参拝とは何のためにするのか、と東風谷早苗は考える。
多くの場合は、何かをお祈りするために来るのだろう。ご利益を求めて願いを捧げに来るのだ。
しかし、大抵の場合はそこまで深刻な願いがある訳ではなく、日常のちょっとした事や将来の漠然とした事をお祈りするケースが多いだろうとも思う。そうなると、わざわざ危険や苦労を負ってまでお参りに向かうという事はしなくなる。費用対効果の概念というか、苦労してまでお参りする程の事でもない、と思うのが当然だろうから。
してみると、守矢神社の立地には問題があると言えた。ただでさえ妖怪の跋扈する危険な山の、さらに中腹を超えた先にあるとあっては、そうそう気軽にお参りできるものではない。登るだけでも相当な重労働となれば、よほどの理由が無ければ訪れる理由は無くなってしまう。
それとも、幻想郷の住人はこの程度の山登りを苦にしない程に足腰が強かったりするのだろうか。人里に車などはなかったから、歩き慣れているのはあるかもしれない。外の世界にいた頃、「現代人は体力がない」などと言われていたが、そのうち「外来人は体力がない」などと言われるようになったりするのだろうか。自分たちの後に外の世界からやってくる人がいるのかどうかは知らないが。
境内への石段を一歩一歩、慎重に踏みしめて進んでいく。幻想郷に来てこっち、神通力の進化は目覚しいものがあり、独力で空を自在に飛べるまでになった。しかしそれでも、早苗はこの石段を自らの足で登る事よう努めていた。さらりと髪を揺らす風、それに乗って届く草木や土の匂い、生命の息吹。アスファルトを踏み、電車に乗って日々を過ごしていた頃には感じなかった事。そういった「自然の生」に触れる事が、生命そのものにより近づいていく事であるように思えたから。
ふうふう、と息を荒くしつつ階段を登り切ると、大きく開けた境内が視界に飛び込む。見慣れない自然の空間を抜けた先に、よく見慣れた我が家の風景があるというのは不思議な感覚だった。ただし、その中で焚き火にあたる市女笠の少女の姿は、あまり見慣れないものではあった。
少女の名は洩矢諏訪子。この守矢神社における裏の祭神であり、れっきとした神である。今でこそ八坂神奈子を祀る神社となっているここも、元々は諏訪子の神社だった。神奈子が侵略して奪い取り、紆余曲折あって現在は表の祭神を神奈子、裏の祭神を諏訪子としている。ちなみに諏訪子の体格は早苗よりも小さく、逆に神奈子は大きい。力関係の差がこの体格の差に繋がっているのだろうか、と早苗は疑問に思っているが、怒られそうなので聞いた事はない。
「おかえりー早苗、芋焼けてるよ」
そう言って鉄串に刺した焼き芋を差し向けてくる。疲労した身体は甘味を切実に欲していたが、早苗はあえて目つきを鋭くして諏訪子を見据える。
「もうすぐお夕飯でしょうに。ご飯食べられなくなりますよ」
「つれない事言うない。落ち葉掃きの一番の楽しみじゃあないか」
「諏訪子様は間食しすぎです。太っても知りませんよ」
「お菓子大好きっ子の早苗からそんな忠告を受けるとはねぇ」
ぐ、と言葉に詰まる。幼少の頃を知っている相手はこうしたところが厄介である。守矢神社の風祝として、早苗は人前に出る事も多い。自己管理のできないみっともない姿を晒す訳にはいかないから、大好きなお菓子も控えるし、運動も欠かさない。そういう涙ぐましい努力を諏訪子は当然知っていて、その上で目の前で焼き芋を頬張ったりするのだ。
とはいえ、今のように受肉して食事もしている以上、神である諏訪子にしても太る事は普通にありえると思う。そうなったら盛大に笑ってやろうと思っているのだが、あいにく未だ実現していない。
「んで、里はどうだったん? その顔じゃあ上手くは行かなかったんだろうけど」
ニヤニヤと諏訪子は笑っている。外にいた頃の彼女は、失われゆく信仰に思いを馳せ、在りし日を想いながら消え行く定めを受け入れていた。枯れた大人の様相だったあの頃に比べると、いまの諏訪子はまるで子供のようだ。良かったと思うし、はた迷惑なとも思う。
「……うちのご利益が広まれば、もっと信仰してもらえるはずです。今は種まきの時期ですよ」
「収穫の時期に種まきねぇ」
くっくっと笑って諏訪子は焼き芋を頬張りだす。季節の風は少し肌寒く、紅葉が美しく山を染め上げる秋。諏訪子が食べているサツマイモも、最近知り合った秋神姉妹がお近づきの印にと持ってきたものだ。作物が実り、生命が躍動する季節。確かに、あまり下準備の印象はない季節かも知れない。
実際、無茶な事をしているとは理解している。妖怪の山は道の険しさに加え、天狗の聖地であることから常に妖怪たちが跳梁跋扈している。入ってくる人間はよほどの信念があるか、命知らずの愚か者だけだろう。神奈子も諏訪子も、人里からの信仰を集める事は現状諦める方針であるらしく、今のところ信仰の広がりは山の妖怪たちに限定されている。
しかし、と早苗は思う。信心を広く集める事を目的としてこの幻想郷に移住してきたのだから、人々からの信仰を放棄して良いわけがない。信仰の大きさはそのまま神としての力の強さを示す。現人神である早苗もまた、この神社への信仰を力とする事ができるはずなのだ。
幻想郷に来て程無く出会った少女を思い出す。紅白のおめでたい服に、艶やかな黒髪を流す少女。早苗より小さいくらいなのに自信満々で、神様に直接物申そうなんてふてぶてしいにも程があった彼女。そのくせ無闇矢鱈に強く、奇跡を起こす風祝の力をもねじ伏せてしまった。妖怪退治の専門家とは聞いていたが、まさか自分が遅れを取るなどとは思いもしなかった。そんな事がありうるのか、とひどいカルチャーショックを受けたのを覚えている。
神奈子は「いやぁ、あれは規格外だよ」などと言ったが、早苗はそれでは納得できなかった。自惚れているつもりはなくとも、神秘の力を存分に発揮できる環境にあって、自分が他者に劣ると想像した事は無かった。博麗という神社が規格外なのか、あの少女が規格外なのか。どちらにせよ、敗北を素直に受け止める事はできなかった。
だから、せめて信仰では負けまいと、早苗は人里に出向いての布教活動を始めたのだ。神奈子も諏訪子も、それに反対はしなかった。逆に言えば積極的に賛成もしていない。
自分の気持ちが理解されていないのか、二人の思惑を自分が理解できていないのか。どちらにしても、その事は早苗の心から余裕を奪っているように思われた。最近、笑っていない気がする。
「……んで、背中のそれが何だか説明してくれないの?」
そう言われて、早苗は物思いに沈みすぎていたと反省する。
「ああ、この子は階段の手前で寝っ転がっていたんですよ」
首を回して、背負った少女の顔を横目に眺める。飛び込んでくるのは乱雑に跳ねた黒髪。かなりのボリュームが有り、ちょっと俯くと顔が見えなくなってしまう程だ。体格はかなり小さく、人を背負っているという事実を忘れそうなほどに軽い。親にちゃんと食べさせてもらえているのか、少し不安になる。
「全然起きる気配がなかったので、不用心だと思って背負ってきたんですよ。こんな小さいのに山を登って参拝に来てくれるなんて立派ですよねぇ。きっと疲れて眠ってしまったんだと思います。人里で布教に努めたかいがあったというものですね」
「……いや、そいつ妖怪だよ」
「え!?」
思いがけず大声が出てしまった。諏訪子を、それからもう一度少女の方を見やる。
細い手足に手入れのされていない髪。もうそれなりに肌寒いこの時期に靴も履いてない。というより、よく見ると手と頭を出す穴を開けた布を一枚被っているだけに見える。
言われてみれば確かに、里の子供ならもう少し整った身なりをしているだろうか。
「…………んがっ」
少女が目を覚まし、寝ぼけ眼で周囲をキョロキョロと見回す。その愛くるしい所作は、危険な妖怪にはまったく見えない。
「えーと……こ、こんにちは?」
困惑しながら、早苗はとりあえず挨拶を送った。少女はキョトンと早苗の顔を見つめるばかりで、特にリアクションはない。
どういう顔をしてみせるべきかと悩んでいると、突然少女が早苗の肩を押して飛び出した。そのまま諏訪子に飛びかかっていく。
「おおっ!?」
尻餅をついた諏訪子に少女が伸し掛かる。すわ、やはり危険な妖怪だったのか、早苗は慌てて退魔の符を取り出して構える。だが、諏訪子が片手を突き出して早苗を制止したのを見て一旦止まる。
少女は諏訪子の手に持っていた焼き芋を奪い取り、かじりついて熱さに舌を火傷しそうになっていた。ハヒハヒ、と舌を突き出して喘ぐ。身体を起こした諏訪子が芋を半分に折って手渡すと、もうもうと湯気を立てる黄金色の断面に目を輝かせ、恐る恐る口をつけ始めた。
「やれやれ、まるで野生児だ」
ぽん、と少女の頭に手をやって諏訪子は立ち上がる。
熱さに慣れたのかハグハグとお芋を食べ進める少女は、およそ妖怪らしい風体とは見えなかった。しかし、では人間なのかというと、それも少しらしくない。強いていえば、野生動物が一番近い印象だろうか。
「……ホントに妖怪なんですか? なんというか、妖気とか全然感じないんですけど」
「弱いけど妖気はあるよ。お前が未熟なだけだ」
また言葉に詰まる。それらしく妖気などと言ってはみたものの、早苗にはそういった気配を察する能力が未熟だった。古来より神としてこの世にあった諏訪子と違い、早苗は神であると同時に人間でもある。幻想郷に来て日も浅く、妖怪というものを肌で理解するには経験が不足していた。
「まあそうは言っても、妖気はかなり弱いしこのナリだ。多分妖怪としては成り立てなんじゃあないかな」
「妖怪って『成る』ものなんですか? 妖怪の仕業と言われるような現象があって、それを由来として生まれるものって聞きましたが」
「化生って言葉もあるだろ。長生きした獣が化けて出たり、古い道具が意思を持って動き出したり。そういう風に自ら妖怪へと変じる存在もあるよ。たいてい、元の姿の特徴が残っていたりするね。獣耳とか」
少女の頭をまさぐってみると、なるほど小さな毛に覆われた耳が出てきた。少女は少し迷惑そうに身をよじる。構われるのを嫌がる猫みたいだと思った。
「諏訪子様、お水持ってきて下さい。お芋も全部あげちゃいましょう」
「……いや、なんで世話しようとしてるの? 妖怪の子供なんてその辺に放り出していいでしょ」
「えー、だって可愛いじゃあないですか」
確かに妖怪なら山の動物が危険になる事はないだろうし、他の妖怪に狙われるような事も無いのかもしれない。だけど、まうまうと嬉しそうに焼き芋を頬張る姿は、このまま放り出してしまうのを躊躇わせるくらいには愛らしかった。行動もまるで動物そのものだし、多分人間的な思考がまだ育っていないのだろう。境内に迷い込んだ野良猫を保護するような感覚だろうか。仮にも人並みの姿を持つ相手に抱く感覚ではないかもしれないけれど。
お芋を食べ終わった少女は、拝殿側の日陰に身を寄せて寝転がった。程無くすやすやと寝息をたて始める。ほっぺを突っつくと「んゆぅ」と眉を寄せて身をよじる。その反応が面白くてプニプニし続けていたら手を払われてしまった。
「この子って親とかいるんですかね」
「さあねぇ。いたとしても親まで妖怪とは限らないし、そもそも化生した妖獣であれば相当長く生きているはずだよ。見てくれが子供だからって、中身までそうとは限らない」
「そういうものですか?」
早苗が示した疑問に諏訪子は「ん」と自分を指差す。確かに諏訪子は見かけは子供だが、祭神として古くから活動しており、年齢として言うなら早苗とは比べ物にならない。
「天狗にも会ったでしょう? 妖怪や神霊相手に、見かけで判断できる事なんて殆どないよ」
「でも、天狗の人たちでもお偉いさんらしき人は、結構お年を召された外見の方が多かったような気がしますけど」
「威厳が必要だからあえてそうする場合もある。表に出るような任務を負っている者ほどそうなんじゃあないかな。あいつらは特に形式を気にする連中だし」
妖怪の山に居を構えるに当たって、天狗とは幾度となく交渉の場を設けている。何度かは早苗も同行した。古式ゆかしい建物に格調高い装いの、いかにもお偉いさんという雰囲気を醸し出していた天狗たちを思い出す。あれはむしろ、そのように振る舞って身構えさせる事こそが目的だったのだろうか。そして妖怪は精神的な存在だというから、外見年齢にもそれが及んでいるという事なのかもしれない。
「まあどちらにせよ、連れがいるんならこんな所にわざわざ一人で来ないだろうから、多分独り身じゃあないかな」
「そうですか……」
こんな小さくて言葉もちゃんと話せないのに、一人で生きていけるものなのだろうか。しかし、早苗は妖怪の生活というものをよく知らないが、この幻想郷が妖怪の楽園と言われている事は聞いた。案外、なんとでもなってしまうのかもしれない。
山の景色を振り仰ぐ。紅の葉が色濃く秋色を映す山。しかして一歩踏み入ればそこは妖怪たちの領域。迷い込んだ人間たちに牙と刃、そしてご馳走としての未来を約束する場所。
