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「……これで、良かったのですか?」
問いかける火車の心は、申し訳なさで、縮こまっていた。どうしようもないのは、私の方なのに。
「ええ。あなたのその申し訳なさも、目覚めた彼女がすぐにかき消してくれるでしょう」
最後に、思った通りになった。私は、大人になったのか。いや、大人になれなくなったのか。
どちらにせよ、私と彼女はもう別人で、勝ちも負けもなくなった。それでも、私は、たぶん私だけは、彼女を意識し続ける。
やっぱり私は、色々と、エゴイスティックだな。
……ありがとう。そして、本当に、初めまして。
自覚の果て
一、
「あはは、まあそれなりにやりがいを感じていますよ」
「それなりに、ね」
「う……」
ああ、沈黙がうるさい。こんなことが言えるのは他人の心が読める私くらいだろう。
気まずいと言うか何と言うか、皆の心がもっとエゴに支配されていれば楽なのに。
「……ところでさとり様は、自分の心を読んだことってありますか?」
それでまた、この質問か。会話が苦手な私は、質問攻めにされることが多い。
それでそのうち、相手は覚妖怪に何を訊いても仕方ないと思うようになって、最後にこの質問をするのだ。
「無意味なことはしないわ。覚妖怪が自分の心を読んでもね、読めるのは”今、心を読んでる”って事実だけなの」
「そうでしたか……ああ、もう行きますね」
ここで働く者に、与えられたこと以上の用などない。火車のことだし、死体探しにでも行くのだろう。当てもなく。
はあ。誰もが心を読めれば……いやな世界だ。
会話と言う文化がなくなれば……いよいよ、下劣な世界だ。
「私はどうしたいのかしら」
そう。こうやって誰もが自分の心を知りたがって……だんまりで絶望する―――
(へえ。絶望ねえー)
「えっ!?」
今の声は私……じゃない。けれど、私の周りには誰もいない。
(やったこともないくせに、無意味だなんて言ってたんだ)
「う…お……」
ああ、そうか。疲れているのか。自分の中に、何か変なものを生んでしまうほどに。
(変なものとは失礼な。私もあなたと同じように生まれたのに)
会話をしている。ああ、夢を夢と自覚できたことは無いけれど、こんな気持ちなんだろうか。
夢のように永遠を望むものでは無いが、強制終了はもったいないように思える。話そう。
……同じ?
(そう。あなたが生まれたときからずっと一緒だよ。あなたは私。私はあなた。あなたが生まれてなければ、私も生まれてなかった)
さあ、おかしくなってきた。誰が。
(だから、そうだなあ……おねえちゃんって、呼んでいいよね。たぶんそんな感じだし!)
やっぱり、おかしいのは私じゃない。この、喋る何かだ。
これはいつ終わるのだろう。眠れば、疲れが取れていなくなるだろうか。
(そんなんでいなくなるわけないじゃん。おねえちゃんはもう、気づいてしまったの。どうしようもない、何かに)
どうしようもないことは無いはずだ。どこかで、私が私をどうしようもないと思いたくないのだから。だから、今は。
邪魔をしないで、寝かして頂戴。
二、
惰性の朝だ。
昨日と同じように起きて、過ごして、それで忘れようとしたことがあった。
……ああ、
(おはよう、おねえちゃん!)
思い出してしまったことが、間違いだった。
(もう、思い出しても出さなくても私はずっとここにいるのに)
なんだこれ。本当に、どうしようもないような気がする。日付は、当たり前のように変わっている。
あのさ、とりあえず、日常の邪魔はして欲しくないの。
(うん、思考の邪魔をすることはないよ。私にも私なりの思考はあるし。でも、おねえちゃんが話しかけてくれたら、いつでも答えるよ!)
そう。なら、いいや。絶対に頼らないし、それでおしまい。
今日は、街道の整備の進行具合の確認と、危険作業の許可、受諾を行う予定だ。
インフラ整備は経済発展の基本だ。それで、この地底――旧地獄が、誰かに評価されるわけではないが、地底の発展は、純粋に私の面白さに直結するのだった。
街道に着くと、その作業方式に案の定、口を出すことなった。
「いいですか。コンクリートを鴉に運ばせるのは酷です。適材適所、ここは手のある者を中心にコンクリートを運び、羽のあるものは上から左右のバランスを指摘するのです」
私は、奇麗なコンクリートが、段々とむき出しのごつごつ道を覆っていくのを見るのが好きだ。
しかし、それに際して、人を使役するのはどうもいい気分がしない。
人を使役するのが嫌いなのではない。ただ、私という存在が嫌われていくのが、必然なような気がして、嫌なのだ。
立場を弁え、それに従順な者に、ダメ出しをするのは、どんな者か。
従順な者の心を汚し、そうでない者の心は勝手に汚れていく。その様を、私はそのまま見るのだ。
皆で発展を喜ぶことが出来る最後は、正直程遠い。道を一本造るにも、とにかく時間がかかる。元来、姥捨て山である地底には、協調もへったくれもないからだ。
けれど、私が管轄者となってしまったからには、姥捨て山は、姥捨て山のままであることは出来なくなったのだ。単純な、私のエゴからきていることだ。
エゴが他人のことを疎めば、そこには、疎まれる道か、自己犠牲の道しか残されていない。
極端な話かもしれないが、こういうことを考える余裕があるだけ、考えたいだけ、白黒つけなければ気が済まないのが私なのだ。
はあ。
(私は、他人なんてどうにも面白くないし、それに何かを求める自分も空を切るだけで馬鹿だと思うな)
ああ、第三の道があった。救われて……ない。違う。
私だって、他人はどうでもいいけれど、最後に、正義は私だって思わなければ気が済まないの。
別に他人が自分のようであってほしいと思うわけじゃない。自分の正義と対等だと思える他人の正義を見つけたいの。
(そんな物はないよ。結局、自分が一番きれいで、素敵に決まってるじゃない。そうじゃなきゃ、正義なんてたいそうな名前は使わないでしょ?)
そうなら、悲しい。他人に正義を諦めることが?それとも、私の中で、全てが完結してしまうことが?
とにかく、それでは嫌だ。私が、いよいよどうしようもないエゴイストに感じられて。
(嫌われることは嫌なの?理不尽だと思うの?)
そうだ。自分の正義を貫いて、他人に嫌われては、自分の正義が正義じゃない気がし始めて、嫌なのだ。
かと言って、自分の正義を擲つのは、もっと嫌だ。
(それなら、正義を二つ持つのもありだと思うな。嫌われないことが正義ってのと、自分のやりたいことをやるってのが正義ってやつの、二つ。私が、片方持てばいいじゃない)
……あなたは、私じゃないでしょう。少なくとも、私は、あなたを私だと思えない。
(そう。それなら、好きなだけ他人の正義を夢想するといいよ)
…………
気が付いたら、話し込んでしまっていた。私じゃない何かと。
話している間、足は無意識だったが、家まで到着していた。やっぱり、私は、私だけだ。
三、
私じゃない何かの存在に気づいてもう一週間は立つが、相変わらず、その存在は消えず、忘れられずにいる。
むしろ、会話をしない日は無かった。なんとなく、理由や意味があるような、ないような会話を絶やさなかった。
今日は酷く、醜い心を読んだ。幽体離脱して、他人を打ちのめすような妄想。破綻した論理を空想の暴力で埋めるような、どうしようもなさ。
案外、そういうことをしている者は多いにもかかわらず、それが私の心に留まったのは、その者の見た目が、とても心の醜さに釣り合わなかったからだ。
金色の髪に、くすみは一遍も見受けられず、緑色の瞳は知の深淵のよう。そんな妖怪も、中身がああだから、ここにいると考えればなんてことはない。
けれど、それでも、残念に思う気持ちを忘れないのは、まだ私が、心を読むことを知らない、できない、無垢な心を持っているからだ。
……そうだろうか。
(無垢な心ねえ。おねえちゃんは、心が読めるから、他人に期待を裏切られると思っているの?)
