ソロモンの耳
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階段状に机が並んだ光景は大学って感じがして好きだ。高校までの教室にはない特別感があるし、スクリーンが見やすい。こちらから見やすいってことはスクリーンの前に立つ講師は私たちの姿が丸見えなんだろうけど、一年も通えば学生たちは何も気にせずパソコンをいじったり、別の授業の宿題をやる。はじっこではゲームもやる人がいるけどそこまでの度胸はさすがにない。私はせいぜい本を斜め読みするくらいだ。
というわけで授業を聞き流しながら本を読んでいると、隣に座っている人が私の肩を指先でつつく。ノートの貸し借りをするくらいの知り合いではある。
「宇佐見さん。ごめんけどスピーカー貸してくれない?」
「忘れたの?」
「今日の先生を確認してなかったの」
バックからポーチを取り出して、その子にスピーカーを渡す。彼女は自分の携帯端末とスピーカーを同期させると耳の上に引っ掛けた。
「うっわ。聞きやすい。やっぱり宇佐見さんマニアなのね」
「今の時代、骨伝導スピーカーは必須でしょ」
「普通の人は二組も持たないわよ」
「いや、今三組持ってる」
彼女は漫画みたいに大きな瞳を私に向ける。
「そんだけあっても使う?」
「自分用、相手用、予備用かな」
「逆に引くわ」
実際のところそこまで使うことはないけど用心に越したことはない。私のサークル仲間は外国人だし、電池切れも不安だ。カラーリング豊富で安くて、性能のいいスピーカーを探すのに苦労したのは内緒だ。
しばらくは二人そろって、ノートにペンを走らせていると、隣の子がまた話しかけてきた。
「あの先生綺麗よね。どこの国の人かな?」
ちょっと端末を走らせてみる。「国籍は南米みたいだけど、見た目がそれっぽくないからハーフとかじゃないの」
「じゃあ、バイリンガルなのかな。いいよね。私たちは翻訳ソフトに頼ってばかりだし」
そういいながら彼女はスピーカーを指でなぞる。
今の時代、外国語はほとんど翻訳ソフトを頼っている。文章はカメラで読み取れば一瞬で訳してくれるし、会話だって端末と骨伝導スピーカーを通じて私たちの言葉で教えてくれる。世界中を飛び回るビジネスマンは人工内耳を埋め込んだりもする。スピーカーをつけるより聞こえがいいらしい。
「今時外国語を学ぶ人なんていないでしょ。使えるものは使わないと損よ。昔なんて外国語の勉強でかなりの時間を使ったっていうし、別のことに時間を使えるんだから効率的よ」
「そりゃあ、そうだけどさ。今なんて英語ですら勉強しないじゃん。論文は英語で投稿なのに、翻訳ソフトを使うのは二度手間じゃないかな。自分で出来た方が応用もきいていいと思うけどな」
「訳し間違えもありえるし、機械の方が正確よ。ソフトの訳が怪しかったらAIを使えばいいんだし」
のどの奥に何かを詰まらせたような、イマイチ納得していない顔で彼女は視線を講師に向けた。私も視線を向けて授業に集中した。
私のスピーカーは講師の発言をきちんと訳してくれている。なんら不便はない。
-2-
まどろみの遠くから甲高い音が聞こえてくる。電話の着信音だと気づいて私は手を伸ばす。今日は授業がないからたくさん寝ようと思っていたのに起こされるなんてついてない。
「は~い……」
「えんこ。くぁwせdrftgyふじこlp……」
「え? もしもーし?」
何度か聞き返すのだが、どうにも相手の言っていることが聞き取れない。次第に目が覚めてきて、ベッドの上で起き上がる。
「もしかして、メリー?」
私のサークル仲間のマエリベリー・ハーン、愛称メリー。ただ、その愛称で呼ぶのはメリーからの要望だ。日本語に染まり切った私の耳と口はマエリベリーの正確な発音を出すことができない。
電話から聞こえるのは確かにメリーの声だけど、何を言っているのか全然わからない。私の名前を言っているのは辛うじてわかるが、それだけだ。
「ごめん。後でかけなおす」
