Coolier - 新生・東方創想話

外系排出秘封倶楽部

2017/11/12 18:39:43
最終更新
サイズ
11.52KB
ページ数
1
閲覧数
3057
評価数
5/12
POINT
740
Rate
11.77

分類タグ

愛用していたイヤリングが、こわれた。
このイヤリングは細い線の重ね合わせで作られたシンプルな幾何学模様の割に、どことなく可愛らしさがあった。使いやすさに甘えて、いつもこればかりつけていた気がする。
こんな風に、物が時間や使用を経て壊れていくように、人間も同様に時間が経てば壊れていく。
それは心かもしれないし、体かもしれないし、命そのものなのかもしれない。

以前、エントロピーという概念と人間の死がなんだ、と蓮子が話していたことを思い出す。
たしか、複雑化することで秩序立てられなくなった状態を乱雑だと見るのなら、私たちは乱雑になったから壊れるのでも、壊れるから乱雑になったのでもなく、ただ系が孤立するほど乱雑になっていく…… だっただろうか。残念なことに私はこのエントロピーという概念が何を指し示していたのかはよくわからず、今この言葉を思い出した時点で、私たちは「系が孤立する」という事象をまさに体験しているのだ、ということだけが理解として残っていた。
もし、私がこの概念を理解できれば、彼女の系というのをなんとかできるのだろうか。


どんな鮮やかな花でも憂鬱色に染め上げるキャンバスの白が、部屋から廊下まで一面に塗りたくられていた。絵の具に独特の油の匂いはそこになく、アルコールと不愉快さが溶け込んだような、よどんだ空気が漂っている。この重々しい空間では、たとえ踵を打ち鳴らして踊っても、それは反響するだけで誰も反応しないだろうと思える。
ここは無機質、慣れるどころか、来るたびにその居心地を悪くする。
それでも、私は今日も大学の講義——それは残念なことに、期末試験だった——を休んで、彼女、宇佐見蓮子のいる部屋を訪れた。

「あら、メリー、今日も来たのね。お暇かしら?」
「そうね、暇なのよ。ちゃんと単位を取った偉い子はね」
ふん、と自慢げな素振りをしてみせる。
しかし、こんな学期末に暇なわけがないというのは、いくら彼女が忘れっぽいといえども、きっと違和感には気づいているだろう。
「で、お暇なメリーさんは退屈しのぎにわざわざここまで来てくれたってわけ?」
「ええ、そうね。じゃあマスターさん、コーヒーでも頂こうかしら」
「あはは、仕方ないわね。とっておきのインスタント合成コーヒーをごちそうしましょうかしら」

彼女は慣れた手つきで二つのカップを用意し、そこに黒い顆粒状のものをスプーンで粗雑に放り込んだ。
湯を注げば、確かに香ばしいコーヒーの匂いが湯気とともに立ち上る。
だが、このインスタントというやつはなかなかの曲者で、匂いのわりにそれほど美味しくない。
味と熱さをたしかめるために、私たちはちょっぴりだけカップに口をつけた。
猫舌の蓮子は大げさに、あちち、と言ってカップを離し、机の上に置いて、いつも通りの感想を言った。
「やっぱり美味しくないねぇ」
「そうね……インスタントだもの」
全くもって同感だ、と顔を見合わせる。
「早くいつもの喫茶店に行きたいわ…… といっても、今はお金はないから、メリーのおごりになっちゃうけど」
「人のおごりで食べたり飲んだりすると、自分のお金でするのより美味しく感じるんですって」
「じゃあ、格別だろうなぁ」
いつもの倍の美味しさのコーヒーを飲んで、大げさに喜ぶ蓮子を想像したら、笑みが漏れた。彼女は大げさすぎる、そこが可愛いところでもあるのだけど。
はやく、その大げさに喜ぶ顔が見たい、といっても、お金は…… さすがに合成ではない、天然の豆を挽いて淹れたコーヒーを飲むには少し心許ないかもしれない。この時代、どれもこれも安い合成品か、工場産の低級製品だ、私たちが以前あれだけ「良い生活」を送れていたのは、あくまで大学生という立場と、優れた学業績に対する奨学金があってこそだった。
今の——大学に行かなくなってしまった、本当の意味で不良学生の——私たちでは、あの頃と同じ贅沢をするのは難しいかもしれない。
それでも、また以前の生活を夢見て、私はここにいる。

