誰にでも、過去はある。
長く生きれば、尚更。
◆◇◆
机に突っ伏してしゃっくり上げているお空の姿に、休憩室に入ったお燐はぎょっと面食らった。
「ちょっ……お、お空? どうしたの? 怪我でもしたのかい?」
お空の背中をさすり、落ち着かせるようにお燐は話しかける。
お燐の言葉に、お空はゆっくりと顔を上げた。目を真っ赤にはらし、ぽろぽろと涙をこぼしている。
ただ、お空の体や顔に傷は見られなかった。神を宿した頑強な地獄鴉の体に、傷をつける要因などそうは無い。
体の傷でないならば心の傷、誰かにひどい言葉でも投げかけられたのか——とお燐が聞こうとすると、
「お、おりん……わっ、ひくっ、わたしっ、変にっ、なっちゃっ、た……」
はい? と、お燐は文字通り、猫がするように首を傾げた。
お空を落ち着かせて話を聞くと、だんだんとその全容がお燐にも見えてきた。
ここ最近、"体が熱くなる"のだと。"何かを求めたくなる"のだと。
しかし、お空自身、なぜ熱くなるのか、何が欲しいのかが分からない。
この数日、お空は悶々とした気分で過ごし、自分は病気になったのかと恐ろしくなり、ついに今日は思わず泣いてしまったという。
お燐は話を聞き、『かつての経験から』、すぐに合点がいった。
この子が「大人」になる準備ができた、と。
今の季節は春。地上では暖かな日差しと共に桜が満開となっている。
そして春という季節は、多くの獣たちが"つがい"を求める季節だ。
お空にも「それ」が、今この時、やってきたのであろう。
お燐にとっては、赤飯のひとつでも炊きたいところの話であった。
とはいえ、つがいのいない者にとって「それ」は、苦しい物であることも確か。
——背に腹はかえられないか。
お燐はポリポリと頭を掻いてから、お空の頭を撫で、一言。
「お空。仕事が終わったら、すぐには寝ないで部屋で"待ってて"」
◆◇◆
「楽になったかい?」
「……う、うん……」
生まれたままの姿でお燐が問うと、布団をかぶったままお空は答えた。
その声には煙が見えそうなほど羞恥が込められていて、思わずお燐はくつくつと笑う。
火照りを冷ますのなら、事に及ぶのが一番早い。
まぁ確かに、お空の"相手"をすることには、お燐にも少々複雑な思いがあった。
妖怪ゆえ、容姿の年齢こそお燐とお空はほぼ同じだが、実年齢でいえばお燐はお空より二回りは年上である。それゆえお燐は、お空のことを幼いころから知っている。そういう意味では、お燐にとってお空は親友より子供か妹のような存在に近い。
そういう存在を”抱く”というのは、人間の社会でも妖怪の社会でもあまり無い話であろう。
とはいえ今回は致し方のないこと。
そう割り切るのは、お燐にとって『昔から』慣れていることである。
「……こーゆーことって、オスとするんじゃないの?」
「いろんな形があるのさ。オス同士でする奴らだっているよ」
「……世界は広いんだねぇ……」
相変わらず布団に引っ込んだまま、しみじみと言うお空。その頭を布団越しに、お燐はわしわしと撫でた。
「さ、そろそろ寝な。初めてだったし、ちょっと疲れたろう?」
お燐が優しくそう言うと、お空は布団から顔を出す。
ほんの少しだけ、非難のまなざし。
そりゃあそうだ。事に及んだ相手からそう言われたら、"面倒くさがられてる"と思われても仕方あるまい。
ただ、その目で睨まれるのも、お燐にとっては『懐かしい』。
「安心おし。あんたが眠るまで、あたいは傍にいるよ」
今度は布団越しでなく、直接、お空の黒髪を撫でてお燐は言う。
お燐の言葉にお空は満足げに笑うと、ごろりと改めて眠る態勢に入った。
そして、ぽつりと一言。
「お燐はどうして、こういうことを知ってるの?」
……お燐は少しだけ逡巡し、答える。
「……『昔取った杵柄』ってやつさ」
◆◇◆
かつて、お燐は娼婦だった。
通常の生い立ちから見れば、悲惨な過去なのだろう。
道を歩く者に見下され、虫が這うような愛の言葉を囁かれ、下卑た客たちに"貫かれる"ことが、辛くなかったと言えば嘘になる。
