鏡は、僕の足先から始まって、まるで地面を丸くくり抜いたみたいに、きれいに正円に、広がっていた。水面には風も波もない。どこともしれない山奥の湖。そこに、いっぱいの星をちりばめた夜空が映りこんでいる。
後戸を静かに閉めて、僕は鏡のふちを二、三歩あるいた。扉の向こうのお師匠様はお休みの最中で、側仕えの僕たちはその間だけ自由になる。つかの間だけれど、静かな時間だ。けれど大抵の場合、僕たちにはなにをするあてもない。そういうときには、必ずこの湖を訪れるようにしていた。
さわ、と風が鳴った。揺れる髪を押さえながら、僕は少し湖面を見つめ、そして視線を少し横にずらした。左手の湖畔には背の低い草が生えており、その真ん中あたりに大きな岩がひとつある。僕が見たのは、その岩の上に腰かけて、まるで帰る場所を見つけた鳥みたいに夜空を見上げるひとりの女の子だった。
「里乃」
それは、言葉ではとても説明のつかないような気持ちだった。ふいに、本当に彼女がどこかへ行ってしまったらどうしよう、そんな、胸をつく痛みのような思いがこみ上げて、僕はその名前を呼んだ。女の子はちょっとだけ振り向いて、目の端で僕に笑いかけた。
里乃の笑顔は、少しさみしい。見るたびに僕はそう思う。この手に触れることもできない、まるで霧のようにはかないもの。ちょっとでも目をそらせば、次の瞬間には消えてしまうんじゃないか。そういう想像が胸に迫って、里乃の笑顔を見ていると、少しだけつらくなったりもする。どうすればそれを繋ぎとめておけるんだろうと考えるけれど、思い浮かぶのは益体もない言葉ばかり。
「里乃はいつもここにいるよね」
「舞もでしょ」
「里乃がいるからだよ」
「なにそれ」
冗談だと思ったのかもしれない。里乃は再び顔を上げ、静かな瞳で夜空を見上げた。僕はその隣に腰かけ、同じ姿勢で夜空を見やる。
「里乃はさ、星が好きだよね」
少しの間があった。里乃はわずかに迷うような声で、
「月よりは、星かな。見ていて落ち着くの。なんだかずうっと昔から、私、こうやって星を見ていたような気がする」
「…………」
僕らは、昔のことをほとんど覚えていない。
けれど時おり、ばらばらに刻まれた記憶の切れ端のような、その時感じた気持ちの残り香のようなものが、ふっと胸によみがえることがある。もしかしたら里乃も、そうしたものを、星を見上げることで感じているのかもしれない。
僕らがかつて「僕ら」だったことの、証を。
「僕は、星を見てる里乃を見るのが好きなのかもしれない」
わずかな沈黙の後で、里乃はたまりかねたように笑った。
「へんなの。星じゃなくて私なの?」
「へんなのかもしれないけど」
僕は、僕に伝えうる精一杯の気持ちを視線に載せて、里乃を見つめた。
その目と、こちらを向いた彼女の視線とが、わずかな時間差で、ふれ合う。
「でも、本当にそう思ってるんだよ。うそじゃないんだ。星を見てる里乃は、なんだかとても、綺麗に見えるんだ」
僕を見つめる里乃の目が、まるでなにかを見つけたもののように、かすかに見開かれる。
「けれど、そういう時の里乃は、なんだかとても、遠いような気がするんだ。ここにいるのに、気がついた時にはいなくなってるのかもしれなくて、なんでそう思うのかわからないけれど、そんな気がして」
そう言ったあとで、ふっと目をそらして、ごまかすように僕は笑った。
「ごめん……おかしなこと言ったよね」
「舞」
里乃は、ふいに、思いつめたような声で僕を呼んだ。そらした目をもう一度里乃に向ける。そこに、僕は、かなしみとよろこびを複雑に取り混ぜたような、いまにも泣き出してしまいそうな表情を見る。僕は、どきりと、胸の鼓動を体に感じる。
「手……出して」
言われて、しばらく僕は身動きもとれなかった。だんだんにその言葉が理解されてきて、僕は言われるままに、隣に座る里乃のもとに右手を差し出した。
そして、
「…………」
里乃は、僕の右手を柔らかく握ると、そこにかすかに、自分の唇を当てた。
「…………!」
僕の脳裏を、不思議な映像が駆け巡ったのは、その時だった。