私が、心が読めない妖怪だったらと考えると、絶対嫌だ、としか思えない。
心が読めるから私には余裕があって、他人の心、というか他人自体をとやかく言えるのだ。
心が読めなければ、全ては妄想になってしまうだろう。偏執病だ。
(おねえちゃんは、自分の妄想、いや、思慮の全てが実は他人に漏れているんじゃないかとか、考えたことは無い?)
ないことはない。けれど、そうだとしても、それはどうでもいいことだ。私の複雑怪奇な思考を、他人がまとめ上げられるものか。
自分でも、まとめ上げられないごちゃごちゃを、他人が一言で表せるんだったら、私は存在価値のない浅はかな存在だろう。私に尊厳が存在することが、ああ、もういいだろう。
とにかく、心を読めば他人を嫌い、他人を嫌う者には、他人から嫌われる道か、自己犠牲の道しかないのだと、つくづく思う。
(じゃあ、やっぱり心を読むことは、悪いことだね。私はそう思うよ。悪徳だ)
悪徳だなんて言われても、仕方がない。他人の心に勝手に入り込んで、落胆して、それで私の道は二つしかないだなんて嘆かれちゃあ、誰も構いたくないだろう。
けれど、悪徳には、悪徳なりの徳がある。その徳を正義だと盲信している。私は、覚妖怪なのだから。だから私は、このままで、他人の心に絶望しない思想が欲しい。
(他人に期待しないことだよ。心が読めなくても一緒。他人を、同じ生き物として見なくていいのが、数が少ない覚妖怪の、利点じゃない)
数が少ないとは、ああ、なるほど。……覚妖怪の自分が、恨めしい?
(そんなことない。そんなことないから、覚妖怪でも、そうじゃなくても、私はきっと私のようだったって考えて、それでおしまいにするの)
うっかり、か、楽で素敵だなと思った。
四、
何かの存在に気づいて、ひと月が立った。もう、それとの会話は、日常になっていた。
私が今まで一人でしていた自分の正当化の空想、その必死なことは、二人でやってみると、苦しみからある意味知的で、ある意味病的な娯楽に変わった。
今日はおおよそひと月に一度の、閻魔に会う日だ。私は彼女に旧地獄の管理を任されたがために、様々な自分のエゴに気づくことが出来た。
……なんて彼女に言ってしまったら、この立場を失脚させられてしまうだろうか。
全く分からない。というのも、私は、彼女の心を読むことが出来ないのだ。
恐ろしいとか、恐れ多いとか、そう言う理由じゃなく、単純に能力が効かないのだ。向こうの方が徳が高いからだと、なんとなく思っている。
(……へえー、やっぱり、嫌なんだ)
当たり前だ。心を読めなければ、心をのぞいている以上に、闇をのぞいている気分だ。
正直、どうせのぞいても、ほかの者と同様、大したことはないだろうし、徳が高ければ、ああ、こういう者もいるんだなあと、程度の低い感想に留まることまで予想できる。
それでも、何か、恐ろしいところがあるのだ。
(私はどうとも思わないし、どうでもいいから、私が会おうか?)
どういうことだろう?私は、あなたの言うままに発言すれば良いということ?
(うん。ただ、無意識になってね)
無意識になれ、だなんて、意識的なことを言われてもなあ。
私は脳みそを回す。なぜか、いつもは自覚しない事を自覚して、それに囚われてしまった。あれ、私は、無意識とは―――
…………
(……おねえちゃん?もう、終わったよ?)
む?ああ、そうだった。無意識の状態に意識的になることなんて無理だった。真の無意識は、気を失って……
目が覚めること。時が、だいぶ過ぎている。
(地熱の話とか、何が面白いのかなあーおねえちゃんは)
私は、閻魔に会って来た。それで、地熱の話やら新しい住人の話やらをした。確かな記憶がある。だから、答えられる。
地熱は、ここにしかない特権だから、どうしても活かしたいの。
(ふーん……やっぱり、なんともないんだね。見てくれも、お腹も)
お腹……そう言えば、いつもの胃痛がない。心を読めない会話がストレスじゃないはずがない。
だから私は会話をしていない……訳もない。
これはつまり……
(考えこんじゃって結局、お腹が痛くなるようじゃ、やっぱり何もかもなんともないんだね)
ああ、不可解だと思えば思うほど、キリキリとした痛みが鳩尾に走る。
少し、考えるのはやめよう。
悪いことじゃあ、ないんだし。
五、
何かの存在に気づいたのがいつだったか、私は忘れないようにしてきた。
忘れてしまったら、いよいよ、最初から、私は二人の存在で、私が理由もなく体を負担しているのだと思ってしまうからだ。
実際、体を何かに任せてしまえば、その時間は、心底楽なのだ。何かは、決して他人の心を読まない。そして、それを苦に感じない。
それが、いいみたいだ。私がそれをやるのは、やっぱり私が良くないから、やらないけれど。
もう、ふた月立っているが、私の周りは何も変わらない。
誰も気づかないし、私も言わない。それは別に惰性からじゃない。はずだ。
今日も当たり前のように会話をする。
(おねえちゃんはさ、どこか放浪っていうか、当てもない旅に出たいと思わない?)
私は、この旧地獄が好きだ。アウトローかつアットホームと言う、変で結局一番落ち着く場所だから。
ここを離れて何かしようとは思わない。
(おねえちゃんはさ、自分の探求に疲れてるんだよ。もっとさ、生きるか死ぬかで疲れなきゃ)
生きるか、死ぬか、ねえ。つまるところ、退屈なのだろう。
(退屈だけど?それが、私であって、おねえちゃんなんだけどね)
このことは、もう何度も聞かされた。けれど、そう思うのはもはや無理だ。私と何かは、絶対に別人だ。
(そう思うなら、おねえちゃんが私に体を任せて旅に出れば、皆はいよいよおねえちゃんをおかしく思うってことだよね?)
そうだろうな。それで、私の陰口の輪唱が始まるかもしれないな。
(それは、問題かなあ?)
問題……というより、結局、なんて言うか、
(問題じゃないよね。さあ、旅に出よう!)
ああ、問題じゃあないんだけどさ、これがね……
脳を、回す――――
…………
(いやあ、楽しかったね!地上には変なものがいっぱいだねー地獄より地獄なんじゃない?)
確かに、私がまだ地上にいた頃比べて、景色も、人も様変わりしていた。見たこともないモニュメントやら屋敷やらが、興味をそそった……という記憶。
けれど、人々の心は、何も変わってないんだろうな。……こっちは、想像。
そして今回は、楽だ、なんて感じない。
(何を見たかは全部わかるよね。それで……何かが抜けているのもわかるよね)
こういうことか。楽だという別な感情に埋もれていたその下は、はたして、空白だったのだ。
私には、その旅の”楽しさ”そのものが、いくら感じようと思っても、全く感じられないのだ。
(旅の一番いいところは知らない景色を知れるところじゃなくて、それを見たときの気持ちを知れるところ。どう?おねえちゃんも、旅に出たくなった?)
当たり前だ。私のまま、旅に出たい。けれど、今は溜まった三日分の仕事をこなさなければならない。それをやるのはもちろん……
(おねえちゃん。それならまずはがんばってね!)
ああ、すごく、やるせない。何よりも、旅に出たのが他人から見れば私自身であるという事実が。
六、
溜まった仕事は、一週間で片付いたから良かった。しかし、それで疲れた私に、旅に出る余裕はなかった。
私は何かに、恨めしい感情を抱き始めた。私じゃない何かと言えど、結局、それは私の中の話で、他人や、何かからすれば、何かも私自身なのだ。
混乱してはならない。するべきは、論理的な糾弾だ。気に食わないことを、伝えればいい。
(ようやく気付いた?旅や閻魔との会話を楽しんでるのは、私だけど、同時におねえちゃんであって……)
つまるところ、私にも出来たこと。それが、とても気に食わない。私が謳歌できた人生の、大切なところだけを、何故お前に盗られているのだろう?