しかし——泥水をすすり、生ごみを貪り、死体漁りと言う火車の本業"すら"出来なかった当時のお燐にとって、屋根の下で眠り三食食えるというのは——マシであったと言える。
客商売ゆえに佇まいや言葉遣いを教えられ、社会で生きるための常識を学んだのもそこだった。
加えて、当時としては珍しく、お燐が女相手も"できる"性質であったことが幸いし、それなりに重宝された面も確かにあった。
……ま、小さな宿であったから経営難で潰れてしまったのだけど。
そして、お燐はこの地霊殿にやってきた。さらにその後、まだ幼かったころのお空がやってきて、現在に至る。
白煙をくゆらせて、お燐はそんな過去を思い出す。
眠りについたお空を部屋に残し、お燐は喫煙所で椅子に腰かけ、煙草に火を点けていた。
「——仕事終わりに一服するのは変わってないのね、お燐」
その背に声をかける少女が一人。お燐はゆっくりと、その声に振り返る。
背丈はお燐の胸元程度。
無数の触手に寄生されたような胸元の眼は、心を見抜く真眼。
ここ地霊殿の主にして、お燐の主である古明地さとりが、優しげな微笑みを浮かべて立っていた。
「ええ。習慣っていうのは、思ったより抜けないものだったみたいです」
お燐は苦笑交じりにそう返す。
さとりは表情を変えぬまま、ゆっくりとお燐へ近づいていく。
「月日が経つのは早いものね。お空にもそういう時期が来るなんて」
「あたいが初めてを食べちゃいましたけど、オスを用意した方が良かったですかねえ」
「まさか。見知らぬ男を宛がうより、身内の"本業"に任せた方が、ずっと安心だわ」
語りながら、ほとんど足音もなく、さとりは歩を進め——お燐の背中にたどり着く。
そしてその背後から、そっと、さとりはお燐を優しく抱きすくめた。
——同時に触手を、お燐の全身に絡みつかせる。
ヤドリギが宿主に根を張るように。
ツタが家を覆うように。
ヘビが獲物を絞め殺すように。
「あなたとお空のそれを"見て"いたら、久しぶりにあなたを抱きたくなったわ」
さとりの真眼は心を見抜く。
当然、その記憶も見ることができる。
先ほどまで行われていた、お燐とお空の「仲睦まじい姿」を、さとりは見ていた。
「ペットにも嫉妬するんですねえ、さとり様?」
人間であれば見ただけで失神し、妖怪であっても震え上がり、怨霊も恐れ怯むような、おぞましいまでの悋気を浴びながらも、お燐は全く動揺を見せない。
当然だ。さとりはかつての"常連"なのだから。どういう性格であるかは良く良く知っている。
宿がつぶれたすぐ後に、自分を真っ先に買いにきたことを、お燐はよく覚えている。
「ええ、とても」
さとりもまた、表情を変えぬ。慈母のごとき笑顔を崩さぬまま、しゅるしゅるとお燐の手足に触手をさらにまとわりつかせていく。
抱きすくめていた両手も少しずつ位置を上げ——ついにはお燐の首にまで至った。
「それで、答えは?」
返答如何では、修羅の場。
それを踏まえて、お燐は答えた。
「あたいは、一日に一人しか客を取らないんですよ」
ギリ、と。一際触手が強く締まり————
「だから明日の夜なら空いてるよ、"古明地さん"」
ふ、と。その拘束は解かれた。
「……フフ、楽しみにしているわね」
お燐に絡みついた触手は、巻き取られるようにさとりの体へと戻っていく。
束縛から解放されたお燐は、息をついて煙草をもみ消し——
「まったく、さとり様はあたいが一日に一人しか客を取らないことは知ってるでしょうに」
「しょ、しょうがないじゃない。お空とのあんな姿を見れば焦るわ」
「心配しなくても、あたいはさとり様から離れたりしませんよ」
「〜〜……もうっ」
そんな軽口をたたき合った。
その口調と相まって、紫煙をくゆらせるお燐がそれっぽくてカッコいい。
僕が意図を汲み取れていないだけなら申し訳ありませんが、タイトルはよく分からなかったです。
お燐がどういう経緯で今の生活をするようになったのか気になりました