そのような伝聞ほどには、早苗はこの山に危険を感じていない。山に住む主な妖怪の天狗と河童、そのどちらにも早苗は会った。いずれも凶暴さや危険さなどとは程遠い存在であったように思う。むしろ、神社に乗り込んできた巫女や魔法使いの方が、よっぽど凶暴で危険なように感じられた。あれはあれで本人たちにも都合があったのだろうけど。
都合というなら、この少女もまた自分の都合の良いように生きているだけなのだろう。野生の動物がそうするように、妖怪というのも概ねそういうものだと言う。そして、それが立ちいかなくなった時には、大人しく消え去る事を選ぶ。それもまた、そういうものだと。
「……むぃ」と呻いて少女が起き上がった。近くで話し込んでいたせいで眠れなかったかもしれない。またキョロキョロと辺りを見回し、早苗と諏訪子の事も軽く見ただけで特に注意を払う様子がない。立ち上がり、スタスタとしっかりした足取りで境内の出口に向かう。
「あっ、ちょっと待って下さい」
言葉が理解はできるのか、理解できなくとも察したのか、少女が足を止める。早苗は懐の巾着からおにぎりを取り出して、少女に手渡した。今日の昼食に用意していったものだが、人里を駆け回っていてうっかり食べ損ない、そのままにしていたものだ。
「良かったら持っていって下さい。晩ごはんにしちゃうのもちょっとアレですし」
少女は大きく目を輝かせておにぎりを受け取ると、その場でハグハグと食べ始めた。持っていって後で食べてもらえればと思ったのだが、食べれる時に食べておく習慣が身についているのかもしれない。それもまるで動物みたいだった。気持ちのよい食べっぷりが見ていて微笑ましく、そのまま最後の米粒を舐めとるまで早苗は少女を眺めていた。
「お腹がすいたらいつでも来てくれていいですからね」
少女はにぱっと快活に笑い、早苗と諏訪子に手を振って勢い良く走り去っていった。手を振り返す早苗を、諏訪子は半眼になって見つめていた。
「ペット飼うんじゃないんだよ」
「まあまあ良いじゃあないですか。袖すり合うも多生の縁でしょう?」
「袖を押し付けて無理やり縁を作ってきたようなものでしょうに」
諏訪子は呆れた様子だったが、積極的に咎める意思もないようだった。
こうして守矢神社に妖獣の少女が姿を見せるようになり、新聞に「守矢の風祝、妖怪をペット扱い。新興勢力は反妖怪派?」と記事を載せた憐れな烏天狗が、拝殿奥のお仕置き部屋にて三日三晩悲鳴をあげ続ける事になるのだった。
「あっ、おチビちゃんいらっしゃい!」
早苗の声に呼応するように、大きく手を振って駆け寄る少女。この二週間ですっかり見慣れるようになった光景である。
早苗は彼女に名前をつけようとはしなかった。言葉が通じないから分からないだけで、ちゃんと彼女に名前はあるのかもしれない。それを勝手に名付けて呼ぶのではそれこそペット扱いだ。あだ名で呼ぶ程度に留めた方が良いと諏訪子に助言され、「じゃあ小さいからおチビちゃんで」と安直な呼び方をするようになったのである。
少女は早苗に呼ばれればすぐに反応するが、あまりその名を自分の呼び名と理解していない様子で、どういう言葉でも早苗の声には反応を返していた。
実のところ、あまり例のない話ではある。多くの妖怪が人の姿を取るのは、人間との間にコミュニケーションを成立させるためである。時には親交を結び、時には恐怖を与えるために。「人に近いが、人ではない」という存在である故に、人間に対して強い影響力を持ち得る。人の姿を取れるのであれば、言葉による交流くらいはできて当然なのだ。
とはいえ、少女は早苗や諏訪子らに従順だった。境内には諏訪子がカエルたちを遊ばせるための池があり、少女もそこで遊ぶのを好んでいたのだが、ある時に池のカエルを誤って潰しそうになり、血相を変えた諏訪子から怒鳴られた事がある。怒られたという事は理解できるのか少女は泣いてしまったが、同時にしてはいけない事も理解してくれたようで、以降は慎重な手付きでカエルたちと戯れるようになった。話せはしなくとも、こちらの言葉を理解する能力は多少なり備えているようにも見えた。
「もともと誰かのペットだった事があるのかもね。野生動物っぽいわりに、人を警戒する様子もないし。それにしちゃあ人語も操れないってのは少し妙だけど……」
諏訪子は少女がいかにも子供らしい様子なのを不思議に思っているようだった。長生きして化けた妖獣にしては、知恵や能力があまりに未成熟に見えると。そもそも妖怪の生態からしてよく分からない早苗にはピンとこない話だったが。
ともあれ、警戒する必要のない相手とは判断したようで、諏訪子が少女を邪険に扱う事はなかった。少女の方も諏訪子――と言うか、諏訪子の帽子を気に入ってよくじゃれついていた。
そうした交流の中で、早苗は笑顔を浮かべる事も増えたが、一方で布教活動に光明の差さない事が、彼女にとって頭痛の種ともなっていた。
宣伝用にチラシを作ってみたり、広場を借りて神奈子の神徳を説いてみたりするが、聴衆の反応は鈍かった。それなりに足を運んでいるはずなのだが、里人が早苗に送る目線は遠慮がちなもので、親しみや歓迎の心を感じさせるものではなかった。閉鎖的な里の環境を思えば、新参者に警戒心を向けるのも無理はないのだろうか。
「うーん……やっぱり神奈子様に直接出向いてもらったりして、神の威光を直に知らしめてもらう必要が……」
「里でンな事したら今度こそ滅ぼされると思うがな」
団子屋で茶をすすりながら物思う早苗にかけられた声は、幼くも凛と力強く、刺すような鋭さを伴っていた。
「あら、貴女は……霊夢さんのお友達の」
「わざわざ神社に乗り込んだ結果がそんな覚えられ方なんだったら、もうちょっと暴れておくべきだったか」
どっかりと早苗の隣に腰掛ける少女の名は、霧雨魔理沙といった。魔法使いという、外の世界では夢見がちな少女だけが名乗る事を許された肩書きを持つ。
もっとも、彼女が夢見がちな少女でないと思う根拠もないのだが。早苗より幾分か背が低く、前も横も薄い体つき。しかして彼女の操る弾幕は、その体躯に見合わぬパワーを持つ。
「神社は戦う場所ではありませんが、もしなさるなら今度は全力でお相手しますよ」
「まるで前回は本気じゃなかったみたいな言い草だな」
「ふんだ。アレはちょっと油断しただけです」
頬を膨らます早苗に対し、魔理沙はカラカラと笑う。
「まあ、ここじゃあそのくらい負けん気の強い方が良いだろうよ」
「貴女たちは荒っぽすぎます。天狗の人たちとも会いましたが、概ね紳士的な対応でしたよ。妖怪より人間の方が凶暴ってどういう事ですか」
「私はヒーローだからな。悪いヤツをやっつけるためなら何処でだって暴れるし、誰にだって喧嘩を売るさ」
言いながら魔理沙は早苗の皿から団子を勝手に取り上げて食べ始める(よりによって、好物だから最後に取っておいたみたらし団子を!)。
恨みがましく見つめる早苗に、魔理沙は懐から紙束を取り出して「ほれ」と手渡した。
「なんですこれ?」
「なんだ聞いてないのか? お前んとこの親玉から頼まれた、地質調査資料の写しだよ」
渡された紙束は、手に持つとズッシリと重量を感じる程の量があった。地質調査と言われても、まったく門外漢の早苗には何が書いてあるのかよく分からないが、幻想郷の各地域と思われる図面に様々な数字が書かれているのは分かった。
「結構な量ですね。こんなもの作れるなんて、貴女って意外とインテリなのね」
「写しだって言ったろ。私が作った訳じゃあない。阿求の所でちょっと資料を漁ってまとめただけだ。ま、インテリってのは否定しないがな」
「阿求……って、ああ、あの幻想郷の生き字引とかいう」
「雑な覚え方だな。そんなに間違っちゃあいないが」
たしか、幻想郷の事を広く取りまとめた資料を管理している場所が里にあると聞いた。里での権力も大きいらしいので、いずれ早苗も挨拶に出向く必要があるのだろう。知り合いだというなら魔理沙に間を取り持ってもらうのも良いのかもしれない。
とは言え、いかにも欲深そうな彼女相手に頼み事などして、後で面倒にならないのかという不安はあるが……この資料の件も何を対価に差し出したのか気になる所ではある。
「でも、結構スゴイですねこれ。要素ごとにまとまってて読みやすい資料になってる気がします。何となく」
「褒め方が雑なのは気になるが、まあ、私ら魔法使いにとっちゃあ普段からやってる事だからな。この程度の量は朝飯前さ」
胸を張る魔理沙。魔法使いというのは、外の世界で言うなら研究者のようなものと思えばいいのかもしれない。
それにしても、地質調査なんて一体なにを始めるつもりなのだろう。親玉というのはおそらく神奈子の事だろうが、大地にまつわる事であれば坤を操る諏訪子の領分である。二人して温泉でも掘り当てようというのだろうか。
「ははは、温泉を掘ったら確かに人気者だな。今は山から来たってだけで警戒されるし、そのぐらいやった方が人々に受け入れられるかも知れん」
「? 山がどうかしたんですか?」
「知らんのか? ……いや、そう言えばお前こそ山から来てるんだったな。だったら噂話も耳に入って来ないか」
魔理沙はすっと表情を引き締めて言った。その顔は、それまでの年頃の少女らしいものではない、人々を守る戦士の顔だった。
「人が喰われたんだよ」
幻想郷に住む大半の妖怪は人食いであるという。それは実態としてそうであり、同時に比喩でもある。
人は妖怪に喰われるもの。そういう畏れが妖怪を妖怪たらしめるものである故、妖怪は『人食いでなければならない』のだとも言える。
実際に里の人間が喰われる自体は殆ど無いのだとしても、人食いへの畏れが消える事は無いし、あってはならない。
故に、山で人食いがあったという事実は、実態とは関係なく妖怪の仕業として喧伝される事になる。
「ああ、少し前に天狗から聞いたよ」
神社に戻って問うてみれば、すでに諏訪子は事態を把握していたようだ。
「教えてくれても良かったのに……」
「そもそも、そんな大した話じゃあないんだよ。酔って一人で夜の山に踏み入った馬鹿が、襲われて喰われた。ただそれだけさ」
実際には、愚か者を手に掛けたのは妖怪ではないらしい。熊か猪か、ただの野生動物だろうという話である。
理由は単純で、死体が残っていたからだ。食い散らかして余りを破棄するようなのは獣のやり方で、知性を身に着けた妖怪のやる事ではない。実際に喰われた死体を見せつけられると、それは単なる畏れではなく現実的な脅威として人々の前に突きつけられる。里に生きている者が襲われたとなれば尚の事。そうなると、人々の中に「どうせ喰われるのなら」と自暴自棄になったり、死なばもろともと妖怪への反抗の気運を育てる事になる。
人間の恐怖が妖怪の糧ならばこそ、妖怪は人間を守らなければならない。恐れを与えはしても、現実に脅威として人々の生活に立ちはだかってはならないのだ。
死体を発見したのは天狗だった。はらわたを食い荒らされ無残な状態だったという。これを人の目に触れされてはまずいと、遺品を回収した上で死体は丁重に埋葬された。その上で、旅の行者を装って遺品を遺族の元に届けたのだが、天狗はあえて死因について詳しく説明しなかった。結果「きっと山の妖怪に喰われたに違いない」という噂が先行するようになったわけだ。
「……なんか、情報操作みたいな事してるんですね。妖怪のくせに」
「むしろ、それこそが妖怪の役目と言っても良いかもしれないね。実際に人の前に現れて頭からバリバリやるなんてのは、それこそお話の中だけ。だけど人々の中に『そうかもしれない』という恐怖はある。そういう状態が妖怪にとっての理想なんだよ。そして私たちにとってもね」
不安があればこそ、人々は神にも仏にも祈る。この幻想郷でも、妖怪が完全に駆逐され人々の生活が脅かされなくなったとなれば、宗教は必要とされなくなるだろう。外の世界がそうだったように。
需要があるから供給がある。妖怪がいるから宗教が必要とされる。
「だから私たちも、妖怪たちとは仲良くしなくてはいけないと?」
「別に仲良くはしなくてもいいけどね。私たちは人々を守るが、妖怪を倒す訳ではない。人々にとってそういう存在であるというだけさ」
なんだかなぁ、と早苗は思う。
早苗が知る物語の中の妖怪というのは、おどろおどろしい外見でヒーローに退治される悪役か、コミカルな外見で人々の中に溶け込む隣人のどちらかだった。そして自分の立場は、物語で言うなら悪い妖怪を懲らしめるヒーローのそれだろうとも思う。世の中はそんなに単純ではない、と言ってしまえばそれまでだが、イメージを保つために地道な活動を続け、敵対する存在とも実際の所は協力関係にある。まるで企業のようだ。
「まあ今の状況だと、山それ自体が警戒の対象になっちゃってるせいで、私たちも疑問の目で見られてしまっているみたいだけどね」
「なら、その人を食べた動物を探して退治するとか……」
「何の動物かも分かってないのに無茶を言うね。まあ、やるってんなら止めはしないよ」
カンラカンラと笑い声を響かせて、諏訪子は本殿に引っ込んでいった。悔しくはあったが、言い返す言葉は出てこなかった。
