「ふんみゅ~~~いっ」
ああ、なんか変な声が出る。檜風呂とは良いものです。
今日は久し振りに八雲さん宅にお邪魔して、湯を借りている。肩まで熱い浴槽に浸かれば、日々の凝り固まった疲れまでも、ざぱざぱざぱーと零れていく湯と共に体から流れ出ていくかのようだ。むすーっと難しい表情も、この時ばかりは緩んで良かろう。物は試しと浴室に鏡を探してみれば、湯気でぼんやりとしか映らぬものの、実に腑抜けた表情をした自分の顔が目に入る。
「……みゅみゅみゅ」
むむむ、と言いたかった。
流石に、腑抜け過ぎか。これでも自分は普段、厳格・生真面目と評判で、近寄ったら斬られそうな恐面キャラで通っているのだ。とてもではないが、こんな顔は他人には見せられん。いや、別に良かろう。なにせ折角の風呂だ。どうせ一人だ。
ところで家主が容貌に気を使うからだろうか、浴室の鏡は全身が映るほどの大きな物で、現在の自分の住まいとの違いが気になってくる。
「……ちょっとだけ。ちょっとだけ、だから」
立って、体を映してみたりなんかしちゃって。
顔立ちは、それなり以上に美形と言って良いのではないか? 肩口で切り揃えた白い髪は、時代が一周回って、むしろ逆に今様な感じ。体格は立派でこそないものの、よくよく見て見れば鍛えた体付きだと分かるし……いやいや、背が低いのは気にしてはいますけどっ。でもこのしなやかな筋肉は美しいはずなのですっ。って誰に主張してるんですか私はっ。
ぺたぺた、ぺたぺた……
ほら、ここの筋肉とか良い感じ。別に貧相じゃないですし、見る人が見れば分かりますよ、これ。──はっ、これは剣豪筋っ、たゆみない努力で剣を振るった者だけに備わるという伝説の、みたいな感じで。
「ふふふん♪」
小柄なのは気になるけど、それは半分幽霊という種族故、致し方なし。半人半霊は、人よりも成長が遅いのである。しかし総じて見れば中々どうして強そうではないか。あとはちょっと背が伸びて、体付きががっしりして、普段通りの厳めしい表情さえすれば、泣く子も黙るというものですよ。
「湯加減はどうかしらー?」
「っ!?」
瞬間、ばっしゃんと湯に浸かる。
急に話し掛けないでくれますかねっ!!
などとは言わない。すっかり油断していたのはこちらだ。わざわざ湯を沸かしてくれた八雲紫に、私は咳払い一つ、平静を装って答える。
「ええ、とても良い湯です。貴方が私に親切だなんて、いったいどういう風の吹き回しなのかは気になりますけどね」
我ながら、完璧だ。
感謝を述べつつも皮肉を交えることで、内心の動揺を完全に隠している。
「そう。それは良かったわ」
「そうだよ、それは良かったのだよ」
謎口調。まあ、許容範囲ということで。
時に質問なのですが、どうして脱衣所で衣擦れの音がするんですかね?
「私もお湯を頂こうかしら」
「ちょっ、なんで入ってくるんですかっ!?」
あわわわっ、顔を覆って、色々見ないようにして、隠す所を隠して、あとは何をしたら良いのっ!?
それでも指の隙間から、豊かな金髪とか体付きが見えちゃったりして。
「私の家のお風呂なんだから、私の勝手でしょう?」
「でもこの場合は勝手じゃないと思いますよっ?」
なんでちょっと声が上擦った半泣きなんだろう。水分でふやけた半霊が落ち着けと言ってくれているような気がするけど、これが落ち着いていられますかっ!! だって色々見えちゃうし見られちゃうじゃないですかっ!! ってとりあえず落ち着きましょうよっ!!
ふふふ、私だってもう子供ではないのです。何年生きてると思ってるんですか。ここは一つ、オトナの対応でクールに切り抜けてやりましょうとも。
「あ、あのっ、じゃあ、私はこれでお先に……失礼します!」
よし。あとは修行で培った剣術仕込みの超絶足捌きのダッシュで逃げる。
「まあまあ、たまにはゆっくり話してみるのも悪くないんじゃない?」
そう言えば八雲紫も謎の体術を使うのだった。いとも簡単に絡め取られてしまう。しかもスキマ経由で有り得ない所から手が出てくるために意表を突かれる。
おのれ、不甲斐ない。よもやこの程度の乱心で普段の力が出せぬとは。
「って言うか色々当たってるんですけど!」
「あら、私と貴方の仲でしょう?」
「ぶっちゃけそんなに親しい覚えとか無いですよっ!?」
さっきから大声がわんわんと反響している。頭痛くなってきた。のぼせなきゃいいけど。
「うぅ、ひどい。ぐすんっ」
これはどう見ても嘘泣きなので放っておくとして。
隙を見て湯船に避難。
「ぶくぶくぶく……」
暴れたせいでちょっと量が減ってしまった湯に、目の下あたりまで浸かる。
ところで誰でも良いから問い質したいのだが、このイベントは必要なのか。
「必要よ。必要不可欠よ」
「誰が貴方に答えろと言いましたか」
と言うか、当たり前のように内心を読まないでください。
「ところで貴方って相変わらずぷにぷにしてるわね。全体的にコンパクトだし」
「はっ。見る目が無いですね。特別に見せてあげましょう、この腕の筋肉を。ほら、剣豪っぽいじゃないですか。しなやかで美しいじゃないですか」
「……いや、見るからに、すごくぷにぷにしてそうなんですけど?」
「浅はかですね。刀を筋肉で振ってると思うなら、ド素人の証拠ですよ」
「じゃあ剣豪っぽい筋肉って何なのよ」
それはそれでもっともらしい指摘だった。
「……はぁ」
疲れが取れたと思った矢先だと言うのに、何故、どっと疲れねばならんのか。
「もう先にあがって良いですかね?」
「良いわよ」
すごく疲れました。
……
…………
そうそうそう、そうでした。
まさかあの八雲紫がこの程度で逃がしてくれると思うなんて、私はどれだけ気が緩んでいたんでしょうね。
その一大事は、脱衣所で体を拭き終えた後に発覚した。
着物が無い。刀も無い。もう一度、着物が一枚も無い。
「おい、八雲紫」
厳めしい顔、厳めしい顔、厳めしい顔、と心に念じる。つまらん悪戯なんて許さんぞという厳めしい顔をするのです、がんばれ私。
「うん? 何かしら?」
優雅に湯を掛け流す音が聴こえてきて腹が立った。こっちは今、それどころじゃないってのに。
「私の服が無いんだが、これはいったい、どういうことだ?」
ちゃんと置いてあった。大事な刀も一緒に置いたんだから、間違いは有り得ない。
「洗っておいてあげるわ。私ってデキる女? で、着替えの服なら、ちゃんと用意しておいたわよ」
「いや、されていないようなのですが」
実を言うと、この時点で視界の端には入っていた。でもまさか、それが自分用だとは思わない。
「分かり易い所にカゴが置いてあるでしょう?」
「確かに、分かり易い所にカゴは置いてあります」
「それよ」
「……これ、何の服です?」
手に取ってはみたが、あまり馴染みの無い種類の洋服だった。
まず、丈の短い紺色のスカート。白が眩しいシャツには、……確か、異国の海兵がこんなだったような、特徴的な襟飾りが……
「セーラー服。中学校の制服よ」
「ふざけてんですかっ!?」
「貴方に頼みたいことがあるのよね。お願い、聞いてくれる? ふはは貴方の大切な刀は預かったー、ふははー」
すごい棒読みで言ってくれやがりますけど、それはお願いではなく脅迫というのだ。
「あれ結構な大業物なんですけど」
「まあまあ、用が済んだらちゃんと返すし、手入れと保管の仕方くらい心得てるから安心して頂戴。そもそも、あんな物騒なものを持って学校に行ってもらうわけにもいかないのよ」
「とりあえずこれだけは言っておきますけど、貴方のことがすごく気に入らないです」
以前から、いつか斬るリストの上位には食い込んでいましたけどね。
「斬れるものなら、どうぞ?」
「その前に刀を返してください」
「じゃあ、お願いは聞いてくれるってことで良いのね?」
「ええ」
大方、また何かの荒事だろう。それ自体なら受けて立つ所だ。普通に頼んでくれれば良いのに。
「それは良かった。制服は一人で着られそう? ちゃんと下着も付けないとダメよ?」
「……?」
持ち上げた制服の下から、見たこともないようなパステルカラーが現れた。眩しい黄緑色。小さなリボンの飾りが付いた、かわいい系のソレ。もはや未知といったレベルの手触りに凍り付く。しかも何の冗談か知らないが、上下共に揃っていやがる。
「付け方、分かる? ふふっ、貴方も初ブラデビューね」
「いい加減にしてください泣きますよっ!?」
私はこれでも、厳格で怖くて近寄り難い雰囲気と評判なのだ。本当だ。本当です、信じてください、普段はもっと怖いんです。
とりあえず、八雲紫のことは後で斬ります。もう決めましたから。泣いて謝ったって許してあげないんですからね。
◇
学校と言うからには、場所は外の世界なのだった。
一応、外の世界の事情は粗方が頭に入っているので、常識関係で困ることはないだろう。でもって、問題の学校は街の中にあって、ほぼ近くに小中高と点在している大学附属の系列校のようだった。私の着せられた制服は中学校のもので、高校でないことに文句を言うべきか、小学校でないことに一縷の希望を見出すべきなのかは本当に泣きそうになるのでやめておく。
心は平静に、湖水に静かなる月が映る境地こそ剣の道の精髄と知れ。とにかく落ち着け。考えるな、私。プリーツスカートとかどうでもいいから。
「……うぅ」
違います。寒かったから鼻を啜っただけです。
それにしても肌寒いですね。冬ですね。マフラーとニット帽が有り難いです。ついでにグルグル巻きにしましょう。知り合いなんて一人もいるはずないですけど、今は誰にも顔とか見られたくないですからね。
「と言うか、ですね」
住宅街の中、ひとまず通学路と思しき場所を歩いているのですが、呟きつつ立ち止まります。
「特に何も聞いてないんですけど! 私に何をどうしろと!?」
つまりいつもことですね!
