蓬莱山輝夜は、好事家である。
それはもう様々な意味で。
珍品蒐集に始まり、興味のある趣味には、次々と手を出していく。
茶道、華道、武道、修験道。道とつく習い事は、大体囓った気がする。
伝統工芸だってお手のもの。習得に五十年かかるといわれた匠の技だって、あっという間にパーフェクト。
まぁ、普通に五十年間マジメに学んだだけなんだけどね、五十年、とは本人の弁。
その程度の時間は輝夜にとって、はした金ならぬ、はした時間に等しかった。
何より彼女は、永遠の時間を手にしているのだから。
全ての娯楽が、稽古が、学問が、内包する永遠の前ではあっさりと過ぎていく。
つかの間の楽しみが去ったあとに迎えるのは虚無。
しかし、輝夜は決して絶望しない。探求を諦めない。歩みを止めない。
純粋、愚直、無尽蔵の好奇心。
彼女を動かす、尊く果てないキュリオシティー。
きっとそれは、永い永い永遠を暢気に暮らすために、必要不可欠な気質。
このルナティックプリンセスは、そんな素質を確かに持ち合わせていた。
「と言うわけで、次は美食を極めてみようと思うのよ」
こくこくと湯呑みの煎茶を飲み干しながら、輝夜はのほほんと笑った。
「はぁ……勝手にしたらいいんじゃないか?」
ちゃぶ台を挟んで相対しているのは、客人、藤原妹紅。
ちょうど永遠亭へ怪我人を送り届けたところを、輝夜に呼び止められたのだ。
少々、彼女について注釈を加えるならば、元々はとても客人などと呼べる立場では無かった。
なにせ、輝夜の姿を見るなり、すぐに焼いたり殴ったり焦がしたり蹴ったり燃やしたりしようとしてくるものだから大変だった。主に屋敷や竹林の焼失被害が。
そんな妹紅も、永夜の魔法が破られたあの日からしばらく経って、幾多の異変や人妖との関わりを経験することになった。
その結果、今や以前よりもすっかり丸くなったようで、こうしてお茶の一杯で引き留められるまでには発展している。
もっとも、彼女に言わせれば「血の気が少なくなったのは認めるが、それはそれとして輝夜は大嫌い」らしいのだが。
さて妹紅は、輝夜の突然の宣言を、いつもの事かと受け止め、慣れた調子で生返事を返した。
輝夜は妹紅の言葉尻を都合良く捉えて、笑う。
なにせこの姫、勝手にしろと言われたら、本当に好き勝手やる性格なのである。
「それで、手始めに妹紅には、人里から美味しそうなものをいくつか身繕って持ってきて欲しくてー」
「おい待て、当たり前のように私に指示を出すな」
「あらどうして?」
さすがは月の姫の姫たる所以、他者を使役することに何の躊躇いも疑問も持たない。それはもう優雅なほどに。
こいつのこういうところが腹立つんだと、妹紅は心の内で毒づいた。
「そんな気まぐれを思い付くくらい暇なら、自分で行ったらいいだろ」
「永琳の許可無しに里へは行けないもの」
「許可くらいさっと貰って来い」
「永琳もイナバ達も忙しいのよ。わたしのお供をする兎手が足りていないから、外出はしばらく控えて欲しいと言われたわ」
「ちょっと待て、お供って、お前の外出はどれだけ大仰なんだ?!」
「これまで屋敷の者なしに、竹林の外を歩いたことはないわ」
何だそりゃ、と身体の芯から溜め息を漏らす妹紅。
永遠の魔法が崩れ去って、未知の幻想が目の前に現れて久しいが、姫はあくまで姫らしさを貫くらしい。これまで通り、屋敷の中で美しく佇んでいるのがお仕事。
「そっちの事情はともかく、箱入り姫の小間使いになるのは死んでもごめんだね」
「まぁ、蓬莱ジョーク」
「私は真面目に拒否しているんだ」
苛立ちを隠そうともしない妹紅とは対照的に、輝夜はころころと笑っている。
「拒否、ねぇ。にしても、そんなにのんびりと同じ釜の菓子を食べてちゃ世話ないねぇ」
割って入った不遜な声は、輝夜のものでも、妹紅のものでもなかった。
「あら因幡。おやつ美味しかったわ」
妖怪兎の因幡てゐは、お茶のお代わりを注ぎながら、妹紅に視線を送ってくすくすと笑った。
「まっ昼間から、ぴったりと姫の部屋に入り浸ってさ。小間使いじゃなければ、情夫か何かかい」
妹紅はかっと顔を真っ赤に染め上げて反論した。
「ば、馬鹿なこというな。こいつがしつこく呼ぶから、今日だけはわざわざ寄ってやっただけだ」
「へぇ、いったい何度目の『今日だけは』なんだか」
「そんなはずない。今日限りの『今日だけは』だ」
竹林の案内人を自称している妹紅が、来客を伴って永遠亭を訪れることは特段珍しくはない。
今日のように、帰り際に輝夜の気まぐれに呼ばれることも多々あるが、死合いの申込みを除いて、いちいち全てに応じている訳ではない。
しかしここ最近は、妹紅が呼び掛けに足を止める頻度が、増えてきているのも事実だった。
「それはさておき、お師匠さんからあんたに伝言だよ。姫様は退屈しているだろうから、連れ出しても良いってさ」
『あんた』と言いながら、てゐは妹紅に人差し指を突きつけた。
妹紅の眉間の皺がますます深くなる。
「それを私に伝言するあたり、月人の考えることはわからん」
「無粋は無しだよ。姫様の面倒、見てやってよ。嫌じゃないだろ、『今日だけ』、ね」
「妹紅、わたしはとりあえず甘味が食べたい気分よ」
「ああもう五月蝿い。第一、輝夜お前は、甘いものならたったいま食べたろ」
空になった茶請け皿を指差す。
少し前までそこに乗っていた、鈴仙お手製の牛乳かんは、不死の身になってもなお食を欲する胃の中へ。
「甘味エクストラ、いくらでもかかって来なさい。最終的には吐くために食べて、食べるために吐くのよ」
「貴族違いだそれは」
善は急げよ早く行きましょう、とぴょんぴょんと跳ねる輝夜に、妹紅も不本意ながら折れた。
「わかったよ、食べさせたらすぐに帰るからな」
てゐが、こうなることはわかっていましたとばかりに、廊下の奥に向かって声をかけた。
