白狼天狗の犬走一族に秘剣あり。その名を「犬走り」と称す。攻防一体の魔剣にて、三度挑みて破ることあたわず。 ——魂魄妖忌
一、
「妖夢、命令よ。秘剣「犬走り」を破りなさい」
幽々子が唐突にこう言った。妖夢は夕食のお椀を下げようとしていたところで、中腰のまま主人の顔を眺めた。にこにこと微笑しているだけで何を考えているか分からない、いつも通りの顔である。
「はあ。なんです、その秘剣なんとかって」
妖夢が努めて気のなさそうな声で尋ねると、幽々子は無言で頷く。そして、待ってましたとばかりに、傍らから古ぼけた紐綴じの帳簿のようなものを手繰り寄せ、ある頁を開いて妖夢に突き出した。
それは妖夢の祖父であり剣術の師でもある妖忌が、若い頃につけた日記のようであった。幽々子が開いてみせた頁には、天狗の犬走一族に秘剣が伝えられており、自分にはその剣を破ることができなかったと記されている。
「ふーむ」
これには妖夢も興味を持った。修業時代のこととはいえ、あの師をして勝てないと言わしめた剣とはいかなるものか。
「あの妖忌が破れなかった剣。きっと何か裏があるわ。裏ごと斬りなさい、妖夢」
幽々子が檄を飛ばす。妖夢はこれも修行の一環である、と発奮して冥界を後にした。
二、
射命丸文は秘剣「犬走り」と聞くなり、扉をばたんと閉め、鍵をかけてしまった。
「ちょっと、いきなり何ですか! 話だけでも聞かせてくださーい」
妖夢は扉を叩きながら呼びかける。返事はない。やっと見つけた手がかりだ。多少強引でも話を聞くしかない。
しばらく扉を叩く。叩いているうちに手が痛くなってきた。脈がなさそうなので妖夢が日を改めようかと考え始めた矢先、扉が軋むような嫌な音を立てて開いた。
扉の隙間から除く射命丸文の顔つきは暗く、扉を開けた後もしばらく無言だ。
「私に……どうしても語れというのですね。あの血塗られた剣のことを」
ついに観念したのか妖夢を部屋の中に招き、ぽつりぽつりと語りだす。
「ではやはり犬走一族に伝えられているのですね」
「もちろんです」
やはり秘剣はあったのだ。
「ですが、白狼天狗の誰に聞いてもそんな剣は聞いたこともないと言いますし、犬走一族の誰かに会わせてほしいと言っても、勤務中だとか、山への立入り許可がどうだとか言われてのらりくらりと躱されてしまうんです」
「警戒されているんですよ」
「警戒?」
そこで射命丸は一段と声を落とし、口元を妖夢の耳に近づけてささやくように言った。
「あの剣は、暗殺剣です。かつて、我々天狗社会の上層部が秘密裏に誅すると決めたものに対してだけ振るわれました。その剣の存在も、その名も、秘剣の使い手が誰なのかも隠し通されてきました」
「えっ……」
「椛はその随一の使い手です。一体どのくらいの敵を手にかけたのか、親しい私でも良く知りません。彼女は、本心では殺したくなくとも、上から言われれば抗えなかった。そのことでずいぶんと思い悩んだ時期もあるようです」
「そ、それは」
妖夢は思わぬ話の展開に、湯呑を持つ己の手が震えているのに気付いた。武者震いではない。無邪気な剣術勝負だと思って踏み込んだ先が、血塗られた歴史の闇だったことに、ただ怖くなったのである。また、そんな剣のことを天狗たちに聞いて回っていた自分は、既にその使い手の心をどれだけ踏みにじっていたのだろうとも思った。
そんな妖夢の様子を見て、射命丸は初めて少し表情をやわらげた。
「ですが、今は血みどろの抗争などない平和な世になりました。そろそろ、椛もあの剣の呪縛から自由になってもいいと思います。むしろ、あなたが純粋な剣術勝負にしてあげることで、あの子の心も少しは軽くなるかもしれません。外の世界との隔離以降に我々が築き上げてきた文化は、とっくにそれを許容するはずです。闘いを殺し合いから遊びへと昇華させるスペルカードルールのようにね」
結局、射命丸は妖夢に、椛への紹介を約束してくれた。
「あ、ありがとうございます」
「お礼はいいです。あなたの初心さが椛の癒しになるかもと思っただけですから」
未熟だとからかうような言い方だが、妖夢はこれも自分に気を遣わせないための射命丸なりの配慮だと考え、かえって身が引き締まる思いだった。