いや、冗談じゃなくて。私も他人のことは言えないような気がするけど、どうして伝達事項がしっかりしないんでしょうね。学校に行ってと言われただけで、そこに何があるのか、何をすれば良いのか聞いていない。ふざけた話にも程があった。
刀は没収だし、うちももは寒いしで、かつてないくらいに心細い。連絡用にスマートフォンは持たされたけれど、あの女はまさか私にハイテク機器が使いこなせるとでも思っているのか。これボタンらしきものが見当たらないんですけど。前に持たされた古い型の携帯電話でも十分ですってのに。
脳内で八雲紫をあの女呼ばわりに格下げしつつ、ともかくは現地に向かうことにする。私も場数だけは踏んでいる。斬るべきものがあるなら自然と吸い寄せられていくだろう。
さて、ほどなくして。
自分の浅はかさを思い知る。
「さっぱりですね」
とんとん拍子で現状が詰んでいく。あの女に救難信号も遅れない以上、日が暮れた後の身の処し方にすら困ってしまう。この格好で夜通し街を練り歩くのは、常識的に考えてよろしくない。幸い、日は頂点に近いにしても、このままでは埒が開かないのも事実だった。
「……困りました」
一人で街をさ迷っていると、早くも挫けそうになった。
恐らくは平日の昼間とあってか、通学路に人通りは少ない。それでも時折人や車とすれ違って、その度にびくりと震えてスカートを抑える。こんな調子で大丈夫なんだろうか。たぶんムリだ。
唯一の活路と言えるのは、この街の地面に足を下ろす前に、あの女と共に鳥瞰図で街の全域を見渡したことか。まあ、地図をうろ覚えにしているといった程度の活路である。
差し当たっての目的地に定めていた中学校の付近に到着して、私の絶望はますます色濃くなった。
「何の異常も見受けられませんね」
妖怪、怪異の気配は無い。いや、街には薄らと厭な気配が漂っているので、何がしかの異常があるのは間違いないのだが、中学校の校舎の近くでその異常が強まるといったことはなかった。つまりはまあハズレということだろう。
となると、高校か小学校の方に行ってみるか、それとも中学校に潜入して、更に細かく調べるか、この二通りの方針が考えられる。
「……」
悩ましい所だ。
確率が高いのは、潜入調査の方だ。わざわざ制服を用意していること、そして、多感の時期の子供を閉じ込めた学舎というのはえてして怪談の舞台と成り易いこと。内部を探ってみれば、外からでは感知できない異常が無いとは言い切れない。
しかしそれを実行するには、中学校に足を踏み入れなければならないことを意味する。はっきり言って、今の姿で素面を押し通してあれやこれやと聞き込みをする自身が無い。
そりゃそうだろう、だって私は忍者などではない。ただの、見様見真似で庭仕事の経験があるだけの、未熟な剣士だ。ちょこっと時空的なものを斬れるからって、それが何だと言うのか。私は、剣の才に恵まれなかったのだろう。決して短くない時を費やしておきながら、この身は未だ幽玄の深奥に至らざる身。こんな半人前には、今回の件、ちょっと荷が勝ち過ぎる。
「…………」
まあ、駄々を捏ねても始まらないことは分かっています。
何度だって主張しますが、私はこれでも相当な修羅場を何度も切り抜けているんですからね。私は強いですからね。強いんですからねっ。強いんですよっ?
「フフフッ」
落ち着きましょう。なんか明鏡止水っぽいなんかアレです。静かなる不動の心で臨むのです。
よし、落ち着きました。
潜入は後回しにして、高校の様子を見に行きましょう。どうせすぐ近くですから。
◇
またハズレですか。
遠目に高校の校舎を眺めやり、ふっと白い息を吐いて嘆息する。あー、なんか子供の頃にやったな。ふーって息を吐いて、ほら見て見て半霊が増えたっ、とか。
よしなしごとを思い返していると、未熟者はまた挫けそうになる。どうしてこの心は平穏でいてはくれないのだろう。ここの所、かつてより自分の心が弱くなったような気がしてならない。
木枯らしに巻かれて、乾いた枯れ葉がカラカラと音を立てて足元を転がっていくのが、なんだか物悲しい。
「む」
ハズレ、ではなかったか。手がかりには掠っていたかも知れない。
校舎の先の曲がり角から、チェック柄が印象的な、こことはまた別の学校の制服を着た少女が一人、歩いてくる。
その少女は、眼鏡を掛けた、クラスの中では目立たなさそうな印象の女子だった。校舎を眺め、手元を覗き込み、これを交互に繰り返しながら歩いているため、こちらにはまだ気付いていない。ともあれ、部外者が明らかに何かを探しながら歩いている図だった。利発そうな子だから、声を掛けられた時の言い訳くらい用意しているか。いや、私の件とは何の関係も無くて、何も後ろ暗い事情が無ければ他校の周辺をうろついているくらい、別に何の問題行動でもないけれど。
「ん?」
あれこれ考えながらジロジロ眺めていたら、目が合ってしまった。
「君、ここの中学生?」
人付き合いを億劫がりそうな少女が、しかし上出来な社交辞令の笑顔を浮かべて、中学生に話し掛けるお姉さんを演じている。
たったこれだけだが、舌を巻くには十分だ。
この少女、問題行動慣れしている。例えば廃墟に忍び込むとか、そういうことを平気な顔でする子だ。ルールに反する後ろめたさ、というものをまるで感じられない。
「ええ、まあ。そんなところです。お姉さんは学校どうしたんですか? 仮病ですか?」
「私の所はテスト期間でねー、午前中に終わったんだー」
「へぇ、そうなんですか」
適当に頷いておく。
「いや、だから今日の活動は、電車一本で行ける所にしようと思って、どうせ近場だし全然本腰なんか入れてない、ただの散歩のつもりだったんだけど。まさかアタリを引くとは思わなかったわ」
「?」
「綺麗な髪ね」
少女の指先が、私の髪に触れる。
「しっかりしてそうだけど、意外とアホの子? まあ、バレてないと思ってるなら、別に良いよ。ところで君、この辺で幽霊騒ぎがあったらしいだけど、何か知らない?」
「……いや」
それを知っていたら苦労していない。
「子供が怪我したんだってさ」
「へぇ、それは大変ですね。で、まさか現場を見に来たんですか? 悪趣味ですね」
「んー、趣味が悪いのは自分でも分かってるけど、私は事故現場の野次馬に来たわけじゃない」
素っ惚けて笑う、高校生のお姉さん。いや、私からするとだいぶ年下なのだが、今は中学生らしくしておこう。
「その現場では、些細とは言え、明確な異常が発生している。これは大きな掲示板とかじゃなくて、もっと閉鎖的なコミュニティの書き込みで見付けたものなんだけどね。だから、本当に些細なことなのかな」
「……」
「君、何か知らない?」
「いいえ、なんにも」
本当に。
「逆にお訊ねしますが、お姉さんは何か知ってるんですか?」
「うん、この辺りの学校ってことは分かってる。問題の書き込み自体が少なくて、小中高のどれかは分からなかった」
「中学校は違ったみたいですよ」
「あ、そうなんだ。じゃあ消去法で小学校だね。一緒に来る? どうせ、目的地は同じなんでしょ?」
少女は、恐らくはこの少女にしては珍しい、愉快そうな微笑を散らした顔を見せる。
私は差し出された手を取らず、控え目に頷いて見せた。
◇
──猫が死んでて気持ち悪い。
写真は削除済み。その文章以外に何も情報の無い、投稿サイトのページだった。
眼鏡の少女は私に見せたスマホをスクールバッグに仕舞って、女子にしては早足な歩調で先を歩く。小柄な身としては、そうされると困るのだ。ちょっと頑張って隣に並び、更に詳しいことをそれとなく聞き出す。
中学校と高校は近かったのに、小学校だけは少し離れた所にあった。道中、会話の猶予がある。
「猫がね、木の根元で死んでたらしいのよ。それだけと言えば、それだけ」
「……でもちょっと妙ですよね。猫って誰にも見付からない所でひっそりと息絶えるのが普通なのに」
「ふーん? それは迷信みたいなものかと思ってたけど、君の所では、それが普通なんだ。車に牽かれた猫の死体なんて、私は何回か見掛けたことあるんだけど……まあ、不慮の事故か。でも、その猫はどうにも自然死っぽいのよね。まるで、猫が死に場所に木の根元を選んだみたいに」
「じゃあやっぱり、おかしいってことですか」
「いや別に、おかしいと断ずるほどではないんでしょうけどね。ただ、小学校という場所が悪かった。その絵面がまあまあショッキングだったらしくて、木を切る切らないで問題になったらしいのよ。っていうのが続報。嫌よね、過剰反応社会って」
「……」
猫が死んでいた。言ってしまうと猫に可哀そうだが、それだけで?