僕はそれを、思い出した。
時間でいうなら、ほんの一秒にも満たなかったと思う。しかしそこにはいくつもの瞬間があった。僕と彼女とのやり取りがあった。そしてそれは、さっきまでの僕と里乃の会話に、とてもよく、似ていた。
「……覚えてる? 舞」
僕の手をそっと放して、里乃は僕に微笑みかけた。
「……うん。ずうっと昔、だよね」
声もなく、里乃はうなずく。
かつて、どれくらい昔かもわからないくらい昔に、僕と里乃は、同じように星を見上げて、同じように言葉を交わしたことがあったのだ。
あのときも、星を見る里乃を綺麗だと言って、胸の気持ちを伝えたのは僕だった。
そして、僕は、彼女の右手に唇を当てた。
そう、あのときは僕だった。
けれど里乃は、あの時、照れ隠しのように笑って、どこかへ行ってしまった。それきり、僕と里乃はその話をすることはなかった。
いまのいままで、ずっと。
里乃に僕の気持ちが伝わったのか、それさえもわからないまま。
そして、今夜。
里乃は思い出したのだ。
そして、僕も思い出した。
何十年、何百年もの時間が過ぎた、いま。
かつてと少しも変わらない背格好の僕たちは、かつてと少しも変わらない気持ちを胸に抱いて、あの夜の続きにいる。
そして、右手に小さなキスをしてくれたのは、今度は、里乃だった。
「……ごめんね。ずっと、ずっと、あの時の返事、できなくて」
僕は、やわらかな里乃の手をそっと握って、はるか頭上の光を見つめた。
「……これからも、ずっと一緒だって、約束してくれるかい?」
視界の端で、こくりと、小さな頭が動く気配があった。
夜空に散った星たちは、時間を重ねて美しくなったかつての記憶と、まったく変わらない輝きをもって、いまもそこにあった。
後戸を静かに閉めて、僕は鏡のふちを二、三歩あるいた。扉の向こうのお師匠様はお休みの最中で、側仕えの僕たちはその間だけ自由になる。つかの間だけれど、静かな時間だ。けれど大抵の場合、僕たちにはなにをするあてもない。そういうときには、必ずこの湖を訪れるようにしていた。
さわ、と風が鳴った。揺れる髪を押さえながら、僕は少し湖面を見つめ、そして視線を少し横にずらした。左手の湖畔には背の低い草が生えており、その真ん中あたりに大きな岩がひとつある。僕が見たのは、その岩の上に腰かけて、まるで帰る場所を見つけた鳥みたいに夜空を見上げるひとりの女の子だった。
「里乃」
それは、言葉ではとても説明のつかないような気持ちだった。ふいに、本当に彼女がどこかへ行ってしまったらどうしよう、そんな、胸をつく痛みのような思いがこみ上げて、僕はその名前を呼んだ。女の子はちょっとだけ振り向いて、目の端で僕に笑いかけた。
里乃の笑顔は、少しさみしい。見るたびに僕はそう思う。この手に触れることもできない、まるで霧のようにはかないもの。ちょっとでも目をそらせば、次の瞬間には消えてしまうんじゃないか。そういう想像が胸に迫って、里乃の笑顔を見ていると、少しだけつらくなったりもする。どうすればそれを繋ぎとめておけるんだろうと考えるけれど、思い浮かぶのは益体もない言葉ばかり。
「里乃はいつもここにいるよね」
「舞もでしょ」
「里乃がいるからだよ」
「なにそれ」
冗談だと思ったのかもしれない。里乃は再び顔を上げ、静かな瞳で夜空を見上げた。僕はその隣に腰かけ、同じ姿勢で夜空を見やる。
「里乃はさ、星が好きだよね」
少しの間があった。里乃はわずかに迷うような声で、
「月よりは、星かな。見ていて落ち着くの。なんだかずうっと昔から、私、こうやって星を見ていたような気がする」
「…………」
僕らは、昔のことをほとんど覚えていない。
けれど時おり、ばらばらに刻まれた記憶の切れ端のような、その時感じた気持ちの残り香のようなものが、ふっと胸によみがえることがある。もしかしたら里乃も、そうしたものを、星を見上げることで感じているのかもしれない。
僕らがかつて「僕ら」だったことの、証を。
「僕は、星を見てる里乃を見るのが好きなのかもしれない」