インスタントコーヒーが飲み頃の温度に下がる頃、私は今朝思い出した本題についてメリーに話した。
「そういえば、前に話していた、エントロピーの話、気になるんだけど」
「えーっと、なんだっけ?」
「系が孤立していくから寿命が短くなるとかって」
「あぁ、そんな話も、したね」
彼女は、あぁあぁ、とすっかり約束を忘れていた時と同じ反応をして、どこかの壁のシミでも見つめながら話の筋を思い出しているようだった。
時々、彼女は思いつきで物事を話しているのではないだろうかと疑うことがある。
怪訝な顔をしていたところ、話を思い出した様子の蓮子が私に問うた。
「メリーは物理学、わかる?」
「わからないわ」
ついでに首も大きく横に振っておく。
「うん、そうよね、安心した…… 私でもわからないんだもの」
「あら、蓮子でもわからないとか言うのね」
「わからないことだらけよ。わかっているのは、わからないことが、まだたくさんあるってことだけ…… わかったってことは、新しくわからないことができたって言うのと同じだわ」
「ふぅん」
意外な言葉に驚いたが、たしかに言う通りだ。わかっている、と言う人間が一番信用ならない。
「エントロピーっていうのは、乱雑さをしめす尺度ね。いろんな分野で使われるから、細かい定義は分野で意外と違うんだけど……」
そして、簡単に説明するから語弊があるかもね、と彼女は笑って付け加えた。
「そうね、私も物理以外でも確率・統計なんかでも見た記憶があるわ。いろんなところで使われるわね」
「元々は熱力学や統計力学で重要視されていた概念なんだけど…… 今では本当にいろんな分野で使われるわ。情報もそう、数学もそう。あと、あの頃のトンデモ本、結構面白いわよ。例えば、この宇宙は最終的にエントロピーが無限まで発散していって、熱的死——つまり、すべての星が蒸発して、宇宙に残るのはわずかなエネルギーを持った光子だけ——になる、なんて書いてあったりするの」
「それって変なのかしら?」
「AIが人間社会を支配する、ってくらいのSFね。特に、超統一物理学が体系化されてからは、短距離力と長距離力も混ぜて考えるようになったから、そんなこと言う人は少なくなったわね」
たしかに、そう言われるとどちらも使い古されたSFのネタに聞こえてくる。現に今は、AIは私たちにとっては単なる道具で、宇宙は存在していて、私たちはここにいる。件のトンデモ本というのも、もう見かけなくなったことを考えると、廃れてなくなるような話だったのだろう。
「きっと、彼らは重力のない世界で生きていた楽しい人たちだったんでしょうね。」
ふふっ、とそのSFじみた想像を思い浮かべて、彼女は笑った。
「さて、本題ね。エントロピーっていうのは、大きいほど取りうる状態が多いことを、小さいほど取りうる状態が少ないことを示すの。例えば、ここにある金のコイン」
そう言って、彼女はポケットから一枚の金貨を取り出した。
「これのミクロな状態を見るのは難しいけど、金属の原子は遊ぶ前のジェンガみたいにきっちりと集まっている。だから、安定しているし、エントロピー…… つまり乱雑さも小さい」
話を聞いている間に、彼女の取り出した金のコインはどこへやら、いつの間にかジェンガが机の上に組み上げられていた。
「そう、ジェンガは必ずこの状態から始まるわよね」
そして、と言いながら彼女はタワーから一本すっと抜き取って、それを一番てっぺんにポンっとおいた。
「はい、次はメリーの番よ」
ごくり、と唾を飲んで、私も一本抜き取って、タワーのてっぺんにおいた。
「こういうのを繰り返していくと、ジェンガの形は歪になっていく」
また一本、また一本と抜き出しては積んでいく。
「私とメリーが何回ジェンガをやっても、積み方も、ずれも、同じにはならないし、全く同じタワーはできないわよね。それがエントロピーが高い、つまり、取り得る状態が多いってこと。そして……」
そう言って、穴だらけのジェンガから一本を取り出して——バランスを崩してバラバラに崩れ落ちた。
「最終的に、元々の形を維持、つまり元の秩序立てた存在として成立できなくなる、ってわけ」
いく当てなさげに、その手に持った最後の一本をゆらゆらと手の上で転がしながら、話を続ける。
「といっても、この床に散乱した状態も、元々の秩序だった状態がわからないほどエントロピーが高いだけで、系自体が壊れているってわけじゃないんだけど」
手に持っていた最後の一本を、興味なさげに崩れたジェンガの中に投げ込む。
「こうなると、さっきの一本のジェンガが元はどの場所にあったかはわからない。完全に混ざり合った状態になる。これがエントロピーが最大の状態」
そう言って、彼女は乱雑になったジェンガを冷凍庫の中へ片付けた。寒かったのか、自分はそそくさと電気毛布のかかったベッドの上に戻った。
「私はね、メリー、人間もエントロピーの増大則にしたがってるみたいだな、って思ったんだ」
私に理解できたかどうか聞かないあたり、蓮子の喋り方はどこぞの教授の講義に似てきたと思わざるを得なかった。もしかしたら、彼女は私が理解しているのかどうか、顔でわかるのかもしれないが。
「例えば、私たちが生まれてくるときは、みんなが同じ状態ね。でも、時間が経てば変わっていく。その人が取りうる状態が増えてくる」
私たちが取りうる状態が増える、という一見素晴らしく甘美な言葉は、このエントロピーが何者であるかを理解したときに、つらく否定しようのない真実だけを残して消え去った。
「それってつまり、もともとあった私たちの秩序から離れていった先に、私たちの取り得る未来があって、その未来の発散した先が熱的死……」
こくり、と彼女は頷いたが、そのあと笑って言葉を続ける。
「私も、最初はそうだと思っていたの。私たちひとりひとりは個別の系で、孤立して、自身の秩序を保てなくなって死んでいく…… でも、実際はそうじゃない。私たちは、一人で一つの系じゃない」
私の不理解を横目に、彼女は話を続ける。
「二つのものがくっついた系では、そのエントロピーが増大すると、最終的に二つの分子は混ざり合っていく。コーヒーとミルクが混ざって、カフェオレになるように、不可逆な変化が起きる」
彼女は冷めきったコーヒーを一口飲んで、冷蔵庫からミルクを取り出して注いだ。
「私とあなたも、共に一つの系として存在しているなら、混ざり合うと…… それは秘封倶楽部になるのかもね」
言い終わるとともに、彼女はカフェオレの入ったコップを口元へと運んだ。コトン、と陶器の硬質な音だけが部屋に響き、カップの中にカフェオレはもうないことがわかる。
実際にそうなるのか、と聞こうとして、私はそれをためらった。まるでそれを見透かしたかのように、蓮子は言葉を続ける。
「……ま、実際はそういうものじゃないんだけどね。私たちは開かれた系だし、死んでもすぐに均一な物質にはならないわよ、例えよ例え」
例え話つながりなら、と私も自分に理解できる範囲で話をつなげていく。
「例え……例えば、エントロピーを捨てることはできないの? さっきの崩れたジェンガも、捨ててしまえば、その部屋はきれいになるわよね?」
いい質問ですねぇ、とまるでオンライン放送の解説者のような真似をして、彼女はやさしそうな笑顔になった。
「実はね、できるのよ。人間は実際にそうしているの。私たちはさっきみたいにカフェオレを飲むわよね?これを秘封倶楽部の活動で消費して、残った不要なものをお手洗いに行って捨てる。摂取したものより、排出したもののエントロピーが大きければ、私たちの体の中のエントロピーは下がっていくわよね。だから私たちは、燃える焚き火や、蒸発していく水のように、ただ一方的にエントロピーを大きくしていくわけではない」
とはいっても、捨てた先まで考えれば全体でのエントロピーは増えているんだけどね、と蓮子は小さく付け加えた。
「……じゃあ、蓮子も、いらないものを捨てれば、良くなるのかしら」