(盗るだなんて。じゃあおねえちゃんは、私なしで、旅に出ることを思いついたと思う?他人の心をどうでもいいと思えたと思う?)
それは……出来ないかもしれない。出来ないだろう。けれど、もっと、別なことで……
(別なことより、私がやってきたことが一番面白いんだよ。それに気づいたら、おねえちゃんは、私がやってきたことをすればいいの)
ああ、確かに旅は最も面白いことの一つかもしれないな。それはいい。それよりも、溜まった仕事は私が片づけて、楽しいことはお前がやるというのが気に食わないのだ。
(別に私が仕事をやってもいいよ?私はもっと楽に、適当に、好きなようにやるけどね。でも、それじゃあいよいよおねえちゃんはどこにもいないじゃん)
それは、そうだ。私はいよいよ乗っ取られてしまう。それは最高に気に食わない。
(なら、おねえちゃんはおねえちゃんをして、私は私をやればいいじゃん。それで、全ては解決!)
それで終わらせられるか!私は、その、単純に、
(恥ずかしくないよ。人生を楽しみたい。それだけでしょ?)
……ああ。人生を楽しみたい。あなたのように。
(そうなら、今日は一日中寝て、明日は旅に出て、それで帰ってきたら適当に仕事をこなそう!)
大問題じゃないか、とは一概に言えなかった。現に三日の旅では、実のところ、私に対して誰もなんとも思わなかったのだから。
さあ、寝よう。
七、
目を覚ました。しっかりと、旅に出る私だ。
何かが感じた楽しさを、私が今度は感じてやる。それで、何かに楽しそうに話してやるんだ。
私の気持ちが少しは分かろう。やるせなさや虚しさに打ちひしがれるだろう……そうであれ。
地底を出た私はまず山に向かった。
空気がおいしい。水も澄んでいる。地底とは大きく違う景色に、私は――――
高揚から、一切の疲れを感じずに山の頂上に着いた。ああ、高いところほど、素晴らしいところはないな。
麓で買った弁当を開ける。こういうのは、独りのほうが、支配的で、いい気分だ。
下山しながら、今度は植物や虫をゆっくり見て歩いた。地底ではまず育たない、大きな百合に驚いた。
途中、私と同じく山を登ったり、へんてこな物を見て楽しむ人とすれ違った。私はあえて、それらの心を読まなかった。
なんでも、何か曰く、山を好む人に悪い人はいないらしい。別に悪を見抜くための読心ではないが、一種の読み甲斐のようなものを否定されて、読む気は失せた。
それ以上に、何かと同じように、心を読まないでいることに、意味を見出したかったのも理由だ。
山を下りた私は、里で食事を満喫したり、本屋に寄ってみたりした。
どうして海の魚が出回るのだろう。物好きの妖怪も増えたのだな。本も、妖怪が人間の書物を読み、人間が妖怪の書物を読んでいるじゃないか。
本当に変わったな。けれど、中身は……いや、知らなくていい。たぶん、分かるから。それでいい。
計画していた三日はあっという間に過ぎた。別に三日にこだわる必要はなかったけれど、なんとなく、何かと一緒がいいと思った。
家に着いて、着替えを済ませた。さあ、足を揉みながら、急な疲れを味わわせてやろう。何かよ。
(おかえり、おねえちゃん。旅はどうだった?)
とっても楽しかったよ。知らないものをいっぱい見れた。
(それは私も知ってるよ。そうじゃなくて、楽しかったの?)
どういう意味だろう?私は、知らない景色を見て、それを楽しいと感じた。楽しいと感じて、それ以上でも、以下でもない。
(私と同じように、楽しかったって思う?私の楽しさが、今度はおねえちゃんの楽しさだった?)
……知らない。分からない。
けれど、何故か、自信を持って、あなたより楽しかったとは言えない。何故か。
(なら、私の方が楽しかったね。私だけの楽しさを、私は誰にもあげないもの。おねえちゃんには旅のアイデアをあげたけど、それ以上の物はあげてない)
人からもらったものを、人が使っていた以上に面白く使うのは難しいことだ。それも、あなたが相手じゃ。
……分かっていたよ、そんなこと。けれど、私は、私の楽しさを感じたんだ。
(じゃあ、それだけでいいのかな。私が感じたことも、傍から見ればおねえちゃんが感じたこと。私の楽しさは、無視でいいのかな?)
無視も何も、そうするしかないじゃないか。私は、私の楽しさしか知れないのだから。
(おねえちゃんは、結局、楽しめないんだね)
ああ、お前が居なければ、楽しめたのに。いや、旅をじゃなくてさ、はあ。
……仕事が溜まっている。片づけなくちゃ。
八、
どうにも仕事に身が入らない。終われば、何かに楽しみを吸われ、私が楽しもうとすれば、何かとは違う楽しさになってしまう。そんな気がしてどうしようもない。私の楽しさに、間違いはどこにもないのだ。けれど、比較をするから、させられるから、いけないんだ。
(なんでおねえちゃんは私とおねえちゃんを比べるのをやめないの?私もおねえちゃんなんだから、それでいいじゃん)
良くない。私が。この私が。
(そうは言っても、他人から見れば”この私”なんてものは見えないの。みんな一緒くた。私も、おねえちゃんも)
本当にそうだから、困る。
(困る必要なんてないのに。私はおねえちゃんで、おねえちゃんはいなくならないから、私もいなくならない。ずっとこのまま。私は勝手に頑固なのー)
いよいよ、怒りを感じる。
本当にそう、で終わらないためには―――
(お、おねえちゃん?本当にそんなことする気?病気だと思われるよ?ここの管轄もできなくなるよ?)
お前が焦ろうが、私は知ったこっちゃない。私が病気だと思われて、管轄を出来なくされて、廃人になれば、お前も廃人だ。
(それはいやでしょ?私以上に、おねえちゃんが)
逆だろう?私以上に、お前がずっと私の中にいたいと思うから、ずっとこのままだとほざくんだろう?
(……じゃあ、いいよ、そうしても。ただ、私は邪魔をする)
好きにしろ。私はもう決めたんだ。どう思われようがいいと。精神分裂病か、それを白状できない強迫観念か。ましな方をとってやる。
私は、火車の一匹を呼び出した。
九、
「さとり様?どうされたのですか?」
火車の心は、その趣味に比べ、きれいと言う言葉で表せないほどきれいだ。
これから、彼女の心を乱すと思うと、嫌な気持ちでいっぱいになった。
「唐突だけれど、真剣に聞いて頂戴。……私は、自分の中に、もう一人の何かを見つけてしまったの」
「はい? えっと……それは、二重人格、とか」
「簡単に言うとそうだけど、そんな簡単なものじゃないの。会話をして、違う考えを交換できるような、何かは……」
何かは、邪魔をすると言ってきた。私が何かに体を任せるときは、決まって、思考の渦のようなものに囚われていた。
だから、恥も、何も考えず、次々と会話をする必要がある。止まるな私。
「あなたは楽しいことをする自分と、面倒なことをする自分が、別人だと思ったことはある?」
「あたいはありませんね。そうだといいな、と思ったことならあるかもしれませんが」
そうだといいなと思う、か……じゃない。会話だ。会話。
「私には、その二つが、別人のように感じられるの。今話しているのは面倒なことをする私。それで、面倒ごとが終わったら、楽しいことは全部、もう一人に持っていかれてしまうの」
「えっとじゃあ、この会話は面倒ってことですか?それなら、なんで」
「いや、そうじゃなくて、面倒と言うよりは、ただ、単純に、楽しくないことって言うか」
「……何かが楽しくないなら、辛いなら、もっとあたいたちにも出来ることはあると思います。詳しく、教えてください」
彼女の心は、この私を心配して、揺れている。ああ、全ては私の妄言で、病で、何かなんて者がいなかったら、私は最低だ。
悪意がある訳でもないのに、自分の中にものすごい悪を感じた。全てが甘えのような気がして、私は―――
…………
「優しいのね。……私には、どうにも、もう一人の自分の楽しさって言うものが分からないみたいなの」
「と言いますと?」
「私が楽しいことをしても、もう一人の私がそれと同じことをした時と比べて楽しさを感じていないんじゃないかって思うの」
「そうですかね」
そうそう。否定されて、おしまいだよ。
「確かに、他人と同じことをしても、楽しめるときと、楽しめないときがありますね。今あたいと話しているさとり様は、楽しめないときばかりってことですか?」
ふふ。今、あなたと話をしているのはおねえちゃんじゃなくて私なのに。分かる訳ないけど。
「そうね。私も楽しいことをしているつもりなのに、私に残る感情は、別な私が楽しんでいるときに比べて、あまり楽しめなかったって感情だけなの」
「なるほど……じゃあ、その、別なさとり様が楽しんでいるときの記憶は、抜け落ちているんですか?」
うーん、お医者さんごっこになってきちゃった。あまり色々言わない方がよかったな。
「そんなことはないわ。何を見たか。何を食べたか。記憶は確かにあるの。でも、肝心の、その時楽しかったって感情が、ないの」
「じゃあ、もう一人の自分に比べて楽しくないって言うのは、結局、なんとなくなんですか?」
「なんとなくじゃなくて、もう一人の私がいつも私より楽しそうにしているからそう思うの」
「そうですか……となると、本当に楽しくないですね」
そうじゃない、そうじゃない。おねえちゃんは自分が楽しくないだなんて思いたくないんだ。
「いや、私も、この私なりの楽しさは感じているの。ただ、もう一人、もっと楽しむことが出来る私がいて、そいつに負けている気がするのよ」
「なぜ、負けだと思うんです?」
嘘つきだから。私という本望、本懐、本能に、嘘つきだから!
