね……」
滝野川は殴ったときの手応えを思い出す。あれで弱い部類だったと言われると、自分は人殺しには向いてないなと思った。
「居酒屋から具合が悪かったみたいでね、それもあって亡くなったみたい。私はその時から何かに憑かれてたって睨んでるけど」
「なるほど……」
「それと牛尾は金貸しであんまり評判良くもなかったのね。でも不思議と憎まれても無かったみたい」
「……まあ、世の中いろんな人が居ますからね」
「ちなみにあなたは借りたことは」
滝野川は薬研で挽く手を止めた。
「ありますよ。私はちゃんと返しましたけどね」
薬研の粉末を並べた薬包紙に分け、一つを霊夢に手渡した。
「よかったらどうぞ」
霊夢は確認もせず口に流し込んだ。
「ブフォ! 苦っ!」
「なにやってるんですか、気付け薬のセンブリですよ」
「先に言ってよ」
霊夢が即座にげえげえしている。いきなり口に入れるとは滝野川も思っていなかった。湯飲みに水を用意してやって渡した。
「言う前に呑まれたので……で、気になることって言うのは牛尾さんのことですか」
「その前に……折角だから私も拝みってのをやってみようと思ったの。ちょっと採点してよ!」
滝野川は目を丸くした。
「い、今ですか? 拝みって言うのはせめて誰か対象者がいないと……」
霊夢は答えずに咳払いで苦みに歪んだ顔をきりっとさせ、神饌台の前に座る。一呼吸置いてお祓い棒を左右に振り始めたので、滝野川はやむを得ず見守ることにした。やがて願文めいた物を唱え始める。
「かけまくもかしこき滝野川殿偽り謀り有らむをばここにおほせたまふ――」
それは滝野川に対する拝みであった。しかも悪さしてるなら素直に話せと宣戦布告じみた内容だ。しかし滝野川はその内容より、所作や言葉の一つ一つの抑揚の良さに見惚れ聞き惚れてしまった。自分より若いのにちょっとずるいなと思った。
一通り終わると霊夢は満面の笑みで振り向いた。
「どうよ、心に響いた?」
「流石本職というか、まいりました。でもそれじゃ、うちのような拝み屋にはなれません」
「なんでよ」
霊夢は訝しげに滝野川を睨んだが、拝み屋としてここは挫けられなかった。
「拝み屋は相手を正しいと認めるものです。例え悪い物に憑かれていても興味を持って頂いていると、障りがあっても気遣いを頂いていると。でも人には厳しいからこの位にして下さいと拝むのです。巫女様は自分が正しいから相手にも言うこと聞けと言っているように思えます」
「うーん、確かに……しょうにあってない。普通の神相手とはちょっと違う気がする」
霊夢は詰まらなそうに頭をかいた。
「正しく無いと思ってるのに認めるなんて、できないでしょう」
「だから拝み屋が居るのかも知れません」
「まぁ、誰でもできるなら拝み屋なんていらないし。私は私のやり方って事ね」
滝野川がにっこり笑うと、霊夢も薄くわらった。霊夢が何か疑っているのは確かだ。それが殺人の事なのか、或いはもっと深いところかは、判別できなかった。
「満足ですか」
「ええ、でも話の続きがあるわ。彼の遺体はこんな物持ってたの」
霊夢は懐から四つ折りのぼろい紙を取り出して広げた。お経と、賢見皇大神の文字。そして帯刀した尊そうな男とその前に犬が数匹描かれている。滝野川は見覚えがあった。
「これあんたが作った護符でしょう。賢見皇大神って動物霊の憑き物落としで有名な神様よね」
「犬神を落とした時に渡した物です……まだ持っていたとは」
「動物霊に、経はその辺の低級霊対策かしら。これも全く効かなかったって事はないと思う」
滝野川は想起した。かつて牛尾に渡した物だ。これを持っていたために憑き物がうまく憑かなかったのかもと思うと、誇らしさと馬鹿らしさで顔が少し歪んだ。