「おーい鈴仙ちゃん、すぐに姫様の外出支度を頼むよ。今から藤原の娘とデートだとさ」
「えええーーーっ?!」
鈴仙の驚きの悲鳴と、薬瓶が割れたような鋭い音と、妹紅の燃え上がる怒号が響き渡るのは同時だった。
すみません、姫様が私達以外の者と外出をするだなんて、あまりのことで、つい驚いて……。
しかもその相手が妹紅さんだなんて、更にびっくりといいますか、ハイ、ともかくお気をつけてください。
ぺこぺこと頭を下げながら、鈴仙は小銭の入った巾着袋を輝夜に手渡した。
まるでお小遣いを渡されてお使いにやられる子供のようだ、と妹紅は思った。
鈴仙は、他にも着替えやら携帯食料やら薬やらを風呂敷に詰めようとしていたが、全て置いていけと妹紅が抗弁した。
どれだけ普段から過保護に扱っているのかと、くらくら目眩を感じながら。
第一、この過剰な荷物を持たされる羽目になるのはおそらく妹紅なのだ。そんな運命、断固拒否する。
「夕餉までには帰るわねー」
結局、いつもの衣服に巾着袋ひとつという軽装で。
ひらひらと雅に手を振りながら、輝夜は妹紅を伴って永遠亭をあとにした。
「それで、ここの通りは何が名物なの?」
「言っておくが、私だって人里の店をそれほど知っているわけじゃない。適当に入るぞ」
「いいわね、飛び込み取材ってわけね、そういうの好きよ」
「なら天狗にでも弟子入りしたらどうだ?」
輝夜と妹紅は、人里の中でも飲食店がちらほらと連なるエリアに来ていた。
どうやら飲み屋が多いようで、ほとんどの店は開店前である。
二人は、よしず張りの茶店を訪れた。
「いらっしゃいませー」
迎えたのは、ふさふさとした栗皮色の獣耳と尻尾に、花札を模したワンピースの少女。
竹林のルーガルーこと、今泉影狼がお盆を持ってそこに立っていた。
「貴女は、天邪鬼を追い詰めていた時の……ここのお店の人だったの?」
「あ……!いえ、そういうわけではなく、これには事情が。ともかく、その節はお世話になりました」
ぺこりと礼儀正しくお辞儀をする影狼。
彼女には、和菓子を学んで親友の人魚の記念日に美味しいおやつを作ってあげたい、という事情があったのだが、その辺りは割愛しよう。
「狼さん、早速だけどオススメのお茶菓子をいくつか持ってきてくれるかしら」
「は、はい。おすすめをいくつか、ですか」
「こいつ、甘いものが食べたいって駄々こねるのよ。悪いけど、満足するまで付き合ってくれないかしら。お代はあるから」
妹紅のよそ行きの声色がお気に召したのか、輝夜はニヤニヤと笑みを浮かべている。
無駄に腹が立ったので、妹紅は思い切り足の小指を踏んづけてやった。
「お待ちどおさまです。……大丈夫ですか?」
「ありがとう。ええ、こちらは気にしないで」
お茶の支度が整った頃。
妹紅は、輝夜の反撃の指技を脇腹に喰らって悶絶していた。
指圧「高貴なる姫の擽り(くすぐり)」が発動したらしい。
影狼は一瞬不思議そうに立ち止まったが、すぐに気を取り直して、玉露とお菓子を二人の前に並べていく。
「一口目なので、あっさりしたものからお出ししますね。自家製の淡雪羮です」
鉄紺の茶請け皿の上で、ひときわ白く際立つそれが目を引いた。
淡雪、の名前が示すように白、白、白、どこまでも真っ白。いつかの冬の竹林を染めた濡れ雪のよう。
「お豆腐みたいだな」
妹紅が竹楊枝でつんつんと突いてみる。かすかに弾力を感じた。
「淡雪羮。昔、イナバがたまに作っていたわ。寒天と、砂糖と、卵白を使うのよね」
「はい、おっしゃる通りのものを、鍋で煮詰めて冷まして作っています。優しい味わいなので、人間の皆さんに人気があるんですよ」
「そう。いただくわね」
輝夜は雪原を上品に切り分けた。
口に含めば、ふわりと溶けるように舌の上で解れて消えた。
一瞬の雪解けだった。
雪が去ったあとには、かすかに、砂糖の甘さが後に残る。
「何だこれ、すごく口当たりが柔らかい」
「本当ね。うちの兎ではここまでのものは出せないわ」
ふわり溶ける食感を楽しみながら、淡雪を愛でる。
合間に玉露をひとくち。深いコクのある苦味が、舌の上の甘さと調和する。
輝夜は五口、妹紅は四口ほどで、美しく美味しい雪原を味わい尽くした。
なるほど、人間に人気の菓子、というのも頷ける。
大雑把な並の妖怪は、この菓子の繊細さをきっと理解しないだろうから。
「素敵なものを食べさせてもらったわ。ありがとう」
二皿目を運んできた影狼が、輝夜の賛辞にほっとしたような笑顔を作った。
「こちらも、人気のお菓子なんですよ」
そう言って出されたお菓子は、少し不恰好な団子のような見た目をしている。
「これは?」
「石衣。中に入っているのが餡で、周りの白いのが、すり蜜よ」
影狼が口を開く前に、輝夜がすらすらと答える。
美食を極めたいと豪語するだけあってか、もともと全くの無知ではないらしい。
「はい。小豆のこし餡と、芋餡のふたつをご用意しました」
二人は同時に、こし餡に楊枝を差した。
あめ状になったすり蜜が、ポロポロとわずかにひび割れる。
「これは、だいぶ甘いな……!」
「外の蜜の芳醇な甘さ。中の餡の品のある甘さ。それぞれがうまく絡み合っていて、とても癖になる甘さだわ」
お茶に手を伸ばす。この店の玉露は、菓子の甘さに釣り合うようたっぷりと濃く淹れられていて、なんとも舌に心地良い。
「餡のかたまりがこんなに懐かしくて美味しいなんて、どうしてなんだろうな」
「うんうん、お芋も良いわ~。やっぱり、この味を食べずして秋は来ないわね」
二人は夢中で二種の石衣を頬張っている。
ふと妹紅がなんとなく隣を見ると、輝夜はまさに幸せここに有り、と言わんばかりの表情をしていた。
もぐもぐと咀嚼するたびに、ゆるゆると頬が緩む。
ふにゃりと気の抜けたその表情は、普段の輝夜からは想像ができないものだった。