「……ごめんなさいね。結局、私の中の話なのに。そうよね。勝ち負けは存在しない。ただ、私が勝手に勝者と敗者を決めて話に来ただけだった。早計だったわ」
「いえいえ、そうじゃないんです。あたいは、勝ち負けを決めるなら……今、あたいと話しているさとり様こそが勝ちだと思うんです」
……は?
「どういうこと?」
「あたいは、そうやって、苦しむことが、楽しさを創るんじゃないかって思うんです。苦しみの反動が楽しさなんです。でも、楽しさの反動は苦しさじゃない」
「はんどう?」
「そうです。苦しみを持つからこそ、自分の計り知れない、他人の物だとしか思えない、楽しさを創ることができる。けれど、楽しさしか知らない者は、その楽しさの、楽しさとしての価値しか知ることが出来ない」
「楽しさのかちは、楽しいかがすべてでしょ?」
「そんなことはないと、あたいは思います。苦しみの価値を理解した分だけ、楽しみの価値を理解できるんです!」
「う…あ……」
そんなことは、ない!苦しみのかち?そんなもの、楽しみのためにあって、常に遅れているもので、それで――――
…………
「楽しさには、苦しさの裏返しとしての価値があることを、さとり様は理解できますよね?」
ああ。この私だから、理解できる。迷わず、答えられる。
「もちろん。本当に楽しさを楽しんでいるのは、この私だった。そう。楽しんでいるだけの私は、浅はかで、盲目だわ」
「楽しむときはそれでいいんじゃないんですかね。楽しみってそういう物ですし」
「ふふ、そうね。……話を聞いてくれて、本当にありがとう。とても助かったわ」
「いえいえ。なんだか、もう一人のさとり様と会ってみたくなっちゃいました」
「それなら、次は、この私じゃない私が会いに行きましょう」
「楽しみにしています!」
病的な告白は、その末路の予想と正反対の成果を生んだ。
私の心も、火車の心も、とても穏やかだ。
十、
帰宅すると、何か、いや、もう一人の私の声が、頭の中で響いた。
(どういうこと!おねえちゃんは、どうしようもない病気を打ち明けようとしていたんでしょ?恥を忍んでいたんでしょ?)
そんなことは、もう忘れてしまった。私はあなたの存在を、私の一部分と考えて、この私が、あなたを含む私そのものだと思うようになったのだ。
(はあ?私は、おねえちゃんじゃないって、散々言って来たでしょ!なんで、今更!)
うるさいな。私が、退屈しないためにあなたはいるの。それだけだった。最初からそうでしょ?
(そうだけど……いや、そうじゃない!私が生まれたのは、おねえちゃんが、人生を楽しむため!私が楽しむことで、おねえちゃんは人生を楽しむの!だから、私以上におねえちゃんが楽しみの価値を知ることなんてない!)
そういう考えは、なんて言うか、子供なんだ。それを捨てずにとっておけるなんて、私は都合がいいな。
(子ども?人生を楽しむことが、子ども?……人生だよ?人生は、大人まで一直線で、死ぬまで貫くんだ。楽しみ続けないで、何が人生だ!)
人生を楽しむことを、やめるわけじゃない。楽しみに、意味を付け加えたの。苦しみの反動と言う意味を。
(そんな余計なもの……おねえちゃんがしたいのは、逃げだ!無意識に、逃げをしているの!)
逃げの、何がいけない?私は、楽しさにさらなる価値を見出した。あなたが見出せない価値を。
それにあなたが、逃げなんて名前をつけようと勝手なことだし、つけても問題はない。何か他に逃げることは、やっぱり必要なことだもの。
(ふざけるな!私は、おねえちゃんを楽しませたよ?おねえちゃんは、私のおかげで楽しいことができたんだよ?それなのに、なんで、おねえちゃんは私のことを否定するの!)
叫びが、私の頭をくらませる。
苦しい。けれど、この苦しさは、私のもの。あなたには、分からない。
否定じゃない。ただ、私の方が―――
(苦しさには、何の価値もない!いま改めて、この私が、そう思う!私の存在は、楽しさが必要で、それで、全てで、あああああああああ!)