わずかな沈黙の後で、里乃はたまりかねたように笑った。
「へんなの。星じゃなくて私なの?」
「へんなのかもしれないけど」
僕は、僕に伝えうる精一杯の気持ちを視線に載せて、里乃を見つめた。
その目と、こちらを向いた彼女の視線とが、わずかな時間差で、ふれ合う。
「でも、本当にそう思ってるんだよ。うそじゃないんだ。星を見てる里乃は、なんだかとても、綺麗に見えるんだ」
僕を見つめる里乃の目が、まるでなにかを見つけたもののように、かすかに見開かれる。
「けれど、そういう時の里乃は、なんだかとても、遠いような気がするんだ。ここにいるのに、気がついた時にはいなくなってるのかもしれなくて、なんでそう思うのかわからないけれど、そんな気がして」
そう言ったあとで、ふっと目をそらして、ごまかすように僕は笑った。
「ごめん……おかしなこと言ったよね」
「舞」
里乃は、ふいに、思いつめたような声で僕を呼んだ。そらした目をもう一度里乃に向ける。そこに、僕は、かなしみとよろこびを複雑に取り混ぜたような、いまにも泣き出してしまいそうな表情を見る。僕は、どきりと、胸の鼓動を体に感じる。
「手……出して」
言われて、しばらく僕は身動きもとれなかった。だんだんにその言葉が理解されてきて、僕は言われるままに、隣に座る里乃のもとに右手を差し出した。
そして、
「…………」
里乃は、僕の右手を柔らかく握ると、そこにかすかに、自分の唇を当てた。
「…………!」
僕の脳裏を、不思議な映像が駆け巡ったのは、その時だった。
僕はそれを、思い出した。
時間でいうなら、ほんの一秒にも満たなかったと思う。しかしそこにはいくつもの瞬間があった。僕と彼女とのやり取りがあった。そしてそれは、さっきまでの僕と里乃の会話に、とてもよく、似ていた。
「……覚えてる? 舞」
僕の手をそっと放して、里乃は僕に微笑みかけた。
「……うん。ずうっと昔、だよね」
声もなく、里乃はうなずく。
かつて、どれくらい昔かもわからないくらい昔に、僕と里乃は、同じように星を見上げて、同じように言葉を交わしたことがあったのだ。
あのときも、星を見る里乃を綺麗だと言って、胸の気持ちを伝えたのは僕だった。
そして、僕は、彼女の右手に唇を当てた。
そう、あのときは僕だった。
けれど里乃は、あの時、照れ隠しのように笑って、どこかへ行ってしまった。それきり、僕と里乃はその話をすることはなかった。
いまのいままで、ずっと。
里乃に僕の気持ちが伝わったのか、それさえもわからないまま。
そして、今夜。
里乃は思い出したのだ。
そして、僕も思い出した。
何十年、何百年もの時間が過ぎた、いま。
かつてと少しも変わらない背格好の僕たちは、かつてと少しも変わらない気持ちを胸に抱いて、あの夜の続きにいる。
そして、右手に小さなキスをしてくれたのは、今度は、里乃だった。
「……ごめんね。ずっと、ずっと、あの時の返事、できなくて」
僕は、やわらかな里乃の手をそっと握って、はるか頭上の光を見つめた。
「……これからも、ずっと一緒だって、約束してくれるかい?」
視界の端で、こくりと、小さな頭が動く気配があった。
夜空に散った星たちは、時間を重ねて美しくなったかつての記憶と、まったく変わらない輝きをもって、いまもそこにあった。
次は中篇くらいの期待してます
私、長編の作品を読むのは苦手なのですが、貴方の作品ならば夢中になって読んでしまう自信があります。
次作期待してます。
もっと読みたいなーと感じてしまいます
以下は提言。
>>7コメ コメントはしたのに評価はしないのか?
昔からいるが批評しているつもりで作者に攻撃をする輩が多い。コメントをしたからには評価点を入れて初めて批評となるのに7コメはただ自分の価値観を作者に押し付けているだけだ。こういう輩がいるから創想話は悪くなる。初投稿への洗礼つもりか知らんがこういう心のない行為をする輩は自身の行いを一度振り返るべきだ。
本来コメントに対するアンカーはするべきじゃないがあまりにも酷過ぎる。
会話の他愛の無さは素敵。