早苗が幻想郷に来て最初にしたのは、博麗神社に神奈子を勧請するよう伝える事だった。新たに参入した守矢神社が人々の信仰を一心に引き受ける事が神奈子たちにとって、また幻想郷の人々にとっても良い事のはずだと判断したからだ。結果、規格外の巫女に神社まで乗り込まれて痛い目を見るハメになった。
どうにか神奈子が山の妖怪たちと渡りをつけ、博麗神社とも分社を置き合う関係となった。しかし、山の妖怪たちから信仰を集めるだけでは立ち行かないと神奈子は言う。それならばと、里の人々からも信仰を得るために活動をしている訳だが、こうして水を差す事件が起こる。
好事魔多しと故事に言う。信仰の薄くなった外の世界を見切り、新天地を求めてはるばる幻想郷までやって来たというのに、これでは甲斐がないではないか。
「……あー、ダメだわ、余計な事ばっかり考えてる気がする」
ぺち、と自分の頬を張りむにむにと揉みしだく。普段から渋面を作ってばかりでは、里に行った時も明るい顔を見せられず、余計に不信感を抱かせてしまいかねない。
気分を変えなくてはならない。そんな思いが通じたのか、石段を登ってくる小さな姿が目に入った。
「おチビちゃん! ようこそいらっしゃい」
少しふらつく足取りで境内へ入ってくる少女に、早苗は普段より先走った挨拶を送った。体全体より髪の毛の方がボリュームがあるのではと思うくらい、あちこちに飛び跳ね渦を巻く癖っ毛。早苗が最近でもっとも笑っている時間が多いのは、間違いなく彼女と過ごしている時だろう。
「……って、すごい泥だらけじゃあないですか。転んだんですか?」
少女はキョトンと早苗を眺める。その顔も、むき出しの手足もあちこちが泥に塗れており、髪の毛は無数の落ち葉が絡まっていた。見た限り血の出るような怪我はしていないようだが。
「あーあー、髪の毛がいつにもましてグシャグシャ……」
少女の後ろに回り、軽く手で髪を梳く。幾つもの落ち葉が手に取れた。この分だと中にも相当入っていそうだ。
髪をかき分けて中の落ち葉を掻き出そうとすると、何かがうぞりと蠢いて早苗の手に落ちた。
「…………」
むくりと頭をもたげた毛虫と、目(?)が合った。
ぎゃああ、と少女が驚いて飛び退く程の悲鳴を上げて、早苗は毛虫を地面に叩きつけた。
山に住んでいる以上、虫の類がそこまで苦手という訳ではない。ないが、しかし、タイミングというものがある。まったく何の心構えもしていない時に手に落ちてきた毛虫を、ああなんだとそっけなく振り払える度胸は、まだ早苗には身に付いていなかった。
「……お風呂!」
早苗は少女の手をひっつかみ、早足で風呂場へと向かう。あはははは、と笑い声の聞こえた方を見やると、屋根の上からこちらを見ていた諏訪子と目が合った。思わずべえと舌を突き出した早苗の行為は、神職に与る者として相応しい行いではなかっただろう。
池で遊ぶのが好きな割に、少女は風呂を嫌がる様子を見せた。むずかる少女を体格差に物を言わせて服を剥ぎ取る早苗の姿は、天狗に見られでもしたら新聞の一面を飾ってしまう事は間違いなかった。
お湯を盛大に頭から被せられると、さすがに観念したのか少女はしおらしくなる。しかし問題はそこからで、固まった泥や落ち葉やらが無数に絡まる髪の毛を洗うのは大変な重労働だった。最初はお湯を流しかけながらゴミを取っていたが、埒が明かないのでシャンプーを盛大にぶっかけて大量の泡を起こして洗う事にした。補充できる当てもないお気に入りのシャンプーを、殆ど一ボトルまるまる使う事になった。
かなりの時間を格闘してやっと洗い終わり、一緒に湯船に浸かる。少女は早苗の胸に頭を乗せるように寄り添い、はふうと息をついて満足気である。一度濡れてしまえばお湯に浸かるのはそれなりに気に入ったらしい。
「……もしかして、お風呂とか今まで入った事ないのかしら」
彼女がどんな生活をしているのか知らないが、普段の様子を見る限りまともに家を持って生活しているとは思いにくかった。これからは来る時に、食事だけじゃなく風呂にも入れてやるべきだろうか。いや、そこまでするならいっそここに住んでもらってもいいかもしれない。頻繁に来る割に連れの姿を一度も見ていない事からすると、やはり一人で生活しているのだろうし。
そんな事につらつらと思いを馳せながら、湯船に広がる少女の髪を梳く(タオルにまとめようとしたのだが、あまりに多すぎて断念した)。念入りに洗って汚れはすっかり取れたが、相変わらずくるくるとあちこちに跳ねる頑固な癖っ毛だった。そのうち、これも手入れしてあげたいところだ。
(……うん?)
ふと、右手に何か黒いものが絡みついた。最初は抜け毛かと思ったが、すぐにそれが実体のない霊的なものだと気付く。早苗が念じるとそれはすぐに霧散してしまったが、改めて少女の髪を梳いていくと、また手に纏い付いてくる。ほんの僅かではあったが、それは少女自身から発せられているかのように、いくら祓っても完全には消えゆかない。
風呂から上がり、謎の霊気を矯めつ眇めつしながら少女の髪を乾かしていると、彼女は途中で大きく欠伸をして眠りこけてしまった。寝間着を着せて寝室に運び込んでから、諏訪子を呼んで霊気の正体について聞いてみる。
「祟りだね、これは」
「……祟り? この子にですか?」
諏訪子があっさりと出した答えは、早苗にはにわかに信じがたいと思えた。
祟りとは神仏の怒りや怨霊の呪いによって、魂に固着する咎である。例えば神の意に反して罪を犯した人に与えられる神罰などをそう呼ぶ。あるいは、恨みを持って死んだ人間が怨霊となって、怨みの元となる相手を祟る事もある。
そうは見えないが、諏訪子は祟り神としての一面も持っている。その彼女がいう事に間違いがあるとは思えないが、しかし。
「あんまりこの子と関わりある事のようにも思えませんが……」
「…………」
「諏訪子様?」
顔に疑問符を浮かべる早苗を尻目に、諏訪子は少女を見つめて黙考していた。その目付きは、ついぞ早苗の見た事がない程に鋭かった。
やがて諏訪子は立ち上がると、早苗を無言のまま手招いて寝室を出て行く。慌てて早苗は立ち上がり、そっと障子を閉めて諏訪子の後を追った。
「そういう話かい、まったく……」
「諏訪子様、どうされたのですか?」
しばらく廊下を進んでから、ふいに諏訪子が足を止める。自分の右手を見つめてため息を零す。その手には、風呂場で早苗が見たのと同じ霊魂のようなもの――諏訪子の言う所の祟りがまとわりついていた。それも、風呂場で見たよりかなり大量に。
「それって……」
「剥がせるか試してみたが、無理だねこりゃあ。相当強固にあの子の魂にこびりついているよ。まあ、この分だと無理はないだろうが」
「……何かわかったのですか」
早苗は少し聞くのが怖かった。子供の頃から近くにいて、早苗を気にかけてくれていた諏訪子の、始めて見る祟り神としての顔がそこにあるような気がした。
「人を喰ってるね、あの子」
「!!」
実にそっけなく、まるで天気の話をするように諏訪子は口にした。
その口調ほどには決して軽くない事を。
「……ど、どうして分かるんですか、そんな事」
ようやく、早苗はそこまで言葉にした。普通ならそんな事は分からないはずだ。諏訪子は適当な事を言っている。そう思いたいと、その声音は如実に物語っていた。
「私はこれでも祟り神だよ。祟りの具合を見れば、それがどのような性質のものかはすぐに分かる」
諏訪子がぐっと右手を突き出すと、まとわりついていた祟りがその手のひらの中心に寄り集まって固められていく。
「この祟りの元は怨霊だ。その声はとても分かりやすい。自分を食い殺した者への復讐。その一心で怨霊となってあの子を祟っている」
集めた怨霊をひょいと口の中に放り込み、そのまま飲み込む。こんな時間に食べたら太りますよ、と、そんな言葉が浮かんだのは、現実から逃げたい気持ちの表れだろうか。
「こうして末端を剥がす事はできても、その本質はあの子の魂にガッチリと絡みついている。それは強い怨みなくしてはできない事だ。痛み、苦しみ、絶望、自分の味わった全てを相手にも味あわせずにはおかないという、強い意志。それほどの怨を生み出すのは、そうある事じゃあないよ。喰われでもしない限りはね」
「……でも、祟りだったら、祓うことはできるはずですよね」
ぐ、と胸の前で拳を握る。その奥に沸き立つ薄ら寒い心地を握りつぶしてしまうように。
「いいや、できない」
「何でですか!」
知らず声が大きくなった。何となく、そう返されるのではないかと想像していた。
少女から祟りの末端を引き剥がしたように、祟り神である諏訪子には、祟りに関する大概の事は制御下に置けるはずなのだ。その彼女が、この祟りは剥がせないと言った。彼女に出来ない事が早苗にはできると信じるのは、とても難しい事だった。
「怨は縁である。人を喰ったという事実、それに由来する怨みがあの子の存在を形作るものなれば、これを祓う事は彼女を彼女たらしめる縁を奪う事に他ならない。妖怪が妖怪足り得る縁を奪うというのは、つまり、殺すという事だよ」
「……妖怪足り得る縁、って……」
「何であんな姿で、人語も操れないほど未成熟なのに妖怪化したのか不思議だったんだ。妖獣ってのは本来、長生きして知恵をつけた獣が化けるものだからね。だけどあの子はそうじゃあない。外的要因によって、本来の過程をすっ飛ばして未熟なまま妖怪として成ってしまったって事だ」
妖怪を妖怪たらしめるものとは、畏れである。あれはきっと妖怪の仕業だ。なんて恐ろしい。そのように人々が語り継ぐ事が、すなわち妖怪を生み出すのだ。
「人を喰った獣が、人食い妖怪への畏れを受けて妖怪へと変じる。まあ、無くはない話だろう。なまじそれが子供だったから、妖怪に成っても知恵も能力も足りないまま」
人食い妖怪の噂。昨今里を騒がす、山で喰われた人の話。
「……ど、動物の子供に人間を食べるなんて事が……」
「絶対に出来ないと思う? 前後不覚の酔っぱらいに、夜の山。いくらでも死ねる要因がある。死なないまでも動けなくなるような事だってね。そこを、通りがかった動物に肉を漁られる。本当にありえない事かね」
偶然ではあるのだろう。そうそう起きないほど珍しい事ではあるのだろう。
そうそう起きないほど珍しいと言う事は、つまり、いつかは必ず起きるのだ。
「……でも、それじゃああの子は……」
「遠くない内に死ぬね。知っているだろうけど、祟りってのはそういうものだ」
死によって生み出される怨は、死によってしか収まり得ない。因果は応報されねばならない。
神職に与る者として、人の念が生み出す祟りや呪いをいくつも見てきた。早苗はそれを知っている。嫌というほど。
胸の前で握りしめていた拳を解く。一緒に握り込んでいた寝間着のボタンが一つ取れて、早苗の手のひらに収まっていた。くっきりと、手のひらにボタン型の痕が残っている。
「なんて顔してんのさ。ちょうど良かったんじゃあないの? 人食いの妖怪を退治して、神社の株を上げるチャンスだ」
「っ!!!」
大声を上げそうになる口を、目の前の相手に掴みかかりそうになる手を、早苗はありったけの意思で押さえ込んだ。
そんな事のできる筋合いではない。自分が言った事だ。
こんな事になるなんて思っていなかった。あの子がそうだなんて思わなかった。
いや、そもそも、人が喰われて死んだという事さえも、深刻に捉えていなかったように思う。新聞の記事を読むように、ただの出来事としてしか。
人が死んでいるのに。誰かが誰かを殺しているのに。
「……自分を棚に上げないってのは美徳だ。しかし、時にそれでは生きるのが難しくもなるよ」
諏訪子はそこで初めて、目元を和らげた。
「……諏訪子様、私は、どうすれば、いいのでしょうか」
どうすればいい。どうすれば。
私はあの子を退治するべきなのか。それとも、救うべきなのか。
救うと言ったって、そもそも何をすればいいんだ。出来ないって言われたばかりなのに。
早苗は現人神だ。奇跡を起こす力がある。
だけど、今この時、なにが起こったなら、それを奇跡と呼ぶのだろうか。
「私が何かを言って、それを実行したのなら、あんたは必ず後悔するよ」
諏訪子はそう告げて、ゆっくりと廊下を歩き去っていった。
早苗は踵を返して、少女の眠る寝室へと向かった。無邪気に寝息をたてる少女の寝顔を眺める。
早苗はずっとそうしていた。夜が更け、闇が空を覆い、やがて白みだしても、ずっと。
神社を訪れた天狗が早苗を呼び止めた時、三度繰り返すまで早苗は返事ができなかった。そのくらい、彼女の心は空を彷徨っていた。
さすがに無礼が過ぎたと頭を下げてみても、逆に目元の隈を心配されてしまう有様だった。
恐ろしい妖怪と言っても、結局はそんなものだ。辛そうな相手を心配するし、不遇に同情もする。
胡乱な目付きで落ち葉掃きを再開する早苗を見かねたのか、天狗の少女は「気分転換になれば」と新聞を手渡した。彼女が手ずから記事を執筆している新聞との事だった。面白かったらぜひ定期購読を、と言い残して天狗の少女は本殿へと駆けてゆく。そういえば、今日は客が来ると神奈子に言われていた、とようやく思い出す。