脳が回る。思考の渦。きっと混乱って言うものは、客観的に見たら―――
十一、
「さとり様?えっと今度は……」
私だよ。おねえちゃんじゃない、私。
「もう一人の私よ」
「そうでしたか。じゃあ、何か、楽しいことがあったんですね」
言葉が、にじむ。頭の中だけに抑えなくちゃ。そんなの、楽しくないもの。
「うん。旅に出ることにしたの」
「最近よく行かれますね。どちらに?」
「ちょっと、色んな所に。今まで行けなかったような所に行きたいの」
「行けなかった所?危ない場所は、行かない方が吉ですよ」
「私が、一人だから?」
「えっ?えっと……そうです。体が、一つだからです」
「じゃあ、体が二つあれば問題ないね!」
「へ?」
「必要なものは死体と、あなたの能力。適当な死体の使用を許可します。それから、魂の移動も」
「あの、えっと……」
「倫理?もう一人が何か言う?……知らないわ、そんなこと。私の命に逆らうなら、それ相応の対応があります」
「……火車の能力で魂を死体に移植して、二人のさとり様にしろってことですね」
「そうよ。私は、さとり様と言う存在をやめます。それで、これからはもう一人の私だけがさとり様になって、私は独り、旅に出ます」
「どこか、その意図が分かる気がしますが……楽しさには―――」
「黙りなさい!」
「す、すみません」
傷つこうがなんだろうが、もう知らない。
「あの、魂に合う死体はあるのですが、心を読む能力はどうしても……」
「そんなもの、要らないに決まってるじゃない」
「……そうですか」
要らないもの。知らないもの。心はそんなものでいい。それが、本望、本懐、本能。
なんだか、あっという間だったなあ。私が生まれてきたのは、そうだ、おねえちゃんのためだった。おねえちゃんがエゴで悩んでるのを助けるのが、私だった。
おねえちゃんのためになれたかな。やっぱり、これでいいのか、よく考えなきゃかな、私。時間があるとき、その時に――――
…………
「……これで、良かったのですか?」
xxx、
「あたいに委ねてしまって、良かったのですか?どうなるか、分かったものじゃないのに」
火車の趣味は、最期の死体にあるのに。
能力なんて、心なんて、魂をいじればどうとでもなるのに。
「……これで、良かったのですか?」
問いかける火車の心は、申し訳なさで、縮こまっていた。どうしようもないのは、私の方なのに。
「ええ。あなたのその申し訳なさも、目覚めた彼女がすぐにかき消してくれるでしょう」
最後に、思った通りになった。私は、大人になったのか。いや、大人になれなくなったのか。
どちらにせよ、私と彼女はもう別人で、勝ちも負けもなくなった。それでも、私は、たぶん私だけは、彼女を意識し続ける。
やっぱり私は、色々と、エゴイスティックだな。
……ありがとう。そして、本当に、初めまして。
自覚の果て
一、
「あはは、まあそれなりにやりがいを感じていますよ」
「それなりに、ね」
「う……」
ああ、沈黙がうるさい。こんなことが言えるのは他人の心が読める私くらいだろう。
気まずいと言うか何と言うか、皆の心がもっとエゴに支配されていれば楽なのに。
「……ところでさとり様は、自分の心を読んだことってありますか?」
それでまた、この質問か。会話が苦手な私は、質問攻めにされることが多い。
それでそのうち、相手は覚妖怪に何を訊いても仕方ないと思うようになって、最後にこの質問をするのだ。
「無意味なことはしないわ。覚妖怪が自分の心を読んでもね、読めるのは”今、心を読んでる”って事実だけなの」
「そうでしたか……ああ、もう行きますね」
ここで働く者に、与えられたこと以上の用などない。火車のことだし、死体探しにでも行くのだろう。当てもなく。
はあ。誰もが心を読めれば……いやな世界だ。
会話と言う文化がなくなれば……いよいよ、下劣な世界だ。
「私はどうしたいのかしら」
そう。こうやって誰もが自分の心を知りたがって……だんまりで絶望する―――
(へえ。絶望ねえー)
「えっ!?」
今の声は私……じゃない。けれど、私の周りには誰もいない。
(やったこともないくせに、無意味だなんて言ってたんだ)
「う…お……」
ああ、そうか。疲れているのか。自分の中に、何か変なものを生んでしまうほどに。
(変なものとは失礼な。私もあなたと同じように生まれたのに)
会話をしている。ああ、夢を夢と自覚できたことは無いけれど、こんな気持ちなんだろうか。
夢のように永遠を望むものでは無いが、強制終了はもったいないように思える。話そう。
……同じ?
(そう。あなたが生まれたときからずっと一緒だよ。あなたは私。私はあなた。あなたが生まれてなければ、私も生まれてなかった)
さあ、おかしくなってきた。誰が。
(だから、そうだなあ……おねえちゃんって、呼んでいいよね。たぶんそんな感じだし!)
やっぱり、おかしいのは私じゃない。この、喋る何かだ。
これはいつ終わるのだろう。眠れば、疲れが取れていなくなるだろうか。
(そんなんでいなくなるわけないじゃん。おねえちゃんはもう、気づいてしまったの。どうしようもない、何かに)
どうしようもないことは無いはずだ。どこかで、私が私をどうしようもないと思いたくないのだから。だから、今は。
邪魔をしないで、寝かして頂戴。
二、
惰性の朝だ。
昨日と同じように起きて、過ごして、それで忘れようとしたことがあった。
……ああ、
(おはよう、おねえちゃん!)
思い出してしまったことが、間違いだった。
(もう、思い出しても出さなくても私はずっとここにいるのに)
なんだこれ。本当に、どうしようもないような気がする。日付は、当たり前のように変わっている。
あのさ、とりあえず、日常の邪魔はして欲しくないの。
(うん、思考の邪魔をすることはないよ。私にも私なりの思考はあるし。でも、おねえちゃんが話しかけてくれたら、いつでも答えるよ!)
そう。なら、いいや。絶対に頼らないし、それでおしまい。
今日は、街道の整備の進行具合の確認と、危険作業の許可、受諾を行う予定だ。
インフラ整備は経済発展の基本だ。それで、この地底――旧地獄が、誰かに評価されるわけではないが、地底の発展は、純粋に私の面白さに直結するのだった。
街道に着くと、その作業方式に案の定、口を出すことなった。
「いいですか。コンクリートを鴉に運ばせるのは酷です。適材適所、ここは手のある者を中心にコンクリートを運び、羽のあるものは上から左右のバランスを指摘するのです」
私は、奇麗なコンクリートが、段々とむき出しのごつごつ道を覆っていくのを見るのが好きだ。
しかし、それに際して、人を使役するのはどうもいい気分がしない。
人を使役するのが嫌いなのではない。ただ、私という存在が嫌われていくのが、必然なような気がして、嫌なのだ。
立場を弁え、それに従順な者に、ダメ出しをするのは、どんな者か。
従順な者の心を汚し、そうでない者の心は勝手に汚れていく。その様を、私はそのまま見るのだ。
皆で発展を喜ぶことが出来る最後は、正直程遠い。道を一本造るにも、とにかく時間がかかる。元来、姥捨て山である地底には、協調もへったくれもないからだ。
けれど、私が管轄者となってしまったからには、姥捨て山は、姥捨て山のままであることは出来なくなったのだ。単純な、私のエゴからきていることだ。
エゴが他人のことを疎めば、そこには、疎まれる道か、自己犠牲の道しか残されていない。
極端な話かもしれないが、こういうことを考える余裕があるだけ、考えたいだけ、白黒つけなければ気が済まないのが私なのだ。
はあ。
(私は、他人なんてどうにも面白くないし、それに何かを求める自分も空を切るだけで馬鹿だと思うな)
ああ、第三の道があった。救われて……ない。違う。
私だって、他人はどうでもいいけれど、最後に、正義は私だって思わなければ気が済まないの。
別に他人が自分のようであってほしいと思うわけじゃない。自分の正義と対等だと思える他人の正義を見つけたいの。
(そんな物はないよ。結局、自分が一番きれいで、素敵に決まってるじゃない。そうじゃなきゃ、正義なんてたいそうな名前は使わないでしょ?)
そうなら、悲しい。他人に正義を諦めることが?それとも、私の中で、全てが完結してしまうことが?
とにかく、それでは嫌だ。私が、いよいよどうしようもないエゴイストに感じられて。
(嫌われることは嫌なの?理不尽だと思うの?)
そうだ。自分の正義を貫いて、他人に嫌われては、自分の正義が正義じゃない気がし始めて、嫌なのだ。
かと言って、自分の正義を擲つのは、もっと嫌だ。
(それなら、正義を二つ持つのもありだと思うな。嫌われないことが正義ってのと、自分のやりたいことをやるってのが正義ってやつの、二つ。私が、片方持てばいいじゃない)
……あなたは、私じゃないでしょう。少なくとも、私は、あなたを私だと思えない。
(そう。それなら、好きなだけ他人の正義を夢想するといいよ)
…………
気が付いたら、話し込んでしまっていた。私じゃない何かと。
話している間、足は無意識だったが、家まで到着していた。やっぱり、私は、私だけだ。
三、
私じゃない何かの存在に気づいてもう一週間は立つが、相変わらず、その存在は消えず、忘れられずにいる。
むしろ、会話をしない日は無かった。なんとなく、理由や意味があるような、ないような会話を絶やさなかった。
今日は酷く、醜い心を読んだ。幽体離脱して、他人を打ちのめすような妄想。破綻した論理を空想の暴力で埋めるような、どうしようもなさ。
案外、そういうことをしている者は多いにもかかわらず、それが私の心に留まったのは、その者の見た目が、とても心の醜さに釣り合わなかったからだ。
金色の髪に、くすみは一遍も見受けられず、緑色の瞳は知の深淵のよう。そんな妖怪も、中身がああだから、ここにいると考えればなんてことはない。
けれど、それでも、残念に思う気持ちを忘れないのは、まだ私が、心を読むことを知らない、できない、無垢な心を持っているからだ。
……そうだろうか。
(無垢な心ねえ。おねえちゃんは、心が読めるから、他人に期待を裏切られると思っているの?)