しん、と部屋から音が消えたのがわかったが、これが失言だとは、思わなかった。
だって、これは私が本当に願うことだから。
「……そうね、そうかもしれない」
先ほどの陽気さとはうってかわって、彼女はまるで気弱な少女のようにつぶやいた。いや、本来の自分に戻ったというべきだろうか。
「たしかに、この病は、もともと私を私らしく秩序立てていた状態に戻せば、きっと治るんでしょう」
きっと、彼女は自分の病気の原因が何なのかわかっていたのだ。それが今の医療には治せないことも知っていて、それでも普通の病院に入った。
「……この病は、"この世界から排出された乱雑なものを集めた世界"の影響を受けてしまったことが原因なのだから、影響を受けないように大元との関係を打ち切って、"もらってきてしまったもの"を捨てれば、私はきっと……元に戻る」
私たちが旅したのはどこだっただろうか、人の忘れた世界の先、捻れた墓の咲くところ、知られぬ境界を超えた場所——幻想郷、それは、この世界から乱雑だからといって排出された、隔離先。
「ねぇ、蓮子……私は」
私の言葉を制したのは、もうやせ細った蓮子の白い手だった。以前のように強く握ったならば、壊れてしまいそうで、悲しくて、私は嗚咽を押し殺すだけで精一杯で、言葉を紡げなくなった。
「さっきね、混ざり合ったものは不可逆だって言ったじゃない? 私はそういうの、嫌いじゃないの。私はあなたと一緒にいた、私とあなたは幻想と一緒にいた、私とあなたは——秘封倶楽部だった。それが嬉しいの……だから、その結果を、巻き戻したり、なかったことにしたくない。秘封倶楽部はここにいた、その証拠が今の私」

