Coolier - 新生・東方創想話

酔っ払いご本尊

2017/11/28 00:36:39
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 福鼻屋は、里にある、さほど流行ってはいない飲み屋だ。ただ、友人たちが居着くために遅くまで店を開けている。
 夜も更けた頃のこと。福鼻屋の板戸が、ぐわりと開いた。
 でかい。
 飲みに来ていた男たちは振り向いて、驚いた。えらく図体がでかかった。戸を潜って、図体の主は店内へ入ってきた。女だ。
 それも、通常人ではなかった。身体の大きさに加えて、髪が金、目も金色をしている。異人というのは、この幻想郷では珍しいことではない。むしろ、妖怪ではないか、とその場の者は思った。夜分に一人で店を訪れる女というのは、通常では有り得なかった。
 ともあれ、客は客であって、「いらっしゃい」と福鼻の主人は呟くように言った。屋号のもとになった福々しい大きな鼻を持つ男だが、あまり話さない。女は空いている椅子に座るために奥へ進んだ。狭い店のため、男達の背に腰をぶつけながら進んだ。
「般若湯を頂けますか」
 変わった注文に、その場の者は疑問を持ったが、店主はその言い回しを知っていた。
「それと、何か乾き物でも」
 店主はコップに米酒を注いだ。里で作られたもので、質は大してよくない。続けて、川魚の干し身と炒り豆が出てきた。女はそれらを食べ、酒を飲んだ。コップが空になると、店主は続けて酒を注いだが、女は三杯目は断った。金を払い、店を後にした。
 女がいる間、店は無言のままだった。男達は黙ったままコップを傾けて酒を飲んでいた。なんとなく、言葉を交わしてはいけないような雰囲気が漂っていたのだ。女が背を縮めて戸をくぐり、外へ出て行ったあと、座っていた男の一人が「なんだ、ありゃ」と呟いた。


 一週間ほど過ぎた夕方のこと、ぺたぺたと小さく可愛らしい足音が廊下を過ぎてゆくことに、星は気付いた。なんとなく、その足音を知っている気がして、星は廊下を覗いてみた。
 お風呂上がりのようで、ゆかたを着て、髪が濡れていた。背は低い。一際大きい星と並び立つと、覗き込むような小ささになる。
「ご主人」
 ナズーリンと星とは、複雑な間柄だ。仕事上の付き合いというのが最も正しい。だが、付き合っているうちに親しくなることもあるように、ナズーリンと星とは単なる仕事上のパートナー以上の関係になっている。星は、ナズーリンと久々に会えて喜ばしく思った。けれど、ナズーリンが不機嫌そうに眉を寄せるのを見て、少しその気持ちも陰った。
「ご主人、近頃、良くない話を聞いたんだがね。夜ごと、寺から抜け出す者がいるそうなんだ。聞いているかな」
 もっとも、親しくしているとしても、仕事上のことは話が別になる。今はそういう話方をしていた。
「金髪で、やたら背がでかくて、貧相な下男のような格好をして裏口から出て行くそうだが、まあ、ご主人、君だな。困るんだ、そういうことでは」
「ええと、その。確定ですか?」
「確定だ。もちろん確認はしていないが、確認をするのは簡単だし、私がそれをしたくないというのも分かるだろ」
 えへへ、うふふ、と、星は笑って、頭をかき、誤魔化した。申し訳ない風を装ってはいるが、もう行かないとは言わない。
「そういうわけで、ご主人、しばらく逗留して監視するからな」
「泊まるんですか?」
「この格好を見れば分かるだろ。今、お湯を借りてきたところだよ。ご主人、空いたから呼びに来たんだ」
 ああそうですか、と星は曖昧に答えた。ナズーリンはぺたぺたと廊下を通り過ぎていった。星は、ナズーリンが言った通り、お風呂に入る用意をした。お風呂に行くはずだったが、足は風呂場ではなくて、普段は空き室になっている部屋へ向かっていた。ナズーリンが泊まっているであろう一室は、既に灯は消えていて、眠っているらしいと分かった。
 星はしばらく、そこに立っていた。その日はお風呂になど入らなかった。


