~ 1 ~
私の一日は布団の中からはじまる。普通なら誰だって目が覚めるのは布団、あるいはベッドの中だから、当然といえば当然である。それでもなぜあえてそう表現するのかというと、私は目が覚めたくらいではだいたい布団から出ないからだ。
今朝は、百回は読み返したのではないかというほどお気に入りの大長編小説を久しぶりに一から読み返している真っ最中である。昨日は日の高い内から時間も日付も忘れて没頭していた。今日も目が覚めたので続きを寝ながら読むのだ。
今読んでいるこのシリーズは、異国の少年少女たちが仲間となり共通の目的とそれぞれの願いを叶えるべく冒険をするという、ありきたりだが夢のあるお話だ。
今の場面は、長らくいがみ合いをしていた主人公とライバルがついに激突し、認め合い、曲がりなりにも仲間になる青春の一幕。
「いいなあ……いいなあ…………」
何度読んでもいい。
私を幸せにしてくれる。
私に力を与えてくれる。
読み返すのが何度目だろうとも、鬱屈としたこの現実から何度でも救い出してくれる書物は何ものにも代え難い。
そして文章を扱う仕事柄、読書は勉強でもある。文章をアウトプットするためにはまずインプットが欠かせないことはもはや常識。私のような新聞記者でも同様だ。ただ本来ならもっと広くジャンルをまたいで多くの本を読むべきではあるのだが、このシリーズは何度読んでも勉強になる名著なので良しとしよう。
時間はいくらでもある。
この本を再び読み切った暁には、きっとまた違った私が――――
―――――――ピッピッピッピッピッピッピッピッピッ
突如として私の相棒と呼ぶべきケータイによって、私は夢から現実へ引き戻された。私は本を枕元へひとまず置き、慌てて音源へと手を伸ばす。身を乗り出す際、積んでおいた本の山を崩してしまった。
起きる時間を決めない私は普段なら目覚ましを用意しない。だから理由があってわざわざ設定したはずなのに、夢に浸っていた頭ではこれが何のためのアラームだったのか、思い出すことができないでいた。
布団からずり落ちそうになりながらやっとケータイをとる。画面上にはアラームのメモが表示されており、そこにはたった一言、『大会』とだけ書かれていた。
「……ああ、今日だっけ」
私は枕へ顔をうずめ、何も考えずに時間を経過させる。そして、スヌーズで再び鳴った瞬間に止め、身体を起こした。まずはシャワーでも浴びよう。
今日は午後から我らが天狗の里の定例新聞大会の結果発表が行われる。
あわよくば、なんて期待はしていないけれど、せっかく参加したのだし少しは顔も出さなければなるまい。
――――……
「……………………ハア」
そして、結果発表を聞き終えた。
押し殺せず、溜め息が漏れた。
アナウンスされなかったし、掲示板にも上から下まで『姫海棠はたて』と『花果子念報』の文字は見られなかった。私の新聞は、今回も日の目を見ることは叶わなかった。
予想通りの結果が出ただけなのに、表彰される同僚の姿が直視できないし、周りに合わせて送った拍手にもまるで気持ちが入らなかった。
「…………さてと」
右を見て、左を見る。
閉会の挨拶も終わり、天狗たちは各々に動き出していた。私を探す者の姿はない。その私以外の全員がグループを形成しているように見える。単独で動いている者も、グループになる当てがあってそう動いているようにしか見えない。
これだけの数がいるのに、次の予定もなければ言葉を交わす相手すらもいない者は、どうやら私だけしかいないらしい。
次の役目へ向かう者たちに私も混ざり、その場でおしゃべりする者たちをかきわけ出口へ進んでゆく。この後は例によって打ち上げが予定されているのだが、私は構わず帰るつもりだ。
「……あ、椛……」
伏し目がちに人混みを抜けていると、茶飲み友達の白狼天狗を見つけることができた。しかし、その娘は他の白狼天狗と会場の出口で打ち合わせをしているところである。きっと今回の宴会当番なのだろう。通り過ぎ様、それっぽい単語が早口で聞こえてくる。忙しそうに話し込んでいるため挨拶は遠慮して、気付いていない振りをして通り過ぎた。
誰の目にも留まることなく外へ出ると、もう日が暮れはじめていた。雲は少なく、月はない。今夜は星が綺麗だろう。
「まあいいや」
澄まし顔で羽を広げる。一刻も早く、安息の地へ、自分の城へ、早く帰ろう。
里をあげての行事がある日であろうとも、妖怪の山はいつだって秩序が堅く守られている。おかげで今日も山は平和であり、事も無く、私はマンションの自室へと到着してしまった。
今日も私は何の収穫もなく、何の進歩もなくこの部屋へと戻ってきてしまった。
この部屋が停滞をはじめたのはいつからだろうか。空気がこもっている。明かりをつけると内装がつまらなそうに照らし出された。慣れ親しんだお気に入りのはずの家具たちが無感動で素っ気なく見えてしまう。
憮然とした顔でさっさと脱衣所へと向かった。そして浴室。軽く眼を閉じて顔に直接シャワーをかける。上を向いて棒立ちのまま、じっと黙ってかけ続ける。目を開けて、痛くてすぐにまた閉じた。馬鹿らしくなって早々に切り上げる。
タオルを頭に巻き、キャミソールと短パンだけの格好で部屋へ戻る。その際台所から、漬け物の盛り合わせと少し奮発して手に入れた日本酒も持ってきた。真顔で鼻歌を口ずさみつつ作業机から原稿用紙やらペンやらインクやらをどけ、そこへひとり呑みセットを置く。
新聞のことなど今は考えたくもないが、それでもベッド以外で一番落ち着くのはこの作業机の前。大して広くもないこの部屋では大抵ここが定位置である。ひとりで宅飲みをするときもそうだ。
座椅子を机に対して横に向きを変え、背もたれを深くなりすぎないように傾ける。ギィッと音を鳴らして身体を預け、静かに息を吸い、そして深く息を吐く。ようやく落ち着ける。
一息ついたところで早速酒瓶の封を切り、徳利に注いだ。トクトクと小気味よい音に耳を傾け、ぐい呑みに移し、まずひと口あおる。
「うん、おいしー」
漬け物もつまむ。
「うんうん」
また徳利から酒を注ぎ、香りを楽しみ、のんびりと、またあおる。
「うーん、いいー……」
ひとり言と一緒に長く息を吐いた。座椅子に身体が沈んでゆく。呼吸は静かに、そして深くなる。このまま眠りにつくのも悪くはないが、この心地良さはもったいない。
視線を机の棚へ向けた。原稿の束をしばらく無心で見つめる。
「……よし」
お酒のおかげで気が変わった。新聞のことを考えよう。
もう一度ぐい呑みをあおり、前向きに新聞大会の反省ができそうなことを確認する。
「(けっこーよく書けたと思ったんだけどなー)」
したためしたため何度も見直した原稿の手応えを思い出し、心の中でボヤく。
私の新聞、『花果子念報』の記事は私が念写した写真をもとにして構成されている。
念写とは、カメラを用いて行使する千里眼にも似た神通力である。ベッドの中にいながらにして現場を撮影できる便利な力だが、取り扱いには気を抜けない。なにせ念写という能力の性質上、盗撮を疑われる恐れがあるからだ。恨みを買うような真似をする気がなくとも、新聞記者が念写を使うと知られるだけで要らぬ誤解を生んでしまうだろう。
そのため私の念写は秘密の特技、ということにしている。人前で披露することはないし、誰かに話すこともない。ただ、能力に気づいた当初はそういった危険性にまで頭が回らず、身近な者には念写のことを教えてしまっていた。里の外にまでは漏れていないとは思うが、これ以上念写が知れ渡ることは避けなければならない。
そうすると記事に使う写真だけでなく本文にも細心の注意が必要になる。他人の秘密に触れないようにする配慮が欠かせない訳だ。おかげで文章には不自由してばかりで切れ味なんてあったものではない。新聞を書くにあたり、いまいち踏み込んだ内容を書けないのはハンデが厳しい。安全策として他人の写真を焼き直して使用することもあるが、それだと今度は盗用疑惑の回避に気を回す羽目になる。しかも新聞なのに二番煎じが確定し、速報性を失ってしまう。良いことがない。
しかし、今回の大会では違ったはずだった。ハンデを覆すべく、私の名を知らしめるべく、気合いの入った新聞を作ることができたはずだった。
新鮮かつ安全に扱えるネタを見つけてきた。さらに神を宿らせる勢いで細部まで記事を推敲した。久しくなかった手応えをもって送り出し、そして、結果はいつも通りの選外である。
あっさりしている。まったくもってやってられない。
「…………ん?」
原稿に手を伸ばそうとして、ふと、遠くから笛や手拍子、かけ声がかすかに聞こえてくることに気がついた。この音は、明らかに大会の打ち上げが盛り上がっている音だ。涼しげな秋口の風が祭囃を乗せ、気をそそらせようとしてくる。対してこの部屋からはポリポリと漬け物を食べる音と手酌をする音しか聞こえない。
「(こんなことだからウケる記事が書けないのかな)」
打ち上げの様子を念写しようとケータイを手にとり、少し逡巡して、何もしないまま机の上に置いた。
「(何やってんだろ)」
呑みはじめのいい気分はどこへやら。自己嫌悪が重くのしかかる。
「何やってんだろ」
口にも出した。
祭りをいち早く抜け出してひとり宅飲みをするような自分。そんな自分の発行する新聞が祭りを楽しむ連中に認められない、といういつもの愚痴。認められない理由は内容の良し悪し以外にもきっとあるのだろう。
今まで念写でトラブルを起こしたことがないのは、配慮を積み重ねてきた成果でも幸運だったからでもなく、私の新聞が認知されていないからではないだろうか。
「(なんでこんなに割の合わないことしてるんだろ)」
新聞作りは仕事とは少し違うのだが、記者に志願すると本来の鴉天狗としての仕事がいくつか免除される。その割に大した審査があるわけでもなく、それに甘えて長々と続けてきてしまった。
久しぶりに、自分の立場が心配になる。そしてさらに久しぶりに、そもそもの話に頭が回った。
「(そもそも、なんで私は新聞作ってるんだっけ?)」
記者をはじめたのはいつ頃だったか、もう覚えていない。しかしそれ以前にやっていた仕事も別に嫌いではなかったと思う。でも何か、記者になるきっかけがあったはずだ。そんな気がする。
「(理由、かあ。なんだっけ……。文……だっけ?)」
頭をゆらゆら左右へかしげるように振りながら、遠い記憶を探ってみる。そして馴染みの顔が、皮肉を言ってくる時のあのイヤミな顔が思い浮かび、頭の振りが止まった。あいつが関係しているとは思うが肝心なところが思い出せない。
そういえば初めて自身の念写に気づいた頃、口を滑らせたのはあいつが一番目くらいだっただろうか。
私は座椅子にもたれたまま腕だけ動かして酒を満たし、ケータイに手を伸ばす。カメラを起動させ、念写のための検索ワードを考える。
「(さて、どうしよ。念写できるものなんてあるかしら)」
酒に口をつけつつ頭を捻る。
「(理由……理由……。文はなんでああも元気に続いてるのかな。あいつが新聞書いてる理由、ちゃんと聞いたことあったっけ?)」
記憶の中で、あのイヤミな顔とまた目が合った。優越した笑みを向けられ、たまらず途中だったぐい呑みをあおりきる。すぐに注ぎ足しさらにあおる。
「(あいつはどうでもいい! 他よ! 他っ! …………他? そうだ!)」
名案を閃いてしまった。大丈夫、まだ私は酔ってなんかいない。
幻想郷の住人は妖怪だろうとすべてが遊び呆けてばかりではなく、文のように使命に燃える者だって確かにいる。そしてそれにはそれなりの理由がきっとあるはず。私の新聞作りの理由は置いておき、似たような頑張る理由を持つ輩を探せば、自分の理由も思い出せるかもしれないし、いいネタ探しにもなるだろう。
こういう時は真っ先に他人に頼ろうとする姿勢はいかがなものか。そんなこともちらりと頭をよぎったが棚に上げる。
「(人の振り見て我が振り直せよっ)」
意味が違うような気がしたが、これもまた棚に放り上げ、念写を準備する。
検索ワード『継続 理由』
まだシャッターは切らない。さらに絞り込む必要がある。
「(うーん、『趣味』? ……言葉が軽いかな。『道』だとちょっと哲学チックかしら。まあいいか。あとは、こう……無理しなくてよさそうなことに意地張って、命懸けで、情熱的な……『そんな感じ』…………あ、そうそう、『-文』。こんなものね)」
検索ワード『継続 理由 趣味or道 【そんな感じ】 -文』
ケータイに念力を込め、シャッターを切り、念写を行う。検索ワードを文字通り念頭に置くことで、そのイメージに沿った画を世界から探し出すのだ。
「さてさて……」
ケータイの画面に次々と写真の画像がサムネイルで表示されてゆく。今回はあえて曖昧さを残したまま検索をしたため、特に関係の無さそうな画像も多く紛れているようだ。しかしそのあたりは慣れたもの。静かにテンション上げながら画像をサラサラ流してはクイクイと酒をあおり、めぼしい写真、人物を探してゆく。
「(……お、なるほどなるほど)」
「(……はいはい、確かにそんな感じね)」
「(……うーん、名前が思い出せないわ。後回しっ)」
「(…………あれれ、)」
当たりをつけていると、思わずスクロールする指が止まった。
「(意外な顔。よく知らないけど、確か最近顔出した仙人よね。要注意人物だって御触れが出てたっけ……。そんなに精力的な人なの?)」
結い上げた青い髪にかんざしを通し、物憂げに遠くを眺めてくつろぐ仙人、霍青娥の姿が画面に表示されていた。画像の場所は、彼女が懇意にしているという仙人たちの道場だろうか。一時期ちょっとした噂にもなったお供のキョンシーが見切れているが、どうやら膝枕をされているようだ。
「(……どうしよ。これってインタビューに行く流れだけど、なんか怖くなってきた。記事にするわけでもないのに……。ま、邪仙は置いといて、話しやすそうなのだけ選べばいいか。大会も終わったばっかりだし、少しくらい、たまにはモラトリアムにでも浸かりましょうか)」
徳利の中もちょうど空になった。
ケータイを充電機に差し、台所へひとり呑みセットを片付けてからふらつく足で洗面所へと向かう。
「モラモラ、トリトリ、アムアム…………もう寝よ」
さっさと歯を磨き終え、すぐにベッドに入った。盛り上がるままに方針だけを決めて、具体的に明日からどう動くのか、そんなことは考えないまま眠りにつく。何時に起きるかも決めていない。
「(……あ、これって……お酒のテンションで……終わりそうな…………グウ……――――)」
――――……
「どうしたにゃんにゃーん? 目が怖いぞー。敵かー?」
「あら芳香ちゃん、起きちゃった?」
はたてが晩酌を切り上げた頃、静謐なる神霊廟にて星空を見上げていた霍青娥へ、宮古芳香が声をかけた。声量が抑えられておらず、青娥は少し驚いたようにして膝元に顔を向ける。
「なんでもないわ。ただちょっとね、こんな時間に私を覗き見ようとするのって、どういう了見かしらね。夜這いでもしようっていうのかしら?」
「よばいー? ぶれーものかー!?」
「ふふふ、そうね。でも今日は平気だから、芳香はいい子におねんねしましょうねー」
つり上げた口角からよだれを垂らしはじめた芳香の口を拭き、青娥は芳香を優しく寝かしつける。
「ウーッ……」
「(誰だか知らないけど、敵意があるような感じはしなかったわね。でも不用心な割にほんの一瞬だったのが気になるわ。今の感じ、千里眼じゃ……ない? その類いの術? ……誰が、というよりも、どうやって覗いてきたのか、突き止められないかしら)」
邪仙の興味は静かに進む。
天狗はすでに夢の中、平和ボケして静かに眠る。
~ 2 ~
夜が明けて、次第に気温が上がりはじめた頃、私はようやく目を覚ました。目をしぱしぱ瞬き、本を読む予定を先送りして厠へのっそりと足を運ぶ。あくびをしながら戻ってくると、おもむろにケータイを充電機から抜く。
「あー……」
整理していない昨日念写した画像を見て、やっと昨日のお酒を思い出した。
「うーわー……」
座椅子にもたれ、天井を仰ぐ。
頭を反らして時計を見ると九時を過ぎていた。もう天狗の里どころか幻想郷全体がとっくに動きだしている時間だ。ところが私は二度寝の体勢に入ろうとしていた。
二日酔いにはなっていないし、さして低血圧というわけでもない。ただ現実逃避をしたくなっただけである。昨日撮った念写の内容を思い返した途端、怖じ気づいてしまったのだ。
「もう……なによーこの酔っ払い………。ああいう念写はまずいでしょーよー……」
念写に関する倫理。普段の私はそんなものを割と真面目に考えている。「姫海棠さんって真面目よねー」とお互いよく知りもしない相手にそう言われればイラッとくるが、このことに限ってなら私は真摯だと胸を張れるだろう。
記者という仕事は他人の秘密に喜んで反応してしまうものだから、記者を名乗って煙たがられることは珍しいことではない。しかも、念写というものは安全圏から一方的に情報を押さえることができてしまう。つまり念写能力者がジャーナリストをしているとなれば、さらに煙たがる者が出てくるだろう。
私はそれも仕事と割り切って身を守るため、一線を引いてきた。自分がされたくないことはしない、見られたくないものは見ない――――なんていう旧くからの教訓、そして身近にいるパパラッチを反面教師に見立てた常からの戒めをこの身に染み渡らせてきた。その謙虚さが私の自然な姿であり、ささやかな自負でもあった。
そのはずだった。
そう油断していた結果が昨日の不用意な念写である。昨日の念写は他人の秘密に踏み込み過ぎてしまっていた可能性がある。万が一バレてしまった場合抗議がくるかもしれない。酔っ払っていたからという言い訳は非常に苦しい。
「(大丈夫、まだこれは事故じゃない、まだ事故ったわけじゃない)」
危険な技術を安全に扱えていた、長年培ってきたそのささやかな自信が揺らいでいた。しかし、今すぐ事態が動くようなことでもない。これ以上ミスらなければ荒立つことにもならないだろう。
そうは思っても内心ざわつきは止まらない。グルグルと同じ思考が頭を回る。
こういう時こそ現実逃避。寝るに限る。一端思考をリセットするのだ。
私は腕を伸ばして掛け布団をつかみ寄せた。座椅子にもたれたままいよいよ二度寝に入る、つもりだったのだが、唐突な訪問者のノックにより、私の眠気は根こそぎ刈り取られてしまった。
「はったてー。はーたーてー。いますねー」
聞き慣れた声が私を呼ぶ。
「………………(なんだ、あいつか)」
ノックの正体に安堵しながらも、私は反射的に居留守を決め込もうとしたのだが、
「はたて宛の荷物を預かってきてますよー。大きさの割に軽いですねー。何なんですかねーこれー」
「!? ちょっと! ……ああもうっ」
つい、声を出してしまった。観念して重い腰を上げる。
注文していた配達があるのを忘れていた。やましい品ではなくともこの声の主に自分の趣味の一端を覗かれるのは気分が良くない。
部屋着の裾を直し、髪を撫でつつドアを開ける。
「……なによ」
「おはようございます、はたて。……ふふっ、駄目じゃないですか、無断で打ち上げバックれるなんて」
射命丸文、やはりこいつだ。明らかに私の寝ぼけた格好を見て鼻で笑いやがった。
いつの頃からか、文は私が新聞を発行する度にこうして私の顔を見に来るようになっていた。理由は知らないが、うっとうしくもあり、まあ、うれしくもありなんてこともたまには思ったり。
ただ今日はいつもと違い、文は私宛だという荷物を抱えている。
とりあえず、気分のままにむかついてみることにした。
「……なんなのよ! なんであんたがここにいんのよ!? なんで私の荷物をあんたが持ってんのよ!?」
当然文には効果がない。いつものように楽しそうにいやらしく笑っている。
「せっかく心配して来たというのにひどいですねえ。はたての順位は……まあ残念でしたけど、読み手に訴えかけるものは確かにあったと思いますよ?」
「…………」
「…………。それにほら、大会の参加賞だってまだもらってないでしょう」
皮肉もそこそこに、文は粗品の入った小箱を自分の鞄から取り出した。そして大きい方の箱と一緒に部屋の中へ入れ込もうとする。
「ちょっと、ここまででいいわよ」
「遠慮することないですよ。せっかく久しぶりの配達仕事なんですから」
「いいってのっ、部屋汚いから誰も上げたくないのっ」
ゴミ屋敷にしてはいないはずだが、何の前触れもなしに自分の聖域へ誰かを踏み込ませるのは我慢ならない。別に文に限った話ではなく、私の親であろうともだ。父さん母さんに子離れしてもらうのには苦労したものだった。
「わかりましたわかりました。サインを頂いたら退散しましょう。……ときにはたて」
「……何?」
「もしかして、また引きこもるつもり?」
ひったくった受領書に手早くサインをしていると、文が面倒くさい話題を振ってきた。答える気にもならない。
「…………」
「…………そうですか。先ほども言いましたが、私はこれでもあなたを心配して来たんですよ? いくら根暗なあなたとはいえ、ここのところ新聞会の付き合いを拒否りすぎです。いくら個人主義だろうと会員として横の繋がりも考えるべきです」
「……そんなことを言うために荷物運びを買ってまでしてここに来たの? 余計なお世話よ」
「新聞会の頭連中まであなたを心配してましたよ? 大会で惨敗した挙げ句、お偉方との付き合いまで放棄して帰るなんて、家出娘から成長が見られない、だそうです」
「皮肉まで言付かってきたってわけ?」
「あややや違いますよ。ただですね、次の新聞の予定を聞いてこいとは言われてます。まあこんな質問に大して意味はないんですけどね……。で、その辺はいかがです?」
文は何でもない風を装って聞いてきたが、目が笑っていない、ように見える、かも知れない。とはいえそんなことはどうでもいい。うざったいだけだ。
「いつものペースで書くわ。今回ので疲れてるから今日くらい休ませてよ」
「…………」
受領書を押し付け、受け取った荷物を奥へ運ぶ。
文は玄関先で立ったままだ。まだ帰らない気なのか。
「はたて」
「なにー」
「近い内、というわけではなさそうですが、今後のあなたの新聞の成果次第では、あなたに監査が来るかもしれません」
「……監査? そんなのあるの? 聞いたことないわ」
「私も昨晩初めて聞きました。……知っての通り、天狗の里は新聞会には寛容です。しかしそれは実益だけでなく、新聞会の意気込みと努力があってのこと。……昨日の打ち上げでですね、この仕事は天狗全体の趣味みたいなものとはいえ、今のあなたは果たして新聞会に相応しいのか、そんな話が出てしまいましたよ。はたての――――」
「だったら何よ。いずれ上から辞令が出るっていうの? 残念だけど、もしそうなら仕方がないわ。それならそれで別の仕事をするだけよ」
「…………」
話がどんどん面倒な方向に進んでしまう。
文の言う通り、私の新聞はなかなか成果が奮わない。しかし奮わないなりにそこそこやってこれているのだから放っておいてほしいところだ。
少し腹が立ってきたので文を外へ押し出すつもりで玄関へ戻る。ところが文はなぜだかいつになく険しい気配でたたずんでおり、怖気ついた私の足は文の手前で台所へ曲がってしまった。手持ち無沙汰になったが、幸いすぐに洗い物の残りが目に止まった。丁寧に洗って時間を稼ぎ、沈黙する文を見ないようにしてやり過ごす。
「なるほど。仕方がない、ですか」
文は思ったより早く話しはじめてくれた。スポンジを動かす手を止める。
「この世界、きりがないほどありますものねえ、仕方のないこと。上の命令なんてその最たるものでしょう」
また雰囲気が変わった。
何の気なしに振り向いた途端、冷や水を浴びせられたように肝が震えた。
私を見据える文の目はくり抜かれたように大きく丸く、そして怒りの色を湛えていた。
「…………な、何よ……」
「よかったじゃない、諦める言い訳が見つかって。おめでとう、もう無理して本気の振りなんかしないで済みますね」
「……えっ……何を言って…………」
突然向けられた怒りと非難に私は動揺した。こんな文の表情は見たことがない。言葉の意味はともかくとして、これはもう文は本気で怒っているとしか思えない。
「はたてに対する上の心証はよろしくない。新聞の発行ペースと日頃の態度、その積み重ねが悪目立ちしてしまっている。とはいえ、あなたの進退の話はまだ酒の席でやっと出たくらいです。公式の場で取り上げられるかはまだわかりません」
「……だ、だから、さっきから何なのよ!? そもそもそんなに――――」
「そういうまだまだ未確定の話なんですよ! 最後まで話も聞かずにっ、辞令が出るなら仕方がないですかっ。……あっさり言ってくれますねえ、かつてはあれほどの熱意を語ってくれたというのに……」
「…………え?」
「そうですかそうですか。ああ馬鹿馬鹿しい」
いつの間にか文の表情からは怒りが消え、今は情けなさそうに口を曲げていた。
こんな文は見たことも聞いたこともない。文に失言をしたことは明らかだが、こうまで感情的にさせるほどのことを言った覚えはまるでなく、だから、私は文の怒りに戸惑って固まったまま、黙っていることしかできなかった。
しばらくの沈黙の後、やがて文は目を伏せ、うつむきながら静かに歯を軋ませた。そしてきびすを返し、ドアに手をかける。
「あ……文?」
「……なんですか? これ以上は話になりませんよ、私の方が。……頭を冷やしたいのでもう行きます」
「あ……」
文は振り返ることなく外へ出てゆき、後ろ手にドアは閉められた。私はドアにすら届かなかった手を下ろし、玄関に腰を落とす。
「……なんなのよ」
自分が望んだ通りにやっと文が帰ったというのに、どうにもバツが悪い。
文をぞんざいに扱っておきながら逆に責められた途端、私は萎縮してしまった。文がせっかく気になることを言っていたのに、文を怒らせたことに動揺して反応することができなかった。
――――かつてはあれほどの熱意を語ってくれたというのに――――
「文は……、まさか、私が新聞を書きはじめた理由、知ってる……?」
だとしたら、文を怒らせたのは、私自身がその熱意とやらをすっかり忘れてしまっているからなのか。
「やっぱり理由、ちゃんとあったんだ……。でもあの様子じゃ文は教えてくれなさそう……。でも、気になる、思い出したい」
のそのそと部屋へ戻り、ケータイを開く。
「自分でなんとか思い出すしか、ないかな……」
意を決し、昨日念写した写真を閲覧する。奇しくもこれらの写真はその忘れている理由を思い出すために撮っていた写真だ。この中の写真が、もしかしたらヒントになるかもしれない。せっかく危険を侵してしまったのだ。毒を食らわば皿までだ。
時計を見ればまだ九時半を過ぎたばかり。日が登り切るにはまだまだ時間がある。まだ少し出遅れただけ。一日はこれからだ。
「モラトリアム、するんだったわね……。私は…………」
おもむろに腰を上げ、クローゼットを開ける。服を着替えて鏡に向かい、髪を結う。鞄と腕章を手に取り頭襟をかぶる。ケータイの電池残量をチラ見して、腰のポーチに差し入れる。
「…………うん」
準備は終えた。それなのに、玄関で足が止まった。この期に及んで玄関のドアに手がかからない。
それは文を怒らせたショックが抜けていないからか。今日これからの行動に不安があるからか。昨日の念写が気がかりだからか――――。
やっぱりキャンセルしたくなる言い訳が次々と湧いて出てくる。私の逃避癖が言葉巧みに攻め立ててくる。
「…………あれ?」
ふと、ドアについている郵便受けに、何かが届いていることに気がついた。開けると、そこには新聞が一部入っていた。見慣れたタイトル、見慣れた発行者、日付は今日。
『文々。新聞』、『射命丸文』
新聞大会の分の発行は、文も私も先週だった。あれから私はまだ取材すらしていない。文は先取りしていたのか、すぐに次へ取りかかったのかはわからない。
しかしそのどちらだとしても、関係ない。私はどちらもしていない。そして今ここに文の現物が届いている。
また差をつけられた、そう感じている私が忘れていたものは、熱意だけではなかった。
文の、悲しそうな顔が思い出される。
「行かなきゃ……!」
思わず握り潰していた文の新聞を乱暴に置き、私はドアノブに手をかけた。
開かれた扉の外は、曇り空。
「これなら雨は……降られないわね」
それでも悲観することなく空へ駆る。今回は久しぶりのインタビュー。まずは肩慣らしになりそうな相手を求め、私は山を下る。
~ 3 ~
飛び出した勢いも虚しく、私は力なくのんびりと空を飛んでいた。山の麓まで下ってきたところで早くも腹の虫が鳴りはじめたのだ。勢い任せに部屋を出るまではよかったものの、朝食を抜いてしまい、昼食の当てもない。昨晩は酒のつまみの漬け物しか口にしていない。
羽ばたくのも億劫ならば、滑空するのも姿勢の維持すらしんどかった。楽な飛び方を探り探りしながら決めたばかりの目的地を目指す。
まずは霧の湖。もうすぐ到着だ。
「……あ、川だ」
湖へ繋がる支流を見つけると、少し考えてから高度を下げた。森へ入り、適当に薪になる枝を集める。そして薪を片腕に抱えて川の上に出ると、タイミングを見計らい、枝で作った銛を川へ突き立てた。
「意外にやればできるものね」
裂いて尖らせただけの枝先で魚が暴れていた。
顔を上げれば、湖はすぐそこである。雲は高く霧は出ていない。湖畔まで来ると展望の良い場所を探し、乾いた岩肌を見つけて着地した。
「久しぶりよねえ、こういうの」
薪を並べながら独り言をもらす。
久しぶりの山の外、そしてここは湖の向こうに紅魔館を望むなかなかのロケーション。太陽が雲に隠れてはいるが、気分はいつの間にかピクニックになっていた。
マッチを取り出し、枯れ葉のついた枝に火をつける。焚き付けも追加しながら火を大きくし、細い薪から順々に組んでゆく。火が安定したところで即席の串に刺した魚をくべた。
「ま、久しぶりならこんなものね」
ハラワタをとるのに少し手間取ったが、やっと朝食の準備ができた。焼き上がるのを待つ間、腰を下ろしてケータイを開く。道中、念写で居場所を確認した最初の目標はまだこの湖にいるはずだ。
第一の目標『チルノ』、夏に負けない氷の妖精だ。有名ゆえか、おつむが特別残念との誹りを受ける妖精である。今回の取材テーマはいまだに曖昧なものの、何度痛い目を見ようとも最強をのたまい続けるこの妖精にはとても相応しい気がしている。
「(頭の悪さは妖精なんだから仕方ないんじゃないのかな)」
悪評に内心同情を寄せる。
妖精を相手に肩慣らしをしなければならない情けなさは考えないことにした。
もう一度念写した画像を見ようとケータイをいじる。今日のチルノはこの辺りで遊んでいるようだが、ざっと見渡した限りでは近くにはいないらしい。あまりに静かなので割と離れているのかもしれない。
ものの本によると、静かすぎる湖だと遥か対岸からの会話が聞こえてくることがあるという。静かといえばこの湖も今はかなり静かだ。湖面は波ひとつ立てていないし、木々もまんじりともせずにたたずんでいる。確かに音の通りは良さそうではあるが、それはつまり、この周辺はかなり広い範囲で何もいないということになってしまう。
妖精相手なら気兼ねなく念写ができるし、詳しい場所を念写し直した方がいいかもしれない。
しかし静かだ。
そういえば、焚き火の音まで聞こえない。
「(やばっ……え、あれっ!?)」
鎮火したと思い慌てて視線を戻すと、焚き火は消えてはいなかった。むしろよく燃えていた。しかし枝葉の焼ける音がまるで聞こえない。燃え続ける焚き火から音がしないのもおかしいが、それよりもどういうわけか、くべていたはずの魚がそこになかった。
落としたのかと思って周りを見ても、何もない。立ち上がって辺りを見渡しても、どこにもない。
「……? ……!?」
独り言を発声できていなかったことに気づいて少し焦る。今朝は文と会話できていたから声帯は衰えていないはず、などとズレた心配をしていると、今度はまた別のことに気がついた。
「(……なんで何の音もしないの? ていうか! 焼き魚の匂いがする!)」
検索ワード『私の魚どこ!?』
緊急事態に念写は応え、画像はすぐに出てきた。まず、俯瞰で撮影された画像の端に自分が写っている。ケータイを持って念写中だ。その私の後方、画面中央は、原っぱしか写っていない。
「(……どういうこと?)」
いつも通りの念写ならば被写体が画像の中心に捉えられているはず。ところがこれには何も写っていない。画像を拡大しても、振り返って目を凝らしても、確かにそこには何もない。何もないが、念写の結果は焼き魚の在処と未確認の脅威の存在を知らせている。
「(…………??? ええい、それっ!)」
よくわからないまま、恐怖を払うようにして風の礫をバラまいてみた。
「 「 「 キャアアアーッ!! 」 」 」
「え!? なに? なに?」
すると突如悲鳴とともに、三体の妖精が現れた。
目の前でのびている妖精に恐る恐る近づくと、そのひとり、黒髪の妖精の手には焼き魚の串が握られていた。魚も、その串も、確かに見覚えがある。
未確認の脅威の正体はなんということはなかった。妖精によるただのイタズラだったのだ。
――――……
「あーあ、砂だらけじゃないの」
「「「…………」」」
地面に落ちた焼き魚をつまみ上げ、正座させた妖精たちに目をやる。
「で? あんたたち、いったいどうやって盗ったの?」
涙目の妖精たちは、それぞれサニーミルク、ルナチャイルド、スターサファイアと名乗っていた。
「サニーが姿を見えなくして……」
「ルナが音を消して……」
「スターが魚を盗ったんです……」
「あー、うん? へえ、そう」
能力持ちの妖精の集まりとは珍しい、と思っていたら、名前と能力と顔の組み合わせがこんがらがってしまって内心焦る。悟られないように澄まし顔でいると、スター……なんとかと名乗っていた妖精が何かに気づいたように横へ振り向いた。
「おーい、なにやってんだー?」
その先から、箒に乗ったとんがり帽子の少女がやってきた。
霧雨魔理沙である。
「……え、ああー」
言わずと知れた有名人の姿を確認するとともに間の抜けた声が出てしまった。何を隠そう、彼女こそが今回の取材の大本命と目した人物だったのだ。
霧雨魔理沙。人里の豪商の家出娘にして魔法使い。巫女と肩を並べて異変解決に勤しむ人間。家出娘というところにシンパシーを感じるがそれは置いておくとしても、好き好んで危険に首を突っ込むこの少女は、今回の取材テーマのイメージ、使命やら情熱やらにとてもふさわしいと思っていたのだ。
「えーっと……珍しい天狗がいるじゃないか。妖精なんていじめてどうしたんだよ」
「いや、別にそういうわけじゃあ……」
本命が向こうからやってくる、この場合、私にとっては絶好の機会どころかピンチである。名前を覚えられていないのは仕方がない。しかしその程度の関係のまま、これから割と突っ込んだ話をしようというのはまずい。聞くとすれば魔理沙の出自に触れることになる。勘当されたという噂からしてタブーな気がしてならない。切り出し方がとても思いつかないから後回しにしておきたかった。
「そうなのか、じゃあおまえらからイタズラをしかけたのか。天狗相手によくやるぜ」
「見たことない天狗だし油断してたから、からかってやろうと思って……」
私は妖精と話す魔理沙の姿を見ていて――――閃いた。これなら切り出せる。
私がこの妖精たちに取材している姿を見せ、なんてことのないように自然に魔理沙へ話を振るのだ。
「ま、まあいいわっ! ところであなたたち、聞かせてもらいたいんだけど、あなたたちがイタズラするのには何か、理由があるんじゃないかしら?」
営業スマイルを心がけて早速問いかけた。少々早口になっただけでなく若干声がうわずってしまった。しかしそんなことより、なぜか魔理沙が妖精より先に反応を見せた。私が質問する様子を見ていた魔理沙だが、急に驚いたようにして辺りを警戒しはじめたのだ。
「はあ? まだ近くに何かいるのか? 別の妖精か?」
「!??」
周囲に目を走らせる魔理沙に面食らっていると、スターなんとかが少し焦るようにして答えた。
「いや、この辺りにいるのは私たちくらいよ?」
「……そうなのか? おい天狗、どうなんだ!?」
私はただ妖精に質問をしただけなのに、魔理沙が何の心配をしているのかさっぱりわからない。
「えっ? 周りに何か? いないんじゃない? ……あ、私の名前は姫海棠はたてです」
「はあっ!?」
落ち着いて話を聞けば、私が妖精にした質問は『あなたたちは囮で、他の奴がまだ隠れてイタズラを仕組んでるでしょ? そんなの私にはお見通しよ♪』と、魔理沙にはそういう意味に聞こえたらしい。
「なんだよ……。あんな訳知り顔で紛らわしい言い方するなよ。時間差が過ぎるとは思ったけどさあ……」
私の営業スマイルは悪どい顔に見られていたのか。少しへこむ。きっと文のせいだ。あいつのいやらしさに影響されたに違いない。
「ご、ごめんなさい。私はこの子たちみたいな妖精がなんで誰彼構わず危険だろうとイタズラをするのか知りたいのよ」
早口が直っていない。見ると、三妖精はキョトンとしている。私は慌てて言い直す。
「つまりね……、あなたたちは、なんでイタズラをするの?」
単純にした問いかけに対し、三妖精は今度は顔を見合わせてしまった。
「なんで? なんでって……なんで?」
「どういうこと?」
「あ……、ごめんなさい?」
「……あれ?」
困った。今度は謝罪を求めているように受けとられてしまった。
「なんだおまえ、えっと、はたて? 妖精がイタズラをする理由なんか知りたいのか?」
そこへ魔理沙が助け舟を出してくれた。名前も一応覚えてくれた。
「そんなの、妖精はそういう生き物だからに決まってるぜ。天狗がなんで新聞を作るのか考えてみたらよくわかるんじゃないか?」
「えっ、そ……そうね」
妖精は妖精だからイタズラをする。
天狗は天狗だから新聞を作る。
身も蓋もない。しかし、私が知りたいことはその詳しいところなのに、突っ込むどころか納得してみせてしまった。なぜ私はそこで引いてしまうのか。自分で自分が情けなくなる。
先ほどから、ではなくはじめからか、グダグダしてばかりで取材がまったく順調にいかない。文字通り朝飯前とはいかない自分の腕がとてももどかしい。
「(文だったら……)」
文だって取材が滞ることがあるはずだ。しかし文なら、きっとめげない。
「ところで魔理沙、さんは、どうして魔法の研究をしているんですか?」
起死回生と表現すれば言いすぎだが、流れを変えるために魔理沙に話を振る。しかし、今の今までにこやかだった魔理沙は急に真顔になり、私は瞬時にさらなる失敗を悟った。
切り出し方が難しいと思っていたばっかりなのに、勢いだけで話を振ってしまった。
「……あー、なんだ? 妖精を調べてたんじゃないのか?」
案の定、警戒された。
「ええ、あーうん、そうなんだけど……」
言い淀み、焦った結果、私は更なる後悔へと至る選択をしてしまう。
「実は、私は、えーっと、種族に関わらず影ながらに頑張る人たちを取材して、その理由をまとめてみようかなーとしてまして、はい。……魔理沙さんのような努力家にこそ、お話を伺いたいなーという次第……でして……」
言いながら、目を合わせるのがどんどん辛くなっていった。目を据わらせた魔理沙は口だけ笑いながら問い返す。
「つまり、なんだ? 私の何を知りたいんだ?」
「で、ですからっ、こんなに若い内からたったひとりで人生を魔法に捧げる――――」
「あーいい、やっぱいい、やめろ。他を当たってくれ」
帽子のツバで顔を隠し、魔理沙は立ち上がった。三妖精は険悪なムードを感じてオロオロするばかり。私も頭の中で押すか引くかオロオロ葛藤したが、ここは引いてはならない、ということにしてしまった。
「あのっ、せめてきっかけだけでも! 何に影響を受けて家出をしてまで魔法使いに、その、なったの……かなーって……」
「…………」
ピタリと一瞬だけ動きを止めた魔理沙は、跨がりかけた箒から足を降ろす。怒りを感じさせる動きに私の言葉はまたもや尻すぼみになった。
「魔法を覚えて良かったことなら教えてやるぜ」
魔理沙の手の中で、お馴染みのミニ八卦炉が輝いている。
「おまえみたいな無礼な奴をこんな風に吹っ飛ばせることだ」
私はまた相手を怒らせた。
嫌悪の視線を向けられてしまった。無礼と言われてしまった。越えてはいけない境界、それを越えそうなことには薄々気づいていたはずだった。天狗と人間の差は大きいが、ちょっとした共通点を見出したばかりに執着しようとしてしまったのだろうか。
ふざけている。念写ではないからかまわないとでも思ったのか。やはり私の自負は妄想だったようだ。
それから、できたかどうかは別として、今、目の前を真っ白にしているこの怒りの魔法は、避けてはいけない、そんな気がした。
――――……
きゃらきゃらと、笑い声が聞こえる。
ぼんやり耳を傾けようとすると、全身から痛みが発せられてきた。しかし上から何かヒンヤリとしたものに包まれているようで、あまり苦痛ではない。
ハッと目が覚めた。
「こっちこっちー」 「だーれ?」
「天狗だって」 「ミイラみたい」
「ミーラって?」 「ミーラー」
「あ、お日様出たー」 「ポカポカだー」 「キャー」
「あ、起きたみたい」
「ホントだ」
「天狗ってすごいのね。もう動けそう」
起き抜けに目の当たりにした光景に息を飲む。妖精がわんさか集まり、晴れ間から差す陽の光を受けながら頭上を飛び回っていたのだ。みんな私が目を覚ましたことに気がつくと、横たわる私の顔を覗こうとこぞって降りてきて、山のように重なり合いながら首を伸ばしてきた。今にも崩れてきそうである。
すぐそばで心配そうにしているさっきの三妖精とは別に、湖周辺に住んでいるであろう色とりどりの妖精だけでなく、紅魔館で働いているというメイド服を着た妖精までいる。数えきれないほどの無邪気な視線に私は取り囲まれていた。
「わあ……」
妖精に頭をぶつけないようにして、後頭部をさすりながら身体を起こす。動きにくいと思って身体に目をやると、服の上から包帯で全身をグルグル巻きにされていた。どういう訳かこの包帯が冷たいらしい。
「どう!? あたいはこんなに器用な力の使い方だってできるのよ!」
傍らから声をかけられ顔を向ける。三妖精と並んでしゃがみ、冬の晴天を想わせる妖精、チルノがそこにいた。
「おまえ、あの魔理沙にケンカ売ったんだって? 異変でもないのにマスパ使わせるなんてなかなかやるじゃん!」
「あなたは、チルノ……。この包帯はあなたが?」
「そうよ、すごいでしょ!」
「ええ、とってもすごいわ。どうもありがとう」
少し躊躇ったが、頭を撫でてあげるとチルノは少し照れながらも満面の笑みを見せてくれた。妖精の笑顔ほど愛くるしいものはない、そう確信できるほどにまぶしい笑顔だ。
聞けば、包帯は紅魔館の門番が妖精メイドに持たせてくれたものらしい。足元にある手提げ袋から氷づけの包帯が覗いていた。私に巻かれた包帯はよく冷えていながらも柔らかいままなので、あっちは失敗したものなのだろうか。何にしろ、紅魔館には日を改めてお礼に伺おう。
「あの、これ」
チルノの隣ではルナチャイルドが私の肩掛け鞄を抱えていた。肩紐が千切れて飛ばされたのを拾ってきてくれたらしい。
「私の鞄ね。ありがとう。えっと、ルナ?」
ルナチャイルドは少し安心したように笑いながら鞄を渡してくれた。サニーミルクとスターサファイアはスカートを籠代わりにして木の実を集めてきてくれていた。
この子たちは魔理沙と親しそうだったのに、なぜ魔理沙を怒らせた私を介抱してくれるのだろうか。
「大丈夫?」
「お腹空いてるんだよねっ? これ食べてくださいっ」
そうだった。私はお腹が空いていたのだった。魚をとられたことをやっと思い出した。しかし強烈な一撃をもらって変なところでも打ったのか、あちこち痛みもするのに先ほどからとても穏やかな心地である。
「ありがとね。でもひとりじゃ食べきれないわ。みんなで食べましょう。あなたたちとお話がしたいわ」
それから、妖精たちに囲まれながら木の実をつまみつつ、しばらくおしゃべりを楽しんだ。チルノたちには負けるが、今度は私も自然な笑顔ができていたと思う。取材などとは考えず、とりとめのないことしか話さなかったけれど、妖精というものが少しわかったような気がした。
妖精は妖精だから妖精らしい。
今はこれ以上深く考える必要はない。
なお、ポーチの中はまだ確認していないが、とうに諦めがついている。一瞬で意識が飛ぶほどの衝撃だったのだ。ケータイはきっと無事に済んではいまい。むしろ服も鞄もよく焦げるだけで済んだものだとすら思う。
今日は誰も得をしない取材をしてしまったのだ。そしてこれは不用意な物言いで相手を怒らせてしまった罰だ。文句なんかない。
~ 4 ~
ここは玄武の沢、その支流。幅広の沢筋に岩がひしめき、渓流がその隙間を縫うようにして流れている。そのせせらぎを貫き、打ちつけられた駒音が高く高く鳴り響いた。
「どうよ椛!」
「むむ!? むむむ……」
「この一手こそが河童の叡智の結晶さ! まいったかっ!」
「むんっ」
「……あ、あれ?」
「いやー河童様の叡智は流石だねー、まいっちゃうねー、その場しのぎが精一杯だよー」
「……あれ? ……あれ?」
のっぺり大きな岩の上、朱色の鮮やかな端折傘の下、縁台に置かれた将棋盤をはさみ、ふたりの少女が向かい合って座っていた。赤や黄色の紅葉がハラリ、ハラリと舞う中で、青髪の方の少女は目の前の戦局に困惑して頭を抱えている。
相対している椛と呼ばれた白髪の少女は将棋盤どころか相手からも目を離し、下流を見下ろしはじめた。様子からして、相手に余裕を見せているというわけではなさそうだ。
「……ねえ、にとり」
「まだ……まだいける……」
「にとりっ、誰か来てるよ。たぶん天狗だ」
「今それどころじゃ……たぶん? どゆこと?」
「もう玄関に着くとこだけど包帯だらけでよくわからない。……いや、まさかはたてさん?」
「はたて? ならしょうがない、一旦降りますか。……あ、中断だからね。まだまだこれからなんだかんね!」
「はいはい。ほら、待たせちゃ悪いよ」
妖精たちと別れた後、腰ポーチの中を確認したところ、やはりケータイは壊れていた。画面は当然のようにひび割れ、電源ボタンは反応してくれない。
重りと化したケータイを見ていて、まるで手足を失ったかのような喪失感を覚えるあたり、相当私は念写に依存してしまっているらしい。一件目のインタビューを終え、早くも資材と気力を失ってしまった。
このまま直帰するか修理に出しに行くか、少し考えて、すぐにでも引きこもりたい欲求をどうにか抑え、馴染みの河童の工房へ行くことにした。