最後に、そう彼女はいった。
「最後くらい、いいえ、最後だからこそ、一緒に秘封倶楽部でいてくれるかしら、メリー」
目から、液状となってエントロピーが排出される。悲しむマエリベリー・ハーンは本来の姿ではないはずだ、私と、私たちの本来の秩序へ戻ろう。
「えぇ、蓮子。最後まで秘封倶楽部でいましょう、たとえその先がどんなものであっても」
夜がくれば、私たちは元の姿に戻る。全てを捨てて、ただ、秘封倶楽部であるために、あの孤立した病室から飛び出した。
秘封倶楽部は、この世界から、排出された。
このような散文をお読み下さり嬉しい限りです。
大変ありがとうございました。
何かテーマをつけて書こうと思ったのですが、選んだものが難しすぎた感があります。

いい秘封の日ですので、秘封倶楽部の話を書きたいと思ったのですが、書くのは難しいです。
これから精進してまいりますので、どうか宜しくお願い致します。

>1.仲村アペンドさま 2017/11/12 20:25:19
>退廃の美を感じる物語で面白かったです。
>綺麗に終わっていると思う一方で、排出された先の秘封倶楽部を見てみたい気持ちにもなりますね。
ありがとうございます。終わり行くものが大好きなので退廃の美と言っていただけると大変嬉しいです。
排出されたあと、どうなるんでしょうかね。今回は蓮子のモチーフとしてのエントロピーだったので、メリーのモチーフとしての何かで続きを書いてみたい気もします。

>2.もなじろうさま 2017/11/13 07:30:51
>ジェンガの例えがわかりやすくて良かったです
>不可逆の例えとしてのカフェオレもハッとさせられました
>ジェンガって冷蔵庫に入れるものでしたっけ
ありがとうございます。こういった題材で書くのは初めてだったので、例えがわかりやすかったなら調べた甲斐があって嬉しいですね。
ジェンガを冷蔵庫に入れるのは、エントロピーが極大化した先が熱的死、つまり極低温の世界だから、という理由だったりします。

>5.奇声を発する程度の能力さま 2017/11/13 12:19:53
>雰囲気も良く楽しめました
ありがとうございます。

>7.南条さま 2017/11/17 23:33:48
>面白かったです
>ただエントロピーの講釈で話のほとんどが終わってしまっていて残念でした
>もっと秘封がいちゃついている姿が見たかったです
>カフェオレの例えの時に、紫だったら珈琲とミルクを一瞬にして完全に分離できるんだろうなと思ってしまいました
ありがとうございます。確かに、終始エントロピーの話に尽きていて、秘封成分は少なめだったかもしれません……次は秘封倶楽部がいちゃいちゃする話をかけたらいいなと思います。
乙子
http://twitter.com/O_TO_CO
簡易評価

点数のボタンをクリックしコメントなしで評価します。

コメント



0.310簡易評価
1.90仲村アペンド削除
退廃の美を感じる物語で面白かったです。
綺麗に終わっていると思う一方で、排出された先の秘封倶楽部を見てみたい気持ちにもなりますね。
2.80もなじろう削除
ジェンガの例えがわかりやすくて良かったです
不可逆の例えとしてのカフェオレもハッとさせられました


ジェンガって冷蔵庫に入れるものでしたっけ
5.70奇声を発する程度の能力削除
雰囲気も良く楽しめました
7.90南条削除
面白かったです
ただエントロピーの講釈で話のほとんどが終わってしまっていて残念でした
もっと秘封がいちゃついている姿が見たかったです
カフェオレの例えの時に、紫だったら珈琲とミルクを一瞬にして完全に分離できるんだろうなと思ってしまいました
10.100名前が無い程度の能力削除
エントロピー!
エントロピー!
エントロピー!