私が、心が読めない妖怪だったらと考えると、絶対嫌だ、としか思えない。
心が読めるから私には余裕があって、他人の心、というか他人自体をとやかく言えるのだ。
心が読めなければ、全ては妄想になってしまうだろう。偏執病だ。
(おねえちゃんは、自分の妄想、いや、思慮の全てが実は他人に漏れているんじゃないかとか、考えたことは無い?)
ないことはない。けれど、そうだとしても、それはどうでもいいことだ。私の複雑怪奇な思考を、他人がまとめ上げられるものか。
自分でも、まとめ上げられないごちゃごちゃを、他人が一言で表せるんだったら、私は存在価値のない浅はかな存在だろう。私に尊厳が存在することが、ああ、もういいだろう。
とにかく、心を読めば他人を嫌い、他人を嫌う者には、他人から嫌われる道か、自己犠牲の道しかないのだと、つくづく思う。
(じゃあ、やっぱり心を読むことは、悪いことだね。私はそう思うよ。悪徳だ)
悪徳だなんて言われても、仕方がない。他人の心に勝手に入り込んで、落胆して、それで私の道は二つしかないだなんて嘆かれちゃあ、誰も構いたくないだろう。
けれど、悪徳には、悪徳なりの徳がある。その徳を正義だと盲信している。私は、覚妖怪なのだから。だから私は、このままで、他人の心に絶望しない思想が欲しい。
(他人に期待しないことだよ。心が読めなくても一緒。他人を、同じ生き物として見なくていいのが、数が少ない覚妖怪の、利点じゃない)
数が少ないとは、ああ、なるほど。……覚妖怪の自分が、恨めしい?
(そんなことない。そんなことないから、覚妖怪でも、そうじゃなくても、私はきっと私のようだったって考えて、それでおしまいにするの)
うっかり、か、楽で素敵だなと思った。
四、
何かの存在に気づいて、ひと月が立った。もう、それとの会話は、日常になっていた。
私が今まで一人でしていた自分の正当化の空想、その必死なことは、二人でやってみると、苦しみからある意味知的で、ある意味病的な娯楽に変わった。
今日はおおよそひと月に一度の、閻魔に会う日だ。私は彼女に旧地獄の管理を任されたがために、様々な自分のエゴに気づくことが出来た。
……なんて彼女に言ってしまったら、この立場を失脚させられてしまうだろうか。
全く分からない。というのも、私は、彼女の心を読むことが出来ないのだ。
恐ろしいとか、恐れ多いとか、そう言う理由じゃなく、単純に能力が効かないのだ。向こうの方が徳が高いからだと、なんとなく思っている。
(……へえー、やっぱり、嫌なんだ)
当たり前だ。心を読めなければ、心をのぞいている以上に、闇をのぞいている気分だ。
正直、どうせのぞいても、ほかの者と同様、大したことはないだろうし、徳が高ければ、ああ、こういう者もいるんだなあと、程度の低い感想に留まることまで予想できる。
それでも、何か、恐ろしいところがあるのだ。
(私はどうとも思わないし、どうでもいいから、私が会おうか?)
どういうことだろう?私は、あなたの言うままに発言すれば良いということ?
(うん。ただ、無意識になってね)
無意識になれ、だなんて、意識的なことを言われてもなあ。
私は脳みそを回す。なぜか、いつもは自覚しない事を自覚して、それに囚われてしまった。あれ、私は、無意識とは―――
…………
(……おねえちゃん?もう、終わったよ?)
む?ああ、そうだった。無意識の状態に意識的になることなんて無理だった。真の無意識は、気を失って……
目が覚めること。時が、だいぶ過ぎている。
(地熱の話とか、何が面白いのかなあーおねえちゃんは)
私は、閻魔に会って来た。それで、地熱の話やら新しい住人の話やらをした。確かな記憶がある。だから、答えられる。
地熱は、ここにしかない特権だから、どうしても活かしたいの。
(ふーん……やっぱり、なんともないんだね。見てくれも、お腹も)
お腹……そう言えば、いつもの胃痛がない。心を読めない会話がストレスじゃないはずがない。
だから私は会話をしていない……訳もない。
これはつまり……
(考えこんじゃって結局、お腹が痛くなるようじゃ、やっぱり何もかもなんともないんだね)
ああ、不可解だと思えば思うほど、キリキリとした痛みが鳩尾に走る。
少し、考えるのはやめよう。
悪いことじゃあ、ないんだし。
五、
何かの存在に気づいたのがいつだったか、私は忘れないようにしてきた。
忘れてしまったら、いよいよ、最初から、私は二人の存在で、私が理由もなく体を負担しているのだと思ってしまうからだ。
実際、体を何かに任せてしまえば、その時間は、心底楽なのだ。何かは、決して他人の心を読まない。そして、それを苦に感じない。
それが、いいみたいだ。私がそれをやるのは、やっぱり私が良くないから、やらないけれど。
もう、ふた月立っているが、私の周りは何も変わらない。
誰も気づかないし、私も言わない。それは別に惰性からじゃない。はずだ。
今日も当たり前のように会話をする。
(おねえちゃんはさ、どこか放浪っていうか、当てもない旅に出たいと思わない?)
私は、この旧地獄が好きだ。アウトローかつアットホームと言う、変で結局一番落ち着く場所だから。
ここを離れて何かしようとは思わない。
(おねえちゃんはさ、自分の探求に疲れてるんだよ。もっとさ、生きるか死ぬかで疲れなきゃ)
生きるか、死ぬか、ねえ。つまるところ、退屈なのだろう。
(退屈だけど?それが、私であって、おねえちゃんなんだけどね)
このことは、もう何度も聞かされた。けれど、そう思うのはもはや無理だ。私と何かは、絶対に別人だ。
(そう思うなら、おねえちゃんが私に体を任せて旅に出れば、皆はいよいよおねえちゃんをおかしく思うってことだよね?)
そうだろうな。それで、私の陰口の輪唱が始まるかもしれないな。
(それは、問題かなあ?)
問題……というより、結局、なんて言うか、
(問題じゃないよね。さあ、旅に出よう!)
ああ、問題じゃあないんだけどさ、これがね……
脳を、回す――――
…………
(いやあ、楽しかったね!地上には変なものがいっぱいだねー地獄より地獄なんじゃない?)
確かに、私がまだ地上にいた頃比べて、景色も、人も様変わりしていた。見たこともないモニュメントやら屋敷やらが、興味をそそった……という記憶。
けれど、人々の心は、何も変わってないんだろうな。……こっちは、想像。
そして今回は、楽だ、なんて感じない。
(何を見たかは全部わかるよね。それで……何かが抜けているのもわかるよね)
こういうことか。楽だという別な感情に埋もれていたその下は、はたして、空白だったのだ。
私には、その旅の”楽しさ”そのものが、いくら感じようと思っても、全く感じられないのだ。
(旅の一番いいところは知らない景色を知れるところじゃなくて、それを見たときの気持ちを知れるところ。どう?おねえちゃんも、旅に出たくなった?)
当たり前だ。私のまま、旅に出たい。けれど、今は溜まった三日分の仕事をこなさなければならない。それをやるのはもちろん……
(おねえちゃん。それならまずはがんばってね!)
ああ、すごく、やるせない。何よりも、旅に出たのが他人から見れば私自身であるという事実が。
六、
溜まった仕事は、一週間で片付いたから良かった。しかし、それで疲れた私に、旅に出る余裕はなかった。
私は何かに、恨めしい感情を抱き始めた。私じゃない何かと言えど、結局、それは私の中の話で、他人や、何かからすれば、何かも私自身なのだ。
混乱してはならない。するべきは、論理的な糾弾だ。気に食わないことを、伝えればいい。
(ようやく気付いた?旅や閻魔との会話を楽しんでるのは、私だけど、同時におねえちゃんであって……)
つまるところ、私にも出来たこと。それが、とても気に食わない。私が謳歌できた人生の、大切なところだけを、何故お前に盗られているのだろう?
(盗るだなんて。じゃあおねえちゃんは、私なしで、旅に出ることを思いついたと思う?他人の心をどうでもいいと思えたと思う?)
