1.
金木犀の香りがした。
「ん……うん?」
午後も遅い帰り道。メリーは鼻をすんすんとひくつかせた。
「どしたん、メリー。うさぎの真似?」
「違うわよ。……蓮子、香水でも変えた?」
「お、鋭いねー。オータム・シスの新作よ」
蓮子はにやりと笑って言った。オータム・シスはオンラインでのみ販売されている香水ブランドで、「失敗した魔方陣」だの「白亜紀の旋風」だのといった非現実な商品名と、一度嗅ぐと何故かその商品名しか思いつかない、幻想的な香りで有名だ。
「いい香りね。なんて名前なの?」
「ええっと、『郷愁の殺人鬼』だって」
「……なにそれ」
怪訝そうな表情で、メリーは聞き返す。
訊ねられた蓮子もよくわかっていない様子で、首をひねりつつ答えた。
「死にたくなるらしいよ、金木犀って」
「毒でもあるのかしら」
メリーが頭を捻る。二人には、金木犀の持つ毒が理解できないようだった。
科学世紀は、揺りかごの中に生きる遍く人々に一片の隙もない幸福を約束しているのだから、それも当然なのだろう。
「よく落ちるわねえ」
メリーは空を見上げて言った。デバイス越しに見る空には、黄色く色付いた銀杏の葉が止めどなく舞っている。ちらちらと銀杏の葉に提供会社のクレジットが垣間見えるのは、まあ、愛嬌というものだろう。
「ねえ、この銀杏、CGじゃないって噂があるのよ」
出し抜けに、蓮子が言った。
「じゃあ、なんなのよ」
「誰かの夢、あるいは記憶。なんじゃないかって」
「ふうん」
気の無い風を装いながら、メリーはデバイスを取り去った生の眼で空を見た。デバイス越しでしか見えないはずの銀杏が、未だにメリーの視界には映っている。葉っぱの一枚一枚に、微細な境界の貼り付いているのが見えた。
これは現なのかしら、それとも夢なのかしら。
メリーはぼんやりと考えた。ぼんやりとしか考えられなかった。思考を一歩でも進めれば、後に引けない二者択一が待っている。メリーはそれが怖くてたまらない。
「蓮子の眼には、この空はどう見えるのかしら?」
発した言葉は、現状からの精一杯の逃避だった。
「それが、わからないのよ」
蓮子は微かな苛立ちを抱えていた。メリーの問いは蓮子の抱えていたものでもあった。
蓮子の眼に映っていたのは紛れもなく京都の空だ。座標も時刻もそう示している。だけども時折ノイズの様に別の座標、別の時間が現れるのだ。
蓮子が把握する前にノイズは消えてしまう為、それが何なのか蓮子自身にも分からなかった。
「でも、どこかでこの感覚……思い出せ思い出せ」
ぶつぶつと呟きながら、蓮子は記憶の回廊を猛スピードで遡っていく。「わからない」ことは、―特に自分が知っているはずなのにわからないことは―蓮子にとって多大なストレスだった。蓮子は識りたいのだ。全てを。全てを。全てを。
全力で記憶の遡行を試みていた蓮子が、電気を浴びたが如く跳ねるのをメリーは見ていた。
「ねえメリー、やっぱりもう一度あそこに行ってみない?」
くるりと振り向き、勢いよく蓮子は相棒に話しかける。その瞳から苛立ちと困惑の雲は払われ、活力と自信が雷光の様に輝いている。
この輝きがメリーは好きだった。恋していた。愛していた。
蓮子の隣にいれば、夢も現も関係ない。そう思えた。
「博麗神社。あそこやっぱり、何かある気がするんだけど」
蓮子はメリーの手を握る。オータム・シスの新作が、微かに自己主張をしていた。
2.
