類は友を呼ぶ、という言葉の意味を考える。
善人のもとには善人が、悪人のもとには悪人が訪れるとするならば、変人の訪れる所に変人あり、という事でもあるだろう。しかしてこの部屋に変人は目の前に一人いるだけである。するとなると屋敷のどこかに度し難き変人がいるという事になる。まったく不届きな話だ。探し出して排除するよう指示しておかなくてはならない。
眼前の変人は足を組んで優雅に座っている。腰掛ける椅子は四脚のそれぞれが大人の腕ほどもあろうかという頑丈な作りで、たいそう座り心地が良さそうではある。腕を組み悠然と微笑む姿は威風堂々としており、余裕と尊厳が感じられる。もっと言うと大いに偉そうである。
ここが面接会場である事を思えば、その威厳ある佇まいは間違いとも言えないのかもしれない。
問題は、面接されるのは彼女で、面接するのがこちらであるという事だ。ついでに彼女の座る椅子も当方の用意したものではない。どこからか勝手に出して勝手に座っているのだ。
「……お名前をお伺いしてもよろしいですか?」
眼前の履歴書を見れば書いてある事を、古明地さとりはあえて質問した。
「その履歴書に書いてあるが?」
そのままの答えが返ってきた。顎を少し持ち上げ、あからさまに見下ろす視線を送ってくる。こころなしか薄ら笑いを浮かべているようにも見える。
「……摩多羅隠岐奈さん、ですね。前職は神とありますが……」
「前というのは語弊があるけれどね。後戸の神にして障碍の神、能楽の神であり宿神にして星神。他にも様々だが、まあそこに書いてある通りだよ」
職歴の項目に所狭しと書かれた様々な名称を眺める。途中で飽きたのか字が適当になっており、終いにはカレーライスだのハンバーグだの夕食の献立と思しき名称が並んでいた。どうやら味覚はお子様らしい、と見当しておく。
「……神様ともあろうお方が、どうして我が地霊殿への就職を希望されるのでしょうか?」
「ふむ、それについては少々の事情があってねぇ」
「部下が諸施設を破壊して回り、多額の修繕費用と慰謝料が必要になったとか」
「なんで最初に思いつく理由がそれなんだ」
「うちではよくある事ですので」
「マジか」
隠岐奈はいささか懐疑的だったが、まさしく先日起きた出来事である。お仕置きのために犯人たちを地下深くの独房に放り込んであり、そのせいで人手が足りなくなり業務が滞り始めたので、急遽人員補充のために求人を行っている訳である。
「まあなんというか、うちでも部下を雇ってはいるんだけど、そろそろ新しいのと交換する時期かなぁと思っていたんだよ。ところがスカウトを始めてみると、これがどうにも首尾よく行かない。候補は見つかっても、なぜか色好い返事がもらえなくてねぇ」
「その発言だけで理由は十分わかる気がしますがね。主に交換とかのあたりで」
「そうしたら部下が『お師匠様は神様だから、働く人間の気持ちがわからないんですよ』なんて生意気を言うもんだから、バカにするな、だったら働いてきてやろうじゃあないかと飛び出してきたところなんだよ」
「多分くだらない理由だろうと思っていましたが、その上を行ってくれますね」
神というのはおおむね理不尽であり、理解しかねる振る舞いというのも珍しいものではない。ましてやこれほど多くの異名を持つ神ともなれば、両腕を広げて逆立ちしながらきりもみ回転しつつ上昇するタックルくらいには意味不明な存在であって然るべきなのだろう。
「ま、そういう訳で雇われに来てやったわけだ。最初は人里に行ってみたのだけど、あそこはダメだね。態度が大きいだの何だのとくだらない理由で拒否されてしまったよ。雇うべきか否かは能力でもってのみ判断するべきだろうに」
「一人で仕事する訳ではないのだから、コミュニケーション能力というのも必要だと思いますが……」
「そんなもの洗脳すれば一発だろう」
「せんのう」
「うちの部下にはしてやってるよ? おかげで毎日楽しそうに仕事しているわ」
「うわぁ」
壮絶極まる環境が用意されているらしかった。これが噂に聞くブラック企業というヤツだろうか。まったく嘆かわしい。当地霊殿のように従業員の幸せを第一に考えるクリーンな企業がもっと増えるべきだ。地霊殿ではお仕置きはしても従業員を首にしたりはしないし、洗脳などもっての外。皆は笑顔でマイペースに仕事をしている。おかげで当主のさとりは寝る暇もない。
「能力だって、私には大抵の事は実現する力がある。もし私がライバル企業に就職したら、たちどころに潰されてしまうだろうよ。そういうところを判ってないのが人間の限界というところかもねぇ」
「それで、違う職場を求めてわざわざ地底まで?」
「地の底に潜った連中がどうしているのか興味もあったからね。これでも一応幻想郷の賢者だから」
本気なのかどうなのか、さとり(眠すぎて目が半分以上開かない)には判然としなかった。だが少なくとも『大抵の事は実現できる』という言葉には嘘がないと思えた。なぜなら、さっきからずっと第三の目で心を覗き見ようとしているのだが、まったく効果がないからだ。覚妖怪の能力をたやすく封じて見せる手際からしても、只者でない事は確かである。
いずれにせよ、この尊大な態度といい、窺える危険さといい、そばに置く気が失せるのも当然だろう。彼女を雇わなかった人間たちの判断は、まったく合理的であったと思える。
だからこそ。
こんな面白そうな相手を雇い入れない理由はない!