 風呂に一日入らない程度で、どうこう言われるほど皆清潔にはしていない。星も、昨日風呂に入らなかった程度でどうこう言われない。目覚めた後には、気怠さが勝った。起き上がらず、このまま布団で眠っていたい。
 ただ、昔の人々、ことに貧農の者などは皆汚らしくて、だからこそ、身綺麗にしていることが高貴さであるとか、神秘さの象徴のように扱われた。新品の上着を着ているとか、白くきらめくすべすべの肌、脂など全く感じられないさらさらの髪などが神や仏に近いものである証拠だったのだ。何かに縋りたい人々は皆、きらびやかなものに惹かれる。それを純粋に美しいと思ったり、あるいは神や仏であると本気で信じたり、もしくは自分もそのような立場になれるのだという生臭いものであったりもするけれども。
 それは良いとして、星もまた、大勢が来るような説法の集まりの日には少しばかりやかましく言われるのが分かっているし、自分自身できちんとする。けれども、普通の日にはそうする必要はなく、また、とてもきちんとしようという気分にはなれなかった。
 ナズーリンに拒絶されているという感じがしていた。実際のところ、星が会いに行かなかっただけのことで、会えば普通に話すだろうし、特別ナズーリンが拒絶しているわけではない。けれど、拒絶されたように感じているのは、星の放蕩がナズーリンに見つかってしまったためだろう。負い目があって、ナズーリンが怒っているだろうという観測があって、それで、星は一人で傷付いている。
 元々、飲酒がまずいのではなかった。一輪や村紗なんかが酔っ払って眠りこけているのはよく見る光景で、星もまた飲酒は平気でやっているし、一輪や村紗に比べて気付かれにくいのは星が酒に強くて顔に出ないからだし、聖は気付いていないけれど、ナズーリンはとっくに気付いている。外に漏れていないから、放っておいているだけなのだ。いけないことであれ、気付かれないように自衛していればそれで良い、と思っている。そういうずるさがナズーリンにはある。
 ナズーリンが問題にしているのは、誰かに見つかっているということで、それも、夜に外で遊び歩くということを問題にしているのだった。そういう、下品な噂の種になるようなことがあってはいけないのだ。星としては、それに対しても言い訳はある。けれども、それを素直にナズーリンには言えなかった。
 何にせよ、星は少し憂鬱だった。お風呂にも入らず、できればご飯も食べず、寝て過ごし、堕落してしまいたい。けれども、そうはいかない。普段通りに日々を過ごさないといけないのだ。それもまた、星を憂鬱にさせた。
 星は起き上がり、普段通りの日々を過ごすために寝着を装束に着替えて、本堂に向かった。太陽のまぶしさも、お早う御座います、と喚くように言う皆の元気さも、疎ましく思った。