電話を切って、端末の画面を操作した。たぶん翻訳ソフトが動いてないのだ。こんなことは初めてだけど、とにかくソフトを起動させた。
「あれ? 動かない?」
起動画面になったけど、それ以降の画面を出すことができない。どの項目を触れても反応してくれない。触れているはずなのに何も反応してくれないのでは何もわからないではないか。
どうしようもないから検索サイトで調べてみると似たようなニュース記事や掲示板の書き込みが山のようにでてきた。どうやら世界中でこの翻訳ソフトが動いていないらしい。世界最大手の翻訳ソフトが動かないとなるとあちこちでトラブルが発生している。公共交通機関や銀行はもちろん飲食店でもトラブルが起こっていてどこもまともに機能してない。
ニュースサイトからSNSに切り替える。砂の粒のようにたくさんある外国語の書き込みの中から日本語の書き込みを探すと冷静さを失った書き込みで阿鼻叫喚となっているのが伝わってきた。友人ともコミュニケーションができない。仕事が全く進まない。時代が逆行した。感情的なコメントが渦となって私も文句の書き込みをしようとしてしまった。
「なんでこうなったのよ。システムトラブル?」
誰かしら原因を調査してないだろうかと調べるがサイバーテロだとか、国家の陰謀論とか滅茶苦茶なコメントが多かった。それはないと私は思う。本気で混乱を狙うなら翻訳ソフトのシステムダウンより誤訳を誘発するようにプログラムを書き換える方が効果は大きいだろう。気づいて修正するだけでもかなりの時間を要する。
今度はSNSから技術者が集まる掲示板に切り替える。専門用語ばっかりで分かりにくいがこちらの方では冷静な議論が繰り広げられていた。
「なるほどね…… こういうことか」
あの翻訳ソフトはアップデートの回数を数えている。アップデートをした後翻訳が上手くいかない場合、手動で古いバージョンに戻せる機能があるのだがそれに伴ってアップデートを数えていた。今回三日に一度の自動アップデートでカウンターが最大に達しこれ以上数えられないためシステムダウンとなったというわけだ。
さらにこんなコメントがあった。
ソフトの制作者はこれを予想していなかったのではないか。もともとこのソフトは翻訳の正確性を重視して二週間に一度のアップデートだった。それなのにネットスラングに対応する名目で三日に一度のアップデートに切り替えて予想以上にカウントが早くなったのだ。もっとも、この頻繁なアップデートのおかげで世界最大手の翻訳ソフトになれた側面もあるのだが。
なかなかの皮肉であったが、理由はこれでわかった。あとはプログラムを修正すればいいだけだし難しくはないだろう。運営側も気づいているだろうし、今日、明日で修正できるはずだ。
明日? そうだ。明日は授業だ。直ってくれないと困る。
ここに来てようやく私は事態の深刻さを自分のこととして捉えることができた。
とりあえずの急ごしらえとして、別のソフトを探そうとした。今回トラブルが起こったのは一般向けに使える翻訳ソフトだったけど、特定の分野に特化した翻訳ソフトなら他にもいっぱいある。癖が強いけど無いよりはましだ。
「まあ…… そうよね。みんな考えることは同じか」
色んなサイトに飛んだけど、どこもソフトを購入できなかった。アクセスが集中しているせいでサーバーダウンになっているのだ。
もういいや。どうとでもなれ。私以外にも同じ事態にあっている人がいるだろう。こんなの不測の事態だ。私ではどうにもならない。
なかば自暴自棄になって、端末を放り出した。そのままリモコンに手を伸ばしてテレビをつける。予想通り翻訳ソフトの不具合を報道していた。いろんな所から中継してみんなの困っている顔をエンターテイメントにしようとしていた。
しばらくテレビを見ていたが、嫌になってしまい電源を落とした。
「勘弁してよ……」
画面に表示される文章はわかるのだが、アナウンサーの喋っている内容がどうしても聞き取れなかった。アクセントが分からないのだ。