妹紅が知っているいつもの輝夜の姿は、大きく分けて二つ。
不変の優雅さと美しさを湛えて、わずかな欠けも認められぬ満月のように佇む、月の姫の姿がひとつ。
もうひとつは、どこまでも高慢でエゴイスティックで、得体が知れなくて。
全てを見透かすようでいて、そのくせ仕草は年端もいかぬ子供のようで。
難攻不落、存在自体が難題のような。
その姿を、竹の葉の散る地面に組み伏せれば、プライドの高いオヒメサマは、律儀に殺気を返してくる。
どこまでも純粋で無垢な、鏡写しの殺気を。
輝夜の瞳に宿るその狂気が、憎らしくて、憎らしくて、
憎らしくて、憎らしくて、憎らしくて、憎らしくて憎らしいから、
だから妹紅は、何度も何度も殺気を向けた。
鳳凰の炎に焼かれる白く張った皮膚が憎い。
弾幕の暴風に千切れるみどりの黒髪が憎い。
迷わずにこちらを見据え絶命していく、黒曜石の瞳が憎い。
そしていま、目の前の腑抜けた笑顔を、同じように憎く思っている。
今すぐにでも殺してやりたいと、焼けるような衝動が沸き上がり、心臓がどくどくと跳ねた。
「ちょっと妹紅?」
妹紅の思考を遮ったのは、ほかでもない輝夜本人だった。
「こんなところで……ラブコールは時と場所を選んでちょうだい」
「なっ!馬鹿。何も言ってないだろ」
「妹紅は顔に出やすいのよ」
ぱくり、と最後の一口を放り込んで、しれっと輝夜が言い放つ。
妙な雰囲気になってしまった二人の様子を、影狼がぴょこんと伺いに来た。
「あ、あの。もう一皿召し上がりますか?」
「ええ、それじゃ、あと一皿お願いしようかしら」
まだ食べるのか、という言葉を妹紅は呑み込んだ。
何だかんだ、この食の団欒を楽しんでしまっている自分がいたからだ。
腑の底から滾るような殺意は、まだ燻り続けているけれど。
「でしたら、お代は結構ですので、私の作ったお菓子を食べて頂けないでしょうか?」
「貴女の?」
「……先日、お店の厨房を借りて、自分でも作ってみたんです。その、堂々とお店に出せるような立派な代物ではないのですが、良かったら」
輝夜は間髪入れずに笑顔で答えた。
「いいわよ」
「無理にとは言いませ……え?本当ですか?わわ、まさか承諾してもらえるとは……」
影狼はふわっと頬を緩めた。尻尾が落ち着きなくパタパタと揺れる。
「それで、美食とやらは極められそうなのか?」
影狼を待つ間、手持無沙汰になった妹紅は輝夜に問いかけた。
まだ永遠亭を出てから一刻ほども経っていないし、口にした菓子も二種のみ。
完全に皮肉のつもりだった。
「そうねぇ、お稽古事と違って、お免状でもあるわけじゃなし、証明は難しそうねぇ」
輝夜はのらりくらりと答える。
「適当なことばかり」
「だけど、わたしなりの答えはもう見つけているわ。だから貴女を呼んだのよ」
「はいはい、そりゃ結構」
妹紅は一瞬だけ訝し気に首を傾げたが、すぐに流す。
美食云々は単なる言葉のあやで、大方、おやつを食べ足りなかったのだろう。
そう解釈している妹紅であった。
「お、お待たせしました。こちらです」
おずおずと、影狼が皿を運んでくる。
二人の前に出されたのは、ごくごく普通の見た目をしたどら焼きだった。
「なんだ、謙遜することないじゃないか。美味しそう」
パクりと一口、妹紅がかぶり付く。
「ん?んー、これは栗か?」
「餡に、栗の甘露煮を混ぜているのね。まぁ美味しいけれど、少し皮がパサついているわね」
輝夜は遠慮も世辞もなく、影狼の作ったどら焼きに感想を述べた。
「輝夜はああ言っちゃいるが、一朝一夕でこれだけ作ることができれば大したものだよ」
もぐもぐとどら焼きを咀嚼しながら、妹紅がすかさずフォローする。
影狼はしゅんと尻尾を垂らした。二人の反応から、菓子の出来が満足のいくレベルではなかったことを察したのだろう。
「まぁそんな顔をしないで。味はともかく、これはわたしにとって充分に価値があるものよ」
輝夜が立ち上がって、落ち込む影狼に声をかける。
その動作には、何かを喋ろうとする前フリのようなものが感じられた。
例えるなら、さぁ授業を始めるぞ、と口にする直前の、慧音の雰囲気にどこか似ている。
「いい機会だから、妹紅にもわかるように教えてあげるわ」
「一言余計な奴だな」
妹紅がいまいましげに顔を歪めるのを気にもとめず、輝夜は言葉を紡ぎ始めた。
「いい?今、この瞬間のお菓子はここにしかないのよ」
「はぁ……?」
そう語る口は、今が楽しくて堪らないとでもいうように、弧を描いていた。
「ふふ、例えば、ね。どら焼きを口にする回数がいつか、星の数をゆうに超えても、狼さん、あなたがこの日この時に作ったどら焼きは、『今』しか存在しないの。
いくら須臾を重ねようと、もう出逢えないのよ。もちろん、似た形、似た味のものにはいくらでも巡り会えるけれど、ぴったりはもう、ない。
さっきの淡雪羮も、石衣だってそう。わたしはそういうのが好き。わかるかしら」
「ええと……」
「さっぱりわからん。お前、ひとに説明するときは、せめて分かりやすくする努力をしろ」
妹紅がじとりと睨みつける。影狼はぶんぶんと首を振った。
「いえ、なんとなく励ましてくださっていることは、伝わりましたから……あれ、そうですよね?励ましてくれたんですよね?」
「もちろんよ。感謝してるからね。甘いひとときを過ごさせてもらえたのだもの」
とても美味しい甘味でね、と輝夜は微笑む。
「ご馳走さま。ありがとうね」
輝夜のお礼の言葉が影狼に沁み込む。温かく思うと同時に、その言葉を本当に言われたい相手のことを思い出した。
水中の愛おしい親友。そういえば彼女もお姫様。
「こちらこそ、ありがとうございました」
人の形をした二人組を見送る。
わかさぎのためにもうひと頑張り、と影狼はひとり微笑んで決意を新たにした。
「お前ってさ、存外、素直にお礼を言うよな」