 星は辛くとも、誰にもそれを気付かせない大らかさがあった。ナズーリンでさえ、むしろナズーリンに気付いてほしくないからこそ、というような物事の隠し方をする。
 だからこそ夜に寺を抜け出すのだということも、誰にも言えない秘密であった。ナズーリンの部屋を覗き、眠っていることを確かめてから寺を抜け出した。誰にも見られないようにひょこひょこ物陰を進み、扉の影から外をきょろきょろ確認し……それら一つ一つの動作が大袈裟なために、むしろその大柄な身体が目立っていると、星本人だけが気付いていない。その様子は墓場の妖怪にばっちり見られている。
 ともあれ、寺を抜け出し、里でも同じように身を隠しながら進み、また、夜遅くまで空いている例の飲み屋へ辿り着いた。
「こんばんは」
「おぅ」
 男達が振り向いた。こんな夜中に来る客は幽霊か妖怪だと決まっている。けれども、毎夜のように通ってくれば、幽霊や妖怪であっても親しげに思えてくる。酔いも手伝って、星と男達は雑談を交わす中になっていた。実際、星は害のある妖怪ではない。
 狭苦しい店の机に、大人しい男と、諧謔味のある男と、やかましい男が座っている。四人がけの机に、星はお邪魔する。
「また来たのかよ、夜中に若い娘がよ」とやかましい男が叱るように言えば、「事情があるわな」と諧謔味のある男が言う。既に酒も入っているから、言葉も早口で、荒っぽく、無意味に親しげになっている。はい、はい、と星は素直に頷いて見せる。店の奥に座っていた、鼻の大きい店主が、何も言わずにコップ酒を星の前に置いていく。何も言わなくてもそういうのは分かっているのだ。
「前から気になってたんだがよ」とやかましい男。「その、般若湯ってのは、毎度思うんだが、何なんだ。酒とどう違うんだ」
「ええとまあ、そのですね」
 と、星は言い淀む。酒そのものなのだが、正面切っては断言しにくいものがある。聞いてはいけないことを聞いてしまった時に特有の空気が流れた。酔っているから、その後になればすっかり消えてしまうが、その瞬間だけは違和感のあるあれだ。
「酒さ」と、一言も話していなかった大人しい男が言う。
「寺の言葉で、酒のことを言うんだよ」
「はぁぁ」と、やかましい男は納得したように言った。「なるほどね」
「寺の言葉じゃそう言うのさ。兎は鳥、酒は般若湯」諧謔味のある男が知っていたかのように言った。
「あいつらはそういうところがあるからな。酒も般若湯だと言えば、酒じゃなくなるんだろう」
「しかし、となると、あんた、寺の者かね。それで、他人に言えないから酒をこっそりと飲みに来るわけか」
「え? ええと、あはは、実際はそうでもないんですけど。お酒は良くないけど、般若湯はいけないことはないですから」
 悪いやつだぜ、とやかましい男が混ぜっ返すように言った。
「私、好きな人がいるんですけど」星は酔いに任せて正直なことを言った。知らない相手であるからこそ、正直に言えるという部分がある。寺に住んでいる人達には絶対に言えない。親しさが深まっていたということもあった。男達は、真面目な話の雰囲気を嗅ぎ取った。
「好きな人のいるところに行こうとするんですけども、寺にいると、よそへ行っちゃいけない。行きたいけど行けないから、嫌になって憂さ晴らしに来るんです。外へ出ちゃってから、やっぱり行けない、と思って。でも、素直に帰るのも嫌で……」
 一同は静かになった。
「なるほどね」と最初に言ったのは、諧謔味のある男。だが、言葉は続けない。
「何を迷うことがあるんだ?行けばいいだろうに」とストレートな物言いをするのは、やかましい男。
「夜中に忍んでいくほど、好きなんだろう。じゃあ行けばいい。物事は、言って話しているうちに、なるようになるもんだ」
「昼間は出られないから、会いにも行けなくて。でも、夜に行くと、何か勘繰られそうで、ちょっと……悩むというか……」
「男ってそういうところがあるよなあ」と、諧謔味のある男が言う。男ではないのだが、ややこしいので星は話をそういうことにしておく。
「女から行くのは嫌なもんだよな。しかし、男の方も、女にそういうことを考えさせるなんて良くないな」
「いえ、向こうはたぶん、そういうことは全然考えていないから……」
「それでも察してやるのが男ってもんだろうに。女が好きだったら、少しくらいは分かるだろうし、据え膳を食わないのは男の何とやら」
 相手は女なんだけどなあ。それにしても、星の気持ちに気付かず鈍いのは男もナズーリンも同じ。星は少しおかしくなった。
「俺は好かないな、誰とも知らない相手の男を悪く言うのは」
 店主が再び立ち上がり、星のコップに酒を注ぎながら言った。「ありがとう」店主は続けて、他の男たちのコップにも注いでいる。普段なら帰っている時間だから追加はしないのだけど、空気を読んだのだ。
「あんたの好きな男だものな、悪く言われたら腹も立つだろうなあ」と、諧謔味のある男。
「まあその……まあ、色々と事情はあるものでして……相手方に不満がないわけではありませんけど」
「だろうさ。抱いてほしくって行っているのに」
 話が露骨な話になって、星は笑ってごまかした。
「それが、別のところにいたんだけど、最近寺の方に泊まるようになって」
「良いことじゃないか」
「いや、むしろ悪い。寺の中でやらかすわけにはいかないものな」
「静かにしてやらかせばいいだろう」
「いや、静かにやらかしても楽しくない」
「それはそれで良いものさ」
 侃々諤々とそういった方向の話になって、星はそれ以上何かしらを言わなかった。笑って話を合わせていた。お酒、もとい、般若湯も進んで、すっかり気分も良くなった。「男が悪い」を連呼して、お開きになり、皆ふらふら歩き、星も少しふらふら歩きになって、寺に帰り、気持ちよく眠りこけた。


