淡い緑色のピッチに白と赤のユニフォームを着た男たちが走り回る。ホイッスルと同時にテレビからは興奮したアナウンサーの声が流れる。けれど、それは周囲の歓声にかき消されて誰の耳にも入らない。
大きな薄型のテレビが壁に何台も並べられたバーでは、若い男女が熱心にサッカーの試合を観戦している。アルコールの薄いビール瓶を手にして、同じテーブルの人と、あるいは別のテーブルも交えてわいわいしゃべっていた。白いユニフォームの方が彼らが応援しているチームで、赤色の方が相手だろう。ボールの行き来の度に歓声やブーイングを上げていた。全部、英語で。そのロンドン店にいるほとんどが白人だった。
その中でひとり、カウンターテーブルでウイスキーを飲みながら本を読んでいるのが蓮子だった。彼女にも当然テレビの試合は見えていたが、どちらのチームのことも知らなかった。たまたま入ったのがスポーツバーで、たまたまそこでサッカーの試合が始まっただけだ。
隣にメリーはいない。
当初、単純に観光旅行で二人で来るはずだった。大学の長い長い夏休み、たまには倶楽部活動も休みにして単純に遊ぼうと。二週間のイギリス旅行。事前にメリーと組んだプランはごくごく一般的な観光旅行だった。ロンドンでいえば大英博物館と時計塔、バッキンガム宮殿の衛兵交代。そこから車を借りて湖水地方へ移動し古城に泊まり、バタースコーンを食べながら紅茶を嗜む。
けれど出発の二週間前に急にメリーだけが行けなくなってしまった。理由は彼女の口からは語られなかったし、本当に申し訳なさそうに謝る彼女を蓮子は問い詰めることができなかった。
九月も中頃、蓮子は一人で大阪空港から旅立った。機内は肌寒く、機内食は妙な匂いがして美味しくなかった。そしてロンドンに降り立つと、街全体は霧が出ているのに乾いていた。そのときにはもう、彩り豊かだったはずのプランはもう色褪せていた。それでも大英博物館には足を踏み入れた。でも、歴史の流れから切り離されて歪に並べられた展示品からは光が失われているようで、蓮子はすぐに博物館を出た。
昼過ぎにホテルにチェックインし、部屋に入ると知らない煙草の匂いがした。耐えられないことはないけれど、長い時間そこにいて同じ匂いに染まるのは嫌だった。だから財布と古びた文庫本を手に、さっさと街に出た。
あてもなく歩いている間にバーを見つけ、そこに入ったのが午後三時頃。その店の料理が美味しいわけでもない。それでも他に行きたい場所はなかった。そして、蓮子はもう何時間も同じ席に座っている。入ったときに頼んだフィッシュアンドチップスは彼女の目の前で干からびている。
せっかくの海外で普通の観光すらせず、適当なバーで飲むだけなんて、もったいない。数日前の蓮子なら間違いなくそう思っていたはずだ。本当だったら、今頃事前に調べた有名レストランで、ワインを飲みながら郷土料理を楽しんでいるはずだ。でも今はそんな想像をしても何も楽しくないのだ。
急に店に赤い怒りがどっとわき上がった。相手方のゴールが決まったのだろう。ほとんど誰もが椅子から立ち上がって、座っている人も天井を仰いでうめく。蓮子一人だけが静かにウイスキーをちびちびと飲んでいる。手にしている本の内容はまったく頭に入ってこない。
自分がここに一人でいるのはひどく間違っていることだと思う。ただ行き先がないという理由で本を読んで飲んでいる日本人女性なんて、本当にこの店にはふさわしくない。
やがてテレビからホイッスルの音がして、ハーフタイムに入ったことを告げた。大きな波が過ぎ去った後の海のように店は落ち着きを取り戻し、今度はテーブルごとの会話が弾む。
違う、と蓮子は凪いだ海で思い直す。私がここで孤絶感を覚えているのは正しいことなのだ。そもそもすごく単純な話、私は日本人でここはイギリス人しかいない場所だ。何をしていようと私はこのバーの異物。海外旅行に来ることは、そういう隔絶感を味わうためだ、色々な人たちは言う。海外に出て初めて日本の良さを見つめ直すことができる。あるいはその良さを知った上で、それでもなおその国に居着いて長い時間を過ごす。それは自身が味わった孤絶感があってこそできる選択だと。
膜。彼らと私の間には文化的にも言語的にもそれがある。私は日本語で話し日本語でものを考える。彼らは英語で話し英語でものを考える。そこに膜がある。私は英語が話せる。でも私が日本語で考えたことを英語で伝えるには、変換する一コンマのタイムラグが起きる。百年前のパーソナルコンピューターのように。メリーも英語を話す私に言っていた。「日本語で考えるんじゃないわ。英語で考えて英語でしゃべる、でしょ?」
メリー。蓮子はもう一つの間違いに気づく。それは自身の隣にメリーがいないこと。
蓮子は目を閉じて彼女の姿を描く。ふわりとした金色の髪、白く長い指、宝石のように澄んだ青い瞳。艶のある唇から流れる言葉は、潤っていてソプラノの旋律があった。それがたとえ蓮子をからかう冗談であっても、蓮子の胸は心地よさに満ちた。自身とメリーはそうやって藍色の糸で繋がっていると思っていた。