私以外にはな、と妹紅は小さく付け足した。
人里のはずれを抜ければ、鬱蒼と生い茂る竹林が広がっている。
「わたしは、誰よりも与えられることに感謝しているつもりよ。与え続けられる立場代表としてね」
輝夜は意味ありげに微笑んだ。
「食べたものはもう戻らない。わたしの能力をもってしても、覆水を盆に返すことはできない。わたしにできるのは、覆水を零れないように留めておくことだけ。
だけど、零れる水は、それはそれで美しいわ。それも、一緒に水を眺めて、美しいと思える相手がいれば格別ね」
妹紅は溜め息をついた。
「やっぱりお前の言うことは、よくわからない。わからないが、それがお前にとって、美食を極めるということなのか?」
「永遠と付き合うということよ」
呟いた輝夜の顔は、夕月夜にそれはそれは美しく映った。
久遠の監獄を遊び場とする、永遠と須臾の咎人とは思えないほどの、可憐で美しい顔だった。
「そして、わたしは」
輝夜が、ゆっくりと言葉を区切る。
秘密の蔵から大事な宝石を取り出すかのように、丁寧に。
鈴のような声が、凜と冴えた空気に乗る。
「もう少しあなたと、零れる水を愛ででいたいわ」
藤色に暮れる空には、もうじき、月が昇ろうとしている。
二人の目線が交錯する。
「……一応聞く。どういう意味だ?」
「さっきの貴女からのラブコールに、たったいま応えてあげる」
妹紅の鼓動が一気に高鳴って、これから散らすであろう血液が、沸騰するかのようにくらくらした。
すっかり日の落ちた竹林の中で、二つの青い影がゆらめく。
「あーあ、思いのほか遅い時間になったな。兎たちに何を言われるか」
半歩遅れて妹紅の後ろを歩きながら、輝夜は竹林の葉のざわめく音を楽しんでいる。
「もう少し早く歩けないのか?」
「抱えて帰ってくれてもいいのよ」
「よしわかった。私はこのまま先に帰る」
「あら、熱くなっちゃって」
ふざけるな、それこそ兎に何を言われるか、と苦々しく呟く妹紅。
「ふふ、イナバたちのこと、悪く思わないでね。彼女たちは真面目なの」
真面目だぁ?
妹紅の頭に疑問符が浮かぶ。
何かと一生懸命な鈴仙はともかく、いつも人を食ったような態度のてゐも、一緒くたに真面目と評されるのには違和感を感じた。
「彼女たちは真面目に、不思議に思っているだけなのよ。他でもない、わたしと貴女のこと」
「どういう意味だ?」
「わたしと貴女がすっかり仲良しだってことが、そろそろ兎たちにも伝わり始めたって意味」
妹紅はゴホゴホと盛大に噎せた。
「そんなワケあるか!!」
「そう?イナバたちにそう思わせてしまった原因。それには、妹紅の責任も大きいのよ?」
「まっ……ま、待て、待て待て。本当に話が見えなくなっている」
「さて、少し前の貴女だったら、こうしてわたしを人里にエスコートしてくれたかしら」
ぐっ、と妹紅が言葉に詰まる。
自分でも、どうかしているという自覚はあるのだ。
何を思って自分は、怨敵とわざわざ連れ立って出かけているのか。
「別に、こっちは異変続きで疲れているんだ。少しは息抜きしたっていいだろ」
「わたしと出かけるのが息抜き?」
「違うそうじゃない。お前と殺し合わないのが、息抜き」
「なんだ、同じ意味じゃない。というか、死合いも結局しちゃったじゃない」
「う……」
輝夜がすぅ、と隣に並んだが、なんとなく顔を見ないように、目線を正面に固定する妹紅。
「妹紅からのお言葉がもう無いなら、わたしから言うわね」
「……何だよ」
「次は、お夕飯を食べに行きたいのだけど」
「…………」
「食べ足りないわ」
そう、何てことはない、その言葉通り。
今日一連の、出来事の真相。
輝夜姫は本当におやつを食べ足りなかっただけなのだ。
おやつという言葉がどれだけの意味を内包しているかは、姫のみぞ知るのだけれど。
美食だの覆水だのという小難しい言葉を並べても、本音はひとつ。
―――――と、――――したいだけ。
この先もずっと永遠に。
「今度にしろ。今日は戻ると言ったんだろ」
「はぁい、今度ね」
その頃、鈴仙とてゐは、すっかり食事の支度を終えて、まかないを摘まんでいた。
「姫様たち遅いわね。人里でまた大喧嘩に発展していないと良いけど。まぁ、最近の妹紅さんの様子を見てると、杞憂かしら」
「どうかねぇ、藤原がいくら大人しくなろうと、その心配は拭えないかもねぇ」
「それは聞き捨てならないわ。どうしてそう思うの?」
てゐは、まるで生娘にいけない話を聞かせでもするかのように、にいっと下卑た笑みを見せた。
「なぁに、あの人らにとって、殺意は劣情と、死合いは交わりと同義だからさ、おそらくね」
「れつじょ、って、え、えええ」
鈴仙が頬を染めて、ふるふると震える。
「あくまで、あたしがそう見えるだけ、ってのもあるけど。
あまりにもそうやって見えるもんだから、いちいち直接的な言葉を選んで使ってるのに、藤原はともかく姫様は動揺の気配すら見せない」
「な、なんかとんでもないことを聞いてしまったような……いえ、そもそも、姫様に限って恋情とかレツジョウとかあるわけが」
「知らなかったのかい。姫様はずっとあの人間の虜さ。あいつがお屋敷の永遠を、力ずくでこじ開けたあの日からね」
「え」
「何だい呆けた顔をして。そんなに信じがたい事?」
「だ、だって……。も、もう。邪推はそこまでよ。姫様相手にふざけると、いつか自分の首が絞まるわよ」
「それでもねぇ。こんなに愉しい関係、滅多に見れるもんじゃないよ」
いかにも老獪な妖怪兎といった風貌で、てゐはぺろりと舌を出した。
「さてさて、姫様が本当に極めたいのは、甘味か、それとも別の……ってね」
てゐの想像がどれほど的を射ているか、これもまた邪推するだけなら容易い。
なにせ、蓬莱山輝夜は、好事家(スキモノ)である。
それはもう様々な意味で。