 当然、ナズーリンにバレた。バレないはずもない。
「なんで分かったんですか?」と星は一応聞いてみた。
「私には賢い密偵がいくらもいる」と、ナズーリンはこともなげに言う。
「君、今度外に出て行こうものならネズミに噛み付かせても良いんだよ。ペスト菌をうつしてやろうか。君のリンパが腫れ上がって苦しむのを見てから、血清を打ち込む、そうしてやってもいいんだよ」
 星はショックを受けた。ますます嫌われてしまったと思ったのだ。当然と言えば当然なのだけども。これでは、好きというどころか、まともに話すような状況でさえない。星はがっくりきていて、ナズーリンは顔を背けて行ってしまった。
 さすがに、星も自重をした。代わりに、こっそりと、台所に隠してあるお酒をコップに入れては飲み、一杯では足りず、また台所に行ってはコップに注ぎ、ということを、夜毎に繰り返した。どれだけ飲んでも、翌日の顔には出ない。
 しかしながら、一人酒とは寂しいもので、誰かと話したくなる。一輪や村紗とも飲みたいけれど、二人は飲み始めるとやかましくなるし、次の日には聖に怒られているしで、あまり頻繁に付き合えとも言えない。
 一人酒をして、不意に立ち上がり、ナズーリンの部屋に向かってみる。暗く、寝静まったような沈黙と闇がそこにあって、酔いと勢いに任せて部屋の中に入ってみたくなる。そういうわけにはいかないのは分かっているし、分かっているからこそ止められず、より気鬱が高まっていくのだ。元より、一輪や村紗にも言いにくい。ナズーリンのことを吐き出せるのはあの飲み屋だけなのだ。


「そもそもがですね、元々、昔は旅をしていたり、狭苦しいところで身を寄せ合って眠っていたわけですから、一つの寝床で寝ることもあったんです。それが、ここ幻想郷に居着いて、世間体がどう、君はご本尊なん……ううむ、むむん。おっと。ええとですね。寺で一緒にいるとちょっと具合が悪いんですね、それで、別に住むようになったんですけど、昼間は外に出れなくて……」
 なかなか行けなかったこともあり、言葉は溢れるように出た。男達は黙ってコップを傾けて、星の愚痴を肴に酒をすすっている。
「昔は良かったなァ……」
 星の愚痴が一段落すると、やかましい男がまず言った。
「昔のことは良かったなんてのは、大抵幻想なんだ。今が一番いいんだよ。昔は良かったなんて言ってられるのが一番いいんだ」
「そんなもんですかねえ」
「そうだ。それで間違いない」
 唇にコップを当てながら、説教をされたいわけではないのだけどもな、と星は思う。でも、いい。この感じは心地よい。頭も酔いでふんわりとしてくる。
「どうかな」言葉を漏らすのは大人しい男。
「お前はどう思うんだよ」
「昔は昔、今は今。案外、うまくいってないとそれっきりってことは、あるからな」
「冷たいことを言う奴だな」
 大人しい男はそれきり言葉を切り、酒を口の中へ含ませた。
「まあ、長いこと付き合ってるんだろ。そういうのは切れにくいもんだよ。安心しなって」
「そうでしょうねえ」
 星は適当に答えた。元より、仕事上の関係というものがある。それに、ナズーリンとの関係が切れることなんて想像もできない。
「女だね」と、黙っていた諧謔味のある男が言った。「女だよ。そういうのは、新しい女がいる。うまくいってないんなら、男だってうまくいってないと思ってる。それで寂しいもんだからさ」
 女かな、と、星はぼんやり考えた。それを深刻に考えることはできない。女、あるいは男だけど、ナズーリンが連れ込むことは可能だろう。星は、普段のナズーリンを知らないでいる。
 そんなことはないだろう、けれども、本当にそうだったなら……。
 ぼうっとして、空になったコップを少し傾けた。少し、深刻になっても良さそうなものなのに、少しもそんな気分になれない。
「この娘っ子、酔うといやに色気が増すな」
「やめとけ」
「そもそも素性も分からん女だろうが」
「何か言いました?」
 男達がひそひそ声を交わすのを、星は聞きとがめた。男達は顔を見合わせた。
「内緒話はずるいですよ。どうせ別れる、とでも言っていたんでしょう」
 いやそんなことは言ってないぜ、と男達は口々に言った。「それより」とまた別の話が始まり、酒は進んでいくのだった。黙って店の内側に座っていた店主は、今日もまた遅くなって眠れないな、と、半ば迷惑に思いながらぼんやりと考えていた。