『文々。新聞』と冠された新聞の一面を飾っていたのは、氷の妖精が大ガマにリベンジマッチを仕掛けるという記事だった。妖精は以前にイタズラが過ぎて大ガマに丸呑みにされた事があり、その復讐を果たすために挑むのだという。それぞれの写真や双方のインタビュー(大ガマの方は言葉がわからないので、記者が適当に翻訳したとの事)まで載せられた本格的な記事だった。あまりにくだらなくて笑ってしまった。他の記事も、終わりかけの紅葉を何とか引き延ばそうと秋神様が奮闘しているとか、河童と白狼天狗の大将棋が白熱の攻防を見せているとか、そんな他愛もない事ばかりだった。
少し笑って気が抜けた拍子に、大きな欠伸がでた。次いでぐうとお腹がなる。そういえば、今日はまだ何も食べていない。
どれほど悩み苦しんでも、腹は減るし、眠くなるし、人は死ぬ。
何が起ころうと、日常は続いている。笑ってしまうくらい。泣きたくなるくらいに。
「…………あ」
ふと、新聞の下から覗く小さな可愛らしい素足に気付く。
妖獣の少女がいつの間にか早苗の目の前まで来ていた。こんなに近くに来るまで気付かないというのは、それほどに早苗が消耗しているという事だったが、同時に少女が普段の様子ではない事をも示していた。いつもなら声を出したり、早苗の胸元に飛び込んできたりするのに。
「えぇと……いらっしゃい、おチビちゃん」
なんと声をかけるべきか悩んで、当たり障りのない挨拶を送り、それから、別に何を言う必要もない事に思い至る。
別に、少女が早苗に何かをした訳でもない。ただ、早苗が勝手に悩んでいるだけだ。
少女は俯いて黙っており、早苗の挨拶にも反応を示さなかった。胸の前で、何かを大事そうに両手で抱えている。
やがて面を上げると、早苗に示すように両手を突き出した。抱えていたのは、池でよく見るカエルの一匹だった。
「この子は……」
もうじき冬眠の頃合いとあって、カエルたちは池にいてもあまり動かない様になっていたが、少女が来た時は一転して活発に動き回る様子が見られた。
中でも一際大きく、少女に飛びついてよくじゃれている個体がいた。少女が手にしているのはその子だった。
身じろぎ一つせず、喉が鳴る様子もない。それが、一足先の冬眠ではないという事を、手に抱いて早苗は理解した。
「……大きかったですし、結構なお年だったんでしょうね……」
早苗はそっと、もう動く事のないカエルの身体を撫でた。少女は瞳に憂いを浮かべてそれを眺めていた。
「お墓、作ってあげましょうか」
そう言って先導する早苗に、少女は大人しくついていった。その足元は覚束ない。
彼女は早苗より、ずっと生命そのものに近い所にいると思う。だからだろうか、言葉はなくとも、少女は事態をきちんと理解しているように見えた。
カエルを埋葬して拝礼を捧げる間、少女はじっと立ったままでその様子を眺めていた。
声を上げる事もなく、早苗を止めるでもなく。少女はきっと、その行為の意味も理解していた。
「……う、う、う」
だけど、早苗に促されて小さな墓前に立った時、堪えきれなくなったように両目に大粒の涙を浮かべた。
堰を切ったように大声を上げ、少女は泣き続けた。
早苗は膝を下ろし、目線を合わせた少女を強く抱きしめた。
肩に顔を埋めて泣きじゃくるその声を、耳元で聞いた。その両目にも、同じように大粒の雫を浮かべて。
好きにするといいよ。諏訪子は優しく言った。
ちゃんと帰ってくるんだぞ。神奈子は心配そうに言った。
行ってきます。そう言い残し、大きな荷物を背に抱え、早苗は少女の手を取って神社を出た。
向かう宛ては無かったので、早苗は少女に先導を任せる事にした。
歩き慣れた少女が潜る獣道は、早苗にはかなり難儀する道のりだったが、どうにか進んでいくとやがて開けた川沿いに出た。川には河童が住んでいるが、彼らは山の麓付近からあまり出てこないので、この辺りには姿を見せないのだろう。
少女に導かれるまま進んでいくと、やがて朽ちかけの掘っ立て小屋が見つかった。中は見た目より片付いており、どうやら少女は普段ここで過ごしているようだった。
屋根板がいくつか剥がれていたので、早苗は荷を下ろすとまず小屋の補修に取り掛かった。材木ならその辺にいくらでもあるし、工具も持ってきた。
しかし、大工仕事などまったく経験のない早苗には、補修用の板を作るところからして困難だった。神力により真空波を生み出して木材を切り分けたまでは良いが、細かく大きさを合わせるのがまったく上手く行かない。三時間ほども悪戦苦闘を続け、見かねたらしい白狼天狗が河童を連れてきて、補修作業を手伝ってくれた。瞬く間に頑強な小屋が出来上がった。
天狗と河童に礼を言って別れ、早苗は小屋の中に寝台を設える。その間、少女はずっと座り込んで辛そうにしていた。整えた寝台に少女を横たえる。その際に手に纏い付いた祟りの妖気は、以前に浴室で見た時よりもずっと多かった。
早苗は、ずっと少女と一緒にいる事を決めた。
どうしてそうしようと思ったのか、上手く説明できる自信は無かった。
祟りは間断なく少女の身体を蝕み続けており、歩くのも辛そうにしていた。
少女を神社に住まわせる訳にはいかなかった。祟りを背負い、祟りに身を蝕まれる弱い妖怪である彼女には、神社の強い神気に長く触れる事は負担になるから。
早苗は少女の代わりに水を汲み、食料を調達し、火を起こして小屋を温めた。山の中で生活した経験など無い早苗には難儀する事ばかりだった。頻繁に通りすがる天狗や河童の協力を得て、どうにか成り立っているという有様だった。
少女は起きていられる時間も短くなっており、日が落ちる頃には完全に眠ってしまうようになった。早苗は日中を少女の介護に費やしつつ、日が落ちてからは方々に足を運んだ。厄神の元へ、紅い館の図書館へ、竹林の医者の元へ。時には少女を伴って、何度も何度も。そして日が明ける頃には、早苗は小屋に戻ってまた少女の介護をする。
少女が、あとどれくらい生きていられるのか分からない。救う方法も分からない。救うべきなのかも。
何をすべきかも、何ができるかも分からない。だから、せめて、できる事をしよう。そう思った。
日中は少女の生活を支えるために。夜は少女を救う方法を求めて。我が身を顧みず動き回る早苗に、多くの者が手を差し伸べた。
黒白の魔法使いが、取りすぎたからとたくさんのキノコを置いていった。
小屋の具合が気になると言って、白狼天狗と河童の少女が何度も様子を見に来た。
烏天狗の少女が、頼みもしない新聞を置いていった。読み終わったら焚き付けにでも使ってくれと言って。
夜に早苗が小屋を出る時は、決まって厄神か秋神姉妹が通りすがって、早苗が戻るまで小屋で休憩していった。
時々、米や野菜が知らぬ間に差し入れられており、空を見ると紅白の巫女服が目に入った。
早苗は現人神だ。奇跡を起こす力がある。
だけど、今この時、なにが起こったとしても、それは奇跡ではないのだろう。
だって、本当に分からないのだ。今やっている事が、みんなが力を貸してくれる事が、正しい事なのか。素晴らしい事なのか。
ただの自己満足かもしれない。本来の役目から目をそらしているのかも知れない。何かをやった気になりたいだけかも知れない。
早苗には分からない。きっと誰にも分からない。
日に日に少女は衰え、やがて自力で起き上がる事もできなくなった。それでも、目を覚ました時に早苗の顔を見つけると、無邪気に微笑んでみせた。
側で見ている内に早苗の方が眠ってしまった時、少女はその頭を優しく撫でて、早苗が起きると微笑みかけた。
一月ほど経ったある日、いつも昼過ぎに起きる少女は、その日に限って目を覚まさなかった。
太陽が落ち、夜が更けても、目を覚まさなかった。
一日が経ち、二日が過ぎても、目を覚まさなかった。
いつまでも、いつまで待っても、目を覚まさなかった。
丸一日眠りこけてしまったらしい。目を覚ました早苗は、まず最初に喉の渇きを感じた。
顔を洗い、冷たい水を喉に流し込む。乾いた身体に水分の染み込む感覚が心地よい。間もなく冬だ。乾燥に気をつけなくてはいけない。
居間に向かうと、もう昼過ぎだというのに温かい味噌汁とご飯が置いてあった。早苗には少ししょっぱいから、きっと諏訪子の味付けだろう。
空腹が満たされるとまた眠気が襲ってきたが、どうにかこらえていつもの巫女装束に着替える。
泣いても笑っても、腹は減るし、眠くなるし、人は死ぬ。
生命の美しさなんて、言うほど大層なものではないように思えた。
それでも、死んだ方が良いなんて、少しも思わないけれど。
境内に出てみると、太陽がうるさいくらいに輝いて大地を照らしている。
だというのに気温は低く、少しの風でぶるりと肩が震えた。そろそろマフラーを出した方が良さそうだ。
境内を出て少し歩いた先、カエルのお墓の隣に、もう一つ設えられた少し大きなお墓。
結局あの子の名前は、あるのかどうかも含めて分からず終いだった。
拝礼を捧げてじっとしていると、早苗の背後に小さな足音が降り立った。
よく聞き慣れた軽い足音を響かせて、諏訪子は早苗の傍らを通り過ぎ、先の尖った一抱えほどの石をお墓の中央に乗せた。
「これ、墓石代わりね。守矢の祭神が直々に見立てた石だ。さぞ霊験あらたかであろう」
諏訪子はニヤリと笑う。何か軽口を返したかったけれど、声が出なかった。
少女の埋葬を終えた後、早苗は糸が切れたように倒れて、それからずっと眠りこけていた。きっと、彼女が起きるまで墓石を置くのを待っていたのだろう。
「早苗」
諏訪子の声は、早苗がこれまで聞いたどんな声よりも優しかった。
「早苗は、あの子になにをしてあげたかった?」
「……分からないです。生きていて欲しいとは、思っていましたけど」
「あの子になにをして欲しかった?」
「……それも、分からないです」
あの子の世話をしていたある日、人里で喪に服す老夫婦と妙齢の女性を見た。
この世の全ての不幸を背負ったかのように、見ているだけで痛ましくなるほど沈痛な面持ちだった。
あの人たちは、山で喰われて死んだという里人の家族だったのかも知れない。なにも関係ないかもしれない。
あの家族に何かをしてあげたいと思った気持ちは、この墓に眠る少女に抱いた気持ちとそう変わらないように思える。
ただ、ほんの少しだけ、あの子の方が早苗の近くに居ただけ。
何かをしてあげたかった。何かをせずにはいられなかった。
守矢の風祝として。ただの東風谷早苗として。それ以上に、あの子の友達として。
友達。そうだ、友達だった。
神に仕える者と、人食いの獣。奇跡を操る現人神と、人を脅かす妖怪。
二人の間には色々な言葉があったけれど、そのどれよりも、彼女の涙と、彼女の笑顔は、早苗の心に深く深く突き刺さっていた。
特別な事は何もなかった。誰かを大切に想う気持ちがあっただけ。
二人の間に奇跡はなかった。当たり前の事があっただけ。
「……私は、正しい事をできたでしょうか」
「正しくはないよ」
友達だから、大切だから、笑っていて欲しかっただけ。
「だけど、美しい事だ」
ぽろ、と雫が一粒大地に落ちた。
「………………う、う、」
当たり前の事を当たり前のように。
楽しいから笑っていた、悲しいから泣いていた、あの子のように。
「ふ、ぐ……く、うぅ……うぅう~」
ぼろぼろと、堰を切ったように溢れる。
当たり前のようにある気持ちが、ごく自然に溢れ出て、雫となってこぼれ落ちる。
それは早苗の心だった。早苗とあの子の間にあった、一番強い結びつき。
その心が大地に落ちて、染み込んでいって、いつかあの子に届けばいい。
あなたがいなくなって、私はこんなにも悲しいよって、届けばいい。
「あら、この寒い中参拝に来たのですか?」
木枯らしも過ぎて寒さが本格化し、空を飛ぶには手袋とマフラーが欠かせない季節。
血気に逸って石段を文字通り飛び越えてきた参拝客と、早苗は向き合っていた。
「うふふ、私もここでの挨拶の仕方を学びました」
よく話をする天狗に曰く、守矢の風祝は知性が落ちたように見えるという。
職務に意気込む真面目さは変わりないが、ちょっとした事ですぐ笑い、すぐ泣き、すぐに怒るようになった。
その様子は自然体だとか、天真爛漫だという風にも語られた。まるで子供のようだとも、いや年相応の振る舞いだとも。
だが少なくとも、前の彼女の方が良いとは、誰も言わなかった。
人に、世界に、あるべき姿があるのだとしたら、それはどうやって捻じ曲げたとしても、自然と元に戻ってしまうものだろう。
少なくとも、彼女にとっての世界はそういうものだった。当たり前の事が、当たり前のように存在し、当たり前のように失われていく世界。
だから、彼女はこの場所の当たり前を学び、受け入れようと思った。
目の前の事をすべて受け入れて、笑っていようと思った。大切な友達が、そうしていたように。
「この幻想郷では常識に囚われてはいけないのですね!」
まるで子供のように、当たり前の事のように、彼女は今日も笑っている。
それは決して、奇跡などではない。