珍品蒐集に始まり、興味のある趣味には、次々と手を出していく。
茶道、華道、武道、修験道。道とつく習い事は、大体囓った気がする。
伝統工芸だってお手のもの。習得に五十年かかるといわれた匠の技だって、あっという間にパーフェクト。
まぁ、普通に五十年間マジメに学んだだけなんだけどね、五十年、とは本人の弁。
その程度の時間は輝夜にとって、はした金ならぬ、はした時間に等しかった。
何より彼女は、永遠の時間を手にしているのだから。
全ての娯楽が、稽古が、学問が、内包する永遠の前ではあっさりと過ぎていく。
つかの間の楽しみが去ったあとに迎えるのは虚無。
しかし、輝夜は決して絶望しない。探求を諦めない。歩みを止めない。
純粋、愚直、無尽蔵の好奇心。
彼女を動かす、尊く果てないキュリオシティー。
きっとそれは、永い永い永遠を暢気に暮らすために、必要不可欠な気質。
このルナティックプリンセスは、そんな素質を確かに持ち合わせていた。
「と言うわけで、次は美食を極めてみようと思うのよ」
こくこくと湯呑みの煎茶を飲み干しながら、輝夜はのほほんと笑った。
「はぁ……勝手にしたらいいんじゃないか?」
ちゃぶ台を挟んで相対しているのは、客人、藤原妹紅。
ちょうど永遠亭へ怪我人を送り届けたところを、輝夜に呼び止められたのだ。
少々、彼女について注釈を加えるならば、元々はとても客人などと呼べる立場では無かった。
なにせ、輝夜の姿を見るなり、すぐに焼いたり殴ったり焦がしたり蹴ったり燃やしたりしようとしてくるものだから大変だった。主に屋敷や竹林の焼失被害が。
そんな妹紅も、永夜の魔法が破られたあの日からしばらく経って、幾多の異変や人妖との関わりを経験することになった。
その結果、今や以前よりもすっかり丸くなったようで、こうしてお茶の一杯で引き留められるまでには発展している。
もっとも、彼女に言わせれば「血の気が少なくなったのは認めるが、それはそれとして輝夜は大嫌い」らしいのだが。
さて妹紅は、輝夜の突然の宣言を、いつもの事かと受け止め、慣れた調子で生返事を返した。
輝夜は妹紅の言葉尻を都合良く捉えて、笑う。
なにせこの姫、勝手にしろと言われたら、本当に好き勝手やる性格なのである。
「それで、手始めに妹紅には、人里から美味しそうなものをいくつか身繕って持ってきて欲しくてー」
「おい待て、当たり前のように私に指示を出すな」
「あらどうして?」
さすがは月の姫の姫たる所以、他者を使役することに何の躊躇いも疑問も持たない。それはもう優雅なほどに。
こいつのこういうところが腹立つんだと、妹紅は心の内で毒づいた。
「そんな気まぐれを思い付くくらい暇なら、自分で行ったらいいだろ」
「永琳の許可無しに里へは行けないもの」
「許可くらいさっと貰って来い」
「永琳もイナバ達も忙しいのよ。わたしのお供をする兎手が足りていないから、外出はしばらく控えて欲しいと言われたわ」
「ちょっと待て、お供って、お前の外出はどれだけ大仰なんだ?!」
「これまで屋敷の者なしに、竹林の外を歩いたことはないわ」
何だそりゃ、と身体の芯から溜め息を漏らす妹紅。
永遠の魔法が崩れ去って、未知の幻想が目の前に現れて久しいが、姫はあくまで姫らしさを貫くらしい。これまで通り、屋敷の中で美しく佇んでいるのがお仕事。
「そっちの事情はともかく、箱入り姫の小間使いになるのは死んでもごめんだね」
「まぁ、蓬莱ジョーク」
「私は真面目に拒否しているんだ」
苛立ちを隠そうともしない妹紅とは対照的に、輝夜はころころと笑っている。
「拒否、ねぇ。にしても、そんなにのんびりと同じ釜の菓子を食べてちゃ世話ないねぇ」
割って入った不遜な声は、輝夜のものでも、妹紅のものでもなかった。
「あら因幡。おやつ美味しかったわ」
妖怪兎の因幡てゐは、お茶のお代わりを注ぎながら、妹紅に視線を送ってくすくすと笑った。
「まっ昼間から、ぴったりと姫の部屋に入り浸ってさ。小間使いじゃなければ、情夫か何かかい」
妹紅はかっと顔を真っ赤に染め上げて反論した。
「ば、馬鹿なこというな。こいつがしつこく呼ぶから、今日だけはわざわざ寄ってやっただけだ」
「へぇ、いったい何度目の『今日だけは』なんだか」
「そんなはずない。今日限りの『今日だけは』だ」
竹林の案内人を自称している妹紅が、来客を伴って永遠亭を訪れることは特段珍しくはない。
今日のように、帰り際に輝夜の気まぐれに呼ばれることも多々あるが、死合いの申込みを除いて、いちいち全てに応じている訳ではない。
しかしここ最近は、妹紅が呼び掛けに足を止める頻度が、増えてきているのも事実だった。
「それはさておき、お師匠さんからあんたに伝言だよ。姫様は退屈しているだろうから、連れ出しても良いってさ」
『あんた』と言いながら、てゐは妹紅に人差し指を突きつけた。
妹紅の眉間の皺がますます深くなる。
「それを私に伝言するあたり、月人の考えることはわからん」
「無粋は無しだよ。姫様の面倒、見てやってよ。嫌じゃないだろ、『今日だけ』、ね」
「妹紅、わたしはとりあえず甘味が食べたい気分よ」
「ああもう五月蝿い。第一、輝夜お前は、甘いものならたったいま食べたろ」
空になった茶請け皿を指差す。
少し前までそこに乗っていた、鈴仙お手製の牛乳かんは、不死の身になってもなお食を欲する胃の中へ。
「甘味エクストラ、いくらでもかかって来なさい。最終的には吐くために食べて、食べるために吐くのよ」
「貴族違いだそれは」
善は急げよ早く行きましょう、とぴょんぴょんと跳ねる輝夜に、妹紅も不本意ながら折れた。
「わかったよ、食べさせたらすぐに帰るからな」
てゐが、こうなることはわかっていましたとばかりに、廊下の奥に向かって声をかけた。
「おーい鈴仙ちゃん、すぐに姫様の外出支度を頼むよ。今から藤原の娘とデートだとさ」