「いや、事故がある。木登りで遊んでた子供が怪我しただけの、しょうもないものみたいだけど」
「……よく、調べていますね」
「ネット検索は得意なのよ」
そういう問題なんだろうか。
だとしても私には、調べた上で足まで運ぶ行動力が恐ろしい。この少女は本気を出したらどの程度のことまでしでかすのだろう。
「どっちが先なのかな? そこまでは、分からなかったのよね」
「と言うと?」
「猫と事故、どっちが先かってこと」
「何が問題になるんです?」
「いや、場合によっては生徒の怪我って、桜がやったことにならない?」
──桜。
「あの桜は、人を呪うらしいよ?」
ふっと血の気が引いて、気が遠くなるような思いだった。
◇
希代の数寄者にして、道楽家。
我が友に対する私の評価は、率直に言って最悪だ。あんなクズ人間、これまでにもこれからも出会うことはないだろう。
とにもかくにも変人で、華やかなりし都を離れては山中を渡り歩き、それでいて、苛烈な求道心を、本心から真如の光を求むるひたむきな探求心をも持ち合わせているという、ある種乖離した両面的な、いや、その二面性までも含めての変人だった。
とりわけ、我が友からの私に対する評価が、「剣以外、何をやってもぽんこつ」だとか、「率直に言ってクズ人間」であったことも、お前が言うなという憤慨も合わせて、彼の評価を下げている。だがまあ、剣聖と評されるに至らない身には、歌聖と謳われるに値しない友とは、さぞお似合いのことであったろう。結局の所、不真面目な彼と生真面目な私とでは性格は真逆だったにしても、世間で言われるような真っ当な人間としては生きられなかったのが、私達なのだから。
だが、認めるわけではない。隨縁隨興。何事も気の赴くままに楽しむ困った野郎で、アイツは死後にすら特大の厄介事を残していきやがった。
とある、妖木。
人の道理を重んじるのなら、その危険な桜は斬らねばならなかった。
だが私は斬れなかった。
友の面影を見たとかの躊躇ではない。ただ単純に、実力が伴わなかったのだ。あの見事に桜に相対しただけで手足は萎え、心底から恐懼した。殺されるかと思った。
そして素直に、私は己の未熟を認める。ああ、この身は剣の神髄に掠りもしない半人前だとも。
ここまでならば、まだ庇いようはあった。実力が足りぬなら腕を磨けば良いだけのこと。私は事情を偽って旅に出た。要するに、逃げたのだ。真理に至ることも諦めたのだ。かつて友と交わした、剣と歌、辿る道は違えど、共に同じ真如の光を見ようという約束さえ、捨てたのだ。
もちろん、あの桜が甦らぬように手は打った。だが、それが何だ。私は結局、あの桜を斬れなかった。その事実が重く我が身に圧し掛かる。
ああ、そうだ。悟ったとも。自分には無理だと悟った。
私は、役目から逃げたんだ。半人前? いや、それ以下ではないか。剣を振ってすら、ぽんこつだと笑われてしまう。
「ねぇちょっと、大丈夫? ねぇってば」
情けないにも程がある。
年端もいかない娘にガタガタと肩を揺すられて、やっとのことで正気に戻った。
「すいません。今日は朝から大変なことがあったもので」
八雲紫のせいにしておこう。あの女も我が友に負けず劣らずの困ったやつなのです。
実際、前回の依頼を片付けて這う這うの体で戻った私の朝風呂に対しての、あの仕打ち。吹き飛んだ疲れの倍以上は疲れた。
「えっと、それで、何でしたっけ?」
「いや、だから桜ね。あれじゃない? 敷地の外からでも見えるわよ」
「……」
そして私は、その桜の木を見る。
枯れ木だった。太い幹は捻じれ、葉の落ちた枝を、寒空へと這わせている。立派、と良い桜の木ではあるが、小学校の敷地にあるにしては、だろう。古木としても、まだ若い。何も、恐れることなどない。
恐れることなどないのに、心も体も正直だ。花が咲いているわけでもないのに、寒気が全身を苛み、肌が粟立った。斬らねばならないものから逃げた罪の記憶は、こんな無関係な場所でさえ私のことを追い詰める。
「桜アレルギーか何かなの? 冷や汗すごいよ?」
「なんでもありません。大丈夫です」
ああ、桜を見るとこれだ。桜の園たる白玉楼に逗留できるはずもない。
「……うん、でも。あれだけか」
少女はどこか口惜しそうに、敷地のフェンス越しに、桜の裸木を見上げる。
過去の記憶から、勝手に寒気に震え上がる私と違って、一般的に見れば、それはただの木だ、恐怖を覚えるようなものではない。かと言って、落胆するのもどうかと思うのだが。
「何でこうなったのかまでは視えないけど、この木は、人を怪我させる程のものなのかしら?」
「はい?」
「いや、貴方も視えるんでしょ? って言うか人間じゃないでしょ?」
「知ってたんですか……?」
「やっぱりアホの子だよね。そりゃ、貴方にくっついてる霊体くらいは視えますから。どうも初めまして、超能力少女やってます」
「……」
腑抜けている、という評価で済めば良いが。ボケたのか……?