多くの場合は、何かをお祈りするために来るのだろう。ご利益を求めて願いを捧げに来るのだ。
しかし、大抵の場合はそこまで深刻な願いがある訳ではなく、日常のちょっとした事や将来の漠然とした事をお祈りするケースが多いだろうとも思う。そうなると、わざわざ危険や苦労を負ってまでお参りに向かうという事はしなくなる。費用対効果の概念というか、苦労してまでお参りする程の事でもない、と思うのが当然だろうから。
してみると、守矢神社の立地には問題があると言えた。ただでさえ妖怪の跋扈する危険な山の、さらに中腹を超えた先にあるとあっては、そうそう気軽にお参りできるものではない。登るだけでも相当な重労働となれば、よほどの理由が無ければ訪れる理由は無くなってしまう。
それとも、幻想郷の住人はこの程度の山登りを苦にしない程に足腰が強かったりするのだろうか。人里に車などはなかったから、歩き慣れているのはあるかもしれない。外の世界にいた頃、「現代人は体力がない」などと言われていたが、そのうち「外来人は体力がない」などと言われるようになったりするのだろうか。自分たちの後に外の世界からやってくる人がいるのかどうかは知らないが。
境内への石段を一歩一歩、慎重に踏みしめて進んでいく。幻想郷に来てこっち、神通力の進化は目覚しいものがあり、独力で空を自在に飛べるまでになった。しかしそれでも、早苗はこの石段を自らの足で登る事よう努めていた。さらりと髪を揺らす風、それに乗って届く草木や土の匂い、生命の息吹。アスファルトを踏み、電車に乗って日々を過ごしていた頃には感じなかった事。そういった「自然の生」に触れる事が、生命そのものにより近づいていく事であるように思えたから。
ふうふう、と息を荒くしつつ階段を登り切ると、大きく開けた境内が視界に飛び込む。見慣れない自然の空間を抜けた先に、よく見慣れた我が家の風景があるというのは不思議な感覚だった。ただし、その中で焚き火にあたる市女笠の少女の姿は、あまり見慣れないものではあった。
少女の名は洩矢諏訪子。この守矢神社における裏の祭神であり、れっきとした神である。今でこそ八坂神奈子を祀る神社となっているここも、元々は諏訪子の神社だった。神奈子が侵略して奪い取り、紆余曲折あって現在は表の祭神を神奈子、裏の祭神を諏訪子としている。ちなみに諏訪子の体格は早苗よりも小さく、逆に神奈子は大きい。力関係の差がこの体格の差に繋がっているのだろうか、と早苗は疑問に思っているが、怒られそうなので聞いた事はない。
「おかえりー早苗、芋焼けてるよ」
そう言って鉄串に刺した焼き芋を差し向けてくる。疲労した身体は甘味を切実に欲していたが、早苗はあえて目つきを鋭くして諏訪子を見据える。
「もうすぐお夕飯でしょうに。ご飯食べられなくなりますよ」
「つれない事言うない。落ち葉掃きの一番の楽しみじゃあないか」
「諏訪子様は間食しすぎです。太っても知りませんよ」
「お菓子大好きっ子の早苗からそんな忠告を受けるとはねぇ」
ぐ、と言葉に詰まる。幼少の頃を知っている相手はこうしたところが厄介である。守矢神社の風祝として、早苗は人前に出る事も多い。自己管理のできないみっともない姿を晒す訳にはいかないから、大好きなお菓子も控えるし、運動も欠かさない。そういう涙ぐましい努力を諏訪子は当然知っていて、その上で目の前で焼き芋を頬張ったりするのだ。
とはいえ、今のように受肉して食事もしている以上、神である諏訪子にしても太る事は普通にありえると思う。そうなったら盛大に笑ってやろうと思っているのだが、あいにく未だ実現していない。
「んで、里はどうだったん? その顔じゃあ上手くは行かなかったんだろうけど」
ニヤニヤと諏訪子は笑っている。外にいた頃の彼女は、失われゆく信仰に思いを馳せ、在りし日を想いながら消え行く定めを受け入れていた。枯れた大人の様相だったあの頃に比べると、いまの諏訪子はまるで子供のようだ。良かったと思うし、はた迷惑なとも思う。
「……うちのご利益が広まれば、もっと信仰してもらえるはずです。今は種まきの時期ですよ」
「収穫の時期に種まきねぇ」
くっくっと笑って諏訪子は焼き芋を頬張りだす。季節の風は少し肌寒く、紅葉が美しく山を染め上げる秋。諏訪子が食べているサツマイモも、最近知り合った秋神姉妹がお近づきの印にと持ってきたものだ。作物が実り、生命が躍動する季節。確かに、あまり下準備の印象はない季節かも知れない。
実際、無茶な事をしているとは理解している。妖怪の山は道の険しさに加え、天狗の聖地であることから常に妖怪たちが跳梁跋扈している。入ってくる人間はよほどの信念があるか、命知らずの愚か者だけだろう。神奈子も諏訪子も、人里からの信仰を集める事は現状諦める方針であるらしく、今のところ信仰の広がりは山の妖怪たちに限定されている。
しかし、と早苗は思う。信心を広く集める事を目的としてこの幻想郷に移住してきたのだから、人々からの信仰を放棄して良いわけがない。信仰の大きさはそのまま神としての力の強さを示す。現人神である早苗もまた、この神社への信仰を力とする事ができるはずなのだ。
幻想郷に来て程無く出会った少女を思い出す。紅白のおめでたい服に、艶やかな黒髪を流す少女。早苗より小さいくらいなのに自信満々で、神様に直接物申そうなんてふてぶてしいにも程があった彼女。そのくせ無闇矢鱈に強く、奇跡を起こす風祝の力をもねじ伏せてしまった。妖怪退治の専門家とは聞いていたが、まさか自分が遅れを取るなどとは思いもしなかった。そんな事がありうるのか、とひどいカルチャーショックを受けたのを覚えている。
神奈子は「いやぁ、あれは規格外だよ」などと言ったが、早苗はそれでは納得できなかった。自惚れているつもりはなくとも、神秘の力を存分に発揮できる環境にあって、自分が他者に劣ると想像した事は無かった。博麗という神社が規格外なのか、あの少女が規格外なのか。どちらにせよ、敗北を素直に受け止める事はできなかった。
だから、せめて信仰では負けまいと、早苗は人里に出向いての布教活動を始めたのだ。神奈子も諏訪子も、それに反対はしなかった。逆に言えば積極的に賛成もしていない。
自分の気持ちが理解されていないのか、二人の思惑を自分が理解できていないのか。どちらにしても、その事は早苗の心から余裕を奪っているように思われた。最近、笑っていない気がする。
「……んで、背中のそれが何だか説明してくれないの?」
そう言われて、早苗は物思いに沈みすぎていたと反省する。
「ああ、この子は階段の手前で寝っ転がっていたんですよ」
首を回して、背負った少女の顔を横目に眺める。飛び込んでくるのは乱雑に跳ねた黒髪。かなりのボリュームが有り、ちょっと俯くと顔が見えなくなってしまう程だ。体格はかなり小さく、人を背負っているという事実を忘れそうなほどに軽い。親にちゃんと食べさせてもらえているのか、少し不安になる。
「全然起きる気配がなかったので、不用心だと思って背負ってきたんですよ。こんな小さいのに山を登って参拝に来てくれるなんて立派ですよねぇ。きっと疲れて眠ってしまったんだと思います。人里で布教に努めたかいがあったというものですね」
「……いや、そいつ妖怪だよ」
「え!?」
思いがけず大声が出てしまった。諏訪子を、それからもう一度少女の方を見やる。
細い手足に手入れのされていない髪。もうそれなりに肌寒いこの時期に靴も履いてない。というより、よく見ると手と頭を出す穴を開けた布を一枚被っているだけに見える。
言われてみれば確かに、里の子供ならもう少し整った身なりをしているだろうか。
「…………んがっ」
少女が目を覚まし、寝ぼけ眼で周囲をキョロキョロと見回す。その愛くるしい所作は、危険な妖怪にはまったく見えない。
「えーと……こ、こんにちは?」
困惑しながら、早苗はとりあえず挨拶を送った。少女はキョトンと早苗の顔を見つめるばかりで、特にリアクションはない。
どういう顔をしてみせるべきかと悩んでいると、突然少女が早苗の肩を押して飛び出した。そのまま諏訪子に飛びかかっていく。
「おおっ!?」
尻餅をついた諏訪子に少女が伸し掛かる。すわ、やはり危険な妖怪だったのか、早苗は慌てて退魔の符を取り出して構える。だが、諏訪子が片手を突き出して早苗を制止したのを見て一旦止まる。
少女は諏訪子の手に持っていた焼き芋を奪い取り、かじりついて熱さに舌を火傷しそうになっていた。ハヒハヒ、と舌を突き出して喘ぐ。身体を起こした諏訪子が芋を半分に折って手渡すと、もうもうと湯気を立てる黄金色の断面に目を輝かせ、恐る恐る口をつけ始めた。
「やれやれ、まるで野生児だ」
ぽん、と少女の頭に手をやって諏訪子は立ち上がる。
熱さに慣れたのかハグハグとお芋を食べ進める少女は、およそ妖怪らしい風体とは見えなかった。しかし、では人間なのかというと、それも少しらしくない。強いていえば、野生動物が一番近い印象だろうか。
「……ホントに妖怪なんですか? なんというか、妖気とか全然感じないんですけど」
「弱いけど妖気はあるよ。お前が未熟なだけだ」
また言葉に詰まる。それらしく妖気などと言ってはみたものの、早苗にはそういった気配を察する能力が未熟だった。古来より神としてこの世にあった諏訪子と違い、早苗は神であると同時に人間でもある。幻想郷に来て日も浅く、妖怪というものを肌で理解するには経験が不足していた。
「まあそうは言っても、妖気はかなり弱いしこのナリだ。多分妖怪としては成り立てなんじゃあないかな」
「妖怪って『成る』ものなんですか? 妖怪の仕業と言われるような現象があって、それを由来として生まれるものって聞きましたが」
「化生って言葉もあるだろ。長生きした獣が化けて出たり、古い道具が意思を持って動き出したり。そういう風に自ら妖怪へと変じる存在もあるよ。たいてい、元の姿の特徴が残っていたりするね。獣耳とか」
少女の頭をまさぐってみると、なるほど小さな毛に覆われた耳が出てきた。少女は少し迷惑そうに身をよじる。構われるのを嫌がる猫みたいだと思った。
「諏訪子様、お水持ってきて下さい。お芋も全部あげちゃいましょう」
「……いや、なんで世話しようとしてるの? 妖怪の子供なんてその辺に放り出していいでしょ」
「えー、だって可愛いじゃあないですか」
確かに妖怪なら山の動物が危険になる事はないだろうし、他の妖怪に狙われるような事も無いのかもしれない。だけど、まうまうと嬉しそうに焼き芋を頬張る姿は、このまま放り出してしまうのを躊躇わせるくらいには愛らしかった。行動もまるで動物そのものだし、多分人間的な思考がまだ育っていないのだろう。境内に迷い込んだ野良猫を保護するような感覚だろうか。仮にも人並みの姿を持つ相手に抱く感覚ではないかもしれないけれど。
お芋を食べ終わった少女は、拝殿側の日陰に身を寄せて寝転がった。程無くすやすやと寝息をたて始める。ほっぺを突っつくと「んゆぅ」と眉を寄せて身をよじる。その反応が面白くてプニプニし続けていたら手を払われてしまった。
「この子って親とかいるんですかね」
「さあねぇ。いたとしても親まで妖怪とは限らないし、そもそも化生した妖獣であれば相当長く生きているはずだよ。見てくれが子供だからって、中身までそうとは限らない」
「そういうものですか?」
早苗が示した疑問に諏訪子は「ん」と自分を指差す。確かに諏訪子は見かけは子供だが、祭神として古くから活動しており、年齢として言うなら早苗とは比べ物にならない。
「天狗にも会ったでしょう? 妖怪や神霊相手に、見かけで判断できる事なんて殆どないよ」
「でも、天狗の人たちでもお偉いさんらしき人は、結構お年を召された外見の方が多かったような気がしますけど」
「威厳が必要だからあえてそうする場合もある。表に出るような任務を負っている者ほどそうなんじゃあないかな。あいつらは特に形式を気にする連中だし」
妖怪の山に居を構えるに当たって、天狗とは幾度となく交渉の場を設けている。何度かは早苗も同行した。古式ゆかしい建物に格調高い装いの、いかにもお偉いさんという雰囲気を醸し出していた天狗たちを思い出す。あれはむしろ、そのように振る舞って身構えさせる事こそが目的だったのだろうか。そして妖怪は精神的な存在だというから、外見年齢にもそれが及んでいるという事なのかもしれない。
「まあどちらにせよ、連れがいるんならこんな所にわざわざ一人で来ないだろうから、多分独り身じゃあないかな」
「そうですか……」
こんな小さくて言葉もちゃんと話せないのに、一人で生きていけるものなのだろうか。しかし、早苗は妖怪の生活というものをよく知らないが、この幻想郷が妖怪の楽園と言われている事は聞いた。案外、なんとでもなってしまうのかもしれない。
山の景色を振り仰ぐ。紅の葉が色濃く秋色を映す山。しかして一歩踏み入ればそこは妖怪たちの領域。迷い込んだ人間たちに牙と刃、そしてご馳走としての未来を約束する場所。