さとり(徹夜四日目明けテンション)はそのように判断し、即時採用の旨を伝えた。
『きっと後悔する』と告げてくるはずの理性は、頭の奥の方で静かに船を漕いでいた。
とりあえず館内を案内する事にして、さとり(気を抜くと膝が抜けそうになる)は隠岐奈を先導する。
現れた瞬間からずっと椅子に座っていたため判らなかったが、意外と隠岐奈は背が高かった。ゆったりと流れるウェーブのかかった金髪。柔らかくも慇懃な物腰。賢者という肩書。それらは地上の、できれば会いたくない胡散臭い女を容易に想起させた。いきなり部屋に出てくる現れ方もよく似ている。関係者だろうか。
「隠岐奈さんは最近まではどんな事をされていたので?」
「んー? まあしばらくは秘めたる神として隠遁してたんだけどね。最近色々あったじゃない? 幻想郷大丈夫かなー、ってちょっと気になって異変起こしたりしてみたのよ」
「最近というと、外から吸血鬼がやって来て暴れたとか」
「情報古いな」
やがて扉の立ち並ぶ一角へとたどり着く。来客用の部屋を設えた一帯だ。
「泊まり込みをご希望であればこちらを使ってください」
部屋内はさとり(肩が重すぎて腕が上がらない)の意向で小さく可愛らしい調度品をいくつも設置し、ダブルサイズのベッドに大きめの机と椅子、床には足首まで埋まりそうな絨毯が敷かれている。
「ちょっと大げさなくらい良い部屋だねぇ。掃除が大変そうだ」
「それが仕事のペットがいますよ。今はお仕置き中で独房入りしていますが」
「そりゃあ残念。まあ、くつろぐには充分すぎる部屋だし、そのくらいは仕方ないかな」
「あと、たまに勝手に入り込んだ鬼やら土蜘蛛やらが休憩してますので、その際は違う部屋を使って下さい」
「追い出せよ」
なぜか半眼になって見つめてくる隠岐奈を今度は食堂に案内する。
巨大な長テーブルを二つ並べ、開放感を得られるように天井を広く取り、シャンデリアとステンドグラスで豪奢な空間を演出した食堂だ。
「各階の休憩スペースにも簡単なキッチンがありますが、基本的に食事はこちらで取ります」
「これまたずいぶん広いね。パーティでも開けそうだ」
「たまに勝手に入り込んだ鬼やら土蜘蛛やらが酒盛りしていますので、基本的に隅っこを使って下さい」
「ザル警備か」
「端にいても絡まれて酒を飲まされる場合がありますが、運が良ければ大丈夫です」
「なんで日々の食事に幸運を祈らなくちゃならんのだ」
何やら文句の多い隠岐奈をキッチンへと案内する。
地霊殿には人形を取れないペットも多いが、そちらは食堂を分けている。こちらは人形を取れるペット用に多数の調理器具を揃え、館内でも有数のお金がかかっている場所だ。
「ずいぶんとまあ本格的なものを拵えたねぇ」
「たまに勝手に入り込んだ鬼やら土蜘蛛やらが使ってしまうので、基本的に食材は無いものと思って下さい」
「何もできねぇ」
「調理担当のペットがいますが、今はお仕置き中で独房入りしていますので、料理はご自分でどうぞ」
「独房入りしてないペットがまだ一匹も出てきてないんだけど」
どうにも不満げな隠岐奈を連れて浴場へと向かう。
旧地獄の源泉から引っ張ってきた天然温泉だ。熱いのが得意ではないさとりのために、温度の低い場所も用意してある。
「温泉か! 温泉はいいねぇ。こっちに来る一番の楽しみだよ」
「喜んでもらえて何より。勝手に入り込んだ鬼やら土蜘蛛やらが頻繁に入ってますので、その際は出てくるまで三日ほど待って下さい」
「喜びが綺麗サッパリ洗い流されたよ」
「あと、鬼たちが入った後は温度が猛烈に上がっていますので、冷めるまで三日ほど待って下さい」
「入るチャンスが無さすぎる」
「彼女たちが入りに来る周期と温度の下がるタイミングを見計らって、隙を見て入浴するのです」
「ここ本当に君んち?」
隠岐奈は満足しなかったようだが、仕方ない。彼女のためにこの地霊殿がある訳ではないのだから、ある程度の我慢はしてもらわなければ。
案内はこの辺にしておいて、そろそろ仕事をしてもらう必要がある。と言っても、何を担当してもらうか決めていないので、まずは仕事内容の説明からしなくてはならない。
さとり(たまにおりうとおくんの区別がつかなくなる)は屋敷の中庭から地下深くへと繋がる穴を先導する。汗をかいたそばから蒸発する程の猛烈な熱気と、網膜を色濃く焼き付ける光量に幾度となく意識を持っていかれそうになりながら、灼熱地獄跡を抜けて最深部へとたどり着く。
「ここがうちでもっとも過酷な仕事場です」
「何故それを最初に案内する」
「神様だったら案外大丈夫かなぁと思いまして」
「君は大丈夫じゃなさそうだが」
「自分でも何故立っていられるのか不思議です」
「戻れ! いいから!」
ふと気づくと、館内のソファに腰掛けていた。どうやら隠岐奈が運んでくれたようだ。彼女には瞬間移動の能力があるのかもしれない。もしくは自分が意識を失っていたのだろうか。
「それで、あの場所では灼熱地獄跡の温度管理をしてもらう事になります」
「何事もなかったかのように話し始めたぞコイツ」
「あそこの温度は地底全体の気候に関わる重大な仕事ですが、今は管理者がお仕置き中で独房に入ってまして」
「お仕置きをそんな事より優先させるんじゃない」
「ご覧になったとおり、並の者では数分と持たずに意識を失って燃料となる過酷な職場ですが、貴女なら平気なのでは?」
「いやまあ確かに大丈夫だけどさぁ」
「ではあそこの担当は貴女にやっていただくという事で」