でも、そう。彼女もイギリス人だ。彼女は大学生になる前はロンドンに住んでいたという。だったら、それまでは彼女の世界は英語で語られているはずだ。その証拠に、大学で私が初めて出会った頃は彼女が知らない日本語も多くあった。その度蓮子は笑いながらその意味を彼女に教えていた。そのときは気にしなかったけれど、彼女も自身と蓮子たちの世界に膜を感じていたはずだ。
ぼやりとテレビ画面が歪んでいく。人々の話し声は急に言葉としての意味を失って、指揮者を失ったオーケストラのように響いてくる。口にしたウイスキーのアルコールすらぼやけて刺激にもならなかった。まるで生きるための位相がずれてしまったようだった。ただ自分の中にある妙な虚しさだけがはっきりと輪郭を得ていた。
そうだ、この感覚。蓮子は大きく息をついて、またウイスキーを舌に載せた。喉がもやりと焼けただれる。自分でも聞き取れない英語で店員におかわりを告げた。顔のない店員は、新しいグラスに新しいウイスキーを入れた。まわりの喧噪と蓮子の距離は遠かった。
心の底から親友だと思える人は、メリーに出会う前もいなかった。友達といえる人もいるけれど、彼らの喜びは私の心の底の喜びとは違っていた。彼らの熱狂の中にいて、私も喜んでいながら頭の奥底では冷静な自分がそんな喜びに浸る自分を見つめていた。違うでしょうと私に囁きながら。
でもメリーは違う、そう思っていた。彼女が喜ぶことは私が本当に嬉しいことで、彼女の怒りは私の悲しみだった。異端の目を持つひととして、そんなふうに私とメリーはつながっていると思っていた。でも結局、そう思っていたのは私の勘違いではないか。私が彼女について知り得たことは、今の私が抱えているような薄い膜を通して変換されたことではないか。親友だと思っていた彼女について、本当は何を知っているのだろう。私はメリーを、メリー自身として感じることができてないのではないか。だとしたら、私は本当は、誰とも繋がっていないのかもしれない。
藍色の糸を断たれた振動が蓮子の胸に伝わった。喉の焼けた感覚がじわじわとせりあがってきて、頭と目も溶かしていく。もう失われた世界の輪郭を取り戻せないのだと、不意に思った。
そんなぼんやりした世界で、遠くから誰かがゆっくりとした足取りでやってきた。その場所にふさわしくない淡い紫と金色が印象的だった。そしてその誰かは蓮子の隣の席に、余分な動作もなくふわりと優雅に腰掛け、カウンター越しの店員に告げた。
「マスター、私にギムレットと、隣の人にレモネードを」
とても流暢で綺麗な英語だった。誰だろう。蓮子はかろうじて残された力で目と耳の焦点をその人物に合わせた。それは想像していた以上に長くつらい時間だった。
それはメリーだった。長く白い指、静かに波打つ金色の髪、そして青い瞳。さっき自分が描いたばかりの彼女が隣にいた。位相がずれたはずの世界の中で豊かな彩りをもって。
彼女は笑う。
「なあに、蓮子。今にも泣きそうよ」
蓮子の聞き慣れた日本語で。
「違うよ、メリー」
蓮子は目の前に出されたレモネードを一気に半分ほど飲んだ。すごく甘くてすっきりとした感覚が喉の痛みを流していった。
「時差ぼけで眠かっただけだよ」
蓮子の口元がかすかに緩んだ。
テレビからホイッスルが鳴る。後半戦がスタートした。白いユニフォームのチームが果敢に速攻をかける。前半の動きとはまったく違う、素晴らしいチームプレイだった。周囲の喧噪が再び高まる。その波長が蓮子の波長と徐々に重なり始める。蓮子は確かにそう感じた。
蓮子はカウンターの下でメリーの指に触れた。メリーは少し驚いた顔をしたけれど、すぐにそれは溶けて彼女は目を伏せた。蓮子は自分の指を彼女の指に絡めて、その冷たさを、その細さを感じた。
どうしてロンドンに来たの。どうやって私がここにいるってわかったの。私に連絡もくれなかったのはどうして。メリーに色々なことを聞きたかった。でもそうするのはやめた。言葉で伝えられるものなんて、今の指先に比べたら本当にちっぽけなことでしかないんだから。
私が抱いていたのが仮初めの思いだったとしてもいい。メリーが私に出会ったときにそんな孤絶を感じていたとしてもいい。今、私だってその孤絶を知った。そして私たちが途方もなく離れていたとしても、やっぱり私はメリーと一緒にいたい。同じ世界を見ていたい。そんな思いに理屈なんていらなかったんだ。
白いユニフォームのチームが見事にゴールを決めて、どっと店内が爆発した。店内はひっくり返るほどの大騒ぎで、その騒ぎは乾いたロンドン中に響くようだった。二人はそんな喧噪の中で、言葉も交わさずお互いの指を絡めていた。静かでしっとりとした柔らかさを感じながら。
ファンでなくても海外だとスポーツ観戦の熱狂率と共感率はすごいですからねぇ。蓮子の目に映る情景も、店内の仄明るい照明に当たりながら影を作る彼女の顔や暗い雰囲気までが、ありありと瞼の裏に浮かばされました
なぜメリーが一緒にフライトできなかったのか、行けなくなったと言っていたのになぜ追いかけるように現れたのか、理由を探したくなる余韻がただただ楽しくて、しっとりとした読了感でした
とても面白かったです、ありがとうございました
面白かったです
この短さの中に完璧に詰まってる。上手い!