そのような伝聞ほどには、早苗はこの山に危険を感じていない。山に住む主な妖怪の天狗と河童、そのどちらにも早苗は会った。いずれも凶暴さや危険さなどとは程遠い存在であったように思う。むしろ、神社に乗り込んできた巫女や魔法使いの方が、よっぽど凶暴で危険なように感じられた。あれはあれで本人たちにも都合があったのだろうけど。
都合というなら、この少女もまた自分の都合の良いように生きているだけなのだろう。野生の動物がそうするように、妖怪というのも概ねそういうものだと言う。そして、それが立ちいかなくなった時には、大人しく消え去る事を選ぶ。それもまた、そういうものだと。
「……むぃ」と呻いて少女が起き上がった。近くで話し込んでいたせいで眠れなかったかもしれない。またキョロキョロと辺りを見回し、早苗と諏訪子の事も軽く見ただけで特に注意を払う様子がない。立ち上がり、スタスタとしっかりした足取りで境内の出口に向かう。
「あっ、ちょっと待って下さい」
言葉が理解はできるのか、理解できなくとも察したのか、少女が足を止める。早苗は懐の巾着からおにぎりを取り出して、少女に手渡した。今日の昼食に用意していったものだが、人里を駆け回っていてうっかり食べ損ない、そのままにしていたものだ。
「良かったら持っていって下さい。晩ごはんにしちゃうのもちょっとアレですし」
少女は大きく目を輝かせておにぎりを受け取ると、その場でハグハグと食べ始めた。持っていって後で食べてもらえればと思ったのだが、食べれる時に食べておく習慣が身についているのかもしれない。それもまるで動物みたいだった。気持ちのよい食べっぷりが見ていて微笑ましく、そのまま最後の米粒を舐めとるまで早苗は少女を眺めていた。
「お腹がすいたらいつでも来てくれていいですからね」
少女はにぱっと快活に笑い、早苗と諏訪子に手を振って勢い良く走り去っていった。手を振り返す早苗を、諏訪子は半眼になって見つめていた。
「ペット飼うんじゃないんだよ」
「まあまあ良いじゃあないですか。袖すり合うも多生の縁でしょう?」
「袖を押し付けて無理やり縁を作ってきたようなものでしょうに」
諏訪子は呆れた様子だったが、積極的に咎める意思もないようだった。
こうして守矢神社に妖獣の少女が姿を見せるようになり、新聞に「守矢の風祝、妖怪をペット扱い。新興勢力は反妖怪派?」と記事を載せた憐れな烏天狗が、拝殿奥のお仕置き部屋にて三日三晩悲鳴をあげ続ける事になるのだった。
「あっ、おチビちゃんいらっしゃい!」
早苗の声に呼応するように、大きく手を振って駆け寄る少女。この二週間ですっかり見慣れるようになった光景である。
早苗は彼女に名前をつけようとはしなかった。言葉が通じないから分からないだけで、ちゃんと彼女に名前はあるのかもしれない。それを勝手に名付けて呼ぶのではそれこそペット扱いだ。あだ名で呼ぶ程度に留めた方が良いと諏訪子に助言され、「じゃあ小さいからおチビちゃんで」と安直な呼び方をするようになったのである。
少女は早苗に呼ばれればすぐに反応するが、あまりその名を自分の呼び名と理解していない様子で、どういう言葉でも早苗の声には反応を返していた。
実のところ、あまり例のない話ではある。多くの妖怪が人の姿を取るのは、人間との間にコミュニケーションを成立させるためである。時には親交を結び、時には恐怖を与えるために。「人に近いが、人ではない」という存在である故に、人間に対して強い影響力を持ち得る。人の姿を取れるのであれば、言葉による交流くらいはできて当然なのだ。
とはいえ、少女は早苗や諏訪子らに従順だった。境内には諏訪子がカエルたちを遊ばせるための池があり、少女もそこで遊ぶのを好んでいたのだが、ある時に池のカエルを誤って潰しそうになり、血相を変えた諏訪子から怒鳴られた事がある。怒られたという事は理解できるのか少女は泣いてしまったが、同時にしてはいけない事も理解してくれたようで、以降は慎重な手付きでカエルたちと戯れるようになった。話せはしなくとも、こちらの言葉を理解する能力は多少なり備えているようにも見えた。
「もともと誰かのペットだった事があるのかもね。野生動物っぽいわりに、人を警戒する様子もないし。それにしちゃあ人語も操れないってのは少し妙だけど……」
諏訪子は少女がいかにも子供らしい様子なのを不思議に思っているようだった。長生きして化けた妖獣にしては、知恵や能力があまりに未成熟に見えると。そもそも妖怪の生態からしてよく分からない早苗にはピンとこない話だったが。
ともあれ、警戒する必要のない相手とは判断したようで、諏訪子が少女を邪険に扱う事はなかった。少女の方も諏訪子――と言うか、諏訪子の帽子を気に入ってよくじゃれついていた。
そうした交流の中で、早苗は笑顔を浮かべる事も増えたが、一方で布教活動に光明の差さない事が、彼女にとって頭痛の種ともなっていた。
宣伝用にチラシを作ってみたり、広場を借りて神奈子の神徳を説いてみたりするが、聴衆の反応は鈍かった。それなりに足を運んでいるはずなのだが、里人が早苗に送る目線は遠慮がちなもので、親しみや歓迎の心を感じさせるものではなかった。閉鎖的な里の環境を思えば、新参者に警戒心を向けるのも無理はないのだろうか。
「うーん……やっぱり神奈子様に直接出向いてもらったりして、神の威光を直に知らしめてもらう必要が……」
「里でンな事したら今度こそ滅ぼされると思うがな」
団子屋で茶をすすりながら物思う早苗にかけられた声は、幼くも凛と力強く、刺すような鋭さを伴っていた。
「あら、貴女は……霊夢さんのお友達の」
「わざわざ神社に乗り込んだ結果がそんな覚えられ方なんだったら、もうちょっと暴れておくべきだったか」
どっかりと早苗の隣に腰掛ける少女の名は、霧雨魔理沙といった。魔法使いという、外の世界では夢見がちな少女だけが名乗る事を許された肩書きを持つ。
もっとも、彼女が夢見がちな少女でないと思う根拠もないのだが。早苗より幾分か背が低く、前も横も薄い体つき。しかして彼女の操る弾幕は、その体躯に見合わぬパワーを持つ。
「神社は戦う場所ではありませんが、もしなさるなら今度は全力でお相手しますよ」
「まるで前回は本気じゃなかったみたいな言い草だな」
「ふんだ。アレはちょっと油断しただけです」
頬を膨らます早苗に対し、魔理沙はカラカラと笑う。
「まあ、ここじゃあそのくらい負けん気の強い方が良いだろうよ」
「貴女たちは荒っぽすぎます。天狗の人たちとも会いましたが、概ね紳士的な対応でしたよ。妖怪より人間の方が凶暴ってどういう事ですか」
「私はヒーローだからな。悪いヤツをやっつけるためなら何処でだって暴れるし、誰にだって喧嘩を売るさ」
言いながら魔理沙は早苗の皿から団子を勝手に取り上げて食べ始める(よりによって、好物だから最後に取っておいたみたらし団子を!)。
恨みがましく見つめる早苗に、魔理沙は懐から紙束を取り出して「ほれ」と手渡した。
「なんですこれ?」
「なんだ聞いてないのか? お前んとこの親玉から頼まれた、地質調査資料の写しだよ」
渡された紙束は、手に持つとズッシリと重量を感じる程の量があった。地質調査と言われても、まったく門外漢の早苗には何が書いてあるのかよく分からないが、幻想郷の各地域と思われる図面に様々な数字が書かれているのは分かった。
「結構な量ですね。こんなもの作れるなんて、貴女って意外とインテリなのね」
「写しだって言ったろ。私が作った訳じゃあない。阿求の所でちょっと資料を漁ってまとめただけだ。ま、インテリってのは否定しないがな」
「阿求……って、ああ、あの幻想郷の生き字引とかいう」
「雑な覚え方だな。そんなに間違っちゃあいないが」
たしか、幻想郷の事を広く取りまとめた資料を管理している場所が里にあると聞いた。里での権力も大きいらしいので、いずれ早苗も挨拶に出向く必要があるのだろう。知り合いだというなら魔理沙に間を取り持ってもらうのも良いのかもしれない。
とは言え、いかにも欲深そうな彼女相手に頼み事などして、後で面倒にならないのかという不安はあるが……この資料の件も何を対価に差し出したのか気になる所ではある。
「でも、結構スゴイですねこれ。要素ごとにまとまってて読みやすい資料になってる気がします。何となく」
「褒め方が雑なのは気になるが、まあ、私ら魔法使いにとっちゃあ普段からやってる事だからな。この程度の量は朝飯前さ」
胸を張る魔理沙。魔法使いというのは、外の世界で言うなら研究者のようなものと思えばいいのかもしれない。
それにしても、地質調査なんて一体なにを始めるつもりなのだろう。親玉というのはおそらく神奈子の事だろうが、大地にまつわる事であれば坤を操る諏訪子の領分である。二人して温泉でも掘り当てようというのだろうか。
「ははは、温泉を掘ったら確かに人気者だな。今は山から来たってだけで警戒されるし、そのぐらいやった方が人々に受け入れられるかも知れん」
「? 山がどうかしたんですか?」
「知らんのか? ……いや、そう言えばお前こそ山から来てるんだったな。だったら噂話も耳に入って来ないか」
魔理沙はすっと表情を引き締めて言った。その顔は、それまでの年頃の少女らしいものではない、人々を守る戦士の顔だった。
「人が喰われたんだよ」
幻想郷に住む大半の妖怪は人食いであるという。それは実態としてそうであり、同時に比喩でもある。
人は妖怪に喰われるもの。そういう畏れが妖怪を妖怪たらしめるものである故、妖怪は『人食いでなければならない』のだとも言える。
実際に里の人間が喰われる自体は殆ど無いのだとしても、人食いへの畏れが消える事は無いし、あってはならない。
故に、山で人食いがあったという事実は、実態とは関係なく妖怪の仕業として喧伝される事になる。
「ああ、少し前に天狗から聞いたよ」
神社に戻って問うてみれば、すでに諏訪子は事態を把握していたようだ。
「教えてくれても良かったのに……」
「そもそも、そんな大した話じゃあないんだよ。酔って一人で夜の山に踏み入った馬鹿が、襲われて喰われた。ただそれだけさ」
実際には、愚か者を手に掛けたのは妖怪ではないらしい。熊か猪か、ただの野生動物だろうという話である。
理由は単純で、死体が残っていたからだ。食い散らかして余りを破棄するようなのは獣のやり方で、知性を身に着けた妖怪のやる事ではない。実際に喰われた死体を見せつけられると、それは単なる畏れではなく現実的な脅威として人々の前に突きつけられる。里に生きている者が襲われたとなれば尚の事。そうなると、人々の中に「どうせ喰われるのなら」と自暴自棄になったり、死なばもろともと妖怪への反抗の気運を育てる事になる。
人間の恐怖が妖怪の糧ならばこそ、妖怪は人間を守らなければならない。恐れを与えはしても、現実に脅威として人々の生活に立ちはだかってはならないのだ。
死体を発見したのは天狗だった。はらわたを食い荒らされ無残な状態だったという。これを人の目に触れされてはまずいと、遺品を回収した上で死体は丁重に埋葬された。その上で、旅の行者を装って遺品を遺族の元に届けたのだが、天狗はあえて死因について詳しく説明しなかった。結果「きっと山の妖怪に喰われたに違いない」という噂が先行するようになったわけだ。
「……なんか、情報操作みたいな事してるんですね。妖怪のくせに」
「むしろ、それこそが妖怪の役目と言っても良いかもしれないね。実際に人の前に現れて頭からバリバリやるなんてのは、それこそお話の中だけ。だけど人々の中に『そうかもしれない』という恐怖はある。そういう状態が妖怪にとっての理想なんだよ。そして私たちにとってもね」
不安があればこそ、人々は神にも仏にも祈る。この幻想郷でも、妖怪が完全に駆逐され人々の生活が脅かされなくなったとなれば、宗教は必要とされなくなるだろう。外の世界がそうだったように。
需要があるから供給がある。妖怪がいるから宗教が必要とされる。
「だから私たちも、妖怪たちとは仲良くしなくてはいけないと?」
「別に仲良くはしなくてもいいけどね。私たちは人々を守るが、妖怪を倒す訳ではない。人々にとってそういう存在であるというだけさ」
なんだかなぁ、と早苗は思う。
早苗が知る物語の中の妖怪というのは、おどろおどろしい外見でヒーローに退治される悪役か、コミカルな外見で人々の中に溶け込む隣人のどちらかだった。そして自分の立場は、物語で言うなら悪い妖怪を懲らしめるヒーローのそれだろうとも思う。世の中はそんなに単純ではない、と言ってしまえばそれまでだが、イメージを保つために地道な活動を続け、敵対する存在とも実際の所は協力関係にある。まるで企業のようだ。
「まあ今の状況だと、山それ自体が警戒の対象になっちゃってるせいで、私たちも疑問の目で見られてしまっているみたいだけどね」
「なら、その人を食べた動物を探して退治するとか……」
「何の動物かも分かってないのに無茶を言うね。まあ、やるってんなら止めはしないよ」
カンラカンラと笑い声を響かせて、諏訪子は本殿に引っ込んでいった。悔しくはあったが、言い返す言葉は出てこなかった。