「出来るからって一番過酷な仕事を真っ先に押し付けるんじゃないよ」
「そうは言いますが、このまま灼熱地獄跡の管理がなされないと、地底は妖怪も住めぬ極寒の地となります」
「なんで君ここの管理任されてんの?」
隠岐奈は納得がいかない様子だった。
確かに、一つの仕事場だけ教えて終わりでは従業員が選ぶ余地もない。
「他の仕事としては、温度管理のための燃料を調達してくる仕事があります。今はお仕置き中で以下略」
「君わざとやってない?」
「燃料は死体です。あちこちから探して拾ってきます」
「死体かぁ……まあ私の能力なら墓から持ち出すのも簡単だけど……」
「墓を暴くと巫女や住職が飛んできて暴れるので、その辺で野垂れ死んだ死体を素早く回収する必要があります。それらは野良妖怪たちのご馳走でもあるので、それを奪う事で彼らから不倶戴天の敵と憎まれる事になります」
「不特定多数から憎しみを買う仕事って最悪すぎる」
「妖怪ネットワーク内で散々に誹謗中傷をされ、外泊などしようものなら立ちどころに襲撃にあい、家族や親しい者が外部にいれば吊し上げにされる過酷な仕事です」
「過酷さのベクトルが未だかつてないほどひどい」
まだまだ隠岐奈の不満は解消されないらしい。
確かに地霊殿の仕事はそれなりに過酷である。危険な怨霊や灼熱地獄跡の管理はややもすれば命を落としかねないし、管理者が嫌われ者の覚妖怪である事から、地霊殿そのものを目の敵にされたりもする。ここでの仕事がどれほど重大かを理解せず妨害してくる輩もいるのだ。
「そうそう、怨霊の管理という仕事もありましたね。今はお仕置き以下略」
「どうせ危険で過酷な仕事なんだろ」
「大丈夫ですよ。ちょっと気を抜くと身体を乗っ取られたり精神を殺されたりするだけです」
「大丈夫の意味を辞書で調べてこい」
「しかしこのまま怨霊の管理がなされないと、地底はおろか地上にまで怨霊が溢れ出してあらゆる生き物が死に絶えてしまいます」
「きみ幻想郷の滅亡とか企んでる?」
「とは言え、どの仕事も貴女ならできてしまうのでは?」
「できはする! できはするが! 何だかなぁ!」
何故だか怒っている様子の隠岐奈だったが、ともあれ仕事自体は了承してもらえるようだ。
これまでの様子を見る限りでも、彼女が非常に多彩で優れた能力を持っているのは確からしい。やはり彼女を雇い入れたのは正解だったようだ。
ソファに深く腰を沈めながら、コーヒーを一口してほうと息をつく。
穏やかに流れる時間というものが、これほどに心を安らがせるという事を忘れていた。どんなに忙しくとも、やはり憩いの時を設けるのを忘れてはならないと自戒する。
隠岐奈は想像通り、いや想像以上に優秀だった。彼女は色んな場所に道を繋げる能力を持っているらしく、自室にこもりながら各所の仕事を同時進行で片付けていく。文字通り百人力の働きだった。おかげで一日の睡眠時間を二分から二十分に拡大できたほどだ。なんと十倍である。素晴らしい働きと言えた。
一息入れながら、さとり(コーヒーを飲んでいたと思ったら墨汁だったが、まあいいかと思いそのまま飲み干した)は机にうず高く積まれた書類の山を見やる。是非曲直庁への報告書をはじめとした書類仕事については、さとりにしか分からない事が多すぎるので人の手は借りられない。しかし、隠岐奈のおかげで他の仕事にかかずらう必要がなくなり、この一週間でかなりの量を片付ける事ができた。すでに地霊殿の業務は平時に近い状態まで回復している。この分なら、ペットたちの謹慎もあと二週間は続けられるだろう。
「……………………」
ふと思い立ち、席を立つ。ほうきとチリトリを持ち出して廊下に出る。
さっと掃き掃除を始めてみるものの、目立って汚れやごみが落ちている事もなく、すぐに終わってしまった。普段は廊下をペットが忙しなく行きかっており、そこかしこに毛が落ちるため掃除は頻繁に行っている。しかし今はペットがみな謹慎中なので、ごみを落としていく者がおらず綺麗なものだ。
食堂に向かってみても、当然ペットたちはいない。鬼たちも今日は来ていないようだ。普段は決まった時間に食事担当のペットに呼ばれて来るのだが、この一週間は足を踏み入れなかった。今更ながら空腹を自覚したので、キッチンを漁って見つけたカビの生えたパンの無事な部分をかじって飢えをごまかす。半端にものを口にしたせいで余計に空腹感が増大された。
浴室に向かってみると、こちらにも鬼たちは来ていなかった。せっかくだからそのまま入って身体を洗い、湯船に浸かる。ものの数秒で眠りに落ち溺れかけたのでさっさと出る。着替えを持ってきていなかったので脱いだ服をもう一度着て浴室を後にした。
(静かだわ……)
さとり(身体をちゃんと拭かなかったので服がビショビショ)は第三の目で見た相手の心を読み取る。見える範囲に誰もいなければ、もちろん何も見えない。向こう側まで見える廊下。足跡のない床。影を作らない光。そういったものこそが静寂だった。
人や妖怪の傍にあった頃、強く求め続けていた静寂。喧騒とはさとりにとって、他者の悪意を浴びるためだけにあった。それは今もあまり変わらない。ただ、悪意を持つ者をそばに置かなくなっただけ。地霊殿の外に一歩でも出れば、今でも喧騒はごめんだと思う。
「…………」
自然と、客間のある一帯に足が向かっていた。中から僅かに音の漏れる扉を開くと、机に向かいながら忙しなく手を動かす隠岐奈の姿が目に入る。彼女の周囲には小さな扉がいくつも浮かんでおり、これらを通じて各所に手を伸ばしているようだ。