それがここ、河城にとりの工房である。
数年前に拾った外の世界の道具である私のケータイは、今目の前で呆れ顔をしているこのにとりによくメンテナンスしてもらっているのだった。彼女は私の念写を知る数少ない友人のひとりでもある。
「やっほーにとり」
「うわ、ほんとにはたて? 何そのカッコ?」
「はたてさん?」
「げ、椛もいたのね……」
修理のついでに河童の秘薬を分けてもらえれば波風立てずに天狗の里へ帰ることができる、といった思惑もあったのだが、運悪く居合わせた天狗仲間に包帯姿を見られてしまった。天狗の集団意識によって事が大きくなるのは望むところではない。
「……今日は非番ですので、話を聞かせてもらう時間はありますよ」
それでもこの娘、哨戒役の白狼天狗にして、やはり私の念写を知る犬走椛が話のわかる娘で助かった。
「薬、持ってきたよ」
襖を開き、にとりが薬壺を持ってきた。
私と椛は工房の中にある応接間に通されていた。ただし、ここは応接間とは名ばかりのただのたまり場だ。六畳ばかりの畳部屋には、棚から溢れた本やら書類やら新聞やらが積み重ねられていたり、備え付けの冷蔵庫にはお酒とつまみが常備されていたりする。ここで私はにとりが戻ってくるまで、包帯姿になった経緯について椛からの質問をはぐらかしているところだった。
「悪いわね、ありがとう」
「で? なんだってこんな痛々しいことになってんのさ」
「見た目よりはひどくないわよ」
「そういう問題じゃないですよ、はたてさん」
「私はいいの。私よりこっちの方が重傷なんだから。にとり、これなんだけど、直る?」
「うげぇっ、こりゃまたひどい。何やったの?」
取り出したケータイを見せると、にとりは顔をひどくしかめた。私の怪我の具合を見た時よりもずっと渋い顔をしていることはさて置き、もう限界だろうなと思いつつ、さらにはぐらかしてみる。
「飛んでる最中に居眠りして藪に突っ込んだの。擦り傷だらけになっちゃったしケータイもポーチごと潰しちゃうし、もう最悪よ」
「……その言い分は苦しいですよ」
「まったくだね。寝不足なんて無縁のはたてがそんな寝落ちのしかたなんてできるわけないじゃん」
「私じゃなくても焦げ臭いのがわかりそうなものです。ほら、火傷してるじゃないですか」
「う……。それはそれとして、寝過ぎるとかえって――――」
「椛っ、これ塗ってやって」
にとりは私の言い訳を遮って薬壺を置くと、ケータイを手に工房へ戻っていった。間もなく聞こえてきた音からして修復を試みてくれているのだろう。
薬を受け取った椛は嫌な顔ひとつせずに私の包帯をほどく。組織的には私が上司ではあるが、この娘の優しさには頭が下がる。
「はたてー、やっぱりダメだー。データ取り出せそうにないやあ。大事なものは入ってた? だからって別にどうこうできるわけじゃないんだけどさー」
椛からの処置が一通り終わる頃、工房から無慈悲な言葉が飛んできた。
「……ううん、平気ー」
にとりの宣告に応える私の声は少し震えていた。その際、椛がちらりと私の顔色を伺った気がした。動揺を隠したくてもこれは無理だ。データの損失は覚悟していたことではあっても、改めてその事実を告げられるとかなり堪える。三日は寝込みたい。
にとりは私の動揺を知ってか知らでか淡々と話を続ける。
「じゃー、修理するより新品にするんでいーいー? でないと部品ほぼ全取っ替えでバカ高くなるよー」
「……あー……うん、それでお願い。それも使いやすかったけど、ものはにとりに任せるわ」
「了ー解、実は新作がもうあるんだ。それをおろせばいいんだけど……」
「……? あるんならそれ頂戴」
「まあまあ。まずは話が先だね」
ヤカンを手に戻ってきたにとりは靴を脱いで部屋に上がり、ヤカンと壊れたケータイをちゃぶ台に置いた。急須にお湯を注いでゆく。
「はたての怪我の方もそうだし、何をしたらこんな壊れ方するのさ。いい加減教えておくれよ」
「……わかったわ。話す」
正直なあなあにしておきたかったが、ものを頼む手前仕方がない。お茶がちゃぶ台に揃うのを待ってから口を開く。
「霧雨魔理沙は知ってるわよね」
「うん、我が盟友だ」
「よく山へ侵入してきますね」
「あの子を怒らせてこうなったの」
「ほう」
「うん。……あ、お茶いただくわ」
湯呑みに手を伸ばす。
温もりが手に、そしてのどへ、腹へ、染み渡る。
ああ、うまい。
「ふう…………」
「…………」
「…………?」
沈黙が流れ、頭をひねった椛はにとりと顔を見合わせた。ふたりとも同じことを思ったようである。
「……あの、説明終わりですか?」
「え? うん」
「ちょいとっ、そんな面倒くさい真似しないでさっさと話してよ!」
顔をしかめて怒るにとりに私は「ごめんごめん」と手をひらひら振りながらへらへら謝る。イラつかせるイタズラが成功した、ということにして今度こそ正直に話すことにする。我ながら面倒くさい奴だ。
「魔理沙を取材しようとしてさ、久しぶりのインタビューだったもんでほとんど前置きなしで突っ込んだ質問しちゃったの。まずいかなとは思ったんだけど引くに引けなくなっちゃって、又聞きした程度の噂を問いただそうとしたら、このザマよ」
「……いったい何を聞いたんですか……」
「大方、魔理沙の出自とかしつこく聞こうとしたんでしょ。あいつの一番デリケートなとこだし、私だって改めて聞こうとは思わないのに」
「…………」
「あれ、図星かい……」
真顔になった私を見て、にとりは頭をかいた。
「まずはたてさ、久しぶりだからーとか、まずいとは思ったけどーって、言い訳ばっかりじゃ何にも上達なんかしやしないよ」
説教されに来たわけではないのに、なんて思いながら口を一文字にして耐える。
「魔理沙はその辺割と真摯だよ? 誤魔化すことはあっても逃げるだけの下手な言い訳はしないし、愚痴なんて吐いてるふりしてだいたい前向きなこと考えてる。ついでに言えば、へらへらしながら努力をひけらかさないのはポイント高いね。あの年であそこまで魔法を使えるだけのことはあるよ」
魔理沙は確かに人間の中では特殊な方だが、所詮は十代の小娘である。引き合いに出されるのはおもしろくない。だからといって言い返すこともできない自分を思うとひどく惨めである。まるでガラクタと化したそこのケータイのようだ。
「上達って言っても……。私は、天狗、妖怪よ? 人間みたくーそう簡単に……あー、成長? なんて、うん、できないわよ」
「何言ってんだい」
人間は妖怪よりも成長が早い、というどこで聞いたかもわからないよくある俗説。しどろもどろになりながらもこれを盾に逃げようとしたところ、にとりに一蹴されてしまった。
「そもそもさ、生物的なことは置いといて、人間は別に成長が早いわけじゃないよ。人間は人間でも、向上心のある人間じゃないとちゃんと成長なんかできやしないんだ。それは妖怪だって同じさ。はたてや椛みたいな天狗や私みたいな河童だってそのはずなんだよ。三日坊主になる程度の決意じゃなくて、日常生活や習慣を塗り替えられるくらい、心から成長したいと行動し続けられたやつが成長できるのさ。人間はさ、せっかく考えられる頭を持ってるのに寿命が短いからさ、成長が早いとすればその分妖怪よりも必死になりやすいからってだけだよ」
「…………」
「おー、にとりはかっこいいなー」
自信満々に持論を説くにとりに椛ははらはらと拍手を送る。一方私の気分はさらに悪くなる。この手の正論は、だいたい私の味方になってはくれないからだ。私を見やった椛の手が止まったが、私は気づいていない振りをする。にとりも納得のいっていない私の表情を見てか、神妙な面持ちになってなおも話を続ける。
「はたて、これを見て」
「……私の壊れたケータイね」
「そう、記念すべきサンプル一号機。これはね、ちょっと前の私じゃあ扱えなかった代物さ」
「そうなの? じゃあどうやって新作なんて作れたのよ」
「こいつに使われてる技術を自分のものにしたい。そう願ったからさ。たまに外から流れてくる知らない技術にはね、レベルの違いによく絶望させられるものなのよ。……でも、まあいいやとか、これはなくてもいい、で済まさなければ、必ずものにできる。そう信じてる。気恥ずかしいけど、私はそうやって技術を学んで成長してきたんだ」
にとりは茶化すことなく、そう真剣に語ってくれた。河童のにとりは、普段は頭の上がらない天狗に対して偉ぶりたいわけではないことぐらい、私にはわかっている。私とにとりの仲だからこそこうしてものを言ってもらえている。
「……ッ………」
その心意気を受けて私は、言いかけた言葉を飲み込もうとした。にとりのせっかくの気遣いを台無しにするような言い草になるのは確実なため、躊躇われた。
それでも、結局は言ってしまう。
「無理。私にはできないよ」
私に馴染むことのない理想論を声高に説かれても、私は自分を卑下することしかできず、つらい。にとりの話を否定すれば痛み分けになる、そう自覚はしていた。だから、機嫌の悪さのせいにして、それを止めなかった私はクズだ。
にとりは一瞬だけ固まり、困ったような寂しいような、そんな表情を浮かべ、やがて音もなくため息をついた。
「……ま、簡単にできれば世話のない話かな」
にとりが諦める、これは狙い通り。そのはずなのに、諦めたにとりの顔を見て、痛み分けどころか自分へのダメージが深まった。私は一貫してしかめっ面をしたままそれを隠す。
にとりは黙って自分の湯のみに視線を落としている。
いったい私はどうしてほしかったのだろうか。私に同情し、言葉だけでも肯定してほしかったのだろうか。それともさらに叱咤してほしかったのだろうか。どちらにしろ、結局私は本当に諦めさせてしまったようだ。私は、諦められてしまったようだ。
「…………」
「…………」
「…………」
辛気臭い雰囲気が漂う。流れる沈黙は先ほどのイタズラ半分によるものとは違い、いたたまれない。この気のいいふたりを相手して、どうしてこんな方向に進むのだろうか。考えるまでもなく、許されるとタカをくくり、私の面倒な性格を遠慮なく一方的に押し付けたからだ。
私は黙って立ち上がる。河童の秘薬の効果は流石であり、苦もなく服に袖を通すことができた。そして鞄を拾い上げる。
「帰らないでください」
張り詰めた声がした。
「――――あ、じゃなくて、ちょっと待ってください」
強い語気で引き留められたため少し驚いたが、引き留めた当人もそう思ったらしく、椛はとっさに言い改めた。
いつの間にか正座に直り、真剣な眼差しを私に向けている。
「まだ新しいケータイを受け取ってないじゃないですか。はたてさんに必要なものではないんですか?」
椛のいつもと違う声のトーンに戸惑い、私は目を瞬かせることしかできない。
「何か、知りたいことがあるんですよね?」
「……え?」
「まだその途中なんですよね? 違いますか?」
「あ、いや、違くはないわ」
「でしたら、ケータイはすぐ必要になるものじゃないですか。……ほら、にとり」
「ひゅっ!? あ、うん」
にとりも椛の様子を意外に思っていたらしく、不意に促されたことに驚き、慌てて立ち上がって工房の奥へと駆けてゆく。椛はふたりきりになったことを確認してから再び私に顔を向けた。そして小さく咳払いをする。
「私は、お役目として戦闘の訓練を受けています。そのおかげでそこそこ腕に自信も持っています。それでもそこの、剣と盾が、馴染みの装備がなければ、外敵が現れても正直私は立ち向かえる気がしません。……はたてさんはどうですか?」
椛にまっすぐ見つめられ、その眼に少し見惚れてから答える。
「……そうね。前に使ってたポロライドカメラはフィルムがもうないし、私は、ケータイがないと新聞は作れないわね」
「それなら、にとりとこんなことで仲違いしていい訳がありません」
「……その通りね。……ほんとにね」
椛には本当に頭が下がる。椛は、まだ私を諦めないでくれていた。適当な理由をとにかく私に見つけさせ、仲直りの後押しをしてくれた。この場に仲直りを望む空気を作ってくれた。
そして、パタパタとサンダルを鳴らし、にとりが小箱を大事そうに持って戻ってきた。
「……これがさっき言った新作なんだけど……」
にとりは気まずそうに言い淀む。まださっきのやりとりを引きずっているようだ。一転して内心喜びの中にいる今の私はだいぶ素直である。椛のおかげだ。大好きよん。
「あー、にとり……? ごめん、さっきのなし。私……やっぱり、もう少し頑張ってみる。だからこの通り。よろしくお願いします」
「え……そ、そっか……よし、じゃあ! 新作で変えてみたとことか説明するよ!」
私の変化にはじめこそ面食らっていたものの、にとりは安心したように口を回しはじめてくれた。椛も肩を撫で下ろしている。
元々このふたりとの付き合いは仕事を通じてのものからではあったが、ふたりは仲間であると、今は確かにそう思わせてくれる。
有り難い、まさに字の如く、そう思う。
――――……
「もう行くの? 念写で不具合が起きないかもうちょっと確かめて欲しいんだけどな。まだフィルターも確認できてないし」
「ごめんにとり、それは私だけでやらなきゃだわ。またすぐ顔見せるから」
「はたてさん、そうは言っても危険じゃないんですか……?」
「そうね。だから椛も、千里眼でこの画面覗いたりしちゃダメよ」
「はあ……」
「じゃあ行くわ。ふたりともありがとう。またね」
心配そうな顔を向けるふたりを残し、私は玄武の沢から飛び立つ。初速が普段より速い。息が切れる前に少しスピードを緩めたが、じれったくなってまた上げる。
気分のままのスピードで飛んでいると、手頃な大木を見つけた。これはケヤキの木だろうか。枝振りはたくましく、落葉がはじまっている様子。
呼吸を整えつつその樹冠に下駄を乗せる。夕方だろうと今ならやる気は十分。毒皿だろうとおかわりしてやろうという気分だ。新品のケータイを取り出し、念写の準備をはじめた。
改めて検索ワードを考えてみる。
取材対象を一言で表せば、それは『努力家』だろうか。生き甲斐を持つ者でもいい。熱意に溢れ、目的に対して真摯であり、それが自然な者。そんな探し人の熱意を生み出す理由を知り、それをきっかけにして、少なくとも熱意はあったという昔の私を思い出すのだ。いずれ弱小新聞の謗りから脱却を果たすきっかけになるはずだ。
「……ふふふっ」
にとりに無理と言ったのはあてつけの意味が強かったとはいえ、気分が良くなるとそれだけでやっぱりやれそうな気がしてくる。それに、実は私は新聞記者の職に未練があるらしい。なんだか可笑しくなってきた。データを損失したダメージも不思議と和らいでいる。
今度は期待してもいい。今度は期待が裏切られてもかまわない。だからやる気のままに行動するのだ。どうせ私は――――
「さてっ! 再開といきましょうかっ」
検索ワード『努力家or生き甲斐 継続 理由 -文』
♪~
――――……
芳香は眠っていた。
そこは青娥によって創られた仙界、その中にある屋敷の一室。芳香はひとり壁を背にして足を投げ出し、うなだれている。ピクリとも動かず、呼気すらも感じられない。まるで寝かされたお人形のようである。しかし前触れもなく突然、弾けるようにして立ち上がり、目を覚ました。
「にゃんにゃん! にゃんにゃん!! 来た! 来たぞ! 電波が来た!!」
言いながら辺りを見渡し、伝えるべき主人がそこにいないことを知ると、芳香はギクシャクと青娥を探しに部屋を出る。その動きに合わせ、頭から垂れ下がる真新しい御札がヒラヒラとはためいていた。
ほどなくして青娥の寝室の扉が勢いよく開け放たれた。
「電波だにゃんにゃん! 電波が来たぞ!!」
それに応え、青娥は寝台から身体を起こして芳香を迎える。
「あら、今度は気づけなかったわね。……対策しておいてよかった。どれどれ?」
暴れるように報告してきた芳香を慣れた手つきで宥めすかし、軽く抱きしめて落ち着かせる。それから青娥は両手を芳香の両頬に添え、御札越しにおでことおでこをくっつけた。すると途端に芳香はおとなしくなり、弛緩したかのように青娥へもたれかかる。
「……とっても薄いけど、気配そのものは昨日と同じね。でも、昨日と違って途切れそうにないのはどういうことかしら……。 まあいいわ、チャンスよ。さあ芳香、支度をしたら追跡しましょう」
「……んあ!? おーっ! あっちだ! あっちだにゃんにゃん!!」
「ほらほら、慌てないの。先に着替えさせてちょうだいな」
――――……
『 警告! 念写自重フィルターが反応しています! 』
『 念写を続行しますか? 』
『 はい 』 『 いいえ 』 『概要』
突然ケータイに表示された警告に、目が釘付けになる。
「うっそぉ…………。これって新しい『念写自重フィルター』? にとりの言ってたやつじゃん……。反応しちゃってるじゃーん……。せっかくいい気分だったのにぃ……」
目頭を押さえたところで画面は変わらない。それに、『概要』なんて項目は聞いてもいない。いや聞かなかったのは私だったか。察しがつかないこともないが、おいそれと選択はできない。
「……『概要』、これ押して大丈夫なのかな。にとりーわかんないよー……うわーどうしよー……――――」
「――――こんにちは、鴉天狗さん」
不意に、背後から声をかけられた。
「っっっ!? わっうわわっ」
心臓と、手元のケータイが飛び跳ねた。お手玉されたケータイは手を離れ、流れるように枝の隙間へ落ちてゆく。
「やばっ!」
にとりの新作、しかもおろしたてホヤホヤが、地面までおよそ三〇m。
「えっちょっと!?」
私は枝の中への突撃を敢行した。何者かにまた声をかけられたが、そんなものは無視だ。
頭から飛び込み、細い枝をへし折り、太い枝をくぐり抜け、そして、
「どこに――――!? ぐぇっ」
見失った。さらに悪いことに、勢い余って後頭部を枝に打ちつけてしまった。
一瞬にして遠退く意識の中によぎったことは、はたしてこれは言い訳になるのだろうかという、相変わらず低劣な考えであった。
~ 5 ~
念写とは、カメラから隔絶されている被写体を撮影する能力である。そして、その力によってできあがる写真は大きく二種類に分けることができる。撮影者のイメージを反映させたコラージュ写真と、実際の一場面を切り取った素の写真だ。
姫海棠はたての行う念写は専ら後者、現場のありのままを写し出す。つまりその気になれば、他人の秘密だろうと勝手に記録してしまえるのだ。
しかしそれには当然、相応のリスクが伴う。
悪巧みや不正、命に関わる情報、黙すべき逢瀬など、暴かれる側にとっては不愉快どころの話ではない。報復される危険性がついて回る。だがそのリスクに備えることさえできれば、彼女の力はジャーナリストとして相当なアドバンテージとなるのだ。そしていざ天狗組織の一員として情報戦に臨めば、それは比類無き力となる、ことにもなりえただろう。
ところが現実にはそうはなっておらず、彼女の存在は埋もれていた。念写によって危ない橋を渡ったことはなく、その身に危険が及んだこともない。
彼女が無名である理由としてはまず、幻想郷には彼女の他にも情報操作に関する厄介な能力、および技術がいくらでもあることがあげられる。
妖怪の山だけでも、『千里眼』という言わずと知れた天狗の神通力の代表格をはじめ、河童や山の神が扱う科学技術による情報記録機械がよく知られている。余所には『読心』や『スキマ』なんていう有無を言わさずに情報をかっさらう妖怪をはじめ、変幻自在の狐と狸や付喪神のネットワーク、底知れぬ知識を使役する魔女、神霊と通じる巫女、認識に干渉する妖怪、歴史を読む半妖、果ては月の文明機器などなどバラエティーに富む。情報管理はどの組織でも頭の痛い問題には違いないが、ある程度は仕方がないと割り切らざるをえないのもまた実状なのである。
そんな中では姫海棠はたての念写は『よくある能力』のひとつでしかない。加えて、念写も有力な超自然的能力には違いないが、それに感づける超自然的な感覚の持ち主だって少なからずいるのが幻想郷である。度が過ぎない限りわざわざ彼女だけに目くじらを立てる者はいないというわけだ。
そして、姫海棠はたては度を越さない。彼女は根が謙虚なのだ。新聞以外で名前を売る気はさらさらなく、嬉々として暴露記事を書くこともない。念写を気遣うあまり、すでに出回った写真を焼き直して自分の記事に使う時だってあるくらいである。彼女は、自分が念写の能力者であることをおおっぴらにしないこと、念写で他人に踏み込みすぎないことを守り、そうすることで自分の身をも守ってきたのだ。
その性格は念写能力そのものにまで影響しており、姫海棠はたてが『念写自重フィルター』と呼ぶ能力の制限が自然と形成されるまでになっていた。
この制限、もとい機能により、念写される被写体、これに機密保護の意思や封印、あるいは後ろ暗さが存在する場合、フィルターが反応して念写はキャンセルされる。フィルターの強度は姫海棠はたての深層意識が大きく影響しており、緊急時だからとフィルターが緩くなることもあれば、無意識に危険を感じることでフィルターが強化されることもある。特に過去を覗くような念写は危険な匂いがプンプンするのでフィルターが非常に強固になっていた。
この機能は彼女の性格に依るところも大きいが、何より自分が情報を扱う者だからこそわかる、念写が可能にしてしまうことに対する危険を理解しているからこその産物である。
なお、新しく機種変更された携帯電話のカメラ機能には、製作者である河城にとりの発案により、このフィルターには一工夫が施されていた。フィルターの管理オプションの追加である。ほとんど無意識に扱っていたフィルターを画面に可視化させ、設定を適宜調整できるようにすることで、より的確にフィルターを機能させることが狙いだ。
しかし、その開発者と使用者、両者の念写の危険性に対する認識には差があった。そもそも姫海棠はたて本人ですら感覚だけでしか理解していなかったフィルターのメカニズムを、感覚に頼った説明だけで理解させることには無理があった。そしてその認識の差はフィルターの設定強度、検出時の自動対応に関する設定内容に現れているわけなのだが、それらが明らかになるほどの試行をする前に受け渡しが済んでしまっている。
現在、新しいフィルターが反応を示してから誰にも操作されないまま、すでに一時間が過ぎている。念写はフィルターによって選択画面を表示させてからずっと待機の状態にある。つまり、今もまだ『念写が継続中』なのである。自動でキャンセルされることもなく、念写の眼はなおも被写体と目を合わせ続けているのだ。
――――……
柔らかいお布団の感触、そして嗅ぎ慣れないお香の匂い。瞼を開ければ知らない天井。そして思い出すのは頭が痛むこと。すぐに思い出せないのは、なぜ自分の頭が痛むのか。
「う……、痛たたた……」
「あ、起きたわね。こんばんは」
「? こんばんは?」
声のする方を向くと、身なりの綺麗な女性がひとり、椅子に腰かけていた。仙人と思しき格好で、桃の髪色にふたつのシニョン。右腕には包帯が指先まで隙間なく巻かれ、その手にはなぜだか私のケータイが握られていた。
仙人が立ち上がると、自然とケータイの画面が私の方へ向いた。その画面には『念写自重フィルター』による警告が表示されており――――
「あ、この機械ね。地面に落ちるま――――きゃっ!?」
「返して!!!」
口より早く私は跳ね起き、おそらくはここの家主であろう仙人の手からケータイをもぎ取っていた。そして後退り、元のお布団の位置で足をとられ、尻餅をつく。
「ハァ……ハァ……ハァ……――――」
混乱して、恐怖して、いっきに息が上がった。ここはどこなのかとか、あなたは誰なのかとか、そんな疑問よりも先に身体が動いてしまっていた。知らない内に私のケータイを覗かれていたことにより、自分の秘密に触れられた焦りと、他人の秘密に触れそうになった恐怖、その両方がいっぺんに私へ襲いかかっていた。
「…………私のケータイ、いじった?」
途切れた記憶の前後はあやふや、でもひとつだけ思い出した。私は念写をしているところだったのだ。そこに現れたのが可視化された『念写自重フィルター』。にとりと一緒に試行した段階では現れなかったそれを慎重に操作しようとしていたところだったのだ。それが途中のまま他人の手に渡っていた今、確認せずにはいられない。
「え、け、携帯……食糧??」
「こ れ よ こ れ ! どっかボタン押した!?」
「いえっ、いえ、文字は読んじゃいましたけど、それだけです。どこもいじってないですよ?」
「……そうなの?」
「……はい」
「…………」
私はもう一度、ケータイの画面に目をやる。
『 警告! 念写自重フィルターが反応しています! 』
『 念写を続行しますか? 』
『 はい 』 『 いいえ 』 『概要』
確かに、画面はまだ警告文の表示を続けていた。記憶が途切れる前と確かに同じである。
「(念写は……まだしてない!)」
私はまだ、不本意に危ない橋を渡ってはいなかった。それが確認できた途端に力が抜けてゆく。とりあえず念写はキャンセル。カメラ機能も停めておく。
ホッと深呼吸をして傍らにケータイを置くと、背中に汗をかいているのに気がついた。ずっと肩に力が入っていたかのようで、どっと疲れが出てきた気がする。
「えっと……ご、ごめんなさい。壊しちゃいましたか?」
仙人に顔を向けると、彼女は私を見てまだ狼狽していた。両の手のひらを胸の高さで私に向けて、落ちつけとポーズしている。まるで今にも私が暴れだしそうにしているかのようだ。しかしこの反応も仕方がない。豹変したり怯えたり、私は情緒不安定で腫れ物にしか見えないのだろう。
「…………あ」
気まずさの中で何を言おうか考えあぐねていると、お香の匂いに気がついた。リラックス効果がうんぬんといったものがありそうな、荒い呼吸にも邪魔にならない上品そうなお香である。
このおかげかもわからないが、ようやく気を失うまでの出来事を思い出してきた。
文に触発されて取材へ出かけたこと。
魔理沙を怒らせ、ケータイを壊したこと。
にとりから新しいケータイを買ったこと。
早速ひとりで念写をしたらフィルターが反応したこと。
その際、不意に声をかけられて驚き、大木の上からケータイを落としたこと。
壊すまいと強引に追いかけたこと。
おそらくその時に頭を打ったのだろう。ちょうどそこから記憶が曖昧だ。
だとすれば、この仙人はのびた私に寝床を貸してくれた恩人になるわけであるが、しかしまさか、声をかけてきた不審者がこの恩人なのだろうか。
「落ち着いて? 私はあなたに危害を加えるつもりはないの。さっきのは事故で……、まあでもちょっとだけイタズラ心もあったけど――――」
どうやらそのようだ。
しかし本人曰く害意はないらしい。
他人の慌てる姿を見て、逆に我に返れるくらいには私は落ち着いてきたようだ。
黙ってスカートの裾を直す。
ふたりとも落ち着いたところで、ようやくお互いに自己紹介をすることができた。彼女は茨華仙と名乗り、妖怪の山に住む仙人であることを教えてくれた。私は華仙の家の近くにいたらしく、あの大木の上で私が何をしているのかと気になって声をかけたのだとか。
私が気を失っていたのはほんの一時間ほどらしい。窓の外はすでに暗くなっていた。
ちなみに、私からは自身についてあまり言うことがなかった。鴉天狗の記者で取材中だと言えば良くも悪くもだいたい伝わる。実際は記事にする気のない個人的な調べものを方便で取材と言っているわけだが、それまで伝える必要はない。
「驚かせてしまってごめんなさい。まさかあんなことになるなんて思いもしなかった」
「もういいわ。これも無事だったし」
傷ついた様子のないケータイを指先で回しながら答える。華仙がどうやってこれを無事に回収してくれたのかはわからないが、故障や不本意の念写といった最悪の事態は回避できたため、今の私はだいぶ大らかである。
もし仮に警告を無視した念写が行われていた場合、きっと私は恐怖に縛られていたことだろう。念写してしまった写真をびびって見ることも消すこともできず、悶々と部屋に閉じこもるばかりの自分の姿が容易に想像できてしまう。考えるだけで情けない。
それを思えばまだまだ大したことではない。話がこじれてしまったが、結局、不都合といえば華仙に念写能力を知られたことぐらいなのだ。
「ひとつ聞いてもいいかしら? その機械のことなんだけど、――――」
華仙の問いに、ほらきたやっぱり、なんて内心思う。念写を知られれば詮索されるのはわかりきったことだった。まったく面白くない。覗き魔扱いされないように気を遣って説明するのはとても面倒で嫌いだ。そのせいで私は引きこもりがちだったような気さえする。
知られて良かった、なんてこともなかったわけではないが、それはにとりと椛くらいなものだ。にとりは嬉々としてカメラを提供してくれたし、椛とは似た能力持ちどうしで仲良くなるきっかけになった。
しかし例外は例外だ。期待してもろくなことはない。とはいえ、この華仙とやらには話せばわかってくれそうな良識が感じられる。ちゃんと説明すればいらぬ誤解をあたえることにはなるまい。
大丈夫。同じ妖怪の山に住む者どうし、分かり合えるはず。
「――――その機械はカメラで、それに念写能力が備わってるのかしら?」
「……これに念写? いいええ? これは確かにカメラだけど、違うわよ?」
少し予想とズレたことを聞かれた。私自身が念写の能力者であることは大した問題ではないのだろうか。別にそういう認識でまずいなんてことはないと思うけれど、身構えていた分、軽く拍子抜けだ。
「じゃあ私が使っても念写はできないわけね……」
「そうね。念写の能力者じゃないとたぶん使えないわ」
華仙は警戒、というわけではなく、何か別のことを考えているご様子。たいていは影から監視されている可能性に思い当たって嫌がるものだ。まさか監視慣れしているから平気、なんてことはそうそうない。
質問からして、私に頼らず自分で念写したいということならば、人知れず探したい物があるということだろうか。
…………閃いた。
「えっと華仙さん? さっき見ちゃったみたいだけど、あの警告文はね――――読んだんでしょ? この画面に出てたやつ。せっかくだから教えてあげる。あれはね、私が念写で地雷を踏まないようにって備えてる用心なのよ。おおよその被写体の危険度とか、秘匿の意思とか、そういうのをこれで計って、本当に念写するのか決める判断材料にするの」
「…………。はあ……用心ですか……」
「そう。それと勘違いしてほしくないんだけど、私はどっかのパパラッチみたいに偏見と誇張だらけの記事は書かないわ。だから当然、念写にも気を遣ってる。興味本位で腹を探るような念写は絶対しない。絶対トラブルになるもの。ただでさえこういう能力は煙たがられやすいのに、わざわざ自分から敵を作るような真似なんてしたくはないわ」
「…………。はあ、そうなのですか」
念写が知られてしまったのはもう仕方がない。しかしそれなら今の内にフィルターのことを知らせておくのは悪い判断ではないだろう。『念写自重フィルター』は被写体に配慮するための機能であり、それを宣言するわけなのだからだ。肝心の時間軸のことは伏せるとしても、基本をちゃんと説明すれば後々警戒される心配は少なくなるはずである。
ただ、急に改まって説明をはじめたせいか、かえって怪訝な表情をされてしまった。しかしここで怯むのも不自然だろう。うろたえている場合ではない。ひとまず無視だ。
「それを踏まえての話なんだけど、秘密は守るわ。記事にもしない。もし何か探してるんなら、できる限りで私が念写してもいいわよ」
「! …………」
そして、色々あった長い一日の中のご縁だ。ひと仕事提案してみるのもいいかもしれない。ついでのついでに例の取材の足しになることがあれば万々歳である。
「…………でも……」
華仙は答えにつまり、包帯の右腕を軽く抱きすくめた。さっきまで平気そうにしていたから、てっきり包帯の下は重傷というより跡がひどいくらいかと思っていた。痛むのだろうか。そんな腕で介抱してもらっていたなら申し訳がない。しかし華仙のせいで私は頭を打ちつけたようなものなので、あまり気にし過ぎることでもないだろう。
「私の探しものは…………。――――!?」
「……? どうしたの?」
突然、華仙は窓の方を見て立ち上がった。
窓の外は暗い。雨が降っている様子はなく、風はおよそ無風。この屋敷の中とすぐ周りにはけっこうな数の動物がいるようだが、おかしな気配を発しているものはおよそいない。屋敷から離れた場所となると、鈍い私にはわからない。
「…………いえ、知り合いが訪ねてきたかと思ったけど、違ったみたい」
そう言いながらも華仙は外を見続けている。真顔というか無表情というか、華仙の表情からは特に感情は読みとれない。
そんな華仙の横顔と立ち姿を眺めながら、私は静かに落胆した。
「……ふうん………………」
私、知ってる。
知らないけど知ってる。これは少々キナ臭い。
理由は簡単。慎ましく扱うべき念写を提案した途端、この不穏な空気になったからだ。思いつきの発言は魔理沙の件で戒めようと誓ったばかりである。私は本当に学ばない。
根拠はそれだけ。無いに等しい。しかし関係なさそうで関係しているはず。悪い行いをしたから悪いことが起こる、などという飛躍した論理。それと華仙の様子を照らし合わせれば、答えはひとつ。
突然ですが、外に、よくないモノが来ています。
「そうだ、今日は泊まっていってよ。お酒もたんまりあるわ。最近は見知った顔としか飲んでなかったからね。付き合ってもらえない?」
華仙はパッと笑顔になり、何事もなかったかのように引き留めてきた。念写の話からなんの脈絡もない提案だ。これでは、まるで私の勘が本当に当たってしまっているかのようではないか。
「えっ……ぇえ? 悪いわよぉ」
私は自然な感じに姿勢を変え、自分のすぐ脇にあるケータイを手にとった。何となく、華仙に気づかれないようにだ。今のところ華仙と外のモノとを繋げる理由はなく、頼ってしまいたいところだが、簡単に信用できるほどの仲でもない。
「いいのいいの。お詫びもしたいし、天狗でも記者さんなら時間は割と融通が利くんでしょ? あ、ほら、お酒持ってきてくれたわ。ありがとう」
この時の私は、不穏な事態にどう対処するかを考えていた。念写で外にいるモノの正体を探るのが妥当かと、そう決めかけていた。もう念写は華仙にバレているわけだし、誤解させないようにと考えている場合でもなさそうであったからだ。
しかし、部屋のふすまが開いたので顔を向けると、思考が止まった。目の前に現れたケモノをすぐに理解することができなかった。
私が目を丸くして見上げた先にいたのは、パンダだった。狭そうに身体をかがめて部屋の敷居を跨ぎ、大きなパンダが酒樽を運び込んできたのだ。
「……ど、どうも」
理解の遅れた隙に升を受けとってしまったが、今この場において酒を勧められる、ということはどう取るべきなのか今さら悩んでしまう。
しかし再び思考は中断された。今度は大きな虎が部屋に入ってきたのだ。口には籠がくわえられている。私は座っているとはいえ、見上げるほどの巨体を持つ肉食獣を前にするとさすがに身体が竦みそうになる。
籠にはつまみが入っていた。虎は籠を下ろすと、甘えるように華仙に身体を擦り付ける。その仕草といいゴロゴロ喉を鳴らす様子といいまるで猫のようだが、その大きな身体には華仙ですら圧倒されそうになっていた。
「うわわ、なーにどうしたの? …………そう、いい子ね、あなたもここにいなさい」
パンダも虎も、華仙によく躾られているようだ。初対面の私に敵意を示すこともない。虎も私に対しては軽く鼻を鳴らしただけで、あとは穏やかにくつろいでいる。
華仙の対応を見ている限り、華仙は外の何かとグルとは考えにくいと思える。基本、天狗は酒豪ぞろい。鬼でもあるまいし、初対面の天狗を酔い潰しにかかるというのもおかしい。
むしろ私の両隣を従順な猛獣で固めたとも捉えられるこの対応、私を守ろうとしてくれる意図があるようにも感じられる。私が嫌な雰囲気を察していることに華仙も気づいていて、それでも何の問題もないという体裁をとりつつ家主として守ってくれる、ということだろうか。もてなしている手前、余計な厄介なんぞに巻き込ませはしない、そういう気位がゆえの配慮なら私は助かる。
これは都合の良い思い込みだろうか、などと考えてしまうのは被害妄想の癖がついてしまっているからだろうか。
「はいはいどうぞはたてさん、飲んで飲んで」
「えっ、あ、ああっ注ぎすぎ注ぎすぎっ」
「いいからいいから。ほーらあなたも」
「♪」
「……!」
私があれこれ心配しているすぐそばで、今度はこのパンダ、器用にタライのような杯を持ち、華仙にお酒を注いでもらいはじめたではないか。これには開いた口が塞がらなくなる。
私にもなみなみと注がれた升に視線を落とし、また華仙とパンダを見やる。遠慮なくグビグビとお酒をあおるパンダは脳天気なくらいに幸せそうだ。虎は乾燥肉を頬張り、尻尾を私の膝に乗せてくる。華仙はニコニコと笑っている。
お酒の香りが私を誘う。
外の何某の存在など、割とどうでもよくなってきた。ずっとケータイを握りしめていることを思い出したが、少し考えて、腰ポーチにしまった。
「(今はお外恐いし、甘えさせてもらいましょ)」
~ 6-1 ~
少々時間はさかのぼり、妖怪の山の裾。ここは魔法の森と同様に多様な生物が暮らしている。ただしそれらはみな木々の樹冠や蔓草に身を紛らわせ、一見ではなかなか見つけられるものではない。しかし森の上なら話は別だ。鳥、主に猛禽類、そしてこの山を支配する強靭で狡猾な種族の姿ならばよく見かけることができる。
現に、今もそんな誰かが翼を広げ、沈みかける夕陽を浴びながら悠々と山を登っている姿が見受けられる。山の雄大さに比べれば点の大きさがせいぜいの背丈ではあるが、それでも飛んでいれば目立つものだ。
山の中腹を越え、天狗の里。枯れた倒木の上に鴉天狗がひとり降り立った。谷を挟んだ反対側、およそ四〇〇m離れた向かいの斜面には、段々畑のように建つ天狗マンションが見通せる。
「ここがいいわね。ここで待ちますか」
ハンカチを一枚取り出して枯れ木の上に敷き、そこに腰掛け、マンションの様子を窺う。
だんだん日が沈むに従い宵闇が広がってゆき、部屋の明かりが目立つようになった。しかし、この鴉天狗の目当ての部屋は、依然として暗いままである。
宵闇の中、組んだ足の上で頬杖をつき、何度目かもわからないため息をつく。予想を超えた待機時間に暇を持て余してしまう。貧乏ゆすりが止まらない。
ふと視線を上げると、月が顔を出し始めていた。
「…………遅い」
いい加減しびれを切らすと、パチンと膝を叩いて立ち上がり、一向に明かりのついてくれない目当ての部屋のベランダまで飛んでゆく。
「……やっぱり帰ってない。はたて、どこ行ってるのよ」
気配を探り、ガラス戸の前で家主の不在を再度確認すると、頭をカリカリ掻きながら部屋を後にした。一度振り返り、数秒間ガラス戸越しにカーテンを見つめてから外へ飛び立つ。
風の吹いてゆく先は白狼天狗の詰め所だ。
「椛はどうしてますかねえ……。何時から詰めてるか聞いとけばよかった」
~ 6-2 ~
同じ頃、ふたつの人影が妖怪の山の裾野にあった。こちらは森の中。人影のひとつは人間の動きにしてはいささか奇妙な挙動をしている。落葉の進んだ林の中には月明かりがいくらか差し込んでおり、両腕を突き出しその場で跳ねる者の姿が窺えた。
「せいがー! せいがー! ここはどこだー!?」
「気配を見失った? なんで今になって……」
宮古芳香とその主人、霍青娥である。ふたりは青娥へ向けられていた微かな気配を追い、ここまでやってきていた。芳香に施した術の先導により、おおよそ回り道をすることはなかったため、青娥はここまでの追跡は成功と思っていた。ところが頼りの気配が前触れもなく途絶え、芳香の先導もパタリと止まってしまっていた。尻切れトンボである。
罠の可能性を考えてしばらく待ってみても、周りは平和そのものであり、何も起こる気配がない。耳を澄ましてもこの日は風もなく、とても静かな夜である。
青娥は大きくため息をついた。
「私のひとり相撲かしら」
青娥は仕方なしに芳香の顔をのぞき込み、掛けていた追跡の術を探索の術に切り替える。この術ではこちらの気配を殺せはしないが、テンションの下がった青娥にはもはや些細な問題であった。むしろ、ばら撒く気配で何かが釣れてほしいとさえ思っていた。
しばらく等高線状に延びた獣道を進んでいると、元気に跳ね回る芳香をよそに、青娥が空気の微妙な変化に気がついて足を止めた。
「この雰囲気……方術? 仙界が近いのかしら? 私や豊聡耳様の創る仙界とはまた違う式みたいね。この山の仙人といえば……」
山に住むと聞く知り合いの仙人の顔を思い出していると、遅れて芳香も反応を示した。
「おおっ!? せいが、いるぞ!? いるぞ!? あっちだ!」
「待って」
芳香は進行方向を修正して元気よく跳ね進もうとするも、青娥はそれを止めた。芳香の御札に霊力を注ぎ、青娥手ずから気配の出所を探る。
「……まさか、気配はこの仙界から? 仙人が私を? 私の知らない仙術を使うなんて、いったい誰かしら」
自覚のあるなしに関係なく敵を作り続けてきた自身の過去を棚上げし、青娥は頬に手を添え首を傾げる。
「まあいいわ。直接顔を拝みましょう」
しかし、いちいち悩むだけ無駄だと、青娥はとうの昔に悟っていた。因縁の巡り方はいつの時代も突飛なことばかりである。
仙界の中心へ繋がる手がかりを探し、ふたりは歩く。当然のように道を惑わす術が降りかかるも、それを当然のものとして歩き続ける。同じ足跡の上を何度通ろうとかまうことなく歩き続ける。
青娥の目に映る景色は術によって繰り返される単一の道だけではなく、術のカラクリをも捉えようとしていた。
やがて、青娥は足を止めた。芳香は転んだ。
「やっと面白くなってきたわね」
「せいがー」
森が蠢いていた。風が吹き荒れはじめ、気温が下がる。季節に逆らい低木が枝葉を伸ばして道を閉ざし、上層木は葉を広げ、何層にも覆い被さって月明かりを隠す。前方から足元へ風が一定に吹き、まるで引き潮に足を浸しているかのように錯覚させられる。目の前はあっという間に密集した低木で壁になり、分厚い天井ができたことでそれもすぐに見えなくなった。
先ほどまでの自動で発動する程度の術とは違い、今度の術は明らかに意志をもって青娥を阻みにきている。
青娥は術の性質の違いに気づくも、状況の変化を眺めるだけである。羽衣に腰掛けて足を休め、無抵抗のまま術が展開しきるのを待っていた。料理の配膳を眺めるように、ただ微笑んでいた。
「灯りを消してーふたりだけの夜ー。……さて芳香ちゃん、何か見える?」
自分の目の前に手をかざしても、青娥にはもはや何も見えていない。そんな不自然なほどに深い暗闇に捕らわれてもなお青娥の調子は狂わない。
芳香が自力で立ち上がる音がした。
「せいがのかお。ワルそう。でもきれいなの」
「まあ」
青娥は一度身じろぎをして、自身の装飾を確認する。
「ここまでやっていまだに直接何もしてこないのは、これが最後の警告ということなのかしら? 降参すれば術を解いてくれるのかしら? お優しいこと。ここから先はただでは済まないわね」
「やるのか?」
「ええ、やるわよ」
青娥は、取り出した御札を口元にかざし、ボソボソと呪文を唱えはじめる。
「※※※※※※※※※※※※※※――――」
芳香は大人しく待っている。顔と腕をだらんと下げ、足を開き気味にして立っていた。そのうつむいた姿も、御札の下にのぞく表情も、この深い闇の中では誰も視認することはできない。
「大丈夫よよしか、今日のあなたも大丈夫」
「…………おー……」
呪文を唱え終わった青娥は、御札を手離した。御札はナイフのようにまっすぐ落ちて、地面に刺さる。すると、御札から一筋の光が噴出し、その光は覆い被さる闇の天井を穿った。天井はひび割れ、崩れ落ちるとともに月明かりが戻ってくる。
ゆったりと目を閉じ、また開く。
その間に、青娥の視界には妖怪の山が戻ってきていた。葉の落ちた枝の隙間から月がよく見える夜の山だ。いくらか月明かりがあるとはいえ、どこまで歩いてきたかはわからない。
術を破った今、ここからが勝負だ。
芳香の纏う妖気が膨れ上がる。
「!? 待って!」
「――――うぐーっ!?」
しかし、追跡が再開されることはなかった。異変に気づき、再び青娥が芳香を止めたのだ。青娥の手が芳香の御札を押さえ、芳香の敵対行動はすべてキャンセルされた。
青娥たちが戻ってきた場所は妖怪の山には違いないのだが、様子が変わっていた。もはや芳香が捉えていた気配はおろか、仙界の雰囲気すらも感じられない。
その代わりに、いくつもの視線が、明確な敵意が、青娥に向けて集まりはじめていたのだ。
「…………天狗?」
あからさまな気配はすべて斜面の上から。次々と風が吹くような素早さで駆けてきたかと思えば、定位置が決められているかのようにピタリと止まり、あっという間に扇状の包囲が青娥の左右にまで広がっていた。どれも姿を見せずに距離をとったまま、バチバチと敵意を向けて威嚇をしてくる。妖怪の山においてこうまで迅速かつ統率された行動をとるのは天狗を置いて他にいない。そしてこの初動の早さは白狼天狗のそれだろう。
様子見を続ける青娥に対し、天狗たちには下方にまで回り込んで包囲を完了させる様子がない。位置取りを守って睨みを利かせてくるばかりである。
逃げ道を塞がず遠巻きに警戒しているということは、退けば許す、そういう姿勢なのだろう。
「……またぁ?」
そんな意図を察した青娥の口から思わず不満の言葉が漏れた。
最後の一線を踏み越えるか否か、青娥はその選択を確かに下したはずだった。青娥といえど、我がままを通すことが前提であるとしても、事を起こすには一定の覚悟を決める。力を発揮するためには迷いは邪魔だからだ。
先ほど方術を突破し攻撃の体勢に入ったときも、確かにいくつかの天秤を思い、その上で我を通したはずだった。ところがその覚悟はあっけなく肩透かしにされてしまい、越えたはずの一線が天狗を相手にまた敷き直されてしまったのだ。
「それはないでしょうよお……。天狗のテリトリーまで歩かせた上に任せきり? じゃあ最後の術は天狗をおびき寄せるまでの時間稼ぎだっただけ? なによそれ、罠は罠でももっとこう…………やめやめ、あーあ、がっかりだわ」
青娥は立ち合いをあっけなくずらされ、落胆の色を隠すことなく顔に出した。そもそも善からぬ気配を振りまいて山を歩いていたのは青娥自身である。排他意識の強い天狗に目をつけられるのは当然のことであった。
自分のまいた種、そう思うと先の高揚はあっさりと冷め、やる気も失せてゆく。