「で、貴方から見て、あの桜の枯れ木はどんな感じ? 私程度の霊能力だと、実に分かり易い黒いモヤモヤくらいしか視えないのよね」
「……悪い感じはします」
「そう、悪い感じはする。でも、それだけ。貴方もそう思うかな?」
こくん、と頷いた。
悪い感じはする。弱った猫くらい殺すだろう。だが、それだけだ。だってあの木は、所詮、まだ一人も人間を殺していない。要するに、大したことがないのだ。
「ま、所詮は近場で見付かる怪異なんて、こんなものよね」
と、ものすごく勝手な言い分だが、少女に言わせれば、鑑賞する価値が高くない、ということになるのだろう。
「それで、さ。私はただの物見遊山なんだけど、貴方は? 貴方は何か目的があって来たんじゃないの? それが面白そうなら、見学させてもらっても良いかな。もちろん、邪魔はしないし、邪魔になりそうなら離れた所で見てるだけでも良いからさ」
少女は、言葉遣いこそ先程までのやり取りを継続させたものだったが、社会科見学でも申し込む優等生のように、私に頭を下げる。しかし態度だけ見れば普通でも、頼んでいる内容は普通ではなかった。
「ねぇ、貴方は何をしに、ここまで来たの?」
「……私、は」
あの桜は大したことがない。誰にだって斬り倒せる。
だから私は、こう答える。
「私は、ただ様子を見に来ただけです。そして、見た所、ただちに危険な影響は無いように思います。事故の心配もあるとのことですが、そんなもの、近付かなければ良いだけです」
「確かに、立ち入り禁止のテープは張られているね」
脆くなった枝が落ちてきて、思わぬ怪我をする可能性がある。妥当な処置だ。
「あとは庭園業者の仕事です。私は生憎と、本職の庭師ではありませんので。ただの、剣の道を諦めた剣士崩れです」
「ふーん? でも、大丈夫かな。木を斬ろうとした手痛い呪いが降り掛かるなんて、よくある話だと思うけど。たかだか女子高生の意見と聞き流してもらっても良いけど、霊能関係に通暁した人が何とかした方が良いと思うなー」
また逃げるのか、なんて。
別にこの少女は言っていなくて、自分の内から聴こえる心の声。
「それに、なんでこの木はこうなったのか、謎のままにしとくの?」
「誰も困らないのに、謎を解き明かす必要なんて無いですよ」
「うん、それはそうだ。単なる私の好奇心だった」
さて、と少女は呟いて、最後に名残惜しそうにもう一度だけ、枯れ枝越しの寒空を仰いだ。
「もっと深く突っ込んで調べたいけど、学生の身では無理がある。将来は学芸員にでもなろうかな? あー、でも勉強がなー、うあー、やってらんねー。って言うか学芸員ってどうやったらなれんのよーっ。って言うか今日の古文はちょっとヤバかったー!」
よしっ、と一言。
彼女も彼女で何かあったらしいが、すっかり気分を切り替えたようだった。テスト期間が続くのなら、こんな所で油を売っているべきではないだろう。
「またね、貴方が来年の春まで見過ごされていれば、その時にまた、花見にでも来るわ」
少女は物言わぬ木に語り掛ける。あまり、未来の出来事に関しては期待していないように見えた。物見遊山の無責任な客ながら、ささやかな別れを告げている、それだけで。しかしそれも、無関係な他人として身を引いた、彼女なりの敬意か。
「じゃあ、そっちの弱虫さんも。また縁があれば、会いましょう」
恐らく、こんな縁は二度とあるまい。今日この日に出会ったのだって、何らかのイレギュラーだろう。
私は、桜と少女に背を向けるべく、踵を返す。
いや、違う。まだだ。まだ、帰れない。
「待ってくださいっ。一つだけ、貴方から聞かなければいけないことが残っています!」
振り返って、大声で眼鏡の少女を呼び止めた。すぐに駆け寄って、縋るようにその肩を掴む。
「あのっ、スマートフォンの使い方って分かりますかね?」
これくらいは仕方ないですよね。
◇
「つっっっかえないわねぇ」
スキマから顔を出した紫は、開口一番、罵倒を吐き捨てた。
それは、あんまりではないか。もうちょっと使い走りを労わるとかもっと色々あると思う。
「ほんと使えない。何なの? それでも剣の鬼と言われた人斬りなの? ちょっとスカート履いたくらいで去勢されちゃったわけ? と言うかもうとっくに枯れてるのかしら? 種なし! チキン野郎!」
「……」
何この凄まじい罵倒の数々。
私、何か間違ってるのかな。間違ってないよね。勝手なことを頼んで勝手に失望してるのはそっちだよね。
「はああ~~~、ほんっと、貴方にはガッカリだわ」
トドメとばかりに私の顔を見て、盛大な溜め息を吐きやがった。
「もう良い。この件に関しては他の友達に相談するから」
そう言ってスマホを弄る。外の世界の件なら外の世界の者に頼むのだろうが、他の伝手があるなら、最初からそっちを頼って欲しい。と言うか、幽々子嬢以外に友達なんていたのか。
「ほら、刀は返してあげる」
そこだけは律儀に、私が旅先で手に入れた大業物を返してくれる。
「安全だけは確認しましたよ。どのみち古い枯れ木ですから、伐採の予定もあるそうです。春までに切り倒してしまえば、何の問題も無いでしょう。はい、以上が報告です。何か文句がありますか?」
「貴方って、本当に使えないわね」
冗談の罵倒ではなくて、やや本気に近い冷ややかな視線が私を射抜く。
人外の貌。人外の眼差し。忘れてはならない、彼女は人間の道理など通じぬ、身勝手極まる存在だった。
「……誰が、安全の確認をしろなんて言った?」
「……いや、それどころか全く何も言ってなくないですか?」
馬鹿馬鹿しい抗弁だった。私の言っていることはまともな理屈だが、まともが通用するはずもない。
八雲紫にとっては、周囲の安全なんて要素は、優先度の高い問題にはならないのだろう。
「そんなだから、貴方はいつまで経っても未熟者なのよ」
「…………」
それだけは、返す言葉が無い。私は半人前の未熟者だとも。
「ですが、大して親しくもない間柄の貴方に、そこまで言われる筋合いもない」
「親しいわよ。もうかれこれ千年以上の付き合いになるわけでしょ?」
紫にしては珍しい直球な一言が刺さる。
うむ、親しいと言えば親しいのである。この性悪女と仲が良いとだけは絶対に思わないけど。
「……むぅぅ」
「で。どうせ白玉楼には立ち寄らないのよね?」
「それはそうですよ。会わせる顔が無い」
「だから貴方は未熟者なのよ、ぽんこつなのよ。孫の相手くらいしなさいよ臆病者」
「いや、あの、紫。さっきから酷くないですか?」
確かに果たすべき務めからは逃げて続けているので、その点に関してだけはその通りでしかないのだし、こんな形ではあるけれど、自分の都合のついでくらい程度には、紫が私の後押しをしてくれたもの察している。
逃げた記憶に向き合って、トラウマも克服するべきだ。だってこのままでは、何百年の時間が過ぎようと、私はまともに孫の顔さえ拝めない。
けれどもですね、言い方というものがあると言うか、手加減? みたいな、ね。ありますよね? 優しさって。
「幽々子と妖夢が知ったら何て言うかしら」
「……ええ、その通りですね。本当に、私は何をやっているんでしょう」
情けないにも程があろう。こんな私を許してくれとは言わないが。
「あの妖忌が、女子中学生の制服を着て街を徘徊してきただなんて、ね。私だったらお腹が捩れるほど笑って死んでしまうわ」
しくしくめそめそ。いかにも涙ぐましいといった感じで、紫は目尻の涙を拭いながら言う。
「ああ、なんて嘆かわしい」
「これは紫が無理矢理着せたんじゃないですかっ!」
パシャ、と。
無慈悲にも響く、スマホのカメラの音。
「せめてこの写真だけでも見せて、安否だけでも伝えることにしましょう。だいじょうぶ、妖忌おじいちゃんは元気です。女の子に生まれ変わって生きていきます」
それの何がだいじょうぶなのか。こんな姿、とてもではないが見せられない。
「いい加減にしてください泣きますよ!?」
妖夢、そして幽々子嬢、ごめんなさい。残念ですが、私はまだまだ白玉楼には顔を見せられそうにはありません。
◇◇◇ 終
「それにしても、まるで生きている人間みたいな表情をするようになったじゃない、あの貴方が」
静かな夜だった。道楽家が好みそうな夜である。
まだ宵の口、ではあるが、紫は余程私の報告にガッカリしたのか、呷るような勢いで酒瓶を空にして、頬に朱を差していた。
なぶるような口調にも、私は返す言葉を持たない。
この身は剣と心得る。
只斬るのみ。真実だとか真理だとか言われる“何か”を求め、生死の交わる死地にこそ、それが在るものと確信し、棒振りに明け暮れる幽鬼か亡者の如き日々であった。
体を駆け巡る血液は躍らせども、静穏なる心は保つべし。魂を刃に載せて奔らせる時、己の存在は限り無く透明に近付いた。やはり、真実は死地にこそ在れり。何物にも臆することなく、仏の道に背を向けて、果し合いの渦中、生と死の境界に真如の光を見出さんともがき続けた。
頂きに至るか、この身が尽きるか、どちらが先か。己の運命はそのどちらかであると、そのようにばかり、思っていたのだがな……
私は、弱くなったのだろう。
悪鬼羅刹の類いにも怯むことのなかった私が、鳥の声に心を乱し、桜の花にも惑わされるようになった。
忘れるはずもない。今でも目を閉じれば思い起こす光景があり、甦ってくる花の香がある。
どこぞの山中であった。立ち合いを終えたばかりの漂泊の身は、その草庵に流れ着く。何をするでもなく暇そうに座っていたのが、お前だった。お前は私の姿を鼻で笑い、くい、と酒盃を傾ける仕草をして見せた。
ああ、そうだとも、我が友よ。私は弱くなった。あの時にお前と酌み交わした酒が旨かったばかりに、この心は乱れるばかり。死ぬことが怖くなったし、強者相手に怯えるようになった。私は飯の支度に追われるわ、お前がやらかした後始末だとかで、なんかもう散々な目に遭った。あの人斬り幽鬼が、孫の顔まで見るようになるなどと、誰が思うよ。
なあ、友よ。
今の私をお前が見れば、やはりあの時のように、鼻で笑って見せるのだろう。
ああ、なんか変な声が出る。檜風呂とは良いものです。
今日は久し振りに八雲さん宅にお邪魔して、湯を借りている。肩まで熱い浴槽に浸かれば、日々の凝り固まった疲れまでも、ざぱざぱざぱーと零れていく湯と共に体から流れ出ていくかのようだ。むすーっと難しい表情も、この時ばかりは緩んで良かろう。物は試しと浴室に鏡を探してみれば、湯気でぼんやりとしか映らぬものの、実に腑抜けた表情をした自分の顔が目に入る。
「……みゅみゅみゅ」
むむむ、と言いたかった。
流石に、腑抜け過ぎか。これでも自分は普段、厳格・生真面目と評判で、近寄ったら斬られそうな恐面キャラで通っているのだ。とてもではないが、こんな顔は他人には見せられん。いや、別に良かろう。なにせ折角の風呂だ。どうせ一人だ。
ところで家主が容貌に気を使うからだろうか、浴室の鏡は全身が映るほどの大きな物で、現在の自分の住まいとの違いが気になってくる。
「……ちょっとだけ。ちょっとだけ、だから」
立って、体を映してみたりなんかしちゃって。
顔立ちは、それなり以上に美形と言って良いのではないか? 肩口で切り揃えた白い髪は、時代が一周回って、むしろ逆に今様な感じ。体格は立派でこそないものの、よくよく見て見れば鍛えた体付きだと分かるし……いやいや、背が低いのは気にしてはいますけどっ。でもこのしなやかな筋肉は美しいはずなのですっ。って誰に主張してるんですか私はっ。
ぺたぺた、ぺたぺた……
ほら、ここの筋肉とか良い感じ。別に貧相じゃないですし、見る人が見れば分かりますよ、これ。──はっ、これは剣豪筋っ、たゆみない努力で剣を振るった者だけに備わるという伝説の、みたいな感じで。
「ふふふん♪」
小柄なのは気になるけど、それは半分幽霊という種族故、致し方なし。半人半霊は、人よりも成長が遅いのである。しかし総じて見れば中々どうして強そうではないか。あとはちょっと背が伸びて、体付きががっしりして、普段通りの厳めしい表情さえすれば、泣く子も黙るというものですよ。
「湯加減はどうかしらー?」
「っ!?」
瞬間、ばっしゃんと湯に浸かる。
急に話し掛けないでくれますかねっ!!