金木犀の香りがした。
博麗神社。境界の狭間に建つ社は、ひらひらと舞い散る落葉に埋もれているようだった。
「秋だなあ」
縁側に座った魔理沙がのんびり喋る。
「秋ねえ……、っくしゅ、」
答えながら、霊夢は小さなくしゃみをした。
「冷えたんじゃないか?脇なんか出してるから」
「うっさい」
「そんなお前に、私からのありがたい贈り物だ」
とん、と風呂敷が置かれる。霊夢は怪訝に思いながら包みを解いた。中から出てきたのは、紅白の巫女服だった。広げてみる。霊夢が今着ているものと大まかなデザインは同じだが、リボンの位置や色の配置など、細かい点で異なっている。なにより、生地が厚かった。冬用の、温かい物なのだ。
「……魔理沙からじゃなくて、霖之助さんからじゃない」
「デザイン案を出したのは私だぞ」
「横から口を出すのは案出しと言わない」
ばっさりと切り捨てられ、魔理沙は口をつぐまざるを得ない。その通りなのだから、反論のしようがないのだ。
霊夢はそんな魔理沙を見つめてから、少しだけ笑いかけた。
「……ま、持って来てくれたのにはお礼しとくわ、ありがと。お茶の準備するわね」
「来客用の玉露にしてくれ、二番目の棚の」
「出涸らしを喉に突っ込むわよ」
減らず口の応酬をしながら、霊夢はお湯を沸かした。普段使い用の茶筒に手をのばしかけ、途中で止める。しかめ面を一瞬作った後、そろそろと棚の二番目を開けた。魔理沙にばれないように、こっそりと。
「――おまたせ。……なに、それ?」
お茶の準備を整えたお盆を手に、霊夢は縁側に戻る。魔理沙は手持ち無沙汰に、なんだかいろんな色の詰まった瓶を弄んでいた。
「ん、ああ、金平糖だ。香霖から使いの駄賃がわりにもらったんだ。茶菓子に食べようと思ってな」
「珍しい。雨でも降りそうね」
霊夢は微笑みながらお茶を淹れた。魔理沙が手土産を持って来るなんて……。そんなことを思っていると、
ぽつり、
と、水の滴る音がした。それをきっかけに、細かな雨粒が空気中に拡散していく。ひんやりとした外気が、大きく開いた縁側から流れ込んできた。
「……まさか、本当に降るとは」
霊夢は思わず呟いた。
「わ、私のせいじゃない、せいじゃないぞ!」
「はいはい。いいじゃない、雨も。温かいお茶が美味しいわ」
何故か必死に無実を訴える魔理沙の頭を撫でてから、霊夢は金平糖をニ、三粒口の中に放り込む。
舌の上でとげとげした砂糖菓子を転がしながら、ゆっくりと茶碗を傾けた。金平糖の素朴な甘味に、玉露の濃厚な甘味、旨味、香りが絡み、口内に広がっていく。霊夢は思わずほう、と満足の吐息をついた。
「うまい茶だ」
いつの間にか霊夢の隣にきていた魔理沙が、茶を啜りながら言った。手から肩まで、霊夢と魔理沙はぴったりとくっついている。じんわりと伝わってくる魔理沙の体温が、霊夢には少しくすぐったかった。
「ええ」
霊夢は片手で茶碗を持ち、もう一口飲んだ。
一時だけの時雨かと思ったが、しとしと冷たく降り続けている。
「温かいわ」
3.
金木犀の香りがした。
霖之助はぼうっと安楽椅子に腰掛け、窓から外を眺めていた。寒々と降りそぼる秋雨は、ただでさえ皆無に近い勤労意欲を溶かしてしまった――今日も休業だ、いつもの通りに。
霖之助は葉巻を取り出して吸い口を切り、口に咥えた。燐寸を擦る。口内で煙をくゆらせ、ゆっくりと吐き出す。朝方に来た魔理沙には駄賃をやって使いを頼んだから、今日はもう来ないだろう。その他にこの雨をおして来るような客に、霖之助は覚えが無かった。
紫煙を楽しんで、一本目が終わる頃。コンコン、と玄関から優雅なノック音が聞こえた。
「どうぞ、いらっしゃい」
葉巻を揉み消しながら霖之助は返事をした。
さて誰だろう。こんな日に来るとはよっぽど緊急か、はたまた頭がおかしいかだが……。
訝しむ霖之助の前で、空間がぐにゃり、と捻じ曲がった。
「御機嫌よう、店主さん」
空間に出来たスキマから、ニヤニヤと笑みを浮かべた少女が現れた。八雲紫。悪名高き大妖怪だ。
「これは、どうも。……一年ぶりかな?」
「あら、驚いてくれないのですね」
「生憎、自分の時間を邪魔されるのには慣れていてね」
霖之助はぞんざいに返事をした。紫は香霖堂に来る連中のうちでは上客の部類になるが、残念ながら霖之助からはもう商売への熱意が消え失せていた。なにせ今日は閉店だ、気分的に。
それにしても、うちの玄関というのは働きがいがない。毎日毎日魔理沙には乱暴に扱われ、偶にご丁寧にノックなんぞされたと思ったら、扉をくぐらずに入店だ。最近不平不満をぎしぎし呟く様になっていたし、今度油でも差してねぎらってやろうか。