「これ以上はさすがに豊聡耳様にまで累が及ぶわ。やっぱり所帯持ちは身重ねえ…………。ハア……帰りましょうか」
突き刺さしてくる視線にかまうことなく青娥は背を向けた。一瞬、衝動にかられそうになった天狗の殺気が膨れ上がるも、青娥はまったく知らんぷりである。そしてひとり森の上まで浮かび上がり、のんびりと山を下りはじめた。結局、その無防備な背中に追いすがる者は誰もおらず、弾も矢も飛んでは来なかった。
青娥が遠ざかる距離に比例して、包囲を固めていた白狼天狗たちに安堵の空気が流れはじめる。やがて頃合いを見計らい、斜面上方にいたリーダー格が指示を飛ばす。
「侵入者は下がった。警戒態勢を変更する。イ班は引き続きこの周辺を警戒、あの邪仙を見張れ。ロ班はニ班と合流、第三級の警戒態勢を継続。チ班は相方同士で散開しつつ後退、待機中のホ班と交代せよ。ホ班への伝令と上にする報告だが――――」
森の上をゆく青娥は、あくびをしながらのんびり山を下る。自分がいた場所を確かめるように周囲を見渡しはしても、また山を登り返すような素振りはまったくない。
そして、芳香の姿はどこにも見られなかった。
~ 6-3 ~
「…………よし。もう平気そうね」
茨華仙は腕を組んで仁王立ちし、遠い闇の向こうを得意気に睨みつけていた。華仙の屋敷の屋根の上、傍らには龍を従えている。
「天狗には悪いけど、そのお仲間がこっちにもいるからってことで許してもらいましょ」
屋敷への侵入を防ぐ華仙の結界、そこへ堂々と踏み込んでくる者が確かにいた。少々強引にごまかしたからいいものの、華仙の態度に出てしまい、来客中の天狗にも感づかせてしまった。妖怪の山に住む身としては、これ以上この天狗が危険な目に遭う事態は避けたいところである。
そして、侵入者を天狗の縄張りまで誘導できたし、そこへ天狗が駆けつけたのも、慌ただしい気配が屋敷にまで伝わってきたのでわかる。また、ほどなくして天狗の敵意が落ちつきを取り戻したことから、侵入者は華仙の狙い通り無事に追い返すことができたようだ。再び華仙の結界に侵入者が引っかかる様子もない。
来客を守れたことで自分のメンツも保つことができ、華仙は一安心である。龍の頭を撫でて労をねぎらい、酒盛りを続けているその客のもとへ戻るために屋根から降りる。
「それにしても、相手はふたりかな。いったい誰だったのかしら……。偶然にしては動きに迷いが感じられなかったし……術は仙人みたいだったけど……うーん」
有力な仙人の顔をいくつか思い浮かべても、その誰をとっても動機にまではさっぱり思い当たらない。
「ま、何にしろ、これでもう邪魔は入らないわね。ひとまず結界を強化してあとは…………。うん?」
中へ通じる扉に手をかけたその時、なにか、後ろ髪を引かれるような気分になった。
華仙は振り返る。
遠くで梟が鳴いている。
しばらく経ち、龍が心配そうに華仙の顔を覗き込んだ。
「……ううん、なんでもないわ」
また誰かが結界に入り込んできたわけでもなく、はじめに感じた邪な雰囲気もまるでない。
華仙の住処は天狗の把握するところではあった。もしかしたらあの騒ぎの後だということで千里眼を持つ白狼天狗が念のため近辺に眼を走らせたのかもしれない。
面倒を押しつけたことがバレたとして、事情を聞きに来られても隠し立てすることもないかな、と適当に考え、華仙は中へ入り、扉を閉めた。
~ 6-4 ~
「…………………………………………」
鹿が一匹、音もなく妖怪の山を闊歩している。先ほどまで大挙していた白狼天狗も去り、安心して餌を探している。
獣道を進んでいると、頭を残して土に還った芳香が転がっていた。鹿は、芳香の身体を成していたものの上を通りかかり、土とも朽ち木ともつかない感触の変化にも気づかず、鼻を鳴らしてその場を去る。
「…………………………………………」
芳香も、その頭は鹿に反応を示すことはなく、濁った目で枝の隙間から夜空を見上げている。
ゆっくりとした瞬きがひとつ。しばらく間を置いてふたつ。やがてみっつ。時を刻むようにして眼を乾燥から守っている。
見る。そのひとつの機能だけを残し、芳香は転がっている。頭は先ほどまでいた仙界の方角へ向き、感情も思考もなくその場に居続ける。
「…………………………………………」
~ 7 ~
いつものように夜が明けて、いつものように日が昇る。今日も今日とて何事もなかったかのように太陽は素知らぬ顔をのぞかせた。
はたてはその日差しを顔に浴び、目を覚ました。夜の間に世間で何が起ころうとも、何も知らなかった者、あるいは何も気づかなかった者にとっては何事もなく迎えるいつもの朝である。
――――……
小鳥のさえずりが耳に入る。このほどほどのやかましさ、朝になったのがわかる。
「…………?」
しかし、目を開けてもここがどこだかわからない。
その上、起き上がれないどころか仰向けのままろくに身動きすらとれない。
自分を押さえているものを見る。それはお布団ではなかった。真っ黒い毛皮が胸とお腹に回っていた。
「…………!」
パンダに抱きかかえられていることにやっと気がついた。
そうだ、ここは仙人の家だった。そうそうあの仙人、茨華仙の好意に甘え、昨日は酒盛りをした流れでお泊まりまでさせてもらったのだ。正体の知れない外敵かもしれないものから難を逃れたと思いきや、この巨体のパンダに気に入られ、絡み酒に襲われたのだった。
私も相当酒が回っていたが、確かベッドで寝入ることはできていたはず。それなのにどうしてか、今の私は床の上でパンダ共々仰向けである。首をひねれば、私が入ったはずのベッドの上には虎が丸まっているのが見えた。
華仙の姿はない。昨晩の記憶は、華仙が中座から戻ってきた辺りからだいぶ怪しい。あれは鬼のような酒の強さだった。
この部屋はこの有り様でも一応は客室なのだろうから、あの仙人は自分の部屋で寝ているのだろうか。客室で自分のペットをこうまで好き放題させるなんて、私でなければクレームものだろう。
それはそれとして、このパンダの腕とおなかは抱えられているだけでぬくぬくとあたたかい。パンダの毛皮は肌触りが良くないという噂に反し、これはなかなか寝心地がいい。華仙が来るまでこのまま二度寝をしてしまおうか。
と、思ってまどろもうとしたところ、部屋の扉が開かれた。
「朝ですよお、顔を洗ってご飯にしましょう。……って、あら?」
華仙が顔をのぞかせた。華仙はベッドに向かって声をかけたけど、そこには私はいないのですよ。
ベッドからは私の代わりに虎が華仙に気づいて起き上がる。ぐぐうっと伸びをする姿を呆気にとられて見ていた華仙は、ハッと横を向き、パンダのおなかに抱えられた私と目が合った。
「…………あれ?」
「…………アハハ」
華仙にも気づかずに眠り続けるこのパンダは、華仙が慌てて私を腕から引き剥がしにかかっても、ちょっといびき声をあげただけで目を覚ますことはなかった。
「重ね重ね、本当にごめんなさい……」
「いえ……、えと、毛並みの手入れが行き届いてたから、おかげで気持ちよく眠れましたよ?」
深々と、華仙は昨日よりも頭を低くして詫びの言葉を並べる。これでは逆に私の立つ瀬がない。華仙のおかげで一発二発もらってはいるが、それを差し引いても仮にも昨晩助けてもらった分が余りある。しかも私がどう返事をしようとしても、浮かぶ言葉はすべて皮肉めいてしまうためなおさらきまりが悪い。内心は落ち着かないのに、話は朝食もご馳走してもらうということで落ち着いてしまった。
昨日の真相について、華仙は何も伝えてこないし、私は何も聞く気になれない。つまり昨晩は何も起こっておらず、私は厄介者ではなく依然お客様、そういう了解なのだろう。私はそう理解して、おとなしくご相伴に預かることにした。21:18 2018/03/31
「それで、昨日の話の続きなんだけど……」
そのため、唐突にその話を蒸し返されたと思い、危うく食後のお茶をむせてしまうところだった。
「……ええ、何の話だったかしら?」
どうにかこらえて、何事もなかったように聞き返す。
「はたてさんの念写の話よ。やっぱりひとつ仕事を頼めないかと思って」
「ああ、はいはい。……え、仕事?」
確かに、念写をしてもいいですよ、とは昨日自分で言ったことではあったはずなのに、なぜだろう、昨日と違って嫌な予感がする。
「前々から部屋に写真を飾りたいなと思ってて。例えばこの子たちの写真とか。せっかくのご縁だから、はたてさんにお願いしたいのよ」
食卓の脇には笹をムシャムシャ食べるあのパンダや、トウモロコシをかじる見たことのないネズミのような動物までいる。華仙は手近なところにいた大鷲の顎を優しくくすぐった。この動物たちを撮るだけなら念写の必要性こそないものの、どう聞いても真っ当な写真撮影の依頼である。
しかし――――
「あと、『昔』飼ってた子の写真も欲しいのよねえ」
その一言によって、私に緊張が走った。
この仙人、予想以上にしたたかだった。
「念写って昔の写真も撮れるんでしょ?」
さらっと聞いてきたその問いに対し、私は慎重に、この三日間で一番注意深く、言葉を選んで答える。
「私ができるのは、過去に撮られた写真を探しだすことぐらいなものよ」
「元々写真がない場合は撮れないの? 去年のうちの子たちとか」
「……うーん残念だけど、それは無理な注文だわ」
「……もしかして、昨日言ってたフィルターが関係してたりする?」
やはりそうだ。華仙は、昨日私が意図的に省いた説明に感づいていた。目的は知らないが、私を守り恩を着せ、おまけにたらふく飲み食いまでさせたのは、まさかこのためか。
省いた説明とは、念写と時間の関係のこと。私の念写は時間を隔てた撮影が可能であるということだ。
黙る理由は単純。怖いからだ。
私は、念写を知られるのが怖い。そしてそれ以上に、私が『過去』の念写をできてしまう、それを知られることが段違いに恐ろしいのだ。
過去というものは、時間とともに風化するものである。ところが世の中には風化した過去に浪漫を見いだし探求する者がいる。過去を探ることに浪漫を見てしまうのは、風化した過去はどう探ろうとも確定せず、そこに夢を見ることができるからだろう。一般的にはきっとそう。
しかしこれは私にとってはとんでもない話である。
写真という一場面を切り取った画を評するのに相応しいかはわからないが、真実を写し出すのが私の念写なのである。以前一度だけ成功した過去の念写もまた、やはり正確であったのだ。
ただし、一度成功したことではあるが、今の私では過去の念写はできなくなっている。一度目以降、私が元来持ち合わせていた念写自重フィルターが恐れをなし、厳重に強化されたからである。
何が恐ろしいのかといえば、仮に私が過去を念写すれば、風化したはずの過去を確定させることができてしまうことである。リアルタイムの念写ですら嫌がる者が大勢いるのだ。これは知られていいことではない。身内やにとりにだって話したことはない。唯一、うちの親が感づいている可能性はあるが、許容できるのはそれぐらいだろう。
過去の風化した曖昧で欠けた事実の隙間の闇には、間違いなく地雷が眠っている。踏むのはごめんだ。
「…………」
「――――はたてさん?」
「 ! ああ、ごめんなさい。私の念写は不自由が多いのよ。どう説明しようか考えてたわ」
さてどうしたものか。
華仙は私の念写の可能性に当たりをつけた。そこに悪意があるかは問題ではない。昨晩の不審な出来事に華仙がどう関係していようともかまわない。私の被害妄想、もとい私の脳内セキュリティが警鐘を鳴り響かせる。
要点はひとつ。
過去の念写、この秘密は否定されなければならない。
「そうねえ」
私の口からは意外に冷静な声が出てきてくれた。
「まず、私の念写なんだけど、昨日も言った通り、フィルターがあるの。そのフィルターは勝手に他人の秘密を写さないようにするためのもの。今でこそ機能のひとつとしてある程度操作はできるけど、元々は防衛本能が形を持ったような代物だからね。外そうと思って外せるようなものではないのよ。過去なんていうのは秘密の塊。それを念写するなんて大それたこと、仮に可能だとしても絶対フィルターが譲らないわね。そもそも念写は空間を超越する能力だし、時間は関係ないわ」
「じゃあ、古い写真を念写できるっていうのは?」
「古い写真でも、基本的に公になってる隠されてない写真しか撮れないわ。しかも今もどこかで現存してるものに限るから、結局は今現在を念写してるに過ぎないの。ちなみに逆はあんまりないけど、後からタブー視されるようになって撮れなくなることだってある。条件がなかなか厳しいけど、私の念写自重フィルターはその辺そこそこ神経質なのよね」
「いいことだと思うわ。倫理観が根っこからちゃんとしてるってことだから。とても立派よ。面白おかしく他人の秘密を暴こうとする記者が多いからなおさらそう思うわ」
「あーまー、別に立派とかじゃなくて、ただ怖がりだからそうなっただけなわけで……」
「でも、過去は秘密の塊って言ってたけど、明らかに危険性がないって場合もあるんじゃない? 私のペットだってやましいことは何もないわ。そういうのまで自重しちゃうの?」
「もうっ、だからそっちは自重も何も、私は過去の念写なんてできないんですってば」
「え? ああ、そういうことでしたか。ふふふ、ごめんなさい」
「こうやって誤解されるのが嫌だからそもそも念写を知られたくはないわけよ。だから、華仙さんも絶対秘密にしてくださいね? ほんとに冗談では済まなくなるわ。……私はですね、壁に耳あり障子に目あり、そういうことだと思ってるの。もし悪どい奴がいて、そいつの耳に念写をする私の噂が流れたとして、そこから今みたく過去も念写できるなんて誤解されでもしたら、最悪拉致られて、私は使い捨てカメラにされちゃうわ。そんなのは御免よ」
「うーん……それは心配しすぎじゃないかしら。念写が邪魔ってだけで天狗を完全に敵に回すような短絡的なやつは幻想郷にはいないでしょ」
「そうね。でも、その気はなかったんだ、とか言って気まぐれを起こされでもしたらたまんないわ。だから、これでいいと思ってる」
「なるほどね……。わかったわ、口外しないと約束しましょう」
私としてはなかなか悪くない言い訳である。存外にスラスラと話せたし華仙の追求もひとまず止めることができ、私自身に余裕も出てきた。これなら誤魔化しきれる。
そう確信した時、華仙から感想程度の疑問が投げかけられた。
「それにしても、ずっと新聞記者をやってるんでしょ? 念写は知られたくないのに、それでも念写を使って新聞を書いてるのね。難儀なことだわ」
「………………………………」
そのつぶやきに対し、私の思考は動きを止めてしまった。
この時の私は、特別おかしな表情はしていなかったと思う。普段通りの、退屈してるわけでもないのになんとなくつまらなそうにした仏頂面。ただ少し、普段より目を見開いていたかもしれない。そうした私の動揺はささいなもののはずだったが、華仙に気づかれるくらいには隠せていなかったらしい。
「……どうしました?」
「…………ぁー……」
私の頭の中は今、奇妙な驚きによって支配されている。まるでケータイを探していたら手に持っていたとか、印刷をはじめた途端に誤字を見つけた時のような、自分の頭を自分で疑ってしまいたくなる衝撃がかつてないほどに頭を駆け巡っている。
そのため華仙に呼びかけられても、私はすぐにまともな返事をすることができなかった。
華仙の発したその一言で、モラトリアムに終わりが見えたのだ。
~ 8 ~
華仙に見送られ、私は無事に帰宅することはできたが、その間終始ぼうっと飛んでいたためその道中の記憶は特に残っていなかった。せいぜい覚えていることと言えばやけに日差しがまぶしかったことくらいだろうか。
部屋に腰を落ち着けてもその調子は変わらず、物思いに耽り、まんじりともせず座椅子にもたれかかっていた。しかし物思いに耽るとはいっても、実際はただ漠然と昔の記憶を浮かんでくるがままに反芻するばかり。
思い出すのは、私のきっかけの話。かつて、私と文がケンカばかりしてなどいなかった頃で、私が新聞記者になった頃の話。私が憧れて、夢を語り、苦しむようになるまでの話。
初心忘れるべからず、とはよく言うものの、その難しさは、難しいと感じられない掴み所の無さにあるのかもしれない。どれも大切な話には違いないはずなのに、記憶に留めようと意気込めばよかったのかといえば、それも何か違う。そう感じている。
大事なのは思い出せたということだと、そう思おう。
遠くの鳥の鳴き声しか聞こえてこない部屋の中、思い出すことのできた私はゆったり眼をつむって過ごしているのに不思議とまったく眠くならない。活力が湧いてくる感覚が次第に無視できなくなり、やがて目を開いた。身体に馴染んで完璧な居心地のはずの座椅子が、今はどうして疎ましい。すぐにでも外へ出て、何かしらの行動をとることを身体が欲している。今日はそういう元気な日だ。嬉しいとか楽しいとかではなく、身体が行動をとれる日だ。
「……ほっ!」
やるべきことをひとつずつ消化してゆくことにしよう、そう決めると、私はせっつくように座椅子を離れた。
まずはシャワー。昨日は魔理沙の魔法に焼かれたまま日をまたがせてしまった。ちぢれかけた毛先をハサミでささっと切りそろえ、念入りにトリートメントをして様子を見ることにする。
カラスの行水などという言葉があり、自分たち鴉天狗もそうなのだろうと思い込む輩がいるが、そんなことはない。そんな言葉があるからそういう輩が目立つのだ。個人の性格に依るのはどんな種族もそうだろう。私としては、きれい好きとまでは言えないものの、できることならカラスに由来するこの艶はやはり磨いておきたいものである。
風呂上がり、髪が乾くのを待つ間にざざっと部屋の掃除をすませ、昨日の朝に届いた荷物を開封する。そういえばこの荷物を配達してきたのは文だった。こっそり開けられた痕があるかも知れない、などと用心してみたが、それはまったくの杞憂で終わった。荷物の中身は抱き枕。獏の妖怪が作ったとの謂われをもち、夢見心地が良いと評判になった品である。頭を乗せて良し、抱いて寝ても良しの優れものと思って買ったものだ。しかし、ほんの数時間前まで寝ていたパンダのお腹に比べるとどうしても見劣りしてしまう。横になって試しに背中を預けてみても、やはりあの大きなお腹に抱えられていた時のような安定感までは得られない。贅沢を覚えるタイミングが悪かったことを嘆きつつ、荷物の箱を潰して玄関へ運ぶ。髪が乾いたところで新しく外行きのシャツを着た。今朝まで着ていたのはあちこち焦げていたのでさすがにもう着られない。この市松模様のスカートもまた実家に頼んでおかなければ。
玄関から出ようとしたところで、昨日の朝に握り潰した文の新聞が目に付いた。拾い上げてシワを伸ばし、しばらく眺める。
ただ、見えているものは写真でも本文でもなく、あいつの顔だった。
「…………さて、と」
帰ったら改めて読めるよう机の上に置き、私は部屋を出た。
里の中を飛び、ほどなくして到着したのは商店街。ここでは店舗が急斜面を塗り固めるようにして並び、その様は段々畑のようでもある。その店々の正面を繋ぐ木道は立地の割にかなり広い。一段下にも並ぶ店舗が覆われるほどの幅で作られているためだ。
カンカンコンコンと、その木道の上で一本下駄が鳴る。往来をぶらつき、私は目当ての店を目指していた。
店舗の入れ替わりはあまりないことなので記憶を頼りに探してもそう迷うことはない。この階は飲食が目立つ。飯屋や茶店、呑み屋の看板とのぼり旗ばかりだ。今は昼時ということもあって賑わってはいるがさすがに酔っ払いの姿は見られない。
そして私の目当てはここ、贈答品も扱う和菓子屋である。昨日、親切にも私のケガのために医療品を分けてくれたという紅魔館の門番さんへお礼をしに行くためだ。
「いらっしゃいませー」
店に入ると、できたて焼き菓子の温かい匂いに包まれた。この店は隣の軽食屋と提携しており、中も暖簾を隔てて繋がっている。そちらでできたての商品の味を見ることもできるおいしいお店なのである。
商品の陳列された台には、高そうな箱に入った上品な銘菓もあれば気軽に買い食いできるお団子まで並べられていた。赤色を好むと聞く紅魔館の主人にちなんだ品を探したが、めでたいわけでもないのに紅白饅頭しか見つからない。期待していたイチゴ大福も、まだイチゴの時期には早いらしい。まあ、紅白饅頭といえど真紅にはほど遠いピンク色なのだからどっちもどっちではある。
「すいませーん、贈り物でこの六個入りのやつがふたつほしいんですけど、紅と白、別々の箱に包んでもらえますか」
「はあ……紅だけの饅頭と白だけの饅頭ということですか?」
紅白饅頭の白抜きください、とはさすがに言えなかった。しかし白い饅頭も渡す当てはあるから別にいいのだ。白なら単品だと普通の饅頭にしか見えない。こっちはにとりと椛に持っていくつもりである。にとりはこれからもお世話になるし、椛には心配をかけたお詫びというわけだ。
さて、とりあえず買うものは買った。そして私も甘いものが欲しくなってきた。華仙の家では割とボリューミーな朝食をいただいていたのに、買い物中ずっと漂っていたお菓子の匂いに胃袋が刺激されてしまったらしい。店側の策略にまんまと嵌められたことを恨めしく思いつつ暖簾をくぐる。せめてもの抵抗としてニヤつかないように渋い面をつくろってみたが、傍目に見れば滑稽なだけだろう。
「あれ、はたてさん」
「うげっ……コホン、ああ椛じゃない、奇遇ね」
敷居を跨いだ先には間の悪いことに、先客として椛が数人の白狼天狗と入っていた。ちょうど会計を済ませたところらしい。変な顔を見られたのもこっぱずかしいし、買ったばかりの贈り物の袋まで見られてしまった。別に椛とにとりの分は大した意味もないのでさしあたり見つかっても気にすることはないのだが、買った直後に見られたくはなかった。
「皆さん仕事あがり?」
「そうなんですよお。聞いてくださいよお。大変だったんですからあ」
よく見ると、椛も他の白狼天狗も足元に薄く土や草を擦った跡がついている。そういえば店の外には白狼天狗の哨戒装備がまとめて置かれていた気がする。
椛は同僚に手を振ると私に続いてテーブルに腰掛けた。いいのかと問えば、実は食べ足りてなかったんです、と椛は答え、私に続いて団子を五本も注文した。
「侵入者ですよ侵入者。おかげで昨日の晩から当番を前倒しで呼び出されて、そのまま普段の日勤ですよ? しかも午前半日だからってきっちり定時までですよ!? 夜食も朝飯もろくにとれなかったからもう堪りませんよ。私たちの次の班はいつもどーりの時間に来るし。話は聞いてるはずなんだから気を利かしてちょっとは早く来るとかしてくれてもいいとは思いません?」
「あらら、本当にお疲れ様な話じゃない。それにしても穏やかじゃないわね。戦闘になったりはした?」
椛は昨日会った時には普通に見えたが、この喋り様、もしかしたらその時点でもう鬱憤が溜まっていたのかもしれない。見事な食べっぷりだ。団子の皿がきたと思ったら椛はもうすでに一本目を食べ終えている。
「いえ、睨み合いの段階で向こうが退いてくれました。二段階上がってた警戒態勢も夜明け過ぎには元通りになったんですが、それでも上はまだ少しゴタゴタしてるっぽいですよ。抗議文を送るとかなんとかって噂です」
「抗議文? なに、侵入者はそんな大物だったの?」
「大物かはともかく評判は悪いですね。侵入者は霍青娥、新顔のあの邪仙だったんですよ。私は途中参加ではじめからは見てないんですけど、私らの領域で何か怪しげな術を使っていたって報告です」
「……へー…………」
霍青娥、その人物の名前を聞き、嫌な予感がした。霍青娥といえば一昨日念写してしまったばかりの仙人ではないか。それが山へ侵入してきたと聞いてしまっては私の胸中は穏やかではない。そういえば、華仙の屋敷は白狼天狗の警戒網からさほど離れてはいなかった。そして聞いてみれば、昨日のあの不審な出来事と時間帯はどうも同じらしい。
そうなると霍青娥の目的が気になってくる。まさか、私の念写に感づいたということはあるのだろうか。何らかの方法で念写の気配を追跡して山までやってきて、華仙の屋敷にいた私のもとへたどり着きそうになっていた、なんてことはありえるのだろうか。
「……ちょっとごめんね」
確認し忘れていたことに思い当たり、私は断りを入れてケータイを開く。昨日は念写自重フィルターが反応したことばかりに気をとられ、フィルターが反応しない『安全な写真』は念写できていたのか、それを確認していなかったのだ。
サッと流して見た限りで言えば、一昨日にも撮ることができた『安全な写真』の類いは念写を完了しているようだった。前回と大体同じ顔ぶれが写真に収まっている。
しかし、その中に霍青娥の写真は見られない。一昨日は、フィルターに引っかかることなく霍青娥が撮れていたのは確かだ。今ここにないということは、昨日の念写では安全ではないためフィルターに弾かれていた、ということになる。検索ワードの詳細が変化したことによる揺らぎが原因で念写されなかった可能性もあるが、確かなことはわからない。そして山への侵入に私の念写が関係しているのか、それもやはりわかる訳もなかった。侵入した目的がわからないから無理もない。ただモヤモヤするばかりだ。
「はたてさん? どうかしました? ケータイの調子良くないんですか?」
ケータイとにらめっこしすぎてしまったらしい。ハッとして前に向き直ると、すでに椛は団子を食べ終え、急須からお茶を注いでいた。
「ごめんごめん、まだ使い慣れてないけど問題ないわ。その仙人の写真が撮れてないかと思ったんだけど、まだ大して写真を撮ってなかったわ。これじゃあ何の協力にもならないわ」
「そうでしたか。まあ後は上のお偉方の仕事ですから。気にすることはありませんよ」
「それもそうね。……よかったら私のお団子も食べて――――」
「ええっいいんですか!?」
予想以上の食いつきに少々面食らい、苦笑いしつつ私はお茶をいただく。
さて、落ちついて考えてみればだ。結論の出ないことをあーだこーだと考え続けるより、自意識過剰で取り越し苦労、ひとまずそう割り切ることが一番だろう。たまたま被写体にしてしまった人物が山へ侵入してきたのは事実としても、それをさも原因までもが自分だと早合点してしまうのはよろしくない。私が世間様を動かすだなんておこがましい。
そんな余計な心配をするよりもこうして仲間を労う方がよっぽど有意義である。こんなに美味そうに食べてくれれば奢り甲斐もあるってものだ。
「あーそれともうひとつ。もしかしたらこっちの方が本題かもしれないんですが、文さんがはたてさん探してたみたいですよ? ……そんなあからさまに嫌そうな顔しないでくださいよ。もう会いました?」
いきなりの話題に少し焦る。口喧嘩のようなことはしたが、文が謝りに来たのだろうか。いや、そんな気はしない。
「……まだよ。探してたってのはいつ?」
「侵入者の報せが来る前です。私はまだ自分ちで寝てましたね。はたてさんがどこにいるか知らないかと写真まで持ってきたらしいです。すぐに侵入者の一報が来たもんですから、もうそれどころじゃなくなっちゃったんですけどね」
「……あのあいつがあなたたちの目を頼るほど急ぎの用があったってこと? 何よそれ。私さっきまで自分の部屋にいたけど何の便りもなかったわよ?」
邪仙の方はともかく、文については急用となると本当に心当たりがなく、困惑するしかない。そして要件にもよるが私からはまだあまり会いたいとは思えない。仲直りしようにもまだ心の整理が終わっていないし、正直今はそれどころではない。
「いや、別に急いでるわけではなかったみたいです。侵入者の件が一区切りついた時には文さんとっくにどっか行っちゃってましたし、書き置きもなければ追って指示も来ませんでした。たぶん、居場所に見当がつかないからとりあえず私たちを頼ったってところじゃないかと思います。……えっと、何かあったんですか?」
「…………うーん」
「…………。ところで、はたてさんはこれからお出かけですか? お土産買ったみたいですけど」
歯切れの悪い私を見て椛は何かを察したのか、話題を切り替えてくれた。
私の足元にはつい今しがた購入した、ちょっと値の張る饅頭の入った紙袋がふたつも置かれている。椛の分も含んでいるこれを見られてしまったのは別にもうかまわない。しかし、先ほども問題はないと結論付けたばかりなのに、この饅頭には別の問題があることに気がついてしまった。賞味期限が今日から三日間しかないのだ。それはつまり、速やかに紅魔館へ饅頭を届けに行く必要があるということである。
「ええ……そうね……」
本来なら何の問題もない。
しかし仮に先の不安が的中していれば、私が山を下れば狙われる可能性が出てくる。巡り巡って念写が危険を運んでくるという、私が何をおいても避けてきた事態を自分から招いてしまうことになる。
それは今日も避けなければならない。
可能性として無くはない、その程度の危険性だろうと避けるべきである。少なくとも山への侵入者の件が完全に片付くまでは様子を見たほうがいい。紅魔館へのお礼が遅れてしまおうとも、紅白饅頭の変な買い方を繰り返すことになろうとも、身の危険が想定されたのだから私はいつものように回避するべきである。
「私、ちょっと紅魔館に用事があるから出かけてくるわ」
「ああ、昨日話してた件ですね。……お気をつけて」
それでも私は、踏み込んでしまうことにした。
今朝、華仙のおかげで私のモラトリアムに終わりが見えたばかりなのだから、今日の私はこの程度でひるんでいる場合ではないのだ。
~ 9 ~
みなさん、こんにちは。
紅美鈴です。
ご存じの通り、私はレミリア•スカーレット様に仕える忠実なる紅魔館の門番であり、今日も変わらず忠勤に励んでおります。
ただ、身内のことではないですが、不満がひとつだけ。
悲しいことに、私の勤務態度のごく一部だけを取り上げて、無能やら緑の置物やら言いたい放題してくれる輩が絶えないのでございます。これがもうまったくもって失礼な話でして、この紅魔館に必要とされる門番像というものがあるのに、それがなかなか理解してもらえないのです。
そもそも門番とは言いますが――――
(中略)
つまりこの仕事は気を抜いて良い時と悪い時のメリハリが重要であり、私はそれを十分に心得ているということなのです。
今日もほら、このお客様のように紅魔館に初めていらした方にはちゃーんと寝過ごすことなく対応しております。ま、当然ですね。証明は難しいですけど偶然なんかでは全然ないのです。
お客様の名前は姫海棠はたてさん。なんと昨日のお礼と言ってお土産を持ってきてくださいました。
昨日は外部の妖精に頼られて簡易的な医療品をお分けしただけでしたが、それでもお役に立てたようで何よりです。あの時は某白黒魔法使いさんによるマスターなんちゃらと思われる閃光が湖のはす向かいから見られまして、私が持ち場を離れるわけにもいかなかったから心配してたんですよ。
はたてさんには中でお茶でもどうかと誘ったんですけど遠慮されちゃいました。お礼にきた以上にもてなされたらかなわない、というのはわからないこともないんですけどね。
ところで、今日の湖は霧が濃いです。私は毎日こうして門前に立っているからわかるんですが、今日の霧は何というか、変です。何かがおかしいです。でも何がいつもと違うのか、具体的には見当もつきません。強いて言えば、白は白でも色違いの白とでもいうような、そんな些細な違和感がある程度です。
この霧はついさっき発生したばかりのもの。湖に溜まっていたものが押し流されてくるようにスゥッと景色を飲み込むように流れてきました。この昼過ぎの時間帯でも霧が発生することは大して珍しくはなかったと記憶してます。はたてさんも「今の季節、山なら何時だろうとガスる時はガスるわよ」とおっしゃっています。ここらも平野とはとても言えない地形ですし、そもそも霧の湖と名付けられるほどの名所の目の前ですからね。あまり気にすることではないのかも知れません。
結局はたてさんはこの濃霧をダシにしてお帰りになられちゃいました。違和感が消えないので心配ですが、鴉天狗なら平気でしょうか。
…………あれ?
…………あれれれ?
おかしいぞ? はたてさんの気配が…………消えてる?
そこまで速く飛び去ったようには見えなかったけど…………なるほど、違和感の正体がわかりました。卑しくもこの私が、霧の中の気配をまるで探れないじゃないですか。遠くで、おそらくはこの霧の向こう側、妖精と思われる気配が穏やかに霞んでゆくじゃあないですか。向こう側の様子からして霧そのものに攻撃性があるわけではなさそうです。しかしこれはもう十分異常です。
さて、ついには私も霧の中。お客様もそうですが、これは紅魔館の危機でもあります。
ではでは、大きく息を吸ってえー……――――
「!!! 咲夜さんっ !!!」
――これでよし。咲夜さんならこれで気づく。気配が消えたであろう私から名前を呼ばれれば異変を察して動いてくれる。
さてさて、霧の中には何がいるんでしょうかねえ。この紅美鈴の目が黒い内には相手が誰であろうと……て、あーるぇー?
霧が、紅魔館から離れてる?
「どうしたのよ美鈴、こんなお昼に大声なんか出して。お嬢様方が起きてしまうじゃない」
おおっと、流石の咲夜さん。もう館内をチェックした上に私の加勢に来てくれるとは。でも私としては格好が悪いのですよ。せっかく覚悟を決めたところなのに、異変の方から去っていってます。
「んあ、いや、咲夜さん、すみません。でもでもですね、この霧、おかしいんです」
「霧? ……そうなの? 私にはよくわからないわ」
「どうやらこの霧に包まれたら、その中にいる者の気配が感じられなくなるようなんです」
「……そう。……暗殺か、大軍を隠すための能力ってわけね」
「ええ。どうしましょう。この霧はあまり大きくないようなんですが、たった今帰ったばかりのお客さんが中に入ったまま、抜け出した様子がないんです。妖精の普段通りの気配なら霧の向かい側にも感じられています」
「誰か来てたの? 良くないわね。どちら様?」
「鴉天狗の方がひとり」
「鴉天狗? それなら下手に手を出さない方がいいかしら。自分からこの霧に飛び込むのは得策ではないわ」
「じゃあとりあえず警戒だけ――」
「――あいや失敬!! その話! 詳しくお聞かせ願いたい!!」
「―――― !」
そういえばですね、私は気配を探るのは得意なんですけどね。そのせいか、遠方から強者の気配に急接近されるというのは本当に心臓に悪いんです。今みたいな非常時にそんなことをされたら、思わず手が出てしまうのも仕方のないことなのです。
だからこの一発くらいは大目に見てもらいましょう。私の掌底打ち、あっさりかわしてくれちゃいましたしね。
「やあやあどうも! 毎度お馴染み、射命丸でーす!」
私のまさに目の前、私の手首の上に降り立ったのは本日二人目の鴉天狗さん。こちらはよく見るデタラメにお速いお方です。それにしても今日の営業スマイルは目が笑っていませんね。
「美鈴、鴉天狗のお客様ってこれのこと?」
「いえ、違いましたよ」
「あら、じゃあきっとこの霧の関係者ね。逃がさないわよ。お茶の時間はこれを締め上げてからにしましょう」
咲夜さんの両手いっぱいのナイフからは私諸共仕留めようとする気配が感じられますが、きっと勘違いでしょう。
「あやや、私はただここに来ていた者の名前を確認――――」
「客人のプライバシーに関わりますので答えかねます」
「間違いなく私の身内なんですけど?」
「関係ありません。美鈴」
「いやー悪いですね。そういうことですので」
「声をかけたのは失敗でしたね……。仕方ありません……じゃなくて、やむなし! ……いやいや、詮方なし? うーん、どれも大差ないわね。…………」
「何です? それ」
「いえいえお気になさらず。ちょっとした文章の研究ですよ。…………なるほど、単語そのものよりも使い方の問題なのかも。……コホンッ……しょーがないですねえ! ソッコーで負かせてやりましょう!!」
~ 10 ~
霧の中に飛び込む前から、霧が濃すぎるとは思っていた。それでも私は暢気にも身を隠せて都合がいいなどと考えていた。やっとおかしいと気がついたのは、足元が霞み、湖面までもが見えなくなっていることに気がついてからだった。進行方向が見えないのは我慢するしかないとしても、周囲どころかどの程度の高さにいるかもわからないというのは非常に心細く、飛行を続けることが躊躇われた。しかし安心を得るべく湖面に着くまでゆっくり下降しようとしても、どういうわけか、重力は私の身体を引っ張ってはくれなかった。落ちることもできずに勝手に浮遊するばかりだ。
私はこの時になってようやく認識した。私は今、異常の中にあると。
周囲は静まりかえり、耳のすぐ内側から鼓動が聞こえてくる。
この妙な霧のせいなのか、方向感覚がなくなっている。進行方向どころか重力の方向までもが曖昧だ。なぜか頭上に湖面があるように思えてしまうし、足元の方にあると思い込めばそのような気もしてくる。何かが見えないかと周囲を見渡しても、手足から先はすべて霧の向こうへと消えていた。しかもそうして首を振る度にいちいち髪が顔にかかってうっとおしく、焦りだけでなくイラつきまでもが冷静さを削ってゆく。
おそらく、などとはもう考えられない。もう間違いなく、この怪異は人為的な罠だ。誰によるものかも、考えるまでもなく私の中では確定していた。万が一といって半ば侮っていたその可能性が今、私を恐怖で縛り付けている。
きっとこの罠を仕掛けたその術者は近くにいるに違いないのだ。
たまらず私はケータイを取り出した。そして自分と術者の位置関係を念写するためすかさずカメラ機能を呼び出す。だが、何もしなかった。私は念写をためらった。念写が呼びこんだであろう危険を前にして、今ここでさらに念写をしてもよいものなのか。この期に及んでそんな迷いが出たのだ。
そんな折、後方から声が聞こえてきた。
「――――さ……やさ……――――」
私は耳を澄ませようと反射的に硬直し、静かにその声のした方を向く。
ほとんど聞き取れなかったが、今のはさっきの門番さん、美鈴の声に聞こえた。出所は大まかにしかわからなくても、今の私にとっては貴重な情報である。落ちることはできないが飛べる。あっちに行けば美鈴がいる。その魅力的なふたつの情報が私を動かした。
しかし、二秒ほど飛んだところで、目の前に湖面が現れた。壁のように立ちはだかられる事態に反応できず、私は頭から着水した。
パニックである。顔面を打ちつけ目が開かない。口鼻に容赦なく水が流れ込んでくる。いくら浮上しようと慌ててもがいても、方向感覚が狂っているので身体を立て直す向きがわからない。痛みをこらえて開いた視界を頼りにどうにか水面から顔を出し、激しく咳き込んで呼吸を繋ぐ。重力はないが浮力はあるらしい。痛む鼻を押さえて周りを見渡しても、湖面以外には何も見当たらない。
そして次の瞬間、背筋が凍る。
気づけば今度はケータイが無い――――なんてことはなく、手に持っていた。奇跡的に手放していなかった。太い吐息とともに凍った背筋はたちどころに解凍される。流石の河童製、水没しようと問題ない。カメラ機能のまま私を待ってくれている。唯一の希望とばかりにおでこ辺りに祈るように掲げ、先の逡巡などあっさり忘れ、念写した。
検索ワード『私 この霧の術者 相対位置 俯瞰』
腐っても私は鴉天狗。天地がわかった今、後は霧の中の状況さえわかれば最短距離を飛び抜けて逃げることができるはず。ただそれだけを内心言い聞かせながら『念写中』と表示された画面を睨みつけて待つ。
「こんにちは」
そこにたった一言、真後ろからかけられたただの挨拶。その突然の衝撃に私の心臓は悲鳴をあげた。私は文字通り飛び上がって一目散に逃げだし、そして、つんのめるようにして再び湖へ落っこちた。
「あらあら大丈夫? ほーら、暴れないの。よいしょ」
訳の分からぬまま引きあげられ、ついにその人物と対面した。見上げたその顔は薄く影がかかっていたが、その笑顔をつくろう眼と口だけは浮かび上がるようにして見えていた。
青い髪、淡い服、空飛ぶ羽衣、そして一点、金色に輝く大きなかんざし。霍青娥だ。本当に私のもとへ現れてしまった。
「いけない、替えに着れるような物を用意してこなかったわ。ごめんなさいね、ちょっと失礼」
霍青娥は布巾を取り出し私の髪と服から水気を拭いはじめた。私はまともに言葉も出ないほどに慄き、ひどく甘い薫りのする羽衣に絡め捕られてなすがままにされる。霍青娥は私と目が合うとなぜか困ったような顔をして、今度は私の乱れた身だしなみをテキパキと整えはじめた。一通り終えて霍青娥は満足そうに身体を離すと、いつの間に手放してしまっていたのか、ケータイが私の目の前に差し出された。
「はいこれ、落としたわよ。……最近の天狗はこんな物も使っているのねえ」
丁寧に私の手をとって渡されたケータイの画面には、
『 警告! 念写自重フィルターが反応しています! 』
『 念写を続行しますか? 』
『 はい 』 『 いいえ 』 『概要』
と、表示されている。
震える指で『概要』を開く。
『概要:結界等による被写体の保護』
私は息を飲み、顔を上げ、その笑顔を凝視した。考えるまでもなく意味を理解してしまったのだ。
「はじめまして。私は霍青娥。仙人でございます。どうぞ青娥娘々とお呼びください。貴女の名前を教えてくださいませんか?」
「……わ、私は……」
震える口からやっと喘ぎ声以外の言葉が出てきた。
「私は、射命丸。……射命丸文」
「射命丸、文……」
とっさに出た嘘に霍青娥は小首を傾げた。あいつは割と顔が広かったはずだから、あいつの名前を使うのはまずかったか。
しかし霍青娥はそれ以上追及せず、恭しく私の手をとった。
「では射命丸様、お茶の席を設けておりますので、どうぞこちらへ」
ついて行って無事に済むわけがない。
私は振りほどいて逃げるつもりで羽を広げた。しかしそこでやっとさらなる異常に気づく。私の羽に、大穴が空いていた。右に三カ所、左に一カ所、いずれも顔をねじ込めそうなほどに広い。
思い出した。この仙人は『壁抜けの邪仙』と呼ばれていて、あのかんざしはどんな物にも穴を空けられるノミだという噂だった。痛みはないが、これでは風を掴めるわけもない。さっき声をかけられた時にうまく飛べなかったのはこれが原因だったのだ。
「あ、あんた、これっ! 何てことしてくれんのよ!」
「ええ、ごめんなさい。あなたとどうしてもお話をしたかったの。それに大丈夫、傷つけたわけではないし、すぐに塞がるわ」
「ふっふざっふざけんじゃないわよ!! 私は話すことなんてないわ! この霧もあなたの仕業なんでしょ!? さっさと離して!」
「そうおっしゃらずに。ほら、着きましたよ」
羽衣に絡め捕られたまま霍青娥に連れてこられたのは、湖に浮かぶ小島のほとりだった。丸いテーブルに、椅子が三つある。内二つは背もたれの深い大きな椅子で、すでにそのひとつには誰かが力なく座っていた。
直に見るのは初めてだ。おそらく彼女が霍青娥の僕、キョンシーの宮古芳香だろう。この服装は写真で見たことがある。しかしキョンシー特有の御札が見当たらない。変わりに、霧に溶け込むほどに白い顔が露わになっていた。宮古芳香は背もたれに身体を預け、静かに眠りについている。
「この子は、『みやこよしか』。思い出深い、とてもかわいい子……」
霍青娥は簡素な丸椅子に座り、宮古芳香の前髪を優しくかきあげた。
「さあ、そちらにおかけください。お茶を淹れましょう。お茶請けもありますよ。煙草は嗜みます? 丹はいかがかしら?」
「……遠慮するわ」
もてなしのすべてがおっかない。今すぐ逃げ出したくとも私の羽はいまだに穴だらけ。出血はしていないし水に沁みもしないとはいえ、すぐに塞がると言われてもまったくそうは思えない。大人しく座る気になどとてもなれず、私はお腹の前で腕組みをして立ったままでいる。
霍青娥はお茶を三つ注ぎ、自分の分に口をつける。そして私の態度を気にする素振りも見せず、意地悪そうに笑った。
「私のプライベートを覗いたのは貴女だったのね? 念写ならば納得です。やっとお会いできました。昨日も探していたのですがお恥ずかしいことに道に迷ってしまいまして。それを今朝、貴女がどこぞの仙界から出てきたところをこの子が運良く見つけてくれました。相手を勘違いせずに済んで良かったわ」
念写を知られた。さっきの画面は当然のように見られていた。しかしこの邪仙が目の前に現れた今、それくらいならばもう驚くようなことではない。それよりも、警戒していたはずの危険に頭から突っ込んでしまった自分の間抜けっぷりが恨まれる。
「そう構えないで頂戴な。覗き見されてたことはもういいの。貴女の目的が何なのかは気にならないわけじゃないけど、今は聞かないであげる。私はちょっとお話をして、それからお願いを聞いてほしいだけなんだから」
「話なんてどうでもいいわ。行かせてくれないなら早く要件を言いなさいよ」
霍青娥の口にした『お願い』という言葉に確信めいた嫌な予感がしたが、ひるむまいと強気になってみせる。
「つれないわね。悲しいわ……。お願いというのは、貴女の念写能力を見込んでこの子を撮ってほしいのよ。この子はね、――――」
「先に言っておくわ。確かに私は念写ができるけど、過去の念写なんてできないからね」
宮古芳香の頭を撫でながら語りはじめようとした霍青娥に、私はすぐさま水を差した。先回りされてきょとんとしている霍青娥を見て、自分の確信が外れていないことが察せられた。
「能力の根本からして違うのに、よく勘違いされて困るのよね。なんでそんなことまでできると思われるのか、私にはわからないわ」
私の小馬鹿にする攻撃が通じたのか、霍青娥は目を細めてもう一度お茶を飲み、考え事をはじめた。華仙といい霍青娥といい、仙人というものはそんなに過去が気になる生き物なのだろうか。
「立ったままでは疲れてしまいます。そちらにおかけください」
言うに事欠いて霍青娥は再び椅子を勧めてきた。長話をする気はさらさらないというのに。
しかし、自分だけずっと立っているのも確かにあれだ。やはり座らせてもらうことにする。
…………あれ?
「私がお願いしたいことというのは、確かに昔の写真、過去を念写してもらうことです。ですが……できない、ですか。困ったわね。…………身体が冷えておいででしょう。温かい内にお茶をどうぞ」
相手が相手だし状況もまずい。何か薬でも盛られてはいないかとどうしても勘ぐってしまう。
しかしまあ、この時期にこの濃霧の中、濡れた服のままでは身体に障ってしまう。湯気をたてる飲み物はとっても魅力的だ。やはりいただこう…………?