「最後に忠告です。あの剣は色々あって私も一度だけ受けたことがあります。気がついたらやられていました。妖夢さん、あなたも椛に挑むのなら、“離れているからと言って安心するな”。これだけは覚えておくべきです」
三、
白狼天狗の詰め所脇にある道場の空気は、厳冬の水底のように冷たく張りつめていた。
一滴の冷汗が妖夢の額から流れ落ちる。敵は堅牢なる構え。対する妖夢は手数で守りを崩す戦術を強いられている。
妖夢は切れ目なく攻撃を加える。椛はそれを壁のようにした太刀で弾いていく。
極度の集中は、妖夢の1秒を何十倍にも引き延ばした。相手の一挙手一投足がスローモーションになったかのように遅くなり、自分の攻撃もその結果が分かるまでに何十倍も時間がかかるように感じさせた。その攻防の中で、もしやこれが、という思いが妖夢の頭をよぎった。その一瞬の隙を、椛は見逃さなかった。
「犬走り」
短く、椛は宣言し、掲げた手を振り下ろす。距離など関係がなかった。妖夢の無防備な急所に、無慈悲な白狼の牙が迫る。
受けきれない——。妖夢は悟ると、観念して目を閉じた。
「参りました」
妖夢は頭を下げた。色の白い顔がほんのりと紅潮している。
「結構なお手前でした。ところで、妖夢殿はたしか我が一族の秘剣を見たいと申されておりましたが」
「すみません、もういいです……」
妖夢は下を向いたまま、いそいそと盤面の駒を片付ける。片付けながら、ますます真っ赤になって、だんだん声も小さくなった。「わあん恥ずかしい」と思った。
「“犬走り”が天狗大将棋の定石なら、そう教えてくれてもいいじゃないですか!」とも叫びたかったが我慢した。
「白狼」とか「太刀」とかの駒にすら笑われている気がする。「白狼」の駒が一直線に自陣をめがけて突っ込んでくるところを思い返し、なんでその筋が見えてなかったのかと悔やむ。
「それで、妖夢さんはどのあたりで気がついたんですか? ……あっ、ごめんなさい。つい私まで悪ノリしてしまいました。だから、そんなに赤くならないで」
実を言うと妖夢は赤くなるどころか悔しさに涙が滲んできたところだった。恥ずかしさというより、己の不甲斐なさ、未熟さに向けられた涙だった。
思い返してみれば、命がけの勝負をする際の白狼天狗の習わしだから剣を交わす前に将棋を一局指しましょう、と言われたあたりで、はてなと思いはした。思いはしたが、天狗の慣習にうかつにけちをつけて不興を買えば勝負がお預けにならないとも限らないし、何より椛の真面目な声色や、目つきに静かな闘気が満ちているのをみて、むしろ雑念ばかりの自分を反省し喝を入れ、場の流れに身を任せたのである。それがこのざまであった。
そのとき、すぐ横でシャッターを切る音が聞こえた。妖夢は変な声を上げながら、二刀を手に悪戯の首謀者の方に駆け出した。
四、
冥界。白玉楼の縁側。
「そのあと椛さんから、「次は剣で勝負ですよ!」と気遣ってもらって、剣の勝負には勝ちました。でも気遣ってもらったことも含めて、なんというか完敗です。天狗の新聞には恥ずかしい写真が載っちゃうし、もう散々です」
妖夢は「秘剣“犬走り”の虚像 どうして勘違いは広がったのか?」と見出しの書かれた文々。新聞を手にがっくりとうなだれた。記事の隅の写真には将棋盤を前に顔を赤くした妖夢が写っていて、「“犬走りは将棋の定石”に衝撃を受ける魂魄妖夢氏」とキャプションがついている。
「からかわれていたのに、気がつかなかったのね」
「はい。天狗社会に広がっていた秘剣に関する根も葉もない噂を否定するのに寄与するとかって説得されまして、結局記事に抗議するのはやめたんですけど……。もしかして、幽々子様は初めから知っていたんでしょうか」
妖夢の問いに幽々子は椛饅頭をほおばりながら「さあ、どっちかしら」とはぐらかすばかりだ。
妖夢は思った。惚けているように見えてその実、遥か遠くのことまで見通している幽々子様のことだ。きっと最初から分かった上で、あえてとぼけて、私を試したに違いない。秘剣と言われて、その言葉尻に囚われ、主人の真意に気がつかないようではまだまだ未熟。半人前である。もっと精進しよう、と。
そんな妖夢の様子を見ながら、幽々子は「甘すぎるわ。30点ってところね」と独り言のようにつぶやいた。饅頭の味のことではないようであった。