「で、何の用だい」
気を取り直して霖之助は訊ねた。霊夢より少し背の低い目の前の少女は、見た目だけなら精巧な人形にも似た美の粋とも言えるような存在だ。だが、彼女は賢人とも呼ばれる妖怪なのだ。何を企んでいるかしれたものではない。
「そうですわね、こんなものはどうかな、と」
紫はくすりと微笑むと、右手をスキマに突っ込んだ。出てきた手に握られていたのは、深茶色の酒瓶だ。
「おいおい、君まで魔理沙の真似をすることはないだろう」
霖之助は動揺を隠そうとして、失敗した。紫が手にしている瓶は、霖之助が自分用に隠していたものと瓜二つだ。
「あら、本当にそうお思いで?」
ニマニマと笑いながら、紫は瓶を霖之助に手渡した。霖之助はすぐに気づいた。封が切られていない。霖之助の秘蔵っ子は、既に半分ほどに目減りしているはずだった。
ちらりと紫の顔を伺う。妖怪は気持ち悪い笑顔を浮かべたまま、小さく頷いた。その手にはいつの間にか、ロックグラスが二つ入っている。ご丁寧に氷付きだ。
霖之助は封を切り、二つのグラスに酒を注いだ。無論、溜息付きで。
各々グラスを取り、小さくかちん、と乾杯をした。
霖之助は一口目をつける。ピートの強烈な香りが口から鼻にかけて抜けていく。その芳醇さに、思わず霖之助は唸った。
「……スコッチか。それも逸品だ」
「くすくす、お眼鏡に適ったようで」
「何故、こんなものを僕に?」
「別に、他意はありませんよ。ただ、こんなものを手に入れて、」
紫は意地の悪いチェシャ猫のような顔で、小さめの麻で出来た袋をとすん、と置いた。
霖之助は中身を確かめ、少なからず驚いた。
中身は向日葵の種――それも、煎って塩味のついた食用だ。
この幻想郷で向日葵と言えば、連想されるのはとある強大な妖怪だ。彼女が、自分の愛する花々の末路が酒の肴と知ったなら、決して愉快ではないだろう。
「――呑まずにいるのも、いささか無粋ですもの。……ああ、ご心配なく。『きちんと』手に入れたものですから」
「そうだと助かるよ」
霖之助の素っ気もない言葉に紫はただ艶然と微笑み、グラスを傾けた。また何処からとなく葉巻を取り出し、形の良い唇でそっと挟み込む。霖之助は燐寸を擦ると、恭しくその火を紫に差し出した。さながら、女王に仕える従者のように。
「……しかし、何故僕なんだ。別に誰でもいいんだろう」
霖之助の問いを無視して、紫は向日葵の種に手を付けた。ぱきん。ぱきん。ぱきん。心地よい音と共に殻は破られ、種子が口の中へと消えていく。
霖之助も最初は躊躇していたが、やがて普通に手をつけ出した。程よい塩気と油分が琥珀色のアルコールと出会い、極上の愉悦へと誘う。
「まあ、いいじゃありません、たまには」
「ああ、たまで十分だ」
ウイスキーを傾けてから、剥いた向日葵の種を放り込む。微かに付いた塩の味と共に、夏の残り日の味がした。
4.
金木犀の香りがした。
太陽の丘。夏の間は輝くような有様だったこの場所も、今は何もなくひっそりとした雰囲気であった。
丘の一隅に建てられた小さな家。見た目は古いが、中に入ると素朴な魅力を持つ西洋家具が整えられた、心地よい空間がある。外見より中が広いように思えるが、これもよく整えてある故だろう。
家の主人、風見幽香は、窓際の椅子に腰掛け、静かにハーブティーを嗜んでいた。
芳しい香りを放つカップが持ち上げられ、ゆっくりとテーブルに着地する。
コンコン、と小さなノック音が玄関のドアから聞こえた。
「どうぞ」
幽香が答えると、ドアが静かに開かれる。扉の前には、誰もいない。いや、いる。幼子のような見てくれの少女が、ちょこんと立っていた。
「こんにちは、幽香」
幼子――メディスンのどこか舌足らずな挨拶を、幽香は軽く微笑みながら受けた。
「いらっしゃい」
「これ、お土産よ」
メディスンはそう言ってとてとて幽香に近づくと、テーブルに置かれた花瓶にお土産を差した。
鮮やかな黄色、ほのかに香る不吉な気配。
メディスンが持ってきたのは、黄色い彼岸花だった。
幽香は彼岸花を見て、やや呆れたように溜息をついた。
「メディ、黄色い彼岸花の花言葉を知ってるかしら?」
「知らない」
「教えてあげるわ。『過去を偲ぶ』、よ」
ほっそりした指で彼岸花を優しく弄ぶ幽香の姿を、椅子に腰掛けてもなお小さなメディスンが見上げるように眺めていた。
「……幽香には、偲ぶ過去があるの?」
「あるわよ。楽しいもの、寂しいもの、悲しいもの、驚いたもの。すぐに思い出せるもの、忘れてしまったもの。忘れられないもの、忘れてはいけないもの。……色々あるから、あまり秩序だっているとは言えないわね」