「よしかにはね、お友達がいるの」
このお茶は、日本のものではなさそうだ。大陸っぽい風味。薬が入ってはいなさそうね。おいしー。
「とても古いお友達でね、この日本が古代と呼ばれる頃から長生きしてる御方らしくて、そのお友達と一緒に生きるために、よしかは人間を超えようとしたわ。私はよしかの師匠となり、そのお手伝いをしたのだけど、駄目だった。命がもたなかったの」
ふーん。……う、この椅子、背もたれ固い……。
「そうなってしまってからようやく気づいたのだけど、よしかはとても頑固で図々しくて、何より、執念深かったの。キョンシーとして蘇らせたのをいいことに、これ幸いと自我まで取り戻したのよ? 今はこうして大人しく寝てるけど、制御を外してるから目を覚ませば昔を思い出して詩を詠もうとするわ。なんでも、お友達がよしかの詩をたどって再会できるように導くため、だそうよ? 文化人の考えることは遠回りだけど、趣があるわ。とても。とっても健気。愛おしい。…………お茶請けもどうぞ。お口に合うといいけど。はい、あーん」
…………あーん。むむ、甘あい。
「私はよしかの執念に報いてあげたいのよ。願いを叶えてあげたいの。正確にはそのお友達の願いを、ということになるのかしら? そのために、過去を探る手段を私はずっと探していたわ。その甲斐あってようやくあなたの念写を見つけられた。よしかのお友達の写真が撮れれば、それが誰かわかるかもしれない。お友達に約束を守る意志があるのか、確かめることができるかもしれない。別に今の姿だけでも十分かもしれないけど、もしかしたらもうお亡くなりになっているかもしれないし、ご存命でも昔の姿くらい知っておけば色々話が早いでしょう。だから貴女には、是非とも過去も念写してもらいたいのよ」
……話がよくわかんないし。
……できないものはできないわよ。
「できないものは……できないわよ……」
「能力の根本が違うとさっき貴女はおっしゃったけど、私の考えだと、少し違うわね。…………こちらは大陸の煙草です。試してみて?」
………………? 煙草?
………………たまにはいいかもね……。
「力の発現というものは、得てしてその過程は複合的なもの。細分化されない単一の要素だけで単一の作用を起こすことも、それによって狙った効果のみを引き起こすこともあまりに不自然。目に見えて現れなくとも、副次的な作用が同時に発生して副次的な効果が起きているはず。物が動けば勝手に空気も動くイメージね。念写もきっとそう。時間と空間は互いに密接な関係にあります。対象の撮影に空間を飛び越えているだけのはずがないのです。念写が空間に強く作用しているなら、時間も引っ張られるようにして影響が及んでいるのではないかしら。つまり、時間に影響を与えているのなら、やりようによっては時間をも飛び越えて対象の撮影をすることだってできるかもしれない。……どうかしら? 思いつきにしてはいい線いってないかしら?」
「……言ってることがムズカしいけど……そういうことじゃなくて……過去にたいするわたしのフィルターがさ……かたすぎてどうせ外れないわよ」
「フィルター? ああ、さっきの。……貴女は自分の能力に制限を掛けてるのね?」
「ええ……だってこわいんだもん……」
「……それは、そのフィルターは、自分で制限したの?」
「……じぶんで? まあ……じぶんでなんじゃない……?」
「無自覚で、ということ?」
「……そうなんじゃない?」
「外したことは?」
「……いちどだけ……でももうムリ……よけいカタくなったっぽいから、もうわたしのちからじゃあんなのはずせない」
「フィルターさえ外せれば、過去を念写できるのね?」
「……つーかどれだけかたいかあんたしらないでしょ。はずせないからできないのよ」
若干の静寂の後、笑い声が頭に響いてきた。
「なあんだあ、誤魔化しちゃって、やっぱりできるんじゃない!」
霧が、深い。
「だったら話は簡単よ? 大丈夫。私が手伝ってあげる。恐怖が忘れられないとか力が足りないだけならいくらでも方法はあるわ」
目が、霞む。
「私は壁抜けの仙人。限界、不可能、その手の言葉はいつも私を蘇らせてくれる。……心配いらないわ。私にかかれば貴女は限界を突破する(壁を抜ける)ことができるのよ」
目の前の、霍青娥の、顔が、見えない。
「そのためには、どうぞ、この丹薬をお召しになって?」
「…………はぁ」
目と鼻の先には、赤黒く照るアメ玉がつままれている。その魅力的な香りに喉が鳴る。
そして、――――――
「さあ、射命丸様……」
あいつの名前が耳をくすぐり、開きかけた口が塞がった。
風が吹いたような気がする。
「…………? 射命丸? ……わたし?」
「どうかしました?」
「……ああ、ああ…………そうだったわ。忘れてた。今は私、あいつの名前だったわ」
依然、霧は深く、目も霞む。それでも私の目には、あの憎たらしい文の顔つきだけははっきり浮かんで見えていた。そして次第に、疑問符を頭に乗せた霍青娥の顔にもピントが合ってきた。
「ふふっ、その丹薬、よく見ればなんかキモい色してるわね。やっぱ遠慮しておくわ」
「…………貴女……。――――!」
また風が吹いてきた。今度は確かに、力強く吹いている。
その風は霍青娥にとっては好ましいものではないらしく、私から視線を外すと不機嫌そうな表情を見せた。丹薬を引っ込め、風の出所を探りはじめる。
しかし霍青娥は、そして私もだが、突然の横風に叩かれて空に舞い上げられ、私はなすすべなく湖へ三度目の飛び込みを果たした。私はどこか他人事のような感覚にあり、今度はパニックを起こさなかった。息ができないことに思い至ってようやく手足を動かしはじめる。
そして荒れる水面から顔を出すと、世界が一変していた。
呼吸するだけで喉が潤いそうなほどに白一色だった濃霧が、大風に巻き上げられ、純白の上り竜と化していたのだ。
「うわーお」
見とれて緊張感の抜け落ちた声が漏れる。絶え間なくかかってくる飛沫も、見応え満点の竜巻を前にしてはまったく気にならない。
しかし、その白い竜は早くも最期を迎えた。急に身をよじりだしたかと思えば、竜巻全体が爆発するように霧散したのだ。今度は見ていられないどころか、水面上でひっくり返されてしまった。
風はすぐに落ち着き、束の間、大粒の雨に降られる。
明かりが差したと思って空を仰げば、頭上には蓋を取っ払ったように開放的な青空が爽やかに広がり、太陽がまばゆいばかりに湖を照らしていた。千切れてわずかばかりになった霧の向こうには遠くまで景色がよく見えている。青い空、白い雲、鮮やかに紅魔館、紅葉彩る妖怪の山。目が良くなったかと錯覚してしまう。
「やっと見つけた」
そして、聞き慣れた声が降ってきた。
「怪我はない? 気分は?」
差し伸べられた手を取り、引き上げてもらう。
暖かい手をした文がそこにいた。
今の竜巻は文が起こしていたのだろう。納得の出力だ。
その文が珍しく切羽詰まった表情をしている。こうまで近くで顔を合わせるのはひどく久しぶりに思えた。顔を突き合わせて言い合いをしていた日常すら懐かしく感じられてならない。
「文……」
「おっとと、ちょっと」
私の羽はいまだ飛べる状態にはなく、ひとまず両腕を文の首に、片足を文の腰に回して支えてもらった。お姫様だっこを回避し、耳元で囁く。
「気分は悪くないわ。ありがとう」
「そ、そうなの? 良かったわ」
「怪我は……羽が穴だらけだけど、すぐ塞がるってさ。ほら、見てよこれ」
「ウェッ何その羽!? 何されたの!?」
「文こそどうしたのよ。よく見れば傷だらけじゃない」
「私のことより、その羽はそこの仙人の仕業ね?」
「……ええ、その仙人の仕業よ」
私たちの視線の先には、宮古芳香を抱きかかえた霍青娥がいる。霍青娥は羽衣にくるまって湖上に浮き、ずぶ濡れの自分にかまうことなく宮古芳香を注意深く覗き込んでいた。
やがてこちらに向き直ると、不満そうに口を尖らせて文句を言いはじめる。
「なんてひどい。せっかくのお茶会が台無しよ」
「昨日の今日で天狗に喧嘩売っといてよくそんなことが言えますね」
「ねえ」
「昨日? ああ、あれは悪かったわ。あんな上まで山登りするつもりはなかったのよ」
「ああそうですかと許す気はありません。しかしここを退くと言うのなら、この場だけは見逃してあげましょう。然るべき人物に苦情がいくことに変わりはありませんが、いくらか穏便な内容になりますよ」
「ねえ、文」
「つまらないこと言わないでほしいわ。こんな形でお開きだなんていい加減私は嫌よ。帰るなら貴女ひとりで帰りなさいな」
「黙って退くか、痛い目に遭ってから退くか。選ぶのは霍青娥、あなたです」
「ねえってば!」
「……なに? 耳元で叫ばない」
「だからさっきから聞いてるじゃん。あんたなんでこんなにボロボロなのよ」
「今はそれどころじゃないでしょ」
「なによ。教えてくれたっていいじゃん」
「あなたねえ。…………んん!?」
文は私に顔を向けると、何かに気づいたようにして私に注目した。そして親指で私の下まぶたを軽く押し下げ、ぐっと顔を寄せて私の目を覗き込んできた。そして苦々しい表情になってゆく。
「えっなにっなによ」
「ちょっと。よく見ればなんて目になってるのよ。気分は悪くないって、羽よりこっちの方がよっぽど問題じゃない!」
文の言う意味はよくわからないが、目が充血でもしているのだろうか。鏡を持っていたはずだ。鞄もびっしょりだが鏡なら平気だろう。
「鏡、鏡」
「…………! おい! 霍青娥!!」
「はいはい」
「釈明があるなら今の内よ!?」
「…………そうねえ……」
「うっわ。クマできてるし」
「~~~ッッ!! 霍青娥!! どうなの!?」
「ちょっと文あんた耳元で怒鳴らないでよ。らしくないじゃない。あんたはもっと余裕綽々でいなさいよ」
いきなりどうしたのかはわからないが、キレた文とは珍しい。対する霍青娥は目を細めて静かに微笑んでみせた。
「貴女は私に謝ってほしいのかしら?」
急に寒気がした。このままでは風邪を引いてしまう。
「私はその子と撮影の交渉をしていただけよ? それにねえ、もう許したとはいえ私は嘘までつかれたのに、そちらではなく私に謝れと? いきなり出てきて無礼が過ぎるわよ。恥を知りなさい。貴女なんて眠ってるよしかにまでいきなり攻撃してきたじゃないの。私としては貴女に謝ってほしいくらいだわ」
「…………」
「…………」
「…………」
文は黙った。文の返事を待つ霍青娥も同じだ。
静かである。
「結構」
文は私を抱えなおした。
「もう話なんていいわ……。遊んであげる」
この時の文の声色には私の腹にまで響いてくるものがあった。思えばさっきから文の発している気配、これはまさか殺気ではあるまいか。
文の顔を覗こうとして、その間もなく私は文の急加速に付き合わされ、気がつけば地面に腰を下ろしていた。ここはさっきの小島だ。
「ほら、これ噛んでなさい。気付けになるから」
文は元の調子でそう言って、真っ黒い何かの干物を私の口に押し込んできた。ひどく苦いがどことなく旨味もある。文は私がそれをなんとか噛もうとしているのを確認すると、なにこれ、と私が聞く前に飛んでいってしまった。
文は葉団扇を抜き、霍青娥へ向かってゆく。霍青娥の傍らでは宮古芳香が大きく反り跳ね、額から御札を垂らし、文を迎える。文の風と、霍青娥の術が交錯する。宮古芳香が躍動し、文が縫い飛び、霍青娥が妖しくすり抜ける。
「……は?」
突然展開されはじめた三人の弾幕を前に、私は呆気にとられてただその光景を見ていることしかできなかった。
「なによ、これ。文……あいつ、なにやって……」
目が覚めるようにしてここまでの自失に気づき、現実感が戻ってくる。そして次第に焦燥感が募ってきた。
文が私を守るために霍青娥と戦っている。私は霍青娥によって前後不覚に陥るところとなり、危うく手込めにされる寸前だった。そこへ文が横槍を入れてくれた。
その認識に至るまでそれほど時間はかからなかったが、私は動けないままだった。間一髪で危険を免れることができたと自覚したことによる安堵と怯えはあった。しかしそのためだけではなかった。
文が身体を張り、私は黙って助けられている。その事実が私を打ちのめしていた。
気がつけば私は両手を握り締め、邪仙ではなく見慣れているはずの文の動きばかりを追っていた。今の私は、文がここにいる理由や三人の戦況なんかに気を回してはいなかった。昨日の朝の、私の部屋に届いていた文の新聞を思い出していた。
「なんなのよ」
新聞大会の原稿を終えてから結果発表までの間、私は止まり、文は進んでいた。今も同じだ。私がこうして座っている間にも文は飛び、戦っている。
焦りを感じているのは、この目の前の事態が、積み重なってきた文と私の格差の表れに思えてならないからだ。
乾いた笑いがこみ上げてくる。
頭の中でグルグル回っているものは差がつけられてしまう原因の話だ。今朝気がついたばかりのそれだ。遅い。間に合っていない。反省したばっかりなのに、もう十分に身に滲みたはずなのに、どうしてこうもまた反省を促されなければならないのだ。
「私は、なにやってんのよ……」
握り拳が一層固くなる。
この身を強ばらせているもの、これは怒りだ。
ムカついていた。情けない自分へ、弱さを煽ってくる現実へ、私は苛立っていた。
身から出た錆なのは重々承知、であっても責める相手が自分しかいないからこそ腹立たしい。
なぜこれほど簡単なことに気がつかなかったのか。それを思うとまたくやしい。
私は、矛盾していた。
私の根幹をなす念写の話だ。そもそもこんな状況に陥っているのも、大元の大元はこれが原因だ。
私は念写を知られたくないというのに、それでも念写を使って新聞を書くようなちぐはぐな行いをしていた。華仙に指摘されるまでなぜ不自然だと思えなかったのか、我ながら不思議でしようがない。
念写は、他人の秘密に手が届くから危険が生じやすい。そのため不用意な念写は後が恐い。それは能力の性質上当然のことであり、仕方のないことである。しかし私は、仕方がないと諦めるばかりで何もしてこなかった。仕方ないから、恐いから。それしか言わず、その危険との付き合い方をろくに考えてはこなかった。
そうして矛盾を引きずり続けてきてしまった結果がこの体たらくだ。
あんな腰の引けた不格好な体勢でこの険しい道をまともに歩める訳がなかった。
文は違う。
文ならどんな時も腰の据わった綺麗なフォームで力強く疾走してみせる。
念写のない文にだって仕事に不都合やしがらみがあるはずなのに、その姿勢には迷いがない。
いつだってひたむきで、文の視線が目標からぶれることはない。
ああも速いし、早い訳だ。
文は誰よりも早いからこそあんなに速くなったに違いない。
超高速に耐える鴉天狗の体躯は私と同種。体格も大差はない。そのはずなのに、私にはあんな動きなんてとてもできっこない。求めるレベルが私と違うのだから当然だ。矛盾をかかえ、自分で自分の足を引っ張っていた私とは大違いだ。
口にはとても出せないけど、かっこいいって、素直に思う。
思えば私はそこに憧れてきた。文のそういうところは本当に清くて正しい。
ああしていられるのは才能だろうか。それともセンスだろうか。
そんな贅沢なもの、私は持っていない。
努力してます、頑張ります、そういう姿勢は気分が乗った時しかできやしない。しかもたったのそれだけで真面目にやることやってる気分になっているから私はダメなのだ。きっと念写や矛盾がどうこうという以前の問題だ。
思い当たる節はいくらでもある。
自身の不甲斐なさを自覚していても閉塞感から抜け出せないでいた私。その息苦しさから逃れるため、ありのままの怠惰な自分自身が許されることを望んでしまう私。進歩を忘れて諦めて、どんなに負けても黙り続けてきた私。
ダメでダメでダメダメな私。
「ちがうでしょ……、私だってさあ…………!」
しかし、その私が今、この時、この場、文の姿を見て憧れると同時に、うらやましいと、妬んでいる。
置き去りにされ続ける私をいい加減許すなと、訴えている。
そうだ思い出してきた。
世間から置いていかれることに慣れきっていた私だが、それでも私は、それでも最後は思い留まってきた。やっぱり嫌だと、自分はまだ終わってなんかいないと、いつももがいてきた。
前回の新聞大会でもそうだった。諦めたくないと、私は不器用なりにも再起を目論んでいた。
昨日も、私は文の新聞を見て、くやしいと、心が叫び声を上げていた。
そして今、こんなふざけた私の現状を、私は見返してやりたいと誰にともなく憤っている。
私がどうしてももがいてしまうのは、つまり私が持っているもの、私に残っているものは、なんてことはない、ただの意地だった。
「意地……かあ。……泥臭い。なんてわがままな言葉かしら」
私は立ち上がった。
文はまだ飛んでいる。
私は文と並んでいたい。
私は文と対等な口をききたい。
私は文に遠慮したくないし、されたくない。
それならば、この場を文だけに飛ばせたままでいていいわけがない。
私は穴だらけの羽を一瞥する。口の中では干物から染み出す旨味成分が唾液にのり、たちどころにやる気を発生させている。自然と咀嚼するスピードは上がってゆき、それでももどかしくなって強引に飲み込み、ひと息つく。
さらに深呼吸をひとつ、大きく吸って、大きく吐く。
再び吸って、両手を空へ。
背は反らして伸ばし、
気合い一発、
腕を引きしぼり、腹に頭突きを叩き込むようにして活をいれた。
「ッシャアアアアッッッッッ!!! ぃいよしっ、どうよ、どうよ! ふさがって? ふさがった! ざまあみろ!!」
全身が総毛立つようだ。
かつてないほどの力強さを全身に感じる。
特に翼なんてまるで生え変わったのかと思えるほどだ。
今の私は最高に熱かった。
この瞬間、私は天才とだって張り合える。
私は文と飛ぶべく、地面を蹴った。
~ 11 ~
はたてが新聞記者になったのはいったい何年前の話だったでしょうか。私、射命丸文はとっくに記者をやっていたし、幻想郷にカメラが輸入されてからもそこそこ年月が経っていたはずです。そう、確かカメラはカメラでもポロライドカメラが出てきた時期でした。はたては、ポロライドカメラを手に入れたことがきっかけで念写に目覚めたと言っていました。
そしてその頃でしたか。珍しく、はたてからサシで飲もうと誘ってきたのです。
その日のはたては非常にご機嫌で、調子良く杯を空け続けるのもまた珍しく、印象的だったのを覚えています。理由を聞いてみたところ、待ってましたと言わんばかりに語ってくれました。
「よくぞ聞いてくれたわ!
文、私も新聞を書くことにしたの!
今日登録が済んだから私も新聞記者の仲間入りよ!」
話が前後しますけど、その日、はたてに会う前から私はその事を知っていました。はたての父が私を訪ね、娘の面倒を見てはくれないかと頭を下げられてしまっていたのです。
「射命丸殿、うちのはたてに念写能力があるのはご存知でしょうか? 実はあの子の念写には、空間どころか時間をも飛び越えられる可能性が私には見えるのです。本人はまだ気づいていないようですし私は黙っていますが、修行を積めばそれこそ過去も未来も自在に撮影できるようになることでしょう。しかしそれはとても恐ろしいことです。命を狙われる理由に足りえてしまいます。あの子は臆病ですから、念写のそういった可能性を薄々にでも理解していると思っていたのに、あろうことか、その念写を使って新聞を書くと言いはじめました。遠まわしとは言え私の説得にも聞く耳を持たず、もう家出をする勢いです。娘の願いを叶えてやりたいと思う反面、心配で心配でなりません。もはや頼みの綱は娘の友人であり、腕も立つ貴方の他にありません。どうかこれからもはたてを気にかけてやってはもらえませんか」
よっぽど断られたくなかったのでしょう。必死さを押し殺しているような形相でした。そしてその姫海棠氏は少し、やつれているようにも見えました。
「私ね、感動したの!
何がっていうのはまだ内緒なんだけど、とにかく感動したの!
それを記事にしてやるのよ!
今まで感動の押し売りをするやつの気が知れなかったけど、考え直したわ!
練習してかなきゃとても表現しきれないのはわかってるけどね、ちょうどいいわ!
なんせ他にもいっぱい! いっぱい伝えたいことがあるんだもの!
この感動を伝えられたなら!
この感動を分かち合えたなら!
そう思うと! こんなにも楽しい!
私の念写ならやれる!
念写なら他所との差別化もバッチリ!
私の新聞で最高の感動を伝えるわ!
やってやるわよ!」
結局、きっかけに何があったのかはもったいぶっていまだに教えてもらえていません。しかしいずれ新聞にするからその時に、とは言っていました。好きに寝かせておけるネタだということでしょうか。
親の気も知らずにはしゃぐはたてでしたが、その眼は希望に満ちていました。危惧される念写の影響を改めて煽ってみても、はたては諦めませんでした。
「じゃあ山に引きこもる。配達は委託にして、外に顔さえ出さなきゃ平気でしょ」
「ねえ、まさかそれ本気で言ってる?」
あまりに雑すぎる対策に呆れはしましたが、はじめから十分な策を用意できるとは思っていなかったということもあり、最終的に私ははたてのやり方を信じてみることにしました。
私が対処的に手助けしてあげるつもりでもあったし、この友人がどんな新聞を作るのか、読んでみたくなってしまったのです。念写ならば当事者しか見ることの叶わないはずの景色を写すことができる。そういう写真の載った新聞が面白くないわけがないと、私はそう直感していたのです。
そもそも危険うんぬんというものは記者という職業に元から潜んでいるもので、念写についてもその延長です。だからその根本から説得できないのなら何を言っても無駄だったでしょう。
そういう訳で、私は説得の失敗どころか後押しまでしてしまい、はたてを影から見守ることになりました。
とはいえ、はたてが発刊を重ねても不思議と何も問題が起きる気配はなく、だから私が実際にやったことといえば、はたての新聞の読者になって発行される度に顔を見に行くようにしたくらいのものでした。優しく指導するような柄ではないので、挑発したりからかったりしながら新聞の感想を述べたものだから、私ははたてからすればただの冷やかしにしか見えていなかったことでしょう。
その感想も、やきもきしてツッコミばかりだったのは事実です。念写能力持ちならではの着眼点には感心させられるものの、その記事は念写を使っている事実を隠す書き方をしているせいでいつも中途半端な仕上がりになってしまっていたのです。
おかげで私は口を開けば批判ばかりでしたね。それでも内心、友人が同じ分野で追い上げてくる姿は見ていて楽しいとも思っていました。今まで同僚とは先輩も後輩も関係なく競合するばかりでしたから、ひねた友人とはいえ後輩を育てるというのも新鮮だったのです。
ところが――――
「あの時のあれ、やっぱ難しいや……」
はたてはある日そんなことを言いだしました。
いつかの新聞大会に向けた準備も詰めに入り、印刷所ではたてと鉢合わせた時のことです。
私は疲れ果てており、待合室のソファに寝そべって両眼を水タオルで冷やしていました。はたてはそれを見て寝ていると思ったのでしょう。こっそり隣に腰掛けてきたと思いきや、小声でそう言ったのです。
「そう」
だからか、私の返事にはたてはギョッとしたようでした。黙って寝たふりをしていれば続きを聞けたのかもしれませんが、私は『あの時のあれ』という抽象極まりないニュアンスだけではたての言いたいことをおよそ察してしまっていたのです。
だから、応えずにはいられませんでした。
「あなたのとっておき。私は待ってるんだからね」
今さら能力の危険性に怖じ気づいたのか、それとも自分の新聞が売れずに思い詰めてしまったのかはわかりません。しかし、どちらだろうとそんなもの、言ってしまえばよくある話です。どちらも検討の余地が十分にあるのですから、どこにでも転がっている話だと言えます。
だから私は、はたてもきっと現実と折り合いをつけられるようになると疑いませんでした。はたては臆病だろうと意欲はある、その認識の下、私はそれから何年も何年も時間が経てば解決すると、ただ脳天気に信じていたのです。
「せっかく心配して来たというのにひどいですねえ。はたての順位は……まあ残念でしたけど、読み手に訴えかけるものは確かにあったと思いますよ?」
しかし実際、私は見て見ぬ振りをしているだけだったようです。
信じたあなたは腐ってしまっていて。いつの間にか、理由も目的も、例の感動すらも忘れたように振る舞っていて。意欲の代わりに残ったものは、熱をなくした新聞と、冷めたはたて自身だけ。それしか私の目には映らなくなってしまっていたのです。
「上から辞令が出るっていうの? 残念だけど、もしそうなら仕方がないわ。それならそれで別の仕事をするだけよ」
そんなあなたを見ていると、私の方まで惨めになってきて。
「なるほど。仕方がない、ですか」
腹立たしくて、悲しくて。
「よかったじゃない、諦める言い訳が見つかって。おめでとう、もう無理して本気の振りなんかしないで済みますね」
我慢できずに昨日の朝、発破をかけた。
「まだまだ未確定の話なんですよ! 最後まで話も聞かずに、辞令が出れば仕方がないですかっ。……あっさり言ってくれますねえ、かつてはあれほどの熱意を語ってくれたというのに……」
せめて喧嘩になれば、そう願って言葉を投げたというのに、暖簾に腕押し、糠に釘。その手応えの無さは事の終わりを私に告げているかのようでした。
いたたまれず、耐えきれず、私は逃げてしまいました。
はじめは頼まれたことだったとはいえ、はたての観察をはじめてからけっこう長いのです。無駄だと思えば適当に言い訳をこしらえればよかったのに、今日まで私はそうしませんでした。
私に見る目がなかったのでしょうか。
きっとそうなのでしょう。
いつもよくやる自問自答がいつになく私を落胆させてきます。すぐさま空を飛ぶ気にはなれず、私はアパートの屋上にある縁台に腰を降ろして横になりました。
私に見る目がなかったのでしょうか。
きっとそうなのでしょう。
同じ問いと同じ結論が何度となく頭を回り続けます。
私は両頬をパチンと叩いて身体を起こしました。
このままではいけない。今すぐ仕事に戻ろう。これ以上私は足踏みしてはいられない。私は動き続けなければならない。
そう思って欄干から身を乗り出し飛び立とうとしたところ、私は突然の事態に目を見張ることになりました。
はたてが、部屋から出てきたのです。
記者の腕章をつけ、まっすぐ山を下ってゆきました。私は欄干に身体を預けたまま、はたてが見えなくなってもその行く先を呆けて見続けていました。
「…………ふふっ……ははは、あーやれやれだわ」
やがて私は手をかけたまま欄干から降りてうなだれました。気が抜けてしまったのです。今までの悲観はどこへやら、困り顔をしようにも、どうにも頬が緩んでしまいます。周りに誰もいなくてよかったです。
何をしに行くのか知りませんが、はたてがああして出掛けてしまっては私も判断に困ります。早々に諦めるわけにはいかなくなってしまったではないですか。
私に見る目がなかったのか?
そんなことはありません。
千年かけて鍛えたこの射命丸の眼に狂いがあるはずもなかったのです。
あの姫海棠はたては本当にただ腐って終わるようなやつではないことくらい、私が一番よく知っているはずのことでした。
「またケンカの仲裁ですか? 文さんどうやら知らないみたいですけど、白狼が鴉の間に割って入るのって実はすーっごい気を遣うんですよ?」
「勘違いはいけないわ。私がお願いしたいのは見張り役。普段の仕事の延長と考えてちょうだい。はたてが今日どこで何をするのか、すべてこっそり監視して、目立ったことがあればすぐ報告しにきてほしいんですよ」
「……嫌ですよ。仕事ならまだしも私用じゃないですか。自分でやってください」
「はっはっは。では、私はこれで」
「あっ、ちょっと! 嫌ですからね! 断りましたからね!!」
はたてを自分で追跡するのも面白そうでしたが、私には配達仕事がまだありました。万が一尾行がバレても面倒です。
そこで羽の向いたのがお気に入りの白狼天狗の子のおうち。椛はとても聡い子です。私がああ言えば例え断られようとも、はたてに会えば何かしらを察して的確にフォローしてくれることでしょう。これからにとりの家へ遊びに行くと言っていたので、そちらの保険は不要になるから助かります。
私はすぐにでもはたての追跡に戻れるようにするため、さっさと残りの仕事を片付けることにしました。
まあ、おかげでその日はそのまま見失っちゃったんですけどね。アパートに張り込んでもぜんぜん帰ってこないし、その晩は間が悪く侵入者騒ぎが起こって椛も他の白狼天狗も捕まらなくなるし、翌日の今日、紅魔館に向かったと伝えられるまで要らぬ心配をしてしまいましたよ。
椛はとても聡い子です。とってもいい子で律儀で義理堅い子です。その働きに相応しいご褒美を考えなければなりません。
「イーヤッホー!!」
そうしてようやく再会できたはたては今、見るからに輝いています。力が迸っています。はじめこそちょっと薬を盛られていたりもしましたが、もう大丈夫みたいです。
私と霍青娥の間に割って入って宮古芳香を蹴落とすと、歓声をあげて青空の中へ舞い上がっていきました。そしてすぐに急降下してきたかと思えば私の隣でピタリと止まり、腕を組み、胸を張り、霍青娥に向き合います。
「お待たせ文! やってやるわよー!」
キラッキラした眼差しに吹っ切れた得意顔。早くも息がきれそうになっているのはご愛嬌。
それでももはや別人です。
いつも食べてる私のおやつ、ちょっとした滋養強壮の黒トカゲがここまで効くとは思いませんでした。しかし、それは所詮きっかけなのでしょう。
この一日半で会えなかった間にいったい何があったのか、後で是非とも聞かねばなりません。本当は今すぐにでも聞きだしてしまいたいところですが、念写の件もあります。もしかしたらそれも含めて今度こそはたてから話してくれるかも。
とにかく我慢、まだ我慢です。
「いい? はたて。本来なら私たち、昨日の件がある以上余計なことしないで退散するべきなんだろうけど、私、あいつ嫌いだわ。あんたは?」
「私もよ! マジでムカつくわ!」
「ええ、それでさ、邪仙ごときにやられっぱなしなのも癪じゃない? だから、帰るのはあいつに蹴りをぶちかましてからよ!」
「さっすが文ね! そうこなくっちゃ! ヒィハァー!!」
はたての絶叫とともに私たちは二手に別れました。
「私はただお仕事頼もうと思っただけだったのに……」
ひとり言をもらす霍青娥。
その前に立ちはだかるようにして宮古芳香が湖から飛び出しました。合わせて霍青娥も再び動きだします。
天狗の風と仙人の術が再び交錯。
霍青娥の連携の巧さは相変わらずでも、明らかにさっきよりも隙が増えています。これははたてが加わったことが大きいでしょう。はたての飛行は精細さに欠ける反面、パワフルです。奇声とも悲鳴ともつかない歓声も相まっていい攪乱になっています。ところがあまりにハイになりすぎているからか、飛び方が滅茶苦茶です。どうやら自分の速度に目が慣れていないようです。勝手に墜落するか、自分から攻撃に突っ込むか、どちらにしろ時間の問題でしょう。
しかし、その程度の不都合、今の私にかかれば何の問題もありません。
なにせはたてにつられ、この私のテンションまでもが最高潮に上がっているのです。心と翼が踊っています。楽しくてたまりません。単調だった攻めも避けも踊るように軽やかに、ダイナミックに、そしてさらにスピーディに。
作戦なんて必要ない。相手の出方も気にしない。はたてと気持ち良く飛び、気持ち良く合わせ、はたてに気持ち良くキメさせる。考えることはたったのそれだけ。
いつ以来でしょうか。
こんなに全力で、こんなに沸きたって、こんなに通じ合いながら私たちは空を翔けている。
最高のはたてと一緒に飛んでいる。
今日は、こんなにも風が気持ちいい。
楽しい。すごく、楽しいっ。
そして、宮古芳香がきりもみに宙を舞いました。
一見して、その挙動はコントロールを失っています。
「文あっ!!」
「はたてえっ!!」
そこに乗じ、私は渾身の風力で壁のような高波を起こし、霍青娥へ叩きつけます。
霍青娥は壁抜けのかんざしに手をかけており、やはり高波には丸い大穴が空けられました。
瞬間、凝縮された時間の中で、大穴を通し、私は霍青娥と対峙し目を合わせるのでした。
霍青娥の眼差しは妖しく不敵、ではなく、驚きを表しています。
その意外な反応を見た私も思考が固まりかけましたが、
すぐさま霍青娥を驚かせた理由に目が移りました。
霍青娥のわき腹に、はたての蹴りが届いていたのです。
へし折れた一本下駄の破片がスローで舞い、はたての足が食い込んでゆきます。
霍青娥の開けた穴の隣から、はたても壁を突破してみせたのです。
波は消し飛び、破裂するように水柱が立ちました。
私が水をかぶっている向こうでは、勢い余ったはたてが彼方へ吹っ飛んでいっています。しかし、ちらりと見えたはたての顔には笑顔が溢れていました。大の字になり、広げた両手でガッツポーズをしながら勢い任せになすがまま。私は本日の最高速度をもってそれを追いかけ、着水寸前で捕まえました。その際私もバランスを崩してしまったのですが、その勢いを利用してはたてを遥か上空へと放り投げ、水面を叩いて私も上昇。再び追いついた時にははたてもバランスを立て直していました。
はたてはへらへらっと満足そうに笑っています。
私もきっと同じような表情をしていることでしょう。
私たちは目線の高さが合ったところでハイタッチを交わし、妖怪の山へと一直線に飛び去るのでした。
――――……
一分近く湖は静まり返った後、滴る水音が静寂を破った。宮古芳香を抱きかかえた霍青娥が湖上に戻ってきた。
霍青娥はひと通り周囲を見渡してから空に目を留めると、ため息をつく。
「あーあ……、やられちゃったわね。逃げられちゃった。天狗の本気は侮れないわ……」
「うぐぅ……やあらーれーたー……」
すっきり晴れた昼下がり、上空には、ふたりの天狗が去り際に引いた雲が残っていた。霍青娥の頭上を真っ直ぐ走り、まるで空を割っているかのようだ。
霍青娥は視線を落とすと宮古芳香の御札をめくり上げ、その下で目を回している顔を見つめた。
「千年を待てる私が、いったい何を焦っていたのかしら……。ごめんねよしか、まずは身体をなおしましょ」
~ エピローグ ~
私の一日は、今日も布団の中からはじまる。今朝も目が覚めたので、すでに読み尽くした読みかけの本をまた読み返すつもりだ。
ただし、今日は一昨々日まで読んでいたページにしおりを差したまま、飛んで別の章の別の場面を開く。
そこではヒロインが、仲間が寝静まっている内に外へ抜け出し、ひとり考えごとをしている。ヒロインは満天の星空の下で気持ちを整理し、こっそりついてきたお節介な仲間に背中を押され、目の前の選択を決意する、そんな場面。
私は感じ入りながら本を閉じ、カーテンへ顔を向けた。カーテン越しの光量からして、こちらではとっくに日が昇っている。軋む身体を起こしてカーテンを開けたが、霞む月すらも見えはしなかった。秋の深まりつつある山の朝の空気は日向ぼっこにすら向いておらず、雰囲気が有るとはとても言えない。
ロマン不足の現実を嘆きつつ、私はよろよろと布団へ戻った。そして仕方なしに枕へ顔を落とし、どこを見るでもなく壁を見つめた。
昨日の一悶着で痛めた身体にかこつけて、私は終わりが予感されるモラトリアムを名残惜しんでいた。腰は邪仙に蹴りをかました衝撃で痛め、羽は付け根に炎症を起こしている。羽の方は邪仙に穴を空けられた後遺症ではなく無茶な飛び方をしたせいだ。おまけに今朝から全身が筋肉痛である。
おかげで今日も私は引きこもり。限界を超えた代償としては妥当なのかもしれないが、身体の衰えが目に見えて現れたと思うとけっこうへこむ。
しかも昨日は帰りがけに腰やら羽やら大げさに痛がってしまったものだから文には要らぬ世話を焼かせてしまった。昨日はうちで晩ご飯を作らせてしまったし、今日もまた来ると言っている。
有り難迷惑とは決して思ってはいないけれど、文に世話をされると思うと背中がむずかゆい。しかしまだ一昨日の口ゲンカの件も互いに触れられていないわけだから、考えようによっては私から謝るちょうどいい機会なのかもしれない。
そういうわけで、おそらくは夕方頃であろう文の来訪に備え、私は覚悟を決めている真っ最中なのである。
この際なので白状すると、私は文を相手に緊張している。なにせ今日は長年にわたる念写に関する秘密を打ち明けるつもりでいるからだ。その上さらに新たな決意を見せつけてやることにもなりそうだ。心の準備が欠かせない。
布団に寝そべる今の姿はたとえ見た目が自堕落なままであろうとも、以前とは中身がまるで違う。とても有意義で現実に向き合っていると言えるだろう。
まだ時間は十分にある。言うべきこともだいたい決まっている。話がこじれることにはなるまい。
などと余裕をこいていると、カンカンと甲高い下駄の音によって朝の調和は破られた。だんだん近づいてくるその足音は近隣の誰のものでもないとの直感に同調し、やがて私の部屋の前で止まる。
「はたてー。ただーいまー」
慌てる間もなくドアは開かれ、朗らかな声が部屋に入ってきた。チャイムもなければノックの音すらしなかった。にこやかに両手いっぱいに荷物をかかえ、早くも文がやってきてしまった。確かに来る時間を聞いてはいなかったが、まさか多忙なはずの文が朝から来るとは考えてもみなかった。
「なんでよっ、なにがただいまよっ、なんでこんな早く来るのよっ」
「今日また来るって言ったじゃない。それより具合はどう? ちょっと台所借りるわね」
「ていうかなによそんな大荷物で……」
「いいからいいから、傷病者は座ってなさい」
ずかずかと食料持参でやってきた文にすっかりペースを持っていかれ、家主の私はすごすごと台所を後にした。もう心の準備もできやしない。
とはいえ不思議と満更でもない。
仕方がないからテーブルをキレイにしておこう。座布団も出して、文にかわいい食器を用意してあげよう。
「おまたせー」
「速すぎでしょ、ぜんぜん待ってないんだけど」
「全部私んちで作ってきたからね。ここの台所に期待なんかしちゃいないわよ。あーでも皿とかはお願い」
文はいつも通りだ。流石と言うべきか、昨日はあれだけの立ち回りを見せておきながらもまるで疲れを感じさせず、隙あらば私との実力差まで見せつけてくる。ちくしょうめ。
「それでも酒はいいもの呑んでるじゃない。ここの蔵のはおいしいよね」
「あっ」
私のお酒が目敏く見つけられ、当たり前のように食卓に並べられている。さらによくよく見れば、献立が何かおかしい。肉、油っぽい野菜と魚、そして肉。
「ちょっと! これ全部つまみしかないじゃない!! どういうことよ!?」
「大丈夫大丈夫、私もお酒持ってきてるから」
「誰が酒が足りないなんて言ったのよっ、私身体壊してんのよ!?」
「そんなの飲んでりゃ治るじゃない」
「一番ダメなやつじゃない! あんたといっしょにしないでよ! それにまだ朝よ!?」
「はあ? どの口がそんな健全なこと言ってんのよ」
文が相変わらずなので私も釣られて元気になってしまう。文が煽って私が目くじらを立てる。またこの関係に戻ってきたことで、私は内心、落ち着いていた。今までだったらヒトを小馬鹿にする態度にイラついていただろうが、今日は逆に安心させられている。
でも、そんな気恥ずかしいこと、絶対言葉にしないし態度にも出してなんか絶対あげない。
「あーもー馬鹿馬鹿しい」
それにしても、真面目に考えをまとめていた私が馬鹿みたいである。私は諦めてぐい呑みを手にとり、素直に文からの酌を受けてやった。
モラル云々は割と気にするタチだし、仕事がない日でも朝からのお酒には正直抵抗がある。飲むなら早くても夕暮れからだと今でも思っている。
そういう理由で相当に久しぶりとなった朝のお酒は、こもった部屋の空気が開放されるような、そんな味がした。
そして抵抗感などはじめだけ。一度破ってしまえば美味いお酒は止まらない。今日は酔わない、調子がいい、と思ってパカパカ飲み続け、そんな感想はただの誤差でしかないと気がついた時にはもう、飲んだ量に比例する酔い方をしていた。
見ると、文もそれなりに酔っているようだ。
ケラケラ笑いながら徳利にお酒を満たしている。
言うなら今かな、まあいっか、言っちゃおう。
「ところでさー」
「ええ」
「私、決めたから」
「ん? 何を?」
こういう話こそ、ご大層なお膳立てなど必要ないのかもしれない。素直になれた時こそがきっとベストなのだ。
「私、中途半端だったから、こそこそするの、やめにする」
「それは、脱引きこもり、ってこと?」
「そっちはほっといて。……私が言ってるのは念写のことよ」
「……はい」
「……うん、今まで秘密にしてたけど…………私はねっ、過去を念写することができるの。……わかる? 過去の念写よ。時を越えるの。文ならそれがどれだけ危うい秘密かわかるでしょ?」
「その話ですか。ええ、よくわかってるつもりです。前々から聞いてましたしね」
「なら話が早――――え? 前々から??」
ちょっと待って話が変わった。
話が違ういや私の思い違いなのかどういうことだ。
「ええ、前々から。やっと話してくれたわね。告白までに時間かかりすぎじゃない? やりにくくって敵わなかったわ」
「は!? ……はあっ!? なんで!? いつから!?」
「あははっ、顔真っ赤!」
「な、なな、なによ!! 私が……! どれだけ……!!」
文は赤ら顔で私を指差し笑い転げている。
私は立ち上がり、握り拳をわななかせる。
ペースはいまだに文のもの。私の思惑は腰を折られて空回り。なんと滑稽なことか。
私は満たされたばかりの徳利を掴むと、えいやと直飲みする。
ちくしょう、ああー、ちくしょうっ、酒がうまい。
「とにかく! 私はもう下手に隠したりはしない! 健全に念写をアピールしていくわ! だから覚悟しなさいよ! 上からどう言われようと私は記者を辞めないし! 私が念写で本気出せば、あんたなんかすぐに追いついてやれるんだから!!」
「ハッハァー、対抗新聞なんて口ばかりだったくせしてなーにを今さら。辞めないと言うだけならまだしも、本気を出せばーなんて言い回し、結局できない奴の常套句なーんじゃなーいのー?」
「……上等よ、そこまで言うなら、今、見せてあげる。……検索ワードは、そうねえ……『妖怪の山』、『白狼天狗』、『霍青娥』、『侵入』!」
「あやや、何を?」
「念写するわ。フィルターを突破して、過去を念写するわ!」
「ぇえっ!? ちょっと、本気ってのはそっちのこと?」
「もちろん。一昨日邪仙が侵入してきた事件を私の新聞で書いてやるのよ。内情は私たちが一番詳しいし、他の記者は現場の写真もまともに撮れてないでしょ。独占スクープよ。邪仙には確かもう念写のことバラしちゃってるから秘密にしておくメリットは消えたようなものだし、こうなったら開き直ってやる」
「あなたまたそんな酔った勢いなんかで行動しちゃ――――」
「いいえ違うわ。違うのよ。ただの思いつきなんかじゃない。これは私の覚悟の問題なのよ。今度こそ腹を決めるには、これくらいしなきゃいけないの」
「はたて……」
「それでさ、皮肉でも構わないから、次も新聞の感想、また聞かせてよ」
いける。このテンションなら念写自重フィルターを突破できる。
今から行う念写は反撃の狼煙だ。直近では邪仙に対して。そして、これを皮切りにした文と新聞大会への再挑戦なのだ。
このボタンを押せば念写が始まり、追随して義務が発生することになる。間違いなく忙しくなるだろう。――――ああ、しまった。これはいけない。不安が頭に流れてきた――――。いつも通り記事を書くだけではもう済まない。新聞会への信用も取り戻さなければならない。引きこもってばかりもいられない。クレーム対策も本腰入れて考える必要がある。
考えるだけで息切れしそうになってきた。自分の変化に自分がついていける自信がない。
後戻りはできないししないと決めたのに、早速気後れしてしまっている。決意を口にしているそばからこの通り、内心では現実逃避の大合唱だ。決意や覚悟とか、そういった真っ直ぐな言葉はやっぱり私とは反りが合わないのか――――。
♪~
それでもこうしてケータイからシャッター音を鳴らすことができたのは、他の誰でもない、あなたがここにいてくれたからだ。私に足りない勇気は文のところにあった。
安堵のような、諦めのような、この不思議な脱力感は、悪い気分ではない。
目が眩み、すうっと意識が遠くなる。こめかみを打って少し覚醒。酒瓶の倒れまくる音と、文の声がたぶん聞こえた。私は倒れたみたいだ。念写に体力を持っていかれたとすると、封印してきた過去への念写はどうやら成功するらしい。
我ながら呆れてしまう。
私が最後まで躊躇していたのは、あれほど恐れていた念写による弊害を思ってのことではなかった。身の危険よりも面倒事の方が嫌だなんて現実が見えていない証拠だ。諸々の恐怖はいずれまた募ってくるだろうから後悔するに決まっている。もうすでに目先のことから不安だらけだし、自信もない。そして、これで私は救われる、とは限らない。
だけど、
だけど、変わりたいと願い行動した私は確かにここにいる。文に食い下がった私がここにいる。今日の私は変化に向かって生きている。
およそ私らしくもない行いに期待を寄せてしまう私は何だか私らしい。
停滞していた私と埃っぽいこの部屋が再び動き出そうとしている。日陰で安穏としているだけだった生活はとりあえず移ろいじゃったわけだし、生活に安定感を取り戻さなきゃだし。この際だ。どうせここは毎日帰ってくる部屋なのだから、やはりこう、充実感とか達成感とか、そういういい感じの雰囲気であることに越したことはないし、そういう方向に回っていてほしい。寂しいなんて以ての外よ。
そのためならば文に頭を下げるのも吝かじゃあない。椛とまた甘いものを一緒に食べて、その辺の愚痴に付き合ってもらおう。にとりとももっともっとカメラとフィルターの仕様の話をしなきゃだし、でも念写の秘密を伝えたら危険に巻き込むことにならないかな。それでもぜったい必要だ。きゅうりをたらふく奢ってあげよう。
私が自己主張すると、多かれ少なかれ周りに負担を強いることになっちゃうけど、まあそれは、そういうもんか。仕方がない。私もみんなの負担を背負うんだ。
そんな感じでやることやって、あとは祈るとしましょうか。
願わくは、私の居場所が仲間とともにありますように。
―――…………
「時間を隔てた念写かあ。倒れるほど消耗するってのは知らなかったわ」
「あーそーなの。回復したらとりあえず一発ビンタね」