「隠岐奈さん、ご苦労様です」
「なんださとりか。いま仕事の傍ら労基への相談事項を取りまとめていたところだが、何か用事かな?」
「いえ、隠岐奈さんは働き者だなぁと思いまして」
「一応賢者なんでな! 幻想郷を滅ぼしたくないんでな! クソが!」
「ちなみに旧都に労基はありませんよ」
「クソが!」
少し隠岐奈は機嫌が悪そうだった。この一週間で休憩時間が二分ではストレスも溜まるだろうか。慣れればどうって事ないのになぁ、と、さとり(下着を履き直すのを忘れた)は思う。
「まあいい。別の手はすでに打ってあるしな」
「? 何の話ですか?」
「まあちょっとね。ところでさとり、ちょっと右にずれてもらえるかな」
「……? はあ」
「そうそうもうちょっと……あーいいねーいい感じいい感じ。ちょっと足開いたりして、うんうんすごくいいよー。それじゃあちょっとスカートめくってもらって」
言われるがままに動いたり身を捻ったりする。スカートを持ち上げた拍子に転んでしまい、尻もちをついてスカートの中が全開になってしまった。
「あいたた……隠岐奈さん? どうして頭を抱えているのですか?」
「何か自分が悲しい生き物のような気がしてきた」
何故だか本気で落ち込んでいる様子だった。強く生きて欲しいものだ。
「ま、まあとりあえず場所は良い。……それでは、バックドアオープン!」
気を取り直した様子の隠岐奈が手を高く掲げると、さとり(動くのが億劫でめくれたスカートもそのまま)の頭上で扉が開く。それは隠岐奈の能力によって作られた、あらゆるものに繋がる後戸だ。
開いた扉の向こうから、幾多もの動物の鳴き声が響く。次いでその身体が扉をくぐる。猫が、カラスが、アライグマが、コモドドラゴンが、ライオンが、ハシビロコウが次々と飛び出してさとりの頭上にのしかかった。考えるまでもなく、彼らはみな独房に入っていたはずのペット達だ。
「はっはっは、労基がないならクーデターを敢行するほかあるまい! さあ動物たちよ! この常軌を逸した過重労働を強いる悪の経営者を断罪する時だ!」
なんと、隠岐奈はここの労働環境に強い不満を持っていたらしい。暴力に訴える事も辞さないほどに!
さとりのペット達は大型動物も多くいる。それらにのしかかられては身じろぎの一つもままならない。このまま襲われれば、為す術なくボロ雑巾のように畳まれてしまうだろう。
……しかし、動物たちはそのまま動きを見せない。さとりもまた、脱出しようともがくような動きはしなかった。
「あれ? おーい、今こそ積年の恨みを晴らす時だぞー?」
落ち着いた様子のさとりの前に一羽のカラスが歩み出る。人形を取ってはいなかったが、むしろさとりに取っては見慣れた姿だった。
「さとり様……」
「お空、いい子にしてた? 予定より早く出れたとはいえ、お外が大好きな貴女にとって独房生活は辛かったでしょう」
「はい……でも、私がいけないの判ってましたから……ごめんなさい。今後は酔って暴れないようお酒には注意します」
「おい君、あんな過酷な環境で日夜労働に従事させられる自分の身を少しは案じてだね」
「あたいも、ごめんなさいさとり様! もうキッチンの倉庫に死体を押し込んだりしません!」
「いや君、有象無象からいらぬ恨みを買うような仕事をさせられている事に疑問を感じたりとかね」
動物たちは恨み言どころか、口々にさとりへの謝罪を述べた。みな、なぜ独房に放り込まれたか、その意味をきちんと理解しているのだ。
「閻魔様宛の書類を『エンガチョ様宛』なんて書き直してゴメンナサイ!」
「もうお風呂場の石鹸をこっそりドライアイスに変えたりしません!」
「イタズラの現場に居合わせただけで一緒にお仕置きされたけど、独房が快適だったから特に恨んでません!」
人語をまだ操れない者も、それぞれの言葉で自分の非を認めて詫びる。第三の目があれば言葉はなくても伝わるけれど、言葉にしたいのだという思いがそこにはあった。
さとりはあえて言葉にはせず、両腕を広げて動物たちを迎え入れた。彼らが意思を言葉で示そうとするのなら、自分は行動で示そうと思ったのだ。
一匹ずつ、しっかりと抱きしめる。きっと心は伝わるだろう。
「……隠岐奈さん、ありがとうございました」
「ん!? おお! はい!?」
「独房へ放り込んでお仕置きとしたのも、全てはペット達の事を思えばこそ。だけど動物たちのいない地霊殿はとても寂しく、心にぽっかりと穴が空いたような気分でした。本当は、もっと素直に心を伝え合えるのが一番良い。だからこそ、こうしてその機会を設けてくれたのでしょう?」
「断じてそんな事はないがそれで話が終わるんならいいかなぁとは思っている」
「隠岐奈さん!」
さとりは立ち上がって隠岐奈に駆け寄り、そのままその身体を抱きしめた。隠岐奈の方が頭二つほど背が高いので、傍目にはお姉ちゃんに甘える妹のようにも見えただろう。
「ありがとうございました……たくさんの仕事を肩代わりしてくれた事も、みんなと絆を確かめ合う機会をくれた事も。貴女は私達の恩人です」
「気にする事はない。過重労働に対する慰謝料は給料の十倍でいいぞ」
愛情も思いやりも、さとりの思いをペット達は確かに受け取った。そしてさとりもまた、今なお変わらず慕われていると確かめる事ができた。
もう問題はきっと起きない。暗い地の底にあっても、地霊殿の未来はきっと輝きに満ちているだろう。