「そうなるとますます何が憑いてたのやら。ぶっちゃけあんたは何が犯人だと思う?」
滝野川は返答に困った。拝み屋という立場で意見を求められると適当も言えず、勿論答えも言うわけにはいかない。
「狐憑きや狸憑きは精神的な乱れを起こす事が多いですし、僭越ですが護符が効いてとするなら……通り悪魔や行き合い神の様な、出会い頭の憑き物かもしれません」
「それでも体調悪変から凶行に行くのはおかしいと思う。まず居酒屋は屋内だし、端から見ても具合が悪い程度だったのよ」
「ですよね。あまり考えたくないですが、強い死霊や怨霊に乗っ取られていたなら、利口な行動も腑に落ちます。私を害するために操られたと考えるべきかも知れません」
「恨まれる覚えでもあるの?」
「世の中色んな人が居ますからね」
「そればっかね。でもそんな強い怨霊なら、昨晩も襲われてそうだけどなあ……」
霊夢はやや考え込んでいるようだった。滝野川はいい加減帰って貰いたいと考えながら、気付け薬を手製の薬箱に納めた。客が来ないため追い出す決め手は今日も無い。
「こうは考えられませんか? 体調が悪かったのは別の理由だった、あえて言うなら不摂生が祟ったんです。それで弱っていたところ通り悪魔に憑かれて、目に付いた拝み屋に飛び込んだ」
「牛尾は元々体が悪かったのかしら」
「さあ、ただ見栄を張って無闇に呑んだり……健康とは縁遠かったように思います」
「なるほどね、ちょっと洗い直してみるかなあ。でも怨霊とかの線も捨てきれないから、用心はしてよね」
「ありがとうございます」
「これ、貼っといてあげる」
霊夢は懐から博麗と書かれた御札を出して、ひらひらとさせた。
「いえそんな、結構です」
「なんでよ、ただなのよ?」
滝野川はこういう押しにはどうにも弱い。御札を戸に貼り付けて出て行く霊夢を笑顔で見送るしかなかった。
塩でも撒きたくなった滝野川は、葛藤の末塩を大さじに掬った。ところが戸に手を掛けた途端、静電気のような痛みを感じて落としてしまった。
大さじは多すぎたかと後悔したが、博麗の札は妙な気を起こしそうな妖怪等に効くというのを思い出した。塩を撒くのが妙な気かはともかく、人としての一線を越えてしまって反応してしまったらしい。これは本格的にどうしようもない。滝野川はため息が出た。
巫女に憑きものを送ってみようか、と邪心も起きたが効くとも思えず、そこまで自分を堕とす気にもならなかった。まだ不幸中の幸いだ、このままがずっと続くならそれでもいい。
とりあえず戸をこのままにして置くわけにはいかず、今度は無心を努め、おっかなびっくり触ると平気だった。慎重にはがしてそのまま赤子のように大切に運び、ぞんざいに捨てた。自分の量産した気休めの気付け薬より、この一枚の方が何倍も役に立つ気がして少しげんなりした。
牛尾を殺めてから二日目の朝、今日も客は来ないとふんで滝野川は貸本の返却と買い物に出た。
遠くに見える山を眺める。いっそ里から逃げ出してしまおうかな。滝野川は気楽に考えてみたが、心の底からそう思う事はできなかった。外で生きていける程の力量も度胸も持ち合わせてはいない。
さっさと貸本を返却し、生薬の材料を買い集めた。掘り出し物でも無いかとね気に入っている店を巡りながら帰る。滝野川の気に入っているルートで、見ているだけで気分が晴れた。
拝み屋の前まで来ると、戸の前で風呂敷包みを持った霊夢がうろうろと中の様子を窺おうとしていた。滝野川がしれっと横を素通りすると気まずそうな顔をした。
滝野川は振り向いて笑って見せた。
「こんにちは、博麗霊夢さん」