自嘲混じりに呟く幽香を見て、メディスンはコトリと首を傾けた。
「ふうん。よくわからないわ」
「いつかはわかるわ。きっとね」
幽香は彼岸花から手を放し、メディスンの光沢ある金髪をくしゃりと撫でた。メディスンは目を細め、猫のように笑った。
いつからか――多分、あの花の異変の後から――ふたりは毎年夏の終わりに、こうしてお茶会を開いている。特に何をするでもなく、ただ静かに話をするだけなのだが、メディスンは夏の終わりが近付く度に、そわそわとして落ち着かない気持ちになるのだ。この気持ちが何なのか、未だメディスンには分からない。
「ところで、金木犀は咲いていなかった?」
出し抜けに、幽香が言った。
「咲いてたよ。どうして?」
「あなたが毎年持ってくるのは、毒のある花ばかりだから。今年は金木犀かなと思ったのだけど」
「でも、金木犀に毒なんかないよ」
メディスンはガラス玉の瞳をまん丸にして、不思議そうに答えた。大体、そんな毒があったら、わたしが知らないはずないじゃない。わたしという存在、それそのものが混じり気なしの毒なのだから。
「あるわよ、メディ。貴方には、まだ分からないかもしれないけれど」
メディスンの心を覗いたみたいに、幽香はさらりと答えてみせる。その余裕っぷりが、無性にメディスンをむかむかさせる。
「それじゃ一体、なんだって言うの」
「それは、年月を経て始めてそれと分かる毒。郷愁という名の毒物よ」
あなたが持ってきた花に通じるわね、と、幽香は彼岸花を爪弾いた。黄色い彼岸花。偲ぶ過去。
メディスンはびっくりした。
あり得ない、とも思った。
幽香が、あの風見幽香が泣いている。ぽろり、ぽろり、大きな涙を流している。
メディスンは慌てて椅子から降りると、無我夢中で幽香の背中に抱きついた。いつでも冷んやりしたままのメディスンからするとびっくりするほどの温かさが、背中からメディスンへ伝わってくる。 鳴咽で微かに震える背中を、メディスンはただ抱きしめた。
こんなに幽香は小さかったかしら。メディスンは抱きしめながら思った。これではまるで、里に住む人間の少女と変わらないわ。
訝しむメディスンの鼻を、ひと筋の風が撫でる。はっとした。大きく開けた窓の外から運ばれてきたそれは、紛れもなく金木犀の香りだった。
「……もう大丈夫よ。ありがとう、メディ」
暫くしてから、そっと幽香が呟いた。
目元をさっとハンカチで拭ったら、そこにいるのはいつもの幽香だ。ただ一つ、真っ赤になった瞳を除いては。
「まあざっと、こんなざまよ。この毒の厄介なところは、年を重ねただけ毒の効き目が強くなるところね。どれだけ強い妖怪だって、いや強い程に、この毒は効力を増すわ。誰だって、悔悟の念と無縁ではいられないもの」
「辛くないの?」
「辛いわよ。でも所詮、この毒は一過性よ。辛さと喜びとを同量カクテルしていくのが歳をとるということだもの。時折酸味や甘味が際立っても、いつかはもとの味になる。それぞれの味わいにね。だからまあ、偶に辛さを楽しむのも一興、かしら?」
「……幽香の言うことは、やっぱりなんだか難しいわ」
俯き加減に呟くメディスンを、そっと幽香は膝の上に抱き上げる。テーブルの上に残っていたハーブティーを、二人で分け合った。すっかり温くなってしまったけど、その爽やかな甘味は、自然に笑顔になれる類のものだった。
「本当に知りたいなら、メディ、金木犀の香りを辿るのね。秋の女神が、寂寥の何たるかを教えてくれるわ」
幽香の声と共に、風が金木犀の香りを運んでくる。メディスンは微笑みながら、その香りを胸いっぱいに吸い込んだ。
いつか今日の事を思い出す時、涙ではなく笑顔が出るように。
5.
生焼け芋の匂いを振りまいて、穣子は振り向いた。
ずんと重くなった腰をとんとん叩きながら、曲げていた背筋をしゃんとする。
穣子は畑にいた。誰でもなく、穣子自身の耕す畑だ。ここで出来た作物が、里で出来る物の指標になる。不作なら小さく、豊作なら大きく。
穣子のすぐ側に、作物の入った網かごが置かれている。中には、南瓜、薩摩、馬鈴薯、牛蒡などなど。どれも大きく、形も良い。大豊作といったところだろうか。
穣子はほっとしていた。一昨年、長雨で酷い不作になったからだ。去年も雲が多く、不作とまではいかないが平年よりは、という有様だった。穣子にとって今年は勝負の年なのだ。
ぐうっと胸を反らして、空を見る。小さな小さな、綿あめみたいなうろこ雲が、空一面を覆いつくしている。一時雨が降っていたが、風が吹き流してくれたようだ。
(空なんて見るの、久しぶり)