「えええーーーっ?!」
鈴仙の驚きの悲鳴と、薬瓶が割れたような鋭い音と、妹紅の燃え上がる怒号が響き渡るのは同時だった。
すみません、姫様が私達以外の者と外出をするだなんて、あまりのことで、つい驚いて……。
しかもその相手が妹紅さんだなんて、更にびっくりといいますか、ハイ、ともかくお気をつけてください。
ぺこぺこと頭を下げながら、鈴仙は小銭の入った巾着袋を輝夜に手渡した。
まるでお小遣いを渡されてお使いにやられる子供のようだ、と妹紅は思った。
鈴仙は、他にも着替えやら携帯食料やら薬やらを風呂敷に詰めようとしていたが、全て置いていけと妹紅が抗弁した。
どれだけ普段から過保護に扱っているのかと、くらくら目眩を感じながら。
第一、この過剰な荷物を持たされる羽目になるのはおそらく妹紅なのだ。そんな運命、断固拒否する。
「夕餉までには帰るわねー」
結局、いつもの衣服に巾着袋ひとつという軽装で。
ひらひらと雅に手を振りながら、輝夜は妹紅を伴って永遠亭をあとにした。
「それで、ここの通りは何が名物なの?」
「言っておくが、私だって人里の店をそれほど知っているわけじゃない。適当に入るぞ」
「いいわね、飛び込み取材ってわけね、そういうの好きよ」
「なら天狗にでも弟子入りしたらどうだ?」
輝夜と妹紅は、人里の中でも飲食店がちらほらと連なるエリアに来ていた。
どうやら飲み屋が多いようで、ほとんどの店は開店前である。
二人は、よしず張りの茶店を訪れた。
「いらっしゃいませー」
迎えたのは、ふさふさとした栗皮色の獣耳と尻尾に、花札を模したワンピースの少女。
竹林のルーガルーこと、今泉影狼がお盆を持ってそこに立っていた。
「貴女は、天邪鬼を追い詰めていた時の……ここのお店の人だったの?」
「あ……!いえ、そういうわけではなく、これには事情が。ともかく、その節はお世話になりました」
ぺこりと礼儀正しくお辞儀をする影狼。
彼女には、和菓子を学んで親友の人魚の記念日に美味しいおやつを作ってあげたい、という事情があったのだが、その辺りは割愛しよう。
「狼さん、早速だけどオススメのお茶菓子をいくつか持ってきてくれるかしら」
「は、はい。おすすめをいくつか、ですか」
「こいつ、甘いものが食べたいって駄々こねるのよ。悪いけど、満足するまで付き合ってくれないかしら。お代はあるから」
妹紅のよそ行きの声色がお気に召したのか、輝夜はニヤニヤと笑みを浮かべている。
無駄に腹が立ったので、妹紅は思い切り足の小指を踏んづけてやった。
「お待ちどおさまです。……大丈夫ですか?」
「ありがとう。ええ、こちらは気にしないで」
お茶の支度が整った頃。
妹紅は、輝夜の反撃の指技を脇腹に喰らって悶絶していた。
指圧「高貴なる姫の擽り(くすぐり)」が発動したらしい。
影狼は一瞬不思議そうに立ち止まったが、すぐに気を取り直して、玉露とお菓子を二人の前に並べていく。
「一口目なので、あっさりしたものからお出ししますね。自家製の淡雪羮です」
鉄紺の茶請け皿の上で、ひときわ白く際立つそれが目を引いた。
淡雪、の名前が示すように白、白、白、どこまでも真っ白。いつかの冬の竹林を染めた濡れ雪のよう。
「お豆腐みたいだな」
妹紅が竹楊枝でつんつんと突いてみる。かすかに弾力を感じた。
「淡雪羮。昔、イナバがたまに作っていたわ。寒天と、砂糖と、卵白を使うのよね」
「はい、おっしゃる通りのものを、鍋で煮詰めて冷まして作っています。優しい味わいなので、人間の皆さんに人気があるんですよ」
「そう。いただくわね」
輝夜は雪原を上品に切り分けた。
口に含めば、ふわりと溶けるように舌の上で解れて消えた。
一瞬の雪解けだった。
雪が去ったあとには、かすかに、砂糖の甘さが後に残る。
「何だこれ、すごく口当たりが柔らかい」
「本当ね。うちの兎ではここまでのものは出せないわ」
ふわり溶ける食感を楽しみながら、淡雪を愛でる。
合間に玉露をひとくち。深いコクのある苦味が、舌の上の甘さと調和する。
輝夜は五口、妹紅は四口ほどで、美しく美味しい雪原を味わい尽くした。
なるほど、人間に人気の菓子、というのも頷ける。
大雑把な並の妖怪は、この菓子の繊細さをきっと理解しないだろうから。
「素敵なものを食べさせてもらったわ。ありがとう」
二皿目を運んできた影狼が、輝夜の賛辞にほっとしたような笑顔を作った。
「こちらも、人気のお菓子なんですよ」
そう言って出されたお菓子は、少し不恰好な団子のような見た目をしている。
「これは?」
「石衣。中に入っているのが餡で、周りの白いのが、すり蜜よ」
影狼が口を開く前に、輝夜がすらすらと答える。
美食を極めたいと豪語するだけあってか、もともと全くの無知ではないらしい。
「はい。小豆のこし餡と、芋餡のふたつをご用意しました」
二人は同時に、こし餡に楊枝を差した。
あめ状になったすり蜜が、ポロポロとわずかにひび割れる。
「これは、だいぶ甘いな……!」
「外の蜜の芳醇な甘さ。中の餡の品のある甘さ。それぞれがうまく絡み合っていて、とても癖になる甘さだわ」
お茶に手を伸ばす。この店の玉露は、菓子の甘さに釣り合うようたっぷりと濃く淹れられていて、なんとも舌に心地良い。
「餡のかたまりがこんなに懐かしくて美味しいなんて、どうしてなんだろうな」
「うんうん、お芋も良いわ~。やっぱり、この味を食べずして秋は来ないわね」
二人は夢中で二種の石衣を頬張っている。
ふと妹紅がなんとなく隣を見ると、輝夜はまさに幸せここに有り、と言わんばかりの表情をしていた。
もぐもぐと咀嚼するたびに、ゆるゆると頬が緩む。
ふにゃりと気の抜けたその表情は、普段の輝夜からは想像ができないものだった。
妹紅が知っているいつもの輝夜の姿は、大きく分けて二つ。