早苗が幻想郷に来て最初にしたのは、博麗神社に神奈子を勧請するよう伝える事だった。新たに参入した守矢神社が人々の信仰を一心に引き受ける事が神奈子たちにとって、また幻想郷の人々にとっても良い事のはずだと判断したからだ。結果、規格外の巫女に神社まで乗り込まれて痛い目を見るハメになった。
どうにか神奈子が山の妖怪たちと渡りをつけ、博麗神社とも分社を置き合う関係となった。しかし、山の妖怪たちから信仰を集めるだけでは立ち行かないと神奈子は言う。それならばと、里の人々からも信仰を得るために活動をしている訳だが、こうして水を差す事件が起こる。
好事魔多しと故事に言う。信仰の薄くなった外の世界を見切り、新天地を求めてはるばる幻想郷までやって来たというのに、これでは甲斐がないではないか。
「……あー、ダメだわ、余計な事ばっかり考えてる気がする」
ぺち、と自分の頬を張りむにむにと揉みしだく。普段から渋面を作ってばかりでは、里に行った時も明るい顔を見せられず、余計に不信感を抱かせてしまいかねない。
気分を変えなくてはならない。そんな思いが通じたのか、石段を登ってくる小さな姿が目に入った。
「おチビちゃん! ようこそいらっしゃい」
少しふらつく足取りで境内へ入ってくる少女に、早苗は普段より先走った挨拶を送った。体全体より髪の毛の方がボリュームがあるのではと思うくらい、あちこちに飛び跳ね渦を巻く癖っ毛。早苗が最近でもっとも笑っている時間が多いのは、間違いなく彼女と過ごしている時だろう。
「……って、すごい泥だらけじゃあないですか。転んだんですか?」
少女はキョトンと早苗を眺める。その顔も、むき出しの手足もあちこちが泥に塗れており、髪の毛は無数の落ち葉が絡まっていた。見た限り血の出るような怪我はしていないようだが。
「あーあー、髪の毛がいつにもましてグシャグシャ……」
少女の後ろに回り、軽く手で髪を梳く。幾つもの落ち葉が手に取れた。この分だと中にも相当入っていそうだ。
髪をかき分けて中の落ち葉を掻き出そうとすると、何かがうぞりと蠢いて早苗の手に落ちた。
「…………」
むくりと頭をもたげた毛虫と、目(?)が合った。
ぎゃああ、と少女が驚いて飛び退く程の悲鳴を上げて、早苗は毛虫を地面に叩きつけた。
山に住んでいる以上、虫の類がそこまで苦手という訳ではない。ないが、しかし、タイミングというものがある。まったく何の心構えもしていない時に手に落ちてきた毛虫を、ああなんだとそっけなく振り払える度胸は、まだ早苗には身に付いていなかった。
「……お風呂!」
早苗は少女の手をひっつかみ、早足で風呂場へと向かう。あはははは、と笑い声の聞こえた方を見やると、屋根の上からこちらを見ていた諏訪子と目が合った。思わずべえと舌を突き出した早苗の行為は、神職に与る者として相応しい行いではなかっただろう。
池で遊ぶのが好きな割に、少女は風呂を嫌がる様子を見せた。むずかる少女を体格差に物を言わせて服を剥ぎ取る早苗の姿は、天狗に見られでもしたら新聞の一面を飾ってしまう事は間違いなかった。
お湯を盛大に頭から被せられると、さすがに観念したのか少女はしおらしくなる。しかし問題はそこからで、固まった泥や落ち葉やらが無数に絡まる髪の毛を洗うのは大変な重労働だった。最初はお湯を流しかけながらゴミを取っていたが、埒が明かないのでシャンプーを盛大にぶっかけて大量の泡を起こして洗う事にした。補充できる当てもないお気に入りのシャンプーを、殆ど一ボトルまるまる使う事になった。
かなりの時間を格闘してやっと洗い終わり、一緒に湯船に浸かる。少女は早苗の胸に頭を乗せるように寄り添い、はふうと息をついて満足気である。一度濡れてしまえばお湯に浸かるのはそれなりに気に入ったらしい。
「……もしかして、お風呂とか今まで入った事ないのかしら」
彼女がどんな生活をしているのか知らないが、普段の様子を見る限りまともに家を持って生活しているとは思いにくかった。これからは来る時に、食事だけじゃなく風呂にも入れてやるべきだろうか。いや、そこまでするならいっそここに住んでもらってもいいかもしれない。頻繁に来る割に連れの姿を一度も見ていない事からすると、やはり一人で生活しているのだろうし。
そんな事につらつらと思いを馳せながら、湯船に広がる少女の髪を梳く(タオルにまとめようとしたのだが、あまりに多すぎて断念した)。念入りに洗って汚れはすっかり取れたが、相変わらずくるくるとあちこちに跳ねる頑固な癖っ毛だった。そのうち、これも手入れしてあげたいところだ。
(……うん?)
ふと、右手に何か黒いものが絡みついた。最初は抜け毛かと思ったが、すぐにそれが実体のない霊的なものだと気付く。早苗が念じるとそれはすぐに霧散してしまったが、改めて少女の髪を梳いていくと、また手に纏い付いてくる。ほんの僅かではあったが、それは少女自身から発せられているかのように、いくら祓っても完全には消えゆかない。
風呂から上がり、謎の霊気を矯めつ眇めつしながら少女の髪を乾かしていると、彼女は途中で大きく欠伸をして眠りこけてしまった。寝間着を着せて寝室に運び込んでから、諏訪子を呼んで霊気の正体について聞いてみる。
「祟りだね、これは」
「……祟り? この子にですか?」
諏訪子があっさりと出した答えは、早苗にはにわかに信じがたいと思えた。
祟りとは神仏の怒りや怨霊の呪いによって、魂に固着する咎である。例えば神の意に反して罪を犯した人に与えられる神罰などをそう呼ぶ。あるいは、恨みを持って死んだ人間が怨霊となって、怨みの元となる相手を祟る事もある。
そうは見えないが、諏訪子は祟り神としての一面も持っている。その彼女がいう事に間違いがあるとは思えないが、しかし。
「あんまりこの子と関わりある事のようにも思えませんが……」
「…………」
「諏訪子様?」
顔に疑問符を浮かべる早苗を尻目に、諏訪子は少女を見つめて黙考していた。その目付きは、ついぞ早苗の見た事がない程に鋭かった。
やがて諏訪子は立ち上がると、早苗を無言のまま手招いて寝室を出て行く。慌てて早苗は立ち上がり、そっと障子を閉めて諏訪子の後を追った。
「そういう話かい、まったく……」
「諏訪子様、どうされたのですか?」
しばらく廊下を進んでから、ふいに諏訪子が足を止める。自分の右手を見つめてため息を零す。その手には、風呂場で早苗が見たのと同じ霊魂のようなもの――諏訪子の言う所の祟りがまとわりついていた。それも、風呂場で見たよりかなり大量に。
「それって……」
「剥がせるか試してみたが、無理だねこりゃあ。相当強固にあの子の魂にこびりついているよ。まあ、この分だと無理はないだろうが」
「……何かわかったのですか」
早苗は少し聞くのが怖かった。子供の頃から近くにいて、早苗を気にかけてくれていた諏訪子の、始めて見る祟り神としての顔がそこにあるような気がした。
「人を喰ってるね、あの子」
「!!」
実にそっけなく、まるで天気の話をするように諏訪子は口にした。
その口調ほどには決して軽くない事を。
「……ど、どうして分かるんですか、そんな事」
ようやく、早苗はそこまで言葉にした。普通ならそんな事は分からないはずだ。諏訪子は適当な事を言っている。そう思いたいと、その声音は如実に物語っていた。
「私はこれでも祟り神だよ。祟りの具合を見れば、それがどのような性質のものかはすぐに分かる」
諏訪子がぐっと右手を突き出すと、まとわりついていた祟りがその手のひらの中心に寄り集まって固められていく。
「この祟りの元は怨霊だ。その声はとても分かりやすい。自分を食い殺した者への復讐。その一心で怨霊となってあの子を祟っている」
集めた怨霊をひょいと口の中に放り込み、そのまま飲み込む。こんな時間に食べたら太りますよ、と、そんな言葉が浮かんだのは、現実から逃げたい気持ちの表れだろうか。
「こうして末端を剥がす事はできても、その本質はあの子の魂にガッチリと絡みついている。それは強い怨みなくしてはできない事だ。痛み、苦しみ、絶望、自分の味わった全てを相手にも味あわせずにはおかないという、強い意志。それほどの怨を生み出すのは、そうある事じゃあないよ。喰われでもしない限りはね」
「……でも、祟りだったら、祓うことはできるはずですよね」
ぐ、と胸の前で拳を握る。その奥に沸き立つ薄ら寒い心地を握りつぶしてしまうように。
「いいや、できない」
「何でですか!」
知らず声が大きくなった。何となく、そう返されるのではないかと想像していた。
少女から祟りの末端を引き剥がしたように、祟り神である諏訪子には、祟りに関する大概の事は制御下に置けるはずなのだ。その彼女が、この祟りは剥がせないと言った。彼女に出来ない事が早苗にはできると信じるのは、とても難しい事だった。
「怨は縁である。人を喰ったという事実、それに由来する怨みがあの子の存在を形作るものなれば、これを祓う事は彼女を彼女たらしめる縁を奪う事に他ならない。妖怪が妖怪足り得る縁を奪うというのは、つまり、殺すという事だよ」
「……妖怪足り得る縁、って……」
「何であんな姿で、人語も操れないほど未成熟なのに妖怪化したのか不思議だったんだ。妖獣ってのは本来、長生きして知恵をつけた獣が化けるものだからね。だけどあの子はそうじゃあない。外的要因によって、本来の過程をすっ飛ばして未熟なまま妖怪として成ってしまったって事だ」
妖怪を妖怪たらしめるものとは、畏れである。あれはきっと妖怪の仕業だ。なんて恐ろしい。そのように人々が語り継ぐ事が、すなわち妖怪を生み出すのだ。
「人を喰った獣が、人食い妖怪への畏れを受けて妖怪へと変じる。まあ、無くはない話だろう。なまじそれが子供だったから、妖怪に成っても知恵も能力も足りないまま」
人食い妖怪の噂。昨今里を騒がす、山で喰われた人の話。
「……ど、動物の子供に人間を食べるなんて事が……」
「絶対に出来ないと思う? 前後不覚の酔っぱらいに、夜の山。いくらでも死ねる要因がある。死なないまでも動けなくなるような事だってね。そこを、通りがかった動物に肉を漁られる。本当にありえない事かね」
偶然ではあるのだろう。そうそう起きないほど珍しい事ではあるのだろう。
そうそう起きないほど珍しいと言う事は、つまり、いつかは必ず起きるのだ。
「……でも、それじゃああの子は……」
「遠くない内に死ぬね。知っているだろうけど、祟りってのはそういうものだ」
死によって生み出される怨は、死によってしか収まり得ない。因果は応報されねばならない。
神職に与る者として、人の念が生み出す祟りや呪いをいくつも見てきた。早苗はそれを知っている。嫌というほど。
胸の前で握りしめていた拳を解く。一緒に握り込んでいた寝間着のボタンが一つ取れて、早苗の手のひらに収まっていた。くっきりと、手のひらにボタン型の痕が残っている。
「なんて顔してんのさ。ちょうど良かったんじゃあないの? 人食いの妖怪を退治して、神社の株を上げるチャンスだ」
「っ!!!」
大声を上げそうになる口を、目の前の相手に掴みかかりそうになる手を、早苗はありったけの意思で押さえ込んだ。
そんな事のできる筋合いではない。自分が言った事だ。
こんな事になるなんて思っていなかった。あの子がそうだなんて思わなかった。
いや、そもそも、人が喰われて死んだという事さえも、深刻に捉えていなかったように思う。新聞の記事を読むように、ただの出来事としてしか。
人が死んでいるのに。誰かが誰かを殺しているのに。
「……自分を棚に上げないってのは美徳だ。しかし、時にそれでは生きるのが難しくもなるよ」
諏訪子はそこで初めて、目元を和らげた。
「……諏訪子様、私は、どうすれば、いいのでしょうか」
どうすればいい。どうすれば。
私はあの子を退治するべきなのか。それとも、救うべきなのか。
救うと言ったって、そもそも何をすればいいんだ。出来ないって言われたばかりなのに。
早苗は現人神だ。奇跡を起こす力がある。
だけど、今この時、なにが起こったなら、それを奇跡と呼ぶのだろうか。
「私が何かを言って、それを実行したのなら、あんたは必ず後悔するよ」
諏訪子はそう告げて、ゆっくりと廊下を歩き去っていった。
早苗は踵を返して、少女の眠る寝室へと向かった。無邪気に寝息をたてる少女の寝顔を眺める。
早苗はずっとそうしていた。夜が更け、闇が空を覆い、やがて白みだしても、ずっと。
神社を訪れた天狗が早苗を呼び止めた時、三度繰り返すまで早苗は返事ができなかった。そのくらい、彼女の心は空を彷徨っていた。
さすがに無礼が過ぎたと頭を下げてみても、逆に目元の隈を心配されてしまう有様だった。
恐ろしい妖怪と言っても、結局はそんなものだ。辛そうな相手を心配するし、不遇に同情もする。
胡乱な目付きで落ち葉掃きを再開する早苗を見かねたのか、天狗の少女は「気分転換になれば」と新聞を手渡した。彼女が手ずから記事を執筆している新聞との事だった。面白かったらぜひ定期購読を、と言い残して天狗の少女は本殿へと駆けてゆく。そういえば、今日は客が来ると神奈子に言われていた、とようやく思い出す。