「あっ鼻血でた」
「おぉぉい何やってんだ拭くな私の一張羅があぁぁぁぁ!」
善人のもとには善人が、悪人のもとには悪人が訪れるとするならば、変人の訪れる所に変人あり、という事でもあるだろう。しかしてこの部屋に変人は目の前に一人いるだけである。するとなると屋敷のどこかに度し難き変人がいるという事になる。まったく不届きな話だ。探し出して排除するよう指示しておかなくてはならない。
眼前の変人は足を組んで優雅に座っている。腰掛ける椅子は四脚のそれぞれが大人の腕ほどもあろうかという頑丈な作りで、たいそう座り心地が良さそうではある。腕を組み悠然と微笑む姿は威風堂々としており、余裕と尊厳が感じられる。もっと言うと大いに偉そうである。
ここが面接会場である事を思えば、その威厳ある佇まいは間違いとも言えないのかもしれない。
問題は、面接されるのは彼女で、面接するのがこちらであるという事だ。ついでに彼女の座る椅子も当方の用意したものではない。どこからか勝手に出して勝手に座っているのだ。
「……お名前をお伺いしてもよろしいですか?」
眼前の履歴書を見れば書いてある事を、古明地さとりはあえて質問した。
「その履歴書に書いてあるが?」
そのままの答えが返ってきた。顎を少し持ち上げ、あからさまに見下ろす視線を送ってくる。こころなしか薄ら笑いを浮かべているようにも見える。
「……摩多羅隠岐奈さん、ですね。前職は神とありますが……」
「前というのは語弊があるけれどね。後戸の神にして障碍の神、能楽の神であり宿神にして星神。他にも様々だが、まあそこに書いてある通りだよ」
職歴の項目に所狭しと書かれた様々な名称を眺める。途中で飽きたのか字が適当になっており、終いにはカレーライスだのハンバーグだの夕食の献立と思しき名称が並んでいた。どうやら味覚はお子様らしい、と見当しておく。
「……神様ともあろうお方が、どうして我が地霊殿への就職を希望されるのでしょうか?」
「ふむ、それについては少々の事情があってねぇ」
「部下が諸施設を破壊して回り、多額の修繕費用と慰謝料が必要になったとか」
「なんで最初に思いつく理由がそれなんだ」
「うちではよくある事ですので」
「マジか」
隠岐奈はいささか懐疑的だったが、まさしく先日起きた出来事である。お仕置きのために犯人たちを地下深くの独房に放り込んであり、そのせいで人手が足りなくなり業務が滞り始めたので、急遽人員補充のために求人を行っている訳である。
「まあなんというか、うちでも部下を雇ってはいるんだけど、そろそろ新しいのと交換する時期かなぁと思っていたんだよ。ところがスカウトを始めてみると、これがどうにも首尾よく行かない。候補は見つかっても、なぜか色好い返事がもらえなくてねぇ」
「その発言だけで理由は十分わかる気がしますがね。主に交換とかのあたりで」
「そうしたら部下が『お師匠様は神様だから、働く人間の気持ちがわからないんですよ』なんて生意気を言うもんだから、バカにするな、だったら働いてきてやろうじゃあないかと飛び出してきたところなんだよ」
「多分くだらない理由だろうと思っていましたが、その上を行ってくれますね」
神というのはおおむね理不尽であり、理解しかねる振る舞いというのも珍しいものではない。ましてやこれほど多くの異名を持つ神ともなれば、両腕を広げて逆立ちしながらきりもみ回転しつつ上昇するタックルくらいには意味不明な存在であって然るべきなのだろう。
「ま、そういう訳で雇われに来てやったわけだ。最初は人里に行ってみたのだけど、あそこはダメだね。態度が大きいだの何だのとくだらない理由で拒否されてしまったよ。雇うべきか否かは能力でもってのみ判断するべきだろうに」
「一人で仕事する訳ではないのだから、コミュニケーション能力というのも必要だと思いますが……」
「そんなもの洗脳すれば一発だろう」
「せんのう」
「うちの部下にはしてやってるよ? おかげで毎日楽しそうに仕事しているわ」
「うわぁ」
壮絶極まる環境が用意されているらしかった。これが噂に聞くブラック企業というヤツだろうか。まったく嘆かわしい。当地霊殿のように従業員の幸せを第一に考えるクリーンな企業がもっと増えるべきだ。地霊殿ではお仕置きはしても従業員を首にしたりはしないし、洗脳などもっての外。皆は笑顔でマイペースに仕事をしている。おかげで当主のさとりは寝る暇もない。
「能力だって、私には大抵の事は実現する力がある。もし私がライバル企業に就職したら、たちどころに潰されてしまうだろうよ。そういうところを判ってないのが人間の限界というところかもねぇ」
「それで、違う職場を求めてわざわざ地底まで?」
「地の底に潜った連中がどうしているのか興味もあったからね。これでも一応幻想郷の賢者だから」
本気なのかどうなのか、さとり(眠すぎて目が半分以上開かない)には判然としなかった。だが少なくとも『大抵の事は実現できる』という言葉には嘘がないと思えた。なぜなら、さっきからずっと第三の目で心を覗き見ようとしているのだが、まったく効果がないからだ。覚妖怪の能力をたやすく封じて見せる手際からしても、只者でない事は確かである。
いずれにせよ、この尊大な態度といい、窺える危険さといい、そばに置く気が失せるのも当然だろう。彼女を雇わなかった人間たちの判断は、まったく合理的であったと思える。
だからこそ。
こんな面白そうな相手を雇い入れない理由はない!