穣子は思った。正確には空自体は見ているのだが、それは雨や気温などの作物への影響を見ていたのであって、空そのものの美しさを賞でるというのとは縁遠いものだ。穣子の領分は地面にある。空を飾るのは――、それは、静葉の仕事だ。
思えば、あたしたち姉妹は正反対だ。
天と地、風と水、静と動、陰と陽。
秋という季節の二面性、その象徴があたしたちなのだから、まあある意味当然ではあるんだけど。
(懐かしいなあ……)
空を見ながら物思いにふけっていると、色々と思い出す。
嬉しいことも、寂しいことも、こうして思い返せるのは幸せなことなんだろう。
過去を振り返ることは、それ自体が一種の贅沢なのだ。だって、そこには良し悪しあれど、最良の時代が過去にはあったと思えているのだから。
(静葉、遅いなあ)
穣子は心の中で呟いた。彼女がいないと、折角の秋という気がしない。
「芸術家さんは寝ぼすけでいいですね、農家の朝は早いんですよ」
そう口走っても、答えるのは北風だけだ。
穣子はため息を吐いて、農作業に戻りかけた。
その時、
風が、
穣子はゆっくり振り返る。
視線の先に、見慣れた愛しい笑顔があった。
「おはよう、静葉」
金木犀の香りがした。
金木犀の香りがした。
「ん……うん?」
午後も遅い帰り道。メリーは鼻をすんすんとひくつかせた。
「どしたん、メリー。うさぎの真似?」
「違うわよ。……蓮子、香水でも変えた?」
「お、鋭いねー。オータム・シスの新作よ」
蓮子はにやりと笑って言った。オータム・シスはオンラインでのみ販売されている香水ブランドで、「失敗した魔方陣」だの「白亜紀の旋風」だのといった非現実な商品名と、一度嗅ぐと何故かその商品名しか思いつかない、幻想的な香りで有名だ。
「いい香りね。なんて名前なの?」
「ええっと、『郷愁の殺人鬼』だって」
「……なにそれ」
怪訝そうな表情で、メリーは聞き返す。
訊ねられた蓮子もよくわかっていない様子で、首をひねりつつ答えた。
「死にたくなるらしいよ、金木犀って」
「毒でもあるのかしら」
メリーが頭を捻る。二人には、金木犀の持つ毒が理解できないようだった。
科学世紀は、揺りかごの中に生きる遍く人々に一片の隙もない幸福を約束しているのだから、それも当然なのだろう。
「よく落ちるわねえ」
メリーは空を見上げて言った。デバイス越しに見る空には、黄色く色付いた銀杏の葉が止めどなく舞っている。ちらちらと銀杏の葉に提供会社のクレジットが垣間見えるのは、まあ、愛嬌というものだろう。
「ねえ、この銀杏、CGじゃないって噂があるのよ」
出し抜けに、蓮子が言った。
「じゃあ、なんなのよ」
「誰かの夢、あるいは記憶。なんじゃないかって」
「ふうん」
気の無い風を装いながら、メリーはデバイスを取り去った生の眼で空を見た。デバイス越しでしか見えないはずの銀杏が、未だにメリーの視界には映っている。葉っぱの一枚一枚に、微細な境界の貼り付いているのが見えた。
これは現なのかしら、それとも夢なのかしら。
メリーはぼんやりと考えた。ぼんやりとしか考えられなかった。思考を一歩でも進めれば、後に引けない二者択一が待っている。メリーはそれが怖くてたまらない。
「蓮子の眼には、この空はどう見えるのかしら?」
発した言葉は、現状からの精一杯の逃避だった。
「それが、わからないのよ」
蓮子は微かな苛立ちを抱えていた。メリーの問いは蓮子の抱えていたものでもあった。
蓮子の眼に映っていたのは紛れもなく京都の空だ。座標も時刻もそう示している。だけども時折ノイズの様に別の座標、別の時間が現れるのだ。
蓮子が把握する前にノイズは消えてしまう為、それが何なのか蓮子自身にも分からなかった。
「でも、どこかでこの感覚……思い出せ思い出せ」
ぶつぶつと呟きながら、蓮子は記憶の回廊を猛スピードで遡っていく。「わからない」ことは、―特に自分が知っているはずなのにわからないことは―蓮子にとって多大なストレスだった。蓮子は識りたいのだ。全てを。全てを。全てを。
全力で記憶の遡行を試みていた蓮子が、電気を浴びたが如く跳ねるのをメリーは見ていた。
「ねえメリー、やっぱりもう一度あそこに行ってみない?」
くるりと振り向き、勢いよく蓮子は相棒に話しかける。その瞳から苛立ちと困惑の雲は払われ、活力と自信が雷光の様に輝いている。
この輝きがメリーは好きだった。恋していた。愛していた。
蓮子の隣にいれば、夢も現も関係ない。そう思えた。
「博麗神社。あそこやっぱり、何かある気がするんだけど」
蓮子はメリーの手を握る。オータム・シスの新作が、微かに自己主張をしていた。
2.