などとは言わない。すっかり油断していたのはこちらだ。わざわざ湯を沸かしてくれた八雲紫に、私は咳払い一つ、平静を装って答える。
「ええ、とても良い湯です。貴方が私に親切だなんて、いったいどういう風の吹き回しなのかは気になりますけどね」
我ながら、完璧だ。
感謝を述べつつも皮肉を交えることで、内心の動揺を完全に隠している。
「そう。それは良かったわ」
「そうだよ、それは良かったのだよ」
謎口調。まあ、許容範囲ということで。
時に質問なのですが、どうして脱衣所で衣擦れの音がするんですかね?
「私もお湯を頂こうかしら」
「ちょっ、なんで入ってくるんですかっ!?」
あわわわっ、顔を覆って、色々見ないようにして、隠す所を隠して、あとは何をしたら良いのっ!?
それでも指の隙間から、豊かな金髪とか体付きが見えちゃったりして。
「私の家のお風呂なんだから、私の勝手でしょう?」
「でもこの場合は勝手じゃないと思いますよっ?」
なんでちょっと声が上擦った半泣きなんだろう。水分でふやけた半霊が落ち着けと言ってくれているような気がするけど、これが落ち着いていられますかっ!! だって色々見えちゃうし見られちゃうじゃないですかっ!! ってとりあえず落ち着きましょうよっ!!
ふふふ、私だってもう子供ではないのです。何年生きてると思ってるんですか。ここは一つ、オトナの対応でクールに切り抜けてやりましょうとも。
「あ、あのっ、じゃあ、私はこれでお先に……失礼します!」
よし。あとは修行で培った剣術仕込みの超絶足捌きのダッシュで逃げる。
「まあまあ、たまにはゆっくり話してみるのも悪くないんじゃない?」
そう言えば八雲紫も謎の体術を使うのだった。いとも簡単に絡め取られてしまう。しかもスキマ経由で有り得ない所から手が出てくるために意表を突かれる。
おのれ、不甲斐ない。よもやこの程度の乱心で普段の力が出せぬとは。
「って言うか色々当たってるんですけど!」
「あら、私と貴方の仲でしょう?」
「ぶっちゃけそんなに親しい覚えとか無いですよっ!?」
さっきから大声がわんわんと反響している。頭痛くなってきた。のぼせなきゃいいけど。
「うぅ、ひどい。ぐすんっ」
これはどう見ても嘘泣きなので放っておくとして。
隙を見て湯船に避難。
「ぶくぶくぶく……」
暴れたせいでちょっと量が減ってしまった湯に、目の下あたりまで浸かる。
ところで誰でも良いから問い質したいのだが、このイベントは必要なのか。
「必要よ。必要不可欠よ」
「誰が貴方に答えろと言いましたか」
と言うか、当たり前のように内心を読まないでください。
「ところで貴方って相変わらずぷにぷにしてるわね。全体的にコンパクトだし」
「はっ。見る目が無いですね。特別に見せてあげましょう、この腕の筋肉を。ほら、剣豪っぽいじゃないですか。しなやかで美しいじゃないですか」
「……いや、見るからに、すごくぷにぷにしてそうなんですけど?」
「浅はかですね。刀を筋肉で振ってると思うなら、ド素人の証拠ですよ」
「じゃあ剣豪っぽい筋肉って何なのよ」
それはそれでもっともらしい指摘だった。
「……はぁ」
疲れが取れたと思った矢先だと言うのに、何故、どっと疲れねばならんのか。
「もう先にあがって良いですかね?」
「良いわよ」
すごく疲れました。
……
…………
そうそうそう、そうでした。
まさかあの八雲紫がこの程度で逃がしてくれると思うなんて、私はどれだけ気が緩んでいたんでしょうね。
その一大事は、脱衣所で体を拭き終えた後に発覚した。
着物が無い。刀も無い。もう一度、着物が一枚も無い。
「おい、八雲紫」
厳めしい顔、厳めしい顔、厳めしい顔、と心に念じる。つまらん悪戯なんて許さんぞという厳めしい顔をするのです、がんばれ私。
「うん? 何かしら?」
優雅に湯を掛け流す音が聴こえてきて腹が立った。こっちは今、それどころじゃないってのに。
「私の服が無いんだが、これはいったい、どういうことだ?」
ちゃんと置いてあった。大事な刀も一緒に置いたんだから、間違いは有り得ない。
「洗っておいてあげるわ。私ってデキる女? で、着替えの服なら、ちゃんと用意しておいたわよ」
「いや、されていないようなのですが」
実を言うと、この時点で視界の端には入っていた。でもまさか、それが自分用だとは思わない。
「分かり易い所にカゴが置いてあるでしょう?」
「確かに、分かり易い所にカゴは置いてあります」
「それよ」
「……これ、何の服です?」
手に取ってはみたが、あまり馴染みの無い種類の洋服だった。
まず、丈の短い紺色のスカート。白が眩しいシャツには、……確か、異国の海兵がこんなだったような、特徴的な襟飾りが……
「セーラー服。中学校の制服よ」
「ふざけてんですかっ!?」
「貴方に頼みたいことがあるのよね。お願い、聞いてくれる? ふはは貴方の大切な刀は預かったー、ふははー」
すごい棒読みで言ってくれやがりますけど、それはお願いではなく脅迫というのだ。
「あれ結構な大業物なんですけど」
「まあまあ、用が済んだらちゃんと返すし、手入れと保管の仕方くらい心得てるから安心して頂戴。そもそも、あんな物騒なものを持って学校に行ってもらうわけにもいかないのよ」
「とりあえずこれだけは言っておきますけど、貴方のことがすごく気に入らないです」
以前から、いつか斬るリストの上位には食い込んでいましたけどね。
「斬れるものなら、どうぞ?」
「その前に刀を返してください」
「じゃあ、お願いは聞いてくれるってことで良いのね?」
「ええ」
大方、また何かの荒事だろう。それ自体なら受けて立つ所だ。普通に頼んでくれれば良いのに。
「それは良かった。制服は一人で着られそう? ちゃんと下着も付けないとダメよ?」
「……?」
持ち上げた制服の下から、見たこともないようなパステルカラーが現れた。眩しい黄緑色。小さなリボンの飾りが付いた、かわいい系のソレ。もはや未知といったレベルの手触りに凍り付く。しかも何の冗談か知らないが、上下共に揃っていやがる。
「付け方、分かる? ふふっ、貴方も初ブラデビューね」
「いい加減にしてください泣きますよっ!?」
私はこれでも、厳格で怖くて近寄り難い雰囲気と評判なのだ。本当だ。本当です、信じてください、普段はもっと怖いんです。
とりあえず、八雲紫のことは後で斬ります。もう決めましたから。泣いて謝ったって許してあげないんですからね。
◇
学校と言うからには、場所は外の世界なのだった。
一応、外の世界の事情は粗方が頭に入っているので、常識関係で困ることはないだろう。でもって、問題の学校は街の中にあって、ほぼ近くに小中高と点在している大学附属の系列校のようだった。私の着せられた制服は中学校のもので、高校でないことに文句を言うべきか、小学校でないことに一縷の希望を見出すべきなのかは本当に泣きそうになるのでやめておく。
心は平静に、湖水に静かなる月が映る境地こそ剣の道の精髄と知れ。とにかく落ち着け。考えるな、私。プリーツスカートとかどうでもいいから。
「……うぅ」
違います。寒かったから鼻を啜っただけです。
それにしても肌寒いですね。冬ですね。マフラーとニット帽が有り難いです。ついでにグルグル巻きにしましょう。知り合いなんて一人もいるはずないですけど、今は誰にも顔とか見られたくないですからね。
「と言うか、ですね」
住宅街の中、ひとまず通学路と思しき場所を歩いているのですが、呟きつつ立ち止まります。
「特に何も聞いてないんですけど! 私に何をどうしろと!?」
つまりいつもことですね!