「それよりもさ、いつだか言ってたあの時のあれ、例のとっておきがついに拝めると思っていいのかしら?」
「あー……あれね、やっぱ無理。お蔵入りよ」
「なんでよ。まだ何かあるの?」
「…………検索ワード、『私』、『新聞記者』、『きっかけ』、それと……『-文』」
「え、ちょっと大丈夫なの!?」
「へーきへーき。……ほら、見てこれ」
「? ……えーと? 『該当する写真の候補は存在しません。』……どういうこと?」
「そういうこと。これ以上は血管切れて死ぬ。聞かないで」
私の一日は布団の中からはじまる。普通なら誰だって目が覚めるのは布団、あるいはベッドの中だから、当然といえば当然である。それでもなぜあえてそう表現するのかというと、私は目が覚めたくらいではだいたい布団から出ないからだ。
今朝は、百回は読み返したのではないかというほどお気に入りの大長編小説を久しぶりに一から読み返している真っ最中である。昨日は日の高い内から時間も日付も忘れて没頭していた。今日も目が覚めたので続きを寝ながら読むのだ。
今読んでいるこのシリーズは、異国の少年少女たちが仲間となり共通の目的とそれぞれの願いを叶えるべく冒険をするという、ありきたりだが夢のあるお話だ。
今の場面は、長らくいがみ合いをしていた主人公とライバルがついに激突し、認め合い、曲がりなりにも仲間になる青春の一幕。
「いいなあ……いいなあ…………」
何度読んでもいい。
私を幸せにしてくれる。
私に力を与えてくれる。
読み返すのが何度目だろうとも、鬱屈としたこの現実から何度でも救い出してくれる書物は何ものにも代え難い。
そして文章を扱う仕事柄、読書は勉強でもある。文章をアウトプットするためにはまずインプットが欠かせないことはもはや常識。私のような新聞記者でも同様だ。ただ本来ならもっと広くジャンルをまたいで多くの本を読むべきではあるのだが、このシリーズは何度読んでも勉強になる名著なので良しとしよう。
時間はいくらでもある。
この本を再び読み切った暁には、きっとまた違った私が――――
―――――――ピッピッピッピッピッピッピッピッピッ
突如として私の相棒と呼ぶべきケータイによって、私は夢から現実へ引き戻された。私は本を枕元へひとまず置き、慌てて音源へと手を伸ばす。身を乗り出す際、積んでおいた本の山を崩してしまった。
起きる時間を決めない私は普段なら目覚ましを用意しない。だから理由があってわざわざ設定したはずなのに、夢に浸っていた頭ではこれが何のためのアラームだったのか、思い出すことができないでいた。
布団からずり落ちそうになりながらやっとケータイをとる。画面上にはアラームのメモが表示されており、そこにはたった一言、『大会』とだけ書かれていた。
「……ああ、今日だっけ」
私は枕へ顔をうずめ、何も考えずに時間を経過させる。そして、スヌーズで再び鳴った瞬間に止め、身体を起こした。まずはシャワーでも浴びよう。
今日は午後から我らが天狗の里の定例新聞大会の結果発表が行われる。
あわよくば、なんて期待はしていないけれど、せっかく参加したのだし少しは顔も出さなければなるまい。
――――……
「……………………ハア」
そして、結果発表を聞き終えた。
押し殺せず、溜め息が漏れた。
アナウンスされなかったし、掲示板にも上から下まで『姫海棠はたて』と『花果子念報』の文字は見られなかった。私の新聞は、今回も日の目を見ることは叶わなかった。
予想通りの結果が出ただけなのに、表彰される同僚の姿が直視できないし、周りに合わせて送った拍手にもまるで気持ちが入らなかった。
「…………さてと」
右を見て、左を見る。
閉会の挨拶も終わり、天狗たちは各々に動き出していた。私を探す者の姿はない。その私以外の全員がグループを形成しているように見える。単独で動いている者も、グループになる当てがあってそう動いているようにしか見えない。
これだけの数がいるのに、次の予定もなければ言葉を交わす相手すらもいない者は、どうやら私だけしかいないらしい。
次の役目へ向かう者たちに私も混ざり、その場でおしゃべりする者たちをかきわけ出口へ進んでゆく。この後は例によって打ち上げが予定されているのだが、私は構わず帰るつもりだ。
「……あ、椛……」
伏し目がちに人混みを抜けていると、茶飲み友達の白狼天狗を見つけることができた。しかし、その娘は他の白狼天狗と会場の出口で打ち合わせをしているところである。きっと今回の宴会当番なのだろう。通り過ぎ様、それっぽい単語が早口で聞こえてくる。忙しそうに話し込んでいるため挨拶は遠慮して、気付いていない振りをして通り過ぎた。
誰の目にも留まることなく外へ出ると、もう日が暮れはじめていた。雲は少なく、月はない。今夜は星が綺麗だろう。
「まあいいや」
澄まし顔で羽を広げる。一刻も早く、安息の地へ、自分の城へ、早く帰ろう。
里をあげての行事がある日であろうとも、妖怪の山はいつだって秩序が堅く守られている。おかげで今日も山は平和であり、事も無く、私はマンションの自室へと到着してしまった。
今日も私は何の収穫もなく、何の進歩もなくこの部屋へと戻ってきてしまった。
この部屋が停滞をはじめたのはいつからだろうか。空気がこもっている。明かりをつけると内装がつまらなそうに照らし出された。慣れ親しんだお気に入りのはずの家具たちが無感動で素っ気なく見えてしまう。
憮然とした顔でさっさと脱衣所へと向かった。そして浴室。軽く眼を閉じて顔に直接シャワーをかける。上を向いて棒立ちのまま、じっと黙ってかけ続ける。目を開けて、痛くてすぐにまた閉じた。馬鹿らしくなって早々に切り上げる。
タオルを頭に巻き、キャミソールと短パンだけの格好で部屋へ戻る。その際台所から、漬け物の盛り合わせと少し奮発して手に入れた日本酒も持ってきた。真顔で鼻歌を口ずさみつつ作業机から原稿用紙やらペンやらインクやらをどけ、そこへひとり呑みセットを置く。
新聞のことなど今は考えたくもないが、それでもベッド以外で一番落ち着くのはこの作業机の前。大して広くもないこの部屋では大抵ここが定位置である。ひとりで宅飲みをするときもそうだ。
座椅子を机に対して横に向きを変え、背もたれを深くなりすぎないように傾ける。ギィッと音を鳴らして身体を預け、静かに息を吸い、そして深く息を吐く。ようやく落ち着ける。
一息ついたところで早速酒瓶の封を切り、徳利に注いだ。トクトクと小気味よい音に耳を傾け、ぐい呑みに移し、まずひと口あおる。
「うん、おいしー」
漬け物もつまむ。
「うんうん」
また徳利から酒を注ぎ、香りを楽しみ、のんびりと、またあおる。
「うーん、いいー……」
ひとり言と一緒に長く息を吐いた。座椅子に身体が沈んでゆく。呼吸は静かに、そして深くなる。このまま眠りにつくのも悪くはないが、この心地良さはもったいない。
視線を机の棚へ向けた。原稿の束をしばらく無心で見つめる。
「……よし」
お酒のおかげで気が変わった。新聞のことを考えよう。
もう一度ぐい呑みをあおり、前向きに新聞大会の反省ができそうなことを確認する。
「(けっこーよく書けたと思ったんだけどなー)」
したためしたため何度も見直した原稿の手応えを思い出し、心の中でボヤく。
私の新聞、『花果子念報』の記事は私が念写した写真をもとにして構成されている。
念写とは、カメラを用いて行使する千里眼にも似た神通力である。ベッドの中にいながらにして現場を撮影できる便利な力だが、取り扱いには気を抜けない。なにせ念写という能力の性質上、盗撮を疑われる恐れがあるからだ。恨みを買うような真似をする気がなくとも、新聞記者が念写を使うと知られるだけで要らぬ誤解を生んでしまうだろう。
そのため私の念写は秘密の特技、ということにしている。人前で披露することはないし、誰かに話すこともない。ただ、能力に気づいた当初はそういった危険性にまで頭が回らず、身近な者には念写のことを教えてしまっていた。里の外にまでは漏れていないとは思うが、これ以上念写が知れ渡ることは避けなければならない。
そうすると記事に使う写真だけでなく本文にも細心の注意が必要になる。他人の秘密に触れないようにする配慮が欠かせない訳だ。おかげで文章には不自由してばかりで切れ味なんてあったものではない。新聞を書くにあたり、いまいち踏み込んだ内容を書けないのはハンデが厳しい。安全策として他人の写真を焼き直して使用することもあるが、それだと今度は盗用疑惑の回避に気を回す羽目になる。しかも新聞なのに二番煎じが確定し、速報性を失ってしまう。良いことがない。
しかし、今回の大会では違ったはずだった。ハンデを覆すべく、私の名を知らしめるべく、気合いの入った新聞を作ることができたはずだった。
新鮮かつ安全に扱えるネタを見つけてきた。さらに神を宿らせる勢いで細部まで記事を推敲した。久しくなかった手応えをもって送り出し、そして、結果はいつも通りの選外である。
あっさりしている。まったくもってやってられない。
「…………ん?」
原稿に手を伸ばそうとして、ふと、遠くから笛や手拍子、かけ声がかすかに聞こえてくることに気がついた。この音は、明らかに大会の打ち上げが盛り上がっている音だ。涼しげな秋口の風が祭囃を乗せ、気をそそらせようとしてくる。対してこの部屋からはポリポリと漬け物を食べる音と手酌をする音しか聞こえない。
「(こんなことだからウケる記事が書けないのかな)」
打ち上げの様子を念写しようとケータイを手にとり、少し逡巡して、何もしないまま机の上に置いた。
「(何やってんだろ)」
呑みはじめのいい気分はどこへやら。自己嫌悪が重くのしかかる。
「何やってんだろ」
口にも出した。
祭りをいち早く抜け出してひとり宅飲みをするような自分。そんな自分の発行する新聞が祭りを楽しむ連中に認められない、といういつもの愚痴。認められない理由は内容の良し悪し以外にもきっとあるのだろう。
今まで念写でトラブルを起こしたことがないのは、配慮を積み重ねてきた成果でも幸運だったからでもなく、私の新聞が認知されていないからではないだろうか。
「(なんでこんなに割の合わないことしてるんだろ)」
新聞作りは仕事とは少し違うのだが、記者に志願すると本来の鴉天狗としての仕事がいくつか免除される。その割に大した審査があるわけでもなく、それに甘えて長々と続けてきてしまった。
久しぶりに、自分の立場が心配になる。そしてさらに久しぶりに、そもそもの話に頭が回った。
「(そもそも、なんで私は新聞作ってるんだっけ?)」
記者をはじめたのはいつ頃だったか、もう覚えていない。しかしそれ以前にやっていた仕事も別に嫌いではなかったと思う。でも何か、記者になるきっかけがあったはずだ。そんな気がする。
「(理由、かあ。なんだっけ……。文……だっけ?)」
頭をゆらゆら左右へかしげるように振りながら、遠い記憶を探ってみる。そして馴染みの顔が、皮肉を言ってくる時のあのイヤミな顔が思い浮かび、頭の振りが止まった。あいつが関係しているとは思うが肝心なところが思い出せない。
そういえば初めて自身の念写に気づいた頃、口を滑らせたのはあいつが一番目くらいだっただろうか。
私は座椅子にもたれたまま腕だけ動かして酒を満たし、ケータイに手を伸ばす。カメラを起動させ、念写のための検索ワードを考える。
「(さて、どうしよ。念写できるものなんてあるかしら)」
酒に口をつけつつ頭を捻る。
「(理由……理由……。文はなんでああも元気に続いてるのかな。あいつが新聞書いてる理由、ちゃんと聞いたことあったっけ?)」
記憶の中で、あのイヤミな顔とまた目が合った。優越した笑みを向けられ、たまらず途中だったぐい呑みをあおりきる。すぐに注ぎ足しさらにあおる。
「(あいつはどうでもいい! 他よ! 他っ! …………他? そうだ!)」
名案を閃いてしまった。大丈夫、まだ私は酔ってなんかいない。
幻想郷の住人は妖怪だろうとすべてが遊び呆けてばかりではなく、文のように使命に燃える者だって確かにいる。そしてそれにはそれなりの理由がきっとあるはず。私の新聞作りの理由は置いておき、似たような頑張る理由を持つ輩を探せば、自分の理由も思い出せるかもしれないし、いいネタ探しにもなるだろう。
こういう時は真っ先に他人に頼ろうとする姿勢はいかがなものか。そんなこともちらりと頭をよぎったが棚に上げる。
「(人の振り見て我が振り直せよっ)」
意味が違うような気がしたが、これもまた棚に放り上げ、念写を準備する。
検索ワード『継続 理由』
まだシャッターは切らない。さらに絞り込む必要がある。
「(うーん、『趣味』? ……言葉が軽いかな。『道』だとちょっと哲学チックかしら。まあいいか。あとは、こう……無理しなくてよさそうなことに意地張って、命懸けで、情熱的な……『そんな感じ』…………あ、そうそう、『-文』。こんなものね)」
検索ワード『継続 理由 趣味or道 【そんな感じ】 -文』
ケータイに念力を込め、シャッターを切り、念写を行う。検索ワードを文字通り念頭に置くことで、そのイメージに沿った画を世界から探し出すのだ。
「さてさて……」
ケータイの画面に次々と写真の画像がサムネイルで表示されてゆく。今回はあえて曖昧さを残したまま検索をしたため、特に関係の無さそうな画像も多く紛れているようだ。しかしそのあたりは慣れたもの。静かにテンション上げながら画像をサラサラ流してはクイクイと酒をあおり、めぼしい写真、人物を探してゆく。
「(……お、なるほどなるほど)」
「(……はいはい、確かにそんな感じね)」
「(……うーん、名前が思い出せないわ。後回しっ)」
「(…………あれれ、)」
当たりをつけていると、思わずスクロールする指が止まった。
「(意外な顔。よく知らないけど、確か最近顔出した仙人よね。要注意人物だって御触れが出てたっけ……。そんなに精力的な人なの?)」
結い上げた青い髪にかんざしを通し、物憂げに遠くを眺めてくつろぐ仙人、霍青娥の姿が画面に表示されていた。画像の場所は、彼女が懇意にしているという仙人たちの道場だろうか。一時期ちょっとした噂にもなったお供のキョンシーが見切れているが、どうやら膝枕をされているようだ。
「(……どうしよ。これってインタビューに行く流れだけど、なんか怖くなってきた。記事にするわけでもないのに……。ま、邪仙は置いといて、話しやすそうなのだけ選べばいいか。大会も終わったばっかりだし、少しくらい、たまにはモラトリアムにでも浸かりましょうか)」
徳利の中もちょうど空になった。
ケータイを充電機に差し、台所へひとり呑みセットを片付けてからふらつく足で洗面所へと向かう。
「モラモラ、トリトリ、アムアム…………もう寝よ」
さっさと歯を磨き終え、すぐにベッドに入った。盛り上がるままに方針だけを決めて、具体的に明日からどう動くのか、そんなことは考えないまま眠りにつく。何時に起きるかも決めていない。
「(……あ、これって……お酒のテンションで……終わりそうな…………グウ……――――)」
――――……
「どうしたにゃんにゃーん? 目が怖いぞー。敵かー?」
「あら芳香ちゃん、起きちゃった?」
はたてが晩酌を切り上げた頃、静謐なる神霊廟にて星空を見上げていた霍青娥へ、宮古芳香が声をかけた。声量が抑えられておらず、青娥は少し驚いたようにして膝元に顔を向ける。
「なんでもないわ。ただちょっとね、こんな時間に私を覗き見ようとするのって、どういう了見かしらね。夜這いでもしようっていうのかしら?」
「よばいー? ぶれーものかー!?」
「ふふふ、そうね。でも今日は平気だから、芳香はいい子におねんねしましょうねー」
つり上げた口角からよだれを垂らしはじめた芳香の口を拭き、青娥は芳香を優しく寝かしつける。
「ウーッ……」
「(誰だか知らないけど、敵意があるような感じはしなかったわね。でも不用心な割にほんの一瞬だったのが気になるわ。今の感じ、千里眼じゃ……ない? その類いの術? ……誰が、というよりも、どうやって覗いてきたのか、突き止められないかしら)」
邪仙の興味は静かに進む。
天狗はすでに夢の中、平和ボケして静かに眠る。
~ 2 ~
夜が明けて、次第に気温が上がりはじめた頃、私はようやく目を覚ました。目をしぱしぱ瞬き、本を読む予定を先送りして厠へのっそりと足を運ぶ。あくびをしながら戻ってくると、おもむろにケータイを充電機から抜く。
「あー……」
整理していない昨日念写した画像を見て、やっと昨日のお酒を思い出した。
「うーわー……」
座椅子にもたれ、天井を仰ぐ。
頭を反らして時計を見ると九時を過ぎていた。もう天狗の里どころか幻想郷全体がとっくに動きだしている時間だ。ところが私は二度寝の体勢に入ろうとしていた。
二日酔いにはなっていないし、さして低血圧というわけでもない。ただ現実逃避をしたくなっただけである。昨日撮った念写の内容を思い返した途端、怖じ気づいてしまったのだ。
「もう……なによーこの酔っ払い………。ああいう念写はまずいでしょーよー……」
念写に関する倫理。普段の私はそんなものを割と真面目に考えている。「姫海棠さんって真面目よねー」とお互いよく知りもしない相手にそう言われればイラッとくるが、このことに限ってなら私は真摯だと胸を張れるだろう。
記者という仕事は他人の秘密に喜んで反応してしまうものだから、記者を名乗って煙たがられることは珍しいことではない。しかも、念写というものは安全圏から一方的に情報を押さえることができてしまう。つまり念写能力者がジャーナリストをしているとなれば、さらに煙たがる者が出てくるだろう。
私はそれも仕事と割り切って身を守るため、一線を引いてきた。自分がされたくないことはしない、見られたくないものは見ない――――なんていう旧くからの教訓、そして身近にいるパパラッチを反面教師に見立てた常からの戒めをこの身に染み渡らせてきた。その謙虚さが私の自然な姿であり、ささやかな自負でもあった。
そのはずだった。
そう油断していた結果が昨日の不用意な念写である。昨日の念写は他人の秘密に踏み込み過ぎてしまっていた可能性がある。万が一バレてしまった場合抗議がくるかもしれない。酔っ払っていたからという言い訳は非常に苦しい。
「(大丈夫、まだこれは事故じゃない、まだ事故ったわけじゃない)」
危険な技術を安全に扱えていた、長年培ってきたそのささやかな自信が揺らいでいた。しかし、今すぐ事態が動くようなことでもない。これ以上ミスらなければ荒立つことにもならないだろう。
そうは思っても内心ざわつきは止まらない。グルグルと同じ思考が頭を回る。
こういう時こそ現実逃避。寝るに限る。一端思考をリセットするのだ。
私は腕を伸ばして掛け布団をつかみ寄せた。座椅子にもたれたままいよいよ二度寝に入る、つもりだったのだが、唐突な訪問者のノックにより、私の眠気は根こそぎ刈り取られてしまった。
「はったてー。はーたーてー。いますねー」
聞き慣れた声が私を呼ぶ。
「………………(なんだ、あいつか)」
ノックの正体に安堵しながらも、私は反射的に居留守を決め込もうとしたのだが、
「はたて宛の荷物を預かってきてますよー。大きさの割に軽いですねー。何なんですかねーこれー」
「!? ちょっと! ……ああもうっ」
つい、声を出してしまった。観念して重い腰を上げる。
注文していた配達があるのを忘れていた。やましい品ではなくともこの声の主に自分の趣味の一端を覗かれるのは気分が良くない。
部屋着の裾を直し、髪を撫でつつドアを開ける。
「……なによ」
「おはようございます、はたて。……ふふっ、駄目じゃないですか、無断で打ち上げバックれるなんて」
射命丸文、やはりこいつだ。明らかに私の寝ぼけた格好を見て鼻で笑いやがった。
いつの頃からか、文は私が新聞を発行する度にこうして私の顔を見に来るようになっていた。理由は知らないが、うっとうしくもあり、まあ、うれしくもありなんてこともたまには思ったり。
ただ今日はいつもと違い、文は私宛だという荷物を抱えている。
とりあえず、気分のままにむかついてみることにした。
「……なんなのよ! なんであんたがここにいんのよ!? なんで私の荷物をあんたが持ってんのよ!?」
当然文には効果がない。いつものように楽しそうにいやらしく笑っている。
「せっかく心配して来たというのにひどいですねえ。はたての順位は……まあ残念でしたけど、読み手に訴えかけるものは確かにあったと思いますよ?」
「…………」
「…………。それにほら、大会の参加賞だってまだもらってないでしょう」
皮肉もそこそこに、文は粗品の入った小箱を自分の鞄から取り出した。そして大きい方の箱と一緒に部屋の中へ入れ込もうとする。
「ちょっと、ここまででいいわよ」
「遠慮することないですよ。せっかく久しぶりの配達仕事なんですから」
「いいってのっ、部屋汚いから誰も上げたくないのっ」
ゴミ屋敷にしてはいないはずだが、何の前触れもなしに自分の聖域へ誰かを踏み込ませるのは我慢ならない。別に文に限った話ではなく、私の親であろうともだ。父さん母さんに子離れしてもらうのには苦労したものだった。
「わかりましたわかりました。サインを頂いたら退散しましょう。……ときにはたて」
「……何?」
「もしかして、また引きこもるつもり?」
ひったくった受領書に手早くサインをしていると、文が面倒くさい話題を振ってきた。答える気にもならない。
「…………」
「…………そうですか。先ほども言いましたが、私はこれでもあなたを心配して来たんですよ? いくら根暗なあなたとはいえ、ここのところ新聞会の付き合いを拒否りすぎです。いくら個人主義だろうと会員として横の繋がりも考えるべきです」
「……そんなことを言うために荷物運びを買ってまでしてここに来たの? 余計なお世話よ」
「新聞会の頭連中まであなたを心配してましたよ? 大会で惨敗した挙げ句、お偉方との付き合いまで放棄して帰るなんて、家出娘から成長が見られない、だそうです」
「皮肉まで言付かってきたってわけ?」
「あややや違いますよ。ただですね、次の新聞の予定を聞いてこいとは言われてます。まあこんな質問に大して意味はないんですけどね……。で、その辺はいかがです?」
文は何でもない風を装って聞いてきたが、目が笑っていない、ように見える、かも知れない。とはいえそんなことはどうでもいい。うざったいだけだ。
「いつものペースで書くわ。今回ので疲れてるから今日くらい休ませてよ」
「…………」
受領書を押し付け、受け取った荷物を奥へ運ぶ。
文は玄関先で立ったままだ。まだ帰らない気なのか。
「はたて」
「なにー」
「近い内、というわけではなさそうですが、今後のあなたの新聞の成果次第では、あなたに監査が来るかもしれません」
「……監査? そんなのあるの? 聞いたことないわ」
「私も昨晩初めて聞きました。……知っての通り、天狗の里は新聞会には寛容です。しかしそれは実益だけでなく、新聞会の意気込みと努力があってのこと。……昨日の打ち上げでですね、この仕事は天狗全体の趣味みたいなものとはいえ、今のあなたは果たして新聞会に相応しいのか、そんな話が出てしまいましたよ。はたての――――」
「だったら何よ。いずれ上から辞令が出るっていうの? 残念だけど、もしそうなら仕方がないわ。それならそれで別の仕事をするだけよ」
「…………」
話がどんどん面倒な方向に進んでしまう。
文の言う通り、私の新聞はなかなか成果が奮わない。しかし奮わないなりにそこそこやってこれているのだから放っておいてほしいところだ。
少し腹が立ってきたので文を外へ押し出すつもりで玄関へ戻る。ところが文はなぜだかいつになく険しい気配でたたずんでおり、怖気ついた私の足は文の手前で台所へ曲がってしまった。手持ち無沙汰になったが、幸いすぐに洗い物の残りが目に止まった。丁寧に洗って時間を稼ぎ、沈黙する文を見ないようにしてやり過ごす。
「なるほど。仕方がない、ですか」
文は思ったより早く話しはじめてくれた。スポンジを動かす手を止める。
「この世界、きりがないほどありますものねえ、仕方のないこと。上の命令なんてその最たるものでしょう」
また雰囲気が変わった。
何の気なしに振り向いた途端、冷や水を浴びせられたように肝が震えた。
私を見据える文の目はくり抜かれたように大きく丸く、そして怒りの色を湛えていた。
「…………な、何よ……」
「よかったじゃない、諦める言い訳が見つかって。おめでとう、もう無理して本気の振りなんかしないで済みますね」
「……えっ……何を言って…………」
突然向けられた怒りと非難に私は動揺した。こんな文の表情は見たことがない。言葉の意味はともかくとして、これはもう文は本気で怒っているとしか思えない。
「はたてに対する上の心証はよろしくない。新聞の発行ペースと日頃の態度、その積み重ねが悪目立ちしてしまっている。とはいえ、あなたの進退の話はまだ酒の席でやっと出たくらいです。公式の場で取り上げられるかはまだわかりません」
「……だ、だから、さっきから何なのよ!? そもそもそんなに――――」
「そういうまだまだ未確定の話なんですよ! 最後まで話も聞かずにっ、辞令が出るなら仕方がないですかっ。……あっさり言ってくれますねえ、かつてはあれほどの熱意を語ってくれたというのに……」
「…………え?」
「そうですかそうですか。ああ馬鹿馬鹿しい」
いつの間にか文の表情からは怒りが消え、今は情けなさそうに口を曲げていた。
こんな文は見たことも聞いたこともない。文に失言をしたことは明らかだが、こうまで感情的にさせるほどのことを言った覚えはまるでなく、だから、私は文の怒りに戸惑って固まったまま、黙っていることしかできなかった。
しばらくの沈黙の後、やがて文は目を伏せ、うつむきながら静かに歯を軋ませた。そしてきびすを返し、ドアに手をかける。
「あ……文?」
「……なんですか? これ以上は話になりませんよ、私の方が。……頭を冷やしたいのでもう行きます」
「あ……」
文は振り返ることなく外へ出てゆき、後ろ手にドアは閉められた。私はドアにすら届かなかった手を下ろし、玄関に腰を落とす。
「……なんなのよ」
自分が望んだ通りにやっと文が帰ったというのに、どうにもバツが悪い。
文をぞんざいに扱っておきながら逆に責められた途端、私は萎縮してしまった。文がせっかく気になることを言っていたのに、文を怒らせたことに動揺して反応することができなかった。
――――かつてはあれほどの熱意を語ってくれたというのに――――
「文は……、まさか、私が新聞を書きはじめた理由、知ってる……?」
だとしたら、文を怒らせたのは、私自身がその熱意とやらをすっかり忘れてしまっているからなのか。
「やっぱり理由、ちゃんとあったんだ……。でもあの様子じゃ文は教えてくれなさそう……。でも、気になる、思い出したい」
のそのそと部屋へ戻り、ケータイを開く。
「自分でなんとか思い出すしか、ないかな……」
意を決し、昨日念写した写真を閲覧する。奇しくもこれらの写真はその忘れている理由を思い出すために撮っていた写真だ。この中の写真が、もしかしたらヒントになるかもしれない。せっかく危険を侵してしまったのだ。毒を食らわば皿までだ。
時計を見ればまだ九時半を過ぎたばかり。日が登り切るにはまだまだ時間がある。まだ少し出遅れただけ。一日はこれからだ。
「モラトリアム、するんだったわね……。私は…………」
おもむろに腰を上げ、クローゼットを開ける。服を着替えて鏡に向かい、髪を結う。鞄と腕章を手に取り頭襟をかぶる。ケータイの電池残量をチラ見して、腰のポーチに差し入れる。
「…………うん」
準備は終えた。それなのに、玄関で足が止まった。この期に及んで玄関のドアに手がかからない。
それは文を怒らせたショックが抜けていないからか。今日これからの行動に不安があるからか。昨日の念写が気がかりだからか――――。
やっぱりキャンセルしたくなる言い訳が次々と湧いて出てくる。私の逃避癖が言葉巧みに攻め立ててくる。
「…………あれ?」
ふと、ドアについている郵便受けに、何かが届いていることに気がついた。開けると、そこには新聞が一部入っていた。見慣れたタイトル、見慣れた発行者、日付は今日。
『文々。新聞』、『射命丸文』
新聞大会の分の発行は、文も私も先週だった。あれから私はまだ取材すらしていない。文は先取りしていたのか、すぐに次へ取りかかったのかはわからない。
しかしそのどちらだとしても、関係ない。私はどちらもしていない。そして今ここに文の現物が届いている。
また差をつけられた、そう感じている私が忘れていたものは、熱意だけではなかった。
文の、悲しそうな顔が思い出される。
「行かなきゃ……!」
思わず握り潰していた文の新聞を乱暴に置き、私はドアノブに手をかけた。
開かれた扉の外は、曇り空。
「これなら雨は……降られないわね」
それでも悲観することなく空へ駆る。今回は久しぶりのインタビュー。まずは肩慣らしになりそうな相手を求め、私は山を下る。
~ 3 ~
飛び出した勢いも虚しく、私は力なくのんびりと空を飛んでいた。山の麓まで下ってきたところで早くも腹の虫が鳴りはじめたのだ。勢い任せに部屋を出るまではよかったものの、朝食を抜いてしまい、昼食の当てもない。昨晩は酒のつまみの漬け物しか口にしていない。
羽ばたくのも億劫ならば、滑空するのも姿勢の維持すらしんどかった。楽な飛び方を探り探りしながら決めたばかりの目的地を目指す。
まずは霧の湖。もうすぐ到着だ。
「……あ、川だ」
湖へ繋がる支流を見つけると、少し考えてから高度を下げた。森へ入り、適当に薪になる枝を集める。そして薪を片腕に抱えて川の上に出ると、タイミングを見計らい、枝で作った銛を川へ突き立てた。
「意外にやればできるものね」
裂いて尖らせただけの枝先で魚が暴れていた。
顔を上げれば、湖はすぐそこである。雲は高く霧は出ていない。湖畔まで来ると展望の良い場所を探し、乾いた岩肌を見つけて着地した。
「久しぶりよねえ、こういうの」
薪を並べながら独り言をもらす。
久しぶりの山の外、そしてここは湖の向こうに紅魔館を望むなかなかのロケーション。太陽が雲に隠れてはいるが、気分はいつの間にかピクニックになっていた。
マッチを取り出し、枯れ葉のついた枝に火をつける。焚き付けも追加しながら火を大きくし、細い薪から順々に組んでゆく。火が安定したところで即席の串に刺した魚をくべた。
「ま、久しぶりならこんなものね」
ハラワタをとるのに少し手間取ったが、やっと朝食の準備ができた。焼き上がるのを待つ間、腰を下ろしてケータイを開く。道中、念写で居場所を確認した最初の目標はまだこの湖にいるはずだ。
第一の目標『チルノ』、夏に負けない氷の妖精だ。有名ゆえか、おつむが特別残念との誹りを受ける妖精である。今回の取材テーマはいまだに曖昧なものの、何度痛い目を見ようとも最強をのたまい続けるこの妖精にはとても相応しい気がしている。
「(頭の悪さは妖精なんだから仕方ないんじゃないのかな)」
悪評に内心同情を寄せる。
妖精を相手に肩慣らしをしなければならない情けなさは考えないことにした。
もう一度念写した画像を見ようとケータイをいじる。今日のチルノはこの辺りで遊んでいるようだが、ざっと見渡した限りでは近くにはいないらしい。あまりに静かなので割と離れているのかもしれない。
ものの本によると、静かすぎる湖だと遥か対岸からの会話が聞こえてくることがあるという。静かといえばこの湖も今はかなり静かだ。湖面は波ひとつ立てていないし、木々もまんじりともせずにたたずんでいる。確かに音の通りは良さそうではあるが、それはつまり、この周辺はかなり広い範囲で何もいないということになってしまう。
妖精相手なら気兼ねなく念写ができるし、詳しい場所を念写し直した方がいいかもしれない。
しかし静かだ。
そういえば、焚き火の音まで聞こえない。
「(やばっ……え、あれっ!?)」
鎮火したと思い慌てて視線を戻すと、焚き火は消えてはいなかった。むしろよく燃えていた。しかし枝葉の焼ける音がまるで聞こえない。燃え続ける焚き火から音がしないのもおかしいが、それよりもどういうわけか、くべていたはずの魚がそこになかった。
落としたのかと思って周りを見ても、何もない。立ち上がって辺りを見渡しても、どこにもない。
「……? ……!?」
独り言を発声できていなかったことに気づいて少し焦る。今朝は文と会話できていたから声帯は衰えていないはず、などとズレた心配をしていると、今度はまた別のことに気がついた。
「(……なんで何の音もしないの? ていうか! 焼き魚の匂いがする!)」
検索ワード『私の魚どこ!?』
緊急事態に念写は応え、画像はすぐに出てきた。まず、俯瞰で撮影された画像の端に自分が写っている。ケータイを持って念写中だ。その私の後方、画面中央は、原っぱしか写っていない。
「(……どういうこと?)」
いつも通りの念写ならば被写体が画像の中心に捉えられているはず。ところがこれには何も写っていない。画像を拡大しても、振り返って目を凝らしても、確かにそこには何もない。何もないが、念写の結果は焼き魚の在処と未確認の脅威の存在を知らせている。
「(…………??? ええい、それっ!)」
よくわからないまま、恐怖を払うようにして風の礫をバラまいてみた。
「 「 「 キャアアアーッ!! 」 」 」
「え!? なに? なに?」
すると突如悲鳴とともに、三体の妖精が現れた。
目の前でのびている妖精に恐る恐る近づくと、そのひとり、黒髪の妖精の手には焼き魚の串が握られていた。魚も、その串も、確かに見覚えがある。
未確認の脅威の正体はなんということはなかった。妖精によるただのイタズラだったのだ。
――――……
「あーあ、砂だらけじゃないの」
「「「…………」」」
地面に落ちた焼き魚をつまみ上げ、正座させた妖精たちに目をやる。
「で? あんたたち、いったいどうやって盗ったの?」
涙目の妖精たちは、それぞれサニーミルク、ルナチャイルド、スターサファイアと名乗っていた。
「サニーが姿を見えなくして……」
「ルナが音を消して……」
「スターが魚を盗ったんです……」
「あー、うん? へえ、そう」
能力持ちの妖精の集まりとは珍しい、と思っていたら、名前と能力と顔の組み合わせがこんがらがってしまって内心焦る。悟られないように澄まし顔でいると、スター……なんとかと名乗っていた妖精が何かに気づいたように横へ振り向いた。
「おーい、なにやってんだー?」
その先から、箒に乗ったとんがり帽子の少女がやってきた。
霧雨魔理沙である。
「……え、ああー」
言わずと知れた有名人の姿を確認するとともに間の抜けた声が出てしまった。何を隠そう、彼女こそが今回の取材の大本命と目した人物だったのだ。
霧雨魔理沙。人里の豪商の家出娘にして魔法使い。巫女と肩を並べて異変解決に勤しむ人間。家出娘というところにシンパシーを感じるがそれは置いておくとしても、好き好んで危険に首を突っ込むこの少女は、今回の取材テーマのイメージ、使命やら情熱やらにとてもふさわしいと思っていたのだ。
「えーっと……珍しい天狗がいるじゃないか。妖精なんていじめてどうしたんだよ」
「いや、別にそういうわけじゃあ……」
本命が向こうからやってくる、この場合、私にとっては絶好の機会どころかピンチである。名前を覚えられていないのは仕方がない。しかしその程度の関係のまま、これから割と突っ込んだ話をしようというのはまずい。聞くとすれば魔理沙の出自に触れることになる。勘当されたという噂からしてタブーな気がしてならない。切り出し方がとても思いつかないから後回しにしておきたかった。
「そうなのか、じゃあおまえらからイタズラをしかけたのか。天狗相手によくやるぜ」
「見たことない天狗だし油断してたから、からかってやろうと思って……」
私は妖精と話す魔理沙の姿を見ていて――――閃いた。これなら切り出せる。
私がこの妖精たちに取材している姿を見せ、なんてことのないように自然に魔理沙へ話を振るのだ。
「ま、まあいいわっ! ところであなたたち、聞かせてもらいたいんだけど、あなたたちがイタズラするのには何か、理由があるんじゃないかしら?」
営業スマイルを心がけて早速問いかけた。少々早口になっただけでなく若干声がうわずってしまった。しかしそんなことより、なぜか魔理沙が妖精より先に反応を見せた。私が質問する様子を見ていた魔理沙だが、急に驚いたようにして辺りを警戒しはじめたのだ。
「はあ? まだ近くに何かいるのか? 別の妖精か?」
「!??」
周囲に目を走らせる魔理沙に面食らっていると、スターなんとかが少し焦るようにして答えた。
「いや、この辺りにいるのは私たちくらいよ?」
「……そうなのか? おい天狗、どうなんだ!?」
私はただ妖精に質問をしただけなのに、魔理沙が何の心配をしているのかさっぱりわからない。
「えっ? 周りに何か? いないんじゃない? ……あ、私の名前は姫海棠はたてです」
「はあっ!?」
落ち着いて話を聞けば、私が妖精にした質問は『あなたたちは囮で、他の奴がまだ隠れてイタズラを仕組んでるでしょ? そんなの私にはお見通しよ♪』と、魔理沙にはそういう意味に聞こえたらしい。
「なんだよ……。あんな訳知り顔で紛らわしい言い方するなよ。時間差が過ぎるとは思ったけどさあ……」
私の営業スマイルは悪どい顔に見られていたのか。少しへこむ。きっと文のせいだ。あいつのいやらしさに影響されたに違いない。
「ご、ごめんなさい。私はこの子たちみたいな妖精がなんで誰彼構わず危険だろうとイタズラをするのか知りたいのよ」
早口が直っていない。見ると、三妖精はキョトンとしている。私は慌てて言い直す。
「つまりね……、あなたたちは、なんでイタズラをするの?」
単純にした問いかけに対し、三妖精は今度は顔を見合わせてしまった。
「なんで? なんでって……なんで?」
「どういうこと?」
「あ……、ごめんなさい?」
「……あれ?」
困った。今度は謝罪を求めているように受けとられてしまった。
「なんだおまえ、えっと、はたて? 妖精がイタズラをする理由なんか知りたいのか?」
そこへ魔理沙が助け舟を出してくれた。名前も一応覚えてくれた。
「そんなの、妖精はそういう生き物だからに決まってるぜ。天狗がなんで新聞を作るのか考えてみたらよくわかるんじゃないか?」
「えっ、そ……そうね」
妖精は妖精だからイタズラをする。
天狗は天狗だから新聞を作る。
身も蓋もない。しかし、私が知りたいことはその詳しいところなのに、突っ込むどころか納得してみせてしまった。なぜ私はそこで引いてしまうのか。自分で自分が情けなくなる。
先ほどから、ではなくはじめからか、グダグダしてばかりで取材がまったく順調にいかない。文字通り朝飯前とはいかない自分の腕がとてももどかしい。
「(文だったら……)」
文だって取材が滞ることがあるはずだ。しかし文なら、きっとめげない。
「ところで魔理沙、さんは、どうして魔法の研究をしているんですか?」
起死回生と表現すれば言いすぎだが、流れを変えるために魔理沙に話を振る。しかし、今の今までにこやかだった魔理沙は急に真顔になり、私は瞬時にさらなる失敗を悟った。
切り出し方が難しいと思っていたばっかりなのに、勢いだけで話を振ってしまった。
「……あー、なんだ? 妖精を調べてたんじゃないのか?」
案の定、警戒された。
「ええ、あーうん、そうなんだけど……」
言い淀み、焦った結果、私は更なる後悔へと至る選択をしてしまう。
「実は、私は、えーっと、種族に関わらず影ながらに頑張る人たちを取材して、その理由をまとめてみようかなーとしてまして、はい。……魔理沙さんのような努力家にこそ、お話を伺いたいなーという次第……でして……」
言いながら、目を合わせるのがどんどん辛くなっていった。目を据わらせた魔理沙は口だけ笑いながら問い返す。
「つまり、なんだ? 私の何を知りたいんだ?」
「で、ですからっ、こんなに若い内からたったひとりで人生を魔法に捧げる――――」
「あーいい、やっぱいい、やめろ。他を当たってくれ」
帽子のツバで顔を隠し、魔理沙は立ち上がった。三妖精は険悪なムードを感じてオロオロするばかり。私も頭の中で押すか引くかオロオロ葛藤したが、ここは引いてはならない、ということにしてしまった。
「あのっ、せめてきっかけだけでも! 何に影響を受けて家出をしてまで魔法使いに、その、なったの……かなーって……」
「…………」
ピタリと一瞬だけ動きを止めた魔理沙は、跨がりかけた箒から足を降ろす。怒りを感じさせる動きに私の言葉はまたもや尻すぼみになった。
「魔法を覚えて良かったことなら教えてやるぜ」
魔理沙の手の中で、お馴染みのミニ八卦炉が輝いている。
「おまえみたいな無礼な奴をこんな風に吹っ飛ばせることだ」
私はまた相手を怒らせた。
嫌悪の視線を向けられてしまった。無礼と言われてしまった。越えてはいけない境界、それを越えそうなことには薄々気づいていたはずだった。天狗と人間の差は大きいが、ちょっとした共通点を見出したばかりに執着しようとしてしまったのだろうか。
ふざけている。念写ではないからかまわないとでも思ったのか。やはり私の自負は妄想だったようだ。
それから、できたかどうかは別として、今、目の前を真っ白にしているこの怒りの魔法は、避けてはいけない、そんな気がした。
――――……
きゃらきゃらと、笑い声が聞こえる。
ぼんやり耳を傾けようとすると、全身から痛みが発せられてきた。しかし上から何かヒンヤリとしたものに包まれているようで、あまり苦痛ではない。
ハッと目が覚めた。
「こっちこっちー」 「だーれ?」
「天狗だって」 「ミイラみたい」
「ミーラって?」 「ミーラー」
「あ、お日様出たー」 「ポカポカだー」 「キャー」
「あ、起きたみたい」
「ホントだ」
「天狗ってすごいのね。もう動けそう」
起き抜けに目の当たりにした光景に息を飲む。妖精がわんさか集まり、晴れ間から差す陽の光を受けながら頭上を飛び回っていたのだ。みんな私が目を覚ましたことに気がつくと、横たわる私の顔を覗こうとこぞって降りてきて、山のように重なり合いながら首を伸ばしてきた。今にも崩れてきそうである。
すぐそばで心配そうにしているさっきの三妖精とは別に、湖周辺に住んでいるであろう色とりどりの妖精だけでなく、紅魔館で働いているというメイド服を着た妖精までいる。数えきれないほどの無邪気な視線に私は取り囲まれていた。
「わあ……」
妖精に頭をぶつけないようにして、後頭部をさすりながら身体を起こす。動きにくいと思って身体に目をやると、服の上から包帯で全身をグルグル巻きにされていた。どういう訳かこの包帯が冷たいらしい。
「どう!? あたいはこんなに器用な力の使い方だってできるのよ!」
傍らから声をかけられ顔を向ける。三妖精と並んでしゃがみ、冬の晴天を想わせる妖精、チルノがそこにいた。
「おまえ、あの魔理沙にケンカ売ったんだって? 異変でもないのにマスパ使わせるなんてなかなかやるじゃん!」
「あなたは、チルノ……。この包帯はあなたが?」
「そうよ、すごいでしょ!」
「ええ、とってもすごいわ。どうもありがとう」
少し躊躇ったが、頭を撫でてあげるとチルノは少し照れながらも満面の笑みを見せてくれた。妖精の笑顔ほど愛くるしいものはない、そう確信できるほどにまぶしい笑顔だ。
聞けば、包帯は紅魔館の門番が妖精メイドに持たせてくれたものらしい。足元にある手提げ袋から氷づけの包帯が覗いていた。私に巻かれた包帯はよく冷えていながらも柔らかいままなので、あっちは失敗したものなのだろうか。何にしろ、紅魔館には日を改めてお礼に伺おう。
「あの、これ」
チルノの隣ではルナチャイルドが私の肩掛け鞄を抱えていた。肩紐が千切れて飛ばされたのを拾ってきてくれたらしい。
「私の鞄ね。ありがとう。えっと、ルナ?」
ルナチャイルドは少し安心したように笑いながら鞄を渡してくれた。サニーミルクとスターサファイアはスカートを籠代わりにして木の実を集めてきてくれていた。
この子たちは魔理沙と親しそうだったのに、なぜ魔理沙を怒らせた私を介抱してくれるのだろうか。
「大丈夫?」
「お腹空いてるんだよねっ? これ食べてくださいっ」
そうだった。私はお腹が空いていたのだった。魚をとられたことをやっと思い出した。しかし強烈な一撃をもらって変なところでも打ったのか、あちこち痛みもするのに先ほどからとても穏やかな心地である。
「ありがとね。でもひとりじゃ食べきれないわ。みんなで食べましょう。あなたたちとお話がしたいわ」
それから、妖精たちに囲まれながら木の実をつまみつつ、しばらくおしゃべりを楽しんだ。チルノたちには負けるが、今度は私も自然な笑顔ができていたと思う。取材などとは考えず、とりとめのないことしか話さなかったけれど、妖精というものが少しわかったような気がした。
妖精は妖精だから妖精らしい。
今はこれ以上深く考える必要はない。
なお、ポーチの中はまだ確認していないが、とうに諦めがついている。一瞬で意識が飛ぶほどの衝撃だったのだ。ケータイはきっと無事に済んではいまい。むしろ服も鞄もよく焦げるだけで済んだものだとすら思う。
今日は誰も得をしない取材をしてしまったのだ。そしてこれは不用意な物言いで相手を怒らせてしまった罰だ。文句なんかない。
~ 4 ~
ここは玄武の沢、その支流。幅広の沢筋に岩がひしめき、渓流がその隙間を縫うようにして流れている。そのせせらぎを貫き、打ちつけられた駒音が高く高く鳴り響いた。
「どうよ椛!」
「むむ!? むむむ……」
「この一手こそが河童の叡智の結晶さ! まいったかっ!」
「むんっ」
「……あ、あれ?」
「いやー河童様の叡智は流石だねー、まいっちゃうねー、その場しのぎが精一杯だよー」
「……あれ? ……あれ?」
のっぺり大きな岩の上、朱色の鮮やかな端折傘の下、縁台に置かれた将棋盤をはさみ、ふたりの少女が向かい合って座っていた。赤や黄色の紅葉がハラリ、ハラリと舞う中で、青髪の方の少女は目の前の戦局に困惑して頭を抱えている。
相対している椛と呼ばれた白髪の少女は将棋盤どころか相手からも目を離し、下流を見下ろしはじめた。様子からして、相手に余裕を見せているというわけではなさそうだ。
「……ねえ、にとり」
「まだ……まだいける……」
「にとりっ、誰か来てるよ。たぶん天狗だ」
「今それどころじゃ……たぶん? どゆこと?」
「もう玄関に着くとこだけど包帯だらけでよくわからない。……いや、まさかはたてさん?」
「はたて? ならしょうがない、一旦降りますか。……あ、中断だからね。まだまだこれからなんだかんね!」
「はいはい。ほら、待たせちゃ悪いよ」
妖精たちと別れた後、腰ポーチの中を確認したところ、やはりケータイは壊れていた。画面は当然のようにひび割れ、電源ボタンは反応してくれない。