一、
「妖夢、命令よ。秘剣「犬走り」を破りなさい」
幽々子が唐突にこう言った。妖夢は夕食のお椀を下げようとしていたところで、中腰のまま主人の顔を眺めた。にこにこと微笑しているだけで何を考えているか分からない、いつも通りの顔である。
「はあ。なんです、その秘剣なんとかって」
妖夢が努めて気のなさそうな声で尋ねると、幽々子は無言で頷く。そして、待ってましたとばかりに、傍らから古ぼけた紐綴じの帳簿のようなものを手繰り寄せ、ある頁を開いて妖夢に突き出した。
それは妖夢の祖父であり剣術の師でもある妖忌が、若い頃につけた日記のようであった。幽々子が開いてみせた頁には、天狗の犬走一族に秘剣が伝えられており、自分にはその剣を破ることができなかったと記されている。
「ふーむ」
これには妖夢も興味を持った。修業時代のこととはいえ、あの師をして勝てないと言わしめた剣とはいかなるものか。
「あの妖忌が破れなかった剣。きっと何か裏があるわ。裏ごと斬りなさい、妖夢」
幽々子が檄を飛ばす。妖夢はこれも修行の一環である、と発奮して冥界を後にした。
二、
射命丸文は秘剣「犬走り」と聞くなり、扉をばたんと閉め、鍵をかけてしまった。
「ちょっと、いきなり何ですか! 話だけでも聞かせてくださーい」
妖夢は扉を叩きながら呼びかける。返事はない。やっと見つけた手がかりだ。多少強引でも話を聞くしかない。
しばらく扉を叩く。叩いているうちに手が痛くなってきた。脈がなさそうなので妖夢が日を改めようかと考え始めた矢先、扉が軋むような嫌な音を立てて開いた。
扉の隙間から除く射命丸文の顔つきは暗く、扉を開けた後もしばらく無言だ。
「私に……どうしても語れというのですね。あの血塗られた剣のことを」
ついに観念したのか妖夢を部屋の中に招き、ぽつりぽつりと語りだす。
「ではやはり犬走一族に伝えられているのですね」
「もちろんです」
やはり秘剣はあったのだ。
「ですが、白狼天狗の誰に聞いてもそんな剣は聞いたこともないと言いますし、犬走一族の誰かに会わせてほしいと言っても、勤務中だとか、山への立入り許可がどうだとか言われてのらりくらりと躱されてしまうんです」
「警戒されているんですよ」
「警戒?」
そこで射命丸は一段と声を落とし、口元を妖夢の耳に近づけてささやくように言った。
「あの剣は、暗殺剣です。かつて、我々天狗社会の上層部が秘密裏に誅すると決めたものに対してだけ振るわれました。その剣の存在も、その名も、秘剣の使い手が誰なのかも隠し通されてきました」
「えっ……」
「椛はその随一の使い手です。一体どのくらいの敵を手にかけたのか、親しい私でも良く知りません。彼女は、本心では殺したくなくとも、上から言われれば抗えなかった。そのことでずいぶんと思い悩んだ時期もあるようです」
「そ、それは」
妖夢は思わぬ話の展開に、湯呑を持つ己の手が震えているのに気付いた。武者震いではない。無邪気な剣術勝負だと思って踏み込んだ先が、血塗られた歴史の闇だったことに、ただ怖くなったのである。また、そんな剣のことを天狗たちに聞いて回っていた自分は、既にその使い手の心をどれだけ踏みにじっていたのだろうとも思った。
そんな妖夢の様子を見て、射命丸は初めて少し表情をやわらげた。
「ですが、今は血みどろの抗争などない平和な世になりました。そろそろ、椛もあの剣の呪縛から自由になってもいいと思います。むしろ、あなたが純粋な剣術勝負にしてあげることで、あの子の心も少しは軽くなるかもしれません。外の世界との隔離以降に我々が築き上げてきた文化は、とっくにそれを許容するはずです。闘いを殺し合いから遊びへと昇華させるスペルカードルールのようにね」
結局、射命丸は妖夢に、椛への紹介を約束してくれた。
「あ、ありがとうございます」
「お礼はいいです。あなたの初心さが椛の癒しになるかもと思っただけですから」
未熟だとからかうような言い方だが、妖夢はこれも自分に気を遣わせないための射命丸なりの配慮だと考え、かえって身が引き締まる思いだった。