いや、冗談じゃなくて。私も他人のことは言えないような気がするけど、どうして伝達事項がしっかりしないんでしょうね。学校に行ってと言われただけで、そこに何があるのか、何をすれば良いのか聞いていない。ふざけた話にも程があった。
刀は没収だし、うちももは寒いしで、かつてないくらいに心細い。連絡用にスマートフォンは持たされたけれど、あの女はまさか私にハイテク機器が使いこなせるとでも思っているのか。これボタンらしきものが見当たらないんですけど。前に持たされた古い型の携帯電話でも十分ですってのに。
脳内で八雲紫をあの女呼ばわりに格下げしつつ、ともかくは現地に向かうことにする。私も場数だけは踏んでいる。斬るべきものがあるなら自然と吸い寄せられていくだろう。
さて、ほどなくして。
自分の浅はかさを思い知る。
「さっぱりですね」
とんとん拍子で現状が詰んでいく。あの女に救難信号も遅れない以上、日が暮れた後の身の処し方にすら困ってしまう。この格好で夜通し街を練り歩くのは、常識的に考えてよろしくない。幸い、日は頂点に近いにしても、このままでは埒が開かないのも事実だった。
「……困りました」
一人で街をさ迷っていると、早くも挫けそうになった。
恐らくは平日の昼間とあってか、通学路に人通りは少ない。それでも時折人や車とすれ違って、その度にびくりと震えてスカートを抑える。こんな調子で大丈夫なんだろうか。たぶんムリだ。
唯一の活路と言えるのは、この街の地面に足を下ろす前に、あの女と共に鳥瞰図で街の全域を見渡したことか。まあ、地図をうろ覚えにしているといった程度の活路である。
差し当たっての目的地に定めていた中学校の付近に到着して、私の絶望はますます色濃くなった。
「何の異常も見受けられませんね」
妖怪、怪異の気配は無い。いや、街には薄らと厭な気配が漂っているので、何がしかの異常があるのは間違いないのだが、中学校の校舎の近くでその異常が強まるといったことはなかった。つまりはまあハズレということだろう。
となると、高校か小学校の方に行ってみるか、それとも中学校に潜入して、更に細かく調べるか、この二通りの方針が考えられる。
「……」
悩ましい所だ。
確率が高いのは、潜入調査の方だ。わざわざ制服を用意していること、そして、多感の時期の子供を閉じ込めた学舎というのはえてして怪談の舞台と成り易いこと。内部を探ってみれば、外からでは感知できない異常が無いとは言い切れない。
しかしそれを実行するには、中学校に足を踏み入れなければならないことを意味する。はっきり言って、今の姿で素面を押し通してあれやこれやと聞き込みをする自身が無い。
そりゃそうだろう、だって私は忍者などではない。ただの、見様見真似で庭仕事の経験があるだけの、未熟な剣士だ。ちょこっと時空的なものを斬れるからって、それが何だと言うのか。私は、剣の才に恵まれなかったのだろう。決して短くない時を費やしておきながら、この身は未だ幽玄の深奥に至らざる身。こんな半人前には、今回の件、ちょっと荷が勝ち過ぎる。
「…………」
まあ、駄々を捏ねても始まらないことは分かっています。
何度だって主張しますが、私はこれでも相当な修羅場を何度も切り抜けているんですからね。私は強いですからね。強いんですからねっ。強いんですよっ?
「フフフッ」
落ち着きましょう。なんか明鏡止水っぽいなんかアレです。静かなる不動の心で臨むのです。
よし、落ち着きました。
潜入は後回しにして、高校の様子を見に行きましょう。どうせすぐ近くですから。
◇
またハズレですか。
遠目に高校の校舎を眺めやり、ふっと白い息を吐いて嘆息する。あー、なんか子供の頃にやったな。ふーって息を吐いて、ほら見て見て半霊が増えたっ、とか。
よしなしごとを思い返していると、未熟者はまた挫けそうになる。どうしてこの心は平穏でいてはくれないのだろう。ここの所、かつてより自分の心が弱くなったような気がしてならない。
木枯らしに巻かれて、乾いた枯れ葉がカラカラと音を立てて足元を転がっていくのが、なんだか物悲しい。
「む」
ハズレ、ではなかったか。手がかりには掠っていたかも知れない。
校舎の先の曲がり角から、チェック柄が印象的な、こことはまた別の学校の制服を着た少女が一人、歩いてくる。
その少女は、眼鏡を掛けた、クラスの中では目立たなさそうな印象の女子だった。校舎を眺め、手元を覗き込み、これを交互に繰り返しながら歩いているため、こちらにはまだ気付いていない。ともあれ、部外者が明らかに何かを探しながら歩いている図だった。利発そうな子だから、声を掛けられた時の言い訳くらい用意しているか。いや、私の件とは何の関係も無くて、何も後ろ暗い事情が無ければ他校の周辺をうろついているくらい、別に何の問題行動でもないけれど。
「ん?」
あれこれ考えながらジロジロ眺めていたら、目が合ってしまった。
「君、ここの中学生?」
人付き合いを億劫がりそうな少女が、しかし上出来な社交辞令の笑顔を浮かべて、中学生に話し掛けるお姉さんを演じている。
たったこれだけだが、舌を巻くには十分だ。
この少女、問題行動慣れしている。例えば廃墟に忍び込むとか、そういうことを平気な顔でする子だ。ルールに反する後ろめたさ、というものをまるで感じられない。
「ええ、まあ。そんなところです。お姉さんは学校どうしたんですか? 仮病ですか?」
「私の所はテスト期間でねー、午前中に終わったんだー」
「へぇ、そうなんですか」
適当に頷いておく。
「いや、だから今日の活動は、電車一本で行ける所にしようと思って、どうせ近場だし全然本腰なんか入れてない、ただの散歩のつもりだったんだけど。まさかアタリを引くとは思わなかったわ」
「?」
「綺麗な髪ね」
少女の指先が、私の髪に触れる。
「しっかりしてそうだけど、意外とアホの子? まあ、バレてないと思ってるなら、別に良いよ。ところで君、この辺で幽霊騒ぎがあったらしいだけど、何か知らない?」
「……いや」
それを知っていたら苦労していない。
「子供が怪我したんだってさ」
「へぇ、それは大変ですね。で、まさか現場を見に来たんですか? 悪趣味ですね」
「んー、趣味が悪いのは自分でも分かってるけど、私は事故現場の野次馬に来たわけじゃない」
素っ惚けて笑う、高校生のお姉さん。いや、私からするとだいぶ年下なのだが、今は中学生らしくしておこう。
「その現場では、些細とは言え、明確な異常が発生している。これは大きな掲示板とかじゃなくて、もっと閉鎖的なコミュニティの書き込みで見付けたものなんだけどね。だから、本当に些細なことなのかな」
「……」
「君、何か知らない?」
「いいえ、なんにも」
本当に。
「逆にお訊ねしますが、お姉さんは何か知ってるんですか?」
「うん、この辺りの学校ってことは分かってる。問題の書き込み自体が少なくて、小中高のどれかは分からなかった」
「中学校は違ったみたいですよ」
「あ、そうなんだ。じゃあ消去法で小学校だね。一緒に来る? どうせ、目的地は同じなんでしょ?」
少女は、恐らくはこの少女にしては珍しい、愉快そうな微笑を散らした顔を見せる。
私は差し出された手を取らず、控え目に頷いて見せた。
◇
──猫が死んでて気持ち悪い。
写真は削除済み。その文章以外に何も情報の無い、投稿サイトのページだった。
眼鏡の少女は私に見せたスマホをスクールバッグに仕舞って、女子にしては早足な歩調で先を歩く。小柄な身としては、そうされると困るのだ。ちょっと頑張って隣に並び、更に詳しいことをそれとなく聞き出す。
中学校と高校は近かったのに、小学校だけは少し離れた所にあった。道中、会話の猶予がある。
「猫がね、木の根元で死んでたらしいのよ。それだけと言えば、それだけ」
「……でもちょっと妙ですよね。猫って誰にも見付からない所でひっそりと息絶えるのが普通なのに」
「ふーん? それは迷信みたいなものかと思ってたけど、君の所では、それが普通なんだ。車に牽かれた猫の死体なんて、私は何回か見掛けたことあるんだけど……まあ、不慮の事故か。でも、その猫はどうにも自然死っぽいのよね。まるで、猫が死に場所に木の根元を選んだみたいに」
「じゃあやっぱり、おかしいってことですか」
「いや別に、おかしいと断ずるほどではないんでしょうけどね。ただ、小学校という場所が悪かった。その絵面がまあまあショッキングだったらしくて、木を切る切らないで問題になったらしいのよ。っていうのが続報。嫌よね、過剰反応社会って」
「……」
猫が死んでいた。言ってしまうと猫に可哀そうだが、それだけで?