自覚はある程度あったけど、私の話す言葉は訛りがひどかったのだ。翻訳ソフトに頼りすぎて、標準語すらまともに聴き取る能力もない。地方出身の田舎娘から抜け出せていなかった。
どうしようもなくなってベッドに仰向けに転がる。目の前には狭くて薄暗い天井が視界を埋め尽くした。私がしゃべらなければ静かな部屋で、私がここからでなければ言葉の問題も起こらない平和な世界となって完結する。あたかも私は見ず知らずの土地に滞在を余儀なくされた異邦人の気分を味わっていた。
しばらくは天井を眺めていたけど、思いついたことがあって再び端末に手を伸ばした。
「あ、もしもし。お母さん? 今日授業が無くて暇なんだけど……」
いっそのこと寝ればいいのだろうか。夢の世界ならきっと言葉の問題は起こらない。メリーとは夢の中で会話ができたのだ。
-3-
翌日には翻訳ソフトも修正されて使えるようになった。それまでの間、言葉のトラブルを解決したのは翻訳ソフトを買えないようなホームレスだった。ホームレスも国籍が多様化していたからそこの人たちだけは数か国語を習得していて、ビジネスチャンスとあちこちで通訳として売り込んでいた。今回の通訳でかなりの報酬を稼げたらしく「これで翻訳ソフトが買える」とジョークを言っていた。ただ、直るまでの混乱は相当なもので経済的損失が何億だの、翻訳ソフトの安全性や公共性がどうこうだの、議論は長いこと続きそうだった。
「今更。外国語の授業は復活しないでしょうね」とは、メリーのセリフだ。耳にはしっかりと骨伝導スピーカーをつけている。
「勉強には時間がかかりすぎるし、ほかの科目の授業を削減なんて無理でしょう。高等教育になればなおさらね」
大学のカフェでコーヒーを片手に話し合った。窓から見える景色はすっかりいつものキャンパスで国籍や人種に関係なく溶け合っていた。
「いっそのこと言葉が統一された方がいいのかもね」
私の言葉にメリーは目を細める。
「便利ではあるでしょうけど、私は嫌だな」
「なんで?」
「言葉ってさ、考え方とセットだと思うの。言葉によって自然現象の捉え方が違うし、感情の捉え方も違う。言葉をまとめてしまったら、考え方の多様性もなくなってしまうじゃない。偏った考え方で統一されるのは良いことじゃない」
「ニュースピーク?」
「極端すぎるけど、大体そんな感じ」
だとすると、翻訳を通して聞いているメリーの話を私は正確に捉えられているのだろうか? 日本語の言い回しに置き換えて、日本語の考え方で聞くことで何かしらの情報が失われているのだろうか?
「民話とかもその傾向が強いの。言語が失われると次世代に継承されずにそのまま消えてしまう。誰にも知られず紙だけの存在になるのはまだ幸運な方ね」
「時代が変われば変化するのは当たり前じゃない。新しいものを楽しめばいいでしょ」
「民話って都市伝説とかオカルトの一種よ? 私たちサークルの存在意義がなくなっちゃう じゃない」
ここまで言われてメリーの言いたいことが腑に落ちた。
「そっかぁ…… 不思議なものがなくなるのは嫌だな」
耳に引っ掛けた骨伝導スピーカーを指でなぞる。翻訳ソフトとこの機械は私と世界を結びつける不可欠な道具なのだ。
どう転んでも世界は一つにまとまる。それは歴史が証明している。その過程で様々な要素が失われるのは避けられない出来事だ。だとすると世界が一つにまとまった瞬間、私たちの世界から不思議なものはなくなってしまうのだろうか。そこにワクワクやドキドキは残されているのだろうか?
いいSFでした
失って初めてわかる技術やインフラのありがたみってありますよね
たとえ翻訳ソフトが発達しても、そのソフトをアップデートするのは生きた人間なのだから、外国語を勉強する意義は消えない…はずだと思いたいです
妖怪も対応する単語が無いしね
英語だけでそれなんだから言語の統一なんてやらかしたら世界中で何かが失われたり変化してしまうでしょうね
しかし秘封というよりは星新一のような話だ