さとり(徹夜四日目明けテンション)はそのように判断し、即時採用の旨を伝えた。
『きっと後悔する』と告げてくるはずの理性は、頭の奥の方で静かに船を漕いでいた。
とりあえず館内を案内する事にして、さとり(気を抜くと膝が抜けそうになる)は隠岐奈を先導する。
現れた瞬間からずっと椅子に座っていたため判らなかったが、意外と隠岐奈は背が高かった。ゆったりと流れるウェーブのかかった金髪。柔らかくも慇懃な物腰。賢者という肩書。それらは地上の、できれば会いたくない胡散臭い女を容易に想起させた。いきなり部屋に出てくる現れ方もよく似ている。関係者だろうか。
「隠岐奈さんは最近まではどんな事をされていたので?」
「んー? まあしばらくは秘めたる神として隠遁してたんだけどね。最近色々あったじゃない? 幻想郷大丈夫かなー、ってちょっと気になって異変起こしたりしてみたのよ」
「最近というと、外から吸血鬼がやって来て暴れたとか」
「情報古いな」
やがて扉の立ち並ぶ一角へとたどり着く。来客用の部屋を設えた一帯だ。
「泊まり込みをご希望であればこちらを使ってください」
部屋内はさとり(肩が重すぎて腕が上がらない)の意向で小さく可愛らしい調度品をいくつも設置し、ダブルサイズのベッドに大きめの机と椅子、床には足首まで埋まりそうな絨毯が敷かれている。
「ちょっと大げさなくらい良い部屋だねぇ。掃除が大変そうだ」
「それが仕事のペットがいますよ。今はお仕置き中で独房入りしていますが」
「そりゃあ残念。まあ、くつろぐには充分すぎる部屋だし、そのくらいは仕方ないかな」
「あと、たまに勝手に入り込んだ鬼やら土蜘蛛やらが休憩してますので、その際は違う部屋を使って下さい」
「追い出せよ」
なぜか半眼になって見つめてくる隠岐奈を今度は食堂に案内する。
巨大な長テーブルを二つ並べ、開放感を得られるように天井を広く取り、シャンデリアとステンドグラスで豪奢な空間を演出した食堂だ。
「各階の休憩スペースにも簡単なキッチンがありますが、基本的に食事はこちらで取ります」
「これまたずいぶん広いね。パーティでも開けそうだ」
「たまに勝手に入り込んだ鬼やら土蜘蛛やらが酒盛りしていますので、基本的に隅っこを使って下さい」
「ザル警備か」
「端にいても絡まれて酒を飲まされる場合がありますが、運が良ければ大丈夫です」
「なんで日々の食事に幸運を祈らなくちゃならんのだ」
何やら文句の多い隠岐奈をキッチンへと案内する。
地霊殿には人形を取れないペットも多いが、そちらは食堂を分けている。こちらは人形を取れるペット用に多数の調理器具を揃え、館内でも有数のお金がかかっている場所だ。
「ずいぶんとまあ本格的なものを拵えたねぇ」
「たまに勝手に入り込んだ鬼やら土蜘蛛やらが使ってしまうので、基本的に食材は無いものと思って下さい」
「何もできねぇ」
「調理担当のペットがいますが、今はお仕置き中で独房入りしていますので、料理はご自分でどうぞ」
「独房入りしてないペットがまだ一匹も出てきてないんだけど」
どうにも不満げな隠岐奈を連れて浴場へと向かう。
旧地獄の源泉から引っ張ってきた天然温泉だ。熱いのが得意ではないさとりのために、温度の低い場所も用意してある。
「温泉か! 温泉はいいねぇ。こっちに来る一番の楽しみだよ」
「喜んでもらえて何より。勝手に入り込んだ鬼やら土蜘蛛やらが頻繁に入ってますので、その際は出てくるまで三日ほど待って下さい」
「喜びが綺麗サッパリ洗い流されたよ」
「あと、鬼たちが入った後は温度が猛烈に上がっていますので、冷めるまで三日ほど待って下さい」
「入るチャンスが無さすぎる」
「彼女たちが入りに来る周期と温度の下がるタイミングを見計らって、隙を見て入浴するのです」
「ここ本当に君んち?」
隠岐奈は満足しなかったようだが、仕方ない。彼女のためにこの地霊殿がある訳ではないのだから、ある程度の我慢はしてもらわなければ。
案内はこの辺にしておいて、そろそろ仕事をしてもらう必要がある。と言っても、何を担当してもらうか決めていないので、まずは仕事内容の説明からしなくてはならない。
さとり(たまにおりうとおくんの区別がつかなくなる)は屋敷の中庭から地下深くへと繋がる穴を先導する。汗をかいたそばから蒸発する程の猛烈な熱気と、網膜を色濃く焼き付ける光量に幾度となく意識を持っていかれそうになりながら、灼熱地獄跡を抜けて最深部へとたどり着く。
「ここがうちでもっとも過酷な仕事場です」
「何故それを最初に案内する」
「神様だったら案外大丈夫かなぁと思いまして」
「君は大丈夫じゃなさそうだが」
「自分でも何故立っていられるのか不思議です」
「戻れ! いいから!」
ふと気づくと、館内のソファに腰掛けていた。どうやら隠岐奈が運んでくれたようだ。彼女には瞬間移動の能力があるのかもしれない。もしくは自分が意識を失っていたのだろうか。
「それで、あの場所では灼熱地獄跡の温度管理をしてもらう事になります」
「何事もなかったかのように話し始めたぞコイツ」
「あそこの温度は地底全体の気候に関わる重大な仕事ですが、今は管理者がお仕置き中で独房に入ってまして」
「お仕置きをそんな事より優先させるんじゃない」
「ご覧になったとおり、並の者では数分と持たずに意識を失って燃料となる過酷な職場ですが、貴女なら平気なのでは?」
「いやまあ確かに大丈夫だけどさぁ」
「ではあそこの担当は貴女にやっていただくという事で」
「出来るからって一番過酷な仕事を真っ先に押し付けるんじゃないよ」
「そうは言いますが、このまま灼熱地獄跡の管理がなされないと、地底は妖怪も住めぬ極寒の地となります」
「なんで君ここの管理任されてんの?」
隠岐奈は納得がいかない様子だった。
確かに、一つの仕事場だけ教えて終わりでは従業員が選ぶ余地もない。
「他の仕事としては、温度管理のための燃料を調達してくる仕事があります。今はお仕置き中で以下略」
「君わざとやってない?」
「燃料は死体です。あちこちから探して拾ってきます」
「死体かぁ……まあ私の能力なら墓から持ち出すのも簡単だけど……」
「墓を暴くと巫女や住職が飛んできて暴れるので、その辺で野垂れ死んだ死体を素早く回収する必要があります。それらは野良妖怪たちのご馳走でもあるので、それを奪う事で彼らから不倶戴天の敵と憎まれる事になります」
「不特定多数から憎しみを買う仕事って最悪すぎる」
「妖怪ネットワーク内で散々に誹謗中傷をされ、外泊などしようものなら立ちどころに襲撃にあい、家族や親しい者が外部にいれば吊し上げにされる過酷な仕事です」