金木犀の香りがした。
博麗神社。境界の狭間に建つ社は、ひらひらと舞い散る落葉に埋もれているようだった。
「秋だなあ」
縁側に座った魔理沙がのんびり喋る。
「秋ねえ……、っくしゅ、」
答えながら、霊夢は小さなくしゃみをした。
「冷えたんじゃないか?脇なんか出してるから」
「うっさい」
「そんなお前に、私からのありがたい贈り物だ」
とん、と風呂敷が置かれる。霊夢は怪訝に思いながら包みを解いた。中から出てきたのは、紅白の巫女服だった。広げてみる。霊夢が今着ているものと大まかなデザインは同じだが、リボンの位置や色の配置など、細かい点で異なっている。なにより、生地が厚かった。冬用の、温かい物なのだ。
「……魔理沙からじゃなくて、霖之助さんからじゃない」
「デザイン案を出したのは私だぞ」
「横から口を出すのは案出しと言わない」
ばっさりと切り捨てられ、魔理沙は口をつぐまざるを得ない。その通りなのだから、反論のしようがないのだ。
霊夢はそんな魔理沙を見つめてから、少しだけ笑いかけた。
「……ま、持って来てくれたのにはお礼しとくわ、ありがと。お茶の準備するわね」
「来客用の玉露にしてくれ、二番目の棚の」
「出涸らしを喉に突っ込むわよ」
減らず口の応酬をしながら、霊夢はお湯を沸かした。普段使い用の茶筒に手をのばしかけ、途中で止める。しかめ面を一瞬作った後、そろそろと棚の二番目を開けた。魔理沙にばれないように、こっそりと。
「――おまたせ。……なに、それ?」
お茶の準備を整えたお盆を手に、霊夢は縁側に戻る。魔理沙は手持ち無沙汰に、なんだかいろんな色の詰まった瓶を弄んでいた。
「ん、ああ、金平糖だ。香霖から使いの駄賃がわりにもらったんだ。茶菓子に食べようと思ってな」
「珍しい。雨でも降りそうね」
霊夢は微笑みながらお茶を淹れた。魔理沙が手土産を持って来るなんて……。そんなことを思っていると、
ぽつり、
と、水の滴る音がした。それをきっかけに、細かな雨粒が空気中に拡散していく。ひんやりとした外気が、大きく開いた縁側から流れ込んできた。
「……まさか、本当に降るとは」
霊夢は思わず呟いた。
「わ、私のせいじゃない、せいじゃないぞ!」
「はいはい。いいじゃない、雨も。温かいお茶が美味しいわ」
何故か必死に無実を訴える魔理沙の頭を撫でてから、霊夢は金平糖をニ、三粒口の中に放り込む。
舌の上でとげとげした砂糖菓子を転がしながら、ゆっくりと茶碗を傾けた。金平糖の素朴な甘味に、玉露の濃厚な甘味、旨味、香りが絡み、口内に広がっていく。霊夢は思わずほう、と満足の吐息をついた。
「うまい茶だ」
いつの間にか霊夢の隣にきていた魔理沙が、茶を啜りながら言った。手から肩まで、霊夢と魔理沙はぴったりとくっついている。じんわりと伝わってくる魔理沙の体温が、霊夢には少しくすぐったかった。
「ええ」
霊夢は片手で茶碗を持ち、もう一口飲んだ。
一時だけの時雨かと思ったが、しとしと冷たく降り続けている。
「温かいわ」
3.
金木犀の香りがした。
霖之助はぼうっと安楽椅子に腰掛け、窓から外を眺めていた。寒々と降りそぼる秋雨は、ただでさえ皆無に近い勤労意欲を溶かしてしまった――今日も休業だ、いつもの通りに。
霖之助は葉巻を取り出して吸い口を切り、口に咥えた。燐寸を擦る。口内で煙をくゆらせ、ゆっくりと吐き出す。朝方に来た魔理沙には駄賃をやって使いを頼んだから、今日はもう来ないだろう。その他にこの雨をおして来るような客に、霖之助は覚えが無かった。
紫煙を楽しんで、一本目が終わる頃。コンコン、と玄関から優雅なノック音が聞こえた。
「どうぞ、いらっしゃい」
葉巻を揉み消しながら霖之助は返事をした。
さて誰だろう。こんな日に来るとはよっぽど緊急か、はたまた頭がおかしいかだが……。
訝しむ霖之助の前で、空間がぐにゃり、と捻じ曲がった。
「御機嫌よう、店主さん」
空間に出来たスキマから、ニヤニヤと笑みを浮かべた少女が現れた。八雲紫。悪名高き大妖怪だ。
「これは、どうも。……一年ぶりかな?」
「あら、驚いてくれないのですね」
「生憎、自分の時間を邪魔されるのには慣れていてね」
霖之助はぞんざいに返事をした。紫は香霖堂に来る連中のうちでは上客の部類になるが、残念ながら霖之助からはもう商売への熱意が消え失せていた。なにせ今日は閉店だ、気分的に。
それにしても、うちの玄関というのは働きがいがない。毎日毎日魔理沙には乱暴に扱われ、偶にご丁寧にノックなんぞされたと思ったら、扉をくぐらずに入店だ。最近不平不満をぎしぎし呟く様になっていたし、今度油でも差してねぎらってやろうか。
「で、何の用だい」
気を取り直して霖之助は訊ねた。霊夢より少し背の低い目の前の少女は、見た目だけなら精巧な人形にも似た美の粋とも言えるような存在だ。だが、彼女は賢人とも呼ばれる妖怪なのだ。何を企んでいるかしれたものではない。
「そうですわね、こんなものはどうかな、と」
紫はくすりと微笑むと、右手をスキマに突っ込んだ。出てきた手に握られていたのは、深茶色の酒瓶だ。