重りと化したケータイを見ていて、まるで手足を失ったかのような喪失感を覚えるあたり、相当私は念写に依存してしまっているらしい。一件目のインタビューを終え、早くも資材と気力を失ってしまった。
このまま直帰するか修理に出しに行くか、少し考えて、すぐにでも引きこもりたい欲求をどうにか抑え、馴染みの河童の工房へ行くことにした。
それがここ、河城にとりの工房である。
数年前に拾った外の世界の道具である私のケータイは、今目の前で呆れ顔をしているこのにとりによくメンテナンスしてもらっているのだった。彼女は私の念写を知る数少ない友人のひとりでもある。
「やっほーにとり」
「うわ、ほんとにはたて? 何そのカッコ?」
「はたてさん?」
「げ、椛もいたのね……」
修理のついでに河童の秘薬を分けてもらえれば波風立てずに天狗の里へ帰ることができる、といった思惑もあったのだが、運悪く居合わせた天狗仲間に包帯姿を見られてしまった。天狗の集団意識によって事が大きくなるのは望むところではない。
「……今日は非番ですので、話を聞かせてもらう時間はありますよ」
それでもこの娘、哨戒役の白狼天狗にして、やはり私の念写を知る犬走椛が話のわかる娘で助かった。
「薬、持ってきたよ」
襖を開き、にとりが薬壺を持ってきた。
私と椛は工房の中にある応接間に通されていた。ただし、ここは応接間とは名ばかりのただのたまり場だ。六畳ばかりの畳部屋には、棚から溢れた本やら書類やら新聞やらが積み重ねられていたり、備え付けの冷蔵庫にはお酒とつまみが常備されていたりする。ここで私はにとりが戻ってくるまで、包帯姿になった経緯について椛からの質問をはぐらかしているところだった。
「悪いわね、ありがとう」
「で? なんだってこんな痛々しいことになってんのさ」
「見た目よりはひどくないわよ」
「そういう問題じゃないですよ、はたてさん」
「私はいいの。私よりこっちの方が重傷なんだから。にとり、これなんだけど、直る?」
「うげぇっ、こりゃまたひどい。何やったの?」
取り出したケータイを見せると、にとりは顔をひどくしかめた。私の怪我の具合を見た時よりもずっと渋い顔をしていることはさて置き、もう限界だろうなと思いつつ、さらにはぐらかしてみる。
「飛んでる最中に居眠りして藪に突っ込んだの。擦り傷だらけになっちゃったしケータイもポーチごと潰しちゃうし、もう最悪よ」
「……その言い分は苦しいですよ」
「まったくだね。寝不足なんて無縁のはたてがそんな寝落ちのしかたなんてできるわけないじゃん」
「私じゃなくても焦げ臭いのがわかりそうなものです。ほら、火傷してるじゃないですか」
「う……。それはそれとして、寝過ぎるとかえって――――」
「椛っ、これ塗ってやって」
にとりは私の言い訳を遮って薬壺を置くと、ケータイを手に工房へ戻っていった。間もなく聞こえてきた音からして修復を試みてくれているのだろう。
薬を受け取った椛は嫌な顔ひとつせずに私の包帯をほどく。組織的には私が上司ではあるが、この娘の優しさには頭が下がる。
「はたてー、やっぱりダメだー。データ取り出せそうにないやあ。大事なものは入ってた? だからって別にどうこうできるわけじゃないんだけどさー」
椛からの処置が一通り終わる頃、工房から無慈悲な言葉が飛んできた。
「……ううん、平気ー」
にとりの宣告に応える私の声は少し震えていた。その際、椛がちらりと私の顔色を伺った気がした。動揺を隠したくてもこれは無理だ。データの損失は覚悟していたことではあっても、改めてその事実を告げられるとかなり堪える。三日は寝込みたい。
にとりは私の動揺を知ってか知らでか淡々と話を続ける。
「じゃー、修理するより新品にするんでいーいー? でないと部品ほぼ全取っ替えでバカ高くなるよー」
「……あー……うん、それでお願い。それも使いやすかったけど、ものはにとりに任せるわ」
「了ー解、実は新作がもうあるんだ。それをおろせばいいんだけど……」
「……? あるんならそれ頂戴」
「まあまあ。まずは話が先だね」
ヤカンを手に戻ってきたにとりは靴を脱いで部屋に上がり、ヤカンと壊れたケータイをちゃぶ台に置いた。急須にお湯を注いでゆく。
「はたての怪我の方もそうだし、何をしたらこんな壊れ方するのさ。いい加減教えておくれよ」
「……わかったわ。話す」
正直なあなあにしておきたかったが、ものを頼む手前仕方がない。お茶がちゃぶ台に揃うのを待ってから口を開く。
「霧雨魔理沙は知ってるわよね」
「うん、我が盟友だ」
「よく山へ侵入してきますね」
「あの子を怒らせてこうなったの」
「ほう」
「うん。……あ、お茶いただくわ」
湯呑みに手を伸ばす。
温もりが手に、そしてのどへ、腹へ、染み渡る。
ああ、うまい。
「ふう…………」
「…………」
「…………?」
沈黙が流れ、頭をひねった椛はにとりと顔を見合わせた。ふたりとも同じことを思ったようである。
「……あの、説明終わりですか?」
「え? うん」
「ちょいとっ、そんな面倒くさい真似しないでさっさと話してよ!」
顔をしかめて怒るにとりに私は「ごめんごめん」と手をひらひら振りながらへらへら謝る。イラつかせるイタズラが成功した、ということにして今度こそ正直に話すことにする。我ながら面倒くさい奴だ。
「魔理沙を取材しようとしてさ、久しぶりのインタビューだったもんでほとんど前置きなしで突っ込んだ質問しちゃったの。まずいかなとは思ったんだけど引くに引けなくなっちゃって、又聞きした程度の噂を問いただそうとしたら、このザマよ」
「……いったい何を聞いたんですか……」
「大方、魔理沙の出自とかしつこく聞こうとしたんでしょ。あいつの一番デリケートなとこだし、私だって改めて聞こうとは思わないのに」
「…………」
「あれ、図星かい……」
真顔になった私を見て、にとりは頭をかいた。
「まずはたてさ、久しぶりだからーとか、まずいとは思ったけどーって、言い訳ばっかりじゃ何にも上達なんかしやしないよ」
説教されに来たわけではないのに、なんて思いながら口を一文字にして耐える。
「魔理沙はその辺割と真摯だよ? 誤魔化すことはあっても逃げるだけの下手な言い訳はしないし、愚痴なんて吐いてるふりしてだいたい前向きなこと考えてる。ついでに言えば、へらへらしながら努力をひけらかさないのはポイント高いね。あの年であそこまで魔法を使えるだけのことはあるよ」
魔理沙は確かに人間の中では特殊な方だが、所詮は十代の小娘である。引き合いに出されるのはおもしろくない。だからといって言い返すこともできない自分を思うとひどく惨めである。まるでガラクタと化したそこのケータイのようだ。
「上達って言っても……。私は、天狗、妖怪よ? 人間みたくーそう簡単に……あー、成長? なんて、うん、できないわよ」
「何言ってんだい」
人間は妖怪よりも成長が早い、というどこで聞いたかもわからないよくある俗説。しどろもどろになりながらもこれを盾に逃げようとしたところ、にとりに一蹴されてしまった。
「そもそもさ、生物的なことは置いといて、人間は別に成長が早いわけじゃないよ。人間は人間でも、向上心のある人間じゃないとちゃんと成長なんかできやしないんだ。それは妖怪だって同じさ。はたてや椛みたいな天狗や私みたいな河童だってそのはずなんだよ。三日坊主になる程度の決意じゃなくて、日常生活や習慣を塗り替えられるくらい、心から成長したいと行動し続けられたやつが成長できるのさ。人間はさ、せっかく考えられる頭を持ってるのに寿命が短いからさ、成長が早いとすればその分妖怪よりも必死になりやすいからってだけだよ」
「…………」
「おー、にとりはかっこいいなー」
自信満々に持論を説くにとりに椛ははらはらと拍手を送る。一方私の気分はさらに悪くなる。この手の正論は、だいたい私の味方になってはくれないからだ。私を見やった椛の手が止まったが、私は気づいていない振りをする。にとりも納得のいっていない私の表情を見てか、神妙な面持ちになってなおも話を続ける。
「はたて、これを見て」
「……私の壊れたケータイね」
「そう、記念すべきサンプル一号機。これはね、ちょっと前の私じゃあ扱えなかった代物さ」
「そうなの? じゃあどうやって新作なんて作れたのよ」
「こいつに使われてる技術を自分のものにしたい。そう願ったからさ。たまに外から流れてくる知らない技術にはね、レベルの違いによく絶望させられるものなのよ。……でも、まあいいやとか、これはなくてもいい、で済まさなければ、必ずものにできる。そう信じてる。気恥ずかしいけど、私はそうやって技術を学んで成長してきたんだ」
にとりは茶化すことなく、そう真剣に語ってくれた。河童のにとりは、普段は頭の上がらない天狗に対して偉ぶりたいわけではないことぐらい、私にはわかっている。私とにとりの仲だからこそこうしてものを言ってもらえている。
「……ッ………」
その心意気を受けて私は、言いかけた言葉を飲み込もうとした。にとりのせっかくの気遣いを台無しにするような言い草になるのは確実なため、躊躇われた。
それでも、結局は言ってしまう。
「無理。私にはできないよ」
私に馴染むことのない理想論を声高に説かれても、私は自分を卑下することしかできず、つらい。にとりの話を否定すれば痛み分けになる、そう自覚はしていた。だから、機嫌の悪さのせいにして、それを止めなかった私はクズだ。
にとりは一瞬だけ固まり、困ったような寂しいような、そんな表情を浮かべ、やがて音もなくため息をついた。
「……ま、簡単にできれば世話のない話かな」
にとりが諦める、これは狙い通り。そのはずなのに、諦めたにとりの顔を見て、痛み分けどころか自分へのダメージが深まった。私は一貫してしかめっ面をしたままそれを隠す。
にとりは黙って自分の湯のみに視線を落としている。
いったい私はどうしてほしかったのだろうか。私に同情し、言葉だけでも肯定してほしかったのだろうか。それともさらに叱咤してほしかったのだろうか。どちらにしろ、結局私は本当に諦めさせてしまったようだ。私は、諦められてしまったようだ。
「…………」
「…………」
「…………」
辛気臭い雰囲気が漂う。流れる沈黙は先ほどのイタズラ半分によるものとは違い、いたたまれない。この気のいいふたりを相手して、どうしてこんな方向に進むのだろうか。考えるまでもなく、許されるとタカをくくり、私の面倒な性格を遠慮なく一方的に押し付けたからだ。
私は黙って立ち上がる。河童の秘薬の効果は流石であり、苦もなく服に袖を通すことができた。そして鞄を拾い上げる。
「帰らないでください」
張り詰めた声がした。
「――――あ、じゃなくて、ちょっと待ってください」
強い語気で引き留められたため少し驚いたが、引き留めた当人もそう思ったらしく、椛はとっさに言い改めた。
いつの間にか正座に直り、真剣な眼差しを私に向けている。
「まだ新しいケータイを受け取ってないじゃないですか。はたてさんに必要なものではないんですか?」
椛のいつもと違う声のトーンに戸惑い、私は目を瞬かせることしかできない。
「何か、知りたいことがあるんですよね?」
「……え?」
「まだその途中なんですよね? 違いますか?」
「あ、いや、違くはないわ」
「でしたら、ケータイはすぐ必要になるものじゃないですか。……ほら、にとり」
「ひゅっ!? あ、うん」
にとりも椛の様子を意外に思っていたらしく、不意に促されたことに驚き、慌てて立ち上がって工房の奥へと駆けてゆく。椛はふたりきりになったことを確認してから再び私に顔を向けた。そして小さく咳払いをする。
「私は、お役目として戦闘の訓練を受けています。そのおかげでそこそこ腕に自信も持っています。それでもそこの、剣と盾が、馴染みの装備がなければ、外敵が現れても正直私は立ち向かえる気がしません。……はたてさんはどうですか?」
椛にまっすぐ見つめられ、その眼に少し見惚れてから答える。
「……そうね。前に使ってたポロライドカメラはフィルムがもうないし、私は、ケータイがないと新聞は作れないわね」
「それなら、にとりとこんなことで仲違いしていい訳がありません」
「……その通りね。……ほんとにね」
椛には本当に頭が下がる。椛は、まだ私を諦めないでくれていた。適当な理由をとにかく私に見つけさせ、仲直りの後押しをしてくれた。この場に仲直りを望む空気を作ってくれた。
そして、パタパタとサンダルを鳴らし、にとりが小箱を大事そうに持って戻ってきた。
「……これがさっき言った新作なんだけど……」
にとりは気まずそうに言い淀む。まださっきのやりとりを引きずっているようだ。一転して内心喜びの中にいる今の私はだいぶ素直である。椛のおかげだ。大好きよん。
「あー、にとり……? ごめん、さっきのなし。私……やっぱり、もう少し頑張ってみる。だからこの通り。よろしくお願いします」
「え……そ、そっか……よし、じゃあ! 新作で変えてみたとことか説明するよ!」
私の変化にはじめこそ面食らっていたものの、にとりは安心したように口を回しはじめてくれた。椛も肩を撫で下ろしている。
元々このふたりとの付き合いは仕事を通じてのものからではあったが、ふたりは仲間であると、今は確かにそう思わせてくれる。
有り難い、まさに字の如く、そう思う。
――――……
「もう行くの? 念写で不具合が起きないかもうちょっと確かめて欲しいんだけどな。まだフィルターも確認できてないし」
「ごめんにとり、それは私だけでやらなきゃだわ。またすぐ顔見せるから」
「はたてさん、そうは言っても危険じゃないんですか……?」
「そうね。だから椛も、千里眼でこの画面覗いたりしちゃダメよ」
「はあ……」
「じゃあ行くわ。ふたりともありがとう。またね」
心配そうな顔を向けるふたりを残し、私は玄武の沢から飛び立つ。初速が普段より速い。息が切れる前に少しスピードを緩めたが、じれったくなってまた上げる。
気分のままのスピードで飛んでいると、手頃な大木を見つけた。これはケヤキの木だろうか。枝振りはたくましく、落葉がはじまっている様子。
呼吸を整えつつその樹冠に下駄を乗せる。夕方だろうと今ならやる気は十分。毒皿だろうとおかわりしてやろうという気分だ。新品のケータイを取り出し、念写の準備をはじめた。
改めて検索ワードを考えてみる。
取材対象を一言で表せば、それは『努力家』だろうか。生き甲斐を持つ者でもいい。熱意に溢れ、目的に対して真摯であり、それが自然な者。そんな探し人の熱意を生み出す理由を知り、それをきっかけにして、少なくとも熱意はあったという昔の私を思い出すのだ。いずれ弱小新聞の謗りから脱却を果たすきっかけになるはずだ。
「……ふふふっ」
にとりに無理と言ったのはあてつけの意味が強かったとはいえ、気分が良くなるとそれだけでやっぱりやれそうな気がしてくる。それに、実は私は新聞記者の職に未練があるらしい。なんだか可笑しくなってきた。データを損失したダメージも不思議と和らいでいる。
今度は期待してもいい。今度は期待が裏切られてもかまわない。だからやる気のままに行動するのだ。どうせ私は――――
「さてっ! 再開といきましょうかっ」
検索ワード『努力家or生き甲斐 継続 理由 -文』
♪~
――――……
芳香は眠っていた。
そこは青娥によって創られた仙界、その中にある屋敷の一室。芳香はひとり壁を背にして足を投げ出し、うなだれている。ピクリとも動かず、呼気すらも感じられない。まるで寝かされたお人形のようである。しかし前触れもなく突然、弾けるようにして立ち上がり、目を覚ました。
「にゃんにゃん! にゃんにゃん!! 来た! 来たぞ! 電波が来た!!」
言いながら辺りを見渡し、伝えるべき主人がそこにいないことを知ると、芳香はギクシャクと青娥を探しに部屋を出る。その動きに合わせ、頭から垂れ下がる真新しい御札がヒラヒラとはためいていた。
ほどなくして青娥の寝室の扉が勢いよく開け放たれた。
「電波だにゃんにゃん! 電波が来たぞ!!」
それに応え、青娥は寝台から身体を起こして芳香を迎える。
「あら、今度は気づけなかったわね。……対策しておいてよかった。どれどれ?」
暴れるように報告してきた芳香を慣れた手つきで宥めすかし、軽く抱きしめて落ち着かせる。それから青娥は両手を芳香の両頬に添え、御札越しにおでことおでこをくっつけた。すると途端に芳香はおとなしくなり、弛緩したかのように青娥へもたれかかる。
「……とっても薄いけど、気配そのものは昨日と同じね。でも、昨日と違って途切れそうにないのはどういうことかしら……。 まあいいわ、チャンスよ。さあ芳香、支度をしたら追跡しましょう」
「……んあ!? おーっ! あっちだ! あっちだにゃんにゃん!!」
「ほらほら、慌てないの。先に着替えさせてちょうだいな」
――――……
『 警告! 念写自重フィルターが反応しています! 』
『 念写を続行しますか? 』
『 はい 』 『 いいえ 』 『概要』
突然ケータイに表示された警告に、目が釘付けになる。
「うっそぉ…………。これって新しい『念写自重フィルター』? にとりの言ってたやつじゃん……。反応しちゃってるじゃーん……。せっかくいい気分だったのにぃ……」
目頭を押さえたところで画面は変わらない。それに、『概要』なんて項目は聞いてもいない。いや聞かなかったのは私だったか。察しがつかないこともないが、おいそれと選択はできない。
「……『概要』、これ押して大丈夫なのかな。にとりーわかんないよー……うわーどうしよー……――――」
「――――こんにちは、鴉天狗さん」
不意に、背後から声をかけられた。
「っっっ!? わっうわわっ」
心臓と、手元のケータイが飛び跳ねた。お手玉されたケータイは手を離れ、流れるように枝の隙間へ落ちてゆく。
「やばっ!」
にとりの新作、しかもおろしたてホヤホヤが、地面までおよそ三〇m。
「えっちょっと!?」
私は枝の中への突撃を敢行した。何者かにまた声をかけられたが、そんなものは無視だ。
頭から飛び込み、細い枝をへし折り、太い枝をくぐり抜け、そして、
「どこに――――!? ぐぇっ」
見失った。さらに悪いことに、勢い余って後頭部を枝に打ちつけてしまった。
一瞬にして遠退く意識の中によぎったことは、はたしてこれは言い訳になるのだろうかという、相変わらず低劣な考えであった。
~ 5 ~
念写とは、カメラから隔絶されている被写体を撮影する能力である。そして、その力によってできあがる写真は大きく二種類に分けることができる。撮影者のイメージを反映させたコラージュ写真と、実際の一場面を切り取った素の写真だ。
姫海棠はたての行う念写は専ら後者、現場のありのままを写し出す。つまりその気になれば、他人の秘密だろうと勝手に記録してしまえるのだ。
しかしそれには当然、相応のリスクが伴う。
悪巧みや不正、命に関わる情報、黙すべき逢瀬など、暴かれる側にとっては不愉快どころの話ではない。報復される危険性がついて回る。だがそのリスクに備えることさえできれば、彼女の力はジャーナリストとして相当なアドバンテージとなるのだ。そしていざ天狗組織の一員として情報戦に臨めば、それは比類無き力となる、ことにもなりえただろう。
ところが現実にはそうはなっておらず、彼女の存在は埋もれていた。念写によって危ない橋を渡ったことはなく、その身に危険が及んだこともない。
彼女が無名である理由としてはまず、幻想郷には彼女の他にも情報操作に関する厄介な能力、および技術がいくらでもあることがあげられる。
妖怪の山だけでも、『千里眼』という言わずと知れた天狗の神通力の代表格をはじめ、河童や山の神が扱う科学技術による情報記録機械がよく知られている。余所には『読心』や『スキマ』なんていう有無を言わさずに情報をかっさらう妖怪をはじめ、変幻自在の狐と狸や付喪神のネットワーク、底知れぬ知識を使役する魔女、神霊と通じる巫女、認識に干渉する妖怪、歴史を読む半妖、果ては月の文明機器などなどバラエティーに富む。情報管理はどの組織でも頭の痛い問題には違いないが、ある程度は仕方がないと割り切らざるをえないのもまた実状なのである。
そんな中では姫海棠はたての念写は『よくある能力』のひとつでしかない。加えて、念写も有力な超自然的能力には違いないが、それに感づける超自然的な感覚の持ち主だって少なからずいるのが幻想郷である。度が過ぎない限りわざわざ彼女だけに目くじらを立てる者はいないというわけだ。
そして、姫海棠はたては度を越さない。彼女は根が謙虚なのだ。新聞以外で名前を売る気はさらさらなく、嬉々として暴露記事を書くこともない。念写を気遣うあまり、すでに出回った写真を焼き直して自分の記事に使う時だってあるくらいである。彼女は、自分が念写の能力者であることをおおっぴらにしないこと、念写で他人に踏み込みすぎないことを守り、そうすることで自分の身をも守ってきたのだ。
その性格は念写能力そのものにまで影響しており、姫海棠はたてが『念写自重フィルター』と呼ぶ能力の制限が自然と形成されるまでになっていた。
この制限、もとい機能により、念写される被写体、これに機密保護の意思や封印、あるいは後ろ暗さが存在する場合、フィルターが反応して念写はキャンセルされる。フィルターの強度は姫海棠はたての深層意識が大きく影響しており、緊急時だからとフィルターが緩くなることもあれば、無意識に危険を感じることでフィルターが強化されることもある。特に過去を覗くような念写は危険な匂いがプンプンするのでフィルターが非常に強固になっていた。
この機能は彼女の性格に依るところも大きいが、何より自分が情報を扱う者だからこそわかる、念写が可能にしてしまうことに対する危険を理解しているからこその産物である。
なお、新しく機種変更された携帯電話のカメラ機能には、製作者である河城にとりの発案により、このフィルターには一工夫が施されていた。フィルターの管理オプションの追加である。ほとんど無意識に扱っていたフィルターを画面に可視化させ、設定を適宜調整できるようにすることで、より的確にフィルターを機能させることが狙いだ。
しかし、その開発者と使用者、両者の念写の危険性に対する認識には差があった。そもそも姫海棠はたて本人ですら感覚だけでしか理解していなかったフィルターのメカニズムを、感覚に頼った説明だけで理解させることには無理があった。そしてその認識の差はフィルターの設定強度、検出時の自動対応に関する設定内容に現れているわけなのだが、それらが明らかになるほどの試行をする前に受け渡しが済んでしまっている。
現在、新しいフィルターが反応を示してから誰にも操作されないまま、すでに一時間が過ぎている。念写はフィルターによって選択画面を表示させてからずっと待機の状態にある。つまり、今もまだ『念写が継続中』なのである。自動でキャンセルされることもなく、念写の眼はなおも被写体と目を合わせ続けているのだ。
――――……
柔らかいお布団の感触、そして嗅ぎ慣れないお香の匂い。瞼を開ければ知らない天井。そして思い出すのは頭が痛むこと。すぐに思い出せないのは、なぜ自分の頭が痛むのか。
「う……、痛たたた……」
「あ、起きたわね。こんばんは」
「? こんばんは?」
声のする方を向くと、身なりの綺麗な女性がひとり、椅子に腰かけていた。仙人と思しき格好で、桃の髪色にふたつのシニョン。右腕には包帯が指先まで隙間なく巻かれ、その手にはなぜだか私のケータイが握られていた。
仙人が立ち上がると、自然とケータイの画面が私の方へ向いた。その画面には『念写自重フィルター』による警告が表示されており――――
「あ、この機械ね。地面に落ちるま――――きゃっ!?」
「返して!!!」
口より早く私は跳ね起き、おそらくはここの家主であろう仙人の手からケータイをもぎ取っていた。そして後退り、元のお布団の位置で足をとられ、尻餅をつく。
「ハァ……ハァ……ハァ……――――」
混乱して、恐怖して、いっきに息が上がった。ここはどこなのかとか、あなたは誰なのかとか、そんな疑問よりも先に身体が動いてしまっていた。知らない内に私のケータイを覗かれていたことにより、自分の秘密に触れられた焦りと、他人の秘密に触れそうになった恐怖、その両方がいっぺんに私へ襲いかかっていた。
「…………私のケータイ、いじった?」
途切れた記憶の前後はあやふや、でもひとつだけ思い出した。私は念写をしているところだったのだ。そこに現れたのが可視化された『念写自重フィルター』。にとりと一緒に試行した段階では現れなかったそれを慎重に操作しようとしていたところだったのだ。それが途中のまま他人の手に渡っていた今、確認せずにはいられない。
「え、け、携帯……食糧??」
「こ れ よ こ れ ! どっかボタン押した!?」
「いえっ、いえ、文字は読んじゃいましたけど、それだけです。どこもいじってないですよ?」
「……そうなの?」
「……はい」
「…………」
私はもう一度、ケータイの画面に目をやる。
『 警告! 念写自重フィルターが反応しています! 』
『 念写を続行しますか? 』
『 はい 』 『 いいえ 』 『概要』
確かに、画面はまだ警告文の表示を続けていた。記憶が途切れる前と確かに同じである。
「(念写は……まだしてない!)」
私はまだ、不本意に危ない橋を渡ってはいなかった。それが確認できた途端に力が抜けてゆく。とりあえず念写はキャンセル。カメラ機能も停めておく。
ホッと深呼吸をして傍らにケータイを置くと、背中に汗をかいているのに気がついた。ずっと肩に力が入っていたかのようで、どっと疲れが出てきた気がする。
「えっと……ご、ごめんなさい。壊しちゃいましたか?」
仙人に顔を向けると、彼女は私を見てまだ狼狽していた。両の手のひらを胸の高さで私に向けて、落ちつけとポーズしている。まるで今にも私が暴れだしそうにしているかのようだ。しかしこの反応も仕方がない。豹変したり怯えたり、私は情緒不安定で腫れ物にしか見えないのだろう。
「…………あ」
気まずさの中で何を言おうか考えあぐねていると、お香の匂いに気がついた。リラックス効果がうんぬんといったものがありそうな、荒い呼吸にも邪魔にならない上品そうなお香である。
このおかげかもわからないが、ようやく気を失うまでの出来事を思い出してきた。
文に触発されて取材へ出かけたこと。
魔理沙を怒らせ、ケータイを壊したこと。
にとりから新しいケータイを買ったこと。
早速ひとりで念写をしたらフィルターが反応したこと。
その際、不意に声をかけられて驚き、大木の上からケータイを落としたこと。
壊すまいと強引に追いかけたこと。
おそらくその時に頭を打ったのだろう。ちょうどそこから記憶が曖昧だ。
だとすれば、この仙人はのびた私に寝床を貸してくれた恩人になるわけであるが、しかしまさか、声をかけてきた不審者がこの恩人なのだろうか。
「落ち着いて? 私はあなたに危害を加えるつもりはないの。さっきのは事故で……、まあでもちょっとだけイタズラ心もあったけど――――」
どうやらそのようだ。
しかし本人曰く害意はないらしい。
他人の慌てる姿を見て、逆に我に返れるくらいには私は落ち着いてきたようだ。
黙ってスカートの裾を直す。
ふたりとも落ち着いたところで、ようやくお互いに自己紹介をすることができた。彼女は茨華仙と名乗り、妖怪の山に住む仙人であることを教えてくれた。私は華仙の家の近くにいたらしく、あの大木の上で私が何をしているのかと気になって声をかけたのだとか。
私が気を失っていたのはほんの一時間ほどらしい。窓の外はすでに暗くなっていた。
ちなみに、私からは自身についてあまり言うことがなかった。鴉天狗の記者で取材中だと言えば良くも悪くもだいたい伝わる。実際は記事にする気のない個人的な調べものを方便で取材と言っているわけだが、それまで伝える必要はない。
「驚かせてしまってごめんなさい。まさかあんなことになるなんて思いもしなかった」
「もういいわ。これも無事だったし」
傷ついた様子のないケータイを指先で回しながら答える。華仙がどうやってこれを無事に回収してくれたのかはわからないが、故障や不本意の念写といった最悪の事態は回避できたため、今の私はだいぶ大らかである。
もし仮に警告を無視した念写が行われていた場合、きっと私は恐怖に縛られていたことだろう。念写してしまった写真をびびって見ることも消すこともできず、悶々と部屋に閉じこもるばかりの自分の姿が容易に想像できてしまう。考えるだけで情けない。
それを思えばまだまだ大したことではない。話がこじれてしまったが、結局、不都合といえば華仙に念写能力を知られたことぐらいなのだ。
「ひとつ聞いてもいいかしら? その機械のことなんだけど、――――」
華仙の問いに、ほらきたやっぱり、なんて内心思う。念写を知られれば詮索されるのはわかりきったことだった。まったく面白くない。覗き魔扱いされないように気を遣って説明するのはとても面倒で嫌いだ。そのせいで私は引きこもりがちだったような気さえする。
知られて良かった、なんてこともなかったわけではないが、それはにとりと椛くらいなものだ。にとりは嬉々としてカメラを提供してくれたし、椛とは似た能力持ちどうしで仲良くなるきっかけになった。
しかし例外は例外だ。期待してもろくなことはない。とはいえ、この華仙とやらには話せばわかってくれそうな良識が感じられる。ちゃんと説明すればいらぬ誤解をあたえることにはなるまい。
大丈夫。同じ妖怪の山に住む者どうし、分かり合えるはず。
「――――その機械はカメラで、それに念写能力が備わってるのかしら?」
「……これに念写? いいええ? これは確かにカメラだけど、違うわよ?」
少し予想とズレたことを聞かれた。私自身が念写の能力者であることは大した問題ではないのだろうか。別にそういう認識でまずいなんてことはないと思うけれど、身構えていた分、軽く拍子抜けだ。
「じゃあ私が使っても念写はできないわけね……」
「そうね。念写の能力者じゃないとたぶん使えないわ」
華仙は警戒、というわけではなく、何か別のことを考えているご様子。たいていは影から監視されている可能性に思い当たって嫌がるものだ。まさか監視慣れしているから平気、なんてことはそうそうない。
質問からして、私に頼らず自分で念写したいということならば、人知れず探したい物があるということだろうか。
…………閃いた。
「えっと華仙さん? さっき見ちゃったみたいだけど、あの警告文はね――――読んだんでしょ? この画面に出てたやつ。せっかくだから教えてあげる。あれはね、私が念写で地雷を踏まないようにって備えてる用心なのよ。おおよその被写体の危険度とか、秘匿の意思とか、そういうのをこれで計って、本当に念写するのか決める判断材料にするの」
「…………。はあ……用心ですか……」
「そう。それと勘違いしてほしくないんだけど、私はどっかのパパラッチみたいに偏見と誇張だらけの記事は書かないわ。だから当然、念写にも気を遣ってる。興味本位で腹を探るような念写は絶対しない。絶対トラブルになるもの。ただでさえこういう能力は煙たがられやすいのに、わざわざ自分から敵を作るような真似なんてしたくはないわ」
「…………。はあ、そうなのですか」
念写が知られてしまったのはもう仕方がない。しかしそれなら今の内にフィルターのことを知らせておくのは悪い判断ではないだろう。『念写自重フィルター』は被写体に配慮するための機能であり、それを宣言するわけなのだからだ。肝心の時間軸のことは伏せるとしても、基本をちゃんと説明すれば後々警戒される心配は少なくなるはずである。
ただ、急に改まって説明をはじめたせいか、かえって怪訝な表情をされてしまった。しかしここで怯むのも不自然だろう。うろたえている場合ではない。ひとまず無視だ。
「それを踏まえての話なんだけど、秘密は守るわ。記事にもしない。もし何か探してるんなら、できる限りで私が念写してもいいわよ」
「! …………」
そして、色々あった長い一日の中のご縁だ。ひと仕事提案してみるのもいいかもしれない。ついでのついでに例の取材の足しになることがあれば万々歳である。
「…………でも……」
華仙は答えにつまり、包帯の右腕を軽く抱きすくめた。さっきまで平気そうにしていたから、てっきり包帯の下は重傷というより跡がひどいくらいかと思っていた。痛むのだろうか。そんな腕で介抱してもらっていたなら申し訳がない。しかし華仙のせいで私は頭を打ちつけたようなものなので、あまり気にし過ぎることでもないだろう。
「私の探しものは…………。――――!?」
「……? どうしたの?」
突然、華仙は窓の方を見て立ち上がった。
窓の外は暗い。雨が降っている様子はなく、風はおよそ無風。この屋敷の中とすぐ周りにはけっこうな数の動物がいるようだが、おかしな気配を発しているものはおよそいない。屋敷から離れた場所となると、鈍い私にはわからない。
「…………いえ、知り合いが訪ねてきたかと思ったけど、違ったみたい」
そう言いながらも華仙は外を見続けている。真顔というか無表情というか、華仙の表情からは特に感情は読みとれない。
そんな華仙の横顔と立ち姿を眺めながら、私は静かに落胆した。
「……ふうん………………」
私、知ってる。
知らないけど知ってる。これは少々キナ臭い。
理由は簡単。慎ましく扱うべき念写を提案した途端、この不穏な空気になったからだ。思いつきの発言は魔理沙の件で戒めようと誓ったばかりである。私は本当に学ばない。
根拠はそれだけ。無いに等しい。しかし関係なさそうで関係しているはず。悪い行いをしたから悪いことが起こる、などという飛躍した論理。それと華仙の様子を照らし合わせれば、答えはひとつ。
突然ですが、外に、よくないモノが来ています。
「そうだ、今日は泊まっていってよ。お酒もたんまりあるわ。最近は見知った顔としか飲んでなかったからね。付き合ってもらえない?」
華仙はパッと笑顔になり、何事もなかったかのように引き留めてきた。念写の話からなんの脈絡もない提案だ。これでは、まるで私の勘が本当に当たってしまっているかのようではないか。
「えっ……ぇえ? 悪いわよぉ」
私は自然な感じに姿勢を変え、自分のすぐ脇にあるケータイを手にとった。何となく、華仙に気づかれないようにだ。今のところ華仙と外のモノとを繋げる理由はなく、頼ってしまいたいところだが、簡単に信用できるほどの仲でもない。
「いいのいいの。お詫びもしたいし、天狗でも記者さんなら時間は割と融通が利くんでしょ? あ、ほら、お酒持ってきてくれたわ。ありがとう」
この時の私は、不穏な事態にどう対処するかを考えていた。念写で外にいるモノの正体を探るのが妥当かと、そう決めかけていた。もう念写は華仙にバレているわけだし、誤解させないようにと考えている場合でもなさそうであったからだ。
しかし、部屋のふすまが開いたので顔を向けると、思考が止まった。目の前に現れたケモノをすぐに理解することができなかった。
私が目を丸くして見上げた先にいたのは、パンダだった。狭そうに身体をかがめて部屋の敷居を跨ぎ、大きなパンダが酒樽を運び込んできたのだ。
「……ど、どうも」
理解の遅れた隙に升を受けとってしまったが、今この場において酒を勧められる、ということはどう取るべきなのか今さら悩んでしまう。
しかし再び思考は中断された。今度は大きな虎が部屋に入ってきたのだ。口には籠がくわえられている。私は座っているとはいえ、見上げるほどの巨体を持つ肉食獣を前にするとさすがに身体が竦みそうになる。
籠にはつまみが入っていた。虎は籠を下ろすと、甘えるように華仙に身体を擦り付ける。その仕草といいゴロゴロ喉を鳴らす様子といいまるで猫のようだが、その大きな身体には華仙ですら圧倒されそうになっていた。
「うわわ、なーにどうしたの? …………そう、いい子ね、あなたもここにいなさい」
パンダも虎も、華仙によく躾られているようだ。初対面の私に敵意を示すこともない。虎も私に対しては軽く鼻を鳴らしただけで、あとは穏やかにくつろいでいる。
華仙の対応を見ている限り、華仙は外の何かとグルとは考えにくいと思える。基本、天狗は酒豪ぞろい。鬼でもあるまいし、初対面の天狗を酔い潰しにかかるというのもおかしい。
むしろ私の両隣を従順な猛獣で固めたとも捉えられるこの対応、私を守ろうとしてくれる意図があるようにも感じられる。私が嫌な雰囲気を察していることに華仙も気づいていて、それでも何の問題もないという体裁をとりつつ家主として守ってくれる、ということだろうか。もてなしている手前、余計な厄介なんぞに巻き込ませはしない、そういう気位がゆえの配慮なら私は助かる。
これは都合の良い思い込みだろうか、などと考えてしまうのは被害妄想の癖がついてしまっているからだろうか。
「はいはいどうぞはたてさん、飲んで飲んで」
「えっ、あ、ああっ注ぎすぎ注ぎすぎっ」
「いいからいいから。ほーらあなたも」
「♪」
「……!」
私があれこれ心配しているすぐそばで、今度はこのパンダ、器用にタライのような杯を持ち、華仙にお酒を注いでもらいはじめたではないか。これには開いた口が塞がらなくなる。
私にもなみなみと注がれた升に視線を落とし、また華仙とパンダを見やる。遠慮なくグビグビとお酒をあおるパンダは脳天気なくらいに幸せそうだ。虎は乾燥肉を頬張り、尻尾を私の膝に乗せてくる。華仙はニコニコと笑っている。
お酒の香りが私を誘う。
外の何某の存在など、割とどうでもよくなってきた。ずっとケータイを握りしめていることを思い出したが、少し考えて、腰ポーチにしまった。
「(今はお外恐いし、甘えさせてもらいましょ)」
~ 6-1 ~
少々時間はさかのぼり、妖怪の山の裾。ここは魔法の森と同様に多様な生物が暮らしている。ただしそれらはみな木々の樹冠や蔓草に身を紛らわせ、一見ではなかなか見つけられるものではない。しかし森の上なら話は別だ。鳥、主に猛禽類、そしてこの山を支配する強靭で狡猾な種族の姿ならばよく見かけることができる。
現に、今もそんな誰かが翼を広げ、沈みかける夕陽を浴びながら悠々と山を登っている姿が見受けられる。山の雄大さに比べれば点の大きさがせいぜいの背丈ではあるが、それでも飛んでいれば目立つものだ。
山の中腹を越え、天狗の里。枯れた倒木の上に鴉天狗がひとり降り立った。谷を挟んだ反対側、およそ四〇〇m離れた向かいの斜面には、段々畑のように建つ天狗マンションが見通せる。
「ここがいいわね。ここで待ちますか」
ハンカチを一枚取り出して枯れ木の上に敷き、そこに腰掛け、マンションの様子を窺う。
だんだん日が沈むに従い宵闇が広がってゆき、部屋の明かりが目立つようになった。しかし、この鴉天狗の目当ての部屋は、依然として暗いままである。
宵闇の中、組んだ足の上で頬杖をつき、何度目かもわからないため息をつく。予想を超えた待機時間に暇を持て余してしまう。貧乏ゆすりが止まらない。
ふと視線を上げると、月が顔を出し始めていた。
「…………遅い」
いい加減しびれを切らすと、パチンと膝を叩いて立ち上がり、一向に明かりのついてくれない目当ての部屋のベランダまで飛んでゆく。
「……やっぱり帰ってない。はたて、どこ行ってるのよ」
気配を探り、ガラス戸の前で家主の不在を再度確認すると、頭をカリカリ掻きながら部屋を後にした。一度振り返り、数秒間ガラス戸越しにカーテンを見つめてから外へ飛び立つ。
風の吹いてゆく先は白狼天狗の詰め所だ。
「椛はどうしてますかねえ……。何時から詰めてるか聞いとけばよかった」
~ 6-2 ~
同じ頃、ふたつの人影が妖怪の山の裾野にあった。こちらは森の中。人影のひとつは人間の動きにしてはいささか奇妙な挙動をしている。落葉の進んだ林の中には月明かりがいくらか差し込んでおり、両腕を突き出しその場で跳ねる者の姿が窺えた。
「せいがー! せいがー! ここはどこだー!?」
「気配を見失った? なんで今になって……」
宮古芳香とその主人、霍青娥である。ふたりは青娥へ向けられていた微かな気配を追い、ここまでやってきていた。芳香に施した術の先導により、おおよそ回り道をすることはなかったため、青娥はここまでの追跡は成功と思っていた。ところが頼りの気配が前触れもなく途絶え、芳香の先導もパタリと止まってしまっていた。尻切れトンボである。
罠の可能性を考えてしばらく待ってみても、周りは平和そのものであり、何も起こる気配がない。耳を澄ましてもこの日は風もなく、とても静かな夜である。
青娥は大きくため息をついた。
「私のひとり相撲かしら」
青娥は仕方なしに芳香の顔をのぞき込み、掛けていた追跡の術を探索の術に切り替える。この術ではこちらの気配を殺せはしないが、テンションの下がった青娥にはもはや些細な問題であった。むしろ、ばら撒く気配で何かが釣れてほしいとさえ思っていた。
しばらく等高線状に延びた獣道を進んでいると、元気に跳ね回る芳香をよそに、青娥が空気の微妙な変化に気がついて足を止めた。
「この雰囲気……方術? 仙界が近いのかしら? 私や豊聡耳様の創る仙界とはまた違う式みたいね。この山の仙人といえば……」
山に住むと聞く知り合いの仙人の顔を思い出していると、遅れて芳香も反応を示した。
「おおっ!? せいが、いるぞ!? いるぞ!? あっちだ!」
「待って」
芳香は進行方向を修正して元気よく跳ね進もうとするも、青娥はそれを止めた。芳香の御札に霊力を注ぎ、青娥手ずから気配の出所を探る。
「……まさか、気配はこの仙界から? 仙人が私を? 私の知らない仙術を使うなんて、いったい誰かしら」
自覚のあるなしに関係なく敵を作り続けてきた自身の過去を棚上げし、青娥は頬に手を添え首を傾げる。
「まあいいわ。直接顔を拝みましょう」
しかし、いちいち悩むだけ無駄だと、青娥はとうの昔に悟っていた。因縁の巡り方はいつの時代も突飛なことばかりである。
仙界の中心へ繋がる手がかりを探し、ふたりは歩く。当然のように道を惑わす術が降りかかるも、それを当然のものとして歩き続ける。同じ足跡の上を何度通ろうとかまうことなく歩き続ける。
青娥の目に映る景色は術によって繰り返される単一の道だけではなく、術のカラクリをも捉えようとしていた。
やがて、青娥は足を止めた。芳香は転んだ。
「やっと面白くなってきたわね」
「せいがー」
森が蠢いていた。風が吹き荒れはじめ、気温が下がる。季節に逆らい低木が枝葉を伸ばして道を閉ざし、上層木は葉を広げ、何層にも覆い被さって月明かりを隠す。前方から足元へ風が一定に吹き、まるで引き潮に足を浸しているかのように錯覚させられる。目の前はあっという間に密集した低木で壁になり、分厚い天井ができたことでそれもすぐに見えなくなった。
先ほどまでの自動で発動する程度の術とは違い、今度の術は明らかに意志をもって青娥を阻みにきている。
青娥は術の性質の違いに気づくも、状況の変化を眺めるだけである。羽衣に腰掛けて足を休め、無抵抗のまま術が展開しきるのを待っていた。料理の配膳を眺めるように、ただ微笑んでいた。
「灯りを消してーふたりだけの夜ー。……さて芳香ちゃん、何か見える?」
自分の目の前に手をかざしても、青娥にはもはや何も見えていない。そんな不自然なほどに深い暗闇に捕らわれてもなお青娥の調子は狂わない。
芳香が自力で立ち上がる音がした。
「せいがのかお。ワルそう。でもきれいなの」
「まあ」
青娥は一度身じろぎをして、自身の装飾を確認する。
「ここまでやっていまだに直接何もしてこないのは、これが最後の警告ということなのかしら? 降参すれば術を解いてくれるのかしら? お優しいこと。ここから先はただでは済まないわね」
「やるのか?」
「ええ、やるわよ」
青娥は、取り出した御札を口元にかざし、ボソボソと呪文を唱えはじめる。
「※※※※※※※※※※※※※※――――」
芳香は大人しく待っている。顔と腕をだらんと下げ、足を開き気味にして立っていた。そのうつむいた姿も、御札の下にのぞく表情も、この深い闇の中では誰も視認することはできない。
「大丈夫よよしか、今日のあなたも大丈夫」
「…………おー……」
呪文を唱え終わった青娥は、御札を手離した。御札はナイフのようにまっすぐ落ちて、地面に刺さる。すると、御札から一筋の光が噴出し、その光は覆い被さる闇の天井を穿った。天井はひび割れ、崩れ落ちるとともに月明かりが戻ってくる。
ゆったりと目を閉じ、また開く。
その間に、青娥の視界には妖怪の山が戻ってきていた。葉の落ちた枝の隙間から月がよく見える夜の山だ。いくらか月明かりがあるとはいえ、どこまで歩いてきたかはわからない。
術を破った今、ここからが勝負だ。
芳香の纏う妖気が膨れ上がる。
「!? 待って!」
「――――うぐーっ!?」
しかし、追跡が再開されることはなかった。異変に気づき、再び青娥が芳香を止めたのだ。青娥の手が芳香の御札を押さえ、芳香の敵対行動はすべてキャンセルされた。
青娥たちが戻ってきた場所は妖怪の山には違いないのだが、様子が変わっていた。もはや芳香が捉えていた気配はおろか、仙界の雰囲気すらも感じられない。
その代わりに、いくつもの視線が、明確な敵意が、青娥に向けて集まりはじめていたのだ。
「…………天狗?」
あからさまな気配はすべて斜面の上から。次々と風が吹くような素早さで駆けてきたかと思えば、定位置が決められているかのようにピタリと止まり、あっという間に扇状の包囲が青娥の左右にまで広がっていた。どれも姿を見せずに距離をとったまま、バチバチと敵意を向けて威嚇をしてくる。妖怪の山においてこうまで迅速かつ統率された行動をとるのは天狗を置いて他にいない。そしてこの初動の早さは白狼天狗のそれだろう。
様子見を続ける青娥に対し、天狗たちには下方にまで回り込んで包囲を完了させる様子がない。位置取りを守って睨みを利かせてくるばかりである。
逃げ道を塞がず遠巻きに警戒しているということは、退けば許す、そういう姿勢なのだろう。
「……またぁ?」
そんな意図を察した青娥の口から思わず不満の言葉が漏れた。
最後の一線を踏み越えるか否か、青娥はその選択を確かに下したはずだった。青娥といえど、我がままを通すことが前提であるとしても、事を起こすには一定の覚悟を決める。力を発揮するためには迷いは邪魔だからだ。
先ほど方術を突破し攻撃の体勢に入ったときも、確かにいくつかの天秤を思い、その上で我を通したはずだった。ところがその覚悟はあっけなく肩透かしにされてしまい、越えたはずの一線が天狗を相手にまた敷き直されてしまったのだ。
「それはないでしょうよお……。天狗のテリトリーまで歩かせた上に任せきり? じゃあ最後の術は天狗をおびき寄せるまでの時間稼ぎだっただけ? なによそれ、罠は罠でももっとこう…………やめやめ、あーあ、がっかりだわ」
青娥は立ち合いをあっけなくずらされ、落胆の色を隠すことなく顔に出した。そもそも善からぬ気配を振りまいて山を歩いていたのは青娥自身である。排他意識の強い天狗に目をつけられるのは当然のことであった。