「いや、事故がある。木登りで遊んでた子供が怪我しただけの、しょうもないものみたいだけど」
「……よく、調べていますね」
「ネット検索は得意なのよ」
そういう問題なんだろうか。
だとしても私には、調べた上で足まで運ぶ行動力が恐ろしい。この少女は本気を出したらどの程度のことまでしでかすのだろう。
「どっちが先なのかな? そこまでは、分からなかったのよね」
「と言うと?」
「猫と事故、どっちが先かってこと」
「何が問題になるんです?」
「いや、場合によっては生徒の怪我って、桜がやったことにならない?」
──桜。
「あの桜は、人を呪うらしいよ?」
ふっと血の気が引いて、気が遠くなるような思いだった。
◇
希代の数寄者にして、道楽家。
我が友に対する私の評価は、率直に言って最悪だ。あんなクズ人間、これまでにもこれからも出会うことはないだろう。
とにもかくにも変人で、華やかなりし都を離れては山中を渡り歩き、それでいて、苛烈な求道心を、本心から真如の光を求むるひたむきな探求心をも持ち合わせているという、ある種乖離した両面的な、いや、その二面性までも含めての変人だった。
とりわけ、我が友からの私に対する評価が、「剣以外、何をやってもぽんこつ」だとか、「率直に言ってクズ人間」であったことも、お前が言うなという憤慨も合わせて、彼の評価を下げている。だがまあ、剣聖と評されるに至らない身には、歌聖と謳われるに値しない友とは、さぞお似合いのことであったろう。結局の所、不真面目な彼と生真面目な私とでは性格は真逆だったにしても、世間で言われるような真っ当な人間としては生きられなかったのが、私達なのだから。
だが、認めるわけではない。隨縁隨興。何事も気の赴くままに楽しむ困った野郎で、アイツは死後にすら特大の厄介事を残していきやがった。
とある、妖木。
人の道理を重んじるのなら、その危険な桜は斬らねばならなかった。
だが私は斬れなかった。
友の面影を見たとかの躊躇ではない。ただ単純に、実力が伴わなかったのだ。あの見事に桜に相対しただけで手足は萎え、心底から恐懼した。殺されるかと思った。
そして素直に、私は己の未熟を認める。ああ、この身は剣の神髄に掠りもしない半人前だとも。
ここまでならば、まだ庇いようはあった。実力が足りぬなら腕を磨けば良いだけのこと。私は事情を偽って旅に出た。要するに、逃げたのだ。真理に至ることも諦めたのだ。かつて友と交わした、剣と歌、辿る道は違えど、共に同じ真如の光を見ようという約束さえ、捨てたのだ。
もちろん、あの桜が甦らぬように手は打った。だが、それが何だ。私は結局、あの桜を斬れなかった。その事実が重く我が身に圧し掛かる。
ああ、そうだ。悟ったとも。自分には無理だと悟った。
私は、役目から逃げたんだ。半人前? いや、それ以下ではないか。剣を振ってすら、ぽんこつだと笑われてしまう。
「ねぇちょっと、大丈夫? ねぇってば」
情けないにも程がある。
年端もいかない娘にガタガタと肩を揺すられて、やっとのことで正気に戻った。
「すいません。今日は朝から大変なことがあったもので」
八雲紫のせいにしておこう。あの女も我が友に負けず劣らずの困ったやつなのです。
実際、前回の依頼を片付けて這う這うの体で戻った私の朝風呂に対しての、あの仕打ち。吹き飛んだ疲れの倍以上は疲れた。
「えっと、それで、何でしたっけ?」
「いや、だから桜ね。あれじゃない? 敷地の外からでも見えるわよ」
「……」
そして私は、その桜の木を見る。
枯れ木だった。太い幹は捻じれ、葉の落ちた枝を、寒空へと這わせている。立派、と良い桜の木ではあるが、小学校の敷地にあるにしては、だろう。古木としても、まだ若い。何も、恐れることなどない。
恐れることなどないのに、心も体も正直だ。花が咲いているわけでもないのに、寒気が全身を苛み、肌が粟立った。斬らねばならないものから逃げた罪の記憶は、こんな無関係な場所でさえ私のことを追い詰める。
「桜アレルギーか何かなの? 冷や汗すごいよ?」
「なんでもありません。大丈夫です」
ああ、桜を見るとこれだ。桜の園たる白玉楼に逗留できるはずもない。
「……うん、でも。あれだけか」
少女はどこか口惜しそうに、敷地のフェンス越しに、桜の裸木を見上げる。
過去の記憶から、勝手に寒気に震え上がる私と違って、一般的に見れば、それはただの木だ、恐怖を覚えるようなものではない。かと言って、落胆するのもどうかと思うのだが。
「何でこうなったのかまでは視えないけど、この木は、人を怪我させる程のものなのかしら?」
「はい?」
「いや、貴方も視えるんでしょ? って言うか人間じゃないでしょ?」
「知ってたんですか……?」
「やっぱりアホの子だよね。そりゃ、貴方にくっついてる霊体くらいは視えますから。どうも初めまして、超能力少女やってます」
「……」
腑抜けている、という評価で済めば良いが。ボケたのか……?