「おいおい、君まで魔理沙の真似をすることはないだろう」
霖之助は動揺を隠そうとして、失敗した。紫が手にしている瓶は、霖之助が自分用に隠していたものと瓜二つだ。
「あら、本当にそうお思いで?」
ニマニマと笑いながら、紫は瓶を霖之助に手渡した。霖之助はすぐに気づいた。封が切られていない。霖之助の秘蔵っ子は、既に半分ほどに目減りしているはずだった。
ちらりと紫の顔を伺う。妖怪は気持ち悪い笑顔を浮かべたまま、小さく頷いた。その手にはいつの間にか、ロックグラスが二つ入っている。ご丁寧に氷付きだ。
霖之助は封を切り、二つのグラスに酒を注いだ。無論、溜息付きで。
各々グラスを取り、小さくかちん、と乾杯をした。
霖之助は一口目をつける。ピートの強烈な香りが口から鼻にかけて抜けていく。その芳醇さに、思わず霖之助は唸った。
「……スコッチか。それも逸品だ」
「くすくす、お眼鏡に適ったようで」
「何故、こんなものを僕に?」
「別に、他意はありませんよ。ただ、こんなものを手に入れて、」
紫は意地の悪いチェシャ猫のような顔で、小さめの麻で出来た袋をとすん、と置いた。
霖之助は中身を確かめ、少なからず驚いた。
中身は向日葵の種――それも、煎って塩味のついた食用だ。
この幻想郷で向日葵と言えば、連想されるのはとある強大な妖怪だ。彼女が、自分の愛する花々の末路が酒の肴と知ったなら、決して愉快ではないだろう。
「――呑まずにいるのも、いささか無粋ですもの。……ああ、ご心配なく。『きちんと』手に入れたものですから」
「そうだと助かるよ」
霖之助の素っ気もない言葉に紫はただ艶然と微笑み、グラスを傾けた。また何処からとなく葉巻を取り出し、形の良い唇でそっと挟み込む。霖之助は燐寸を擦ると、恭しくその火を紫に差し出した。さながら、女王に仕える従者のように。
「……しかし、何故僕なんだ。別に誰でもいいんだろう」
霖之助の問いを無視して、紫は向日葵の種に手を付けた。ぱきん。ぱきん。ぱきん。心地よい音と共に殻は破られ、種子が口の中へと消えていく。
霖之助も最初は躊躇していたが、やがて普通に手をつけ出した。程よい塩気と油分が琥珀色のアルコールと出会い、極上の愉悦へと誘う。
「まあ、いいじゃありません、たまには」
「ああ、たまで十分だ」
ウイスキーを傾けてから、剥いた向日葵の種を放り込む。微かに付いた塩の味と共に、夏の残り日の味がした。
4.
金木犀の香りがした。
太陽の丘。夏の間は輝くような有様だったこの場所も、今は何もなくひっそりとした雰囲気であった。
丘の一隅に建てられた小さな家。見た目は古いが、中に入ると素朴な魅力を持つ西洋家具が整えられた、心地よい空間がある。外見より中が広いように思えるが、これもよく整えてある故だろう。
家の主人、風見幽香は、窓際の椅子に腰掛け、静かにハーブティーを嗜んでいた。
芳しい香りを放つカップが持ち上げられ、ゆっくりとテーブルに着地する。
コンコン、と小さなノック音が玄関のドアから聞こえた。
「どうぞ」
幽香が答えると、ドアが静かに開かれる。扉の前には、誰もいない。いや、いる。幼子のような見てくれの少女が、ちょこんと立っていた。
「こんにちは、幽香」
幼子――メディスンのどこか舌足らずな挨拶を、幽香は軽く微笑みながら受けた。
「いらっしゃい」
「これ、お土産よ」
メディスンはそう言ってとてとて幽香に近づくと、テーブルに置かれた花瓶にお土産を差した。
鮮やかな黄色、ほのかに香る不吉な気配。
メディスンが持ってきたのは、黄色い彼岸花だった。
幽香は彼岸花を見て、やや呆れたように溜息をついた。
「メディ、黄色い彼岸花の花言葉を知ってるかしら?」
「知らない」
「教えてあげるわ。『過去を偲ぶ』、よ」
ほっそりした指で彼岸花を優しく弄ぶ幽香の姿を、椅子に腰掛けてもなお小さなメディスンが見上げるように眺めていた。
「……幽香には、偲ぶ過去があるの?」
「あるわよ。楽しいもの、寂しいもの、悲しいもの、驚いたもの。すぐに思い出せるもの、忘れてしまったもの。忘れられないもの、忘れてはいけないもの。……色々あるから、あまり秩序だっているとは言えないわね」
自嘲混じりに呟く幽香を見て、メディスンはコトリと首を傾けた。
「ふうん。よくわからないわ」
「いつかはわかるわ。きっとね」
幽香は彼岸花から手を放し、メディスンの光沢ある金髪をくしゃりと撫でた。メディスンは目を細め、猫のように笑った。
いつからか――多分、あの花の異変の後から――ふたりは毎年夏の終わりに、こうしてお茶会を開いている。特に何をするでもなく、ただ静かに話をするだけなのだが、メディスンは夏の終わりが近付く度に、そわそわとして落ち着かない気持ちになるのだ。この気持ちが何なのか、未だメディスンには分からない。
「ところで、金木犀は咲いていなかった?」
出し抜けに、幽香が言った。
「咲いてたよ。どうして?」
「あなたが毎年持ってくるのは、毒のある花ばかりだから。今年は金木犀かなと思ったのだけど」