 一方で、店の外にはナズーリンが立っていた。人里で、こんな遅くまで明かりがついている店は珍しいし、何より星の声が漏れ聞こえている。ナズーリンはここに違いない、と確信した。備考につけていたネズミたちのことを疑っているわけでもないが、これで遊び歩いているのは目の前にある事実になったのだ。さて、どうしてやろうか、とそろそろ怒っていたナズーリンは考えていたのだった。


 ナズーリンは例の飲み屋の前で張り込むことにした。星が夜歩きに出かける夜を狙って、飲み屋の前にかがみ込んだ。星は予想通りにひょいひょい現れて、来慣れた様子でのれんをくぐっていった。くぐって行くまではまだ入っていないから、ご主人を見逃してやろうと眺めていたナズーリンも、平気で入っていくのを見て、憤ってしまった。すっかり気持ちよくなったところを捕まえて説教してやろう。ナズーリンはそう決め込んだのだ。

 ナズーリンの待ち伏せは長時間になった。待たせている側(この場合は待たせている側は待たせているとは思っていないが)は行動しているわけだし、待っている側というのはただじっとしているだけで、時間が長く感じるものだ。体感時間的にもひどく長く感じた。
 がらりと扉が開き、ナズーリンは横目でそれを見た。男が現れて、冷たい空気に身をさらしている。静かな男が酔いを覚ましに出て来ただけのことだ。ナズーリンは知らぬ顔で張り込みを続けた。静かな男の方でもそれに気付いた。静かな男も素知らぬ顔でやり過ごし、やがて店の中に戻った。
「おい」
「なんだよ、今いいところだから。嬢ちゃん、あそこの店の娘はだな、同じ女に惚れて、駆け落ち同然に家を出てだな……」
 やかましい男が星に噂話を聞かせている。静かな男は、黙って聞いている諧謔味のある男の肩に触れて、耳打ちした。
「娘が増えてやがる」
「娘が? ここはいつから甘味屋になったんだよ。どこに来てやがるんだ?」
「店のすぐ前」
 諧謔味のある男が扉に歩み寄り、内側でかがみ込んだ。幼馴染みの店のことだからよく知っている。扉には小さな覗き穴が空けてあって、気に入らない客の場合は居留守ができるようになっている。諧謔味のある男は、その穴から外を覗き込んだ。小さな娘だ。しかし、夜だからか、妖怪の姿を隠しもしていない。顔立ちや体つきは人間そのものだが……。
「ははぁん」
 諧謔味のある男は、概ね全てのことを察した。事情ありげな巨大な娘、恋煩いの相手とは疎遠の娘、そして外で待っている小さな妖怪娘。
「あれ、娘の連れ合いだな」
「どうして分かるんだ」
「幻想郷は百合の国だぞ」
 諧謔味のある男は身体を持ち上げると、「おい!」とやかましい男を呼んだ。
「お前、今日はもう帰れ」静かな男を示し、「こいつも連れて帰ってやれ。こいつ、もう酔ってやがるぜ」
「ああ? いいところだって言ってるのに。まあ、しょうがねえ。嬢ちゃんよ、あばよ」
 やかましい男は大人しく立ち上がり、立ち上がり際に少しふらついた。静かな男があべこべに肩を貸して歩いた。
「おめえは帰らないのか」
「ああ、少し鼻の野郎に用事がよ」
「すぐ帰れよ」
 諧謔の男は手振りで返事をして、やかましい男が扉を開けて出て行った。ナズーリンが顔を上げ、また星じゃない、と待たされる者特有の苛立ちを感じたのは言うまでもない。
「さあて、俺も帰るかな」
「なんです? 何を隠し事をしているんですか。私も帰りますよ」
「嬢ちゃんはもうちょっとここにいな」
 諧謔味のある男は店を出て、ナズーリンに歩み寄った。ナズーリンは臆する風も見せない。大人の男とは言え、人間だ。むしろ、苛立ちも重なって、上目気味に睨んだ。
「なんだ」
「あんた、あの大きい娘の連れ合いだろ。中で待ってるぜ」
 男はナズーリンの腕を引っ掴むと、福鼻屋にとって返し、ナズーリンを扉の内側へ放り投げた。扉を閉めると、後も見ずに去っていった。