『文々。新聞』と冠された新聞の一面を飾っていたのは、氷の妖精が大ガマにリベンジマッチを仕掛けるという記事だった。妖精は以前にイタズラが過ぎて大ガマに丸呑みにされた事があり、その復讐を果たすために挑むのだという。それぞれの写真や双方のインタビュー(大ガマの方は言葉がわからないので、記者が適当に翻訳したとの事)まで載せられた本格的な記事だった。あまりにくだらなくて笑ってしまった。他の記事も、終わりかけの紅葉を何とか引き延ばそうと秋神様が奮闘しているとか、河童と白狼天狗の大将棋が白熱の攻防を見せているとか、そんな他愛もない事ばかりだった。
少し笑って気が抜けた拍子に、大きな欠伸がでた。次いでぐうとお腹がなる。そういえば、今日はまだ何も食べていない。
どれほど悩み苦しんでも、腹は減るし、眠くなるし、人は死ぬ。
何が起ころうと、日常は続いている。笑ってしまうくらい。泣きたくなるくらいに。
「…………あ」
ふと、新聞の下から覗く小さな可愛らしい素足に気付く。
妖獣の少女がいつの間にか早苗の目の前まで来ていた。こんなに近くに来るまで気付かないというのは、それほどに早苗が消耗しているという事だったが、同時に少女が普段の様子ではない事をも示していた。いつもなら声を出したり、早苗の胸元に飛び込んできたりするのに。
「えぇと……いらっしゃい、おチビちゃん」
なんと声をかけるべきか悩んで、当たり障りのない挨拶を送り、それから、別に何を言う必要もない事に思い至る。
別に、少女が早苗に何かをした訳でもない。ただ、早苗が勝手に悩んでいるだけだ。
少女は俯いて黙っており、早苗の挨拶にも反応を示さなかった。胸の前で、何かを大事そうに両手で抱えている。
やがて面を上げると、早苗に示すように両手を突き出した。抱えていたのは、池でよく見るカエルの一匹だった。
「この子は……」
もうじき冬眠の頃合いとあって、カエルたちは池にいてもあまり動かない様になっていたが、少女が来た時は一転して活発に動き回る様子が見られた。
中でも一際大きく、少女に飛びついてよくじゃれている個体がいた。少女が手にしているのはその子だった。
身じろぎ一つせず、喉が鳴る様子もない。それが、一足先の冬眠ではないという事を、手に抱いて早苗は理解した。
「……大きかったですし、結構なお年だったんでしょうね……」
早苗はそっと、もう動く事のないカエルの身体を撫でた。少女は瞳に憂いを浮かべてそれを眺めていた。
「お墓、作ってあげましょうか」
そう言って先導する早苗に、少女は大人しくついていった。その足元は覚束ない。
彼女は早苗より、ずっと生命そのものに近い所にいると思う。だからだろうか、言葉はなくとも、少女は事態をきちんと理解しているように見えた。
カエルを埋葬して拝礼を捧げる間、少女はじっと立ったままでその様子を眺めていた。
声を上げる事もなく、早苗を止めるでもなく。少女はきっと、その行為の意味も理解していた。
「……う、う、う」
だけど、早苗に促されて小さな墓前に立った時、堪えきれなくなったように両目に大粒の涙を浮かべた。
堰を切ったように大声を上げ、少女は泣き続けた。
早苗は膝を下ろし、目線を合わせた少女を強く抱きしめた。
肩に顔を埋めて泣きじゃくるその声を、耳元で聞いた。その両目にも、同じように大粒の雫を浮かべて。
好きにするといいよ。諏訪子は優しく言った。
ちゃんと帰ってくるんだぞ。神奈子は心配そうに言った。
行ってきます。そう言い残し、大きな荷物を背に抱え、早苗は少女の手を取って神社を出た。
向かう宛ては無かったので、早苗は少女に先導を任せる事にした。
歩き慣れた少女が潜る獣道は、早苗にはかなり難儀する道のりだったが、どうにか進んでいくとやがて開けた川沿いに出た。川には河童が住んでいるが、彼らは山の麓付近からあまり出てこないので、この辺りには姿を見せないのだろう。
少女に導かれるまま進んでいくと、やがて朽ちかけの掘っ立て小屋が見つかった。中は見た目より片付いており、どうやら少女は普段ここで過ごしているようだった。
屋根板がいくつか剥がれていたので、早苗は荷を下ろすとまず小屋の補修に取り掛かった。材木ならその辺にいくらでもあるし、工具も持ってきた。
しかし、大工仕事などまったく経験のない早苗には、補修用の板を作るところからして困難だった。神力により真空波を生み出して木材を切り分けたまでは良いが、細かく大きさを合わせるのがまったく上手く行かない。三時間ほども悪戦苦闘を続け、見かねたらしい白狼天狗が河童を連れてきて、補修作業を手伝ってくれた。瞬く間に頑強な小屋が出来上がった。
天狗と河童に礼を言って別れ、早苗は小屋の中に寝台を設える。その間、少女はずっと座り込んで辛そうにしていた。整えた寝台に少女を横たえる。その際に手に纏い付いた祟りの妖気は、以前に浴室で見た時よりもずっと多かった。
早苗は、ずっと少女と一緒にいる事を決めた。
どうしてそうしようと思ったのか、上手く説明できる自信は無かった。
祟りは間断なく少女の身体を蝕み続けており、歩くのも辛そうにしていた。
少女を神社に住まわせる訳にはいかなかった。祟りを背負い、祟りに身を蝕まれる弱い妖怪である彼女には、神社の強い神気に長く触れる事は負担になるから。
早苗は少女の代わりに水を汲み、食料を調達し、火を起こして小屋を温めた。山の中で生活した経験など無い早苗には難儀する事ばかりだった。頻繁に通りすがる天狗や河童の協力を得て、どうにか成り立っているという有様だった。
少女は起きていられる時間も短くなっており、日が落ちる頃には完全に眠ってしまうようになった。早苗は日中を少女の介護に費やしつつ、日が落ちてからは方々に足を運んだ。厄神の元へ、紅い館の図書館へ、竹林の医者の元へ。時には少女を伴って、何度も何度も。そして日が明ける頃には、早苗は小屋に戻ってまた少女の介護をする。
少女が、あとどれくらい生きていられるのか分からない。救う方法も分からない。救うべきなのかも。
何をすべきかも、何ができるかも分からない。だから、せめて、できる事をしよう。そう思った。
日中は少女の生活を支えるために。夜は少女を救う方法を求めて。我が身を顧みず動き回る早苗に、多くの者が手を差し伸べた。
黒白の魔法使いが、取りすぎたからとたくさんのキノコを置いていった。
小屋の具合が気になると言って、白狼天狗と河童の少女が何度も様子を見に来た。
烏天狗の少女が、頼みもしない新聞を置いていった。読み終わったら焚き付けにでも使ってくれと言って。
夜に早苗が小屋を出る時は、決まって厄神か秋神姉妹が通りすがって、早苗が戻るまで小屋で休憩していった。
時々、米や野菜が知らぬ間に差し入れられており、空を見ると紅白の巫女服が目に入った。
早苗は現人神だ。奇跡を起こす力がある。
だけど、今この時、なにが起こったとしても、それは奇跡ではないのだろう。
だって、本当に分からないのだ。今やっている事が、みんなが力を貸してくれる事が、正しい事なのか。素晴らしい事なのか。
ただの自己満足かもしれない。本来の役目から目をそらしているのかも知れない。何かをやった気になりたいだけかも知れない。
早苗には分からない。きっと誰にも分からない。
日に日に少女は衰え、やがて自力で起き上がる事もできなくなった。それでも、目を覚ました時に早苗の顔を見つけると、無邪気に微笑んでみせた。
側で見ている内に早苗の方が眠ってしまった時、少女はその頭を優しく撫でて、早苗が起きると微笑みかけた。
一月ほど経ったある日、いつも昼過ぎに起きる少女は、その日に限って目を覚まさなかった。
太陽が落ち、夜が更けても、目を覚まさなかった。
一日が経ち、二日が過ぎても、目を覚まさなかった。
いつまでも、いつまで待っても、目を覚まさなかった。
丸一日眠りこけてしまったらしい。目を覚ました早苗は、まず最初に喉の渇きを感じた。
顔を洗い、冷たい水を喉に流し込む。乾いた身体に水分の染み込む感覚が心地よい。間もなく冬だ。乾燥に気をつけなくてはいけない。
居間に向かうと、もう昼過ぎだというのに温かい味噌汁とご飯が置いてあった。早苗には少ししょっぱいから、きっと諏訪子の味付けだろう。
空腹が満たされるとまた眠気が襲ってきたが、どうにかこらえていつもの巫女装束に着替える。
泣いても笑っても、腹は減るし、眠くなるし、人は死ぬ。
生命の美しさなんて、言うほど大層なものではないように思えた。
それでも、死んだ方が良いなんて、少しも思わないけれど。
境内に出てみると、太陽がうるさいくらいに輝いて大地を照らしている。
だというのに気温は低く、少しの風でぶるりと肩が震えた。そろそろマフラーを出した方が良さそうだ。
境内を出て少し歩いた先、カエルのお墓の隣に、もう一つ設えられた少し大きなお墓。
結局あの子の名前は、あるのかどうかも含めて分からず終いだった。
拝礼を捧げてじっとしていると、早苗の背後に小さな足音が降り立った。
よく聞き慣れた軽い足音を響かせて、諏訪子は早苗の傍らを通り過ぎ、先の尖った一抱えほどの石をお墓の中央に乗せた。
「これ、墓石代わりね。守矢の祭神が直々に見立てた石だ。さぞ霊験あらたかであろう」
諏訪子はニヤリと笑う。何か軽口を返したかったけれど、声が出なかった。
少女の埋葬を終えた後、早苗は糸が切れたように倒れて、それからずっと眠りこけていた。きっと、彼女が起きるまで墓石を置くのを待っていたのだろう。
「早苗」
諏訪子の声は、早苗がこれまで聞いたどんな声よりも優しかった。
「早苗は、あの子になにをしてあげたかった?」
「……分からないです。生きていて欲しいとは、思っていましたけど」
「あの子になにをして欲しかった?」
「……それも、分からないです」
あの子の世話をしていたある日、人里で喪に服す老夫婦と妙齢の女性を見た。
この世の全ての不幸を背負ったかのように、見ているだけで痛ましくなるほど沈痛な面持ちだった。
あの人たちは、山で喰われて死んだという里人の家族だったのかも知れない。なにも関係ないかもしれない。
あの家族に何かをしてあげたいと思った気持ちは、この墓に眠る少女に抱いた気持ちとそう変わらないように思える。
ただ、ほんの少しだけ、あの子の方が早苗の近くに居ただけ。
何かをしてあげたかった。何かをせずにはいられなかった。
守矢の風祝として。ただの東風谷早苗として。それ以上に、あの子の友達として。
友達。そうだ、友達だった。
神に仕える者と、人食いの獣。奇跡を操る現人神と、人を脅かす妖怪。
二人の間には色々な言葉があったけれど、そのどれよりも、彼女の涙と、彼女の笑顔は、早苗の心に深く深く突き刺さっていた。
特別な事は何もなかった。誰かを大切に想う気持ちがあっただけ。
二人の間に奇跡はなかった。当たり前の事があっただけ。
「……私は、正しい事をできたでしょうか」
「正しくはないよ」
友達だから、大切だから、笑っていて欲しかっただけ。
「だけど、美しい事だ」
ぽろ、と雫が一粒大地に落ちた。
「………………う、う、」
当たり前の事を当たり前のように。
楽しいから笑っていた、悲しいから泣いていた、あの子のように。
「ふ、ぐ……く、うぅ……うぅう~」
ぼろぼろと、堰を切ったように溢れる。
当たり前のようにある気持ちが、ごく自然に溢れ出て、雫となってこぼれ落ちる。
それは早苗の心だった。早苗とあの子の間にあった、一番強い結びつき。
その心が大地に落ちて、染み込んでいって、いつかあの子に届けばいい。
あなたがいなくなって、私はこんなにも悲しいよって、届けばいい。
「あら、この寒い中参拝に来たのですか?」
木枯らしも過ぎて寒さが本格化し、空を飛ぶには手袋とマフラーが欠かせない季節。
血気に逸って石段を文字通り飛び越えてきた参拝客と、早苗は向き合っていた。
「うふふ、私もここでの挨拶の仕方を学びました」
よく話をする天狗に曰く、守矢の風祝は知性が落ちたように見えるという。
職務に意気込む真面目さは変わりないが、ちょっとした事ですぐ笑い、すぐ泣き、すぐに怒るようになった。
その様子は自然体だとか、天真爛漫だという風にも語られた。まるで子供のようだとも、いや年相応の振る舞いだとも。
だが少なくとも、前の彼女の方が良いとは、誰も言わなかった。
人に、世界に、あるべき姿があるのだとしたら、それはどうやって捻じ曲げたとしても、自然と元に戻ってしまうものだろう。
少なくとも、彼女にとっての世界はそういうものだった。当たり前の事が、当たり前のように存在し、当たり前のように失われていく世界。
だから、彼女はこの場所の当たり前を学び、受け入れようと思った。
目の前の事をすべて受け入れて、笑っていようと思った。大切な友達が、そうしていたように。
「この幻想郷では常識に囚われてはいけないのですね!」
まるで子供のように、当たり前の事のように、彼女は今日も笑っている。
それは決して、奇跡などではない。
面白かったです
それにいいタイトルです
しっとりとした雰囲気が良かったです