「でも、金木犀に毒なんかないよ」
メディスンはガラス玉の瞳をまん丸にして、不思議そうに答えた。大体、そんな毒があったら、わたしが知らないはずないじゃない。わたしという存在、それそのものが混じり気なしの毒なのだから。
「あるわよ、メディ。貴方には、まだ分からないかもしれないけれど」
メディスンの心を覗いたみたいに、幽香はさらりと答えてみせる。その余裕っぷりが、無性にメディスンをむかむかさせる。
「それじゃ一体、なんだって言うの」
「それは、年月を経て始めてそれと分かる毒。郷愁という名の毒物よ」
あなたが持ってきた花に通じるわね、と、幽香は彼岸花を爪弾いた。黄色い彼岸花。偲ぶ過去。
メディスンはびっくりした。
あり得ない、とも思った。
幽香が、あの風見幽香が泣いている。ぽろり、ぽろり、大きな涙を流している。
メディスンは慌てて椅子から降りると、無我夢中で幽香の背中に抱きついた。いつでも冷んやりしたままのメディスンからするとびっくりするほどの温かさが、背中からメディスンへ伝わってくる。 鳴咽で微かに震える背中を、メディスンはただ抱きしめた。
こんなに幽香は小さかったかしら。メディスンは抱きしめながら思った。これではまるで、里に住む人間の少女と変わらないわ。
訝しむメディスンの鼻を、ひと筋の風が撫でる。はっとした。大きく開けた窓の外から運ばれてきたそれは、紛れもなく金木犀の香りだった。
「……もう大丈夫よ。ありがとう、メディ」
暫くしてから、そっと幽香が呟いた。
目元をさっとハンカチで拭ったら、そこにいるのはいつもの幽香だ。ただ一つ、真っ赤になった瞳を除いては。
「まあざっと、こんなざまよ。この毒の厄介なところは、年を重ねただけ毒の効き目が強くなるところね。どれだけ強い妖怪だって、いや強い程に、この毒は効力を増すわ。誰だって、悔悟の念と無縁ではいられないもの」
「辛くないの?」
「辛いわよ。でも所詮、この毒は一過性よ。辛さと喜びとを同量カクテルしていくのが歳をとるということだもの。時折酸味や甘味が際立っても、いつかはもとの味になる。それぞれの味わいにね。だからまあ、偶に辛さを楽しむのも一興、かしら?」
「……幽香の言うことは、やっぱりなんだか難しいわ」
俯き加減に呟くメディスンを、そっと幽香は膝の上に抱き上げる。テーブルの上に残っていたハーブティーを、二人で分け合った。すっかり温くなってしまったけど、その爽やかな甘味は、自然に笑顔になれる類のものだった。
「本当に知りたいなら、メディ、金木犀の香りを辿るのね。秋の女神が、寂寥の何たるかを教えてくれるわ」
幽香の声と共に、風が金木犀の香りを運んでくる。メディスンは微笑みながら、その香りを胸いっぱいに吸い込んだ。
いつか今日の事を思い出す時、涙ではなく笑顔が出るように。
5.
生焼け芋の匂いを振りまいて、穣子は振り向いた。
ずんと重くなった腰をとんとん叩きながら、曲げていた背筋をしゃんとする。
穣子は畑にいた。誰でもなく、穣子自身の耕す畑だ。ここで出来た作物が、里で出来る物の指標になる。不作なら小さく、豊作なら大きく。
穣子のすぐ側に、作物の入った網かごが置かれている。中には、南瓜、薩摩、馬鈴薯、牛蒡などなど。どれも大きく、形も良い。大豊作といったところだろうか。
穣子はほっとしていた。一昨年、長雨で酷い不作になったからだ。去年も雲が多く、不作とまではいかないが平年よりは、という有様だった。穣子にとって今年は勝負の年なのだ。
ぐうっと胸を反らして、空を見る。小さな小さな、綿あめみたいなうろこ雲が、空一面を覆いつくしている。一時雨が降っていたが、風が吹き流してくれたようだ。
(空なんて見るの、久しぶり)
穣子は思った。正確には空自体は見ているのだが、それは雨や気温などの作物への影響を見ていたのであって、空そのものの美しさを賞でるというのとは縁遠いものだ。穣子の領分は地面にある。空を飾るのは――、それは、静葉の仕事だ。
思えば、あたしたち姉妹は正反対だ。
天と地、風と水、静と動、陰と陽。
秋という季節の二面性、その象徴があたしたちなのだから、まあある意味当然ではあるんだけど。
(懐かしいなあ……)
空を見ながら物思いにふけっていると、色々と思い出す。
嬉しいことも、寂しいことも、こうして思い返せるのは幸せなことなんだろう。
過去を振り返ることは、それ自体が一種の贅沢なのだ。だって、そこには良し悪しあれど、最良の時代が過去にはあったと思えているのだから。
(静葉、遅いなあ)
穣子は心の中で呟いた。彼女がいないと、折角の秋という気がしない。
「芸術家さんは寝ぼすけでいいですね、農家の朝は早いんですよ」
そう口走っても、答えるのは北風だけだ。
穣子はため息を吐いて、農作業に戻りかけた。
その時、
風が、
穣子はゆっくり振り返る。
視線の先に、見慣れた愛しい笑顔があった。
「おはよう、静葉」
金木犀の香りがした。
スコッチはバラタインが好きです。乾杯。