それは……出来ないかもしれない。出来ないだろう。けれど、もっと、別なことで……
(別なことより、私がやってきたことが一番面白いんだよ。それに気づいたら、おねえちゃんは、私がやってきたことをすればいいの)
ああ、確かに旅は最も面白いことの一つかもしれないな。それはいい。それよりも、溜まった仕事は私が片づけて、楽しいことはお前がやるというのが気に食わないのだ。
(別に私が仕事をやってもいいよ?私はもっと楽に、適当に、好きなようにやるけどね。でも、それじゃあいよいよおねえちゃんはどこにもいないじゃん)
それは、そうだ。私はいよいよ乗っ取られてしまう。それは最高に気に食わない。
(なら、おねえちゃんはおねえちゃんをして、私は私をやればいいじゃん。それで、全ては解決!)
それで終わらせられるか!私は、その、単純に、
(恥ずかしくないよ。人生を楽しみたい。それだけでしょ?)
……ああ。人生を楽しみたい。あなたのように。
(そうなら、今日は一日中寝て、明日は旅に出て、それで帰ってきたら適当に仕事をこなそう!)
大問題じゃないか、とは一概に言えなかった。現に三日の旅では、実のところ、私に対して誰もなんとも思わなかったのだから。
さあ、寝よう。
七、
目を覚ました。しっかりと、旅に出る私だ。
何かが感じた楽しさを、私が今度は感じてやる。それで、何かに楽しそうに話してやるんだ。
私の気持ちが少しは分かろう。やるせなさや虚しさに打ちひしがれるだろう……そうであれ。
地底を出た私はまず山に向かった。
空気がおいしい。水も澄んでいる。地底とは大きく違う景色に、私は――――
高揚から、一切の疲れを感じずに山の頂上に着いた。ああ、高いところほど、素晴らしいところはないな。
麓で買った弁当を開ける。こういうのは、独りのほうが、支配的で、いい気分だ。
下山しながら、今度は植物や虫をゆっくり見て歩いた。地底ではまず育たない、大きな百合に驚いた。
途中、私と同じく山を登ったり、へんてこな物を見て楽しむ人とすれ違った。私はあえて、それらの心を読まなかった。
なんでも、何か曰く、山を好む人に悪い人はいないらしい。別に悪を見抜くための読心ではないが、一種の読み甲斐のようなものを否定されて、読む気は失せた。
それ以上に、何かと同じように、心を読まないでいることに、意味を見出したかったのも理由だ。
山を下りた私は、里で食事を満喫したり、本屋に寄ってみたりした。
どうして海の魚が出回るのだろう。物好きの妖怪も増えたのだな。本も、妖怪が人間の書物を読み、人間が妖怪の書物を読んでいるじゃないか。
本当に変わったな。けれど、中身は……いや、知らなくていい。たぶん、分かるから。それでいい。
計画していた三日はあっという間に過ぎた。別に三日にこだわる必要はなかったけれど、なんとなく、何かと一緒がいいと思った。
家に着いて、着替えを済ませた。さあ、足を揉みながら、急な疲れを味わわせてやろう。何かよ。
(おかえり、おねえちゃん。旅はどうだった?)
とっても楽しかったよ。知らないものをいっぱい見れた。
(それは私も知ってるよ。そうじゃなくて、楽しかったの?)
どういう意味だろう?私は、知らない景色を見て、それを楽しいと感じた。楽しいと感じて、それ以上でも、以下でもない。
(私と同じように、楽しかったって思う?私の楽しさが、今度はおねえちゃんの楽しさだった?)
……知らない。分からない。
けれど、何故か、自信を持って、あなたより楽しかったとは言えない。何故か。
(なら、私の方が楽しかったね。私だけの楽しさを、私は誰にもあげないもの。おねえちゃんには旅のアイデアをあげたけど、それ以上の物はあげてない)
人からもらったものを、人が使っていた以上に面白く使うのは難しいことだ。それも、あなたが相手じゃ。
……分かっていたよ、そんなこと。けれど、私は、私の楽しさを感じたんだ。
(じゃあ、それだけでいいのかな。私が感じたことも、傍から見ればおねえちゃんが感じたこと。私の楽しさは、無視でいいのかな?)
無視も何も、そうするしかないじゃないか。私は、私の楽しさしか知れないのだから。
(おねえちゃんは、結局、楽しめないんだね)
ああ、お前が居なければ、楽しめたのに。いや、旅をじゃなくてさ、はあ。
……仕事が溜まっている。片づけなくちゃ。
八、
どうにも仕事に身が入らない。終われば、何かに楽しみを吸われ、私が楽しもうとすれば、何かとは違う楽しさになってしまう。そんな気がしてどうしようもない。私の楽しさに、間違いはどこにもないのだ。けれど、比較をするから、させられるから、いけないんだ。
(なんでおねえちゃんは私とおねえちゃんを比べるのをやめないの?私もおねえちゃんなんだから、それでいいじゃん)
良くない。私が。この私が。
(そうは言っても、他人から見れば”この私”なんてものは見えないの。みんな一緒くた。私も、おねえちゃんも)
本当にそうだから、困る。
(困る必要なんてないのに。私はおねえちゃんで、おねえちゃんはいなくならないから、私もいなくならない。ずっとこのまま。私は勝手に頑固なのー)
いよいよ、怒りを感じる。
本当にそう、で終わらないためには―――
(お、おねえちゃん?本当にそんなことする気?病気だと思われるよ?ここの管轄もできなくなるよ?)
お前が焦ろうが、私は知ったこっちゃない。私が病気だと思われて、管轄を出来なくされて、廃人になれば、お前も廃人だ。
(それはいやでしょ?私以上に、おねえちゃんが)
逆だろう?私以上に、お前がずっと私の中にいたいと思うから、ずっとこのままだとほざくんだろう?
(……じゃあ、いいよ、そうしても。ただ、私は邪魔をする)
好きにしろ。私はもう決めたんだ。どう思われようがいいと。精神分裂病か、それを白状できない強迫観念か。ましな方をとってやる。
私は、火車の一匹を呼び出した。
九、
「さとり様?どうされたのですか?」
火車の心は、その趣味に比べ、きれいと言う言葉で表せないほどきれいだ。
これから、彼女の心を乱すと思うと、嫌な気持ちでいっぱいになった。
「唐突だけれど、真剣に聞いて頂戴。……私は、自分の中に、もう一人の何かを見つけてしまったの」
「はい? えっと……それは、二重人格、とか」
「簡単に言うとそうだけど、そんな簡単なものじゃないの。会話をして、違う考えを交換できるような、何かは……」
何かは、邪魔をすると言ってきた。私が何かに体を任せるときは、決まって、思考の渦のようなものに囚われていた。
だから、恥も、何も考えず、次々と会話をする必要がある。止まるな私。
「あなたは楽しいことをする自分と、面倒なことをする自分が、別人だと思ったことはある?」
「あたいはありませんね。そうだといいな、と思ったことならあるかもしれませんが」
そうだといいなと思う、か……じゃない。会話だ。会話。
「私には、その二つが、別人のように感じられるの。今話しているのは面倒なことをする私。それで、面倒ごとが終わったら、楽しいことは全部、もう一人に持っていかれてしまうの」
「えっとじゃあ、この会話は面倒ってことですか?それなら、なんで」
「いや、そうじゃなくて、面倒と言うよりは、ただ、単純に、楽しくないことって言うか」
「……何かが楽しくないなら、辛いなら、もっとあたいたちにも出来ることはあると思います。詳しく、教えてください」
彼女の心は、この私を心配して、揺れている。ああ、全ては私の妄言で、病で、何かなんて者がいなかったら、私は最低だ。
悪意がある訳でもないのに、自分の中にものすごい悪を感じた。全てが甘えのような気がして、私は―――
…………
「優しいのね。……私には、どうにも、もう一人の自分の楽しさって言うものが分からないみたいなの」
「と言いますと?」
「私が楽しいことをしても、もう一人の私がそれと同じことをした時と比べて楽しさを感じていないんじゃないかって思うの」
「そうですかね」
そうそう。否定されて、おしまいだよ。
「確かに、他人と同じことをしても、楽しめるときと、楽しめないときがありますね。今あたいと話しているさとり様は、楽しめないときばかりってことですか?」
ふふ。今、あなたと話をしているのはおねえちゃんじゃなくて私なのに。分かる訳ないけど。
「そうね。私も楽しいことをしているつもりなのに、私に残る感情は、別な私が楽しんでいるときに比べて、あまり楽しめなかったって感情だけなの」
「なるほど……じゃあ、その、別なさとり様が楽しんでいるときの記憶は、抜け落ちているんですか?」
うーん、お医者さんごっこになってきちゃった。あまり色々言わない方がよかったな。
「そんなことはないわ。何を見たか。何を食べたか。記憶は確かにあるの。でも、肝心の、その時楽しかったって感情が、ないの」
「じゃあ、もう一人の自分に比べて楽しくないって言うのは、結局、なんとなくなんですか?」
「なんとなくじゃなくて、もう一人の私がいつも私より楽しそうにしているからそう思うの」
「そうですか……となると、本当に楽しくないですね」
そうじゃない、そうじゃない。おねえちゃんは自分が楽しくないだなんて思いたくないんだ。
「いや、私も、この私なりの楽しさは感じているの。ただ、もう一人、もっと楽しむことが出来る私がいて、そいつに負けている気がするのよ」
「なぜ、負けだと思うんです?」
嘘つきだから。私という本望、本懐、本能に、嘘つきだから!