「過酷さのベクトルが未だかつてないほどひどい」
まだまだ隠岐奈の不満は解消されないらしい。
確かに地霊殿の仕事はそれなりに過酷である。危険な怨霊や灼熱地獄跡の管理はややもすれば命を落としかねないし、管理者が嫌われ者の覚妖怪である事から、地霊殿そのものを目の敵にされたりもする。ここでの仕事がどれほど重大かを理解せず妨害してくる輩もいるのだ。
「そうそう、怨霊の管理という仕事もありましたね。今はお仕置き以下略」
「どうせ危険で過酷な仕事なんだろ」
「大丈夫ですよ。ちょっと気を抜くと身体を乗っ取られたり精神を殺されたりするだけです」
「大丈夫の意味を辞書で調べてこい」
「しかしこのまま怨霊の管理がなされないと、地底はおろか地上にまで怨霊が溢れ出してあらゆる生き物が死に絶えてしまいます」
「きみ幻想郷の滅亡とか企んでる?」
「とは言え、どの仕事も貴女ならできてしまうのでは?」
「できはする! できはするが! 何だかなぁ!」
何故だか怒っている様子の隠岐奈だったが、ともあれ仕事自体は了承してもらえるようだ。
これまでの様子を見る限りでも、彼女が非常に多彩で優れた能力を持っているのは確からしい。やはり彼女を雇い入れたのは正解だったようだ。
ソファに深く腰を沈めながら、コーヒーを一口してほうと息をつく。
穏やかに流れる時間というものが、これほどに心を安らがせるという事を忘れていた。どんなに忙しくとも、やはり憩いの時を設けるのを忘れてはならないと自戒する。
隠岐奈は想像通り、いや想像以上に優秀だった。彼女は色んな場所に道を繋げる能力を持っているらしく、自室にこもりながら各所の仕事を同時進行で片付けていく。文字通り百人力の働きだった。おかげで一日の睡眠時間を二分から二十分に拡大できたほどだ。なんと十倍である。素晴らしい働きと言えた。
一息入れながら、さとり(コーヒーを飲んでいたと思ったら墨汁だったが、まあいいかと思いそのまま飲み干した)は机にうず高く積まれた書類の山を見やる。是非曲直庁への報告書をはじめとした書類仕事については、さとりにしか分からない事が多すぎるので人の手は借りられない。しかし、隠岐奈のおかげで他の仕事にかかずらう必要がなくなり、この一週間でかなりの量を片付ける事ができた。すでに地霊殿の業務は平時に近い状態まで回復している。この分なら、ペットたちの謹慎もあと二週間は続けられるだろう。
「……………………」
ふと思い立ち、席を立つ。ほうきとチリトリを持ち出して廊下に出る。
さっと掃き掃除を始めてみるものの、目立って汚れやごみが落ちている事もなく、すぐに終わってしまった。普段は廊下をペットが忙しなく行きかっており、そこかしこに毛が落ちるため掃除は頻繁に行っている。しかし今はペットがみな謹慎中なので、ごみを落としていく者がおらず綺麗なものだ。
食堂に向かってみても、当然ペットたちはいない。鬼たちも今日は来ていないようだ。普段は決まった時間に食事担当のペットに呼ばれて来るのだが、この一週間は足を踏み入れなかった。今更ながら空腹を自覚したので、キッチンを漁って見つけたカビの生えたパンの無事な部分をかじって飢えをごまかす。半端にものを口にしたせいで余計に空腹感が増大された。
浴室に向かってみると、こちらにも鬼たちは来ていなかった。せっかくだからそのまま入って身体を洗い、湯船に浸かる。ものの数秒で眠りに落ち溺れかけたのでさっさと出る。着替えを持ってきていなかったので脱いだ服をもう一度着て浴室を後にした。
(静かだわ……)
さとり(身体をちゃんと拭かなかったので服がビショビショ)は第三の目で見た相手の心を読み取る。見える範囲に誰もいなければ、もちろん何も見えない。向こう側まで見える廊下。足跡のない床。影を作らない光。そういったものこそが静寂だった。
人や妖怪の傍にあった頃、強く求め続けていた静寂。喧騒とはさとりにとって、他者の悪意を浴びるためだけにあった。それは今もあまり変わらない。ただ、悪意を持つ者をそばに置かなくなっただけ。地霊殿の外に一歩でも出れば、今でも喧騒はごめんだと思う。
「…………」
自然と、客間のある一帯に足が向かっていた。中から僅かに音の漏れる扉を開くと、机に向かいながら忙しなく手を動かす隠岐奈の姿が目に入る。彼女の周囲には小さな扉がいくつも浮かんでおり、これらを通じて各所に手を伸ばしているようだ。
「隠岐奈さん、ご苦労様です」
「なんださとりか。いま仕事の傍ら労基への相談事項を取りまとめていたところだが、何か用事かな?」
「いえ、隠岐奈さんは働き者だなぁと思いまして」
「一応賢者なんでな! 幻想郷を滅ぼしたくないんでな! クソが!」
「ちなみに旧都に労基はありませんよ」
「クソが!」
少し隠岐奈は機嫌が悪そうだった。この一週間で休憩時間が二分ではストレスも溜まるだろうか。慣れればどうって事ないのになぁ、と、さとり(下着を履き直すのを忘れた)は思う。
「まあいい。別の手はすでに打ってあるしな」
「? 何の話ですか?」
「まあちょっとね。ところでさとり、ちょっと右にずれてもらえるかな」
「……? はあ」
「そうそうもうちょっと……あーいいねーいい感じいい感じ。ちょっと足開いたりして、うんうんすごくいいよー。それじゃあちょっとスカートめくってもらって」
言われるがままに動いたり身を捻ったりする。スカートを持ち上げた拍子に転んでしまい、尻もちをついてスカートの中が全開になってしまった。
「あいたた……隠岐奈さん? どうして頭を抱えているのですか?」
「何か自分が悲しい生き物のような気がしてきた」
何故だか本気で落ち込んでいる様子だった。強く生きて欲しいものだ。
「ま、まあとりあえず場所は良い。……それでは、バックドアオープン!」
気を取り直した様子の隠岐奈が手を高く掲げると、さとり(動くのが億劫でめくれたスカートもそのまま)の頭上で扉が開く。それは隠岐奈の能力によって作られた、あらゆるものに繋がる後戸だ。
開いた扉の向こうから、幾多もの動物の鳴き声が響く。次いでその身体が扉をくぐる。猫が、カラスが、アライグマが、コモドドラゴンが、ライオンが、ハシビロコウが次々と飛び出してさとりの頭上にのしかかった。考えるまでもなく、彼らはみな独房に入っていたはずのペット達だ。
「はっはっは、労基がないならクーデターを敢行するほかあるまい! さあ動物たちよ! この常軌を逸した過重労働を強いる悪の経営者を断罪する時だ!」
なんと、隠岐奈はここの労働環境に強い不満を持っていたらしい。暴力に訴える事も辞さないほどに!