自分のまいた種、そう思うと先の高揚はあっさりと冷め、やる気も失せてゆく。
「これ以上はさすがに豊聡耳様にまで累が及ぶわ。やっぱり所帯持ちは身重ねえ…………。ハア……帰りましょうか」
突き刺さしてくる視線にかまうことなく青娥は背を向けた。一瞬、衝動にかられそうになった天狗の殺気が膨れ上がるも、青娥はまったく知らんぷりである。そしてひとり森の上まで浮かび上がり、のんびりと山を下りはじめた。結局、その無防備な背中に追いすがる者は誰もおらず、弾も矢も飛んでは来なかった。
青娥が遠ざかる距離に比例して、包囲を固めていた白狼天狗たちに安堵の空気が流れはじめる。やがて頃合いを見計らい、斜面上方にいたリーダー格が指示を飛ばす。
「侵入者は下がった。警戒態勢を変更する。イ班は引き続きこの周辺を警戒、あの邪仙を見張れ。ロ班はニ班と合流、第三級の警戒態勢を継続。チ班は相方同士で散開しつつ後退、待機中のホ班と交代せよ。ホ班への伝令と上にする報告だが――――」
森の上をゆく青娥は、あくびをしながらのんびり山を下る。自分がいた場所を確かめるように周囲を見渡しはしても、また山を登り返すような素振りはまったくない。
そして、芳香の姿はどこにも見られなかった。
~ 6-3 ~
「…………よし。もう平気そうね」
茨華仙は腕を組んで仁王立ちし、遠い闇の向こうを得意気に睨みつけていた。華仙の屋敷の屋根の上、傍らには龍を従えている。
「天狗には悪いけど、そのお仲間がこっちにもいるからってことで許してもらいましょ」
屋敷への侵入を防ぐ華仙の結界、そこへ堂々と踏み込んでくる者が確かにいた。少々強引にごまかしたからいいものの、華仙の態度に出てしまい、来客中の天狗にも感づかせてしまった。妖怪の山に住む身としては、これ以上この天狗が危険な目に遭う事態は避けたいところである。
そして、侵入者を天狗の縄張りまで誘導できたし、そこへ天狗が駆けつけたのも、慌ただしい気配が屋敷にまで伝わってきたのでわかる。また、ほどなくして天狗の敵意が落ちつきを取り戻したことから、侵入者は華仙の狙い通り無事に追い返すことができたようだ。再び華仙の結界に侵入者が引っかかる様子もない。
来客を守れたことで自分のメンツも保つことができ、華仙は一安心である。龍の頭を撫でて労をねぎらい、酒盛りを続けているその客のもとへ戻るために屋根から降りる。
「それにしても、相手はふたりかな。いったい誰だったのかしら……。偶然にしては動きに迷いが感じられなかったし……術は仙人みたいだったけど……うーん」
有力な仙人の顔をいくつか思い浮かべても、その誰をとっても動機にまではさっぱり思い当たらない。
「ま、何にしろ、これでもう邪魔は入らないわね。ひとまず結界を強化してあとは…………。うん?」
中へ通じる扉に手をかけたその時、なにか、後ろ髪を引かれるような気分になった。
華仙は振り返る。
遠くで梟が鳴いている。
しばらく経ち、龍が心配そうに華仙の顔を覗き込んだ。
「……ううん、なんでもないわ」
また誰かが結界に入り込んできたわけでもなく、はじめに感じた邪な雰囲気もまるでない。
華仙の住処は天狗の把握するところではあった。もしかしたらあの騒ぎの後だということで千里眼を持つ白狼天狗が念のため近辺に眼を走らせたのかもしれない。
面倒を押しつけたことがバレたとして、事情を聞きに来られても隠し立てすることもないかな、と適当に考え、華仙は中へ入り、扉を閉めた。
~ 6-4 ~
「…………………………………………」
鹿が一匹、音もなく妖怪の山を闊歩している。先ほどまで大挙していた白狼天狗も去り、安心して餌を探している。
獣道を進んでいると、頭を残して土に還った芳香が転がっていた。鹿は、芳香の身体を成していたものの上を通りかかり、土とも朽ち木ともつかない感触の変化にも気づかず、鼻を鳴らしてその場を去る。
「…………………………………………」
芳香も、その頭は鹿に反応を示すことはなく、濁った目で枝の隙間から夜空を見上げている。
ゆっくりとした瞬きがひとつ。しばらく間を置いてふたつ。やがてみっつ。時を刻むようにして眼を乾燥から守っている。
見る。そのひとつの機能だけを残し、芳香は転がっている。頭は先ほどまでいた仙界の方角へ向き、感情も思考もなくその場に居続ける。
「…………………………………………」
~ 7 ~
いつものように夜が明けて、いつものように日が昇る。今日も今日とて何事もなかったかのように太陽は素知らぬ顔をのぞかせた。
はたてはその日差しを顔に浴び、目を覚ました。夜の間に世間で何が起ころうとも、何も知らなかった者、あるいは何も気づかなかった者にとっては何事もなく迎えるいつもの朝である。
――――……
小鳥のさえずりが耳に入る。このほどほどのやかましさ、朝になったのがわかる。
「…………?」
しかし、目を開けてもここがどこだかわからない。
その上、起き上がれないどころか仰向けのままろくに身動きすらとれない。
自分を押さえているものを見る。それはお布団ではなかった。真っ黒い毛皮が胸とお腹に回っていた。
「…………!」
パンダに抱きかかえられていることにやっと気がついた。
そうだ、ここは仙人の家だった。そうそうあの仙人、茨華仙の好意に甘え、昨日は酒盛りをした流れでお泊まりまでさせてもらったのだ。正体の知れない外敵かもしれないものから難を逃れたと思いきや、この巨体のパンダに気に入られ、絡み酒に襲われたのだった。
私も相当酒が回っていたが、確かベッドで寝入ることはできていたはず。それなのにどうしてか、今の私は床の上でパンダ共々仰向けである。首をひねれば、私が入ったはずのベッドの上には虎が丸まっているのが見えた。
華仙の姿はない。昨晩の記憶は、華仙が中座から戻ってきた辺りからだいぶ怪しい。あれは鬼のような酒の強さだった。
この部屋はこの有り様でも一応は客室なのだろうから、あの仙人は自分の部屋で寝ているのだろうか。客室で自分のペットをこうまで好き放題させるなんて、私でなければクレームものだろう。
それはそれとして、このパンダの腕とおなかは抱えられているだけでぬくぬくとあたたかい。パンダの毛皮は肌触りが良くないという噂に反し、これはなかなか寝心地がいい。華仙が来るまでこのまま二度寝をしてしまおうか。
と、思ってまどろもうとしたところ、部屋の扉が開かれた。
「朝ですよお、顔を洗ってご飯にしましょう。……って、あら?」
華仙が顔をのぞかせた。華仙はベッドに向かって声をかけたけど、そこには私はいないのですよ。
ベッドからは私の代わりに虎が華仙に気づいて起き上がる。ぐぐうっと伸びをする姿を呆気にとられて見ていた華仙は、ハッと横を向き、パンダのおなかに抱えられた私と目が合った。
「…………あれ?」
「…………アハハ」
華仙にも気づかずに眠り続けるこのパンダは、華仙が慌てて私を腕から引き剥がしにかかっても、ちょっといびき声をあげただけで目を覚ますことはなかった。
「重ね重ね、本当にごめんなさい……」
「いえ……、えと、毛並みの手入れが行き届いてたから、おかげで気持ちよく眠れましたよ?」
深々と、華仙は昨日よりも頭を低くして詫びの言葉を並べる。これでは逆に私の立つ瀬がない。華仙のおかげで一発二発もらってはいるが、それを差し引いても仮にも昨晩助けてもらった分が余りある。しかも私がどう返事をしようとしても、浮かぶ言葉はすべて皮肉めいてしまうためなおさらきまりが悪い。内心は落ち着かないのに、話は朝食もご馳走してもらうということで落ち着いてしまった。
昨日の真相について、華仙は何も伝えてこないし、私は何も聞く気になれない。つまり昨晩は何も起こっておらず、私は厄介者ではなく依然お客様、そういう了解なのだろう。私はそう理解して、おとなしくご相伴に預かることにした。21:18 2018/03/31
「それで、昨日の話の続きなんだけど……」
そのため、唐突にその話を蒸し返されたと思い、危うく食後のお茶をむせてしまうところだった。
「……ええ、何の話だったかしら?」
どうにかこらえて、何事もなかったように聞き返す。
「はたてさんの念写の話よ。やっぱりひとつ仕事を頼めないかと思って」
「ああ、はいはい。……え、仕事?」
確かに、念写をしてもいいですよ、とは昨日自分で言ったことではあったはずなのに、なぜだろう、昨日と違って嫌な予感がする。
「前々から部屋に写真を飾りたいなと思ってて。例えばこの子たちの写真とか。せっかくのご縁だから、はたてさんにお願いしたいのよ」
食卓の脇には笹をムシャムシャ食べるあのパンダや、トウモロコシをかじる見たことのないネズミのような動物までいる。華仙は手近なところにいた大鷲の顎を優しくくすぐった。この動物たちを撮るだけなら念写の必要性こそないものの、どう聞いても真っ当な写真撮影の依頼である。
しかし――――
「あと、『昔』飼ってた子の写真も欲しいのよねえ」
その一言によって、私に緊張が走った。
この仙人、予想以上にしたたかだった。
「念写って昔の写真も撮れるんでしょ?」
さらっと聞いてきたその問いに対し、私は慎重に、この三日間で一番注意深く、言葉を選んで答える。
「私ができるのは、過去に撮られた写真を探しだすことぐらいなものよ」
「元々写真がない場合は撮れないの? 去年のうちの子たちとか」
「……うーん残念だけど、それは無理な注文だわ」
「……もしかして、昨日言ってたフィルターが関係してたりする?」
やはりそうだ。華仙は、昨日私が意図的に省いた説明に感づいていた。目的は知らないが、私を守り恩を着せ、おまけにたらふく飲み食いまでさせたのは、まさかこのためか。
省いた説明とは、念写と時間の関係のこと。私の念写は時間を隔てた撮影が可能であるということだ。
黙る理由は単純。怖いからだ。
私は、念写を知られるのが怖い。そしてそれ以上に、私が『過去』の念写をできてしまう、それを知られることが段違いに恐ろしいのだ。
過去というものは、時間とともに風化するものである。ところが世の中には風化した過去に浪漫を見いだし探求する者がいる。過去を探ることに浪漫を見てしまうのは、風化した過去はどう探ろうとも確定せず、そこに夢を見ることができるからだろう。一般的にはきっとそう。
しかしこれは私にとってはとんでもない話である。
写真という一場面を切り取った画を評するのに相応しいかはわからないが、真実を写し出すのが私の念写なのである。以前一度だけ成功した過去の念写もまた、やはり正確であったのだ。
ただし、一度成功したことではあるが、今の私では過去の念写はできなくなっている。一度目以降、私が元来持ち合わせていた念写自重フィルターが恐れをなし、厳重に強化されたからである。
何が恐ろしいのかといえば、仮に私が過去を念写すれば、風化したはずの過去を確定させることができてしまうことである。リアルタイムの念写ですら嫌がる者が大勢いるのだ。これは知られていいことではない。身内やにとりにだって話したことはない。唯一、うちの親が感づいている可能性はあるが、許容できるのはそれぐらいだろう。
過去の風化した曖昧で欠けた事実の隙間の闇には、間違いなく地雷が眠っている。踏むのはごめんだ。
「…………」
「――――はたてさん?」
「 ! ああ、ごめんなさい。私の念写は不自由が多いのよ。どう説明しようか考えてたわ」
さてどうしたものか。
華仙は私の念写の可能性に当たりをつけた。そこに悪意があるかは問題ではない。昨晩の不審な出来事に華仙がどう関係していようともかまわない。私の被害妄想、もとい私の脳内セキュリティが警鐘を鳴り響かせる。
要点はひとつ。
過去の念写、この秘密は否定されなければならない。
「そうねえ」
私の口からは意外に冷静な声が出てきてくれた。
「まず、私の念写なんだけど、昨日も言った通り、フィルターがあるの。そのフィルターは勝手に他人の秘密を写さないようにするためのもの。今でこそ機能のひとつとしてある程度操作はできるけど、元々は防衛本能が形を持ったような代物だからね。外そうと思って外せるようなものではないのよ。過去なんていうのは秘密の塊。それを念写するなんて大それたこと、仮に可能だとしても絶対フィルターが譲らないわね。そもそも念写は空間を超越する能力だし、時間は関係ないわ」
「じゃあ、古い写真を念写できるっていうのは?」
「古い写真でも、基本的に公になってる隠されてない写真しか撮れないわ。しかも今もどこかで現存してるものに限るから、結局は今現在を念写してるに過ぎないの。ちなみに逆はあんまりないけど、後からタブー視されるようになって撮れなくなることだってある。条件がなかなか厳しいけど、私の念写自重フィルターはその辺そこそこ神経質なのよね」
「いいことだと思うわ。倫理観が根っこからちゃんとしてるってことだから。とても立派よ。面白おかしく他人の秘密を暴こうとする記者が多いからなおさらそう思うわ」
「あーまー、別に立派とかじゃなくて、ただ怖がりだからそうなっただけなわけで……」
「でも、過去は秘密の塊って言ってたけど、明らかに危険性がないって場合もあるんじゃない? 私のペットだってやましいことは何もないわ。そういうのまで自重しちゃうの?」
「もうっ、だからそっちは自重も何も、私は過去の念写なんてできないんですってば」
「え? ああ、そういうことでしたか。ふふふ、ごめんなさい」
「こうやって誤解されるのが嫌だからそもそも念写を知られたくはないわけよ。だから、華仙さんも絶対秘密にしてくださいね? ほんとに冗談では済まなくなるわ。……私はですね、壁に耳あり障子に目あり、そういうことだと思ってるの。もし悪どい奴がいて、そいつの耳に念写をする私の噂が流れたとして、そこから今みたく過去も念写できるなんて誤解されでもしたら、最悪拉致られて、私は使い捨てカメラにされちゃうわ。そんなのは御免よ」
「うーん……それは心配しすぎじゃないかしら。念写が邪魔ってだけで天狗を完全に敵に回すような短絡的なやつは幻想郷にはいないでしょ」
「そうね。でも、その気はなかったんだ、とか言って気まぐれを起こされでもしたらたまんないわ。だから、これでいいと思ってる」
「なるほどね……。わかったわ、口外しないと約束しましょう」
私としてはなかなか悪くない言い訳である。存外にスラスラと話せたし華仙の追求もひとまず止めることができ、私自身に余裕も出てきた。これなら誤魔化しきれる。
そう確信した時、華仙から感想程度の疑問が投げかけられた。
「それにしても、ずっと新聞記者をやってるんでしょ? 念写は知られたくないのに、それでも念写を使って新聞を書いてるのね。難儀なことだわ」
「………………………………」
そのつぶやきに対し、私の思考は動きを止めてしまった。
この時の私は、特別おかしな表情はしていなかったと思う。普段通りの、退屈してるわけでもないのになんとなくつまらなそうにした仏頂面。ただ少し、普段より目を見開いていたかもしれない。そうした私の動揺はささいなもののはずだったが、華仙に気づかれるくらいには隠せていなかったらしい。
「……どうしました?」
「…………ぁー……」
私の頭の中は今、奇妙な驚きによって支配されている。まるでケータイを探していたら手に持っていたとか、印刷をはじめた途端に誤字を見つけた時のような、自分の頭を自分で疑ってしまいたくなる衝撃がかつてないほどに頭を駆け巡っている。
そのため華仙に呼びかけられても、私はすぐにまともな返事をすることができなかった。
華仙の発したその一言で、モラトリアムに終わりが見えたのだ。
~ 8 ~
華仙に見送られ、私は無事に帰宅することはできたが、その間終始ぼうっと飛んでいたためその道中の記憶は特に残っていなかった。せいぜい覚えていることと言えばやけに日差しがまぶしかったことくらいだろうか。
部屋に腰を落ち着けてもその調子は変わらず、物思いに耽り、まんじりともせず座椅子にもたれかかっていた。しかし物思いに耽るとはいっても、実際はただ漠然と昔の記憶を浮かんでくるがままに反芻するばかり。
思い出すのは、私のきっかけの話。かつて、私と文がケンカばかりしてなどいなかった頃で、私が新聞記者になった頃の話。私が憧れて、夢を語り、苦しむようになるまでの話。
初心忘れるべからず、とはよく言うものの、その難しさは、難しいと感じられない掴み所の無さにあるのかもしれない。どれも大切な話には違いないはずなのに、記憶に留めようと意気込めばよかったのかといえば、それも何か違う。そう感じている。
大事なのは思い出せたということだと、そう思おう。
遠くの鳥の鳴き声しか聞こえてこない部屋の中、思い出すことのできた私はゆったり眼をつむって過ごしているのに不思議とまったく眠くならない。活力が湧いてくる感覚が次第に無視できなくなり、やがて目を開いた。身体に馴染んで完璧な居心地のはずの座椅子が、今はどうして疎ましい。すぐにでも外へ出て、何かしらの行動をとることを身体が欲している。今日はそういう元気な日だ。嬉しいとか楽しいとかではなく、身体が行動をとれる日だ。
「……ほっ!」
やるべきことをひとつずつ消化してゆくことにしよう、そう決めると、私はせっつくように座椅子を離れた。
まずはシャワー。昨日は魔理沙の魔法に焼かれたまま日をまたがせてしまった。ちぢれかけた毛先をハサミでささっと切りそろえ、念入りにトリートメントをして様子を見ることにする。
カラスの行水などという言葉があり、自分たち鴉天狗もそうなのだろうと思い込む輩がいるが、そんなことはない。そんな言葉があるからそういう輩が目立つのだ。個人の性格に依るのはどんな種族もそうだろう。私としては、きれい好きとまでは言えないものの、できることならカラスに由来するこの艶はやはり磨いておきたいものである。
風呂上がり、髪が乾くのを待つ間にざざっと部屋の掃除をすませ、昨日の朝に届いた荷物を開封する。そういえばこの荷物を配達してきたのは文だった。こっそり開けられた痕があるかも知れない、などと用心してみたが、それはまったくの杞憂で終わった。荷物の中身は抱き枕。獏の妖怪が作ったとの謂われをもち、夢見心地が良いと評判になった品である。頭を乗せて良し、抱いて寝ても良しの優れものと思って買ったものだ。しかし、ほんの数時間前まで寝ていたパンダのお腹に比べるとどうしても見劣りしてしまう。横になって試しに背中を預けてみても、やはりあの大きなお腹に抱えられていた時のような安定感までは得られない。贅沢を覚えるタイミングが悪かったことを嘆きつつ、荷物の箱を潰して玄関へ運ぶ。髪が乾いたところで新しく外行きのシャツを着た。今朝まで着ていたのはあちこち焦げていたのでさすがにもう着られない。この市松模様のスカートもまた実家に頼んでおかなければ。
玄関から出ようとしたところで、昨日の朝に握り潰した文の新聞が目に付いた。拾い上げてシワを伸ばし、しばらく眺める。
ただ、見えているものは写真でも本文でもなく、あいつの顔だった。
「…………さて、と」
帰ったら改めて読めるよう机の上に置き、私は部屋を出た。
里の中を飛び、ほどなくして到着したのは商店街。ここでは店舗が急斜面を塗り固めるようにして並び、その様は段々畑のようでもある。その店々の正面を繋ぐ木道は立地の割にかなり広い。一段下にも並ぶ店舗が覆われるほどの幅で作られているためだ。
カンカンコンコンと、その木道の上で一本下駄が鳴る。往来をぶらつき、私は目当ての店を目指していた。
店舗の入れ替わりはあまりないことなので記憶を頼りに探してもそう迷うことはない。この階は飲食が目立つ。飯屋や茶店、呑み屋の看板とのぼり旗ばかりだ。今は昼時ということもあって賑わってはいるがさすがに酔っ払いの姿は見られない。
そして私の目当てはここ、贈答品も扱う和菓子屋である。昨日、親切にも私のケガのために医療品を分けてくれたという紅魔館の門番さんへお礼をしに行くためだ。
「いらっしゃいませー」
店に入ると、できたて焼き菓子の温かい匂いに包まれた。この店は隣の軽食屋と提携しており、中も暖簾を隔てて繋がっている。そちらでできたての商品の味を見ることもできるおいしいお店なのである。
商品の陳列された台には、高そうな箱に入った上品な銘菓もあれば気軽に買い食いできるお団子まで並べられていた。赤色を好むと聞く紅魔館の主人にちなんだ品を探したが、めでたいわけでもないのに紅白饅頭しか見つからない。期待していたイチゴ大福も、まだイチゴの時期には早いらしい。まあ、紅白饅頭といえど真紅にはほど遠いピンク色なのだからどっちもどっちではある。
「すいませーん、贈り物でこの六個入りのやつがふたつほしいんですけど、紅と白、別々の箱に包んでもらえますか」
「はあ……紅だけの饅頭と白だけの饅頭ということですか?」
紅白饅頭の白抜きください、とはさすがに言えなかった。しかし白い饅頭も渡す当てはあるから別にいいのだ。白なら単品だと普通の饅頭にしか見えない。こっちはにとりと椛に持っていくつもりである。にとりはこれからもお世話になるし、椛には心配をかけたお詫びというわけだ。
さて、とりあえず買うものは買った。そして私も甘いものが欲しくなってきた。華仙の家では割とボリューミーな朝食をいただいていたのに、買い物中ずっと漂っていたお菓子の匂いに胃袋が刺激されてしまったらしい。店側の策略にまんまと嵌められたことを恨めしく思いつつ暖簾をくぐる。せめてもの抵抗としてニヤつかないように渋い面をつくろってみたが、傍目に見れば滑稽なだけだろう。
「あれ、はたてさん」
「うげっ……コホン、ああ椛じゃない、奇遇ね」
敷居を跨いだ先には間の悪いことに、先客として椛が数人の白狼天狗と入っていた。ちょうど会計を済ませたところらしい。変な顔を見られたのもこっぱずかしいし、買ったばかりの贈り物の袋まで見られてしまった。別に椛とにとりの分は大した意味もないのでさしあたり見つかっても気にすることはないのだが、買った直後に見られたくはなかった。
「皆さん仕事あがり?」
「そうなんですよお。聞いてくださいよお。大変だったんですからあ」
よく見ると、椛も他の白狼天狗も足元に薄く土や草を擦った跡がついている。そういえば店の外には白狼天狗の哨戒装備がまとめて置かれていた気がする。
椛は同僚に手を振ると私に続いてテーブルに腰掛けた。いいのかと問えば、実は食べ足りてなかったんです、と椛は答え、私に続いて団子を五本も注文した。
「侵入者ですよ侵入者。おかげで昨日の晩から当番を前倒しで呼び出されて、そのまま普段の日勤ですよ? しかも午前半日だからってきっちり定時までですよ!? 夜食も朝飯もろくにとれなかったからもう堪りませんよ。私たちの次の班はいつもどーりの時間に来るし。話は聞いてるはずなんだから気を利かしてちょっとは早く来るとかしてくれてもいいとは思いません?」
「あらら、本当にお疲れ様な話じゃない。それにしても穏やかじゃないわね。戦闘になったりはした?」
椛は昨日会った時には普通に見えたが、この喋り様、もしかしたらその時点でもう鬱憤が溜まっていたのかもしれない。見事な食べっぷりだ。団子の皿がきたと思ったら椛はもうすでに一本目を食べ終えている。
「いえ、睨み合いの段階で向こうが退いてくれました。二段階上がってた警戒態勢も夜明け過ぎには元通りになったんですが、それでも上はまだ少しゴタゴタしてるっぽいですよ。抗議文を送るとかなんとかって噂です」
「抗議文? なに、侵入者はそんな大物だったの?」
「大物かはともかく評判は悪いですね。侵入者は霍青娥、新顔のあの邪仙だったんですよ。私は途中参加ではじめからは見てないんですけど、私らの領域で何か怪しげな術を使っていたって報告です」
「……へー…………」
霍青娥、その人物の名前を聞き、嫌な予感がした。霍青娥といえば一昨日念写してしまったばかりの仙人ではないか。それが山へ侵入してきたと聞いてしまっては私の胸中は穏やかではない。そういえば、華仙の屋敷は白狼天狗の警戒網からさほど離れてはいなかった。そして聞いてみれば、昨日のあの不審な出来事と時間帯はどうも同じらしい。
そうなると霍青娥の目的が気になってくる。まさか、私の念写に感づいたということはあるのだろうか。何らかの方法で念写の気配を追跡して山までやってきて、華仙の屋敷にいた私のもとへたどり着きそうになっていた、なんてことはありえるのだろうか。
「……ちょっとごめんね」
確認し忘れていたことに思い当たり、私は断りを入れてケータイを開く。昨日は念写自重フィルターが反応したことばかりに気をとられ、フィルターが反応しない『安全な写真』は念写できていたのか、それを確認していなかったのだ。
サッと流して見た限りで言えば、一昨日にも撮ることができた『安全な写真』の類いは念写を完了しているようだった。前回と大体同じ顔ぶれが写真に収まっている。
しかし、その中に霍青娥の写真は見られない。一昨日は、フィルターに引っかかることなく霍青娥が撮れていたのは確かだ。今ここにないということは、昨日の念写では安全ではないためフィルターに弾かれていた、ということになる。検索ワードの詳細が変化したことによる揺らぎが原因で念写されなかった可能性もあるが、確かなことはわからない。そして山への侵入に私の念写が関係しているのか、それもやはりわかる訳もなかった。侵入した目的がわからないから無理もない。ただモヤモヤするばかりだ。
「はたてさん? どうかしました? ケータイの調子良くないんですか?」
ケータイとにらめっこしすぎてしまったらしい。ハッとして前に向き直ると、すでに椛は団子を食べ終え、急須からお茶を注いでいた。
「ごめんごめん、まだ使い慣れてないけど問題ないわ。その仙人の写真が撮れてないかと思ったんだけど、まだ大して写真を撮ってなかったわ。これじゃあ何の協力にもならないわ」
「そうでしたか。まあ後は上のお偉方の仕事ですから。気にすることはありませんよ」
「それもそうね。……よかったら私のお団子も食べて――――」
「ええっいいんですか!?」
予想以上の食いつきに少々面食らい、苦笑いしつつ私はお茶をいただく。
さて、落ちついて考えてみればだ。結論の出ないことをあーだこーだと考え続けるより、自意識過剰で取り越し苦労、ひとまずそう割り切ることが一番だろう。たまたま被写体にしてしまった人物が山へ侵入してきたのは事実としても、それをさも原因までもが自分だと早合点してしまうのはよろしくない。私が世間様を動かすだなんておこがましい。
そんな余計な心配をするよりもこうして仲間を労う方がよっぽど有意義である。こんなに美味そうに食べてくれれば奢り甲斐もあるってものだ。
「あーそれともうひとつ。もしかしたらこっちの方が本題かもしれないんですが、文さんがはたてさん探してたみたいですよ? ……そんなあからさまに嫌そうな顔しないでくださいよ。もう会いました?」
いきなりの話題に少し焦る。口喧嘩のようなことはしたが、文が謝りに来たのだろうか。いや、そんな気はしない。
「……まだよ。探してたってのはいつ?」
「侵入者の報せが来る前です。私はまだ自分ちで寝てましたね。はたてさんがどこにいるか知らないかと写真まで持ってきたらしいです。すぐに侵入者の一報が来たもんですから、もうそれどころじゃなくなっちゃったんですけどね」
「……あのあいつがあなたたちの目を頼るほど急ぎの用があったってこと? 何よそれ。私さっきまで自分の部屋にいたけど何の便りもなかったわよ?」
邪仙の方はともかく、文については急用となると本当に心当たりがなく、困惑するしかない。そして要件にもよるが私からはまだあまり会いたいとは思えない。仲直りしようにもまだ心の整理が終わっていないし、正直今はそれどころではない。
「いや、別に急いでるわけではなかったみたいです。侵入者の件が一区切りついた時には文さんとっくにどっか行っちゃってましたし、書き置きもなければ追って指示も来ませんでした。たぶん、居場所に見当がつかないからとりあえず私たちを頼ったってところじゃないかと思います。……えっと、何かあったんですか?」
「…………うーん」
「…………。ところで、はたてさんはこれからお出かけですか? お土産買ったみたいですけど」
歯切れの悪い私を見て椛は何かを察したのか、話題を切り替えてくれた。
私の足元にはつい今しがた購入した、ちょっと値の張る饅頭の入った紙袋がふたつも置かれている。椛の分も含んでいるこれを見られてしまったのは別にもうかまわない。しかし、先ほども問題はないと結論付けたばかりなのに、この饅頭には別の問題があることに気がついてしまった。賞味期限が今日から三日間しかないのだ。それはつまり、速やかに紅魔館へ饅頭を届けに行く必要があるということである。
「ええ……そうね……」
本来なら何の問題もない。
しかし仮に先の不安が的中していれば、私が山を下れば狙われる可能性が出てくる。巡り巡って念写が危険を運んでくるという、私が何をおいても避けてきた事態を自分から招いてしまうことになる。
それは今日も避けなければならない。
可能性として無くはない、その程度の危険性だろうと避けるべきである。少なくとも山への侵入者の件が完全に片付くまでは様子を見たほうがいい。紅魔館へのお礼が遅れてしまおうとも、紅白饅頭の変な買い方を繰り返すことになろうとも、身の危険が想定されたのだから私はいつものように回避するべきである。
「私、ちょっと紅魔館に用事があるから出かけてくるわ」
「ああ、昨日話してた件ですね。……お気をつけて」
それでも私は、踏み込んでしまうことにした。
今朝、華仙のおかげで私のモラトリアムに終わりが見えたばかりなのだから、今日の私はこの程度でひるんでいる場合ではないのだ。
~ 9 ~
みなさん、こんにちは。
紅美鈴です。
ご存じの通り、私はレミリア•スカーレット様に仕える忠実なる紅魔館の門番であり、今日も変わらず忠勤に励んでおります。
ただ、身内のことではないですが、不満がひとつだけ。
悲しいことに、私の勤務態度のごく一部だけを取り上げて、無能やら緑の置物やら言いたい放題してくれる輩が絶えないのでございます。これがもうまったくもって失礼な話でして、この紅魔館に必要とされる門番像というものがあるのに、それがなかなか理解してもらえないのです。
そもそも門番とは言いますが――――
(中略)
つまりこの仕事は気を抜いて良い時と悪い時のメリハリが重要であり、私はそれを十分に心得ているということなのです。
今日もほら、このお客様のように紅魔館に初めていらした方にはちゃーんと寝過ごすことなく対応しております。ま、当然ですね。証明は難しいですけど偶然なんかでは全然ないのです。
お客様の名前は姫海棠はたてさん。なんと昨日のお礼と言ってお土産を持ってきてくださいました。
昨日は外部の妖精に頼られて簡易的な医療品をお分けしただけでしたが、それでもお役に立てたようで何よりです。あの時は某白黒魔法使いさんによるマスターなんちゃらと思われる閃光が湖のはす向かいから見られまして、私が持ち場を離れるわけにもいかなかったから心配してたんですよ。
はたてさんには中でお茶でもどうかと誘ったんですけど遠慮されちゃいました。お礼にきた以上にもてなされたらかなわない、というのはわからないこともないんですけどね。
ところで、今日の湖は霧が濃いです。私は毎日こうして門前に立っているからわかるんですが、今日の霧は何というか、変です。何かがおかしいです。でも何がいつもと違うのか、具体的には見当もつきません。強いて言えば、白は白でも色違いの白とでもいうような、そんな些細な違和感がある程度です。
この霧はついさっき発生したばかりのもの。湖に溜まっていたものが押し流されてくるようにスゥッと景色を飲み込むように流れてきました。この昼過ぎの時間帯でも霧が発生することは大して珍しくはなかったと記憶してます。はたてさんも「今の季節、山なら何時だろうとガスる時はガスるわよ」とおっしゃっています。ここらも平野とはとても言えない地形ですし、そもそも霧の湖と名付けられるほどの名所の目の前ですからね。あまり気にすることではないのかも知れません。
結局はたてさんはこの濃霧をダシにしてお帰りになられちゃいました。違和感が消えないので心配ですが、鴉天狗なら平気でしょうか。
…………あれ?
…………あれれれ?
おかしいぞ? はたてさんの気配が…………消えてる?
そこまで速く飛び去ったようには見えなかったけど…………なるほど、違和感の正体がわかりました。卑しくもこの私が、霧の中の気配をまるで探れないじゃないですか。遠くで、おそらくはこの霧の向こう側、妖精と思われる気配が穏やかに霞んでゆくじゃあないですか。向こう側の様子からして霧そのものに攻撃性があるわけではなさそうです。しかしこれはもう十分異常です。
さて、ついには私も霧の中。お客様もそうですが、これは紅魔館の危機でもあります。
ではでは、大きく息を吸ってえー……――――
「!!! 咲夜さんっ !!!」
――これでよし。咲夜さんならこれで気づく。気配が消えたであろう私から名前を呼ばれれば異変を察して動いてくれる。
さてさて、霧の中には何がいるんでしょうかねえ。この紅美鈴の目が黒い内には相手が誰であろうと……て、あーるぇー?
霧が、紅魔館から離れてる?
「どうしたのよ美鈴、こんなお昼に大声なんか出して。お嬢様方が起きてしまうじゃない」
おおっと、流石の咲夜さん。もう館内をチェックした上に私の加勢に来てくれるとは。でも私としては格好が悪いのですよ。せっかく覚悟を決めたところなのに、異変の方から去っていってます。
「んあ、いや、咲夜さん、すみません。でもでもですね、この霧、おかしいんです」
「霧? ……そうなの? 私にはよくわからないわ」
「どうやらこの霧に包まれたら、その中にいる者の気配が感じられなくなるようなんです」
「……そう。……暗殺か、大軍を隠すための能力ってわけね」
「ええ。どうしましょう。この霧はあまり大きくないようなんですが、たった今帰ったばかりのお客さんが中に入ったまま、抜け出した様子がないんです。妖精の普段通りの気配なら霧の向かい側にも感じられています」
「誰か来てたの? 良くないわね。どちら様?」
「鴉天狗の方がひとり」
「鴉天狗? それなら下手に手を出さない方がいいかしら。自分からこの霧に飛び込むのは得策ではないわ」
「じゃあとりあえず警戒だけ――」
「――あいや失敬!! その話! 詳しくお聞かせ願いたい!!」
「―――― !」
そういえばですね、私は気配を探るのは得意なんですけどね。そのせいか、遠方から強者の気配に急接近されるというのは本当に心臓に悪いんです。今みたいな非常時にそんなことをされたら、思わず手が出てしまうのも仕方のないことなのです。
だからこの一発くらいは大目に見てもらいましょう。私の掌底打ち、あっさりかわしてくれちゃいましたしね。
「やあやあどうも! 毎度お馴染み、射命丸でーす!」
私のまさに目の前、私の手首の上に降り立ったのは本日二人目の鴉天狗さん。こちらはよく見るデタラメにお速いお方です。それにしても今日の営業スマイルは目が笑っていませんね。
「美鈴、鴉天狗のお客様ってこれのこと?」
「いえ、違いましたよ」
「あら、じゃあきっとこの霧の関係者ね。逃がさないわよ。お茶の時間はこれを締め上げてからにしましょう」
咲夜さんの両手いっぱいのナイフからは私諸共仕留めようとする気配が感じられますが、きっと勘違いでしょう。
「あやや、私はただここに来ていた者の名前を確認――――」
「客人のプライバシーに関わりますので答えかねます」
「間違いなく私の身内なんですけど?」
「関係ありません。美鈴」
「いやー悪いですね。そういうことですので」
「声をかけたのは失敗でしたね……。仕方ありません……じゃなくて、やむなし! ……いやいや、詮方なし? うーん、どれも大差ないわね。…………」
「何です? それ」
「いえいえお気になさらず。ちょっとした文章の研究ですよ。…………なるほど、単語そのものよりも使い方の問題なのかも。……コホンッ……しょーがないですねえ! ソッコーで負かせてやりましょう!!」
~ 10 ~
霧の中に飛び込む前から、霧が濃すぎるとは思っていた。それでも私は暢気にも身を隠せて都合がいいなどと考えていた。やっとおかしいと気がついたのは、足元が霞み、湖面までもが見えなくなっていることに気がついてからだった。進行方向が見えないのは我慢するしかないとしても、周囲どころかどの程度の高さにいるかもわからないというのは非常に心細く、飛行を続けることが躊躇われた。しかし安心を得るべく湖面に着くまでゆっくり下降しようとしても、どういうわけか、重力は私の身体を引っ張ってはくれなかった。落ちることもできずに勝手に浮遊するばかりだ。
私はこの時になってようやく認識した。私は今、異常の中にあると。
周囲は静まりかえり、耳のすぐ内側から鼓動が聞こえてくる。
この妙な霧のせいなのか、方向感覚がなくなっている。進行方向どころか重力の方向までもが曖昧だ。なぜか頭上に湖面があるように思えてしまうし、足元の方にあると思い込めばそのような気もしてくる。何かが見えないかと周囲を見渡しても、手足から先はすべて霧の向こうへと消えていた。しかもそうして首を振る度にいちいち髪が顔にかかってうっとおしく、焦りだけでなくイラつきまでもが冷静さを削ってゆく。
おそらく、などとはもう考えられない。もう間違いなく、この怪異は人為的な罠だ。誰によるものかも、考えるまでもなく私の中では確定していた。万が一といって半ば侮っていたその可能性が今、私を恐怖で縛り付けている。
きっとこの罠を仕掛けたその術者は近くにいるに違いないのだ。
たまらず私はケータイを取り出した。そして自分と術者の位置関係を念写するためすかさずカメラ機能を呼び出す。だが、何もしなかった。私は念写をためらった。念写が呼びこんだであろう危険を前にして、今ここでさらに念写をしてもよいものなのか。この期に及んでそんな迷いが出たのだ。
そんな折、後方から声が聞こえてきた。
「――――さ……やさ……――――」
私は耳を澄ませようと反射的に硬直し、静かにその声のした方を向く。
ほとんど聞き取れなかったが、今のはさっきの門番さん、美鈴の声に聞こえた。出所は大まかにしかわからなくても、今の私にとっては貴重な情報である。落ちることはできないが飛べる。あっちに行けば美鈴がいる。その魅力的なふたつの情報が私を動かした。
しかし、二秒ほど飛んだところで、目の前に湖面が現れた。壁のように立ちはだかられる事態に反応できず、私は頭から着水した。
パニックである。顔面を打ちつけ目が開かない。口鼻に容赦なく水が流れ込んでくる。いくら浮上しようと慌ててもがいても、方向感覚が狂っているので身体を立て直す向きがわからない。痛みをこらえて開いた視界を頼りにどうにか水面から顔を出し、激しく咳き込んで呼吸を繋ぐ。重力はないが浮力はあるらしい。痛む鼻を押さえて周りを見渡しても、湖面以外には何も見当たらない。
そして次の瞬間、背筋が凍る。
気づけば今度はケータイが無い――――なんてことはなく、手に持っていた。奇跡的に手放していなかった。太い吐息とともに凍った背筋はたちどころに解凍される。流石の河童製、水没しようと問題ない。カメラ機能のまま私を待ってくれている。唯一の希望とばかりにおでこ辺りに祈るように掲げ、先の逡巡などあっさり忘れ、念写した。
検索ワード『私 この霧の術者 相対位置 俯瞰』
腐っても私は鴉天狗。天地がわかった今、後は霧の中の状況さえわかれば最短距離を飛び抜けて逃げることができるはず。ただそれだけを内心言い聞かせながら『念写中』と表示された画面を睨みつけて待つ。
「こんにちは」
そこにたった一言、真後ろからかけられたただの挨拶。その突然の衝撃に私の心臓は悲鳴をあげた。私は文字通り飛び上がって一目散に逃げだし、そして、つんのめるようにして再び湖へ落っこちた。
「あらあら大丈夫? ほーら、暴れないの。よいしょ」
訳の分からぬまま引きあげられ、ついにその人物と対面した。見上げたその顔は薄く影がかかっていたが、その笑顔をつくろう眼と口だけは浮かび上がるようにして見えていた。
青い髪、淡い服、空飛ぶ羽衣、そして一点、金色に輝く大きなかんざし。霍青娥だ。本当に私のもとへ現れてしまった。
「いけない、替えに着れるような物を用意してこなかったわ。ごめんなさいね、ちょっと失礼」
霍青娥は布巾を取り出し私の髪と服から水気を拭いはじめた。私はまともに言葉も出ないほどに慄き、ひどく甘い薫りのする羽衣に絡め捕られてなすがままにされる。霍青娥は私と目が合うとなぜか困ったような顔をして、今度は私の乱れた身だしなみをテキパキと整えはじめた。一通り終えて霍青娥は満足そうに身体を離すと、いつの間に手放してしまっていたのか、ケータイが私の目の前に差し出された。
「はいこれ、落としたわよ。……最近の天狗はこんな物も使っているのねえ」
丁寧に私の手をとって渡されたケータイの画面には、
『 警告! 念写自重フィルターが反応しています! 』
『 念写を続行しますか? 』
『 はい 』 『 いいえ 』 『概要』
と、表示されている。
震える指で『概要』を開く。
『概要:結界等による被写体の保護』
私は息を飲み、顔を上げ、その笑顔を凝視した。考えるまでもなく意味を理解してしまったのだ。
「はじめまして。私は霍青娥。仙人でございます。どうぞ青娥娘々とお呼びください。貴女の名前を教えてくださいませんか?」
「……わ、私は……」
震える口からやっと喘ぎ声以外の言葉が出てきた。
「私は、射命丸。……射命丸文」
「射命丸、文……」
とっさに出た嘘に霍青娥は小首を傾げた。あいつは割と顔が広かったはずだから、あいつの名前を使うのはまずかったか。
しかし霍青娥はそれ以上追及せず、恭しく私の手をとった。
「では射命丸様、お茶の席を設けておりますので、どうぞこちらへ」
ついて行って無事に済むわけがない。
私は振りほどいて逃げるつもりで羽を広げた。しかしそこでやっとさらなる異常に気づく。私の羽に、大穴が空いていた。右に三カ所、左に一カ所、いずれも顔をねじ込めそうなほどに広い。
思い出した。この仙人は『壁抜けの邪仙』と呼ばれていて、あのかんざしはどんな物にも穴を空けられるノミだという噂だった。痛みはないが、これでは風を掴めるわけもない。さっき声をかけられた時にうまく飛べなかったのはこれが原因だったのだ。
「あ、あんた、これっ! 何てことしてくれんのよ!」
「ええ、ごめんなさい。あなたとどうしてもお話をしたかったの。それに大丈夫、傷つけたわけではないし、すぐに塞がるわ」
「ふっふざっふざけんじゃないわよ!! 私は話すことなんてないわ! この霧もあなたの仕業なんでしょ!? さっさと離して!」
「そうおっしゃらずに。ほら、着きましたよ」
羽衣に絡め捕られたまま霍青娥に連れてこられたのは、湖に浮かぶ小島のほとりだった。丸いテーブルに、椅子が三つある。内二つは背もたれの深い大きな椅子で、すでにそのひとつには誰かが力なく座っていた。
直に見るのは初めてだ。おそらく彼女が霍青娥の僕、キョンシーの宮古芳香だろう。この服装は写真で見たことがある。しかしキョンシー特有の御札が見当たらない。変わりに、霧に溶け込むほどに白い顔が露わになっていた。宮古芳香は背もたれに身体を預け、静かに眠りについている。
「この子は、『みやこよしか』。思い出深い、とてもかわいい子……」
霍青娥は簡素な丸椅子に座り、宮古芳香の前髪を優しくかきあげた。
「さあ、そちらにおかけください。お茶を淹れましょう。お茶請けもありますよ。煙草は嗜みます? 丹はいかがかしら?」
「……遠慮するわ」
もてなしのすべてがおっかない。今すぐ逃げ出したくとも私の羽はいまだに穴だらけ。出血はしていないし水に沁みもしないとはいえ、すぐに塞がると言われてもまったくそうは思えない。大人しく座る気になどとてもなれず、私はお腹の前で腕組みをして立ったままでいる。
霍青娥はお茶を三つ注ぎ、自分の分に口をつける。そして私の態度を気にする素振りも見せず、意地悪そうに笑った。
「私のプライベートを覗いたのは貴女だったのね? 念写ならば納得です。やっとお会いできました。昨日も探していたのですがお恥ずかしいことに道に迷ってしまいまして。それを今朝、貴女がどこぞの仙界から出てきたところをこの子が運良く見つけてくれました。相手を勘違いせずに済んで良かったわ」
念写を知られた。さっきの画面は当然のように見られていた。しかしこの邪仙が目の前に現れた今、それくらいならばもう驚くようなことではない。それよりも、警戒していたはずの危険に頭から突っ込んでしまった自分の間抜けっぷりが恨まれる。
「そう構えないで頂戴な。覗き見されてたことはもういいの。貴女の目的が何なのかは気にならないわけじゃないけど、今は聞かないであげる。私はちょっとお話をして、それからお願いを聞いてほしいだけなんだから」
「話なんてどうでもいいわ。行かせてくれないなら早く要件を言いなさいよ」
霍青娥の口にした『お願い』という言葉に確信めいた嫌な予感がしたが、ひるむまいと強気になってみせる。
「つれないわね。悲しいわ……。お願いというのは、貴女の念写能力を見込んでこの子を撮ってほしいのよ。この子はね、――――」
「先に言っておくわ。確かに私は念写ができるけど、過去の念写なんてできないからね」
宮古芳香の頭を撫でながら語りはじめようとした霍青娥に、私はすぐさま水を差した。先回りされてきょとんとしている霍青娥を見て、自分の確信が外れていないことが察せられた。
「能力の根本からして違うのに、よく勘違いされて困るのよね。なんでそんなことまでできると思われるのか、私にはわからないわ」
私の小馬鹿にする攻撃が通じたのか、霍青娥は目を細めてもう一度お茶を飲み、考え事をはじめた。華仙といい霍青娥といい、仙人というものはそんなに過去が気になる生き物なのだろうか。
「立ったままでは疲れてしまいます。そちらにおかけください」
言うに事欠いて霍青娥は再び椅子を勧めてきた。長話をする気はさらさらないというのに。
しかし、自分だけずっと立っているのも確かにあれだ。やはり座らせてもらうことにする。
…………あれ?
「私がお願いしたいことというのは、確かに昔の写真、過去を念写してもらうことです。ですが……できない、ですか。困ったわね。…………身体が冷えておいででしょう。温かい内にお茶をどうぞ」
相手が相手だし状況もまずい。何か薬でも盛られてはいないかとどうしても勘ぐってしまう。
しかしまあ、この時期にこの濃霧の中、濡れた服のままでは身体に障ってしまう。湯気をたてる飲み物はとっても魅力的だ。やはりいただこう…………?