不変の優雅さと美しさを湛えて、わずかな欠けも認められぬ満月のように佇む、月の姫の姿がひとつ。
もうひとつは、どこまでも高慢でエゴイスティックで、得体が知れなくて。
全てを見透かすようでいて、そのくせ仕草は年端もいかぬ子供のようで。
難攻不落、存在自体が難題のような。
その姿を、竹の葉の散る地面に組み伏せれば、プライドの高いオヒメサマは、律儀に殺気を返してくる。
どこまでも純粋で無垢な、鏡写しの殺気を。
輝夜の瞳に宿るその狂気が、憎らしくて、憎らしくて、
憎らしくて、憎らしくて、憎らしくて、憎らしくて憎らしいから、
だから妹紅は、何度も何度も殺気を向けた。
鳳凰の炎に焼かれる白く張った皮膚が憎い。
弾幕の暴風に千切れるみどりの黒髪が憎い。
迷わずにこちらを見据え絶命していく、黒曜石の瞳が憎い。
そしていま、目の前の腑抜けた笑顔を、同じように憎く思っている。
今すぐにでも殺してやりたいと、焼けるような衝動が沸き上がり、心臓がどくどくと跳ねた。
「ちょっと妹紅?」
妹紅の思考を遮ったのは、ほかでもない輝夜本人だった。
「こんなところで……ラブコールは時と場所を選んでちょうだい」
「なっ!馬鹿。何も言ってないだろ」
「妹紅は顔に出やすいのよ」
ぱくり、と最後の一口を放り込んで、しれっと輝夜が言い放つ。
妙な雰囲気になってしまった二人の様子を、影狼がぴょこんと伺いに来た。
「あ、あの。もう一皿召し上がりますか?」
「ええ、それじゃ、あと一皿お願いしようかしら」
まだ食べるのか、という言葉を妹紅は呑み込んだ。
何だかんだ、この食の団欒を楽しんでしまっている自分がいたからだ。
腑の底から滾るような殺意は、まだ燻り続けているけれど。
「でしたら、お代は結構ですので、私の作ったお菓子を食べて頂けないでしょうか?」
「貴女の?」
「……先日、お店の厨房を借りて、自分でも作ってみたんです。その、堂々とお店に出せるような立派な代物ではないのですが、良かったら」
輝夜は間髪入れずに笑顔で答えた。
「いいわよ」
「無理にとは言いませ……え?本当ですか?わわ、まさか承諾してもらえるとは……」
影狼はふわっと頬を緩めた。尻尾が落ち着きなくパタパタと揺れる。
「それで、美食とやらは極められそうなのか?」
影狼を待つ間、手持無沙汰になった妹紅は輝夜に問いかけた。
まだ永遠亭を出てから一刻ほども経っていないし、口にした菓子も二種のみ。
完全に皮肉のつもりだった。
「そうねぇ、お稽古事と違って、お免状でもあるわけじゃなし、証明は難しそうねぇ」
輝夜はのらりくらりと答える。
「適当なことばかり」
「だけど、わたしなりの答えはもう見つけているわ。だから貴女を呼んだのよ」
「はいはい、そりゃ結構」
妹紅は一瞬だけ訝し気に首を傾げたが、すぐに流す。
美食云々は単なる言葉のあやで、大方、おやつを食べ足りなかったのだろう。
そう解釈している妹紅であった。
「お、お待たせしました。こちらです」
おずおずと、影狼が皿を運んでくる。
二人の前に出されたのは、ごくごく普通の見た目をしたどら焼きだった。
「なんだ、謙遜することないじゃないか。美味しそう」
パクりと一口、妹紅がかぶり付く。
「ん?んー、これは栗か?」
「餡に、栗の甘露煮を混ぜているのね。まぁ美味しいけれど、少し皮がパサついているわね」
輝夜は遠慮も世辞もなく、影狼の作ったどら焼きに感想を述べた。
「輝夜はああ言っちゃいるが、一朝一夕でこれだけ作ることができれば大したものだよ」
もぐもぐとどら焼きを咀嚼しながら、妹紅がすかさずフォローする。
影狼はしゅんと尻尾を垂らした。二人の反応から、菓子の出来が満足のいくレベルではなかったことを察したのだろう。
「まぁそんな顔をしないで。味はともかく、これはわたしにとって充分に価値があるものよ」
輝夜が立ち上がって、落ち込む影狼に声をかける。
その動作には、何かを喋ろうとする前フリのようなものが感じられた。
例えるなら、さぁ授業を始めるぞ、と口にする直前の、慧音の雰囲気にどこか似ている。
「いい機会だから、妹紅にもわかるように教えてあげるわ」
「一言余計な奴だな」
妹紅がいまいましげに顔を歪めるのを気にもとめず、輝夜は言葉を紡ぎ始めた。
「いい?今、この瞬間のお菓子はここにしかないのよ」
「はぁ……?」
そう語る口は、今が楽しくて堪らないとでもいうように、弧を描いていた。
「ふふ、例えば、ね。どら焼きを口にする回数がいつか、星の数をゆうに超えても、狼さん、あなたがこの日この時に作ったどら焼きは、『今』しか存在しないの。
いくら須臾を重ねようと、もう出逢えないのよ。もちろん、似た形、似た味のものにはいくらでも巡り会えるけれど、ぴったりはもう、ない。
さっきの淡雪羮も、石衣だってそう。わたしはそういうのが好き。わかるかしら」
「ええと……」
「さっぱりわからん。お前、ひとに説明するときは、せめて分かりやすくする努力をしろ」
妹紅がじとりと睨みつける。影狼はぶんぶんと首を振った。
「いえ、なんとなく励ましてくださっていることは、伝わりましたから……あれ、そうですよね?励ましてくれたんですよね?」
「もちろんよ。感謝してるからね。甘いひとときを過ごさせてもらえたのだもの」
とても美味しい甘味でね、と輝夜は微笑む。
「ご馳走さま。ありがとうね」
輝夜のお礼の言葉が影狼に沁み込む。温かく思うと同時に、その言葉を本当に言われたい相手のことを思い出した。
水中の愛おしい親友。そういえば彼女もお姫様。
「こちらこそ、ありがとうございました」
人の形をした二人組を見送る。
わかさぎのためにもうひと頑張り、と影狼はひとり微笑んで決意を新たにした。
「お前ってさ、存外、素直にお礼を言うよな」
私以外にはな、と妹紅は小さく付け足した。
人里のはずれを抜ければ、鬱蒼と生い茂る竹林が広がっている。