さとりのペット達は大型動物も多くいる。それらにのしかかられては身じろぎの一つもままならない。このまま襲われれば、為す術なくボロ雑巾のように畳まれてしまうだろう。
……しかし、動物たちはそのまま動きを見せない。さとりもまた、脱出しようともがくような動きはしなかった。
「あれ? おーい、今こそ積年の恨みを晴らす時だぞー?」
落ち着いた様子のさとりの前に一羽のカラスが歩み出る。人形を取ってはいなかったが、むしろさとりに取っては見慣れた姿だった。
「さとり様……」
「お空、いい子にしてた? 予定より早く出れたとはいえ、お外が大好きな貴女にとって独房生活は辛かったでしょう」
「はい……でも、私がいけないの判ってましたから……ごめんなさい。今後は酔って暴れないようお酒には注意します」
「おい君、あんな過酷な環境で日夜労働に従事させられる自分の身を少しは案じてだね」
「あたいも、ごめんなさいさとり様! もうキッチンの倉庫に死体を押し込んだりしません!」
「いや君、有象無象からいらぬ恨みを買うような仕事をさせられている事に疑問を感じたりとかね」
動物たちは恨み言どころか、口々にさとりへの謝罪を述べた。みな、なぜ独房に放り込まれたか、その意味をきちんと理解しているのだ。
「閻魔様宛の書類を『エンガチョ様宛』なんて書き直してゴメンナサイ!」
「もうお風呂場の石鹸をこっそりドライアイスに変えたりしません!」
「イタズラの現場に居合わせただけで一緒にお仕置きされたけど、独房が快適だったから特に恨んでません!」
人語をまだ操れない者も、それぞれの言葉で自分の非を認めて詫びる。第三の目があれば言葉はなくても伝わるけれど、言葉にしたいのだという思いがそこにはあった。
さとりはあえて言葉にはせず、両腕を広げて動物たちを迎え入れた。彼らが意思を言葉で示そうとするのなら、自分は行動で示そうと思ったのだ。
一匹ずつ、しっかりと抱きしめる。きっと心は伝わるだろう。
「……隠岐奈さん、ありがとうございました」
「ん!? おお! はい!?」
「独房へ放り込んでお仕置きとしたのも、全てはペット達の事を思えばこそ。だけど動物たちのいない地霊殿はとても寂しく、心にぽっかりと穴が空いたような気分でした。本当は、もっと素直に心を伝え合えるのが一番良い。だからこそ、こうしてその機会を設けてくれたのでしょう?」
「断じてそんな事はないがそれで話が終わるんならいいかなぁとは思っている」
「隠岐奈さん!」
さとりは立ち上がって隠岐奈に駆け寄り、そのままその身体を抱きしめた。隠岐奈の方が頭二つほど背が高いので、傍目にはお姉ちゃんに甘える妹のようにも見えただろう。
「ありがとうございました……たくさんの仕事を肩代わりしてくれた事も、みんなと絆を確かめ合う機会をくれた事も。貴女は私達の恩人です」
「気にする事はない。過重労働に対する慰謝料は給料の十倍でいいぞ」
愛情も思いやりも、さとりの思いをペット達は確かに受け取った。そしてさとりもまた、今なお変わらず慕われていると確かめる事ができた。
もう問題はきっと起きない。暗い地の底にあっても、地霊殿の未来はきっと輝きに満ちているだろう。
「あっ鼻血でた」
「おぉぉい何やってんだ拭くな私の一張羅があぁぁぁぁ!」
さとり(コーヒーを飲んでいたと思ったら墨汁だったが、まあいいかと思いそのまま飲み干した)の壊れっぷりが気持ちよかったです
おりうやおくんの素直さもグッドでした
面白い話で楽しく読めたけど、それと同時に、幻想郷はどこかが一歩でも間違えるとすぐに崩れてしまう、危ういバランスで出来ていると改めて思い知った……w
ここ本当に君んち?
ここ本当にきみんち?
隠岐奈とさとりというなかなか考え付かないような組み合わせでしたが、終わってみたらこれ以外考えられないようなコンビでした
尊大な隠岐奈がツッコミに変わらざるを得ないような地霊殿の闇の深さに言葉を失いました
ボケとツッコミの勢いに笑わされました。
さとりが墨汁を気にせずに飲み干したのは、果たして疲れによるものなのかそれとも元々ああだったのかは判断の困るところですが、すごく個人的にツボに入りました
船を漕ぐとか、喧騒は~の下り
とても好きです。