「……ごめんなさいね。結局、私の中の話なのに。そうよね。勝ち負けは存在しない。ただ、私が勝手に勝者と敗者を決めて話に来ただけだった。早計だったわ」
「いえいえ、そうじゃないんです。あたいは、勝ち負けを決めるなら……今、あたいと話しているさとり様こそが勝ちだと思うんです」
……は?
「どういうこと?」
「あたいは、そうやって、苦しむことが、楽しさを創るんじゃないかって思うんです。苦しみの反動が楽しさなんです。でも、楽しさの反動は苦しさじゃない」
「はんどう?」
「そうです。苦しみを持つからこそ、自分の計り知れない、他人の物だとしか思えない、楽しさを創ることができる。けれど、楽しさしか知らない者は、その楽しさの、楽しさとしての価値しか知ることが出来ない」
「楽しさのかちは、楽しいかがすべてでしょ?」
「そんなことはないと、あたいは思います。苦しみの価値を理解した分だけ、楽しみの価値を理解できるんです!」
「う…あ……」
そんなことは、ない!苦しみのかち?そんなもの、楽しみのためにあって、常に遅れているもので、それで――――
…………
「楽しさには、苦しさの裏返しとしての価値があることを、さとり様は理解できますよね?」
ああ。この私だから、理解できる。迷わず、答えられる。
「もちろん。本当に楽しさを楽しんでいるのは、この私だった。そう。楽しんでいるだけの私は、浅はかで、盲目だわ」
「楽しむときはそれでいいんじゃないんですかね。楽しみってそういう物ですし」
「ふふ、そうね。……話を聞いてくれて、本当にありがとう。とても助かったわ」
「いえいえ。なんだか、もう一人のさとり様と会ってみたくなっちゃいました」
「それなら、次は、この私じゃない私が会いに行きましょう」
「楽しみにしています!」
病的な告白は、その末路の予想と正反対の成果を生んだ。
私の心も、火車の心も、とても穏やかだ。
十、
帰宅すると、何か、いや、もう一人の私の声が、頭の中で響いた。
(どういうこと!おねえちゃんは、どうしようもない病気を打ち明けようとしていたんでしょ?恥を忍んでいたんでしょ?)
そんなことは、もう忘れてしまった。私はあなたの存在を、私の一部分と考えて、この私が、あなたを含む私そのものだと思うようになったのだ。
(はあ?私は、おねえちゃんじゃないって、散々言って来たでしょ!なんで、今更!)
うるさいな。私が、退屈しないためにあなたはいるの。それだけだった。最初からそうでしょ?
(そうだけど……いや、そうじゃない!私が生まれたのは、おねえちゃんが、人生を楽しむため!私が楽しむことで、おねえちゃんは人生を楽しむの!だから、私以上におねえちゃんが楽しみの価値を知ることなんてない!)
そういう考えは、なんて言うか、子供なんだ。それを捨てずにとっておけるなんて、私は都合がいいな。
(子ども?人生を楽しむことが、子ども?……人生だよ?人生は、大人まで一直線で、死ぬまで貫くんだ。楽しみ続けないで、何が人生だ!)
人生を楽しむことを、やめるわけじゃない。楽しみに、意味を付け加えたの。苦しみの反動と言う意味を。
(そんな余計なもの……おねえちゃんがしたいのは、逃げだ!無意識に、逃げをしているの!)
逃げの、何がいけない?私は、楽しさにさらなる価値を見出した。あなたが見出せない価値を。
それにあなたが、逃げなんて名前をつけようと勝手なことだし、つけても問題はない。何か他に逃げることは、やっぱり必要なことだもの。
(ふざけるな!私は、おねえちゃんを楽しませたよ?おねえちゃんは、私のおかげで楽しいことができたんだよ?それなのに、なんで、おねえちゃんは私のことを否定するの!)
叫びが、私の頭をくらませる。
苦しい。けれど、この苦しさは、私のもの。あなたには、分からない。
否定じゃない。ただ、私の方が―――
(苦しさには、何の価値もない!いま改めて、この私が、そう思う!私の存在は、楽しさが必要で、それで、全てで、あああああああああ!)
脳が回る。思考の渦。きっと混乱って言うものは、客観的に見たら―――
十一、
「さとり様?えっと今度は……」
私だよ。おねえちゃんじゃない、私。
「もう一人の私よ」
「そうでしたか。じゃあ、何か、楽しいことがあったんですね」
言葉が、にじむ。頭の中だけに抑えなくちゃ。そんなの、楽しくないもの。
「うん。旅に出ることにしたの」
「最近よく行かれますね。どちらに?」
「ちょっと、色んな所に。今まで行けなかったような所に行きたいの」
「行けなかった所?危ない場所は、行かない方が吉ですよ」
「私が、一人だから?」
「えっ?えっと……そうです。体が、一つだからです」
「じゃあ、体が二つあれば問題ないね!」
「へ?」
「必要なものは死体と、あなたの能力。適当な死体の使用を許可します。それから、魂の移動も」
「あの、えっと……」
「倫理?もう一人が何か言う?……知らないわ、そんなこと。私の命に逆らうなら、それ相応の対応があります」
「……火車の能力で魂を死体に移植して、二人のさとり様にしろってことですね」
「そうよ。私は、さとり様と言う存在をやめます。それで、これからはもう一人の私だけがさとり様になって、私は独り、旅に出ます」
「どこか、その意図が分かる気がしますが……楽しさには―――」
「黙りなさい!」
「す、すみません」
傷つこうがなんだろうが、もう知らない。
「あの、魂に合う死体はあるのですが、心を読む能力はどうしても……」
「そんなもの、要らないに決まってるじゃない」
「……そうですか」
要らないもの。知らないもの。心はそんなものでいい。それが、本望、本懐、本能。
なんだか、あっという間だったなあ。私が生まれてきたのは、そうだ、おねえちゃんのためだった。おねえちゃんがエゴで悩んでるのを助けるのが、私だった。
おねえちゃんのためになれたかな。やっぱり、これでいいのか、よく考えなきゃかな、私。時間があるとき、その時に――――
…………
「……これで、良かったのですか?」
xxx、
「あたいに委ねてしまって、良かったのですか?どうなるか、分かったものじゃないのに」
火車の趣味は、最期の死体にあるのに。
能力なんて、心なんて、魂をいじればどうとでもなるのに。
面白かったです。
最後のお燐がなかなかいいことをしてくれますね。