「最後に忠告です。あの剣は色々あって私も一度だけ受けたことがあります。気がついたらやられていました。妖夢さん、あなたも椛に挑むのなら、“離れているからと言って安心するな”。これだけは覚えておくべきです」
三、
白狼天狗の詰め所脇にある道場の空気は、厳冬の水底のように冷たく張りつめていた。
一滴の冷汗が妖夢の額から流れ落ちる。敵は堅牢なる構え。対する妖夢は手数で守りを崩す戦術を強いられている。
妖夢は切れ目なく攻撃を加える。椛はそれを壁のようにした太刀で弾いていく。
極度の集中は、妖夢の1秒を何十倍にも引き延ばした。相手の一挙手一投足がスローモーションになったかのように遅くなり、自分の攻撃もその結果が分かるまでに何十倍も時間がかかるように感じさせた。その攻防の中で、もしやこれが、という思いが妖夢の頭をよぎった。その一瞬の隙を、椛は見逃さなかった。
「犬走り」
短く、椛は宣言し、掲げた手を振り下ろす。距離など関係がなかった。妖夢の無防備な急所に、無慈悲な白狼の牙が迫る。
受けきれない——。妖夢は悟ると、観念して目を閉じた。
「参りました」
妖夢は頭を下げた。色の白い顔がほんのりと紅潮している。
「結構なお手前でした。ところで、妖夢殿はたしか我が一族の秘剣を見たいと申されておりましたが」
「すみません、もういいです……」
妖夢は下を向いたまま、いそいそと盤面の駒を片付ける。片付けながら、ますます真っ赤になって、だんだん声も小さくなった。「わあん恥ずかしい」と思った。
「“犬走り”が天狗大将棋の定石なら、そう教えてくれてもいいじゃないですか!」とも叫びたかったが我慢した。
「白狼」とか「太刀」とかの駒にすら笑われている気がする。「白狼」の駒が一直線に自陣をめがけて突っ込んでくるところを思い返し、なんでその筋が見えてなかったのかと悔やむ。
「それで、妖夢さんはどのあたりで気がついたんですか? ……あっ、ごめんなさい。つい私まで悪ノリしてしまいました。だから、そんなに赤くならないで」
実を言うと妖夢は赤くなるどころか悔しさに涙が滲んできたところだった。恥ずかしさというより、己の不甲斐なさ、未熟さに向けられた涙だった。
思い返してみれば、命がけの勝負をする際の白狼天狗の習わしだから剣を交わす前に将棋を一局指しましょう、と言われたあたりで、はてなと思いはした。思いはしたが、天狗の慣習にうかつにけちをつけて不興を買えば勝負がお預けにならないとも限らないし、何より椛の真面目な声色や、目つきに静かな闘気が満ちているのをみて、むしろ雑念ばかりの自分を反省し喝を入れ、場の流れに身を任せたのである。それがこのざまであった。
そのとき、すぐ横でシャッターを切る音が聞こえた。妖夢は変な声を上げながら、二刀を手に悪戯の首謀者の方に駆け出した。
四、
冥界。白玉楼の縁側。
「そのあと椛さんから、「次は剣で勝負ですよ!」と気遣ってもらって、剣の勝負には勝ちました。でも気遣ってもらったことも含めて、なんというか完敗です。天狗の新聞には恥ずかしい写真が載っちゃうし、もう散々です」
妖夢は「秘剣“犬走り”の虚像 どうして勘違いは広がったのか?」と見出しの書かれた文々。新聞を手にがっくりとうなだれた。記事の隅の写真には将棋盤を前に顔を赤くした妖夢が写っていて、「“犬走りは将棋の定石”に衝撃を受ける魂魄妖夢氏」とキャプションがついている。
「からかわれていたのに、気がつかなかったのね」
「はい。天狗社会に広がっていた秘剣に関する根も葉もない噂を否定するのに寄与するとかって説得されまして、結局記事に抗議するのはやめたんですけど……。もしかして、幽々子様は初めから知っていたんでしょうか」
妖夢の問いに幽々子は椛饅頭をほおばりながら「さあ、どっちかしら」とはぐらかすばかりだ。
妖夢は思った。惚けているように見えてその実、遥か遠くのことまで見通している幽々子様のことだ。きっと最初から分かった上で、あえてとぼけて、私を試したに違いない。秘剣と言われて、その言葉尻に囚われ、主人の真意に気がつかないようではまだまだ未熟。半人前である。もっと精進しよう、と。
そんな妖夢の様子を見ながら、幽々子は「甘すぎるわ。30点ってところね」と独り言のようにつぶやいた。饅頭の味のことではないようであった。