「あ、あら……偶然で奇遇」
「ちょっと白々しすぎませんか」
「返事が無いから、夜逃げでもしたのかと心配だったのよ」
「逃げる理由なんてありません、上がりますか?」
滝野川は半ば諦観して戸を引くと、霊夢も笑顔で入ってきた。「あれ、昨日の御札もう剥がしちゃったのね」
霊夢が入った直後指摘する。
「拝み屋に来るのにああいう物があっては、余計な刺激になりますので。申し訳ないですが……」
「それは悪いことしたわね」
「いいえ、それで今日は何の用ですか」
「今日は……これ!」
霊夢が風呂敷をほどくと、古ぼけた小さめの薬研が出てきた。
「あんた上手そうだから教えてよ」
「こんなのただ挽くだけで上手下手無いですよ」
「いいからいいから、重たいの持ってきたのよ」
なにがいいのか、滝野川の意思など解せず話が進んでしまった。霊夢はさらに風呂敷から材料らしき紙の小袋を雑に並べている。
「ギンギョーサン?って言うの作りたくて、材料も持ってきたのよ。えーっと、キンギンカにハッカにレン……ギョウ?」
霊夢が小袋のラベルをぎこちなく読み上げていく。
「銀翹散って風邪薬ですよ。練習するならゴマとかおすすめですよ」
「私は本番で練習するタイプなのよ」
自信ありげに言うと、霊夢は漢方の葉を船型の器に次々と放り込んでいく。
「ああ、そんなにいっぱい入れてやるもんじゃ無いですよ」
量が多いと潰しきれない。昔同じようなことをやったことのある滝野川は見ていられず量を調整してやった。
「これだけ?」
「この薬研は小さめですからね。少しずつやって最後に混ぜましょう」
「わかった」
霊夢はガッタンガッタンと薬研の車輪を前後させ、葉を潰し始める。拝みはどこか卓越した物も見えたが、こちらは実に初心者らしい手つきで、滝野川は何故かほっとした。
「もっと小刻みに動かして大丈夫です。車輪は立てすぎず斜めにしたり、左右にぶれさせるのがコツです」
「やっぱり上手下手あるじゃないの」
霊夢は細かく車輪を動かしながら、喋り始めた。
「そういえば前に見せた紙巻き煙草。あれは牛尾の物だったの。外来物の珍しい物だって仲間内で自慢してたみたいよ」
「それが本題ですよね……。彼はお金持ちでしたから、容易に想像できます……あ、そろそろこっちの器に移して次いきましょう」
滝野川が用意した小鉢に粉末が流し込まれる。霊夢は別の材料も続けてやって良いのか迷っていたが、滝野川が次のキキョウの根を入れると再び挽き始めた。
「あなたが勧めたんだって? 煙草は気を落ち着かせて憑きものの障りを押さえられるって」
「彼は憑きやすい体質だったので教えたんです。何を勘違いしたのか今やヘビースモーカーでしたけど」
「でも、そうなるとおかしいのよ。憑かれて狂乱状態の人が煙草吸ってから突入はしないでしょ」
「嘘をついて居酒屋を抜け、拝み屋の中で、何かに憑かれたと言いたいんですか?」
滝野川はふと霊夢の顔をじっと見た。薬研に一生懸命な顔だった。
「居酒屋から抜けたのは、やむを得ない事情があったはず。予め予定があるなら最初から断れる集まりだもの。彼は居酒屋で何かに憑かれたのよ」
「言ってることが噛み合ってない気がしますが」
「わからないかしら、牛尾は憑かれたけど体調を崩しただけよ。憑き物といえば拝み屋と思って必死でここに来た。煙草も吸って少しでも和らげようとしたのね」
霊夢は要領を憶え、自分で小鉢に挽いた物を流し込むと、次の材料を入れた。
「最初から最後まで、錯乱状態になんか陥って居なかったということですか」
「そう、無論妖怪化なんてもってのほか。憑き物で具合が悪かった所をあんたに普通に殴り殺されたってわけ」