 唐突に店に飛び込んできたナズーリンに、星は目を見開いて驚き、どうしたものかと何もない左右を見回した。ナズーリンの側でも状況はうまく飲み込めていなかった。
 福鼻の主人がのれんを下ろし、外の灯を消した。「おい、あんたら」主人が言い、二人は振り返った。
「酒は飲んでいいし、店は開け放しでいいから、灯だけ消して帰ってくんな」
 それだけを言い残して、主人は奥へ引っ込んでいった。明日もあるし、正直に眠りたいというのが正直なところであっただろう。星とナズーリンは残されて、二人になった。
 星は、困り顔で、「ええと……ナズーリンも飲みますか?」と言った。どのようにこの状況を解釈すべきか迷っていた。
「そうじゃないだろ」
 ナズーリンは怒った。
「君、良くないぞ」
「は、はんにゃとう」
「何?」
「は、は、はんにゃ」
「般若湯だから良いってことか? そういう問題じゃないのは自分でよくわかるだろ」
 星は抑えて抑えて、という仕草をして見せた。寝入り端を起こされては、店の主人も気の悪いことだろう。ナズーリンは声を抑えた。
「君は責任感が足らないのじゃないか。君、般若湯だから良いというのであれば、明日聖の前で飲んでみせなよ。般若湯で宴でもしようじゃないか。君の言い分のようにさあ。それで、聖に怒られないものか、よく見てみようじゃないか」
 えへへえ、へへ、と星は困ったように笑った。唐突に、ナズーリンは、星は哀しいと笑うということを思い出した。何を勝手に悲しんでいるのだ、勝手なことをして、勝手なご主人だ。悪いのはご主人自身じゃないか。ナズーリンは、そうは思ってみるものの、さっきまでの勢い込んだ気分は削がれてしまったのだ。
「いいじゃありませんか、たまには……。ナズーリンと話すのも、思えば久々のことだし……」
 星は落ち着いて見えた。それはどういう意味合いなのだろう。本気でいけないことをしていると思っていないのだろうか。それとも、とナズーリンは考える。星はコップにお酒を注ぐと、ナズーリンの前に差し出した。