「よしかにはね、お友達がいるの」
このお茶は、日本のものではなさそうだ。大陸っぽい風味。薬が入ってはいなさそうね。おいしー。
「とても古いお友達でね、この日本が古代と呼ばれる頃から長生きしてる御方らしくて、そのお友達と一緒に生きるために、よしかは人間を超えようとしたわ。私はよしかの師匠となり、そのお手伝いをしたのだけど、駄目だった。命がもたなかったの」
ふーん。……う、この椅子、背もたれ固い……。
「そうなってしまってからようやく気づいたのだけど、よしかはとても頑固で図々しくて、何より、執念深かったの。キョンシーとして蘇らせたのをいいことに、これ幸いと自我まで取り戻したのよ? 今はこうして大人しく寝てるけど、制御を外してるから目を覚ませば昔を思い出して詩を詠もうとするわ。なんでも、お友達がよしかの詩をたどって再会できるように導くため、だそうよ? 文化人の考えることは遠回りだけど、趣があるわ。とても。とっても健気。愛おしい。…………お茶請けもどうぞ。お口に合うといいけど。はい、あーん」
…………あーん。むむ、甘あい。
「私はよしかの執念に報いてあげたいのよ。願いを叶えてあげたいの。正確にはそのお友達の願いを、ということになるのかしら? そのために、過去を探る手段を私はずっと探していたわ。その甲斐あってようやくあなたの念写を見つけられた。よしかのお友達の写真が撮れれば、それが誰かわかるかもしれない。お友達に約束を守る意志があるのか、確かめることができるかもしれない。別に今の姿だけでも十分かもしれないけど、もしかしたらもうお亡くなりになっているかもしれないし、ご存命でも昔の姿くらい知っておけば色々話が早いでしょう。だから貴女には、是非とも過去も念写してもらいたいのよ」
……話がよくわかんないし。
……できないものはできないわよ。
「できないものは……できないわよ……」
「能力の根本が違うとさっき貴女はおっしゃったけど、私の考えだと、少し違うわね。…………こちらは大陸の煙草です。試してみて?」
………………? 煙草?
………………たまにはいいかもね……。
「力の発現というものは、得てしてその過程は複合的なもの。細分化されない単一の要素だけで単一の作用を起こすことも、それによって狙った効果のみを引き起こすこともあまりに不自然。目に見えて現れなくとも、副次的な作用が同時に発生して副次的な効果が起きているはず。物が動けば勝手に空気も動くイメージね。念写もきっとそう。時間と空間は互いに密接な関係にあります。対象の撮影に空間を飛び越えているだけのはずがないのです。念写が空間に強く作用しているなら、時間も引っ張られるようにして影響が及んでいるのではないかしら。つまり、時間に影響を与えているのなら、やりようによっては時間をも飛び越えて対象の撮影をすることだってできるかもしれない。……どうかしら? 思いつきにしてはいい線いってないかしら?」
「……言ってることがムズカしいけど……そういうことじゃなくて……過去にたいするわたしのフィルターがさ……かたすぎてどうせ外れないわよ」
「フィルター? ああ、さっきの。……貴女は自分の能力に制限を掛けてるのね?」
「ええ……だってこわいんだもん……」
「……それは、そのフィルターは、自分で制限したの?」
「……じぶんで? まあ……じぶんでなんじゃない……?」
「無自覚で、ということ?」
「……そうなんじゃない?」
「外したことは?」
「……いちどだけ……でももうムリ……よけいカタくなったっぽいから、もうわたしのちからじゃあんなのはずせない」
「フィルターさえ外せれば、過去を念写できるのね?」
「……つーかどれだけかたいかあんたしらないでしょ。はずせないからできないのよ」
若干の静寂の後、笑い声が頭に響いてきた。
「なあんだあ、誤魔化しちゃって、やっぱりできるんじゃない!」
霧が、深い。
「だったら話は簡単よ? 大丈夫。私が手伝ってあげる。恐怖が忘れられないとか力が足りないだけならいくらでも方法はあるわ」
目が、霞む。
「私は壁抜けの仙人。限界、不可能、その手の言葉はいつも私を蘇らせてくれる。……心配いらないわ。私にかかれば貴女は限界を突破する(壁を抜ける)ことができるのよ」
目の前の、霍青娥の、顔が、見えない。
「そのためには、どうぞ、この丹薬をお召しになって?」
「…………はぁ」
目と鼻の先には、赤黒く照るアメ玉がつままれている。その魅力的な香りに喉が鳴る。
そして、――――――
「さあ、射命丸様……」
あいつの名前が耳をくすぐり、開きかけた口が塞がった。
風が吹いたような気がする。
「…………? 射命丸? ……わたし?」
「どうかしました?」
「……ああ、ああ…………そうだったわ。忘れてた。今は私、あいつの名前だったわ」
依然、霧は深く、目も霞む。それでも私の目には、あの憎たらしい文の顔つきだけははっきり浮かんで見えていた。そして次第に、疑問符を頭に乗せた霍青娥の顔にもピントが合ってきた。
「ふふっ、その丹薬、よく見ればなんかキモい色してるわね。やっぱ遠慮しておくわ」
「…………貴女……。――――!」
また風が吹いてきた。今度は確かに、力強く吹いている。
その風は霍青娥にとっては好ましいものではないらしく、私から視線を外すと不機嫌そうな表情を見せた。丹薬を引っ込め、風の出所を探りはじめる。
しかし霍青娥は、そして私もだが、突然の横風に叩かれて空に舞い上げられ、私はなすすべなく湖へ三度目の飛び込みを果たした。私はどこか他人事のような感覚にあり、今度はパニックを起こさなかった。息ができないことに思い至ってようやく手足を動かしはじめる。
そして荒れる水面から顔を出すと、世界が一変していた。
呼吸するだけで喉が潤いそうなほどに白一色だった濃霧が、大風に巻き上げられ、純白の上り竜と化していたのだ。
「うわーお」
見とれて緊張感の抜け落ちた声が漏れる。絶え間なくかかってくる飛沫も、見応え満点の竜巻を前にしてはまったく気にならない。
しかし、その白い竜は早くも最期を迎えた。急に身をよじりだしたかと思えば、竜巻全体が爆発するように霧散したのだ。今度は見ていられないどころか、水面上でひっくり返されてしまった。
風はすぐに落ち着き、束の間、大粒の雨に降られる。
明かりが差したと思って空を仰げば、頭上には蓋を取っ払ったように開放的な青空が爽やかに広がり、太陽がまばゆいばかりに湖を照らしていた。千切れてわずかばかりになった霧の向こうには遠くまで景色がよく見えている。青い空、白い雲、鮮やかに紅魔館、紅葉彩る妖怪の山。目が良くなったかと錯覚してしまう。
「やっと見つけた」
そして、聞き慣れた声が降ってきた。
「怪我はない? 気分は?」
差し伸べられた手を取り、引き上げてもらう。
暖かい手をした文がそこにいた。
今の竜巻は文が起こしていたのだろう。納得の出力だ。
その文が珍しく切羽詰まった表情をしている。こうまで近くで顔を合わせるのはひどく久しぶりに思えた。顔を突き合わせて言い合いをしていた日常すら懐かしく感じられてならない。
「文……」
「おっとと、ちょっと」
私の羽はいまだ飛べる状態にはなく、ひとまず両腕を文の首に、片足を文の腰に回して支えてもらった。お姫様だっこを回避し、耳元で囁く。
「気分は悪くないわ。ありがとう」
「そ、そうなの? 良かったわ」
「怪我は……羽が穴だらけだけど、すぐ塞がるってさ。ほら、見てよこれ」
「ウェッ何その羽!? 何されたの!?」
「文こそどうしたのよ。よく見れば傷だらけじゃない」
「私のことより、その羽はそこの仙人の仕業ね?」
「……ええ、その仙人の仕業よ」
私たちの視線の先には、宮古芳香を抱きかかえた霍青娥がいる。霍青娥は羽衣にくるまって湖上に浮き、ずぶ濡れの自分にかまうことなく宮古芳香を注意深く覗き込んでいた。
やがてこちらに向き直ると、不満そうに口を尖らせて文句を言いはじめる。
「なんてひどい。せっかくのお茶会が台無しよ」
「昨日の今日で天狗に喧嘩売っといてよくそんなことが言えますね」
「ねえ」
「昨日? ああ、あれは悪かったわ。あんな上まで山登りするつもりはなかったのよ」
「ああそうですかと許す気はありません。しかしここを退くと言うのなら、この場だけは見逃してあげましょう。然るべき人物に苦情がいくことに変わりはありませんが、いくらか穏便な内容になりますよ」
「ねえ、文」
「つまらないこと言わないでほしいわ。こんな形でお開きだなんていい加減私は嫌よ。帰るなら貴女ひとりで帰りなさいな」
「黙って退くか、痛い目に遭ってから退くか。選ぶのは霍青娥、あなたです」
「ねえってば!」
「……なに? 耳元で叫ばない」
「だからさっきから聞いてるじゃん。あんたなんでこんなにボロボロなのよ」
「今はそれどころじゃないでしょ」
「なによ。教えてくれたっていいじゃん」
「あなたねえ。…………んん!?」
文は私に顔を向けると、何かに気づいたようにして私に注目した。そして親指で私の下まぶたを軽く押し下げ、ぐっと顔を寄せて私の目を覗き込んできた。そして苦々しい表情になってゆく。
「えっなにっなによ」
「ちょっと。よく見ればなんて目になってるのよ。気分は悪くないって、羽よりこっちの方がよっぽど問題じゃない!」
文の言う意味はよくわからないが、目が充血でもしているのだろうか。鏡を持っていたはずだ。鞄もびっしょりだが鏡なら平気だろう。
「鏡、鏡」
「…………! おい! 霍青娥!!」
「はいはい」
「釈明があるなら今の内よ!?」
「…………そうねえ……」
「うっわ。クマできてるし」
「~~~ッッ!! 霍青娥!! どうなの!?」
「ちょっと文あんた耳元で怒鳴らないでよ。らしくないじゃない。あんたはもっと余裕綽々でいなさいよ」
いきなりどうしたのかはわからないが、キレた文とは珍しい。対する霍青娥は目を細めて静かに微笑んでみせた。
「貴女は私に謝ってほしいのかしら?」
急に寒気がした。このままでは風邪を引いてしまう。
「私はその子と撮影の交渉をしていただけよ? それにねえ、もう許したとはいえ私は嘘までつかれたのに、そちらではなく私に謝れと? いきなり出てきて無礼が過ぎるわよ。恥を知りなさい。貴女なんて眠ってるよしかにまでいきなり攻撃してきたじゃないの。私としては貴女に謝ってほしいくらいだわ」
「…………」
「…………」
「…………」
文は黙った。文の返事を待つ霍青娥も同じだ。
静かである。
「結構」
文は私を抱えなおした。
「もう話なんていいわ……。遊んであげる」
この時の文の声色には私の腹にまで響いてくるものがあった。思えばさっきから文の発している気配、これはまさか殺気ではあるまいか。
文の顔を覗こうとして、その間もなく私は文の急加速に付き合わされ、気がつけば地面に腰を下ろしていた。ここはさっきの小島だ。
「ほら、これ噛んでなさい。気付けになるから」
文は元の調子でそう言って、真っ黒い何かの干物を私の口に押し込んできた。ひどく苦いがどことなく旨味もある。文は私がそれをなんとか噛もうとしているのを確認すると、なにこれ、と私が聞く前に飛んでいってしまった。
文は葉団扇を抜き、霍青娥へ向かってゆく。霍青娥の傍らでは宮古芳香が大きく反り跳ね、額から御札を垂らし、文を迎える。文の風と、霍青娥の術が交錯する。宮古芳香が躍動し、文が縫い飛び、霍青娥が妖しくすり抜ける。
「……は?」
突然展開されはじめた三人の弾幕を前に、私は呆気にとられてただその光景を見ていることしかできなかった。
「なによ、これ。文……あいつ、なにやって……」
目が覚めるようにしてここまでの自失に気づき、現実感が戻ってくる。そして次第に焦燥感が募ってきた。
文が私を守るために霍青娥と戦っている。私は霍青娥によって前後不覚に陥るところとなり、危うく手込めにされる寸前だった。そこへ文が横槍を入れてくれた。
その認識に至るまでそれほど時間はかからなかったが、私は動けないままだった。間一髪で危険を免れることができたと自覚したことによる安堵と怯えはあった。しかしそのためだけではなかった。
文が身体を張り、私は黙って助けられている。その事実が私を打ちのめしていた。
気がつけば私は両手を握り締め、邪仙ではなく見慣れているはずの文の動きばかりを追っていた。今の私は、文がここにいる理由や三人の戦況なんかに気を回してはいなかった。昨日の朝の、私の部屋に届いていた文の新聞を思い出していた。
「なんなのよ」
新聞大会の原稿を終えてから結果発表までの間、私は止まり、文は進んでいた。今も同じだ。私がこうして座っている間にも文は飛び、戦っている。
焦りを感じているのは、この目の前の事態が、積み重なってきた文と私の格差の表れに思えてならないからだ。
乾いた笑いがこみ上げてくる。
頭の中でグルグル回っているものは差がつけられてしまう原因の話だ。今朝気がついたばかりのそれだ。遅い。間に合っていない。反省したばっかりなのに、もう十分に身に滲みたはずなのに、どうしてこうもまた反省を促されなければならないのだ。
「私は、なにやってんのよ……」
握り拳が一層固くなる。
この身を強ばらせているもの、これは怒りだ。
ムカついていた。情けない自分へ、弱さを煽ってくる現実へ、私は苛立っていた。
身から出た錆なのは重々承知、であっても責める相手が自分しかいないからこそ腹立たしい。
なぜこれほど簡単なことに気がつかなかったのか。それを思うとまたくやしい。
私は、矛盾していた。
私の根幹をなす念写の話だ。そもそもこんな状況に陥っているのも、大元の大元はこれが原因だ。
私は念写を知られたくないというのに、それでも念写を使って新聞を書くようなちぐはぐな行いをしていた。華仙に指摘されるまでなぜ不自然だと思えなかったのか、我ながら不思議でしようがない。
念写は、他人の秘密に手が届くから危険が生じやすい。そのため不用意な念写は後が恐い。それは能力の性質上当然のことであり、仕方のないことである。しかし私は、仕方がないと諦めるばかりで何もしてこなかった。仕方ないから、恐いから。それしか言わず、その危険との付き合い方をろくに考えてはこなかった。
そうして矛盾を引きずり続けてきてしまった結果がこの体たらくだ。
あんな腰の引けた不格好な体勢でこの険しい道をまともに歩める訳がなかった。
文は違う。
文ならどんな時も腰の据わった綺麗なフォームで力強く疾走してみせる。
念写のない文にだって仕事に不都合やしがらみがあるはずなのに、その姿勢には迷いがない。
いつだってひたむきで、文の視線が目標からぶれることはない。
ああも速いし、早い訳だ。
文は誰よりも早いからこそあんなに速くなったに違いない。
超高速に耐える鴉天狗の体躯は私と同種。体格も大差はない。そのはずなのに、私にはあんな動きなんてとてもできっこない。求めるレベルが私と違うのだから当然だ。矛盾をかかえ、自分で自分の足を引っ張っていた私とは大違いだ。
口にはとても出せないけど、かっこいいって、素直に思う。
思えば私はそこに憧れてきた。文のそういうところは本当に清くて正しい。
ああしていられるのは才能だろうか。それともセンスだろうか。
そんな贅沢なもの、私は持っていない。
努力してます、頑張ります、そういう姿勢は気分が乗った時しかできやしない。しかもたったのそれだけで真面目にやることやってる気分になっているから私はダメなのだ。きっと念写や矛盾がどうこうという以前の問題だ。
思い当たる節はいくらでもある。
自身の不甲斐なさを自覚していても閉塞感から抜け出せないでいた私。その息苦しさから逃れるため、ありのままの怠惰な自分自身が許されることを望んでしまう私。進歩を忘れて諦めて、どんなに負けても黙り続けてきた私。
ダメでダメでダメダメな私。
「ちがうでしょ……、私だってさあ…………!」
しかし、その私が今、この時、この場、文の姿を見て憧れると同時に、うらやましいと、妬んでいる。
置き去りにされ続ける私をいい加減許すなと、訴えている。
そうだ思い出してきた。
世間から置いていかれることに慣れきっていた私だが、それでも私は、それでも最後は思い留まってきた。やっぱり嫌だと、自分はまだ終わってなんかいないと、いつももがいてきた。
前回の新聞大会でもそうだった。諦めたくないと、私は不器用なりにも再起を目論んでいた。
昨日も、私は文の新聞を見て、くやしいと、心が叫び声を上げていた。
そして今、こんなふざけた私の現状を、私は見返してやりたいと誰にともなく憤っている。
私がどうしてももがいてしまうのは、つまり私が持っているもの、私に残っているものは、なんてことはない、ただの意地だった。
「意地……かあ。……泥臭い。なんてわがままな言葉かしら」
私は立ち上がった。
文はまだ飛んでいる。
私は文と並んでいたい。
私は文と対等な口をききたい。
私は文に遠慮したくないし、されたくない。
それならば、この場を文だけに飛ばせたままでいていいわけがない。
私は穴だらけの羽を一瞥する。口の中では干物から染み出す旨味成分が唾液にのり、たちどころにやる気を発生させている。自然と咀嚼するスピードは上がってゆき、それでももどかしくなって強引に飲み込み、ひと息つく。
さらに深呼吸をひとつ、大きく吸って、大きく吐く。
再び吸って、両手を空へ。
背は反らして伸ばし、
気合い一発、
腕を引きしぼり、腹に頭突きを叩き込むようにして活をいれた。
「ッシャアアアアッッッッッ!!! ぃいよしっ、どうよ、どうよ! ふさがって? ふさがった! ざまあみろ!!」
全身が総毛立つようだ。
かつてないほどの力強さを全身に感じる。
特に翼なんてまるで生え変わったのかと思えるほどだ。
今の私は最高に熱かった。
この瞬間、私は天才とだって張り合える。
私は文と飛ぶべく、地面を蹴った。
~ 11 ~
はたてが新聞記者になったのはいったい何年前の話だったでしょうか。私、射命丸文はとっくに記者をやっていたし、幻想郷にカメラが輸入されてからもそこそこ年月が経っていたはずです。そう、確かカメラはカメラでもポロライドカメラが出てきた時期でした。はたては、ポロライドカメラを手に入れたことがきっかけで念写に目覚めたと言っていました。
そしてその頃でしたか。珍しく、はたてからサシで飲もうと誘ってきたのです。
その日のはたては非常にご機嫌で、調子良く杯を空け続けるのもまた珍しく、印象的だったのを覚えています。理由を聞いてみたところ、待ってましたと言わんばかりに語ってくれました。
「よくぞ聞いてくれたわ!
文、私も新聞を書くことにしたの!
今日登録が済んだから私も新聞記者の仲間入りよ!」
話が前後しますけど、その日、はたてに会う前から私はその事を知っていました。はたての父が私を訪ね、娘の面倒を見てはくれないかと頭を下げられてしまっていたのです。
「射命丸殿、うちのはたてに念写能力があるのはご存知でしょうか? 実はあの子の念写には、空間どころか時間をも飛び越えられる可能性が私には見えるのです。本人はまだ気づいていないようですし私は黙っていますが、修行を積めばそれこそ過去も未来も自在に撮影できるようになることでしょう。しかしそれはとても恐ろしいことです。命を狙われる理由に足りえてしまいます。あの子は臆病ですから、念写のそういった可能性を薄々にでも理解していると思っていたのに、あろうことか、その念写を使って新聞を書くと言いはじめました。遠まわしとは言え私の説得にも聞く耳を持たず、もう家出をする勢いです。娘の願いを叶えてやりたいと思う反面、心配で心配でなりません。もはや頼みの綱は娘の友人であり、腕も立つ貴方の他にありません。どうかこれからもはたてを気にかけてやってはもらえませんか」
よっぽど断られたくなかったのでしょう。必死さを押し殺しているような形相でした。そしてその姫海棠氏は少し、やつれているようにも見えました。
「私ね、感動したの!
何がっていうのはまだ内緒なんだけど、とにかく感動したの!
それを記事にしてやるのよ!
今まで感動の押し売りをするやつの気が知れなかったけど、考え直したわ!
練習してかなきゃとても表現しきれないのはわかってるけどね、ちょうどいいわ!
なんせ他にもいっぱい! いっぱい伝えたいことがあるんだもの!
この感動を伝えられたなら!
この感動を分かち合えたなら!
そう思うと! こんなにも楽しい!
私の念写ならやれる!
念写なら他所との差別化もバッチリ!
私の新聞で最高の感動を伝えるわ!
やってやるわよ!」
結局、きっかけに何があったのかはもったいぶっていまだに教えてもらえていません。しかしいずれ新聞にするからその時に、とは言っていました。好きに寝かせておけるネタだということでしょうか。
親の気も知らずにはしゃぐはたてでしたが、その眼は希望に満ちていました。危惧される念写の影響を改めて煽ってみても、はたては諦めませんでした。
「じゃあ山に引きこもる。配達は委託にして、外に顔さえ出さなきゃ平気でしょ」
「ねえ、まさかそれ本気で言ってる?」
あまりに雑すぎる対策に呆れはしましたが、はじめから十分な策を用意できるとは思っていなかったということもあり、最終的に私ははたてのやり方を信じてみることにしました。
私が対処的に手助けしてあげるつもりでもあったし、この友人がどんな新聞を作るのか、読んでみたくなってしまったのです。念写ならば当事者しか見ることの叶わないはずの景色を写すことができる。そういう写真の載った新聞が面白くないわけがないと、私はそう直感していたのです。
そもそも危険うんぬんというものは記者という職業に元から潜んでいるもので、念写についてもその延長です。だからその根本から説得できないのなら何を言っても無駄だったでしょう。
そういう訳で、私は説得の失敗どころか後押しまでしてしまい、はたてを影から見守ることになりました。
とはいえ、はたてが発刊を重ねても不思議と何も問題が起きる気配はなく、だから私が実際にやったことといえば、はたての新聞の読者になって発行される度に顔を見に行くようにしたくらいのものでした。優しく指導するような柄ではないので、挑発したりからかったりしながら新聞の感想を述べたものだから、私ははたてからすればただの冷やかしにしか見えていなかったことでしょう。
その感想も、やきもきしてツッコミばかりだったのは事実です。念写能力持ちならではの着眼点には感心させられるものの、その記事は念写を使っている事実を隠す書き方をしているせいでいつも中途半端な仕上がりになってしまっていたのです。
おかげで私は口を開けば批判ばかりでしたね。それでも内心、友人が同じ分野で追い上げてくる姿は見ていて楽しいとも思っていました。今まで同僚とは先輩も後輩も関係なく競合するばかりでしたから、ひねた友人とはいえ後輩を育てるというのも新鮮だったのです。
ところが――――
「あの時のあれ、やっぱ難しいや……」
はたてはある日そんなことを言いだしました。
いつかの新聞大会に向けた準備も詰めに入り、印刷所ではたてと鉢合わせた時のことです。
私は疲れ果てており、待合室のソファに寝そべって両眼を水タオルで冷やしていました。はたてはそれを見て寝ていると思ったのでしょう。こっそり隣に腰掛けてきたと思いきや、小声でそう言ったのです。
「そう」
だからか、私の返事にはたてはギョッとしたようでした。黙って寝たふりをしていれば続きを聞けたのかもしれませんが、私は『あの時のあれ』という抽象極まりないニュアンスだけではたての言いたいことをおよそ察してしまっていたのです。
だから、応えずにはいられませんでした。
「あなたのとっておき。私は待ってるんだからね」
今さら能力の危険性に怖じ気づいたのか、それとも自分の新聞が売れずに思い詰めてしまったのかはわかりません。しかし、どちらだろうとそんなもの、言ってしまえばよくある話です。どちらも検討の余地が十分にあるのですから、どこにでも転がっている話だと言えます。
だから私は、はたてもきっと現実と折り合いをつけられるようになると疑いませんでした。はたては臆病だろうと意欲はある、その認識の下、私はそれから何年も何年も時間が経てば解決すると、ただ脳天気に信じていたのです。
「せっかく心配して来たというのにひどいですねえ。はたての順位は……まあ残念でしたけど、読み手に訴えかけるものは確かにあったと思いますよ?」
しかし実際、私は見て見ぬ振りをしているだけだったようです。
信じたあなたは腐ってしまっていて。いつの間にか、理由も目的も、例の感動すらも忘れたように振る舞っていて。意欲の代わりに残ったものは、熱をなくした新聞と、冷めたはたて自身だけ。それしか私の目には映らなくなってしまっていたのです。
「上から辞令が出るっていうの? 残念だけど、もしそうなら仕方がないわ。それならそれで別の仕事をするだけよ」
そんなあなたを見ていると、私の方まで惨めになってきて。
「なるほど。仕方がない、ですか」
腹立たしくて、悲しくて。
「よかったじゃない、諦める言い訳が見つかって。おめでとう、もう無理して本気の振りなんかしないで済みますね」
我慢できずに昨日の朝、発破をかけた。
「まだまだ未確定の話なんですよ! 最後まで話も聞かずに、辞令が出れば仕方がないですかっ。……あっさり言ってくれますねえ、かつてはあれほどの熱意を語ってくれたというのに……」
せめて喧嘩になれば、そう願って言葉を投げたというのに、暖簾に腕押し、糠に釘。その手応えの無さは事の終わりを私に告げているかのようでした。
いたたまれず、耐えきれず、私は逃げてしまいました。
はじめは頼まれたことだったとはいえ、はたての観察をはじめてからけっこう長いのです。無駄だと思えば適当に言い訳をこしらえればよかったのに、今日まで私はそうしませんでした。
私に見る目がなかったのでしょうか。
きっとそうなのでしょう。
いつもよくやる自問自答がいつになく私を落胆させてきます。すぐさま空を飛ぶ気にはなれず、私はアパートの屋上にある縁台に腰を降ろして横になりました。
私に見る目がなかったのでしょうか。
きっとそうなのでしょう。
同じ問いと同じ結論が何度となく頭を回り続けます。
私は両頬をパチンと叩いて身体を起こしました。
このままではいけない。今すぐ仕事に戻ろう。これ以上私は足踏みしてはいられない。私は動き続けなければならない。
そう思って欄干から身を乗り出し飛び立とうとしたところ、私は突然の事態に目を見張ることになりました。
はたてが、部屋から出てきたのです。
記者の腕章をつけ、まっすぐ山を下ってゆきました。私は欄干に身体を預けたまま、はたてが見えなくなってもその行く先を呆けて見続けていました。
「…………ふふっ……ははは、あーやれやれだわ」
やがて私は手をかけたまま欄干から降りてうなだれました。気が抜けてしまったのです。今までの悲観はどこへやら、困り顔をしようにも、どうにも頬が緩んでしまいます。周りに誰もいなくてよかったです。
何をしに行くのか知りませんが、はたてがああして出掛けてしまっては私も判断に困ります。早々に諦めるわけにはいかなくなってしまったではないですか。
私に見る目がなかったのか?
そんなことはありません。
千年かけて鍛えたこの射命丸の眼に狂いがあるはずもなかったのです。
あの姫海棠はたては本当にただ腐って終わるようなやつではないことくらい、私が一番よく知っているはずのことでした。
「またケンカの仲裁ですか? 文さんどうやら知らないみたいですけど、白狼が鴉の間に割って入るのって実はすーっごい気を遣うんですよ?」
「勘違いはいけないわ。私がお願いしたいのは見張り役。普段の仕事の延長と考えてちょうだい。はたてが今日どこで何をするのか、すべてこっそり監視して、目立ったことがあればすぐ報告しにきてほしいんですよ」
「……嫌ですよ。仕事ならまだしも私用じゃないですか。自分でやってください」
「はっはっは。では、私はこれで」
「あっ、ちょっと! 嫌ですからね! 断りましたからね!!」
はたてを自分で追跡するのも面白そうでしたが、私には配達仕事がまだありました。万が一尾行がバレても面倒です。
そこで羽の向いたのがお気に入りの白狼天狗の子のおうち。椛はとても聡い子です。私がああ言えば例え断られようとも、はたてに会えば何かしらを察して的確にフォローしてくれることでしょう。これからにとりの家へ遊びに行くと言っていたので、そちらの保険は不要になるから助かります。
私はすぐにでもはたての追跡に戻れるようにするため、さっさと残りの仕事を片付けることにしました。
まあ、おかげでその日はそのまま見失っちゃったんですけどね。アパートに張り込んでもぜんぜん帰ってこないし、その晩は間が悪く侵入者騒ぎが起こって椛も他の白狼天狗も捕まらなくなるし、翌日の今日、紅魔館に向かったと伝えられるまで要らぬ心配をしてしまいましたよ。
椛はとても聡い子です。とってもいい子で律儀で義理堅い子です。その働きに相応しいご褒美を考えなければなりません。
「イーヤッホー!!」
そうしてようやく再会できたはたては今、見るからに輝いています。力が迸っています。はじめこそちょっと薬を盛られていたりもしましたが、もう大丈夫みたいです。
私と霍青娥の間に割って入って宮古芳香を蹴落とすと、歓声をあげて青空の中へ舞い上がっていきました。そしてすぐに急降下してきたかと思えば私の隣でピタリと止まり、腕を組み、胸を張り、霍青娥に向き合います。
「お待たせ文! やってやるわよー!」
キラッキラした眼差しに吹っ切れた得意顔。早くも息がきれそうになっているのはご愛嬌。
それでももはや別人です。
いつも食べてる私のおやつ、ちょっとした滋養強壮の黒トカゲがここまで効くとは思いませんでした。しかし、それは所詮きっかけなのでしょう。
この一日半で会えなかった間にいったい何があったのか、後で是非とも聞かねばなりません。本当は今すぐにでも聞きだしてしまいたいところですが、念写の件もあります。もしかしたらそれも含めて今度こそはたてから話してくれるかも。
とにかく我慢、まだ我慢です。
「いい? はたて。本来なら私たち、昨日の件がある以上余計なことしないで退散するべきなんだろうけど、私、あいつ嫌いだわ。あんたは?」
「私もよ! マジでムカつくわ!」
「ええ、それでさ、邪仙ごときにやられっぱなしなのも癪じゃない? だから、帰るのはあいつに蹴りをぶちかましてからよ!」
「さっすが文ね! そうこなくっちゃ! ヒィハァー!!」
はたての絶叫とともに私たちは二手に別れました。
「私はただお仕事頼もうと思っただけだったのに……」
ひとり言をもらす霍青娥。
その前に立ちはだかるようにして宮古芳香が湖から飛び出しました。合わせて霍青娥も再び動きだします。
天狗の風と仙人の術が再び交錯。
霍青娥の連携の巧さは相変わらずでも、明らかにさっきよりも隙が増えています。これははたてが加わったことが大きいでしょう。はたての飛行は精細さに欠ける反面、パワフルです。奇声とも悲鳴ともつかない歓声も相まっていい攪乱になっています。ところがあまりにハイになりすぎているからか、飛び方が滅茶苦茶です。どうやら自分の速度に目が慣れていないようです。勝手に墜落するか、自分から攻撃に突っ込むか、どちらにしろ時間の問題でしょう。
しかし、その程度の不都合、今の私にかかれば何の問題もありません。
なにせはたてにつられ、この私のテンションまでもが最高潮に上がっているのです。心と翼が踊っています。楽しくてたまりません。単調だった攻めも避けも踊るように軽やかに、ダイナミックに、そしてさらにスピーディに。
作戦なんて必要ない。相手の出方も気にしない。はたてと気持ち良く飛び、気持ち良く合わせ、はたてに気持ち良くキメさせる。考えることはたったのそれだけ。
いつ以来でしょうか。
こんなに全力で、こんなに沸きたって、こんなに通じ合いながら私たちは空を翔けている。
最高のはたてと一緒に飛んでいる。
今日は、こんなにも風が気持ちいい。
楽しい。すごく、楽しいっ。
そして、宮古芳香がきりもみに宙を舞いました。
一見して、その挙動はコントロールを失っています。
「文あっ!!」
「はたてえっ!!」
そこに乗じ、私は渾身の風力で壁のような高波を起こし、霍青娥へ叩きつけます。
霍青娥は壁抜けのかんざしに手をかけており、やはり高波には丸い大穴が空けられました。
瞬間、凝縮された時間の中で、大穴を通し、私は霍青娥と対峙し目を合わせるのでした。
霍青娥の眼差しは妖しく不敵、ではなく、驚きを表しています。
その意外な反応を見た私も思考が固まりかけましたが、
すぐさま霍青娥を驚かせた理由に目が移りました。
霍青娥のわき腹に、はたての蹴りが届いていたのです。
へし折れた一本下駄の破片がスローで舞い、はたての足が食い込んでゆきます。
霍青娥の開けた穴の隣から、はたても壁を突破してみせたのです。
波は消し飛び、破裂するように水柱が立ちました。
私が水をかぶっている向こうでは、勢い余ったはたてが彼方へ吹っ飛んでいっています。しかし、ちらりと見えたはたての顔には笑顔が溢れていました。大の字になり、広げた両手でガッツポーズをしながら勢い任せになすがまま。私は本日の最高速度をもってそれを追いかけ、着水寸前で捕まえました。その際私もバランスを崩してしまったのですが、その勢いを利用してはたてを遥か上空へと放り投げ、水面を叩いて私も上昇。再び追いついた時にははたてもバランスを立て直していました。
はたてはへらへらっと満足そうに笑っています。
私もきっと同じような表情をしていることでしょう。
私たちは目線の高さが合ったところでハイタッチを交わし、妖怪の山へと一直線に飛び去るのでした。
――――……
一分近く湖は静まり返った後、滴る水音が静寂を破った。宮古芳香を抱きかかえた霍青娥が湖上に戻ってきた。
霍青娥はひと通り周囲を見渡してから空に目を留めると、ため息をつく。
「あーあ……、やられちゃったわね。逃げられちゃった。天狗の本気は侮れないわ……」
「うぐぅ……やあらーれーたー……」
すっきり晴れた昼下がり、上空には、ふたりの天狗が去り際に引いた雲が残っていた。霍青娥の頭上を真っ直ぐ走り、まるで空を割っているかのようだ。
霍青娥は視線を落とすと宮古芳香の御札をめくり上げ、その下で目を回している顔を見つめた。
「千年を待てる私が、いったい何を焦っていたのかしら……。ごめんねよしか、まずは身体をなおしましょ」
~ エピローグ ~
私の一日は、今日も布団の中からはじまる。今朝も目が覚めたので、すでに読み尽くした読みかけの本をまた読み返すつもりだ。
ただし、今日は一昨々日まで読んでいたページにしおりを差したまま、飛んで別の章の別の場面を開く。
そこではヒロインが、仲間が寝静まっている内に外へ抜け出し、ひとり考えごとをしている。ヒロインは満天の星空の下で気持ちを整理し、こっそりついてきたお節介な仲間に背中を押され、目の前の選択を決意する、そんな場面。
私は感じ入りながら本を閉じ、カーテンへ顔を向けた。カーテン越しの光量からして、こちらではとっくに日が昇っている。軋む身体を起こしてカーテンを開けたが、霞む月すらも見えはしなかった。秋の深まりつつある山の朝の空気は日向ぼっこにすら向いておらず、雰囲気が有るとはとても言えない。
ロマン不足の現実を嘆きつつ、私はよろよろと布団へ戻った。そして仕方なしに枕へ顔を落とし、どこを見るでもなく壁を見つめた。
昨日の一悶着で痛めた身体にかこつけて、私は終わりが予感されるモラトリアムを名残惜しんでいた。腰は邪仙に蹴りをかました衝撃で痛め、羽は付け根に炎症を起こしている。羽の方は邪仙に穴を空けられた後遺症ではなく無茶な飛び方をしたせいだ。おまけに今朝から全身が筋肉痛である。
おかげで今日も私は引きこもり。限界を超えた代償としては妥当なのかもしれないが、身体の衰えが目に見えて現れたと思うとけっこうへこむ。
しかも昨日は帰りがけに腰やら羽やら大げさに痛がってしまったものだから文には要らぬ世話を焼かせてしまった。昨日はうちで晩ご飯を作らせてしまったし、今日もまた来ると言っている。
有り難迷惑とは決して思ってはいないけれど、文に世話をされると思うと背中がむずかゆい。しかしまだ一昨日の口ゲンカの件も互いに触れられていないわけだから、考えようによっては私から謝るちょうどいい機会なのかもしれない。
そういうわけで、おそらくは夕方頃であろう文の来訪に備え、私は覚悟を決めている真っ最中なのである。
この際なので白状すると、私は文を相手に緊張している。なにせ今日は長年にわたる念写に関する秘密を打ち明けるつもりでいるからだ。その上さらに新たな決意を見せつけてやることにもなりそうだ。心の準備が欠かせない。
布団に寝そべる今の姿はたとえ見た目が自堕落なままであろうとも、以前とは中身がまるで違う。とても有意義で現実に向き合っていると言えるだろう。
まだ時間は十分にある。言うべきこともだいたい決まっている。話がこじれることにはなるまい。
などと余裕をこいていると、カンカンと甲高い下駄の音によって朝の調和は破られた。だんだん近づいてくるその足音は近隣の誰のものでもないとの直感に同調し、やがて私の部屋の前で止まる。
「はたてー。ただーいまー」
慌てる間もなくドアは開かれ、朗らかな声が部屋に入ってきた。チャイムもなければノックの音すらしなかった。にこやかに両手いっぱいに荷物をかかえ、早くも文がやってきてしまった。確かに来る時間を聞いてはいなかったが、まさか多忙なはずの文が朝から来るとは考えてもみなかった。
「なんでよっ、なにがただいまよっ、なんでこんな早く来るのよっ」
「今日また来るって言ったじゃない。それより具合はどう? ちょっと台所借りるわね」
「ていうかなによそんな大荷物で……」
「いいからいいから、傷病者は座ってなさい」
ずかずかと食料持参でやってきた文にすっかりペースを持っていかれ、家主の私はすごすごと台所を後にした。もう心の準備もできやしない。
とはいえ不思議と満更でもない。
仕方がないからテーブルをキレイにしておこう。座布団も出して、文にかわいい食器を用意してあげよう。
「おまたせー」
「速すぎでしょ、ぜんぜん待ってないんだけど」
「全部私んちで作ってきたからね。ここの台所に期待なんかしちゃいないわよ。あーでも皿とかはお願い」
文はいつも通りだ。流石と言うべきか、昨日はあれだけの立ち回りを見せておきながらもまるで疲れを感じさせず、隙あらば私との実力差まで見せつけてくる。ちくしょうめ。
「それでも酒はいいもの呑んでるじゃない。ここの蔵のはおいしいよね」
「あっ」
私のお酒が目敏く見つけられ、当たり前のように食卓に並べられている。さらによくよく見れば、献立が何かおかしい。肉、油っぽい野菜と魚、そして肉。
「ちょっと! これ全部つまみしかないじゃない!! どういうことよ!?」
「大丈夫大丈夫、私もお酒持ってきてるから」
「誰が酒が足りないなんて言ったのよっ、私身体壊してんのよ!?」
「そんなの飲んでりゃ治るじゃない」
「一番ダメなやつじゃない! あんたといっしょにしないでよ! それにまだ朝よ!?」
「はあ? どの口がそんな健全なこと言ってんのよ」
文が相変わらずなので私も釣られて元気になってしまう。文が煽って私が目くじらを立てる。またこの関係に戻ってきたことで、私は内心、落ち着いていた。今までだったらヒトを小馬鹿にする態度にイラついていただろうが、今日は逆に安心させられている。
でも、そんな気恥ずかしいこと、絶対言葉にしないし態度にも出してなんか絶対あげない。
「あーもー馬鹿馬鹿しい」
それにしても、真面目に考えをまとめていた私が馬鹿みたいである。私は諦めてぐい呑みを手にとり、素直に文からの酌を受けてやった。
モラル云々は割と気にするタチだし、仕事がない日でも朝からのお酒には正直抵抗がある。飲むなら早くても夕暮れからだと今でも思っている。
そういう理由で相当に久しぶりとなった朝のお酒は、こもった部屋の空気が開放されるような、そんな味がした。
そして抵抗感などはじめだけ。一度破ってしまえば美味いお酒は止まらない。今日は酔わない、調子がいい、と思ってパカパカ飲み続け、そんな感想はただの誤差でしかないと気がついた時にはもう、飲んだ量に比例する酔い方をしていた。
見ると、文もそれなりに酔っているようだ。
ケラケラ笑いながら徳利にお酒を満たしている。
言うなら今かな、まあいっか、言っちゃおう。
「ところでさー」
「ええ」
「私、決めたから」
「ん? 何を?」
こういう話こそ、ご大層なお膳立てなど必要ないのかもしれない。素直になれた時こそがきっとベストなのだ。
「私、中途半端だったから、こそこそするの、やめにする」
「それは、脱引きこもり、ってこと?」
「そっちはほっといて。……私が言ってるのは念写のことよ」
「……はい」
「……うん、今まで秘密にしてたけど…………私はねっ、過去を念写することができるの。……わかる? 過去の念写よ。時を越えるの。文ならそれがどれだけ危うい秘密かわかるでしょ?」
「その話ですか。ええ、よくわかってるつもりです。前々から聞いてましたしね」
「なら話が早――――え? 前々から??」
ちょっと待って話が変わった。
話が違ういや私の思い違いなのかどういうことだ。
「ええ、前々から。やっと話してくれたわね。告白までに時間かかりすぎじゃない? やりにくくって敵わなかったわ」
「は!? ……はあっ!? なんで!? いつから!?」
「あははっ、顔真っ赤!」
「な、なな、なによ!! 私が……! どれだけ……!!」
文は赤ら顔で私を指差し笑い転げている。
私は立ち上がり、握り拳をわななかせる。
ペースはいまだに文のもの。私の思惑は腰を折られて空回り。なんと滑稽なことか。
私は満たされたばかりの徳利を掴むと、えいやと直飲みする。
ちくしょう、ああー、ちくしょうっ、酒がうまい。
「とにかく! 私はもう下手に隠したりはしない! 健全に念写をアピールしていくわ! だから覚悟しなさいよ! 上からどう言われようと私は記者を辞めないし! 私が念写で本気出せば、あんたなんかすぐに追いついてやれるんだから!!」
「ハッハァー、対抗新聞なんて口ばかりだったくせしてなーにを今さら。辞めないと言うだけならまだしも、本気を出せばーなんて言い回し、結局できない奴の常套句なーんじゃなーいのー?」
「……上等よ、そこまで言うなら、今、見せてあげる。……検索ワードは、そうねえ……『妖怪の山』、『白狼天狗』、『霍青娥』、『侵入』!」
「あやや、何を?」
「念写するわ。フィルターを突破して、過去を念写するわ!」
「ぇえっ!? ちょっと、本気ってのはそっちのこと?」
「もちろん。一昨日邪仙が侵入してきた事件を私の新聞で書いてやるのよ。内情は私たちが一番詳しいし、他の記者は現場の写真もまともに撮れてないでしょ。独占スクープよ。邪仙には確かもう念写のことバラしちゃってるから秘密にしておくメリットは消えたようなものだし、こうなったら開き直ってやる」
「あなたまたそんな酔った勢いなんかで行動しちゃ――――」
「いいえ違うわ。違うのよ。ただの思いつきなんかじゃない。これは私の覚悟の問題なのよ。今度こそ腹を決めるには、これくらいしなきゃいけないの」
「はたて……」
「それでさ、皮肉でも構わないから、次も新聞の感想、また聞かせてよ」
いける。このテンションなら念写自重フィルターを突破できる。
今から行う念写は反撃の狼煙だ。直近では邪仙に対して。そして、これを皮切りにした文と新聞大会への再挑戦なのだ。
このボタンを押せば念写が始まり、追随して義務が発生することになる。間違いなく忙しくなるだろう。――――ああ、しまった。これはいけない。不安が頭に流れてきた――――。いつも通り記事を書くだけではもう済まない。新聞会への信用も取り戻さなければならない。引きこもってばかりもいられない。クレーム対策も本腰入れて考える必要がある。
考えるだけで息切れしそうになってきた。自分の変化に自分がついていける自信がない。
後戻りはできないししないと決めたのに、早速気後れしてしまっている。決意を口にしているそばからこの通り、内心では現実逃避の大合唱だ。決意や覚悟とか、そういった真っ直ぐな言葉はやっぱり私とは反りが合わないのか――――。
♪~
それでもこうしてケータイからシャッター音を鳴らすことができたのは、他の誰でもない、あなたがここにいてくれたからだ。私に足りない勇気は文のところにあった。
安堵のような、諦めのような、この不思議な脱力感は、悪い気分ではない。
目が眩み、すうっと意識が遠くなる。こめかみを打って少し覚醒。酒瓶の倒れまくる音と、文の声がたぶん聞こえた。私は倒れたみたいだ。念写に体力を持っていかれたとすると、封印してきた過去への念写はどうやら成功するらしい。
我ながら呆れてしまう。
私が最後まで躊躇していたのは、あれほど恐れていた念写による弊害を思ってのことではなかった。身の危険よりも面倒事の方が嫌だなんて現実が見えていない証拠だ。諸々の恐怖はいずれまた募ってくるだろうから後悔するに決まっている。もうすでに目先のことから不安だらけだし、自信もない。そして、これで私は救われる、とは限らない。
だけど、
だけど、変わりたいと願い行動した私は確かにここにいる。文に食い下がった私がここにいる。今日の私は変化に向かって生きている。
およそ私らしくもない行いに期待を寄せてしまう私は何だか私らしい。
停滞していた私と埃っぽいこの部屋が再び動き出そうとしている。日陰で安穏としているだけだった生活はとりあえず移ろいじゃったわけだし、生活に安定感を取り戻さなきゃだし。この際だ。どうせここは毎日帰ってくる部屋なのだから、やはりこう、充実感とか達成感とか、そういういい感じの雰囲気であることに越したことはないし、そういう方向に回っていてほしい。寂しいなんて以ての外よ。
そのためならば文に頭を下げるのも吝かじゃあない。椛とまた甘いものを一緒に食べて、その辺の愚痴に付き合ってもらおう。にとりとももっともっとカメラとフィルターの仕様の話をしなきゃだし、でも念写の秘密を伝えたら危険に巻き込むことにならないかな。それでもぜったい必要だ。きゅうりをたらふく奢ってあげよう。
私が自己主張すると、多かれ少なかれ周りに負担を強いることになっちゃうけど、まあそれは、そういうもんか。仕方がない。私もみんなの負担を背負うんだ。
そんな感じでやることやって、あとは祈るとしましょうか。
願わくは、私の居場所が仲間とともにありますように。
―――…………
「時間を隔てた念写かあ。倒れるほど消耗するってのは知らなかったわ」
「あーそーなの。回復したらとりあえず一発ビンタね」
「それよりもさ、いつだか言ってたあの時のあれ、例のとっておきがついに拝めると思っていいのかしら?」
「あー……あれね、やっぱ無理。お蔵入りよ」
「なんでよ。まだ何かあるの?」
「…………検索ワード、『私』、『新聞記者』、『きっかけ』、それと……『-文』」
「え、ちょっと大丈夫なの!?」
「へーきへーき。……ほら、見てこれ」
「? ……えーと? 『該当する写真の候補は存在しません。』……どういうこと?」
「そういうこと。これ以上は血管切れて死ぬ。聞かないで」
これだけの作品を頒布前に公開するのか…。
最後まで読み終えた今、素直にこの作品を読んで良かったとそう思えます。
普遍的とまではいかないまでも、大半の人は作中で壁にぶち当たり、悩み苦しむ、はたての姿に共感を覚えるのではないかとそう感じました。
故に終盤でのはたての立ち直りには、今まさにはたてと同じように苦しみ悩んでもがいている人達に対して、勇気や激励のようなものを与えてくれることと思います。
ともあれ、とても素晴らしい作品でした。
はたてが好きになりました。