「そんな馬鹿なこと仰ってはいけません」
「違ったかしら」
「私は部屋を荒らされましたよ」
「そんなのどうだってなるわよ。血が荒らされる前の所にあったし」
「あれは私のだって言ったじゃ無いですか。戸を開けた瞬間とり憑かれることもあるかもしれません」
「それなんだけど、お祓いしてる時に、気づいちゃったことがあるの」
霊夢は四つん這いで風呂敷を引き寄せると、棒状の物を取り出した。殺人に使った、滝野川がもう見たくも無い金槌だった。「ここにほら、血ついてるでしょう?」
打撃部分に小さく丸い血がついている。
「あの時に見た、自分でやったって床の血痕と同じに見えるんだけど」
「それは……私が怪我したときに一緒にそれもあっただけです。それに床の血痕は実はあの後消しちゃいましたよ」
「ああ、ごめんなさい。あの時っていうのは床の方じゃ無くて」
霊夢は立ち上がり本棚を眺め、折本の経を一部取り出した。
「こっちにもついてたのよね、血が」
手伝いと称して本を物色していたとき、床の血痕の上に乗っていた経だ。裏面に鉄錆色の血が在り、金槌の血の跡とうり二つ。
「たぶん血が落ちた所に気づかず金槌を置いたのね、血の跡も潰れていたし。金槌が動いた後、直ぐに折本が上に乗った。殴った後に自分で部屋も荒らせば息も荒れてそれっぽく見える」
滝野川は絶句した。あった事を言われただけで、これほど気力を奪われるのか。観念するしかなかった。
「最初見たとき、お経の血のことは言いませんでしたよね?」
「あんたの嘘に乗ってあげたのよ。あの時は状況もよく分からなかったしね」
霊夢はいたずらな笑みを浮かべると金槌を戻して、再び薬研を動かし始めた。
「悪いことはできませんね、確かに私が殺意を持って殴りました……」
「やっぱりね。ただ、ぶっちゃけそこはどうでも良いのよ」
「は?」
「憑き物をけしかけたのもあんたでしょう。それも妙な力を使ってね。そこが一番問題よ」
霊夢は打って変わって目を鋭くした。滝野川は言葉も返せなかった。
「弱ってる牛尾を手に負えないとか言って放置してみても良かった。態々殴ったのは、他の人に憑きものを見られると困るから」
「それは……でも何がついたか分からないって」
「あんたの言ったとおり、動物霊の類でなく、死霊でもない、妖怪の類でもない。あんたが憑けたのは怨霊……というか生霊かしらね」
「生霊もよほどの恨みが無いと体調までは崩せません……誰が見ても呪い殺す程恨みを持っていないと……」
「そう、だからあんたは、ろくに恨んで無くても生霊が飛ぶ方法を使ったのよ」
霊夢は持参した漢方から乾燥した種子を一粒、手渡した。それを見て滝野川はもう駄目だと思った。
「これはゴボウシ……牛蒡の種ですか、またずいぶん直球で……」
「元の牛蒡の種は衣服にくっつきやすいのよね。それと似て、少し憎んだだけで相手に生霊を飛ばしてしまう法がある、憑き物筋のゴボウダネってね。今のところ本人を殴れるくらい憎んでるのはあんたぐらいよ」
滝野川は呆れつつ薬研の器にゴボウシを投げ入れた。
「そんな嫌味言うために持ってきたんですか?」
「薬研を教えて貰いたかったのは本当よ」
「何使ったかまでばれちゃうとは、流石巫女様というか……」
疲れた手を休ませたあと、霊夢は粉末にしたゴボウシを小鉢に注いだ。全ての材料が挽き終わった。
「ゴボウダネは修験道の護法童子の術が民間に降りて、護法の代わりに自分の生霊が飛ぶのでしょう。見識の広そうなあんたなら、使えても不思議じゃ無いからね」
「そう言われると、光栄な気もしますけどね」
滝野川は小鉢に匙を入れて混ぜ合わせてやった。
「こんな回りくどいことして、なんで大して憎んでない相手を殺しちゃったわけよ」