 ナズーリンも少し、杯を重ねた。星はサービスをしている。酒を注いだり、乾き物を台所から勝手に持ち出したり。後で払っておくから良いと考えている。
 ナズーリンにとっては、酒は特別禁じられているわけではない。聖の教えに連なっているわけでもないし、毘沙門天の部下だというだけで、仏教に帰依しているわけでもない。だから酒を殊更ありがたがるというわけでもないのだけど、星と一緒にいて、酒を注がれていると、注がれるがままに飲み、それなりに酔った。酔いが回ると、星ほど強くはない。
 二人とも黙っていた。星はそれで満足しているようだったし、ナズーリンが怒っていると見ていた。
 一方でナズーリンは、さっき見た、困ったような笑い顔ばかり思い出されてならなかった。そうやってごまかすように笑って、という気持ちもあるし、一方で哀しいのなら何かしら言えばいいのに、というような気持ちだ。怒られて哀しいなら、そもそも飲まなければいいのに。飲まなくてはならない訳でもあるのだろうか。
「ご主人、君、悩みでもあるのか」ナズーリンはテーブルを見下ろしたまま、こぼすように言った。「何かあるのか。何かあるなら、言っておくれ。それで夜遊びを許そうというわけにはいかないけれど、どうにか君の辛さを取り去ってあげられるならばそうしたいじゃないか」
 星は、機嫌良く飲んでいたのに、俯いてしまった。またそんな顔をする、とナズーリンは思う。星の指の間で、コップに入った酒が揺れた。
 ナズーリンは言葉を重ねた。
「ご主人が辛抱強い人なのは知っているよ。聖がいなくなって、ご主人は一人でなんでもやってきたが、聖が復活して、それなりに平和になって、緊張の糸が切れたんじゃないか。ご主人は、内側に何かしら抱えていても、顔に出さずにへらへら笑っていられる人だ。それは時々むかつくこともあるけど、美点だよ。良いことなんだが、時には吐き出した方がいいんじゃあないのかな」
「そう見えますか」と、星は呟いた。
「どうしたって、一人じゃどうにもならないことはありますよ」
「それはもちろんそうだ。でも、そういうときは言ってほしいな。黙っている方が困るということもある」
 星は再び、黙り込んだ。コップの中の酒が揺れる。コップを持ち上げて傾け、ぐっと飲み干した。もう一杯を注ぎ、コップをじっと眺める。そのまま、もう一杯を飲み干した。
「私には欲望があるんです」
「欲望だって?」
「ええ」
「でも、それは誰にでもあるものだよ」
「いやらしい欲望なんですよ」
「ええ……?」
「同じ布団に眠って、ナズーリンを抱きかかえたまま眠りたい欲です」
「『同じ布団に眠って、ナズーリンを抱きかかえたまま眠りたい欲』?」
「はい」
 ナズーリンは、どう返答するべきか、困った。なんだその欲望はと思わないでもなかったが、星のテンションはシリアスだった。それに、あまり黙り込んでいると、否定にも取られかねない。
「まあ、その、なんだ。そう、いやらしい欲望でもないんじゃないかな。いいと思うよ。それより、君は少し、休んだ方が良いのじゃないか。聖に言ってあげてもいい。ご主人は少し、他人の前では頑張ってしまうところがあるな。少しは休みを欲しがってもいい。欲を出してもいいんだよ」
「本当にそう思っていますか?」
「本当だよ。ご主人が辛いなら、少しくらい休んでしまってもいいんだ」
「本当の本当、真実そう思っていますか」
「もちろんだ。ご主人もしぶといな」
「違います、違います」星は首を振った。「あなたは私の欲望を甘く見ている。そのためなら、他の何もかもを振り捨ててどこか遠くへ行ってしまってもいいくらいなんです。
 ナズーリン、あなたは私のことを誤解していますよ。私は欲が強くないのではない。むしろ、強すぎるんです。全部欲しくなってしまうような。だから、自分を律しているんです。
 休養してもいいと、あなたが言うなら、あなたの言う通りにしてもいい。どこかへ行きましょうか。数ヶ月、それとも数年?」
 ナズーリンが言葉を挟む間もなく、星はまくしたてた。
「いくら寺からいなくなってもいい。聖がいるから、どのようにもなります。寺にいる皆の信仰は、私の姿を借りた毘沙門天、あるいは仏教というよりも、聖そのものへの信仰です。私がいないとなれば、新しい毘沙門天の姿を作り上げますよ。山に籠もり、仏像でも彫り上げてしまうでしょう。そうして、新しい信仰の形を作り上げる。だから、皆ついて行くんです。そう、私の存在なんて、別段必要もないんです。聖がいれば、全て、どうにでもなる……」
 星は、長いことその考えを弄んでいたように、言った。考えもしていなかったことが、言葉になって吐き出されることもある。
「ちょっと待った、星。それはあまりに」
「どこへ行きましょう? 山へ行って、温泉宿でも探しましょうか。幻想郷の端々まで巡って幻の海を探してもいいし、地底へ入って遊楼に」
「ちょっと待て」と、重ねて言いかけたナズーリンを、星は抱え上げた。ナズーリンはああしまったなやってしまったというような表情をしていた。ナズーリンがどのように抗っても、星は聞く耳を持たず、また、力を以ても抗わせなかった。
 そのまま、ナズーリンを抱え上げた星は、どこへとも知れず消え去ってしまった。