「わたしは、誰よりも与えられることに感謝しているつもりよ。与え続けられる立場代表としてね」
輝夜は意味ありげに微笑んだ。
「食べたものはもう戻らない。わたしの能力をもってしても、覆水を盆に返すことはできない。わたしにできるのは、覆水を零れないように留めておくことだけ。
だけど、零れる水は、それはそれで美しいわ。それも、一緒に水を眺めて、美しいと思える相手がいれば格別ね」
妹紅は溜め息をついた。
「やっぱりお前の言うことは、よくわからない。わからないが、それがお前にとって、美食を極めるということなのか?」
「永遠と付き合うということよ」
呟いた輝夜の顔は、夕月夜にそれはそれは美しく映った。
久遠の監獄を遊び場とする、永遠と須臾の咎人とは思えないほどの、可憐で美しい顔だった。
「そして、わたしは」
輝夜が、ゆっくりと言葉を区切る。
秘密の蔵から大事な宝石を取り出すかのように、丁寧に。
鈴のような声が、凜と冴えた空気に乗る。
「もう少しあなたと、零れる水を愛ででいたいわ」
藤色に暮れる空には、もうじき、月が昇ろうとしている。
二人の目線が交錯する。
「……一応聞く。どういう意味だ?」
「さっきの貴女からのラブコールに、たったいま応えてあげる」
妹紅の鼓動が一気に高鳴って、これから散らすであろう血液が、沸騰するかのようにくらくらした。
すっかり日の落ちた竹林の中で、二つの青い影がゆらめく。
「あーあ、思いのほか遅い時間になったな。兎たちに何を言われるか」
半歩遅れて妹紅の後ろを歩きながら、輝夜は竹林の葉のざわめく音を楽しんでいる。
「もう少し早く歩けないのか?」
「抱えて帰ってくれてもいいのよ」
「よしわかった。私はこのまま先に帰る」
「あら、熱くなっちゃって」
ふざけるな、それこそ兎に何を言われるか、と苦々しく呟く妹紅。
「ふふ、イナバたちのこと、悪く思わないでね。彼女たちは真面目なの」
真面目だぁ?
妹紅の頭に疑問符が浮かぶ。
何かと一生懸命な鈴仙はともかく、いつも人を食ったような態度のてゐも、一緒くたに真面目と評されるのには違和感を感じた。
「彼女たちは真面目に、不思議に思っているだけなのよ。他でもない、わたしと貴女のこと」
「どういう意味だ?」
「わたしと貴女がすっかり仲良しだってことが、そろそろ兎たちにも伝わり始めたって意味」
妹紅はゴホゴホと盛大に噎せた。
「そんなワケあるか!!」
「そう?イナバたちにそう思わせてしまった原因。それには、妹紅の責任も大きいのよ?」
「まっ……ま、待て、待て待て。本当に話が見えなくなっている」
「さて、少し前の貴女だったら、こうしてわたしを人里にエスコートしてくれたかしら」
ぐっ、と妹紅が言葉に詰まる。
自分でも、どうかしているという自覚はあるのだ。
何を思って自分は、怨敵とわざわざ連れ立って出かけているのか。
「別に、こっちは異変続きで疲れているんだ。少しは息抜きしたっていいだろ」
「わたしと出かけるのが息抜き?」
「違うそうじゃない。お前と殺し合わないのが、息抜き」
「なんだ、同じ意味じゃない。というか、死合いも結局しちゃったじゃない」
「う……」
輝夜がすぅ、と隣に並んだが、なんとなく顔を見ないように、目線を正面に固定する妹紅。
「妹紅からのお言葉がもう無いなら、わたしから言うわね」
「……何だよ」
「次は、お夕飯を食べに行きたいのだけど」
「…………」
「食べ足りないわ」
そう、何てことはない、その言葉通り。
今日一連の、出来事の真相。
輝夜姫は本当におやつを食べ足りなかっただけなのだ。
おやつという言葉がどれだけの意味を内包しているかは、姫のみぞ知るのだけれど。
美食だの覆水だのという小難しい言葉を並べても、本音はひとつ。
―――――と、――――したいだけ。
この先もずっと永遠に。
「今度にしろ。今日は戻ると言ったんだろ」
「はぁい、今度ね」
その頃、鈴仙とてゐは、すっかり食事の支度を終えて、まかないを摘まんでいた。
「姫様たち遅いわね。人里でまた大喧嘩に発展していないと良いけど。まぁ、最近の妹紅さんの様子を見てると、杞憂かしら」
「どうかねぇ、藤原がいくら大人しくなろうと、その心配は拭えないかもねぇ」
「それは聞き捨てならないわ。どうしてそう思うの?」
てゐは、まるで生娘にいけない話を聞かせでもするかのように、にいっと下卑た笑みを見せた。
「なぁに、あの人らにとって、殺意は劣情と、死合いは交わりと同義だからさ、おそらくね」
「れつじょ、って、え、えええ」
鈴仙が頬を染めて、ふるふると震える。
「あくまで、あたしがそう見えるだけ、ってのもあるけど。
あまりにもそうやって見えるもんだから、いちいち直接的な言葉を選んで使ってるのに、藤原はともかく姫様は動揺の気配すら見せない」
「な、なんかとんでもないことを聞いてしまったような……いえ、そもそも、姫様に限って恋情とかレツジョウとかあるわけが」
「知らなかったのかい。姫様はずっとあの人間の虜さ。あいつがお屋敷の永遠を、力ずくでこじ開けたあの日からね」
「え」
「何だい呆けた顔をして。そんなに信じがたい事?」
「だ、だって……。も、もう。邪推はそこまでよ。姫様相手にふざけると、いつか自分の首が絞まるわよ」
「それでもねぇ。こんなに愉しい関係、滅多に見れるもんじゃないよ」
いかにも老獪な妖怪兎といった風貌で、てゐはぺろりと舌を出した。
「さてさて、姫様が本当に極めたいのは、甘味か、それとも別の……ってね」
てゐの想像がどれほど的を射ているか、これもまた邪推するだけなら容易い。
なにせ、蓬莱山輝夜は、好事家(スキモノ)である。
甘味の表現が素晴らしく、私も甘いものを取りたくなってしまいました。
迂遠にイチャイチャする2人が微笑ましかったです
早くくっつけ