「彼には関わりたくないのに、何かと突っかかってくるから……」
「それだけで?」
「彼は拝もうが頼もうが、聞き入れてくれません。怖いことですよ」
「憑き物みたいなの相手にしてて、そんなの怖いなんてね」
「霊や妖怪よりも話を聞いてもくれない相手に付きまとわれる方が、よほど怖いですよ。皆が恨みもしないなら尚更です」
「馬鹿ね、本心をそのままぶつければ良いのに……なんにせよ、殺そうとしたのは下の下策ね」
「あと、床の血を偶然見つけてしまう巫女様も怖かったですけど」
「ここに入ったときから、違和感はあったのよ」
霊夢は部屋の隅に平置きになっていた折本を手に取る。
「折本で叩く除霊は原始的で間に合わせの手段でしょう。拝み屋でこんな沢山散らばってあるのは、もしもの時の護身用ってこと。咄嗟に金槌を持ってきて殴ってる時点で変よ」
最初から色々見られていたらしい。
「こういう事するのは向いてなかったみたいです」
「そうね、生霊も金槌も即死の強さじゃ無かった。どっか手を抜いてたんじゃないの」
ゴボウダネも金槌も心のどこかで最後の最後、ほんの少し自制で踏みとどまったのだろうか。今となっては分からないし、結果も変わらない。
「ただ、あなたはもう普通の人間じゃ無い、ゴボウダネの始祖よ。ゴボウダネは血筋に憑いて伝承されるし、下手すると赤の他人に能力ごと伝染する。あなたは上手く扱えてるみたいだけど、後世や周りが同じとは限らない」
「ちょっとした恨みで生き霊が飛び交って、里が疑心暗鬼になったら大変。ですもんね」
「そういうこと、私もあなたに恨みは無いけど、最後の最後までケリを付けないとね。だからあなたはここまでよ」
滝野川は意外と嫌な気がしなかった。きっとこれもまた、不幸中の幸いなのだ。
「その前に完成させましょう」
滝野川は霊夢の作った銀翹散を一包ずつに分けた。
「ゴボウシは風邪系統の感染症に薬効があるんです、因果な物ですよね」
そのうちの一つを自分の口に流し込む。滝野川の予想通りな苦みが広がる。舌触りはなめらかで均等な粒子に出来ていた。
「良くできてると思います、流石巫女様です。かないませんね」
「拝んでも駄目よ?」
滝野川はにっこり笑って見せた。
「拝み屋はいつだって本心です」
これはそこからくる過酷な可能性
妖怪化した殺人犯の大人と対峙しないといけない仕事という可能性を具現化した物語だと思います
たぬきの異変のときに人が人を襲ったというのであればもうどうしようもないといっていましたが
これはそれを仕事的な意味で克服した話であるのでしょう
(といっても仕事の範囲をいたずらに広げないのもプロですし今回の犯人の特異さや退治屋の一種だったという悪質さから最後まで動いたのでしょうけど)
技術的なやりとりや推理的なやりとりというより心理的な対峙が目立ったと思います
かたや大人に追い込みかけなきゃいけない少女と
かたや博麗の巫女といえどこどもに追い込みをかけられる大人とのやりとりともにどこで遠慮してどこで出るか探り合ってふたりとも最後まで遠慮しあっていたと感じました
霊夢を名探偵に据えた推理物という、新たな可能性を見た気がします。
ただ、滝野川の、牛尾を殺す動機が最後になってもなお弱く、腑に落ちなかったり(特別血の気の多いわけでもない彼女が犯人ならばなおさら)、決め手の一つ「血の跡が瓜二つ」というのもちょっとピンとこなかったというのも正直なところでした。
でも、こういうミステリっぽいSS大好きなのでもっとはやってほしい。
とても面白かったです!
内容も良かったです!
このSSは面白い、と言いたかった!