 それから数年、星とナズーリンの行方は知れなくなるのだけど、誰にも黙って出て来た星だったけど、一輪にはその後、こっそりと手紙を書いていた。『しばらく空けます』とだけ書いた手紙だけど、一輪はナズーリンがいないことも含めて何となく察し、聖含め他の皆には「星は自分を見直すため、修行の旅に出たそうです」と誤魔化しておいた。もちろん聖は正直に信じた。しかし、本尊を不在にもしておけないため、新たな本尊を見出しに山へ籠もって修行をした。やがて聖は、見出した毘沙門天の姿を近くの木に彫り込んで、木像として作り出し、寺へ持って帰ってきたのだった。それは毘沙門天の姿を見出したはずが不思議に寅丸星の姿をしていた。聖の内から見出されたものだからなのか、それとも星自身の中に毘沙門天の資質があるのか。それで、寺では、星の姿の木像を拝んでお祈りをするようになった。変化と言えばそれっきりだった。

 放蕩の旅に出かけた二人だけども、星に対してナズーリンがいかに言おうとも、星は安穏と聞き流し、星はこうと決めたら頑固な人だから、ついにはナズーリンも言い含めるのも諦めてしまった。毘沙門天様から譴責されたらどうしよう、けれどどうしようもない、となった。正直に星にそれを愚痴っても、「大丈夫ですよ、大丈夫じゃなければ私も一緒に怒られます」と言ったきりで、それでナズーリンもなんとなく(本当は安心してはいけないのだけど)安心してしまうのだった。星は望み通り、毎晩ナズーリンを抱きかかえて、くしゃくしゃにして眠った。他の楽しみは楽しみなのだけど、こうできてさえいれば、星は満足なのだ。
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1.70奇声を発する程度の能力削除
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4.80名前が無い程度の能力削除
ぼくもナズーリンを抱えてくしゃくしゃにしたい
5.90名前が無い程度の能力削除
ずっとくしゃくしゃされろ
6.90名前が無い程度の能力削除
シリアス調のコメディかなとおもったらストレートに星ナズだった(驚愕)

>幻想郷は百合の国
諧謔味のある男さんは何かを悟っているんですかね…
7.100名前が無い程度の能力削除
>>6コメのかたと同じになってしまいますが、
>幻想郷は百合の国
この一節はすごく印象に残りました
10.100名前が無い程度の能力削除
すれ違いの状況から終盤の展開で心を掻っ攫われた。大喧嘩か教訓めいた話かと思っていただけに驚かさせた。
11.50名前が無い程度の能力削除
完全に私の嗜好で、個人的好き嫌いなんですが
「幻想郷は百合の国」
と客の男が言った瞬間に、スッとアナタの幻想郷の世界から現実に戻されてしまいました
いや、大好きなんですよ?百合。大好物です。
だけどこういうワードがシリアスな内容の中に急に出てくると、なんとも言えない違和感が…
話自体はいい星ナズごちそうさまでした。
12.100名前が無い程度の能力削除
ブラボー!
14.90リペヤー削除
居酒屋の雰囲気と男たちがなかなか味を出していました。
悩める星の姿も新鮮で良かったです。
まさかの逃避行オチにはちょっとびっくりしましたが、良いお話でした。GJ!
16.90まいん削除
毎晩、星にくしゃくしゃにされ続けてろナズーリン。