「で、貴方から見て、あの桜の枯れ木はどんな感じ? 私程度の霊能力だと、実に分かり易い黒いモヤモヤくらいしか視えないのよね」
「……悪い感じはします」
「そう、悪い感じはする。でも、それだけ。貴方もそう思うかな?」
こくん、と頷いた。
悪い感じはする。弱った猫くらい殺すだろう。だが、それだけだ。だってあの木は、所詮、まだ一人も人間を殺していない。要するに、大したことがないのだ。
「ま、所詮は近場で見付かる怪異なんて、こんなものよね」
と、ものすごく勝手な言い分だが、少女に言わせれば、鑑賞する価値が高くない、ということになるのだろう。
「それで、さ。私はただの物見遊山なんだけど、貴方は? 貴方は何か目的があって来たんじゃないの? それが面白そうなら、見学させてもらっても良いかな。もちろん、邪魔はしないし、邪魔になりそうなら離れた所で見てるだけでも良いからさ」
少女は、言葉遣いこそ先程までのやり取りを継続させたものだったが、社会科見学でも申し込む優等生のように、私に頭を下げる。しかし態度だけ見れば普通でも、頼んでいる内容は普通ではなかった。
「ねぇ、貴方は何をしに、ここまで来たの?」
「……私、は」
あの桜は大したことがない。誰にだって斬り倒せる。
だから私は、こう答える。
「私は、ただ様子を見に来ただけです。そして、見た所、ただちに危険な影響は無いように思います。事故の心配もあるとのことですが、そんなもの、近付かなければ良いだけです」
「確かに、立ち入り禁止のテープは張られているね」
脆くなった枝が落ちてきて、思わぬ怪我をする可能性がある。妥当な処置だ。
「あとは庭園業者の仕事です。私は生憎と、本職の庭師ではありませんので。ただの、剣の道を諦めた剣士崩れです」
「ふーん? でも、大丈夫かな。木を斬ろうとした手痛い呪いが降り掛かるなんて、よくある話だと思うけど。たかだか女子高生の意見と聞き流してもらっても良いけど、霊能関係に通暁した人が何とかした方が良いと思うなー」
また逃げるのか、なんて。
別にこの少女は言っていなくて、自分の内から聴こえる心の声。
「それに、なんでこの木はこうなったのか、謎のままにしとくの?」
「誰も困らないのに、謎を解き明かす必要なんて無いですよ」
「うん、それはそうだ。単なる私の好奇心だった」
さて、と少女は呟いて、最後に名残惜しそうにもう一度だけ、枯れ枝越しの寒空を仰いだ。
「もっと深く突っ込んで調べたいけど、学生の身では無理がある。将来は学芸員にでもなろうかな? あー、でも勉強がなー、うあー、やってらんねー。って言うか学芸員ってどうやったらなれんのよーっ。って言うか今日の古文はちょっとヤバかったー!」
よしっ、と一言。
彼女も彼女で何かあったらしいが、すっかり気分を切り替えたようだった。テスト期間が続くのなら、こんな所で油を売っているべきではないだろう。
「またね、貴方が来年の春まで見過ごされていれば、その時にまた、花見にでも来るわ」
少女は物言わぬ木に語り掛ける。あまり、未来の出来事に関しては期待していないように見えた。物見遊山の無責任な客ながら、ささやかな別れを告げている、それだけで。しかしそれも、無関係な他人として身を引いた、彼女なりの敬意か。
「じゃあ、そっちの弱虫さんも。また縁があれば、会いましょう」
恐らく、こんな縁は二度とあるまい。今日この日に出会ったのだって、何らかのイレギュラーだろう。
私は、桜と少女に背を向けるべく、踵を返す。
いや、違う。まだだ。まだ、帰れない。
「待ってくださいっ。一つだけ、貴方から聞かなければいけないことが残っています!」
振り返って、大声で眼鏡の少女を呼び止めた。すぐに駆け寄って、縋るようにその肩を掴む。
「あのっ、スマートフォンの使い方って分かりますかね?」
これくらいは仕方ないですよね。
◇
「つっっっかえないわねぇ」
スキマから顔を出した紫は、開口一番、罵倒を吐き捨てた。
それは、あんまりではないか。もうちょっと使い走りを労わるとかもっと色々あると思う。
「ほんと使えない。何なの? それでも剣の鬼と言われた人斬りなの? ちょっとスカート履いたくらいで去勢されちゃったわけ? と言うかもうとっくに枯れてるのかしら? 種なし! チキン野郎!」
「……」
何この凄まじい罵倒の数々。
私、何か間違ってるのかな。間違ってないよね。勝手なことを頼んで勝手に失望してるのはそっちだよね。
「はああ~~~、ほんっと、貴方にはガッカリだわ」
トドメとばかりに私の顔を見て、盛大な溜め息を吐きやがった。
「もう良い。この件に関しては他の友達に相談するから」
そう言ってスマホを弄る。外の世界の件なら外の世界の者に頼むのだろうが、他の伝手があるなら、最初からそっちを頼って欲しい。と言うか、幽々子嬢以外に友達なんていたのか。
「ほら、刀は返してあげる」
そこだけは律儀に、私が旅先で手に入れた大業物を返してくれる。
「安全だけは確認しましたよ。どのみち古い枯れ木ですから、伐採の予定もあるそうです。春までに切り倒してしまえば、何の問題も無いでしょう。はい、以上が報告です。何か文句がありますか?」
「貴方って、本当に使えないわね」
冗談の罵倒ではなくて、やや本気に近い冷ややかな視線が私を射抜く。
人外の貌。人外の眼差し。忘れてはならない、彼女は人間の道理など通じぬ、身勝手極まる存在だった。
「……誰が、安全の確認をしろなんて言った?」
「……いや、それどころか全く何も言ってなくないですか?」
馬鹿馬鹿しい抗弁だった。私の言っていることはまともな理屈だが、まともが通用するはずもない。
八雲紫にとっては、周囲の安全なんて要素は、優先度の高い問題にはならないのだろう。
「そんなだから、貴方はいつまで経っても未熟者なのよ」
「…………」
それだけは、返す言葉が無い。私は半人前の未熟者だとも。
「ですが、大して親しくもない間柄の貴方に、そこまで言われる筋合いもない」
「親しいわよ。もうかれこれ千年以上の付き合いになるわけでしょ?」
紫にしては珍しい直球な一言が刺さる。
うむ、親しいと言えば親しいのである。この性悪女と仲が良いとだけは絶対に思わないけど。
「……むぅぅ」
「で。どうせ白玉楼には立ち寄らないのよね?」
「それはそうですよ。会わせる顔が無い」
「だから貴方は未熟者なのよ、ぽんこつなのよ。孫の相手くらいしなさいよ臆病者」
「いや、あの、紫。さっきから酷くないですか?」
確かに果たすべき務めからは逃げて続けているので、その点に関してだけはその通りでしかないのだし、こんな形ではあるけれど、自分の都合のついでくらい程度には、紫が私の後押しをしてくれたもの察している。
逃げた記憶に向き合って、トラウマも克服するべきだ。だってこのままでは、何百年の時間が過ぎようと、私はまともに孫の顔さえ拝めない。
けれどもですね、言い方というものがあると言うか、手加減? みたいな、ね。ありますよね? 優しさって。
「幽々子と妖夢が知ったら何て言うかしら」
「……ええ、その通りですね。本当に、私は何をやっているんでしょう」
情けないにも程があろう。こんな私を許してくれとは言わないが。
「あの妖忌が、女子中学生の制服を着て街を徘徊してきただなんて、ね。私だったらお腹が捩れるほど笑って死んでしまうわ」
しくしくめそめそ。いかにも涙ぐましいといった感じで、紫は目尻の涙を拭いながら言う。
「ああ、なんて嘆かわしい」
「これは紫が無理矢理着せたんじゃないですかっ!」
パシャ、と。
無慈悲にも響く、スマホのカメラの音。
「せめてこの写真だけでも見せて、安否だけでも伝えることにしましょう。だいじょうぶ、妖忌おじいちゃんは元気です。女の子に生まれ変わって生きていきます」
それの何がだいじょうぶなのか。こんな姿、とてもではないが見せられない。
「いい加減にしてください泣きますよ!?」
妖夢、そして幽々子嬢、ごめんなさい。残念ですが、私はまだまだ白玉楼には顔を見せられそうにはありません。
◇◇◇ 終
「それにしても、まるで生きている人間みたいな表情をするようになったじゃない、あの貴方が」
静かな夜だった。道楽家が好みそうな夜である。
まだ宵の口、ではあるが、紫は余程私の報告にガッカリしたのか、呷るような勢いで酒瓶を空にして、頬に朱を差していた。
なぶるような口調にも、私は返す言葉を持たない。
この身は剣と心得る。
只斬るのみ。真実だとか真理だとか言われる“何か”を求め、生死の交わる死地にこそ、それが在るものと確信し、棒振りに明け暮れる幽鬼か亡者の如き日々であった。
体を駆け巡る血液は躍らせども、静穏なる心は保つべし。魂を刃に載せて奔らせる時、己の存在は限り無く透明に近付いた。やはり、真実は死地にこそ在れり。何物にも臆することなく、仏の道に背を向けて、果し合いの渦中、生と死の境界に真如の光を見出さんともがき続けた。
頂きに至るか、この身が尽きるか、どちらが先か。己の運命はそのどちらかであると、そのようにばかり、思っていたのだがな……
私は、弱くなったのだろう。
悪鬼羅刹の類いにも怯むことのなかった私が、鳥の声に心を乱し、桜の花にも惑わされるようになった。
忘れるはずもない。今でも目を閉じれば思い起こす光景があり、甦ってくる花の香がある。
どこぞの山中であった。立ち合いを終えたばかりの漂泊の身は、その草庵に流れ着く。何をするでもなく暇そうに座っていたのが、お前だった。お前は私の姿を鼻で笑い、くい、と酒盃を傾ける仕草をして見せた。
ああ、そうだとも、我が友よ。私は弱くなった。あの時にお前と酌み交わした酒が旨かったばかりに、この心は乱れるばかり。死ぬことが怖くなったし、強者相手に怯えるようになった。私は飯の支度に追われるわ、お前がやらかした後始末だとかで、なんかもう散々な目に遭った。あの人斬り幽鬼が、孫の顔まで見るようになるなどと、誰が思うよ。
なあ、友よ。
今の私をお前が見れば、やはりあの時のように、鼻で笑って見せるのだろう。
ボンコツロリジジイはさておき魅力的でした
あちらと合わせて大いに楽しませて頂きました。
可愛い子は何やってもただ強面には
素人が作ったssの中ではならないよ
過去を引きずっているところが心を揺さぶられます。
素敵な文章です。
新作を削除されていたのでこっちに感想を。
先代の巫女達と先代の魔女、先代の庭師のストーリーは大変面白かったです。
剣士の葛藤や自分の生き様など魂魄妖忌の魅力が伝わってきました。ポンコツさもすてきですねー。
もう見ることができないことは残念ですが素晴らしい作品をありがとうございました。
このシリーズは好きなので出来れば続いてほしいなって思います。
叙述トリックを抜きにしても、綺麗な文章とテンポの良さですごく読みやすかったです。
妖忌が葛藤して右往左往しながら前へ進んでいくところが魅力的でした。面白かったです。
おもしろかわいかったです